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定宿ホテルとJR日光駅最近秋の日光はほぼ毎年訪れているもう30年来会員であるクラブホテルがあるからであるここは会員歴割引と云うのがあり、古参会員の我々はディナー付きでも2級ビジネスホテル素泊料金並みで泊まれる霧降高原に近い鳴沢の最奥にあり静寂そのものでテニスコート、ロッジ、キャンプ場、ゴルフ場などを備えている まだ紅葉の最盛期には一寸早かったがゴルフ場 クラブハウスの裏山の針葉樹は大分黄色くなっていた 玄関前の小池には真っ赤に染まったモミジの木がが一本 朝のシャトルバスで日光駅に出た。人で溢れている 東武日光駅から2,3分のバス始発点JR駅へ移動する 今までずっと日光へは東武線を利用していたが 今回修学旅行以来半世紀ぶりにJRを利用した 国鉄時代さびれていたJR駅はすっかり化粧直しをして おしゃれな駅になっていた。 日光と云えば昔は御用邸、外国の夏季大使館なども置かれ 内外の要人が多く訪れたところである 復元されたJR日光駅はレトロな雰囲気を醸している インテリアは白と茶色を基調に窓や天井は方形の格子模様 発券窓口も昔の駅、郵便局、銀行などでよく見られた形 待合室もすっきりしゃれている、入口はドアではなく引き戸 これが煩わしいらしく大抵の人がホールの椅子を利用している 多分我々が外国に行くとユーレイルパスを使うように ジャパンレイルパスを使うせいだろう。外国人客は JR線を利用するみたいでやたらと外国人個人客が多かった 天井の灯りも昔のままかシックなデザイン 木製の手すりが付いた階段を上ると古めかしいシャンデリアが下がった一等待合室。今風にいえば空港の一等ラウンジか日光の歴史を示す写真展が行われていた 駅舎の側屋には駅長室がある、外から出入りできるこんな立派な部屋を持った駅長さんは他に例がないのではなかろうか 要人の歓迎・歓送には外から車寄せに出向く必要がありこのように外に開いた駅長室が必要だったのだろう 駅前広場から男体山を望むと夕焼け寸前の雄大な山容 一等待合室で感心していたがプラットホームに出てみるとそこから直接出入りできるところに多きな看板があり、「貴賓室」とある。なるほど金さえ出せば一等待合室は自由だがここはその一つ上、金では買えない貴賓のための部屋だったのだろう
2009.10.31
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日光・明治の館老人の秋は忙しい妻はほぼ一年中旅のプラニング、準備、実行で忙しい上高地から帰ってまだ一週間だが季節は待ってくれない今週初めから日光行きとなってしまった日光の良いところは奥日光から市中まで紅葉の期間がほぼ一カ月続きこの期間どこかで必ず最盛期に遭遇することだこの日26日は12月中旬を思わせる冷雨早々と日光に着いても寒いだけであるJRの大人の休日クラブ割引を使い、急行・特急を使わず 湘南新宿ラインと宇都宮日光線の普通列車を乗り継いで行った日光も寒い雨、世界遺産巡りバスに乗り込み明治の館レストランで遅めの昼食を執ることにした下の写真でも分かる雨の中庭園を進むと紅葉の落ち葉を敷き詰めたレトロな雰囲気の前庭に出た次いで石造りの館が現れた。この建物は国の有形文化財に登録されており、テーブルマットの記載によるとこの建物は日本コロンビアの前身を創立して「蓄音器の父」と呼ばれた F.W.ホーンの別荘で壁面は日光石を使った「乱れ石積み」のジョージアン様式建築太平洋戦争中重光葵外務大臣がここに疎開、ミズーリー艦上での降伏文書調印式にはこの館から出発したとのこと今は当時の姿そのままでレストランとして使われているローカルストーンのマントルピースやカーテンの図柄が明治調 明治の建築らしく正方形の格子と小サイズの窓ガラス雨に濡れた楓葉が美しい 外は寒い雨、明治のガス灯のような形のストーブがテラスの順番待ち客を温めている 温かい室内からこのような窓景色に囲まれて温かい料理は十分値段に合う気がする 温まった体で雨中の小散策。苔むした灯篭や色着いた草木が心地よい時空を感じさせてくれた
2009.10.29
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上高地を後に期待以上の明神池を脳裏に収め満ち足りた気分で上高地を後にする前に感謝の画像を何枚か載せておこう上高地の一枚となるとやはり河童橋からの穂高連峰 山の雰囲気に満ちクオリティーにおいても良好の「山の旅舎」五千尺ロッジ玄関ドアに映る林間の木々が良い 兄貴分の古典的良質の宿「五千尺ホテル」ここでは良質のビーフシチュウ・ランチを頂いた。 ロビーのメニュウを見てランチにしてはかなりの負担になるので2階への階段を昇るべきか一寸逡巡したがレストランに入った瞬間正しい選択をしたと安堵した。黒光りした柱や椅子が好もしい 食卓からはピクチャーウインドウの景色が絵画みたい 横の窓からは目の前に賑わいを見せる河童橋 ゆっくりランチを頂いた後はバスセンターへ移動して岐路に着く噴煙は岐阜側に流れて少ししか見えないが活火山の焼岳穂高が上高地の奥宮とすれば焼岳は前門を守る仁王門 上高地を去ってバスは信州松本へと向う途中の山々は紅葉最盛期の直前 松本に近ずくとリンゴ畑が多くなる。ここのリンゴの木はクリスマストリーのような形に仕上げられていて、津軽のリンゴ畑とはかなり違った樹形になっている。津軽と信州では収穫の作業様式が違うのであろうが、想像できない。 ぐだぐだ綴った上高地探訪記もこれで終りとする。
2009.10.24
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続 明神池今日のブログは仙郷明神池の水面の景色静かな湖面ではあるがさすがに湖尻は騒がしい、油を流したような流れもあれば 岩に砕ける水流は騒がしい 枝間から隙間見る小島の紅葉がさえている その島影をアップしてみると 湖面の青空と苔むした倒木には赤い蔦の葉が実像と鏡像が溶け合った景色 この山影も実像と影像が相半ばしてすがすがし空飛ぶウミガメのような湖面の岩影 こんな景色を悠々と楽しんでいるのが鴨たち、こんな景色でお腹が満たされるのだろうか、餌を漁っている風には見えない 冬の景色に入った部分の湖 明神を去る前にこの景色の恩人嘉門次さんのレリーフを掲げる。
2009.10.23
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明神池今回の上高地探索の主目的地は明神池である白状すると私はまだ明神には行ったことがないロッジからガイドブックの記載では60分とあるまたまた多くの人が過ぎ去ってゆく中、老夫婦の道草道中90分以上かかって明神に着く、ここには前にふれた山岳ガイド嘉門次の山小屋があり、現在は4代目の経営とか写真の碑には「穂高奥宮参道」とある。すぐ近くに祠もあるが正面に位置する明神岳そのものが御神体である その御神体を拝むには明神橋の上から吊桁を通して拝むのが良い 橋を渡って程なく嘉門次小屋を過ぎると明神池が迎えてくれる静かな湖面にボートが2艘、舟腹には派手な模様が描かれている舳先にも何かを取り付ける台座がある(この時は気が付かず したがって見難い写真)。帰りに宮司さんに聞くと10月初旬の例祭には舳先に木彫りのゲキ(想像上の鳥)と龍(だったと思う)の頭を取り付けてこの明神池を渡るそうである。祭礼の後だったためかその2体の木彫りが社務所に飾られていた。したがってこのボートは遊覧用ではなく祭詞様である。 池の水は澄みわたり水面に浮かぶ針葉樹の枯葉の影が底に 池の中には水鳥が浮島を引いているような光景があった神話の中の光景とも執れるが、これは枯れ木の根っこと小さな島からなる自然の造形であるこの解釈も私の勝手な思い込みである 唐松をバックに浅い湖底と湖面に映る風景が心地よい 視線を上に移すと目の前には枯れ木と岩山が青空に眩しい 視線を左に移すと計算されつくしたような自然の造形 浅い池の水面に揺らぎを造りながら冬の訪れを前に鴨が上高地の名残を惜しんでいるようであった 少し位置を変えるだけで場面は変わる 鴨たちは位置を変えながらこの光景を楽しんでいるのだろう
2009.10.22
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続 梓川河畔の動植物今は秋すなわち冬はもうすぐそこに草木によってはもう冬風情もうとっくに盛りを過ぎた黄葉もある 枯れ木の根っこも苔が生えると風格が出る 枯れ立木と違って切り倒されて朽ち始めた切り口はわびの表情 政治家じゃないが自分は引退してもしっかり跡継ぎのいる木も 盛木をフレームにして絵画の主人公を気取る黄葉もある まだまだ今を盛りと樺の木を従者にして青空に映える樺の木も 倒木上の小動物、いやこれはキノコの群生だった前夜のロッジでパークガイドがスライドショウをするというのでラウンジに下りてみると彼女最後までキノコのスライドばかり示し上ばかり見ないで小さなキノコを発見してください言われパチリ 黄葉でも透きとおるような薄葉は水みずしくて可愛い 渓流では至る所で岩魚の群れが泳いでいた、その波紋の広がりがなんとも心地よい 最後の写真は何を写したのだろうと思うだろターゲットは花火のような形の花の種である。マニュアルフォーカスせずにオート設定の撮影、これでは岩、笹、枯葉何を写したのかわからないだろう。こんなおぼつかない腕前で綴る写真ブログである。ご容赦!
2009.10.21
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梓川河畔の動植物翌日山宿ではゆっくりの朝食をとり荷物を預けてロッジを後にして今回の旅の主目的である明神池へ向かった。河畔の遊歩道は秋色に染まっていたがここ上高地ではモミジ、楓、ななかまどと云った深紅に色ずく木は少なく黄葉しているのは主として白樺、岳樺で唐松は少し遅れる。巨木があるとついつい写真を撮ってしまう癖。下の木は従者を従えてかしこまった武士の風情。 地盤がしっかりせず耐えに耐えて生き残っている名門の木もある。 下の楓の葉っぱは一枚の葉の中に黄色い部分と赤い部分が共存。 決して親木を蝕むこともなく優しく木肌にまつわりついている蔦。 突如けたたましい声がしたと思ったら大きなボス猿が我々に間に割り込んできてのそりのそりとあるき道をあけてくれない。 川岸では家族たちがのんびりと毛つくろいをしている。 「みやまかんぼく」の赤い実がたわわにそしてきらきらと光っている。 足元の名も知らぬ小さな草の花なのか種なのか遠慮気味に紅葉した楓が白樺と青空をバックに主役を務めている。 鴨の夫婦も残り少ない秋の陽光を楽しんでいる。もうすぐ凍てつくさむさの上高地である。 彼らもうすぐこの風光明美な地を去り暖かい地へと旅立つのだろう。
2009.10.20
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田代橋から河童橋の散策帝国ホテルでお茶をした後ホテル裏の田代橋から河童橋まで30分コースを1時間かけてぶらり散策、自慢じゃないけど追い越され専門で一人も追い越すことはなかった。田代橋からを眺めると青空の下穂高連峰が遠望できた。橋を渡って梓川の対岸を眺めると右から霞沢岳、三本槍、六百山と続く2500m級の山々が目前に。 頂上付近をズームしてみると下のような鋭いキレットが見える。平坦な河畔を歩んでいるがここは紛れもなく山岳地帯である。上高地が一級のアルピニストから老爺老婆にまで人気のスポットとして人気があるのもうなずける。 しばらく歩むと上高地の開拓者ウエストン牧師のレリーフが岩に埋め込まれている。明治21‐28年にかけて滞日した師は山岳ガイド嘉門次の案内で穂高の山々を歩き、上高地を絶賛、日本アルプスの命名に関与し著書を通じて紹介した。また日本に近代登山を紹介して日本山岳会の設立に尽力している。 右側には白い小砂利におおわれた中州、梓川の水音そして左側には色ずき始めた白樺、岳樺、唐松、クヌギ、楢などの落葉樹を中心とした林が続くトランキライジングな空間。 川岸に毒々しい色の「マムシ草」の実が有った、今はその面影はないが花の形がマムシが舌を出した姿に似ていることからこの名が付いたという。 浅瀬を見ると澄み切った流れを通して小石が秋の陽光に揺れていた。 ゆるい歩みでも程なく上高地の中心中の中心河童橋に着く。後ろの建物は五千尺ホテル、この絵からは想像できない立派なホテルである。上高地を舞台とする小説によく出るスポット。一週間前に古本屋で「上高地殺人事件」という文庫本が目にとまり300円で購入し読んでみたがここでは冒頭に少し登場するだけであった。下の写真は4時を回った頃なので人影はまばらであるが日中のこの場所は日帰り客でごった返している。ホテルの喫茶室も有名なケーキ目当ての客が列をなしていた。 河童橋の上から上流を見ると岳沢から扇沢のカール地形の上に前穂高岳、吊尾根、奥穂高岳、天狗の頭、間ノ岳、西穂高岳と日本を代表する稜線が西日を浴びてどっしりと控え下は色づき始めた唐松や岳樺を羽織った梓川の渓流が広がっていた。 今日の宿は五千尺ホテルの姉妹館で河童橋を挟んだところにある五千尺ロッジである。
2009.10.19
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上高地帝国ホテル最後に上高地を訪れたのはいつだったろうか子供が小さい頃だからもう30年は過ぎているだろうここ数年秋の上高地へ行きたいと思いながら果たせないでいた。JR特急、バス、ホテルがパック、あとは自由プランの予約が取れた。梓川にそってトンネルまたトンネルを抜け満員のバス乗客は上高地の始りである大正池で降り、残ったのは4人だけ。大正年間に焼岳の噴火で梓川が堰き止められ出来たこの池も流砂が溜まって湿地化が進み30年前の姿とは全く違って見えた。随分小さくなったものである。相棒が踵を痛めており、今回は大正池よりも明神池の探索が主目的だったのでパスして次の帝国ホテルでお茶をしてそこから河童橋までを歩くことにした。バス道から2,3分の位置にある赤屋根は高い木立に埋もれてはいるがひときわ目を引く木組み建築である。車寄せの上に幾つもの破風屋根を備えたもので高感度は抜群 赤い屋根と破風造りに半世紀近く以前に訪ねたScarlet letter,The House of Seven Gablesなどを書いたアメリカの作家ホーソンの住んだ「七破風屋敷」のイメージが湧いた。そこで調べてみると下の写真、どうも赤屋根とスカーレットレター破風造りとセブンゲーブルズからの連想だったみたいで少々がっかり。赤い屋根だったような先入観があったのだろう。 しかし内部のできはまさしくホーソンの時代のものであった。まずは木のテーブルのレセプションデスク、荒削りの梁天井ボーリングのピンのような手すり格子。 そして吹き抜けのストーブ炉ひな型がスイスのシャレーだったそうで大きなカウベルが中央に掲げられ、両脇には野生動物の毛皮。 トイレに通じる廊下も画廊構造で落ち着いた感じである。 ふと気がつくとホール、ラウンジ、廊下、トイレに至るまで床は天然木のスライス片とモルタル造りである。 ビンボー人はお茶だけで退散してトレイルにつながるホテル裏側へと出る。遠くに明神岳を配して美しい光景。最近リフォームしたらしくせっかくの古い建物がやや安っぽく見えるのが、少々残念。だが内部は風格が感じられた。客室はどうだろう。今から貯金していつか泊ってみたいものである。
2009.10.18
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北京の食卓 個人旅行もきつくなったので、今回の北京はJALPACKを利用した。 今までにも10人とか25人での団体旅行の経験がない訳ではないが 今回は2人で行くパック旅行で、専用車を付けてくれ、食事も 名の通ったレストランでJALPACK特別メニュウ。 食通でもなく、味盲に近いの私はこれまで旅行をしても食事は その場で楽しむだけでブログにまで料理を登場させることはなかった。 ところが今回は特別(?)メニュウで手元に料理品目のコピーが残されているので記録することにする。 1日目昼食 「県泰豊」にて小籠包料理 1 涼采(前菜); 2 特色小籠包(特製スープ入り小籠包); 3 小籠包 (小籠包); 4 蟹粉小籠包(蟹みそ入り小籠包); 5 酸辣湯(四川風 五目スープ); 6 蚕炒飯(卵チャーハン); 7 豆炒小包(小豆入り 中華饅頭); 8 杏仁豆腐(杏仁豆腐) 一日目夕食 Hidden City 「全鴨季(Duck de Chine)」」にて北京ダック 1 鴨躓餅(ダッククレープ); 2 夾口大半掻采(野菜サラダ); 3 燻(当て字、火編に考)鴨(北京ダック); 4 古(当て字、 口編に古)老肉(酢豚); 5 田元(当て字、口の中に元)炒五仁(ナッツの炒め物);6 支(当て字、豆編に支)油皇炒面(鴨肉入り焼そば); 7 甜品(デザート) * 工場の跡をリフォームしたフレンチ中華の店、皿はすべて 白のカセロール製でナイフ・フォークで食べる。 近年のオープンでこの一帯をHidden City と呼び北京の 新名所となっている。 二日目昼食 「長城脚下公社」にて創作中華料理 1 精美丙(当て字、丙を横に二つ重ねる)小蝶(本当は石編) (前菜) 2 X0醤翡翠鮮尤(当て字、魚偏の尤)(イカのX0ソースかけ) 3 揺(当て字、手編ではなく王) (貝柱入り海鮮スープ) 4 葱爆牛柳粒 (角切り牛肉の葱炒め); 5 三色炒時(当て字、日編に寸)菜(当て字) (旬野菜炒め) 6 揚州炒飯 (揚州チャーハン) 7 果盆(当て字、舟の下に皿) (フルーツ) * 一人一人白磁カセロールの皿でサーブされる。万里の長城真下の 国営(?)企業。 薄味の中華料理 ? ** 食卓の写真は色も香りもよく表現できないので原則とらないが、 フラッシュを焚かないで撮ってもやはりシェフに申し訳ない気がする。 二日目夕食 南鑼鼓巷 「都江源」で四川料理 1 浸虫毛(虫と毛が一文字、牡蠣のことか)油鶏 (鶏肉のオイスター ソース風味; 2香拌牛肉 (牛肉の和え物); 3 酢(旧字体、つくりは 乍ではなく昔)拌筒蕎 (サラダ); 4 金針竹筒鶏 (エノキ茸と 鳥の竹筒蒸し);5 水煮牛肉 (牛肉の薄切り山椒辛子煮) 5 白灼菜心 (菜の花); 6 三?鶏巻 (キノコと人参とシャトウの 鶏巻き); 7 ?(草冠に止と流)采炒米飯 (入りチャーハン) 8 担々面 (タンメン麺); 甜食(南瓜餅) (デザート、フルーツ) * 皿はすべて白カセロールで伝統的四川料理とも一寸違う工夫がなされたものでさすが山の料理で魚介類は見られない。 だらだらと綴ってきたがこれで北京旅行記は終わり、明日からの上高地行き前にケリをつけるため今日は3本目の投稿
2009.10.14
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四合院レストラン二日目の夕食は南羅鼓巷と云う場所にある「都江源」という四川料理店に案内された。南羅鼓巷はいかにも古い中国の街並である。この一角には恭王府という清の威(当て字)豊帝の弟恭親王の屋敷で、小説「紅楼夢」(読んだことはない)の舞台となった恭王府がある。この巷の胡同(フートン)には四合院造りの屋敷が多い。偉い僧侶の屋敷だったのだろう文化財屋敷 ここの四合院造りの正門には星印が4つ付けられている。下の家の門飾りは「い和園」の回廊と同じ様式である。 そのうちの一軒に「都江源」とある、ここの門をくぐる。門に続く主屋を抜けると四合院の中庭に出る。四合院造りには必ず方形の庭があり、そこに井戸があったそうである。ヨーロッパの豪族の住まいも大体似た様式で門を閉じれば防備が出来る仕様である。 主屋に戻り席に着くと、そこはもう清の時代に戻ってしまう。家具や蔵書(確かめはしなかったが本物であることを願う)の飾りも重厚である。 ただこのレストラン、インターネットで調べるとフランス人経営でインテリアもヨーロッパ調とある。でもガイド氏によるとオーナーは四川省出身の若い男性とのこと、代替わりしたのであろうか。料理は昔の四川料理で、ちょっと私には合わなかった気がする。
2009.10.14
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Hidden City の北京ダック JALPack プランの中に Tea House が含まれていた。二人の前に一人の女性が簾の前に座り、各種のお茶について講釈を受た後それぞれの作法でお茶を入れてくれる。 セレモニーが終わると簾が開けられ、今飲んだお茶が飾られている。とんでもない値段のもあるがそれは遠慮して、一枚の大きな茶葉を葉巻たばこのように巻いたお茶を購入する。湯呑みにお湯を入れこの葉巻を浸して飲むという。一本で一日楽しめますというのでこれを購入 夜は工人体育館の近く、三里屯という場所の工場群を保存したまま再開発したHidden Cityにある全鴨季(Duck de Chine)へ北京ダックを食べに行く。工場跡だけあって骨組みの見える高い屋根裏天井そこから吊下ろされたシェードランプ、窓外にはテラス席もあり札幌ビール園をレストランにした感じ。 席につくと一番客の我々の前にミラノのドウモウ前で飲んだカプチーノのクリーム模様のような紋が描かれたたれが運ばれた。程なく窓越しに見えるロースト窯からこんがりピカピカの一匹が運ばれて 皮剥ぎのパフォーマンス。そして鴨型のお皿に盛られた鴨皮を使ってデモンストレーション さらにパンの中をくりぬいたような皮に肉や野菜を詰める中華サンドイッチの様なもののデモンストレーション 味盲の私にもなかなかのお味と雰囲気でした。客はほとんど金持ち中国人のようでした。私たちはPack旅行だから来られたようなものです。
2009.10.14
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北京のホテル北京のホテルと云えば幾多の国際的要人を泊めた伝統的な北京ホテル今回このホテルを訪れる機会はなかったが車中からの写真が次の3枚それぞれの建物はくっついてワンブロックを占めている。ガイド氏はこれ全て北京飯店だという。あの超高級ホテルラッフルズもここに収まっている。北京飯店の一部をラッフルズが借り受け営業している形式だろう。そういえば私たちが泊ったっリージェントホテルもパークプラザホテルと同じビルにあり、ガイド氏は同じホテルだと言っていた。フランス系のメルキュールホテル・イビスホテルの関係なのだろうか。この北京飯店には新聞社の支局なども入居しているみたいで探検しないことにはよくわからない。私のホテルの部屋からは下のホテルレジェンデールが目前に聳えたっている、まるでフランスのシャトーの屋根を持ってぐっとうえに持ち上げた感じの建物外観は素晴らしい、内容もそうであればいいのだが。 一方やはり部屋から伝統的中国様式の屋根だけが見えるのはホテルペニンシュラ。最後の日飲茶でもと思っていたが、体調不良で断念。 北京飯店はそれほどとも思えないがこれらのホテルは特別級でおそらく平均的中国人の月給ではとても近づき難いところだろう
2009.10.13
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長城脚下人民公社毛沢東時代の花形・人民公社、今風にいえば国立企業、国策会社、公益法人と云ったところだろうが、共産主義の権化のような響きがる。ところが現在の共産党一党独政下ではなんとも奇妙な存在である。 北京市郊外には八達嶺の外にもいくつかの長城関が整備公開されている。人影のまばらなこの谷間に位置する次図の関へは車で行ける。 そしてそこには近代的なレストランやホテルがある。 こういったホテル・レストランは長城にそって何箇所かあり、そのデザインも国際コンペによって競われ、日本人建築家がデザインしたものもある。私たちが昼食に訪れたのは「長城脚下的公社・中華レストラン」ここにはテラスレストランやコートヤードレストランと云った、およそ中華料理店とは思えない高級公園レストラン。しかも24時間営業らしい。北京の人々も金持ちはこんなところでデートするのだろうか。 料理も創作中華料理と称し、皿やサーブの仕方も変わっている。庭には散策道なども備え、振り向くと最初の写真の長城が目前に聳えている これも人民公社の経営ということである。共産主義とは何なんだろう。
2009.10.13
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万里の長城 今回の北京訪問の主目的は万里の長城見物である。 人類が作った最大の建造物ともいわれるこれを見ないで死ぬのは 残念という気がしていた。本当はもっと若い時期に訪れていろいろと 歩くべきではあったが、近場を後回しにした結果体力に乏しい今 ゲーブルカーを使って行ける安易なものに限られる。 多くのツアープランを探してJALPAKで行くことにしたのであった。 北京郊外には修復されて観光客を受け入れている関が幾つかあるが 99%の外国人観光客は北京から高速道路で結ばれている八達嶺 という関に行く。我々も例外ではない。、 八達嶺の北八楼は尾根の一番高い所に位置していて確かに 全体を俯瞰するにはいい場所である。しかし欠点はあまりにも人が多すぎる ケーブルを降りて堤に向かっている人だけでも下の写真 徒歩入場の入口からの人はこの比ではない。 ケーブル客も合わさるとこの状態になる。坂道も階段もきつく段差も大きい 文句は言うまい、ここまでの車中どんより曇り空であったがこのときは青空。 なにしろ山の尾根筋である、霧で何も見えないことも多いとはガイド氏の弁 石畳、焼煉瓦の塀も堅牢で重厚である、しかし本当にこんな峻嶮な 山を越えて軍団が越境できるのだろうか。 堤は大体尾根にそってきずかれており、ところどころにこの八達嶺楼のように 全体が俯瞰できる場所がある。狼煙が上がると各所に配置していた兵が すぐ移動して敵に対する事が出来たのであろう。なかなか戦略的な造営である。 関ヶ原の戦いの時各陣営がそれぞれ小さな頂に陣を張ったことを思い出す。関ヶ原でどちらかの軍団の陣がこのように舗装路の防壁で結ばれていたとしたら戦略も違ってくる。今まで読んだり聞いたりしたことはないが万里の長城は防御柵と云うよりは軍事道路の役割が大きい気がする。要するに長い長い構造の一つの砦なのである。大ブリテン島北部のハドリアヌスの長堤(Wall)がほぼ平地に位置して文字どうり防御柵なのに対してこのような山地では少し違った意味合いを持つ気がする。 延々と続く 塀が霧にかすんで見える。 現在の長城は復元されたものであるが随所に崩れた堤の跡が見られた。 南嶺を見るとこれまた蛇行する高堤が見え多くの人が登っている。 崩壊で途切れ今はう回路だけとなった個所もみられる。 結論から言うと確かに一見の価値が十分にある。 こんなところが人口1200万人の北京から1時間足らずで 来られるとなると観光価値は無限である。
2009.10.12
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続 い和園前回のブログで西太后についての概要は記したが、正殿を守るのは獅子写真を見て気付いたがこの仁寿殿の棟飾りを見るとデフォルメされたものが無いとは言えないがあまり龍が誇示されていない。長い間実権を握っているとは云え西太后は皇帝ではなく、摂政である。わざと龍を隠したのではないかと邪推したくなる。そういえば正殿前の置物が龍でなく獅子なのも気にかかる。 仁寿殿から裏の昆明湖に向かう途中に楼閣を備えた石造り門があるがこれは砲台門で上には中国で最初の大砲が据えられている由。西太后が備えたものだが実際に使われたことはないそうだ。楽寿堂は8カ国連合によって破壊されたが西太后によって再建され彼女の住居として使われたところ。 政務机の周りには多くの貢物やヒスイがが飾られている。広大な人造湖、昆明湖とその土を盛り上げて作った万寿山との間には1kmに近い長い長い飾り回廊がある。雨に日でも傘なしでけぶる昆明湖の景色を愛でるための回廊という。 回廊は天井、梁,棟、軒いずれと知らず鮮やかな絵画で満たされている。史実を描いた絵、物語を描いた絵、人を呼んで伝説や民話を語らせ名場面を思い描いてはここに書かせたという。 権力の座にある女は楊貴妃の美貌を欲したのだろうか一笑に付したのだろうか 湖に面して建つ門は船出するときのものだろうか 裏の山上には4層の楼閣が、ここから眺める湖の景色も風情があるだろう輿に乗って行ける西太后と違って自力の老骨にはこたえるのでパス人影が見えないところを見ると公開されていないのかもしれない。
2009.10.12
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い和園郊外のい和園を訪れた。ここは西太后夏の離宮である。彼女は夏の間ここで政務をとったが、そのために時の皇帝光緒帝をここに幽閉する必要があった。西太后は清朝威(代用字)豊帝の側室で同治帝の生母、威豊帝の没後同治帝を5歳で即位させ摂政となる。さらに同治帝が18歳で死ぬと甥の光緒帝をたてて、自分は摂政となり実権を握った。後年同治帝が立憲君主制を敷こうとするとクーデターでこれを阻止し帝を幽閉した。後年8カ国連合軍と戦ったが敗れて西安に逃れる。北京復帰後は良政を敷いたが対外的には屈辱外交に転じ半植民地した。そして革命運動が高揚したが彼女自身は革命による王朝の崩壊を見ずに亡くなった。世界史における才女・悪女の典型とされる西太后の本心を覗きたいのは私だけではあるまい。その西太后の離宮である”い和園”は一度8カ国連合軍によって破壊されたが彼女はこれを復元して利用している。大きく言ってここは大きな人造湖の昆明湖とその際掘りあげた土を盛った万寿山、各種楼閣からなる広大な庭園公園である。現代人は仏教色濃い象(普賢菩薩の乗り物)を植木と花で作り入口に配置しているが、龍は王権の象徴、そして獅子や鳳凰は龍の子である 彼らが王の政務の場である仁寿殿の前に立ち護衛している。裏の庭園にはパンジー、鶏頭、ベゴニア、コリウスといった園芸花の尾長鳥飾り。 広大な昆明湖の端には大理石で作られた二層の船(もちろん浮かんでるわけではない)、西太后はここで月を愛で晩餐するのをこよなく好んだという。 柳に囲まれて見事な造形を見せる太鼓橋 中国の庭園によくみられる瓦と石の歩道敷石もここでは規則的な文様でない。 万寿山裏の園地を歩いていると見慣れない林が目に留まった。プラタナスかカバノキのような木肌をしているのに松の葉っぱ、 ガイド氏は日本語で「樺松」ですと教えてくれた。きっと直訳なのだろう。
2009.10.11
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オリンピック公園オリンピック記念公園の鳥の巣です例の五輪の輪の五色の旗が並んでいます。青ピンク緑黄色赤がそれぞれどの大陸を表わすのか私は知らないが リオでやっと4色目の大陸での開催です。メデタシ 付近は広大な公園となっている。中国では池がないと公園に値しないのかあるいは公園と庭園は異質のもの何か、ちょっとした疑問。多分ここではボート競技など行われたのかも知れない。 人は少なかったが家族で週末を過ごすには最適の公園である。舞い立つ白鷺の姿が美しい。 湖畔には地下鉄の駅と広大な花壇、見慣れた花ばかりで珍しものはないがそれがまた落ち着いた雰囲気を作る。 花のプロムナードは若者のデイトには最適であろう。 湖の対岸はたぶん選手村だったのだろう高層住宅が並ぶがそれを中心に新しいマンション群が増えている。樹木が小さく植えて間もないことがうかがえる。これからの街なのだろう。 石原さんが目指したのはこれだろうがオリンピックを開かなくても出来るだろうに。
2009.10.11
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後海地区ー胡同(フートン)故宮の西側には何キロにも亘って南海,中海、北海、前海、後海、西海と大小の池がつながっている。そして後海の東岸には内庭を有し、東西南北に楼をもつ方形の屋敷を意味する「四合院造り」や江戸の長屋横町のような町並みの「胡同(フートン)」などが混在する地域がある。これらは歴史保存観光区となっており、観光客が必ず訪れる所。胡同の家々も国慶節の国旗を掲げている。 湖岸通りには輪タクが集まっていて、人々はこれで胡同回りをする。家並はみな古いものでそこで近代的な商品を商っていたりする。 レストランらしいがクレジットカードも使えるみたいだ。 店にショウウインドウなど無いが飾りの付いたガラス戸など我々の年代には日本でもよく見かけた商店の構造である。 昔、時を知らせた鼓楼があった、最近までNMKドラマでよく出てきた「時の鐘」 はまさしくこれのコピーみたいなもの。 下の写真の左側(よく思い出せないが)だったか、自信がないがこの一角には孫文夫人で国家副主席を務めた宋慶齢の旧居が有る。宋慶齢、宋美齢(蒋介石夫人、国民党執行委員)の姉妹は中国の近代史上を沸かせて相対する両巨頭の夫人でいずれも政治的にも重要な位置にあったことは記憶に新しい。
2009.10.10
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天壇公園紫禁城が皇帝の政務・住居の場であるとすれば天壇は祭祀の場所である。そして宮廷の南に天壇、北に地壇、東西にに太陽と月を祀る日壇と月壇がある。それらは今それぞれの名を冠する公園となっている。中国の思想で天は丸く、地は方形をしている。 したがって天壇は丸い建物である。天壇に達するには公園内の参道を延々と行く、それにしても中国は人が多い。日本人団体のコンダクターは小さな旗を遠慮がちに、中国人コンダクターは長い旗竿を肩にかけ戦国の武将みたいである。 公園は広大で林や庭が点在している。 天は青色、帝は黄金色、地は緑。したがってここの屋根は青ちなみに赤はもちろん幸福の色。 皇帝は新年にここの玉座に上り、豊穣と帝の統治の永遠を祈った。皇帝と言えども天に使える身祈りの場には階段を自分で登る。ここでは柱の数や階段の数なども九あるいはその倍数が好まれるそうで日本とは違って中国では九は縁起のいい数だそうである。日本で四九を忌み嫌うのは幼稚過ぎると思う。単なる音の問題で故事来歴に関連付けた説明を聞いたことはない。病院に4号室が内など、外国人見舞客は戸惑うばかりだろう 天に遠慮するとは言えさすがに帝の威光を示すためいたるところに金の龍が描かれている。 ここまでは祈りの場らしい雰囲気、楼閣からは飾り桟道が延々と続く。人が集まる所では中国人は自己主張する。観光客でごった返す装飾された廊下では所狭しとカラオケ、カード、ダンスと騒がしいことこの上ない。そして外に出ると新体操のようにリボンを回すひと、何と小型凧を揚げる人。 カラオケやダンスなど人込みを避けて外の広場でやればいいと思うのだ。とにかく下手でも人に見せたいのであろう。活気があるといえばある、混沌の極みと言えば極み。中国人のエネルギー恐るべし。
2009.10.10
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前門大街と大柵欄天安門広場の南端には堅固な前門が聳える。ほかの門と違ってこれは石作りでおそらくかって有ったという街壁の門であろう小さな広場をはさんで横浜中華街のような門があり、ここからかって戦前の繁華街を再開発した前門大街が続き、復元されたチンチン電車も復元されている。この電車架線が無い、短い距離を往復すると車庫に入り、2.3分で充電して電池で走っているそうである。町全体がテーマパークみたいな所だどうしてもここが社会主義国と言うイメージからは遠い。 町は文字通り題60回国慶節一色の飾りつけ。建物は一つひとつ個性があり、外国支配の時代の香りを色濃く残している。実際昔の写真の資料を丁寧に検証してその通りに復元したそうで、今の建物の軒下には昔の建物の写真を飾ってある。 レストランのドアボーイも清の時代の満州系の衣装に身を固めている。 伝統的は店が軒を連ね気持ちの言い歩行者天国となっている。 前門大街から別れた通りに大柵欄と言う通りがある。浅草の大通りのような感じであらゆる商業施設が集まったネオン街の感じ、さらにその横丁は戦後東京の駅前バラック赤飲み屋街、現在も各地にみられる赤提灯横町のような路地が横たわる。このあたりはかっての悪街で、売春、麻薬、賭博、いわゆる悪業胡同。今はかなり再開発が進んでいるが、こういう所は官の再開発計画 vs住民の立ち退き反対運動の場となることが多い。 一説にはこの町の大柵は遊女の逃亡を防ぐ関所だったとか。「中国電影誕生地」はまさしく中国最初の映画館。今も営業しているかどうかは聞き忘れた
2009.10.08
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天安門広場10月1日の建国60周年祝賀大式典・パレードが行われる数日前の長安街から見た天安門、長安街を介して天安門広場と向い合っている。この長安街は軍事パレード、民族パレードが行進するところ。 お馴染み毛沢東の巨大な肖像画、その上部には式典時指導者・幹部が立つ大理石のバルコニー、さらに塀の前には全国から集まった地方幹部や招待客が座る雛段が設営されている。 この天安門は元々紫禁城の正面門(砦)である。何と言うことはない昔皇帝が大和殿とその前でもようした儀式を門外に移しただけである。この天安門は清朝時代に始まるが何度か建て替えられ、時代が変っても国の重大な布告や法律はこの大理石のバルコニーから民に伝えられた。60年前毛沢東が高らかに中華人民共和国の建国を宣言したのも正しくこの場所である。この天安門を前に12万人が集える世界一の広場天安門広場がある。この時期広場の両脇には派手な56本の朱色の円柱が建てられていた。チベット問題やウイグル問題でだんだんメッキがはげかけているが中国の国是(お題目?)として56からなる多民族の融和がある。そこで今回の祝賀祭用に56本の赤い(古来中国人がもっとも好む色であり共産党のシンボルカラーでもある)円柱を建てそれぞれには民族をあらわす紋章と民族衣装が描かれている。 スモッグにも助けられて天安門広場から見る天安門は霞んでこの広場の広大さがさらに大きく見える。 一方足元に目を移すと敷石の一つ一つに記号が書かれている。テレビの画面もこのようなドットからなり色々な模様が描かれている。この番号は1個の石に2人が立ちドットの色の旗を上げることでカラーテレビと同じ原理で世界一大きな人文字画面ができる。式典中の巨大な変化する画面をテレビニュースで見たはずである。72-245は72行、245列のドットの役割の人の立つ位置である。広場の敷石にはこんな役があることを認識した。 広場を天安門から反対に法へ進むと広場の幅一面のこれまた巨大なテレビ画面に60年の歩みが映し出されていた。そしてその後ろにはアヘン戦争以来、国のために殉職した兵士たちの慰霊塔が立つ。日本も神道の信者しか有り難がらない九段坂よりも皇居前広場に戦没者慰霊碑を建ててその霊を慰霊すべきではなかろうか。 毛主席の遺体が祀られている記念堂と戦没者慰霊塔の前には儀仗兵が立っている。 さらに進むと左側にヨーロッパ風の建物、かってのフランスの銀行で今は中国銀行だそうだ。 さらに広場を出ると左側に立派なヨーロッパ建築、「北京鉄路博物館」と読める。かっての満鉄時代の北京駅で上部に”京(北京)奉(奉天)”の字が読み取れる。 調べてみると満鉄時代北京ー奉天ー釜山を結ぶ「大陸」「興亜」などと言ういかにも日本の朝鮮・中国進出を象徴するような名前の急行列車が発着したということである。
2009.10.07
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今日の昼食時たまたまスイッチを入れたらテレビのワイドショウで石原慎太郎東京都知事の発言に対してブラジルが抗議をしたと言っていた。アメリカの大統領選挙で当選者はまず落選候補から祝福を受ける。日本の政党の総裁選においても構図は同じである。「お前さんの買収工作にやられた」などと直後に発言しないのは世界共通のルールでありマナーである。残念でも銀メダリストは笑顔で金メダリストを讃える。これは最低限のスポーツマンシップである。この間の都知事の発言を思い出してみると「東京が飛びぬけて良いプレゼンテーションをした」(私は飛びぬけて下手だったと思う)、「東京は正攻法で行ったが、(ブラジルは)裏工作で勝った、今度のことでオリンピックの政治力学を学んだ」、「(ブラジルは)大統領がアフリカ諸国に多くの利便を裏約束した」(この発言、私自身は確認していないが、テレビの報道)。要するに彼が言いたかったのは頼みにしたアフリカ票がリオに流れたのはアフリカのIOC委員を買収したと言いたい訳だろう。確かにこんなうわさは今回に限らずオリンピックには常に付きまとっている。かって東京や長野がIOC委員にプレゼントや便宜を与えたことが反省されて少しずつ改善されている。 ここで私が言いたいのは政治的な話ではない。戦いの直後には勝者を讃えるのが最低のスポーツマンシップだと言うこと。スポーツマンシップを身につけていない人がスポーツの祭典の主催者たらんとしたことに大いなる失望感を感じたからである。正々堂々と誘致運動をしたと言うなら、その費用百五十億円の使途を都民に開示してほしい。何しろ我々の税金なのである。最低のスポーツマンシップとStatesman ship(政治家の良心)を発揮してもらいたい。
2009.10.07
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景山公園故宮の裏門である神武門から裏山を覗くとそこは景山公園であるここは故宮の中心線上にあり、この山に登ると故宮全体が俯瞰できる。 ここの山は紫禁城の外堀を作った時の土を盛り上げたものだそうだ。北京は全くの平地に位置し、小さな丘はたいてい公園の池を作った際の土砂を盛ったものである。 丘の裏側は広大な公園でいくつかのセクションには小さな館があり並木や花壇を備え、所々の広場では中国の公園に特有のカラオケ、ダンス羽蹴り、太極拳などが勝手に模様されている。日本人なら公園でも人の居ないコーナーを探してするようなことをわざわざ人ごみでやっている。日本人の集団性が西洋人に脅威感を与えることがあるが、中国人のこの集団性は日本人には傍若無人と映ることがある。東洋と西洋、島国と大陸国。世界は多様でありこの多様性が紛争を起こしたり、助け合えたりする原動力なのだろう。 前にも記したようにあと2,3日で建国60周年で還暦を迎える中国の歴史写真のパネルが展示されていた。マッチポンプだと言われている、北京南西に位置する盧溝橋の爆破事件に端を発する日中戦争の写真も多いが見る人は少ない。 中国の古来文化なかで唐時代から「盆景」として存在し日本に移入されてからは「盆栽」となった展示会がが開かれていた。 リンゴやザクロの木も立派な木盆栽になるのは驚きである。 要するに景山公園は統一コンセプトの無い雑多な性格をもった公園でいかにも中国らしい公園である。
2009.10.07
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故宮の宝物清という大帝国の君主ともなれば貢物も多かっただろうお金に糸目をつけることも無かっただろう織田信長や秀吉に限らずこの時代西洋の工芸品たる時計はアジアでは宝物であったろう。まして金をふんだんに使った時計は皇帝たちを惹きつけたらしく奉先殿は時計展示室になっているヒスイや真珠をふんだんに散りばめた王冠はアラブやヨーロッパのダイア、ルビー、サファイアなどを散りばめた王冠とはまた一味違った趣がある 宮殿美術館らしく大理石の床に更に分厚い絨毯敷き、団体客で溢れる中央部に比して建物自体には豪華さはないが収蔵物は遙かに魅力的である 純金製の帝王の印璽、押印跡が示されていないのは惜しい 一体のヒスイ石の彫り物、色の変化が素晴らしい多様な色のヒスイにも驚かされるがこんなものを作らせる皇帝の威光に驚く
2009.10.05
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続 故宮清朝末期は欧米列強と日本の植民地草刈り場となり、イギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、日本の8カ国連合軍によって攻撃され北京は屈伏する。マルコポーロの黄金伝説に惑わされたせいもあったのかヨーロッパの兵隊たちは紫禁城の金メッキの防火用水槽を純金製と思い込み、削り取ろうとして傷つけた跡がこれである。金の防火用水溜めと思うほうもどうかと思うが、人の丈ほどもある水溜めに金メッキすると言う発想も度を超えている。太平洋戦争中、我が家の鉄鍋まで持って行ってしまった日本軍と比べて幾多の革命時にも持ち出さなかった中国も大したものだ。前回記した皇帝の政務所の後ろには住まいに相当する宮殿が続くが観光の目玉は皇帝の住まいよりもその西側に位置する館の西太后の住まいである。 前帝の側室でありながら実権を保持した西太后の住まいには謁見に使った玉(?)座がそのまま残されており館の構えも立派なものである。 貢物やプレゼントの多くも飾られているが、部屋自体大きなガラス板に遮られていて写真にはシルエットのみである 昔の絵図には宮殿内に幾つも庭園が有るようであるが、案内されたのは中国の庭園ではお馴染み太湖石をふんだんにあしらった御花園で、ここが宮殿の中央最北部にあたる神武門に接している。 宮殿は原則的に建物、区画ともに方形であり、見通しは良いものの随所に関門があり、すべてレンガ壁に囲まれており、宮殿内はさらに閉鎖された区画の集まりで防御には気を配っている。 映画ラストエンペラーで幼少の溥儀・溥傑がかくれんぼや鬼ごっこして遊んでいたのはこの通りで彼らにとってここが街であり、ここが国であり、ここが世界であった所である。
2009.10.04
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故宮観光歳のせいで海外旅行も段々近場に移り、最近は隣国が多くなった今回は意図的に残しておいた北京へと行くことにして日本のシルバーウイークが明けた9月24日北京へ向かった。行きのJAL便はほとんど日本人でガラガラであったのに帰り便は中国人乗客で超満席、向こうに行って分ったことだが中国ではこの時期必ず1週間の連休になるそうだ。10月1日の国慶節、それに続く仲秋の月見節をはさんで1週間このため前週の土日は平常勤務をしていた。 旧正月(春節)の1週間、国慶節の1週間、もう1回週休があるとのこと。つまり我々の帰国便は週休の初日で中国人観光客で一杯であった。今回は2人単位のJALPAKで送迎・観光すべて専用車とガイドが付いているものにした。こんな旅行は初めての経験である。 2日目午前は目的の一つ故宮観光に出かけた。現在は旧宮殿の意味で故宮と呼ばれているが本来の名は紫禁城。北極星の上に紫禁星がありこれが皇帝の座を象徴するそうである。この城は最初明の時代に建てられたが明代末に焼け、現在のものは清時代に再建されたもの。 下の堅牢な城壁の上に建つのは午門で今は現在歴史展示室、普段はこの壁門を通って入場するのだろうが、この日は柵で閉鎖されていた。この後ろは天安門である、国慶節行事設営のためだろう、この日は宮殿東門から入場した。午門は門とは言えその規模を超えた堅牢な砦である。 屋根の端にはお定まりの動物たちが守り神として鎮座している。 大和門から進むと政務の中心である大和殿。もちろん大和殿中央には玉座が設けられており、大理石の柵で区切られたひな壇には重臣達、大広場には階級順に並んだ中央・地方の役人たちが並んで儀式を行ったのであろう。 中央の大理石に龍を彫り込んだ通路は皇帝の専用で、輿を担ぐ人は両側の階段を通ったことだろう。何千何万と言う参列者を前にして輿が登るさまは壮観だったろう。 この参道を上り詰めると大和殿、金をふんだんに使って龍をデフォルメした装飾え満ちている。 大和殿中央には玉座が、ここでも皇帝の通路と陪臣の通路は別後に清朝の実権はかの悪女とも称され、賢女とも称される西太后 が握るが東太后(正妻)でもなく、側室であった彼女は玉座に座ることはありえなかったであろう。 広大な故宮の屋根はすべて黄金色(と言ってもオレンジ色の瓦葺き、金が塗り込められているとも思えないが)、この色は皇帝だけが使えるカラー。ちなみに天(神)は青、地は緑で象徴するらしい. 皇帝を象徴する色は黄金色と記したが、形は龍である。宮殿中の飾りははっきり描いた龍、少し崩した龍、デフォルメした龍とあらゆる所に龍の絵が描かれている。 儀式の大和殿の裏には政務の中心である中和殿、保和殿と続く さすがに派手さは控えめとなるが額には清朝の名君乾隆帝の印がハッキリと読み取れる。清朝が確固たるものとなりここに極まったの意味だろうか
2009.10.03
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北京から帰って留守中の雑事処理や疲れのせいでブログ書きには至らない。大体今週は自民党総裁選、サモア・スマトラの大地震、中国の建国還暦年、オリンピック落選劇と情報注入が多すぎた。 「総裁」と言う権威ぶった名前も共産国の「書記長」同様時代錯誤である党の改革はまず党首名からだろう。 地震で崩壊したがれきの細い鉄筋、津波で押し流される町並み人ごとではなくわが国も常に備えておくべきだろう。 自衛隊の中に国土防衛隊を組織し、災害に対して迅速に行動できる臨戦態勢を整えておくべきだろう。天災に限り国会の議決なしに外国にも救援出動できる立法を講ずべきであろう。私は長年「国境のない医師団」を応援してきたが、NPOでは限界がある。 中国も建国60年、人は豊かになれば自由をほしがり、瀕すると自由よりも豊かさを求める。所詮人も動物である。ジャンバルジャンがパンを盗んでも悪く言う人はいない、セレブがルイビトンの財布を盗むのとはわけが違う。豊かさと自由度のかねないを適宜コントロールするのが政治である。 昨夜は1時に目が覚めてラジオをかけた、結果は私が予測した動静・順位がほぼ100%あたり、変な満足感を覚えた。小学生の頃校内弁論大会に出なければならないはめになり、近代オリンピックを唱えたフランスのクーベルタン男爵について話した。60年以上前のこの話を思い出した。古代ギリシャではポリス間の抗争に明け暮れていたが、オリンピックの期間だけは戦闘をやて競技に熱中した。今でもその考えは残っており、各地の紛争もオリンピック期間は大きな戦闘をしない。中東戦争、ベトナム戦争、ユーゴ内乱、イラク戦争などいちいち検証はしていないがこの慣習は存在したと思う。 五輪マークを思い出してみよう。この輪は5大陸を表すと習った5大陸に及ぶ平和の祭典であれば南アメリカ、アフリカで開催しうる都市が出現した場合そこで開催すべきは自明の理である。 オリンピックの趣旨は土木工事でジェネコンが儲けたりテレビが売れることではないのだ。オリンピックが来なければ自然環境が保てないようでは所詮その国は駄目である。オリンピックとは関係なく国として都市としてやらなければならないことをオリンピックにかこつけて一部の人が儲けようとしている。東京は大会に電気バス、ハイブリッド自動車を多用して環境オリンピックを目指すとは「太陽の季節」を書いた作家の弁、ヨット、カーレースなどを好むこの人が環境を言って欲しくなかった。草の生えている埋立地を国に売りつけて箱物も作って下さいと言うことだ。 電気バスを使えば会場のCO2は減るだろう、しかし電気を起こす場所でのCO2は確実に増える。石油→動力への変換に対し、石油→電気→動力の変換は変換効率を80%としてもそれぞれ0.8 と 0.8X0.8=0.64どちらがより多く石油を燃やすかは明らかだ。太陽がさんさんと輝く8月の日中のみの大会にし、雨天・曇天中止にし、多くの電力を太陽電池に頼るとしよう。この場合電池の生産にどのくらいのCO2を排出するかを明示してからでないと議論にならない。 公共事業で 景気が良くなるということはお金の動きが激しくなることである。待ってくれ、そのお金は税金だ、税金は誰が払うのだろう。つまりは貧民からお金を集めて金庫を大きくし、その流れを司っている人たちがつまみ食いをする構図が見えてくる。経済音痴の誤解であることを願う。 私は費用(エネルギーコスト)がかかるからオリンピックは意味がないなどと言う気は毛頭ない。昨夜のラジオでコメンテーターが言っていた「イラクを遠い国と思う場合とイラクに友人が一人居る場合ではイラク戦争への関心度はまるで違う、オリンピックの効用はこの国際交流にある。選手村で普段は接しえない遠い国の選手が知り合い、交流するだけで世界平和への貢献は大きい」。実に説得力のあるコメントである。知人を得るまでに至らなくとも旅先で交流し、その国を実感するだけでもテレビの伝えるその訪問国の動静が気にかかるのは私だけではあるまい。「友愛」を掲げ、「鳩」印の首相が言及しなかったのは残念だし知事にもその認識は更々ないと嘆かわしいことである。 こんなことを考えながら過ごした今週であった。
2009.10.03
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