全31件 (31件中 1-31件目)
1
初めての株主総会経済バブル期・その崩壊期と私には殆ど関係のない世界の出来事であったましてや新聞の株価欄に目をやることも無かったし、今も無い一回しかない人生、もっと重要なことがあるし、もっとやりたいこともある 時間に制約されずに旅行を楽しもうと定年を少し残して67歳で退職した国内旅行対策としてJRジパングクラブに入会してJR3割割引を確保したそして国内5割割引の優待券がもらえると聞き及んで退職金の一部を割いてANA,JALの株を購入した。その後株主総会の案内もずっと無視してきたが、考えてみれば株主総会がどんなものかも知らない。そこで今年ふと思い立って北の丸公園散歩もかねて北の丸公園武道館でのJAL総会に出席してみた。 結構面白かったので感想の一部を記録しておく。知人の話によると総会には色々お土産やら食事などが付くこともあるらしいが、大損失計上のJALではエコバッグとお茶が一本付くだけ武道館のアリーナ席はほぼ満席、2,3階席もかなりの入りである会場を見渡すと出席者は大別して私を含む定年上りの老人競馬場帰りのような人たち、へそくりを投資したような中高年婦人中堅管理職階級、スーツを着込んだ30台の男女などなど ひな壇には20名近い役員席その後ろには事務局 社長の事業報告、監査報告など淡々と進み、質疑の時間大赤字計上とあって原因究明、責任追及、経営責任の取り方、提言と続く。その口調は激しく罵倒するものあり、優しく諭すものあり希望を述べるものあり、励ますものありバラエティーに富んでいた 数多い挙手に発言希望者から各ゾーンに渡って議長(社長)が指名してゆく。 被指名者が多岐にわたるのはシナリオがあるのではと思わせるくらい。発言の間、常に野次が絶えないが野次は経営責任をなじるものが多い。かっては総会屋と言う右翼団体がいて批判的発言者を威嚇し、しゃんしゃん総会が行われていた(今もある程度は有るのだろう)。総会屋は金が取れないと逆に会を混乱させていた野次のほぼ全てが会場を戦陣に例えると右翼からのものであるある程度経営陣を野次って株主の不満を和らげているのではないかと疑ってしまう。なぜ会場全体から野次が無いのだろう、右翼からだけと言うのが少し気にかかる。 一人会場前方に座り、大声で経営陣を罵倒し続ける人物がいた なかなか指名されずにいると立ち上がって1万円札を数枚ばら撒いた係員が数名駆け寄り制止すると退場一歩手前で着席する議長は「静粛に願います」「警告を発します」「退場いただくことがあります」を何回叫んだか数え切れない。最後に指名されると数十枚のデータを手にして、此処がけしからん、之についてはXX取締りの責任を追及する等ととうとうと話す。議長が制止し係りが数名駆け寄って退場を促すと 之がまた素直に退場した。なんだか安っぽい芝居みたいだったがシナリオが有ったのかどうかは知らない。それにしても此処まで社長を愚弄する発言(社長名を漫画の粗末な主人公に置き換えて連呼)がシナリオに書かれるとも思えない。赤字決済、普通株主へは無配当、優待株主へは4%配当に対する不満が会場を支配(拍手)したが、優待への配当は契約事項であることを告げられて皆しゅんとする。 この質疑応答が2時間弱、議長は20名近い役員席や事務局から即座に当該質問への回答者を指名する。この緊張状態の中での判断力はさすがである。 私としてはべつに株で儲けようとした訳でもないので値下がりも実感していない。まあ死ぬ前には元値に戻って欲しいものであるもうすぐ73歳、生まれた初めての株主総会出席記である
2009.06.29
コメント(2)

中国 成都・楽山への旅 (4) 武侯祠武侯祠とは元々道教の霊廟を指すようであるが、成都のそれが最も有名らしい。ここでは現在蜀の皇帝劉備玄徳とその軍師諸葛享(孔明)の合同廟を指している。 下の漢昭烈は劉備玄徳を指す。したがってこれは孔明の主君劉備の廟である。 ここには三国志の主要な登場人物の像が飾られているが全てガラスケースのなかでこの日の陽の具合でガラス反射がひどく写真に納めることは出来なかった。劉備の像も首から下はガラスへの外景反射でよく見えない。 お馴染み扇を持った孔明、この孔明を軍師に抱えるため劉備が三顧の礼を尽くしたことは余りにも有名。孔明さんも下半身はハレーション 私もこの半年で映画、赤壁 レッドクリフ I, II、 を見たが孔明に扮した日本人俳優はこんなにぶくぶくしてなくて格好よかった、テレビアニメの孔明もすらりとした切れ者であった。上の孔明は寓たらにしか見えない さて、劉備と孔明は本来王と臣下の間柄であり、それぞれの墓は元々別のところにあったが孔明の人気が高く、後年一箇所に纏められた由である考えてみれば王でもない孔明の奉るのに廟は無いだろう中国では劉備は蜀の国を滅ぼさせた寓帝の烙印を押されていたようだ それはさて置き、ここには有名な「出師表(すいしのひょう)」の石版があるこれは諸葛孔明が劉備没後に魏を討つため出陣するに当たって、劉備の息子劉禅に奉った書で、前後2書の内の前である。なお「後出師表」は孔明の作ではないと言われているそうである出師とは軍隊を出陣することで表は公にする文書のようであるそして師とは軍隊のことで2500人の軍団を「一師」と言う(大辞林) 孔明はここで先王劉備の遺徳を称え、劉禅に王としての心構えを説いている孔明の心情と名文に感動した武人・文人の岳飛が一気に揮毫したのがここに飾られたものである。 岳飛は感情のひた走るままに筆を運び、その書体が楷書、行書、草書の全ての書体を含み、それが不連続的にではなく連続的に変化する名筆であると、われ等のガイド陳氏も熱弁を振るった。この人はなかなか優秀なガイドで天然自然の風景、歴史、文芸と幅広いジャンルに通じていたそして土葬の時代白帝城で病死した劉備の遺体がここまで運んでこられるはずも無く、したがって此処には劉備の遺髪や遺品が葬られているはずと力説していた ここの建物を出ようとしているとき売店前のホールでは宮廷音楽らしき演奏が始まったが。竜宮城の乙姫にも似た衣装と音色に関心はあったがそこは個人旅行でない悲しさ、ズームでパチリに留めた そして隣には劉備の陵である「漢昭烈皇帝之陵」の文字塀の中に入り一周80mと言う円墓の周りを巡ったがブッシュに覆われて何も見えなかったのは残念である 昨年長江下りの船旅でで三国志の世界に浸った経験があり、劉備が亡くなった白帝城も訪ねている。そんな訳で今訪れた成都が蜀の都であり劉備玄徳、諸葛孔明、張飛、関羽などの諸侯が躍動した地であることに深い感慨をもようした次第 長々と中国旅行のブログを綴ってきたが写真アルバムの今月のアップロード容量(1G/月)がオーバーしてしまった。もうそろそろ話も尽きたので一連の旅行記を終えることにする。
2009.06.24
コメント(4)

成都・楽山への旅 杜甫草堂 唐の大詩人杜甫は科挙に失敗し貧しい生活の中家族を連れて成都にやって来て草庵草庵に4,5年住み、この間約240篇の詩作を発表している。その跡が現在の草堂である草堂の中には多くの詩文や詩句が刻まれているが漢文素養のない私には思い出せるものが殆どないこの草堂は昨年の四川大地震で大きな被害をこうむったらしい地面に亀裂が入り土塀は崩れたそうである。だが今訪れてみると被害の跡は殆ど見られない。その代わり比較的新しい版籍や造形物が多かった気がする。この迅速さは社会主義国の公営施設でなければ出来ない芸当だろう さて、草堂の入り口、よく分からないが 棟上の額は新しく見えるさて無粋人の私はここに多く見られる杜甫の像、人物画などを眺めた後世の人が杜甫の作った詩作の印象を基に製作したものは時代や詩作を読む心情によって杜甫の顔も多様性を帯びている 中国の名所訪問で楽しみの一つは瓦模様とその使い方であるしたの瓦絵の動物の表情が変っていて面白いし、瓦を積み上げて作った上部の構造も特異である 売店前に飾ってあった木の根っこ、水中で渦を巻きながら飛び上がった瞬間のシンクロナイズドスイマーに見える。大腿部とふくらはぎ、足が躍動している。観客の布袋さんも楽しそうである 草堂の中に「華径」読める門構えのある土塀と竹やぶの小道がある 詩作、思索の散歩道と言ったところか。うっそうとした竹林からは常に古い枯れ葉が舞い降りてくる。紅いベンガラの土塀と濃い緑の竹林竹箒のすれる音。 考えてみれば唐の時代と言えば日本では奈良時代である。中国4千年とは言え、名石、詩作資料などは本物としても跡のものは殆ど復元品である。此処の位置付けも史跡博物館と言うのが正しい
2009.06.24
コメント(0)

中国 成都・楽山への旅 (2) パンダ研究所 楽山大仏を訪れた翌日一行はもう一つの世界遺産である我眉山へ私はまだ体調が完全でないので一日休養日と決め込んで部屋で四川省の分厚い写真集にゆっくりと見入って過した負け惜しみであるが、それはそれで充実した時間であったその翌日旅は観光最終日となりまず向かったのが 大熊猫繁育基地・研究所 要するにジアイアントパンダ飼育所。小熊猫(レッサーパンダ)はやはり四川省の動物であるがここでは飼育していないらしい 子供がまだ小さい頃40年近く前に確かマンモスの骨格を見に上野の科学博物館に連れて行ったがその時すでに剥製のレッサーパンダをみた覚えがある。それ以来子供もあまりパンダには興味を示さず私もまだ見たことがなかった。 入り口から電動カートで行く道は竹藪があり野生パンダが出てきそうだがガイド氏によるとパンだの好物はこの竹ではないそうである パンダは年齢によって幼稚舎、小学校舎、などと分かれて飼育されていた小学校ではそろそろ給食の時間らしくお姉さん先生が食事だと怒鳴っているがまだ躾けてられてない小学生はデレー 一匹ずつ捕まえてはあやすようにして食堂へ、棒でつつく怖い先生も 「んんーもうだらしがないんだからー、君いつの間にか重くなったねー」 「あんたたちはもう大人なんだからここに置いといた竹を自分で食べなさい」 「縫いぐるみのパンダは白くて綺麗だけど大人になったばかりでも あんた達もう大分汚れてきたわね」 「あーもうお腹一杯だ、ねえ何して遊ぶ ? シラネー 勝手にしろよ」 「この竹お酒入りかなー、なんだか酔っ払ってきたよ) そっとマイクを近づけてみるとこんな会話が録音できました
2009.06.23
コメント(0)

中国 成都・楽山への旅 楽山大仏今回の中国への旅は九塞溝と黄龍が目的であったため以後訪れた楽山や成都の市内観光はいわばつけ足しであるしかしそれはそれで望外の発見もあり無駄ではなかった黄龍を朝早くたち九塞溝・黄龍空港から成都を経て楽山にお昼前に着いた楽山嘉州賓館ホテル昼食、帰って調べてみるとこのホテルは楽山大仏の川向いに位置しており、ここから大仏を望見しなかったのは残念であるさて楽山市のある場所は長江の支流岷江に大渡河と青衣江が合流するところで、岷江の恵みを受ける一方三つの河が合流するここでは洪水による被害や船の難破が絶えなかった僧 開通はここに悪霊が住むと考え、これを鎮めるためそこに仏像を建立することとし713年開始、岩山を穿ち高さ71mの世界最大の弥勒像が完成したのは803年 三代目の僧 違(しんにゅうのない字)皐によってである。ここでのポイントは山から削り取った岩を河に投入して流を制御した治水工事であったこと、また洪水で疲弊した農民へ労賃を支払う公共事業であったことである海通は募金した資金を支配者に奪われそうになり、渡さなければ目をくりぬくと脅され、その場で自ら片目をくり抜いたと言う さて仏像全体を拝む為には舟に乗るしかない。舟は対岸の竜宮城のような城門と城壁の名残のような景色をあとに数百メートル下行し大佛に近ずく、右の護衛仏が見えてきたと思ったら船は停止して仏像正面の撮影スポットをなかなか見せない 船前部を船会社の写真屋が陣取りロープを張って客の写真撮影その位置からは客と像が写るらしい。だが撮影タイムが終わると舟は進み今度は乗客が自由に像正面から撮影できる このことはガイドの陳さんからは注意されていたが、これが社会主義国かとそのコマーシャリズムに驚きさらに下って角度を変えると左の守護仏がしっかり守っている 像の右側窪みを見ると多くの人が絶壁階段を降りている 舟は今度対岸上流を目指して移動、頂上に仏塔の見えるところが大仏像のある位置であるがこの山群全体を見ると寝姿の涅槃像に見えるとのこと。右の小島は眉鼻口を備えた顔、次の島は上半身腰がくびれ、大仏のある島が下半身との説。何かとんがったものがある等言うのは不敬の至り。現場では今ひとつピンと来なかったがこの写真で見ると確かに東南アジアでよく見かける涅槃像に似ている 我が一団が次に目指したのは大仏を近じかと見る山上への歩道ここで私は黄龍での寒さがこたえて気分悪くおなかも柔らかいのでこの山登りをリタイアー。遊覧船の乗り場近くの木陰のベンチで岷江の流れとその合流点、前述した人口堰の中洲、対岸の楽山の町など望見しながら悠久の歴史に思いをはせて保養と感慨に耽った高齢の方々も揃って山登りをしているのにわが身を恥じたが一方、旅先ではいつもこうした時間を持つことを心がけてきたのであると、これは弱者の強がりにしか聞こえないだろう
2009.06.23
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (18) 黄龍の石灰棚池 その2下の写真は公園入り口の黄龍鳥瞰図でガイドと思わしき人が説明をしている(前後するがこの写真は最後に撮った)我々は2時半ごろ散策を終えたがまだこれからの人もいるみたい 話は戻るが石灰棚を下ってくるにしたがってガスっていた空が少しだけ明るくなり山肌もはっきりしてきた。しかし我々の黄龍はもう終わりを告げようとしている 黄龍中寺を過ぎると見事な苔の庭に、この高度ではまだ芽生えていない落葉樹の林が続くややあってボッカに出会った。凄まじい大きさの運び荷である休憩時、杖のようなT字型の棒を荷に当てて支えている。カメラを向けて OK? 答えは笑顔 OK 我々も食んでいた日本の飴玉を2,3個手渡し3人でクチャクチャ今我々が歩んでいる道はかつて彼らが人を乗せた篭を担いで登った道なのだ。今は人を食料に取り替えての仕事のようだこのような光景は日本でも1970年代位までは普通であったその時代、山小屋の飲み物はバカ高いものであった。そう言えば低い山では女性のボッカが沢山いたことを思い出すボッカは何語だろうかと電子辞書に聞いてみた、広辞苑曰く 「歩荷」である、堂々たる日本語ではないか 黄龍ではロープウエイが出来る前、人を乗せて篭で約一時間半黄龍を上り200-300元の記事がインターネット上に散見する。当時とは物価も為替レートも異なると思うが3000-5000円である一度乗って見たかった気がしないでもない。そう言えば一昨年訪れた白帝城でも数百段の階段を篭で登っている人を多く見かけた 日本でもかって讃岐の金毘羅さんを篭で登っていたのを思い出す さらにやや下るとカウボーイハット、ポンチョ風ケープ、ジーンズのお姉さん、遠慮がちにズームでパチリ、失礼失礼 ! 多分これが最後の滝だろ、洗身洞瀑布と思われる。苔むした岩肌三段の曝とそれに続く急流のカスケード。見納めだと思うと感無料 そしてこれこそ最後の棚池、迎賓彩池、我々はロープウエイを利用したが徒歩登りをする場合最初に迎えてくれるのがこの歓迎の彩池である ここから公園ゲートまではすぐ、冒頭に載せた鳥瞰図前にはまだ人だかりが有った再見 黄龍 (もう来られないだろうなと一人語ちる)
2009.06.22
コメント(1)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (17) 黄龍の石灰棚池群 その1他の人は皆五彩池を一周して降りてゆくがそこは執念深い我ら今度は逆周りで黄龍古寺に戻り、そこからさらに黄龍中寺へと下ったここは上の古寺とは違って廻廊がありお経を刻んだ魔仁車がずらりと並んでいる。酔狂な我々一つ一つの車に手を懸け回してまわった 中寺の横にパークレンジャーの建物がありそこの売店スタンドでカップココアを買った。カップラーメンの麺の変わりにココアが入っていてお湯を注いでくれた。そしてあさホテルで作ってくれたお弁当を頂く饅頭、鳥のから揚げ、果物、漬物のパックなどが入っていたここでのデザートは山景色、この日も残念ながら雪宝頂(5588)は雲の中、それでも3500mのこの地から見ると手前の雪峰も凄い 昨日の濃縮空気のボンベ(ボンベはドイツ語由来の日本語で外国ボンベと言うと文字どうり爆弾と誤解される)を使い切った 昼食後しばらくブッシュの木道を行く、板には小さな凸凹をつけてあり雨や氷にも滑り難くされている。そしていたるところに下のゴミ箱かなりの人数の清掃人がビニル袋とごみ摘みを持って巡回しているそんな訳で中国では考えられないがチリ一つない観光客を観察していたが、飴の包みを捨てるのを一回、そして寒い中、手鼻をかむ人をひとを一回見かけただけである国際観光化がこの国の公衆エチケットを向上させるとしたらそれは結構林の歩道と言っても下は一面の湿地または浅い水溜り、多くの高山植物を目にしカメラに納めた。このあたりまだ木々に芽吹きは無い 程なくまた棚池が始まった、上部に比べて池のサイズが大きくなる 黄龍の中段にかかると木々の芽吹きが始まっていた
2009.06.22
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (16) 黄龍五彩池 黄龍古寺の裏側に回りこむとなんと言う景色だろう私の筆力ではどうにも手におえないほどの美しさだ白い池堤、あくまでも透き通った水色の水、青い池水 近づいて見ると石灰池には所々島があり土の見当たらない石灰島に木が生えている。水深によって水の色も微妙に変化する 木に石灰が付着し段々と島に発展する様子が見て取れる この現象は石灰石 CaCO3 が水に溶けた二酸化炭素と反応してCa(HCO3)2 となって水に溶け出し、逆反応でまた石灰石となって沈殿するもので、石灰岩が溶け出して鍾乳洞となり、また沈殿して鍾乳石や石筍が出来るのと同じ原理であるこうして石灰島や石灰の池堤が生成する、その際沈殿は何かにすがり付く性質が有るので小枝の上に白い石灰岩が生成する ここでは池堤は時と共に黄色を帯びて「黄龍」となるが、これは多分微量の鉄分が酸化されて発生するのだろうまさに龍の鱗に見える 浅いところには緑色の藻類が発生して池に緑や黄色を演出している この五彩池とその周りの水中林を通して見ると古寺もさらに冴えて見える 歩を進めて寺の奥堂を手前にして展望台から池の横側から眺めるとまたすこし違った印象を受ける いずれにしても見飽きない光景である 池に近づいて見とそこには出来たての小さな石灰島に新しい生明が根付き始めていた そして古寺の裏側には小さな仏塔が設営されていたここが神聖な祈りの場であることを示している 海に面した断崖の上に建つ寺院を彷彿させる配置であるこの写真からはモンサンミシェルにも想いが馳せる
2009.06.21
コメント(2)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (15) 黄龍入り口から黄龍古寺へ 電気毛布で何とか睡眠を確保でき翌日は今回の旅行のハイライト黄龍の散策である。入り口の石標にはUNESCOの文字も見えるホテルから公園入り口までは2,3分そこから少しシャトルバスに乗ってロープウエイ乗り場へ向かう、約3500mの山上駅を降りると小雪がちらつき、残念ながらこの日も下の二つの嶺の谷間に見えるであろう雪宝頂(5588m)は霧の中木道を小一時間ほど歩くと見晴らしステージがある。そこに最近の雪で作った雪坊主(少なくとも私には達磨には見えなかった -失礼達磨さんも禅坊主であった)なかなか目鼻立ちがはっきりしており、帽子を頂いた僧に見えた そのステージからは今日歩く黄龍の下部が見渡せたスケールの大きな石灰棚池とそこを満たした蒼い水空から見ると(誰が見たのか?)蒼い鱗の黄色い龍が空に昇っているように見えることから黄龍の名が付いたと聞くが、納得であるこのような看板を見ながら樹間をさらに進むと黄龍中寺に着きさらに少し登ると黄龍古寺に着く ここまではそんなに驚くほどの景色でもなかったが、この寺の裏側に回ったとき、アーッ という声を出さざるを得ない光景に出会った
2009.06.21
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (14) 九塞溝から黄龍へ九塞溝の観光を全て終わり黄龍へ移動する日が来た。途中で甘海子風景区という湿地・湖沼地帯のボードウオークを楽しんだここの浅い湖には一面に葦や木賊、黄色い水中花などがある 前に記したが木賊の幼生は節々に付いた緑の針がだんだん取れて硬い成草になる。昔はこの木賊を使って木工製品などを磨いていた 前に記録した標高3000mに有る川主寺の町で昼食をとり、いよいよ山登りが始まった。中国ではガソリンスタンドは「加油処」であるが山登りする車はその前に必ず「加水処」に寄って、タンクに水を満たす確認はしていないが下り道でブレーキが焼けないように水で冷やすようである。給水所を過ぎると程なく山路となる。もう道路と同じ高さにも雪がある 給水所では酸素ボンベも売っており我らがツアーにも一本ずつ配られた 俗に酸素ボンベと言っているが純粋の酸素のはずがない。そんなもの吸ったらかえって害になるだろう。要するに酸素濃度をあげた空気なのだろう。要するに質の良い空気を買ったのである。 上部の白いところを口と鼻に当てプレスすると奥の小さな穴からシューッと出てくる。色々なエヤゾル製品と同じだが缶が大きいだけに共鳴して派手な音が出る。音も高山病に効く気がするから不思議バスの中であちらでもシュー(ガー)、こちらでもシュー(ガー)あたりは益々高山の気配。そうここはもう4000mの世界なのだややあって小雪ちらつき強風の中バスは「雪山梁」に止まったここは5585mの「雪宝頂」のふもとの峠である。気温は0℃近い残念ながら雪のため雪宝頂は見えないが、手前の石には4007mの文字がみえる。ガイド氏によると最近の測量で実際には4000mを少し切るようである。しかし富士山よりはるかに高い私の最高記録だろう(以前ロッキー国立公園で4000m前後まで行ったことがあるが正確な標高は覚えていない) 登りは時間がかかったが下りは早く黄龍のホテルに着いたホテルと入ってもここは標高3200m名前も「黄龍山荘」となっている レセプションの人たちもこの寒さの中皆厚手の長いコートを着ている16名が一編にチェックインしてヒーターにスイッチを入れるとたちまち停電である。従業員が制御盤をいじるがまたすぐに切れる持ってきたものをみな着込み布団にもぐりこむ。ややあって通電したが私の部屋のヒーターは壊れている。フロントに電話するも「You have a wrong number」仕方なくフロントに出向くも日本語も英悟も通じない私は紙に「電熱機不働」と書きやっと理解された。係りは来室して別のコンセントに差し込んだ。そのときだけOKでも一度サーモスタットが切れると二度とOnにならない。結局3度ほど足を運んで新しい温風器に取り変えさせたがこの間私の体は冷え切った。電気毛布は何とか働いてくれたので何とか眠ることが出来た次第風呂もお湯の量が保障出来ないとあって、立派な木製の湯船がもったいないが足だけ暖めて済ませた
2009.06.21
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (13) チベット族の村を訪ねて九塞溝探訪2日目の昼食後チベット族の村、則査珪塞(村)の村長さん宅を訪ねた。道路わきのこの村里は一本の観光道路の開通と観光化によって伝統的生活からコペルニクス的転換をしている様である 村長さんと言うこの人の挨拶「本当に貧しかった私達ですが観光化のお陰で豊になりました」と言いながら「今日は私達の家をお見せします」 息子(右側)は大学で日本語を勉強しておりガイドしてくれたが十分通用この村長宅はみやげ物店にもなっており、ヤクの角製品工場でもあった客間ではヤクのバターを入れた紅茶のバター茶を振舞ってくれた焼いた小麦粉の粉や砂糖を混ぜた物で半世紀位前までは日本の農村でも似た様なものはあった。バターの匂いは余り感じ無い壁の飾戸棚がカラフルで お茶を入れる娘さんもカラフルな衣装 裏の斜面には 仏塔と幟(タルチョ)の小さな祠前ブログ五彩池、の項でも記したがこれらの幟は5色からなり幟や旗と見ていたものは実はお経でぎっしり埋まっているこの地方の「五彩」好みは仏教思想に基ずくことが伺える 五彩は青、赤、白、緑、黄でそれぞれ空、日、雲、水、大地を表し、彼らの日常生活に大切な要素を示している 経文は漢字ではなくチベット語で書かれてお、富や健康に関する願いや菩薩の言が記されていると言う 村々に無数に立てられたタルチョにこんなにぎっしりと願いが書き込まれているとは知らなかった。これらのタルチョはどう見てもナイロンに見えた風雨に強く風でぼろぼろになったのも有ったが、昔は綿製ですぐに風化したことだろう。印刷した文字のサイズも小さくなりそれだけ多くの願い事が記され、観光の商業化に伴って彼らの願いも膨らんでゆくことだろう 高地の風は冷たく厳しい、生き物を含めてものは全て風化によって消滅するのだろう。沙漠の砂の役目をここでは風が果しているこの旅で漢族の女性にあなた方とチベット族の見分け方はと訪ねるとチベット族の女性は頬が赤いと教えてくれた。頬の風化か、そう言えば日本でもかって田舎娘の頬は赤かった
2009.06.20
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (12) 火花海の宝石この日午後の散策は樹正群海から始まって双竜海、臥龍海と歩き火花海に至る1.5時間の快適なボードウォークであった湖畔の木陰道は若葉を透かして目に飛び込む移ろう水色が楽しい樹間は時に開け、時に隠れ、水中には藻が生えたり、新しい倒木や石化しかけた倒木、小さな魚の群れなどが散策に変化をもたらしてくれる火花海に差し掛かる前、ガイドの陳さんが「今の時間光の具合もいいのでいいものが見られる、少し急いでください」と我々を促す「あの小さな滝の水面を見てください、宝石みたいでしょう」よく見るとサファイアがそこにあった次の流れに移ると大きなサファイアが横たわっているそしてさらに次の流れを見るとサファイアが溶けて流れ出してきたああ!大きな宝石が落下しそうだ、落ちたら拾って帰りたい !!なんだか池(ここでは海)全体が宝石に見えなくも無いそしてついに真綿にくるまれたサファイアが滝のように落ちているなんだか贅沢な夢を見ているようであったそして盆栽を取り集めたような盆景灘を過ぎてこの日の九塞溝散策は終わりを告げた
2009.06.20
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (11) 樹正群海から双龍海、火花海へ 二日目午後の九塞溝散策は昨日の散策終点 樹正群海から始まるまず展望台から見ると群海の間が林に覆われていて様子が分からないこの湖畔を歩くわけでその様子が分かるだろう湖畔を歩いて分かったことは湖と湖を間は湖の幅の水中林で時に瀬となり、時に灘となり、時に小さな滝となっている 湖の終わり 灘の始まり 次の湖の始まり 時には浅い淵となり、木賊の幼生が美しい模様を作っている そして湖面はあくまでも蒼く木々の若葉は初々しい 散策道は全て歩き易いボードウオークで気持ちよく歩ける この湖畔・川岸の散策は木漏れ日を浴びて実に気持ちが良かった
2009.06.19
コメント(1)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (10) 五彩池長海の後九塞溝での目玉と言われる五彩池を訪れたバス道を後に林間を進むと赤樺林に入った。昨日も何度か目にしたがここは標高が高い為ためまだ新芽が出たばかりで青葉以前である何度見てもこの木肌は美しい そしてやや進むと蒼いものが目に飛び込んだ それにしても石標の英訳は味気なさ過ぎる。せめてChanging color位にならなかったのだろうか。だがふと思うとこの五彩という語はチベット族にとって特別な意味を持つのだろう。常に五彩という字が溢れている 今は渇水期で写真を見て分かるように池が浅い。 湖淵の石ころも湖底に沈むと推進が増し色の変化を起こすのだろう 緑藻からも分かるように水中の植生も重要な要素だ 増水期にはボードウオークの下も水中となる。 いまそこは高山植物が花盛りである。 増水時これらの花も水中花となり湖底を彩ることだろう 期待が大きかっただけに失望も大きかったが、高度さにして1000m以上も範囲があり、季節もありで前地点で最高と言うこともありえない
2009.06.19
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (9) 長海次に訪れたのは長海で九塞溝のY字の左トップの位置にある九塞溝公園の入り口の標高が1990mそしてここ長海は3103mそしてこの公園で最大の海でもあるバス道から木道の階段を下ると木立の向こうにあったのは確かに大きな海、見事な蒼さ視線をずらして湖畔の稜線の窪みを見ると雪を頂いた岩峰湖面が3100mもあるのだから相当の高山に違いないそれにしても写真に写った手前の枯れ木は目前のものであるこの高度でも高木があることに驚く。さすがに広葉樹は少なく針葉樹が中心となっている そして今度は湖畔の木道階段を登ると広いステージバルコニーに出るそこは人人人、漢字では人の字をお結びの頂点に配して日本語の大衆の衆に当たるそうだが、まさにその衆であるそういう所には必ず貸衣装屋がいる。手に衣装を持っているのは業者で着ているのは皆写真を撮る客であるこのステージからは下の写真の光景が広がっているのに喧騒が景色を台無しにしている。とは言え彼らにも生活が掛かっているそしてそう言う所には綺麗なトイレが置いてある。これらのトイレ勿論水洗ではない。綺麗な便座からブルーのビニル袋が垂れており一人が用を足すと袋が閉じられて下に下がる仕掛けで他人のものは見えず匂いも少いそうだ(私は使わなかったので人の話で要領を得ない)最後にこの日の現地ガイドは昨日のとは違い美人でかつ愛嬌がある写真撮影にも喜んで応じてくれる(因みに魂を抜かれるということでチベット族は余り写真を好まないそうである)
2009.06.18
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (8) 諾日朗(ルリラン)瀑布二日めの九塞溝散策は昨日の終わりの地点から始まったもう一度見晴らし点から樹正群海の全景を楽しんだ見飽きぬ景色を再度カメラに納め諾日朗瀑布を目指して歩いた今日も穏やかな日和で湖面の映しが冴えている昨日見てきた珍珠瀑布に比べると豪快さにはかけるが優美さにおいてはこちらが優れているかもしれない。事実絵葉書や写真集ではこちらの写真が多用される。このブログシリーズの最初に公園入り口で見た大きなディスプレイはこの滝である石碑にはこの滝を見た感動が刻まれているような気がするが、私の漢文力では真意は読み取れない。残念であるが見事な石紋の名石に惚れ込んでこの写真を残す
2009.06.18
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (7) 老虎海から樹正塞湖畔・せせらぎの散策はさらに続き老虎海から樹正塞と言うチベット族の村まで歩いた。この村は九塞溝の9つの村の中で観光客に解放された(と言うより観光客で生活している3つの村の一つである)村である 樹正瀑布 海子をつなぐ流れは浅く広い瀬、水中の森に遮られ岩にぶつかる灘段差が繰り返されるカスケード滝、滝つぼ目がけて落下する滝などいろいろ木賊(とくさ)の若木が水中から立ち上がり、花を咲かせている花を見たのは始めてであったそして樹正塞の村の旗群が見えてきたところでこの日の散策は終わりチベット族の村には必ず家よりもはるかに高くおびただしい数の旗が立てられているのですぐ分かる。
2009.06.18
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (6) 犀牛海 九塞溝には100以上の湖や渓流があり、どこが一番かというと個人の好みや季節、時間、天気などによって異なる今回の九塞溝探訪で私が気に入ったのは犀牛海である高僧が犀に乗ってこの地を訪れた時余りの絶景に落犀した逸話からの命名とか この日の犀牛海は水面と言うよりは鏡そのものである 色調も完璧であった。 湖面に映った新緑の森、落葉樹のそれはひときわ美しい新緑の薄葉を通して映る湖面はあくまでも蒼い 湖が途切れると瀬には水車を利用した魔仁車が回っているチベットの寺には必ず有るものであるが、お経を書いた円筒は人の手で廻して功徳が生じるものではなかろうか 前回完全に管理運営されている様子を書いたが、トイレには徳に力を入れていて、随所にきれいなトイレが設置されているが、下は何とお思いか?移動トイレである、「汽車厠WC」は自動車公衆トイレの意私はこんなもの初めて目にした 体験使用してこなかったのが悔やまれる
2009.06.17
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (5) 珍珠灘・瀑布午後の九塞溝探訪は珍珠灘の木道散策から始まった岩礁の浅瀬に取り付いた木々、この水しぶきを真珠(中国語で珍珠)に例えてこう呼ばれる奥入瀬を二桁くらい誇張したもの、この急流に取り付いた種/幼苗の生命力には驚くばかりこの川を渡ったり河畔を下る楽な木道は黙道といかない。大声の人もおとなしい人もみな感動の言葉を口にしている IMG_0050 posted by (C)taji0811P1070779 posted by (C)taji0811IMG_0051 posted by (C)taji0811P1070785 posted by (C)taji0811この瀬音を友に木道を進むと豪快な滝になる珍珠瀑布である 滝上の広い瀬を木道で横切り滝をま横から見る階段を下る P1070792 posted by (C)taji0811そして水飛沫を浴びながら正面を通り反対側に回ると、また違った滝の形が見えてくる IMG_0066 posted by (C)taji0811P1070810 posted by (C)taji0811渓流歩きの途中赤樺の木に出会う。以後多く見かけたが最初の出合は感動的であった。南国育ちの私が初めて信州で白樺の木に出会った時の感動が甦ってきた P1070816 posted by (C)taji0811 話は変るが中国人ツアーにもチベット衣装の現地ガイドがついている、外国人ツアーにも必ずついて来る。我々のバスにも添乗員、中国の旅行社ガイド、九塞溝ガイドと賑わしい。だが現地ガイドは片言の英悟を話す人もいるが原則中国語オンリー写真は中国人グループのガイドであるが、この日の我々に付いたガイドはドライバーとの会話以外一言も口にはしなかったし無愛想な存在であった さらに主だったポイントには黒いスーツ姿の男性が張り付いている我がガイド氏に聞くと彼らは公園管理人とのことである 以前のブログでここの公園は完全に整備運営されていると書いたが彼らが管理しているのは景色だけではなく、景色の中の人間も含まれていそうである。もう一つの好意的見解は社会事業としての公園運営で地元での失業対策事業であろう。実際四川省は中国東部沿海域への出稼ぎ労働者の供給源であることは四川大地震に関連してよく報道されたことを思い出す。みやげ物売りよりは高級な観光業の一種なのかもしれない。例によってひねくれ日本人観光客の独り言である
2009.06.17
コメント(1)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (4) 五花海・パンダ海バス停脇の五花海湖畔に出ると人で溢れており、派手なチベット服を手にした貸衣装やさんがおり、多くの中国人がそれを借りて写真に納まっている。漢民族にとってチベット衣装は随分派手で変ったものらしい P1070739 posted by (C)taji0811 人溜まりの喧騒を過ぎると静かな湖畔の散歩道、澄み切った湖水の周りを歩き易いボードウオークが続いている P1070740 posted by (C)taji0811P1070746 posted by (C)taji0811続いて訪れたのは熊猫(パンダ)海 、パンダが水を飲みに来るのでこの名がついたらしいかジャイアントパンダ(大熊猫)かレッサーパンダ(小熊猫)は聞き忘れた。日本人にはパンダ=ジアイアントパンダであるが両者の生息域は似ており、竹を好む点でも似ている。まあ深く詮索することはよそう 続いてやや葦原のひろい箭竹海、私は見ていないが中国映画Heroの舞台だそうである 昼食に立ち寄った諾日朗賓館での巨大な規模のカフェテリアの一階ホールはこれまた巨大な規模のバザールがありお土産物からメモリーカードまである このバザールから駐車場までの坂道脇でミミズのようなものを売っているなんだなんだと覗き込んでいると誰かが「冬虫夏草」だと教えてくれた名前だけは聞いたことがあるがあの幻の漢方薬と言われるものだったオバサンは取ってきたばかりの物をアピールすべく穂先の部分の泥を落としてきれいにしていた。添乗員は簡単な中国語表を配布してくれていたが、チベット族のオバサンに中国語の標準語が通じるとも思えず、私が今回の旅で一回だけ使った言葉「How much」、オバサンは電卓を取り出して大きい方を指差して50、小さい方を30と入力した。約800円、500円くらい。オバサンの電卓にも驚いた。初夏のこの頃今年の初物なのであろう。今思えば安かった私の珍品コレクションの一つとして思い切って買ってこなかったことを今は悔いている。写真を撮らせてもらったのがせめてもの幸い ** 「冬虫夏草」 土中の昆虫の幼虫に寄生してその子実体を生じる菌類(きのこ類)。寄生された虫は冬は生きているが、後に寄生菌が虫を殺し、初夏のころから棒状の子実体を形成するのがその名の由来。古来中国では蛾の幼虫に菌が寄生したものを乾燥して生薬として「冬虫夏草」と称した (広辞苑)
2009.06.16
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (3) 鏡海・五花海いよいよ念願の九塞溝の 訪問であるここでも入場者は顔写真を撮られる。大きなパネルには見事な滝の写真がありいやが上にも気分が高まる九塞溝は中国が最近最も力を入れている比較的新しい世界遺産の観光地で、こんなに気持ち悪い位徹底的に整備管理された観光地を私は知らない。実際ここが中国とは信じられない様相なのであるしかもここは四川省チベット族チャン族自治区なのである九塞溝の名はこの標高2000mから3100mにわたるY字型渓谷に9箇所にチベット族村が有ることを示し、地理学上の地名ではなさそうだ 一般車の進入は禁止され観光は数日の徒歩か巡回バス、チャーターバスに限られる。我らがチャーターバスはまずY字の交点に近い鏡海に向かったチベット族にとっては湖は海に等しく、湖は海子と呼ぶそうである (以下の写真の多くには元画像を見るためファイルコードをそのまま載せる)(6/15日訂正;ファイルコードに関係なく画面のダブルクリックでOK)この最初の「鏡海」との出会いは少々波があり、鏡状ではないとガイドの嘆きしかし我らがゆっくり旅はこの日だけでも時間をずらして4回も湖畔に立った P1070720 posted by (C)taji0811そこで時間はずれているがほぼ同じ位置からの写真を続けるとだんだん湖面が静かになってくる様子が分かる P1070743 posted by (C)taji0811P1070768 posted by (C)taji0811 蒼い湖底には石化し始めた倒木や魚群が揺れている 想像を絶する透き通った蒼い水、揺れ動く山影や木の葉のざわめきを感じさせる湖面を楽しんだP1070737 posted by (C)taji0811P1070738 posted by (C)taji0811
2009.06.14
コメント(0)

中国 九塞溝・黄龍への旅 (2) 九塞溝への路岷江源国際大酒店のレストランで昼食後スタッフに送られてバスで九塞溝へ向かった車窓からの景色に下のような山肌が断裂した地形を見た地震の仕業か、何万年もかかって隆起した痕跡とも思えなかったまだ断裂跡が生なましいのである 途中いくつかのチベット人村落を過ぎる。このあたり四川省には属するがラサの有る隣省チベット自治区と同じく四川省内のチベット族自治区であるただ家々は新しく、一面の幟を除いてチベット族色は薄いつい最近九塞溝が国際観光地となり、物資供給地として急成長している様子が分かる。野菜畑にはカラフルな衣装の農婦たちの姿 さらに驚くべきは農家の近代的住宅と畑のビニール栽培であるこの廃材は適切に処理されるだろうか。野生生物えの影響が気になる 四川省の南部重慶には大河長江が流れ中国の南部一体を潤しているがその大支流に岷江があり省都成都を潤している。 その岷江の源流点にある碑の周りは平原でヤクの牧場であった P1070705 posted by (C)taji0811さらに北上すると九塞溝風景特別区(国立公園)入り口の町に着くその夜かシェラトンホテルに3連泊してゆっくりと九塞溝を観光する レセプションデスクの後ろには九塞溝にまつわる伝説の青年(太陽)神のレリーフが飾られており、その対面には広いロビーを隔てて天女(月神)のレリーフがある。 伝説: 昔天上に青年と乙女が住んでおり、二人は相思相愛の間であった青年神は風と雲と太陽から鏡を作り乙女に与えた。乙女はこの鏡を見るにつけ美しくなっていった。これに嫉妬した悪魔が鏡を割って投げ捨てたところ、この108個の破片は美しい九塞溝の湖水となり乙女はこの泉に身を投げた。北海道のアイヌ伝説をはじめ世界中どこにもある物語であるが、こうして具象化してみると一大ロマンである
2009.06.14
コメント(0)

中国九塞溝・黄龍への旅 その1 九塞溝への路丹後半島の旅行記に思いのほか手間取ってしまい10日余り経ってやっと中国旅行の写真整理にかかった。この種の部ログでは毎回テーマを設定して記すと様になるが多くの写真の整理などに時間とエネルギーを使う。そんな元気もないので陳腐ではあるが時間系列にしたがってぼちぼちと綴ることにしよう。 中国チベット自治区に隣接する四川省にある空中の庭園とも言える九塞溝と黄龍に行きたいと思ったのはもう3,4年前のことである実際具体的に日程に乗せていたが2日前になって風邪が治らず高いキャンセル料を払ってしまったいわくつきの場所である四川地震の影響もあって遅くなったが、今回年寄りに親切なバトルサービスで有名なニッコウトラベルのお世話になったここはチェックインデスクまで荷物を運んでくれたりターンテーブルから下ろしてくれたり至れり尽くせりで70台を中心に80台、60台ばかりの客を集め観光も原則9時出発ホテルチェックインも原則4時前後で体力の衰えた我々に向いている 今回も出発一週間前に豚インフルエンザ騒ぎ、何を隠そう豊岡で感染確認が発表された日私は豊岡市出石にいたのである上海に着くと早速写真のような宇宙人が乗り込んできて乗客の顔に赤い光線銃を撃ってきた。反撃どころかカメラに納めるのがやっと こんな騒ぎのせいか機内は空いていて機内検疫もスムースであった上海・成都と乗り継ぎ翌日九塞溝黄龍空港へと向かっただんだんと機は山地に入り雲海の上に抜けた岩峰が鋭くなるチベット高地の端に差し掛かったことを示しているややあってランディング。空路脇の景色は下の写真、樹木も草も茂っている2003年開港のこの空港の標高は3500mである富士山の頂上近い高さでこの景色は予想外、地形と緯度のせいだろうこんな高地に空港を作ったのはなぜだろう。プロペラ機ならもっと下の平地に作れるが急上昇急降下が出来ない大型機ではこの高度が必要だったのかもしれない事実蒋介石の国民党と毛沢東の革命軍が戦った時、蒋介石はもっと下の平地に飛行場を作った歴史があったバスは急坂を下り川主寺の町へ、そして岷江源国際大酒店のレストランで昼食町は全て新しく、この空港から新しい街が誕生したことがうかがえるこのあたりはすべてチベット人の村であるが街からはその雰囲気はない空港への基地、黄龍への観光基地としてここ数年で爆発的に大きくなった町の様で、ホテルと土産物屋だけの街であるレストランの前庭に出ると高山が迫っており、チベットの雰囲気は十分
2009.06.12
コメント(3)

宗鏡寺出石の町の東部に宗鏡寺という寺がある、スキョウジとよむ一般には沢庵寺として知られる1393年山名氏の開基であるが山名家が秀吉に滅ぼされ、寺は荒廃した。その寺を時の城主小出の支援下で中興開山したのは沢庵和尚である出石城下に生まれた沢庵は幼少より宗鏡寺に入り得度有名な沢庵漬けは和尚の工夫で出来たものと言われている貧乏な時代一杯のご飯と沢庵、味噌汁が食事であった時代劇でよく目にする光景である沢庵は禅の他、剣を説き、茶を説き皇室から大衆まで教化したそうである和尚の影響を受けた柳生但馬守、宮本武蔵の剣法はドラマで有名沢庵は端午の節句チマキの源である中国の原理主義的政治家、文人である屈原の投身に因んで境内の庵を「投淵軒」と称したこの寺は禅寺らしく質素な本堂の裏には沢庵作といわれる苔むした庭がある。規模も小さく大きな石も置かれていない、まさに「無」の境地堂横には秀吉の朝鮮侵攻時釜山より持ち帰ったものが沢庵の後援者である出石城主小出氏に渡り宗鏡寺に植えられた「わびすけ」と言う椿の古木がある 茶室への小径にも心憎い樹の配置、画像データで調べてみると秋には見事な紅葉の様である鐘楼も廻廊を配した珍しい構造である。自由にお衝くださいの立て札も有り難く各自願いを込めて静かに衝かして頂いた山門から真っ直ぐ町へ向かう坂道には白壁の土塀とそれに続く脇寺5分も歩くと賑やかになる。賑わう街中とは対極にある小雨降る人気の無い下り坂は平穏な老年の存在を実感させてくれた
2009.06.12
コメント(1)

出石を歩く出石(いずし)は高田馬場駅近くに「出石蕎麦」があるので読み方だけは知っていたが、正直蕎麦くらいしか知らなかった妻は以前から行きたがっていたので今回のツアー選択の一因でもあるなんと室町時代、応仁の乱で細川勝元と戦ったあの山名宗全一族の居城城下町の様子を復元して観光地とし近年頑張っている地方都市である 小さな町歩きを始めた。雑貨屋の軒下には唐辛子のディスプレイ今始めて気が付いたが後ろには確かに「篭」の字、新聞受けも柳篭ごった返す中心部を避けて寺町の方へ歩を進めると一軒の店がある「たくみ工芸」とある。写真を拡大してみるとここの郵便受けも間違いなく柳篭で赤く塗り、白いペンキで〒印が描かれている。ここ出石は蕎麦と共に柳行李(ごうり)の名産地であった現在残っている生産・販売所としてはおそらく世界で一軒だけかも〒ポストの右下にはまだ生の柳の小枝が立てかけられているそして左には皮をむいた小枝の束P1070646 posted by (C)taji0811店内を覗いてみると昼食のためか作業台には編みかけの篭がそして後ろには色々なバスケットが陳列されている母が私を連れて外出するときは左手に日傘、右手に柳バスケットが定番、その後をつけて歩いたのはもういつの日だったのだろうか写真では一部しか見えないが右上には明治・大正時代の海外旅行には必須アイテムだったろう柳のスーツケースいやいやいいものを見せてもらった。緑の値札には中型バスケット2600円、小型2100円、6段の「飯こうり」13000円とある。安い ! お目には係れなかったが伝統工芸保存の為だけに続けているのであろう。後継者はいるのだろうかP1070647 posted by (C)taji0811 さらに歩を進めると古い酒蔵が保存されていた。今も使われているらしい窓から中をうかがうと大きなホウロウ製の大樽のようなものが見える気がしたさらに目的の沢庵寺へと進むと本寺山門前の脇寺(塔頭、タッチュウ)に沢庵和尚像らしき二体の木彫り像が山門の左右を守っていた街中へと戻り悪趣味のマンホール撮影などしながら出石へ来る観光客の儀式である「出石蕎麦」を食べて腹ごしらえをして城址へと向かった城主山名宗全といえば一時は日本の六分の一を支配したと記されているが江戸時代は小藩に留まり、1706年国替えにより信州上田より仙石氏が入城その際蕎麦職人を連れてきたのが出石蕎麦の発祥とのこと城壁も野積みの質素なものである城址から見ると観光客で沸き返る町の象徴、辰鼓楼が目の前に建っている賑やかなみやげ物屋には余り興味が無いがこの景色は素晴らしい出石の町は好もしい地方観光都市のひとつである
2009.06.11
コメント(1)

丹後半島を行きながら 私の郷里徳島では桐の木は家屋敷でしか見かけない。私はよく母の実家に赴き祖父母に可愛がられたがその隠居住まいに大きな桐の木があったことそして初夏になると大きな花をつけたことを70年後の今も鮮明に覚えている祖父母と思い出と一本の桐の木はいつも一体をなしているこの思い出を呼び起こさせるのは丹後の山中には桐の木が多く見られ見事な薄紫色の花を咲かせていることであった3,4歳の私と今の私よりは若かった祖父母の顔がはっきりと浮かんだその祖父が話してくれた話一話田舎では女の子が生まれると1本の桐の木を植える、そしてその子がお嫁に行くとき、別の一番大きな桐の木を倒して箪笥にするのだというしたがって節くれだたないように娘を育てるように大事にするのだというそして「この木はお前のお母さんが生まれたときに植えたものだよ」と言われた私は母の乳房を探るように桐の木肌を撫でた記憶がある愚だ愚だと締りの無いブログになってしまったが、地図マニアの私はここでどうしても看過出来ない事項が有るバスが琴引浜に着く前に「京丹後市・間人」と言う道路標識を見た。いそいでバスの車中からシャッターを切ったがとっくに交差点を過ぎていた。下の地図を見ていただきたい「間人」が溢れているだろう。地元のガイド(嬢よりははるかに経験あり)さんの上品な「・・・・・・・・と言います」 を 「・・・・・・と申されます」 と言う京訛りの説明は以下のとうり。聖徳太子の実母 穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后が都の政争を逃れ一次この地に非難してていた。そしてここを去る際地元への感謝の念をこめて「間人」の名を与えた。しかし畏れ多いとして、皇后はこの地を退座したのだから「間人」を「タイザ」とと呼ぶことにしたという。ここは有名な松葉蟹の本場で間人蟹と言われ、これを食べるためだけの一泊5,6万円もする民宿が有るそうである 唾が眉から目に垂れ込んでくるような話だが特級の難読地名であることには間違いない。青森五能線の名所不老不死温泉が有る「舮作(へなし)」と好一対だろう◎もっと驚きの事実:何れも「たいざ」「へなし」と入力すると簡単に変換された実はここまで「かん」+「じん」 および「舟の篇に と」などと入力してきたのがなんと馬鹿馬鹿しいことであったのか。全く世の中くたびれることが多すぎる
2009.06.09
コメント(0)

余部鉄橋グループツアーは本来こんなにテンテコ盛なのだろうか少々消化不良気味である竹野浜温泉に泊まり翌朝のバスは山陰本線香住(かすみ)駅を目指す朝の加住駅に我々の列車が入ってきて10分以上も留まる快速列車の待ち合わせだと思っていたがそんな気配も無く発車したそうだここは単線区間なのだ。したがって反対方向へ進む列車のために線路を開けておく必要があったのだ。そう言えば一本の鈍行が逆行して行ったのを思い出した動き出した2両列車は延々とトンネルに潜り、瞬時リアス式の深い谷底を表しながら空中に浮かぶような「兜駅」にとまりすぐまたトンネルそしてそのトンネル出口が余部鉄橋とそれに続く余部駅ホームプラットフォームから今しがた越えてきたトンネルの出口と鉄路を振り返ると端麗な鶴(Crane)が並んでいる。 駅舎は2,3百段の階段を下って41メートルの下まで行かないとない。* もう大分前のことである、突風に煽られてこの鉄橋から数十メートル下の海産工場に列車が落下した。幸い回送列車であったため乗客はいなかったが乗員と下の缶詰工場の人たちが犠牲となった1911年アメリカ人技師によって立てられたこの橋は高さ41.5長さ310.5メートルの鉄骨だけで出来た珍しい構造である。しかしこの構造は谷あいに集まった風を上に吹き上げ列車を空中に舞い上がらせたのだった。深い谷あいに架かる鉄橋の真下に集落のあるあのテレビ映像は今でもはっきり思い出される この鉄橋に体験乗車することがツアーにプログラムされていたこの惨事を繰り返すまいと新橋の建設が進んでおり、そのために鶴たちが働いているわけである旧橋は鉄道史に残る文化遺産でも有る。歩道を設け保存鉄道として小さなミニトレインを時速4キロくらいで走らせてはどうだろうか。軽便鉄道なら維持費は少なくて住むだろう。定員20名くらいのプラスチック製の超軽量者を走らせる。いっぱい軽便鉄道が保存されているイギリス人なら絶対考えるだろう。文化庁もデザイン的にアグリーナ東京中央〒局の部分保存より価値があると思うが。鳩山邦夫さんこっちも考えてよ *逆に駅舎を入り数百段トンネルを下るのが上越線土合駅である。1950年代はここの地上ホームから谷川岳へ何度か登ったが地下式になってもう20年以上は経つだろう。そう言えばもう20年近く谷川岳を訪ねていない。
2009.06.07
コメント(0)

丹後半島を行く今回の十数名のグループツアーで思いがけず丹後半島を一周することになった何の予備知識も無かったがリアス式の海岸線は予期以上の楽しいものであった半島の突端は経ヶ岬という断崖の地、ガイドは上に数百段登ると見晴台があるという途中にピクニックテーブルがあり景色が良い、目を左に向けると下の景色、そして右に転じてズームアップすると2枚目の写真になる。涼風とテーブル少し移動すると半島突端の灯台は指呼の間、ただそこには小さな谷が諦めて景色を楽しんでいるとさらに上の展望台を目指した人たちが帰ってきて石段は途中で工事通行止め、何も見えなかったここの景色が一番 ! と言うさらに丹後松島という岩礁群が見えてきた。霞とズームのせいではっきりしないが実に雰囲気がある。余り有名じゃない丹後半島、いいじゃないかと一人語ちる 程なくして「琴引浜」に到着。確かに砂を一気に揉み上げると kyu, chieu, boo, fah(失礼)、foo 等の音がする。管理人はさすがに色々な音が出せるここの砂は石英含量が多くそれがこすれる音だという湿ったりごみが混じると音が出ない。そのため管理人は浜の保全に勤めているそうである。しかし弦の音はしないし、琴は弾くはずである。なぜ琴弾浜で無いのかと、何時もの天邪鬼癖が出てしまうとにかく今回のっ丹後は期待していなかっっただけに望外のもうけものである
2009.06.07
コメント(1)

天橋立その2 そして伊根の船屋ロープウエイで笠松公園に登ると老若男女皆儀式を行っているこんな風に見えるのだろう。空が海で海が空、龍が天に昇る姿と言う前回記したように対岸からでないと砂州の鱗もほとんど見えず想像力の乏しい私には難しい。長く続けると目がまわるとてもこの姿勢でファインダーなど覗けないので180度の回転写真が下のもの紫式部が始めたとのガイド、紫の袴をからげたのだろうか。そりゃ確かに見ものだ !タイムマシンに乗って彼女に会見して見たい ズームアップしてみると一番遠い所にかすかに砂州が見えた 日本三景とはちと大げさだがまあ予想通りで納得ビオラの花で飾られた覗き台が綺麗であった。ただごった返していて無人の覗き台を撮影するのは難儀であった 帰路はリフトで下ることにしたがこれは良かったリフトが揺れるので砂州に動きが出てかすかに龍が想像できる。確かに絶景ではないが奇景ではある。 続いてバスはコノ神社から伊根の町へと進み、船屋を見るために遊覧船に乗る集落全体がボートハウスを持つ形体は特異である。背後は険しい山で一家は狭い道を挟んで本宅を持っていて、本宅には親世代が住み、ボートハウスの二階には若夫婦が住むそうである。孫は多分本宅だろう、いい家屋設計とも言える 下写真を見て大雨時のがけ崩れが心配である。地震時の津浪にも警戒が必要ここの船屋を見てアメリカ・サウザンドアイランドに多く見られる別荘付のレジャーボートハウスを思い出した。彼我の用途の違い、彼地の白いクルーザーの代わりにここではこの地では船外機を取り付けた小形漁船が納まっていた
2009.06.06
コメント(0)

天橋立 その1前々回のブログに記したが今回の旅は本来天橋立だけが目的であったグループツアーなので3日間の丹後半島一周になった次第そうは言っても特天橋立に絶景を期待していた訳ではないただ松島や宮島は何度も訪ねているのにここは未だ未訪の地なのであるこのままで死ぬわけにもいかないだろう。大体日本三景などが固定したのは江戸時代であろう。その時代この地を訪れるのは今の海外旅行よりもはるかに難しい時代であったろう。要するに選択範囲が狭かったそれに選択眼は「わびさび」を基準としていた。雄大さや大空からの景色など論外である。前日、宮津湯らゆら温泉グランドホテルを出るとき玄関口に下のようなじゅうたんが敷かれていた。見事な織物である、ひょっとしたら実物よりも綺麗かもしれないと思って写真に納めたが正解であった有名な股覗きの公園は対岸にあってこの景色ではないよく調べてみると、どのパンフレットや宣伝にも下の風景が描かれているがこれは空撮であるか特殊なスポットからのものである悪趣味のマンホール撮影も99%の観光客が訪れる笠松公園からの景色ではなく絨毯と同じ構図である 散策は知恩寺文殊堂から始まった。素晴らしい多宝塔や山門をくぐるが松ノ木に多くの扇が結ばれている。絵馬らしいが松葉に扇の組み合わせは 抜群である 水際には文殊菩薩の知恵の輪が絶妙の配置 砂州は松の銘木の羅列である。少年時代講談本で読みふけった岩見重太郎敵討ちとか与謝蕪村の松、芭蕉碑、雪舟の松などを愛でながら歩く。 雪舟の松確かに松林から伸びた白砂の砂州は美しく海水浴にはうってつけこの砂州が天に昇る龍の鱗だそうだ 砂州を歩き「この神社」に来て下さいとのガイド ? んん、どの神社だ !湾を渡り終わると自然に 「この神社」に着いた。納得 !境内には今まで見た中では一番大きな「さざれ石」が置かれていた ケーブルカーで笠松公園へ登る、股覗きのためであるかなりな悪趣味だがそれは一種の儀式なので次回に記すこととする
2009.06.06
コメント(0)

中国成都市のバス炎上水曜の夜遅く中国への旅から帰ってきたただでさえ弱身の上4千メートルの峠を越え、3800メートルでのハイキング熱い成都での観光などでばてばて、まだ前回始めた丹後半島への旅日記も始めたばかりだったし、そろそろと思ってブラウザを開くと大変!金曜日の朝8時成都市でバスが炎上25名死亡、死傷者は100名に上るという。事故の起こる2日前まで我々はそこで観光していたのである 旅日記どころではない。しかも事故(件?)が起きて現時点でもう30時間も過ぎているのに次の情報が入ってこないのだ。この間何度新聞やネットを漁ったことだろう。なにしろ町の様子が目に浮かぶのである特に事故現場はGoogleMapで苦労しながら探し当ててて見たら私たちが通過した地点で起きていた。下図で中央下部が成都市中心部、上部が郊外天回鎮、ラッシュ時バスは市中心に向かう通勤客をぎゅうぎゅうに詰め込んで窓の開かないエヤコン車だったようだ。とに角成都は朝から蒸し暑いのである。天回鎮から昭覚寺南路(9号路)を南進中、高速環状3号線との立体交差橋(川陜立体橋)に差し掛かったところで起きている近くには動物園や植物園、そして何よりあの成都市大熊猫(パンダ)繁育基地・研究所の近くである。確かに6月2日朝我々は環状3号線を時計回りに進行して、川陜立体橋を過ぎ次の城路立体橋で高速を降り、このパンダ研究所に向かった。 ことの真相はまだ分からない。しかし一部の情報では火は内部から出たとか燃料ディーゼル油は残っていた、等とも報道されている。しかし100人もが乗った内部でテロじみたことは不可能な気もする。成都は四川省の首都でチベットの隣省内にはチベット人部落が多く、我々が今回訪ねた観光地は皆チベット人村である。 チベット問題、天安門事件の翌日と気にはなるがテロであって欲しくはない。成都は少し前に中国で初めて豚インフルエンザ発生でも悪名をはせた町私としては犠牲者の冥福と一日も早い真相解明を望むばかりである合掌
2009.06.06
コメント(2)
全31件 (31件中 1-31件目)
1

![]()
![]()