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仕事をやめて、実家にいるのですが、次の仕事を、探す前に(内心探す気がない)、自分の好きなことを存分にやろうと思い、楽しんでいて、理想は、このまま好きなことを仕事につなげたい、つなげれるかも。なんて思っていたら、親に、「無理だ」「馬鹿だ」「結婚もしてないたんなるおばさんなんだから」とか、「単なる趣味にして、正社員として仕事しろ」とか、全く価値観が違くて、、、。今までなら、訳が分からず落ち込んで、やる気なくすのですが、そういう癖があると自分で分かってきたので、落ち込まないで、夢をあきらめないで、というか、親に迷惑、心配かけないで、自分のペースを守りたいのですが、このまま、気分をかえて、行動すれば、親も何も言わなくなるのでしょうか・・・。 親御さんも、お嬢さん(ご相談者さん)が心配なのですね。 さて、近年、私が思うに、30代ごろから、ご自身の無理を見直して自分の本質に触れたりしないと、なんだか居心地が悪くなるように思うのです。 その年齢くらいから、無理していた生活を見直し、自分自身のあり方がわかっていく年齢に入ります。そしてなぜだか、現代人は、もう積み重なってきた(世代をわたって)無理が利かなくて、しなければならない、でも嫌だ、という中では、うまく生きれていない気がします。 今の状況で、今まではご自身が落ち込んでしまって、それでは、まずいな、お気づきで、新しいことをはじめたい、ということなのですね。 今までは訳もなく、落ち込んでしまって、うまくバランスが取れなかったということなのでしょう。でもそうしていても、嫌気がさすばかりだから、自分を見い出したい、という気持ちは、良くわかります。 それで、今後の課題なのですが、いずれ好きなほうに向かうにしろその「形」はまだ現れていないように思います。 その時期に大切なのは、今までは落ち込んで出来ないと思い、無理をして落ち込む、だんだんと嫌になる、と言う生活でしたが、そうはしないことです。つまり落ち込む必要はありません。 でも、今は振り子が反対に触れていて、そしていずれ、真ん中に戻って自己実現ということです。 好きなことを諦めない、ということは、とても大切なことですが、ご自身のエネルギーやあり方がだんだんと現れてきますからそれに沿ってみてください。 たとえば、やる気があるのに、すぐに落ち込むとか、うまく行かないとかであれば、それだってあってよくて、これは、準備の期間が抜けている、ということでもあります。 ご自身が自信を持ってこれでいく、と思えるまで、その気持ちが長続きするようになるまで、趣味でやる、ということでもよくて、趣味とは言っても自分なりに、とても真剣に学んだり、そこで成功をしている人々から実践的に、どうしたら、仕事になるのか、ということを、学ぶ時間にしてもよいのです。 だから、考え方として、今までは両親が言うから絶対にだめ、でしたが今後は、両親が言うことで、してみても良い部分もあって それでなおかつ、自分がしたいことも、形はどのようなものであれ、しっかりしていく、という考え方が大切になります。 ご両親のことなのですが、ご心配なのでしょうからご自身が生きてきた、よいと思う道を彼らは伝えてくれます。 それはそれで、ありがたく受け取り、だけれども、自分を諦めないと言うことを、真剣に考えてみて下さい。 どちらかしか選べない、ではなくて、いずれそちらに向いていくけれどそのために有利な、価値感を取り入れて見る、というように、柔軟に考えることも、できます。 さきにお伝えしたように、たとえば、趣味としてやっていく時期が必要かもしれませんし、あるいは、案外好きなことをしてみて、道が見つかるかもしれません。それもすばらしいことです。 あるいは、ちょっとやってみたところ、うまく行かなくて仕事をするとしても、いずれ好きな事柄と色々くっついて現れてきますから、他の仕事をしつつ、その中で実践的な営業や、あるいは、ホームページを作るなど役に立つ物を学ぶ方向でもいいのです。 どんな形でも、考え方次第で、何かに繋げることができます。 別の物に思えているのに、その中で学ぶことが、自分の仕事に生かされることも現れてきます。 あるいは、道の修正も含めて、自分を表していく時期なのです。つまり道は、色々な方法で意外なところで現れてきます。 たとえば足の短いわたくしが、モデルになりたかった、とするわねえ?実際にやってみて、うまく行かなくて、でもその時期に、あれ、光の加減を使って、画期的な、モデルの写真を撮るのがやたらうまいと自分でわかったりして、似た違う道もあるので、柔軟にしたがってみてください。 上だって、急に写真家になろうとは思っていなかったはずで、でも、モデルになろうとした経験があるから、影の大切さ光の効果などを、どう加減をどうするか、というのがわかっているわけです。 がっかりするのではなくて、次の道は何だろう、と考えることや実際に難しいことがあったら、少し、親が言っている部分を取り入れつつもバランスをとることや、逆に、仕事と言うのが嫌いで稼ぐのが嫌いであれば趣味で生きる、仕事は稼ぐため、と言う生きなど、自分がどうしたら、自分らしくそして、生活がしっかりするかをだんだんとわかっていこうと思っていてください。 仕事になっちゃうと、好きなことをするとは言っても、嫌いな物の中からも学ぶことが必要ですし好きなことをする中で、嫌いな作業にも立ち向かうことも大切です。趣味でもそうですよね?発表会は嫌いだけれどしなければならないとか。 だから、好きなこんな要素があるならば、こちらは頑張れるという動機付けも必要になるかもしれませんね。そしてまた逆に嫌いだ嫌だ、と思っていた中からも、自分が好きな部分は探していけます。たとえば、上司が嫌いで営業が嫌いで仕事が嫌になったとしたら、人との関係は楽に持てるように、あるいは持てる場所でも営業の中でも、ここは嫌だけれど、ここは好きだから自分に向いているな、こういう方法で、と言うことで学んでおけば後々役に立ちます。 さて、一番ご心配の、ご両親ですが、両親とは戦うのではなくて、わかる部分を話してあげてください。 まだご自身の考えが具体的ではないので、いずれさまざまなことが具体的になってくれば、そのときにようやくご両親も理解を示してくれるようにはなりますが、それまでには時間がかかることもあるでしょう。 だから、うん、趣味にしておくね、と言いつつも仕事で、ご自身が好きな分野の要素があるところへ就職をしてもいいのですし。やりようはいくらでもあります。要は全部をいっぺんいわかってもらおうと話しすぎるのではなくて、ご自身がしっかりとした考え方をしていくことです。そして具体的になれば、それらを伝えていったり、両親が言っている中で共通の部分は上手に話したりしてみてください。 焦らずに、ゆっくりとご自身に向き合ってみてください、意外なときに意外な才能と道が現れるということは、セッションをしている方々にも、よくあります。
2011.05.31
関係がある彼に、関心がない、と言われたなぜ関心を持ってもらえないのか、ちゃんと学ぼうと思う。私が何かをできれば、もっとこうであれば、関心を持ってもらえたのに。いいえ、この発想そのものが、問題を作っているのです。これだと、「あなたを好きではないのは、あなたの行動が悪いから」になって相手にしがみつくようになりますが、、、、。関心がない、というのは、関心がないんです。自分を好きな人で自分も必ず好きな人がいます。その人に出会うのであって、それって本当にあることなんです。でもそれは、「あなたが相手に好きになってもらおう」というようにしがみつかない先です。しがみつかない人だと、何年かおきにその人のサイクルがあって、出会っています。つまり、関心を持ってもらえるように頑張るのって(見分ける時期だけだったら良いけれど)自分が足りていない発想があるわけですから。たとえばきれいになるとか、効果があります。たとえば人がいない場所よりいる場所にいたほうが、何らかのきっかけも出てきます。たとえば整形をしてスーパー美人になれば有利は有利かもしれないけれど、勧めはしません。でもその人が、その人で愛されるのって、時々理想の人からでもあって、だけれど、その理想は本当に合う、と言う点で理想です。それは、その人が、愛されないことがあってもよい、がっかりするけれどと知っている人のほうが(あっさりしている人のほうが)探しやすいのです。恋愛って、積極的でもよいけれど、それは相手が自分を好きかどうか見分けるためのものでもあるんです。相手を好きにさせるためのものではありません。相手を好きにさせようとする時期があってもよいけれどそうしてだめならばどこで引けるか、自分が悪いからとがっかりせずにひけるかそれは、その人の潜在意識が、どれほど、本当に「まあまあ、なんだか好きになられることってあるよねー時々」と信じているかどうかによるのです。潜在意識が、全く愛されることを信じていなければその人が愛してくれないことが怖くて認められないから自分が悪かった、もっと学ぼう、ほら、あの言葉は確かに自分を好きだったのに失敗した、と言う発想になります。好きになってもらえる、と言うように思って、彼がそうではない事をどこかで知っていても見過ごすと、自分が悪かったからだ、というところにしがみつこうとします。自分が愛されないことがあることを認めたくないためです。でもそうすると、とても心地よい関係が出てくることを無意識は待たないから、それとわからないで、心地よくなくても自分が悪い発想で頑張るのです。だから同じような恋愛ばかりするであろうが。恋愛では、相手が自分を好きかどうか、どこで見極めて止めるか、ということは、とても大切です。そして、そうできない人がいたら、それはそれでよし、と泣いてもわめいてもいいからきりよく離れられるのと、彼は好きだったはずなのに、とくよくよするのとその時間は、その人のあり方を指し示しています。 最初は意地でもいいんですが。たとえば意地でももっと良い男性を探そうとかねそういう時期もあってもよいと思うよ、それだけだといつかは疲れてしまうだろうし男性が認めてくれないと向上できない以上、無理がかかる。疲れたり体がこったり。だって自分のために喜んでしていることではないからね。 でも、エネルギーを正しく使ってください。少しでも楽に、良いところへ行くように。
2011.05.28
仕事関連でかかわりのある方、集まりで上で仕切ってる人が同一の方なんですが、その人の言動で嫌なめにばかりあって困っています。仕事では、仕事をわりきり嫌な奴!でも、お金だから!自分理想の仕事を目指そう!と毎度、この人が来るたび、唱えるような感じで頑張っています。自分でもすごく頑張っています。集まりへ参加すると、いいときはいいのですが。先日、集まる時間を3度確認して聞き、朝の時間ともう一人も聞いていたので、帰りました。でも、夜電話があり、まるで私が間違ったような物言いでたくさん回りの人が集まった中で、電話がありどやされました。なんでこんないわれ方するわけ?って頭にきて次の日、集まりがあったので、いくと、遅れたとほとんど思われていて、数人に説明すると、他人事のようで、大してなんともおもわず、あぁそう。程度でした。それから数日して、私なにかした?なにかいった?と仕事でかかわる時いわれたので、状況を伝えてました。でも、謝るどころか、自分は忙しくてと忙しさにかこつけて結局、嫌な気分のまま、我慢しました。また集まりで他の人が私を立てると、この人はこきおろすような物言いをして、気分が悪くさせられます。敵対してるのか、前にも、すぐ後ろにいるのに、評価されて悪口言わってるのをきいて、本当に、傷つきました。よくそんな風に集まりでちやほやされているからって人に対して無神経で、意地も悪いのか・・・いいたい放題でこの人がだんだん嫌いに。やたら勝気なのも、うんざりさせられるし、おべっかやご機嫌でもうかがうようなことをしたとしたら何か変わるのか、わかりません。今まで嫌な記憶から、もっとこき下ろしようだし今はいいたいだけいわせて、我慢してます。こういうコバカにされない、いわせない方法、どなたか知りませんか?すごく悔しいです ―――――――――――――――――馬鹿にされない、ということはできるにはできるのですが、それは、相手が嫌なことをしたときに、嫌だなー、でとどめておく必要があるのです。反応をしない、ということですね。反応をしない、というのは、無視をする、ということでも我慢をする、ということでも、ありません。嫌だから、こびるのが嫌だ、勝気で嫌だ、と感じたときにああ感じてるな、と思っても、そこからの行動をしないと言う、訓練をします。セッションでは、その反応をすること自体を取り去るので自然と行動が変わりますから、周りとの環境が変わります。でもそれは、ちょっと回数がいることもあります。で、ご自身でされるときには、反応そのものを取り去るのではなくて(身体も気持ちも反応をしますから、そしてそれは正しいという強い気持ちにひっぱられるので)反応からの行動をしないように訓練をしてみてください。ご自身の中の思い込みで、勝気で、馬鹿にしているこびるのは嫌、と言う気持ちがあるために、していない、あるいはしてしまう(無意識に)行動があり、それらが、相手からすると意外に思えるかもしれませんが。「自分を小ばかにしている」と感じるのです。言葉の中に、勝気で嫌だ、とか、こびたりするのは嫌だ、というお言葉があるので、状況をきちんとお伺いしないとわかりませんが、行動で、自然と、避けている行動があるのかもしれませんが、これはもう無意識なんですが、「話をすると小ばかにされるから、確認はあの人にとろう」としていたり、「あの人は勝気だからこの話はしないでおこう」とか、「どうせ、勝気でちゃんと聞けはしないだろうから、適当に流そう」とか「こびることになると嫌だから、あっさり話そう」とかわからないのですが、無意識にご自身が、普通の人とは違う行動をするわけです。違う行動をすると、相手は相手にも信じ込みあるわけですから、「自分を馬鹿にした、小ばかにした、何とか言い返さないと」というようなことがでてきます。確認のことでもめたようですから、状況は分かりませんが自分が飛ばされた、と言っているのか、聞いてくれなかった、普通ならばこちらに聞けばいっぺんですむのに不快だとか、何らかの行動が不自然に相手は感じたのかもしれませんね。もちろん、だからといって、怒鳴ってよいはずはなくて、そこは自分が悪いと思う必要も、妥協もする必要もありません。が、なんだか、自分がしている何らかの「特別扱い」が気に入らないようだな、ということではあるでしょう。幸いなことに、私が何か悪いことをした?と言ってくる、ということはどこかであなたと仲良くなりたいお気持ちもあるのです。でもあなたといると、どういうわけだか、相手も負けてはならないと感じてしまうご様子。ご自身が競争をしているわけではないのはわかるのですが「勝気な人で、こういう人だから、こう扱ったほうが言い」と言う判断が相手を特別扱いにしているので、相手はそう感じてしまうこともあります。誤解をしないでいただきたいのですが、人はそれぞれ、自分の問題が出てきます。これはあなたが悪いのではなくて、相手の立場からすれば相手にも、(誰でも自分自身に)課題があります。無視をされていると感じてしまったりそれはその方自身の問題で、あなたが悪いのではないんです。ただ、自分の立場から言えば、自分の問題を整理をすれば相手の問題を引き出さなくて良いので、まあ若干は楽です。ということでお考えになったらいかがかな。と思います。相手が挑戦的になるときには、相手が勝気だ、当たらず触らずにしようと感じた部分があるので、反応をしてくると思ってください。方法としては、「あ、勝気だと思っている、嫌いだと思っている、こびたくないと思っている」と思った感覚を知り「この感覚はあってよいし、嫌いでもいい、でもここからの判断ではなくて自然な判断をしてみよう」と言う挑戦です。これはすごくしにくい部分なので、ちょっと焦らずに見ていってください。ああ、こう感じている、だからこうしようと思っている自分がいるなあという自分を外から眺めつつ、感情と自分を放して見る訓練も役に立つでしょう。つまり「こう感じている自分」を真実と思わずに行動をすることが大切になるのです。「こびたって解決にならない」それが真実だと思いつつ行動をうするのではなくて、「こびないようにしよう、それでは問題が解決できないと思う自分がいる」ということを知りつつ、そういう自分がいる、だからこう行動をしているな、と少し事実ではなくて自分がこうしているんだ、と事実と自分自身が感じていることとをはがしていけば、自然と行動が、こびるでもなく、かといって相手に反応を起こさせる特別扱いでもなく、自然な行動になっていくでしょう。大変だとは思いますが、色々頑張っておられて、夢をかなえていかれるほうにお気持ちがおありのようだから、それはとても良いことだと思います。この方とのことではなくて今後夢をかなえやすくする訓練としてやってみても、いいかもしれませんね。
2011.05.28
叱られると、非常にに落ち込みすぎてしまうというご相談が掲示板にありました。叱られると以上に落ち込むのは、身体に刻まれてしまった、その人のパターンです。そういう経験がある方がおられますか、と聞かれていたので、はい、私がそうでした。過去、私は、叱られるともうずっとくよくよ考えて、と言うタイプでした。で、叱られる、体の反応が起きてしまう、同時に気持ちもその人の癖で、引っ張られるほうに引っ張られる、(怒っている人はずっと怒っているし、落ち込む方はずっと落ち込むし交互に繰り返す方もおられるし)ので、その癖を修正していくのが対面のセッションです。ご自身で整理をする場合には、まず、「自分が反応をしていて癖なんだ、とても落ち込む癖がある」と知っておくこと、そして、それは癖であって、そこからわく総ての考え方に引っ張られない習慣を身に着けること、たとえば自分がだめだ、というのは落ち込む気持ちが大きく物事を見せてしまっています。相手が自分をひどく嫌っている、というのや、馬鹿にしている、何でもいいんですが、その人それぞれに引っ張られる考え込む癖がありますから、「ああ、これは思考の癖」と捕らえておいてください。まず、落ちこむ癖がある、そうなんだ、と感じて落ち込んでいる気持ちがある、と知ってそこから考え込む理由は、脳で大げさに考え込みすぎていること(親の言っていたことも影響をします)そして、そちらに引っ張られるのではなくて、落ち込んでいるんだな、そのまま、気分を変える、行動をしたり、考え方を採用をしてください。気分が明るくなると、その人たちに対する物事の見方も変わっていくはずです。そんなことからしてみたらよいのではないでしょうか。
2011.05.28
リスクがあって出来ない、と言う場合。時期もあるでしょうし、心からの答えがでます。というよりも自分がある時期になったら行動をしているでしょう。いずれにしろ、リスクと言うのは本当にはないのです。現実どういうことが起きているかを知るために恋愛でいえば、相手が自分とどうなりたいのかがわかるためにということですが、仕事で言えば、そちらには可能性があるのかどうか方法をかえる必要があるのかどうか知ると言う過程ですが、そういった、可能性があるかどうかを確かめて、あるならば積極的に進むために、ないならばそれをちゃんとわかるために、何かをすることがリスクをとるということです。ただ、問い詰めないように。仕事で言えば激情頑張りにならないように。問い詰めるのと話し合うのと、違いますし激情頑張りで、冷静なやらないことややるべきことを区別することが出来なくなってはまずいからです。リスクを負うならば、途中で柔軟に方法を変えることはとても大切になるのです。
2011.05.23
何年も付き合っていた彼にたくさん遊んでいる女性たちがいた、と言う相談がありました。現在、そういったことは、多く見受けられます。人々の感じ取り方が徐々に変わってきていて、恋愛を気軽にしたいと思うし、ネットなどでそうできる環境にあるということも、一因にあるでしょう。さて、信じていたものが崩れるのは、とても辛いことです。 でもここから、必ず何かが始まります。信じたかった「彼」と本当の「彼」。おそらく、無意識レベルでは、気がついていて、でも、信じたい、守りたい、と言う気持ちから、見過ごしてきたのかもしれません。何年か経ち、これらのことがわかる時期、ということは、その人が、傷ついても、真実を認めて前に行こうとしている、という時期でもあるのです。ご自身の中で、大事なことは、今後は、ストーリーを作り出さずに真実を見つめることを始めることです。真実とは、彼が、少なくとも、今までと、そして、今は、自分だけと付き合うつもりがない、ということ、だからと言って、今まで「彼がいる」ということが、自分の価値だったけれど、そうよ、彼がいるんだから、というのがご自身の守りだったかもしれません。でも、彼がいなくても、今のあなたは今までどおりだ、ということも、認めることです。意外かもしれないけれど、本当は何一つ失っていないのです。彼がいて、輝けたところは、今も変わらず、あなたにあるのです。それらは、今後素敵な恋愛をするために、とても大切な学びなのです。この二つがきちんと学べれば、傷ついて怖がりすぎて嫉妬して疑う、というようなバランスを欠くようなことにはなりにくい癒され方をしますし、疑うのではなくて、物事をクリアーに見抜く力もつくでしょう。ということは、真っ直ぐな純真な眼で相手を見ていますから相手もそれに答える関係性に(友人関係でも)なりやすくはなるでしょう。どうしても、彼がいてくれることが、あなたにとって大切だったので、この事実が現れるまで、何年と言う、必要だったのですから、その分、大事な物が崩れて、傷ついておられるのも、よくわかります。苦しいけれど、今の状況は、必ず乗り越えられます。今は眠れなかったり、食事がとりにくいかもしれませんね。でも、必ず、乗り越えられます。今の心境はすごく苦しいでしょうね、自分の今まではなんだったんだろうかというように、思えて自分の足元が崩れている感覚もされておられるでしょう。それでも、自分は何一つ変わっていない、そのことを認めていく過程はとても大切です。―――――――――――――――――さまざまな苦しみを軽減し、感情を癒しながら本来のバランスを取り戻していくお手伝いをACRセッションではしています。ご自身の見直しや、傷ついている自分を癒して、新たな目標を築くことを、セッションではしていきます。
2011.05.19
子供が泣きやまなくて、いらいらしてつい手が出てしまう。そんなご相談は多いものです。幼少期、人は母親の態度、父親の態度を記憶して、そんなことは、隠れているのに、子供を育てるととても生の感情がわいてきて同じ事をしがちです。食事をこぼしてひどく叱られることが多くあれば、そんな子育てはしたくないのになぜか同じ状況だと感情的になります。感情がかっとわいて止められない感覚がわきます。なんだか、幼い時に母親が慌てたことをとても怖がっていて、それだからこそ同じようにいらいらして止められない気持ちがわくみたいに。でも、子育ては親も育つ大切な段階。完璧な母親になんか急にならなくてよいのです。子供と一緒に育っていくものだからです。だからいらいらすることはあって当たり前。子供が泣くのもあって当たり前。泣き止ませられないから悪い母親だ、こんなの嫌だ、と必要以上に、自分を追い詰めないようにしましょう。そうか、子供は泣くのがお仕事なんだな、と覚えておいてください。さて、子供が泣き止まなくて、いらいらする。最初は暖かく抱きしめるのにもうそれでも泣き止まないと、怒りが爆発しそうになる、と、掲示板に、ありました。余裕がなくて、疲れているときまりますから、当然です。でも、今後、小さな自分(泣いているといけないことだと覚えてしまった自分自身も)癒されるために、そしてお子さんも癒されるために、抱きしめてあげてください。それは、「泣き止む」ために抱きしめるのではありません。泣いているその子を、泣いているその子自身を、いとおしく思って抱きしめるのです。泣いているんだ、なんだかわからないけれどそう、と、その泣いていること自体を、泣いていていいんだよ、と抱きしめてあげるのです。そこで辛いならば、お母さんも辛いなあ、と一緒に泣いたっていいじゃありませんか。それは、幼いあなたが本当にされたかったことです。記憶にはないけれど、泣いているんだ、そうなんだ、と泣いていること自体を悪いから泣き止め、と言うのではなくて、、そんな弱いことではだめだ、と言うのではなくて、泣いているから、ただそれだけの理由で、そっと抱きしめられる、泣いているんだね、いいんだよ、と抱きしめられるその愛情を受け取りたかったのに、私たちはそうされることが少ないために私たち自身もできなくなっていることでもあります。実はこの愛情は、皆さんが異性に求めている物そのものでもあります。自分そのものが受け入れられる、ということ。それは自分が与えることも、受け取ることも、双方が同じことです。自分が十分に癒されて与えられている経験をイメージでもしていれば人に与えることができます。人に与えるときには、そういったやさしさを、もちろん、色々な人々から受け止めていくことでしょう。でも不思議なことに、男の子は別の物を求めていたりします。ただ、泣いていてもいいんだよ、と言われるのではなくて、できるんだよ、と証明したくて何かをとことん泣きながらでもやってみたかったり。女の子が、ただ受け入れられることをされたいように、男の子であれば、泣いているんだ、へーとほっとかれたり自分で解決をしたい場合もあるでしょう。個性の違いもあることでしょう。ほおっておいて大丈夫なお子さんもいます。だから、泣いていても、おお、泣いているんだ、思いっきり泣きな、とほおっておくのだって、よいこともあるでしょう。掲示板に書いているお母様は、このままでは虐待になると心配をされておられましたがその心配があるうちは、それは立派な母親です。どうぞ、時々は、気持ちを休め、「泣いているとお母さんも泣きたくなっちゃうよ」とお子さんに頼っても良いし、余裕がなければ、もう知らない、と少し距離をおいて泣かせておいてあげてもいいし泣いてもいいんだな、というふうに自分の気持ちをおさめてみてください。2歳のお子さんだって、意外に助けてくれるものです。きつくあたってしまったら、後から誤ればいいのです。ごめんね、泣いているとお母さんも泣きたくなっちゃうんだ。母親が素直であれば、お子さんは曲がったりはしないでしょう。泣いていてもいいよ、そういうこともあるよね、それがお子様にできるときに、お子様は泣き止んでくれることもあります。そしてそうなれるときには、お母様ご自身の問題も整理がついていくことでしょう。お子様とどうぞ、幸せな家庭を築いていってください。きっとできるはずです。ーーーーーーーーーーーー子供に対するいらいらも、改善をしていきます。ACRでは、感情のパターンを変えていきます。泣いているのが怖いこと、という感じ取り方が変われば、(親が慌てている様子から、なんだかとても怖いことのような気がして余裕がなくなる感情のパターンを記憶して学んでいるので、それを軽減する)ご自身が穏やかに改善をしていくこともあるでしょう。http:\\www.acoreading.com
2011.05.18
体が動いてくれない、そんなときには、 頭は良いな、と思っているけれど、体のほうは、本当は休みが必要だったり無理をしすぎているのを教えてくれることも、あるでしょう。イメージだけでやりたいと思っていることかもしれませんし。 無理をしても、その場に行けば楽しいのであれば、何度かに一度、行ってみて下さい。行動を起こしたほうが、らくでしたか?それでも億劫さが出てくるのは、疲れている、とか、本当は他のこと(家でゆっくりしたいのに価値がないと勝手に決めている)とか、、大事なメッセージが隠れているものです。自分なりの調和方法を探し出してみてください。ーーーーーーーーーーーーーーー億劫さ、というのは、動かないとならない、だけれど、動きたくない、という、葛藤が起きているのですが、これは、動きたくないやりたくない、という隠れた気持ちや絶対に嫌だと抵抗をしている自分自身にも触れるときに、自然と動けるようになります。ACRでは、この、触れると変わっていく隠れている気持ち(分析ではなくて、感じるとほっと解ける気持ちそのもの)を原始感覚とよんで、心と自分自身とのつながりを大切にしています。
2011.05.18
無意識レベルで感じ取れない部分で、自分の要求を悪い物、怖いもの、わがまま、とおびえる癖がついた人は、自然こうなります。要求を押し込める癖がついている、潜在意識の中で。だから他の人を満たして何とかそれをもらおうとするわけだけれど。 ちゃんと自分の要求はあってよいもの、自分で認めてあげてよいもの、ということを、きちんとしていけば 関係性は変わるよ~。そこを本当に認められるほど深くのセッションに入ると返って要求もしなくなるのです。面白いでしょ?
2011.05.17
対等に、です。対等に良い関係を築く努力です。相手とやり取りをし、してほしいことがあれば、伝えていじけてこうしてくれない、と思うことがあれば、それは反応からきているのでそちらにとらわれず、そうやって関係を「その人と」築かなければなりません。 人に来てもらえる人って、時には強い面を必ず持っているのです。どんな強さかは人それぞれだけれど、親切をし続ける強さ(しつこさとも言う)あるいは、意思が強かったり、ちょっと押しがいやみではなくて強かったり。自分の誕生日はこの日だよといえる人だったり、余りに自分を下に見る人とは関わらない勇気を持っていたり。今後そういった目で人々を観察してみんちょ。あなたが避けている部分です、かかわりを持つために。その人は本当に、自分がいて楽しい人かどうかもわかってくるでしょう。その人たちと付き合ってみる必要もあるでしょうね。ということで、いかがかな?面白いんだけれどね、皆がほしい物って本当にほしい物ではなくてこだわりが多いんだー。だから手に入らない。そして違うものを得ようと関係がないところで努力をしていることが、多いのです。どうしてこんなことがわかるか、というと、セッションで潜在意識が変わると自然とこっちに変わるからです。かかる時間はそれぞれだけれど。今まで気にしていることが気にならなくなり、そうではなくてもっと違うことに意識が自然と向いている、ということですね。幼少期から、人は同じ行動をします。お姉ちゃん、ずるい、ずるい、と言うのであればずるい、ずるい、と人にしがみつきます。でもずるくない方法で扱ってもらうための、行動はしていないのです。ずるいと文句を言うかわかってもらおうとしていて、それが感情の未解消の恨みですね?それが解決がされていないと、ずるい、と言って自分がいじけたり文句を言ったり、と言う非ダイレクトの方法をとります。でも、ずるくなく扱われるということは、たとえば、自分が本当にほしい誕生日のプレゼントしてね、と前もって親に伝えるとかお金をためて自分で買うとか。ほしい物に意識が行くとそういうことになりますし、まだ未解決の感情があれば、そちらに引っ張られるのでお姉ちゃんだけずるい、ほしい物くれない、と相手にしがみつくようになります。本当は物がほしいんじゃない、自分の未解決の感情を解消をしてほしい。ここがすごく強い部分なのです.すると、相手は反感を持って戦うようになるのだな。今は一歩を踏み出すのが、怖いんですね?ま、人生、そういうこともあるよ、大丈夫。自分がしてあげたことが、返ってこないと、自分がだめだと本当に思えてしまって、それが怖いのね?自分のために、してあげたいことをしてあげてみてください。自分のために、非ダイレクトに関わるのではなくて人と関わってみてください。そこがあなたに見えにくくなってしまっている影だから、探すのに時間をかけてね
2011.05.17
キャシー様、皆様こんにちは 私は人に何かをしてあげるのが怖いです。相手が喜ぶのを見るのが好きな子どもでしたが、中学生くらいから、勉強を教えてあげたり、相談にのってあげると元気になった相手が自分から離れて行ってしまうことが多くなりました。都合良く扱われ、用が済んだらいいやという感じです。みんなの誕生日をお祝いしても、自分の時だけ忘れられていたり、社会人になってから結婚式にも数多く出席しましたが、自分の時に参加してくれたのはごく僅かな人たちだけでした。(日程や季節、場所は常識的な範囲でした。)友人に結婚式には出席しない、友人の誕生日はお祝いしない子がいるのですが、クラス中どころか、隣のクラスの子までお祝いしたりプレゼントを渡したりしていました。結婚式は、それは盛大なものでした。同僚にも全く同じような人がいます。どうしてここまで軽く扱われてしまうのか、存在感のなさにうんざりしています。原因というか、問題の根の部分が全く分からず悩んでいます。どんなことでもコメントをいただけたら嬉しいです。厳しい意見でも構いません。よろしくお願いいたします―――――――――――――――――――では厳しい意見を、びしばし、行くよ!、、というのは、冗談です。自分だけが上手に受け止めてもらえていないのって、寂しいですよね、よくわかります。それで、話が変なところに飛びますが、りんごが食べたいのに、みかんを買ったら、満足をするでしょうか?それが、皆さんが、人生でしていることなのです。潜在意識のわな、ですね?同じところにしか目が行かないので、本当にほしい物が、どうにも、上手に手に入らない、だから、おんなじことが繰り返される。この方で言えば、もともと、自分は大切にされていないな、という感覚がまだ整理がされていないのです。感覚、というのは身体に染み付いたものです。ずっとずっと気づかずにあったものですね。まあ、自分が自覚をされるのは5,6歳とか、10代ぐらいにある出来事があってでしょうけれど。でも、皆さんがそうなった、原因と考えるまえに、身体に染み付いた感覚(感情のわき方のパターン)があるのです。そのために、それ(自分はいらないんだという感覚)を取り除くために、人の役に立とう、とされているわけです。でも本当は、役に立ちたいのではなくて、大切にされたい、のでしたね?でもどう友情を築いていいのかわからない。さらに寂しさがあるから、なんとなく、非ダイレクトな方法を無意識に使われる。それで、数学をみてあげたり、というのは、「友達になりたい」という意思表示ではあくまでないんです。数学がわかるから、教えてあげる、という意思表示ですね?数学わかるよ、教えてあげる、ありがとうー、、らっきーということですね?利用をされているのではなくて、数学がわかるから、教えてあげる、ということなのです。利用をされる方々って非ダイレクトな方法を(自分の意思を隠すために)使いながら、相手にわかってーと必ずやってしまうのです。たとえば、なんだけれど、恋愛であれば、なんだけれどね、教えてー、教えられてーというのが、確かに親しくなりたい言い訳、であることはあるよ(息子が数学教えてたな、相手の女の子は彼を好きみたいで)でも、友情だと、余りそういう非ダイレクトなことはしないほうがいいです。もちろん、友達に数学を教えてあげて、もっと親しくなる、と言うのはあるし数学を教えてあげたら、その人は思ったよりいい人で、気があって、仲良くなるというのはあるよ?恋愛でも、ここを狙っているわけですよね?無理に人を好きにさせることはできない、でも好きになる要素があるから、チャンスがあれば、好きになる、きっかけですね。でも、数学を教えて、親しくなる、というのはちょっと無理があります。だとしたら、それは、やはり嬉しいし、でも数学が終わったら終わるのは当然なんです。誕生日をしてもらえる人って、どこかで、あ、もうすぐ誕生日、と明るく言っていたりします。プレゼントがほしいわけではないんだけれどどこかで誕生日のことを言っていたり。後はぜんぜん気にしていなかったりね。友情をこびているのではなくて、お互いに楽しんで何かをするということもとても大切なのです。それから、怖い人は、気遣ってもらえます。でも怖くして、気遣ってもらえるのは、(仲良くしとかないと怖いから)というのは、面倒なので、私はしません。ちょっとやってみようかな~、そしたら、誕生日、たくさん物が来るかしら?(笑)明日から、眉を濃く書き、ちょっと怖そうにしてみようかな。なーんちゃって。後、えらそうな人、とかね、権力がある人、とかね。そういう人も結婚式や、誕生日とか、してもらえるし、たくさん来るには来るけれど、これも、んー、私は、面倒だからほしい物ではないです。で、あなたも、そういう人にはなりたくないわけですよね?それらは、関心を払ってもらっているのではなくて怖いから、きてくれる、自分も得をするから、きてくれる、みたいな面も大きいでしょうし。誕生日は、本当にしてあげたければ、してあげてください。無理がない程度に。相手に何かをしてもらうために、気遣うのってそれは効果的ではないんです。さらに、自分がどんどん下に行く感じがしていじけるようになります。いじけると、その気はどこかで必ず出てきています。そして、自分が何かをしてあげるのに、テストみたいになっていてほしいことは、相手に伝えていないので、みかんがほしいんです、と他の人々に嘘をつきながら、りんごを求めている感じです。あげたくてあげているわけなんだけれど(喜んでほしくて)どこかで、これでお返しくれるかな(物ではなくて友情として関心として)なんて考えているので、どこかで相手もそれを無意識にわかっていたりね。いじけていると、明るく、あれ、そういえば、私、もうすぐ誕生日だ、なんて思い出して、言いもしないので誰にもわかってもらえなかったりもします。相手が自分の誕生日近くになれば、あ、そういえば、と伝えていたりすることもあり、それで、あなたが、プレゼントをしていることがあるにも関わらず、です。とてもわかりにくいと思うんだけれど、(というのは誕生日、祝ってね、と通常の人は言わないから)こう考えてみましょうか?あなたは、本当は誕生日を祝ってほしいのではないんです。あなたは、結婚式に来てほしかったわけでもないのです。というのは、誕生日に何をしてほしかったですか?ほしいプレゼントがありましたか?結婚式に誰が来てほしかったですか?ないですよね、気遣いがほしいのですよね?気遣いがほしいから気遣いのつもりで、相手に何かをしてあげているのでしたね?もちろん喜んでほしいのもあるでしょうけれど。具体的に思い浮かばないでしょう?「ほしい」のではなくて「来てくれない、関心を持ってくれない」事が嫌なのです。ほしいと嫌なこと、これは混乱をしているけれど、別のことなんです。これは大きな違いがあります。いじけている人々には、やってきにくいです、残念ですが。とても強い感情なので、どうしてもそちら(事件があってまた下だ、またやってもらえない、関心を持ってもらえない)に気をとられてしまう(感情が動くほうがつよい)のですが最初の一歩はほしい物に気をあわせる波長を合わせるという習慣を身に着けることです。相手に、自然に自分がほしい物を与えたらくれるだろう、と期待をして自分が気遣いをして下にいくのではなくて、本当に関心を相手にも払い、自分も払ってもらうのです。物や、色々な行動のやり取りではなくて、ちゃんと向き合って、仲良くなりたい人と、話をしてみてください。勇気がいりますよ。本当にほしい物に目を向けて行動をするのは。話がしたい、のであれば、それそのものをしないとならないです。一緒に何かを本当にしたいことがあるならば、一緒に出来る人を探すのです。どうしても感情のパターンが、「犠牲を払う」「自分はいいふりをして意思表示がない」「で見過ごされる」みたいなことに入り込みやすいのです。関心を払い、関心を払ってもらいましょう。でもそれは、「自分が何らかの親切をしたら同じ方法で返ってくるだろう」というテストでありません。結婚式に来てほしければ、きてくれるかな、と伝えることです。その前に、そうやって、こうしたいな、と言える関係性がなければ無理になるでしょう?これしてくれる、これはするね、そういう係わり合いをちゃんとする努力をしましたか?自分のこと、伝えてないでしょう?(笑)誕生日のもっと前。結婚式のもっと前。大きな出来事ではなくて、話を聞いてほしいときにちゃんと、「ねえねえ、面白いことあったよ」というようにちゃんと自分が満たされていくような、したい小さなことを相手にも自分がすることです。対等な関係を築く事柄です。そして相手がだめなときに、引きこもり、また親切を始めるのではなくて勇気をもって、誰だったら同じ関心、興味があって「自分が満たされるか」という関係を築いていくのです。ここができずに、いきなり何か(急に誕生日に親しくなってほしいとか、何とか)で満たそうとしても、難しくなるのです。続き
2011.05.17
殆どの方が、反応を中心に生きているのです。でも、反応は、その人そのものではありませんが、その人そのものと、勘違いをしやすい部分でもあります。 とても強くて、それ以外には、反応を起こしていると、行動ができなくなる(考え方も他の感じ取り方もできにくいから)部分でもあります。 たとえば、こんなふうに思われないと私はだめだ、というのも反応のひとつですよね?それに伴って人生が築かれるわけですが、でもそれそのものは、その人ではありません。だから苦しくなったりします。 だから、反応を超えると、その方自体の力とか、色々なものが現れてはきます。 もちろん、これらは、だからと言って、自分が、目標を持ってはいけない、ということではないのです。たとえば、芸能界にいるから美しくないと、というのだって、 美しくないと生きられない、この仕事はできない、と思って美しくならないとならないのと(たぶん、だんだん自分が嫌になるでしょうね。年をとるのも怖いし、)多少衰えてきたら、こうカバーをしよう、がっかりはするけれどそして美しくないと、に縛られていないから、他の楽しみをできるのとでは相当生き方は違ってくるでしょう? と言うような感じでしょうか。 でも年をとるのと言うのは、ある意味、祝福でもあるのです。さまざまな反応から生きていると、もう生きにくいから、年をとることでその見直しを自然としていきます。
2011.05.16
一つ前(だと思いますが)の日記のぶら下がりコメントに対しての書き込みです。反応は自分次第、そうなんです。それとともに、その方独特の思い込みと、くっつているのです。まず感情、それを整理するのは、感情そのものが変わります。が、感情そのものを変えていくセッションって、余り見たことがありません。ACRではできれば、そこを特化したいのです。さまざまな経験を通して、そういうことがあるのに気がついたのでもっとこちらをちゃんと整理をしていきたいと思うようになりました。いろんなことが、原因の年として その二つをまとめているところが多いように思うのですが、思うのですが、私は片側は、原因の年、というよりも、二つのことが歩きがして、それは、感情がわいたときに気持ちをどちらにどう感じて、どちらに振り分けるかが身体を含めて脳の癖がついた年が一つ、そのほうが正しく、取り扱えるからです。つまり、感情がわく癖がついて、どういうふうに感じるてどう処理をするかが癖をついた、それが解決できるのと、思い込みと感情をはずす、こうすると、正しい判断ができます。この2段階です。こちらの、ブログでお伝えしているのは、思い込みと感情をはずす作業をしているわけですが気持ちそのものがどうわくか、という癖についての解決が本来はしたいことなのです。で、この方でいえば、ある嫌な感情がわくと、(ここを軽くするの自体がセッションですね?)以下は、書く事で、思い込みと感情をはずすことの整理をしていきたいわけですが)自分が暇だと思われていると言うか自立していないと思われていると言うか、そちらの思い込みが出てくるので事実が曲げられますが、これは誰にでもあらゆる状況に当てはまります。ある方は、たとえば、いつも自分にばかり愚痴を言われるゴミ箱だと信じていたら自分ばかりに愚痴られる、ある人は自分ばかりが低く見られてこう愚痴られると信じていたら自分ばかりが低く見られて、軽くメールをされる、と言う話になります。事実と感情がくっついていると、嫌なんだけれど整理ができない、と言う状態になりますがそれらがないと、一回一回違う状況が起きていることが気がつきます。そのために正しく対応ができるのです。今はだから、主人に依存をしていると思われていることは、事実ではなくてあるいは、相手の依存についても、事実は何が問題ですか?何が問題ですか?という問いかけをしたにすぎません。たとえば、他の感情の説明をすれば、強い感情に怒りがありますが、怒りというのは、事実を曲げて見せてしまいますから怒りと、自分ばかりが幸せではない、と言うのがくっついていると怒りの整理をするのが一つですが(つまり感情のわき方そのものをかえることです。たとえば、あれ、これって違和感程度にですね。わき方を、なんだ、これかあと捕らえられるように)もう一つの整理は、幸せではないとくっついてしまっていることをはずすことです。幸せではない、と思っていると、相手が何かを言うたびに反応をします。結婚生活が大変でさあ、と言っているとして、自分が結婚をしていないとかであれば、その人に反応をするとカチンと来て、反感を示したくなったり。でもそれだと、幸せな人とは話ができない、自分がさげすまれているように思いすぎて(その人だけが感じてしまうことで、相手はまた違うことを考えている感じているのですが、毎回)ということになります。というような例を挙げて説明を一つ一つしているのがブログです。感情と思い込みがくっついている部分が、巷で潜在意識と呼ばれているところと関連があり、事実がおきやすくなるところです。
2011.05.16
アドバイスいただけたら、ありがたいです。以前、反応について・・見かけたのですが、例えば、「依存」という言葉が私は苦手です。でも、世間には色々いう人もいて、専業主婦=旦那に依存していると決め付けるような人も存在しますよね?誰しも、経験しなければ分からないこともあり、妊娠中も仕事をしていて、今は子育てや、やるべきことをこなしていますが、専業=旦那に依存しているという言葉に納得はできません。例えば、私の友人達は、ほぼ既婚子持ちとバツ1シングルマザーですが、1人のいわゆるパラサイトシングル・・もう友人とはいえないような人から、理由つけ何かと私にウジウジ連絡してきたり、酔っ払って誤発信してきたり、相談されたり、うちのことをあれこれ言われ、間違っている意見はスルーし、育児も忙しいので、あまり相手にしていません。自活も結婚や子育ての経験もないのに、主婦は暇的なことをいってきて、勝手にいってなさいと思い無視しています。もちろん、すべての独身の方にそうとは思いません。知人の独身の方は経験ないことにむやみに立ち入った発言はしません。立場が変わったり、転機ごとに友人関係も変化していくなと感じるこの頃です。実際に依存と言われると、ムカッとくるのは何か心にあるのでしょうか?経験者から的確な意見ならば納得するのですが。 彼女の場合は、もう不快なので距離をとろうと思うのですが、例えば世間話でも、結婚後に派遣でフルタイムで仕事していた件も「それ所詮派遣でしょ?」と言ってきました。例え派遣であろうと、仕事には集中し雇用形態範囲の責任感をもってこなしていて、正社員の話をいただいたんです。彼女は、ずっと派遣ですが、私自身は派遣に偏見はないけれど、派遣だから仕事ずる休みしたり、所詮派遣だからいいや~という人なので、派遣切りに合い、愚痴られたこともあります。お客さんからの連続電話も仕事なのに、受話器をあげてすぐ切ったりしていたみたいです。今じゃ、また、仕事やめるんだ~、私飽きっぽくて・・・と。そんな、彼女に付きまとわれて少し困っていますが、主婦は楽だ、とか、産んだことも自活経験も無いのに、職場でも小さい子供預けるってどうかと思うんだよね~、幼稚園の送り迎えで立ち話をしているママには、は~暇ね(笑)と話してきます。3歳まで預けない方がいいよとか、私には私の仕事復帰の目処や、家庭のバランスや子供のことの考えがあるのに、主婦=旦那に依存という彼女は、何年も連続で彼に振られていて、私に泣きついてきます。まあ、彼女に限らず、「依存」という言葉は昔から、苦手なんですが。。。 ----------------------- あなたの訓練、なのですが、うんありがと。でも大変だから●●するんだ。うんそう?でも案外、人付き合いとか朝のお付き合い、私は大変だった、というのを気軽に言える友達になることを今後はしてみてください。もちろん、今の彼女とではなくて、今の彼女とは距離をとってかまいません。でも、今後ね。同じようなことがあったら。 そういったことを伝えるのがしにくいので、あるいは伝えても、言ったことですっきりできるということがまだできないので相手がスルーして嫌なのかもしれませんが、いちいちかちん、とくることを言われ続けていてお疲れのご様子ですから。 この遠慮の部分が、相手に依存をされるようになっていきます。そうだね。でも主婦って意外と大変よ~、と言うのがふと気になっていえないので、そのために、相手にも学びがなくなるのです。あ、そうか、そういうところも他の立場から見るとあるのかなあ、とその時には面白くなくても学ぶ、と言うようなところです。これが関係性かな。 そのために、どんどん相手は嫌なことを言ってくるようになります、我慢をしている限り。 それで、言ってしまうと、もめる、とか、色々お考えだと思うのですがここが潜在意識の面白いところ。実際に、本当に相手を信頼して言えば大丈夫なことを学ぶと自然と変わっていきます。 先日も、実は似たような事件があって、高校時代の友人二人がもめていました。その二人とも素直だから、自分の意見を言うのですが、それが、お互い、相手にカチンと来るのね。そしていよいよ、お互いに我慢をできなくなって、ぶわっともめごとが出てしまったのですが。 でも私は信頼をして、「そうなのーこれは、でも私はできないなあ」なんて、意に沿わないことは、その場で、いってしまうのでそうすると相手が返ってかばってくれるのです。「うん、そんなの出来ないこともあるよね、忙しいから当然だよ(本当はそんなんでもないだんけどねー えっへっへ)」みたいにです。 その二人がいると、「こんなお料理を私は一生懸命作っているの」と片方が言えば「私はできないから、いけないって言うのね」みたいに双方がお互いに感じあっていて。ということでしたね。 それも二人が本当は優しいから。遠慮でいえないけれど、反応を起こすからお互いにどんどん何かが起きるのだけれど。そして言うときには、絶対にわかってもらわないとならないみたいになるので、そこでまたわかってもらえなかったり。 本当に信頼をして伝えるということは、今後の人生の学びです。相手を、というのもあるかもしれないけれど、自分が気持ちを楽にできるように自分のために、ということもあるでしょう。また、主婦でもなんだか、だからこそ、かな、立派ではないといけない、みたいな思いがあるように思います。主婦で暇なのはいけない、とかね。自分をかばおうとしている面がないかどうかも感じてみてください。別に主婦になったら、だから、夫に頼っているところがあってもよいのです。主婦だから頼っているのは、いけないことだ、そんなことを言われたくない、しっかりやっているのに、と思いすぎて反応をしています。相手はそういうことを言っているのではないのですが、そう聞こえてしまうということですが。そうなの、それはしたくないなあ、こんなことでね、と自分を相手に反応なく許す、と言う訓練ですね。暇なこともあるよ、うん、まあ、よいところもあるし、うん、と自分が相手の言葉をそのまま流すように受け入れるのだって一つの手なのです。頑張っているところはたくさんあっても。。(今は、いっぱいいっぱいで無理でよいのよ) 主婦で依存という言葉に反応をしてしまう部分だけれど、これもなんだか、主婦で怠けている部分もあってよいのも、結婚をして確かに良い部分があることも、受け入れてみてください。当然~、人である以上、疲れるから休むこともある、(でも主婦は本当に大変だけれどね、)当然、頼っていたり守られていることもある、言われるほどのことはないけれど、別に頼っていると思われてもいい、いちいち、ちゃんとやっていないといけない、と思い込んで、反応を起こさなくてよい、彼女のほうの言葉を言えば、あなたは主婦で依存をしていてだめだ、そういうのはいけない、と言っているわけではなくて それって、所詮派遣でしょ?については、彼女自身も、熱心に働く気がないので、たいした仕事じゃないじゃん、と言っているのではなくて、そんなに、熱心にやる必要ないじゃん、という言葉のほうが、彼女の感覚には近いです。 少しさめている言い方をされるのかも、しれませんね。 暇ねえ、と言っている割に、暇であることを、仕事の仕方を見ていても、彼女は嫌っているわけでもなさそうです。あなたのほうがした、とか、私のほうが頑張っているのに、と言われているといちいち反応をしなくてよいのです。それらの言葉は、いいなあ、いいな、そんなのいいな、私は、なれなくてずるいな、と言うような可愛い言葉だったり(可愛いと思えなくていいけど)あるいは、「私も、それはちゃんと考えているよ、知っているよ、」と言う言葉であったりします。ちょっと知っているよ、とアドバイスをして力になりたかったり(相手に配慮が足りないとはしても、) ちょっと、彼女のほうも、話をしたいみたいな、助けを求めているような気はします。 まあ、反応がなければ、聞き流せる部分は相当に増えてはいくことでしょう。あ、私は立派ではないといけないと思っている、主婦だから甘えてはいけないと思っている、主婦だけれど立派に頑張っている、やっている、そんな風に反応をしている、悔しい、頑張っているのに、わかってもらえないと反応をしているちゃんとしているのに、なんだか相手に配慮をしてもらえていない、そう反応をしていらいらしている私がいる、 それとは別に、彼女のほうでいえば、私だって知っているよわかっているよ、できるんだから、と言う、やや甘えたい、彼女がいる、だけれど、私はそれはそれでいいや、自分の反応に巻き込まれずに、ああ、反応しているなと、眺めてみよう、と言うような方法が、瞑想だったり禅だったりするのでしょうけれど、セッションではこの反応そのものを、改善をしていきます。つまり気にならなくなるよう、過去のこわばりを整理する、ということですね。 で、もう一つ言えば、主婦は暇ねえ、については、ごめんね、私なりに頑張っているからさ、嫌な気をするよ、そういうことばかり言われるの、というのは、今後は大切な関係では伝える必要はあります。(ではないとその人との関係は無理になるから)あくまで、大切な関係ではね。 そんなことから、考えてみてください。決して、彼女と距離をとりたければ無理をする必要はないです。今、そのように距離をとらないといずれもう大爆発をするでしょうし、我慢も限界に来ているようですから。 ただ、何ごとも学びだから、今後は、そんなことから考えてもよいかもしれませんね。 相手の気軽な、経験のないアドバイスには、自分でやってみなよ、大変なんだよ、実際に立場になってみると、そういうことは、良く人生であることもあるでしょう。いらいらすることも、あることでしょう。でもきっと上手に乗り越えられます。時々いらいらしたってよいのだから。相手が自分で経験がないことほど、もっとこうしたらいいのに、簡単じゃん、ということは、言われがちなものです。ご自身が整理をして、そのアドバイスは、余り反応はしなくて良いとともに、そうやって、楽になっていくとともに、皆がお互いの立場を分かり合いつつ、配慮する社会を築きたいものですね。^^
2011.05.15
もうお一方、お答えすることが残っていますね、すみません。それといずれ書いていきたいな、と載せた事柄と。 メージできない、というよりも、自分はだめだと信じている中にいて、傷つかないようにご自身を守っておられますから。そして頑張るんだけれど、どうせ世間が、これがあれがさせてくれないじゃん、という怒りもともないます。素直に向き合えない感じで。行動しないと、失敗もないからでも学びもないし、でも傷つかないでしょう?そして素直にもなれないで誰か(あるいは自分の欠点)のせいにもできるのです。物事が進んでいくには、ここの改善も役に立つものです。人は諦めると、傷つかないように物事をはすに見るようになります。また感じてみたい意欲や素直な、希望というものを持てるというのは非常に力になるのです。
2011.05.15
意思と言うと、硬い強い物ばかりの印象がありますがそうではないです。柔らかいもの、優しくできるものもあります。 たとえば、これは、自分には合わないからしないよそんなにあくせくするのは自分のスタイルではないな自分なりの頑張り方はこんなふう、というものを守れるのだって豊かな意思なのですから。 罪悪感(こうではない私はだめ)からではなくて、自分はこれでいいんだな、というほわっとした安心感から本当の意思はわくのかもしれませんね。
2011.05.12
現代人の問題の一つは、自分の意思が感じ取れていないんです。そしてすべてが原因探し、よくなること探しになっていて、それだと、回答が見つからないです。つまり、こうなりたいから何が必要?と考えるところが、その発想がでなくて、常に物事が「何が足りていないの?どの言葉を信じたらいいの?どうしたら幸せになれるの?」というように周りから探そう(回答を求めよう)とする癖があるので、そうすると見つかりません。つまり、あ、これだ、これをしてみたいな、という部分をつなげていく必要があるのですが。そうしないと自分のものはオリジナルなので、なんだかよくわからなくなるのです、総てのことが。無理に言葉で理解をしない、というのは、原因探し(何が足りていないの?発想)をしてもそれは外れている、ということです。だからそこで考え込んでも何も変わらないからですでも、探してもよいのは、「自分はこうなりたいなあ」「であれば、何が必要かな?」という逆経路で探したことについては、正しい方向で物事を探せます。ここ(自分がああ、これだ、と確信を持つこと、自分を信頼すること)ができなくなっていて、自信をもってこうなんだな、だったらどうしよう、と感じ取るところが感じ取れていなくて、自分が自信をもってこれだ、これを得るためには何をしたらいいかなと思う部分について、傷つくからしない、経験がないのでそんなの失敗するかも、怖いというような無自覚な感覚で、そうしないようにずっと原因探しをします。自分と向きあわないために。そうやって、自分とは繋がりにくい、だから、回答を探そうと言う生き方を見直すような整理をしていく時期にきているんでしょうね。
2011.05.12
自分が人を見下すのは、なぜ、という書き込みがありました。それについては、前に日記に書いた気がするので、そちらもご参照ください、たって、探すのが大変な整理されていないブログでいたく、すみません。 さて、今回は3名の方が書き込んでくださったので、それぞれにアドバイスをしたいのですが、お一方は、人を見下し、そうするところ、自分もくだらないと思ってしまう、人との関係を維持するのも大変になるし、好きな人は神のようにあがめてしまう。とのことですね? そして、今後は、くだらないと避けてきた人間関係や友達にもなじんでいって異性との関係を確立したいとのことですね? とてもよいお志に思います。 さて、この書き込みだけではよくわからないのですが、おそらく課題は、ご自身がそのままでよい、という感覚を全くもてないままにお育ちな感じはいたします。 で、おそらくは、ご両親のどちらかも、馬鹿みたい、馬鹿じゃないの、というように感じ取られることもおありだったのかもしれません。 人は、幼少期に自分が感じ取る感情を学び、それを生涯続けるのでそれを変えていくのがセッションになるのはお伝えをしているのですがだんだんとこの目標がしっかりと確立しつつあります。 それで、今後は、ご自身を、観察をしてみてください。どういったときに軽蔑のお気持ちがわくのか、何かをしてその成果が良くないときなのか、夢を語るときなのか、何が起きているのかを探っていきましょう。 人それぞれ、パターンがあり、それは他のお二人の方の相談に乗りながら例を挙げたく思いますが、通常は、自分が感じ取る感情がゆがんで固定をされています。 たとえばやる気を(相手も自分も)見せそうになると軽蔑がわくとか、やったことが失敗だと思うがっかりする気持ちを避けたくて軽蔑がわくとか、悲しみを避けて軽蔑がわくとか、これはとても感じ取れなくなったところですから根気良く探してみてください。セッションではここをつなげますが 取り急ぎ、たとえば、相手がやる気を見せそうになると、はー馬鹿じゃないの?というように感じるとしたら、やる気=馬鹿みたい、許せない、といった感情が同時にわく癖がついてしまっているので、「あ、やる気がわいたんだな、それを誤って軽蔑で止めているんだな」「何もしないように」という学びが必要になります。ご自身で探せそうですか?ここが一番探しにくいかもしれませんね。さらに通常は、それにもう一つ他のことが加わっていることもあるでしょう。 それと一つ付け加えるなら、自分が自分を軽蔑するときには、本当は違う気持ちを感じたいと心が言っているんだな、と温かく接してあげてください。本当は自分を軽蔑したいのではなくて、でも方法がわからないからそちらを感じ取るように思います。たとえば、心を開いてみたい、のようにですね、でも怖いし、馬鹿みたい、はーみたいに感じるほうが自然なのでしょう。 何かをすることはとても悪い、みたいな何かの判断を、ご両親のいずれかから受け取っている方もおられます。 神のようにあがめるということは、お気づきの通りに、相手にとっては、あなたは、低い人になるので、恋愛の対象になりにくくなります。そしてさらに、人と人として交われないと、相手にも欠点があるので、それを見たとたんに余りにがっかりしすぎてしまうとか、何かがおきやすくなるので整理をするのはとても良い目標に思います。 さて、次の方の相談ですが、 相談者さんと同じような(厳密にいえば少し違うかもしれません)事を最近すごく感じるので、便乗させてください。私は、自分が相手の方に対して少しでもすごいと思えとるとお話したり・興味を持ったり・もっとお互い議論?というか、お互いの意見交換をしたいと思います。自分の事で恐縮ですが、最近気付いた事でどうもちゃんとお互いの意見を言い合える人が男女問わず好きみたいです。なので、自分の意見を持っていても言葉にしない方や自分の意見や考えを表現しない方はなかなか理解しがたいので、深い付き合いをしたいと思えません。こう文章にすると自分でもとても人間関係を狭めているのかと思いますが、今の私には互いに意見を交換できる人を求めているのかと思っています。本題ですが、私の場合で言えば、だらだらと結論のない話や何が言いたいのかわからない話が面白くなく見下すというか「で、いったい何が言いたいの?」と顔に出だり、言葉に出してしまいます。じゃ、私はどうなんだ?と言えば、もちろんいつもいつも起承転結にまとまり、誰が聞いても面白い話ができるわけではないのは理解しています。どちらかといえば、私自身が「で、何が言いたいのかわからない話」をしている事に嫌気がさすというか、出来ない自分を責めている?認めていないからかと思いますが、どうでしょうか?-----------------------こちらの方については、「私はとても話したい、議論をしたいぞ、まじめに真っ向から、じゃないと怒っているんだぞ」みたいな意欲が上手に受け止められずに感情が固定をされています。 おそらく、セッションをするとあがってくる気持ちは(私が探すのではなくてその人が自分とつながっていく)なんで向き合わないんだ、とか、なんでもっとちゃんと話さないんだ、というような誰かの怒り、あるいはご本人の怒りのような気がしますからそれに触れて(触れるというのは同時に癒されていきますから)いけば、なんだか話せなくてつまらないなー、他の人と話してみよう、というような気持ちに変化はしていく可能性もあることと思います。あるいはもう一つ可能性があるのは、双方同時にそんなことが出てくるのかもしれないのですが、面白く話せないことは、もうぜんぜん価値がない、みたいな、話せなかった寂しさみたいなものや自分の価値感や人の価値感を、内容があるものを話せてはじめて大丈夫、みたいな、何かが怖くてそれを解決する方法がそちらにいくみたいな癖を持ったことが、あるのかもしれません。 すごく話しに内容がある、ということが、あなたにとってとても重要なのですね? ですが、取り急ぎ、何かに怒っているようだ、あるいは話せないことは、とても恐ろしいことに感じている、というのは知っておくと面白い変化があるかもしれません。 ----------------------私もまさにそういうタイプです。人の自分との力関係に敏感というか。同じような人間関係しか築いてないと思います。ワンパターンなのです。それに当てはまらない人とは居心地が悪いので交友関係は狭いです。また、好きになった人は、本当に神のように崇めます。人だけでなく、なにか、価値観だとか、音楽や趣味でもいいですがハマる瞬間があってその時にはそれが史上最高の価値になってしまいます。自分の生活すべてを捧げてしまいます。(なぜか危ない宗教などにははまりません。ハマるのは趣味的な物)しばらくして冷める時も来ますが。中略- 最近はあきらめ気味です。私って変人なんだわ。と思い、恋愛にしても相手を神と思って崇めてる、そういうのが楽しくて自己満足できる、ナルキッソスのように、自分はそれで満足なのかも?と。何かどこかに鍵があってそれを回せば、自分のほんとうの問題がかちりとみえてくるのならほんとうの問題に気づいて自己の形を知りたいです。------------------------ごめんなさい、この3名とも、私はこの書き込みだけで判断をしていますから参考程度になさってください。セッションをすると相当に違うものが出てくることも多々あります。 ですが、3名目の方は、私はスイッチを回せば、という言葉がとても面白く、私も潜在意識の、そういうスイッチを探すのがすきです。 さて、3名目の方は、あがめていてもバランスが取れているようですのでそれはそれでよく思います。 でも、どうも、1人目、2人目の方と違う部分は、おそらく、何か権力と、生きがいがやや絡んでいるような。 力関係については、1行程度の書き込みなので判断をせずに起きますが、生きがいについては、何かご自身の価値感の中で、何かをしていないとだめだというような、そんな部分があり、それが微妙に軽蔑とあいまっているような気はします。 力、とか、何かをしている、とか、はっきりとはもう少し質問をしないとわかりませんが、退屈とかそこらへんに、恐怖心があるのかもしれません。生きがいをすることを上手にできていなかったり、利害関係以外の、関係性が築きにくかったり。 そこにご自身の価値も見出したいしご自身の安心も得たいのかもしれませんね。自分はこういうものがあると安心、とか楽しむ、という方向に答えが近いのかもしれません。それと個性として興味や関心を持つ、ということは、とても大切なのかもしれませんからそちらは大切にしてみてください。趣味やそのものばかりではなくてご自身が出来たことも、その過程も、評価をしてあげてください。 とりあえず、自分に気がつくのって楽しいことです。ご自身が、自分を受け入れ受け止め、よりよい物を得ていくほうに動いてみてください。
2011.05.10
一番根の深いと思われる問題が解決していくと、次にはなにかやるべきことが生まれる(みつかる?)のでしょうか?つぎつぎ階段をあがっていくために課題ができるのでしょうか?以前メールカウンセリングをうけました。1年近く前ですが、ものすごく心境・状況がかわりました(いい方向に)。これからやるべきことも必ずあるはずだと思いますが、そういったこともカウンセリングでみつかっていくでしょうか?自力でもやっていきたいですが・・。―――――――――――――――――――――――――――軽蔑する、見下すについては、なかなかかけずにすみません。さて、ご質問について、良い方向に変わったのであれば、よかったのです。おそらくは、あなたが本当にその問題については解決を求めていたこととそれと、ご自身の感じ取り方の癖が道を阻んでいたので、それを改善することはとても歩みやすくなることだったのでしょう。それで、話が長くなるけれどごめんなさい。まず最初に、私にとって幸せは、「状態」です。幸せであるのは、その人がなれる能力があって、幸せを感じ取れるから。通常では幸せといわれる方々の中で、不幸な方はたくさんおられます。不幸というと失礼だけれど、パニックのような状態ですね?お金もある、夫もいる、でも自分の癖で、周りのちょっとした出来事がもう動揺をして仕方がない、それが取り除かれないと不幸で仕方がない、そして次々、何でか不幸に感じる、といったようにです。この状態の人は案外多いです。人生で、人の課題は、幸せであることのみであるように思います。だけれど、人は、ある「状態」になれないために、周りの助けを必要とします。回りが変わってくれて初めてその状態に入れるのですがでもそれは、本当は、回りから作り出してもらっても、続くことはできないんです。で、気になるのは、やる「べき」こと、と書いておられるでしょう?やるべきこと、というのは、義務感から生じていますか?やるべきこと、というよりも、新しい選択肢が出てきます。うーんと、よい説明かどうかわからないんだけれど、根深い問題、というのは、おそらく、あなたがおっしゃっているのは何か問題があるといけない、みたいに考えておられると思うのだけれど根深い問題、というのは、とらわれであるように思います。たとえば、両親がこうで、とか、こうではないとならない、とかそれで動きにくくなっている、とらわれているところが、根深い問題、と言われているところです。たとえば、両親がこうだから、私はこんなふうにしか生きられないとか、こんなふうな経験から、こうしかできないとか、こうはできないとか、それが、脳が覚えこんでずっとそこにしかいられない状態が、とらわれている状態です。弟のほうが可愛がられているという強い思いが抜けなくて、嫉妬にとらわれる、とかが、とらわれている状態です。とらわれ、というのは、とても根深くて、生涯、持っていることが多いです。それがなくなったという状態は、悟りを開いている、と俗に言われる状態です。で、ないほうがいいか、と思っておられると思うのだけれどこれは自由なんです。その人が持ちたい時期、もちたい種類の物を持ちたい間、持っていてよいのです。でも、とらわれている自分だと、生きにくいな、という時期がきます。この、いきにくくなって、ちょっと見直してよ、というのが、課題です。ちょっとさー、前までよかったんだけれどさ、生きにくくない?というようにです。たとえば、学歴に対して強い憧れがあるからこそ、あるいはそうなれないと違ういけないという恐怖心があったからこそ、頑張れたのが、それが、前まではエネルギーだったんだけれど、自分より上の人がいたらとたんに卑屈になった、やる気がなくなった、これであれば、生きにくいですよね?もう一つの例でいえば、弟ばかりが可愛がられるとうらみに思っていたので、同じように、他の人ばかりが優遇をされているという気持ちがあって、それは、あってもよいものだった、真実だと信じていてもよいものでもあった、自分をかばったり、抵抗をして強さを出すために、という時期があったとして、でも、あの人が優遇されているじゃないの、と反抗ばかりしていたら、やる気がないのかと、仕事がはずされた、とかはずされたけれど。本当はやりたいとか。今までかまわなかった生き方が、実害があれば、これはそのやり方では生きにくい、という部分です。で、通常、いきにくくなった部分というのは、自分で何が起きているのか全くわからないんです。というのは、通常は自分が絶対によいと思って使っている方法だから。課題というのは、絶対に自分では気がつけない、その何かを表してくれている部分です。その、現れてきた事件のように。心の地図、そう、セッションを呼ぶ方々がいます。偶然。何名かいるのだね。面白いな、確かにナー、と思いましたが、その人の地図を示してくれています。で、誤解は何か、というと、上のほうに上ることは良いことだ、みたいに人はどうしても脳に刷り込まれていますし、やるべきことがあるのはすごく良いことだみたいにすりこまれていますが、以下の理解が私にはぴったりきます。その状態で幸せになれる能力、というのは、すばらしい物であるそれは、本当に大切になるけれど、一生のうちにまあ学べればいいしそれと同時に自分が夢としている物を得ていってもよい。そして、根深い問題、というのは、とらわれが主で、そちらにひっぱられて、生きている状態そのものでもある。たとえば、周りの人ばっかり幸せでずるいというとらわれがあれば自分がどうなりたいかは脳は感じられません。そうではなくて、相手がこうだからずるいに気持ちが囚われるので何とか相手と同じになろうとしたり、ずるいずるいと囚われていじけて動けないか、同じ分野で意地を張ったり頑張ったりして、ぜんぜん自分の道を探せないだからそういうとらわれは、はずしていくとらくだし確かに相手にとらわれないで自分らしい方法で物事をできるようになるけれどだけれど、人はとらわれている状態のほうが良いと思える時期もあるのでそれはそれでかまわない。どうしてもとらわれている感情にこだわりたい時期があるのでそれもよし。人は囚われているものだし、それで一生上手にすごす人もいるしそれもそれで、よいのです。学歴頑張れ、で囚われて、一生、東大に行きエリートで、ということがあたってよい。でも、エリートではないと嫌だという思いが強すぎて子供に強く当たりすぎて子供は、かなり違う道を選びたい意欲が強すぎて、そのために、ぐれた。とかであれば、子供を通して、そうではない生き方もいいとちょっと理解せえや、人は違うんだで、違う生き方を認めてきたかい?認める強さがあるかい?ということを、受け入れる時期が来ていることもあるし、認められたら、お子さんが、変わることは十分にありえる。で、そのこだわりを捨てると課題がないのか、というと、そんなことはなくて別の角度からこだわりをとりのぞく課題があったり、あるいは、もっといいものをらくに得るための方法として課題があって当然。だけど、課題って嫌なことではないんだなー。強いとらわれ(根深い問題)が整理がついていると、その課題はとても小さく感じられる。課題というと皆には悪い物に思えるけれど、こだわりがない人にとってはもう、ぜんぜん楽しめるものがたくさんある。もちろん。人生だから、親しい人々の死や、天災などの経験も皆がします。あってよいのです。だけれど、こだわりがなければ、たとえばテレビのスイッチがまだコントローラーがない時代だとするわね?それで、つけようとしたら、遠くて、コントローラーを作ってみました、みたいな、自由な発想になるから、とらわれがないこと自体が、もう創造性そのものなんです。はっとする、ああこうしてみようと思う小さな機会と捉えられることもあります。だらしないことはだめなこと、ととらわれていたら、(つまり自分の判断ではなくてさまざまな人の教えやそう見られたくないという判断から囚われはくるのですが)けれども疲れている、と思っていたら、テレビの前でスイッチをずっとまわし続けつつそんなだらしない自分を責めている、恥ずかしがっているみたいなことになるわね?そこにしかいけないのです。そうとしか行動をできない。あるいは、くだらないことに時間を使うな、というとらわれがあってもこちらの発想は(才能があっても)出てこなくなります。だからとらわれがない時点でもう、創造的に生活がなっているんです。もちろん。だらしなくないことは大切なことです。言っているのは、人は何かにとらわれていて作られた記憶があるので、その記憶があって常に同じ判断しか出来ないのが困る、といっているのです。コントローラー発見するからといって、だらしないこだわりがないからといってその人だってかっこ悪いからお茶を足で飲むみたいなことはしないわけですから。でもつまり、何だ、根の深い問題(自分の囚われている事柄)の整理がついていたら、課題が繰り返しではなくて、軽く学べるはっとするああ、そうなんだ、おお、という驚きと楽しさ、ひらめき、みたいな形に変わりやすいです。それで、とらわれがない時点で、やりたいことは変わっていくかもしれませんね。べき、というよりも、いらないことといることが区別がしやすいかもしれません。効率が良くなるということはあるでしょう。ひらめき、を通してその人がどちらに行くかはわかりませんがやりたいことがわかるかもしれないし(べきではなくて)仕事をみっちり楽にしつつ、のんびりするかもしれないし。そのうちに書いた本が売れるかもしれないし。とらわれがないと、人との付き合いは確かにらくです。パートナーとの事で言えば、かなり問題はなくなっていくでしょう。なおかつ、面白がられる。この人、本当に面白いな、感動するな、というようないやーどうしてこういうふうに物事に積極的なん?と一回好きになられると離れない傾向は確かにあるし。パートナーシップは築きやすいとは思います。でもこれも好み。そうなる人は、もう寂しいなどの心境ではないかもしれないので、一人で自由にしたい方もおられるでしょうし。自分らしく、自分が本当に望んだ物を、手に入れていってください。で、自分でするには、ですが、何か自分が思い込んでいる価値観基準などが邪魔をしている物がないかどうかを見ていくのがやりやすいと思います。それって本当?絶対に本当としか思えないけれど、本当に本当?そうではなくても同じ(あるいはそれ以上にすばらしい結果を出せることって)ない?という発想ができれば、ご自身でも課題は乗り越えやすくなるでしょう
2011.05.10
キャシーさんの著書で、その人の問題は一つの問題が核となっている、というようなことが書かれていました。(最終的には)その核を解消出来ればいい、と。(意訳しすぎでしたらすみません)そこで私はどんなことを相談していいのかがわからないのです。自分の聞きたいことがはっきりしていないので、(キャシーさん以外の)カウンセリングなどに行っても嫌な思いしか残りません。自分の聞きたいことがはっきりしていないとそうなるのは当然なのですが。どうやったら問題って見つけられるのでしょう?私は自分を変えたいですし、魅力的になりたい、素敵な恋愛をしたいなどの気持ちはもちろんあります。もっと細かいところで言えば、自己開示が苦手だとか、相手に依存心があり、完璧なヒーローがあらわれて私を救ってくれるかも・・・と考えてしまうとかの問題点もあります。でもどのことを相談していいのかわからないのです。別に何でもいいのでしょうか?些末なことはどうでもいいから、とにかく変わりたい!という意識が強いのかもしれません。逃げてるのかな?この繰り返しで問題が有耶無耶になって、まあ別に特に困ってないしいいか・・・。→変わりたいのに何も変わってない!どうしよう?→以下ループになってしまします。いい加減前進していきたいです。意味がわからない質問(?)になってしまいましたが、アドバイス頂けると嬉しいです。―――――――――――――――――――――核、については、皆さんに誤解があるので、今後徐々にお伝えしていきます。でも、確かにそう書いたので、ぜんぜん意訳なんかではないです。ありがとうー。さて、上の方のご相談なんですが、何か明確ではなくて不安なご様子。で、これであると、一個が解決してもぜんぜん感銘をその人の中で生まないんです。感銘を受けないから、積み上げられないで元に戻りやすくなります。たとえば、対人関係で、すごく嫌な人がいて、その人と、上手に接することができるようになった、とするでしょう?ある人は、「これを解決したい、もう絶対に嫌だこんなの!」と、強く思っていたとして、そうしたらああ、よかった、という感銘があり、だからこういった直していくことに積極的になり楽しくなります。だんだんとほしい物が手に入ります。方や、自分の問題がほかにあると、ああよかった、と思わないんです。というのは、変えたいところが、本当はここではないから。よって、何かが変わっても見逃します、感銘も生まないし何も変わらないじゃないの、ということになります。つまりその人との関係でよくなりたいのではなくて、問題がほかなので嫌だな、これじゃないんだけれど、と感じるからです。よってよい経験を、積み上げられない。それで、この方が、本当に改善が必要なのは、ずっと自分を変えたい、変えたいとおっしゃっていて、そうすると、「なぜ私は生き生きできないのか」というそのパターンそのものなんです。ループとおっしゃっているけれど、この言葉は適切だと思うんだけれど自分の違和感は取れない。だから、「何も直っていない」になりやすいのです。さらに、目的もわかないから、ずっと考え込むループにもはまるでしょう。というのは、元の主題である、問題が収まらないから。主題は、「なぜ私はいつも生き生きしていないんでしょうか?」ということそのものだから。私は不満だ、あるいは不安だ、だから。だからそれそのものを解決していくことは、とても大切になるかと思います。で、ごめんなさい、直接お話をしたりさせていただかないとわからないのですが、おそらくは、何らかの自分が生き生き出来るエネルギーをそれはいけないこと、みたいに上手に出せないのだろうとは思います。だんだんとセッションは進化をしていっているとは思うのででも最初から全部うまく行くわけではないとは思うけれどセッションだと、ああ、そうか、この人、こんな風に生き生きは、できずらいんだなというのはわかりやすくはあります。さて、それとは別に、自分が達成したいものがほかにおありであれば、そこで動いてみて問題が起きるから整理をする、という別のことが必要です。皆さんの問題は、二つを一つに混ぜてしまうことです。一つは、今回りで起きている事柄。そして、それそのものに接すること。この方であれば、生き生きするエネルギーが、なんだかナーというように行きやすい癖。たとえばこの食事がおいしいな、と思うことよりも、何かに引っ張られてしまってそんなのくだらないとか、自分がだめだとか、 何かに言ってしまうためにあーあ、なんだかなーと感じやすくなってそこに入りやすいようなこと。もう一つは、目標。今回りで起きていることを、整理をしつつ、目標は目標で勇気を持って動きつつ、出てくる問題に対峙することが必要です。
2011.05.10
長年セッションをしてきて、分かったことがあります。また、自分自身でもしっかりと感覚がつかめたことがあります。 それは、虚しさは,本当に求めているものと、出会わなくなったために起きていることだ、本当に求めていることを、探す必要がある、ということです。頭で考えてはダメだよ、探す、というのは、頭で探すのではないからね。 心がホッとすることを学んでいくということだから。 頭で探そうとすると人は動かなくなります。これを探せないと何もできないみたいに感じるだからだけれど、そんなことはないからね。探しながらも動いて解決だってしていけるし。 みなさんは、本当に欲しいものは、外側にあると思っています。でもそうではないのです。例えば、お金持ちになりたい、その目標はなぜでしょうか? 満足をしたい、安心感を持ちたいそれぞれに、「自分はおそらくそうなれば、こういう気持ちを感じられるから」という理由なのです。 もてたい、それは、自分がウキウキしたり、自分はすごく素敵な人なんだなと「感じたい」からです。 人は、何かをもとめるときに、その目標が欲しいのだと思うのですが実際にはそれを通して今感じていない「何か」を感じたいと思っているのです。 感情がなくなってしまった人々を観察した医師の記録によれば、だな、感情を感じる部分が壊れたら、あらゆることが決められなくなる、といいます。あたりまえです。人は最後は、「これがやってみたい、これは、自分はしたくない人に悪く思われたくない、好きじゃない、やってみても、満足には思えないだろう、これはしないと周りから非難をされるかな、怖いし」といったように、感情で、物事を判断をしているからです。 あらゆる事柄の最終的な判断は、感情でなされているのです。驚きじゃろ~?でも教えられたことに歯向かってはいけないという感覚とかさ、あらゆる自分の感覚で(感情で)決めているのだな。 理性で決めないと、というのだって、失敗をしたくないという何らかの気持ちが動かないとならず、そのために感情を起こす脳の部分が壊れれば物事を全く決めることができなくなります。 試しに、じゃな、正解とほかの人が思っているのにスッキリしない場合を考えてみると、自分らしく選びたいのに選んでいない(感情でちゃんと選べない選ぶ方法がわからない)場合にずっと不安になったりするのじゃな。 なお、感情というのは今後話していくけれど本能そのままのワガママとも違います。 さて、虚しさですが、その自分がつながりたい何かを失ったまま(つまり感じられないまま)感じる方法が分からずに物事でそれを得ようとしたけれど、本当に感じる方法がわからないのでそれをしていると、心がだんだんとすさんできます。 本来、人は、得たい感情をちゃんと得られていれば、すべての物事がきちんと収まります。何を見たって楽しいしどこにいたって美しいし、というように、です。 「何か」を感じたいのにわからない、安心感を感じたい大丈夫だと感じたい、でもそれを感じることができなくなったできないから、何かをすればいいんだと思った、必死でやってきたのにそれでもこれでもあれでもなかった、としたら、 その人はやはり、疲れるでしょう? 私がセッションでしていることは、この感覚と本人をつなげることです。そしてそこにつながったとき、なにこれ?こんな簡単なことで感じ取れるんだという安堵感から、静かに理由もなく涙を流す人々が多くおられます。 一へんでつながれる場合ばかりではないし、最初は不安をくぐり抜けないとならないかもしれないし、セッションでああ、大丈夫だと感じたのに日常の生活でまた戻り、そして感じという何度も訓練が必要になるかもしれないし だけれど、とりあえずそこを感じる訓練をしているのです。 セッション以外でアドバイスをするとしたら、理由を考えるのではなくてその欲しい感覚そのものにつながる訓練をすることは、大切です。 おそらく、何らかの安心感、あ、自分がこれがいいなと思ってしたんだけれどああ、本当によいんだな、と思える訓練などが必要なのでしょうけれども それらに役に立つのは、緊張をとくような何か、ヨガとか体からのアプローチをしてもいいんでないかな? 私はダイレクトにその感覚そのものに本人をつなぎますし、そのためには、間違って感じてしまう感情,幼少期に出来上がってしまった、例えば自分がこれがいいんだと思ってああ、そうだ、と安心をできずにだって、怒られるという気持ちばかりを感じる癖が付いていたら、怖い、良いなんて思えない、といったような感情の癖がついていたら、その感情の癖そのものを変えていく作業が必要になるし、 あるいは本当にお金持ちになってよい気持ちを感じられる(今も)人であれば、それはやがて叶うでしょう。 つまり、お金持ちになったら気分が良いだろうなあと思ってもその「状態に」今もあれる人と、「私は生涯気分が悪くて人を恨んだり、嫌だなと思う気持ちのほうが多くて想像では幸せな気持ちを感じられるんだろうけれど、そちらより嫌な気分のほうが自然だから、そちらにばかり気持ちが行ってしまう」人だとどうしても、良い気分を感じるというのがあまり現実的ではないから頑張れないというような説明になるでしょうか? そんなことをさせてくれる、ほかの方法では、ヨガとか、瞑想とか、さ、そう言った体の緊張を取ればその感覚につながって安心をしたら自分が大丈夫だと思えてくる人もおられるでしょう。 でも問題は、「すること」ではないのです。「何を叶えたらよいか」でもありません。そうではなくて、「自分がいつもそちらに引っ張られる何らかの感情の癖があって、常に良いと感じられない感情の癖」にあるのです。 だから何をしても満足になれないしあるいは心は本当の動機を知っているので(つまり、その気持ちを感じたいんだけれど目標を達成しても下の癖になっている感情ばかり感じるなと知っていたら)「こうしたら幸せになるだろうな」と考えても行動ができません。 またまた例えば、ある人が、自分だけが幸せではないと感じていて、だから幸せになりたいと思うとするでしょう?でもその人はあまりに「この人もあの人も自分より幸せだ、にくい」みたいな気分が強ければ、その人は生涯、にくい、という方にしか心がどうしても行きにくい癖があるのです。 その結果、どうなるかはとても明らかでしょう。ほかの人の幸せを喜べない訳だから、幸せな場所にもいないだろうし。心穏やかになる訓練もないのに、「何か自分だけを幸せにしたら幸せが感じられるんだ」というのは至極不自然です。 行動ができないしたい夢、というのは、本当は心が何かを感じたい道具のためにその夢を選んでいるのですが心が最初にその状態にないので、そこに向き合えないのです。そうなったことがないから、行動がおっつかないのです。 そうすると、夢想状態になるわねえ?熱心ではなくてすぐに目標が変わったりね。 うーんと、わかりにくいから少し説明をすれば、例えば、自分が何かをして満足をしている経験があるとするわねえ?満足をする経験があるから、これをしたら満足するな、ともう「感情が」知っているから当然それをします。それは無意識に行われます。 例えばチョコーレとを食べれば、今日は満足と感じていれば、自然とそれを食べながらほっとして、ああいい一日だった、と思えるような、自然と行動をしていつの間にか目標は達成をされています。 でも不安がいつもあるとしたら、チョコレートを食べてホッと自然を眺めたいという本来の目標が見当たらないんです。そして、不安からどうしよう、これもあれも、直さないと、というようにシアワセになれる目標が感じ取れなくて、ホッとすることがわからなくてホッとしない原因を探してそれを直そうとするほうにしか視点がいかないのです。 ほかの例をあげてみましょうか。 満足をした経験が皆無、だとするわねえ?体も心もくせになっちゃってて、心配をするほうが自然だとか、怖いとか、例えば何をしても褒められず、何かを達成したらボロクソに言われたら、何かを達成して満足をした経験もないわねえ?体や、心が学んでないでしょう? すると、何かをしたら満足をすると分かっている気がするけれどあまりやる気になれないでしょう?だって経験がないんだもの。感じる心の癖が、嫌だな、暗いな、なんだもの。そりゃやる気にならなくて当然です。 さらに達成をしたところで、なんだか満足をするという感情のシステムそのものがないわけだから、やってみてもなーんだ、こんなもの、というように慣れ親しんだ感じ取り方に行きやすいでしょう?つまりチョコレートを食べてほっとする体が求めている感覚につながれなくてまた原因を探して相手を変えようとしていたり。 さらに人間の問題ってそういう単純なひとつではなくてその人の心の中に、複雑なのは満足感よりも親のせいだとこだわりたい感情があれば,そちらに全てを引っ張られてしまうからなかなかうつうつとするでしょう。 そうそう、そういえば、体から整理をするほかの方法としては、感情から感じたい気持ちを感じていたら、目標が達成をする、という方法もあって引き寄せや、NLPなどはそれを利用しています。コーチの大家の、アンソニーロビンスも、感情を操るという方向から、人々に教えているように思います。 だから、その失われた満足感を、心を、感情をそのものを感じ取れないと、常に同じところにはまってしまうので、それを感じていきたいんです。 という訓練をする一環として、潜在意識がまずわだかまったところを指摘することもあるんだな、読んだ方が涙が出る、と仰ることがあるけれどそれは、わだかまりに触れたときなんです。つまりこだわっているマイナスの感情をちゃんと受け止めたとき。 そうしたら、気持ちが正しい方向に動くこともあるからね。心はわだかまりに触れるとようやく今まで感じてるマイナスの感情(つまりマイナスの結果に導くもの)から、ああ、これなんだという満足感安心感ホッとした感、などに移る準備が始まるからです。
2011.05.05
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