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自民党政治の終焉近し 番外編(2)自民党だけでなく、自民党補完に回った公明党にも大きなダメージが加えられた選挙でした。戦後政治史の大きな転換点が、ようやくやってきたのでしょうか。結果は民主党の勝ちすぎですが、党首以下幹部が全員小選挙区で討ち死にした公明党、古参の守旧派が1部を除いて討ち死にした自民党を見ると、国民の意識は旧来型の利権政治との決別を 強く求める意志をはっきりと示したように思います。官僚との癒着、各種圧力団体へのバラマキ、そういった政治の仕組みが制度疲労を起こし、誰の眼にもあちこちのパイプが目詰まりを起こし、動脈硬化していることは明らかでした。小泉改革と言うチャンスをやったのに、それも途中で放り出して、古い利権体質に逆戻りした。公明党はそれを支えた。そうした一切にようやく鉄槌が下ったのですね。今朝は海外の論調に注意してみました。「変化を嫌う日本が、遂に変化を選択した。これで日本が本当に変わるのかに注目したい。」最大公約数を取るとこうなるでしょうか。民主党もこれじゃら大変でしょう。昨夜からの民主党幹部の表情を見ると、浮かれた様子はないですね。責任の重さと、寄り合い所帯の党内のあちこちが抱えている圧力団体、利権に集っていた魑魅魍魎たちを、どう捌いたらいいのか。難関の伏魔殿の官僚機構をどう抑えるか。難しい課題を抱えていることを理解しているからでしょう。スタート当初は、失敗を恐れずスピード感を出すことが、国民を味方につけるうえで重要だろうと、私は考えます。ともかく来年の参院選まで、走りぬいて欲しいと、今は考えています。これから仕事に出ます。皆さんのところへは、今夜お伺いします。
2009.08.31
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クロニクル ダイアナ元妃事故死1997(平成9)年8月31日12年前のこの日、イギリスのチャールズ皇太子の元妃ダイアナさんが、パリで交通事故死しました。私は、このニュースを有馬温泉での会議に出席するために乗車した新幹線の電光ニュースで知りました。彼女は、ほぼ1年前に数年前から不仲になっていたチャールズ皇太子と離婚、この日は当時の恋人だった富豪の男性とパリのレストランで食事、その後のドライヴ中を数名のパパラッチに追跡され、フルスピードの追いかけっこの果て、パリ市内のトンネルに激突、重賞を負ったのですが、脳挫傷が致命傷となって搬送先のパリの病院で死去しました。彼女を追跡していたパパラッチは、救急隊員が駆けつけた折に、なお9名が残っていたそうですが、誰1人彼女らを助けようとせず、救急隊員の作業中も、ひたすら写真を撮り続けていたと報じられました。なんともなぁ、後味の悪いニュースでした。
2009.08.31
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自民党政治の終焉近し 番外編午後8時を回りましたね。開票速報には10時過ぎから2時間くらいお付き合いしようかと考えています。マスコミ各社の予想で、民主党の勝利は間違いないところのようですね。どうしてと思うくらい、予想が大きく外れることがないのが不思議でなりません。何かドラえもんの千里眼でも持っているのかな?と思ったりします。ところで、民主党の鳩山代表。政権獲得を意識したのか、このところ守りに入ったかのような発言が目立ちますね。マニフェストからの後退、予防線の張り巡らしが目立ちます。これはいけませんね。チャンピオンになった途端に、攻めの姿勢を忘れて守りに入ったのでは、持ち味が生きません。あくまで挑戦者の気概で攻め続けてこそ、道が開けると私は考えます。ブログに頂戴したコメントのお返事にも書いているのですが、民主党の勝利は、来年7月であろう(6月末、8月初の可能性もゼロではありません)参院選に勝利して、初めて民主党政権は安定します。衆院選で勝てば、政権は獲得できます。しかし、衆院だけの勝利は脆い物です。95年の郵政解散の大勝利で、公明党と合わせた与党で2/3以上をとった自民党政権、2年後の参院選の敗北後は、見るも無残だったですね。鳩山内閣は出来るのでしょうが、守りに入って守勢に回った民主党政権には、魅力はないでしょう。オバマに託したアメリカ国民と同じように、日本国民も民主党にチェンジを期待しました。何が何でも自民党を落す。「政権交代」が合言葉なのです。それは変化です。批判にオタオタせず、すぐに結果が出るわけではない。頑張るから1年は時間をくれないか。その間見ていて欲しい。我々の姿勢がぶれたり、日頃の主張より後退したときだけ、叱咤して欲しい。弁解などせず、こういう姿勢をとる強さを持って欲しい。この姿勢が貫ければ、来年の参院選の展望も明るいでしょう。自民党政府のバラマキ政治、そして財界、特に金融界との癒着による不良債権の先送りが850兆円を超える巨大借金を作ったのです。その借金王が、どのツラ下げて「財源は…」などと暢気な質問が出来るのですか。「これこれです」なんて答える必要はさらさらないのです。あと50兆円増えることで質が変わるわけではないのです。利払いの道筋さえつけておけば良いのです。個人と違って、国家の命は営々と続いていきます。ですから利払いの見通しさえしっかりしていれば、破産の心配はないのです。ここを間違えて欲しくないですね。ところで、民主党の獲得議席、255~270議席に留まり、自公両党の議席が最小でも160議席を超えてくれるといいなと、私は考えています。衆院再可決が可能な2/3以上の議席を、自公政府のようにとらない方が良い。私はこう考えています。97年の参院選の安倍自民党の敗北は、安倍政権の内在的な弱さにも原因がありましたが、それ以上に郵政選挙で自民党に勝たせすぎた。それが強引な国会運営を生んでしまった。少しお灸を据える必要がある。国民のこうした思いが、あの自民大敗を生みました。勝ちすぎは驕りを生みます。ですから勝ちすぎないほうが良いのです。しかし、小選挙区では多くの場合、有力候補は2人になります。右か左か白か黒かのデジタル型の投票になります。それゆえ、ちょっとした流れで船は大きくぶれるのです。今回も民主大勝の危険はありそうです。マスコミ予想でも、そうした見通しが語られていますね。そうならないでくれると良いのですが…それでは結果を待ちましょう。(PM,8:25)
2009.08.30
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自民党政治の終焉近し(43)小泉政治の特色は、演劇鑑賞などで培ったと思われる、演説調ではないワンフレーズの巧みさで、一般国民を捕らえた所でした。総裁選の最中の「自民党をぶっ壊す」発言もそうでした。派閥の推薦を受けない組閣方式で、旧来型の自民党のボスたちと、あえて疎遠な関係にあるように見せかけ、小泉=改革派、非小泉=守旧派のレッテル張りに成功したのもそうでした。首相就任直後の5月、大相撲の5月場所の総理大臣杯の授与に自ら登場して、怪我をおして優勝決定戦に勝利して優勝した貴乃花に対し、「怪我をおして良く頑張った。感動した」のワンフレーズを発して、「感動した」を1種の流行語にしたのもそうでした。そして、同じ5月ハンセン病患者に」対する国の対応と責任を問う裁判に際して、国の責任を認めた判決に対し、それを不服として控訴を決断した厚生労働省を抑え、首相の決断として判決を受け入れた対応も、国民の支持を集めました。何が国民に受けるかを冷静に計算したパフォーマンスは、実に見事でした。こうした小泉人気にあやかって、同年7月の参院選に自民党は敗北どころか議席を伸ばすことに成功し、連立を組む、公明党と保守党を合わせた議席は、過半数を超えたのです。ここに参院自民党は、小泉支持勢力に周り、選挙の顔のほしい衆院でも、小泉支持派が伸張し、参院選の勝利で小泉政権は安定を見せたのでした。以後は、財政の無駄を削ること、バブル崩壊後の不良債権を引きずり、なお先送り体質を続ける金融業界と、そこにぶら下がるゾンビ企業の始末することなどの内政の課題を、解決するなど、2003年後半まで引きずりながら、問題の解決に成功しました。しかし、他方ではアメリカのブッシュ政権が始めた大義名分のないイラク戦争に協力、イラク特措法を制定して、自衛隊の海外派兵を実施する無茶な行動もとっています。自衛隊は戦闘地域へは派遣しない、非戦闘地域での民政安定が任務としたのですが、現代戦の特徴は、戦闘地域と非戦闘地域の区別がつかないことにあるのは、かつて米軍の空襲に苦しめられ、大きな被害を受けた日本人の良く知るところなのですから、これは詭弁も良いところでした。そして、不良債権問題にメドをつけた小泉首相は、彼自身の永年の主張だった郵政民営化に手をつけます。そして、郵政公社化を経て、2005年遂に郵政民営化法案を国会に上程したのです。自民党内に造反議員も出たのですが、衆議院は何とか通過、ところが参院では、郵政票で当選した議員を中心に造反が多く、政府案は否決されました。このあたりは、皆さんも良くご存知のところと存じます。その直後、首相は郵政民営化に賛成か反対かの民意を問うとして、一法案の成否を理由に、衆院を解散する挙に出たのです。 続く
2009.08.30
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皆さんへ 20万アクセスをキリ番に私がブログを初めて、あと1ヶ月ほどで、丸3年を迎えます。皆さんとの交流のおかげと感謝しておりますが、その丸3年を前にして、9月半ばに20万アクセスに到達しそうです。昨日195000アクセスを超えました。多分9月の15日前後の到達になるのでしょうか。そこで、20万アクセスをキリ番に設定しようと考えました。今までは、何もしてこなかったのですが、先日思いもかけずタックン22さんのキリ番を踏んで、思いがけないご縁も生まれましたので、何を記念にするかも考えていないのですが、とりあえず、20万アクセスをキリ番とし、交流のある皆さんのどなたかに、踏んでいただけるとよいなと、考えました。どうぞご協力のほどを、お願いします。 ザビ
2009.08.30
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クロニクル 王選手800号本塁打達成1978(昭和53)年8月30日ジャイアンツの王貞治一塁手が、31年前のこの日通算800号の本塁打を放ちました。太洋ホエールズとの試合の第3打席、投手は左腕の大川投手でした。王選手は、入団4年目の1962年に荒川コーチの指導を受けて1本足打法を取り入れて才能が開花し、この年38本塁打で本塁打王に輝き、以後引退まで1本足打法を貫きました。王選手が始めて1本足打法で打席に立ったのは、1962年7月1日の対大洋ホエールズ戦(川崎球場)でした。この試合の第2打席で稲川投手からライトスタンドへの本塁打を放つなど、この日5打数3安打4打点の結果を残したことが、1本足打法に確信を深め、不世出の本塁打王を生むことに繋がりました。
2009.08.30
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自民党政治の終焉近し(42)2001年は参院選挙の年でした。3年前の参院選で大敗していた自民党にとっては、後のない参院選でした。その大事な参院選を、不人気な森首相で戦えば、確実に連敗になります。1年前の4月、森首相は「密室の談合」で誕生しました。非常時とはいえ、党員はもちろん、国会議員の声すら聞かずに決まった総裁でした。自分達が選んだわけではない。この気分が森降しに大義名分を与え、密室の談合の当事者からも、森首相の自発的辞任を促す声が出るに至って、誕生から1年で森首相は、総理、総裁を辞任するに至ったのです。当然、新たな自民党総裁の選出は、あらゆる点で「密室の談合」の逆を行く必要がありました。自民党の総裁選出規定は、朝令暮改を繰り返しており、大平・福田の事実上の一騎打ちとなった1978年の総裁予備選以後、一般党員の投票参加はたまにしか行なわれていなかったのです。それが「密室の談合」の反省から、殆どの都道府県で復活しました。都道府県連の票(地方票と言います)も各3票に拡大され、広島と山口を除く45都道府県連が、前年度の党費を納めた党員を有資格者とする党員選挙を実施し、1位の候補が3票を総取りする方式の予備選を実施したのです。参院選に備え、最も人気のある候補に乗ろうと考えたのでしょう。内輪で候補を誰にするか揉めた旧竹下派は、結局オールドネームの橋本龍太郎元首相を担ぎ、小泉純一郎、麻生太郎、亀井静香の4人が立候補しました。約1週間の選挙遊説では、ひたすら竹下派支配を糾弾した小泉純一郎が、田中角栄元首相の愛娘の高中真紀子議員の強力な応援を受けて、「自民党をぶっ壊す覚悟」をアピールして、大きくブレイクしたのでした。この結果、運動の手ごたえから敗北を悟った亀井静香候補は、予備選当日に立候補を取り下げたのでした。結果は小泉候補が123票、橋本候補が15票、麻生候補が0票と小泉候補の圧勝となったのです。予備選なしの両院議員総会での選出であれば、派閥の談合によって橋本再登板となる可能性が高かったでしょうし、そうなれば、自民党が政権を滑り落ちるまでに、そう長い時間は掛からなかったかもしれません。「密室の談合」の揺り返しが、小泉純一郎という、異色の総理・総裁を生んだと、私は考えています。予備選の衝撃、予備選での圧勝が、3ヵ月後の参院選を睨む議員達に、橋本より小泉の意識を強く生んだのでしょう。本選挙も小泉圧勝に終ったのです。こうして誕生した小泉内閣は、民間人閣僚を3名、女性閣僚を5名任命するなど、派閥無視の人事を貫きました。目玉は竹中平蔵慶應教授の経済・財政担当相への起用でした。小泉内閣の功績は、まず何と言っても放漫財政の追放による財政規律の回復にありました。不況対策のためとして、景気刺激に名を借りた公共事業の大盤振る舞い(今また麻生内閣が盛んにやっていますね)を一切しなかったことは、特筆物でした。そして、「北朝鮮」と交渉して、拉致の事実を認めさせ、拉致被害者とその家族を5組とは言え、日本に連れ帰ることに成功した功績を、私は高く評価しています。 続く
2009.08.29
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自民党政治の終焉近し(41)明日が投票日ですね。今日と明日は他のシリーズは休ませていただき、このシリーズだけを連続で綴らせていただきます。橋本後継となった小渕内閣は、社会、さきがけ両党との協力関係を解消したため、参院では民主党の菅直人が首班指名を受けるなど、安定を欠いた内閣でした。97年11月からの金融激震はなお続き、巨額の不良債権を抱えて死に体に陥っていた日本長期信用銀行と日本債券信用銀行の2行の処理を巡って国会は紛糾しました。結局、自民党の若手が同調した民主党案を丸呑みする形で、長銀と日債銀は一時国有化されることになったのです。99年1月には、当時小党として存在した自由党と連立を組み、少数与党体制を脱却、10月には公明党を加えた自自公3党の連立体制とし、政権基盤は安定しました。昨年来問題となっている、労働者派遣法(それまでの原則禁止を改めたのです)は、小渕内閣の産物です。また最近殆ど見かけなくなった2千円札の発行も、小渕内閣の発案によるものでした。2000年の沖縄サミットの開催も、小渕首相の沖縄への強い思いの表れでしたが、自ら沖縄サミットを主宰することなく、2000年4月に脳梗塞に倒れ、首相の座を退き、同年5月に鬼籍に入りました。問題は小渕後継の決め方でした。森善朗幹事長、亀井静香政調会長、青木幹雄官房長官、野中広務幹事長代理、そして村上正邦参院議員会長の5人の密室の協議で。森後継を発表したのです。いわゆる密室の談合でした。こうして誕生した森政権は、森首相の失言癖が問題となり、内閣支持率の低い低空飛行を続け、2000年2月の宇和島水産高校の実習船えひめ丸の沈没事故に際し、ゴルフ場から帰らなかったことも批判され、四面楚歌に陥って4月に辞任することになりました。明らかにミスキャストの首相でした。 続く
2009.08.29
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クロニクル 「ベルばら」初演1974(昭和49)年8月29日35年前のこの日、宝塚大劇場で池田理代子昨『ベルサイユのばら』の初演の幕が上がりました。興業は大成功となり、空前の宝塚ブームが巻き起こりました。
2009.08.29
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自民党政治の終焉近し(40) 橋本内閣の下では、菅直人厚相の活躍が目立ちました。薬害エイズ問題で官僚の隠蔽体質の壁を破り、ないといわれた資料を見つけ出し、国の責任を明確にし、自ら原告となった患者達に謝罪したのです。一方で、1996年は、93年7月の衆院選から3年が経過、初めての小選挙区制の下での衆院選が意識される年でもありました。既に記したように、小選挙区制は中小政党に不利です。そして社会党の離反を招いたように、細川連立内閣に加わった諸政党の多くは、小選挙区制に対応した政党作りを模索していました。こうして誕生したのが、新生党、公明党、日本新党などを核とした新進党の結成でした。また新進党に合流しなかった人々は、社会党右派(同党の6割ほど)を加えて民主党を結成しました。旧社会党は、社会民主党と名を変えましたが、かつての面影を残さない小政党に転落したのです。小選挙区制が社会党潰しを狙ってのものだったとすれば、それはこれ以上ない大成功を収めたのです。10月の総選挙は、自民239、親進156、民主52、共産26、社民16と、旧社会党の大敗北で終ったのです。この結果を受け、社民、さきがけ両党は閣外協力に転じ、第2次橋本内閣は、自民党の単独内閣となったのです。ここで、橋本首相は大きなミスを犯します。それが中曽根元首相の子飼の部下で、リクルート事件で執行猶予付きの有罪判決を受けた佐藤孝行の入閣でした。いままで、どの内閣も、中曽根の後継指名を受けた竹下内閣ですら、佐藤入閣は受け入れなかったのです。それをあえて橋本首相は、火中の栗を拾ったのです。ロッキード事件で有罪判決を受けた人物を閣僚にするとは何事か? それで政治改革を推進すると言えるのか? 世論の批判派的を射ていました。橋本内閣の歯車は狂い初めていたのです。住専への税金の投入については、久保亘財務省が全ての答弁を引き受け、世論の批判を受けながらも、原案の可決成立に尽力しました。しかし、預金を持たず、乱脈融資で損失を膨らませた住専各社に対する公的資金の投入は、国民の厳しい非難にさらされ、今後、より規模の大きい金融機関が倒産しても、公金の投入は難しい状況がつくられられたのでした。、それが、97年11月の三洋証券、拓銀、山一證券の倒産劇に繋がりました。これは明らかに住専処理のまずさに起因する失政でした。大蔵省という官僚機構の頂点にある官庁の権威は見る影もなく失墜しました。こうして、橋本内閣は経済の浮揚に失敗し、98年7月の参院選に敗北して退陣することになったのです。 続く
2009.08.28
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世界経済の現状 (61)アメリカや欧州は、金融危機に発する経済の落ち込みは、峠を越えたかのようなはしゃぎぶりですが、まだまだ火薬庫は残っているようです。バルト三国の一郭、人口僅かに230万人のラトビアを見てみましょう。同国はハンガリーと並ぶ欧州金融の火薬庫と言われています。7月27日に、IMFはラトビアへの金融支援に踏み切り、同国への2億ユーロの融資を決定しました。条件は欧州連合が、これとは別に12億ユーロの融資を実行することでした。この結果、ラトビアの金融危機は先送りされました。先送りしている間に、経済が回復するならば、確かに目出度し目出度しになります。しかし、先送りが必ずしもうまくいくものではないことは、先送りの大先輩である日本の敬虔な教えてくれています。ラトビア経済は、アイスランドやアイルランドなどと同じように、金融バブルに酔いしれた咎めで、過剰な借金の返済が滞ってしまって、苦しんでいます。金融危機で外資が資金の引き上げに動くと、ひとたまりもなかったのです。ラトビアの通貨ラトは、ユーロにペッグされているのですが、今現在国際金融筋は、ラトビア政府が通貨ラトの切り下げに追い込まれはしないかと、戦々恐々としています。そうなると、ラトビアの債務返済額は膨らみ、そこから企業や家計の破産が増加しします。そうなると、ラトビア向けの融資が多い北欧系銀行の破綻が現実味を帯びます。北欧系金融機関の破綻は、他の欧州系金融機関の経営危機に繋がります。そして、資金難に悩むラトビア政府は、何としてもユーロへのペッグ制は死守したいとしていますが、機動的な金融政策も、輸出促進策もとることが出来ず、ひたすら緊縮財政を続けながら、欧州の景気回復を待っているのが現実です。さて、ハンガリーやラトビアは持ちこたえられるのでしょうかね? まさに東欧は欧州の火薬庫です。
2009.08.28
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クロニクル ワシントン大行進1963(昭和38)年8月28日46年前のこの日、アメリカワシントンで、人種差別撤廃を求める市民集会がリンカーン記念堂で開かれ、その後非暴力の請願行進が行なわれました。この日キング牧師は演説の中で、後に有名になる「I have a dream」(私には夢がある)のフレーズを何度も用いました。 この演説は、キング牧師の数ある演説の中でも、アメリカ史における人種差別や公民権運動の歴史を理解する上で重要な演説であること、また理想に満ちた内容であることから、日本では中・高の英語の教科書などにも良く載っています。キング牧師は、他にも“Now is the time(今こそその時だ)”、“Let freedom ring(自由の鐘を鳴らそう)”などの言い回しも多用して、独特のリズムを作っています。オバマ大統領は、このキング牧師の演説手法を、上手に学んだのですね。キング牧師の演説を1部抜粋しておきます。I have a dream.That one day on the red hills of Georgia. the sons of former slaves and the sons of former slave-owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.(私には夢がある。いつの日か、ジョージア州の赤い丘の上で、かつての奴隷の子達と、かつての奴隷の所有者達の子達が、兄弟愛というテーブルで席を共にできることを)”奴隷の子孫とその所有者の子孫との身分差をなくすことを強く訴えています。
2009.08.28
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自民党政治の終焉近し(39)細川、羽田、村山の3代の非自民政権の期間は、村山首相の1年半強を最長として、2年4ヶ月でした。この間に細川首相は、所信表明演説で、「先の戦争での侵略行為や植民地支配への反省とお詫び」を明確に表明しました。それは、宮沢内閣が、「従軍慰安婦」問題に関する調査結果を踏まえ、初めて旧日本軍の直接関与を認め、韓国・中国・台湾・インドネシアの元慰安婦に謝罪したこと、河野官房長官(当時)がさらに一歩踏み込んで、朝鮮半島出身の「従軍慰安婦」に対する「強制」を認めて謝罪したことを踏まえ、それを一歩進めたものでした。そして、95年の8月15日に、村山首相は戦後50年にあたっての首相談話を発表、細川発言を1歩進めて、「植民地支配と侵略」に関して、アジア諸国へのお詫びを表明しました。歴代の自民党政府が、党内のタカ派の抵抗にひきづられ、長くウヤムヤにしてきた問題は、非自民政権の誕生によって、ようやく区切りがつけられたのです。これはアジア諸国との関係の円滑化に寄与することとなったのです。さて、自社さきがけの連立政権は、自民、社会両党の路線の違いを表面化させず順調な歩みを続けました。1月の阪神淡路大震災の発生時における、自衛隊への救援要請の遅れが、唯一の瑕疵と指摘されますが、この点は、多党連立しか選択肢のなかった当時の内閣においては、どの組み合わせをとったとしても、似たような状況であったろうと私は考えています。3月に発生した地下鉄サリン事件という、新しい都市型テロに対しても、警視庁や自衛隊との連携に問題はなく、12月のオウム真理教に対する破防法の適用についても、自社両党のスクラムに揺らぎは生じませんでした。問題は、バブル崩壊による金融機関の不良債権にありました。金融機関と大蔵省とがアウンの呼吸で先送りを続け、早い段階で処理をしなかったツケがたまりにタマって、巨額の損失の処理が必要になったのです。とりわけ、大蔵省が農水省に与えていた言質が、農協の住宅金融専門会社への融資に対する大蔵省(=政府)保障と言うとんでもないことになっていたのです。そのため、武村蔵相も青天の霹靂であったようですが、予算編成のギリギリの段階で、6850億円と言う巨額の財政資金の住専への(農協へ返済されますから、実態は農協の救済資金と言うことです)投入に繋がったのです。青天の霹靂だったとはいえ、担当大臣が知らなかったではすみませんから、予算編成終了を待って、武村蔵相は責任をとって辞任。君だけのせいではないと、村山首相も96年1月5日に辞任を発表します。こうして、自社さきがけの連立の枠を残しつつ、95年9月の総裁選で河野総裁に代わって、総裁の椅子についた橋本龍太郎通産相が首相に就任、久保亘社会党書記長が、副首相兼蔵相に就任したのです。ここに2年5ヶ月振りで、自民党の総裁が誕生したのです。 続く
2009.08.27
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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(32)ウエディングドレスを巡る話は、前回でほぼ尽きましたが、ヴィクトリア朝の中期から後期にかけては、現代の結婚式にまつわる諸々のことが生み出された時期ですから、もうしばらくお付き合いをいただきたいと思います。結婚するカップルへの贈り物、結婚披露宴、そしてハネムーンなどです。まず、カップルへの贈り物ですが、1870年頃までは結婚の贈り物という風習はなく、日本の結納に当たるような当事者の家同士のやり取りに限られていたようです。ただ、60年代以降、誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントを兼ねる形で、贈り物をすることが、少しづつ広がるようになります。この時期の贈り物は、贈り主の社会的地位と、受け取る花嫁の結婚後の社会的地位とのバランスをとった物が考えられたようです。舞踏会や晩餐会に出かける機会が多そうに見える花嫁には、ブラッセルレースを使った扇、素敵な宝石箱、ガラスのカバーつきの銀製のパン皿、マジョリカやウエッジウッド製の花瓶などが贈られています。他方で料理番を雇う余裕がなく、自らキッチンに立つであろう女性には、『基本料理の本』などと言った料理本など、実用的な品が贈られています。いずれにしても。女性雑誌やエチケットブックなども、70年代に入るまでは、結婚の贈り物二ついては、ほとんど触れていないのです。何度も登場している代表的女性誌『ジ・イングリッシュウーマンズ・ドメスティック・マガジン』誌が、初めて結婚式の贈り物を大々的に取り上げたのは、1877年新年号のコラムでした。ここでアッパークラスの人々の豪華な贈り物がいくつも紹介されました。サファイヤ、パール、オパールといった宝石類から、銀製の食器類、豪華な香水セット一式などです。実際に抗した高価な品々の贈り物が、アッパークラスの結婚式に欠かせない品になっていたことが読み取れますが、こうした品々に対し、大半がミドルクラスの読者達が、大きな関心を寄せるようになっていたことが伺えます。 続く
2009.08.27
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クロニクル 「寅さんの日」1969(昭和44)年8月27日今日、8月27日は、いつの頃からか「寅さんの日」と呼ばれるようになりました。寅さんとは渥美清さん主演、山田洋二監督の『男は辛いよ』シリーズの主人公、フーテンの寅さんを指します。「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。 帝釈天(たいしゃくてん)でうぶ湯を使い、 姓は車、名は寅次郎、 人呼んで、フーテンの寅と発します」と寅さんシリーズのテーマソングの冒頭のセリフにあ ります。実は、丁度40年前の今日は、寅さんシリーズの第1作、これだけテレビ作品だった『男はつらいよ』がテレビ放映された日なのです。このテレビ作品では、最終回で寅さんは死亡しています。しかし、あまりの反響の大きさに映画で復活し、以来48作にも及ぶ世界最長の長編シリーズとなったのです。シリーズ最終策は、1995年正月に上映された「男はつらいよ 寅次郎紅の花」。これが48作目の劇場用映画でしたが、冒頭、茶の間でテレビを見ていたさくらが、阪神大震災の特集番組の中で、兄寅次郎の姿を見つけるシーンから始まります。壊滅的な被害を受けた神戸市長田区の菅原市場周辺で、寅さんがボランティアとして活躍していたと言う設定でした。ラストも震災1年後の新春に市場に舞い戻った寅さんが商店主たちと再会を喜ぶという設定になっています。この設定は、被災地からの強い要請を受けて山田洋次監督が岡山、鹿児島を舞台に出来上がっていたシナリオに書き加えたのだそうです。それだけ、寅さんシリーズが全国的知名度と人気を持っていたと言えるようです。渥美さんが、なおお元気なら、その後もシリーズは続いていたのでしょうね。
2009.08.27
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自民党政治の終焉近し(38) 1994年6月25日に羽田内閣は総辞職しました。社会党の中には連立与党への復帰を主張するグループもあり、新生党などからも社会党の復帰を呼びかける声が届いていました。しかし、今度は何としても政権への復帰を実現したい自民党の執念の方が勝ちました。首相の座を土産にして日本新党を連立に巻き込んだ小沢流を、自民党がそっくり利用したのです。社会党委員長の村山富一を首相に据える自社大連立を呼びかけたのです。55年体制下で、自社両党は水と油よろしく対立を続けてきました。しかし、日米安保体制護持の自民党と、平和主義と護憲を唱える社会党は、互いに相互の弱点を補い合える、奇妙なパートナーでもあったのです。折良く自民党の総裁は、ハト派の代表格の河野洋平でしたから、社会党としても、自民党の誘いに乗りやすい条件は揃っていたのです。しかも、社会党首班と言う願ってもない話が舞い込んだのです。連立復帰を主張したグループも社会党委員長を首相に据えるプランの魅力に、抗することは出来ませんでした。6月28日と29日の河野・村山会談で、さきがけを加えた3党連立政権で合意を見たのです。問題は自民党の側にありました。自民党の一部には社会党との連立を潔しとせず、社会党との連立に断乎反対を叫ぶ人たちがいるのです。それを承知の新生党代表幹事の小沢一郎は、「自民党を割ってくるならば、首相の座を空けてお待ちします。」と、渡辺美智雄や海部俊樹などに声をかけたのです。渡辺は離党の構えを見せましたが、同調者が少ないことに気付いて、思いとどまりましたが、首相経験者の海部は、再度の首相という甘い蜜に飛びつき、反自民統一会派の首相候補となったのです。しかし、政権奪還を目指す自民党の執念と、自党の党首が首相になると言う社会党のまとまりの前に、村山、海部の2人による決選投票は、村山首相を選出する運びとなったのです。卑しくも総理・総裁経験者が、再度総理になりたいからと、自らが総裁を務めた党を割って出るとは、許せないという強い主張は強く、海部はすっかり人気をなくしてしまうのですが、これも自業自得でした。こうして村山首相、河野副総理兼外相、武村蔵相と言う自社さきがけの3党連立内閣が誕生し、自民党は、下野1年足らずで、政権に復帰したのです。村山首相は、社会党の党首であっても、日本の首相の地位のほうが優先するとして、サミットの場や議会で、日米安保の堅持と自衛隊の合憲を表明し、社会党首相のアキレス腱かと騒がれた問題をクリアし、自民党内のタカ派を驚かせたのです。 続く
2009.08.26
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宗教改革よもやま話 (56) 三十年戦争は、1648年にようやく終了しました。1643年フランス軍とのロクロワの死闘に敗れたスペインは、ここに重大な危機を迎えました。再び財政危機が深刻化し、戦争の継続が困難となってきたのです。1647年10月、スペイン王室は17世紀に入ってから3度目の破産を宣言します。三十年戦争の全ての戦線を維持するのが難しくなったスペインは、48年1月にウエストファリア地方のミュンスターで、オランダとの講和条約に調印します。ここに1560年代に始まったオランダ独立戦争は、ようやく80年に及んだ係争にようやく終止符をうったのです。日本の徳川幕府は、3代将軍家光時代の1630年代に、オランダとの交易を認めていますから、オランダは実質的には主権国家として振舞っていましたが、正式に独立国となったのは、この1648年のことでした。同年10月、スウェーデン軍にプラハを包囲された皇帝は、スウェーデンとの講和にも応じざるを得なくなります。こうして1848年10月24日ウエストファリア条約と総称された講和条約が結ばれ、三十年戦争はようやく終結をみます。戦争の勝者は、アルザスとロレーヌの大部分にヴェルダンやメッスの司教領を手に入れたフランスであり、北ドイツのボンメルンとブレーメンに領土を得たスウェーデンであり、そして独立を勝ち取ったオランダでした。そして敗者は、神聖ローマ帝国の皇帝位を持つオーストリア帝国とスペイン王国でした。三十年戦争は、ルターの改革後に始まり、130年に及んだドイツにおける宗教対立に、ようやくにして終止符を撃つことになりました。カトリック、ルター派、カルヴァン派の三つの教会は、1624年当時の勢力範囲で、平和を結ぶことになったからです。カルヴァン派を含む新教徒に、カトリックと同等の権利が認められたのです。そしてこの条約は、以後200年に及ぶ、ドイツの小国分立体制を生み出しました。300諸侯の発言権はより強くなり、夫々が自領における立法や課税の権限を持ち、個別に外国との同盟を結ぶ、外交権までをも有したのです。ここに、元々そう強力なものではなかった「神聖ローマ帝国」皇帝の権威は、完全に有名無実なものとなったのです。スウェーデンは、1660年までかけて、北の大国の地位を確立します。そしてフランスは、1659年のピレネー条約によって、西ヨーロッパの覇権を確立したのです。敗れたスペインは、遂に力尽き、スペイン帝国の栄光は完全にその幕を閉じたのです。この2年後の1661年には、ルイ14世の親政が始まります。「ルイ14世の世紀」の幕開けは、もう眼前に迫っていたのです。 続くドイツの分裂はここに極まったのです。
2009.08.26
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クロニクル 人権宣言発表1789(寛政元)年8月26日この日、フランスの憲法制定国民会議は、全17ヶ条からなる「人間と市民の権利宣言」(通称人権宣言)を可決。直ちに発表しました。この宣言は、議会が定めようとしている憲法の骨子を、広く国民に知らしめるためのもので、2年後の91年に完成した憲法の前文となったものでした。詳しい内容は、1昨年7月から連鎖したフランス革命シリーズの第11回をご覧下さい。(2007年7月23日)
2009.08.26
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自民党政治の終焉近し(37)今晩は。お見舞いと激励のコメントをたくさんいただきました。有難うございます。先ほど帰りました。同時期に手術を受けた仲間というのは、夫々が清水の舞台から飛び降りるような心境で、手術を受ける決断をしていますから、1種の戦友のような気分があります。手術時期は前後しますが、互いに励ましあいながら、手術へ向かう覚悟を固めていく上で、大変心強い仲間でした。そんなメンバーが今日は6人ほど集まって、病院の最寄り駅に近いファミレスで延々4時間ほど、おしゃべりに花を咲かせました。さて、選挙も5日後に迫ってきました。先を急ぎましょう。細川内閣はともかく政治改革に関連する法案をまとめました。選挙区と比例代表を各250人づつとした小選挙区比例代表並立制を導入する選挙制度改正、個人宛の企業献金の廃止、そして政党への公的助成金の公布などが盛り込まれた政治改革関連4法案は、9月に衆院に提出されました。この法案は、衆院は通過しましたが、与野党の勢力が伯仲した参院で揉め、結局細川首相と河野自民党総裁とのトップ会談で、衆院の500議席を小選挙区300、比例代表200に修正することで合意、最終的に94年3月に可決成立します。しかし、政治改革の実現1点に絞って実現した7党1会派の連立内閣は、政治改革関連法案が成立したことによって、求心力を失います。先行きの困難を見越したのか、細川首相は佐川急便グループからの1億円の借金疑惑を、国会で追及されることを嫌い、4月早々辞意を表明、就任僅か8ヶ月で辞職してしまいます。4月28日に、新生党の羽田孜党首が、首相指名を受けましたが、その夜のことでした。社会党を外した連立党派による統一会派の結成計画が明るみに出ます。連立内閣内部での社会党の影響力を削ぐ計画であることは、歴然としていました。小選挙区制は、明らかに中小政党に不利な選挙制度です。ですから、中小政党がひしめく連立与党の間で、統一会派を結成しようと言う動きが出るのは、不思議ではありません。社会党内の多数派も、統一会派に参加するつもりでいたのに、彼らを排除する形で計画が進んでいたことが問題でした。こうして統一会派に消極的だった左派はもちろん、統一会派結成に積極的だった議員達を含めて、社会党代議士会は、満場一致で連立離脱を決めたのです。羽田内閣は第1党の自民党と第2党の社会党が参加しない、少数与党として出発することになったのです。当然長持ちすることはありえない内閣でした。遅れていた予算案と予算関連法案が国会を通過するのを待って。野党は内閣不信任案を上程しました。与野党の議席数から言って、可決確実でした。かといって、宮沢内閣のように国会解散に訴えることも出来ません。選挙区割り法案がまだ成立していなかったからです。小選挙区制を含む法案が成立しているのですから、今さら中選挙区で選挙を行なうわけには行かなかったからです。こうして羽田内閣は総辞職せざるを得なくなったのです。 続く
2009.08.25
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頚椎症の健診本日は、半年に1回の定期健診日にあたります。4年前の今頃から、右手の握力が急激に落ち、それどころか腕自身がベルトの辺までしかあがらなくなりました。左腕も左肩から先がすっかりしびれている状態でした。実は4年前に、左手のシビレがあり、検査の結果、頚椎の異常からきていることが分かったのですが、当時は手術の成功率に問題がありましたので、しばらく様子を見ることにしたのです。この間4年、遂に来るものが来た感じでした。幸いだったのは、4年間に頚椎症の手術は劇的に進歩し、切開した喉からファイバースコープを入れ、遠隔操作で手術が出来るようになったので、成功率が劇的に上がっていたことでした。それでも失敗すれば下半身不随、良くて車椅子、悪くすると寝たきりの生活が待っているのですから、覚悟は必要でした。悪い所は、第4頚椎と第5頚椎の間の軟骨が摩滅して、ぶつかった頚椎が横に飛び出し、神経銀座で数本の神経を圧迫、働けなくしていたのです。そのことによる筋無力症でした。手術は、1本1本、圧迫されている神経を救出し、しかる後に頚椎の出っ張っている部分を削り、間を開け、そこに大腿骨から削り取った骨片を埋め込んで、チタンの添え木を当てて、ビスで止めるのです。6時間半の大手術でした。おかげさまで手術は成功し、リハビリの結果、左腕も真上まで上がるようになり、3kg程度の荷物までなら持てるようになり、きれいにシビレもとれました。指先を使う細かな作業には難がありますが。その程度で済んでいます。この11月で、手術から5年が経ちます。有難いことです。そんなわけで、残された人生、世の中へお返しをする期間と考え、あれこれ忙しく過ごしているというわけです。今日の健診は半年に1回の定期健診。異常の有無と、頚椎の他の部位の状況チェックに参ります。幸いなことに、同時期に一緒に頚椎等のの手術を受けたお仲間さんが一緒ですから、午後は久々の同窓会。皆さんの所へは、夕刻以降にお邪魔させていただきます。
2009.08.25
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クロニクル チキンラーメン登場1958(昭和33)年8月25日51年前というと、長嶋が巨人に、杉浦が南海に、そして本屋敷が阪神に入団し、1年目から大活躍した年にあたります。この日、日清食品が世界初のインスタントラーメン、日清のチキンラーメンを発売しました。85グラム入り35円(当時の物価参考:大卒者初任給13,467円、国鉄初乗り10円、銭湯の入浴料16円)でした。大阪・梅田の阪急百貨店うめだ本店で試食販売が行われ、評判を呼びました。以来今日まで50年、売れ続けているのですから立派です。日本初のインスタント食品であるインスタントラーメンは、大ヒット商品となり、世界各地で生産されています。チキンラーメンに限っても、アメリカ合衆国、ブラジル、ハンガリー、インド、インドネシア、中国(広東省)」の6ヶ国に工場があります。
2009.08.25
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自民党政治の終焉近し(36)細川内閣は、政治改革実現のための内閣でした。そして、その政治改革を所管する国務相に社会党委員長だった山花貞夫を当てたのが、おそらくは小沢人事の巧妙な所でした。リクルート事件以後、高まっていた政治改革関連法案が、海部内閣でも、宮沢内閣でも廃案に追い込まれていたのは、自民党内部と社会党が消極的だったことにあります。政治改革の狙いが、従来の中選挙区制を廃して、小選挙区制を導入することにあったからです。「政治と金の問題は、選挙に金が掛かりすぎることにある。選挙区の広い中選挙区制では、諸々のことに金が掛かる。選挙区の狭い小選挙区制になれば、選挙費用も少なくて済むので、政治と金の問題はクリアできる。」これが小選挙区推進論じゃの言い分でした。しかし、この議論に対しては、選挙区が狭くなれば、狭いがゆえに、今まで以上に密に選挙区めぐりに精を出し、日常の挨拶も欠かせないなど、かえって金がかかるという、反論も当初からありました。小選挙区制では、1つの選挙区から選ばれる代議士は1人だけです。それゆえ、中小政党には圧倒的に不利な制度です。ですから、小選挙区制は2大政党制への移行に道を開きます。そして、ちょっとした振り子のブレで、大勝する政党や大敗する政党が出るシステムです。何より、護憲を旗印に、中選挙区制の利点を生かして、3番目、4番目の当選者として、1/3議席の確保を目指してきた社会党にとって、大変不利な制度です。この制度に社会党が不熱心なことは、当然でした。しかし、政治改革から逃げていては、国民の支持は得られない状況でした。そこを巧みに捉えて、大臣の椅子で社会党の反対を封じ、さらに社会党内の反対派を封じるために、委員長の山花を政治改革担当相に据えたのです。もう一つ反対派を抑え込むための仕掛けとして考え出されたのですが、選挙区と比例代表への重複立候補を認めることでした。比例代表並立制は、小選挙区では当選できないであろう中小政党への配慮でしたが、そこに重複立候補を認めたのです。しかも、選挙区へも立候補している人物に限り、何人でも同一順位に並べることが出来るという仕掛けも作ったのです。惜敗率の導入です。当選者を100%とした時、A氏は95%の得票率で敗れた。B氏は98%、C氏は90%だったすると。先ずB氏が比例で復活当選となるという仕掛けです。こうして、党内や中小政党の不満を吸収したのです。 続く
2009.08.24
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世界経済の現状 (60)米国で7月の中古住宅販売が好調だったことを囃して、最悪期は脱したといった楽観的な見通しが、目に付くようになりました。中古住宅の販売戸数は増えたことは間違いないのですが、では中古の住宅価格も回復過程に入ったかと言うと、こちらは下がり続けています。前回の(59)に書いたのですが、中小銀行の破綻が相次いでいます。それゆえ、そうした銀行でローンを組み、返済に窮した住宅ローンの債務者は、低利への借り換え交渉も出来ずに、担保権を行使されて住宅の差し抑えにあっています。いわば差押え住宅が、ここに来て急増し、そうした住宅が投売りされているからこそ、値頃感での買いが入って、中古住宅の販売増加に繋がりました。売れないよりは良いのですが、これをもって景気が回復過程に入ったと言うのは、楽観的に過ぎるように思います。ローンの支払いにい詰まった層は、次第に増えています。そしてここにきて、商業用不動産価格の下落が目立っています。商業用不動産価格は、二年前の高値から約39%の下落を見て、現在の総価格は3兆5千億ドルと評価されています。80年代後半のS&L(貯蓄信用組合)危機の時代の下落率が27%でしたから、既にして、当時の下落率を上回っています。とりわけ3-6月の下落率は、前期比18%も下落して、下落幅が拡大しています。3,5兆ドルの不動産のうち、2兆ドル分は、現在の評価額がビルの取得額を上回っており、その分、金融機関の不良債券は増加していることになります。要するに現在も金融機関の不良債権額は、増え続けているのです。売れないよりはよいとしても、利益の出る商売には、なっていないことを見落としてはならないように思います。 続く
2009.08.24
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クロニクル つくばエクスプレス開業2005(平成17)年8月24日4年前のこの日、つくばエクスプレスが開業しました。東京の秋葉原から筑波研究学園都市までを、最高速度130km/h(通常125km/h)の高速で運転しており、秋葉原 - つくば間58.3km、20駅間を最速45分(快速)で結んでいます。全線で自動列車運転装置 (ATO) による自動運転を行い、運転士は乗務していますが、車掌を省略するワンマン運転を実施しています。また全駅に可動式ホーム柵が装備されています。起点側の秋葉原 - 八潮間は南千住から荒川の鉄橋(北千住 - 青井間)までを除いて地下線で、終点のつくば駅も地下駅となっています。地上区間はすべて高架または堀割構造であり、踏切は一つも存在しません。初年度の乗客数は3,469万人で、1日平均の乗客数も開業前の予想「135,000人」を超える150,700人となりました。その後、1日の平均乗客数は2007年4月に239,000人、2008年11月に266,100人、2009年4月に270,500人を記録し、目標としていた27万人に到達しています。出発から好調だったため、増発のための車両増備による減価償却費増などがあったものの、2008年度決算で、早くも減価償却費込みの営業黒字を達成しています。鉄道事業が開業僅か3年で、黒字化するというのは、異例のスピードでした。東京および筑波研究学園都市への通勤路線としての性格や、高速バス(つくば号)から取って代わった東京 - 筑波研究学園都市間の都市間輸送に加えて、開業前から期待の強かった東京都・千葉県・埼玉県方面から筑波山への観光輸送のルートとしても利用された事などが、プラスに作用しています。この好調から、秋葉原・東京駅間の延伸工事も早期に着工されそうですね。
2009.08.24
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自民党政治の終焉近し(35) -2遅くなりました。先ほどの続きです。選挙結果が分かり、自分達がキャスティングボートを握ったことを知った、日本新党の細川とさきがけの武村は、何があっても一致して共同行動をとることを約束していました。両党に自民党からの連立要請がなされてるのを承知しながら、新生党の小沢代表幹事は、2人に面会を求めます。参参議院員を務めて、熊本県知事に転出した過去を持つ細川は、参議院議員の時代は田中派に属していたのです。当然小沢とは面識があります。その場で小沢は、新党ブームをほとんど1人で作り出した細川の功績を讃え、7党の連立政府の首相の座を約束したのです。これは異例中の異例でした。日本新党は社会、新生、公明に続く第5党です。しかも細川は衆議院では当選1回の新人に過ぎません。その細川に狙いを定めた小沢の作戦勝ちでした。7党と1会派を合わせた連立政府はこうして誕生したのです。しれは、反自民、という1点で結びつき、政治改革の実現を目指して誕生した連合だったのです。そのために落ち目の社会党まで加えた、寄り合い所帯の連立だったのです。細川内閣の閣僚には、さきがけ代表武村正義(官房長官)、新生党党首羽田孜(副総理・外相)、社会党委員長山花貞夫(政治改革担当相)、公明党委員長石田幸四郎(総務庁長官)、民社党委員長大内啓伍(厚相)、社民連代表江田五月(科技庁長官)と連立与党各党首が顔を揃え得ていました。ただし、山花は総選挙敗北の責任を取って9月に社会党委員長を辞任し、替わって委員長に就いた村山富市は入閣しなかったため、政権と社会党執行部との間に距離感が生じることとなりました。また首相は日本新党の細川でしたが、蔵相は新生党の藤井裕久、通産相も新生党の熊谷弘と、重要閣僚は新生党が1人占めする状態で、実際の内閣が新生党内閣であることが見え隠れしていました。この点で、連立内閣の第1党でありながら、社会党の影の薄さは際立っていたのです。 続く
2009.08.23
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自民党政治の終焉近し(35)-1 自民党は過半数を割りましたが、ほぼ解散時の議席を維持していました。また昨日指摘した通り、圧倒的な第1党でした。しかし、宮沢総裁は過半数割れを重く受け止め、辞任しました。後任には、さきがけや日本新党との連立を模索する上で最も適任として、長老の後藤田正晴に総裁就任を求める声が高まったのですが、後藤田は自ら立つことをせず、代わりに官房長官として宮沢首相を支えた河野洋平を総裁に推したのです。河野は渡辺美智雄を大差で破って総裁に就任。連立工作を進めたのですが、この点では自民党を離党した小沢一郎の非自民連立政権樹立にかける執念に、圧倒されてしまいます。さきがけ代表の武村正義や日本新党代表の細川護熙の政治姿勢や外交に対する考え方は、外交的にはハト派といわれる河野自民党総裁に近かったのです。小沢はまず、選挙に大敗した社会党を取り込み、社会党内でも原則論に拘る土井たか子前委員長に衆院議長の椅子を提示して、祀り上げることに成功。新生党を含み、自民党と共産党を除く、7党1会派の連立にOKを取ります。公明党や民社党、社会市民連合にも異論はありませんでした、問題は日本新党とさきがけにありました。 続きは今夜中にアップします。
2009.08.23
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続納涼祭納涼祭の片付け等、みな終りました。おかげさまで、大賑わいでした。昨日の会場の写真。電気はすべて20wです。夜店の部分のみ40wが使われ、受付・会計のお金を扱う部分のみ100wを使います。チリも積もれば…ですね。昨日の写真の中央に見えるのは、盆踊りの舞台です。子どもの踊りタイムは子ども達も舞台に乗ります。隙間から落ちる危険もありますので、小学生以下は親御さん付きであがってもらうのですが、希望者が多く、1曲づつ交替であがってもらうのです。ちびまる子ちゃん音頭を踊る子ども達です。舞台の下では、大人たちの環も二重に出来上がっています。次の写真は夜店の賑わい。ここは回転が良く、一番混雑の少ないラムネ売り場です。こんな感じで昨夜は更けてゆきました。
2009.08.23
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クロニクル 独ソ不可侵条約締結1939(昭和14)年8月23日70年前の今日。ファシズム国家ドイツと、社会主義国家ソ連とが不可侵条約を結ぶという驚きの報道が世界を駆け巡りました。スターリンがドイツへの接近を決めたのは、ミュンヘン会談で英仏がソ連の安全保障にも大きな影響があるチェコスロバキアをドイツに渡した結果でした。英仏の、ドイツがソ連を攻めてくれれば有難いとする姿勢は、手痛いしっぺ返しを受けたのでした。日本では、8月28日に「欧州情勢は複雑怪奇」との声明を発表して、平沼内閣が総辞職しました。
2009.08.23
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納涼祭今日は地元の納涼祭。つい先ほど、午前零時過ぎに戻ってきました。上は、準備万端整って、模擬店のスタッフが店開きの準備に登場する直前、16時30分頃の会場風景です。子ども達が喜ぶ姿を見るのが大好きな私の役どころは、フーテンの寅さんの親分役とでも、お話しすると理解していただけるでしょうか、交友関係の広さをフル動員した夜店のスタッフの動員係りです。夜店の利益は、子ども達に配るお菓子代(1人150円見当で350ケ用意)を差し引いて、残りは全額子ども会の活動費とします。といっても、利益至上主義ではなく、大人用の缶ビールは良く冷えたものが、350ml缶のスーパードライで1本200円、フランクフルト60円、かき氷50円、たこ焼き6ケ入り150円といった具合で、利益度外視。子ども達が500円玉1ケで、ひと晩楽しめるようにと言うのがモットーです。ですから、子ども会の活動費に亘るのは、正味で2万円以下程度。それでも毎年子ども達と子どもに付き添う親たちが、ニコニコ顔で集まり、夏の夜を楽しんでくれますので、声をかけると、どなたも仕事だとか、よんどころのない事情のない限り、二つ返事でボランティアに出てくださいます。有難いことです。にわか雨があるかもという予報に反し、暑くてお天気に恵まれた納涼祭でした。おやすみなさい。
2009.08.22
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自民党政治の終焉近し(34) 衆議院の解散後、焦点は小沢、羽田らのグループの離党問題に焦点が当てられましたが、それより早く、滋賀県知事から衆議院議員となった武村正義らのグループが離党、新党さきがけを結成しました。武村らは宮沢内閣不信任案には反対票を投じ、自民党や宮沢内閣への礼を尽くした上での離党でした。それに対して、小沢、羽田らのグループは野党に同調して不信任案に賛成票を投じたのですから、決断はもっと速くても良かったのです。彼らの離党は、武村らのグループに2日遅れ、離党と同時に新生党を結成、羽田が代表に納まりました。同調者は44人でした。この衆院選の台風の目は、前熊本県知事の細川護熙が、前年1992年に立ち上げた日本新党でした。衆院解散の9日後、6月27日に行なわれた東京都議選において、日本新党は20議席を獲得する大躍進を遂げ、14議席と惨敗した社会党を大きく上回ったのです。その勢いは、そのまま7月18日に行なわれた衆院選の結果に現れました。新生党、さきがけらに50人を超える議員が離党した自民党は、第1党を確保しましたが、過半数を下回り、総数511議席に対し、223議席と横這いに留まりました。実はこの選挙で1人負けしたのは、社会党で第2党は確保したのですが、70議席と実に66議席を減らして、約半数に沈んだのです。新生党55議席、公明党51議席、日本新党が何と0議席から35議席に躍進、横這いの民社党15議席を挟んで、さきがけも13議席、社民連が4議席となったのです。他に共産党がほぼ横這いの15議席、無所属が30議席となったのです。過半数を割りましたが、自民党は第2党の社会党の3倍以上の議席を有していたのですから、自民中心の連立が出来るのが普通でした。しかし、そうはならなかったのです。4日後、党の分裂と過半数割れの責任を取り、宮沢総裁は辞任しました。後任総裁を巡って、ゴタゴタしている間に、自民抜きの連立の話が進んでしまっていたのです。小沢新生党代表幹事の豪腕がさえたひと時でした。この話は明日と致します。 続く
2009.08.22
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クロニクル 『モナ・リザ』盗難にあう1911(明治44)年8月22日レオナルド・ダ・ヴィンチの名作『モナ・リザ』は、晩年のダ・ヴィンチを暖かく迎え、厚遇の限りを尽くしたフランス王フランソワ1世に譲られます。その後、フランスの至宝として大切にされてきました。国外に出たのは、ニューヨークと東京に1回づつの2回だけです。その『モナ・リザ』が、98年前の今日、盗難にあったのです。フランスでは、前年から美術品を傷つける行為が頻発、『モナ・リザ』も保護ガラス付きにケースに治められることになったのです。そんな『モナ・リザ』が、まんまと盗み出され、消えてしまったのです。フランスはもちろん、世界各地で話題となったのですが、『モナ・リザ』の行方は、ようとして知れませんでした。ところが、行方不明となって2年後の1913(大正2)年12月12日に、保護ガラスを取り付けた職人であったヴィンチェンツォ・ペルッジャ(Vincenzo Peruggia)という男によって、フィレンツェの画商に売られようとしたところを発見されたのです。発見された『モナ・リザ』はイタリアで展示されたのち、フランスに返還されました。こうして『モナ・リザ』は、現在もルーヴル美術館に展示されているのです。戻ってよかったです。
2009.08.22
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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(31)白のウエディングドレスが、ミドルクラスにも広く普及するようになると、それを快く思わないアッパークラスの女性たちは、ミドルクラスの女性たちが真似することの出来ない方法を考え出しました。それは代々家に伝わる古い手織りのレースを身につけることでした。古い手織りレースのトリミングやベールを身につけて、結婚式に臨むことで、ミドルクラスとの差別化を図ったのです。古い手織りレースは、新しいレースにはない柔らかなトーンを醸しだします。ゴート卿の4女、ミス・ヴェレカーは母から譲られた年代物のブラッセルレースでトリミングしたウエディングドレスを着たのですが、レースのデザインがきめ細かくユニークで、とても柔らかなトーンを醸しだしていると、招待者たちの賞賛を博したのでした。こうしてアッパークラスの花嫁達は、祖母から母、母から娘へと伝えられるうちに、「柔らかなトーン」となった年代物のレースを身につけ、新興成金やミドルクラスの女性たちを羨ましがらせたのです。新品の手織りレースなら、新興成金にも買うことが出来ます。しかし、由緒正しき家に代々伝わる年代もののレースは、お金で買うことが出来ないからです。中には、質素なドレスを着て、差別化を図る花嫁も出ました。日本でも一時期普段着結婚式、平服結婚式が流行りましたが、それに近いものと考えて良いようです。違っているのは、19世紀80~90年代のイギリスでは、結婚式に古い服や、普段着を着るのは、アッパークラスにだけ許された特権だったということです。世間が彼女たちの地位も財産も認めているからこそ、結婚式に粗末な服を着ても、名家の令嬢の気まぐれと受け取ってくれるからです。ミドルクラスの令嬢が、粗末な服で結婚式に臨んだ場合、それは単に財産がないからとしか写らないのです。こうして、19世紀末、結婚式の様相は、2極化の方向へ進んだのでした。 続く
2009.08.21
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自民党政治の終焉近し(33) 東京佐川急便からの闇献金問題で、略式起訴を受けた金丸は、派閥会長も辞任します。次の経世会会長を誰にするかが、大きな問題となりました。経世会誕生以前に、田中派の派中派として、創政会を立ち上げた時から、同会は竹下と金丸を車の両輪とする同心円をなしていました。竹下派7奉行と称された7人衆は、金丸に近い小沢一郎に、渡辺恒三、中間派の羽田孜に羽田に近い奥田敬和、竹下に近い小渕恵三、橋本龍太郎、梶山静六に分かれていました。リクルート事件で謹慎中の竹下に代わって、金丸が派の会長を務めていたいた時代に、金丸の薫陶を受けて力を着けたのが小沢一郎でした。金丸は派の会長の後釜に小沢を据えるつもりだったのです。小沢は海部内閣の幹事長として力をつけ、91年の都知事選敗北の責任を取って辞任後、経世会の会長代行に就任してさらに力をつけたのです。海部後の総裁を決めるときに、派として誰を押すかを決めるに際し、宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の3人の候補と面談したのも、金丸の代行としてでした。しかし、竹下は金丸に近い小沢の会長就任を快く思わず、直系の小渕を押していました。この時点で中間派の羽田は、政治改革に熱心な金丸・小沢ラインを評価して、小沢と行動を共にします。衆院では金丸・小沢系が多数を獲得したのですが、参院は竹下の子飼からのし上がった青木幹雄の工作が成功して、竹下支持グループが大多数を占め、こうして経世会会長には、小渕恵三が就任したのです。派閥の継承に敗れた小沢・羽田系の44名は、経世会を離脱して羽田派を立ち上げます。こうして第2次宮沢内閣は、竹下神輿に乗ることになります。竹下は政治改革に不熱心であり、海部内閣当時に政治改革関連法案が、ギリギリのところで廃案となったのも、竹下の意向が働いてのことでした。当然同じことが宮沢内閣でも起こります。実効のある政治改革を実現しようとしない宮沢内閣に、野党は内閣不信任案を提出します。政治改革に熱心な小沢・羽田のグループは、野党に同調、内閣不信任案は可決成立。宮沢首相は迷うことなく、衆院解散総選挙を選択したのです。1993年6月19日のことでした。非自民連立内閣が誕生するのは、この選挙の結果でした。 続く
2009.08.21
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宗教改革よもやま話 (55) フランス軍が三十年戦争の戦場に、本格的に登場するのは、1635年です。国王ルイ13世の信任厚い名宰相リシュリューは、カトリックの枢機卿(次期ローマ教皇の推薦人資格の保持者)ですから、敬虔なカトリックです。カトリック教会の高位聖職者が宰相を勤めるカトリックの国フランスが、ルター派のプロテスタント国家スウェーデンと組んで、スペインとオーストリアのカトリック連合に戦いを挑んだのです。しかも陸上ではオーストリアと、海上ではスペインと戦うイスラム国家のオスマン帝国とも連絡を取りながら(昨春連載した「コーヒーの旅路」に記した、フランスへのコーヒーの導入の部分をご覧下さい)…。これはもう宗教戦争と呼べるものではありません。フランス・スウェーデン連合軍対スペイン・オーストリア連合軍のヨーロッパの覇権をかけた世俗的戦争に変質していたのです。フランス軍がライン地方に侵攻を開始した1635年、戦局は一挙に動きました。以後神聖ローマ帝国と称した地域は、フランス軍とスウェーデン軍に追い詰められ、オーストリア皇帝とバイエルン公を追い詰めていきました。1640年代に入ると、追い詰められたバイエルンは戦線を離脱します。ドイツ中心に三十年戦争を狭く解釈すると、殆ど触れられないのですが、実は1643年にフランスとスペインは、ネーデルラントとの国境に近い、北フランスのロクロワで、史上に残る大会戦を演じています。このロクロワの戦いこそが、スペインからフランスへの西ヨーロッパの覇権の交替を告げる、17世紀ヨーロッパにおける最も重要な戦争の一つだったのです。
2009.08.21
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クロニクル ハワイ米国50番目の州に1959(昭和34)年8月21日丁度50年前になります。この日ハワイが、アメリカ合衆国の50番目の州となりましたこれに伴い米国の国旗、星条旗も現在の形に変更となりました。合衆国国旗の赤と白のラインは、独立戦争を戦った13植民地を表し、星条旗と呼ばれる由縁の星型は、合衆国に加わる州の数を示しています。この星の形は、州の数が変わるごとに手直しされてきました。そして、49州時代の7×7から、現行の6,5,6,5を繰り返す形に変更に替えられったんでう。
2009.08.21
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自民党政治の終焉近し(32)宮沢内閣を支える柱は、副総理の金丸でした。その金丸が92年夏に東京佐川急便から多額の闇献金を受けていたことが発覚、秋に略式起訴を受けます。刑事責任を問われている人物が、内閣に留まることは出来ませんから、副総理は当然辞任。宮沢内閣は弱体化してきます。昨日記した(31)へのコメントへのお返事にも記しましたが、宮沢首相はシャープな切れ者でしたが、惜しむらくは政治家に最も必要な強い指導力に欠けていました。今も語り伝えられている実に良い例があります。90年代の日本は、資産バブルの崩壊とその処理の不手際で、大いに苦しむことになったのは、ご存知の通りなのですが、こもバブル崩壊による危機の深刻さに、誰よりも早く気付いたのは、宮沢総理その人でした。92年の8月、日経平均株価は1万4千円台にまで下落しました。89年の12月末には、3万8千9百円と、3万9千円を伺うところまで上昇していたのですから、2年8ヶ月で1/3近くにまで下落したのです。取引先企業の株式を大量に保有し、土地・建物を担保とした融資にのめりこんでいた銀行は、株式と担保価値の下落により、多額の不良債権を抱えて、身動きできなくなっていたのです。にもかかわらず、金融機関は土地神話にしがみつき、いずれ地価が回復するまで持ちこたえればと考えて、不良債権処理の先送りを続けていたのです。当時の大蔵省もそうした動きを支持するというよりも、奨励していたのです。8月のお盆休みの金曜日でした。相次ぐ株式市場の急落から、軽井沢で休暇中の宮沢の下へ、大蔵省幹部が深夜ひっそりと訪れます。この席で、宮沢首相は数日間株式市場を閉鎖し、国民に事実を明らかにして、問題銀行は整理し、不良債権は思い切って整理する外科的大手術を提案したのです。この時、宮沢首相が渋る大蔵官僚を説得し、同じく渋る自民党幹部をも説得ないしは抑え込んで、後の小泉純一郎のように自説を貫いていたとしたら、住専の処理費用はおそらく実際に要した費用の1/5程度で済んでいたでしょうし、山一や拓銀、長銀や日債銀は破綻しないで済んでいたでしょう。しかし、反対派を説得しつつ押し切ってでも指導性を発揮するタイプではなく、機の熟すのを待つ宮沢は、「主張はしたが、皆が賛成ではなく、時期尚早だと判断した」(後日の宮沢談話)と、あっさり自説を撤回してしまったのです。結果はご存知の通り、大きな代償を払うことになったのです。東京佐川急便事件は、大きな広がりを見せました。同社は20数億円の資金を政界にばら撒いており、その一部は、かなりの数の社会党議員にまで及んでいたのです。そのため、国会での追及はウヤムヤとなり、ヤクザまで絡んだ汚職事件に、切り込むこともできない既成政党への愛想尽かしが進んでいたのです。そこに金丸後を巡る竹下派経世会のお家騒動が勃発します。 続く
2009.08.20
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世界経済の現状 (59)米国で中小銀行の倒産が続いています。今年に入って既に70行を超えています。金融機関の倒産ですから、当然非公式情報しかないのですが、今後の倒産予備軍には、およそ300ほどの銀行の名があがっているようです。ここまでの経緯で、FRBと米政府は、メガバンクは救済する方針を示しています。また銀行ではなかった証券会社(米国では投資銀行と呼んでいました。ゴールドマンサックスやモルガン・スタンレーがそれです)や保険会社(AIG)なども、巨大なところは潰さずに救済しています。見事にトゥービッグ、トゥーフェールを貫いています。主要な金融機関に安全網をかけたので、その他の金融機関は整理淘汰して、オーバーバンキング状態を解消しようと考えたのでしょう。日本でも経済評論家といわれる方たちが、この点を論じて、1930年代の世界恐慌当時に比べて(当時の銀行の破綻は、2000行以上でした)、銀行の破綻ははるかに少ないので、今後倒産が増えても心配は要らないと主張しています。米国でも同じような主張があるようですが、この点については、かなりの誤解があるようです。実は世界恐慌当時の銀行は、個人商店に近く、このブログにコメントを寄せてくださっている皆さんのHNをお借りすると、ザビ神父銀行、きちはな銀行、コマチ銀行、リンダ銀行、レミドリ銀行、吉祥天銀行、山デジ銀行、じゅぺ理銀行…といった程度の、小さな町金程度の銀行だったのです。現在の中小銀行は、小なりと言えどもいくつもの支店を持つ地域金融機関です。いわば銀行の資産規模が、まるで違うのですから、当時との比較は全く意味を成しません。米国にも日本の預金保険と同じような、保険制度があります。FDIC(連邦預金保険機構)というのですが、3月末現在で、破綻銀行の預金保護に提供できる資金の残高は、130億ドルまで減少していたのです。FDIC加盟行の総預金は、3月末時点で4兆8千億ドルでしたから、預金保険のカバー率は1%に満たなかったのです。その後も倒産が続いているのですから、130億ドルはさらに減っています。破綻補償額を次々に引いていくと、今年69番目に倒産したミューチャルバンクで、残高は8億ドルにまで急減したと推計されます。そして、14日に倒産したコロニアルバンクが77番目。FDICの支払い資金は、既に尽きている。こう考えられるのです。FDICは公的機関ですから、政府が何とか手を打つのでしょうが、懸案は山済みです。さて、どうするのでしょう。8月25日のFDICの決算発表が注目されます。
2009.08.20
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クロニクル プラハの春よさらば1968(昭和43)年8月20日プラハの春とは、1967年から68年にかけてのドプチェク体制下での、民主化運動の総称です。言論表現の自由、出版の自由、複数政党制の容認などを含んでおり、チェコ周辺の社会主義諸国からも、強い懸念が表明されていました。もちろんブレジネフ書記長、コスイギン首相、ボドゴルヌイ最高会議幹部会議長というトロイカ体制下のソ連も、重要な懸念を表明していたのです。6月、7月とドプチェク体制への締め付けは強化され、そしてついに41年前のこの日、ワルシャワ機構軍の戦車がソ連の後ろだけを得ながら、プラハを席捲したのでした。事実上、プラハとチェコの民主化運動は、ソ連軍の戦車で圧殺されたのです。プラハの春では、市民たちの手になる、自由を求めた書簡『二千語宣言』が有名です。この宣言に名を連ねた人々の中には、ヘルシンキ五輪のマラソンの勝者で、人間機関車と呼ばれたザトペック選手や、東京五輪でチェコの名花と渾名された体操の女子個人総合などの金メダリストベラ・チャスラフスカ選手などが含まれていました。ドプチェク体制後のチェコの指導部は、頑として二千語宣言への署名を撤回しないチャスラフスカさんのメキシコ五輪派遣を躊躇したのですが、国内の批判を警戒して派遣に応じたのでした。彼女は仲間の皆さんのためと、東京を上まわる演技で答え、個人総合。鉄棒、段違い平行棒、そして徒手体操と4個の金メダルを獲得、女子団体と平均台で銀メダルを獲得したのです。その後、まさに苦節20年、1989年のオレンジ革命で民主化運動は、苦難の末の復権を果たしました。二千語宣言の署名者たちも、皆名誉を回復したのです。
2009.08.20
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自民党政治の終焉近し(31)海部後の総理・総裁をどうするか。やはり最大派閥の竹下派経世会の動向にかかっていました。同派の会長は金丸信。竹下と同期の衆院議員で、子供同士が夫婦という姻戚関係にありました。海部後継はリクルート事件の禊を終えた宮澤喜一と渡辺美智雄の争いとなりました。福田派を継承した安倍晋太郎は病に倒れ、総裁レースを断念せざるを得なかったのです。この時、海部総裁の下で、金丸の強い推薦で幹事長に就任していたのが、小沢一郎でした。小沢は、竹下派7奉行の中では最も若い47歳(89年当時)。小泉純一郎や私と同年の政治家でした。金丸秘蔵っ子の小沢の突出に、この時期から7奉行の間に溝が出来、それが後の分裂劇に繋がってゆきますが、それは後のことにします。竹下派として誰を押すか。金丸も迷ったようです。そこで、マスコミでも大きく取り上げられて話題となった、総裁候補の小沢面接が行なわれたのです。91年当時49歳の小沢にとって、大先輩に当たる宮澤との面談は、内心忸怩たる思いがあったのでしょう。テレビに映し出された彼の顔は、珍しく複雑なものを見せていました。結局、バブルの崩壊後の経済的困難も念頭に、こと経済や財務については、大蔵省の幹部も頭の上がらない宮澤に任せるしかあるまいと、金丸も宮澤支持を決断します。これで大勢が決して、宮澤首相が誕生したのです。国会の会議場で、英字新聞を読んでいたという、博学で学者肌のそういう意味では異色の首相が誕生したのです。国会答弁にソツがあろうはずはありません。バブル崩壊に苦しむ日本経済をどう立て直すか、野党が攻め立てようとしても、野党の論理を噛んで含めるように反駁し、持論に引き込んでいく手際は、見事なものでした。国会の会議場が宮澤教授の講義の場になっていたというのが、当時の記者達の証言です。長く自民党の国対委員長を務め、宮澤内閣の副総理を務めた金丸が、あぁこういう答弁があるのかと感心することが良くあったとのべたのは、92年の初めのことでした。 続く
2009.08.19
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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(30) いかに労働者階級との差別化を図るためとはいえ、花嫁衣裳などの嫁入り支度に費やせる出費には限りがあります。親や夫の収入を超えることは不可能でしたから。ミドルクラスの中・下層に湯水のように使えるお金があるわけはないのです。質素が美徳と看做されなくなった時代に、そういう時代風潮に逆らって、断乎として質素な生活を送る人は少数派になっていました。しかし、ミドルクラスの体面を保ちたいと思っても、次第次第に膨れ上がる贅沢品を、あれもこれもと買い漁ることは不可能な層も多かったのです。こうした女性たちや身内を対象に、1880年代に始まるヴィクトリア朝後期に入ると、新商売が始まります。ミドルクラスの女性たちも、体面を傷つけずに安心して出入りできる上品な店構えのリサイクルショップ(当時は交換店と呼ばれました)が生まれたのです。店に出かけて、自宅にある古いが質の良い品を処分したりして、手持ち資金と合わせて、必要な品を安く揃えることが出来るようになったのです。雑誌を通じての物々交換よりも、確実性が高く、好評でした。『マイラズ・ジャーナル・オブ・ドレス・アンド・ファッション』誌の1890年3月号は、こうしたリサイクルショップの紹介記事を載せ、「楽しく、非常に賢く、時勢に合っています。」と、店の利用を積極的に勧めています。こうした良質のリサイクルショップと並んで、機械生産によるイミテーションも大いに利用されました。機械織りのレースのイミテーションは、かなり前から存在しましたが、19世紀末になると、宝石類特にダイヤのイミテーションまでもが登場してきます。同じ雑誌の1885年9月号は、当時「フォークナーのダイヤモンド」と呼ばれたイミテーションを、「小さめのものから、中くらいのものまでなら、本物と偽物の区別がつかないくらい、精巧に出来ている」と感心し、「若い女性への贈り物に最適です。」と紹介しています。こうした精巧なイミテーションが出回るようになったのは、技術の進歩の賜物なのですが、イミテーションを認めることは、比較的新しい現象でした。かつては、高価なダイヤが買えないなら、なしで済ませるのがミドルクラスの価値観だったからです。時代は変り、ミドルクラスの価値観も変化したのです。資本主義経済の発達の中で、植民地貿易で巨利を得た新興成金が巾を利かすようになると、アッパーミドルの人々は、財力こそが社会的地位を図る唯一の要素だとばかりに思い上がり、高価な宝石や高価なドレスに身を包んだのです。そして、そうした財力に欠ける、中下層のミドルクラスは、リサイクルショップやイミテーションを利用したのです。 続く
2009.08.19
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クロニクル 新宿駅西口バス放火事件発生1980(昭和55)年8月19日29年前のこの日午後9時過ぎ、新宿駅西口の20番バスのりばで、発車待ちで停車中の京王バス中野車庫行きに、男が後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両の後方へ投げ込みました。火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う大惨事となりました。犯人(犯行当時38歳)は北九州市出身、5人兄弟の末弟で、全国を建設作業員として転々としていました。1972年に結婚したのですが、長男の誕生後に離婚。子供を児童施設に預け、各地などを転々としながら現場作業員として働き、毎月子供に仕送りをしていたそうです。事件当夜、駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところを、通行人にここから出て行けと言われてカッときて犯行に及んだのだそうです。死亡した6人の中には、後楽園球場のジャイアンツとスワローズの試合を観戦帰りの父(40歳)と息子(8歳)や、子供の運動靴を買うために、勤務先からの帰宅途中にわざわざ新宿に立ち寄ったがために、事件に遭遇した母子家庭の母などがおり、当時盛んに報道されました。判決は1、2審とも無期懲役となり、刑が確定したのですが、犯人は1997(平成9)年10月に服役中の千葉刑務所内で首吊り自殺を遂げました。55歳でした。
2009.08.19
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自民党政治の終焉近し(30) 海部内閣は竹下派に支えられた、竹下亜流内閣でした。事務方の官房副長官を長く務めた石原信雄は、後に回想録を著した際、「海部首相は重要な案件になればなるほど、竹下先生と金丸先生に相談していた」と、その内幕を記しています。党務は金丸腹心の小沢一郎幹事長が牛耳っていました。そんな内閣でしたが、国民の人気は高く、91年秋の退任直前の時期でも、なお50%を超えていました。天安門事件を批判され、国際的非難を浴びていた中国を、西側首脳の先陣を切って訪問し、円借款を再開するなど、対中関係を重視した政界の師三木武夫の教えを守り、日中関係の将来の展望を開いたのは、彼の功績です。また、これは評価の分かれるところですが、イラクのクウェート侵攻から始まった湾岸戦争においては、110億ドルの支援を決定すると同時に、戦争終了後の平和活動に貢献するとして、自衛隊のペルシャ湾への派遣を決定。掃海艇による機雷の除去処理に貢献しています。支持基盤の弱い首相でしたが、国民の支持を背景に粘り越しを発揮し、2年を超えて政権を維持しました。しかし、金脈等金銭その他のスキャンダルのある議員を、一切登用しない政治手法が、スネに傷のある古参議員らの反発を強めます。また竹下派支配を攻撃するYKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎)らの強い批判にもさらされます。そのため、国民的人気にも関わらず、党内の批判は強く、それが政治改革関連法案の廃案という事態を生んだのです。廃案は、海部首相に対する自民党内の反発が原因でした。そこで首相は国民の支持を背景に衆院解散を断行し、前年に続いて総選挙に訴えようとしたのです。僅か1年半程度での衆院解散が、支持基盤の首相の手で出来るはずもありません。反海部勢力ばかりではなく、竹下派にも見捨てられた首相は、解散を行なうことは出来ず、ここで詰め腹を切らされたのです。竹下派の忠実な操り人形だった首相が、国民的人気をバックに人形からの自立を目指して、反旗を翻し、見事に玉砕した一幕といえましょう。忠実でなくなった人形は切られたのです。この海部首相については、後日談があるのですが、それは村山内閣誕生秘話のところで触れることにします。 続く
2009.08.18
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宗教改革よもやま話 (54)さて、三十年戦争の第1幕に圧勝したカトリック勢力(スペインの強力な応援を得た皇帝軍)は、そこで戦いを止めずに、北ドイツのプロテスタント諸侯を制圧する姿勢を見せたのです。勝ちに驕った態度が仇となり、カトリック勢は次々と新しい戦いに引き入れられて行ったのです。1625年になると、クリスティアン4世に率いられたデンマーク軍が、オランダの資金援助を受けながら戦場に登場します。そのデンマーク軍との激戦は各所で続き、戦場となったドイツ各地の農場は、踏み荒らされて惨憺たる状態に成り果てて行きます。ようやく1629年になって、皇帝軍が勝利を掴んだ時ですが、この機を待っていたかのように、北の大国スウェーデンが戦場に登場するのです。人口150万人という小粒の国ながら、豊かな財力を誇るところに、フランスの財政支援も受けて、当時の最新の兵器を揃えた精鋭部隊を備えたスウェーデン軍は、機動力にも優れていました。また信仰心の篤い国王グスタフ・アドルフの指揮の下、朝晩には夜天でも神への祈りを捧げるなど、新教の戒律が行き届き、一切の略奪をしないなど、厳しい軍規を守っていて住民の信頼も獲得したのです。1632年には、バイエルン公国の都ミュンヘンも陥落し、危機迫ったオーストリア軍は、隠棲していた名将ワレンシュタインを引っ張り出し、両軍は共に6万の軍勢を率いて、南ドイツのニュルンベルクに対峙したのです。しかし、勝敗は決せず、両軍は再度、ライプツィヒの南のリュツェンで死闘を演じます。この戦いでスウェーデンは名君グスタフ・アドルフを失いますが、名宰相オクセンシェルナの指揮よろしく、南ドイツ侵攻作戦を継続したのです。そして1635年に入ると、今までこの戦争の表舞台に出ることのなかったフランスが、遂に戦場に姿を現すのです。フランスはアンリ4世のカトリックへの改宗で知られるように、基本的にカトリックの国です。そのフランスがカトリック軍と敵対するスウェーデン軍と力を合わせて、皇帝軍やスペイン軍と対峙したのです。しかも1635年にはカトリックの皇帝と新教諸侯の妥協も成立していましたから、この時点で宗教戦争と言う意味合いはもはや失われていたのです。にもかかわらず、戦争は48年まで、なお10年以上も続いたのです。 ザビ
2009.08.18
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クロニクル 第1回全国中等学校優勝野球大会始まる1915(大正4)年8月18日この日、大阪朝日新聞の主催で、第1回全国中等学校優勝野球大会(後の全国高等学校野球選手権)が、大阪府の豊中グランドで幕を開けました。出場校は10校で、全国を10のブロックに分け、72校が予選に参加しました。10校は夫々予選を勝ち抜き、94年前の今日、選手権はスタートしました。出場は、秋田中、早稲田実業、山田中、神戸二中、京都二中、和歌山中、鳥取中、広島中、高松中、久留米商の10校。会場の豊中グラウンドは、2年前に完成したばかりで、広さは約2万平方メートルでした。観客席もあり、約400名が収容できました。開催期間は6日間とされ、優勝は京都二中、準優勝は秋田中でした。会場が現在と同じ甲子園球場に移るのは、1924年の第10回大会からでした。
2009.08.18
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自民党政治の終焉近し(29)宇野首相の後任を探すといっても、リクルート事件に連座した議員の禊が2ヶ月足らずで終るわけもなく、反対を押し切って宇野首相を実現したのが竹下前首相だったことも明らかでした。ですから、最大派閥の竹下派から総理・総裁を出す選択肢は、今回もありませんでした。刑事被告人の田中元首相を抱えた当時と、同じ状況を竹下派経世会は迎えていたのです。実は竹下元首相自身、禊を済ませて首相の座に返り咲く意志を持っていましたから、自分の次の世代を起用することにはしたくないという意志を持っていました。「時計の針を進めず、戻さず」の候補が望ましかったのです。ここに白羽の矢が立ったのが、三木元首相の秘蔵っ子で、河本派のNO2の座にあった海部俊樹でした。竹下元首相とは早大雄弁会の先輩後輩であり、青年海外協力隊の世話役としても親しく、宇野首相とは当選同期だった海部は、初当選当時最年少議員だったので、年齢は若かったのですが、議員暦は長く、閣僚経験も豊富でした。ハンサムで柔らかい語り口で女性に人気の政治家でした。自民党の総裁選には、中曽根派の1匹狼石原慎太郎と宮沢派の林義郎が立ちましたが、竹下派の強力な支援で、海部が圧勝し、8月7日海部内閣が誕生したのです。初めて昭和生まれの首相が誕生したのです。この時、参議院では自民党は過半数を割っており、野党各党は決選投票では社会党の土井たか子委員長に投票したため、新憲法下で始めて、衆議院と参議院で異なる人物が首班指名を受けたのです。この結果、憲法の規定に従って、両院協議会が開かれたのですが、意見の一致をみることはなく、これまた憲法の規定に従い、衆議院が指名した海部俊樹氏が、首相に就任することになったのです。海部首相は組閣に際し、クリーンな政治家しか選ばない方針を貫き、リクルート事件のみならず、ロッキード事件等、過去の汚職事件で話題となった人物は全て外し、清新さを内閣の看板としたのです。また、山下徳夫官房長官に女性問題が急浮上した際には、間髪をいれずに更迭に踏み切り、森山真弓環境庁長官を横滑りさせ、女性重視を打ち出したのでした。党内基盤の弱い首相が、党総裁兼首相としての基盤を築くには、世論の支持が不可欠だったのです。清新さと女性重視、そして首相自身の清潔さと一所懸命さが受け、90年の2月に実施した衆議院選挙では、前年の参院選と違って、単独過半数を確保することに成功したのです。これは海部首相の世論対策が、功を奏したことを意味していました。 続く
2009.08.17
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世界経済の現状 (58)バーナンキやガイトナーの行動を見ていると、彼らはゴールドマン・サックスやJPモルガンなどが、公的資金を活用してレバレッジを利かせ、かつて習い覚えた手口で荒稼ぎをすることを黙認しているように見えます。その稼ぎで、国からの借金を返したゴールドマンなどは、稼ぎに貢献した社員たちに、またぞろ巨額のボーナスを支給しています。ガイトナーは、国への借金返済の出来ないAIGの巨額ボーナスについては、国民の手前渋い顔を作っていますが、借金を完済した金融機関には、何も言いません。ここからすると、彼らの狙いは明らかになってくるように思います。アメリカのGDPに占める消費の割合は70%に及びます。ですから消費不振はたちどころにアメリカ経済を直撃します。しかし、現在のように国民の過剰消費を支えたマジックが崩壊し、過剰消費の解消が必要とされるようになると、国民1人1人に、広くあまねく行き渡るような方法で、消費を刺激するのは無理である。むしろ、国民の3%を占めるに過ぎない一握りの高額所得者に還元する方が、消費の刺激効果は高い。彼らはこう考えているように思えるのです。最大の景気対策は、富裕層がさらに利益を増やせるようにすることだ。今100万円の所得が増えるとして、年収が300万円~500万円の人に渡ったとすると、この100万円は、どの程度が消費に回るか分かりません。かなりの部分が不景気の中では、貯蓄に回る可能性があります。これに対して年収1億の人に渡るとすれば、100万円ははした金に過ぎませんから、右から左に消費されます。それゆえ高額所得者が、さらに儲かるようにすることが、最大の景気刺激策なのだと言うのです。まるで、敗戦後の一時期流行語になりましたが、「狼生きろ、豚は死ね」という東大出の詐欺グループが使っていた捨て台詞と同じ思考です。この考え方は正しいでしょうか。高額所得者が羽振り良く消費し、そこにその他大勢が群がって消費すれば良い。これが21世紀型の経済対策だと言いたいのでしょう。エリート臭プンプンの鼻持ちならない考え方です。まさに強欲資本主義の面目躍如といったところです。一般市民、国民の人間的な尊厳を踏みにじり、支配と隷属の時代を再現しようとでも言うような、時代錯誤のアナクロニズムがそこには見られます。実は高額所得者の消費するような高額商品は、まさに数の少ないプレミアム商品であるがゆえに価値が高いのです。金額は高くても商品は少なく、雇用創出効果は一般商品に比べて、ずっと小さいのです。貧しき人々の消費を刺激し、大量の廉価品の生産を刺激し、雇用の創出に繋がるようにしなければ、いつまでたっても今日の危機は抜けられないでしょう。オバマ政権の経済スタッフは、早期にウォール街偏重を脱し、ミニバブルの誘惑から脱しない限り、今の経済状態を根本から立て直すことの不可能を知る必要があると、私は考えています。 続く
2009.08.17
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クロニクル CDの登場1982(昭和57)年8月17日やがてレコード界に革命的変化を齎すことになるCD第1号が発売されたのが、27年前の今日でした。発売元は、オランダに本拠を構える多国籍企業のフィリップス。発売したのは、スウェーデンの男女混成の4人グループのミュージシャンABBA(アバ)のアルバム、THE SINGLES -The First Ten Yearsでした。当初、CDは再生用の機器が必要なため、発売当初はその費用負担がネックとなって売れ行きは鈍かったのですが、レコードとの音質の違いから、普及のピッチが上がり、とりわけ84年にソニーが5万円を切るポータブルCDプレーヤーD50を発売、普及に勢いがつきました。なお、日本でのCD発売は82年の10月1日でした。
2009.08.16
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自民党政治の終焉近し(27)宇野宗佑外相(当時)は、竹下首相と当選同期で。青年海外協力隊の立ち上げに尽力し、早くから竹下首相とは親しい間柄でした。中曽根派ではNO2の座にありましたが、派内の人望は、当選年次で一1期下の渡辺美智雄に遠く及ばなかったのです。そのため、中曽根派の後継者は中曽根後見人の桜内義夫か渡辺美智雄であろうというのが、衆目の見方だったのです。何が幸いするか分からないのは、宇野外相の派内基盤の弱さがから、彼にリクルート社からの未公開株が届けられなかったことです。派閥の領袖クラスは、皆謹慎中です。国民の強い批判の中で、時期首相はクリーンで、汚職の黒い噂のない人が良い。しかし、国民受けの良い伊東正義総務会長は、断乎として拒否している。こんな状況の中で派閥のボスでもなければ、後継者でもない宇野に白羽の矢が立ったのです。竹下首相にとって、宇野なら扱いやすく、しかも87年秋の組閣以来、ずっと外相を務めていたので、そこそこ諸外国に顔が売れており、間近に迫ったサミットをソツなくこなすことぐらいは出来るだろうというものでした。宇野内閣はクリーンさを売りにスタートを切ったのですが、スタート直後に神楽坂芸妓とのスキャンダルが発覚し、当該女性に告発される騒ぎとなったのです。89年4月には、3%の消費税が導入されています。資産バブルで土地や株、絵画やゴルフの会員権相場などは、うなぎのぼりに上昇していましたが、普通のサラリーマン家庭の年収では、とてもマイホームに手が届かない状況となってしまっていました。それなのに、政治家はリクルート社から賄賂を貰ってヌクヌクとしている。首相は女性関係にだらしがない。これは致命的でした。参院選の前哨戦だった東京都議選に、自民党は辛うじて第1党を守りましたが、議席は前回の6割に減りました。こうして迎えた7月23日の参院選で、自民党は改選69議席の半数に近い36議席に激減、特に地方区の内、1人区では3勝23敗とボロ負け、4人区の東京でも全敗と大敗を喫したのでした。大勝した社会党の土井たか子党首が、「山が動いた」と発言したのが、印象的でした。翌日支持基盤の乏しい宇野首相は退陣を表明、実質54日という短命内閣となリました。宇野内閣で実現したことは、閣僚の家族を含む資産公開で、現在も続けられていますが、高い関心を持って読まれているようには見えませんね。 続く
2009.08.16
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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(29)ヴィクトリア朝後期の1880年代になると、ミドルクラスの贅沢は一層顕著になってきます。80年代に入ると、高価な波紋織りのシルクが再び流行したのですが、以前のように一切の装飾を排したプレーンなドレスに仕立てるのではなく、別の高価な布地と組み合わせて、より豪華な仕立てにするのが流行ったのです。宮廷用のドレスにつける長い引き裾をつけたコート・トレーンと呼ばれるウエディングドレスも珍しくはなくなり、引き裾の裏地にまで、シルクが使われるようになったのです。ある花嫁に対する雑誌の編集者の指示は、次のようなものでした。「あなたのウエディングドレスには、ウエストから約2と1/2ヤードの長さの引き裾をつけるべきです。角の丸い引き裾の方が、四角の引き裾よりも優美でしょう。引き裾の裏地は堅めのモスリンにし、薄手のシルクで縁取りをすると良いでしょう。多くの場合引き裾は、全体をシルクで裏打ちしますが、上の部分はモスリンだけで裏打ちしても構いません。」下の写真をご覧下さい。こうした豪華なドレスを作るには、20ヤードもの生地が必要でしたから、相当お高いものに着いたのです。この頃になると、ミドルクラスの花嫁に、節約を求めていた編集者の態度は、もはや見られません。編集者も態度を変え、浪費を奨励する姿勢をとるようになったのです。編集者たちは、ミドルクラスの読者に対し、盛んに高価なシルクのドレスの購入を勧め、ウエディングドレスを、豪華なイヴニングドレスに仕立て直すことを前提にして選ぶことを、勧めています。「この号に載せてあるようなイヴニングドレスに仕立て直すのであれば、プリンセススタイルのウエディングドレスを作るべきです。白サテンの生地がうってつけでしょう」と言うアドヴァイスが見られます。ヴィクトリア朝後期には、花嫁は父親や夫の職業や年収を尋ねられることはなく、編集者もそれを問わなくなっています。ですから編集者は、花嫁の社会的地位や家族年収とは無関係に、白サテンのドレスを作るよう勧めていたのです。50年代や60年代の質素を勧めた論調とは、180度変わってしまったのです。 続く
2009.08.16
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クロニクル フジヤマの飛び魚活躍1949(昭和24)年8月16日フジヤマの飛び魚とは、先日ローマの世界選手権を視察中にローマで客死された、古橋広之進氏に売国のジャーナリズムが贈ったニックネームです。敗戦国の日本、ドイツ、イタリアが国際スポーツ団体への再加盟を許可されたのは、この年1949年のことでした。そのため前年48年のロンドン五輪には出場できませんでした。そこで、日本水連は、ロンドン五輪の水泳競技の日程に合わせて日本水泳選手権を行い、古橋、橋爪両選手は、400m、800m(五輪にはなし)、1500m自由形の3種目で、いずれも世界新のタイムを出しました。しかし、国際水連に未加盟のたえ記録は公認されませんでした。そして60年前の49年、国際水連に復帰が認められた日本水連に対し、ロスアンゼルスで開かれる全米水泳選手権への招待状が届けられたのです。招待を受けた日本から古橋、橋爪両選手らが参加、この日400m自由形の決勝が行なわれたのです。最初からリードした古橋選手が4分33秒3のダントツの世界新記録で優勝、橋爪選手も世界新で2位となったのです。2人はその後、800m、1500m自由形でも、同じく1,2位でゴール。どちらも驚異的な世界新記録を出したのです。小学校1年生だった私も、良く覚えています。2位の橋爪選手は、古橋選手の影に隠れたかたちになりましたが、米国のジャーナリズムは、2人、特に古橋選手に「フジヤマの飛び魚」と讃えたのです。敗戦で息沮喪気味の日本人にとって、2人の米国での活躍は、まさに胸のすく思いであり、2人の活躍は、日本人の自信回復に大きな貢献となりました。橋詰氏はなお健在なことを、古橋氏を惜しむ談話で知りました、古橋氏のご冥福を祈ります。
2009.08.16
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