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イギリスの庶民生活……(4) 家事使用人…919世紀イギリスの中流を自称する家族にとって、少なくとも1名の奉公人を雇うことは、必要にして欠くべからざることでした。そして1名を超えて雇用される使用人の数は、家族の財力によって決まったのです。富裕な家族は、財力に応じて必要と思える使用人を増やしていったのです。そしてそのことによって、自分達が有力な人物であると、世間に対して誇示していたのです。こんな笑えぬ話があります。3人の使用人を雇用するある主婦は、自宅で開いたディナー・パーティの席順をどうするかで悩み、結局テーブルの席順を客人が雇用する使用人の数に応じて定めたというのです。パーティは和やかに進行し、以後使用人の数に拠る席決めは、ミドルクラスの間で、日常的に用いられるようになったというのです。誰が何人の使用人を抱えているかは、誰もが知っていたというわけです。こういう具合でしたから、家事使用人を雇用していると言っても、その社会的地位と収入によって、雇用する使用人数は大きな開きがありました。上には100人を超える使用人を雇用する貴族や大地主のグループがあり、下には辛うじて1人のメイドを雇用する下層の中間層がおりました。その中間に50人~60人を雇用する中・下層ジェントリーやアッパー・ミドルクラスの家族があり、ミドルクラスの中間層は、3人~10人程度の使用人を抱えていたのです。ところで、当時のイギリスでは、家庭の主婦がパーフェクト・レディとして振舞うのに必要な使用人の数は、最低3人は必要であると言われていました。コック(料理人)、パーラーメイド(食卓に侍するメイド)、ハウスメイド(主として掃除等の雑役担当)の3人です。小さな子どものいる家族では、ナースメイド(子守担当)兼ハウスメイドを雇う必要がありました。この3人を雇用しない限り、この時期のミドルクラスに相応しいように、全てが完璧に機能することは不可能でした。下層のミドルクラスの家庭は、1人のメイドを雇うのがやっとですから、その1人に何もかもを受け持つ雑働きとして働いてもらうしかなかったのです。こうした層は、所得水準が上がると、先ずはハウスメイドかナースメイドを追加し、次にコック(料理人)を雇ったのです。 続く
2009.03.31
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クロニクル エッフェル塔完成1889(明治22)年3月31日この年は、フランス革命の100周年にあたりました。この100周年を記念して、この年はパリで万国博覧会(パリとしては2度目)が開かれることになっており、それを記念するモニュメントの建設が企画されました。86年に行われたコンペで、産業の粋を集めて建設するに相応しい提案として、審査員の満場一致で推薦されたのが、エッフェルを長とするチームの提案だったことから、建設された塔は,エッフェル塔と名付けられました。89年万博の目玉ですから、万博の開幕には間に合わせなくてはなりません。コンペが行われたのは86年です。それから、建設地を決め、建設に入ったのは87年に入ってからだったので、完成までの工期は、僅か2年2ヶ月の突貫工事だったのです。場所は、シャン・ド・マルスの練兵場の跡地、シャン・ド・マルス公園のセーヌ川沿いの地域です。出来上がったエッフェル塔は、産業の粋と言われる通り、鉄の塊です。「花の都」に何と不細工な物をと…と言った酷評も多く、建設当時は賛否が半ばする大論争が展開されました。面白いのは反対派の論客となった作家のモーパッサンです。彼は殆ど毎日のようにエッフェル塔の1階にあるレストランに通い、「反対派のあなたが…」がと聞かれるたびに、「ここは、あの不愉快な塔を見なくて済む、パリで唯一の場所だからさ」と応えたことが知られています。今では、パリの風景にしっかり溶け込んでいるのですが……
2009.03.31
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イギリスの庶民生活……(4) 家事使用人…8家事使用人は、19世紀と共に大幅にその数を増やしました。家事使用人を雇用することが、社会的地位の指標であるとする意識が、ミドルクラスの最下層にまで浸透したからです。家事使用人の雇用が貴族やジェントリーといった上層階級に限られていた18世紀までは、1人の雇主が雇用する家事使用人の数は多かったのですが、雇主そのものが少ないので、使用人の総数はそれほど多くはなかったのです。しかもその中で男性の使用人の数が多かったため、特に女性の使用人は少数でした。ところが19世紀に入ると、家事使用人の数は劇的な増加を見せます。その上、男女比も逆転し、19世紀半ば以降では、女性の労働人口に占める割合では、最大の職種となって行きます。この時代の特徴を追加すると、貴族・ジェントリー層は、相変わらず数多くの家事使用人を抱えているのですが、1人からせいぜい3人までを雇用する、ミドルクラス中・下層の「零細」雇用主が増加したことが、挙げられます。最低1人のメイドを雇うことが、自分がミドルクラスに属するか、労働者階級に属するかの分かれ目として、意識されるようになっていたからです。年収が130ポンド~200ポンド程度の家庭の主婦にとって、1人のメイドを雇う暮らしは、他の何を犠牲にしようとも、実現しなければならない目標となったのです。そして、そのことは社会的にも認知されなければならなかったのです。世間に対して、メイドがメイドであることを知らしめなければ、雇用した意味はなくなってしまうからです。そのため雇用主と使用人の間の線引きは、はっきりと意識されるものでなければならなかったのです。むしろ上流階級は、この点には寛大でした。使用人を大事にし、中には家族の一員であるかのように遇する大貴族もありました。彼らの地位や名誉は、既にして揺るぎないものとなっていたからです。しかし、ミドルクラスの中・下層にとっては、事情は違っていました。彼らの社会的地位は、雇われる側の社会的立場と大差のない、隣接した関係にありました。雇用主の立場が被雇用者のそれに、近ければ近いほど、その間に明確な分岐線を引くことが何よりも重要となったのです。使用人に自らの立場を自覚させると共に、世間にも周知するために、こうして家事使用人にユニフォームを着用させることが、重要な意味を持つようになったのです。そして階層の低い雇用主ほど、そのことに固執したのです。 続く
2009.03.30
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クロニクル 国立競技場完成1958(昭和33)年3月30日1958年は東京が立候補している、1964年のオリンピック開催地を決めるIOCの総会が、秋に開かれる年でした。それだけに、オリンピックのメーンスタジアムとして使える施設が、この時期に完成したこと(後に客席のみ拡大)は、誘致に対する強力な援軍となり、東京五輪開催に繋がってゆきました。
2009.03.30
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イギリスの庶民生活……(4) 家事使用人…7ヴィクトリア時代の家事使用人には、もう一つ大きな特徴がありました。それは揃いユニフォーム、即ちお仕着せの着用です。 19世紀以前においては、制服のようなお仕着せを身につけていたのは、華美な服装を提供された御者や馬丁といった戸外での仕事を担当する、男性の使用人に限られていました。19世紀のはじめまでは、女性の使用人には何のユニフォームもありませんでした。メイドはしばしば女性主人のお下がりを着ていました。メイドが女主人のお供をした時など、知人以外には、どちらが主人で、どちらがメイドか分からないということもあったのです。そんなことから家庭によって様々な違いがあるものの、朝はプリント地の服に白のキャップとエプロン。午後は黒の服という、20世紀初頭までの女性の使用人の服装の型が出来上がったのです。下に掲げた絵は、1870年頃のユニフォーム姿のメイドです。ところで、こうした女性の使用人のお仕着せの着用は、19世紀における家事使用人の雇用数の増加、並びに使用人雇用の社会的意味の変化と深い関係がありました。明日はこの点を考えたいと思います。 続く
2009.03.29
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クロニクル 幕府、永代島周辺の埋め立てを許可1696(元禄9)年3月29日この日幕府は、ゴミ船で江戸市中の塵芥収集を行っている、亀井町と小伝馬町の町人2名に、永代島周辺の浚渫を許可し、蒐集した塵芥と浚渫した砂土とで、周辺を埋め立て、土地造成をさらに進めることとしました。家康の江戸入府以来、幕府は江戸湾の干拓と埋め立てを進めてきました。埋め立てには、急速に発達した江戸の賑わいのなかで、急増する人口と活発な都市経済の影響によって、これまた急増した塵芥の処理を兼ねて、これに浚渫土をまぜて土地を造成し、急増した人口を吸収する新開地の建設する狙いがありました。こうして深川一帯などで新しい町造りが行われたのです。富岡八幡宮はその一角に建設されました。
2009.03.29
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イギリスの庶民生活……(4) 家事使用人…6男性の家事使用人が大きく減少した最大の理由は、政府による課税にありました。最初は1777年に、時の首相ノース卿が、アメリカ独立戦争(1775~1783)の戦費調達の一助として、男性の家事使用人1名に対して1ギニーの税を導入しました。戦後の1785年には、戦費に拠る赤字対策として、1~2名の家事使用人の雇い主に対しては1人に対し1ポンド5シリング、3~4名の雇い主に対しては同じく1ポンド10シリングと。男性の使用人の数に応じて累進課税が導入されました。11人以上の所有者は1人につき年3ポンドを課税されたのです。その上、使用人が独身の男性であった場合、1人につき年1ポンド5シリングの追加課税が待っていたのです。さらにです。馬丁や御者のように華美な服装を身につけた男性使用人に対しては、この上に上乗せ課税されたのです。19世紀に入ると、この使用人税はさらに高額になります。例えば11人以上の場合、何と1人当たり7ポンド1シリングにまで引き上げられたのです。工業化が進み、工業労働力が求められている状況にあるとき、「若い1人前の男性を家事奉公で雇用することは贅沢ではないか」と看做す社会的合意が成立したことに拠る、1種の贅沢税が科されたのです。この考え方は、男性使用人税の継続によって(廃止は1937年でした)裏付けられます。こうした賃金の上昇と税の高騰という、雇い主にたいする二重の負担は、家事奉公に対する女性の進出に道を拓きました。女性使用人の賃金は安く、税負担もありません。その上男性に比べ従順で使いやすかったのですから、なおさらです。その結果、19世紀の初頭では、なお女性の家事使用人は男性8に対して1の割合でしたが、1881年のセンサスでは、男性1に対して女性は22と大きく逆転しているのです。こうして、19世紀の半ばを境に、一部の上流階層を除いて、男性の使用人を抱えることはなくなっていったのです。 続く
2009.03.28
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クロニクル 米国京都議定書不支持を表明2001(平成13)年3月28日8年前のこの日、1月に就任したばかりのブッシュ米大統領は、地球温暖化防止に関する「京都議定書」を支持しないことを、正式に表明しました。それは前任のクリントン政権の方針を100%ひっくり返した主張でした。そしてそれは国家としても、1人あたりの個人としても、世界で最も大量に温暖化ガスを排出し続けている米国と米国民のエゴむき出しのわがままな主張でした。アフガンとイラクの戦争だけではなく、ブッシュ政権は様々な点で、史上最悪の米国政府だったと記録して、間違いがないように思います。
2009.03.28
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イギリスの庶民生活……(4) 家事使用人…5ところで、皆さんは家事使用人というと、男性と女性どちらを思い浮かべますか。最近は使わなくなりましたが、良く女中さんとか、ねえやとか言いますね。「赤トンボ」の詞にも、「15でねえやは嫁に行き お里の便りも絶え果てた」とありました。しかし、イギリスやフランスで家事奉公人と言えば、先ず女性を思い描くようになるのは、19世紀に入ってのことでした。家事使用人の大分が女性で占められるのは、19世紀のミドルクラスの家庭に見られる現象なのです。貴族やジェントリーと言った上流階級では、執事、庭師(園丁)、御者、馬丁、門番などの男性の使用人を抱えていましたし、台所を中心とした家政の領域でも、料理人などを中心に、男性が担っている領域がかなりあったのです。例えば18世紀初頭におけるドーゼット伯爵夫人のお屋敷の記録によると、男性の使用人が93人、女性の使用人21人となっています。こんない大勢をいったい何に使っていたのでしょうね。ドラちゃんにタイムマシーンを借りて、覗きに行ってきたいところです。それが18世紀末に、男性の賃金が急速に上昇し始めたこと、そして時代の流れで、男性の使用人が自立心に目覚め、従順さを欠く行動に出るようになったことから、使用人に占める女性の割合が高まってくるのです。言わずとしれたフランス革命とナポレオン戦争の影響です。フランス革命はイギリスの民衆、とりわけ男性達にも権利意識を植え付けました。そして対仏戦争は、イギリスにもインフレを齎し、かつ兵士として参戦する男性の不足が目立ったのです。そこに産業革命という、商工業の急成長という要因が加わりました。繁栄は使用人に対する需要の増加を齎します。需要と供給のミスマッチは当然賃金の上昇を齎します。ここにさらなる事情が加わるのですが、それは明日記すことにします。 続く
2009.03.27
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イギリスの庶民生活……(4) 家事使用人…4ところで、最初に雇う家事使用人は、メイドと相場が決まっていました。家事を使用人に任せるということは、メイドが賃金と引き換えにする仕事を、女主人たちが自分では行わなくなっていることを示します。メイドの雇い主であるミドルクラスの女性たちは、家政の実際面に次第に携わらなくなっていったのです。こうして工業化の進展は、ミドルクラスの既婚女性のあり方を、大きく変えることにも繋がりました。工業化によって、家庭は生産の場から切り離され、もっぱら消費の場に変ったのですが、その上にミドルクラスの女性たちは、家事労働からも自らを切り離してしまったのです。19世紀後半には、彼女達は「食品貯蔵室や台所には、降りてこなくなっていた」のです。しかし彼女達は、骨の折れる楽しくない家事労働を、ただ単にサボっていたわけではなく、自らが属する社会層の主婦に期待される規準を満たそうと務めていたのです。当時の書物は、次のように記しています。「妻たる女性は、その資産が増加するに連れて、労働を伴う家事のことごとくを他人の手に委ねる。それだけの余裕が出来ると、彼女はまず通いの洗濯女を、それから雑役婦を、次に料理人兼女中を、1人か2人の乳母を、家庭教師(カヴァネス)を、さらには彼女自身の侍女を、家政婦をといった順に雇ってゆく。そしてそうした使用人への支払いが、家庭の資産を超えていないならば、彼女のこうした行動が咎められることは一切ない。」 こうして、遊惰と無為が「パーフェクト・レディ」の最大の目標として奨励され、女性の遊惰という生活様式がミドルクラスにとってのステータス・シンボルとなったのです。台所は社会的威信を示す場所ではなく、女主人が家政の雑事に介入することは、洗練された行動とはされなかったのです。こうした女性たちは、家庭内でも手袋をはめているのがつねでした。それは、彼女達が家事労働から解放されていることを示す、証だったのです。既婚女性の第1の務めは、ホステスとしての才覚を発揮して、一家の客をもてなし、妻子を贅沢な遊惰の内に扶養することが出来る、夫の能力と収入を社会に対して誇示することにあったのです。まさに虚栄に満ち溢れた世界が展開していたのです。 続く
2009.03.27
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クロニクル 日産・ルノーと提携1999(平成11)年3月27日丁度10年目になるのですね。業績不振に陥り、98年度には累積赤字が2兆円に達していた日産自動車は、この日フランスの自動車大手ルノーと提携関係を結んだことを明らかにしました。ここに日産は、ルノーの下での再建に活路を見出そうとしたのです。この時、ルノーが日産再建の切り札として送り込んできたのが、カルロス・ゴーンCCO(最高執行責任者)でした。日産のがん細胞は、強すぎる労組にありましたから、労組とのしがらみを断ち、経営再建に邁進するのは、日本人の経営者では難しいと考え、ゴーンCCOの派遣を受け入れた、日産の経営陣の判断は的中しました、ゴーンCCOは、リバイヴァルプランを作成し、部品購入における系列との取引の見直し、早期退職の実施など人員の削減、ルノーとの車台の統一、部品の共通化などによる経費の削減など、考えられる合理化を徹底的に追求しました。他方で、残った従業員の提言など、社内の意見を良く聞いて、社内の風通しを良くして、社内のやる気を鼓舞するなど、従業員の支持と強力を取り付けました。こうした努力の結果、2兆円を越えていた累積赤字は、5年後の2003年には、その全額を返済することに成功しています。
2009.03.26
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イギリスの庶民生活……(4) 家事使用人…3 1960(昭和35)年7月に誕生した池田内閣は、安保反対に揺れた政治の季節を、所得倍増という明るい話題を提供することで、見事に経済の季節に変えることに成功しました。産業革命後のイギリス社会が経験した中流志向を、より広範な形で実践したのが、この時期からの日本でした。そこでの中流生活のシンボルは、お手伝いさんではなく、テレビ、電気冷蔵庫、洗濯機といった家電製品の三種の神器であることが、違っていましたが…。ヴィクトリア時代(19世紀後半)のイギリスは、上から下までかなり幅が広いのですが、ミドルクラスの繁栄期でした。物価も上昇しましたが、所得の上昇の方が大きかったのは、100年後の日本と同じでした。ミドルクラスの上層は、上流階級の慣行を模倣することに務め、馬車を買い入れて、馬丁や御者を雇うなど様々な使用人を増やして、自らの社会的地位の上昇を誇らかに世間に示すための道具たてとしたのです。こうしたミドルクラスの地位の上昇を示す道具たての中で、絶対に欠く事が出来ない「地位の象徴」とも言えることが、最低1名の家事使用人を雇うことでした。そのほかの道具たてを整える余裕がなく、カーペットはボロボロのまま、家具はみすぼらしく壊れかけたままといった、年収が200ポンドに満たないような、ミドルクラスに入れるかどうかの線上にあるような家庭でも、何とかして1人のメイドを雇いたいと、切ない努力をしていたのです。中産階級(=ミドルクラス)の生活水準の向上が、貴族やジェントルマン階層のみに特徴的だった家事使用人を雇用する慣行を一般化し、家事使用人にたいする需要を、大幅に増やしたのです。こうした傾向は、19世紀のはじめから見られるようになり、1850年代から加速度的に強まり、20世紀の初頭まで続いたのです。
2009.03.26
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クロニクル エジプト・イスラエル国交を回復1979(昭和54)年3月26日30年前ということになります。この日、サダトエジプト大統領とラビンイスラエル首相は、平和条約を締結し、1948年の第1次中東戦争勃発以来、犬猿の仲だった両国の国交を回復しました。この結果、イスラエルはエジプトに対し、第3次中東戦争時に占領したシナイ半島を即日返還したのです。
2009.03.26
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イギリスの庶民生活……(4) 家事使用人…2 産業革命は、家庭生活の諸条件を大きく変えました。その最たるものが、生産活動の単位としての家庭や家族の役割を、低下させたことです。生産活動の主要な部分は工場に移され、家族協業が主だった小経営の役割は、急速に減少していったのです。一方で、経済的単位としての家族の機能が弱まった反面、ヴィクトリア朝時代の家族は、故人の精神的な充実を図る場として注目を集めました。特にこの時期に次第に存在感を強め、社会的にも上昇気流に乗って、大きな層を形成するようになったミドルクラスは、家庭と家族の重要性を大いに強調するようになったのです。現代の眼から見ると、そのことがミドルクラスに属する女性たちにとって、幸せなことだったのか否かについては、問題が残るように思うのですが、当時は男女を問わず次のような主張が何の疑問もなく受け入れられていたのです。ミドルクラスの社会的上昇は、妻を収入を得るための労働から解放し、家庭で家事を司る存在に変化させたのです。「男たるものひとたび世間に出れば、7人の敵と対峙しなければならない。それゆえ世の男たちは、そうした世間との戦いの疲れを癒す安全な避難所を必要とする。家庭こそがその避難所でなければならない。」という、戦前の日本で何の疑問もなく語られ続けていた家庭観、家庭は一家の主たる男性の安らぎの場であるとする家庭観こそは、この時代のイギリスで、都市のミドルクラスの家庭観として誕生したものでした。当時のイギリスでベストセラーとなり、特にミドルクラスの夫人たちに幅ひろく読まれた書物に、イサベラ・ビートン夫人の『家政読本』とい書物があります。彼女はこの本で、「元来主婦は家庭にあって家事を整え、健康な家庭作りの責任を負っている」と主張し、家事労働の心得と様々な料理法を紹介したのです。(下の写真は、その表紙です)また夫人の本は、主婦は主人を早く床に就かせ、朝は早起きする早寝早起きの習慣をつけさせて健康管理に力を注ぐことといった注意から、子どもの躾け方、召使の使い方、家の買い方や借り方、家具の選び方、ご近所との交際法に至るまでを、丁寧に記していたのです。新興の都市中産層という、新しい階層の新しい生活が、なお生活習慣として確立していなかった時に、生活のガイド、指針ともいうべき役割を、夫人の書物が果たしたのです。こうしてミドルクラスの女性は、家庭生活のキーストーンとなり、家庭において子を育て、召使いを使って家を清潔に整え、疲れて帰宅する夫のために温かい夕食を整えることが義務であるとされるに至ったのです。ここに、女性を職場から切り離し、家庭に閉じ込めることになる「ブルジョワ思想」が、女性を含むミドルクラスに広まったのです。確かにこの時代における、世俗の利益追求は激烈な戦いの場であったでしょう。それゆえ心休まる休息の場も必要だったでしょう。こうして実業の世界での成功と、堅実で上品な家庭生活の保持とが、対を成してミドルクラスの理想を表現するものとなったのです。そしてこうした社会的環境が、家事使用人の階層をも、大いに膨らますことに繋がりました。 続く
2009.03.25
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クロニクル 都営ギャンブル完全廃止1973(昭和48)年3月25日1973年の東京は、1967(昭和42)年に初当選した美濃部革新都政の2期目にあたり、美濃部都政が最も勢いに乗っていた時期でした。今から36年前のことになります。それこそ、「あの頃君は若かったぁ…」とでも言いますか。今は故人の美濃部都知事も若々しかった頃です。この日を持って、東京都は、美濃部知事の強力なイニシアチブの下で、江戸川競艇の幕を引きました。ここに都営ギャンブルの全廃が実現したのです。
2009.03.25
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イギリスの庶民生活……(4) 家事使用人…1暗い話題が続きました。ここで少々明るい話題に移りたいと思います。近代のイギリスが、1国2国民と呼ばれるほどに、階層分化の激しい社会だったことは知られています。しかし、19世紀も半ばとなってくると、熟練労働者達の収入と社会的地位も上昇をはじめ、プチブルと呼ばれた自営業者や小商店主との差は、目立たなくなってきます。こうした両階層の接近の中で、労働者階級とそれ以外の階級との差を、厳然と示すわかりやすい基準として使われていたのが、「家事使用人」を雇っているか否かだったのです。家事使用人を雇用する人々がブルジョワ層であり、そうでない人々は労働者層に属していると考えられたのです。民衆の職業のところで触れましたが、家事使用人となる道は、当時の貧しい女性たちにとって、最大の就職先でした。そして男性にとっても、かなりの就職先を占めていたのです。男女を合わせた家事使用人の数は、19世紀後半のヴィクトリア時代において、150万人近くの男女の生活を支えていたのです。それでは、19世紀中頃のイギリスにおける家事使用人には、どのような特徴があったのでしょうか。ここで、産業革命が齎した生活上の変化に触れなければなりません。産業革命は、普通連続的な機械の発明に拠る機械制工場生産の開始と普及と説明されるのですが、この変化は表の変化に過ぎず、この工場制度の普及が齎した生活上の変化も見落とすことが出来ないのです。例えば、日に3食の食習慣は、工場制度の普及と共に次第に一般化した風習でした。それまでは2食が普通だったのです。エリザベス1世もルイ14世も、マリー・アントワネットも日に2食の生活を送っていたのです。朝「行ってきます」と家を出て、夕刻に「ただいま」と家に帰る習慣、即ち家庭と仕事場との分離もまた産業革命が齎した新しい習慣でした。そしてやがて出てくる義務教育制度の誕生にも、産業革命は深い関わりを持っていました。 続く
2009.03.24
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クロニクル マッカーサー中国攻撃を示唆1951(昭和26)年3月24日もう58年も前のことになりました。前年6月に始まった朝鮮戦争に絡んでの発言です。朝鮮戦争について、米国政府は、べいこくをが核を構成している日本占領軍の司令官であるマッカーサーを、国連軍の最高司令官に据えていました。その国連軍最高司令官マッカーサーが、この日「中国本土の攻撃も辞さない」という声明を発表したのです。この声明は、戦火のこれ以上の拡大を好まないトルーマン大統領の方針に、明確に異を唱えるものでした。それゆえトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーを罷免することで、応えたのです。
2009.03.24
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イギリスの庶民生活……(3) 集金埋葬協会の怪…7 貧民の生活環境を問題とした議会証言も、いくつも見られました。1854年の議会の調査委員会の証言に立った住民の1人は、「10歳未満の子どもの高い死亡率は、委員会ではどうすることも出来ないことであるように思います。アイルランドからの移民たちが、その上昇を大きくしているのです。町を通り抜けていくアイルランド人の女性を何百人と見てきましたが、彼女達は赤ん坊を背中に括りつけ、2~3歳の幼児は自分で歩いていました。子ども達の多くは飢餓と厳しい生活から、虚弱であることは疑いようもなく、混雑した換気の悪い部屋で生活する限りは、やがて死亡統計の数字を押し上げることになるだろうことは、避けられないことだと思えました。」と、証言しています。貧しい労働者階級の妻達は、しばしば出産の床につくギリギリの日まで工場で働いていました。休めば給料が出ないのですから、他の選択肢はなかったのです。このことが母体にとっても、生まれてくる子どもにも有害であったことは、誰にでも想像できます。その上、彼女達は、1ヵ月もしないうちに仕事に戻り、小さな子ども達に赤子の世話を任せてしまうのです。こうした生活環境で、生き残れる子どもというのは、よほど頑健な子どもだけになることは、明らかでした。まだあります。子どもに夜泣きをさせないように。さらには出かけるときに静かにしているようにと、母親達は子ども達に催眠薬を飲ませることが習慣化していました。こうした薬が直ちに子ども達の死を招いたことはないにしても、子どもの体質を弱くし、死にいたる病気に罹患しやすくしていることに問題がありました。こうした習慣は、医師たちの努力で、1840年代後半には改善されていくのですが、それだけに1860年代の幼児死亡率を知る我々は、それ以前の幼児死亡率の想像を絶する高さの見当がついてしまうのが辛いですね。 この項終り、
2009.03.23
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イギリスの庶民生活……(3) 集金埋葬協会の怪…61歳~5歳までの子どもの死亡率、とりわけ貧民層の子どもの死亡率が最も高かったリヴァプールのある埋葬協会の役員は、次のように証言しています。「子どもが生まれると、親たちはすぐに子ども名義で埋葬協会に加入します。リヴァプールの殆どの協会の規約では、52週間(即ち1年間)掛け金を払い続けた後に、埋葬給付の満額が支給されると規定しています。そしてリヴァプールでは、幼児が満額給付の請求権を満たすとほぼ同時に、幼児死亡率が高くなるのです。しかもそうした高い幼児の死亡率は、その後の3年間も続くのです」と。この埋葬協会役員氏も、幼児の高すぎる死亡率の影に、犯罪の可能性があると考えた証人は、外にもかなり多かったのです。明確に証明することは出来ないけれど、かなりの可能性があるという疑惑を感じていた人は多かったのです。しかし、これは性急すぎるとする有力な反論もありました。反対論はこう指摘します。「子どもが1歳になるまでは、死なないように世話をし、1歳になった途端に手のひらを返したように子どもの世話を止め、死に任せるようにすることは、果たして可能だろうか。また、体質が虚弱なゼロ歳の赤ん坊の命を、親の世話によって1歳以上になるまで引き延ばすことが出来るのだろうか。そんなことは医師ですら不可能ではないか。」と。そして、当時の戸籍長官の報告は、リヴァプールの港が、アイルランド移民の受け入れ港であることを指摘して、この移民の子ども達の死が、リヴァプールでの幼児死亡率を高めている野ではないかという仮説を立てています。アイルランド移民が連れてきた子ども達の死により、リヴァプールでの5歳未満児の死亡数は、この地で生まれ育った子ども達より、数千人多くなったと報告書に記されています。さらに、リヴァプールが、イギリスから北米へ移住することを目指した移民たちの出発港だったことも、忘れるわけには行かないのです。北米への移住に旅立つまで、アイルランド系などの移民たちは、リヴァプールに留まらざるを得ないのです。こうしてリヴァプールは、この地で出生した子ども達の数よりも、かなり多くの幼児数が記録されたのです。こういう形で流入する幼児は、当然ですがゼロ歳児よりも1歳以上の児童の方が多かったのです。それゆえ、ゼロ歳児よりも1歳~5歳児も死亡率が高かったとしても、それは不思議ではないと、指摘していたのです。幼児の高い死亡率の背景には、圧倒的な貧困の現実がありました。貧しい親の子の死亡率は、何故高かったのか、次回はこの点を記したいと思います。 続く
2009.03.23
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クロニクル 「千と千尋の神隠し」にアカデミー賞2003(平成15)年3月23日今年のアカデミー賞も、日本映画2作品の受賞で沸きましたが、6年前のこの日、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」がアニメ部門のアカデミー賞に輝きました。宮崎ワールドを世界が評価した瞬間でした。
2009.03.23
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イギリスの庶民生活……(3) 集金埋葬協会の怪…5ここで、イギリス各地の子どもの死亡率を比べて見ましょう。ランカシャーの工業都市プレストンでの5歳未満児の死亡率は、手をかけて育てられる上流階級では18%、中流の場合で37~38%ですが、労働者階級を含む下層の貧民層においては55~60%に跳ね上がっています。別の角度で、同じ年齢層で埋葬協会に加盟している幼児の死亡率は62~64%とさらに上昇しています。ただ、プレストンの埋葬協会は、2ヶ月未満の幼児の加入を認めていなかったので、この62~64%という数字には、2ヶ月未満の幼児の死亡者はいないことになります。誕生後2ヶ月というのは、幼児が最も死亡しやすい期間であることを考え合わせると、埋葬協会加盟幼児の死亡については、人為的な死亡がかなり含まれている可能性が考えられるのです。ここで、1860年代の10年間についての年平均死亡率を見てみましょう。1860年代は労働組合活動が社会的に認知され、工場労働者の待遇についても、一定の改善が見られた時期なので、下層階級の幼児死亡率も、最下層の貧民層を除けばかなりの改善が見られた時期です。それでも農村を含むイングランド全域と比べると、工業都市の死亡率が著しく高いことが分かります。今、イングランド全体での5歳未満時の年平均死亡率は26,2%にまで落ちているのですが、シェフィールドでは39,4%、プレストンでは39,8%、エリオットの『サイラス・マーナー』でお馴染みのリーズでは41,3%、マンチェスターが43,6%、そしてビートルズの郷里である港町リヴァプールは、この時期でも何と52,6%とイングランド全域と比べ2倍を超える死亡率になっているのです。この数字から読み取れることは、下層住民を吸収して急膨張を続ける工業都市、とりわけ下層貧民の屯するスラム街の生活環境が、子どもの成育に相応しいものでなかったということです。一方で、都市に向けて下層貧民を流出し続ける地方農村は、貧民層を都市に放出することで、自らの生活の質と居住環境を改善することが出来たのです。ところで、とりわけリヴァプールとマンチェスターの2都市では、1歳未満の幼児死亡率は、マンチェスターで13,9%、リヴァプールで16,9%であったものが、1歳~2歳では夫々19,6%と26,7%に急増しています。2歳~5歳までの各年次の死亡率も、マンチェスターは平均18,4%、リヴァプールは23,4%と0歳児の死亡率を大幅に上回っています。この数字は、現代の我々の眼からみても、いかにも不自然です。幼児の死亡は、出世後の日数が経てば経つほど、死亡の危険は急速に小さくなっていくことは、経験的にも良く知られた事実です。この2つの都市では(他都市も、この2つの都市ほど顕著ではありませんが、同じ傾向を示しています)、何故1歳以降の幼児死亡率が高いのか。当時の識者は当然に、こうした疑問を持ちました。そして、そこに埋葬給付金の取得のための、人為的な死亡ではないのかという、疑問を感じたのです。 続く
2009.03.22
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クロニクル ダークダックスデビュー 1957(昭和32)年3月22日ロシア民謡やイタリア民謡で、我々世代にお馴染みのダークダックスが、この日デビューしました。一昨日の日記にLPレコードの話を記しましたが、実を言うと、私が自分の小遣いを貯めて買ったはじめてのレコードは、ダークのロシア民謡のレコード第1集でした。ダークに続いて、デュークエイセス、次いでボニージャックスとコーラスグループのデビューが続きました。
2009.03.22
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イギリスの庶民生活……(3) 集金埋葬協会の怪…4サンディス夫妻の加入していた埋葬協会は、その名を「博愛埋葬協会」と言い、ストックボードにあった「牡牛の頭亭」というパブに事務所を置いていました。会員数約7千人。その殆どが幼い子どもでした。会員になりたい者は、会に登録して週1ペニーの会費を13週払い続けると、完全会員となって給付への請求権を持つようになる仕組みでした。会員が志望した時、遺族が受け取る埋葬給付金は、現金で3ポンド10シリングと2シリング分のリキュールでした。ただし、ここから協会の集金人たちに1シリング6ペンス(=18ペンス)を手数料として支払う必要がありましたので純手取り現金は3ポンド8シリング6ペンスでした。サンディス夫妻の子エリザベスは、加入後15週で殺されていますので、給付資格を得た2週間後には殺されていたことになります。下層貧民の子どもの埋葬は、できる限り安上がりに済ますために、極めて粗末なものでしたから、当時は15シリング(1ポンドは20シリング)程度で済んだと推計されますので、夫婦にはその差額の2ポンド13シリング程度が手に入ったと考えられます。地下部屋で共働きのサンディス夫妻の稼ぎは、2人で週に12シリングと記されていますから、2人の純手取り53シリングは、僅かに1ヶ月の稼ぎ程度だったのです。何ともやるせない話ですが、当時のイギリス社会に息づく最下層民の生活の苦しさが、いかに人としての尊厳を、ズタズタに引き裂いてしまっているかが、お分かりいただけると思います。ところで、「博愛埋葬協会」は、給付の支払いを1度も拒否したことがないことで知られており、サンディス夫妻の妹の子を含めた3件の子どもの死亡に関しても、いずれも死亡当日に給付金の支払いを済ませています。事件を呼んだマリアンヌの場合も、協会役員は「牡牛の頭亭」に集まって、その場に父親を呼び支払いを済ませています。協会は、会員の死亡原因を詮索するようなことは、一切しなかったのです。死亡原因に犯罪の疑いがあったとしても、立証は極めて困難であったこともあります。しかし、協会が最も恐れたことは、僅かな額の給付金の支払いをケチって、協会に対する悪い噂が立つことでした。地方の小さな協会にとって、そうした噂は致命的だったからです。協会は、支払いは早いほど良いと考えていたのです。 続く
2009.03.21
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クロニクル 函館大火1934(昭和9)年3月21日75年前の悪夢です。この日の函館は瞬間風速39メートルに及ぶ強風が吹き荒れておりました。時刻は18時53分頃のことです。強風で屋根が飛ばされてしまった民家の囲炉裏の火の粉が、風でとび、瞬く間に出火、住宅密集地であったことから、折からの強風で周囲の家を次々に巻き込み、手のつけられない大火事となったと記されています。類焼した家屋は11,305戸、死者2,166名に及ぶ大惨事となったのでした。死者のうち、917名は熱さにたまらず、川に飛び込んで溺死した人々で、また217名は溺死ではないのですが、冷たい川の水で凍死した人々でした。函館では、毎年この日に死者を追悼する慰霊祭が催されていると聞き及びます。
2009.03.20
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イギリスの庶民生活……(3) 集金埋葬協会の怪…3それでは事件の問題点とは、一体何だったのでしょうか。何が当時の英国社会を震撼させたのでしょうか。それは、最後のマリアンヌの事件がなかったら、それ以前の2つの事件が明るみに出ることはなかったであろうと考えられる点にありました。 サンディスの事件は氷山の一角なのではないのか。同種の数多くの犯行が、闇の中に隠されているのではないのか。これが識者が恐れたことでした。第2の問題点は、ロバート・サンディスを有罪とする決め手となった、生後5ヶ月の乳飲み児エリザベス殺害について、戸籍簿の死因は「ハシカ」と記されていることです。砒素を飲めば30分程度で嘔吐と下痢の症状が出てくるものなのですが、似た症状には、コレラを筆頭にいくつかの疾病が上げられます。ですから、砒素を口にしたかどうかは、医師以外の人がかなり困難だということです。危機感を持った議会は、死亡登録の実態を調査する委員会を組織して、実態調査に乗り出したのです。以下は、委員たちによる戸籍登録官に対する聞き取り調査記録の一部です。登録官は、資格医師(医師資格を世紀に取得した医師)の診断があれば、無条件でその内容を信頼したのですが、無資格医師(医師資格を取得できない医師)の診断や、診断が全くない場合についても、親や身内への聞き取り調査を通じて、死亡原因を確認し、記載していたのです。こうした情報を下に、委員たちは聞き取り調査をしたのです。以下はマンチェスターの登録官についての調査の1問1答です。問「殺された子どもがいても、資格医師の診断書がついてなかったとすると、あなたが判断す る材料は、親の説明だけですか。」答「そうです。」問「その子どもが、無資格医師の診断を受けていたと親から話があった場合、あなたはその無 資格医師に、死亡原因を問い合わせていますか。」答「いいえ。」問「それでは実際の所、あなたの判断材料は、親の説明以外には、何もないということです か。」答「その通りです。」問「もし、親が子どもを殺したとすると、親はあなたに『子どもを殺しました』とは言わない でしょう?」答「勿論、言うはずはありません。しかし私は、親に死亡原因と、なるべく具体的に症状を説 明するように、求めるのです。症状が病気と一致しない、私の心に疑惑が生まれます。」問「今のようなケースがあった場合、死亡原因についての真実は、あなたの登録によって、明 らかになるのですか。」答「登録によって、或いは登録の後で、犯罪事実が発覚したことは、私の担当地区では1度も ありません。私の登録の進め方に従えば、もし子どもに対して何か不心得なことがあるな ら、それはきっと見つかるに違いないと信じます。」この登録間は、在職16年の間に、疑惑を抱いた12のケースを検死官に送っています。検視官は報告を受けたケースを精査して、そのうち3つのケースについて、実際に検死しています。しかし、このケースを含めて、マンチェスターでは、1件の子殺しもなかったと報告されているのです。 続く
2009.03.20
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クロニクル LPレコード発売1951(昭和26)年3月20日58年前のことになります。この日レコード会社の日本コロンビアが、日本で初となるLPレコードを発売しました。手回し式の蓄音機(レコード・プレーヤー)では、SPレコードしか聴くことが出来ないので、EP盤やLP盤が聴取可能なレコード・プレーヤーを購入することが必要でしたが、戦後も6年目を迎え、朝鮮戦争の特需景気に沸く中で、ようやく消費に財布の紐が緩む自節になってきた頃のことでした。そのLPも、今やCDに取って替わられてしまいました。
2009.03.20
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イギリスの庶民生活……(3) 集金埋葬協会の怪…2事件は、ひょんなことから発覚しました。以下は警察の調書からです。1840年10月12日、マンチェスターの中心から南東に11キロほど離れたストックボードという衛星都市での出来事です。サンディス夫妻は、労働者街の陽の射さない地下部屋の自宅で、ロープからマットを作って生計を立てていました。夫妻には4人の子ども、男の子2人に女の子2人がおりました。朝9時頃外に遊びに出た子ども達は、やがて戻ってきて、家族と仲の良い知的障害のある少女が、子ども達にパンを分けてくれたと話しました。そこで母親は、おかしなことに2人の女の子だけに、バター付きのパンと茶を与えましたが、男の子2人には何も与えませんでした。子ども達はまた遊びに行きましたが、30分もせずに戻ってきました。2人の女の子が気分が悪いと訴え、食べた物をもどしたのです。夫婦は子ども達が毒を飲まされたと叫びだし、隣に住む義妹のオナー・サンディスを呼びにやりました。騒ぎに近所の人々も集まり、毒を飲ませたのは、知的障害のある少女マリアンヌだと言う事にしてしまったのです。マリアンヌは逮捕され検視官のところへ連れてゆかれました。上の女の子だったマリアンヌは死亡し、妹のジェインは一命を取り留めたのですが、2人の母のアンも検視官の調べを受けました。この時アンは、子ども達がブリジッドに毒を盛られた状況を聞かれたのですが、「彼女は障害があるのだから、殺すつもりでしたとは思えません」とも話したのです。検視官はこの言葉と、彼女がなにげなく「少し前に別の子を埋葬した」と漏らした言葉に、疑惑を持ちました。マリアンヌの埋葬は禁止され、15日ほど前の9月27日に死亡し、既に埋葬されていたエリザベスという乳飲み子(生後5ヶ月)の死体も掘り出されて、調査の対象になりました。マリアンヌの死因は砒素を盛られたことによる中毒し、エリザベスも砒素で死亡していることが分かったのです。この時、エリザベスの死体を掘り出す係官を墓地に案内したのは、義妹のオナーでしたが、オナーは「検視官は私の子どものことも掘り出すのでしょうか。私はそうして欲しくありません。」と話したのです。この言葉を報告された検視官は、7月12日に死亡していたオナーの娘キャサリンの死体も調べ、その死体からも砒素を検出したのです。やがて、この事件が陪審裁判にかけられました。マリアンヌたちの砒素中毒死については、状況証拠はありましたが、犯人を特定する直接の証拠はありません。ただ、エリザベスは乳飲み子でしたから、親以外の誰かが乳飲み子に砒素を飲ませることは、困難であると推定され、夫妻は有罪となりました。こうして父親のロバート・サンディスは無期流刑となったのですが、母親のアンは無罪となったのです。アンも有罪であるという印象を陪審員も持ったのですが、当時のイギリスでは、女性蔑視の延長として、「女性は夫と共にいるところで犯した犯罪については、無罪とする」という規定があったからです。オナーの娘、キャサリンの砒素中毒死についても、状況証拠以外の決定的証拠がなく、無罪とされました。この事件については、考えるべき点がいくつもありますが、それは次回とさせていただきます。 続く
2009.03.19
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クロニクル はとバスの運行始まる1949(昭和24)年3月19日丁度60年前になるのですね。前年に東京都から東京遊覧自動車の業務を引き継いだ新日本観光株式会社が、この年3月1日に路線営業の許可を取り付けた、黄色に鳩のマーク(鳩は平和の使者とされていました)のはとバスの運行を、この日開始しました。路線は、東京半日Aコースという、現在でもなお1部コースを替えて運行されている、ロングランの人気を誇る同社のドル箱コースです。現在のコースは、東京駅丸の内口を出発して、皇居前広場、浅草寺と仲見世、レインボーブリッジ、お台場、東京タワーそして国会議事堂を経て、東京駅となっています、
2009.03.19
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イギリスの庶民生活……(3) 集金埋葬協会の怪…1集金埋葬協会という聞きなれないタイトルにいたしました。集金埋葬協会というのは、現代にも存在する葬儀に関する互助会とお考えください。この組織が1830年代~50年代にかけて、イギリス各地の都市で急速に普及しました。農村と違って、共同体的な人間関係が希薄な新興の工業都市において、貧しき人々は日常的に存在した子どもや身内の死に際して、僅かな掛け金で最低限の埋葬費用を給付してくれる、互助組織の存在に惹き付けられたのです。会費は週に1人当たり1ペニーで、集金人が集金に来る仕組みになっていました。当時は、衛生状態も悪く、医学の発達も人体の構造の研究に特化しており、伝染性疾病に対しては、手をこまねいている状態にありましたから、貧しい労働者階級の子ども達の死亡率は、かなり高かったのです。それゆえ、貧しい親たちにとって、集金埋葬協会の存在は、とても有難いものだったのです。こうした埋葬協会は、地域ごとに存在していましたが、会員の増加を望む協会同士の争いもあり、会費が安かったことから、隣接都市の埋葬協会にも同時に加盟して、いざという時に埋葬給付を二重取りするケースも出てくるようになったのです。こうした中で、事件は起きました。埋葬給付金を生活の足しにするための、親による子殺しという恐ろしい事件が、偶然のきっかけから発覚したのです。詳細は明日記します。 続く
2009.03.18
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イギリスの庶民生活……(2) 貧民の仕事…4この節の最後に、売春婦を取り上げておきます。パリで取り上げず、ロンドンで取り上げることにしたのは、19世紀のロンドンが、世界最大の売春と都市だったからです。売春婦は上流階級を相手とする高級娼婦から、路上で媚を売る日本で言う夜鷹まで、幅ひろい階層に分かれていました。生活苦によるパートタイマーも存在しましたので、19世紀半ばで、その数およそ8万人~12万人を数えたとされています。ロンドンのこのような現実に対し、1858年の『ロンドン・タイムズ』誌は、「ロンドンのように、昼も夜も破廉恥な売春行為が公然と行われている都市は、ヨーロッパの他の首都では見られない現象である。」と嘆いています。こうした常態は、19世紀はじめから特に目立つようになっており、1820年代にロンドンを訪れたドイツ人は、次のように日記に書いています。「宗教心に篤く、礼儀正しいとされてきたイギリスにおいて、このようにひどい屈辱的な光景が公然と展開されているとは、誠に驚くべきことである。こんな国は、世界のどこにあるというのか。もっとひどいことには、劇場でさへ、これらのいかがわしい女たちを追い払うことが、困難であることだ。」と。仕事のない、スラムの少女達は、12才~13才から街頭に立って、客の袖を引く生活に入ったとも指摘されています。低賃金や失業による生活基盤の不安定さは、女たちの生活を支える最後の手段としての売春に、女たちの眼を向けさせることになっていたのです。ここにも、貧困のなせる業があったのです。
2009.03.18
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クロニクル 東京ドームオープン1988(昭和63)年3月18日21年前のことになります。この日、日本初の屋根付き球場、東京ドームがオープンしました。中小企業の経営者である友人がボックスシートを年間契約を結んでいましたので、年に数回は、息子を連れてドームに出かけたものでした。北海道にフランチャイズを移す前の、日ハムの試合も良く見に行ったものでした。しかし、この人工芝何とかならないのでしょうかね。米国は天然芝、日本は人工芝、この差は大きいですね。
2009.03.18
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イギリスの庶民生活……(2) 貧民の仕事…3ところでイギリスには、ロンドンの路上で生活の資を稼ぐ人たちを徹底的に調査した報告書が残されています。調査を担当した人物の名をとって、メイヒューの分類と呼ばれています。この分類に拠ると、(1)路上の物売り、魚売り、果物売り、野菜売り、飲み物売り、新聞売り、古本屋、おもちゃ売り、古着屋から犬猫金魚などの小動物売りまでが数えられます。次いで(2)は廃品回収です。物を売るのでなく、古着、古傘、古靴、古鞄から瓶やガラス、壊れた金物、古新聞などを買い入れることを、業とする人たちです。下の絵は、ポピュラーソングの歌詞を売っているところです。流行の新曲の歌詞は、良く売れたようです。第(3)の分類は拾い屋です。タバコの吸殻(日本ではモク拾いと言いました)、犬などの糞拾い(皮革をなめすタンニン酸をとっていたようです)、石炭拾い、どぶさらい、泥ひばりなど。第(4)の分類は、街頭の芸人達です。人形芝居、軽業師や曲芸師、道化師、猿芝居、ノゾキメガネに運勢占いなどから、似顔絵描きなどの街頭の絵描き、チンドン屋、様々な楽器を手にした街頭の楽士たちも、ここに含まれました。この絵は当時流行していたハーディ・ガーディ(把手を回して弾奏する弦楽器)を演奏する街頭の楽士です。第(5)の分類は、街頭で商売する職人達です。ピンやフォークなどの金物細工師、彫金師、木彫師などの外に、傘や時計、鍋などの修繕屋、ナイフなど刃物の研ぎ師、そしておもちゃや小物売りがおりました。最後の第(6)の分類には、街頭の労働者が上げられています。道路掃除人、糞尿の汲取り、煙突掃除、水道の給水栓係り、点灯屋、靴磨きなどです。ここにはあげ切れませんが、全体で100を超える路上の仕事が数えられています。こうしてメイヒューは、資本主義が齎した社会的な矛盾を、赤裸々に当時のブルジョワ社会に、晒して見せたのです。アダム・スミスが語る経済自由主義は、確かに国民の富を増加させ、豊かさを齎しましたが、それは全ての人々に行き渡るものではなく、富める者は益々富み、貧しき者は益々貧しくなるという矛盾に満ちたものであることを、彼は知らしめたかったのです。当時のブルジョワ社会は、経済活動の自由は保障された。豊かになりたければ、身を粉にして働けばよい。働けばいくらでも稼げる。貧しいのは働きが足りないからであるという、自由主義の原理が、単純に信じられていたのです。そこには、石川啄木が貧窮生活の中で歌い上げた「働けど 働けどわがくらし 楽にならざりじっと手を見る」という、資本による搾取の実態が認識されないでいたのでした。こうした現実の矛盾を支配層に突きつけ、資本主義の否定を回避するためには、貧困層の生活の底上げ、社会政策の導入が必要であることを、決断させたのが社会主義の隆盛であり、同時に人道主義者たちの活躍でした。ソ連を中心とした社会主義圏の崩壊が、新自由主義の台頭を生み、折角底上げされた底辺民衆の生活基盤を完全に破壊してしまい、再度19世紀的貧困を呼び覚ましてしまったのは、誠にもって人間の浅墓さ、人知の限界を語っていると言えましょう。皮肉なものですね。
2009.03.17
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イギリスの庶民生活……(2) 貧民の仕事…2チャールズ・ディッケンズの小説には、良くロンドンの貧民窟イースト・エンドのことが出てきます。こうした貧民窟の住人は、その大部分が職業不詳の労働者に入れられていました。ロンドンの人口のおよそ5%が、こうした境遇にあったと推定されています。こうした人たちの生業は、とても多様なのですが、いずれも街頭をさまよいながら金になりそうなことは何でもするという、特徴を持っていました。彼らの最下層に位置するのは、川やどぶを漁る放浪の清掃人でした。彼らは汚泥で汚れたテームズ河の岸辺を漁り、売り物になりそうな鉛や鉄、瓶などを探して、時には下水溝の奥深くにまでもぐりこんだのです。下の絵がそうした川底漁りが、下水溝を漁っているところです。運がよければ、誰かが落としてしまった硬貨や高価な装身具を拾い上げることもありましたが、そんな幸運は1年に1回あるかないかでした。また泥ひばりと呼ばれる人々もいました。石炭のカケラなどを泥の中からみつけ、それを食糧と交換して生活していた人々です。下の絵のような少年達もいましたが、多くは他の仕事が出来なくなった老人達、特に老婆たちが多い仕事でした。こうした仕事に比べれば、屑拾いははるかにマシな仕事でした。彼らは荷車を持ち、その荷車で、屑をゴミ捨て場へ運んだのです。なかには馬を持つ屑屋までいたのです。ごみ捨て場では婦人たちが待ち受けていて、届いたゴミを篩にかけ、きれいなゴミはより分けて、残りはボロ切れ、骨、燃えカスなどに分類して、売り捌けそうな物は、全て売り捌いていたのです。
2009.03.17
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クロニクル 少年サンデーと少年マガジンの創刊1959(昭和34)年3月17日今年で創刊50年、両誌共に健在です。文字の雑誌は廃刊するものが多い中で、漫画週刊誌は健闘していますね。因みに週刊漫画誌の存在に、私が気付いたのは、1962(昭和37)年の夏、北海道1人旅に出かける途中の青函連絡船の中でした。船中で隣り合わせた中学生が、分けてあげたガムのお礼に「見る」と出してくれたのが、少年サンデーでした。若きちばてつや氏の「誓いの魔球」という野球漫画が載っていたように思います。どちらかというとスポ魂ものなど、男っぽい話の多いマガジン。おっとりゆったりと中性的印象のサンデーでしょうか。マガジンでは、全共闘世代が愛読した「あしたのジョー」や「巨人の星」がありましたし、サンデーでは「タッチ」が、そうした特徴を代表しているように思います。
2009.03.17
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イギリスの庶民生活……(2) 貧民の仕事…1イギリスの産業革命は、1830年前後に一応の到達点に達したとされています。しかし、ここで工場制度が完成し、労働者の多くが工場労働者になってと考えてはなりません。それはまだずっと後のことなのですから。今、1851年のセンサス(国勢調査)から、当時の英国の労働者階級の職業がいかに雑多であったかを抜き出してみましょう。このセンサスでは、当時の総人口は、男女共ほぼ1千万人づつの約2千万人。その中で主要な職業グループ別に夫々の就業者数の詳細が報告されています。先ず男子の職業構成では、農業を別にすると、最大は建築職人44万2千人、次いで分類不詳の労働者が36万7千人で2位、3位が木綿工業の労働者25万5千人、4位製靴業者24万3千人、5位が炭坑夫の21万6千人となっています。一方女性の場合は、最大に職業が家事奉公人の90万5千人で群を抜いています。次いで婦人帽・婦人服の仕立て等裁縫業が34万人となっています。あえていえば、小間使い等とお針子が、なお女性にとっての最大の仕事場だったことが分かります。第3位に男性と同じく木綿工業の労働者が、27万2千人と登場してきます。そして4位が14万5千人の洗濯婦となっています。当時は、まだ汚れのオチの良い石鹸など出回っておりませんから、川に入っての洗濯は、大変な重労働でしたが、資本を必要としないだけ、客の確保さえ可能であれば、誰でも気軽に始められたのです。このうち、工場労働に携わっていることがはっきりしているのは、男女共に木綿工業従事者ぐらいです。ミシンがない時代ですから、お針子は手工業です。炭坑夫の仕事は、産業革命の結果活発になった仕事ですが、坑内では原始的な手掘り作業が行われていました。建築業の一部に鉄道建設の作業員が含まれていますが、大工や石工の存在も含まれますから、その数はせいぜい15万人程度でしょう。問題は、男性の第2位を占める分類不詳の労働者です。ここにも鉄道建設作業員が含まれているのではないかと、考えたからもおりましたが、最近ではこの大部分は定職を持たない日雇い労働者や、路上の日銭稼ぎの人々を指していると考えられています。女性の職業では、小間使いがダントツのトップです。これが産業革命が一応完了したとされている19世紀半ばにおけるイギリスの現実でした。資本主義的工場生産に従事している労働者数、この時期においてもなお限られていたのです。こうした下層の労働者達は、運良く一生雇い続けてもらえた1部の家事使用人を除けば、工業化が一層の進展を見る中で、一部は不熟練労働者として工場に吸収され、残りの人々の多くは、最下層労働者としてスラム街に滞留して行くことになるのです。 続く
2009.03.16
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イギリスの庶民生活……(1) 貧民の食べ物 7イギリスでは、18世紀に入ると、コーヒーハウスは廃れ、名前は同じでも紅茶を供する店に変わってゆきます。それゆえ、コーヒーの需要は紅茶に比べると、かなり少なかったのですが、そのコーヒーでも、混ぜ物が普及していました。オランダやベルギーから輸入されたチコリが混入されたのです。チコリは、ドイツやフランスでは便通の促進剤や利尿剤として使われていましたから、健康への害はありませんでした。チコリの葉はサラダなどとなり、コーヒーの代用に使われたのは、根の方でした。当時、純コーヒーとされたものでも、25%程度はチコリが混入されているのが普通でした。健康にはむしろ有益でしたから、コーヒーよりずっと安いチコリの4分の1程度の混入は、むしろ一般の歓迎するところでもありました。そのため、チコリの混入は、かなり長期にわたって行われていたのです。ビールについても、モルトとホップから醸造した本物ばかりではありませんでした。高価なホップの代用に、各種の安価な苦味剤が広く用いられていたのです。こうした苦味剤は無害でしたが、泡を立てるために添加された緑礬(硫酸鉄)は有害でした。またアルコール効果を高めるために1部業者が用いていた実には、毒性が強い物質も含まれていました。19世紀半ばにかけては、こうしたインチキ食品の横行がイギリスの下層社会を中心に広まっていたのです。こうしたインチキ食品の取り締まりは、1860年制定の、「不純食品取り締まり法」によって、ようやく緒についたのです。 この項 終り
2009.03.16
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クロニクル 第二臨調初会合1981(昭和56)年3月16日もう28年も前のことになりました。第二次臨時行政調査会(通称第二臨調)の初会合が、この日行われました。会長には土光敏夫氏が就任しました。この委員会は、勤勉に活動を続け、国鉄の分割民営化と電電公社、専売公社の民営化に道筋をつけるなど、大きな成果を残しました。
2009.03.16
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イギリスの庶民生活……(1) 貧民の食べ物 6白いパンと同時に、貧しき人々にとっての憧れの的は、1杯の紅茶でした。中国に並んで、インドからも茶が輸入されるようになり、茶の輸入量が増えるに従って、値段も下がってきたからです。しかし、茶ではお腹が膨れませんから、エンゲル係数の高い貧しき人々にとって、茶はやはり高値の花の高級品でした。そこで、明礬等の漂白剤を入れて白くしたパンと同じように、まがい物のお茶が登場し、売られれることになったのです。ある食品商が、ロンドン周辺の生垣から摘み取ったサンザシの葉を1ポンド(重量) 2ペンスで買い集め、その葉をゆでてから鉄板の上で焙煎し、手で揉んでから乾燥させて縮ませ、色をだすために染料で染めてたものを、飛びきり格安の紅茶として売り出したのです。彼が偽であることがバレて訴えられ、処罰されたことから、記録が残ったのです。1818年とかなり早い時期のことです。さすがに、この偽者だけで売りに出すのは、気がひけたと見え、本物の茶葉と混ぜて、1重量ポンド、3~4シリングで売り出したというのです。1シリングは12ペンスですから、サンザシの葉は随分と高く売れたことになりますが、これでも当時の紅茶の値からすると、格安でした。この人物は、相当ぼろ儲けをしたのでしょう。法廷で840ポンドという超高額の罰金刑を受けています。1ポンドは20シリングです。もう一つの手の混んだやり方は、茶殻を再利用するというものでした。1840年代のロンドンには、この再利用工場が8ヶ所あったと言われています。こちらも人を使って、ホテルや喫茶室、ジェントルマンの家庭などから茶殻を集め、工場でゴムの溶液につけてから、もう1度乾燥させるのです。それにばら色の顔料や黒鉛、紺青、ウコンなどを使って着色し、安価な紅茶として販売していたのです。こちらは出がらしですが、紅茶は紅茶でした。 続く
2009.03.15
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イギリスの庶民生活……(1) 貧民の食べ物 5昨日記したマーケットのタイムセールは、事のほか皆さんの関心をお誘いしたようで、沢山のコメントをいただきました。有難うございました。長期的に見て、経済が好調な場合は、僅かづつでも庶民の暮らし振りもよくなり、底辺の民衆の間にも、ささやかな上昇志向が生まれます。そしてそれは少しづつ叶えられていく傾向が続く時、政治体制も安定を続けます。「三丁目の夕日」の時代の日本がそうでしたし、現代中国がどうやらそういう状況に入ってきたように見えます。19世紀半ばのイギリスがまさにそうでした。しかし、時代はテレビ・洗濯機・電気冷蔵庫といった三種の神器のじだいではありません。底辺の労働者達の上昇志向を満たす物、それは「白いパンと1杯の紅茶」でした。紅茶は、アジアとりわけ中国からの輸入品でしたが、トワイニングやリプトンらの活躍によって、インドでの生産が可能になると、輸入量は飛躍的に増え、お値段も次第に下がり、お手頃価格になってきていたのです。一方で砂糖もまた、カリプ諸島やブラジルでの奴隷制プランテーションによる大量生産で、これまたお手頃価格に下がってきていたのです。しかし、白いパンを含めて、下層の労働者にとっては、なお高値の花でした。商店の側からこの事実を見ると、下層労働者家族の要望を満たすような商品、即ち安くて見栄えのする商品を開発できれば、商店間の競争に勝ち残ることが出来ます。これが様々な食品添加物が登場する、時代的背景だったのです。不正食品の横行に非難の声があがるようになるのは、この時代からなのです。有害か無害化は別として、混ぜ物の評判が取りざたされた食料品は、パン、小麦粉、砂糖、紅茶、コーヒー、ワイン、ビール胡椒など、実に多様でした。白いパンへの下層民の渇望に気付いたパン屋は、明礬を混入することで、下等な粉からでも白いパンが出来ることに注目しました。明礬に漂白作用があることは、当時既に周知のこととなっていたからです。明礬の外にも、アンモニア・ソーダも良く使われていたようです。明礬やアンモニア・ソーダで漂白された白いパンであっても、それは下層の人々にとって、憧れの白いパンでした。飛ぶような売れ行きを示したことは、間違いのないことだったのです。明礬の場合、有毒ではないそうですが、消化の妨げになること、そのことによって摂取可能な栄養価を下げることは間違いなく、健康に無害であったとは言えないのです。そうした状況から下のような、不正食品の横行を非難した諷刺画(1858年のものです)も作られていたのです。
2009.03.15
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クロニクル 山陽新幹線部分開業1972(昭和47)年3月15日今から37年前になります。この日建設中の山陽新幹線が、新大阪~岡山間で部分開業しました。ここに東海道新幹線の東京~新大阪間に接続する形で、岡山までの直通運転が可能になりました。1964(昭和39)年10月の、東海道新幹線の営業開始から約7年半後のことでした。
2009.03.15
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イギリスの庶民生活……(1)貧民の食べ物 4ところで、都市の労働者の家族は、日々の食べ物を、どこで手に入れていたのでしょうか。どこの町にも毎週決まった日に市が開かれていました。市(マーケット)には様々な家庭用品も売っていましたが、多くは食品を扱う店でした。鉄道が普及するまでは、食品の殆どは近郊の農村で生産されたものが売られていたのです。仲買人が農家から買い集めてきたものが、町の商人の手に渡り、商人は市場税を納めて市場に店を出すのです。独立の店舗を構えるより、費用はグンと少なくて済んだからです。19世紀に入り、都市人口が増え、所得水準の差が広がってくると、ロンドンのような大都市は勿論、中小都市でも、大通りに店を構えた中流までの人々が利用する食品店と、下層の労働者が利用する裏通りの「よろず屋」風の食品店に分かれたのです。下の絵がそれです。貧しい労働者は、こうした店で、パンから紅茶、塩や少量の砂糖、乳製品などを買ったのです。こうした店では、掛けで買うことも可能でしたから、店に借金のある顧客も多かったのです。紅茶や砂糖も、彼らの懐具合に合わせて等級分けされた安物もありました。また都市では食品の呼び売り、行商人も次第に増えていました。妻もまた仕事を持たないと食べていけない家族も多かったからです。ところで、どんな貧しい家庭でも、週給が入る土曜日は、裏通りの商店ではなく、給料を入れた財布を抱えてマーケットに繰り出すのが常でした。上・中流の家庭の買い物は、夕方までに終わっていますから、当然粗悪品ばかりが売れ残っています。質の悪いジャガイモ、しなびた野菜、古くなった下等のチーズ、悪臭のするベーコン、こうしたものが並んでいるのです。それでも土曜の夜のマーケットは、やってきた多数の下層の労働者達を相手に、活気に溢れていました。夜も更けて弊店の時間が迫ると、商人たちは一斉に値段を下げて売り急ぎます。一方にはそれを待っていた極貧の人々もいたのです。月曜日にはとても持ち越せない商品が、この時間に見切売り、投売りされるのです。実質的には、もう捨てるしか仕方のないような品が、この時間に投売りされ、そうした品々が極貧の家庭の日曜の食卓に乗せられたのです。
2009.03.14
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クロニクル のぞみ登場1992(平成4)年3月14日17年前になります。この日東海道新幹線にビジネス特急「のぞみ」が登場しました。「のぞみ」は好評で、それなら山陽新幹線にもと、やがて東海道・山陽新幹線の東京~博多間の全路線で、「のぞみ」号が運転されることになりました。停車駅は、やがて一部に新横浜が追加されましたが、当初は、名古屋・京都・新大阪・岡山・広島の5駅(終着博多を加えると6駅)に停車するだけという、文字通りの超特急でした。
2009.03.14
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イギリスの庶民生活……(1)貧民の食べ物 3教区徒弟の悲惨な食事の話を記しました。では、職人たち不通の労働者の食卓はどうだったのでしょうか。職人と言っても、特殊技術を持つ熟練工は賃金も高く、小規模な商店主や手工業親方といったプチブルに近い生活を送るようになっていました。彼らの食卓には白いパン、砂糖つきの紅茶、そしてかなりの頻度で肉類も登場しています。それが半熟練工になると、肉類の質がグンと落ちてきますし、家計に占める食料費の割合(エンゲル係数)がかなり高くなってきます。それが非熟練工になると、白いパンと砂糖なしの1杯の紅茶が全てとなり、肉もバターもチーズもなしになります。そして日雇いや最下層の人々になると、白いパンも消えて、ライ麦等の褐色パンになり、紅茶に変えてミルクになります。最下層では、褐色パンの替わりに、ジャガイモが食卓に登場するケースも増えてきます。19世紀の半ばとなり、鉄道や蒸気船の発達、そして穀物法(小麦輸入を実質的に阻止する法規)の廃止や関税の引き下げなど、自由貿易が推進されたことで、安価な輸入食糧が豊富に出回るようになり、下層の人々の食卓も、多少は華やいできます。当時のイギリスで、労働者家族が家計簿をつけることは先ずありませんから、労働者の賃金は会社の帳簿から理解することは出来ても、家計支出については材料が乏しいのが現実です。1840年頃の半熟練労働者の家庭のエンゲル係数は、およそ60%程度と推計されています。この食費のうち、50%がパンとジャガイモで、22%が肉類という推計もあります。同じ時期の綿工場で働く非熟練労働者、工場内の最低クラスの労働者の労働者の家計では、家計に占める食費の割合は80%~85%近くに達しています。しかも食費に占める褐色パン、オートミール、ジャガイモの占めるウェートは、これまた80%近くに達しています。肉類の比率は3%~8%程度に過ぎないのです。勿論紅茶は登場しません。こうした低所得労働者の場合、飢饉などによる食糧価格の高騰は、すぐに食卓に影響を与え、1日の食事の回数を減ずることに繋がったのです。この絵は、ロンドンの簡易宿泊所で、貧しい日雇い労働者に提供される食事です。テーブルもなく、土間のような所に座って、褐色パンと薄いスープだけの食事を流し込んでいます。 続く
2009.03.13
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クロニクル 西郷・勝会談開かる1968(慶応4)年3月13日有名な江戸城無血開城を決めた2人の会談がこの日始まりました。この年1868年は9月9日を期して、明治と改元されましたので、9月9日以降は明治元年となりますが、3月は慶応のままなので、慶応4年ということになります。2人の会談は、高輪の橋本屋で行われました。西郷は新政府軍の大総督府参謀、事実上の最高司令官の地位にあり、勝は旧幕府の陸軍総裁として、交渉の任を一身に背負っておりました。交渉に当たり、勝は前将軍徳川慶喜の新政府に対する恭順と江戸の平和的引渡しについて、話し合うつもりでしたが、新政府軍が既に多摩川を越えて戦陣を敷いている状況から、場合によっては江戸が戦火に焼かれ、焦土となることも覚悟していたようです。一方西郷は、進撃の途次横浜でイギリス公使パークスと面会し、旧幕府軍と一戦を交え、江戸が戦禍で灰燼に帰すようなことがあれば、江戸に近い横浜の居留民保護を口実に、ヨーロッパ列強の介入を招き、日本の地位を危うくする危険が強いと、江戸総攻撃の中止の勧告を受けていました。こうして会談は、平和受け渡しを願いながらも、一切の弱気を見せない勝と、パークスの勧告の趣旨を理解し、無血開城に舵を切った西郷との間で、順調に合意に達し、翌14日、西郷は攻撃中止を決断、ここに江戸の無血開城が正式に決まったのです。
2009.03.13
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日経新聞の劣化昨今の経済不振は、実はとっくに恐慌状態に入っているのですが、おそらくG7やG20の約束なのでしょう。マスコミを含めて、恐慌という語をタブーにしています。お気づきと思いますが、「100年に一度の経済危機」という言葉は良く聞きます。80年前の1929年の秋から、世界恐慌は始まったと理解されています。100年前、第一次世界大戦の開始前も恐慌状態はありました。ということは、100年に一度ということは、世界恐慌と同じないしはそれ以上の状況に、現在は陥っていると語っているのですね。素直に恐慌に突入していると言えば良いのです。言ってしまうと、気分的に落ち込んで余計悪くなるとでも言うのでしょうか。イギリスのブラウン首相が一言漏らしただけで、各国首脳が寄ってたかって訂正発言の大騒ぎになりました。日経新聞は先頭を切って、その片棒をかついでいるのでしょうか。今朝の5面の記事は最悪でした。「時価会計見直し論再燃」と題する記事です。その中のリード記事に「時価会計の見直しは金融機関の財務不信を増幅しかねないが、損失を減らし金融不安を和らげる効果も期待される。…」と』あります。本文にも「時価会計を緩和すれば金融機関の損失額が減少し、…」とあります。今から10年前、前年の長銀や日債銀の国有化を経て、遅きに失しましたが、ようやく大蔵省銀行局は、金融機関の不良債権の評価を時価で徹底的に洗いなおすことに、踏み切りました。しかし、損失があまりに巨額になるために、すぐには実行できず、その本格的実施には、奈緒数年を要しました。その時、日経新聞を先頭に、日本のマスコミは護送船団方式の金融行政と、そこに胡坐をかいた金融界を批判し、時価会計の導入の遅れが傷口を大きくし、損失を膨らませたことを、事実を列挙しながら指摘し続けました。私は今でもその姿勢を評価しています。当時米国政府や米国の金融界は、不良債権の時価評価の遅れが、日本経済の復活を遅らせ、「失われた10年」を齎したと指摘し続けました。その米政府が、そして英国やEUが時価会計の凍結を言い出しているのです。これは時価で評価すると、傷が大きすぎて処理しきれない。処理可能額を小出しにしながら時間をかけて処理するしかないと、考えたことを意味します。あれほど、日本方式を批判し続けた方たちが、当時の日本と同じことをやろうという、アナクロニズムがそこにあります。お金がかかりすぎて処理できないのです。しかし、先送りすればするほど損失は拡大することも、日本の経験から明らかです。経済回復は整理が遅れるのですから、当然先延ばしされます。それははっきりしています。どのツラ下げて、「金融不安を和らげ…」「金融機関の損失額が減少し…」などと、ちょっと考えれば明らかに間違っていることを、公器である新聞紙面に書けるのでしょうか。これは学生の答案であったら、当然不合格の内容です。よくもまぁ、日経のデスクが、この記事にゴーサインを出したものだと私は呆れています。意図的なんでしょうかねぇ。そうでないとすると、日経のレヴェルは3段階の急降下ですが…。意図的とすると、そこにある意図は?今のところそこまでは読めません。とりあえず、うっかり新聞記事を信じないことにしましょう・
2009.03.12
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イギリスの庶民生活……(1)貧民の食べ物 2では、ブリンコウたち徒弟の日常の食事はどんなものだったのか、彼の記述をみてみましょう。「食べ物は悪かったが、調理法は一層悪かった。徒弟には最下等のアイルランド産ベーコンを食べさせるのが普通だった。これをカブと一緒にゆでて、水の中に放り込むのだが、このカブは殆ど水洗いもしていないし、皮も剥いてないしろものだった。こんなものがリットンの工場で働く教区徒弟の日常の食べ物だった。徒弟たちにはスプーンもナイフも渡されなかった。我々は何も誓わずに食べるしかなかった。」「日曜日にはベーコンのスープが出されたが、それをオート麦のビスケットと一緒に、汚い木のボールに入れて食べた。ほかに食べようがなかった。スープとは名ばかりで、ほとんど水のようなものだったから。中には変色してなかば腐った下等のベーコンと、皮を剥かないカブとが一緒に放り込まれていた。このスープの悪臭といったら、胃がむかむかするほどきつかった。それでも我々は、猛烈な空腹のためにそれを食べるしかなかったのだ。」彼らが豚のエサを奪いに行く気持ちが分かりますね。彼らはそのうち、野生の植物で食べられるものを見つけ、工場近くの森で、野ばらの実や葉、クローバーなどを摘み、持ちかえって飢えをしのいだと言います。 続く
2009.03.12
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クロニクル 辻元清美氏議員を辞職2002(平成14)年3月12日7年前のこの日、社会民主党の辻元清美議員が、秘書給与の詐取疑惑の責任を取り、議員を辞職しました。議員活動暦が浅く潔癖症の辻元議員が、自らこのような資金集めを画策するとは考え難く、指南役の支持通りにやった結果でしょうから、どなたかを庇っての辞職だったような気がしてなりません。
2009.03.12
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イギリスの庶民生活……(1)貧民の食べ物 1 イギリスは、フランス以上に身分差別の厳しい近代社会を形成しました。それは、この国の有識者をして、わが英国はまさしく「一国二国民」の状態にあると言わしめたほどですから、フランス以上に凄まじい様相を呈していました。そこで、まずフランスにおけるマルタン・ナドの『回想録』に似た、ロバート・ブリンコウの『回想録』から話を始めます。ブリンコウは幼くして孤児となり、ロンドンの救貧院で育ちますが、苦学して出世し、綿工場の経営者になった人物です。ブリンコウは7歳のときに、ロンドンのセント・パンクラス救貧院から、中間達と一緒に中部イングランドのリットン綿紡績工場へと送られます。工場へ行けば素晴らしい食事にありつけるという噂に釣られて、子ども達は期待に胸を弾ませながら、工場へと向かい、そこで、成年までの14年間を徒弟として過ごしたのです。しかし、食事も待遇も噂とは全く違ったひどいものだったのです。粗末を通り越したひどい食事でした。しかも量も足りませんので、徒弟たちは常に腹をすかせていました。横山源之助の『日本の下層社会』の中に、住み込みの女工たちの食事よりも、金持ちの家の犬の食事の方がはるかにマシだったという記述がありますが、19世紀初頭のイギリスのそれも、凄まじいものでした。「小屋の豚と徒弟とは、実に良く似た方法で食べ物を与えられていた。ただ豚の場合は、腹がすくと大声でがなりたてると、先ずは残飯が与えられた、ところが徒弟の場合は、脅されて静かにさせられた。」「肥えた豚は、徒弟よりも贅沢な食事を与えられていた。豚は柔らかく固められて、ゆで団子のようになったミートボールを、時々ご馳走してもらっていた。私たち仲間は、豚がエサを貰っているのを見つけると、互いに目配せの合図を送り、準備を整えるのでした。彼らは豚番の姿が消えるのを見届けると、素早く階段を駆け下りていって、ひそかに豚のエサ入れに近づき、隙間から手を突っ込んで、掴める限りの茹で団子を掠め取った。」「それはおそらく、豚の不潔なアゴで汚れていただろうが、徒弟は大喜びでそれを隠れ場所へ運び込んで、豚並みの旺盛な食欲でむさぼるように食べた。」「やがて豚の方も、腹をすかせた徒弟の横取りに気付き、徒弟たちの接近を感知すると、大声を張り上げてブーブーと泣き叫ぶようになった。すると、台所でそれを聞きつけた番人が、鞭を手にして、すっ飛んでくるのです。こうして豚は保護されることになったのですが、その日から徒弟たちの、束の間のご馳走はなくなってしまったのです。豚のエサを盗って食う。考えただけでもすさまじいですね。肥溜めの中で食糧を探す人たちと、良い勝負ですね。 続く
2009.03.11
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クロニクル 東京6大学復活へ1946(昭和21)年3月11日敗戦の翌年のことです。戦時中解散の憂き目を見ていた東京6大学連盟の復活が、この日決まりました。ここに6大学のリーグ戦の復活が事実決まりました。GHQの中心は米国。そして野球発足の母国も米国でしたから、復活再生に向けての理解も得やすかったのでしょう。日本の再建に向けて、屈辱に耐えながら頑張っていた多くの日本国民にも、明るいニュースでした。当時の野球人気は、いまだプロよりも東京6大学のリーグ戦、そして何よりも早慶の名勝負にあったからです。
2009.03.11
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続貧民の暮らし(14) 庶民と居酒屋…15ゴゲットは二月革命を準備した、民衆の拠点の確かな一つでした。しかし経済不振は一向に収まらず、追い詰められた民衆は、六月事件を起こします。蜂起に続く弾圧は、ゴゲットの存立基盤を脅かします。直後にジルは『六月の墓銘碑』を作詞しました。「進め!河岸、橋、街路はわれらのものだ …… 燃え立つ大地から舗石を引き剥がせ ……5日間の戦闘の後に 彼らは倒れた! その名を告げることもなく……」と歌い上げたのですが、このシャンソンを歌うゴゲットには、僅かな時間しか残されていませんでした。ルイ・ナポレオンの登場と、第二帝政の成立は、抵抗の詩人、抵抗の場としてのゴゲットの』存在を、はっきりと否定し、強健によって、封じ込めたのです。ジルもまた沈黙を強いられました。ゴゲットの復活は、普仏戦争の敗北と、第二帝政の崩壊を待って、1870年の9月に訪れます。プロイセン軍へのパリ民衆の抵抗の中に生まれた、パリ=コミューン政権の登場は、シャンソンとゴゲットの再度の隆盛を招いたのでした。この項はこれにて終了します。明日からイギリスのケースを記します。
2009.03.11
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