全73件 (73件中 1-50件目)

続貧民の暮らし(9) 天井桟敷の賑わい大衆劇場の話を続けます。下の絵は、「民衆たちのオペラ座」と呼ばれたポルト・サン・マルタン座の天井桟敷の観客の姿を描いたものです。当時、パントマイム、道化劇、メロドラマ、レビュー、民衆的オペラなどの大衆演劇は、ブールヴァール(大通り)演劇と、総称されていました。ポルト・サン・マルタン座は、そうした大衆向け演芸場の中で、最有力の一つだったので、「民衆たちのオペラ座」と呼ばれたのです。1階の客は、上流階級の社交界となっているオペラ座などの一流の劇場の天井桟敷に出入りする惨めさに耐えられない、中産階級(中程度のブルジョワ)で占められ、2階はプチブルたち、そして天井桟敷に下層の民衆が陣取ったのです。観衆は活気に満ちており、1階の観客と天井桟敷の民衆との間には、野次の応酬があり、民衆の側は、「ラ・マルセイエーズ」を熱唱して、対抗することもあったと、『ラ・プレス』などの新聞が伝えています。大衆演劇の劇場が立ち並んだタンプル大通りでは、大道芸人も多く、また劇場の前では、その日の演目を宣伝する寸劇が演じられたりしていて、大衆は気軽に見物に訪れてもいました。この絵は、天井桟敷の観客が、大通りで買った揚げじゃがを食べながら、芝居に熱中して立ち上がったサマを描いています。当時の大衆演劇の観客は、観ている芝居や俳優の演技に不満があれば、遠慮会釈なく、紙ツブテなどを投げつけ、昨日ご紹介したように、「揚げじゃがでも食らえ!」と叫んでいたのです。この観客も、フライド・ポテトを投げるべきか否かを思案しつつ、立ち上がったのかもしれません。
2009.02.28
コメント(10)
クロニクル 昭和の岩窟王に無罪判決 1963(昭和38)年2月28日この日、名古屋高裁は、昭和の岩窟王と呼ばれた吉田石松翁の再審裁判において無罪を言い渡し、裁判所としては異例の行動でしたが、司法界の先達による誤った判決で迷惑をかけた旨を深々と詫びました。吉田石松翁が、無期懲役に処せられた事件と言うのは、1913(大正2)年に名古屋市の路上で起きた、繭小売商の殺人強盗事件です。翌日2人の犯人が逮捕され、この2人の供述から吉田石松(当時34才)氏が主犯として逮捕されました。吉田氏は頑強に犯行を否認し、いかなる拷問にも耐え、無罪を主張し続けましたが、当時の自白偏重の警察は、吉田氏の主張に耳を貸さず、2人の供述を信用して3人を起訴しました。一審の名古屋地裁は、検察の主張を全面的に認め、吉田氏に死刑、他の2人に無期懲役の判決を言い渡しました。吉田氏は控訴しますが、控訴審で死刑が無期懲役に変更されただけで、その後の上告審でも無期とされ、吉田氏の有罪が確定したのです。納得のいかない吉田氏は、アリバイを主張して、戦前に2度、再審を請求しましたが、2度とも門前払いされてしまいます。1935(昭和10)年に、秋田刑務所長の計らいで、ようやく仮出所を許された吉田氏は、協力してくれた新聞記者の尽力で、先に出所していた2人の所在を突き止め、2人に「虚偽の自白をして迷惑をかけた」旨の、詫び状を書かせることに成功します。この詫び状を添えて、3度目の再審請求を行ったのですが、司法の誤りを認めたくない裁判所は、ここでも門前払いの態度を変えず、再審請求は受理されなかったのです。まさに日本の暗黒時代を象徴するような事件だったのです。2人の詫び状から、吉田氏主犯説は、自分達の形を軽くするための、2人の虚偽自白であることがこの時点で明らかになっていたのですが、司法はそれを受け付けなかったのです。明らかな冤罪事件であるのに、司法は頬かむりを決め込んだのです。しかし、問題は戦後もなお長期にわたって、これほど明確な証拠のある再審請求が受け付けられなかったことにあります。何しろ無罪判決が出たのは、戦後も18年も経過した1963(昭和38)年の今日だったのですから…。吉田氏は、戦後も7年経過した1952(昭和27)年頃から、自身の無実をマスコミや弁護士などに、ポツリポツリと訴え始め、1958(昭和33)年に4度目の再審請求を起こしました。今度こそというところでしたが。なんと名古屋高裁は、ここでも再審開始を認めませんでした。司法の無謬性に拘る裁判所の姿勢の前に、とりわけ戦前の遠い事件での再審の扉を開けるのは、なお大きなハードルがあったのです。ことここに至って、吉田氏は弁護士の勧めによって、時の法務大臣への直訴を思い立ちます。法相には会えなかったのですが、対応した法務局の課長は、日本弁護士連合会への紹介の労をとってくれ、ここにようやく弁護士界の足並みが揃い、マスコミもまた無罪を訴え続ける吉田氏を、昭和のエドモン・ダンテス(デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の主人公)、昭和の岩窟王と名付けて、支援に乗り出したのでした。こうして、吉田氏は1960(昭和35)年の6月に、5度目の再審を請求しました。名古屋高裁4部は、ようやく重い腰を上げ、再審請求を受理したのですが、ここで検察がなお無謬性に拘って異議を申し立て、またまた行方は迷走することになりました。最高裁が間に入って、検察の異議を却下したことで、ようやく再審が決定し、審理が始まったのは1962(昭和37)年のことだったのです。事件の発生から、なんと49年目、吉田氏の仮出所から27年目のことだったのです。事件から50年の歳月を経て、ようやく吉田石松翁の無実が認められ、翁の名誉は回復されたのです。しかし、青天白日の身となった翁に、残りの人生は、もうあまり残されてはおりませんでした。翁は、同年12月、老衰で84年の生涯を閉じたのでした。高裁の3人の裁判官が、判決文の中に、異例のお詫びを挿入したことが、吉田石松翁にとって、せめてものことだったと言うべきでしょうか。民間人の裁判への参加が、こうした司法の似非権威主義や閉鎖性の打破に繋がることを期待したいですね。
2009.02.28
コメント(8)

続貧民の暮らし(8) 大根役者の続きさて、彼は何故大根役者なのか。フライド・ポテトは何を意味しているのか。気を持たせて申し訳ありませんでした。フライド・ポテト、要するに揚げじゃがですが、この絵にあるフュルナンビュル座や、次に出てくるポルト・サン・マルタン座、ゲェテ座など、パントマイム、道化劇、メロドラマ、レビューなどを演じる大衆演劇場の多くは、タンプル大通りに立ち並んでいました。そしてこのタンプル大通りのあちこちに、揚げじゃが(=フライド・ポテト)を売る店が並んでいたのです。ブールヴァール演劇と呼ばれた大衆演劇場では、大衆は何の遠慮もせずに、見ている資材や役者の縁起に不満だと、「揚げじゃがでも食らえ!」と大声で野次を飛ばしていたのです。ですから、揚げじゃがを口にしながら寒そうに楽屋口に向かうこの役者は、自分の演ずる芝居で、紙ツブテが飛び、「揚げじゃがでも食らえ!」と野次られるかもしれないと怖れ、そんなことのないように、揚げじゃがを食べてゲンかつぎをしているのです。それを、寒い中で遅れている開場を待ちわびる観客が見つけ、「あの役者の野郎、自信がないもんで、揚げじゃがを食らってゲンかつぎをしているな…」「しかし、へたくそだったら、しっかり野次り飛ばしてやろぞ!」とばかり、彼の後姿に厳しい一瞥をくれているのです。と言う次第で、揚げじゃが=フライド・ポテトは、「この大根役者!」と野次る時の、切り札だったのです。
2009.02.28
コメント(10)

続貧民の暮らし(8) 大根役者 この絵は、シンシンと降る雪の中を、寒さに身を縮めながら、フュナンビュル座の楽屋口を入ろうと急ぐ、役者の姿を捉えています。フュルナンビュル座は、パントマイムで有名になった大衆演芸場として知られた劇場でした。さて、この役者はフライド・ポテトを食べながら楽屋口を入ろうとしています。ここから彼が大根役者であることが分かるのですが、その解説は後ほどさせていただきます。
2009.02.27
コメント(8)

続貧民の暮らし(7) 宣伝広告この絵をご覧ください。壁1面にあるのは、落書きではありません。全て宣伝用の広告です。古くなった広告の上に、大きな新しい広告が貼られています。見物人は、新しい手書きのポスターの大きさに驚きながら、広告の内容に眼を凝らしている様子が分かります。この時代の広告は、街角に張り出す形式が広告の中心だったのですが、ここでは、告げられている広告の内容を紹介させていただきます。一番上の大きく『ラ・プレス』とあります。これは、19世紀中期のフランスの新聞王、エミール・ジラルダンが発行していた新聞の宣伝だと言うことが、ここから分かります。『ラ・プレス』は彼の発行する新聞の名前なのです。ジラルダンは、新聞に広告を載せることで、その広告料収入で新聞の購読料を半値に下げることに成功し、それまで、最大でも数千部に留まっていた新聞の売り上げを大きく伸ばすことに成功した人物です。その彼が自分の新聞の宣伝は、街角広告に頼っていることが、ここでの画材になっているのです。さらにもう一つ。広告の中身を見てみましょう。上はシャトーブリアン筆の『墓の彼方からの回想』とあり、下はアレクサンドル・デュマの『王女マルゴ』とあります。いじれも当時の名だたる文豪の、新連載小説の告知なのです。そうです。新聞に連載小説を載せる形式も、実はジラルダンの発案になるのです。その最初は、1836年の10月23日から12回にわたって連載した、バルザックの『老嬢』でした。19世紀中頃には、通常の商品ばかりではなく、ジャーナリズムや文学などの世界にも、広告による宣伝が、効果あるものとして認識されるようになっていたのです。
2009.02.27
コメント(6)
クロニクル パパブッシュの勝利宣言1991(平成3)年2月27日18年前のこの日のことです。3日前の24日に、イラク軍の支配するクウェートとイラク南部に侵攻を開始した、米国中心の多国籍軍は、この日クウェート全土を制圧しました。当時のブッシュ大統領は、この報を聞くと、米国民と世界に対して「勝利宣言」を発表しました。この時点でのブッシュ大統領は、得意の絶頂にあり、翌年の大統領選で再選は、「これで確実になった」と皮算用していたのでしょうね。ITバブル崩壊後の景気の落ち込みが。あそこまでひどくなるとは、思わなかったのでしょうね。
2009.02.27
コメント(8)

続貧民の暮らし(6) 親たちの教育熱先ずは、下の絵をご覧ください。この絵のシーンは、どのように見えますか。物を盗んだ悪がきを、どこかへショッピイテ行こうとしている偏屈親父にも見えますね。しかし、仕事場から作業姿のまま飛び出してきた手工業者の父親が、学校へ行くのをサボった息子が、路上で遊んでいることに眼を留め、とっ捉まえて、無理やり学校まで連れてきたところなのです。この2人を親子と見ると、父親の年齢がかなり高そうに見えます。これは、手工業の職人の収入では、簡単に子どもを学校へ上げることは出来ず、長期の研鑽の結果として、ようやく腕前が信用されるようになって、ようやく生活の安定したプチブルの末端に上昇し、「末の子だけは学校へ…」という僅かな生活上のゆとりが生まれたことを表現しているのです。19世紀も390年代から40年代に入ると、このように民衆とブルジョワの境に列するような手工業の親方達にまで、教育熱が及んできたことを示しています。しかし、子ども達にとっては、特に親と同じ手工業の職人から親方への道を歩むであろう子ども達にとっては、学校で自由のない、退屈で嫌いな場所でしたから、隙あらばサボりたい場所に他ならなかったのです。この絵の父親は、嫌がる子どもの尻を蹴上げて、無理やり子どもを学校へ押し込もうとしています。この尋常でない怒りようは、子どものおサボりが初めてではなく、半ば常態化していることを匂わせているのです。子どもは、何故こんなに学校を嫌ったのか。この絵の学校の塀は、物凄く高く描かれています。まるで監獄であるかのように……。ここにヒントが隠されています。いかにも学校は、子どもを保護していますと表明しているようにも見えます。が、同時に子どもを規律づける特別の場であることも示しているのです。この当時の、教育的力量が高いとは言えない教師達は、鞭と罰則によって子ども達を縛りつけ、力づくで子ども達を従わせようとしていました。それゆえ自由奔放で腕白盛りの子ども達にとって、それは災難でしかありませんでした。それゆえ多くの子ども達は学校を嫌い、隙を見つけて学校から逃げ出すことで、反抗の意志を示していたのです。
2009.02.26
コメント(6)
クロニクル ナポレオン エルバ島脱出1815(文化12)年2月26日江戸時代後期、現在からすると194年前のことです。前年1814年4月にフランス皇帝を退位し、5月に地中海のエルバ島に渡ったナポレオンが、この日、エルバ島を脱出、フランスへと向かったのです。エルバ島のナポレオンは、ヨーロッパ情勢への注意を怠らず、「会議は踊る。されど進まず」と揶揄されたウィーン会議の状況や、フランス国内の政治状況から、フランス国内にナポレオンへの追慕の情が高まってきたのを見逃さず、見事にそのチャンスを捉えました。この日、ナポレオンは千名足らずの兵士を7艘の船に乗せ、島を脱出したのです。3月1日にはカンヌに近いジュアンの入り江に到着。行く先々で兵を集め、3月20日にはパリに入場し、再び皇帝の座に就き、百日天下を開始したのです。
2009.02.26
コメント(6)

続貧民の暮らし(番外) 株主の嘆き続貧民の暮らし(5)に、株屋の口上に群がる欲に眼の眩んだブルジョワの姿を書きました。しかし、株式の価格は上がったり、下がったりします。まして、大規模な民衆反乱や革命でも起きると、政情不安から株価は暴落します。1848年の西欧はまさにそうでした。この年アメリカではカリフォルニアのサクラメント渓谷で金鉱が発見され、好況に沸いていましたが、西欧は違っていました。イギリスに始まった過剰生産恐慌が、大陸欧州も覆い、史上初めての全欧的な恐慌となり、株価は暴落、そこにフランスに始まる全欧的な革命の波が重なったのです。株価は悲惨な状態を続けました。下の絵をご覧ください。デップリと太った2人のブルジョワが、なにやら心配そうに話をしています。2人は、前日発表され、この日議会で審議が始まった、鉄道国有化に関する法案の行方を案じて、なにやら話し込んでいる所なのです。既にして、かなりの安値に低迷している鉄道株が、国有化されれば、値打ちがゼロになってしまうと案じているのです(結果的に、この法案は否決され、彼らの心配は杞憂に終わるのですが…)。シティやバンカメの国有化問題に揺れる、NY市場を見つめる、両行の株主達も、こんな姿で、市場の行方を見つめているのかもしれませんね。最もダンダンに日本も対岸の火事とは、思っていられなくなりつつありますが…
2009.02.25
コメント(4)

続貧民の暮らし(5) 株屋と大道芸人パリの街頭には、楽士の一家などの外に、芸を見せては見物人からオヒネリを頂戴する類の数多くの様々な大道芸人がおりました。また、1830年代の鉄道ブームは、1720年代前半のミシシッピー会社ブームの終焉以来久々の株式ブームを招いていました。多額の資本を必要とする鉄道建設を推進するには、株式の発行によって、広く金持ち達かた資金を集める必要があったからです。この絵は、あまり上手とはいえない2人1組の大道芸人が、株式投資を呼びかける株屋の巧みな口上に、客を盗られて商売にならなくなった様子を描いています。言葉巧みに儲け話をぶち上げているらしい株屋の周囲は、話に聞き入る小金持ちと、彼らを言葉巧みに後景の株式取引所に誘い込もうとする取引所の雇員と思しき人物達が描かれています。その周囲に漂う熱気らしきものと、意気消沈した弟分になにやら声をかけている、大道芸の親方の虚勢を張っている姿の対比が、時代の雰囲気をしっかり伝えています。
2009.02.25
コメント(4)
クロニクル 箱根用水完成1670(寛文10)年2月25日江戸時代前期のことです。厳密には339年前のことです。芦ノ湖と小田原藩の駿東郡の村々を結ぶ水路トンネル、箱根用水(深良用水)が、4年の難工事を経て、この日ようやく完成したのです。駿東郡の村々は、慢性的な水不足に悩んでいました。そこで、この日の7年前に、深良村の名主、大庭源之丞が中心となって、芦ノ湖から灌漑用水を引く計画を立て、幕府の勘定所と小田原藩に工事計画書を提出して、許可を願い出たのです。許可は3年後におり、すぐに工事が開始されました。芦ノ湖側と深良村側から、山をくりぬくこの工事は、犠牲者を多数出す難工事となりましたが、関係者の熱意もあって、ほぼ4年の歳月を経て、遂に完成したのです。こうして芦ノ湖の水は、深良村から三島の西まで達し、小田原藩領で7千石、沼津の天領で1千石の新田の開発に繋がりました。ところで、トンネルは完成しましたが、芦ノ湖の水門が開かれ、全長1300mの山底を抜けた水が、深良村の用水路に流れ込んだのです。
2009.02.25
コメント(6)

続貧民の暮らし(4) 夜逃げの光景バブル崩壊後の1990年代後半だったでしょうか、中村雅俊の主演で『夜逃げ屋本舗』だったでしょうか? そんな名前のテレビのシリーズがありました。あのシリーズは借金の取立てに悩んだ家族が、夜逃げ屋の助けを借りて、借金取りの魔手から逃れる話でしたが、ここでの夜逃げは、家賃を踏み倒すてめの夜逃げでした。膨張するパリでは、流入する下層の民衆に対し、その需要に応える住宅の建設が追いつきません。当然そこには需要と供給の法則が働きますから、貸し手市場で家賃はうなぎのぼりの状態になります。マルレの石版画にある「引越しの風景」について紹介しましたが、彼の描いた1820年代前半は、半年毎だった賃貸契約は、30年代には3ヶ月毎に短縮されていました。これは、強欲な家主が3ヶ月毎に借間人に家賃の値上げを通告するための措置でした。3ヶ月で値上げされてはたまりませんが、立場の弱い借間人は、家主の要求を拒否できません。「いやなら出て行け!」とやられるからです。泣く泣く家主の要求を受け入れるのですが、支払いに行き詰まるケースが出てくるのは、むしろ当然でした。当時の家賃は、翌月の8日が起源とされることが多かったのです。8日期限家賃が支払えそうにない家族はどうするのか。切羽詰まった家族にとっては、こっそり夜逃げをするしか方法はありません。19世紀30年代以降のフランスでは、世紀末まで夜逃げはあたり前のように、存在していたのです。ドーミエのこの絵は、窓から家財道具が運び出されるのを、心配そうに見ている間借り人夫婦を描いています。夜逃げが日常的に存在していたことは、夜逃げをクロシュ・ド・ボワ」(木の鐘)と称していたことからも、読み取れます。木の鐘のように、音を立てずに家財を運び出してしまうことを指しているのですから。データが残っているのは、19世紀も終りに近づいた1882年7月のものになるのですが、この7月だけで、パリの中心部と東部の9つの区だけで、2695件の夜逃げがあったことが記されています。ところで、この絵でも、夜逃げを決心した気の弱そうな夫婦よりも、夜逃げを手伝っている助っ人の方がはるかに元気そうです。1830年代以降のパリでは、夜逃げの助っ人集団の活躍もまた目覚しかったのです。彼らは、夜逃げを実行する借間人の隣人達に意を通じておき、家主やアパートの管理人を出し抜き、夜逃げを成功させていたのです。夜逃げのお助けマンたちが、どんなに忍びやかに、かつ手際よく家財道具を運び出したとしても、隣人達に全く気づかれないということは、おそらく難しいでしょう。夜逃げの成功は、アパートの住人達の連帯意識がないとすると、成功の望めない種類の冒険でもあったのです。間借り人の足元につけ込んで、3ヶ月毎にボロ間の家賃を値上げして憚らない、家主の強欲への反発や、日頃何かにつけてはやかましい管理人への反発が、間借り人たちの一致結束を促し、困って夜逃げせざるを得ない仲間への肩入れに繋がったのです。こうした行動の延長上に、1848年の二月革命後の大掛かりな家賃の引き下げ闘争や、1871年のパリ・コミューン期の家賃の引き下げ並びに長期固定の要求が生まれたのでした。最後に、夜逃げした家族はどこへ行くのか。友人の借間に転がり込むのです。高い家賃を2家族で折半するのです。当時の大都市のスラムには、1部屋に2家族どころか、3家族、4家族がひしめき合って暮らしていることも、決して珍しいことではなかったのです。
2009.02.24
コメント(8)
クロニクル イラク戦争に地上部隊1991(平成3)年2月24日もう18年になるのですね。前年8月のイラクによる突然のクウェート占領を受け、イラク占領下のクウェート解放を目指したアメリカ中心の多国籍軍は、この年1月17日に、先ずはイラクやクウェート領内への空爆を開始しました。その後も制空権を確保して空爆を続け、この日遂に、多国籍軍地上部隊を投入、戦車部隊を先頭に進撃、3日後の27日にはブッシュ(父)大統領は、勝利宣言をしたのです。
2009.02.24
コメント(12)

続貧民の暮らし(3) 屎尿汲取り人1830~1840年代の西欧各地の大都市では、何処でも屎尿処理は大きな難問となっていました。ご他聞に漏れずパリでも、市の東北の市門に隣接したモンフォーコンの溜め場の発する悪臭が、深刻な問題となっていたのです。風向きによって、そこから発生する強烈な臭いが、ルーヴル宮を含む高級住宅地に達していたことが、公式の記録に何度も登場しています。如何に政府がこの問題に頭を抱えていたかが良く分かる叙述です。この絵は、ドーミエが「月間石版画協会」という石版画協会の広報誌の、出版の自由を主張してルイ・フィリップの政府に抗議するシリーズの1枚として、製作した版画です。当時屎尿汲取り人を描く画家など、いませんでした。ドーミエ自身もこの絵のほかには描いていないように思います。貧民達といえども、屎尿の放つ悪臭には辟易していますから、屎尿の入った桶を担ぐ汲取り人には、近づきたくないと思うのは自然の感情です。ですから、さすがのドーミエも、この1枚しか屎尿汲取り人の姿は、描いていないのです。ドーミエは、政府への断乎たる抗議の意思を示す印刷工の姿を想起させる、確固とした信念の持ち主として屎尿汲取り人を描いています。屎尿でいっぱいとなった桶を置いて、モンフォーコンへ屎尿を運ぶ馬車を待つ2人の屎尿汲取り人は、実に凛々しくかつ堂々としています。それに対して、屎尿の発する猛烈な悪臭に耐えかねて、走るように遠ざかろうとする男女の姿は、背をかがめた卑屈な姿を晒しています。誰もがやりたがらないながらも、なくてはならない仕事を掘り起こし、そこで働く都市下層民の姿を、ドーミエは活力溢れる姿に描いて見せていました。そこには、都市下層民に寄せるドーミエの並々でない暖かな目線が感じ取れるのです。
2009.02.23
コメント(6)

続貧民の暮らし(2)筏解体人足(デバルドゥール)セーヌ川の流れに半身浸かりながら、筏の解体作業に従事するデバルドゥールと呼ばれた筏解体人足の仕事は、貧民の仕事の中でも、とりわけ苛酷な仕事として知られていました。だからこそ、古着屋の項で触れたように。カーニバルや仮装舞踏会などでの大ブルジョワ達の仮装に、数多くのデバルドゥールが登場したのです。この絵はまさしく、筏の解体作業を行っているデルバドゥールの姿を写しています。実際にパリで消費される木材の多くは、セーヌの上流域から筏を組んで流れをくだり、セーヌの河岸に到着するのです。この筏を解体する労働者ががデバルドゥールと呼ばれたのです。筏に組まれた木材を解体し、1本1本の木材にするのですから、この仕事は季節を問いません。それゆえ真冬の凍てつく寒さの中での解体作業は、大変辛いものでした。デバルドゥールたちは、その寒さを和らげるために、仕事を始める前、そして仕事の休息の時間に、昼休みにと、日に何度も安価なぶどう酒を飲んだのです。ぶどう酒は彼らの食生活の中心ににあったのです。衛生学者のデュシャトレがデルバドゥールに関する調査報告を発表しているのですが、それによると、彼らのブドウ酒消費量は、1人当たり、6リットルに達したと言うのです。
2009.02.23
コメント(6)
クロニクル プロ野球にコミッショナー1949(昭和24)年2月23日今年が丁度60年目の節目になります。60年前のこの日、プロ野球の初代コミッショナーに、読売新聞社主の正力松太郎氏が就任しました。正力氏は日本プロ野球の父と慕われ、翌年の2リーグ制への分裂や、球団数の整理統合など、プロ野球機構の整備に奔走し、巨人軍だけでなく、プロ野球全体の発展を図ったことで知られています。彼が存命なら、江川事件やその後の巨人軍のやりたい放題など、現在のプロ野球をつまらなくしてしまった、様々な出来事のうち、少なくとも半分以上はなかったのではないでしょうか。
2009.02.23
コメント(8)
続貧民の暮らし(1) 屑鉄拾い(ラヴァジュール)の続きこの絵につけられた添え書きによれば、ラヴァジュールの男は、鉄屑を拾い集めながら、次のようにつぶやいているのです。「こう見えたっておいらたちは、立派な社会的地位なんだ。ピンや古釘を集めることもさ……それなのに俺達は、荒す者(ラヴァジュール)と呼ばれている。財政を食い物にして(ラヴァジェ)給料をたっぷり取るような、ご大層な仕事をする連中がゴマンといるというのに…」と。社会の底辺に蠢く民衆の世界を描くことによって、当時の版画家達は、当時の上流階級の生活を皮肉ることを忘れなかったのです。とりわけドーミエの版画は、そこに登場する底辺の民衆の生活力のたくましさを、その堂々とした存在感と鋭い眼光、発する警句などによって際立たせているのです。
2009.02.22
コメント(6)

続貧民の暮らし(1) 屑鉄拾い(ラヴァジュール)この絵は、1842年1月に、ドーミエが『シャリヴァリ』誌に発表した石版画です。雨の路上で排水溝を漁って、ピンや古釘を拾い集める貧民、日本流に言う屑鉄拾いを、当時のパリの人々はラヴァジュールと呼んでいました。この言葉は元来、どんなものであれ、特定の対象を荒らしまわって、被害を与えるものを指す言葉です。ここでは二つの意味に使われていました。この男は、警官の帽子に良く似た帽子を被っています。これは、男が警視庁の許可を得て仕事をしていることを、示しています。この時期、路上の仕事人たちには、鑑札が義務付けられ、様々な規制が加えられるようになってきていたのです。そうした中で、片方のズボン吊りを外して、必死に働くこの男性が、「予算を荒す連中だ」と皮肉っているのは、パリ警視庁の役人のことのようです。雨の中を急ぎ足で家路を辿る女性の脇で、男は何事かをぶつぶつ言いながら屑拾いの仕事に熱中しているのです。
2009.02.22
コメント(4)

路上の呼び売り人たち(5) 街角の楽士呼び売りたちと一緒にして良いだろうと思うのですが、パリは歌の街でもあります。日本の流しは、夜の盛り場を流して歩きますし、西欧の街でも、黄昏時にならないと、レストランの街頭を流して歩く、ギターの弾き語りは見かけません。しかし、19世紀のパリでは、流しの楽士は日中から歌っていたのです。当時の民衆は、仕事の合間に街角で歌っていたのです。当時の路上は、民衆にとって、大衆演芸の劇場と並んで、とても大切な舞台でもあったのです。この絵は、街角で歌う流しの楽士一家を描いています。父親が手回しオルガンを鳴らしながら、妻や子と共に歌っています。3人ともそれなりに身なりを整えていますから、流しの生活が一家の生計を支えていることが、見てとれます。そして歌い手達の表情が、決して暗いものではなく、むしろ明るいことも読み取れます。楽士の収入が、そこそこはあったであろうことが、ここから感じられますね。後日もう少し詳しく記しますが、1840年当時には、自作の詩を、誰もが知るメロディに乗せて歌ったり合唱したりする、ゴケットと呼ばれる歌の会が、大いに流行っていたのです。方々の居酒屋でゴケットの集まりが開かれていたのです。そうした中から、街角の楽士達が輩出したことも確かなのです。この絵は、民衆の間に広まった歌の文化の反映を、写しているのです。窓から顔を覗かせている男性は、「長居をされるのは迷惑だ。どこかに移動してくれ」と、苦情を述べようと窓を開け、聴衆の数に驚いているところなのだそうです。
2009.02.22
コメント(6)
クロニクル Xbox発売 2002(平成14)年2月22日7年前のこの日、マクロソフトはXboxを発売しました。ここに、ゲーム機市場は、任天堂、ソニー、マクロソフトと、3社がシェアを食い合う、ガチンコの競争を展開することになりました。
2009.02.22
コメント(10)

路上の呼び売り人たち(4) 古着屋その2この古着屋の商売が最も繁盛した時期は、カーニヴァルの時期でした。「古着を売らんかねぇぇぇぇぇ~。ご不要の帽子、靴、古着をお持ちでないかぁぁぁぁ~」カーニヴァルの時期になると、大学の医学部や法学部をなす医学校や法学校の学生たちは、進んで自分の衣服一式を売り払い、それでカーニヴァル用の衣装を手に入れていたのです。カーニヴァル用の仮装や、上流階級の仮面舞踏会で人気の仮装は、下層階級に変身する仮装でした。カーニヴァルという非日常的世界においては、もっとも現実の世界において縁遠い世界の人間に変身することが、賞賛の拍手を獲得する道だったからです。この絵の右側の女性が扮しているのは、デバルドゥールと呼ばれた筏の解体業者です。当時の下層階級の仕事の中でも、最も苛酷な重労働として知られた仕事(この内容については、改めて記します)でしたから、上流階級の仮装として、最も人気が高かったのです。右側の男性は、右腕にストーヴの煙突をつけていますから、煙突掃除を気取っているのかもしれませんが、長髪にキュロットに長靴という、金持ちに固有の要素ももったチグハグな格好をしています。一般にカーニヴァルの仮装においては、自らの属する階層とは無縁な格好をするのが常でしたから、大ブルジョワは貧民に扮して喝采を得ることを願い、貧民はまた、上層の身分、とりわけ法官に扮すること(上層の身なりとしては、最も費用負担が少なかったのです)が多かったのです。こうして、19世紀前半のパリでは、古着屋はなくてはならない職業だったのです。 続く
2009.02.21
コメント(2)

路上の呼び売り人たち(3) 古着屋路上の呼び売り人たちの中で、古着屋は1種特別の存在でした。「えぇぇ~。古着はないかね、売りたい古着はないぃぃかね。」とも、時には「えぇぇぇ~。古着の御用はないかねぇぇぇ~」とも、声を発しながら、ギター片手に古着を求めて路上を行き来するのが、古着屋でした。彼ら古着屋の姿は、19世紀に入って急激に目に付くようになったと言われています。ナポレオン時代に、タンプル通りの一角に大きな古着市場が作られ、古着の需要が大きく拡大したからです。一部の古着はアメリカ大陸にまで、輸出されるようになったのです。こうして古着屋の数は、一挙に大きく増えたのです。当時のヨーロッパでは、既製服という観念はなく、服は全て注文生産でした。しかし、当時の庶民が注文で服を作れるはずがありません。服の注文が高値の花だった職人や労働者、そしてプチブルクラスの人たちも、しかし休日にちょっとした身なりをすることには、とても気を使っていたのです。そこは彼ら、彼女らといえども、パリっ子だったのですから。家族が一部屋に住むのが常態の貧しき人々にとって、戸外の生活はとても大切でした。こうした職人や労働者、さらには呼び売り人たちにとっても、休みの日に市門の外である郊外へ、遊びに出る時には、身なりを整えることが当然であり、そうしないことは体面に関わることだと、考えられていたのです。だからこそ女たちは、土曜日には質屋に寄って、預けていた質草を請出し、月曜には再び質草として質屋に渡し、いくばくかの仕入れ資金を借り入れるという、面倒を繰り返していたのです。労働者や職人といった人たちは、こうして身だしなみ絵お整えるために古着を買い、プチブルもまた古着のフロックコートや山高帽を買い求めて、自ら考える体面を整えることに気を使っていたのです。学生たちもまた古着屋の上得意でした。彼らは、卒業するときには、学生時代の衣服の一切を古着屋に売り払い、自分の就く職業に相応しい服装を、古着屋から調達していたのです。 この項続く
2009.02.21
コメント(16)
クロニクル 婦人警官の登場1946(昭和21)年2月21日敗戦翌年、63年前のことです。警視庁は、この日婦人警官の募集を始めました。男女同権を規定した憲法草案が発表されるに先立って、女性の社会進出の場を広げる措置がとられたのです。
2009.02.21
コメント(14)

路上の呼び売り人たち(2) 牛乳売り路上の呼び売りたちは殆どの場合、自分が売ろうとしている商品の名前を連呼していました。それゆえ、夫々の音の抑揚と音色によって、区別されていたと言えるようです、しかし、この絵にあるような牛乳売りは、長い呼び声を立てていました。朝の街角に腰を据えた牛乳売りは、次のような売り声をあげていたとされています。「温かい美味しい牛乳だよ! 美味しい牛乳はいかが。赤ちゃんのある人、さぁ早く入れ物を持っておいで! 牛乳売りだよー、さぁ早く!」と。牛乳売りも女性の仕事でした。頭に牛乳を満たした甕をのせ、手に測り売りのための入れ物を持って歩き、街角や家の門近くに座り込んで、近隣の人々に呼びかけていくのです。他には、割れた陶器や磁器の修理を引き受ける呼び売りもありました。その売り声はさらに長く、内容も具体的で分かりやすいものでした。残念ながら、こうした修理屋の姿を写したものは、私も見たことがないため、図版を掲示できないのですが…「なぁぁぁぁおしやぁぁぁぁ! せっとものなおしぃぃぃ! 割れた花瓶の直しはござらぬか。砂糖壺のつまみ、花瓶、ガラスのうつわ、石膏細工、大理石細工の直しはいかがぁぁぁぁ! 直しは保証つきだよ。お宅の花瓶が10貫もあろうと、保証付きの膠で持ち上げるよ。なぁぁぁぁおしやぁぁぁぁぁ! せっとものなおぉぉぉぉし…」こうした声もまた、パリの路上に響きわたっていたのです。 続く
2009.02.20
コメント(16)

路上の呼び売り人たち(1)マルレの石版画で、出前の風呂屋や水売りを紹介しましたが、18世紀末以降のパリの路上は、日常生活に必要な様々な品物を売り歩く、呼び売り人たちで賑っていました。「18世紀パリ生活誌』の著者メルシエは、「パリっ子たちは、呼び売りたちの売り声の内容で、あれは何の物売りだと判断しているのではなく、声の調子で聞き分けているのだ」と書いています。とりわけ、小間使いや女中たちは、習慣の力によって、呼び売りの声を聞き分けるのに熟達していたと、彼は指摘しています。女中さんが呼び売りの声を聞き分けることが出来たということは、それだけ深く呼び売り人たちがパリ市民の日常生活に、食い込んでいたことを示しています。ところで、パリの呼び売りの起源を辿ると、13世紀にまで遡ることができます。この時期に、王に上納金を納めることで、王の保護を獲得していました。その後呼び売りの職業は多様化し、またギルド制度が職業別に整備されるに連れて、呼び売り人はギルド(同業組合)制度の枠外に置かれれるようになってゆきました。それと共に、呼び売りの数は、多種多様になっていったのです。この絵の呼び売り人は、左から四季の商人と呼ばれた野菜売り、ウサギの皮屋、屑屋、そして女性の仕事と決まっていた川魚や海魚を売る魚売りです。実は食料品の呼び売りだけでも、かなりの数になりました。野菜売りや魚売りの外に、季節に応じて牡蠣売り、アスパラガス売り、サクランボ売り、オレンジ』売り、チーズ売り…など多様な売り子達が、パリの路上を歩き回っていたのです。呼び売りは、貧民たちが自分の算段で、パリで生きて行こうとする場合、最も簡単に出来る商売でした。不況の訪れによって失職した出稼ぎ人たちが、生きて行くための手段としたのも、この呼び売りをはじめとしたプチメチエでした。中には、馬車の扉の開閉をやってチップを貰うもの、劇場のダフ屋、モク拾いなどもして、生活の資を得ていたのです。時代は少し下がりますが、1849年の貧民宿に対する調査報告は、次のように記しています。「この貧民宿は、全体として良好で、換気もよく清潔である。しかし住人の素行ははなはだ芳しくない。男の住人の職業は、日雇い、指物工、馬丁、床屋、金物工などと、女の住人の場合は、家政婦、お針子、日雇いなどとなっている。しかし、大部分の住人は、こうした自分の職業に従事することが出来ず、救いがたい貧困の中で、あらゆる種類の路上の稼ぎにすがっている」と。不況になると、職を失った労働者たちが、路上仕事で僅かな収入を得ようと、呼び売り人の数が増えていたのです。 続く
2009.02.20
コメント(8)
クロニクル 金嬉老ライフル乱射1968(昭和43)年2月20日41年前のこの日、清水市内のクラブでライフル銃を乱射、2人を射殺した金嬉老が、寸又峡温泉の旅館「ふじみ屋」に、経営者の家族や宿泊客20人を人質にして、立て篭もる事件が起きました。金嬉老は、スコープ付きライフルと銃弾1200発、ダイナマイト130本を所持していたため、防弾チョッキに身を固めた警察官も、遠巻きにするして手が出せない状態になりました。金は時折空に向けてライフルを乱射したり、ダイナマイトを爆発させるなどしたため、山間の鄙びた温泉街は、緊張した空気に包まれました。金嬉老の篭城は、変装した警官が彼を逮捕、人質全員の解放に成功する24日午後まで、88時間に及びました。この間彼は、モーニングショーへの電話出演、旅館内での記者会見など、マスコミを通じて、在日朝鮮人に対する警察の差別を糾弾、公判でも日本人の在日朝鮮人に対する民族的偏見を訴えました。静岡地裁は、4年後の1972年6月、金に無期懲役の判決を下しました。この事件で、山間の温泉寸又峡の名は、一躍全国区となりました。
2009.02.20
コメント(8)

セーヌの水浴(2) 当時セーヌ川での水浴は、警察によって禁じられていたのですが、その代わりに、セーヌ河岸に河水を取水した水浴場が作られていたのです。全部で22ヶ所でしたが、そのうち最大の水浴場は、長さ64m、幅22mと競泳用のプール並のサイズでした。当然有料でしたが利用料は1回100円でしたから、これなら4人家族で利用しても1回400円、月に2~3度の利用なら、平均的な労働者家族にも可能でした。まして寒い冬場は利用する人もいなくなり、営業を停止していましたから尚更です。ここに載せたドーミエの石版画は、こうした水浴場に来る民衆のエネルギーを活き活きと活写しています。暑さしのぎの夕暮れ時、仕事帰りの水浴が、ひとときの気晴らしになった様子が、見事に描かれています。しかしまた、ドーミエはこうした水浴場の水が、清らかな水で満たされているとは言い難い情景も描き出しています。でも、ここに来る人々は、そんなことを気にする様子は少しも見せません。ご覧のように右の階段の下では、犬を洗っている人もいます。当時のパリの民衆は、清浄な水をふんだんに使える生活とは、無縁なところで暮らしていたのです。
2009.02.19
コメント(18)
クロニクル プロレスラー力道山の登場1954(昭和29)年2月19日55年前になりますね。力道山は元力士と知ったのは、ずっと後のことでした。この日日本で最初のプロレスリングの試合が、テレビ中継されました。力道山・木村組対シャウプ兄弟組のタッグマッチ、61分3本勝負でした。柔道出身の木村選手とのコンビで、シャウプ兄弟に炸裂する空手チョップの嵐が、何よりも恰好良く見えたものでした。この試合での力道山の活躍は、敗戦で鬱屈した思いを抱く、日本国民に対し、勇気と希望を奮い立たせる役割を果たし、力道山は一躍時の人となりました。まだ自宅にテレビが普及する以前でしたから、町の電気屋さんの店の前は、まさに黒山のひとだかり状態。テレビを備えた表通りの床屋さんは、テレビ見たさの散髪志願者でいっぱいでした。
2009.02.18
コメント(10)
セーヌの水浴(1)マルレの石版画に見る、当時のパリの庶民生活の諸相の紹介は、前回を持って終りとさせていただきますが、30年代から新聞っや雑誌に風刺画を連載した画家達の作品を利用して、今しばらく、書き綴ってみたいと思います。「ここの写真は、セーヌの水浴(2)に移しました。この絵は、ドーミエの「セーヌの水浴」と題する連作の1枚です。以前に「風呂の出前」と題するマルレの絵を紹介しました。マルレの描写からしばらくした1831年の段階で、パリには出前の移動浴場が1059、公衆浴場が78軒で浴槽数は大小合わせて2374、他に高級浴場としての風呂舟が5艘(船の中央に2mほどの廊下があり、その両側に12~14ほどの浴室が並んでいました)、存在したと記録されています。しかし、当時の風呂の値段は庶民には高すぎるものでした。出前風呂の値段は、既にご紹介しましたが、季節と利用時間によって、料金は1750円~4000円と高く、風呂舟も2000円~3000円しましたし、最も安い公衆浴場でも750円~1200円と決して安いものではありませんでした。当時の平均的な中程度の労働者世帯の平均年収は99万円程度とされています。今4人家族の労働者世帯が、週に1度そろって入浴したとすると、1回の費用は3000円ですから、52週で156千円となります。これは年収のおよそ1/6ですから、とても払える額ではありません。入浴は富裕なブルジョワや、力をつけつつあるミドルクラスの人たちが、社会的ステイタスを意識しながら楽しみ、かつ身だしなみを整えるためのものだったのです。では、労働者やその家族はどうしたのか。彼らはセーヌ川の両岸に出来た、料金の安い水浴場を利用したのです。水ですから、暖かい時期限定の利用になりますが、両岸に全部で22ヶ所(うち男性用16ヶ所、女性用6ヶ所)を数えた水浴場を労働者達は利用したのです。 続く
2009.02.18
コメント(10)
貧民の暮らし(5) マルレの石版画集より(番外編) 19世紀に入ると、都市パリの人口は急増を続けます。そうした中で下層や最下層の民衆の数も増大を続け、それがスラムの形勢と拡大に繋がりました。しかし、ここにスラムに限られたことではない、大きな問題がありました。それは増大する生活用水と工場用水の処理の問題です。増大する水需要には、セーヌやセーヌ支流の河川の上流から、運河を引き込み、給水栓を増やす形で対応できたのですが、飲料水以外の排水の問題が深刻でした。風呂の出前の話を書きましたが、1830年代には、上流階級の間では、週に3回程度の入浴がお洒落な習慣になってきていたのです。こうした生活汚水や工場排水も全てセーヌに流されます。各家庭のし尿も、固形部分以外は流されます。モンフォーコンへ運ばれたし尿も、水分は地底に浸み込みます。こうした一切がセーヌに流れこむのですから、セーヌの水は飲料に適するのかが問題になります。いまだ不十分ですが、作られたパリの下水溝は、すべてセーヌに流れ着いているのです。汚物はセーヌの流れと共に、下流に流されるから問題ないと考えられた時期がしばらく続きます。最もこの時期においても、上流階級の人々は、大手の水売り業者と契約して、はるか上流の給水栓で取水した飲料水を入手していたのですが…しかし、次第にセーヌの流れといえども、簡単に汚水を流しさることは出来ない現実が明らかになってきます。下水溝の出口部分に、一緒に流されてきた屑や汚物が泥と共に堆積して腐敗し、減水の時期には異様な悪臭を放つようになったからです。こうした異物は徐々にセーヌ川に溶け出している。この汚染は間違いなく重大だ。こういう認識が広まったのです。問題はそこでどうしたかです。少し前にテームズ川の悪臭騒ぎが社会問題化したロンドンと同じように、パリでも、セーヌの両岸に沿って、大下水道を造り、全ての下水溝の排出口をそこに接続して、大下水道を通じて、全ての汚水をセーヌの下流域に送り込んで放出することに下のです。そこにあるのは、花の都パリが無事であれば、下流の民がどうなろうと構わないという、剥き出しのエゴでした。こうした考えが、ロンドンとパリに、そして英・仏の政界に共通した考え方だったのです。ここに、当時の政治現実があったのです。 この項 完
2009.02.18
コメント(8)
クロニクル 札幌雪祭り始まる1950(昭和25)年2月18日今年の札幌雪祭りは第60回の記念祭りでした。そのはずです。第1回の雪祭りは、丁度60年前の今日、始まったのですから…。最初は、現在のような実行委員会方式ではなく、札幌観光協会と札幌市の共催でした。雪像も市内の小・中学校の児童・生徒が作る5~6体が展示されるだけでした。初期の雪祭りは、規模も小さな市民のイヴェントでした。第5回から高校生も加わり、第10回頃から、次第に見学者もふえはじめたのです。こうした雪祭りの国際化に貢献したのが、1972年開催の札幌冬季五輪でした。氷の祭典と雪像が評判を呼び、ここに「札幌雪祭り」は、毎年200万人が訪れる北海道最大のイヴェントに成長したのです。
2009.02.18
コメント(10)
貧民の暮らし(4) マルレの石版画集より(番外編)では、こうした貧民達は、どのような所に住んでいたのでしょうか。それがガルニ(家具付き下宿)と呼ばれた貧民宿でした。家具付きと言うと、何か家具なしに比べると高級な印象を持持たれるかもしれませんが、ここで言う家具とは、ベッド替わりに置かれた薄汚れた板台のことを指しています。 勿論部屋には暖炉などなく、部屋にあるのはこのベッド替わりの台だけなのです。こうした貧民宿は、パリの一部地区に密集し、日本流に表現すれば、まさにドヤ街を形成していました。そのガルニにも、いくつかの等級がありました。文字通り一夜の宿を提供するタイプの最下等のガルニから、「引越しの情景」で見ていただいたような。曲がりなりにもガラクタ家具を持つ家族連れが、半年契約をする最上等のガルニまで、3ないし4段階に分かれていました。中間段階にあるのは、自分達だけでは1部屋を借りるお金がない家族持ちが、2家族が家賃を折半する形で、共同で狭い部屋を借りているガルニでした。当然、最下等のガルニは、相部屋で、客の多い時は、1部屋に3人、5人と詰め込まれたのです。各階には、薄汚れて悪臭を放つ便所があり、その臭気は住人が出入りする各室に繋がる廊下に充満していました。窓にはガラスがなく、替わりに油紙が貼ってあり、中には窓そのものがないガルニもありました。当然、部屋には光も射さず、空気も澱んでいました。ここに、当時の最悪の生活環境がありました。最下層の社会に見捨てられた人々は、こうしたドヤ街に吹き寄せられ、ひっそりと肩を寄せ合い、自分達を虐げる警察権力を激しく憎悪する感情を共有しながら、ひっそりと幸薄い生を生きていったのです。 続く
2009.02.17
コメント(8)
貧民の暮らし(3) マルレの石版画集より(番外編) その後、モンフォーコンに貧民の行動の縮図があると受け止めたジスケは、悪臭を厭わず折に触れて視察に出かけています。そのジスケの眼は、次のような光景も捉えています。数人の男が全裸になって、糞尿溜めの真ん中まで入って、朝から夕刻まで糞便の中から、探し物をしている光景です。彼らはそこに紛れ込んでいる可能性のある、貴重品や金属類を見つけ出そうとしていたのです。また、警察の押収品ではなく、パリ中央卸売り市場の検査官が、市場に到着した時点で腐敗していたために、モンフォーコンに運ばせて投棄させた魚は、前回の腐ったハムやソーセージと同じように、貧民達によって拾い集められている情景も捉えています。「腐って悪臭を放っている鯖が、2台の荷車で運ばれてきて、一番大きな溜めに捨てられた。2時間経ってみると、全ての魚が消えてしまっていた」と、今回のジスケは、淡々と記しています。モンフォーコンが示している、凄まじいまでの貧困は、花の都パリの裏側に潜む闇の部分の真実を示しています。昨日の記述のコメントに戴いた中にもありましたが、1832年の3月~9月にかけて、パリで猛威を振ったコレラの死者数を地区別のデータで比較すると、貧民居住区の死者数は、およそ4倍という高い数値を示しています。コレラが水を媒介とする伝染病であることが、いまだ分かっていない時期での流行でしたから、時の首相で銀行家のカジミール・ペリエ自身がコレラで命を落としているように、高級住宅街での死者もかなり多かったのです。それにも関わらず、これだけの開きがあったのです。 ザビ
2009.02.17
コメント(4)
クロニクル 東証門戸開放1982(昭和57)年2月17日もう27年になりますか。この日東京証券取引所は、外国証券各社に門戸を開くことを司式に決定しました。しかし、当初は、外国証券のシェアは延びず、外国人の日本株買いも、大きくは膨らみませんでした。外国証券のシェアが膨らみ始めるのは、日経平均やトピックスの先物取引が導入されてからのことになります。それが今では、外国人の売買比率が60%強と、東証の株価の行方は、外人次第の日々が続くようになっているのですから、変化のスピードの速さには、驚かされますね。
2009.02.17
コメント(8)
貧民の暮らし(2) マルレの石版画集より(番外編)ジスケは、その回想録の中で、モンフォーコンで展開される悪夢のような情景について、詳細な記録を残してくれています。ここでの貧民達の行動は、彼にとっても、おそらく想像を絶する事柄だったのでしょう。先ずは、パリ警察が定期的に実施していた、市内の豚肉加工食品店の衛生状態に関する検査に際して、発生した出来事についてです。あるときの検査で、1万重量リーヴルにのぼる腐敗した食品(ハムやソーセージ)を押収したのです。 ジスケは、この大量の食品を20台の荷車に積んで、モンフォーコンに運ばせ、いわば巨大な肥溜めに投棄させたのです。どうなったと思います?「信じられないことなのだが…」とジスケは書き出しています。ジスケの書いていることを、そのまま引用しましょう。「その夜、貧民たちがいくつかの集団になってモンフォーコンにやってきて、この投棄したものを鉤のついた棹で、糞尿の中から取り出していた。さらに貧民達はこの凄まじい糞尿溜めの中に、出来うる限りのところまで入っていって、糞尿に浸かりながら投棄食品の回収に励んだのある。こうして貧民たちは、私が投棄させた腐った食品の全てを持ち去った。」こう彼は記しています。この事件の発生以後、押収食品は細かく切り刻み、さらに糞尿と混ぜ合わせて投棄することにしたとも。彼は書いています。これが、パリという大都会の底辺にうごめく貧民達の暮らしの実態でした。無償で配布される食糧に群がるのは、当然といえば当然です。 ザビ
2009.02.16
コメント(12)
貧民の暮らし(1) マルレの石版画集より(番外編)食糧の無料配給に群がる貧民の姿を見ていただいたところで、当時の貧民の暮らしのいくつかを紹介させていただきます。時期は少しずれますが、七月王政下のパリで、1832年~36年までの4年間、パリ警視総監を務めたジスケという人物が、4巻にも及ぶ回想録を残してくれています。彼の在職期間のパリは、ストライキが多発し、共和主義結社の反乱(ユゴーの『レ・ミゼラブル』で、マリウスが参加したのは、その一つです)、コレラの流行による民衆騒擾などが次々に起こり、パリが激動した時期だったのです。ジスケ総監は、そうした事態の根本解決なしに、共和主義の運動は鎮圧できないと考え、大都市パリのはらむ病理の解決に、熱心に思いを馳せた点で、傾聴に値する見解や、現実描写を行っています。しばらく、ジスケの描写するパリの姿にお付き合いください。最初は、パリのし尿処理施設モンフォーコンでの出来事からです。 続く
2009.02.16
コメント(2)
クロニクル 天気図の登場1883(明治16)年2月16日「126年前のこの日、ドイツ人クニッピンクの指導の下で、日本で最初の天気図が作成されました。これは気象庁が作成したものではなく、東京天文台が試験的に作成した、7色刷りの色鮮やかな手書きの天気図でした。天気図を下に天気予報も発達しますが、命中率はどうだったのでしょうね。
2009.02.16
コメント(12)

我が家の枝垂れ梅が、一応見頃になりましたので、アップしてみました。明治前期、『国民之友』の創刊頃に、誕生した樹のようです。東京の空襲が激しくなる前にと、移植したおかげで戦禍を免れた運の良い樹です。手入れの関係で、今年の花のつき具合は、良くないようです。
2009.02.15
コメント(18)

食糧の無料配給 マルレの石版画集より(14)パンや食糧の無償配給は、古代ローマ帝国の時代に、広く普及していた習慣でした。この習慣は、ルイ14世の時代に貧民対策として復活し、財政難で途絶えていたものを。ナポレオンがもう1度復活させたものでした。王政復古時代(1815~1830)においても、国王の善意を際立たせようという意図で、国王の誕生日の際に、行われておりました。画面はその騒擾を切り取ったものです。祝祭の一環としての食糧の配給でしたから、列に並んだ貧民に、1人づつパンにソーセージと言った食糧が配られるわけではなく、日本でいう節分の豆まきのように、用意された高い台の上から、肉やパンといった食糧を、担当者が投げ入れるのです。これほど公平な分配はないと言った顔をして……無償の配給を当てにして集まってきた貧民たちは、上から投げ入れられる食糧を奪い合うことになります。画面にも手にした食糧を奪い合う人々の姿が、描き込まれています。当時の記録には、「どのような食物も1人の手の中に、丸ごと納まることはなかった。見物人も数多く、彼らは貧民達の狂奔振りを、呆れながら見て、楽しんでいた。」と描かれています。いかに、飢えたる貧民が数多く存在したかが、ここから分かります。この絵の外側に、貧民が食糧を奪い合う光景を、面白い見世物として楽しんでいる、極めて悪趣味な中産階級が数多く存在していたことも、忘れる分けにはいきません。
2009.02.15
コメント(8)
クロニクル 「国民之友」創刊1887(明治20)年2月15日この日、日本初の月間総合雑誌『国民之友』が創刊されました。発行所は民友社。前年に言論界にデビューした、弱冠25歳の徳冨蘇峰が民友社を起こして、自ら社長に就任。同時に『国民之友』の主筆を務めるという、八面六臂の大活躍で、ようやく発行に漕ぎ着けたのでした。明治も20年代に入ると、幕末から維新を経て、明治政府の進める近代化政策の成果が、ようやく現れ始めると共に、その翳の部分とも言うべき矛盾もまた激しくなっていました。そうした時期に、「政治社会経済及び文学の評論」を唱え、学者や文化人を動員した総合雑誌の登場は、知識人層に大いに歓迎されました。とりわけ、民間史学の山路愛山や竹越与三郎らは常連執筆者となり、森鴎外の作家としての地位を確立した「舞姫」、二葉亭四迷によるツルゲーネフの翻訳「あひびき」の掲載は、評判を呼びました。また平民主義の立場から、欧米の社会主義思想の紹介に務め、労働問題にも進歩的見解を表明しながら、弊害の目立ち始めた藩閥政治に、厳しい目を向けていました。こうして、最盛期には2万部を越える発行部数を誇り、読者の要望を受けていつしか月刊から、上・中・下旬の旬刊に変わるなど、経営的にも成功を遂げました。民友社は、他に「国民新聞」も発行、こちらも支持を集めていたのですが、1897年蘇峰が内務省参事官に就任したため、読者を含む知識人層から変節漢との批判が高まり、『国民之友』の人気は急速に衰え、1898(明治31)年8月、第372号をもって廃刊となりました。最後は竜頭蛇尾に終わりましたが、昭和初期の『中央公論』や『改造』、戦後の『世界』などに道を拓いた功績は、大いに称揚してよい雑誌でした。
2009.02.15
コメント(6)

音楽学校 マルレの石版画集より(13)フランスでランカスターシステムと呼ばれたモニトリアルシステムは、初等教育の効率化を目指すものでしたが、こうした相互教育法は、フレデリコ・マッシミーノによって、音楽教育に取り入れられました。マッシミーノの着想は見事に成功し、彼は1824年にレジオン・ドヌール女子寄宿学校の声楽教授に任命されています。ここに描かれているのは、モンマルトル街10番地にあった、彼の教室です。1人の女性がピアノで曲を演奏し、先生が生徒達に譜の書き方を教えているところです。生徒の大部分は若い娘たちで、画面中央の後ろを向いている少女は、見学に来ているのでしょう。先生の脇の2人の女性は、付き添いの母親と召使のようです。つば広の帽子を被らない女性は、社会的身分が低い人たちだからです。画面中央の3人の若い女性をご覧ください。彼女達のファッションは、1821年~24年頃まで、パリを中心に大流行したファッションです。後ろで結んだハイ・ウエストのドレス、裾を飾っている幅広の刺繍や飾り紐、レースやチュールの飾り襟、そして膨らませた肩飾りなど、当時の若い女性たちの憧れの装いでした。マッシミーノや彼の競争者たちの経営する音楽学校は、いずれも賑わいを見せていました。王政復古期の社会は、音楽に対する愛好熱でも知られる社会だったのです。フランスのブルジョワ達は、ナポレオンの敗北と失脚で味わった挫折感を、音楽に熱中することで、忘れようとしていたのかもしれません。「音楽愛好熱は、社会の広い階層に及んでいる。流行の曲はショセ・ダンタンのサロンから、プールヴァール(大通り)の小屋掛けまで、2週間もしない内に伝わっている」とか、「こうした仕事場では、初見でアリエッタが歌えるほどに、音楽に通じた見習い娘に出会うことも珍しくない。…… わが国の裕福な職人は、娘の教育にも熱心である。パリのプチ・ブルたちの間では、娘に芸事を習わすのは、ごくあたり前のことになっていて、芸事を知らない娘を数える方が、遥かにたやすいことである。」これは、当時の新聞記事や、旅行記に記された内容です。下層階級もまた、日曜日の居酒屋などで、反体制派の詩人ベランジェの詩の朗読を聴き、それに曲をつけたシャンソンを、皆で歌っていたのです。ゴケットと総称された歌声酒場が、場末町にはいくつも存在していたのです。
2009.02.14
コメント(14)
クロニクル 聖ヴァレンタインの処刑269年2月14日今日2月14日は、日本で特に有名になったヴァレンタインデー。聖ヴァレンタインの日です。これは、古い古い時代の、日本では大和朝廷の成立以前の小国家分立時代の話です。歴史上その存在は明らかなのですが、いずこにあったかは、なお定かではない邪馬台国。その女王卑弥呼の死は248年であろうと、考えられています。静岡県の登呂遺跡と同時代とお考え戴いてよいだろうと思います。古代ローマ帝国の皇帝クラウディウス2世は、兵士の結婚を禁じていました。「妻や子を故郷に残しておくと、士気に影響がでる」と考えたからでした。この措置に憤慨したキリスト教の司祭ヴァレンタインは、密かに兵士の結婚を許して、これを祝福していました。その事実がバレ、怒り狂ったクラウディウス2世の命令によって、ヴァレンタイン神父が処刑されたのが、西暦269年の今日14日だったのです。ローマ帝国再興の英雄ディオクレティアヌス帝によって、それが最後とされるキリスト教の大弾圧が行われる16年前のことでした。当然コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認する前の話です。ヴァレンタイン神父の処刑の理由を知り、その勇気ある行動に感動した人々は、彼を惜しみます。ローマ教会もまた、ヴァレンタインを聖人に列して、彼を手厚く葬ります。こうして2月14日は、聖ヴァレンタインの殉教の日として、記憶されることになったのです。西洋ではこの日、男女を問わず、「from your Valentine」と記したカードを添えて、恋人にお花やケーキを贈るのです。チョコレートを贈るのは、極めて日本的な習慣です。この習慣は、ご想像の通り、チョコレートメーカーの仕掛けが大成功を齎したのです。戦前の昭和11(1936)年の2月12日に、神戸のモロゾフ洋菓子店が、バレンタインチョコレートの広告を出したのが、最初でした。高度成長期の1960年代の後半、森永製菓が大々的なキャンペーンを繰り広げて、ヴァレンタインチョコは、日本文化として定着したのです。この時期に、チョコレートメーカーは、年間販売量の8分の1を売り上げるそうです。
2009.02.14
コメント(10)

学級の誕生 マルレの石版画集より(12) 昨年7月中旬から連載した、「学級の誕生」というシリーズで、学級の原型ともいうべき、ランカスター青年とベル青年の2人が、ほぼ同時期に全く別々に編み出した、モニトリアルシステムと呼ばれた教育方式を紹介しました(8月12日のno,29~8月18日のno,35までをご覧ください)。19世紀の初頭にイギリスで始められたこのシステムは、1815年を皮切りに、「初等教育協会」と呼ばれた団体を中心に、フランスでも強力に推進されました。セーヌ県知事シャブロンは、最小の費用で識字率を大幅に向上させる教育法だと受け止めて、この教育法を高く評価し、県内全域で採用することにしたのです。パリ市議会は、シャブロン知事の要請に応え、学校創設のための予算を可決しています。この絵は1822年のものですが、この年パリには、この絵と同種の学校が88校存在していたことがわかっています。ただ、フランス王政復古期(1815年~1830年)の国王が、ルイ18世からシャルル10世に替わると、政府の方針が替わり、庶民の教育レヴェルの向上は、民衆をして反政府派や自由派に近づけるとして、ランカスター方式の学校は、半分近くに減らされていったのです(1830年には、48校が残る形になっていたのです)。この絵は、絵の雰囲気からして、礼拝堂を改装した学校に見えます。教室の壁には板が掛けられています。板には、その日或いはその週の学習予定が書かれた紙が、ピンなどで留められています。最前列の端で、生徒の1人が、学習中の文章を掲げています。文章の単語は1語づつ、主たるモニター(生徒の指導員)が文字を指しながら読み上げ、順次生徒がそれを石版に写し、順に読み方を繰り返すのです。各列6人づつ並んだ生徒の脇には台が置かれ、サブ・モニター(副指導員)が立っています。どうやらフランスでは、1グループ12人の生徒がサブ・モニターの担当のようです。この12人が石版に書いた文字や綴りの○と×をサブ・モニターが数えて、点数を書きいれます。ここにマルレが描いているシーンは、ランカスター式教育法の最も単純な一形態です。その他については、恐縮ですが、『学級の誕生』シリーズの上記した部分をご覧ください。ところでマルレは、ランカスター式教育法の問題点も、ちゃんと絵の中に描き込んでいます。右手のサブ・モニターの横の生徒は、うつぶせになって居眠りをしていますし、2列目には、退屈しておしゃべりしている生徒の姿があります。そして何よりもモニターに仕事を任せてしまった教師は、教室の傍観者然と、全くやる気をなくしたような、退屈を持て余している姿で、描かれているのです。
2009.02.13
コメント(6)
クロニクル GHQ松本試案拒否1946(昭和21)年2月13日63年前の今日のことです。5日前の2月8日に、幣原喜重郎内閣が提出した憲法改正要綱(通称松本試案)を、GHQはこれでは改正内容が不十分すぎるとして、正式に拒否。こうなることを予想して、2月3日から準備に入り、僅か1週間で完成させたGHQ試案を、突きつけてきました。日本政府は22日に、このGHQ試案を正式に受け入れることを決め、以後はいくつかの修正を経て、新憲法草案は、正式に決定を見ることになります。参考 長谷川正安『昭和憲法史』(岩波書店)
2009.02.13
コメント(8)

パレ・ロワイヤルの子午線 マルレの石版画集より(11) この絵は、パレ・ロワイヤルの子午線というタイトルのついた、1823年のマルレの石版画です。昨年の6月~7月にかけ、時間と時計と題して、時計と時の観念の変遷を32回のシリーズで連鎖しましたが、その7月2日の第24回の記述が当てはまります(フリーページにまとめてあります)。連載の中で、標準時の観念は、鉄道の発達と共に成長するのですが、パリ市民にとって、それはパリ天文台の大広間の丁度真ん中を、太陽が通過する時間とすることが、最も納得のいく計測法でした。そしてその子午線は、大変都合の良いことに、まっすぐ北に延長すると、パリ市民にとってお馴染みのパレ・ロワイヤルの庭園を横切るようになっていたのです。そこで、子午線の延長上にある庭園の花壇の南端に、特殊設計の日時計が置かれたのです。ここにはレンズと小型の大砲が備えられていました。太陽が天頂に達すると、太陽光がレンズを通じて大砲の火口に集まり、大砲に点火するようになっていたのです。当然ドンという大きな音が響きます。これが正午の時報の役割を果たしていたのです。時計を所持して庭園を散歩していた人たちは、すかさず自分の時計を取り出し、時刻を正午に合わせるのです。画面左の男は、なにやらよからぬ意図を持っているようですね。隣の度の強い近視らしき男性の時計を狙っているかのように見えます。背の高い細身の男性は、午砲を知らなかったのか、驚いて飛びのき、老いた小柄の傷痍軍人氏にぶつかったようです。軍人さんは、ポケットから出して、時間を確かめようとした時計を取り落としています。ただし、この時計は大きく時間が狂っています。後景中央の肥え太ったブルジョワは、満足そうに自分の時計を見ています。またその左の木の後ろの老人は、どうやら自分の時計の正確さを、知人に自慢しているように見えます。手前の洒落男は、ネックレスをつけ、時計を手にした女性に気をそそられているようです。この女性は、どうやらパレ・ロワイヤル界隈を根城とする売れっ子の辻君に見えますが、何故、日頃この界隈に出没する時間と、全く異なる時間に現れたのかを推測すると、おそらくはほしかった懐中時計を、昨夜馴染み客から贈られて、つい嬉しくなって時計の時間を確かめに来たのでしょうか。懐中時計がまだ珍しく、一種のステイタスシンボルだった時代の雰囲気が、良く捉えられています。この午砲は、第一次世界大戦の開始と共に、使用が止められましたが、現在もパレ・ロワイヤルの一角に保存されています。パリにお出かけの際などに、お探しになってみてください。
2009.02.12
コメント(14)
クロニクル 教育委員の準公選制スタート1981(昭和56)年2月12日28年前のこの日、東京都中野区で、前年に定めた教育委員の準公選のための選挙が、スタートしました。教育委員会の委員=教育委員は、その本来の趣旨からすれば、公選が望ましいものなのです。そのため48年の制度のスタート後、しばらくは公選制が続きましたが、1956年の法改正で、任命制に改められました。この結果、首長の政治的立場に近い人たちだけが選ばれる形となり、国民の教育要求と教育委員の姿勢のズレが目立つようになっていました。そんな状況の中で、東京都中野区では、住民請求で、教育委員を公選に近づけるための請願が多くの住民の署名を添えて繰り返されました。その結果、完全な公選制とせず、住民の選挙結果を下にして、複数の教育委員候補を区長に推薦、区長が区議会の胴衣を得て、推薦された名簿の中から教育委員を指名するという、教育委員の準公選制がスタートすることになったのです。こうして、この日から2月25日までの2週間を郵送に拠る投票期間とする、教育委員の選挙がスタートしたのです。選挙結果の上位者から、数名の候補者が推薦され、区長によって、教育委員に任命されたのは、3月2日のことでした。しかしこの制度も、何度か繰り返される内に、投票率が次第に減少したため、区議会は94年に制度の廃止を決議し、以後は残念ながら任命制に戻ってしまっています。
2009.02.11
コメント(4)
解剖教室の出来事(補遺) マルレの石版画集より(番外編) 終わったはずなのに、申し訳ありません。一番大事なことを書き落としました。医療と病院の話を記した時、私は施療院を兼ねた病院へ、貧民は決して入院したがらなかったと書きました。貧民達は、仲間を決して病院送りにしようとはしなかったとも。彼らは、病院を忌み嫌い、「病院に入ったら最後、生きてはそこを出られない」とまで、思いつめていました。「病院に入ったら殺される。そして死体を切り刻まれる」と信じてもいたのです。あの貧民達の病院に対する嫌悪感と、今回の解剖教室の話を、つなげて考えてみてください。病院で死亡した患者の遺体は、医学研究のために解剖に回されます。解剖は病院や医学部、そして医学校で解剖に付されるだけでなく、教授個人が開設した私設の解剖教室でも解剖に付され、身体を切り刻まれます。そして、後は下働きの使用人が片付けるに任されるのです。扱いは極めて粗末です。そこから死体の脂肪分を切り離し、商品に加工するという事件も起きました。こうしたことは、貧民の間では、特に珍しいことではなく、日常的に見聞していることだったのでしょう。貧民の間だけで、噂は駆け巡ったとしても、不思議はありませんね。こうした噂が、貧民の病院嫌いを決定的にし、「病院にだけは行きたくない」という彼らの思いを強めたのです。貧民達は、自分の身内や仲間たちを、決して病院にやるまいと、最後の最後まで、全力で努力したのです。それは、死後にまで身体を切り刻まれるなんて、トンでもないという気持ちからでした。
2009.02.11
コメント(8)
解剖教室の出来事(3) マルレの石版画集より(番外編) ここに記した奇怪な出来事は、全て実際にあった出来事です。この事件の詳細は、当時最も活動的な公衆衛生学者の1人だった、バラン・デュシャトレが1831年に発表した『解剖室の影響とその浄化について』という報告書に、記されています。彼は、パリの様々な施設の衛生状態を調査する中で、パリ市中に散在し、住民からの苦情も多い解剖教室を、重点的な調査の対象に加えたのでした。解剖教室の衛生状態の改善を図る一環として、調査に入ったデュシャトレは、その中で使用人による人間の脂肪の売り出しという事実を発見したのです。使用人たちは、犬の脂とか馬の脂として、人の脂肪を販売していたのです。報告を受けたパリ警視庁は、類似の事件の増加を恐れ、高名な公衆衛生学者たちで構成されたパリ衛生審議会に、人の脂と獣脂の判別法を問い合わせ、業者向けのパンフレットを作成しようと考えました。しかし、審議会の結論は、犬猫の脂と人間の脂の判別は容易につくが、大型動物である馬や牛などの脂との判別は困難であるということだったのです。デュシャトレ自身は、この事件について、「深刻というよりも特異な事件」と評しています。そこには、事件の解釈に当惑している様子がうかがい知れます。そんな彼が、ごく普通に書きとめたことから、うかがい知ることが出来るのは、人の脂を売っていた解剖教室の使用人たちが、隠れてコソコソと人の脂を売る商売をしていたわけではないということです。彼らはなんらの隠し立てもせずに、誰にでも分かるようなおおらかさで、人の脂肪を溜め込み、それを溶かしたり売ったりしていたのです。デュシャトレは、こうした状況であったにもかかわらず、警察当局が何故このような商売に気付かなかったのか。そのほうに驚きをきんじえないと述べています。使用人たちには、このアルバイトが、法を侵す行為であり、犯罪行為であるという意識は、全くなかったのです。それどころか、周囲の人々にも、そうした意識はなかったのです。彼らは、解剖教室の使用人たちが、何をやっているかを一部始終見ており、その内容を知っていたのです。医学校近隣の食料品店は、使用人たちから購入したカンテラを平気で使っていました。その材料が難であるかを、知らないはずはなかったのですが。ここに、当時の底辺の人たちの生活感覚があったのです。解剖教室の使用人たちが身をおく、当時の下層社会においては、人脂の利用すら厭わないという、現代の我々からすれば、到底肯んずることが出来ないような事態が、日常的に存在していたのです。以上でこの項を終えますが、私は人の脂肪を商品に仕立てたという事実以上に、貧困が人間精神に与える影響の方に、より強い衝撃を受けました。 この項 完
2009.02.11
コメント(12)
クロニクル 初の建国記念の日1967(昭和42)年2月11日2月11日は、戦前の紀元節に当たります。1940(昭和15)年秋には、5日間に渡って、盛大に「紀元2600年」の祝賀行事が行われています。1889(明治22)年には、わざわざこの日を選んで欽定憲法を発表しています。紀元節のよって来る由縁は、神話の世界で、神武天皇の即位した日と推定されるということにありました。記紀神話にある9代までの天皇は、実在の人物ではありません。実在は10代の崇神天皇からというのは、古代史の常識となっています。その、科学的に否定されている神武即位を、事改めて再び祝日にしようとしたのが、「建国記念の日」を巡る問題でした。前年1966年に、歴史学界の猛反対を押し切って、政府と自民党で成立させてしまったのです。国会の委員会での意見陳述で、制定賛成派が言い立てた論拠は、さすがに神武即位の日と言ったのでは笑われると思ったのか、ここでは推古天皇即位の日と言い出しました。即位年は分かっていますが、日は不確かなのにです。つまり、この日としなければならない理由は、実はないのです。だとすると、東京オリンピックの開会の日という、出自のはっきりしている「体育の日」すら、10月第二月曜日にしてしまう祝日法改正を行うのなら、当然に「建国記念の日」というのも、2月に第二月曜にすれば良いのに、それはしないのですね。あくまでも、実体のない紀元節に拘っているのが見え見えなのです。これは歴史の歪曲に繋がりかねませんから、結構危険なことでもあるのです。何よりも、現代の国家で、建国記念の日を、前近代も良い所の、神話の世界に求めるなどというのは、お隣の韓国と日本の、2国しかないのです。現代に繋がる近代国家成立の画期を(たとえば、明治政府の成立とか、五箇条のご誓文の発布日であるとか良い日はありますね)、いまだに建国記念日に出来ない現実が、私は世界に対して、恥ずかしくてなりません。
2009.02.11
コメント(12)
解剖教室の出来事(2) マルレの石版画集より(番外編) 下働きの使用人たちは、解剖後の死体の廃棄を仕事の一つとしていました。穴を掘って、死体を埋葬するのです。こう言うと聞こえは良いのですが、要は、何体もの死体を、同じ穴に放り込むのです。そんな仕事の明け暮れの中で、使用人たちは、死体の脂肪を切り取り、販売することを思いついたのです。しかも驚くことに、こうした商売を始めた使用人は、悪びれもせず、仲間を誘い、私設の解剖教室の使用人ばかりでなく、医学校に付属した解剖教室の使用人もまた仲間に加えて、脂肪を販売する組合すら組織していたのです。警察に摘発された彼らの1人の居室からは、溜め込まれていた2千リットルの人間の脂肪が押収されたのです。別の1人は20リットルと少量でしたが、3人目の男の部屋からは、400キログラムの脂肪の塊が見つかっています。4人目の使用人の棲家からは、二つの陶製の水溜めに漬け込んだ人の脂肪が見つかったのです。この脂肪を、路上を行商して歩く薬売りが、痛み止めの薬にすると言って、買っていたとか、使用人たち自身が、この脂肪を溶かしもせずに、自分の荷車のグリスに使ったりもしていましたが、大量にはエナメル製造人に売られていました。触れ込みは、犬の脂とか馬の脂として、売られていたのです。そして、何と言っても最大の用途先は、樹脂を混合して固くした人の脂肪を使って、祝賀用のイルミネーションのための大量のカンテラとなったのです。それは医学校にほど近い食料品店や洋品店をも飾り、さらに医学校自身やリュクサンブール宮殿をすら、イルミネーションとして飾っていたのです。 続く
2009.02.10
コメント(14)
全73件 (73件中 1-50件目)

![]()
![]()