全87件 (87件中 1-50件目)
宗教改革よもやま話 (49)実は、ネーデルランドの独立戦争は、フランスのユグノー戦争の終結後も続き、途中1609年~20年まで、11年間の休戦を挟んで、1648年まで続きます。この間、スペインは、フランスの戦争に介入したり、イングランドとの海戦を演じたりしながら、オスマン帝国との戦いを続け、さらにネーデルランドとの戦いを繰り返したいました。当然戦費が不足したり、軍隊を動かしたりと、スペイン国王の判断で、各地に展開中の軍隊は移動することになります。スペイン陸軍の中でも精鋭が集まった最強部隊として知られる「フランドル軍」は、フランスのユグノー戦争で、カトリック強硬派の形勢が不利になるたびに、フランス戦線へ移動することになったのです。こうしてオランダの独立派は、あと一息の所まで追い詰められながらも、持ちこたえることが出来たのです。そして、1618年、有名なプラハの国王顧問官の投げ出し事件をきっかけに、ドイツ三十年戦争が始まるに至ると、フランドル軍はプラハへと派遣されることになるのです。 続く
2009.07.31
コメント(0)
自民党政治の終焉近し(11) 田中内閣の「日本列島改造論」は、大変なブームを呼びました。日本全体を高速鉄道と高速道路で結び、全国各地に港湾を整備して、日本全国を工業地帯化する壮大なプランでした。実現すれば日本に、太平洋ベルト地帯と呼ばれる表日本と裏日本の差はなくなります。それは新潟3区という(当時)豪雪地帯を地磐とした、政治家田中角栄の原体験に根ざした、渾身の格差是正策だったと、私は考えています。しかし、この計画には無理がありました。それは、田中計画を実現するために必要となるエネルギー量を計算すると、すぐに分かります、列島改造計画を実現するためには、そして実現した暁には、アラブ産原油の過半を日本が輸入することが必要だったからです。列島改造計画を実現するためには、常にペルシャ湾からマラッカ海峡を通って日本までの海路に、延々と原油を満載したタンカーがひしめくように連なっていなければならない。これは現実的ではないという、指摘もありました。今、中国の世界各地での資源アサリが、世界各国から警戒と驚異の目で迎えられていますが、私は「日本列島改造計画」を本気で推進しようとしていた当時の日本も、今の中国を見るような眼で、欧米諸国から見られていたに違いないと思っています。この田中内閣の「日本列島改造論」は、第4次中東戦争をきっかけにして発動されたアラブ石油輸出国機構(OAPEC)による、イスラエルの肩を持つ国には、原油を売らないという宣言に端を発した、第1次オイルショックでした。原油輸入の減少、そして原油価格の急騰は、世界経済を同時不況の波に沈め、日本列島改造計画も、完全に頓挫してしまったのです。残ったのは、狂乱物価と呼ばれた物価の急騰でした。経済は引き締めに向かわざるを得ず、田中人気も急速にしぼむ中、「信濃川河川敷」を巡る田中流錬金術が、いわゆる田中金脈事件として、立花隆の手で暴かれ、進退窮まった田中は、二期目の任期に入って間もなくの74年の11月に、辞職を表明するに至りました。後任には、椎名副総裁の手で、清廉と評判の高かった三木武夫が推挙されたのです。
2009.07.31
コメント(4)
クロニクル 山手線に冷房車登場1970(昭和45)年7月31日来年で40年ですか。今ではあたり前になった通勤電車の冷房。私はもっぱら弱冷房車を利用するよう心がけているくらいです。そんな冷房車。当時は新幹線を中心に、別に特急料金が必要な長距離電車にのみ設置されておりました。乗車時間の短い通勤電車には要らないと考えられていたのですね。関西の事情には疎いので、もしかしたらそちらの方が速いのかもしれませんが、首都圏で最初に冷房車を導入したのは、1968(昭和43)年の京王電鉄でした。新宿から京王八王子や高尾山口に向かう1部の特急(特別料金不要)に設置したのが最初です。この好評を見て、当時の国鉄が山手線に導入を試み、39年前の今日。その第1号が登場したのです。当時の冷房車は新型車輌の1部の電車だけだけでした。私は、赤羽線の板橋駅が最寄り駅で、池袋・新宿間良く利用していましたので、夏場に時たま、冷房車にめぐり合うと、何か得した気分になったものです。今はあたり前になっている、ラッシュ時間帯の女性専用車輌の導入も、京王電鉄が最初に踏み切っています。そういう点では、京王電鉄は通勤電車サービス改革のパイオニアですね。
2009.07.31
コメント(6)
世界経済の現状 (53)世界経済は、、今年に入って、中国経済が復調傾向を示し、中国の旺盛な需要に支えられて、下落の速度が落ちて、ようやく下げ止まりから底這い傾向を見せるようになりました。しかし、これは在庫調整が一巡したこと、不採算部門の切捨てなど、リストラの効果で、生産は回復しなくても、いくばくかの利益が出る体質にすることに成功したからです。これは喜べる現象でしょうか。一将功なって万骨枯る。この諺を私は思い出しています。今は企業の利益の伸びよりも、売り上げが伸びているかを否かに、注目することが大切なように思います。売り上げが伸びているなら、それは雇用の改善に繋がって、消費を刺激することに繋がります。しかし、売り上げ高が伸びなければ、雇用は改善せず、景気は良くはなりません。雇用が改善しない限り、消費は回復しませんから、景気は悪いままの状態が続きます。そのうちに体力の弱い企業は、たまらずダウンし、市場から退場します。当然失業者は増えてしまいます。米国では、対前月比で、新築住宅の販売戸数が上向いたとか、中古住宅の販売も前月比でプラスになったと喜んでいます。しかし、対前年同月比で比べると、なお、マイナスを続けています。雇用情勢が回復に向かわない限り、消費が増えることはまずありえません。だからこそ、白川日銀総裁も、バーナンキFRB議長も、なお慎重な見方を崩さないのです。 続く
2009.07.30
コメント(10)
自民党政治の終焉近し(10)佐藤内閣は、沖縄返還を果たしました。しかし、核抜き本土並み返還という沖縄県民の願いは無視されました。沖縄県民と県民の立場に理解を示す国民をなだめるために、苦し紛れに発表したのが、非核三原則でした、核兵器を作らず・持たず・持ち込ませずの三点です。この持ち込ませずは、米原潜や原子力空母の寄港の際に、核弾頭をどこかで取り外すはずはありませんから、これは言葉の魔術でした。しかし、世界的には非核三原則の効果は絶大でした。ノーベル賞委員会の委員をも感激させ、佐藤前首相はノーベル平和賞を受賞したのですから…。佐藤首相は、米国のヴェトナム戦争を支持し、中国封じ込め政策に積極的に協力して、点数を稼ぎ、変わりに沖縄返還を実現したのです。1971年7月、翌年2月にニクソン大統領が、中国を訪問するとの発表がなされたのです。1ヵ月後、今度は金・ドル交換停止の発表です。沖縄返還を花道にと、佐藤内閣は72年7月まで続きますが、実質的にはこの71年夏の時点で、命運尽きていたのです。米中の雪解け、特に中国の方針転換は、世界を驚かせました。当然日本でも、新首相は佐藤亜流ではダメだ。対中国交を回復出来る日中関係改善派に、政権を委ねる必要がある。こういう判断が働いた総裁選となったのです。この点で、佐藤首相の意中にあった福田赳夫候補は不利でした。そして選挙の結果は、田中角栄候補の圧勝となったのです。田中首相は、1972年の秋に北京に飛んで、周恩来首相と会談、日中の国交回復を実現しました。まるでブルドーザーでした。経済的には『日本列島改造論』を唱えて、日本経済の更なる飛躍を目指したのです。 続く
2009.07.30
コメント(6)
クロニクル 日本プロレスリング協会発足1953(昭和28)年7月30日我々世代にとって、少年の日のヒーローだった力道山をご存知でしょうか。戦争に負けた日本人にとって、四角のリンクの中で、でかくて強そうな白人レスラーと死闘を演じながら、空手チョップで危機を脱してなぎ倒していく力道山は、実に胸のすく気分を味合わせてくれるヒーローでした。テレビ放送は始まっていましたが、まだ家庭への普及は程遠い時代。電気屋さんの店頭や、床屋さんの覗き見など、テレビのあるところは、どこも黒山の人だかりでした。そんな力道山が、日本プロレスリング協会を結成し、記者発表したのが、56年前の今日でした。今思うと、力道山はレスラーであると同時に、プロモーターの資質にも優れていたことが良く分かります。
2009.07.30
コメント(8)
ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(23) 白いドレスとベールは、処女の花嫁の特権だったのですが、質素な花嫁は実用的なドレスを選ばなければなりませんでした。しかし、社会が豊かになるにつれて、金のかかる派手な生活様式が、少しづつミドルクラスの家庭に浸透してきたのです。1859年に、「我々は今、何を着ているのか」と題するエッセイが、『ジ・イングリッシュウーメンズ・ドメスティック・マガジン』誌に掲載されました。この文章を読むと、早くも50年代末というヴィクトリア朝前期の終わりごろに、早くも華美が問題になり始めていたことが理解できます。「服装が華美なことは、不幸なことに今日の主要な特徴の一つです。…… 晴れ着を偏愛して、多くの人々が破産しています。少し前には淑女達は、年に30ポンドで立派に身なりを整えたものですが、今ではガウン1枚作るにも、その金額では十分とはいえません。これまで年に20ポンドで満足してきたミドルクラスの若い女性は、流行についていこうとすると、途方にくれてしまっています。」当時30ポンドといえば、かなりの金額でしたが、それでもガウン1枚作れないというのですから相当贅沢なガウンだろうと想像できます。こうした濫費ムードがミドルクラスの花嫁衣裳一式にも顕れています。同じ雑誌の1861年の記事は、スカートの裾に6段ものフラウンスのつけた明るいブルーのドレスなど、8枚もの贅沢なイヴニングドレスやアフタヌーンドレスを、お洒落な嫁入り衣装の一部としてそして紹介しています。この『ジ・イングリッシュウーメンズ・ドメスティック・マガジン』誌は、勤勉と実用性を重んじる、堅実なミドルクラスの女性たちをターゲットにした雑誌として知られていました。 続く
2009.07.29
コメント(10)
自民党政治の終焉近し(9)財源を巡る自民党の主張を見ていると、既得権として野放図に支出を続けてきた、政・官・財の癒着の部分に、民主党の手でメスを入れられるのが怖くて怖くて仕方がないように見えます。その怨念が、「この大赤字のご時勢に、また赤字を増やすのかよ。財源を示せ」となるのですね。この議論がいかにおかしいかは、昨日記しました。大平さんが、財政再建を唱え、執念の如く一般消費税の導入を唱えて選挙に破れたのが、1979年、今年で丁度30年です。その間、クチで財政再建を唱えながら、100兆円に満たなかった国債残高は、今や800兆円と8倍を超えています。800兆円は大丈夫で、そこからはビタ1文増やしてはいけない根拠は何なのか。自民党はおそらく示せないはずです。民主党はもっと大胆に、財政再建、ザイセイサイケンと何度も叫びながら、不要な箱物を各地に作り、効果の分からぬ補助金をあちこちにつけて、赤字を増やし続けてきた自民党に、財政や財源を語る資質はないと、バッサリと切り捨てれば良いのです。議論を聞いていて、私は幕末の政争を思い出しました。黒船襲来から明治維新まで(1853~68年)15年間の政争です。そこでは、黒船と言う外圧に対抗し、日本の独立を守り抜くには、どのような政府が望ましいかが、一貫して争われました。黒船という未曾有の国難に際しては、今まで、250年余に亘って、大禍なく日本の政治を治めてきた幕府の経験こそが物を言う。だから引き続き幕府が政権を担うべきであるとする佐幕派と、いや長い慣習に覆われ、何事も前例踏襲の幕府政治では新時代に対応できるはずがない。幕府の無為無策が今日の事態を生んだのだ、前例を無視して、新しい事態に備えることが出来る、古いしがらみのない我々薩長中心の倒幕派こそが、権力を握るのに、相応しいのだという争いでした。そして幕末の世論は、圧倒的に倒幕派を支持し、明治政府の誕生を見たことは、ご存知の通りです。薩長連合新政府派への支持は、両派の金庫の中に明らかでした。各地の豪商や豪農は、討幕派への資金提供に積極的に応じたのです。対する幕府の金庫は、空っぽに近い状態でした。人民の支持の点で、幕府の敗北は動かしがたい事実だったのです。それに例えれば、今回はこうなります。財政再建と日本の未来を自民と民主のどちらに託すのかです。10年以上も財政再建を歌いながら、そして「自民党は替わります」とか大きな声で叫びながら、ひたすら赤字を垂れ流し続けた自民党に、再度託していいのか。それとも経験は浅いけれども、古いしがらみがなく、何の躊躇もなくあらゆる既得権に切り込める民主党の若さに賭けるべきなのかです。民主党は、政権をとった暁には、自民党がどれだけ無駄な支出をし続けてきたかを明らかにし、内容によっては、国家と国民に損害を与えたとして、背任容疑で告発することも辞さないとやればいいのです。ここまで明言すると、両者の違いが浮き上がって面白くなります。今までの赤字垂れ流しの責任を追及しながら、新しいプランと今後の対策を練って行くと、その姿勢を国民に示せばよいのです。オタオタせずに頑張って欲しいところですね。 続く
2009.07.29
コメント(6)
クロニクル チャールズ・ダイアナの結婚1981(昭和56)年7月29日ダイアナ元妃がフランスで事故死して、間もなく12年になりますが、28年前の今日は、イギリスのチャールズ皇太子(当時33歳)とスペンサー家の令嬢ダイアナ(当時20歳)との結婚式が行なわれた日です。それはイギリス王家にとって、大変喜ばしい日でした。2人の結婚の翌年には、長男ウィリアム王子が生まれ、さらに2年後の84年には次男のヘンリー王子が誕生するなど、当初の夫婦仲は円満でしたが、13歳の年の差と、2人の生育環境の違いから、次第に不仲となり、1992年には公式に別居、96年には、遂に離婚に至りました。ダイアナ妃の事故死は、その翌年のことでした。
2009.07.29
コメント(12)
宗教改革よもやま話 (48)スペインにとっての不幸は、オスマン帝国の黄金時代に、キリスト教世界とりわけローマ・カトリック世界を代表して、異教徒との戦いに精魂を傾けなければならないことにありました。カルロス1世(=カール5世)は、統治する上で様々な困難を抱えたオーストリア帝国は、息子のフェリペ2世に残さず、スペインから分離して弟のフェルナンドに譲渡する用心深さを見せたのですが、カトリックの都であるウィーンが包囲され、陥落の危機にあるとなると、黙っているわけには行きません。こうしてフェリペ2世は、叔父の危急を救うべく、オスマン帝国との長期に亘る戦いに巻き込まれて行きました。こちらが主な戦いですから、オランダの新教徒の独立運動への対応は、どうしても片手間になります。資金が続かなければ中断もします。それはオランダの新教徒に体制を立て直し、整える時間を与えてしまいます。しかも何度も何度も…。さらに、1562年~98年まで続いた隣国フランスの宗教戦争=ユグノー戦争に対しても、宿敵フランスの弱体化を狙う絶好のチャンスだったにも関わらず、中途半端な介入しか出来なかったのです。ユグノー戦争は、カトリックの国王がカルヴァン派の新教徒ユグノーを弾圧したのに対し、新教徒が反旗を翻して始まった戦争ですが、単純な宗教戦争ではなく、旧貴族(帯剣貴族と言われます)と新貴族(法服貴族と言います)、それに都市のブルジョワ(商工階級)らが絡んで、社会の変化に対応した新しい政治秩序をどう実現するかを巡る争いでした。一応、旧貴族の大部分の支持を集めたカトリック強硬派、国王と母堂のカトリーヌ・メディシスを中心とし、法服貴族の支持を集めるカトリック穏健派、地方のブルジョワの支持を集め、ナヴァル公アンリ(後のアンリ4世)をリーダーに仰ぐユグノー派と分類は出来るのですが、実態は、宗教上の争いに名を借りた政治・社会的対立でした。結果的にカトリック強硬派の貴族達が、フランスの宿敵スペインの力を借りて、支配権を確立しようとしたのが裏目に出て、穏健派とユグノーの同盟を成立させてしまうのです。その上、財政難のスペインは、オランダの新教徒さえ、持て余していたのですから、フランス問題にクビを突っ込みすぎるわけにいかなかったのです。スペインに手を引かれたカトリック強硬派はここに衰え、新教徒のアンリがカトリックに改宗する荒業で、カトリック穏健派をなだめて、王位の継承に成功し、ナントの勅令を発して、地域を限定しての、ユグノーの信仰の自由を保証することで、フランスの宗教戦争は決着を見るのです。 続く
2009.07.28
コメント(4)
自民党政治の終焉近し(8) 佐藤内閣の事跡を辿っている途中ですが、昨今の報道の中に一言しておきたいことがありますので、今日はそちらを記します。昨日民主党のマニフェストが出ました。確かに自民党とは別種のバラマキと見える面もありますが、子育て支援や農家への個別保障政策など、自民党と厚生労働省や農林水産省の癒着の悪弊から、実効ある政策が実施できず、大量の資金が事実上ドブに捨てられてきた政策からすれば、よりマシであることは間違いないように思います。子育て支援は明らかに1歩踏み込んでいますから、これにもう一息規制を緩和して、保育施設を拡充すれば、少子化の流れは改善できるかもしれません。そして何より、農家への個別保障政策は、1930年代の世界恐慌当時から欧州や米国が実施している政策で、効果のほどは実証されている政策です。何故、日本でそうしなかったのか。食糧庁など役人の既得権と、土地改良事業等で地方の土建業界に金をおとすこと(ここは、市・県・国会と保守系議員の票と金の出し所です)に狙いがあったからです。こうして自民党政治との決別が宣言されたことは大きな意味があります。1度個別保障に入れば、農家はその方が有利で、安心して経営に従事できますから、政策転換はその後では不可能になります。そこで、自民党は大慌て、「民主党は財源を考えていない。無責任だ」と誰も彼もが弁じたてています。細田幹事長、麻生首相をはじめ、同じ事を違うクチが話していて、私はつい吹き出してしまいました。まさに笑止千万、これほど語るに落ちた話はありません。なぜなら、自民党の政治は、いままで赤字を垂れ流してきていなかったですかねぇ。初めて財政再建を口にしたのは、1979年の大平首相でした。もう30年も前の話です。それからどれだけの赤字を増やしたのか。知らないはずはないのですが…。財源を無視して赤字を大量に垂れ流したのは、歴代の自民党政府でした。ここ5年をとっても、500兆円から800兆円に赤字を膨らませています。この政府与党に、民主党に対して、「財源を示せ」って言う資格がありますか。ないでしょう。そんなもの。そうした政府・自民党のおかしさを指摘しないマスコミもどうかしていますね。マスコミの批判精神もすっかり錆付いているようですね。 続く
2009.07.28
コメント(12)
クロニクル NHKラジオの受信料廃止を決定1967(昭和42)年7月28日42年前のこの日、NHKはラジオの受信料を廃止することを決定しました。ただし、実際の廃止は翌68年の6月1日からで、同年5月末日をもって、ラジオ受信料はゼロとなりました。当時白黒テレビの契約者数は、ラジオ受信契約者数の96%に達して(カラーTV契約者数は5%程度でした)いましたから、ラジオ受信料をゼロにすることで、NHKが受ける打撃は殆ど無きに等しかったのです。
2009.07.28
コメント(10)
ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(22)再婚する花嫁や非処女の花嫁に限らず、本来なら純白のウエディングドレスを着る事のできる花嫁が、豊かさに関係なく「落ち着いた色物のドレス」で結婚式に臨むケースもありました。それは喪中に結婚する花嫁のケースです。何故。喪中に結婚式をあげたのでしょうか。親や兄弟姉妹の喪中であれば、一般に結婚式は延期されました。 しかし、ヴィクトリア時代のイギリスでは服喪の期間が長く(正式の服喪期間は1年と1日でした)、しかも遠縁の親類縁者に対しても喪に服したので、遠い親戚の喪中に結婚式がぶつかるケースは、決して少なくなかったのです。1871年に結婚した、アルヒナ・トーマス嬢は、白地に薄いグレーのチェックがかかったドレスを着用しています。ドレスにはフランス製の黒玉のボタンと黒のトリミングも施されていました。この黒玉は19世紀の中頃に喪服用の装飾品として、大流行したものでしたから、彼女は念入りにドレスの色だけではなく、装飾品でも喪中であることを示していたのです。ところで、喪に服する期間は未亡人が最も長く、正式服喪期間の1年と1日は、黒ちりめんのドレスに「未亡人の帽子」などに身を包んで、家に引き篭もって過ごします。その後少しづつ喪服を略式にして行き、2年でようやく喪が明けるのです。こうして黒は未亡人と深く結びついていたのですが、再婚の時には黒は着ませんでした。結婚式は幸せを願う儀式です。ですから悲しみを表す黒は、相応しくなかったのです。それに黒は喪服の色ですから、再婚の時に前夫を追悼していたのでは、お相手に対して失礼になるからです。ここで、昨日の(21)に引用したジェファソンに戻りましょう。彼の語り口から、再婚の花嫁が、処女の花嫁とドレスの色、ベール、花飾りなどで、区別されていることは明白です。他の人たちも、「再婚の時は、処女のベールではなく、ボネットを被るのが普通です」とし、ベールを被るのは、処女の特権であることを強調しています。 続く
2009.07.27
コメント(12)
自民党政治の終焉近し(7) 池田内閣の「所得倍増政策」は日本経済の高度成長を実現しました。意外に思えるかも知れませんが、日本の貿易収支の黒字体質が定着するのは、実は池田内閣から佐藤内閣に替わる頃からなのです。それまでは、好景気になると、貿易収支の赤字が拡大し、手持ちの外貨が底をつき、それを合図に政府は公定歩合を引き上げて、金融引き締めに転じて景気を冷やし、輸入を減じることで、貿易収支の回復を待ち、一定の成果が出ると、再びアクセルを踏んで景気を刺激していたのです。こうして、池田内閣の登場まで、1950年からの10年間の日本経済は、およそ2年周期の景気循環を続けていたのです。池田首相は、ブレーンを動員して、輸出振興と設備投資の促進を図るために、信託銀行や興銀・長銀などの長期信用銀行の拡充を図って、企業の長期資金の確保に道をつけ、企業に古い設備の更新を促して、国際競争力の強化を促しました。また輸出金融の円滑化のために、日本輸出入銀行を創設して、輸出代金の決済を支援したのです。自らも、フランスのドゴール大統領から「トランジスターのセールスマン」と揶揄されても構わずに、熱心に日本製品の売り込みに勤め、輸出立国への道を切り開きました。1964年に総裁三選を果たしたのですが、「好事魔多し」を地で行った如く、東京オリンピック直後に体調を崩し、11月に病気退陣、後任を三選を争った吉田学校のライヴァル、佐藤栄作に譲ったのでした。佐藤首相は64年11月から、72年7月まで7年8ヶ月の長期政権を担ったのですが、池田前首相の死や、ライヴァルの河野一郎氏の急死にも助けられ、得意の人事の冴えを見せて、田中角栄、福田赳夫、保利耕輔らを競わせて、長期政権を実現しました。しかし、経済政策は池田内閣の政策を微調整して継続するなど、高度経済成長に多分に助けられたのでした。政策の特徴は、むしろ外交面にありました。池田内閣は難しい外交課題は先送りすることで、岸内閣の安保改定を巡って分裂した国論の修復に努めたのに対し、一挙に先送りされた課題を、保守強硬派の路線で解決すべくアクセルを踏んだのです。それが1965年の日韓基本条約の調印、米国の原子力潜水艦の日本寄港の受け入れ(事実上の核持込解禁)、原子力空母の寄港受け入れ、そして中国敵視政策の継続と強化などでした。こうして、米政府への忠勤を励む見返りとして、沖縄の返還に道をつけたのです。 続く
2009.07.27
コメント(4)
クロニクル 栄光の3日間始まる1830(天保元)年7月27日179年前ですね。この日フランスで七月革命が始まりました。僅か3日間で、ブルボン復古王政を吹き飛ばしましたので、栄光の3日間と呼ばれました。フランスでは、ナポレオンの支配が崩れた後、フランス革命で刑死したルイ16世の弟が諸外国の力で王位に就きましたが、所詮国民の支持はなく、外国の占領に比べればまだ我慢できるとされていましたが、ルイ16世の末弟シャルル10世は、そうしたフランス社会の動向への理解力を欠き、王権の強化を目指したため、この日遂に国民の怒りが爆発し、革命を誘発してしまったのです。始まってしまえば、王権への支持はごく一部に留まり、僅か2日半の抵抗で、あっけなく瓦解してしまったのです。なお、七月革命は、ドラクロワの名作「民衆を導く自由の女神」を生み、とベルリオーズを世に出したことでも知られます。
2009.07.27
コメント(16)
ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(21)ヴィクトリア時代のイギリスでは、白いドレスと手織りレースのべーるは、ミドルクラスにとって憧れの的、まさに階級的上昇のステイタスシンボルでした。それだけに、白いドレスやレースのベールを被ることが容認されるルールは、かなり厳しかったのです。どんなに社会的地位が高くても、再婚する花嫁や処女ではない花嫁は、白いドレスを着たり、ベールはを被ったりしてはならないとされていたのです。ジョン・デファーソンは、その著『ブライド・アンド・ブライダルズ』において、再婚の花嫁に、次のようにアドヴァイスしています。「未亡人が再婚する時は、落ち着いた色か暗褐色のシルクをお召しになれば、批判されることはありません。再婚する地位の高いレディのドレスには、黒以外の色なら、どんな色でも白より相応しいです。また、処女の花嫁のように花飾りやベールを付ける権利はないと、主張する人が多いことを、知っておく必要があります。」と。 続く
2009.07.26
コメント(12)
クロニクル イラク特措法成立2003(平成15)年7月26日6年前のこの日未明、国会でイラク特措法が可決成立しました。この法の正式名称は、「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」という、やたらに長い名がついています。法律名から明らかな通り、目的は日戦闘地域における人道支援となっているのですが、要するに自衛隊の海外派兵、それも実際に戦闘が行なわれている国に派兵するための法律でした。そのため、国会でも、戦闘地域と非戦闘地域との区分が大問題となり、時の小泉純一郎首相は、「自衛隊がいるところが非戦闘地域である」とか、「どこが戦闘地域かなど私に分かるわけがない」という答弁を行なって、物議を醸しました。この法は4年間の時限立法だったため、07年3月に2ヵ年延長され、今年で廃止となりました。実際に自衛隊が戦争状態にある国へ、米国と言う戦争の一方の当時者を支持して加わったのですから、アラブ地域などで、欧米とは一線を画した近代国家として、一定の信頼を得ていた日本の評判が、大きく崩れてしまったことも、事実です。
2009.07.26
コメント(6)
自民党政治の終焉近し(6)池田内閣は、岸内閣の姿勢一転、「寛容とに忍耐」をスローガンにし、外交上の懸案は先送りにして、経済の季節の国民を誘導することに、全力をあげました。この狙いは、所得倍増政策を打ち出すことで、見事に成功しました。この政策は、10年間で国民総生産(GNP)を2倍にするというもので、個々人の所得を2倍にすることを、約束したものではありませんでした(GNPを総人口で割ったものが、1人当たり国民所得です)。言うなれば平均すれば、1人当たり国民所得は2倍になりますと、宣言したものだったのです。しかし、国民の多くは、所得倍増政策=月給2倍政策と受け止めたのです。これは明らかに誤解でした。しかし、モクモクと額の汗を拭いながら、明日の暮らしがよくなることを願いながら、働き続けてきた勤勉な日本人は、自らの勤勉の先に明るい太陽が微笑みを浮かべて待っていることを、この政策の表明によって、確信したのです。現在の経済見通しは、実にパッとしないものです。それどころか、気の滅入るような数字が並びますから、国民の財布のヒモが緩むことは、先ずありません。逆に所得倍増政策の発表時は、ばら色の将来が待っていると、皆が確信したのです。当然財布のヒモは緩みます。折から、1960年前後は、白黒テレビ、洗濯機(まだ脱水装置はついていません)、2ドア式冷蔵庫が3種の神器と呼ばれてた時期でした。折から誕生したばかりの月賦販売は、好調なボーナスや、4月の定期昇給まで、しばし苦しい支払いを我慢すれば何とかなると、比較的所得の低い層の財布の紐まで緩めたのです。そして、電機炊飯器、電機掃除機、電気洗濯機、電機冷蔵庫の存在は、主婦労働を劇的に軽減することに繋がりました。即ち、日中の主婦にかなりの自由時間を齎したのです。勤勉な主婦は、この時間にパートに出ることを決断します。国民の財布のヒモが緩んで、好調な売れ行きを誇る家電業界は、主婦のパートを採用することで、不足する労働力をカヴァーして、生産の拡大に励みました。家計の収入はさらに増加したのです。新卒社員の採用計画も、どの社も前年比で増加します。当然新卒初任給は、前年よりあげざるを得ません。となると、釣り合い上、入社2年目以上の給与も定昇以上に引き上げざるを得ません。全てが良い方へ良い方へと、何をやってもうまく行ったのが、この時代でした。極めつけは、ここに64年に東京で開かれることになっていた、オリンピック特需が加わったことでした。 続く
2009.07.25
コメント(6)
世界経済の現状 (52)アリコジャパンで、顧客のクレジットカード番号の流出が起きました。顧客情報の中でも、最も厳重な管理が要請されるクレジットカード番号の流出。これは生保という金融商品を扱う企業にとっては、致命的な事故であり、信用失墜は決定的でしょう。盗んだカード番号を使用してネットで買い物。カードの所有者が「覚えがない」と照会したことで、1千件もの登用が明らかになりました。流出したカード番号は11万件強に達することも明らかになりました。マスコミはアリコ社の発表として、調査中としているようですが、私は、9分9厘内部からの流出だろうと見ています。アリコは米国で破綻し、政府支援で辛うじて呼吸しているAIGグループの一員です。AIGは日本で成功したアリコを、できるだけ高く売却しようとしてきました。出きるだけ安く買いたい買い手と、高く売りたいAIGのせめぎ合いで、いまだに売却先が決まらずにいました。必要経費を抑えたい会社側は、当然社員のリストラを行いますし、社員にすると、身売り先が決まらず、自分がどうなるかも分からないのですから、不安感も募ります。当然士気は下がります。退職した社員が行きがけの駄賃とばかりに、顧客情報を持ち出したり、社員がバイト代わりに横流ししたりした可能性は高いように思います。さて、その結果どうなるか。信用の失墜したアリコを、高値で買おうとする会社はもはや出ないでしょう。売却先の決定を先送りすることで、アリコの売却価格を吊り上げようとしたAIGの戦略は、完全に頓挫したことになります。数回前にAIGは、再度の危機に直面している旨を記しましたが、アリコの企業価値の急落=売却価格の急落で、再編戦略にさらに大きな暗雲がかかってきたことになります。まさにAIGにとって、「弱り目に祟り目」の事態となりました。米国流のドライな雇用関係の弱い面が、まさに露出した出来事だったように思います。 続く
2009.07.25
コメント(12)
クロニクル 初の試験管ベビー誕生1978(昭和53)年7月25日この日生まれたた女の子、ルイーズ・ブラウンは、今日が31歳の誕生日になるのですね。母となって、お子さんを育てながら、郵便局で働いているそうです。父ジョンと母レズリーは、9年間子が出来ず、婦人科医の診断を受けたところ。レズリーの卵管に異常があり、自然妊娠は不可能と診断されました。そこで、2人はケンブリッジ大学のエドワーズ教授らが研究中の体外受精に望みを託しました。前年11月10日に母から採取され、直ちに受精された受精卵は、2日半後に母の子宮に戻されて順調に成長、この日午前11時半過ぎ、元気な赤ちゃんが誕生しました。ルイーズは2004年に結婚、06年に元気な男の子を出産していますが、ルイーズの妹ナタリーも体外受精で生まれています。このナタリーは、ルイーズより早く1999年に元気な女の子を出産しており、体外受精で生まれた女性は、元気な赤ちゃんを産むことが出来ないとする、根強かった懸念を一掃しています。
2009.07.24
コメント(6)
自民党政治の終焉近し(5) 自民党初代の鳩山首相は、日ソ国交回復を成し遂げて1956年末に辞任。実弾も乱れ飛んだ三つ巴の総裁選は、本命の岸候補を制して、石橋湛山総裁が誕生。石橋首相となったのですが、体調を崩して惜しくも3か月で辞任。岸信介首相が誕生します。1957年2月のことでした。彼が、安保条約の改訂をまとめたのですが、この国会審議が大揉めに揉めたのです。日本がアメリカのせいで、再び戦争に巻き込まれるのではないかと…。戦後15年弱。まだまだ国民に戦争アレルギーが強く、反戦・平和の主張には、強い共感が寄せられたのです。その結果、安保改訂反対闘争は、戦後最大の反政府運動となりました。自民党は60年5月19日、衆議院で強行採決。この行為が民主主義の否定に通じるとして、さらに反対運動を強める結果と成り、結局、岸首相は安保改定を花道に辞職することを条件に、ようやく党内の支持を取り付け、6月19日、改訂安保条約は参院で議決しないまま、自然承認されたのです。岸首相、在任3年5ヶ月。続いて、吉田学校の優等生、所得倍増政策でお馴染みの池田勇人首相が登板したのです。 続く
2009.07.24
コメント(8)
宗教改革よもやま話 (47) オランダの新教徒(カルヴァン派のゴイセンです)が独立戦争を始めた頃、フランスでもユグノー戦争(1562~98年)が始まっていました。この戦争のことは、後で記しますが、大国スペインからの独立を目指す、小さなオランダの新教徒を、ユグノー(フランスのカルヴァン派)たちは、背後で支援していました。そして、オランダ独立戦争の指導者オラニエ公ウィレムは、あろう事かフランスの仲介を得て、異教徒のオスマン帝国とも密かによしみを通じて、スペインに対抗しようとしていたのです。そのスペイン陸軍に対する、オランダ側の強力な武器となったのが、各地のダム(堤防)の堰を切って、あたりを水と泥の湿地帯に変えてしまうことでした。泥湿地に足を取られたスペイン軍は、機動性を発揮できません。そこをオランダ側に急襲されて、大きな損害を何度も受けました。それでも、資金難さえ解決すれば、オランダの独立は陽の目を見なかったでしょう。1588年のイギリスとの海戦にスペインの無敵艦隊が油断から敗れたと言っても、資金難さえ解決すれば、再戦によって名誉を挽回することも、十分可能だったのです。フェリペに資金がなかったのが、イギリスにもオランダにも幸いしたのです。結果として、オランダの新教徒は独立を達成できたのです。スペインの財政難が皮肉なことにオランダの独立を助けたのです。 続く
2009.07.24
コメント(0)
クロニクル 児島明子さんミス・ユニバースに1959(昭和34)年7月24日丁度あれから50年ですか。アメリカカリフォルニア州のロング・ビーチで開かれた第8回ミス・ユニバース・コンテストにおいて、日本代表の児島明子さんが、見事ミス・ユニバースに選ばれ、優勝しました。欧米人優位のミス・ユニバース・コンテストで、1953年の第2回大会で3位入賞した伊東絹子さんの成績を上回るグランプリの獲得に日本中が沸きました。なにしろ、日本としてだけでなく、アジアとして初めてのグランプリだったのですから。児島さんの出身地の熊本では、10月の彼女の訪問に合わせ、最寄町での街宣パレードまで行なわれる騒ぎとなりました。なお、1昨年2007年の大会において、久し振りに日本人の森理世さんが、児島さん以来48年振りで、グランプリに輝きました。
2009.07.24
コメント(12)
自民党政治の終焉近し(4) ここで、自民党政治を振り返ってみましょう。誕生は1955(昭和30)年、私の中学校1年の時でした。この年左右に分裂していた社会党も統一して、単一の日本社会党になっていましたから、吉田自由党と鳩山民主党の合併による保守合同で、自由民主党が誕生、ここに自社対立の55年体制が確立しました。この体制は、不可思議な1,5大政党制でした。自民党は結党目標に憲法改正を掲げ、特に9条を廃止と自前の軍事力の構築を目指し、3分の2の議席確保を目指しました。これに対し社会党は憲法改正阻止を党是に、3ぶんの1議席の死守を目指したのです。政権交代を目指さないが、平和を目指す勢力として、一定の支持と人気を集めた社会党の存在は、実は政権政党の自民党にとっても、大変都合のよいものでした。自民党の前身である自由党や民主党にとっても、実は9条のしばりによって、軍備拡大に大きな制限のある現実は、実は金食い虫である国防費に、あまり予算を振り向けなくてよいという利点があったからです。当然その分は、経済対策に潤沢に予算を投じることが出来るからです。野党や世論の反発を口実に、米国からの軍事力増大圧力をかわす。そんな方法は、実は吉田自由党内閣の時代から、続けられていたのです。米国もまたそれならばと、日米安全保障条約によって、日本国内の基地が自由に利用できるなら、しばらくはそれでよいとして、経済復興一辺倒に傾く自民党政府の方向を黙認していたのです。社会党の存在は、もう一つの面、即ち国際政治の面でも好都合でした。当時は米ソ冷戦の時代です。対米同盟一辺倒の自民党政府と、ソ連や中国との関係は、当然冷え切ったままとなります。しかし、その中ソとの関係が完全に切れてしまわなかったのは、平和勢力として、与党に3分の2を渡すことになかった野党、とりわけ社会党の存在と、国民世論の存在にありました。日本政府は信頼できないが、その日本政府と敢然と対立する平和勢力、野党や日本国民とは仲良くできる。中ソはそう考えます。ですから自民党政府は、苦手科目の中ソ関係を野党や民間に委ねて、一定以上の悪化を食い止め、緊張関係の激化を防いでいたのです。これが55年体制の意味でした。 続く
2009.07.23
コメント(4)
ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(20)ヴィクトリア朝も中期に入ると、まだデパートまでは行かないのですが、大型洋品店が登場します。ここでは、材料一式から仕立てまでが可能なのです。こうした大型店の一部には、定期的にバーゲンを実施する店も出てきます。ロンドンのオックスフォード・ストリートに店を構えたピーター・ロビンソン商会が、良く知られています。ある雑誌は、この大型店は「つつましい客も、裕福な客と同様に、丁重に扱ってくれる。」と紹介していますから、誰もがプライドを傷つけられることもなく、バーゲン品を漁ることが出来たのです。また別の雑誌は、「ピーター・ロビンソンのような一流店でのバーゲンは、良い品を必要とするけれども、新製品をいち早く手に入れようとは考えていない人たちに、大変な人気となっています」と、読者にベーゲン時の買い物を勧めています。質素な花嫁達にとって、バーゲンでの品揃えという、新しい選択肢が一つ増えたのでした。次回から、白のドレスとベールに関する、当時のマナーを紹介させていただきます。 ザビ
2009.07.23
コメント(2)
クロニクル メガワティ大統領就任2001(平成13)年7月23日8年前のこの日、インドネシアでメガワティ氏が大統領に就任しました。メガワティ氏は、インドネシアの建国の父、スカルノ初代大統領の長女で、98年のスハルト独裁体制の崩壊後、副大統領を務めていました。人気は高かったのですが、政治的手腕はさほどなく、次第に国民は離れて、95年選挙では、ユドヨノ候補に大差で敗れました。
2009.07.23
コメント(8)
自民党政治の終焉近し(3) さて、そのロマノフ王朝ですが、第一次世界大戦中の1917年2月に、ロシアの二月革命によってあっけなく倒れてしまいます。(ロシアの話なので、ここではロシア暦を用いています。ロシア暦に13を加えると西暦になり、西暦から13を引くとロシア暦になります)当時のロシアは、ツァーリ即ちニコライ2世の専制でしたが、優秀な人材を登用することもなく、家柄やツァーリ一族との縁故関係によって、軍幹部や高級官僚の地位を与えられており、危機管理能力に大きく欠けておりました。皇太子の血友病の治療に貢献したとの理由で、出自の卑しいラスプーチンが重用され、人事への発言権を持ったことなどもその一例です。そのため、大戦が予想を大きく超えた長期戦となり、国の総力を傾けた持久戦になると、挙国一致体制を構築して、強力な指導者の下に一致結束することが必要になります。ツァーリ専制のロシアは、ニコライ2世その人に強力な指導力があり、優秀な官僚を指揮、督促して事に当たるなら、最も速く総力戦体制を作れたはずでした。しかし、能力と無関係に家柄だけで選ばれた無能な官僚や軍人では、そうは行きません。首都の労働者階級に十分なパンが無く、前線では銃弾や兵器が不足しているのに、工場には原料が到着しない。そんな状態が16年の秋から現れていました。こんなツアーリの下では、戦争の勝利はおぼつかない。戦争に勝てる政府を作るには、ツァーリにおやめいただくしかない。軍幹部と国会の自由主義者の考えは一致し、行動に移りました。時を同じくして、兵士や労働者も動き出しました。前線でただ対峙するだけの兵士は、戦争をやめて郷里へ帰ることを望み、労働者は日々のパンと仕事を望んだのです。彼らはソヴィエトに結集して、パンと平和を合言葉に、戦争の中止を求めました。戦勝を求める軍幹部とブルジョワの動き、パンと平和を求める労働者と兵士の動きが、同時進行で1917年2月のロシアで起きたのです。自らの退位と皇太子への譲位を求められたニコライ2世は、前線の将軍達の意見を求め、一致して退位を勧められるに至って、さすがに事態を悟ります。この点は麻生さんより少しマシですかね? ところが彼が次のツァーリに指名したのは、息子の皇太子ではなく、摂政に予定されていた弟にあたるミハイル大公だったのです。人民の反乱まで起きている危険な事態に、病弱な幼い息子(当時12歳)に譲位するわけにはいかないというのです。なれないはずの最高権力が飛び込んでくるのです。実力もないのに、竹下後継に指名された、あの宇野宗佑ですら、大いに舞い上がって大喜びで引き受けて、ミソをつけたのは、皆さんもご記憶でしょう。ところが、ミハイル大公は、こんな危険なときにツァーリの地位なんて、誰が引き受けるかと逃げてしまったのです。結果はどうなったか。当時労働者や兵士によるソヴィエトの活動は、急ピッチで組織化が進められていましたが、そのソヴィエトすら「帝政廃止」とは、まだ一言も発していなかったのです。まして、軍幹部やブルジョワは、立憲君主制への移行を求めたのであって、帝政の廃止は、全く望んでいなかったのです。1917年の2月のロシアでは、誰も帝政の廃止など求めていなかったのです。にもかかわらず、退位したニコライ2世の後を引き受け、帝政を立て直そうとする気概を持った人物が1人もいないという、なんとも信じがたいあっけなさで、ロマノフ王朝は自壊してしまったのです。なんだかなぁですね。小渕さんの後を継いだ森さんから、明らかに総理の器が軽くなっていました。小泉さんという変人首相を除いて…。そして安倍、福田、麻生と総理を務める覚悟の点で、明らかに軽過ぎたトリオの後には、遂に総理に伍すべき玉を選べなかったどこかの政党。終わりはこういう形でやってくるのかも知れませんね。 続く
2009.07.22
コメント(10)
世界経済の現状 (51) アメリカの金融サービスグループ、CITの危機が指摘されています。債権者団体から30億ドルの資金が調達できて、20日の破産法申請は免れたようですが、以前危機は継続しています。この事実には、思わず絶句しました。米国の金融機関のモラルハザードもここまで来たかと、呆れたからです。同社は、「政府融資が受けられなければ、20日には破産法の適用を申請しなければならない」として、連邦預金保険公社(FDIC)に公的資金による支援を要請し、却下されていたからです。政府の支援が受けられれば信用が増します。ウチぐらい大きければ、政府も「大きすぎて潰せない」と考えてくれるだろう。これがCIT幹部の狙いだったのでしょう。見事に失敗しました。もしFDICが同社を支援していたら、どうなったでしょう。おそらく我も我もと金融機関は無理なアクセルを踏み続け、巨大化を目指したでしょう。そうなれば、どうせ政府の支援が受けられるのだからと、野放図にリスクをとり続け、再び巨大な金融危機を生み出しかねません。ですから、CITの申し出を、FDICが拒否したのは、賢明な選択でした。さて、CITです。FDICに支援を拒否されてから、債権者団と交渉し、前述した30億ドルの融資を取り付けたのです。これでは「融資を受けられなければ、倒産するしかありません」とした政府への申請は、虚偽申請だったことになります。アメリカの金融界のモラルハザードはここまで来ています。腐っていますね。そして21日付けのロイター電によれば、CITは、8月17日に満期が来る同社の変動利付き優先債について、元本の82,5%で買い取る旨の公開買い付けを7月31日を期限に、開始したそうです。ロイターによれば、CITはこの公開買い付けが失敗した場合、連邦破産法の適用申請に追い込まれる可能性があると、話しているようです。またロイターによれば、同社は2009年第2四半期の損失が、15億ドルを超えていることを明らかにし、その原因として、2007年に始まったクレジット市場の混乱が、09年代、第1,第2四半期に、著しく悪化したことをあげていると、記しています。クレジットの破綻がいよいよ本格化しつつあるようエスローンの焦げ付きの拡大、住宅価格の低下の継続は、確実に中流階級の購買力、信用力を蝕み、それが遂にクレジットカードにも及んできた。金融危機はそう簡単には、去ってくれないようです。 続く
2009.07.22
コメント(6)
クロニクル 魚津で米騒動始まる1918(大正7)年7月22日第一次世界大戦末期の1918年の今日の話です。今日のように不景気だったわけではありません。第一次世界大戦は、本質的にヨーロッパの戦争でした。そのため、漁夫の利を得たアメリカと日本の経済は大いに潤ったのです。しかし、工業の好調は、都市の工場や鉱山に向かっての農業労働力の流出を招き、コメの生産は不足気味になっていたのです。そこへ、ロシアの革命への干渉戦争が組織され、日本軍も急遽シベリアへ大軍を送ることになったのです。出兵計画が明らかになると、米価の値上がりを見込んだコメ商人の買占めが始まり。米価の高騰を呼んだのです。コメ不足と米価の高騰に不安を感じた人々は、きっかけさえあれば、実力行動に立ち上がる、そんな雰囲気が強まっていたのです。そこへこの日、1918年の7月22日の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うために「伊吹丸」が寄航。伊吹丸への荷積みを行っていた十二銀行の倉庫前へ魚津町の主婦らが集まり、米の船積みを中止し、住民に販売するよう求める。この時は巡回中の警官によって解散させられたが、住民らは集会をはじめるなど、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月3日には中新川郡西水橋町で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう要求したのです。これが、名高い米騒動の発端でした。8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となったのです。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させることに成功したのです。この件は地方新聞を通じ、全国の新聞に「越中女一揆」として報道されました。米騒動は、こうして始まったのです。この事件が都市の庶民を刺激し、以後東京、大阪などの大都市圏での住民の実力行動に繋がりました。
2009.07.22
コメント(6)

自民党政治の終焉近し(2)遂に衆議院が解散となりました。2年前の参院選で参院では野党が多数派となり、衆参のねじれが現実化して以来、ねじれの解消のために早期の衆院解散が望まれたにも関わらず、衆院で与党が3分の2超えという絶対多数を保持していたため、本来行なうべき早期解散を行なわず、ここまでズルズルと来ていました。3分の2超という議席を与党が確保できていなければ、間違いなく解散は参院選あった2007年の秋から冬にかけて行なわれていたでしょう。衆院での再可決(3分の2以上の賛成が必要)という切り札を切ることが出来なければ、大連立を組むか、解散するかしか手がないのですから…。小泉郵政解散の劇場型選挙と言う、眼くらましに見事に1本取られた結果が、2年に及ぶ国政の停滞に見事に繋がってしまったのですね。ようやく、自民党丸の沈没の光景を、見ることができるかと思うと少々ワクワクしています。1917年、第1次世界大戦の最中にロシアに革命が起き、ピョートル大帝やエカチェリーナ2生世といった名君を輩出したロマノフ王朝が、あっけなく倒壊、ロシア帝政は消滅してしまいました。先ずはそのいきさつを簡単に辿っておきましょう。この点は、1昨年の11月から昨年の春にかけて、第一次世界大戦について連載しました時に、少し触れています(フリーページにアップしてあります)ので、お急ぎの方はそちらをご覧下さい。当時のロシア皇帝はニコライ2世。皇太子当時に日本を訪問、大津事件で狙撃されたのも彼でした。夫人のアレクサンドラはドイツのヘッセン大公の令嬢で、現在連載中のヴィクトリア女王の孫娘にあたります。皇太子のアレクセイ坊ちゃまが血友病だったことが、良く知られていますが、この血友病の遺伝子は、曾祖母のヴィクトリアが持っていたものが、曾孫にあたるロシアの皇太子のところで、現実の病として顕在化したものでした。写真はニコライ2世夫妻(中央)と4人の娘と末っ子の皇太子です。 続く
2009.07.21
コメント(16)
宗教改革よもやま話 (46) 当時のスペインは、ヨーロッパ最大の金持ちでした。「新大陸」との交易をほぼ独占し、占領したペルーやメキシコから大量の銀が入ってきたからです。ですからこう書くと、皆さん不振に思われると思いますが、それにも関わらずフェリペ2世は常に金繰りに腐心していました。戦費の負担が重くのしかかっていたのです。いつの時代でも戦争は大変な金食いムシでした。当時のヨーロッパの財政担当者の言に、「大きな軍事作戦を1回取りやめれば、立派な宮殿の2つ3つは楽に建てられる」と言うのがあります。これが戦争の現実でした。父王カルロス1世の死によって、1556年にフェリペ2世がスペイン王位についたとき、この先5年分の国庫収入の全てが、借金の担保に入っていることを知って、驚愕した記録が残っています。今のアメリカや日本の財政事情よりはるかに悪い状態です。そこでフェリペ2世は、即位の翌年に、王室の破産宣告を出して、債務整理を断行しています。実は当時(16世紀後半)のヨーロッパで健全財政を維持していたのは、エリザベス1世のイングランドだけでした。彼女はトビキリの節約家でしたし、何より借金が大嫌いでしたから、税収の範囲に歳出を抑えることを、何よりも重視したのです。そのエリザベスのイングランドの税収は、スペインの五分の一しかありませんでした。ところで、フェリペ2世の戦争は、やむことなく続いておりました。前世紀から続いたフランスとの因縁の対決、イタリア戦争(これがカルロス1世の金庫に大赤字を残した原因です)こそ、1559年に終結しましたが、この頃から、オスマン帝国の地中海での活動が活発化し、北アフリカの西部海岸一帯を根拠地に、カスティリャ南岸への襲撃を繰り返していたのです。こうしてフェリペ2世は、劣勢を挽回するために海軍を強化して、地中海での本格的な軍事行動を展開する必要に迫られたのでした。オランダの新教徒が独立戦争に打って出たのは、こうした時だったのです。 続く
2009.07.21
コメント(0)
クロニクル 明石市花火大会歩道橋事故発生2001(平成13)年7月21日まだ、記憶に新しい所ですが、8年前のこの日、明石市の海岸での花火大会の見物客を襲った大惨事が発生しました。前日の7月20日より、明石市の大蔵海岸にて第32回明石市民夏まつり花火大会が開かれました。この催しの2日目となる21日の午後8時半頃、西日本旅客鉄道(JR西日本)朝霧駅南側の歩道橋において、駅方面からの見物客と会場方面から戻る見物客とが合流する南端で1平米あたり13人から15人という異常な混雑が生じたために、「群衆雪崩」が発生。死者11名(内訳:1歳未満9名・70歳以上2名)と重軽傷者247名を出す大惨事となったのです。事故後、警察の対応や警備計画の問題点が次々と浮き彫りされました。それによると、2000年12月31日に行われた世紀越えカウントダウン花火大会のときにも、同じような滞留が起きていたというのです。このときにも軽傷者が出ていたのですが、この問題点が全く生かされていませんでした。 また、明石市、兵庫県警察(明石警察署)、警備会社のニシカン(現エヌ・ケイ・セキュリティ)との間で事前の警備計画の協議が不十分だったことも明らかにされました。特に警備計画は、問題の多かった世紀越えイベントの警備計画を、丸写しにしたお粗末なものだったにも関わらず、県警からは何の改善命令も出されなかったのです。この事件後、明石市民夏まつり花火大会は中止され、今日に至っています。
2009.07.21
コメント(8)
自民党政治の終焉近し(1)解散総選挙は、どうやら8月30日で決まりですね。遅きに失しました。この期に及んでの自民党の泥仕合は、幕末の混乱の中での幕僚の右往左往を思わせます。反麻生派のこの期に及んでの麻生降ろしにも呆れましたが、最終的に麻生降しがずっこけた理由は、担ぐべき玉がいない、即ち総裁候補がいなかったというのですから、これは断末魔のあがき以外の何ものでもありません。麻生支持派も、堂々と両院議員総会を開けばよいものを、何を警戒したのか懇談会に切り替えると、水鳥の羽音に驚いた平家のようなあわて振りです。これも、あーあといった印象しかありません。まさしく、滅びの時に入ったのでしょうか。実を言うと古来、長期に栄華を誇った権力の末路は、いずれもこんなものかと拍子抜けするほど、あっけないのです。総選挙まで、まだ1ヶ月少々ありますので、タイトルは生々しいですが、4本目の連載として、いくつかの権力の末路を紹介していきたいと思います。これは、乞うご期待です。 続く
2009.07.20
コメント(14)
ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(19)ウエディングドレスに限りませんが、当時は既製服はありませんから、ドレスを作る場合にもうひとつ頭を悩ませるのが、どの店で生地を買い、どの店で仕立ててもらうかも、ステイタスにかかわる問題でした。デパートの誕生は、ヴィクトリア朝中期の後半、その隆盛はヴィクトリア朝後期のことでしたから、それまでは、女性たちは生地やトリミングなどを、夫々の専門店で買い、それを仕立て屋に持参して、仕立てさせていたのです。当然、それなりの時間と費用がかかったのですが、客達は当然のように、自らの属する社会階層に応じて、出かける店を選んでいました。当時の雑誌記事は、どこも仕立て屋のランクを4段階に分けていました。それによると、「一流店」は宮廷や大貴族の邸宅でのパーティ用ドレスの専門店で、主に貴族と1部の大地主が愛用する店でした。ここは紹介のない新規顧客の注文は受けないのが普通で、そのことで店の評判を保っていたのです。「二流店」は「一流店」クラブに入れないジェントリー層と、アッパーミドルの1部といった裕福な顧客を持つ店でした。「三流店」は一般のミドルクラスを、そして「四流店」は下層のミドルクラス、小商人や親方職人の妻達が出入りする店でした。三流店と四流店の違いは、仕立てるシルクドレスと綿ドレスの違いにあると、説明している雑誌もありました。こうした仕立て屋は、店構えから違っていました。「一流店」は貴族の館のような雰囲気で、自家用馬車の客しかやってきません。馬車が店の前に乗り付けると、ドアマンが御者より先に、馬車の扉を開き、さっと店内に案内します。店内では、最新ファッションに身を包んだフランス人の店員が、あれこれとかしづいてくれます。四流店は極めて庶民的で、客と店員や主人は、まるで友達のような口を聞きあっていましたし、そういう雰囲気に相応しく店内も庶民的だったとされています。 続く
2009.07.20
コメント(12)
クロニクル 沖縄海洋博開幕1975(昭和50)年7月20日1972年の沖縄の本土復帰を記念する記念事業として計画され、3年の準備の上に、沖縄国際海洋博覧会(略称、沖縄海洋博)がこの日開幕しました。会場は、沖縄県国頭郡本部町で183日間の会期(1975年7月20日 - 1976年1月18日)でした「海-その望ましい未来」をテーマとし、日本を含む36ヶ国と三つの国際機関が参加しました。期間中は県内の至る所に「めんそーれ沖縄」と書かれた歓迎の垂れ幕類が立っていたのが、印象的だったと聞いています。しかし、入場者数450万人が目標とされたのに対し、最終的な入場者数は約349万人にとどまりました。このため、海洋博をあてこんでさまざまな商売を目論んだ人たちは、大きく落胆することになりました。また、海洋博に合わせて行なわれた開発は、赤土の海への流出を招き、サンゴ礁に被害を与えるという海洋汚染も引き起こしました。
2009.07.20
コメント(4)
クロニクル 二千円札発行2000(平成12)年7月19日9年前です。当時の小渕首相が西暦2000年に因んでと、発行を予告していた二千円札が、この日発行されました。表面には、沖縄サミットに因んでと、デザインされた守礼門が印刷されていましたが、そのサミットの開幕を2日後の21日に控えてのことでした。その小渕首相は4月に脳梗塞に倒れ、帰らぬ人となっていました。その二千円札この頃見かけませんね。沖縄では比較的流通していると聞いた時期もありましたが、今でも流通しているのでしょうか。
2009.07.19
コメント(20)
世界経済の現状 (50)米国の株式市場がこのところ好調です。ゴールドマン・サックス(GS),JPモルガン・チェース(JP)、シティグループ、バンク・オブ・アメリカ(バンカメ)といった大手金融機関の好調な決算が、市場の安心感を誘ったことが大きいようです。しかし、私の見たところ、GSやJPといった投資業務に強い好調組と、証券化商品や消費やローンといった不良資産を、なお大量に抱えるシティやバンカメの決算は、かなりの質的差異を持っているように思われます。本日の新聞記事を頼りに分析してみましょう。シティの黒字を良く見ると、本業の赤字を子会社の売却益で埋めたことが良く分かります。子会社だったスミス・バーニーの売却益が111億ドル計上されているからです。この売却益で、証券化商品の損失などを賄って、42億7900万ドルを計上したのです。売却益がなければ、まさに赤字決算でした。その上、シティの今後を占う意味で大きいのは、将来の融資の焦げ付きに備える貸し倒れ引当金を127億ドルも積み立てていることです。この数字は、前年同期比で79%も増加しています。住宅価格が相変わらず下げ止まらず、そればかりか商業用不動産価格も、ここへ来て値崩れが激しくなっているからです。 バンカメはどうでしょうか。バンカメも32億ドル強の黒字を計上しています。しかし、この黒字も保有株式の売却による益出しの結果です。こちらも商業用不動産ローン、消費者ローン、カードローンなどの不良化率は上昇を続け、貸し倒れ引当金の計上は、シティを大きく上回って、前年同期比2,3倍に達しています。ここで、この稿で以前に書いたことを思い出してください。FRBと連銀のストレステストで、大規模な粉飾を認めている旨を指摘しました。不良債権の査定基準を大甘なものに改めたことを、指摘した部分です。今回、この基準が元に戻されたわけではありません。大甘は大甘のままです。債務(=負債)を利益と読み替えるインチキもそのままです。そうした大甘の基準で評価してなお、貸し倒れ引当金を大きく積み増さなければならない債券が急増している。おそらくは、こういうことなのでしょう。とすると、こうした債券は、殆ど破綻先と考えて間違いないのではないでしょうか。少なくとも、正常債権に戻せる確率は、限りなく低いということでしょう。少なくともシティとバンカメにおいては、資産の劣化は、現在もなおかなりの猛スピードで進んでいる。米国の金融危機は、過去のものとなったと、安心するのはまだ早いようです。 続く
2009.07.18
コメント(4)

これ、いただいちゃいました。一昨日16日、ブログ仲間のレオママさんとのつながりで、タックン22さんのブログ(さーちゃんとタックンというシーズーを、とても大事にされている優しい方です)を訪問しましたところ、全く偶然にも6万回目の訪問者になったのです。こんなこともあるんだと驚いたのですが、そのタックンさんから、ビンゴ賞の記念にと、先ほど送られてきたのが、写真の品々です。名古屋名物のキシメンに手羽、そして我が家がネコ屋敷であることをご存知で、ニャンコのデザインの入ったカップまで… カップは娘が帰ってから、使い道を決めることにします。おそらく私が飾っておくと、抱え込むでしょうが…(笑い)タックンさん、どうも有難うございました。感謝します。お付き合いのきっかけを作ってくださった黒ラブのレオちゃんとレオちゃんママにも御礼申し上げます。
2009.07.18
コメント(18)
クロニクル ヴェトナム国連に加盟1977(昭和52)年7月18日32年前になります。この日、ヴェトナム民主共和国の国際連合への加盟が決まりました。ヴェトナムは、1945年8月15日の日本の敗戦を機に、当時占領中だった日本からの独立を宣しましたが、翌1946年に、日本占領以前の宗主国フランスが再占領し、以後対仏独立戦争を展開し、1954年に独立を達成しましたが、なお、北緯17度線の南側(南ヴェトナム)は、フランスに替わったアメリカの傀儡政府が支配する分断状態に置かれました。このため、その後も南ヴェトナムの解放戦争が続けられ、国連への加盟は果たされなかったのです。1973年にようやく米軍が撤退。75年に南ヴェトナム解放が実現、翌年の南北合併を経て、この日、ようやく国際連合への加盟が実現したのです。
2009.07.18
コメント(8)
宗教改革よもやま話 (45)ネーデルランドのカルヴァン派は、オラニエ公ウィレムを指導者に、1568年にスペインからの独立戦争を開始しました。スペインの総督アルバ公は、比較的新教徒の少なかった南部10州(後のベルギー)の切り離しに成功しましたが、北部7州(後のオランダ)はユトレヒト同盟を結成して、ウィレムの指揮の下で、粘り強く戦いを続け、1581年にはネーデルランド連邦共和国として、独立宣言を発したのです。16世紀後半のスペインは、カルロス1世の息子で、2代続けて名君と評判の高かったフェリペ2世の支配下にありました。父のカルロス1世は、自らも手を焼いたハプスブルグ家領と神聖ローマ皇帝の冠は、息子ではなく弟に譲り、スペインの外には、ネーデルランド、イタリア各地、「新大陸」の植民地だけを、フェリペ 2世の手に残したのでした。丁度、インカ帝国(ペルー)やアステカ王国(メキシコ)から大量の銀が発掘されていた時期でしたから、当時のスペインは、ヨーロッパに並ぶもののない最強国でした。対するオランダは、国土の多くが海抜0メートル以下の低湿地帯。とてもスペイン軍と互角に戦える武力など、持ち合わせていなかったのです。オランダにとっての頼みの綱は、フランスやイギリスの新教徒たち(ユゴノーやピューリタン)の支援だったのです。オランダ軍は、危なくなるとダム(堤防を指します)を決壊させて、スペイン兵士を泥土に誘い込んでは、行動の自由を奪っては逃げおうせる作戦をとり、持久戦に持ち込んで、戦いを続けたのでした。それにしての、大国スペインは、何ゆえオランダのごとき弱小国家の反乱を鎮圧できなかったのでしょうか。それは、スペインが、オランダ以外に、大きな敵との戦いにしのぎを削っていたからだったのです。 続く
2009.07.17
コメント(2)

ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(18)1850年代のイギリスでは、スカートにフラウンスをつけることが流行しました。ウエディングドレスに、この流行を取り入れるかどうかも、花嫁たちにとっては大事なことでした。フラウンスをつけるには、その分生地が余分に必要になりますから、当然ウエディングドレスの値段に跳ね返るからです。当時の記事によれば、プレーンなスカートにトリミングを施した袖つきのボディスを作る場合、シルク地で14ヤード、メリノ地などのダブル巾では9ヤード必要だったのですが、それにフラウンスを1段つけるだけで、6ヤードもの生地が余分に必要になったというのです。下の写真のようにさらにフラウンスを増やすとすれば、生地の量も余計に必要になります。残念ながら、写真を提供できないのですが、ヴィクトリア&アルバート美術館に保存されている3段のフラウンスのついた、白のウエディングドレスは、フラウンスだけで12ヤード以上あり、シングル巾のプレーンなドレスを作る場合の2倍近い生地を使って、作られているのです。大きく裾を広げたスカートにフラウンスを何段も入れると、確かに豪華に見えます。しかし、それは、まさしく懐具合次第だったのです。 続く
2009.07.17
コメント(10)
クロニクル ウルトラマンの登場1966(昭和41)年7月17日誕生から43年になるのですね。43年前のこの日は日曜日。日曜夜の7時から7時半のゴールデンタイムに、この日TBSから登場したのが「ウルトラマン」でした。「ウルトラマン」の制作は、円谷プロダクション。同プロの得意な特撮を駆使したTV劇映画でした。1966年(昭和41年)の7月17日から1967年(昭和42年)4月9日まで、全39話が放送されました。放送開始直後から、大変な人気を集め、当時の調べでは、平均視聴率は36.8%、最高視聴率は42.8%(1967年3月26日放送の第37話。ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録した、超人気番組でした。放送終了後もその人気が衰えることはなく、最初に行われた再放送でも平均視聴率が18%台を記録しています。「ウルトラマン」前作だった「ウルトラQ」の実績を参考に、TBSは本作の商品化収入を74万円と見積もっていたそうなのですが、関連商品が大ヒットし、商品化収入は何と1億5000万円に膨れ上がったのですから、TBSとしては、嬉しい誤算となったようです。この作品は、日本のテレビ局にとって画期的な作品となったのですが、それは従来の子供向け番組が、漫画を原作としたものばかりだったのに対し、この作品は初めてのTV局のオリジナル作品として制作されたことにありました。本格的なテレビの全盛時代は、ウルトラマンと共にやってきたといえましょう。初放映から40年以上経った現在でも、「ウルトラマン」は世代を超えて根強い人気を保ち、日本の特撮番組の基本フォーマットの一つとなっています。
2009.07.17
コメント(6)
世界経済の現状 (49)実はAIGには、もう一つの問題があります。この点は在米のアナリストの間でも論争があるのですが、CDSとは全く別の、通常の保険商品の話になります。保険会社は、自社の保険金に大量の支払いが発生するリスクに備え、契約した保険のかなりの部分を、再保険に出します。こうすることで、支払いが発生したときに、その一定割合を他社に分割して負担してもらうのです。問題はAIGの再保険にあります。当然AIGも獲得した保険の大部分を再保険に出しています。それは確かなのですが、AIGの場合数多い子会社を利用して、子会社同士で再保険を掛け合っているケースが、60%を超えているというのです。これでは再保険の意味はなく、支払いが発生した場合、AIGのバランスシートが、大きく傷つくことになります。当分、AIGの様子から眼が放せないように思いますし、GS等一握りの金融機関の決算が良かったとしても、それは2,3の企業にとどまるでしょう。粉飾に粉飾を重ねて見かけをつくろっても、実態が本当によくなるわけではありません。実際はまだまだ厳しいのにと、楽観的なエコノミスト諸氏の見通しに、いささか呆れているこの頃です。 ザビ
2009.07.16
コメント(2)
宗教改革よもやま話 (44)ルターに始まる宗教改革は、16世紀半ばからの1世紀の間に、三つの血みどろの戦争の原因となっています。1562年に始まるフランスのユグノー戦争(1562~98)、オランダ独立戦争(1568~1620)、三十年戦争(1618~48)の三つの戦争です。フランスとオランダの戦争では、信仰の自由を求めるカルヴァン派の信者に対する弾圧が気掛けとなりました。ドイツ中心の三十年戦争では、プラハにおけるルター派の抵抗が、血みどろの戦争のきっかけとなりました。しかし、戦争のきっかけとなったのは確かに宗教問題だったのですが、その戦争が30年とか、50年といった長期に亘るのは、当時におけるヨーロッパの諸勢力による権力争いとして、信仰の自由を口実とした、勢力争いに転化したしたからです。この点日本でも、戦国時代後期の勢力争いの中で、本願寺派の門徒が、大きな役割を担っていました。政治は常に宗教を利用し用としますし、宗教もまた政治を利用すことで、飛躍へのバネを得ようとしますので、現在でも注意が必要です。オランダでの戦争は1568年に始まります。ネーデルランドは、ブルゴーニュ公領だったのですが、娘の持参金代わりにハプスブルグ家の手に移り、1516年カルロス1世(=カール5世)のスペイン国王としての即位により、スペインの支配下に入りました。国王は、熱心なカトリックとして、この地の新教徒を弾圧したのですが、56年に息子のフェリペ2世が即位すると、カルヴァン派への弾圧は激しさを加えます。ここに、ネーデルランド一帯の新教徒は、独立戦争に立ち上がったというのが、戦争勃発の経緯になります。 続く
2009.07.16
コメント(10)
クロニクル 駅弁の登場1885(明治18)年7月16日124年前のことになりますが、この日現在の東北本線の、大宮~宇都宮間が開通しました。この開通を記念して、宇都宮の旅館「白木屋」が、日本鉄道宇都宮駅で握り飯2個とたくあんを竹の皮に包んだものを発売したのです。ここから、7月16日は広く駅弁記念日に指定されているのですが、宇都宮よりも早く駅弁を売り出したと主張している駅が、いくつか存在していることを、付言しておきます。一応ここでは、駅弁記念日に敬意を表しておきます。なお、現在のような折詰に入った駅弁は、1890年に姫路駅でまねき食品が発売したものが最初とされています。これには異説は存在しません。
2009.07.16
コメント(16)
ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(17)ヴィクトリア女王の在位は、1837年~1901年に及びましたから、昭和天皇より長く足掛け65年になります。彼女の結婚は1839年。そこでヴィクトリア時代は、およそ20年区切りで、アルバート公が健在だった、1861年までを前期、80年までを中期、その後を後期と呼びます。ヴィクトリア朝中・後期が、古きイギリスの最も良き時代ことになります。この間、次第にミドルクラスが厚味を増し、経済的実力もつけ、イギリス社会の中で発言権を増していきました。しかし、ことウエディングドレスと言うことになると、ヴィクトリア朝初期はもちろん、中期においても、ミドルクラスの花嫁衣裳については、なお色物のウエディングドレスが殆どだったのです。白のドレスへの憧れが、凄い勢いで燃え広がったのは、自分達が身に纏うことが出来ないことを理解した上での、夢と空想のなせる業だったのかもしれません。前回記した服飾史の友人が、英国各地の博物館や美術館を巡っての見聞談として、語ってくれたところによれば、薄手の生地で出来た色物のウエディングドレスは、数多く見ることが出来たそうです。その上、そうした色物のドレスは、何度もサイズを直したり、大幅に仕立て直した痕が残っているというのです。数の少ない白のウエディングドレス、特に波紋織りや錦織りの豪華な豪華なドレスは、ほぼもとのままで残され、生地の傷みも殆どなかったと言うのです。明らかに結婚式以後、全く着用されなかったか、僅かしか着用されなかったことを示していますね。豪華な白のウエディングドレスを着用した花嫁達は、他にも沢山のドレスの用意があるため、高価なウエディングドレスを思い出の品として、大事にしまっておく余裕があったということでしょう。雑誌の回答者が、「結婚式が終ったら、着る機会がないような高価な白いドレスをえらばなかったあなたは、全く正しい選択をされています。」と書いたのは、色物のドレスなら、多少の手直しを繰り返すことで、立派に外出着として使えることを、指していたのです。 続く
2009.07.15
コメント(8)
クロニクル ファミコンの登場1983(昭和58)年7月15日26年前の今日、任天堂はファミコンを発売しました。今に続く本格的なテレビゲーム時代の到来に道を開いた、ファミコンが誕生した瞬間でした。それまでは家庭用ではなく、ゲームセンター等でのテレビゲームで、インベーターゲームなどが流行っていましたが、家庭用ゲーム機が主力となっていく契機となったのが、ファミコンでした。ファミコンの発売で、それまではトランプや花札が売り上げの主力だった任天堂は、一躍ファミコンの任天堂として、世界に名を知られるようになりました。85年に大ヒット作「スーパーマリオ・ブラザーズ」が発売され、本体と共に、爆発的な売れ行きを示しました。何しろファミコン本体は、メーカー希望小売価格が14800円でしたが、販売終了までに、世界で6291万台を売り上げ、そのうち日本での売り上げは、2000万台弱、世界販売は4000万台超える人気となりました
2009.07.15
コメント(14)
世界経済の現状 (48) 米政府は、昨秋AIGに多額の資金援助をした際に、貸付金が返済されないなら、AIG株式の80%を取得して国有化するという約束を取り付けています。ですから、今後AIGが破綻する場合には、同社は国有化されることになります。しかし、ここまでに米政府は、シティグループやGMなどの株式を取得して、両社などを実質的に国有化しており、今後さらに金融危機が再燃すると、米経済のあらゆる重みが政府にのしかかってくる可能性が高まります。国有化が避けられなければ、そのツケは全て国民に回されることになります。昨秋米政府がや連銀が、AIGに提供した1700億ドル以上の資金は、一体どこに消えたのでしょうか。この中の一部は、幹部社員のボーナスとなって消え、その非常識が世論やマスコミ、そして議会の激しい怒りを買ったことは、記憶に新しい所ですが、実は1700億ドル以上といわれる政府の支援金の半分以上が、AIGが引き受けていたリーマン関連のCDSの支払いに宛てられていたのです。リーマンが倒産しましたので、リーマン関連のCDSに多額の支払いが発生したのです。CDSは債券の保険ですから、リーマンの倒産で、AIGには多額の支払いが必要となったのです。引き受けた保険に対して必要となる再保険による危険の分散を、AIGは殆どとっていませんでした。ですから、政府負担を小さくしたいなら、AIGは救済でなく、いったん倒産処理をすることで、CDSのしがらみを説き、債務の圧縮(弁済率を引き下げ、保険の支払い金額を減らすこと)を図るのが筋でした。米政府はそれをせず、AIGを丸々救済する道を選びました。当時の財務長官ボールソンは、元GSの会長を務めた人物でした。そしてAIGは政府の貸付金を使って、ご丁寧にもGSがAIGに持ち込んだ、リーマン関連のCDSを、満額で支払っているのです。国民の税金はGSの利益を嵩上げするために使われたといって、過言でないのです。 続く
2009.07.14
コメント(8)
宗教改革よもやま話 (43)カルヴァン主義の特徴は、予定説にあると書きました。アダムの原罪から人間性は堕落した。為すことがことごとく悪に染まっているのだから、全ての人間は呪われるしかない。しかし、神は憐れみにより、子なるイエスを地上に送った。しかし、それは全ての人を赦すためではない。恩恵に浴することが出来るのは、1部の人間のみである。誰を救い、誰を地獄に落すかは、神が自由に決定する事柄であって、誰も感知する事は出来ない。これが予定説です。では、神の選びの絶対的自由を前にして、人はただ絶望するだけなのか。そうではないとカルヴァンは言います。神の憐れみは無限なので、神を信じ、神の教えを受け入れ、こうして救世主と一体となった信徒は、もはや自らが選ばれていることを、疑わなくなると言うのです。信仰義認説と呼ばれます。善き行いも、神の憐れみを熱烈に信じる時には、選びの印と受け止められる。信仰を介して日々の行いは聖化されるというのです。こうしてカルヴァンにおいては、人生の主要な目的は、神を知り、神の栄光を讃え、神の命令に従い、祈りを捧げることにあるとされるのです。当然、夫々の職業もまた、神が定めたものであり、天職として、また召命として、これに勤しまなければならないとされるのです。こうしてカルヴァンは、社会生活全体を信仰一色で染め上げようとしたのですが、当然それは、国王や領主にも及びます。 為政者は神の地上の代理人であり、僕である。それゆえ為政者は、信仰の正しい実践を保ち、人民の安全と財産を守り、正義を行なわなければならないと、言うのです。こうした為政者に対し、人民は絶対服従の義務を負う。ただし、為政者が神の命令に背いた時には、この命令は免除されるともしています。この最後の点は、明らかに暴君に対する抵抗を正当化していると、読むことが出来ます。これは、為政者にとって、限りなく危険な思想です。それゆえ、カルヴァン派の信仰は、各地の為政者たちによって、目の仇にされたのです。 続く
2009.07.14
コメント(2)
クロニクル リカちゃん人形発売1967(昭和42)年7月14日過去2年、7月14日には、フランス革命から拾った記事としてきましたので、今年はグンと身近な話題で…実は、42年前の今日が、今も人気のリカちゃんが始めて発売された日、いわばリカちゃんのお誕生日なのです。リカちゃんは、ビニール玩具メーカーのタカラが発売したものです。企画にあたり、日本の少女たちがより身近に感じられるようなファッションドールというテーマを掲げ、小学生の女の子で、小さな女の子の手の平に収まるサイズとすること、この2点から身長を21cmとすることになったのです。さらに、当時流行していた少女漫画のヒロインのような顔立ちが、牧美也子氏の原案から採用された。また「リカちゃん」という名前は月刊少女漫画雑誌「りぼん」の1967年7月号誌上の一般公募で決められたそうです。発売2年後に、人形の売り上げでトップとなり、90年代に2年ほど、当時の人気アニメの主人公、セーラームーン人形にトップの座を譲っただけで、その後は再びトップの座を奪い返し、現在に至っています。
2009.07.14
コメント(16)
全87件 (87件中 1-50件目)