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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…14夏の浜辺のリゾートは、貴族やジェントリーの社交場ではなくなっていたことは、既に記しました。ここでの主役はミドルクラスや労働者の上層に属する熟練労働者とその家族に移っていました。そこに次第に一般の労働者階級も加わってくるのです。こうして浜辺のリゾートの生活様式は、変化していきます。こうした新しい生活様式には、バースでの生活や初期のブライトンでの生活に見られた、社会的均質性が欠けていました。そうです。社交の大集団は消滅して、集団は小さな単位へと分解してしまったのです。そこにあったのは、いわば「家族の休日」と言えるものでした。浜辺と海水浴場を埋め尽くしていたのは、乳母や家庭教師を雇う資力がなく、子どもを自分の手で育てている人々でした。子どもたちもまた、海水浴場の一方の主役でした。こうした浜辺の世界に、マシンは欠かせぬものだったのですが、マシンと並んでこの時期の海水浴場に欠かせぬ存在となったのが、「桟橋(ピア)」でした。初めは船着場として作られたのですが、やがて桟橋上に様々な娯楽施設が作られます。1866年にオープンしたブライトンの西桟橋には、フランスのパレ・ロワイヤルに据えられた午砲と同じ原理で、しつらえた大砲が呼び物になりました。レンズの集光作用で正午に正確に時を告げたからです。この桟橋は、1度に2千人を収容でき、1875年には夏場を中心に、年間で約60万人が入場した記録が残っています。こうして、浜辺はスパに比べると、格段に賑やかで、騒々しい場所に成長したのです。 続く
2009.04.30
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クロニクル ヒトラー自殺1945(昭和20)年4月30日一昨日のクロニクルに、64年前の4月28日はムッソリーニが人民裁判で処刑された日であることを記しました。それから2日後の今日は、ヒトラーが愛人のエヴァ・ブラウンと共に自殺した日にあたります。オーストリア出身の伍長として、第一次世界大戦に出征したヒトラーは、帰国後、後にドイツ社会主義国家労働党(ナチス)と自ら名付けた、おそろしく長い名前の政党の前身に入党します。その後頭角を現し、1923年には党首となります。党首となったヒトラーは、ヴェルサイユ条約の廃止、再軍備、ユダヤ人排斥を目指した国家主義的な要求と、戦時利得の没収、累進課税などといった社会主義的要求が混在する綱領を作成、1933年の政権獲得へ向けた行動を開始してゆきますが、ヒトラーにチャンスを与えたのが、1929年に米国発で世界に広がった世界恐慌の勃発でした。今回のサブプライム問題を震源とした世界恐慌は、何を齎すのでしょうね。 ザビ
2009.04.30
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…13ここで、この時代の海水浴がどういうものであったかを、紹介させていただきます。それは現代の海水浴とは全く別種のものでした。ブライトン(ここはロンドンから近かった)をはじめとする海水浴場は、イギリスの各地に出来、そのどこもが夏場は繁盛しました。秋から初冬まで客が切れないのは、上流階級の社交界が存在するブライトンだけでしたが…。そうした海水浴場に人が溢れたのですが、彼ら彼女らの目的は、海で泳ぐことではなかったのです。彼ら彼女らが見つけ出したのは、浜辺であり、海水を利用した浴場だったのです。当初は浜辺に造営して、海水を引きこんだ水浴場に水浴用の着衣のまま身体をつけることが目的でした。いくらか温めた温水と冷水の両方の浴場が用意されていました。到着した人々は、浜辺の日光浴を楽しみ、湯治場として使いたい方は浴場も利用したのです。やがて、海岸に日本で言う駕籠のようなもの、西欧で言う馬車の箱に車をつけて、砂浜を移動できるようにした「水浴機械」(=bathing machine)が登場し、マシンと呼ばれて普及します。下の絵がマシンです。こうした絵は、イギリスの古くからの海水浴場を描いたり写したりしたものを見ると良くでてきます。海に足をつけたい客は、このマシンを借りるのです。マシンにのって、駕籠かき役に波打ち際か浅瀬まで運んでもらうのです。客はマシンの中で水浴用の衣服に着替えるのです。到着すると、足を水につけて楽しむのです。子ども達と一緒に水に降りることもありますが、決して長く水に浸かるわけではありません。子ども達は海水のかけっこをして遊ぶのです。マシンの人気は高く、1860年代のブライトンには、300台ものマシンが常備されていましたが、休日などは順番待ちの状況でした。使用料は30分で男性6ペンス、女性9ペンスだったと記録されていますが、何故女性の使用料が高かったのかは、今もって明らかにされていません。利用時間は同じなのですから不思議です。 続く
2009.04.29
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クロニクル IOC日本とドイツの五輪復帰承認1949(昭和24)年4月29日この日開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会は、日本とドイツのIOC再加盟と五輪への復帰を承認しました。第14回ロンドン五輪は、前年(1948年)に終了しましたから、この決定により両国は、1952年開催の第15回ヘルシンキ大会からの五輪復帰が決まったのです。ただ、この時点では、ドイツはなお、一つのドイツでしたが、米ソ冷戦の激化の中で、この年9月に西ドイツが、1か月後の10月に東ドイツが誕生することになり、ドイツは東西が別々に五輪に参加することになったのです。なお五輪の歩みの中で、1940年の第12回東京大会と、1944年の第13回ロンドン大会の2つの大会は、第二次世界大戦の最中ということで中止され、実際には開かれていませんが、五輪の大会にはカウントしています。
2009.04.29
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…12ロンドン~ブライトン間の鉄道は、1841年の開通直後には、上下13本が運行されるだけでしたが、12年後の1853年には1日24本に、61年には1日32本にと増加したのです。料金は1841年で1等片道14シリング6ペンス、2等9シリング6ペンス、通用1日限りの往復切符は、1等が20シリング、2等が15シリングでした。駅馬車は片道21シリング、馬車の外にある屋上席でも12シリングでしたから、相当安くなり、しかも時間も短縮されました。その上、鉄道会社は休日には、特別仕立ての臨時便を出しました。40輌も連結した、ほとんど無蓋車からなる車輌に、立錐の余地もないほどに乗客を詰め込んだ列車です。そのかわり料金は格安で、1845年で往復5シリングと通常列車とは比べ物にならない安さでした。ロンドン万博に際し、クックが発明した団体旅行のプランも中部地方からロンドンまでの往復が5シリングだったことを思い出してください。しかもこの料金は、49年には3シリング6ペンスに、さらに61年には2シリング6ペンスに値下げされたのです。これは人気を呼びました。1850年代には「ブライトンまで行って帰って3シリング半(1シリング=12ペンスでした)」という宣伝文句が、流行語のように広まっていたといわれるのです。費用が軽減されることで、例え日帰りでも浜辺のレジャーを楽しめる層が増えていたのです。特別遊覧列車が走ったのは、ロンドン・ブライトン鉄道だけではありませんでした。労働者それも熟練労働者の数が多い北部の工業地帯もまた、特別臨時列車の活躍舞台でした。安上がりの日帰り旅行や物見遊山は、熟練労働者とその家族の間に、大流行し始めたのです。1840年代の夏のランカシャー鉄道では、彼らにとって上等の衣服を身につけ、楽隊の先導で無蓋列車に乗り込む労働者とその家族の集団という姿は、休日におけるごくありふれた姿となっていたのです。1848年の8月の休日には、臨時列車は西海岸の良く知られた海水浴場であるブラックプールに、1回の運行でに1200人の乗客を運んだのです。その乗客の殆どは、まだ浜辺や海水浴場を見たことのない人々だったのです。1850年のブライトンの夏の1週間の訪問客は7300人を数え、その殆どが休日の日帰り客だったのです。1860年には、年間の訪問者は年に25万人に達したのです。まさに人々は巨大な群れとなって、海辺に押し寄せたのでした。 続く
2009.04.28
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クロニクル ムッソリーニ銃殺1945(昭和20)年4月28日64年前のことになります。第一次世界大戦後の1922年10月末に、ドイツや日本に先駆けてムッソリーニによるファシズム勢力が政権を握りました。1929年の世界恐慌後、ドイツ・日本と組んでファシズム連合を形成しましたが、イタリア軍の内実は、侵略を仕掛けたエチオピアでも苦戦するなど、決して協力とはいえませんでした。こうして、1943年連合軍の攻勢が強まると、ファシスタ党は分裂し、ムッソリーニは失脚します。その後イタリアは同年9月8日に連合軍に降伏、ムッソリーニは逮捕、投獄されますが、4日後に救出され、ドイツ軍の展開した北イタリアに迎えられ、ドイツの傀儡としてイタリア社会共和国の形式的統治者となるのですが、その地位は名目的なものに過ぎませんでした。ドイツ軍の配色が濃くなると、北イタリアもパルチザンの猛攻を受けるようになり、戦い敗れたムッソリーニは、パルチザンの捕虜と成り、この日4月28日、即席の人民裁判の結果、銃殺刑に処され、晒し首にされました。ソ連軍の攻勢を受けたベルリンで、ヒトラーが自殺を遂げたのは、この2日後の4月30日のことでした。それにつけても、日本では、大戦犯東條英樹すら、日本人自身の手で処刑することすら出来ず、自らの手で戦争犯罪を罰することもせず、連合国の指示によってしか、行動できなかったのですから、なんとも情けない話です。
2009.04.28
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…11日本にも昭和元禄(1960年代後半)とか1億総中流(1970年代~80年代)と名付けられた時代がありました。社会的に上昇志向が強く、努力すれば報われると信じられた時代です。イギリスの場合、日本ほどではないのですが、やはり上昇志向が幅を利かせた時代がありました。それがヴィクトリア時代と呼ばれた19世紀後半です。中流を意識すると、最低1人は小間使いを雇わなければならないことによる、悲喜劇は前のシリーズで触れました。そのもう一つがリゾート地を訪問することでした。生活習慣は、社会的に上位にある人の習慣が、次第に下位の人たちにも伝播してゆく傾向があります。自分より上の階層の生活ぶりを真似るのです。浜辺の海水浴もまた、真似したい習慣のターゲットとなったのです。成金やアッパー・ミドルはこぞって海辺を訪れるようになったのです。駅馬車の発達が、自家用馬車を持たない階層の訪問を可能にしたのです。バースの時代は、駅馬車もありませんから、闖入する新参者の数は限られ、マナーや会話の質も聞くに堪えない、見るに耐えないほどには落ちずに済みましたが、駅馬車で大挙やってくるとなると、そうは行きません。しかし、バースに替わるリゾートをそう易々と手放す気にはなれません。そこで上流階級は、夏場のブライトンを避けるようになったのです。1841年の『マンスリー・マガジン』誌は、「ブライトンの夏は、ロンドンの商人たちに譲り渡された。秋口には法律家達が屯していた。そして秋たけなわの季節に上流階級は、ブライトンに移動した。この季節には新参者や大衆が、やってくることは間違ってもないからだ。」と書いています。ブライトンは2シーズン制をとることになったのです。ミドルクラスの夏とハイソサエティのの秋から初冬。秋の客は、ブライトンに海水浴に来るのではなく、社交を楽しみに来ているのです。保守党党首として、自由党のグラッドストーンと交互に首相を務めたことで知られるディズレーリは、ブライトンでの滞在を回顧し、「私にそこが海岸であることを思い出させる唯一の時間は、ホテルのエビ料理に舌鼓を打っている時間だけだった」と回想しています。こうした傾向に、1841年に開通したロンドン~ブライトン間の鉄道の開通が拍車をかけるのです。いよいよレミングの登場です。 続く
2009.04.27
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クロニクル サントリービール発売1963(昭和38)年4月27日1昨日の大阪駅前歩道橋に続いて、オリンピックの前年の話です。この日、洋酒のサントリーがビールの生産に乗り出し、サントリービールを発売しました。何故サントリーがビールを?それには、同社ならではの事情がありました。サントリーのウィスキーが売れすぎ、洋酒業界では、ダントツのガリバーになりすぎたのです。このままでは独占禁止法による会社分割の対象にされてしまう。こういう危機感を同社は持ったのです。幸い、洋酒も酒類の分類でしたから、洋酒以外の売れない商品を出せば、サントリー全体の酒類のシェアは下がり、分割の畏れはなくなるのです。サントリーはこれを狙ったのです。当時の佐治敬三社長は、ビール部門に対し、「急いで売れる商品に仕立てなくてよろしい。時間はかかっても、良いものを育てて欲しい」と。こうして時間をかけて育てることが出来たからこそなのでしょうね。それこそ、初期の少しも美味しいと思えなかったサントリーのビールも、このごろは良い味を出すようになり、ここ数年、ようやく飲み応えのあるビールになってきましたね。
2009.04.27
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…10ブライトンには、誰が見ても明らかなナッシュの刻印が見られました。集会堂、会費制の舞踏会、遊歩道、図書館、音楽隊、講演、ダンスやカードゲームに関する厳格な規則、「儀典長」、鐘、共同の朝食などなどです。海辺と海水浴場は、場所を移したスパだったのです。スパのとりわけバースの全盛期には、ブライトンは勿論、各地の海辺と海水浴場は、地元民以外誰も寄りつかない、鄙びた漁村に過ぎませんでした。こうした海辺と海水浴を、イギリス人に最初に紹介したのは、冷たい海水に身を沈めることが健康に良いと確信した医師たちでした。医師ラッセルは、海水浴と海水の服用、それに新鮮な空気の摂取を推奨しました。同じくリーランは、1753年~60年までのロンドンとブライトンの年平均死亡率を計算して、ブライトンの死亡率がロンドンの半分であることを指摘して、ブライトンの土壌と気候が健康に良いと強調したのです。こうした医師たちの勧めの上に、王室の愛顧が加わったことで、保養地が社交の場に替わっていったことも、バースで起こった変化と共通のものでした。海辺と海水浴場は、健康と流行が分かちがたく結びついた場として、成長したのです。ところが、バースとブライトンを初めとする海辺の海水浴場とは、決定的に違う点もあったのです。それは来訪者の数です。バースについては、既に指摘したように召使を含めてもシーズンを通して8千人から12千人でした。それがブライトンでは、なお鉄道の開通する前だった1830年代で、1週間で3400人を超え、シーズンを通すと5万人を超えていたのです。これはもう、1人の「儀典長」の手に負える数ではありません。産業革命の進展によるアッパーミドルの台頭が、上流階級の社交の場でもあった保養地の景色を、変えてしまったのです。その結果はどんな現象を生んだのでしょうか。 続く
2009.04.26
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…9繁栄を誇ったバースも、名物儀典長にして、バースの名物であったナッシュの死(1761年)後、次第に求心力を失って、衰えを見せます。バースの持っていた見せかけの均質性、一団となってタイムスケジュールの通りに行動する画一性が失われてしまうと、バースの社会的機能は損なわれてしまうのです。バースは顔見知り同士が集まって交際し、見知らぬ者同士はすれ違い続けるありふれた町になってしまうのです。1811年にフランス人旅行者が目にしたバースは、「1種の僧院と化し、年老いた男女の、とりわけ老嬢たちばかりが目立つ町」になっていたのです。この記録の4年前には、既に集会堂が閉鎖されていました。バースの黄昏は一足飛びにやってきたといえましょう。こうしてバースを先頭としたスパの人気は急速に衰えました。しかし、バースを見捨てた貴族やその取り巻き、地主達、成金の資産家たち、そして婦人たちと娘たちはどうしたのでしょう。こうした人たちが、自宅にじっとしているわけはないのです。ウィリアム・クーパーが1782年に書いた詩に、その答がありました。「退屈きわまる生活の 気晴らしするのが得意な 陽気な未亡人、それから乙女と女房は 馬車に乗り船に乗り 日ごと夜ごとの楽しみを 求めて海へと飛び立った 誰も彼も 干からびた土地に耐えかねて こぞって海に駆け込むのだ」男たちも負けていませんでした。1783年、ジョージ3世の皇太子(後のジョージ4世)は、海水浴場のブライトンを、はじめて訪れたのです。この地が気に入った皇太子は、その後もたびたび訪れるようになり、87年になると離宮の建設に着手したのです、」やがて離宮が出来上がると、離宮を拠点に人が集まるようになり、ブライトンの名はかつてのバースのように、イギリス中に知れ渡っていったのです。こうして、19世紀に移る頃には、ブライトンはバースの後継者の地位を不動のものとしていたのです。
2009.04.26
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クロニクル 小泉内閣誕生2001(平成13)年4月26日8年前のことです。24日の自民党総裁選で圧勝した小泉純一郎総裁が、この日自民・公明・保守3党の支持で、首相指名選挙に圧勝、直ちに組閣を行い、この日のうちに小泉内閣が誕生しました。外相には田中真紀子、経済閣僚に竹中平蔵慶大教授を迎え、福田康男官房長官、安倍晋三官房副長官、経済産業相に麻生太郎という布陣でしたが、5人の女性大臣を用い、田中・竹中が内閣の2枚の目玉でしたが、小泉首相自身がそれ以上の目玉でした。追伸、先ほどアップした レジャーの誕生8の、「結婚契約書の署名」の画像、不鮮明でしたので、鮮明な画像と入れ替えました、ご覧ください。
2009.04.26
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…8バースの日常は、上流階級の男性社会と女性社会が最も近づいた場所でもありました。これがバース社会が持っていた均質性のもう一つの大事な点でした。限られた空間の中で、男女が顔を合わせる機会が、殆ど1日中あったからです。ナッシュの定めたバースの法は、女性への礼儀にやかましかったのですが、それはある意味で、若い男性に女性へのアプローチの仕方を教えるものでもあったのです。ずばり言ってしまうと、バースは様々な事情で零落した貴族・ジェントリーの子弟と新興の資産家の娘が、互いに不足している財産と家門とを相互に贈答しあう出会いの場として、大きな意味を持っていたのです。互いに自己を展示しあうショウ・ウィンドウの役割をバースは持っていたのです。ナッシュ自身が、新興の資産家の情報と、手元不如意の名門家系の情報を持ち、夫々の家族のスポークスマンを演じる人物にそれとなく伝え、互いの瀬踏みをさせるのです。互いにそこそこの脈がありそうだとなると、散策路での出会いや、コーヒーハウスでの邂逅がなされ、舞踏会でのラストダンスなどに繋がってゆくのです。これもバースの生活の一つの意味でした。この絵は話がまとまった貧乏貴族と金満商人との結婚契約書の取り交わしのシーンです。当時は、こうした契約書が細かなことまで決めていたのです。今なら差し詰め、代理人を立てたプロ選手の入団契約書のようなものと言えるでしょう。
2009.04.25
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…7こうしてバースでは、ナッシュの定めた11ヶ条の『全員の合意で決定された規則』に皆が素直に従っていたのです。このためいつの頃からか、ナッシュは「バースの王」と呼ばれるようになったのです。バースは「バースの王」が差配し、「バースの法」が支配する特別の空間でした。ここでは来客は身分の区別なく、上は高貴な身分の人たちから、小金持ちの商人や株屋までもが、互いに交じり合って挨拶を交わすのです。ここには仮面を被らない仮面舞踏会のような世界があったのです。こんなことがありました。ジョージ2世(在位1727~60)のちょっと変わり者だったアメリア王女が、午後11時を過ぎても「もう一踊りを」とせがんだ時、ナッシュは規則を楯にこれを断ったのです。王女は「私は王女よ」と強気に出たのですが、ナッシュは「仰せの通りでございますが、ここは私が統治しております」。バースの法はリクルゴスの法(リクルゴスは古代スパルタの伝説上の王です)のように堅固なのです」と、一歩も引かなかったのです。引き下がったのは、王女の方でした。以来、ナッシュの人気は不動のものとなったと言われます。こうした「バースの行動と服装の画一性は、貴族社会に接する異分子に、一時的に擬制的な資格を付与することを許します。このことによって、外国貿易や海外植民地への赴任で蓄財に成功した資産家達が、地主社会に接近したり貴顕たちと交際することを可能にしたのです。上の絵は、バースの賭博場での一齣です。 続く
2009.04.25
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クロニクル 歩道橋初お目見え1963(昭和38)年4月25日それは東京オリンピック開幕の約1年半前のことでした。この日大阪駅前の交差点に、わが国初の横断歩道橋が完成し、直ちに利用されるようになりました。関東へのお目見えは、それからどのくらいしてからだったのでしょうか。当時住んでいた中山道の板橋宿近辺に登場したのは、オリンピック後だったのではないでしょうか。ところでこの歩道橋、車の交通量の多い地域では、多少なりとも渋滞の緩和にプラスしましたが、他方で足腰の衰えの目立つお年寄りや、乳母車やバギーの使用者にとっては、なんとも迷惑なシロモノでした。そう感じたものですから、当時私は車優先の発想に大きな疑問を感じたものでした。
2009.04.25
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…6 ポンプルームでの朝食は、基本的に全員が一同に会していただくことになっていました。それがバースのマナーだったのです。時にはコンサートやレクチャーに耳を傾けることもありました。その後には教会での礼拝が待っていました。午後は散歩やショッピング、単にお店を冷やかすこともありましたし、馬車や乗馬で郊外に出たり、貸本屋やコーヒーハウスに足を運んだり、三々五々好きなことをして過ごすのです。(婦人たちのお気に入りの散歩コースが、下の絵にあるブライア公園の遊歩道でした。正面奥に見えているのがゲストハウスです。)夕方7時頃から早めの正餐をとります。これは全員一緒ではなく、好みに応じていくつかのレストランが用意されていました。正餐の後は夕べの祈りを捧げ、その後に正装してポンプルームに三度目の訪問となるのです。夜の部は集会堂でのお茶に始まり、劇場、賭博場、舞踏会場で更けてゆくのです。午後11時には全てが終了。この時間以降は一切の公的施設の営業は停止されたのです。こうしてバースの訪問客は、毎日を同じタイムテーブルに沿って過ごすのです。1日に最低3度は顔を合わすのですから、余程ソリが合わないケースを除けば、互いに親密さを増すことになります。『ロビンソン・クルーソー』でお馴染みのダニエル・デフォーは、1724年に「友達付き合いと気晴らしこそが、この土地の仕事なのだ」と、バースについて書いています。同一のタイム・テーブルに従っての集団的で公共的な娯楽が、バース社会の一体性と均質性を育み、バースの人気を高めたのです。 続く
2009.04.24
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クロニクル 経済の戦時色強まる1940(昭和15)年4月24日1940年というのは、真珠湾攻撃の1年7ヶ月以上前のことです。この日、日本政府は米・味噌・マッチ・砂糖・塩・醤油などの生活必需物資の配給切符制採用を発表しました。食料品の中に、マッチが混じっているのがユニークですが、マッチもまた火付けの道具として、欠かせない調理用具の一つでした。そのため、対中戦争中の兵士への支給を優先するために、銃後の民衆の利用を出来るだけ抑えることが、この切符制の狙いでした。
2009.04.24
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…5ところで、ロンドンからバースまで、所要時間はどのくらいであったかというと、1750年代の記録があるのですが、馬車で3日というのが一般的でした。もうひとつ、ではバースを訪れる滞在者はどのくらいだったのかというと、冬場の最も混雑する社交の季節で、来訪者の家族や召使を含めて8千人から1万2千人程だったと推定されています。当時バースを事実上取り仕切っていた儀典長のナッシュは、馬車で入市する人々を必ず自ら迎えて、挨拶を交わしていたのですが、そうすることによって、彼が現在バースに滞在しているのが誰と誰であるかを、しっかり承知していました。出迎えた人たちから。「○○卿はもういらしているか」とか、「△△夫人はまだいらしてないでしょうね」と言った問いかけに、常に完璧に答えるのが、彼の美学であり、そのことが上流の人々がバースでのかれの流儀を受け入れ、毎年のようにバースを訪れる一つの理由になっていたのです。さて、バースにやってきた人々は、滞在の初めに舞踏会や音楽会に参加するための会費2ギニー、集会堂の外の遊歩道を散策する権利として身分に応じて5シリングから1ギニー、貸本屋の利用権5シリング、コーヒーハウスでペンやインク、紙を利用する権利に半ギニーなどの会費を先払いします。そして、ゲストハウスのゆったりした部屋に落ち着くのです。バース滞在中は、滞在者は体調を崩して休んでいる場合を除くと、目覚めから就寝まで、皆がほぼ一斉に生活するところが、現在から見ると、変わっているところです。いかに社交の場とはいえ、集団が常に一緒というのは、現代人には絶えられないのではないでしょうか。バースの朝は、6時に始まります。それから9時までの間にポンプルームを訪れ、好み次第で入浴したり、鉱泉を飲んだりするのです。宿舎からポンプルームまでは籐椅子に乗って運んでもらうのです。宿舎からの距離に応じて、運び手に酒手を払うのも当然の決まりでした。時にやってくる新人のために、宿舎からポンプ・ルームまでの正確な距離を書き記したガイドブックも出ています。この後11時頃の朝食までは、コーヒーハウスでロンドンから届いた新聞を読むのを日課とする人が多かったようです。朝食はポンプルームに全員が揃ってとるのです。席次の決め方が儀典長たるナッシュの腕の見せ所でした。誰からも苦情の出ない完璧な席次が用意されることも、バースの人気の一つだったのです。「この席次を良く覚えておくのですよ。」妙齢の令嬢を伴った奥方達は、良くこう囁いていたと言います。 続く
2009.04.23
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クロニクル 天皇・皇后両陛下沖縄へ1993(平成5)年4月23日16年前になります。この日は沖縄の人々にとっても、1972年の本土復帰以来の歴史的な日になりました。そうです。この日平成天皇夫妻が、歴代天皇の中で、はじめて沖縄を訪問したのです。天皇は挨拶の中で、「父、昭和天皇が訪問を希望しながら果たせずに大変残念がっていた」ことに触れ、また沖縄の人々が、唯一の本土決戦の地として多くの犠牲を強いられたことや、戦後の米軍統治下に艱難辛苦を味わったことなどに言及し、沖縄県民への感謝を伝えると共に、訪問が遅れたことの無念の気持ちを伝えられたのです。その後、姫百合部隊の生き残りの方たちとの面会やゆかりの地の訪問、住民の一部が海に身を投げた地での黙祷など、平和の使者としての行動を貫いたのでした。政治の動きが、軍事力の強化に向かい、平和の推進に背を向ける傾向が強まる中では、日本国憲法の定める平和の象徴としての、天皇夫妻の行動は、高く評価できるように、私は考えています。
2009.04.23
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…4ナッシュは、18世紀の初めにかけてロンドンで確立された、フランス風の洗練された社交のマナーを、バースに導入しようと腐心します。そこで、乱暴狼藉の禁止、正装の厳守、婦人への礼節などを柱とする、11ヶ条の約束なるものを作成し、ポンプ・ルームの壁に掲げたのです。そのヶ条の中には、「嘘や噂話を耳打ちする者は、全てその作者とみなさるべし」といったユーモアのセンス溢れるものもありました。この約束には、バースにやってくる上流階級の人々は全員が賛意を表明し、やがては「バースの憲法」と呼ばれるようになったのです。こうしてバースでの生活は、「もう一つの環境に移されたロンドンの生活」となったのです。バースへの来訪者名簿は、そのままイギリスの貴族やジェントリーの名簿として通用するものでした。ロンドンの流行は数日後にはバースに伝えられ、バースの流行はロンドンに伝えられたのです。冬の到来を知ると、貴族やジェントリー達は御者に馬車の支度をさせ、バースに出かけたのです。流行に後れないためには、遅れずにバースを訪問しなければならなかったのです。やがて、バースでの遊びは、「流行」を超えて、上流階級の「習俗」となっていったのです。バース街道から馬車でバースに入る人たちは、昔の修道院に併設された教会堂の鐘の音でした。この鐘は、馬車での来訪者があるたびに、全市にその旨を伝えているのです。到着した人々は、この鐘撞きのために、来訪者は半ギニー(1ギニー=21シリング)を支払うのです。 続く
2009.04.22
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…3ナッシュは1705年に儀典長に就任すると、バースの新しい社会的役割に応えるべく、矢継ぎ早に施設と制度の改革を実施したのです。施設面では、就任と同時に常設の小劇場を建設し、翌年にはダンスと賭博のための集会場を、3年後の1708年には、キングス・バスに隣接して食堂やコンサートホールを持つポンプ・ルームを建設したのです。その間にバースに至るバース街道の改修工事まで実施しています。小劇場の建設には1300ポンド、バース街道の改修には1800ポンドが支出されましたが、そうした費用は、殆ど強制的ともいえる寄付という形で、バース市民から徴収されたものでした。施設を充実させて富裕階級の来訪者が増えれば、彼らがバースに落とす金によって、市民は寄付金以上のものを回収できる。これがナッシュの口癖でした。こうしたナッシュに協力して、様々な施設の設計を担当したのが、建築家のジョン・ウッドでした。彼はバースに古代ローマを甦らせることを考え、円形広場に面する高級住宅街を「裏返した円形演技場」のように設計したのです。市内のあちこちに建てられたオベリスクは、異国趣味をかきたてました。こうしてかつての田舎の湯治場は、「イギリスのフィレンツェ」と呼ばれる優雅でユニークな都市に変貌したのです。1727年には、「20年前にジェントルマンが宿泊した、当時の最高級の部屋が、今では下男部屋になっている。」と言われるようになったのです。ナッシュはまた、町に夜警を起き、浮浪者を取り締まり、住民には街路の照明灯の設置を義務付け、街路の清掃に参加することを義務付けたりもしました。その上で、ナッシュは、彼の最大の功績とも言える、バースにおける社会生活に一種の規律を作り上げたのです。上はナッシュの肖像です。アッシュは全市民と顔馴染みとなり、さらに全ての訪問者ともお馴染みとなって、その生活を把握することに務め、バースでの生活では、バースの掟に従うことを求めたのです。ナッシュは青年時代をロンドンの社交界で過ごしたことから、ロンドンの良き風習をバースに持ち込むことに務めたのです。こうして、ロンドンの洗練された社交のマナーが、バースにも持ち込まれたのです。 続く
2009.04.22
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クロニクル 幣原喜重郎内閣総辞職1946(昭和21)年4月22日敗戦から、8ヶ月少々、まさに敗戦後の混乱の満々中にあった時期です。幣原内閣は、GHQの人権指令を実行できず、右往左往の末に総辞職した東久邇皇族内閣に代わって、前年10月9日に成立した内閣でしたが、戦後インフレに有効な手を打てず、4月10日に行われた女性もはじめて参加した男女同権の下での始めての衆院選も出揃ったことから、この日総辞職したのでした。しかし、第1党となった自由党も141議席に留まるなど、どの党も過半数に遠く及ばず、幣原内閣の後継内閣の選出は難航をを極め、1ヶ月の政治空白を招くに至るのです。政治空白の長期化を畏れたGHQが、比較第1党の自由党の党首吉田茂に、組閣命令を出したのが5月16日、吉田が組閣を完了したのは、5月22日と、幣原辞任から丁度1ヶ月後のことでした。その吉田内閣も、起死回生をはかった国会解散総選挙の実施という、博打に失敗して、衆議院の第1党の地位を社会党に奪われ、47年の5月20日に総辞職する破目に陥り、社会党中心の片山哲連立内閣が誕生するに至ります。
2009.04.22
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…2イギリスのスパと言えば、バースというのが通り相場です。バースの温泉はローマ人が発見したもので、当時建造された浴場の遺跡は、きれいに発掘されて現在でも見ることが出来ます。やがてベネディクト派の修道院がスパも管理刷るようになったのですが、エリザベス1世の父ヘンリー8世が修道院を解散し、スパの管理権も修道院から市当局に移管されました。スパは癩患者や天然痘、疥癬患者たちが湯治に利用する場所でした。市は貧民にも自由にスパをりようすることを許可していました。一方で市当局は、スパの維持管理費を捻出するために、スパの運営で利益を上げることも考え始めました。こうして市の有力者は、スパの入浴場を維持・管理し、 入浴者にサーヴィスを提供する少数の係員を任命することにしました。この係員は管理人1名と、入浴者に付き添ったり、浴場の清掃を行ったりする数名の案内人からなっていました。彼らは、新たに設置されたポンプを操作することに対し、市から僅かな手当てを受けていましたが、収入の殆どを病気の治療のために湯治にやってきた富裕な入浴者からのチップに頼っていたのです。バースには中世以来、キングズ・バス、ホット・バス、クロス・バスの三つの浴場がありましたが、エリザベス時代の1576年に女性用、癩患者用、馬用の三つの特別浴場が完成を見ました。こうした市の積極的な対策と、湯治の医師たちによる温泉や鉱泉の医療効果への言及によって、富裕な湯治客のバースへの来訪は、尻上がりに増加して行きました。17世紀の初め、エリザベス1世の後を継いだジェームズ1世の妃であるアン王妃の来訪が、バースの歴史に新しいページを開きました。ピューリタン革命を経た1660年の王政復古以降、王室一家のバース来訪は頻繁となり、名誉革命を経たアン女王の治世になると、女王と共に廷臣たちも、こぞって女王に従ってバースを訪れるようになり、冬の一時期宮廷が丸ごとバースに移動したような印象を与えたのです。王室の恩顧を受けたバース市の当局は、無上の光栄に浴したものの、その栄誉に相応しい街づくりに腐心することとなりました。ここにバース市当局は、訪問客の「もてなし」全体を管理し、運営する人物の必要を痛感することになりました。こうして設置された役職が、宮廷の儀典長を意味する「マスター・オブ・セレモニーズ」でした。そして、18世紀のバースをバースたらしめ、遂にはバースの王とまで呼ばれるに至る、2代目儀典長リチャード・ナッシュ(1674~1761)の登場によって、バースはその面目を一新し、上流階級の社交場として、欠かせない存在となっていくのです。 続く
2009.04.21
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十五銀行の顛末空帆(夢穂)さんから、コメント欄でご質問をいただきましたが、コメント欄には収まりそうもありませんので、こちらに記すことにしました。皆さんもお付き合いください。明治前期の日本は、欧米に追いつき追い越せとばかりに、富国強兵殖産興業政策を採りました。当時の日本の支配層は、日本の歴史上常に仰ぎ見る先達だった中国が、アヘン戦争やアロー戦争で惨めな敗北を喫し、欧米列強の半植民地状態に置かれていたことでした。これは1日も早く欧米列強に追いつくように努力をしないと、日本などは簡単に植民地にされてしまう。この認識は当時の支配層や知識人、豪商や豪農の間に共通していました。ではその道を、過去250余年にわたって政権を担当してきた練達の幕府に委ねるか、幕府には新時代に対応する能力がないので、朝廷をシンボルとして担ぎ出した新勢力に委ねるか、同すべきか。この危機対応を巡る対立が、幕末の動乱でした。答は財力を担う豪商・豪農達が圧倒的に新勢力に期待し、支持を寄せたことから明らかになりました。明治維新は、幕末の日本人が出した危機対応策の答でした。 下級武士という、幕藩体制下の権力の末端の担い手達(現在で言えば、交番の巡査や省庁の門衛といった人たちが政権を担うことになったのですから、これは明らかに革命と言えるものです。さて、明治政府は、殖産興業政策を推進しました。しかし、工業化の推進には資本と労働力の二つが欠かせません。豊かな農業国であり、徳川幕府の参勤交代というシステムのおかげで、江戸という世界最大の人口を持つ消費都市を抱えた日本は、幸いなことに商工業がある程度発達していましたから、政策のよろしきを得れば、工業の発達はある程度可能だったのです。2500万人~2800万人と人口も多く、商工業育成のためには、商工業課税は軽くして、重税は農民にだけ課する政策を採れば良く、それを忠実に実現したのが、皆さんご存知の地租改正です。重税にあえぐ農民は、娘たちや次男・三男を工場へ働きにやりますから、労働力は確保できます。問題は資本にありました。税金はなるべく防衛力の強化に回したい。隙を見せれば、いつ中国のように攻め込まれてしまうかも知れないからです。つまり資金不足が、日本資本主義推進のための最大のネックだったのです。そこで、民間の資金をいかに効率よく集め、工業投資に誘導するかが大きな課題となったのです。ここに登場したのが、市場に散在する小口資金を集め、チリツモ方式で大きな資金を集める銀行でした。政府は銀行設立を奨励し、20年間は政府保証を当てにして良いからと、期間限定の国立銀行として、信用力を高めたのです。しかし、銀行というものを良く知らない人々は、銀行に対する猜疑の眼を緩めなかったのです。この状況を見た岩倉具視は、一計を案じました。1876(明治9)年に実施された秩禄処分(今後旧武士=士族に対して旧俸禄に見合う政府支払いは全て停止する。代わりに一定額の金禄公債を支給するとうものです)で支給された公債を元手として、銀行を作ることを、各地の急有力大名に勧めたとです。乗り気になった元殿様達が資本を出し合って作ったのが第十五国立銀行でした。設立は明治10(1877)年5月の21日です。重役陣に名を連ねた旧有力大名は、徳川・山内・黒田・池田・藤堂・松平・毛利・吉川・南部とまさにキラ星の如くでした。頭取には毛利元徳が就任しました。この次に出来たのが、第十六国立銀行、十六銀行の前身です。武家華族中心の銀行として、行員の多くも各藩の士族出身者を揃え、殿様じきじきに。旧藩の有力者に預金を勧める手紙を書き、村人や待ち人にも勧めて欲しいとやるのですから、これは聞きました。第十五国立銀行といういかめしい名ではなく、殿様銀行の愛称で有名になるには時間はかかりませんでした。1年足らずで、預金高日本一の銀行となったのです。当然宮内省にも頼りにされ、宮内省御用達として、皇室財産の管理も任されています。20年後の1897(明治30)年に民間銀行として、株式会社十五銀行となりました。その後も順調だったのですが、関東大震災の結果多額の焦げ付きが生じて、行き詰まり、1927(昭和2)年のこの日に、取り付け騒ぎが起きたのでした。因みに高額預金者の内、武家華族は、旧武家出身の行員からの耳打ちで、事前に預金を引き出して事なきを得たのですが、事情を何も知らされなかった公家出身の華族や庶民の金持ち達は、大損失を蒙ったのです。責任を感じた当時の頭取松方巌公爵は、私財の大半を放出して返済に充て、また爵位も返上して無冠となっています。さすがに見事な引き際だと称賛され、銀行に対する不満を大いに和らげることに貢献したのです。さて、十五銀行の自力再建は難しく、一部支店は第一銀行が引き受け、残りは帝銀が吸収合併することになりました。十五銀行の本店は、中央区木挽町の蓬莱橋の脇にありました。現在の銀座8丁目にあたり、今は銀座三井ビルとなっています。本店は帝銀の木挽町支店となったのですが、戦後帝銀が独占禁止法との関係で分割された時に、三井銀行に継承され、その後のスクラップアンドビルドで、廃止されたのです。ところで、第十五国立銀行時代に行章に選ばれたのが、実はサクラでした。このサクラがその後も受け継がれ、三井銀行が太陽神戸銀行と合併した時も、サクラのマークは残り、遂には行名となったことはご存知の通りです。このマークは住友銀行とサクラ銀行の合併、三井住友銀行となって、消えてしまいました。
2009.04.21
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クロニクル 十五銀行休業へ1927(昭和2)年4月21日この年3月14日の、片岡蔵相が衆院で漏らした「東京渡辺銀行が危ない」の一言で、翌15日投今日渡辺銀行とあかじ銀行が休業する大騒ぎと成り、各地で銀行の取り付け騒ぎとなりました。日銀は市中銀行に非常貸し出しを行うなど、事態の沈静化を目指しましたが、4月18日には、台湾銀行が休業するなど、機器は沈静化しませんでした。そしてこの日遂に、殿様銀行として有名になった、十五銀行までもが休業に追い込まれる、事態となったのです。
2009.04.21
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イギリスの庶民生活(6) レジャーの誕生…1J,ウォルヴィンは著書『レジャーと社会』のなかで、「19世紀のイギリス人は、ほとんど強迫観念に取り付かれたように海浜に殺到した。彼らはレミングのように海岸目指して旅行したのである。」と描いています。レミングとは、群れとなって海岸に突進し、集団自殺するとされているネズミの仲間です。人間が集団自殺するネズミに例えられるとは、穏やかでないのですが、それは、少数の上流階級ではなく、ミドルクラスから下層の民衆までもが、我も我もと海岸に出かける情景を指してのことでした。イギリス人のレジャーは「レミング」の時代、即ち海水浴の登場を待って始まったと言われます。日帰りの客が大半を占めた「レミング」たちの目的地は、海岸でした。この人たちは、脇目も振らずに浜辺に近づき、半日を過ごすと、再び帰路に就くのでした。17世紀以来、イギリスの上流階級は、スパ即ち温泉や鉱泉を楽しんでいました。温泉での滞在を楽しむ上流階級の行動は、いかにもレジャーを楽しんでいるように見えます。18世紀に入ると、ある文人に「アヒルのようにスパを訪れる」と揶揄された、富裕な商人や植民地事業の成功者も、上流階級にならって、温泉地に逗留するようになりました。しかし、こうした時間と金をタップリと持っている人たちの行動は、厳密に言うとレジャーとは言えないのです。上流人士は、労働とは原則的に無縁な有閑階級だからです。貴族やジェントリー或いは、彼らを庇護者や顧客とする医師、牧師、俳優、芸術家などだったからです。ただ、ここでは違いを浮き上がらせるために、先ずスパでの様子を記し、次に浜辺の情景に進むことにします。 続く
2009.04.20
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イギリスの庶民生活……(5) 第1回万国博覧会のあれこれ…9この項の最後に、当時の新聞『デイリー・ニュース』が報じた。1人の男性の万国博見物の様子を記すことにします。この男性を、仮にトーマスと呼ぶことにしましょう。デイリー・ニュースは、こんな風に書き始めます。「トーマスは、7月22日の夜ハダスフィールド(ヨークシャーのウエスト・ライディングに含まれる工業都市です)をロンドンに向けて出発した。」「トーマスの乗るのは、勿論3等車で、駅頭で往復運賃5シリングを払って切符を買うと、財布には僅かに1シリングしか残っていなかったようである。彼は弁当の替わりに、ポケットに数切れのサンドウィッチをねじ込んでいました。水晶宮で博覧会の入場料1シリングを支払って、入場券を手に入れると、トーマスは文無し状態となったのです。」記事はさらに続きます。「見物中に、博覧会場の中で、トーマスは持参のサンドウィッチを食べ、飲み物は、会場内の水飲み場で、水を飲んで済ませました。」「見物を終えたトーマスは、その番の夜行列車に乗ってハダスフィールドに帰り、そのまま仕事場に直行したのです。家を出てから、40時間という長い時間、トーマスは汽車代と入場料以外には、何も買わず、不眠不休、殆ど飲み食いもしないでなのだから、呆れた男が居たものである。」トーマスのような男性は、大勢いたことに違いないのです。そこには、どんなに無理をしてでも、万博見物を実現したいという、庶民の渇望が浮かんでいます。不眠不休の40時間の後に、昂揚した気分のままに、すぐに仕事に就くことも平気だったのです。これが、庶民にとっての万国博だったのです。 この項終り
2009.04.20
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クロニクル 財閥解体始まる1946(昭和21)年4月20日持ち株会社整理委員会令が、この日公布されました。実際に委員会が発足、活動を始めたのは8月になりますが、ここに、財閥解体の動きが本格化したのです。日本の民主化の徹底を望んだ米政府は、GHQに命じて、日本の民主化を推進しようとしました。そうして編み出されたのが、(1)農地改革による農村の民主化(2)財閥解体(3)教育の民主化(4)憲法の制定 の4点でした。財閥解体で日本の経済競争力を弱めたと論ずる人も多いのですが、農地改革で、土地所有農民となった、農村の購買力を飛躍的に高め、失った旧植民地に変わる、国内市場の拡大に大いに貢献しており、そうした指摘は、木を見て森を見ずの類でした。
2009.04.20
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イギリスの庶民生活……(5) 第1回万国博覧会のあれこれ…8農民達もまた、万国博の噂に花を咲かせていました。見たこともないガラスの世界(水晶宮)の大きさには尾ひれがつきます。そんな農民達の好奇心を知った、大貴族のウィルビー卿は、自分の所領で働く500人余の小作農に私費で万国博を見物させることを思い立ちました。卿は、夜行で往復する0泊2日では可哀想だと、ロンドン市内に一夜の下宿を用意し、2日の日程で、心行くまで小作農達に万国博を堪能させたのです。勿論見物は1シリングの日、トーマス・クックの団体往復割引切符を利用したことは勿論ですが…。卿の試みは評判を呼び、自分もと同じ行動をとる大地主も出ました。しかし、最も多かったのは、万国博を見物したい農民に、仕事の手の空いた時を中心に、私費で行くなら構わないと、ロンドン往復を認めてやる地主や農場経営者が続出したことです。下の図は、万博会場(水晶宮)の中を、驚きの表情を浮かべながら、見物する農民達の集団を描いています。農民達の団体参加も見られたのでした。地主の行動を知った工場経営者の中にも、自社の従業員に万国博見物の便宜を与えたのです。月曜日と火曜日の午前を休みにすることで、日曜の夜行列車で郷里を出発。月曜の朝ロンドンに到着。1日見物してその日の夜行で帰路につき、火曜の早朝に帰り着き、半日休息して、午後は、会社に出るのです。勿論、朝からを出勤する場合もありましたが…こちらの場合も5シリングの往復割引切符を利用したことは間違いありません。こうして万国博は、予想以上の好評を博したのです。下の図は、会場入口付近です。1シリングのチケットを求める下層民衆で、混雑している様子が良く分かりますね。いずれにしても、ウィルビー卿の所領やの農民や、会社の許可を得て、万博見物を実行できた会社の従業員らは、その他地域の農民や労働者に比べる時。断然高い労働意欲を燃やしたであろうことは、間違いないように思います。損して得執れの諺同様、先見の明のある方は違うものですね。 続く
2009.04.19
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クロニクル 伊能忠敬蝦夷へ…1800(寛政12)年4月19日今日は地図の日です。それはこの日が、日本の地図の父とも言える伊能忠敬が、5人の仲間と共に6、最初の測量開始の地である蝦夷へ向けて出発した、ちょうど日に当たるからです。忠敬はこの時56才でした。上総で酒造業を営んでいた忠敬は、この4年前1796年に家督を息子に譲って隠居、江戸へ出て高橋至時(よしとき)に弟子入りして天文学を修得、緯度1度の長さを測るべく、地形の測量を思い立ち、幕府の許可を得て、自費による蝦夷地の測量を思い立ったのです。函館から襟裳岬を通って、厚岸から根室と、蝦夷地の東端まで測量して帰路に着き、10月21日に江戸に帰り着きました。この旅に忠敬一行は100両の金子を持参したのですが、帰着した時の一行の所持金は、僅かに1分と、ほぼ100両の金を使いきっていました。幕府は22両1分を下賜してくれましたが、忠敬の持ち出しは大きかったのです。測量を下にした地図の政策は12月21日に完成。出来上がった地図は幕府に献上されました。地図を見た幕府要人は、忠敬の測量技術の高さに驚き、改めて忠敬に日本全国の沿岸測量と地図の作成を依頼、1816年の完了まで、忠敬の測量の旅と地図の作成が行われるのです。それにしても、完成時の忠敬は72才。健康と健脚には驚きを禁じえません。彩色の伊能図は大図214枚、中図8枚、小図3枚からなり、現在国立国会図書館に保存されています。幕府が密かに秘蔵していたため、伊能図を元にした地図が発行されたのは、1865年のことでした
2009.04.19
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イギリスの庶民生活……(5) 第1回万国博覧会のあれこれ…7ロンドンの第1回万国博を契機に生まれたもの、とりわけ地方からの万博見物に関係して生まれたもの、それはリクリエーションの大衆化と共に世界中に伝播し、今や日本でも大変お馴染みになっているものです。そうです。団体旅行、団体割引料金の仕組みの開発と、旅行会社の誕生です。万博見物のために、世界最初の観光旅行団体が組織されたのです。アイディアの創案者はトーマス・クック。世界最大の旅行エージェント、トーマス・クック社の創業者です。クックは、熱心な禁酒論者で、1841年7月の禁酒大会に中部諸州の鉄道会社を説得して、特別団体列車を走らせ、570人の会員を団体特別料金で輸送した経験を持っていました。中部諸州鉄道会社は、やがて合併して中部(ミッドランド)鉄道となっていたのですが、クックは中部地方での万博人気に目をつけ、中部地方からロンドンに向かう鉄道に、団体料金を設定して往復割引切符を導入すれば、万博見物客は飛躍的に増えるだろうと考えたのです。禁酒大会の経験が生きたのです。彼は、早速鉄道会社と交渉して説得を重ね、ロンドンまでの往復割引切符を5シリングとすることに成功したのです。これを知った大北(ヅレート・ノーザン)鉄道もクックに持ちかけて同じ仕組みを導入し、多数の観光客をロンドンに送り出して、大変な人気を博したのです。往復割引切符の持ち主は、急行を除くどの列車にも乗れました。ブラッドフォードという駅では、工場の労働者達が駅に集まり、各自が5シリングの切符を買い、ポケットに僅かの金を残して、土曜日か日曜日の夜行でロンドンにたち、月曜日の夜行でロンドンを出発して、火曜日の朝に戻って、そのまま職場に向かう姿が、会期中続いたと言われています。万国博の終りまでに、クック社が扱った往復割引切符は、合計16万5千枚に達したと言われます。ついでながら、この成功に気を良くしたクックは、1855年の第2回万国博がパリで開かれた時に、イギリス各地からパリまで往復31シリングの団体割引切符を売り出しています。この成功で、翌56年には、ヨーロッパ周遊鉄道の旅を組織するに至るのです。 続く
2009.04.18
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クロニクル 石油税法公布1978(昭和53)年4月18日51年前のこの日、石油税法が公布されました。エネルギー対策の財源に充てるためでした。73年から74年にかけての第一次オイルショックの教訓として、原油を中心としたエネルギー政策の強化の必要が叫ばれました。その結果、(1)石油備蓄基地の建設を含む、石油備蓄の推進、(2)代替エネルギーの開発の2点が必要と判断され、そのための財源として、この法が作られたのです。こうして、この法に基づき、原油・石油製品・ガス状炭化水素に新たに課税されました。
2009.04.18
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イギリスの庶民生活……(5) 第1回万国博覧会のあれこれ…6イギリス各地の労働者や農民は、どのようにしてロンドンにやってきたのでしょうか。それには鉄道網の発達が大きく関係していました。イギリスの鉄道は、1830年にマンチェスター~リヴァプール間が開通したのに始まり、40年代にかけて大きく発達したのです。こうして万国博の開かれた1851年当時には、ロンドンから放射状に鉄道網が敷かれていたのです。写真は、1830ねんのマンチェスター~リヴァプール間の鉄道の開通式です。労働者や農民の多くは鉄道を利用してロンドンを訪れたのです。当時のロンドンは、鉄道会社の市内への乗り入れを禁じていましたから、夫々の鉄道会社の敷設した鉄道は、方面別にパディントン、ヴィクトリア、チャリング・クロスなどなど、別々のターミナル駅から放射状に出発・到着していました。写真は、ロンドンのパディントン駅の混雑する様子を描いたものです。こうしたターミナル駅から、市内へ向かう交通手段は、徒歩か乗合馬車でした。万国博会場のハイド・パークへ向かう道は、自家用馬車やタクシー代わりの辻馬車に、乗合馬車が加わって、大変な混雑が続いたと記されています。そこで鉄道の料金が問題になります。ここに万国博を契機に人間の世界に誕生し、今日なお世界的に隆盛を誇っている一つの産業が登場したのです。もうお分かりと思いますが、いったいそれは何でしょうかというところで、「世界不思議発見」よろしく、本日のお楽しみにさせていただきます。コメント欄にお考えをお書きください。
2009.04.17
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クロニクル 下関条約締結1895(明治28)年4月17日114年前になります。この日、下関の割烹旅館「春帆楼」において開かれていた日清戦争の講和会議でまとまった、下関条約の調印式が行われました。日本側からは、首相の伊藤博文と講和会議全権で外相の陸奥宗光が署名、清国側は全権の李鴻章が署名しました。講和のおよその内容は、(1)清国は朝鮮国が完全な独立国であることを認める(2)台湾、遼東半島、澎湖諸島を日本に割譲する(3)清国は賠償金2億テール(日本円にして約3億円)を支払う(4)清国は日本に最恵国待遇を付与するなどとなっていました。このうち、遼東半島については、ドイツ、フランス、ロシア3国による共同の干渉にあい、僅か数日後に、清国へ返還することとなりました。
2009.04.17
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イギリスの庶民生活……(5) 第1回万国博覧会のあれこれ…51シリングの入場料は、確かに民衆にとっても魅力的な料金でした、しかし、ロンドンに住んでいればともかく、地方の民衆にとって会場までの交通費などの出費を考えると、決して安いとはいえません。それでも人々は、話題の先行した万国博を見物したいと必死になったのです。 それはまさしくイギリスの労働者や農民にとって、地域の祝祭といった昔馴染みの行事とは違った楽しみを提供する場であり、はじめてのリクリエーションと言えるものでした。しかし、万国博の会場は、禁煙とノンアルコールが定められており、場内ではタバコを吸うことも、アルコールを口にすることも、犬を連れて入場することも禁じられていました。場内の軽食堂でもアルコール飲料は一切売られていませんでした。売られていたのは、菓子パン、ソーダ水、レモン水、それにジンジャエール程度でした。変わったものでは氷を売っていましたが、これは博覧会場に据え付けられたのがはじめてという、蒸気力による製氷機で作った氷で、値段も6ペンスと1シリング(氷の大きさによる)の2種類しかなく、民衆にとっては、高価なものでした。5月24日を過ぎて、1シリングデーが始まると、待ちかねていたかのように、貧困層も博覧会場にやってきました。従来のイギリスでは、こうした公的な場に、大挙して労働者階級が現れることはありませんでした。そして有産階級は、大陸ヨーロッパの革命的雰囲気の余熱の伝播を恐れ、博覧会場で大きな混乱が起こりはしないかと、案じていたのです。しかし、その心配は杞憂に終わりました。当時の新聞や万国博のルポルタージュは、博覧会場での労働者階級の行動を、次のように絶賛したのです。「1シリングデーに、博覧会シーズンの不思議が現れた。事前に噂が流れたような、野蛮な行動や騒動などは全くの杞憂で、行儀の良い上機嫌な労働者階級が、際限のない流れとなって、眼を見張り驚きの表情を浮かべながら、水晶宮の入口を通り過ぎた。ガラスに投石する1人の共産主義者もいなかったし、展示された世界最大のダイヤモンドを掴み取ろうとする者もいなかった。」「労働者達の四角い帽子、さっぱりした服装、眼を大きく見開いて驚きの表情を浮かべたボロ着の子ども達、粗末なピクニック袋と赤ん坊、持参したジンジャエールといった情景は、富裕な上流人たちに、思いがけない感動を与えた。イギリス人はめったに気持ちを誇張しないが、こうした光景を見て、労働者達に握手を求めたり、人前で涙を流した者さえ出たのである。」「世間から畏れられていたイギリスの労働者達は、友人としてここに集まっていた。」アルバート公の試みは、図にあたり、世界最初の万国博を、自分達も見たいし、見ることが出来るという、確かな手応えが、労働者階級にもまた、国民意識を植えつけたのでした。
2009.04.16
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「北朝鮮」の「ミサイル」考…(8) オバマ大統領は先日の演説で、日本への核兵器の使用に対する反省の弁を、米国政府筋として始めて述べました。これは、「原爆の使用は、戦争の早期終了のためで、日本も助かったはずだ」と強弁して憚らなかった歴代の政府と比べると、大きな変化でした。米国に迎合する日本の情けない政治家の中にも、こうした主張に迎合する輩がいたくらいですから…。ただし、彼の主張の本筋は、反省の弁にあったのではなく、「誰もが間違いを犯すことがあるのだから、核のような危険な兵器は使えなくしよう。そのための一番良い方法は、全ての核を廃棄することだ。今後そのことを相談してゆきたい」というものでした。オバマ大統領は、核の拡散が止められないことに気付いています。我々世代の若い頃に流行った「007}シリーズには、核兵器を巡る秘密組織との攻防が何度も出てきました。当時は荒唐無稽の話として、非現実の世界を楽しめたのですが、今や核兵器製造技術は陳腐化し、大学院生クラスで製造可能になっているのです。オーム真理教の下で、致死性の毒ガスを大量に製造した若者がいましたが、スカウトされたら核兵器を作る。そうした人間は、どこにでもいそうですね。そして核物質、使用済み核燃料の保管が、安心できる水準に達していない国は、ないといえるでしょうか。盗み出した或いは不正な横流しによって入手した物質によって、核兵器を作ることがあるかもしれない。今や、こうしたことが現実に起こりうるかも知れないのです。60数年前には最新技術であったものも、時間と共にありふれた技術となるのは、当然のことなのです。そして、それは幾何級数的に危険を拡大しているのです。地球を「ナウシカ」の世界にしないためには、単に「北朝鮮」を非難するに留まらず、オバマ大統領の発言を受けて、核廃絶への歩みを支持し、強化して行くことしかありません。それがいかに困難な道であっても、できる限りの協力を、私はしたいと考えています。 おわり
2009.04.16
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クロニクル 「少年よ大志を抱け」1877(明治10)年4月16日「少年よ大志を抱け」は、言わずと知れた札幌農学校でのクラーク博士の、卒業生へのはなむけの言葉であり、同時にお別れの言葉でした。クラーク博士は、当時マサチューセッツ農科大学の学長の職にありましたが、日本政府の要請も断りがたく、大学の長期休暇を利用する形で、札幌農学校の礎石を築きに1876年7月に来日しました。9月~4月16日まで札幌に滞在。札幌農学校(現北海道大学)の教頭として、学校の礎石を築きました。形式的には他に名誉職的校長がいたことになりますが、実質的には校長は存在せず、クラーク博士は事実上の校長であったとされています。初代の北海道開拓使長官の黒田清隆(後首相)に問われて、農学校の校則は「紳士たれ」と一言で良いと、アドヴァイスした話も有名です。博士は卒業生に表記の言葉を送ったあと、132年前のこの日、札幌農学校を去り、しばらく東京に滞在、5月にアメリカに戻りました。
2009.04.16
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イギリスの庶民生活……(5) 第1回万国博覧会のあれこれ…4 第1回の万国博は、大成功を収めました。会期は5月1日から10月15日までの5ヶ月半でした。この間、毎日曜日は休館。最後の月曜日と火曜日も休館でしたから、開催日数は正味140日でした。キリスト教の安息日である日曜日が休館となるのが、日曜日こそかき入れ時と考える、日本などアジア諸国と大きく異なっています。さて、この140日間の入場者数は、公式記録で606万3986人とされています。この中には相当数のリピーターも含まれています。入場者が少なかった時の対策として、期間中何度でも入場できる定期券も売り出されており、およそ2万5千枚の定期券が発売され、定期券を利用した入場回数は、およそ80万回であったと推計されています。それに定期券を持たないリピーターを考慮に入れて、正味の入場者数は400万人~450万人程度だったろうと、推計されています。また外国からの入場者も、アイルランドからの入場者を加味すると、50万人程度であったと考えられています。入場料については、無料化も検討されたのですが、結局有料とされました。入場料は、来場者を出来るだけ増やすために、大変きめ細かく作られました。先ず、先ほど紹介した全会期有効の定期券の料金は、男性用3ポンド3シリング、女性用2ポンド2シリングでした。1日券は開会直後の5月2日と3日は特別に1ポンド(20シリング)、5月4日~24日までは5シリング、それ以降は月曜日~木曜日までは1シリング、金曜日は2シリング6ペンス(2,5シリング)、土曜日は5シリングと定められたのです。入場料が1シリング(=12ペンス)の日なら、下層階級である貧民層でも、最下層以外は万国博を見学することが可能でした。ですから、1シリングデーを設けたことは、あらゆる階層の人々が万博を見物出来るように配慮したことを意味したのです。この決定は、万国博覧会協会総裁であった、アルバート公の英断によるものでしたが、当時としては画期的な試みでした。事実600万人超の入場者の内、1シリング券での入場者は444万人を数え、入場者の70%以上を占めていたのです。 続く
2009.04.15
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「北朝鮮」の「ミサイル」考…(7) 「世界が日本の核武装を気にしている」、昨日こう書きました。自衛隊や世論の一部に、そうした声があることも事実です。しかし、政府や日本の政界は、核武装に否定的ですし、世論を含め、近々に核武装が進む雰囲気はありません。政府にとっては、日米安保の継続、米軍の日本駐留が続くことが最大の関心事ですから、「核武装するなら、もう米軍の駐留はいらないね」とソッポを向かれるのが、何よりも怖いのです。米国政府と米軍のご機嫌を損じることが明白な核武装計画に、政府がOKを出す可能性はないと考えて良いのです。次に、日本の地形的状況から、日本は核の抑止力戦略がとりえない弱点があることです。それは日本の国土が細長く、数発の核弾頭の爆発で、国土全体が壊滅的な被害を受けることが、ほぼ確実だからです。中国や米国は国土面積が広く、全土を核爆発で蔽い尽くすのは難しく、核の影響をあまり受けない地域が残る可能性が、日本や朝鮮半島に比べ格段に高いのです。ところで、核兵器を巡る問題は、実はもっと別の点にあります。核兵器の製造技術が、60年以上も前の技術だという現実です。この60年間の科学や技術の進歩は、大変な物があります。人工衛星の打ち上げから、宇宙ステーションでの宇宙飛行士の滞在、コンピューターの発達、ケータイ電話などなど、上げていけば切りがありません。そして、60年前の新技術は、今や陳腐化し、広く知れ渡った技術に他ならないのです。原子物理学専門の友人の話では、「並程度の実力の大学院生なら、材料さえあれば誰でも原爆程度は作れるよ」となるのです。核兵器は、その気になれば、大抵の国が作ることが出来る、普通の兵器になってしまったということです。材料さえあれば、今や誰もが作ることが出来るのです。核物質の管理が緩い国から、一部の核物質を盗み出せば、民間組織が核を保持することも可能なのです。これは由々しきことになります。核不拡散でなく、まともに核廃絶へ向けた取り組みが、今や求められているのです。先日のオバマ米大統領の演説は、この文脈で読み込んでみる必要があるように思います。 続く
2009.04.15
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東京ディズニー・ランド開園 補遺東京ディズニーランド(TDL)に関してのコメント有難うございます。リンダ夫人のお住まいに近いロス近郊、フロリダ、パリ、香港など…、ディズニーのテーマパークは、いくつも出来ていますが、実は東京というか、千葉県浦安市舞浜のテーマパークだけが持つ、著しい特徴があります。私は、その点が日本のディズニーワールドの他を引き離した成功の原因ではないかと考えています。それは何かと申しますと、日本のディズニーのテーマパークにだけ、ディズニーの資本が1円も入っていないのです。日本にディズニーのテーマパークを誘致しようという運動が盛り上がった1970年代末、実はディズニー・プロは、カリフォルニアに続いて、フォロリダでのテーマパーク建設に全力を注いでいる所だったのです。そこで、(1)資金は全て日本側が持つ、(2)ライセンス契約を結び、入場料収入の一定額をロイヤリティとしてディズニー側に支払い、施設は日本側が所有する、(3)ディズニーが設計と運営指導を行い、クオリティーを管理する、(4)施設の変更、追加、修理等の費用は全て日本側で持つ、という条件で契約が結ばれました。候補地はいくつかあったのですが、最終的に残ったのが、浦安の現在地でした。そこで、京成電鉄・三井不動産・朝日土地(後に三井不動産が吸収合併)の3社の共同出資で、オリエンタルランド(OLC)社が設立され、経営主体となったのです。TDLのシンボルタワー、シンデレラ城は、フロリダのパークと同じものとなりましたが、ディズニーの出資のないことは、実は日本側にもディズニー側にも幸運を齎しました。それは、ディズニーが資金の制約を気にすることなく、市場調査をもとに次々と施設の改修や拡充を提案し、リピーターを確保する戦略を描きやすくしたからです。ディズニー資本が運営を握る他の施設ではこうはいきません。高額のロイヤリティを支払っても、なお十分な利益の出ていたOLCも次第に強気となり、ディズニー側の改修、拡充計画を上回る施設の拡大を求め、その中で入場者数が予想を上回っている事実をもとに、ロイヤリティの引き下げを、ディズニー側に飲ませたのです。TDLとは姉妹組織の東京ディズニーシー(TDS)の建設計画もOLC側の持ちかけたものでした。TDL開業から、18年後2001年9月4日にオープンしたTDSも、TDL同様好調な営業を続けており、両者に入場する人も多く、両者合わせた入場者は、来年中には5億人に達すると予想されています。来場者は増え続けており、83年4月15日の開業後、5月23日には100万人に達し、夏休みを挟んだ、9月5日には早くも500万人を数え、翌年4月5日には、1年足らずで1千万人を達成しています。開業8年を経過した91年5月29日には、早くも1億人を達成していますから、入場者数は好調だった初年度を上回るペースだったことが裏付けられます。2億人達成はさらに早まり、6年後の97年7月25日となっています。3億人からは、2001年のTDS開業からは、TDL+TDSのセット券だ積極的に売り出され、セット券の購入者が増えたことから、両テーマパークのトータルの数字になるのですが、2002年11月に3億人を超え、4年後の2006年11月には4億人を達成してます。何か化け物のような凄さですね。ディズニーの人気とプラン、日本側の資本、そして積極経営が、見事にマッチしていること、両者が共に潤うようになっていることが、成功の秘訣のように思います。
2009.04.15
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クロニクル 東京ディズニー・ランド開園1983(昭和58)年4月15日今年が26周年ですか。この日、東京ディズニー・ランドが開園しました。この間、アトラクションを入れ替えたり、追加したり、さらには様々な街頭アトラクションやディズニーの人気キャラクターのパレードなどのショー・タイムを演出することで、長期にわたってリピーター客が衰えを見せないのが、さすがですね。
2009.04.15
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イギリスの庶民生活……(5) 第1回万国博覧会のあれこれ…3万国博覧会の開幕が決まると、アルバート公を総裁とする万国博覧会協会が組織され、そこから資金集めがスタートしました。実施するか否かでは、様々な議論がありましたが、実施が決まったとなると、記念すべき第1回の博覧会を何としても成功させたいと、王家、政府、産業界から一般国民まで、熱心に寄付金集めに奔走することになったのです。その甲斐あって、万国博の必要経費は、すべて寄付金で賄うことが出来たのです。会場に選ばれたハイド・パークには、万博を象徴する建物として、イギリスの工業力の粋を集めた、ガラスと鉄柱だけを用いた大展示場、水晶宮が建てられました。水晶宮の内部には、自然保護の観点から、建設予定地に根を張っていた楡の巨木を、そのまま建物の内部に取り込むという、当時としては奇想天外の試みも行われました。下の写真が水晶宮内部を描いたもので、その中央部の「ガラスの噴水」の後方に、建物内に取り込まれた楡の巨木が描かれています。まさに建物全体が巨大な温室だったのです。博覧会の出品者や出品団体は1万5千を数え、出品点数は10万点を超えました。参加国は、大陸ヨーロッパ諸国はもとより、米国、カナダ、中国、インドと、なお鎖国体制にあった日本は別ですが、文字通り世界各国に及んでいました。開幕は5月の1日、そこから10月15日の閉幕まで、文字通り5ヶ月半の会期中は、連日大入り満員の盛況だったとされています。期間中の入場者は600万人を超え、予想を上回る大成功を収めたのでした。博覧会協会の手に残った純益は、21万ポンドに達しました。この純益を使って、サウス・ケンジントンに86エーカー(34,4ヘクタール)の土地を購入し、そこに大英博物館の自然史部門、ヴィクトリア&アルバート博物館やアルバート・ホール、さらには現在のロンドン大学の前身などが作られたのです。なお、水晶宮は、取り壊してしまうのは惜しいと、3年後の54年にテームズ川の南、シドナムに移築されたのですが、残念ながら1936年に火災で焼失し、現在は残っておりません。 続く
2009.04.14
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「北朝鮮」の「ミサイル」考…(6) ところで、「ミサイル」問題、国連安保理の議題として取り上げられ、かなりの時間を割いた上で、「議長声明」という形で決着しました。例によって、時々刻々折衝過程を含む議論が紹介されたのは、日本だけでしたが…。安保理で「北朝鮮」非難決議をと、強く主張したのは日本だけでした。その日本の主張に米国が理解を示し、中国とロシアがそれでは「北朝鮮」を刺激しすぎるとして、より緩やかな着地点を探すという、まさに予測した通りの動きとなりました。しかし、その後の展開には驚きがありました。寄り緩い線ではなく、拘束力はないものの二番目に強い形である議長声明にまで、中国・ロシアのOKが出たことです。しかも声明文の内容には、かなり強い調子の「北朝鮮」への非難が盛り込まれたからです。かつて、これだけ日本の主張が安保理の場で認められたことはないように思います。各国が「北朝鮮」の「ミサイル」に差し迫った脅威を感じていないことは、既に記しました。だとすると、いわば騒ぎすぎの日本に、何故ここまで付き合ってくれたかが、次のポイントになります。経済の一流国といえば、日・米・独というのが今日の常識ですが、このうちドイツと日本は核兵器を持っておりません。しかし、その経済的実力と高度の工業技術からして、日・独の2国は、その気になれば、簡単に核兵器を製造する能力を持っています。ただし、ドイツは国内の原子力発電を、全てやめてしまっていますから、核燃料お手当てが日本より難しいのですが…。それに対して日本は原子力発電大国です。使用済み核燃料も大量に保管しています。その気になれば、短期間に大量の核兵器を作ることが可能なのです。しかも人工衛星の打ち上げ技術も、既に確立しています。知らぬは内部ばかりなりで、暢気に構えている筆頭は、我々日本人ばかりのようなのです。実はかなり前から、自衛隊の装備する兵器は、アジアでダントツのトップなのです。アジアの国々にとって、自衛隊は日本の軍隊であり、しかもアジア最強の兵器で装備を固めているのです。その日本は豊富な使用踏み核燃料を使って、核兵器開発に踏み出したとしたら、それは悪夢なのです。そうさせないためには、何とか日本を満足させ、日本の国民世論が核武装容認に向かわないように、しなければならない。そこまでの対日譲歩はやむをえない。これが常任理事国の合意内容だったのではないか。私はこう考えています。日本以外の世界にとって、「北朝鮮」の自称「核開発」と「ミサイル」発射実験は、大きな問題にはなりえない物でした。しかし、それは別の困った問題を生んでしまったのです。それが日本の過剰反応でした。過剰反応のあまり、日本の世論が核保有国化に傾いたら、それこそ一大事。対米一辺倒の官僚と政治家は、米国の言うことを聞いてくれるだろうが、世論が核保有に傾いてしまったら、手に負えなくなる。それは悪夢だ。こうした判断が、今回の安保理の議長声明の背景だろうと、私は予測しています。 続く
2009.04.14
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クロニクル 株式取引所で取引中止1920(大正9)年4月14日1920年の年明けは、第一次世界大戦終了後の経済不振の中で開けました。2月の5日には、官営八幡製鉄所の労働者、13000人がストライキに入り、3月15日には株式市場で最初の暴落が観察されました。戦後恐慌の雰囲気が、この頃から濃くなっていたのです。4月の10日には、日銀が経済界の救済のために、無制限の非常貸し出しを行う旨が発表されたのですが、事態は好転せず、この日東京・大阪の両証券取引所で株価が大暴落となり、政府はただちに両証券取引所の閉鎖を命じ、一切の証券取引を禁じたのです。
2009.04.14
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イギリスの庶民生活……(5) 第1回万国博覧会のあれこれ…2アルバート公はベルギー国王レオポルド1世の甥にあたり、ヴィクトリア女王とは母方の従兄の間柄でした。2人の相思相愛は有名で、熱烈な恋愛結婚でした。そんな関係かアルバート公は、政治の世界では決して目立たず、音楽や芸術や学術のパトロンに徹し、その関係で英国産業の発展にも関心が深かったのです。万国博という画期的なアイディアも、アルバート公の発案になるものでした。しかし、当時のイギリス議会は、万国博の開催に反対でした。ヨーロッパ世界にとって、1848年という年は、一連の連鎖的な革命の年でした。フランスの二月革命に始まり、ドイツ各地やイタリア諸都市の三月革命など、48年は年間を通して、革命の嵐が吹き荒れた年でした。その最中の万国博の提案です。しかも同じ1848年、マルクスとエンゲルスの2人によって、『共産党宣言』が発表され、「万国の労働者よ、団結せよ」と、国際的な共産主義運動が呼びかけられていたのです。英国議会に結集したジェントルマンたちは、今の情勢で万国博を開けば、大陸諸国からたくさんの革命家がイギリスに押し寄せ、イギリスの労働者を洗脳して、英国内を混乱させるに違いないと恐れたのです。産業家たちも、イギリスの優れた技術の秘密が、優秀な機械や製品の展示で盗まれてしまうのではないかと、心配したのです。こうした不安や反対の声に対し、女王の支持を得たアルバート公は、粘り強く議会の反対派を説得したのです。公の熱意に、先ず上院が折れ、下院もしぶしぶながら賛成に回り、こうして万国博の開催が決まったのです。会場にはハイド・パークが選ばれました。 続く
2009.04.13
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「北朝鮮」の「ミサイル」考…(5) 米軍は、世界的に経費の節減を進めており、輸送手段の長足の進歩と、戦争の電子化を背景に、韓国や日本に展開している部隊を撤収してグアム島を拠点とした機動展開に戦略を切り替えることを、強く望んでいます。実際に「北朝鮮」と対峙する最前線の韓国からの部隊の撤収については、既に一部が実施に移され、今後もスケジュール通りに進んでいくものと考えられています。その点は韓国も承認しています。ゴテテいるのは日本なのです。日本政府は、何とか米軍に留まってもらおうと考え、そのために国際協調体制が進見過ぎないように、様々な工夫を凝らして、国際緊張の緩和ムードが広がるのを避けるために、ことさらに「北朝鮮」との対決姿勢を強めているように見えます。例をあげるなら、私は日本政府に「拉致問題」を本気で解決する気があるのだろうかと疑っています。解決する気があるなら、強攻策一辺倒で交渉の場に臨むはずはありません。外交的に解決しようとするなら、相手のメンツが立つ工夫を凝らすことが、最低限必要であることは、何度も指摘しましたが、外交のイロハです。それなのに何故? 政治学のイロハに、「政治権力は価値剥奪の権限をもっている。ただし、それは最後の手段として、日頃は隠している」という部分があります。私も大学1年の一般教養科目の「政治学」の時間に、開口一番このことを教えられました。つまり、死亡と発表された拉致被害者の方が、もし現在なお生きておられたとしても(私は、その可能性は極めて低いと考えていますが)、生かしておいては、メンツが立たないと、「北朝鮮」政府が考えたとすれば、ここからでも闇から闇へ葬られる可能性は、あるのです。日本政府は、次から次へと、「北朝鮮」政府が飲めないような条件を突きつけ、交渉を決裂に終わらせ、「北」との緊張が高まるように高まるように、仕向けている。私にはこう見えます。それは、米軍に今後も現状規模での米軍の駐留を続けて欲しいから。そこには、基地問題に悩む自治体や周辺住民の苦痛を和らげようという、国民の政府としてのとうぜんな行動は、考慮されていないのです。グアム移転が実現すれば、わが県で言えば、座間のキャンプは一部の通信施設を除けば不要になるでしょう。沖縄の基地も大きく減らすことが出来るのです。日本のような、経済立国とりわけ貿易立国にとって、国際緊張の高まりは、マイナスでしかありません。緊張緩和こそが日本のメリットであり、唯一の被爆国であり、世界で最もひどい爆撃を受けた国の一つでもある日本の使命のはずなのですが…。少なくとも、憲法の前文は、そのことを高らかに表現しているのですが… 続く
2009.04.13
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クロニクル 全国サラリーマン同盟結成1969(昭和44)年4月13日40年前のこの日、中村武史、青木茂両氏らを中心に結成された全国のサラリーマンの横断的な組織。サラリーマン減税や源泉徴収の廃止、必要経費を認めることなどを要求。サラリーマンの支持をある程度集めましたが、大きな支持を集めるには至りませんでした。1982(昭和57)年、参議院に比例代表制が導入されると、サラリーマン同盟は、83年青木茂を代表にサラリーマン新党にを結成、2名を参院に送り込み、次の86年選挙でも1名を当選させましたが、やがて解党に至り、ここでも支持は伸び悩みました。サラリーマンと言っても、その存在は多岐に渡り、団結するのは容易でないことが証明されたのです。
2009.04.13
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イギリスの庶民生活……(5)第1回万国博覧会のあれこれロンドンのハイド・パークの西南の一郭に、音楽ホールとして名高い、ロイヤル・アルバート・ホールがあります。ヴィクトリア女王の夫君、アルバート公の名を冠したホールに面して、巨大な銅像が立っています。下の写真がそれです。ゴチック風の見上げるような高い尖塔をつけた天蓋と、石段のついた台座から、銅像の主はよほどの著名人だろうと想像が出来ます。気になって、プレートを注意して読んでみて、はじめて銅像の主がどなたであるか、知りました。アルバート公その人だったのです。1851年に開かれた第1回ロンドン万国博覧会の提唱者で、大会の総裁を務めたアルバート公を記念した、モニュメントなのです。良く見ると、公の銅像が手にしているのは、第1回万国博のカタログでした。大理石の台座の周りには、人間文明の発展に貢献した多くの学者や芸術家のレリーフが刻まれ、台座の四隅には、農業、工業、商業、技術の四部門を代表する群衆を飾り、さらに石段の外側の四隅には、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカの四大陸を象徴するような彫刻が施されたいます。アルバート公は、開会式での挨拶で、「これまで全ての歴史が目指した偉大な目標は、人類の統一であり、現代はその実現に向かって、急速に近づいている。」と、語りました。そのまま現代に持ってきても通用しそうです。アルバート公が理想とした万国博の精神は、この言葉に凝縮されています。記念碑は万国博の理念を、形にしたものなのです。
2009.04.12
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「北朝鮮」の「ミサイル」考…(4)日本政府は、相変わらず大騒ぎを続けています。マスコミも一緒に踊ってくれていることに気を良くしたのでしょう。世界は失敗した人工衛星の打ち上げだったという線で、統一されてきているのに、日本だけは、「ミサイル」に統一するという念の入れようです。ヤレヤレ…。今回の北朝鮮の行為は、明らかに日本外交の失敗を物語っています。「拉致問題」を口実にした強硬姿勢をとり続けたことです。外交とは国際間の対話を伴います。相手の顔をいかに立てながら、自国にとっても納得できる解決策を導くことが、その使命になります。オールオアナッシングは、そこではありえません。それを承知で強攻策一辺倒では、問題はこじれる一方です。「北風と太陽」の寓話にもある通り、圧力(北風)は対話を促す手段にはなっても、直接問題の解決に繋がるものではありません。「北朝鮮」当局の立場を考えてみましょう。ブッシュ政権は、様々な譲歩をしたイラクのフセイン政権を、それこそ問答無用の態度で攻撃し、崩壊に追い込みました。外交ルールは勿論、国連の制止をも無視した無茶苦茶な攻撃でした。当然、米国や米国に追従しがちな日本への譲歩には懐疑的になります。ですから、交渉によって「北朝鮮」の譲歩を促すには、今まで以上に積極的に、相手の猜疑心を氷解させる努力が必要でした。それを日本外交はしたでしょうか。5名の拉致被害者とその家族の帰国以降については、そうした努力がなされたようには見えません。ひたすら成算の見えない圧力ばかりをかけ続けていたように、私には見えます。その挙句が、先年の「核実験」(これは本当だったのかどうか、かなり疑問点が多いのですが…)であり、今回の「ミサイル」事件でした。そして日本政府は、外交の失敗であることを指摘されることを懸念して、いち早く声高に「北朝鮮」を非難し、国民の不安を煽り立てることに腐心したのです。ところで、今回の「ミサイル」に限りません。「拉致問題」も含めた対「北朝鮮」の強硬姿勢の狙いはどこにあるのでしょうか。コメントにも「憲法改正」、9条の廃止というご意見が見られました。長期的にはその線もあるかと思いますが、現実の日本社会は、解釈改憲が罷り通っており、政府が今すぐ改憲の必要を感じているとも思えません。私は、真の狙いは、米軍を出来るだけ長く日本に引き止めておきたいからだろうと、考えています。実は、小泉内閣の前、森内閣や小渕内閣の頃から、米国政府は、米軍を日本や韓国へ駐留させる必要を感じなくなり、有事の駐留に切り替える方針を、真剣に検討するようになっていたのです。 続く
2009.04.12
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クロニクル 振り替え休日の誕生1973(昭和48)年4月12日36年前のこの日、祝日法改正案が可決成立し、祝日が日曜日と重なった場合、次の月曜日を休日とすることが、決まりました。この年は丁度秋に第一次オイルショックが発生する年で、日本の高度経済成長の最終局面にありました。世界から日本人は働きすぎだと言った声が、数多く寄せられていた時期であり、田中内閣は休日を増やすことで、働きすぎ批判をかわすことを、狙っていたのです。
2009.04.12
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イギリスの庶民生活……(4) 家事使用人…20日本では、長く女中さんという言葉を使い、近い過去ではお手伝いさんという言葉が使われた、家事使用人に関する叙述も本日で終わりです。。19世紀の到来と共に男性の家事使用人が減少の一途を辿り、女性化が進んだ家事使用人の世界は、19世紀の末をピークとして、20世紀と共に急速に減少していきます。とりわけ第一次世界大戦後の減少は著しく、ミドルクラスの家庭では、家事労働は再び主婦労働に置き換えられ、主婦の家事労働を助ける仲間はメイドたちから機械に変わってゆきます。ミシンの登場はその第1歩で、やがて掃除機や洗濯機、冷蔵庫が加わって行くのです。即ち、日本では、1950年代後半から普及し始めた「三種の神器」は、西洋では1920年代と共に普及のサイクルに入っていたのです。1920年代からは、ステータス・シンボルとしてのメイドの雇用は、社会のごく限られた最上層の家庭に限られることとなったのです。19世紀の初めに、家事奉公の領域から男性の労働者が姿を消していったように、20世紀には、女性の労働力もまた、家事奉公から姿を消したのです。当然そこには、男性労働者の場合がそうであったように、家事奉公に代わり、もっと実入りの良い女性労働者のための仕事場が用意されていました。昨年初めに連載した第一次世界大戦については、フリーページにまとめておきましたが、その中で私は、大戦中、男性労働者が出征したために、労働市場に空白が生じ、工場経営者達はその空白を女性労働力によって、埋めざるを得なかったことを記しました。そしてこれより少し前、スコットランド移民のアメリカ人、グラハム・ベルによって1876年に発明された電話は、90年代から爆発的に利用が伸び、20世紀に入ると電話交換手は、女性労働者にとっての憧れの職種となったのです(下の写真は、『ル・プチ・ジュルナル』誌1904年4月号に掲載されたものです)。こうして、女性労働者も、ミドルクラスの家庭で働く小間使いよりも、もっと恥ずかしくない職種であると受け止めることの出来る仕事を、選ぶことが可能となったのです。こうした家事奉公の仕事は、他の仕事が見つかるまでの、一時避難的な仕事に位置に追いやられ、減少の一途を辿っていったのです。
2009.04.11
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