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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(7)さて、ヴィクトリア女王は、結婚後も重要な王室行事や家族の行事の時には、結婚式の時に用いたホニトンレースのベールを着用し続けました。子ども達の結婚式や、子や孫の洗礼式の時などです。女王は1861年12月に、最愛の夫アルバート公に先立たれた後は、生涯喪服で通したのですが、その喪服の上からホニトンレースのベールを被り続けたのでした。下の写真は、1887年に行なわれたヴィクトリア女王即位50周年記念式典の際の、女王の写真です。喪服に、ホニトンレールのベールを被った姿は、とても68歳とは思えないほど、若々しく自信に満ちています。ただし、このベールは結婚以来愛用していたベールではなく、新しく作り直したホニトンレースのベールです。永年の使用でクリーム色に変色しながら、なお独特の輝きを持っていた結婚式のベールは、1857年生まれの末娘プリンセス・ベアトリスが1885年に結婚した際に、女王が彼女に譲り、ベアトリスのウエディングドレスを引きたてたのです。王室のゴッドマザーであるヴィクトリア女王自らが、率先してホニトンレースを愛用しているのですから、王室全体がこれに習います。女王の子どもたちの洗礼式用にも、ホニトンレース製のローブが、特別に注文されています。このローブは、現代の王室の子孫の洗礼式でも使われています。イギリスのロイヤルファミリーは、ヴィクトリア女王の影響で、事あるごとにホニトンレースを愛用し、着用したのです。こうなれば、ホニトンレースと言えば、誰もがヴィクトリア女王と英国王室を思い浮かべるようになります。女王ばかりでなく、ロイヤルファミリーが事あるごとにホニトンレースを着用してる。この事実は新聞や雑誌を通じて、広くイギリス国民の下に届けられます。当然、民衆はホニトンレースは女王一家が揃って愛用なさるのだから、外国製のレースなどより素晴らしいものに違いないと、思うようになります。こうしてホニトンレースは、王室ご用達のレースとして、イギリス中でもてはやされたのです。
2009.06.30
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宗教改革よもやま話 (35) アウグスブルクの都市条例の一部を紹介しますと。1553年の条例には、「結婚に際には、必ずカトリック或いは宗教改革派(ルター派といわずに、こう表現されています)の聖職者による秘蹟、またはそれに代わる儀式を受けること」「一定の財産を持たない者は結婚できないこと」などが規定されています。結婚は夫婦による生活共同体の形成ですから、最小限生きて行くのに十分な収入がなければならなかったからです。農家などでは、親が亡くなって農地の所有権や耕作権(小作地の場合)を相続しなければ、結婚出来ない者が多かったのです。都市でも1人前の職人として、生活していくに十分な収入が確保できるようにならない限り、結婚は無理だったのです。こうした事情から、ぺストやチフスといった伝染病が流行し、死亡者が続出した地域では、それからしばらくは、結婚ラッシュで賑うというのが、お定まりの光景になっていたほどなのです。さらにこんな条文が続きます。「市民の娘と結婚する者は、市民権を持っている者は良いが、持っていない者は、結婚後ただちに市外に移住しなければならない」市民権のない者の市内居住が単身者に限っていたからです。市民権のない居住者は増やしたくないが、しかし労働力は必要だという、都市共同体の論理が透けて見えます。さらに、1581年の「婚姻規定」では、「華美に過ぎる披露宴が多くなっているので、自粛すること」「キリスト教の精進の期間である、四旬節の期間に、結婚式を行なってはならない」などと記されます。なにやら節約の精神や宗教心が薄れてきていることに危機感を持っているような、書き方です。おそらくこうした危機感は、各宗派もまた共有していたのでしょうね。さらに「結婚したい当事者は、先ず市政府の結婚問題課に出頭して、身分、財産、親族の同意を明らかにすること」「次に自分の宗派の聖職者の下に赴き。結婚問題課が発行した結婚許可証を示した上で、結婚の秘蹟あるいはそれに代わる儀式を受けること」と、結婚の手続きを定めています。こうした規定の下では、出来ちゃった婚とか、親が健在な場合には、その同意のない結婚は、難しいことになります。こうした点で、市政府と2宗派とは、利害を共有できていたのです。
2009.06.30
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クロニクル 村山内閣発足1994(平成6)年6月30日15年前のこの日、社会党の村山富市委員長を首班とする、自民・社会・さきがけ3党の連立政権が誕生しました。戦後2度目の社会党委員長を首班とする内閣がここに誕生しました(1度目は、1947{昭和22}年6月1日に誕生した片山哲内閣です)。村山首相の外に、河野洋平自民党総裁が副総理兼外相、武村正義さきがけ代表が蔵相、他に橋本龍太郎通産相、五十嵐広三官房長官といった布陣でした。
2009.06.30
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世界経済の現状 (39) 米国の住宅事情ですが、こちらは一向に改善傾向は見られません。統計によれば、ファニー・メイやフレディ・マックの差し押さえ率の上昇と、失業率の上昇は、見事に一致すると言われています。90日間際し押さえを禁じ、この間にローンの借り換えを行なうように促した、90日間の猶予期間も切れました。そして、多少ですが、資金がまわるようになってきた。そうすると金融機関のすることはひとつです。出きるだけ不良資産を処分する。これに尽きます。その結果、オークションによる中古住宅の投売りが始まります。こんな事実が報じられています。長谷川投手が在籍したエンゼルスの根拠地アナハイムでのことですが、寝室が二つある中古住宅が、565,000ドルで売りに出されたのですが、結局206,000ドルという安値で落札されたというのです。何と359,000ドルの値引きです。60%以上の値引きです。こうしたオークションは、担保権を持つ銀行がOKしないと、実施できません。また売却についても、販売価格はそのまま借金の返済に充てられますから、こうした極端なディスカウント販売は、銀行の承諾なしには、実現しないのです。いよいよ銀行が手持ちの物件を、持ちこたえられなくなってきた。新規の差し押さえが多くなり、管理経費もバカにならないし、今後も住宅価格は下がりそうだ。持っていてもロスが増えるだけだからと、資金循環の回復傾向に背中を押されたこともあり、銀行が思い切ったロスカットを始めたのですね。こうして、大幅な住宅価格のディスカウントが、当分続くのでしょうね。 続く
2009.06.29
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クロニクル ソウルで百貨店火災1995(平成7)年6月29日14年も前になりました。この日韓国ソウルの三豊百貨店で火災が発生、全館がほぼ焼失する大火災となって、512人の来店客や店員が死亡する大惨事となりました。人混みでの火災は怖いですね。
2009.06.29
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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(6) 白のウエディングドレス、手編みレースのベール、オレンジの花の髪飾りの3点セットは、長期にわたって、花嫁衣裳の定番となって行ったのですが、ヴィクトリア女王の子ども達もまた、この点の定着に貢献していました。女王の長女、プリンセス・ロイヤルは1858年にプロイセンのプリンス、フリードリッヒ(後のフリードリッヒ3世)と結婚しましたが、その時彼女は、ホニトンレースのフラウンスが3段ついた豪華な白のウエディングドレスを着、髪にはやはりオレンジの花を挿しています。次女のプリンセス・アリスも1862年に結婚した時、白のドレスにベールを被っています。そして翌1863年、長男のプリンス・オブ・ウエールズ(イギリスの皇太子は、代々プリンス・オブ・ウエールズを名乗るしきたりでした)が結婚した時、花嫁となったデンマーク国王の令嬢、プリンセス・アレクサンドラもまた、ホニトンレースのトリミングが施された白のウエディングドレスを身に纏ったのです。 下の図が皇太子夫妻の結婚衣装です。それにしても、父譲りで長身の皇太子と遜色ないのですから、プリンセス・アレクサンドラはかなりの長身でした。こうした王室の花嫁達のウエディングドレスは、ヴィクトリア女王の衣装とおなじように、新聞や雑誌で全国に報道されました。こうして、白のウエディングドレスにホニトンレースのベールを被るという、花嫁衣裳のイメージは、押しも押されもしないものとして、イギリス国民の中に定着していったのです。 続く
2009.06.28
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クロニクル ヒマワリ6号本格運用へ2005(平成17)年6月28日4年前ですね。気象観測衛星ヒマワリ6号が、この日から本格的に運用されるようになり、気象観測データが、刻々と送られてくるようになりました。確かに、この頃から、天気予報の精度が格段に向上してきたのは、日々の実感として、私も感じ取っていました。皆さんはいかがですか。
2009.06.28
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宗教改革よもやま話 (34)アウグスブルクは、1555年にカトリックの守護者を任ずる「神聖ローマ帝国」皇帝とルター派諸侯との間で、宗教和議が結ばれた都市として名を知られた帝国自由都市です。この市は、1534年から48年までの約15年間、宗教改革派になったことがありますが、以後は一貫して2宗派共存都市として存続することになりました。そこでは、信徒の結婚問題はどう扱われたのでしょうか。中世都市の時代から、市民の結婚問題を司る権限を持っていたのは、カトリック教会の地域組織の長たるアウグスブルク司教でした。しかし中世も後半に入ると、都市政府が次第に成長し、市民生活を統括するために、市民の結婚に関する実質的な権限を、できるだけ教会から切り離して、自己の手中に収める努力を続けていたのです。そのため、宗教改革の登場は、市民の信仰生活をカトリック教会から切り離す試みなのですから、市政府にとっては願ってもない援軍となったのです。ですから、宗教改革派となった都市では、市政府が市民の結婚を裁可する権限を持つことになりました。アウグスブルクの場合、2宗派共存の体制になりましたので、カトリックとルター派双方の教会での認可と共に、市政府の結婚問題課の承認を売ることが必要だと、定められたのです。市当局も市民の結婚に関与する権限を得たのです。カトリック、ルター派の双方とっても、市当局の関与は願ったり適ったりの面を持っていました。と言うのは、2宗派の信徒が共に市内で暮らす限り、宗派の異なる男女の結婚を認めるか否かという問題が出てくることが、当然のこととして予測できたからでした。この場合、2つの宗派と直接的な利害関係のない、都市当局の判断を仰ぎ、それを尊重するという逃げ道を持つことが出来るのは、大変有難いことだったからです。 続く
2009.06.27
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世界経済の現状 (38) 金融危機は峠を越えた式の論調が目立ってきましたが、当局の大丈夫ほど宛てにならないものはありません。その点は慎重に考える必要があるように思います。金融に詳しい方に教えていただいたのですが、ここから来年にかけて、オプションARM(アーム)とかオルト(ALT)Aと呼ばれる債権のリセットが急増するのです。オプションARMを例にとりますと、当初の3年間とか5年間の支払いを低く抑え、この期間満了後、返済金額が大きく増えるタイプのローンです。サブプライムローンの場合、支払いを低く抑える期間は3年だったのですが、オプションARMの場合、この期間を5年としているものが多いようです。今、利息5%で50万ドルの住宅ローンを組んだとします。年間の利払いは2万5千ドルですから、普通に行けば、元金は据え置いたとしても、毎月2083ドル少々の支払いが必要になります。それを、最初の5年間に限り、利払いを毎月500ドルに抑えるという仕組みです。すると、1年で6千ドルしか支払ってないのですから、差額の1万9千ドル分は、返済元金に上乗せされるわけです。翌年はその分が、上乗せされます。こうして5年たちます。その時の返済元本は、軽く60万ドルを超えていることになります。5年を超えるときに、時節に合わせて、支払い金利が変更になります。この時の変更金利は、米国債金利を基準に、それに一定率を上乗せして決まります。契約時より金利が下がっていれば良いのですが、現在のように、多額の国債の発行で、国債金利が上がっていると、当然改訂金利は上昇します。そしてもう一つ、ここで支払いのディスカウントは終了しますから、ここから20年間とか30年間で元利合計を返済することになりますから、年間の支払額は一挙に10倍の6万ドルを超える額になってくるのです。これは、サブプライムローンよりも、遥かに優良な顧客であっても簡単に払える額ではありません。何故銀行がこんなローンを組成したのでしょうか。住宅価格が右肩上がりで上昇すると考えたからです。5年も経てば、かなりのキャピタルゲインが望める。当然住宅価格はローン金額を上回って上昇しているだろう。そこで、改めて新しいローンを組みなおす。キャピタルゲインをも組み込んで70万ドルなら70万ドルのローンに組替え、60万ドルは返済してもらったことにして、顧客に10万ドルだけ渡すのです(或いは、顧客が別に持っているカードローンの返済に充てるのです)。つまり、キャピタルゲインがあるだろうから、5年後にリセットしてリスタートすれば、何の問題もないというわけです。ところが、住宅バブルははじけ、住宅は値下がりしました。5年前の住宅価格を基準にして、キャピタルゲインのある住宅、現在はそんな住宅はありえないでしょう。どうなるかは、見えています。当然返済不能です。アメリカのローンはノンリコースが主流ですから、住んでいる住宅を引き払って、住宅を銀行に引き渡せば、追加の返済を求められることはないのが、日本の場合のバブル崩壊時との違いです。このケースが、やはり7月以降に急増することが見込まれています。その中のかなりの部分は証券化されています。こうしたものが大量に残っているのに、「金融危機は最悪期を脱した」という、当局の説明を鵜呑みにして良いものでしょうか。まだまだ、現在の危機の脱出には、長い時間がかかりそうな気がしてなりません。 続く
2009.06.27
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クロニクル 世界最初のATM設置1967(昭和42)年6月27日42年も前のことなのですね。この日イギリスのバークレー銀行が、ロンドン支店に、世界で始めてのATMを設置しました。随分速かったのですね。日本での設置は、数年遅れたのでしょうか。当時日本育英会の奨学金は、住友銀行への振込みでしたが、まだ店内にATMはなく、引き出しには相当時間、店内で待つ覚悟で出かけなければならず、かなりの不自由を感じたものでした。ATMがあれば、あんな思いはしなくて済んだのですがねぇ…。
2009.06.27
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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(5)下の図は、1830年代末~1840年代初にかけて、1部特権階級の花嫁の間で好まれたウエディングドレスです。釣鐘型のスカートに胸が開いたボディスに特徴があります。白い色が好まれるようになってきたのも、この頃です。お洒落な花嫁は、手織りレースのヴェールを被り、オレンジの花を髪に挿しました。ヴィクトリア女王のウエディングドレスも、この流れに沿ったものでした。女王のウエディングドレスは、決して奇を衒ったものではなく、当時の特権階級の良識の範囲のスタイルだったのです。違いは、衣装の全てが国産だったという点にありました。当時はホニトンのレースよりも、ブラッセルのレースのほうが明らかに良質だったからです。もうひとつ、このスタイルはイギリス独自のものではなく、外国から入ってきたファッションとイギリス的なものが混じり合った、ごった煮的なファッションでした。オレンジの花を髪に挿す風習は、多産の象徴として地中海地方から、フランス経由で伝わったものでした。ヴェールを頭の後部に被る習慣も、ギリシア・ローマ時代の流行が復活したものでした。白が、1部の特権階級の間で、特別の色として意識されるようになったのは、1820年代の末頃からと言われています。この頃正装用のドレスは、青や赤といった色物が流行していたのですが、そうだったからこそ、特権階級の女性たちは、ウエディングドレスには白を選ぶようになったとされています。こうした点を総合すると、ヴィクトリア女王の結婚当時、白のウエディングドレスは、イギリス女性の花嫁衣裳としての確固とした地位を、まだ築いてはいなかったといえます。19世紀に入ってから大陸ヨーロッパから伝わってきたものや、流行のものが寄せ集められて、何となく出来ていたと言えましょう。ヴィクトリア女王が、こうした衣装に身を包んで、公衆の面前に姿を現し、この衣装で新郎新婦が人々の祝福を受けたのです。この事実によって、有象無象の外国製ファッションが、イギリス王室のお墨付きを得たのです。少なくとも、外国から借り物ファッションは、イギリスの女王が身に纏って、公衆の面前に姿を現したことによって、イギリスの正当な花嫁衣裳、女王の花嫁衣裳として、認知されたのです。しかもこの衣装は、1部特権階級の間では、流行の兆しを見せていましたし、アルバート公との結婚によって、女王の人気は急上昇を遂げつつあったのです。もちろん、時代の動きにつれて、袖の形、ネックライン、ヴェールの長さといった細部は変化していきます。しかし、白のドレス、ヴェール、そしてオレンジの花の髪飾りという三つの基本は、長く受け継がれていったのです。 続く
2009.06.26
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宗教改革よもやま話 (33) ルターや聖職者の結婚の話を記しました。キリスト教の世界では、結婚には聖職者またはこれに準じる人たちの祝福を受けることが必要とされています。これに順じるという複雑な表現をしたわけは、やがて出てくるカルヴァン派が聖職者の存在を否定し、仲間内の長老が信仰の儀式の司式を勤めることを定めているためです。つまりカルヴァン派には司祭や司教はいないからです。ルターの登場以前では、カトリック教会が全ての結婚を仕切っていました。教会は幼児に洗礼を施し、結婚の儀式を取り仕切って、夫婦の門出を祝福し、そして死に臨んでの告解を促して神への許しを乞い、終油を施すなどの行為によって、人の一生を支配していたのです。こうした民衆の結婚の手続きについても、宗教改革は変革を促しました。特にドイツの場合、カトリックとルター派の信仰は、領主や都市の市政担当者にって、選ばれることによって、地域全体の信仰とされたのですが、約20程の都市は、カトリックとルター派とが共存する都市という事になりました。地域住民の全てがルター派かカトリックであれば、問題は起きないのですが、両派が共存することになった(これを2宗派共存都市と言います)約20の自由都市では、宗派の異なる男女の結婚問題が起きることになります。シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は、相対立する家同士の男女が恋仲になる話ですが、この家同士の対立を宗派の異なる者同士に置き換えていただければ良いと存じます。教会はまた、結婚に際しての祝福と秘蹟だけでなく、結婚から派生する様々な問題の裁定を行なう権限も持っていました。ルター派(宗教改革派)は、婚姻を聖令典(秘蹟)から外してしまうのですが、それでも結婚に立会い祝福を授けることによって、人々の生活の節目を管理することは、忘れなかったのです。そこで、明日から2宗派共存都市の中で最大の都市であった、アウグスブルグを例に、宗派の異なる男女の結婚について、記すことにしようと思います。 続く
2009.06.26
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クロニクル 雪印乳業の集団食中毒事件発生2000(平成12)年6月26日9年前ですね。この日雪印乳業の低脂肪牛乳を飲んだ人が、食中毒を煩いました。これが雪印乳業の集団食中毒事件の始まりでした。被害は関西中心に広まりました。雪印乳業の関西の工場で、脂肪牛乳にブドウ球菌が混入したことによる被害でした。被害は7月末にかけて広まり、13420人が食中毒を患うという未曾有の被害を齎したのです。雪印の社長が、記者会見を打ち切ろうとして、「私は寝てないのだから…」と話す映像が流れ、顰蹙をかったのも、この時のことでした。雪印グループでは、翌年雪印食品が牛肉偽装事件を起こして問題になるなど、同社グループ全体の、食品管理の杜撰さが明るみに出ました。
2009.06.26
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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(4) さて、結婚後のヴィクトリア女王は、同年末に長男を、翌年末には長女を、続いて43年、44年、46年、48年、50年と10年間に7人の子を産む、健康で多産な、理想的な妻を演じました。こうした女王でありながら、控え目な花嫁であって、理想的な妻となったヴィクトリアは、イギリス中の注目を集めたのです。そのことは、彼女が身につけたウエディングドレスをも、話題の中心に残すことに繋がりました。女王の結婚後、ロンドンのレースの小売店は、慌ててホニトンレースを主力商品にしたそうですし、当時のファッション雑誌『ザ・レディース・トレジャリー』は、ホニトンレースでトリミングした白サテンのウエディングドレスを、盛んに紹介するようになったのです。人気者となった女王のウエディングドレスは、イギリス女性の関心を惹き付けたのです。そして、ヴィクトリア女王が身につけた白のウエディングドレスは、その後何十年にも渡って、ファッション雑誌に掲載され続け、アッパークラスの花嫁が纏い続けたのです。果たして女王の俄か人気だけで、そこまでのことが可能になるでしょうか。この点を考えてみるために、先ずは1830年代後半から、40年代前半にかけてのウエディングドレスの様子を、明日は振り返ってみたいと思います。 続く
2009.06.25
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世界経済の現状 (37)カリフォルニアの破綻が眼前に迫ってきているようですね。ブログ仲間のマダム・リンダが時々知らせをくれましたので、刺激を受けて、少し調べてみました。アメリカはUSAと言う通り、stateの集合体として成り立っています。ですから、各州は合衆国憲法と同時にもう一つ州の憲法を持っています。大枠は全体で、しかしそれ以外は州が独自にという仕組みです。ですから同性愛者の結婚を認める州、認めない州と分かれたりもします。当然財政上の自由度も日本よりはるかに高く、州独自の財源も種々あるのです。カリフォルニア州は全米50州のなかで、最大の経済規模を持っています。何しろ、ここを独立国と看做すと、世界で8番目のGDPを持つ経済大国ということになります。ここがデフォルト間違いなしの状況にあるのです。この状態に対し、オバマ政府は、大統領自らが、最初から救済拒否を宣言しています。金融機関に限らず、クライスラーやGMは救済しているのに…。実は救済したくても出来ないのです。救済拒否は例のシュワ知事が共和党の知事だからと言うのではありません。そうではなく、カリフォルニアがトップランナーとして来月にも破綻しそうなのですが、それに続いて、アイゾナ州とか、オハイオ州とか、破綻予備軍は枚挙に暇がないのです。それこそ収拾がつかなくなって、共倒れせざるをえなくなるかもしれない。そういう心配があるので、救済に舵を切ることが出来ないのです。これがアメリカの現実です。カリフォルニアは、州民や州の企業に対し、キャピタルゲイン税をかけており、それで420億ドルもの税収を得て、豊かな税収を誇っていたのですが、今回の金融危機で、一瞬にしてその税収が吹き飛んでしまい、マイナスに転じてしまったのです。それならその他で増税しないのかと言うと、増税案を通すには、議会の3分の2以上の賛成が必要なのです。それゆえ、これは簡単には議決できないのです。減税案の可決は2分の1で良いのですから、身勝手なのですが…かくしてカリフォルニア州は、今日もひたすら、破綻への道を歩んでいるのです。来月には、150万人の生活保護費、4千人の州職員の給与、50億ドルといわれる教育費、100億ドルを超える医療費の支払いが、確実に滞るのです。そしてそれは、他州にも及ぶというのですから、アメリカで相当なパニックが起きるのは、避けられそうもありません。何かとてつもない「どんでん返し」でもおきれば別ですが、どうやら来月中旬以降は、一波乱ありそうです。それにしても、日本のマスコミは、こういう大事な問題を報道しませんね。何故なんでしょうね。
2009.06.25
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クロニクル 有権者1億人突破2000(平成12)年6月25日この日、第42回目の衆院選が行なわれました。与党は後退しましたが、多数を確保し、他方で民主党もまた議席数を伸ばして、躍進しました。しかし、この選挙で特筆すべきことは、選挙人名簿の確定の結果、名簿に登載された20歳以上の有権者数が、初めて1億人を超えたという事実です。総人口は1億2千万人台でしたから、いかに少子化が進んでいたかが分かりますね。
2009.06.25
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宗教改革よもやま話 (32) さて、ルターの結婚のいきさつです。ルターは、ザクセン選帝侯の庇護を受け、カール5世から国法の保護を外された時には、半年ほど侯の居城に匿われていたほどでした。しかし、侯の親戚筋にあたるザクセン大公ゲオルグは、バリバリのローマ教皇支持派だったのです。一族でも全く立場が違うのですね。このザクセン大公領のグリマという地にあった、シトー会ニンフ修道院の修道女達から、「私たちは今後どうすべきか」という、相談の手紙がルターに届いたのです。手紙を読んだルター派、修道院からの脱出を勧め、そのための援助は惜しまないと、約束したのです。1523年の1月から2月にかけてのことでした。カトリック教会の掟では、修道女の誘拐は死罪です。とりわけチャキチャキのカトリックであるザクセン大公は、領邦内の修道士・修道女の還俗は絶対に起こさせないという意気込みで、修道院への監視を強めていました。それゆえ、修道女の集団脱走には、綿密な計画性と人を安心させる強い指導力を持った人物が必要でした。実際に手伝ったのが、誰であるかは明らかではないのですが、ともかく、ルターに頼まれた人物の手によって、12名の修道女が無事救出されたのです。修道院の出入り業者を装った幌馬車に隠れて、脱出したのです。この12名のうち、3名はすぐに実家に戻ったのですが、9名は戻る場所もなく、ルターの住むヴィッテンブルクにやってきたのです。当時の女性は、結婚するか、住み込みの召使いとして働くか、修道院に入る以外に、生計を立てる道はありませんでした。何しろ男性のかなりの部分が妻帯禁止の聖職者だったのですから、適齢期の女性に比べると、圧倒的に男性の数が不足していた時代です。ルターが聖職者の結婚を奨励したからといって、まだまだカトリックも大変な力を持っていました。そんな時代ですから、還俗した修道女達は、こぞって結婚を希望しました。生きて行くためには、外に道はなかったのです。ルターやルターの仲間、そして支持者らの世話で、1人また1人と結婚相手が見つかったのですが、そんな中でカタリーナ・フォン・ポーラという娘だけが残ってしまったのです。誰かがおそるおそる、「それならルター先生が、彼女と結婚すればよいではないか」と、口火を切ったのですが、ルター自身はなお逡巡して、自分の教え子や学者仲間から候補を探そうとしたのですが、どれもうまく行かず、そのうちカタリーナのひそやかな望みが、ルターとの結婚にあるらしいことが理解されて、ルターの外堀は埋められてしまったのです。それでもなおルターは迷っていたらしいのですが、ルター自身もカタリーナのことを愛しく思っていあたことは、間違いなかったようで、いくつかある証言も、この点では皆一致しています。そして、1525年6月13日に、ヴィッテンベルクの市教区教会の入口のところで、集まった民衆の祝福を受けながら、結婚式が行なわれたのです。その後市庁舎で賑やかな祝宴も行なわれました。当時ヴィッテンベルクはルターの町、宗教改革の町でしたから、ルターの結婚は、まさに町をあげての祝賀行事だったのです。ルターの結婚は、宗教改革派の聖職者の結婚を、大きく促進したことは、間違いのないところです。 続く
2009.06.24
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世界経済の現状(36) 日本郵政の西川社長の続投に対して、批判的な意見が多いようですね。この問題は、「簡保の宿」の売却問題に根があるように思います。この点の理解に大きな誤解というか理解不足と誤りがあります。結論を先に申し上げると、私は悪いのは鳩山元総務相であって、西川社長ではないと考えています。問題は「オリックスへの売却価格109億円が妥当か」という総務相(当時)の問題提起にありました。今、入札でも良い、相対でも良いとして、「簡保の宿」の全施設を売りに出したとします。おそらく皆さんの多くは、相すれば109億円を相当上回る価格で売れるだろうと、お考えでしょう。世間の多くがそう考え、マスコミもそれを煽りました。図に乗った鳩山総務相が、好い気になって踊り続けた。こういう構図で、まず間違いないと思います。今、売りに出すとすると、不動産市況は昨秋よりもはるかに冷え込んでいますから、おそらく50億円にダンピングしても買い手はつかないのではないかと、私は考えています。現在の不動産市況はそこまで冷え込んでいます。昨年から、不動産ファンド業界や不動産流動化ビジネスの資金繰りが見る見るうちに悪化し、沢山の企業が倒産しました。まだ残っている企業も次々に追い詰められています。一等地の賃貸ビルでも、借り手の企業がオフィス面積を節約したり、賃料の安い地域に移転したりで、空室率が大きくアップしているのが現実です。買い手がいなければ、不動産の価格は下がり続けます。評価額がいくらと出ているから、その値で売れるだろうとうことがない世界なのですね。値上がりを期待できると見れば、値を吊り上げても買いに来る。しかし、売れなくなれば、いくら妥当値以下であっても買い手はつかない。不動産の商いは、こういう世界ですね。バブルの時期に土地やマンションを買われた方は。その点身にしみておられると思います。鳩山元総務相やマスコミは、その点を理解しなかったのですね。今週の「東洋経済」や「週間ダイヤモンド」といった、比較的信用度の高い経済誌は、業界では老舗と言って良い、不動産流動化ビジネス関連企業が、1等地にある自社保有のビルを希望価格で売ることが出来ず、ファンドのデフォルトが時間の問題だと、資料を示しながら記しています。いくらで購入した土地だから、いくらで建てた建物だといった所で、親方日の丸時代に採算を考えずに購入した価格に、元々妥当性がないのです。民間企業に生まれ変わったのですから、不採算事業は、一刻も速く切り離し、処分するのが鉄則です。その限り日本郵政の判断は間違っていませんでした。「簡保の宿」事業は、黒字化する見込みの全くない、赤字垂れ流しの不採算事業だったのですから、売却は当然でした。切り離したら、ただだといっても買い手がつかない事業所も多いと、予測していたのですから、一括売却も正しい選択でした。しかも政治の要請で、簡保の宿の全従業員の雇用の継続という条件がつけられていたのです。当分従業員のリストラだ出来ないとすれば、事業継承後に生じるであろう赤字分も、経費と考えるのが企業経理として当然です。私は、オリックス自身、経営環境が大きく悪化している中で、良く109億円という値段をつけたなとさえ思います。今後、日本郵政が売却に際して、売れ筋の1等地の施設のみを切り離して売却すれば、109億円以上で売却できる可能性は、あるかもしれません。しかし、この場合、大赤字の施設は、永久に売れず赤字を垂れ流し続けるのです。するとどうなるか、この赤字を差し引いた売却額は、ガクンと小さくなるのです。西川氏は凄腕のバンカーです。日本郵政の経営諮問委員会ノメンバーは、そのことをしっかり理解しているからこそ、簡保の宿の売却を完了するまでは、不動産業界やファンドにも睨みの効く西川氏に、続投を要請したのでしょう。この判断は間違っていなかったと私は思います。替わっての就任を模索したという、西室東証会長では、ファンド勢に良いようにアシラワレてしまうように思います。109億円は安すぎるのではなく、簡保の宿全体で考えれば、むしろ良く頑張ってつけたなと、感じる値段なのです。今はもう、とても100億円では売れないでしょう。政治の介入は、明らかにマイナスに働いた、こう申し上げておきます。
2009.06.24
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クロニクル 昭和の歌姫 美空ひばり死去1989(平成元)年6月24日昭和が平成に替わった年でしたね。美空ひばりは1937(昭和12)年の12月生まれ、私の兄と同年の生まれです。まだ51歳という若さでした。11歳で歌手デビュー。数々のヒットを飛ばした歌姫は、若い頃は良く映画にも出演していました。しかし、そうした仕事の忙しさ、ストレスからくる飲酒などが、徐々に彼女の身体を蝕み、20年前のこの日、遂に病魔が彼女の命を奪っていったのです。彼女の死後、内閣は女性で初の「国民栄誉賞」を送っています。、
2009.06.24
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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(3) こうして、2人の結婚生活がスタートしたのですが、夫のアルバート公は、女王の夫としての地位以外に何もありません。彼が何かしようとすれば、それは全て妻である女王の許可が必要でした。妻の許可というお墨付きなしには、何もする力がないのです。そうしたアルバート公の強い味方となったのが、メルボーン首相でした。首相は2度、3度と会話を交わすうちに、公の政治的能力と人柄の良さを見抜き、政治的な判断が必要な時(例えば、現首相が辞任し、後任の首相を選ぶ際には、国王の指名を議会が承認するのが慣わしでした。この場合、国王に指名権はありますが、そこには議会の拒否権と言う関門があり、議会の動向を無視することは出来なかったのです)は、公に相談すると良いですよと、女王にアドヴァイスしたのでした。この時の首相のアドヴァイスで、ヴィクトリア女王は夫を見直し、積極的に夫の意見に耳を傾けるようになったといわれています。アルバート公が1861年12月に腸チフスで亡くなるまでに、5人の娘と4人の息子が誕生しているのですが、妊娠中や産後の休養気などは、アルバート公が代理で政務を見ており、内閣も議会もそれを歓迎していたと指摘されています。アルバート公は、また王家の台所とも言うべき、宮廷費の無駄遣いにも厳しくメスを入れ、台所の無駄を徹底的に排除したことでも知られています。ですから、召使達にとっては、ケチで細かい所にうるさい最悪の主人と映っていたようです。宮殿の数ある部屋には、人がいようがいまいが、国王夫妻が留守であろうがなかろうが、蝋燭に一応火を点ける。いらないようなら消して、それは処分し、翌日は新しい蝋燭を灯すというのです。当時高価だった新品同様の蝋燭は、そのまま召使の懐に入ったのです。また、国王夫妻が留守であっても、食事はちゃんと用意して、食べきれずに残された食事は、召使が食べてよい決まりになっていました。ですから、常日頃から、必要量の数倍が調理されていたのです。外にもあげればキリがないのですが、アルバート公は、こうした無駄の数々を、見事に削ぎ落としたのでした。もちろん抵抗する召使や、なお悪さをする召使は、断乎としてクビにするコワモテの面も見せました。こんな調子でしたから、召使いにとっては、甘い汁の全てを取り上げた、憎らしくて仕方がない相手だったのです。 続く
2009.06.23
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宗教改革よもやま話 (31)ルターは、修道士制を否定し、修道士や修道女に還俗を勧めました。 ルター自身は法学部の大学生だった時に、信仰に生きるけついをして修道院の門をくぐっています。1905年のことでした。そこでのルターは、仲間の修道士が呆れるほどに、たゆみない節制と努力と思索の日々を送ったとされています。そうした真摯な修道生活を経て、ルターは修道生活の完遂は、生身の人間にとっては不可能である。それは神が人に対して望んだ生活ではないのではないか。こう考えるようになったと、彼は自ら記しています。神が人に要求する信仰生活とはどのようなものか。ルターはこの点を、修道士のみでなく、聖職者一般も含めて考察した結果、修道士を含めたあらゆる聖職者は結婚すべきであるという、結論に達したのです。神は、全ての人間が結婚し、家族生活を営む中で、子孫を残し育てるように定めている。それゆえ、聖職者の独身制は、神の意志に反している。こうルターは主張したのです。宗教改革の進展の中で、ルターの見解に触発されて、各地で修道士や修道女が修道院を去ります。また一般の聖職者たちの中から、1人、2人と結婚する人たちが現れ、次第にその数は増していったのです。ルター自身はどうだったのか。当初彼自身は、結婚することまでは考えていなかったようなのですが、周囲の勧めもあって、1525年カタリーナ・フォン・ポーラという還俗した修道女と結婚し、世間を驚かせています。このいきさつは、かなり詳しく伝わっていますので、次回はその点を記す事にします。ルターの妻となった、カタリーナ・フォン・ポーラの肖像
2009.06.23
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クロニクル 昭和新山誕生す1944(昭和19)年6月23日あれから65年も経ったのですね。65年前のこの日、有珠山東麓の地が突然噴火と共に隆起して、標高407mの活火山、昭和新山が誕生したのです。これは驚きでした昭和新山は、その後も活火山として、噴煙を上げ続けていますが、新たな隆起は観測されず、小爆発の都度、少しづつ標高を減じており、今現在の標高は398mと9mの縮小となっています。
2009.06.23
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世界経済の現状(35) 日本は一流の技術を持ちながら、携帯電話の世界展開に失敗しました。フィンランドのノキア、韓国のサムスンとの競争に見事に敗れました。国内市場に特化してもそこそこの利益が出たからでした。そこからついた渾名が「ガラパゴスケータイ」。極めて自嘲的な揶揄でした。何故このようなことが可能だったのか。NTTドコモ、AU,ボーダフォン(現ソフトバンク)といった通信メーカーが、自社の通信回線の利用者を増やして通信料で稼ぐために、携帯電話の製造エーカーから電話機を買取、機器の費用を大幅に割り引く代わりに、通信料を高めに設定するビジネスプランで激しく競い合い、メーカーに次々と進化する自社仕様のケータイの開発を依頼しては、相当量を買い上げてくれていたからです。複雑で高機能なケータイとしては、他の追随を許さない製品となっています。しかし、必要最小限の機能に絞り、その分お値段ははらないケータイでは、太刀打ちが出来ないのです。ここに来て高機能化が限界に達すると、進むべき道は乏しく、メーカー各社は厳しい選択を迫られているのです。高機能の高級品の運命の一つが、ガラパゴスケータイに見事に集約されているように思います。欧米や日本を含む高級品志向が、昔日の隆盛を取り戻すことは、もはや期待できないでしょう。それは、かつてのようなバブルの再来は今後はありえないように見えるからです。米国を中心とした借金を膨らませながら買い物をするという、カード依存のキリギリス経済の破綻が、今回の消費減退を招きよせたのです。今後は身の丈に合った所まで、消費を減らすしかないのです。夢よもう1度はもはやありえません。ゴールドラッシュの夢が去ったように、借金を膨らませての過剰消費の夢は過ぎ去ったのです。底打ちだと浮かれている、今のマスコミ報道の翳で、失業者は、増え続けています。今後どちらに触れるかは、申し上げるまでもないのですが、数ヶ月様子を見ていけば、おのずと分かると思います。 ザビ
2009.06.22
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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(2) ウエディングドレスを少々離れるのですが、ヴィクトリアとアルバートのそもそもの話を記します。ヴィクトリアはジョージ3世の4男ケント公エドワードの1人娘でした。3世の長男ジョージ4世が1830年に子なくして死去した後、次男のウイリアム4世が後を継ぎましたが、彼も子が出来ない体質でしたので、ヴィクトリアが王位継承者に定められたのです。ヴィクトリアの家系は、ドイツのハノーヴァー家にあり、ハノーヴァー朝初代のジョージ1世は、全く英語を解しなかった国王として知られ、全て「よきに計らえ」の一言で、結果的にイギリスに「君臨すれども統治せず」の伝統を築いた功労者になった人物です。そこで、イギリスの上流階級の間では、ヴィクトリア王女の花婿は、イギリス貴族の血統を引く人物が選ばれることを、期待していたのです。国王ウイリアム4世は、国内のそんな空気を知って、オランダ国王ウィレム2世の次男をヴィクトリアの婿にと考えていたのですが、ヴィクトリア自身は、頑なに国王の勧めを拒否していました。アルバートとヴィクトリアは母方の従姉弟(といっても、2人は1919年の同年生まれ、数ヶ月の差に過ぎません)ですが、2人は叔父に当たるベルギー国王レオポルド1世の紹介出会い、ヴィクトリア自身がアルバートに一目ぼれしていたからです。1836年のことでした。ヴィクトリアの一目ぼれの事実は、ロンドンに戻ったヴィクトリアが、伯父に当てて「アルバートに合わせてくれて有難う」という趣旨を、熱くしたためた手紙を送っていることで、明白になっています。レオポルド2世も姪の気持ちを理解して、2人の味方をしています。2人の婚約は1939年の10月、結婚約4ヶ月前でした。この時プロポーズしたのもヴィクトリアでした。これにはわけがあります。ヴィクトリアは既に即位した女王です。臣下が王にプロポーズすることは、礼儀上許されないという決まりが、当時の社交界には根強く残っていたのです。ですからプロポーズは、ヴィクトリアの側からしか出来なかったのです。アルバートが恭しい感謝を込めて、女王のプロポーズを受け入れて、2人の婚約は整いました。こうしたいきさつから、(1)に記したように、当初上流階級の間での2人の評判はよくなかったのです。しかし、2人の評判は、結婚式のセレモニー前後から急速に改善して行きます。それには、アルバート公にぞっこんだったヴィクトリア女王が、プライヴェートの世界では、しおらしい花嫁を演じようとしていたことが、マスコミによって伝えられたことも大きく作用していました。当時のエチケットブックに、ミドルクラスの女性たちへのアドヴァイスが書かれているのですが、その中に結婚式についてのアドヴァイスもあったのです。そこには、結婚式の祭壇では、「夫への貞節と服従という言葉を、はっきり述べなければなりません。これらの言葉は妻の側の義務であり、婚姻の契約なのです。」とはっきりと書かれていたのです。誠に男にとって都合の良い言葉ですが、当時一般の女性は。素直にこの言葉を支持していたようです。問題は、服従と言う言葉が、女王に相応しくないことにありました。当時の結婚式の流れでは、花嫁がこの言葉を口にするのが当然とされていましたから、困った式典の大監督が、おそるおそる女王にお伺いを立てたのです。「服従」と言う言葉を、他の言葉に置き換えたいと思いますが…と。その時女王は、「女王としてではなく1人の女性として、儀式文中の全ての言柄を約束する用意がありいます」と答えたというのです。式はその通りに行われました。以後女王は、倹約と勤勉に務めるアルバート公の影響もあって、「義務、勤勉、節約、道徳心、家庭」といったミドルの信条を共有するようになっていきます。2人の結婚式の次第は、イギリス中に詳細に伝えられました。そして、誓いの言葉のいきさつも、伝わっていきます。こうして、ヴィクトリア女王は、結婚を期に1種の国民的アイドルになっていったのです。 続く
2009.06.22
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クロニクル ドイツ軍ソ連侵攻1941(昭和16)年6月22日もう68年も前になるのですね。この日ヒトラーのドイツは、独ソ不可侵条約を破棄して、ソ連への侵攻を開始しました。第二次世界大戦の一齣ですが、当時のドイツは、ベネルックス3国やフランス、デンマークやフィンランドを支配下に置き、イギリスに対する空爆を強化していた時期でした。そのドイツが何故、このタイミングでソ連への侵攻に踏み切ったかというと、戦争の長期化に備えて、大穀倉地帯であったウクライナを支配下におくこと、そしてアメリカの支援を得て、頑強に抵抗を続けるイギリスの戦意をくじくこと、この2点にありました。前者は説明を要しませんが、後者は一筆する必要があります。ヒトラーは、ソ連が地球上から姿を消す、或いは姿を消さないまでも、その影響力を大きく減じるならば、それは極東の同盟国日本の勢力が、大きく広まることを意味する。そうなると、アメリカはアジアの覇権をかけての日本との戦いに全力をあげるしかなくなるので、イギリスの支援に手がまわらなくなる。アメリカの支援が受けられず、孤立した戦いを続けざるを得なくなったイギリスは、次第に戦意を喪失し、わがドイツに降伏せざるをえなくなるだろう。というものでした。ヒトラーは、この論理で、2正面作戦を強いられることを嫌い、ソ連攻撃に反対する軍部を説得したのです。しかし、結局このソ連侵攻がヒトラーの命取りとなったのです。
2009.06.22
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宗教改革よもやま話 (30) 宗教改革派は、その全てがというわけではないのですが、カトリック教会が習慣としていた、幼児洗礼を批判しました。幼児洗礼と言いますが、実際は生後間もない赤子を、親族や村の世話役などが教会に連れて行って、洗礼を受けるのです。多くの地域では、赤子の名もそのときにつけられるのが一般的でした。この習慣が、改革派によって槍玉にあげられたのです。赤子や幼児が自ら信仰を選ぶことは出来ない。それゆえ信徒になることを神に約束する洗礼は、長じて自らの信仰を自ら定めるようになった時点で、神への信仰告白と共に受けるべきである。これが改革派の主張でした。この点を特に強く主張したグループは、他の信徒から再洗礼派と呼ばれたのですが、彼ら自身は、幼児洗礼を否定し、それを洗礼と認めず、信仰告白を伴う長じての洗礼こそが、初めての洗礼としておりましたから、再洗礼派とよばれることは、強く拒否していたのです。その結果何が起こったか。実は必ずしも幼児洗礼を否定しないルター派教会や、イギリス国教会の関係者も、幼児洗礼を強く勧めることはしなかったものですから、村や町の人口調査は、宗教改革以後、かえって困難となってしまったのです。ローマ・カトリックの場合、幼児洗礼が常態化していましたから、村や町などカトリックの教会がある地域については、はぼ確実に人口の把握が出来たのです。生まれた子は、すぐに洗礼を受けるために、教区簿に使命と受信日が記録されるのです。亡くなった人は、教区の神父の手によって、葬送のミサをあげてもらうのですから、これまた死亡日と共に教区簿に記載されるのです。この記録を丹念に追えば、村の人口ははぼ完璧に突き止められたのです。誕生人口と死亡人口の差を求めれば、それがそのまま村や町の人口の増減に合致したからです。事実多くの人口史の専門家は、こうした努力を続けてきたのです。しかし、幼児洗礼が部分的にしか行なわれなくなると、正確な人口統計は類推できなくなってしまったのです。カトリックは何故、生まれて間もない子ども達の洗礼を勧め、民衆は何故そんな勧めに従ったのでしょうか。それは以前にもお話した、乳幼児の死亡率のとんでもない高さにありました。この子は、すぐに洗礼を受けさせてあげないと、無宗教のまま死んでしまうかもしれない。そんなことはさせたくない。幸薄い子であっても、せめてキリスト教徒として死なしてあげたい。こう考えるのは人情から言って、ごく自然なことなのです。思いは親族にも親たちにも、共通していました。誕生から僅か数日の乳児を、教会まで連れて行くことがどういうことか。現代医学の大まかな知識のある我々には、おおよその推察は可能です。1歳までの乳幼児の死亡率が30%を超えていたのですが、この数字の達成に、幼児洗礼が少なからず貢献していたと考えることも可能なのです。こうして宗教改革の進展の中で、信頼度の高い人口統計を作成しづらくなるという、問題も出てきたのです。 続く
2009.06.21
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世界経済の現状(34) ルイ・ヴィトン、エルメス、カルティエなど、お馴染みの高級ブランドの国籍を辿ると、その多くがフランス、イタリア、スペインといった国々に集中しているのが分かります。イギリスやドイツでは、ゾーリンゲンの刃物(独)やバーバリーのスーツ(英)くらいでしょうか。陶磁器などの名工は、探せば各地に出てくるでしょうから、これは置いておきましょう。この現実は、産業革命以後の機械工業化、普及品の大量生産競争に敗れた国々が、生き残りをかけて、高級品の少量生産に生き残りを賭けた現実を、我々に示してくれています。確かにこうした市場は存在します。それゆえ、多品種少量生産の原則を守っている限り、こうした企業の生き残りは可能です。それはある意味で、永遠の隙間産業だからです。それがメジャーな産業になろうとすると、ウエッジウッドのように市場に嫌われて退場を余儀なくされることになります。大量生産に転換した途端に、ブランドとしての価値は失われるからです。1980年代以降のバブルの時代、どの国でも俄か成金達が、やたらと高級ブランドを身につけ、高級車を乗り回し、或いは一等地に土地を買ったりと、我が物顔に振舞っていました。その減少は、世界同時ではなく、多少の時間差も伴って、20数年をかけて世界を回っていました。ですからその間は、高級品もそこそこ売れていました。ですから高価でも質の高いものは、良く売れていました。日本企業の商品も良く売れました。しかし、これは世界的なバブル現象のおかげでしたから、当然永続することはありえません。1昨年の夏には、世界的なバブルの同時崩壊は、ほぼ明らかになり、昨年春以降、高級品市場は急激な売上げ減に見舞われることになりました。これは一時的に売上げが落ちたのではありません。バブルによって上げ底されていたものが、元に戻った部分を含んでいます。それゆえ。多少の売り上げ増はあっても、その分は僅かで、そこで安定する形になると思われます。考えてみてください。クライスラーは置きますが、GMは何故倒産したのか。ガソリンがぶ飲みの高級車の生産を得意とし、大衆車、小型車の生産で遅れをとったからでした。そしてアメリカ等経済先進国での売れ筋の車と、これから車を持とうとする人の多い、中国やインドでの売れ筋の車が、同質のものであると考えて良いわけはないですね。家電製品も同じです。新しい市場に適合的な製品を生み出す。それも大急ぎで。それが出来なければ、今日のGMの姿は、明日のトヨタやホンダ、そしてパナソニックやソニーの姿になるのではないか。私の創造力は、そう問いかけてきています。 続く
2009.06.21
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クロニクル 『風と共に去利ぬ』出版1936(昭和11)年6月21日マーガレット・ミッチェル著『風と共に去りぬ』が、73年前の今日、出版されました。南北戦争を背景に、南部の大プランターの娘として育ち、そのプランテーションを相続して苦心するスカーレット・オハラを主人公にし、戦乱の世をたくましく生きるレッド・バトラーとの愛憎を描いた大河小説は、日本でも大いに親しまれ、ビビアン・リーが主演した映画も、人気を博し、ロングランとなりました。
2009.06.21
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ヴィクトリア女王とウエディングドレス余話(1)ヴィクトリア女王の即位にちなんで、彼女のウエディングドレスのことに触れたのが、やぶへびでした。手元に多少の資料がありますので、当時のイギリスのウエディングドレスについて数回記そうかと思います。といっても、現在2本の連載を抱えていますので、折々にということになるかと思いますので、ご容赦下さい。先ずは下の絵は、割合ポピュラーで、あちことで見られるヴィクトリア女王の若き日の肖像です。彼女は先王ウィリアム4世の姪にあたり、国民に評判の悪かった2人の伯父(ジョージ3世の長男ジョージ4世と次男のウィリアム4世)の後を受けて即位しました。そのため当初は彼女も伯父達の悪評を引き継ぎ、不人気の女王として出発したのです。1840年2月のアルバート公との結婚が、彼女とアルバート公の2人の評判を劇的に変えたのです。ザクセンの公爵家の出て、女王とは遠縁にあたっても、外国の貴族でしかも無一文に近かった彼は、イギリスの上流階級には軽く見られていたのです。ですから、その意を受けたマスコミは、当時の常として平気で偽情報を流したりしていたのです。曰くホニトンのレースと偽って、実はブラッセルのレースを使っている。ドレスもオランダに発注したなどなど、上げればキリがありません。そうした偽情報や悪評を押し流してしまったのが、民衆の支持でした。王室の悪評に悩む宮廷が、窮余の策として2人の結婚式の1部を公開の行事で飾ったのです。結婚式の数日前、ドーヴァーについたアルバート公は、各地で広場の歓迎を受けて、民衆に素顔を晒して、その歓迎を受けたのです。その挙句に、2人の結婚式は質素ながら、お祭り騒ぎを伴っていたのです。教会の誓いの際に、夫君のアルバート公が花嫁のヴィクトリア女王の指に、結婚指輪をはめると、それを合図に広場に祝砲が轟き、ロンドン中の教会でお祝いの鐘が撞かれたのです。その挙句に『タイムズ』の記事で、女王のウエディングドレスについての詳報が知らされたのです。画面中央がアルバート公、右手に彼と手をつなぎ、一心に彼を見つめているヴィクリア女王です。2人が相思相愛であること、とりわけ女王の方がご執心であったことが、民衆に広く伝わって、その支持を受けていたことが、こうした構図に繋がったのでしょう。この結婚式の成功と好評が、女王の不人気を一挙に解消し、それどころか、以後女王の人気は高まる一方となっていくのです。 続く
2009.06.20
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宗教改革よもやま話 (29) ところで各地のルター派教会と、ルター派の諸侯や都市は、自国語や自地域語の聖書を発行し、文字の読める領民に対し、聖書を読むことを奨励しました。とりわけ、地域の大領主(日本的に言えば、戦国大名クラスと理解して良いようです。時期的にもほぼ重なります)は、自らへの求心力を高めるために、地域語の通用範囲を広げる努力を続けました。フランスでもドイツでも、イタリアでも、こうした中で次第に優勢になった地域語が、その後フランス語だドイツ語だイタリア語だと、呼ばれるようになり、標準語の地位を獲得したのです。そして、他地域の言語は、その一部が方言として今日に残る形となったのです。日本の場合、江戸幕府の意向がほぼ全国に届きましたので、江戸語が標準語となったというわけです。ところで、こうした各国語の形成は、17世紀半ばにかけて、大きく進展したことが知られています。16世紀半ばに宗教改革が本格化した時期から、丁度100年ほど後のことです。ルター派の信仰は、領主の強力な推薦と指導力によって推進されました。この事実に着目して、ルター派の信仰を国づくりの土台とし、中央集権国家建設を強力に推し進めたのが、北の新興国スウェーデンだったのです。北海からバルト海にかけての地域は、伝統的にノルウェーとデンマークを中心とした世界で、スウェーデンもノルウェーの従属国だったのですが、16世紀に入ってノルウェーからの独立を勝ち取り、その頃から急激に力をつけてきたのです。それでも当時のスウェーデンは人口150万人程の小国でした。そこで国王は領民に国民意識を植え付けることで、求心力を高めて難局に当たることを思いついたのです。国王は、ルター派の信仰を国教と定め、村ごとにルター派教会を建設し、全ての教会に何冊、何十冊ものルター派完訳のスウェーデン語の聖書を備えさせて、全ての国民が聖書に親しめるようにしたのです。そして、教会を梃子に初等教育を全国に推し進める、教育改革を推進したのです。「誰もが『聖書』を読めるように…」を合言葉に……。こうして17世紀初頭には、国民の8割以上が字を読める、教育大国になっていたのです。最も字を書ける人は、それほどではなかったという替わった教育だったのですが…。こうしてスウェーデンは、もう少し後で叙述させていただく30年戦争(1618~48年)の頃には、押しも押されもしないヨーロッパの大国にのし上がっていたのです。ここから各国は、スウェーデンを見習い、標準語の形成と国語化に力を入れはじめるのです。宗教改革は、こうして各国語の形成と普及、教育の進展に、大きく寄与することとなったのです。この点もまた、宗教改革を語るときに、忘れるわけにはいかない事実の一つです。 続く
2009.06.20
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クロニクル ヴィクトリア女王即位1837(天保8)年6月20日江戸時代末期、天保の改革の頃の話です。この日イギリスで、ヴィクトリア女王が即位しました。18歳の初々しい女王の誕生です。夫となるアルバート公との結婚は、およそ3年後の1840年2月10日。この結婚式でヴィクトリアが白のウエディングドレスを纏ったことが、当時のイギリスの若い女性たちの心を捉え、この後次第に、白のウエディングドレスが、結婚式の定番になっていったのです。以下の記事は、結婚式の翌日2月11日の『タイムズ』紙からの引用です。「女王のドレスは、豪華な白のサテン製で、オレンジの花で飾られていました。頭にはオレンジの花環を被り、その上には顔を隠さないように、美しいホニトンレースのベールが被られました。」と。この記事を載せた『タイムズ』紙は、通常8千部程度の売り上げを持つ新聞でしたが、何と通常の4倍に近い、3万部強のを売り上げる人気振りとなりました。文中にあるホニトンレースとは、デボンシャー州のホニトンで生産されるレースを指しています。当時のヨーロッパで最高級のレースは、ベルギーのブラッセルレースとされており、ホニトンはブラッセルに押されて、深刻な不況の中にあったのです。それゆえ女王の注文と、それに続くヴィクトリア女王のウエディングドレスの人気は、斜陽をかこっていたホニトンのレース産業を、生き返らせる起死回生の妙薬となったのでした。
2009.06.20
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世界経済の現状(33) 昨今、新聞・テレビなどでも報じられるようになりましたが、ここへきて韓国経済の好調振りが目立ちます。対中、対印輸出の好調で、3-5月期のGDPは、前年同期比0,2%のプラスに転じてきたと報じられています。欧米日の経済先進国のGDPが、軒並み大きなマイナスを続けていることを考慮すると、僅か0,2%とはいえ、韓国経済がプラス成長に転じたことは、今後の進むべき経済の方向を暗示しているように思います。現在の世界経済の中で、好調を維持しているのはBRICsの中でも、特に中国とインドです。その好調も、従来の富裕層中心の好調とは様変わりしています。中国を例に取ると、上海を中心とした沿岸部の工業地帯の富裕層などの需要は回復せず、貿易輸出も不振で、とても好調と言える状況にありません。好調なのは、従来は埋もれていた中流の下から、下層の上の部類に属する家族層の需要喚起が、成功しているからです。中国政府は、昨年夏以降、先進国の経済不振の長期化、輸出主導経済の変調をしっかりと見抜き、農村部中心の内需振興にしっかりと舵を切ったのです。それが今のところ功を奏しているのです。当然中の下や、下の上の層の消費が高級品になるわけはありません。機能を最小限に絞ったシロモノ家電や、安価な小型車です。製造はもちろん中国に進出して、現地の企業と合弁会社を作っている外資です。それも、諸外国への再輸出を狙った商品ではなく、中国内部の市場を狙った商品が売れているのです。そして韓国は、そうした中国企業向けに、機能を絞った安価な部品を大量に提供しているのです。製造する部品の質を比べれば、韓国製よりも日本製の方がはるかに高品質で性能も良いです。しかし、その分高価ですから、低所得者向けの安価な製品に、搭載するわけには行かないのです。韓国企業は日本企業の眼を向けない、コストの安い、機能を絞った部品を、途上国市場向けに作って成功した。これがここに来ての、韓国経済の回復振りを際立たせている原因です。翻って、日本企業は、低所得者向けの市場と商品に大きな商機があることを見逃し、高所得者向け市場にばかり眼を向けていたのが、結果として韓国と日本の差になりました。 続く
2009.06.19
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宗教改革よもやま話 (28)ドイツで、ローマカトリックの守護を任じる神聖ローマ皇帝並びに皇帝側諸侯と、ルター派諸侯の最終的な合意が成立したのは、1555年のアウグスブルグの宗教和議においてです。1526年の一時的な和解以後、対立と妥協を何度も繰り返した後のことでした。この和議の内容は、諸侯がカトリック教会かルター派教会かのいずれかを選んで、その信仰を領民に課す事が出来るというものでした。つまり、領主がルター派を選んだ場合、領内には自動的にルター派の教会しかなくなり、領民はルター派の教会に通うしかなくなる仕組みなのです。領主がカトリックを選べば、カトリックの教会に通うしかないのです。これがドイツの宗教改革が行き着いた所だったのです。ルター自身は、1546年に亡くなっていましたが…。こうして領民は、自由に自らの信仰を選ぶことは出来なくなったのです。和議の補足には、領民が希望するなら、財産や地位を捨てて、信ずる宗派の領邦に移住できるという条項がありました。しかし、裸一貫出直すというのは、共同体関係が色濃い社会にあっては、事実上不可能でした。こうしてドイツでは、民衆が主体となる、民衆次元の宗教改革運動は、もはや起こりえなくなったのです。領主が信仰を決める諸侯領は、領主が1人なので問題はありません。しかし、60あった帝国自由都市はそうは行きません。ここでは市民に選ばれた市幹部の合議制が取られているからです。幹部がすんなりルター派とかカトリック派とかに、固まっていれば問題はありません。しかし、両派が拮抗している場合、どちらか一方を選ぶというのは不可能です。こうして、当時60あまりだった帝国自由都市は、30余がルター派を選択し、丁度10都市がカトリックに留まりました。しかし、残りの20都市は、両派の教会の併存を認めたのです。実は、宗教改革の進展時に、既に両派の教会が存在し、互いに優劣を競っていた都市にとって、2宗派の併存以外に選択肢はなかったのです。こうして、こうした2宗派併存体制をとらざるを得なかった都市は、その維持に奔走したのです。民衆の間に「宗教的寛容」という発想が、まだない時代ですから、こうした政治的妥協を守らせるためには、都市幹部による強い決意が必要でした。 続く
2009.06.19
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クロニクル 丹那トンネル貫通1934(昭和9)年6月19日静岡県の熱海駅と函南駅の間を通る、丹那トンネルがこの日貫通しました。難工事で完成が遅れたため、清水トンネルが先に完成を見ていたため、延べキロ数は国内第2位となりました。貫通後は、速やかに利用されるようになりますが、丹那トンネルの開通まで、東海道線は、現在の御殿場線の線路を使って、沼津に出ていました。そのため、経費の面でも、時間の面でも、大いに助かったと言われています。なお、トンネル内で排気が出来ないため、トンネル内については、蒸気機関車ではなく、電気機関車がこの時代から使用されたそうです。 今から75年前のことでした。
2009.06.19
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世界経済の現状(32)再び、欧州がきなくさくなってきました。ソ連圏崩壊後に市場経済を導入した東欧、北欧圏の国々の経済が、金融危機の直撃を受けています。事実上破綻したアイスランド、預金の全額保護の抜け駆けをしたアイルランドなどが、昨年早々と話題を呼びましたが、ここに来てバルト3国の真ん中に位置するラトビア経済の破綻が明らかになりました。ラトビア経済は、事実上スウェーデン国立銀行が支えておりましたので、ECBは大慌てで、スウェーデンへの緊急融資を決め、スウェーデンの共倒れを防ごうと必死になっています。その矢先、東欧の自動車産業の最大集積地になっていたスロバキアが、自動車産業の世界的不振の煽りを受け、同国に進出していた先進国企業が相次いで撤退を決めたことで、壊滅的打撃を受け、ギブアップ寸前と報じられました。同国の首都ブラティスラバは自動車産業の集積地で、かつては「チェコのデトロイト」と呼ばれた時期もありました。その後、スロバキアがチェコから分離独立した後も、順調に伸びてきていたのですが、ドイツ系企業の一斉撤退で、どうにもならなくなったようです。おそらく、似たような経済状態にある国は、いくつもありますから、今後どこまでECBが東・北欧の国々を支えることが出来るか、体力勝負に入ってきたように思えます。ポンドに触れなかったのは、ポンドには他国を支援する余力が、既になくなっているからに他なりません。 続く
2009.06.18
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宗教改革よもやま話 (27)1525年ドイツ農民戦争が終結し、戦いに参加した農民達は運動の挫折を味わっていた頃、ルター派の諸侯は、ルターの教義が、カトリック教会の守護者である皇帝権力に対する対抗軸となることを学び、自己の所領でルター派の教会を整備することに尽力し始めたのです。しかし、皇帝カール5世と、彼の弟にしてハプスブルグ家領の実質的統治を委ねられていたフェルディナドには、こうしたルター派の諸侯の行動に、有効な対策を講じる余裕がなかったのです。それはどういうことなのか。オスマン帝国の脅威に晒されていたからです。征服王メフメット2世の手で、東ローマ(=ビザンツ)帝国が、1453年に滅ぼされたことは、指摘しました。そして、今ここに1520年に即位したスレイマン1世の治世を迎えていたのです。即位後すぐに難攻不落を誇っていた、ベオグラードを落としたスレイマン1世の軍は、ハンガリーに進出。1526年のモハーチの戦いで、ハンガリー軍を撃破したのです。兵力差、兵器の質、戦術のどれをとっても、オスマン帝国軍の優勢は、圧倒的でした。ローマ・カトリック世界の守護者を任じる神聖ローマ皇帝カール5世が、この強力な敵を迎え撃って、キリスト教世界を守るためには、敵対するルター派諸侯との関係を修復し、彼らの協力も得る必要に迫られたのです。ルター派の諸侯にしても、キリスト教世界の防衛に異論のあろうはずはなく、ここに両派の妥協が成立するのです。1526年にいったん成立したこの妥協は、オスマン帝国の攻勢が緩んだり、激化したりする度に、何度も行きつ戻りつを経験します。宗教改革派一般を指すプロテスタントという用語そのものが、態度をコロコロ変える皇帝カール5世に対する、ルター派諸侯の抗議(プロテスト)から来ていることは、良く知られている通りです。即ち、ルターの改革は、ルネサンス以降の様々な科学・技術の発展。皇帝と諸侯の間の様々なドイツ的軋轢、そして15世紀半ばにおけるヨーロッパ世界の変貌と、オスマン帝国の脅威という、国際関係を複合的に結び合わせて、初めてその全貌が見えてくるのです。 続く
2009.06.18
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クロニクル 豊田商事会長刺殺1985(昭和60)年6月18日金のペーパー商法を利用した豊田商事の詐欺事件を、ご記憶の方も多いと思います。会社が契約者に金を売るのですが、実物の金を持っても仕方がないでしょうと、その金を会社が預かることにして、預り証即ち証券を渡すのです。実際の金を会社が保管していれば、それは詐欺ではありません。しかし、その金を保管していなかったとすると、これは立派な詐欺になります。この詐欺がばれて、約3万人の被害者と2千億円と言う被害金額、詐欺にあった人たちの大半が1人暮らしの老人であったことなどから、大きな社会問題となりました。その豊田商事の会長永野一男が、この日夜10時過ぎにTV中継中のカメラの前で、彼の住まいのマンションにガラスを割って侵入した男に刺殺されました。その1部始終がTYでナマ中継されたのです。警察が操作中の事件の容疑者が、各局のTVクルーがカメラを構え、レポーターがしゃべっているその前で、刺し殺されたのです。2人の争う声も収録され、そのままTVに流れました。カメラもマイクを持ったレポーターも、誰一人機材を置いて止めに入ることをしなかったのです。これはマスコミの姿勢として、当時大きな問題となりました。また責任者の死亡で、集めた資産をどこにどう隠したのか、或いは使ってしまったのか。社員にいくら渡したのかといったことが、わからなくなってしまったため、被害者に返却できる金額が、非常に少なくなってしまうという、残念な結果にも繋がったのでした。
2009.06.18
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世界経済の現状(31)さて、日本でも麻生内閣の大盤振る舞いで、再び財政赤字を急拡大させてしまっています。経済構造改革に繋がるような、前向きの評価のできる大盤振る舞いなら、評価のしようもありますが、凍結したはずの採算に乗らない道路の建設など、ゾンビ企業の延命にしかならないような、無駄遣いが各所にあるのですから、先行きが思いやられます。ということで、日本も大量の国債の発行で、市場から資金が吸い上げられます。しかもです。2月以降、日本を代表するような超優良企業が、次々と社債を発行して、市場から資金を吸収しています。ざっとあげてみますと、トヨタが2月と6月の2回の発行で3千3百億円、今はパナソニックというらしい松下が4千億円、ソニーが2千2百億円、NTTが1千7百億円、JTとデンソーが各1千億円、リコーが850億円、ホンダが7百億円と、1兆5千億円近くに達しています。これに、大銀行が競って発行した個人向けの劣後債(これは事業会社が発行する普通社債に比べると、金利は高く、返済順位は株式に次いで低い、特殊な債権です)が8千5百億円も発行されていますから合わせると既にして、2兆3千億円もの資金が、市場から吸い上げられているのです。三菱UFJが4500億円、三井住友が1300億円、みずほが1230億円、住友信託が1000億円、間もなく発行する中央三井信託が500億円となっています。旺盛な資金需要があって、集めた資金が積極的に設備投資に投入されるのであれば、これは結構なことになります。しかし、そうではなく、これらの企業は積極的な設備投資を絞り、不慮の事態に備えて、手元資金を厚めに手当てしているに過ぎません。金融機関の劣後債の発行は、一昨年夏以降の株安や不況で毀損してしまった、自己資本の補強に過ぎないのですから、ことらも、どうみても後ろ向きの資本増強に過ぎません。つまり、日本を代表する企業達の社債や劣後債の発行ラッシュは、決して前向きの攻めの資本増強ではなく、危機の再来に備えるための内向きの資本増強なのです。結果としてどうなるか。社債発行企業に名を連ねた企業をご覧ください。超一流でない企業名はどこにも見当たりません。1,5流や2流の企業には資金需要がないのでしょうか。そんなことはありえないですよね。一流企業ですら、将来手元資金が不足する事態に備えて手元資金を厚く積んでいるのです。一流企業に比べれば、経営の安定性に劣るのが、1,5流や2流企業のはずですね。1流企業以上に手元流動性を確保したいはずです。しかし、出来ないのです。1流企業のネームバリューがあればこそ、投資家に社債を購入してもらえるのです。そうした企業が市場から資金を吸収してしまうため、本当に資金を必要としている企業は、市場で資金を調達できず、日銀の資金の大量供給にすがるしかなくなっているのが、現実です。しかし、こんなやり方をいつまでも続けるわけには行かないですよね。綱渡りはここでも続いています。 続く
2009.06.17
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宗教改革よもやま話 (26)1520年代にドイツで発行された絵入りのパンフレットの殆どは、ルターを支持する人々の手で作られたものでした。そうしたパンフレットの読み聞かせを受けた人々は、当然ながら宗教改革者ルターに対し、現実社会の改革をも期待するようになります。特に「神の水車」の情景は、領主が独占的に占有し、農民の共同体から使用税を徴収している水車や風車の、使用の自由への期待を高めます。ここに、ルター派の指導者達の中から、民衆の苦境を救うのも、宗教改革者の任務の一つと考え、社会改革と宗教改革の一体的実現を目指すグループが登場します。彼らはトマス・ミュンツァーを中心にまとまり、原始共産主義を理想の社会と考え、キリスト教的共産主義の実現を目指して、立ち上がりました。「地上に神の国を建設しよう」これが彼らの合言葉でした。この主張に共鳴して各地の農民達も立ち上がり、大規模な農民反乱となったのです。彼らは、大きくは農奴制の廃止を掲げ、その中で教会税の軽減、製粉場の使用税の廃止、地代・貢納の軽減などを要求、さらに教会の牧師を、自由に選択する権利も求めたのです。反乱は先ず、1524年の夏ににシュワーベン地方一帯で始まり、25年の3月頃から急速に全ドイツに広まり、1524年~25年のドイツ農民戦争と呼ばれています。この農民反乱にルターはどのような態度をとったのか。当然反乱の指導者や参加者は、ルターの支持を期待していました。しかし、当初反乱に同情的に見えたルターは、運動が過激化するに連れて、領主達対して、「社会秩序の維持のために、団結して鎮圧にあたる」ことを勧めるに至ったのです。精神世界のみの改革を目指すルターは、眼前の現実=領主による農民の支配を、そのまま認めます。しかし、農民達にとっては、社会改革を伴わない信仰のみの改革は、意味のないものに見えました。彼ら、彼女らにとって、ルターは裏切り者の、うそつき博士に見えたのです。それゆえ。この反乱を契機に、ドイツ民衆の中でのルター人気は急速にしぼんで行くのです。しかし、領主は違いました。彼らにとって、改革者ルターは、自分達の権威を正当化するなくてはならない存在と化したのです。 続く
2009.06.17
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クロニクル 中国水爆実験に成功1967(昭和42)年6月17日42年前のこの日、中国政府は水爆実験を実施、成功した旨を発表しました。前年8月に始まった文化大革命が、益々激しく続けられている最中の出来事でした。こうして中国は米ソに続く核大国への道を、フランスと共に走り出しました。
2009.06.16
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世界経済の現状(30) 大量の国債を発行したり、発行を計画しているのは、米国だけではありません。日本を含め、発行できる国(政府に信用のない国は発行できませんから、他国やIMFなどに泣きつく事になります)の殆どが、米国と同じように市場に国債を撒き散らしています。国債だけではなく、IMFなどの国際機関もまた、大量の国際機関債を発行しており、国債とあわせた発行額は、6月5日の段階で前年同期比2,4倍、1兆ドルに近い(その後に6月の米国債の発行もありましたから、現在は既に越えています)9852億ドルに達しています。この両者が債券発行に占める比率は、前年同期の21%から42%に急増しています。公的機関がこれだけ市場から資金を吸い上げているのは、経済危機対策として投入された税金や公共機関の融資が、借金の返済といった負の資産の処理に回され、設備投資や消費といったプラス効果を齎していないからだと、考えざるをえません。そしてこうした公共債の増加は、一般企業の債券発行の敷居をあげることに繋がります。資金が必要な企業の社債の発行が狭き門になるとすると、益々企業の政府依存は強まり、経済の自律回復を困難にする恐れが強まります。そして米国からは、いよいよと言うべきか、住宅バブルとは一線を画して、バブルと無関係な静かな値動きに終始してきた、商業用不動産の値崩れが、ここにきて激しくなってきています。住宅バブルの崩壊で傷ついた個人が財布の紐を閉め、それが消費市場を冷やし、企業の新規投資を抑制したり、不採算部門の整理を促している。それが労働者の可処分所得の減少に通じ、さらに消費を減退させる。この負の連鎖の中で、ビルなどのテナント需要の減少、空室率の増加、賃料の下落と繋がって、遂に商業用不動産価格にまで、影響が及んできたことになります。日本の事情は次回に譲ります。 続く
2009.06.16
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クロニクル テレシコワさん宇宙へ1963(昭和38)年6月16日この日は、女性史の上で、記念すべき日となりました。何曜日だったか忘れましたが、大学中どこへ行っても、女子学生のニコニコ顔が溢れていたのを覚えています。女性の社会進出が、まだ遅々として進まずといった時代でしたから、とりわけ女性の権利に敏感な闘士然とした女性たちの、柔らかな笑顔が印象的な1日でした。そうなんです。朝起きたときから、「ワーリャワーリャ、こちらはカモメ」と訳された、ワレンチナ・テレシコワさんの声が、TVからラジオから流れっ放しだったのです。この日、ソ連の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワさんが、世界の女性として初めて宇宙空間へ飛び立ったのでした。彼女を乗せたボストーク6号が宇宙へ旅立ち、成功裏に飛行を続け、無事帰りついたのです。
2009.06.15
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宗教改革よもやま話 (25)ルターは、精神世界における過激な改革者でしたが、現実世界の改革には殆ど関心を持ちませんでした。ですから、「95過剰の論題」の発表後、続々と発表された絵入りのパンフレット(そのうちの「神の水車」「真理の勝利」「ヴィッテンベルグの鶯」「ルターの首引き猫」などについては、このシリーズで紹介させていただきました)についても、ルターが直接関知したものは、なかったのです。それはいわば、ルターの黙認の内に出されたものでした。ルターはまさに「信仰のみ」の人でした。聖職者の存在すら否定し、修道士を認めないルターは、修道士や修道女の還俗と結婚を奨励し、自らも1525年には以前に修道女だった女性と結婚しています。世俗世界でルターの目立った行動は、実はこれだけです。 しかし、世間はそうは見ません。ルターの改革思想は、フッテンやメランヒトンといった人文主義者、デューラーらの画家、都市のブルジョワなどに受け入れられて行きます。そしてなかには、より急進的な改革を目指そうとする人たちも出てきます。ルターの撒いた種は、精神世界に留まらず、ドイツの社会的、経済的現実の改革を目指す動きにまで、発展してしまうのです。そうした動きの頂点に来るのが、1524-25年のドイツ農民戦争だったのです。 続く
2009.06.15
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世界経済の現状(29) アメリカ国債の入札を通過し、無事消化できたとしてG8会合も波乱なく終了したようです。しかし、詳しい販売状況を見ると、やはり苦しさが随所に見られます。30年国債の金利がいくらに決まったかを見ましょう。3月の入札では金利3,64%でした。それが4月はなしで、次の5月には4,28%、今回の6月は4,72%です。回を重ねるごとに0,5%近くも金利の上昇が続いています。金利上昇のスピードが大変速く、次回は明らかに5%ラインを超えるかどうかという事態になりそうです。そしてもう一つ重要な点があります。米国債の入札は、民間が行なう直接入札(民間銀行や証券会社等が買い付ける方式)と、FRBに依頼して入札してもらう間接入札とがあるのです。この間接入札は、各国の中央銀行などが応札する場合、民間の金融機関に頼むわけにいきませんので、中央銀行同士ということで、連銀に代わって札を入れてもらうのです。実は今回の30年物国債の入札では、この間接入札の比率が何と49%にも達し、予定額の半分近くに達していたのです。前回の33%から急増しているのです。こうなると、無事消化されたことになっているアメリカの長期国債は、実は札割れ1歩前だったのではないかという、疑いが出てきます。FRBや連銀が、日本や中国、アラブなどの中央銀行に必死になって、応札を依頼したのではないか。場合によっては、それでも足りずに自ら密かに応札していたのではないか。こうした疑いも持つことが出来るのです。今年度の国債の総発行予定額は1兆8千億ドルです。まだまだ発行を続けなければならないのです。この状態でドルの為替レートは、今の水準を保てるのでしょうか。今後の推移を見守る必要があるようです。 続く
2009.06.15
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クロニクル 暑中見舞い葉書発売1950(昭和25)年6月15日59年前のこの日、郵政省は初めて暑中見舞い葉書を発売しました。当時の葉書は1枚5円でした。もちろんどおな図案の葉書だったか、小学校2年生だった私が知る由もありませんでした。手中見舞い葉書の売れ行きは、当初は散々だったのですが、その後の日本経済の成長と共に、次第に広がって行きました。
2009.06.15
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宗教改革よもやま話 (24) ルターがローマ教会との決別を覚悟した時、ローマ教会もまたルターの聖書解釈を否定し、異端の説を撤回しないルターに、破門宣告を下しました。1521年1月のことです。ローマ教皇の破門状は、「ルターの首引き猫」の版画の紹介の折に記しましたが、いわばローマ教会にとっての、伝家の宝刀でした。しかし、万人司祭説を唱え、ローマ教皇以下聖職者の権威を否定するルターにとって、何の効果も持ち得ないものでした。困り果てたローマ教皇の要請を受けた神聖ローマ帝国皇帝カール5世は、同年4月ルターをウォルムスで開催中の帝国議会(300諸侯またはその代理人が集まる場です)にルターを召しだし、ルター説の撤回を迫りました。しかし、ルターは皇帝カール5世の脅しにも屈せず、自説の撤回を拒み続けました。ルターにとって、それは神の命じるところではなかったからです。ここに皇帝は、ルターを帝国の法の保護から外すという提案をし、可決成立させたのです。この意味を考えて見ましょう。ルターに帝国法の保護が及ばないという意味は、当時国外追放を意味していました。神聖ローマ帝国内部からの追放するということです。また、法の保護が及ばないのですから、ルターを傷つけたり、亡き者にしたとしても、何の罰則も受けないということでもありました。しかし、ルターを死罪とする決定でなかったことも確かでした。シリーズの(21)に記したように、神聖ローマ皇帝カール5世にして、スペイン王カルロス1世の領有する国土は、中世以降のヨーロッパでは最大でした。当然それだけ強大な権力を持っていました。その類稀なる権力を持つカール5世が、どう頑張ってもルターを死罪とすることが出来なかったのです。1世紀前の帝国皇帝は、ボヘミアのフスを焚刑に処しています。それでもカール5世には出来なかった。ルターの死罪には反対の諸侯を説得することが出来なかったのです。そして、帝国追放刑も、ザクセン選帝侯という、有力諸侯が密かにヴァルトブルグの居城にルターを匿い、自由な執筆活動を保証したため、事実上骨抜きにされてしまったのです。(10ヵ月間、この城に隠れ住んだルターは、ここで聖書のドイツ語訳を完成しています。)こうしたドイツ的事情が、ルターの活動を支えたといえましょう。こうしたプラスの事情は、、さらに続きました。 続く
2009.06.14
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クロニクル 勝鬨橋完成1940(昭和15)年6月14日この日、国内は初の可動橋として、墨田川にかかる勝鬨橋が完成、使用されるようになりました。晴海方向に抜ける橋です。墨田川を大型船が通るたびに、橋の通行を遮断して、中央部が大きく開く橋です。私の子供の頃は、小学校低学年(何年だったか、定かでありませんが、今は理科と合わせて生活科となっている、1年か2年の頃でしょう)の社会科の授業で、写真入で大きく扱われていました。小学校4年にあがる春休みに、家族で東京に出かけた折に、勝鬨橋を見学、とても興奮して離れ難かったのを覚えています。しかし、当時は交通量が少なかったから良いのですが、やがて車の通行が増え、交通遮断の影響が大きくなると、次第に橋の開閉は減らされ、1970(昭和45)年11月29日を最後に、開かずの橋となり、現在に至っています。
2009.06.14
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世界経済の現状(28) アメリカ国債の金利上昇は、当然ながら市中金利の上昇を招きます。アメリカは公定歩合を事実上ゼロにまで引き下げ、FRBは市場に大量のドルを提供して金融機関の資金繰り破綻を、徹底的に抑制しているのですが、国債の金利上昇はいかんともし難く、貸出金利の上昇も止められずにいます。当然住宅ローン金利も、再び上昇してきました。つまり、国債金利の上昇は、影響の及ぶ範囲が非常に広いのです。そしてアメリカでは住宅ローン債権は、ご承知の通り証券化されています。お定まりのやり方ですが、大量の住宅ローンの一つ一つを小口に分け、それらの何10本かを束ねたMBSとして、他の金融機関や投資家に売り出すのです。住宅ローン利用者の元利の支払いを、利子や元本の返済に充てるパススルー証券がその主流です。このうち、サブプライムローンを組み込んだ債権は破綻したのですが、より信用度の高いものは、まだ沢山残っており、その市場規模は、残高で見てアメリカ国債の40倍に達しているとされています。金利が低下傾向にあり、ローンの借り換えが頻繁であれば、借り換えごとに、ローン債権の所有者に元金が還ってきますから、それでMBS債権の元本を繰上げで返済することが出来ます。この場合、新たに借り換え資金を提供した金融機関が、その住宅ローンを証券化し、新たなMBSが組成されるのですが…問題は逆の場合です、金利が上昇してしまうと、借り換えは起こらなくなります。それどころか、高い金利を支払えなくなり、返済が滞る人が増えてきます。そこに不況で収入の目減りが起こるとどうなるか。MBS債権の元本や利払いの原資であるローンの返済率は加速度的に落ちることになります。国債の金利の上昇は、MBS債権の元利払いに大きく影響し、小康状態に戻った感のある金融危機を、再び招きよせる危険を孕んでいるのです。 続く
2009.06.13
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宗教改革よもやま話 (23)さて、ルターの改革当時のヨーロッパでは、イギリス(と言ってもイングランドのみ)とスペインは統一王権が成立していました。フランスはパリ中心の王権が、支配領域の拡大に腐心している時期でした。イタリアはなお諸都市国家が周辺農村に支配の手を伸ばしていましたが、いわば諸邦分立の状態にありました。ではドイツはどうだったのでしょうか。ドイツもまた統一王権とか、統一の主権国家と言うには程遠い状態にありました。形式的に神聖ローマ帝国と称していましたが、これは実態を伴わない観念上の存在に過ぎませんでした。事実帝国の皇帝の威令に届く範囲は、ハプスブルグ家の家領の範囲に留まっていたのです。実際のドイツは、300を超える大中小の領邦と、これまた60を数える自立度の高い帝国都市の連合体だったのです。そして、オスマン帝国の脅威が高まってきた15世紀後半以降、異教徒との戦いを錦の御旗にして帝国内部での支配権の強化をもくろむ皇帝と、自領を中心にした領邦国家化をもくろむ諸侯とが、事あるごとに対立するようになっておりました。政治は宗教を利用し、宗教は政治を利用します。議会制民主主義の発達した今日でも、この構図に変わりはないのですから、時代を遡るほど、この関係は濃密です。今、帝国皇帝はローマ教会の守護者を任じるのですから、皇帝と対立する諸侯は、可能ならばローマ教会の権威に対抗することが可能な、信仰上の権威を担ぎたいという希望を持つことになります。神聖ローマ皇帝への対抗軸を求めていたドイツ諸領邦の諸侯達にとって、「95ヶ条の論題」を発表して、一躍時の人となったルターは、ローマ教会=神聖ローマ皇帝の連合に対抗する上で、大切な存在になるかも知れないと意識されたのです。時の人となったルターは、当初慎重な姿勢を崩さなかったのですが、教皇支持の論客達との論争を通じ、また堰を切ったような多彩な執筆活動を通じて、次第にカトリック教会との決別に舵を切り、改革者として生きることを決意するに至ります。彼は言います。「キリスト者(信者のこと)は、何人も自由に福音に近づくことが出来なければならない。彼は何人にも服従しない代わりに、全ての人間に奉仕する。愛である神を信じれば、神への愛と隣人への愛とがおのずと生まれる。先ずは信仰あり、次に行いあり…。」(『キリスト者の自由』)と。万人司祭説の要点が、ここに出尽くしたのです。精神的には誰にも従わず、自己と神との対話を通して、直接福音に近づけるという、深い意味での信仰の自由、集団に対する個の精神の自由(=自我)が、ここに提起されています。そして諸侯にとって有難いことに、ルターが強調するのは精神の自由であって、肉体の自由ではありませんでした。内面の問題に集中したルターは、肉体的には全ての者の奉仕者たれと、社会制度の現状を黙認する観点を提示していたのです。諸侯の多くはルターを支持し、教皇の意を組む帝国皇帝に対して、ルターを擁護する立場をとったのです。 続く
2009.06.13
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クロニクル 太宰治玉川上水に入水心中1948(昭和23)年6月13日作家の太宰治は、この日愛人の山崎富栄と、玉川上水に入水心中を遂げました。1909(明治42)年6月19日生まれ、間もなく39才になる直前でした。太宰は自殺願望が強く、これまでにも4度の自殺未遂を繰り返していましたので、5度目にしてようやく、念願を果たしたのでした。2人の死体が発見されたのは、入水6日後の6月19日、丁度太宰の39回目の誕生日当日でした。そのため桜桃忌は6月19日になっているのです。
2009.06.13
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