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政治を斬る(15)双務的な条約に変更された新安保条約が、実際に日本を戦争に巻き込むかも知れないと憂慮される事態は、ヴェトナム戦争の激化と共にやってきました。1964年8月のことでした。後に米軍の自作自演であったことが暴露された、トンキン湾事件とそれに対する報復としての米軍の北爆の実施です。北爆を実施した米軍機を積んだ米第7艦隊は、沖縄の米軍基地を母港としていたからです。米軍の北爆に北ヴェトナムの後援国であるソ連が反応すれば、沖縄の米軍基地に、ソ連製のミサイルが飛んでくる可能性が否定できなかったからです。ソ連の自制で事なきを得ましたが、このヴェトナム戦争の激化は、実は沖縄にとって大変不幸なことでした。沖縄の米軍基地、その多くは1945年の敗戦時からあったものではありません。それは戦後に何度にか分けて拡張に次ぐ拡張が繰り返されて今日に至っているのです。そして、最大の基地拡張は、この1964年から1972年の返還までの過程で行われたことは、覚えておく必要があるように思うのです。 続く
2009.11.30
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デパートの誕生(49) 食事や住居を提供するなど、プシコー夫妻は、なぜこれほどまでに従業員の待遇改善に拘ったのでしょうか。種明かしをしますと、実は夫妻の描くボン・マルシェの販売戦略と、密接に関係していたのです。1850年代、夫妻が仲間と共にボン・マルシェを創業した時、それはまだデパートとは呼べない、マガザン・ド・ヌヴォテの一つでした。通常の商店に比べれば大きく、正価販売を掲げ、顧客の支持を次第に広げていったとしても、店員は下層階級に属し、顧客に見下げられる存在でした。しかし、ボン・マルシェは次第に業容を拡大し、デパートとしての体裁を整え、1872年に第1期新館がオープンした時には、パリの商業界で一頭抜きん出た存在となっていました。そんなボン・マルシェにとっての最大のターゲットは、産業社会の順調な発達の中で、次第に力をつけてきた中産的ブルジョワジー、いわゆるミドルクラスです。アッパーミドルの生活に憧れ、下層のブルジョワ(プチブル)との差別化を計りたいミドルクラスに、1ランク上の生活を提案し、そこに巻き込んでゆくことが、売り上げ拡大にとって欠かせなかったのです。そんな時、憧れは持っていても、財布の中身を考えて逡巡するミドルクラスの女性たちの背中を押し、購入の決心をさせるのは、応対する店員の言葉であり態度です。皆さんがもし買うべきか買わざるべきか迷っているミドルクラスの婦人だったとしたら、いかがでしょう。「奥様のような方にこそ、この生地(このお召し物)はお似合いです。生地も奥様のような方にお召しになっていただけることを喜んでおりますとも…」と囁きかける店員が、常にアッパーミドルの顧客たちと接しているような優雅な物腰を持っている場合と、そうではなく下層階級然とした野暮ったさで接してくる場合とでは、迷いの程度もおのずと違ってきませんか。後者の場合であれば、1も2もなく断れても、前者の場合には違ってきませんか。前者の場合に、こうまで言われて買わずに帰ることは、アッパーミドルを目指しているプライドが許してくれないと思いませんか。プシコー夫妻は、店員の身だしなみや物腰、そして生活意識を、応対する顧客層の意識に近づけることこそが、売り上げを伸ばす上で重要であることを意識していたのです。即ち少なくとも顧客と接する社員たちに、中流意識を持たせることが、重要であることを意識していたのです。そのためには、先ず外観を整える必要がある。だからこそ夫妻は質の良い食事と、決して広くはないけれど清潔な住居を提供することから始めたのです。 続く
2009.11.30
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クロニクル 自動焦点カメラ発売1977(昭和55)年11月30日11月30日はカメラの日です。ご存知でしたか?。 実は、32年前の11月30日に、小西六写真工業(現コニカミノルタ)が、世界初のオートフォーカス(AF)カメラ「、コニカC35AF」を発売したのです。それを記念して、この日がカメラの日とされたのです。コニカは「ジャスピン(ジャストピント)コニカ」の愛称でこのカメラを大き宣伝し、それまでカメラを扱うのに尻込みをしていた女性層にもこのカメラは受け入れられたのです。
2009.11.30
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デパートの誕生(48)衣食住を家計の出費でみると、食費、住居費、被服費の順でしょうか。ボン・マルシェはこのうち無料の昼食と夕食を提供(夕食は採る採らないは自由)していたのですが、実はそれに留まらず、住宅面でも従業員の面倒を見ていました。こちらは、全従業員を対象としたものではなかったのですが、地方出身者というか、パリに家族がいない独身の店員に対して、屋根裏部屋でしたけれども。女性店員用50室、男性店員用28室を用意して、この78室を無償で貸し出していたのです。これはボン・マルシェの建物内(5階)でしたが、さしずめ無料の独身寮でした。屋根裏部屋ですから、夏は暑く、冬は寒いのですが、清潔でさっぱりした部屋だったようです。かつて、住み込み店員といえば、売り場の空きスペースで寝起きしていたのですから、この面でもかなりの厚遇といえます。ボン・マルシェの同じ5階に女性用、男性用夫々の居室がありましたが、出入り口は厳格に分けられ、内部の行き来は出来ない造りになっていました。その上女子寮の入口には、女性の管理人がいて、男性の立ち入りを厳重に監視していました。また内部に、ピアノも備えた女性従業員用の談話室兼娯楽室、ビリヤードを備えた男性店員用の娯楽室兼談話室、男女別の洗面所が備えられ、図書室のみが男女兼用となっていました。当時のブルジョワ社会は、既婚の男女にはかなり甘かったのですが、独身男女の交際には非常に厳しく、社員のモラルに問題でもあれば、即売り上げの大幅減少につながりかねなかったのです。その点は、プシコー夫妻も気を使い、社員の男女交際には大変厳格だったのです。寮からの外出は、決められた時間以外は、許可制となっており、門限もかなり厳格でした。平日は午後11時、休業日の日曜日は0時半となっていました。何度か門限を破ると、即退寮となり、それは事実上の首切りを意味していました。もう1点、ボン・マルシェの社員用の厚生施設を紹介させていただくと、それは専属の医師を社医として抱え、医務室を設置していたことです。ボン・マルシェの店内といえども、今のように空調があるわけではなく、室内の空気は良いとは言えません。店員たちはそうした空間で毎日数時間過ごすのです。結核が死病と恐れられたこの時代に、特にデパート店員の結核罹患率は、かなり高かったのです。医学界からそうした指摘を受けたプシコーは、店内に医務室を設けて、従業員の健康管理に気を配ったのです。定期健診を実施し、医師のお墨付きを得れば、安心安全を顧客たちにもアピールできたからです。 続く
2009.11.29
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クロニクル 大洋デパートで火災1973(昭和48)年11月29日36年前のこの日、熊本市大洋デパートで火災が発生、死者103名、重軽傷者124名に達する、わが国では、前年(1972年)5月の大阪の千日ビル火災にtぐ、大惨事となりました。出火時間は午後1時15分頃、出火場所は2階から3階への階段の踊り場でしたが、出火原因は特定できませんでした。ただ当時、工事中でスプリンクラーのスイッチは切られており、かつまた階段部分には、大量の荷物が置かれて通路幅は狭くなっていました。こうした事情が、被害を大きくしたことは間違いのないところです。
2009.11.29
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デパートの誕生(47)無料の社員食堂を整備したプシコーには、どんな狙いがあったのでしょうか。1972年といえば、通信販売の強化にも乗り出していた時期ですから、社員数も拡大期に入っています。ですから。かかる経費も半端ではありません。それに、昨日記したように、4階のかなりのスペースをとっています。そうまでして、どう採算を取ったのでしょう。プシコーの狙いの一つ目は、社員の健康管理面にありました。店員には独身者が多いですから、食事を各自に任せておくと、食事以外の面で給与を使ってしまい、ロクな食事をとらない店員も出てきます。中には、昼食を抜いてしまう店員も出てきます。当然労働に影響が出てきます。ちゃんと食べさせ、しっかり働かせる効果を、彼は狙っていました。二つ目は、社員食堂があれば、時間による交代制がスムーズに実行できますから、交代による時間のロスがなくなります。昼に食事にでたまま、午後の勤務に遅れて戻るといった不心得者も排除できます。実際にボン・マルシェの社員たちは、3交代で食事を取っていました。そして三つ目ですが、昼食と夕食(こちらは無料ですが、利用するしないは社員の自由、ただしし原則りようのため、不要の場合は事前届出必要)を無料で提供することにより、従業員の給与特に固定給を、相対的に低く抑えることが出来ることです。きちんと食べることが出来ると、人間の不平不満の爆発は、あらかた避けることが出来るからです。そうはいっても、ボン・マルシェの給与水準は、食堂で提供する食事同様、同業他社に比べると、抜きん出た水準にありました。労働者の福祉とか、社会政策という考え方が、バーナード・ショウやウェッブ夫妻によって唱えられ、社会福祉という視点がイギリスで生まれるのは、80年代も後半のことでしたから、プシコーの着眼と行動は、まさに異色の行動だったのです。 続く
2009.11.28
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クロニクル ローハイド放映開始1959(昭和34)年11月28日「ローレン ローレン ローレン…」と言っても、ソフィア・ローレンのことではないですよ。土曜日の夜10時、テレビ朝日(当時はNET)で流れるフランシス・レインの歌うメロディです。年配の方なら覚えていらっしゃるでしょう。西部の牛追い、カウボーイたちの物語。ローハイドです。テキサスの牧場主から預かった牛を、東部へ運ぶ鉄道の駅まで長い距離を運ぶ、ロングドライヴの話です。隊長のフェイバーさん、ロディ(若い日のクリント・イーストウッドでしたね)にピート、そして料理番のウィッシュボーンじいさん。懐かしいですねぇ。女子学生にはフェイバーさんファンが多かったですが、私はウィッシュボーン爺さんが好きでした。そうなんです。そのローハイド、実は丁度50年前の今日から放映されたのです。放映は59年から65年まで、全217話が放映されました。番組スポンサーは洋酒の寿屋、現在のサントリーでした。
2009.11.28
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政治を斬る(14)安保闘争は敗北に終りました。新安保条約は、自然承認という形で批准され、効力を持ちました。岸首相は退陣し、変った池田首相は「寛容と忍耐」を掲げて低姿勢を貫き、防衛問題をテーマとすることを慎重に避け、「所得倍増政策」を発表して、国民の眼を折からの家庭電化の波に乗せて、「豊かな暮らし」の実現へと向けることに成功しました。国民もそれに乗り、政治の季節は経済の季節にすり替えられました。防衛問題の顕在化を慎重に避けた池田内閣の対応は、敗北に終った安保闘争が獲得した成果の面を、確かに持っていました。変化した安保体制を受けての、日本の防衛力の強化、自衛隊という名の軍隊の装備並びに兵員の増強を言い出すことを、米側も慎重に避けたからです。しかし、安保闘争を戦った国民の意識は、憲法の掲げる世界平和主義の理念に立脚したものではありませんでした。それは単純に「もう2度と戦争に巻き込まれるのはいやだ」ということにつきました。日本だけが、戦争に巻き込まれなければ良いという一国平和主義のレヴェルに留まっていたのです。世界から見れば、これは「自分さえよければそれでよいのか、世界に対する責任はそれで果たせるのか」ということになります。戦力不保持、軍隊を持たないと歌った憲法を持った日本が、本当にその姿勢を貫くとすれば、世界各国に向けて、「わが国のように、貴国も軍隊を全廃しましょう。それを世界中で実現しましょう」と訴え、世界平和への貢献を行動で示す必要があったのです。そうしてこそ、憲法の精神と日本の外交との歯車がピタッとあい、世界の尊敬を受けることが出来たでしょう。しかし、日本はそうしませんでした。世界平和を行動で示すこととは、正反対の行動をとったのです。米ソ冷戦の一方の当事者である米国と同盟を結び、ソ連や中国を仮想敵とする軍事行動の一翼を担ったのです。ですから、世界は日本の平和主義は口先だけであり、本気で世界平和を目指す気はなく、自国さえ平和でありさえすれば良いのだと、看做したのです。日本経済が次第に成長し、経済大国化するに連れて、世界の日本への批判・非難は強くなりました。経済力に見合った軍事的貢献をせずに、経済活動にばかり資金や人的資源を注ぎ込んでいるという非難です。世界平和主義を貫徹しない限り、この批判はかわしようがないありません。こうして時間の経過と共に日本は、追い込まれていきました。 続く
2009.11.27
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デパートの誕生(46) 1872年に完成したボン・マルシェの第1期新館には、650人を収容できる4つの従業員食堂が設けられていました。ボン・マルシェを魅力的な職場にするための、従業員向けの福利厚生の一環として、プシコーが考え出したものです。費用は無料。ただなのですが、質も量も満足の行くものだったようです。ゾラの小説に経営者のムーレが、従業員の話を聞いて、社員食堂のメニューを見直す話が出て来るのですが、プシコーは社員食堂の設置を思い立った時、食事の量と質は自分自身で監視することにしたのです。当然写真の満足度は高いものとなりました。一番大きい食堂は、男性店員用の食堂でした。食事はセルフサービスで、肉類はお替り自由、デザートもつき、さらに日本では考えられないのですが、ワインかビール(小瓶)が付いたのです。当初は夕食も全員食堂でとる決まりだった(これも無料です。こうすることで、従業員の夜遊びを減らせると考えたようです。しかし、家族持ちの店員から、夕食は家族と取りたいという希望が出され、とるとらないの選択は、各自に任されるようになりました。監視官、売り場主任、それに重役陣から社長までが社員と同じ場で、同じ食事をとっていたのです。下の絵が従業員食堂と厨房の様子です。女性従業員用の食事場所は、店員用と作業場の女子工員用の2ヶ所に別れていました。メニューは男性用と変らないのですが、ワインかビールを供与は希望者のみと言う所が違っていました。そしてもう1点、女性用食堂はセルフサーヴィスではなく、ウェイトレスがちゃんとテーブル・サーヴィスをしてくれました。最後の食堂は、御者、馬蹄などの現業職員用でした。ここでもメニューに差別はなく、異なっているのは、仕事の性質上時間決めでなく、いつでも食事が取れるようになっていました。プシコーは食堂の営業を業者への委託とせず、全て自前の食堂とし、食堂の社員も皆ボン・マルシェの社員とし、主任以下の職制をここにも適用していたのです。彼はまた、食中毒には特に気を払い、とりわけ衛生状態については、毎日チェックを怠らないのが常でした。
2009.11.27
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クロニクル ミッチーブーム1958(昭和33)年11月27日それは、現天皇の皇太子時代のことでした。もう51年前になるのですね。翌年の4月10日に結婚式をあげていますから、今年は金婚式だったのですね。あのお2人。そうなんです。51年前の今日、宮内庁は当時の明仁皇太子と正田美智子さんの婚約が整ったことを発表しました。確か当日の夕刊に写真が載りましたね。今や見かけなくなった清楚な美人といった雰囲気でしたね。初めての平民との結婚でした(今までは旧華族から選ばれていました)が、宮内庁の賭けは大当たりでした。あっという間に広まったミッチーブームも、むべなるかなでした。
2009.11.27
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デパートの誕生(45) ここで、ボン・マルシェの店員の待遇を見ることにしましょう。店員の給与が固定給と歩合給からなることは、前に話しました。売り子は自らの売り上げに応じて、売り場の責任者は売り場全体の売り上げに応じて、歩合給が入る仕組みでした。経理は伝票のミスを見つけた割合に応じて、監視員は万引きや社員の服務規程違反を見つけるに応じてと、歩合給のつけ方は様々でしたが、2種類の給与の合計が、社員の給与総額になっていました。例外は、配達や社員食堂の従業員など現業部門の担当者だけでした。これは、ボン・マルシェが早くから能力給のシステムを導入していたことを示しています。社員を競わせ、仕事の効率を高める方法としては絶好です。しかし、歩合給をあまり稼げない店員は大変です。固定給がどのくらいであったかを見てみましょう。19世紀の70年代から80年代に、パリに出てきた大学生に対する親元からの仕送りは、平均して1500フラン(約150万円)程度だったことが知られています。そしてボン・マルシェの社員の固定給は、年間で1200フラン~1500フラン(月額100フラン~125フラン)程度でしたから、これだけでは貧乏学生並の最低生活の維持がやっとだったように思えます。ところが、これに対して、店員が獲得した歩合給は、売り場主任といった職制を除いた優秀な社員の平均で、3600フランに達していましたから、こうした店員の年収は男女に関わらず5千フラン近くに達していたことになります。これだけの収入があれば、当時のプチブルのような生活を送ることが可能です。ゾラの小説にあるように、売り場主任クラスになれば、年収1万フランを超える主任も出てきます。こうなると、まさにアッパーミドルといえます。実際に1881年に「プランタン」を創業したジュール・ジャリュゾーは、ボン・マルシェで売り場主任まで上り詰め、プシコーの経営術をしっかりと吸収した上で、開業に漕ぎ着けた百貨店でした。こうした賃金体系でしたから、社員たちは売り上げの増加を目指して、同時にミスをなくすことを目指して、ニンジンを眼前にチラつかされた馬のように、懸命に働かされることになりました。しかし、売り上げが伸びず歩合給部分が少ない店員や、ミスが多く歩合給を減らされてしまう店員は、長く勤めることが難しくなります。売り子の採用が売り場主任に任されたいたこともあって、店員のおよそ40%は、5年以内に退職したり、退職に追いこまれていたことも明らかになっています。 続く
2009.11.26
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クロニクル 日本ペンクラブ発足1935(昭和10)年11月26日74年前の出来事です、この日国際ペンクラブの日本センターという位置づけで、日本ペンクラブが発足、設立総会で初代会長に島崎藤村が選ばれました。ペンクラブは、文筆業に従事する人々の組織で、言論・出版・表現の自由を守るために活動し、同時に国際間の文化交流の推進を計ること目的に、活動を続ける団体です。
2009.11.25
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デパートの誕生(44)世紀末のフランスでは、1898年に出版されたモーリス・ルブランの小説『これが翼だ』がロングセラーとなり、多くの人々に読まれていました。ルグランの言う翼とは飛行機のことではありません。リンドバークが遠くエッフェル塔のパリを目指して、ニューヨクを飛び立ったのは、1927年5月20日のことですから、世紀末の社会は飛行機の登場を予想すらしていなかったのです。実は、ルグランの言う翼ととは、自転車のことなのです。自転車の原型は、1810年代後半に試作されているのですが、以後数度の改良を経ても、下の図のような形のもので、なお曲芸的な乗り物の域を出ることが出来ず、実用には程遠かったのです。図の上が1830年代改良型、下が1870年の改良型です。現在の自転車ニグンと近づいた自転車は、安全自転車と銘打って1885年に登場した、イギリスのスターレーが開発した「ローバー型安全自転車」でした。下の図です。ここではじめて前輪と後輪の大きさがそろい、本格的に後輪をチェーンで駆動する形の自転車が登場しました。3年後、同じくイギリスのダンロップが空気入りのタイヤを実用化したことから、以後ローバー改良型自転車が急速に普及していくのです。ルブランの小説は、自転車が社会的なまた性的な解放に繋がる顛末を描き、19世紀末という時代が次々に生み出す新製品が、社会生活を大きく変えていく力になるさまを、些かの予言を交えて記すことで、当時のブルジョワの支持を受けたのでしょう。ところで下の図は、1898年の作でブーローニュの森の自転車乗りたちの休息所を描いた作品です。ここからは、自転車がアッパークラスやアッパーミドルにとっての、今で言うウォーキングのような健康とダイエットを兼ねた軽いスポーツとして、そのための洒落たウェアを競い合う場として、爆発的な人気を得ていたことが、読み取れます。ブログをお読みくださっている方の7割くらいの方は、1948年作のイタリア映画の名作『自転車泥棒』をご存知のことと存じます。大学時代に、池袋の人生座でリバイバル上映を見て以来、私はあの映画のラストシーンが大好きになりました。しかし、この映画のように、自転車が庶民の生活の手段、仕事上必要なものとなるのは、1920年代後半からのことなのです。アッパーミドルまでの戸外の軽いスポーツと社交を兼ねた新種のお洒落な必需品となった自転車を、ボン・マルシェやパリの百貨店が見逃すはずはありません。アッパーミドルの真似をしたいミドルクラスをターゲットに、特にボン・マルシェは自転車と共に、特に女性用の自転車用ウェアやアクセラリーを大々的に売り出したのです。このボン・マルシェのウェアは、通信販売でも大人気となり、同社の売り上げに大きく寄与したのです。
2009.11.25
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クロニクル 「世界大百貨事典」刊行始まる1931(昭和6)年11月7日『世界大百科事典』は、現在からみて78年前に初版の刊行が始まった、日本を代表する百科事典です。刊行は平凡社。平凡社を設立した下中弥三郎は、フランスの『アンシクロペディ』やイギリスの『ブリタニカ』に比肩する百科事典の刊行を思い立ち、先ず1914年に新語辞書『や此は便利だ』を出版し、成功を収めました。しかし、これに飽き足らずに構想を温め、遂に78年前の今日、『世界大百科事典』の第1巻の刊行に漕ぎつけたのです。この百科事典は、全28巻からなる立派なもので、十分世界に誇れるものでしたが、下中は、刊行終了と同時に、ただちに次なる改訂版を出しはじめ、常に新しい事項まで盛り込むことを止めませんでした。こうして平凡社の『世界大百科事典』は、31年版の後、36年版、47年版、55年版、64年版、72年版、81年版、88年版、そして2007年版と、9度新版を発行し続けています。最新版の第9版は、全35巻、総執筆者数7千名に及ぶという大事業でした。
2009.11.25
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政治を斬る(13)新安保(60年安保)に対する反対する人々の多くは、本能的にこの条約で、日本が戦争に巻き込まれる危険が増大すると感じていました。戦争はイヤだ。これが反対運動の原動力でした。ですから世論は、国会に突入するような学生の過激な運動にも好意的でした。こうした背景もあって、社会党を中心とする野党の追及は、政府の痛いところを次々と突きました。政府側が答えに窮し、会議を中断して調査の上で回答するといったケースも続きました。必然的に審議は遅れます。焦った政府は衆議院における委員会採決と本会議採決を強行したのです。昨今の国会では見慣れた風景です。しかし我々が見慣れたと平然としていて良い風景ではありません。戦前の議会には強行採決など一度もありません。天皇の諮問機関でしたから、そのようなことをしては、天皇に申し訳が立たない。これが共通認識だったからです。そして、勿論戦後も、この新安保条約の批准に関する議案まで、強行採決などありませんでした。しかもあろうことか、野党議員の抵抗を恐れた与党と政府は、議長要請という形で警官隊の出動を要請して、警察権力を使って野党議員の議場への入場を阻止した上で、与党議員のみで、新安保条約を可決し、参院に送付したのです。この政府と自民党の行為は、安保反対闘争の火に油を注いだ形になりました。「日本が戦争に巻き込まれる危険」と「平和憲法の空洞化」に漠然と不安を感じながら、何も行動しなかった人たちが、この政府の暴挙に対して、「民主主義を守れ」のスローガンを掲げて、大挙安保反対の陣営に加わったのです。国会へは、連日安保反対のデモ隊が波状的に訪れ、いつも人波に取り巻かれ、岸首相は国会から1歩も外に出られない状態となり、国会に籠城する羽目になったのです。国鉄や私鉄の労働組合は、安保反対の時限ストを行い、遂には総評の組合仲間と1日ゼネストも打ちました。乗客がストに反対せず、罵声も浴びせず、ただ「がんばれよ」と組合員に声をかけていた国鉄や私鉄のストは、この時だけだったように思います。半日ゼネストが行われた6月4日の「安保改訂阻止第一次実力行動には、全国で560万人もが参加しています。新安保条約の成立を祝して、歴代の大統領の中で、はじめて日本を訪れる予定だったアイゼンハワーは、日本の反対闘争の広がりを憂慮して、ハガチー新聞係秘書を、視察目的で日本に派遣したのは、6月10日のことでした。日本を訪れたハガチーは、羽田空港を出ると同時に、多数のデモ隊に取り巻かれ、慌てて空港内に引き返し、空港から出ることができなくなりました。やむなく彼は米軍基地のある横田に向かいますが、横田基地の周囲もデモ隊が押し寄せていたのです。この状況に日本政府要人との会談を諦めたハガチーは、事実上羽田空港に立ち寄っただけで帰国を余儀なくされたのです。アイク訪日は当然の如く中止となりました。そして、あの6月15日がやってきます。この日「安保改定阻止第二次実力行動」が実施され、全国で580万人が参加したのですが、夜に入って全学連主流派と警官隊が衝突し、東大生樺美智子さんが死亡したのです。翌日から運動はさらに盛り上がりました。しかし、憲法の規定によれば、予算案と条約案は、衆議院の議決後1カ月以内に、参議院が議決しない場合、衆議院の議決を認めたものと看做すとなっているのです。結局新安保条約では、野党が衆議院での再議決を求めて譲らなかった参議院では、1度も審議されることなく、6月19日が終わり、20日となった20日の午前零時に、自然承認となったのでした。60年安保反対闘争は、戦後の日本における最大の反政府運動でした。運動は岸信介首相の首を取ることには成功しました。しかし安保改訂を阻止することは出来ませんでした。「言論は空しいのか」と語り、挫折感を色濃く漂わせた知識人も数多くみかけられたのもこの頃でした。私が大学生となったのは、安保に1年遅れた61年4月のことでした。まさに「遅れてきた青年」の1人だったと、自分では称しています。 続く
2009.11.24
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デパートの誕生(43)電気製品の普及には、家庭への電力の供給が不可欠です。この電力の普及は、先ずはガス灯よりも格段に明るい電球の発明にとって、意識されるようになりました。米国にやや遅れて、イギリスやフランスにも電力会社が誕生し、大都市中心に家庭にも電力が供給されるようになるのは、20世紀に入ってのことでした。しかし、市内各所に1度に電柱を立て、電線を張り巡らせるには、長い時間が必要です。パリ市内の電線の張り込みがほぼ完了し、市内7割の家庭に電力が供給されるようになったのは、1925年頃のことでした。残りの家庭は、貧しさから電線の引き込みが出来ない家庭でした。こうした状態でしたから、新タイプの商品で、最初にヒットした商品は、手回しの蓄音機(当時は、レコードが何枚かサービスでついていたそうです)とカメラでした。コダック社の箱型カメラ「ブローニー」が米国で売り出されたのは、1900年のことでした。このカメラは人気となり、すぐさまヨーロッパでも売り出されています。米国で普及したシンガー社のミシンは、英仏ではさほど売り上げを伸ばしていません。それはミドルクラスの婦人たちにとって、裁縫仕事は召使の仕事でしたし体面上、繕いの痕がある衣服を家族に着せるる訳には行かなかったのです。そのため、家庭にミシンをおくことは、自己のステータスに関係しなかったからです。しかし、家庭で電力が使えるようになると、先ず第一に普及したのがアイロンでした。よれたり皺の入ってしまった服などを、短時間でピンと伸ばすことに役立つアイロンは、価格が安いこともあって、最も急速に普及した電気製品でした。1920年の秋に、米国ビッツバークに最初にラジオ放送局が誕生すると、そこからラジオ受信機も飛ぶように売れ始めました。その後の5年間で米国内だけで、約500の放送局が誕生しています。そして英仏は共に翌1921年に、米国を追いかけてラジオ放送局をスタートさせています。24時間電力が自由に使える生活に慣れてしまうと、大風や雷に伴う停電でもあると、誰もが困ってしまいますが、当時は電力の生産が間に合わず、送電は朝晩の2回、2~3時づつのところが多く、ラジオ放送も朝夕に限られていたのですが、大変な人気でした。世界恐慌が始まる時期で、電力が通じている家庭のラジオの普及率は、アメリカで80%、英・仏でも70%に達していたとされています。ちなみにアイロンの普及率は、米英仏揃って95%を超えていました。トースターも人気でした。そして洗濯機も後を追っています。選択もまた召使の仕事ですが、機械を使う方がずっときれいになるという宣伝文句が大変な効果を発揮したのです。最も普及が遅れたのは、電気冷蔵庫でした。数時間しか電力が提供されないのでは、これは止むをえないですね。勿論、ボン・マルシェの売り上げにも、10年代半ばからは電気製品の貢献が目立つようになっていました。 続く
2009.11.24
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クロニクル 本邦初のオペラ上演1894(明治27)年11月24日今から105年前のことです。時あたかも日清戦争の最中だったのですが、この日東京音楽学校において、日本で始めてのオペラ公演が行なわれました、演目はグノー作曲の「ファウスト」。ゲーテの名作「ファウスト」第1部をオペラ化した作品でした。東京音楽学校は、小学校や幼稚園で音楽教育を担当する教員を養成を担い、音楽専門教育機関の役割を果たす機関として、1878(明治11)年に設立された学校で、戦後1949(昭和24)年に東京美術学校と合併し、東京芸術大学の音楽学部となり、現在に至っています。
2009.11.24
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政治を斬る(12)サンフランシスコ講和条約が発効した1952(昭和27)年4月28日、日米安全保障条約も正式にスタートしました。この条約は現在の日米安保とは違っていました。現在の安保条約は、岸内閣が改訂交渉を行なった結果、新たに結ばれた改訂安保条約です。そこで、ここでは旧安保、新安保と呼ぶことにします。新旧の安保は何処が違うのか。旧安保は、米国が一方的に日本の防衛に責任を負うという、片務的条約でした。それに対して、当時の岸首相が自ら提起した新安保条約は、日米両国は極東の範囲において、共同で防衛に当たるというものでした。米ソが厳しく対立する冷戦の最中、米軍は朝鮮半島にも、台湾海峡にも、フィリピンや南ヴェトナムにも展開していました。そうした米軍への攻撃があった時、日本も共に戦わねばならず、自動的に戦争に巻き込まれてしますのです。実は1954年に、日本は今のような重武装はしていませんが、自衛隊を発足させています。9条の下でも自衛権は存在する。自衛隊は自衛のための部隊であって軍隊ではない。こう9条を拡大解釈して、発足させたのが自衛隊でした。その自衛隊が、日本が直接攻撃されなくても、例えば朝鮮半島に駐留する米軍が攻撃されたなら、米軍と共同で戦闘に参加することになるのです。この条約の骨子が伝わった時、当然日本国内は騒然としました。国会で新安保に関する質疑が始まった1959年秋、早くも全学連(当時は学生が元気でした。反政府のオピニオンリーダー的な役割を、学生運動が果たしていました)は国会乱入事件を起こしたほどでした。国会論戦も盛り上がりました。社会党の安保七人衆が、しばしば政府の痛いところをつき、それがマスコミで報じられて、当時普及期にあった白黒テレビのニュースで取り上げられ、自然と世論もかまびすしくなっていったのです。 続く
2009.11.23
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デパートの誕生(42)ボン・マルシェが通販用の総合カタログを通して提唱した、「清潔で快適な生活」というコンセプトの狙いは何にあったのでしょう。それは第二帝政の時代から、次第に普及していった上下水道の敷設を背景に、先ずはアッパーミドルの人々に、快適なサニタリー・スペースの設置を勧めることにありました。快適なトイレ環境の保全のためのトイレ、鏡も使用した洗面空間、そしてアッパークラスに習ったバスルームの設置などです。水洗トイレ、ビデ、シャワー、浴槽などの新製品がカタログに並べられました。ミドルクラスに比べ、アッパーミドルの夫人たちは、社交に費やせる時間を豊富に持っています。当然夫々の自宅は簡易サロンと化して、招いたり招かりたりは日常の習慣と化していました。それ故、ボン・マルシェの提唱する快適なサニタリースペースの設置で、仲間に遅れることは夫に恥をかかせることになります。こうしてアッパーミドルに「快適で清潔な生活」が普及すると、そこからがボン・マルシェの本領発揮です。ワンランク上の生活を目指し、アッパーミドルの生活に憧れるミドルクラスこそが、バン・マルシェをはじめとする百貨店業界の最大の顧客層をなしていました。資本主義の発達は、今の中国がそうであるように、ミドルクラスを社会の中心に育てます。アッパーミドルが競って導入したサニタリー製品は、厚みを増したミドルクラスにとって、どうしても購入したい憧れの商品と化していったのです。こうしてサニタリー製品は、衣料品。玩具を含む子ども用品と並んで、ボン・マルシェのドル箱商品に育ったのです。プシコー亡き後もボン・マルシェの経営陣が、実に上手くプシコー精神を守り育てていたことが分かります。そして20世紀に入ると、電気の時代が到来します。電力会社の奮闘で、家庭への電力の普及が進むと、発明王の名をほしいままにした発明企業家エジソンを中心に、次々に現在に連なる電気製品が登場してきます。時代の先を読むボン・マルシェの経営陣が、これを見逃すはずはありません。1910年代以降のボン・マルシェは、家庭電化を熱心に提唱しています。 続く
2009.11.23
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クロニクル たまごっち発売1996(平成8)年11月23日もう13年経ったのですね。バンダイはこの日、後に一世を風靡することになる「たまごっち」を発売しました。「タマゴッチ」の名称は、「たまご(Tamago)」と「ウオッチ(Watch)」から名付けられました。画面に登場する「たまごっち」と呼ばれるキャラクターにえさをやったり、掃除をしたり、遊んだりしながら育てて行くゲームで、まめにコミュニケーションをとっていれば機嫌がいいが、えさをやり忘れたり、掃除が滞ったりすると機嫌が悪くなり、放置すると死んでしまいます。こうして育てていくと、ある程度時間が経つと、様々なキャラクターに変身します。どのキャラクターになるかは、キャラクターのその時の体重や機嫌に左右されるのです。名称の由来どおり単なる時計としても利用できました。人間関係が希薄化した時代にマッチしたのか、女子中・高生を中心に、広い世代に爆発的に流行し、発売翌年の97年には、イグノーベル賞(経済学賞)と新語・流行語大賞のトップテンを受賞して、益々話題となりました。イグノーベル賞の受賞理由は、「数百万人分の労働時間を仮想ペットの養育に費やさせた」功績(?)によるとされています。なるほど、良く見ていますね。日本以外にも世界30カ国で発売され、アメリカやアジア各国でも大流行しました。発売元のバンダイは、第1期のたまごっちシリーズの売り上げを、全世界で4000万個(日本国内で2000万個、国外で2000万個)と発表しています。ブロ友の皆さんの中にも、ご本人やご家族が嵌まっていた方が多いのではないでしょうか。娘は関心を示さなかったので、私の知識は、もっぱら職場で得たものです。
2009.11.23
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政治を斬る(11)吉田内閣は、片面講和を選択し、日米安全保障条約を喜んで受け入れました。それは「これで、国民の反対が強そうな再軍備を、急がなくて済む」ということにつきました。しかし、ここで日本が米軍に基地を提供し、その基地を米軍がどのように使うかについては、何の制約も設けなかったことは事実です。そして日本国民は、一部の人々(特に学生たち)を除いて、日米安保に強く反対することはなかったのです。国民が強く反発したのは、砂川が一例を提供していますが、米軍基地拡大のための土地収用に対するケースに限られていました。岩国しかり、三沢しかりです。そして、当時は米国支配下であった沖縄で、県民による土地闘争は特に激しく戦われたのですが、そうした情報が我々に届くようになったのは、60年の安保改定反対闘争の頃からでした。さて、日米安保を比較的スンナリ受け入れてしまったのは、それが独立と引き換えだったこともあるのですが、この事実は世界にどう映ったでしょうか。日本は平和主義を掲げているが、中立主義と非同盟を貫くことを放棄した。米ソ冷戦の時代に、なかんずく隣国朝鮮で米ソがしのぎを削っている時に、平和主義の国是を掲げて、米ソの仲裁と斡旋に乗り出すこともせず、こともあろうに片方と軍事同盟を結ぶとは、あきれ果てたものだ。日本の平和主義とは、結局自国が戦争に巻き込まれなければそれで良いという、大変自分勝手なものなんだなということでした。この時期、中国とインドが、周恩来とネールという2人の大物指導者の名で、平和5原則を高々と掲げたことと、それはあまりにも好対照だったゆえに、余計に目立ったのも確かでした。世界は、日本の平和主義が一国平和主義に留まり、世界平和主義という共感を呼ぶ強靭なものでないことを、ここで見抜いたのです。なお、戦後の焼け跡からの立ち直りの過程にあり、まだまだ貧しかった国民の多くは、経済再建に目を奪われ、この大切な分岐点を十分に認識する余裕を持たずに、見逃してしまったのです。世界平和主義を錦の御旗にしてこそ、戦力不保持の無手勝流ははじめて意味を持ちます。一国平和主義の主張では国際的には何の説得力も持たず、世界の尊敬を勝ち得ることなど不可能です。その先にあるのは、日本はずるい、国際的責務を果たしていないと攻め立てられて、ズルズルと武力行使に巻き込まれていく道に、引き摺り込まれることしかありません。現在進行しているのは、まさにこういう事態なのです。 続く
2009.11.22
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デパートの誕生(41)さて、ボン・マルシェの通販カタログですが、その3分の1を占めるおよそ50万部は、パリ並びにパリ近郊の顧客に配られていました。これは何を意味するでしょうか。地方や外国の顧客と違って、この人たちは、ボン・マルシェの店へ来て、直接に多くの商品を眺めて楽しむことの出来る人たちです。カタログだけで注文するよりも、直接確かめた方が安心でもあります。実はこうした人たちの多くは、カタログを見た上でお店に出かけていました。72年の新館の開店後、旧館を合わせたボン・マルシェの売り場は格段に広くなりました。現在の大型デパートほどでなくても、相当な大きさです。そんなボン・マルシェの全ての商品を丹念に見て歩くことは事実上不可能でした。プシコーはそのことも良く承知していたのです。ですから、彼は特に夫人客が好む商品、関連する商品群(例えばドレス、ショール、手袋、帽子、靴、肌着など)の売り場を、わざと離れた場所において、その中間に全く異なる品の売り場を置いて、いやでも眼に入るように仕向けたりしていました。しかし、それにも限度があります。そこに登場したのが、全商品を網羅した通販用の総合カタログでした。ここにはボン・マルシェの全ての商品が、類別に手際よくまとめられています。顧客は自宅でくつろぎながら、このカタログを隅々まで目を通すことが出来るのです。実際にカタログを手に買い物にやってくる顧客も少なくありませんでした。店内では掘り起こしきれない買い物欲を、カタログが補ってくれたのです。資本主義経済の成長につれて次第に数を増すミドルクラスに、アッパーミドルの生活の例を提示して、その欲望を刺激しようとするデパート戦略の上で、カタログの果たした役割は、とても大きかったのです。これはプシコーの没後のことですが、世紀末にかけてボン・マルシェは、さかんに「清潔で快適な生活」のコンセプトを、顧客に呼びかけておりました。 続く
2009.11.22
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クロニクル ドイツでメルケル首相誕生2005(平成17)年」11月22日、ドイツ初の女性首相として、メルケル首相が組閣に成功、ここに東ドイツ出身では、初の首相でした、9
2009.11.21
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デパートの誕生(40)余聞 ギロチン日中に投稿した「デパートの誕生(40)」に、昨日記した「ボン・マルシェ」のカタログに添付された生地見本の裁断機を載せました。映りの悪い写真だったこともあるのですが、早速マダム・リンダから、「奇妙な形ですね。ギロチンかと思いました(笑)」という、半分冗談のコメントをいただきました。実はギロチンは、かなりの「せいたかのっぽ」です。どのくらい高いかを実感していただくのに、丁度よいので、マリ・アントワネットの処刑の場面を描いた、当時の石版画の1枚を下に載せます。実際の高さは約5mです。ルイ16世の処刑を描いたものには、キャンパスに描かれたカラーのものもあるのですが、これは、死刑執行人が血の滴る、ルイ16世の生首を持ち上げ、見物人に見せているグロテスクなものなので、ブログに掲載すべき図版ではないと考え、こちらにしました。ギロチンの考案者というか提案者は、外科医のギョッチーヌ氏です。彼は当時憲法制定国民公会の議員として、死刑囚の首切りを、瞬間的にミスなく行なうことで、その苦しみを柔げたいという、極めて人道的な意図に基づいて、ギロチン作りを提案しました。1790年のことです。この道具が92年に完成して、ただちに死刑用具として採用されたのです。パリのみならず、フランス全国の諸都市で、革命期の多くの処刑に使われました。今もコンコルド広場に、革命当時に多くの血を吸った実物が展示されています。日本では御茶ノ水の明治大学の刑法博物館(入場無料)に、実物大の模型が展示されていますので、興味のある方は、ついでの折にでも、ご覧になってください。最後に、考案者のギョッチーヌさんですが、ジロンド派を支持した彼もまた、反革命の罪を着せられ、自ら考案したギロチンで処刑されたという伝説が、その後広まりましたが、真偽のほどははっきりしません。歴史の脇道というか裏道というかには、こうした真偽不明のものを含めて、様々なエピソードが豊富に転がっています。
2009.11.21
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スエズ運河余話(2) イギリスによるスエズ運河買収(3)ところで、イギリス政府です。イギリスの植民地政策の要は、常にインドの保全にありました。そのためにはインド洋を支配することが不可欠でしたから、インド洋に近いエジプトの動向に常に注意を払っていました。落日のオスマン帝国が宗主権を持つエジプトの太守は、オスマン帝国においては副王の地位にあったのですが、イギリスはそうしたエジプト副王に対し、アレクサンドリアの築港、カイロ~アレクサンドリア間の鉄道の敷設、ナイル河の流域開発などに資金を提供して特権を得ていたのです。ところがエジプト太守(=副王)は、イギリスにばかり縛られるのを嫌い、スエズ運河の開削権をフランス人のレセップス個人と、彼が設立した「国際スエズ運河株式会社」に付与したのです。スエズ運河によって、フランスの勢力がエジプトからインド洋に伸びることに対し、イギリス政府は警戒感を強めました。ですからイギリスは、あれこれと露骨にレセップスの事業を妨害しました。しかし、妨害の甲斐もなく、69年に運河は完成しました。完成してみると、喜望峰経由のルートに比べ、イギリスからインドまでの所要時間を40%近く短縮する運河の重要性は、計り知れないものがありました。ですからイギリスは、何とかしてスエズ運河の運営に参画して、あわよくばその主導権を握りたいと考えるようになったのです。「国際スエズ運河株式会社」の本社はパリに置かれ、会社運営の実権は、理事会が握っていました。その理事の構成は、総員32名のうち、フランス人19人、イギリス人10人、オランダ人1人、エジプト人2人となっていました。株主構成は、昨日記したように、発行済み株式の44%強を持つエジプトの太守が、ダントツの筆頭株主でしたが、50%以上をフランス人が持っていました、ただし少数株主が分散して持つという弱点がありました。レセップス自身、株を買い占めれば経営権を奪えるという、株式会社の特性を十分に理解していないという、弱点があったのです。これがイギリスのつけめでした。チャンスは1875年、運河完成の6年後にやってきました。運河建設、運河に平行する鉄道の建設、そして「アイーダ」を上演したオペラハウスの建設などで、イギリスやフランスからの多額の借金を抱えて手元不如意に陥ってしまった、エジプトの太守イスマイル・パシャは、毎年の高額配当で株価が大きく上昇した「国際スエズ運河株式会社」株を、売却することを望んだのです。このことを、密かに掴んだ時のイギリス首相ディズレーリは、議会に計ることなくエジプト太守の持つ全株式の購入を決断したのです。資金は友人でもあったユダヤ人の銀行家ロスチャイルドから借り入れたのです。イギリス議会は大人の議会でした。ディズレーリの行動は、原則的には議会無視の逸脱行為だったのですが、後に議会で首相から率直な説明を受けた議会は、スエズ運河を手に入れるか、入れそこなうかの瀬戸際の状況においては、必要な行為であったとして、ディズレーリ首相の行動を是認したのです。下のイラストは、ディズレーリによるスエズ運河の電撃的買収を描いた『パンチ』誌の戯画です。インドの鍵を喜色満面のディズレーリに、ウィンクするスフィンクス。下に文字で「やったね。いいことあるとおもうよ」と記されています。40%を超える株式を所有してしまうと、後はフランスの個人株主の持ち株を、丹念に拾うだけです。こうしてイギリスは、76年末までには、「国際スエズ運河株式会社」の過半数を握り、完全に同社をイギリスのものにしてしまったのです。実質的には、イギリスがエジプト太守の持ち株一切を入手した1975年11月をもって、西洋と東洋を結ぶ世紀の大動脈は、イギリスのものになったのでした。いわば、巨大な株式会社の乗っ取り第一号と言えましょうか。エジプト政府が持っていた、利益の15%を取得する権利についても、エジプト政府はそれから5年後の1880年に、フランスの金融団体に売却してしまいます。こうしてエジプトの宝とも言うべきスエズ運河は、エジプトにとって何も産まない存在となってしまったのです。
2009.11.21
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デパートの誕生(40)冒頭に掲げたのは、昨日記した通信販売用カタログに貼り付ける生地の裁断機です。こうして裁断したものを、さらに店員が小さな四角形に切り分け、カタログに貼り込みました。さて、注文者の手紙がボン・マルシェに到着すると、先ず開封専門の係りが、次々に開封していきます。次に読み上げの担当者が注文書を読み上げながら、注文商品別に分類して、当該の売り場に回します。売り場は注文書通りに商品を揃え、内容が一致しているかどうかを確認して、梱包係りに回します。梱包後に今度は発送地域別に仕分けされ、やおら発送方面別の駅などに送られるのです(パリでは、方面別に市内にいくつもの鉄道駅に分かれていたからです)。方面は多方面に渡っていましたが、送料の負担はどうなっていたでしょうか。地域によるのですが、フランス国内とドイツ、イタリア、スイス、オランダ、ベルギーなど近隣諸国は、注文代金が25フラン以上で無料となっていました。その他の国や地域は実費をいただくスタイルでした。カタログ通販の開始は、地方と外国の需要を掘り起こしました。ヨーロッパ中から顧客が現れるようになったのです。それだけではありません。あまりはっきり見えませんが、下の写真は、ボン・マルシェの通信販売部の作業風景です。奥にオセアニアという看板が見えます。オセアニアからの注文を集める場所を指示したものでしょうから、19世紀末のボン・マルシェには、オーストラリアやニュージーランドからも、注文が届いていたのですね。パリにボン・マルシェありを、万国博覧会を利用してアピールしたプシコー戦略は、見事に花を開いたと言えましょう。新館がオープンした1872年の年間の通販の売り上げは、約500万フランだったのですが、30年後の1902年のそれは、約6,5倍の3,330万フランに拡大しています。これは店全体の売り上げの伸び率、5,5倍を上回っていました。この年、オセアニア方面の売り上げは分かりませんが、アメリカ大陸からの注文は100万フランに達していました。 続く
2009.11.21
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クロニクル 歌舞伎座開業1889(明治22)年11月21日丁度今年が開業120周年にあたります。この日東京の木挽町(現在の東銀座)に歌舞伎座が開業しました。元々木挽町には江戸三座のひとつだった、森田勘彌座があったのですが、1841年の天保の改革の時に浅草に移されてしまったのです。それから半世紀ぶりのことでしたから、歌舞伎座は、そのコケラ落としから大変な人気となったのです。残念ながら当時の建物は戦災で焼失してしまい、現在の建物は1951(昭和26)年に復興されたものです。現在の建物も、築58年が経過して老朽化が激しいため、来年は閉館して立て替える予定と聞いています。 ザビ
2009.11.21
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スエズ運河余話(2) イギリスによるスエズ運河買収(2)スエズ運河の開削工事で、最大の難問は、給水とりわけ飲み水の確保でした。工事のほとんどが砂漠地帯での作業です。乾き対策は必須の事柄だったのです。1部の隊商路に接する地域は、まだ良かったのですが、その他の地域では、ラクダを使って遠路はるばる水がめを運ばなければならなかったのです。排泄物の処理も大変でした。ですから、工事中の犠牲者は、事故死よりも疫病死が圧倒的に多かったのです。こうして誕生したスエズ運河は、レセップスの活躍に負うところが多かったので、彼が中心になって設立した「国際スエズ運河株式会社」に、開通後の経営と管理を委ねることになりました。レセップスは、1854年にエジプトの太守から運河建設の特許状を獲得し、58年に上記した「 国際スエズ運河株式会社」を設立して、翌年の59年から工事を開始したのです。ですから、当初の同社は、運河の建設を司る会社だったのです。その会社が運河完成後は、運河の管理・運営に当たることになったのです。この「国際スエズ運河株式会社」の発行株式は、額面500フランの株式で40万株でスタートしています。総額2億フランです。このうち、エジプトの太守が17万6602株を保持し、残りをフランス側が持ったのですが、ナポレオン3世は運河に関心を示さず、フランスで政府は関与しない形となっていました。そこで、フランス側はレセップスが協力を要請した銀行家や貿易商人らが、運河の収益から得られる配当に着目して所有する形となっていたのです。さて、肝腎の利益配分ですが、船舶の航行から得られる通行料などの収益の15%は、エジプト政府の特許授与に関する一種のロイヤリティとして、エジプト政府が獲得し、85%が「国際スエズ運河株式会社」の取り分ということになっていました。 続く
2009.11.20
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デパートの誕生(39) 1894年の記録が残っていますが、この年の冬季シーズンのカタログは、全部で150万部という驚異的な数が配布されています。配布先を見ると、フランスの地方部に74万部、外国が26万部、そしてパリ市内と近郊が50万部となっています。現在の通販大手のカタログ発行部数がどのくらいなのか、分かりませんが、19世紀末でのこの数字には、驚きを禁じえません。カタログの発行部数もですが、このカタログに布地の見本がつけられているのですから驚きです。確かにいかに精緻なイラストをつけたとしても、正確な色や肌触りは、いかに丁寧に説明しても、伝えきれない部分が残ります。ここからプシコーは、1872年に新館が完成したのを契機に、カタログに布地の見本をつけることにしたのです。こう伝えられています。「機械が、ボン・マルシェで販売している全ての布地の見本を、先ず細い帯状に切ります。次いでその布を小さな正方形に裁断します。そして200人の娘たちが、この正方形の布地を、用意された用紙に貼り付けていきます。それから、この何千という見本をカタログに挿入し、請求のあったお客様全員に、1日の遅れもなく、発送するのです。」と。布地の見本はカタログに載っていないものでも、請求できました。ただ、先に紹介した1888年のアジャンダに載った、カタログ販売の手引きによると、「こうした別個の請求は結構だけれど、当面必要なものだけをその都度請求して欲しい」旨が記されています。それは、「見本の発送時期と、注文の時期とがずれてしまうと、布地が売り切れになってしまっていることが、出てくるから…」だそうです。カタログを見て、注文する品が決まった顧客は、カタログに添付された注文書に、希望の商品名などを記し、住所氏名を書き添えて、ボン・マルシェ宛に送り返すのです。 続く
2009.11.20
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クロニクル 川治プリンスホテルの火災1980(昭和55)年11月20日29年前のこの日、午後3時頃、川治プリンスホテル雅苑から出火し、死者45名を出す大惨事となりました。この日は、東京の杉並区から2組の老人クラブが訪れていました。1組は2泊の予定で滞在中、もう1組は到着したばかりでした。客の大部分が老人だったこと、ホテルが増築に次ぐ増築で、避難路が迷路のように複雑だったこと、新建材から出る有毒ガスに巻かれたことなどが被害を大きくしたようです。結局宿泊客40名、従業員3名、バスガイド1名、添乗員1名の45名の犠牲者がでました。日本の商業建築物火災としては、1972年の大阪千日デパート火災(死者118名)と1973年の大洋デパート火災(死者104名)に次ぐ3番目の犠牲者数でした。
2009.11.20
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政治を斬る(10)1951年秋、なお朝鮮半島での戦闘が続いている中、日本政府はサンフランシスコで、西側諸国とだけの講和条約(片面講和)と、米国政府との日米安全保障条約とを、ほぼ同時に締結しました。問題の多い、日米地位協定も一緒に締結しています。翌年1952年の4月28日、これらの諸条約は効力を持ちました。冷戦の時代、米ソ対立の現実の中で、そして朝鮮戦争がなお継続している中で、「日本を守るため」という口実を設けて、日本国中に米軍の基地が置かれることになったのです。なお大戦中に米軍が占領した沖縄は、日本に返還されず、「国連の信託統治に委ねられることになり、その準備が整うまで引き続き米軍が支配権を持つ」とされたのです。この一文を根拠に、米軍は1972年まで、沖縄に支配者として君臨し、その間冷戦の激化に応じて、沖縄の人々の土地を収用しては、基地を拡大し続けてきたのです。 沖縄の話は後にします。片面講和を選択し、日米安保を締結したことはどういう意味を持ったでしょうか。憲法9条は、その第1項で「……国際紛争解決の手段としては、武力による威嚇または武力の行使は、永久にこれを放棄する」と記し、第1項を受けた第2項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と記しています。この何処を読むと、自衛のための戦争は認められると読めるのでしょうか。そこから、これは占領下にGHQに強制されたものであるから、早期に改正すべきであるとった議論も出てくるのです。しかし、この9条の持つ意味は、憲法前文を読むと明らかになります。前文にはこうあります。「日本国民は、……、政府の行為によって、再び戦争の惨禍が起こることのない様にすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。……… 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、我らの安全と生存を保持しようと決意した。……」と。合わせて読むと、憲法の定める平和主義が、高い理想を植民に訴え続けることを目指した、極めつきの世界平和主義の思想であることが、ご理解いただけると思います。それは単なる1国平和主義ではなく、非暴力と不戦を世界にアピールし続ける思想であったことが読み取れます。 続く
2009.11.19
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スエズ運河余話(2) イギリスによるスエズ運河買収(1)17日の日記に、スエズ運河の開通を取り上げたところ、ブロ友のマダム・リンダから早速>フランスの技師、レセップスが着工したのですが、イギリスの手に渡った経緯なども知りた いです。お願いします。<という依頼を受けました。マダムは私にとって、大事な姉のような存在ですから、マダムの依頼は、可能なものは全てお受けすることにしておりますので、そのいきさつを記すことにしました。まず、丁度よいので、スエズ運河の全体図を掲げておきます。上手く読めるようにスキャンできていると良いのですが…運河は東地中海のポートサイドを起点に、メンザレ湖を西に見ながら平坦な荒野を南に直進します。やがて東岸にパレスティナ鉄道の起点カンタラの町が見えてきます。ここを過ぎるとゆるいカーブを描きながらティムシャー湖に入り、イスマイリアの町が西側に現れます。カイロに至る鉄道の分岐点の町です。湖を過ぎると、工事の最難関地点だったセラペウムの切り通しに差し掛かります。ここを過ぎると程なく大ピッター湖に入ります。開通当初は、南行する船団と北行する船団は、すれ違いが不可能でしたから、ここで待ち合わせてすれ違ったのです。続けて小ピッター湖を抜けます。この小ピッター湖が『旧約聖書』でお馴染みのモーゼの『出エジピト記」に出てくる、海中に道が開けた場所ではないかとされている場所です。湖を抜けて再び南下し、シャルフの隊商の町を抜けると、スエズ湾が開け、西側にスエズの町が見えてきます。こうして紅海に到着します。なお、地図に出ていますが運河の西側には、運河に沿って運河鉄道が走っています。運河は全長167km、竣工当時の河幅は、水底で22m、水面で60m~100m、水深は8mでした。それゆえ、船舶同士のすれ違いは無理で、湖が待機場所となっていました。そのため、通貨の所要時間は、3日間とされていました。その後、河幅も水深も広げられたため、今ではすれ違いも可能となり、所要時間は大幅に短縮されています。こうして、スエズ運河を利用するとヨーロッパとアジアの距離は大きく縮まりました。ポルトガルからインドへの所要時間は、喜望峰経由に比べ約4割短縮され、フランスのマルセイユからでは6割の短縮となったのです。ヨーロッパにとって、スエズ運河の重要性は、考えていた以上に大きかったのです。そこでイギリスの登場です。 続く
2009.11.19
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デパートの誕生(38)19世紀も後半になると、確かに鉄道網は発達しました。乗合馬車の路線も増えました。しかし、現代の網の目を張り巡らしたような交通網の発達とは、わけが違います。大都会のパリを離れると、そう簡単に都心のデパートに出かけるわけには行きません。地方の居住者となれば、なおさらです。店にやってくることが出来る顧客ばかりではなく、おいそれと店にやってくることが出来ない人々をも顧客にする方法がないものか。プシコーの思考は最後には、そこに向かいました。こうして工夫されたのが、分厚いカタログを使ってのボン・マルシェ流の通信販売戦略でした。カタログ通販はプシコーの発明ではありません。19世紀の30年代から、駅馬車を使う形でアメリカ合衆国で始まっていました。ただし米国で行なわれていたのは、西武開拓地の中心となるタウンの雑貨屋にカタログを置き、開拓民はそのカタログを見て注文を出し、店主がそれを取り次いで、商品を取り寄せるというものでした。フランスでも1部の大型店が、この手法を取り入れていましたが、そのカタログは1部の商品を紹介するだけのものに留まっていました。プシコーとボン・マルシェの通販の方法は、もっと徹底したものでした。先ずカタログの厚さが群を抜いていました。写真技術がなお未熟でデしたから、商品を写真で紹介することは出来ません。そこで、プシコーは紹介する商品全てのイラストを掲載し、顧客が商品イメージを膨らませることが出来るようにしました。そしてさらに、ボン・マルシェで扱う全ての商品を掲載したのです。ですからカタログの厚さたるや大変なものになったのです。ボン・マルシェ社は、カタログについて、次のように記しています。「カタログは、パリでも地方でも外国でも、お客様からご請求があり次第、いつでもお送りしています。豊富なイラストが入り、しばしばとても分厚くなっていますが、大変に見やすく、<ボン・マルシェ>で販売している全ての商品が、詳しい内容の説明、サイズ、価格と共に掲載されています。」勿論カタログも送料も無料でした。しかも作成されたカタログは、総カタログの外に、売り場別カタログや大売り出し用のカタログと、3種類が用意されたのです。 続く
2009.11.19
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クロニクル 岩波新書刊行1938(昭和13)年11月19日71年前になりますね。この日、神田神保町の古書店から出発して、出版業に進出した岩波書店が、大ヒットした岩波文庫に続いて、岩波新書の第1号を出版しました。というわけで今日は新書の日です。記念すべき第1号の出版は、斉藤茂吉の『万葉秀歌上』と『万葉秀歌下』の同時出版でした。新書は文庫と違い、新規書下ろしが原則でした。版型はイギリスのペーパーバックやフランスの文庫クセジュを真似て決めたとされています。当初の表紙は、現在復活して使われているのと同じ赤色でした、赤色が百点を超えた(101点でした)ところで、青版に替え、さらに赤版に替えて現在に至っています。私の学生時代、岩波文庫は☆1個が40円でした。厚さの関係で文庫は2個が多かったのですが、新書が80円でした。確か大学1年生の1月に値上げとなり、文庫が☆1個50円、新書1冊が100円となりました。随分高くなったなと思いましたが、その後の値上がりに比べると可愛いものでした。今や、岩波新書は800円を超える時代ですから…。
2009.11.19
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政治を斬る(9)朝鮮戦争が始まった1950年当時の日本経済は、戦後の悪性インフレを対峙するために、ドッジラインと呼ばれる強力なデフレーションの最中にありました。「しばらくは我慢の時」、そんな雰囲気が社会を覆っていた時でした。この様子は旧植民地だった隣国で始まった戦争で吹き飛びました。朝鮮戦争は日本を占領している米国の戦争でもありました。当然米国にとって、日本で調達可能な物資は日本で調達した方が、日をおかずに朝鮮半島の戦場に送ることが出来ますし、本国よりもかなり安く入手可能です。ですから、休眠工場の再建を促すようなことまでしながら、次々と大量の注文を寄越したのです。私の中学時代の友人の家は、川口で小さな鋳物工場を経営していたのですが、その友人の父によると、米軍の調達係は、大量の注文に資金の関係で応じられないというと、代金の半分を手付けだといって前払いしてくれたと言うのです。これで必要な原料等を揃えるようにということだったのです。 さらに最初に納品した品質を調べて、注文を続けるから設備を増やすように支持された上に、必要資金について銀行融資が受けられるように、GHQの紹介状をくれたと言うのです。当時のGHQの紹介状は、政府保証よりも信用が高かった時代ですから、これで銀行融資は事実上フリーパスだったというのです。有名な朝鮮特需です。かつての植民地を、もう1度踏み台にして、戦後の日本経済は復活できたのです。ここまでは、一般に良く知られた話です。私が特に指摘したいのは、ここからです。戦争の前半、釜山に押し込められ、陥落寸前だった「南」側の軍隊の窮地を救ったのは、敵の裏をかいて黄海側の仁川上陸作戦の成功でした。この部隊はGHQの部隊として、占領下の日本に展開していた米軍でした。地理的に近い日本からの出撃だったからこそ、急の場に間に合ったのです。司令官のマッカーサーは勿論、国防総省を含む米政府もまた、この事実に注目したのです。大陸中国の社会主義化で、アメリカは日本を社会主義封じ込めの最前線にする腹積もりを固め、対日占領瀬策を大きく転換していたのですが、日本政府は平和を歓迎する日本国民の気分を知るために、急激な再軍備に応じる気配を見せずにいました。そうした空気にいらだっていたマッカーサーも、仁川上陸作戦の成功後態度を変えました。日本の再武装を急がせるより。それはゆっくりで良い。その間はわがアメリカが守ってやることにする。ついては、今後わがアメリカ軍が必要とするだけの基地を提供し、米軍の行動の自由を保障しなさい。そうすれば独立を認めてやると、こうきたのです。GHQにはソ連や中国も加わっています。オランダやオーストラリアも参加しています。米軍が主力で、実質的にはGHQを牛耳っていても、一応連合軍ですから、不自由なこともあるのです。朝鮮戦争の中盤以降、米国は対日講和を推進し、日米2国間の日米安全保障条約の締結を急いだのです。安保誕生のいきさつはこういうことでした。それは日本防衛を主眼としたものではありませんでした。
2009.11.18
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デパートの誕生(37)プシコーとボン・マルシェの宣伝戦力を、もう一つだけ紹介しましょう。それは、パリで開かれる万国博覧会に、積極的に参加したことです。これはライヴァル百貨店の思いつかないやり方でした。72年の新館建設に先立ち、日本が初参加したことで知られる1867年の万博に、早くもボン・マルシェ商品を陳列しています。狙いは、万博を訪れるフランス中どころか、ヨーロッパ中の人々に「ボン・マルシェ」の名を広く知らしめることにありました。やがて、大きく展開することを構想していた、通信販売の布石とする計画を抱いていたのです。次の78年の万博では、「ガン・プシコー」と名付けたガン(手袋)が、首尾よく金賞を受賞したのです。これは利用しない手はありませんから、毎年2月に実施していた『手袋・レース・……大売出し」の際に、大いに利用したのです。特に翌79年の大売出しでは、この手袋が大人気となりました。こうした万国博の積極的な活用の中でも、特に目立っているのが、1900年の万博に際し、「ボン・マルシェ館」という独自のパヴィリオンを建設したことです。この時には、プシコー夫妻は既に鬼籍に入っていました(子どもも亡くなっていました)ので、新しい経営陣が計画し実行したのですが、そこにはプシコーの理念が、見事なまでに貫かれていました。下の写真が、話題のボン・マルシェ館です。ご覧のように、建物はヴェルサイユ宮殿の一廓に建ちマリー・アントワネットが好んだプチ・トリアノンを模倣したもので、独創性はありません。経営陣が狙ったことは、ここでもライヴァル百貨店との差別化でした。万博会場を訪れた各地からの観光客が見るものは、「ルーブル」でも「ラ・ファイエット」でも「オ・プランタン」でもない、「ボン・マルシェ」の館なのです。こうして会場を訪れた客人の脳裏には、パリのデパートと言えば、何といっても「ボン・マルシェ」なのだという意識が、潜在意識として刷り込まれていったのです。出店費用もかかったでしょうが、宣伝効果は遥かに大きかったでしょうね。 続く
2009.11.18
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ミッキーマウス誕生 18日の日記1928(昭和3)年11月18日今日はミッキーの81歳の誕生日です。「誕生日おめでとう、ミッキー」。そうなんです。ウォルト・ディズニーの最初のヒット作となったアニメ映画で、子ども達に大人気のアニメキャラクター、ミッキーマウスの最初のトーキー映画「蒸気船ウィリー」が、この日公開されたのです。なお、この第一作のミッキーの声は、ウォルト・ディズニーその人が演じたものでした。映画の原点になったものは、1894年~95年にかけて米・英・仏・独で夫々別々に発明されています。しかし、実用化に先んじたのは、発明企業家としての資質に優れたエジソンでした。彼は、キネストコープと呼ばれた、箱に仕掛けた回転するフィルムを、接眼レンズで見る大きな箱を作り、人が箱に入って10セントコインを投入するとフィルムが自動的に動く仕掛けを作り出したのです。これがあたりました。そこで、フィルムを箱から出して、大型スクリーンを大勢の人間が同時に見ることが出来るように、工夫されたのが映画でした。最初は1分程度のものでしたが、1903年には10分ほどの無声映画が作れるようになりました。そして11年には、ハリウッドに最初の撮影小屋が誕生しています。長尺物のパイオニアは、1915年製作に完成しています。大型のスクリーンを備え、床に熱い絨毯を敷き、安楽椅子のような快適なシートを設置した映画館が続々誕生するのは、1910年代末から20年代にかけてのことです。20年代にターザン映画が誕生し、チャップリンも姿を表し、そして最初のトーキーアニメとして、ミッキーも誕生したのです。
2009.11.18
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政治を斬る(8)以後の朝鮮戦争は、両軍の一進一退を繰り返します。変化と言えば、1951年4月11日のトルーマン大統領による、マッカーサーの解任でしょうか。国連軍総司令官とGHQの総司令官の地位は、リッジウェイ中将に引き継がれました。マッカーサーが中国領特に満州の空爆を主張し、純軍事的な観点から中国領への戦線の拡大を目指したことが、ソ連との全面戦争を望まず、そのために中国への戦争の拡大を避けて、政治的解決を考えていたトルーマンに受け入れられず、解任となったのでした。マッカーサーはトルーマンが一時検討した、朝鮮半島北部から中国にかけての領域に、原子爆弾を投下する計画を断念したことにも、批判的でしたから、この時点での解任は当然の措置でした。驚いたのは日本国民だったようで、ブロ友のリンダ夫人によれば、天皇より偉いマッカーサーよりも、さらに偉い人がアメリカにはいるのかと、受け止めたようでした。こうしたエピソードを挟みながらも、この戦争は3年の長きに及び、戦争の終結は、[私は朝鮮戦争を終らせるためなら、何処へでも行く」と訴えて、1952年の大統領選に勝利した、共和党のアイゼンハワー大統領の登場を、待たなければなりませんでした。1950年6月25日に始まった戦争は、53年7月27日の休戦協定の調印によって、ようやく終わりを告げました。日本の植民地だった朝鮮半島は、戦後復興の途上にあったとはいえ、戦後の日本以上に疲弊した状態にありましたから、当然ながら丸3年を超える長期戦を戦う経済力などありません。それがなぜ3年も戦い続けることになったのか。それはこの戦争が、冷たい戦争と称され、互いに戦火は交えないものの、隙あらばと睨み合っていた米ソの代理戦争となったからでした。互いに力尽きて、倒れこむ南北朝鮮は、米国とソ連に無理やり抱え起こされ、カンフル注射を打たれて、さらに戦いを続けさせられていたのです。米ソは、互いは戦わないという暗黙の了解を確かめ合いながら、朝鮮半島での戦いを直接、間接に継続したのです。米国は人的にも物的にも戦争を支え、ソ連は人的貢献は中国に任せることで、米国との直接対決を避けながら物的援助は、強力に継続したのです。1991年のソ連の解体と冷戦の終結後に明らかになった事実(それまでは米ソ両国が共同で隠し通していたのです)なのですが、実はソ連軍も空軍の一部が[北朝鮮」軍の飛行士の訓練名目で、戦闘機を操縦し、空中戦には参加していたのです。しかし、この事実は米ソの激突を避けるために、両国の密かな約束事として、ないこととされていたのです。ここに、冷戦下の代理戦争の本質が隠されています。朝鮮戦争の最大の犠牲者は、何といっても南北朝鮮の国民でした。同じ民族が、互いに敵となって戦った悲劇、そして今なお続く分断の固定化。日本の植民地支配と、それがきっかけとなって始まった内戦と分断、その悲劇はこんにちなお続いているのです。そして、皮肉なことですが、この戦争の最大の受益者は、日本だったのです。日本の政治を斬るシリーズで、朝鮮戦争を長々と綴ったわけはここにあります。 続く
2009.11.17
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デパートの誕生(36)昨今のテレビ番組を見ると、地域やお店とタイアップして、番組を通じて宣伝をし、代わりにテレビ局が協賛金を受け取るという、安直な番組が増えています。雑誌などにも似たような提灯記事が良くあります。実はこうした記事のルーツもまた、ボン・マルシェとプシコーにあります。プシコーは新聞広告の外に、記者のレポートの体裁をとった、お店の紹介記事を新聞に載せさせて、お店の宣伝とする方法をも、実践していたのです。新館開店間もないボン・マルシェの紹介記事が1872年3月23日付けの、週刊の絵入り新聞「モンド・イリュストレ」にボン・マルシェの豪華な建物を描いた絵を添えて、新館の新装開店に至るまでのいきさつが書かれています。実はこの記事と全く同じ記事が、同日発売の別の週刊絵入り新聞『イリュストラシトン』にも掲載されているのです。同じことが1週間後の3月30日に出た両紙の次の号でも起きています。今度の記事は、ボン・マルシェの店内の紹介記事でした。現在でも、ロイターとか共同といった通信社の配信記事を、新聞社が購入して掲載した場合、[ロイター]とか[共同]とか、出所を明らかにはしてありますが、全く同じ記事が、いくつかの新聞に載ることがあります。ボン・マルシェの紹介記事が、1人の人物によって書かれたことは明らかですから、執筆者が2つの新聞社に同じ記事を売り込んだか、或いはボン・マルシェの側で記事を用意して、両紙に掲載を働きかけたかのどちらかであることは、明らかです。どちらの場合にせよ、何らかの形で、ボン・マルシェ側の意志が働いたことは、間違いないでしょう。プシコーは、広告宣伝よりも新聞記事の方が、消費者の信頼度が高いことを、承知していたのです。「新聞が書いたことだから、間違いないだろう」という心理が働くことを、プシコーは知っていたのです。ですからプシコーは、次の手段としてボン・マルシェが発行し顧客に配るアジャンダに、今度は新聞記事からの転載であることを明記して、お店が新聞に紹介された記事を載せるのです。コウシテ、ボン・マルシェはパリのマスコミも注目する、超一流店であると、顧客たちに印象付けていったのです。 続く
2009.11.17
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スエズ運河の開通余話 スエズ運河と歌劇『アイーダ』コメント欄で、吉祥天さんがヴェルディの『アイーダ』を話題にしてくださいましたので、そうだと思いついて、『アイーダ』の初演の舞台となったエジプトはカイロのオペラハウスの写真が手元にありましたので、載せることにしました。実は、運河の開削と『アイーダ』には、切っても切れない関係があります。時のエジプトの太守イスマイル・パシャは音楽にも造詣の深い粋人でした。彼はスエズ運河の建設を、人類の知能の自然に対する勝利であると考え(まさに進歩は万能と考えられていた時代を代表する感覚です)、それを記念する事業も壮大で、しかも新しい創造の芸術であるべきだと考えました。それは人類の偉大を示すものであると同時に、エジプト民族に明るい未来を示すものであってほしい。こう考えたイスマイル・パシャは、パリのオペラ座やミラノのスカラ座に勝るとも劣らないオペラハウスを、カイロに建設することを思い立ちます。同時にフランスの考古学者マリエット・ベイの協力を得て、彼が古代エジプト遺跡の発掘を通じて作り上げた叙事詩を材料に、気難しいことで名高いヴェルディを口説き落とすことに成功したのです。運河は、明治維新の翌年にあたる1869年の今日、完成を見ました。しかし、パシャが内装の隅々まで凝りに凝ったオペラハウスの完成は、それから1年遅れたのです。しかし、そのことで記念事業の意義が薄れることはありませんでした。1870年12月、オペラハウスは堂々のこっけら落しを迎えました。しかし、折から起きていた普仏戦争の影響で、オペラを演じる一行が足止めを食らい、カイロにやってくることが出来なくなってしまったのです。そこで止むをえず、こけら落しは急場を凌ぐことになり、オッフェンバックの作品が上演されたのです。そして迎えたのが、1年後の1871年12月の24日でした。エジプト社交界の名士が一同に会し、さらに外国からの招待者も居並ぶ中、主賓のイスマイル・パシャ一行が席に着くと同時に、高らかなファンファーレと共に、舞台の幕が上がりました。歌劇『アイーダ』の初演はこうして始まりました。舞台狭しと展開するエジプト軍の凱旋を告げるファンファーレと共に始まった、エジプト軍の勝利の歌は、後にエジプト王国の国歌に採用されました。上の写真のオペラハウスの前に立つ騎馬の像は、イスマイル・パシャの父、イブラヒム・パシャの勇姿です。しかし、完成したスエズ運河は、その後数奇な運命を辿ります。そのスエズ運河の変遷を考える時、私はヒロインアイーダと将軍ラダメスとの悲劇の恋のストーリーの方が、エジプトと運河の紆余曲折のヒストリーを暗示しているように思えてなりません。
2009.11.17
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クロニクル スエズ運河開通1869(明治2)年11月17日10年前、の1859年に、フランス人技師レセップスの手で、鍬入れがおこなわれたスエズ運河が、10年を契機に、この日遂に完成を見たのです。運河の全長は163km、幅34m、深さ15m。運河を通航可能な最大の船の大きさのことをスエズマックスという。スエズマックスを越える一部のタンカーはスエズを通行することができず、喜望峰周りの選択を余儀なくされています。北の地中海にポートサイド、中間地点にイスマイリア、南のスエズ湾側にスエズの町があり、交通の拠点となっています。運河を航行する船は、スエズ運河庁の指示で船団を組み、一日数回の便に参加して運河を通過する。所要時間は北行きが約12時間、南行きが約16時間です。運河内は基本的に一方通行であすが、グレートビター湖など一部の拡張部においては対面通行が可能となっています。
2009.11.16
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政治を斬る(7)朝鮮半島情勢の続きです。今度は国連軍という名の米軍と「南朝鮮」軍が、敗走する「北朝鮮」軍を追って北上します。ソウルを奪還してさらに北上、10月1日には38度線を越え、平壌を占領、さらに北上して中朝国境を流れる鴨緑江に達しました。ここで、留まっておれば次の展開はなかったのかもしれません。米国政府は国境越えを容認しませんでした。それはソ連との直接対決を恐れたからでした。しかし日本占領の成功に加え、もう一つの武勲を加えたかったマッカーサー(彼は国連軍総司令官を兼務していました)は、米国政府の禁令を無視し、鴨緑江渡河を命じたのです。確かに「北朝鮮」軍は、中国領内に逃げ込んでいました。しかし、この時点では中国は参戦していませんでした。前年10月1日に、ようやく国民党軍を追い払い大陸中国の統一を達成、中華人民共和国の設立を宣言したばかりです。抗日戦争から内戦と続いた国内の再建はようやく始まったばかりです。この時期の中国が好戦的であろうはずはなかったのです。しかし、台湾に逃げた蒋介石は大陸反抗を呼号し、その蒋介石の台湾は、台湾海峡に出動したアメリカの第七艦隊に守られているのです。成立したばかりの毛沢東政府が、本気で米軍に導かれた蒋介石派の攻撃を心配したとしても、無理はありませんでした。こうした中国政府の心境を理解する上で、マッカーサーはあまりに無神経でした。中国領内に入った米軍と「南朝鮮」軍に対し、中国は義勇軍を編成して、急遽反撃に出たのです。さすがに正規軍を派遣することは出来なかったのですが、義勇軍といっても、事実上正規軍に近い部隊でした。訓練の行き届いた新規の部隊の登場で、戦局は再度逆転します。敗走する米・「南」連合軍を中・「北」連合軍が追って南下しました。慌てた米軍は大量の増援部隊を送り込み、ようやく38度線附近で、中・「北」連合軍を食い止めたのです。戦線はここに膠着しました。 続く
2009.11.16
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デパートの誕生(35)ボン・マルシェの「アジャンダ」は、1週間分の日付の入った白のページと日付のないピンクのページが交互に出てくるのですが、52週の全てで大売出しやバーゲンせールがあるわけではありません。何もない週のピンクページには、ボン・マルシェの買い物風景を描いた絵などが掲載されたり、夏場はパリ近郊のリゾート地の紹介記事などが載っていたりします。冬場になると、オペラ座をはじめミドルクラスが憧れる劇場の座席配置の図まで登場します。こうして中・下層のブルジョワたちの上昇志向を炊きつけ、少しでも収入があれば、そうしたプライドを満たすための買い物に、主婦たちを狩り出す効果を狙っていたのでしょう。何しろ「アジャンダ」はバーゲンセールに訪れた客たちにも配られたのですから。中には毎月の家計簿をつけながら、今月まででいくら節約できたから、リゾート地へ出かけるときのカジュアル衣装が買えそうだなどと、考える主婦もいたのでしょう。ところで、フランスのデパートには、食品売り場は出来なかったと書きました。そのわけは以前に庶民生活を概観した連載の中で、家事奉公人のことを記しました。その時に、プチブルと労働階級を分けるポイントは、僅か1人でも家事奉公人を雇っているか否かにあると記しました。そうなんです。料理は主婦の仕事ではなく、お手伝いさんの仕事だったのです。ですから、ブルジョワの訪れる場所であるボン・マルシェをはじめとする百貨店には、お手伝いのための食品売り場など、あってはならなかったのです。それなのに、「アジャンダ」には「今月の料理」と題したページもあって、食材と料理法が載っています。料理に合わせるワインの欄は、私にも多少理解可能なので、眺めてみますと、安いワインは入っていませんので、こうした料理はアッパークラスやアッパーミドルの食卓用であることが分かります。食材よりもさりげなく描かれている、そうした料理に相応しい食器や銀器、テーブル・クロスなどに、主婦たちの関心を惹こうという、高等戦術だったことが読み取れます。 続く
2009.11.16
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クロニクル ウィンドウズXP発売2001(平成13)年11月16日8年前のこの日、マイクロソフト社はウィンドウズXPを発売しました。ただし、今年の1月31日を持ってこのXPは販売を終了し、今はウィンドウズ7の発売を始めています。
2009.11.16
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デパートの誕生(34)プシコーが自前の印刷所まで作って、繰り広げた宣伝戦略は、新聞広告やチラシによる宣伝ばかりではありませんでした。彼は、当時のフランスで「アジャンダ」と呼ばれていた、年間予定表付きの家計簿兼手帳でした。彼は「アジャンダ」にボン・マルシェの年間大売出しの予定を埋め込み、そこに家庭生活に必要な情報も組み込んで、顧客に無料で配布したのです。下の写真は、1888年版のボン・マルシェの「アジャンダ」ですが、ご覧の通り「アジャンダ=ビュヴァール」と記されています。ビュヴァールは吸い取り紙を指し、こうすることで、その利便性から、「アジャンダ」がどこかにしまわれてしまうことを防いだのですね。さて、この「アジャンダ」の内容です。最初の数ページは市民便利長のような内容でした。それが終ると、ボン・マルシェの年間の大売出しとバーゲンセールの予定表が出てくるのです。続いて、1ページを4日分と3日分とした、つまり見開きで1週間分となった予定や覚えのページが続きます。ここでも例えば1月2日の欄を見ると、「来週の月曜、ドレス生地、端切れ、既製服の大幅値下げセール」と予告が記され、ページをめくるとピンクのページが出てきます。ここには1ページ全部を全て使って同じ宣伝が大きな文字で繰り返されます。裏側には、ボン・マルシェの取扱商品の一覧と売り場の番号が記されているのです。そして、次ページの1月9日欄に、「本日ドレス生地…」と繰り返して、顧客がこのお買い得セールを忘れないようにと、万全の配慮が払われているのです。こうして白の予定表の記入ページとピンクのページが交互に繰り返されていくのです。それゆえ、当然かなりの厚みのあるノート風のものになっているのですから、ボン・マルシェ側では、かなりの出費を伴う宣伝費を投入していたのです。 続く
2009.11.15
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クロニクル 上越新幹線開通1982(昭和57)年11月15日11月15日は七五三の日です。子ども好きだった良寛和尚にあやかったというわけではないのでしょうが、27年前のこの日、上越新幹線の大宮~新潟間が開通しました。同時に大幅なダイヤの改正が行なわれました。我が家は小田急線を使いますので、新宿へ出る機会も多く、新宿~大宮間は埼京線で30分程度。そんなわけで上越線や東北線を使う場合、上野へ出るよりも大宮に出るほうが便が良く、上野や東京への延伸には、あまり興味を持多図、大宮発の開通で、北へ向かう新幹線は完成したような印象を持ちました。
2009.11.15
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チョビちゃん天上のネコの国へ我が家のボスニャンで、気持ちのやさしいお局さまだったチョビちゃんが、13日の夜8時頃、天上のネコの国へ、旅断ちました。96年の生まれで、97年1月に我が家にやってきました。我が家で5代目のニャンコでした。初代のミーちゃんは、長生きで、子ども達よりも先輩、下の娘などは、逆にミーちゃんに可愛がられている感じで、ズッコケテいましたが、91年の6月、19歳2ヶ月でネコの国に旅立ちました。庭に作ったネコ塚の初代住猫です。煮た小アジしか食べない食の細いネコでしたが丈夫でした。最後の1年は、夕方に小あじ1匹を骨まで丸齧りするのが、唯一の食事でした。入れ替わりにやってきた2代目のクロちゃんは、年齢不詳。捨てられた飼い猫が野良ちゃんになりきれず、よみうりランドに住まう友人宅の庭ネコになっていたのを、貰い受けてきました。この子は、僅かに米粒を入れたオカカが大好きなニャンコで、小学生だった娘の良き友達でした。96年2月ミーちゃんの待つネコの国へ。しょげ返る子ども達にと、すぐに親しい獣医さんが連れてきたのが、アメショのハーフのランちゃん、美貌で利発な聞き分けの良い子でした。秋に出産。男の子のアルちゃんを残して、仲間の4ニャンは、近所にお嫁入り。そのアルちゃん、97年の1月8日に交通事故にあって、ネコの国へ。子を亡くしたストレスで、元気をなくしたランちゃんのためにと、数日後に同じ獣医さんが連れてきてくれたのが、おとなしくて遠慮がちなチョビちゃんでした。チョビちゃんにくっつかれて、数日してランちゃんも元気になりました。99年秋、獣医さんがもう1ニャンお願いと置いていったのが、6代目のヒューちゃん、姿の良い美形でした。どこも引き受けてくれないので頼むからと、同年の大晦日に獣医さんが強引においていったのが、7代目のタッちゃんです。なにやらネコ屋敷になってきました。2000年の秋から、ランちゃんの具合が悪くなってきました。レントゲンを撮ってもらいましたら、かなり癌細胞が大きくなっているのが分かりました。余命数ヶ月といわれ、無理な手術でいやな思いをさせるよりと、自宅で好きにさせてやることにしました。ランちゃんが頑張ってくれているそんな時でした。2001年の6月、名ハンターだったヒューちゃんが交通事故死。4代目のネコ塚の住猫になりました。そして7月、ここまで頑張ったランちゃんがワイフの膝に抱かれたまま、眠るように天上の国に旅断ちました。ネコ塚5代目の住猫になりました。残されたチョビちゃんとタッちゃん、ボスがいなくなったものですから、なんだか揃って元気が出ません。そこに、ワイフの友人で、新宿区で家なしネコの世話を始めた方から、ねぇ、ランちゃんの替わりに何とかならないとSOS.渡りに船とワイフと娘で出かけていって、引き取ってきたのが、8代目にあたるカヤちゃんとレナちゃんという、双子の黒猫ちゃんです。タッちゃんも真っクロちゃんでしたから、3ニャンがクロちゃん。チョビちゃんのみご覧の通り、ノラクロ上等兵バリのシロクロのぶちでした。カヤちゃんとレナちゃんは、事故死させたくないと、室内飼いにすることにしました。2003年秋、今度はタッちゃんが交通事故死。6代目のネコ塚の住猫になりました。こうして、その後6年間、我が家は3ニャンが平和に暮らしていたのですが、今春からチョビちゃんの具合が悪くなって、昨13日に冒頭に記したように、大往生を遂げたのでした。ランちゃんと同じくワイフの膝で、一声ニャンと啼いて、クーと息を引き取りました。勤務の関係で帰りの遅い娘を待って、深夜の1時近くに、ネコ塚への埋葬を済ませ、その後に通夜を営みました。残された、カヤとレナが異変を感じて横たわるチョビちゃんの側を離れず、ずっと落ち着かないものですから、すぐに埋葬した方が良いということになったのです。ネコ塚はとても賑やかですが、今日の夕方には、もうカヤちゃんもレナちゃんも、何事もなかったかのように、落ち着いてきました。 11月14日 夜記す
2009.11.14
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政治を斬る(6) 6月25日に38度線を越え、攻撃の口火を切った「北朝鮮」軍は、破竹の進撃を続けて準備不足の「南朝鮮」軍を次々に撃破し、南進を続けました。国連はすぐさま安全保障理事会を開きます。米国にとって好都合だったのは、この時期ソ連が国連ボイコット戦術を取り(それは、国連が大陸中国を実力で統一した中華人民共和国に、国連の議席を渡すことを米英などの画策で認めず、辛うじて台湾に逃げ、米国第七艦隊に保護してもらって存続していた蒋介石の台湾を中華民国として認め、中国の国連議席を蒋介石の台湾が持ち続けるとしたことに、抗議してのものでした)、安全保障理事会を欠席していたことでした。ソ連がいれば、その拒否権行使によって、安保理は機能麻痺に陥り、何も決まらなかったはずです。これはソ連の失策でした。ともかくソ連抜きの国連は、「北朝鮮」を侵略者と断定し、国連軍の派遣を決めたのです。しかし、各国の調整もあり、国連軍本隊の派遣に手間取るうちに、事態は悪化、7月後半には、「南」の部隊は朝鮮半島南端の釜山周辺に押し込められて、もはや風前の灯の状態に陥りました。幸いだったのは、補給線の延びた「北朝鮮」軍が戦線の建て直しに追われ、釜山攻撃を一時急死せざるを得なかったことでした。GHQの総司令官を兼ねたまま、国連軍の指揮を任されたマッカーサーは、そこでトルーマン大統領の許可を取り、GHQの部隊として日本各地に駐屯していた米国兵を、朝鮮半島に送ることを決断したのです。朝鮮半島に近接する日本からの派兵は、そう時間をかけずに可能です。米本土からの派遣とでは、到着に2週間近い差がでます。日本駐留軍を派遣したからこそ、釜山陥落を免れ、形勢逆転に成功したことは、否定しえない事実でした。米軍は、「北朝鮮」軍の裏をかいて、黄海側の仁川に上陸し、釜山の部隊と呼応して「北朝鮮」軍を挟撃したのです。ここに形勢は逆転しました。9月上旬のことでした。 続く
2009.11.14
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デパートの誕生(33)ボン・マルシェを中心に、勃興期のデパート戦略を記してきました。こうした戦略の展開、顧客の足をデパートに向けさせる上で、デパートにおける催しを知らせる戦略もまた必要でした。即ち宣伝活動です。テレビは勿論ラジオもない時代(ラジオの登場は、1920年アメリカのビッツバークで、時の大統領選の速報が始まりです。以後25年までに、全米に500の放送局が出来ています。勿論すぐに大陸にも伝わりました)ですから、新聞広告か街頭でのチラシ配り、そして要所要所へのポスターの掲示です。チラシの配布には、サンドイッチマンも使われていました。この点でもプシコーは思い切った手を打っています。実は何度も出てきている1872年に完成した第1期の新館ですが、この建物の地下の一廓(大部分は商品の搬入と配送に使われていました)に、なんとプシコーは自前の印刷所を設けたのです。新聞社でも出版社でもない、一介のデパートが自前の印刷所を持ったのです。そこまでの記録がないので、確かめようがないのですが、おそらく毎日のように手を代え品を代えのチラシ類の配布が行われたのでしょうね。いかにプシコーが宣伝戦略を重視したか、紙爆弾を使って、不特定多数の顧客の来店に意を用いたかかが、ひしひしと伝わって来ます。 ザビ
2009.11.14
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クロニクル ユーロスター営業運転開始1994(平成6)年11月14日ユーロスターは、同年に開通した英仏海峡トンネル(ユーロトンエル)を通って、ロンドンとパリ、ロンドンと北フランスの工業都市リール、ロンドンとブリュッセルを、最高速度300km/時で結ぶ、高速鉄道です。15年前のこの日に営業を開始しました。ちなみに、ロンドンからブリュッセルまでは2時間弱。ロンドン~リール~パリの所要時間は2時間15分です。
2009.11.14
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