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クロニクル オバQ誕生1964(昭和39)年2月28日1964年は、10月に東京オリンピックが開かれた年でした。そして55年前の今日、発売された漫画週刊誌『少年サンデー』に、新連載漫画として、藤子不二雄さんの「おばけのQ太郎」が初めて登場したのです。ユニークでちょっとドジだけれど、気が良くて犬が大の苦手という、お化けらしくないキャラクターのQちゃんは、子どもたちに愛され、Qちゃんのおかげで、お化けが怖くなくなった子ども達が、大勢誕生したましたね。およそ1年後、テレビアニメが始まり、主題歌のQちゃんの歌も大ヒットしました。「…ボクはお化けのQ太郎…」
2019.02.28
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クロニクル ドイツ国会議事堂,放火により全焼1933(昭和8)年2月27日 今から86年前の事件です。1929年の10月に、アメリカに発した世界恐慌の発生から3年4ヶ月、この年、1月にはドイツにヒトラー政権が誕生したばかりの時でした。 首相になったヒトラーは、政権基盤を固めようと、すぐに議会の解散に打って出、3月5日を投票日に選挙戦の最中でした。そんなこの日、午後9時30分頃、ドイツ国会議事堂が放火によって全焼したのです。放火犯として、附近にいたルッペという少々気のふれたオランダ人青年が逮捕されたのですが、事件の背後関係や真相は、今日まで明らかになっていません。 分っていることは、選挙戦の最中にあったヒトラーとナチスが、政権政党の特権を生かして、この放火事件を、政敵の弾圧に、徹底的に利用したということです。ヒトラーは、事件の報を聞くと、ただちに「事件は共産党の組織的な犯行である」との談話を発表、共産党勢力を一網打尽にひっ捕らえて、同党に壊滅的な打撃を与えたのです。社会民主党もまた、無傷では済みませんでした。
2019.02.27
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クロニクル 東京高裁女性の定年差別に違法判決1975(昭和50)年2月26日44年前になりますが、この日、東京高裁は女性の定年を男性よりも若い年齢に設定することは、憲法の男女平等並びに労働の権利の規定に照らして違法であるとの、画期的な判決を下しました。 いまだ男女雇用機会均等法が準備もされず、話題にもなっていない時期でしたから、この判決は働く女性たち、とりわけ働きつづけたい女性たちにとって、間違いなく朗報でした。 裁判闘争は、地味で息の長い戦いになります。相当に費用もかかります。その上日本の裁判は政治や大企業に著しく有利で、庶民には不利に働くことが多いのです。そうした中で提訴し、定年差別の現実を静かに訴え続けた女性たちの勇気と信念が、遂に定年差別違法判決を引き出したことに、私は大いなる敬意を表しています。それにしても、日本における女性の社会進出は、いまだ道半ばですね。何とも歩みが遅くもどかしいですね。
2019.02.26
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クロニクル 『夕刊フジ』創刊1969(昭和44)年2月25日1969年というと、丁度50年前になるのですね、1月に東大安田講堂を占拠する学生たちを排除するために、機動隊が動員された、あの年です。全共闘運動がまだまだ頑張っていた時期。日本の学生の目が、天安門事件当時の中国の若者のように、輝いていた時期でした。そんな最中のこの日、日本で初めての駅売りのタブロイド版夕刊紙、『夕刊フジ』の創刊号が発売されました。日曜、祝日、年末年始を除く毎日の発行でしたから、まさに夕刊と同じ扱いでした。今ではコンビニなどにも置かれていますね。 販売の中心は、関東と関西で、最盛期の公称発行部数は194万部とされています。今では、若者の新聞離れもあって、大きく売り上げを落としていますが、これは夕刊紙やスポーツ紙ばかりでなく、一般紙でも同じ傾向を示していますね。『夕刊フジ』の発行元はサンケイ新聞社です。
2019.02.25
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クロニクル 足尾銅山閉山1973(昭和48)年2月24日46年前のこの日、古河鉱業は、ようやく足尾銅山を閉山しました。足尾鉱毒事件を起こし、同鉱山近くの下流域では、未だに草の生えない地域も残っています。日本における最初の公害事件として知られる足尾銅山は、この日、その歴史の幕を閉じたのです。 現在、足尾鉱山は鉱山の歴史を学ぶ博物館として存続し、鉱山の1部、トンネルの崩落が起きない場所が、見学出来るようになっています。 群馬県の桐生と繋ぐ足尾線は、第3セクターの渡良瀬渓谷鉄道として、観光客の誘致による生き残りを目指しています。 東京大空襲で焼け出された我が家族は、桐生の親戚と共に、都市部は危ないからと、45年末までを、この路線の桐生から4駅目、上神梅で過ごしました。雷が怖かった記憶が、うっすらと残っています。
2019.02.24
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クロニクル ローマ教皇初来日1981(昭和56)年2月23日38年前になるのですね。この日、ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世が、ローマ教皇として初めて来日しました。日本とローマ教皇庁との出会いは、天正の遣欧使節としてローマに赴いた少年キリシタンを嚆矢とするのですが、ローマ教皇の来日は始めてのことでした。ヨハネ=パウロ2世は、平和の使徒の志が高く、高齢を厭わず各地を訪問しては、宗教的和解と平和を訴えて歩く、信念の人でした。ギリシャ正教会の総大主教との会談、南米訪問、そしてその一環としての日本訪問でした。 日本では24日に昭和天皇と会見、25日には広島を訪問して、平和のアピールを発表、翌26日には長崎も訪問するなど、過密スケジュールを精力的にこなされました。
2019.02.23
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1989(平成元)年2月22日 昭和が平成に切り替わったばかりの時でした。30年前です。そんな30年前の今日、佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、国内最大級の弥生時代後期の環濠集落が発見されました。スワ卑弥呼の邪馬台国かと、大きな話題になりましたね。邪馬台国論争は、永遠の謎、永遠のロマンであってほしい、この頃はそんな気がしています
2019.02.22
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クロニクル 東京日日新聞創刊1872(明治5)年2月21日147年前の今日、今日の毎日新聞の前身、「東京日日新聞」が、東京で最初の日刊新聞として創刊されました。 日刊新聞の草分けは、横浜をエリアとしていた「横浜日日新聞」でしたが、この新聞は長くは続かなかったので、事実上日本最古の日刊新聞が、この日誕生したと言えましょう。やがて、関西系の「大阪毎日新聞」と合併し、次第に全国紙の体裁を整えて行くのですが、毎日新聞としての新聞の発行は、1943(昭和18)年の1月1日号からです。 出発は、朝日や読売よりも10年以上早く、4年前の2015年に創刊号から数えて5万号に達しています。 手元に創刊年の秋に発売された「東京日日新聞」のコピーがありますので、いつか紹介させていただこうと考えています。
2019.02.21
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クロニクル 大阪ドーム完成1997(平成9)年2月20日22年前になるのですね。この日大阪ドームが、大阪市西区に完成しました。東京ドーム、福岡ドームに続く、日本で3番目のドーム球場の誕生でした。97年のプロ野球、丁度南の地方でのオープン戦が間もなく始まろうという頃でした。大阪ガスの工場跡地に、94年7月に着工し、この日完成を見ました。ドームは近鉄バッファローズの本拠地として建設され、3月1日に正式にオープンしましたが、近鉄球団が2004年のシーズン終了後、オリックス球団に吸収合併されることになり、2005年からはオリックス・バッファローズの本拠地となりました。なお、現在の球場名は、命名権の売却により、京セラドーム大阪となっています。
2019.02.20
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クロニクル 大浦天主堂完成1865年2月19日(元治2年1月24日)154年前のことです。時期は幕末。3年後が明治維新。この日、長崎に大浦天主堂が完成しました。現存するキリスト教の建造物としては、日本最古のものです。 正式名称を日本二十六聖殉教者堂と言います。その名の通り、二十六聖人に捧げられた教会堂です。そのため御堂は殉教地の西坂の方向を向いて、建てられています。 長崎市への原爆投下で被爆し、破損したのですが、爆心地から比較的離れていたために焼失は免れました。戦後の復興と共に修理が行なわれ、1952年に修理が済み、翌1953年3月31日に国宝に指定されました。 大浦天主堂の建築は、フランスのカトリック教会の外国宣教部日本支部が、資金と設計を担当し、長崎の棟梁の手で建てられました。宣教師たちの狙いは、「外国に対して開かれていた長崎周辺には、密かに信仰を伝えるカトリックの信徒が残っているのではないか。そうした信徒を見つけ出したい」という1点にありました。 宣教師たちの期待は、御堂の完成から1ヶ月後の3月17日に現実のものとなります。この日近在の住民10数名が、教会に赴任したブディシャン神父を訪ね、自分たちが神父と同じ信仰を持つことを、告白したのです。信者たちは、御堂に聖母像があること、神父が独身であることから、御堂がカトリックの教会であることを確信し、この日の訪問となったのです。やがて、長崎周辺の各地で多くのカトリックの信徒が秘密裏に信仰を守り続けていたことがわかります。天主堂の建設は、大きな成果を生んだのです。この「信徒発見」のニュースは、喜ばしき大ニュースとして、ローマ教皇ピウス9世のもとに届けられます。教皇は感激して、「東洋の奇蹟」と叫んだと記録されています。
2019.02.19
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クロニクル 札幌雪祭り始まる1950(昭和25)年2月18日 北海道のブログ仲間の皆さんが、道内各地の雪祭りの写真をアップしてくれています。おかげで、雪国の祭りの雰囲気を、いながらにして味わわせていただいています。そんな北の国の雪祭りの始まりの話です。69年前ですね。昭和25年の日本は、戦後の悪性インフレ対策として提案された、シャウプ勧告を実施して、深刻なデフレに耐え初めていた頃です。朝鮮戦争の特需景気が神風となって、奇跡的ペースで復興が軌道に乗り始めるのは、この1年4ヵ月も後のことですから。この年、道民を元気付け、観光客の誘致につなげようと、札幌観光協会と札幌市が主催して、「第1回札幌雪祭り」が開かれました。今日はその初日でした。アイデアを出したのは、後援団体に名を連ねた「北海タイムス」の編集局だったそうです。戦前の札幌には、いくつかの雪の祭典があったようですが、戦争中に全て途絶えていました。この第1回の雪祭りでは、市民の雪捨て場となっていた大通公園の西7丁目に、札幌市内の中学校や高等学校の生徒たちが合わせて6基の雪像を制作したのです。また、雪祭りに合わせて、札幌鉄道管理局が国鉄の札幌駅前に雪像を作って展示しています。 祭りは好評で、市民たちから、来年以降も継続して欲しいという要望が相次ぎ、今日に続くことになったのですね。「北海タイムス」さんの大ヒットでした。何しろ今では、北海道を代表する一大観光イヴェントになっているのですから…その「北海タイムス」も20世紀も残り少ない98年9月1日号を最後に、発行元の倒産で姿を消しました。
2019.02.18
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クロニクル 中部国際空港開港2005(平成17)年2月17日今年で14年になるのですね。この日、中部国際空港(愛称セントレア)が開港しました。所在地は愛知県の常滑市沖の人工島です。この空港の整備に当たり、1985年に調査名目の経費が付与されていますから、計画が動き出してから、完成まで20年を要した大プロジェクトでした。 空港の場所が知多半島の常滑沖と、名古屋から距離があるため、成田国際空港と同じくアクセスに問題があり、開講当初は好調に発着便を増やしましたが、開港人気が続いたのも2007年までで、その後は搭乗者数の減少が続きました。 特に、米国の住宅バブル崩壊後の世界不況が本格化した2008年度からの減少幅は大きく、2009年冬期現には、定期国際線は旅客便週266便、貨物便週17便に減りました。その後、こうした国内線や国際線の減便をなんとか食い止め、緩やかな回復を続け、エア・アジアなど、いくつかの誘致に成功していますが、建て直しが急務である状況が続いているようです。
2019.02.17
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クロニクル 京都議定書発効2005(平成17)年2月16日 京都議定書とは、気候変動枠組条約に基づき、1997年12月11日に京都市の国立京都国際会館で開かれた第3回気候変動枠組条約締約国会議(地球温暖化防止京都会議、COP3)で議決した議定書のことです。正式名称は、気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書と言います。97年の京都会議で決まった所から、この名があります。しかし、その京都議定書は1997年に締結されたのに、その議定書の発効は遅れ、ようやく8年後のこの日正式にスタートしたのです。スタートが遅れた最大の原因は、アメリカ合衆国とロシアという二酸化炭素の排出量の多い国が、途上国も参加するものでなければ、意味がないという屁理屈を並べて、参加を拒否していたことにありました。2004年の秋に、ロシアが京都議定書を承認、ようやく発効に漕ぎ着けたのですが、米国は最後まで未加盟のままでした。 ただし、米国では、政府は未加盟ながら、全国219の都市が、独自に参加しています。
2019.02.16
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クロニクル 人間国宝誕生1955(昭和30)年2月15日 今年で制度が誕生して、64年になります。人間国宝の語は、文化財保護法に基づいて、文部大臣が指定した重要無形文化財の保持者として認定された人物を指す通称です。初めて、この語が使われたのが、64年前の今日なのです。文化財保護法には「人間国宝」という文言はないのですが、重要無形文化財保持者を指して人間国宝と呼ぶ通称が広く用いられています。
2019.02.15
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クロニクル 円、変動相場制へ1973(昭和48)年2月14日1971年12月のスミソニアン合意は、つぎはぎだらけの妥協でした。ドル切り下げに円とマルクの切り上げをセットして、固定相場制を維持しようとしたのですが、所詮無理な話でした。72年12月に、西ドイツでの猛烈なドル売りが各国に広がり、再びドルの危機、国際通貨危機が発生したのです。2月に入り、各国は相次いで外国為替市場を閉鎖、円・ドル・マルクのレートの調整に入りました。その過程でアメリカは貿易収支の赤字幅の縮小のためには、ドルの威信を捨てても構わないという,捨て身の姿勢でいることが判明し、日本も西ドイツも一定の譲歩はやむなしということになっていったのです。こうして、日本は1ドル=308円の固定相場に別れを告げ(といっても、前年12月からは、投機筋のドル売りを日銀が買支えに動く事で、辛うじて308円=1ドルを人為的に支えていたのですが)、2月14日から、1ドル=277円のレートから始まる変動相場制に移行すると、発表したのです。46年前の出来事でした。 翌3月には西欧各国の通貨も対ドルのフロート制に移行、ここにスミソニアン体制は完全に崩壊、各国通貨の固定相場制は終焉を迎えたのです。さて、日銀の介入もあり、スタート当初の円の値動きは、現在の人民元の動きに似た小波も立たないような静かな動きに終始し、10月に入っても、1ドル=260円台の取引が続いてました。当時の大蔵省と日銀の介入による人為的な為替操作によるもので、各国からはダーティフロートだとの手厳しい批判を浴びたのでした。こんなところも、現在の中国にそっくりだったのです。 この状況を変えたのは、10月に始まる第1次オイルショックの発生でした。現在は120円が大変な円安で、輸出企業は神風の到来とホクホク顔なのですが、当時は今の2倍以上の270円台ですら、大変な円高だと警戒され、輸出企業は、円切り上げ絶対反対を叫んでいたのです。今や昔の物語のように感じられますね。
2019.02.14
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クロニクル GHQ松本試案拒否1946(昭和21)年2月13日73年前の今日のことです。5日前の2月8日に、幣原喜重郎内閣が提出した憲法改正要綱(通称松本試案)を、GHQはこれでは改正内容が不十分すぎるとして、正式に拒否してきました。こうなることを予想して、2月3日から準備に入り、僅か1週間で完成させたGHQ試案を、突きつけてきたのです。日本政府は22日に、このGHQ試案を正式に受け入れることを決め、以後はいくつかの修正を経て、新憲法草案は、正式に決定を見ることになります。それにしても松本試案は、ひどいものでした。何よりも「天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は、変更しない」という大前提の下に、全てを組み立てていたのですから、GHQはもちろん、軍部独裁に懲りている大多数の日本国民にとっても、到底受け入れがたいものだったのです。 参考 長谷川正安『昭和憲法史』(岩波書店)
2019.02.13
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クロニクル 教育委員の準公選制スタート1981(昭和56)年2月12日38年前のこの日、東京都中野区で、前年に定めた教育委員の準公選のための選挙が、スタートしました。 教育委員会の委員=教育委員は、その本来の趣旨からすれば、公選が望ましいものなのです。そのため48年の制度のスタート後、しばらくは公選制が続きましたが、1956年の法改正で、任命制に改められました。その結果、首長の政治的立場に近い人たちだけが選ばれる形となり、国民の教育要求と教育委員の姿勢のズレが目立つようになっていました。そんな状況の中で、東京都中野区では、住民請求で、教育委員を公選に近づけるための請願が多くの住民の署名を添えて繰り返されました。その結果、完全な公選制とせず、住民の選挙結果を基にして、複数の教育委員候補を区長に推薦、区長が区議会の同意を得て、推薦された名簿の中から教育委員を指名するという、教育委員の準公選制がスタートすることになったのです。こうして、この日から2月25日までの2週間を郵送に拠る投票期間とする、教育委員の選挙がスタートしたのです。選挙結果の上位者から、数名の候補者が推薦され、区長によって、教育委員に任命されたのは、3月2日のことでした。しかしこの制度も、何度か繰り返される内に、投票率が次第に減少したため、区議会は94年に制度の廃止を決議し、以後は残念ながら任命制に戻ってしまいました。
2019.02.12
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クロニクル 松竹キネマ設立1920(大正9)年2月11日99年前の話です。この日、当時の東京市京橋区築地3丁目で、「松竹キネマ合名会社」が産声をあげました。これが現在の「松竹」の前身です。 設立当日に、新聞紙上に大きな広告を出し、映画の製作と配給を行なう旨を発表するとともに、「2-3万坪の撮影所用地」と「人材」を求む旨を公示しました。 実際に、3月には小山内薫を校長に据えて、松竹キネマ俳優学校を設立、公募によって36名を研究生として採用し、俳優の養成に努めました。撮影所としては、蒲田に9千坪の用地を取得、蒲田撮影所(後大船に移転)を建設しています。さらに京都下加茂に、京都撮影所を設立、東京で現代劇、京都で時代劇を撮影する体制を築きました。
2019.02.11
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クロニクル 北九州市発足1963(昭和38)年2月10日56年も前になるのですね。この日、福岡県の北九州5市(門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市)が合併し、北九州市が誕生しました。合併により政令指定都市となる、最初のケースでした。最近はさいたま市とか、相模原市とか、こういうケースが増えてますね。
2019.02.10
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クロニクル 女性最高裁判事誕生1994(平成6)年2月9日もう25年経つのですね。この日、細川首相は、 高橋久子元労働省婦人少年局長を、最高裁判所判事に任命しました。こうして、この日女性初の最高裁判事が誕生しました。 女性の社会進出は、1980年代から活発化してきており、そうした事情に鑑み、男性優位の職場だった法曹界にも、女性の進出が求められていた時期でしたから、このビッグニュースは、各方面で好意的に受け止められました。しかし、その後の歩みが何とも遅いですね。もっとスピードがあがると良いのですが…
2019.02.09
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クロニクル ホテル・ニュージャパン火災1982(昭和57)年2月8日37年前のことになります。この日午前3時過ぎに、ホテルニュージャパンの9階から出火、9階と10階を中心に、12時過ぎまで9時間以上に渡って燃え続け、延焼面積約4,200平方メートルに達する大火災となりました。ホテルの宿泊客を中心に死者33名(台湾人12、日本人11、韓国人8、アメリカ人1、イギリス人1)・負傷者34名を出す大惨事でした。東京消防庁の調べでは、出火の原因は9階938号室に宿泊していたイギリス人男性宿泊客の寝タバコでした。 廊下での焼死など火災による死者が多かったのですが、有害ガスを含んだ煙から逃れる為に窓から飛び降りて命を落とした人も13人もおりました。また、9階と10階の生存者の中には、火災で非常口からの避難が出来ず、シーツをロープ替わりにして窓から下の階へ避難した人や消防隊に救出された人もありました。 延焼範囲が広がった原因としては、消防当局のたびたびの指導を無視して、ホテル側が、スプリンクラー等の消防設備を設置しなかったこと、火災報知機が故障したままになっていたことなどが指摘されました。また、ホテルの館内放送設備の使用方法の誤り、宿直ホテル従業員の少なさ、従業員の教育不足による初動対応の不備、客室内の防火環境の不備(可燃材による内装など)といったホテル側の火災対応の軽視がいくつも指摘されました。スプリンクラーの散水孔には配管がなく、天井に部材を接着していただけの偽装であったことも発表され、遺族や国民の怒りも大きくなりました。結局この火災が原因で、ホテルは東京都から営業禁止お処分を受けて廃業、ホテルの土地と建物を担保に、横井社長に多額の貸し付けを行っていた千代田生命が、ホテルを競売にかけて貸付金の回収を図ったのですが、多くの死者を出した土地のため、買い手は現れず、結局千代田生命が自ら落札して、火災から14年後の1996年になって、ようやく再開発を開始したのですが、その千代田生命自身が2000年10月に経営破綻してしまい、02年に土地と建築中の建物を買い取ったブルデンシャル生命が、森ビルの協力を得て、火災から20年後の2002年12月に、ようやくブルデンシャルタワーとして、面影を一新することができました。
2019.02.08
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クロニクル 仇討ち禁止となる1873(明治6)年2月7日146年前のこの日、明治政府は「仇討ち禁止」を決定、即日勅令として公布しました。 興味深いのは、この仇討ち禁止について、政府が「仇討ちを認めることは、さらにその反対の仇討ちを呼び、仇討ちの連鎖に繋がる。よって、その連鎖を断ち切るために、今後は仇討ちを禁じ、すべてを法による裁きとする。」と発表したことです。 仇討ちに優先する法の裁きの規定が、ここに誕生しました。これは法治国家にとって当然のあり方です。私達も、被害者感情に訴える事はあっても、法に依る裁きそのものを否定することは、ありません。ところで、米国のブッシュ元大統領が決定した9・11事件の報復行為は、まさに仇討ちの原理を復活させた行為でした。近代の法治国家が明確に否定したことを、米国は実行したわけです。これは到底認めて良いことではないですし、認められる行為でもないと私は考えます。 驕る平氏は久しからず… そんな眼で私は現代アメリカを見ています。
2019.02.07
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クロニクル エリザベス2世即位1952(昭和27)年2月6日67年前のことですから、イギリスのエリザベス女王、昭和天皇の在位記録を名実ともに塗り替えて、今なお日々更新し続けていらっしゃるのですから、凄いですね。67年前のこの日、エリザベス現女王の父君、イギリス国王ジョージ6世が肺がんに起因する衰弱から発した、冠状動脈血栓症により死去されました。父君の死を受けて、即日長女で王位継承者だった、エリザベスが王位を継いだのです。エリザベス2世の戴冠式は、翌1953年の6月2日に行われ、日本からは昭和天皇の名代として、当時19歳の皇太子(現平成天皇)が出席されました。サンフランシスコ講和条約が発効していたとはいえ、まだ戦争の記憶のなまなましい当時、戦争責任とは無縁の若者の派遣は、時宜を得たものだったと言えましょう。これが明仁皇太子の外交デビューでした。
2019.02.06
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クロニクル 社会党新運動方針決定1961(昭和36)年2月5日58年前のことです。戦後最大の反政府運動だったと言われる安保闘争を経て、池田内閣の所得倍増計画の発表、浅沼社会党委員長の右翼少年による刺殺事件と、日本社会が大きく揺れていた時期、今や見る影もない社会党が、まだまだ元気だった頃のことです。この日、委員長を欠員としたままの社会党は、江田三郎書記長の唱えた構造改革論を軸とした新運動方針を決定し、直ちに発表しました。しばらく後に江田ビジョンとして有名になった構造改革論は、これまた当時ヨーロッパで最も人気が高かったイタリア共産党のトリアッティ書記長が唱えた考え方で、資本主義の構造改革を図った上で、共存共栄の道を探すことを、模索するという考え方でした。 江田氏は、1、アメリカの高い生活水準、2、ソ連の徹底した社会保障、3、イギリスの議会制民主主義、4、日本の平和憲法の4点を総合的に結びつけ、実現することの重要性を強調したのですが、党内左派は、帝国主義の牙城と考えるアメリカの生活水準を礼賛するのは許せないを反発し、党内の路線論争が活発化することになりました。
2019.02.05
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クロニクル 銀行土曜休業へ1989(平成元)年2月4日 平成の歴史と共に始まったのですね。慣れてしまうともっと前からだったような気も… ちょうど30年前の2月4日の土曜日から、全国の銀行は完全週休2日制を敷くこととなり、土曜日の窓口業務の実施を停止したのです。だからって、土曜日のATMでの預金引き出しに、預金利子よりも遥かに高い手数料をとるという神経は、いただけませんね。
2019.02.04
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クロニクル ディアス喜望峰に到達1488年2月3日531年前になるのですね。アフリカ西海岸を、南へ南へと進み、黄金や象牙の売買と黒人の人身売買(奴隷貿易)で、巨利を得ていたポルトガル王国の探検隊が、バルトロメウ・ディアス提督の指揮の下で、この日、ついにアフリカ大陸の最南端に到達、その地を喜望峰と名付けました。 日本では、この年加賀の一向一揆勢が富樫氏を破って統治権を握っています。以後1580年までの100年近く、一向宗門徒の国人たちの支配する門徒の国が続くのですが、その誕生とポルトガル人の喜望峰到達は、同年のことでした。コロンブス一行のカリブ海到達は、この4年後の1492年。バスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到達するのは、10年後の1498年のことでした。ディアスの航海が、大航海時代の本格的幕開けを告げたのです。
2019.02.03
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クロニクル スターリングラードの戦い終了1943(昭和18)年2月2日 第二次世界大戦の一齣です。ソヴィエト赤軍がドイツ軍の怒涛の進撃を食い止め、ヒトラーの不敗神話を打ち破り、第二次世界大戦の大きな転換点となったとされる、スターリングラードの戦いが、76年前のこの日終了しました。スターリングラード(現在はボルゴグラード)は、ヴォルガ河の西岸に広がる工業都市で、当時はソ連の重要な軍需工業の生産拠点でもありました。この都市への攻撃を、ドイツ軍は1942年6月28日から開始し、数日間に及ぶ激しい空爆で、都市のほとんどを廃墟としたのですが、その瓦礫の山が、逆にソ連兵に絶好の狙撃地点を提供してしまったのは皮肉でした。ドイツ軍の攻勢に耐えたソ連軍は、11月に入ると逆に攻勢に出、増援部隊を加えてドイツ軍を包囲、この日遂にドイツ軍の最後の部隊が降伏して、戦いはドイツ軍の完敗に終ったのでした。ここに戦局は完全に転換しました。
2019.02.02
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クロニクル 配給制大幅強化1942(昭和17)年2月1日77年前のことです。前年12月8日が、真珠湾攻撃の日。「アメリカをやっつけろ!」「勝利万歳!」と、彼我の力の差を知らない国民が浮かれていた頃です。 既に、国家総動員法などが成立しており、39年9月からは、「日本人なら贅沢はできないはずだ!」という立看板が、あちこちに立てられ、節約ムードが行き渡っておりました。そんな中、子どもたちを洗脳して、パーマネントの女性を見かけると、「パーマネントはやめましょう」と、大声で叫ばせ、当該女性に大恥をかかせるなどといったことも、行なわれておりました。物資の不足は、日中戦争の長期化のなかで、既に顕著になっていたのですね。そしてこの日、調味料に属する味噌と醤油までもが配給制とされ、衣料については、配給制を1段階強化した切符制の方針が通知され、即日施行されたのです。 戦局が守勢に回るのは、6月のミッドウェー海戦の敗北からですが、深刻な物資不足は、既に始まっていたのですね。第一次世界大戦から色濃くなった、国家の総力をあげて戦う総力戦の現実からすれば、日米開戦はありえない選択だったのです。当時の指導者は、頭に血が上って、冷静な判断が出来なかったのです。そして現在。 今の有力政治家と内閣。近隣との関係をしっかり改善する気がとぼしいような…。だんだんあの当時に似てくるように感じられてならないのですが、大丈夫なのですかね。気になっております。
2019.02.01
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