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紅白歌合戦事始 紅白歌合戦も終盤に差し掛かっていますね。ただいま23時15分です。皆さん、今年一年大変お世話になりました。来年もよろしくお願いします。年賀状書きを一時中断して、ブログの御挨拶です。自然災害ぼ多かった1年がやっと終わろうとしています。来年は事件の少ない穏やかな年になると良いのですが、どうなりますか。 ところで、紅白歌合戦が大晦日に行なわれるようになったのは、第4回の1953(昭和28)年からのことなのです。 第1回紅白歌合戦は、1951(昭和26)年の1月3日に、NHKラジオが午後8時~9時までの1時間番組として、当時のNHK(東京放送会館)の第1スタジオから生中継したのです。スタジオには約300名の観客が招かれました。正月なので、劇場等は正月公演でイッパイなため、自前のスタジオしか利用できなかったのです。 出演は紅組白組各7名の14名でした。出演者は白組は、キャプテン藤山一郎、林伊佐緒、近江俊郎、東海林太郎、鶴田六郎、鈴木正夫、楠木繁夫の7名。紅組はキャプテン渡邉はま子、菅原都々子、菊地章子、二葉あき子、暁テル子、赤坂小梅、松嶋詩子の7名でした。 歌われた曲は、長崎の鐘、湯の町エレジー、紅い燃ゆる地平線、桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン、上海の花売娘、星のためいきなどでした。曲名を聞くと、子供の頃の歌だけにメロディーが浮かんできます。 第2回では、紅組白組各12名に出演者が増え、伊東久男、霧島昇、岡本敦郎、灰田勝彦、笠置シヅ子、越路吹雪らが、初出演しています。このうち越路吹雪は、松嶋詩子のピンチヒッターでした。今では考えられないことですが、出場予定の松嶋詩子が、本番会場に向うタクシーで交通事故に遭って緊急入院、NHKは大慌てで代役を探し、自宅で宴会中だった越路吹雪に代役を頼み、越路は急遽NHKホールに駆けつけ、代役を務めたというのです、かなり飲んでいたそうですが、本番は無事務めたというのですから、さすが「こーちゃん」ですね。さて、第3回まで正月の3日に行われていた紅白歌合戦が、なぜ第4回から大晦日に変更になったのかというと、それはNHKがテレビ放送を始めたからなのです。 NHKは、1953(昭和28)年の2月に、テレビの本放送を始めました。そこで第4回を迎える紅白歌合戦を、ラジオだけでなくテレビでも放送する計画を立てたのです。 当時は録画して後に放送するという技術はありませんから、テレビは全て生放送でした。そこで、どうせならなるべく大勢のお客様に見ていただこうと、大晦日の晩の日劇のホールを借りて、公開放送としたのです。なぜ1月3日でなく大晦日になったのか。それは日劇のような大ホールは、正月は全て正月公演のために満杯で、入り込む余地がなかったからです。大晦日は、どの劇場も公演はなく空いていました。そこで大晦日に実施することになったというのが真相です。ところが大晦日の実施には、とんでもないプラスがありました。それは第3回までは、正月公演で時間がとれず、出演を辞退していた大物歌手たちが、大晦日なら都合がつくと、続々と出演してくれるようになったことです。 淡谷のり子や小畑実が出演するようになったのは、この第4回紅白からでした。思わぬ効果に喜んだNHKは、以後紅白歌合戦を大晦日に固定したのです。大晦日の風物詩は、こうして誕生しました。この日の放送時間は、21時15分~22時45分までの1時間30分でした。ところで、この1953年は1月2日に、第3回の紅白歌合戦が行なわれています。そして大晦日に第4回を開催しました。1年に2回の紅白があったことになります。過度期の産物ですが、これも1回きりのことでした。 皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。
2019.12.31
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クロニクル 地下鉄事始1927(昭和2)年12月30日 「地下鉄事始」と言っても、日本のことです。92年前の今日、日本最初の地下鉄が、上野~浅草間で開通しました。現在の東京メトロ銀座線の1部区間が、部分開通したのです。 乗車時間は僅か5分でしたが、開通当初は物珍しさから乗客が殺到、5分間の地下鉄に乗るために、連日2時間待ちの行列が出来たと、当時の新聞が伝えています。ポスターの宣伝文には、「東洋で最初の地下鉄道」の文字が踊っていました。現在の銀座線のうち、浅草 - 新橋間は「東京地下鉄道」会社によって建設・運営されました。同社は新橋から浅草まで一挙に開通させることを目指していたのですが、関東大震災後の不況のため資金調達が困難となり、当時は日本一の繁華街で高収益が見込めた浅草から上野までの建設を先行させたのです。結果的に、これが当たったのですね。経営はその後も順調で、1934年(昭和9年)に全線開通に漕ぎつけています。 一方、渋谷 - 新橋間は目黒蒲田電鉄系の「東京高速鉄道」により建設・運営され、1939年(昭和14年)に全通しています。その後、東京地下鉄道との相互乗り入れ運転が開始されました。 両社は、太平洋戦争に伴う国策の一環として、1941(昭和16)年に特殊法人「帝都高速度交通営団」(営団地下鉄)に統合されました。この営団地下鉄が、2004(平成16)年に民営化され、東京メトロとなりました。ところで、この銀座線、現在でも乗降客が多く、日中も3分に1本という過密ダイヤが編成されています。そしてこの銀座線と2番目に建設された丸の内線は、早くに建設された地下鉄の特権で、地下の最も浅いところを走っています。そのため、階段を使っても昇り降りにアップアップしなくて済む高齢者に有難い地下鉄です。(苦笑)
2019.12.30
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クロニクル 日経平均史上最高値1989年(平成元)年12月29日30年前になるのですね。この日、東京証券取引所の日経225平均株価が、38,915円87銭という史上最高値で引けました。87年10月のNY市場のブラックマンデ―の衝撃を僅か2ヶ月で克服した東京市場では、翌88年12月には日経平均が未踏の3万円台に突入する活況を呈し、「特定金銭信託」や「ファンドトラスト」という聞きなれない言葉を連発しながら、平均株価は5万円まで上げ続けるという、根拠のない神話が信じられるユーフォーリァ現象を呈し、この日の大納会は、史上最高値を記録して終えたのでした。90年大発会の始値は、この値を200円も下回る38,712円88銭、これが、90年代どころか、今日まで超えることが出来ない、その後の最高値になろうとは、神ならぬ身に分かろうはずはありません。4月には3万円を大きく割り込み、4月以降しばらく戻して3万円台を回復しましたが、7月以降再度急落10月には、20,221円86銭を付けるに到りました。第1段の底は92年8月の14,309円41銭、95年7月に再び14,400円台、そして3年後の98年10月には12,800円台、こうした下げを繰り返して2003年4月の7607円88銭まで、13年間に渡って下げ続ける大きな後遺症を残しました。 高値からの下落率80.45%、2割弱に落ち込むという大暴落劇でした。株価と地価のスパイラル、崩壊した土地神話にしがみ付き続けた先送りのツケ、護送船団方式という政治の保護にアグラをかき続けた銀行・デパート・スーパー・土建を中心とした内需系企業と政治の無策が傷を大きくしたことも事実ですが、バブルは必ず崩壊し、得た果実よりも大きな傷を残すという教訓は、しっかりと受けとめておく必要があります。2007年に始まり、2008年がピークとなった米国発のリーマンショックと呼びならわされたサブプライムバブルの崩壊に際し、米国以上の大被害を受けた欧州諸国に対し、日本の金融機関の傷がはるかに小さく済んだ際には、バブル崩壊の教訓が生かされたように受けと得られましたが、なお、バブルの傷口が完全に言えず、大きなリスクを取りに行けなかっただけだったのかもしれません。 以後、十分元気になったとはまだ言えない日本の株式市場は、大量のETF買いで、株価を買い支えている日銀のおかげで、ようやく24,000円の手前までたどり着きましたが、ここが1993年と95年に実現したバブル崩壊後の戻り高値の水準ですから、さて来年はこの水準を超えていけるのでしょうか。ちなみに前回の東京五輪の年、1964年は、オリンピック不況で株価は下落しています。
2019.12.29
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クロニクル 傾斜生産方式を決定1946(昭和21)年12月27日 73年前のことです、戦後の焼け跡があちこちに残る時代の話しです。政府は、この日の閣議で、経済復興をどう進めるかに関して、傾斜生産方式を採用する事を、正式に決めました。 敗戦、とりわけ米軍の空爆によって、軍需産業を中心に、日本の工業地帯は大きく破壊されており、事実上ゼロからの復興でしたから、1度に全産業の復興を目指す事は、現実問題として無理でした。そのため、あらゆる産業に関連する基幹産業を中心に、少ない外貨を割当、まず基幹部分の復興を目指し、次いで周辺に広げると言う、2段階、3段階の手順で復興してゆくプランが採用されたのです。こうして、当時は国内資源として豊富に採掘された石炭採掘→電力→鉄鋼の順で、政府による支援が行われたのです。このうち石炭は、産業の黒いダイヤと呼ばれ、筑豊・常磐・夕張などの産炭地は活況に沸きました。 現在では、こうした産炭地の炭鉱は全て閉鎖されており、その1つ、夕張市の惨状が大きく報道されたこともありました。
2019.12.27
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クロニクル インド洋大津波2004(平成16)年12月26日15年前のことです。丁度私が頚椎ヘルニアの大手術を受け、50日を越える長期入院を終え、退院したのが10日前の16日でした。 退院10日後のこの日、インドネシアのスマトラ島沖を震源とする、マグニチュード9.3の大地震が発生。丁度満潮時と重なったことと、震源が近かった割りに、津波のやってくるスピードが遅かったこともあって、震源の東側に当たるスマトラ島やマレーシア、タイ南部などで、特に大きな被害が出ました。また、津波の到着が予想以上に早かった、震源の西側にあたるスリランカ、インド、アフリカ東海岸の国々でも、夫々数百人に及ぶ犠牲者が出ました。2011年3月11日に、東北地方や関東地方の海岸線を襲った、東日本大震災による津波被害の6年3か月前のことでした。
2019.12.26
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クロニクル エジプトとイスラエルの和解へ1977(昭和52)年12月25日42年前の今日、エジプトのサダト大統領は、イスラエルのぺギン首相の招きに応じてエルサレムを訪問、ぺギン首相との会談によって、両国は和平への道を歩み始めました。サダト大統領は、1970年のナセル大統領の急死を受けて、エジプトの2代目大統領に就任。1973年の第4次中東戦争で、イスラエル軍に大打撃を与え、イスラエルの不敗神話を撃ち破って、国民の支持を固めると、その後は一転して、イスラエルとの関係改善に勤めました。その結果が、この日のイスラエル訪問となったのです。この訪問がきっかけとなって、翌年のキャンプ・デービット会談での、両国の歴史的和解を実現して、第三次中東戦争でイスラエルに奪われたシナイ半島の無償返還に成功しました。イスラエルは、エジプトにシナイ半島は返還しましたが、ヨルダン川西岸、ガザ、ゴラン高原は、パレスティナやヨルダン、シリアと抗争を続けており、なお中東全面和平には遠い状態が続いています。
2019.12.25
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クロニクル 消費税法案成立1988(昭和63)年12月24日もう31年前になりますが、この日の参院本会議で、当初税率を3%と定めた消費税導入法案が、25時間のマラソン審議の末、ようやく成立しました。 社会、共産両党は、時間切れを狙って、徹底した牛歩戦術をとって抵抗しましたが、この日未明大型間接税を導入する「消費税」法案は,可決成立しました。 財政再建の旗印の下に、大型間接税導入計画を最初に打ち出したのは、79年の大平内閣でした。付加価値税」構想です。この構想が潰えた後、中曽根内閣が導入を計画した「売上税」もまた、野党や国民各層の激しい反発を受けて、陽の目を見ませんでした。 3度目の正直で、ようやく税率を3%とした消費税が日の目を見たのです。導入は翌89年の4月1日。97年4月には、税率が5%に引き上げられ、14年4月には8%、そしてついに今年(2019年)10月には10%へ引き上げられました。消費税は逆進性が高く、所得の低い家庭での負担が重く、AI化の進展で、一般事務職の仕事がPCに浸食され、サラリーマンやサラリーレディの低所得層への転落が進んでいる状況では、政権がいかに景気刺激策を導入しても、効果は限られ、消費行動は冷え込むでしょうから、景気への悪影響は8%への引き上げ時よりも、大きくなると私は予測しております。
2019.12.24
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クロニクル 石橋内閣成立1956(昭和31)年12月23日63年前のこの日、石橋湛山内閣が成立しました。 石橋氏は、この日の9日前、自由民主党の初代総裁、鳩山一郎氏の辞任を受けて、14日に行われた自由民主党の事実上初めての総裁選において、派閥抗争で優位に立ち、本命視されていた岸信介幹事長(当時)の総裁就任を阻止すべく、投票前日に石井光次郎氏との間で、2,3位連合を作り上げることに成功しました。 この結果、過半数を確保できなかった岸氏に次いで2位となり、思惑通り決選投票に持ち込むことに成功したのです。この結果、決選投票では、見事岸氏を逆転することに成功したのです。こうして誕生した石橋内閣でしたが、翌年早々病に倒れ、首相としての職責が果たせないという理由で、57年2月23日に、在任僅か63日で、総辞職して退任するに至ります。引き際は見事でした。 鳩山首相は、日ソ国交回復を実現することに執念を燃やし、モスクワまで出向いて、交渉をまとめ、日ソ共同宣言という形で、両国の戦争状態を終結し、見事に日ソの国交を回復したのですが、その無理がたたって体調を崩し、同宣言の国会承認を待って、辞意を表明。次期総裁選には、石橋、岸、石井の3氏が立候補し、実弾乱れ飛ぶ、激しくかつ呆れた選挙戦が展開されました。週刊誌には、ニッカ、サントリーの文字が躍ったことを覚えています。
2019.12.23
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クロニクル 民法改正、家制度を解体1947(昭和22)年12月22日72年前のことです。この年5月に施行された日本国憲法(新憲法)の規定にそぐわない個所が多々あった民法の改正が、この日公布されました。 戦前の家族制度は、戸主の権利や家督相続権など、家長中心の制度となっていました。そのため戦前の日本では、女性や子どもの基本的人権は認められていなかったのです。ところが、5月に施行された日本国憲法は、民主主義と基本的人権の尊重を声高に宣言するものでした。このため、憲法に抵触する恐れが強い第4篇親族の章と、第5編相続の章が、全面的に書き改められることになったのです。この日公布された新民法は、個人の権利を中心に、結婚及び離婚の自由と男女両性の平等の確保、財産の均分相続、また相続は財産に限ることなどを規定して、家制度を壊す内容となっていました。しかし、法は替わっても、人の内面まで変えるには、長い時間がかかります。真の意味での、両性の平等の実現には、まだまだ時間がかかりそうです。 そして、時代の変化と共に改正民法そのものにも、現実にそぐわない個所がいくつも指摘され、一部には最高裁の違憲判決すら出されています。
2019.12.22
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クロニクル ドゴール大統領誕生1958(昭和33)年12月21日61年前のことです。この日行なわれたフランスの大統領選挙で、対独レジスタンスの英雄ドゴール元将軍が当選しました。ドゴール大統領は、公約に掲げた泥沼のアルジェリア独立戦争の解決に向けて全力を尽くし、1962年にはアルジェリアの独立を認め、フランス軍の名誉ある撤退を実現して、支持を広げました。その後1968年にパリ5月革命によって、退陣を余儀なくされるまで、10年間にわたってフランス政界の再編に全力を尽しました。 今でも、シャルル・ドゴール空港に、その名を残していますね。
2019.12.21
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クロニクル 年賀郵便始まる1899(明治32)年12月20日 皆さんは、もう今年の年賀状をお書きになりましたか。私は準備だけして、宛名書きは大晦日の深夜から始めます。なぜこんなことを書いたかというと、今日が年賀郵便のシステムが作られて120年目の記念日だからです。 年賀郵便の特別配達の取り扱いを今の郵便局、当時の東京郵便電信局が始めたのが、実は120年前の今日だったのです。ただし、限られた指定局に持ち込む必要がありましたが。全ての郵便局に持ち込むことが出来るようになったのは、日露戦争が終る1905(明治38)年のことでした。ただし、まだポストに投函することは、認められていません。この間、受け付けてもらえる葉書の枚数制限もありました。制限が外され、ポストへの投函もOKとなったのは、さらに2年後の1907(明治40)年のことでした。ちなみに、年賀状の受付が15日に変わったのは、1900年でした。年賀郵便制度が始まった翌年です。ところで、お年玉つきの年賀葉書はいつからだと思います?これ実は戦後なのですね。それまでは官製葉書や私製葉書を使っていたのですが、1949(昭和24)年から年賀葉書が、お年玉付きで発売されるようになったのです。こちらは丁度70歳の古稀というわけですね。私の小学校入学の年でした。
2019.12.20
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クロニクル 結婚退職解雇無効判決1966(昭和41)年12月20日53年前のこの日は、日本における女性の権利獲得史において、特筆される重要な判決が出された記念すべき日です。それなのに今日でも、あまり強調されていないのが残念です。 舞台は東京地裁。結婚を理由に解雇された住友セメントの女性社員が、会社を相手取って「不当解雇につき、解雇無効」と訴えた裁判で、この日東京地裁は、「結婚退職制は、憲法に定める<法の下での両性の平等>に反する規定であり、違憲である」と、踏み込んだ判決を下しました。この判決は、当時の日本の状況を考え合わせると、原告側にとって望みえた最高の判決でした。当時は、好調な日本経済を背景に、人間の基本権を尊重する気風が、広まりつつあった時期に当たっており、翌年誕生した美濃部都知事が、保育所の大幅な拡充を進めるような環境にありました。しかし、表面的には結婚による退職の強制はなくなりましたが、結婚した女性に対する隠然とした嫌がらせなどによって、依願退職に追い込む企業や、結婚退職は無くなっても、出産や育児に対する配慮がないため、妊娠・出産を期に退職を選ばざるをえない立場に追い込まれる女性は多く、女性の労働の権利が広く認められるようになるためには、産前・産後の休暇制度の拡充や、育児休業法の成立と拡充などを待たなければなりませんでした。そして、現在もなお、女性達が後顧の憂いなく働き続けるためには、なお実現すべき課題が、いくつも残っています。そうした点を考え合わせると、この結婚退職違憲判決は、女性の働く権利を拡大するための、第1歩を記した判決として、位置づけられるように思います。 少子化が深刻な問題になっている現代の日本で、少子化による経済の落ち込みを防ぐための方法は、女性の社会進出の推進と、外国人労働力の受け入れ条件の緩和という、2つの方法しかないのですから…
2019.12.19
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クロニクル ペルー大使公邸人質事件発生1996(平成8)年12月17日あれから23年になるのですね。23年前のこの日、ひとあし早く平成天皇の誕生日を祝うパーティが、ペルーの日本大使公邸で開かれておりました。ペルーの名士や日本関係者らが集う中、反政府ゲリラ、トゥパク・アマル革命運動(MRTA)所属の14名のゲリラの襲撃があり、多数の参会者が人質となる事件が発生しました。 人質との交換で拘留中の仲間の釈放が要求されました。体調の悪い方など、1部の人質は解放されましたが、それでもなお72名の方々が、人質生活を余儀なくされたのでした。 日本政府は人質の人命を最優先するとことを、強くペルー政府に要請、アメリカ政府は人質に犠牲が出ることなど厭わず、強硬突入でゲリラを掃討することで、人質を解放することを求めました。 当時のペルーにとって、日米両国は共に重要な援助国であったため、ペルー政府が両国の顔を立てるために打てる手は解決の先送り、時間稼ぎしかないことは、予測される筋書きでした。 少し頭を使えば,この現実は想像出来ることでしたが、当時の日本のメディアは、すぐに解放しうるものという立場からの論調に終始し、事態を冷静に判断する事が出来ずに、情緒的判断を垂れ流す事しかしませんでした。 結局、事件が解決したのは、発生から127日後のことでした。ほとぼりの冷めた頃、ゲリラの油断を見すかしての、強行突入による解放でした。日本人人質には死者はなかったのですが、ペルー人人質1名と突入した特殊部隊の隊員2名、ゲリラ14名と、合わせて17名の死者がでたことは、忘れずにいたいものです。
2019.12.17
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クロニクル 日本橋白木屋で本邦初の高層ビル火災発生1932(昭和7)年12月16日87年前のことです。この日、日本橋の白木屋百貨店で日本で初めての高層ビル火災が発生、日中のことでしたから、大勢の来店客が高層階の窓から飛び降りるなど、大変な惨事になりました。死者14名、重軽傷者130余名と報告されています。 この時期は、まだ夫人の肌着は長襦袢が一般的で、今日のような肌着は着用されておらず、そのため婦人客の多くが飛び降りるのをためらったために、被害は余計に婦人層に集中したことが指摘されています。その結果、この事故の副産物として、以後婦人下着(特にズロース)が急速に普及するようになったと指摘されています。4年前にこう書いたのですが、その後の調べで、ズロースの普及は、白木屋火災から、数年後であることがわかりました。実際に飛び降りて助かった女性もかなりの数に上ったことも事実です。ただ、死者や負傷者の多くが女性であったことも事実です。女性客や女店員の間で判断が分かれたということなのでしょうね。 ところで、白木屋は戦後,昭和30年代に乗っ取り屋の横井英樹氏の株買占めにあい、やがて、東急の傘下に入り、東急日本橋店と名を変えましたが、バブル崩壊後の不況期に売上げ不振から、1999年に白木屋から数えて336年の歴史に幕を閉じ、閉鎖されました。跡地は現在賃貸オフィスと商業テナントとの複合ビルになっています。
2019.12.16
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クロニクル 公害健康被害救済措置法公布1969(昭和44)年12月15日50年前のこの日、ようやく、公害病に苦しむ人々の医療費負担を軽減する措置を取れるようにするための法的措置が、公布されました。 実際には、翌70年に、四日市市が独自の医療費補助を決定し、それがやがて、広く国や他の地方自治体に波及してことになりました。50~60年代に明らかにされた公害病には、水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市喘息などが代表的ですが、60年代の反公害闘争をうけ、70年代には被害者救済が少しづつですが、前進してゆくことになりました。 なんとも歯がゆいですが…。
2019.12.15
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クロニクル アムンゼン隊南極点到達1911(明治44)年12月14日108年前ですね。南半球では、12月は夏に当たります。その夏場に当たるこの日、ノルウェーのアムンゼン隊は、犬ぞりに乗って、南極点に到達、ノルウェー国旗を打ち立てて、引き上げました。イギリスのスコット隊は、アムンゼン隊に1ヶ月少々遅れて、翌1912年の1月18日に南極点に到達しています。犬ぞりを使わず、馬ぞりや雪上車を使うといった軽装備だったことが、遅れの原因だったようです。それにしても 、現在のような装備のない時代です。よくぞまぁと冒険野郎たちの挑戦に、感心しきりです。
2019.12.14
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クロニクル 『兼高かおる世界の旅』放映開始1959(昭和34)年12月13日 『兼高かおる世界の旅』という番組、覚えておられる方も多いと思います、日曜日の朝9時からの30分間番組として、TBS系列で全国放送された長寿番組です。まだテレビが白黒放送でしたが、普及率が上がってきた60年前の今日が第1回の放送でした。それから30年10ヵ月に渡る超長寿番組(最終放送は1990年9月30日でした)の誕生でした。 番組ではジャーナリストの兼高かおるさんが、プロデュースからリポーター役、さらにはナレーション役まで兼ね、時にはカメラを回すことまで担当していました。全放送回数は1586回、歩き回り飛び回った総延長距離は721万キロメートルに達したそうです。 海外旅行が高嶺の花だった時代に、休日である日曜の朝に、庶民にささやかな夢を提供するのが、当初の役割であり、見られ方でした。それが次第に、世界にはこんな所や町があるんだ。いつか行ってみるかといった見られ方に変わっていったからこそ、30年を超える長寿番組になったのでしょう。 放映開始から20年余にわたり、パン・アメリカン航空(PAA)が協賛会社だったのですが、80年代に入って同社の経営が傾きはじめたため、協賛会社はスカンジナビア航空(SAS)に変わりました。また、番組のテーマ曲には、最初の頃は映画『80日間世界一周』のテーマが使われていました。カラー放送開始後も、しばらくは白黒での放送が続きましたが、1967年4月2日放送分から、カラー放送となりました。その後の兼高さん、日本旅行作家協会の2代目会長を務め(2011年から名誉会長)ていらっしゃいましたが、今年の1月5日、心不全のため90歳でお亡くなりになりました。テレビ出演は、2012年7月、フジテレビが全国放送した「兼高かおる 沖縄の離島を巡る」という3回シリーズの番組への出演が最後だったでしょうか。
2019.12.13
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クロニクル 日債銀の一時国有化決定1998(平成10)年12月12日21年前のこの日、小渕内閣は、日本債券信用銀行を債務超過と認定し、「金融再生法」に基づき一時国有化することを決定しました。 当時、日債銀の窪田会長は大蔵OBで、国税庁長官を経て天下った人物でした。大蔵省は、日銀をも巻き込んで、前年3月に「大手20行は潰さない」と宣言し、日債銀に手を貸して、3000億円もの奉加帳増資を実現させていました。それだけに、もし財政と金融の分離が実現せず、金融監督庁がなお、大蔵省の一部局に留まっていたとしたら、日債銀の処理は、なお迷走を続けたでしょう。ですから、ここに記したような大胆な処理が実行できたのは、財政と金融の分離が実現したことの成果だったといえましょう。しかし、最近の金融庁は元気がないですね。一時に比べれば日本の金融界は落ち着いていますが、波乱の芽はいくつか残っているように思えてなりません。
2019.12.12
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クロニクル 三井三池争議始まる1959(昭和34)年12月11日1960(昭和35)年は、戦後日本での最大の反政府闘争だった安保闘争の年として、我々世代には記憶されています。そして安保闘争の影に隠れがちですが、この年はまた、総資本対総労働の対決として、共に財界と労働界が総力をあげて支援した三井三池争議の年でもありました。 三井三池炭坑は、「月が出た出た 月が出たヨイヨイ 三池炭坑の 上に出た…」と炭坑節にまでなった、日本を代表する炭坑の1つでしたし、三井三池労組も1953(昭和28)年の争議では、会社側の指名解雇提案を、無期限ストで葬り去るなど、各地の労組から一目置かれる労組となっていました。しかし、石炭から石油への燃料革命の進展と共に、各地の炭坑経営は厳しさを増し、三井鉱山も抜本的な経営合理化による、会社再建を目指すことになり、三池労組との対決覚悟の再建案をまとめることになりました。こうして、1959年8月末、4580人の人員削減を伴う再建案を発表、12月の2日と3日にかけて、1492人の労働者に退職を勧告し、これに従わない労働者1278人に対し、60年前のこの日指名解雇を通告したのです。 労働者側は、この措置を予測していたので、この日ただちに無期限ストライキに入り、会社への対決姿勢を鮮明にしました。しかし、経営難に苦しむ会社側の経営再建にかける意志は固く、三池鉱山のロックアウトと組合員の坑内立ち入り禁止措置をとってストライキに対抗しました。 両者の激しい睨み合いの中で、年を越した争議は長期化し、総評からのカンパ以外に収入の道のなくなった組合員の生活は、次第に苦しさを増していきました。その結果は、お決まりの組合の分裂です。 強攻策一辺倒で出口に見えない執行部の方針に対し、ストライキの継続に疑問を感じた組合員(全組合員のおよそ半数)は、3月17日に第2組合を結成し、ストライキを離脱します。その後は、分裂した組合員間の内輪もめも起きるなど、争議は泥沼の様相を呈して、組合の敗北に終ります。 安保闘争の敗北(6月19日の自然承認)から5ヶ月後の11月11日、三井三池労組は無期限ストを解除、闘争の敗北を認めて、終結を宣言したのです。 外部から闘争を支援するためにこの地にやってきた人たちの多くは、闘争の敗北が近付くに連れて、次々とこの地を去っていったのですが、谷川雁、森崎和枝御夫妻のみは、深い傷を残した三池労組の組合員との連帯の意識から、長くこの地に留まって、やがてこの地を訪れたサルトルとボーヴォワール女史の2人に、日本訪問で最も感銘を受けた出合いであったと、語らしめています。 三井三池争議の敗北と、この時期に加速する高度経済成長のうねりの中で、日本の労働運動は、労使対決型の運動から労使協調型の運動に変わっていきます。そしてまた、この運動に対する反省の中から、左翼政党の中で構造改革論が登場し、次第に勢いを増していくことになりました。 しかし、今の労組は元気がなさすぎますね。若い人を引き付ける魅力ある発信ができると良いのですが…
2019.12.11
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クロニクル 壺井栄『二十四の瞳』出版1952(昭和27)年12月10日 『二十四の瞳』、原作よりも、木下恵介監督、高峰秀子主演の映画の方ですっかり有名になりましたね。原作では瀬戸内海の島としか記されていない舞台も、誰もが小豆島だと信じているくらいですから…。 その壺井栄さんの小説、『二十四の瞳』が出版され、販売が開始されたのが、67年前の今日でした。小学校4年の私が、家族と共に疎開先の桐生から東京北区に戻ったのが、この年の10月27日のことでしたから、同じ年だったのですね。 映画化されたのは、その2年後、1954(昭和29)年のことでした。私が小豆島の岬の分教場を訪れ、子ども達が大石先生を訪ねて、ぐるりと岬めぐりの道を歩いていき、船で送ってもらったのは、あの方向かと、昔の映画を思い出しながら、感慨に耽ったのは、30代半ばの8月のお盆前でした。 波静かなきれいに澄んだ海も、印象的でした。 吉祥天さまのお話では、岬の分教場、現在もしっかり残されているそうです。またいつか行ってみたいですね。
2019.12.10
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クロニクル 「のぞみ」の火星周回軌道投入を断念2003(平成15)年12月9日16年前の今日のことです。この日、宇宙科学研究所(現在の宇宙航空研究開発機構<JAXA>の前身)のプロジェクトチームは、日本の火星探査機「のぞみ」の火星周回軌道投入を断念しました。火星軌道に乗せるための逆噴射がうまく行かなかったのです。プロジェクトチームは、「のぞみ」が火星に衝突することを避けるために、最後の賭けとして、「のぞみ」に弱い噴射を行うコマンドを送信、これには成功して、「のぞみ」は宇宙を漂流することとなりました。 火星の探査には失敗しましたが、飛行中の通信で獲得できた成果も多く、失敗から学ぶこともまた多々ありました。それから7年後に、金星探査機「あかつき」の金星軌道への投入も、失敗に終りました。しかし日本の研究チームはあきらめることなく、失敗の原因を検証しつつ、たゆまぬ努力を続け、つい先日再度金星に近づいてきた「あかつき」に信号を送り、今度は見事金星軌道に乗せることに成功しました。嬉しいニュースでした。こういう研究開発は、学問の進化と共に産業の高度化にも大いにプラスになります。目先の短期的な成果を求めるのではなく、将来への投資として、支援し続ける体制を築いてほしいものですね。現在の政治家は、将来の日本と世界のあるべき姿を語る、構想力に欠け、哲学的思考が一様に苦手で、全てを目前の損得で決めてしまうために、将来に大きな禍根を残す愚を犯していますね。困ったことですが…
2019.12.09
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クロニクル バサブアの日本軍全滅1942(昭和17)年12月8日77年前のこの日は、ハワイの真珠湾を日本軍が攻撃した、ちょうど1年後でした。この年10月生まれの私は、生後50日くらいだったことになります。この日、ニューギニアのバサブアに布陣していた日本軍が、米軍の攻撃で全滅しました。真珠湾攻撃は、米軍の太平洋艦隊を殲滅することで、米軍の太平洋への展開を1年半から2年、阻止できるだろうという見込みで行われましたが、この見込みは見事にはずれ、この年6月のミッドウェー海戦に敗れて、その時点で制海権を失い、8月には、米軍のガダルカナル上陸を許し、悲惨なジャングル戦を挑んで、多くの犠牲を出していました。 真珠湾攻撃の戦果に対する甘い期待は、既にこの時点で、見事に剥げ落ちていたのです。しかし、軍部と政府はこの事態の全てを国民に隠し、この年大晦日にようやく決断した、ガダルカナル島撤退の決定も、国民には転進として嘘の情報が伝えられたのです。
2019.12.08
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クロニクル 吉田内閣総辞職1954(昭和29)年12月7日65年前のことです。この日、長期政権を誇った吉田茂内閣が総辞職しました。3日後の10日には鳩山一郎内閣が成立し、長かった吉田時代が終了しました。 吉田内閣は第一次では、1946年5月22日から翌47年5月20日までの短い期間でしたが、片山哲、芦田均の両内閣を経て、48年10月19日に第二次内閣を組み上げ、以後は、この日54年の12月7日まで、6年と50日間政権を維持してきました。 第一次内閣の約1年を加えると、7年を超える長期政権でした。
2019.12.07
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クロニクル 大学令公布1918(大正7)年12月6日 101年前のこの日、政府は大学令を公布しました。大学令は、寺内内閣が高等教育の拡充について臨時教育会議に諮問、6月22日に答申を受けて原案を作成、審議中に内閣は交替したのですが、その後も審議を続け、11月27日に枢密院で可決され、この日、公布に至ったのです。 大学令によって、従来の官立大学の外に、公立・私立の大学設立が可能となりました。その結果、慶應義塾・早稲田・同志社などが、晴れて私立大学となり、帝国大学の各単科大学は学部と改称されました。綜合大学には大学院の設置も認可されました。また東京商業高等学校は東京商科大学(現一橋大学)となり、東京工業学校は、東京工業大学となるなど、官立専門学校の多くが、官立大学に昇格しました。1918年は第1次世界大戦終了の年、大戦景気に沸く世相の中で、進学意欲が著しく高まりを見せていた時期でした。この世相に応え、大学の拡張に踏みきり、高度の知識や技術の修得によって、欧米との経済・技術格差を一挙に縮めようとしたのでした。今日の技術立国日本の原点は、この辺にありそうですね。
2019.12.06
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クロニクル 関東地方で12月に史上初の夏日を記録2004(平成16)年12月5日 最近温暖化のペースが上がっているように感じますが、今年は寒い冬になるのでしょうか?去年も全国的に気温が高く、観測史上最高気温を記録した地点も多かったようですが、こと関東地方に関しては、15年前の2004年に及ばなかったようです。15年前の今日、季節はずれの温帯低気圧の接近で、関東地方は軒並み25℃を越える、夏日を記録しています。 実は、私にはこの日の記憶がありません。私が始めて入院生活を体験したのが、15年前のこの時期なのです。頚椎ヘルニアで、左腕を動かす神経がやられ、左腕が全く動かなくなり、この年10月25日に関東労災病院に入院しました。左腕の神経がまだ生きていることを確認しないと手術出来ないことから、投薬と懸垂の療法を続けて、11月15日に手術、術後1ヶ月を病院で暮らし、退院したのが12月の16日だったのです。 空調の効いた快適な館内で、整形外科病棟はまるでサロンのようなにこやかな空間でしたし、食事制限がない方がほとんどでしたから、御見舞い品のお菓子や果物を相互に融通しあいながら、各部屋巡回でコーヒーブレークを催すなど、大変快適な入院生活を送っておりました。そんな時期だったのですね。そういえば、あの冬は、退院後も寒い日の少ない、温かで穏やかな冬でした
2019.12.05
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クロニクル 平安京に遷都794(延暦13年11月8日)年12月4日早いもので平城京遷都1300年祭の催しが行なわれてから9年が経ちました。それから僅かに84年後には、北の平安京に都は移り、北の京都に対して、南都と呼ばれるようになりました。この南都と引っ掛けて、710年を覚えるために、小中学生は「なんときれいな平城京」と、そして平安京遷都の794年は、「鳴くよ鶯平安京」と、暗誦するようですね。そうなんです。1225年前の今日、桓武天皇の発意となる平安京への遷都が行われたのです。この平安時代、晩年は乱れますが、日本史上、徳川時代以上に長く続いた平和な時代だったこと、この時代に世界では他に例がないのですが、死刑制度が存在しなかったこと(それだけ、平和で安定していたのですね)の2点で、世界に誇れる時代でした。 安倍総理、歴史に学ぶのでしたら、どうぞ日本が、時に戦乱の時代を孕みながらも、平安の昔から世界に冠たる平和国家であったことを、しっかり学んでください。
2019.12.04
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クロニクル 印・パ,カシミール紛争爆発1971(昭和46)年12月3日48年前のこの日、1947年の独立以来、懸案になっていたインドとパキスタンの国境問題が、遂に両国間の全面的な戦争として、爆発しました。インドとパキスタンは、18世紀後半からイギリスの植民地とされ、とりわけ、19世紀半ばの「第一次インド独立戦争(別名インド大反乱)」以降は、イギリス領インドとして、国家主権の全てを奪われていましたが、第2次大戦後にようやく独立を達成した国です。 独立の過程で、イスラム教徒の多い地域が東西パキスタン(このうち、ベンガル地方の東パキスタンは、バングラデシュとして、さらに分離独立します)として、ヒンドゥー教徒の多い地域がインドとして、2国に分離されたのですが、カシミール地方の一部の帰属が、懸案として残されたままだったのです。 両国はカシミールを巡って、対立を続け、時に小競り合いが起きたりしていたのですが、この日遂に両国の全面戦争が勃発したのです。 戦いは丁度2週間行なわれましたが、米ソ両国が協調した結果、安保理が仲裁役を果たすことが可能となり、紛争地域を非武装地帯として、国連軍が駐屯する形で、一応の妥協が成立し、17日に停戦合意が成立しました。カシミール紛争は、未だに収束せず、両国は共に核兵器で武装するに至り、現在もなおにらみ合いを続けています。
2019.12.03
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クロニクル マルタ会談1989(平成元)年12月2日30年前のこの日、ゴルバチョフソ連共産党書記長とブッシュ(父)アメリカ大統領の会談が、地中海のマルタ島沖のソ連のクルーズ客船、マキシム・ゴーリキー号内で行われました。2人の会談は、ブッシュ氏の就任後はじめてでした。会談が実現した背景には、この年春から東欧各地(ポーランド、チェコ・スロバキア、ハンガリー、東ドイツなど)で進行した東欧革命の現実があり、特にベルリンの壁崩壊という衝撃的な事実を受けてのものでした。会談は翌日も続きましたが、終了後2人は共同で記者会見を開き、冷戦の終結と、米ソ新時代の到来をたからかに宣言しました。 ゴルバチョフは、「 世界は一つの時代を克服し、新たな時代へ向かっている。我々は長く、平和に満ちた時代を歩き始めた。武力の脅威、不信、心理的・イデオロギー的な闘争は、もはや過去のものになった 私はアメリカ合衆国大統領に対して、アメリカ合衆国と戦端を開くことはもはやないと保証する。」と語り、 ブッシュ(父)は「 我々は永続的な平和と、東西関係が持続的な共同関係になることを実現することが出来る。これはマルタで、ゴルバチョフ議長と私がまさに始めようとする未来の姿だ。」と語っています。
2019.12.02
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クロニクル 椎名裁定下る1974(昭和49)年12月1日ちょうど45年前になります。田中金脈問題に揺れた田中角栄首相は、この年11月26日に辞意を表明、同日以降自民党では後継総裁選びが本格化しました。しかし、世論の金脈批判が盛り上がりをみせている時期に、実弾飛び交う総裁公選を実施すべきではないとの判断が多数を占め、総裁候補である派閥の領袖達は、一致して椎名悦三郎副総裁に新総裁の指名権を委ねたのです。 本命は2年前の公選で敗れた福田赳夫氏、対抗馬が大平正芳氏とされる中、この日、椎名副総裁は「天に祈る気持で、三木武夫君を新総裁に指名する」との、有名な椎名裁定を発表したのです。 椎名裁定は、マスコミ注視の中、総裁候補たちが一致して裁定に従う旨を宣言していた中での発表でしたから、発表を受けての本命と目された候補たちの苦虫をかみつぶしたような、三木新総裁への祝福の弁。とっても聞きどころに満ちていました。この裁定を受け、挙党一致の三木内閣が発足したのは、12月9日のことでした。
2019.12.01
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