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所用が重なり、数日ブログを休載します。来月早めに再開できるよう、努力します。
2019.05.27
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クロニクル 東名高速全通1969(昭和44)年5月26日丁度半世紀になります。東名高速道路、全長346,7kmが、50年前のこの日全面開通しました。 名神高速は既に全通しており、ここに東京から神戸までが高速道路で結ばれました。東海道新幹線の開業が1964(昭和39)年10月でしたから、新幹線に遅れる事4年と約8ヶ月にして、高速道路があとを追ったことになります。 当時、日本のモータリゼーションは、猛スピードで整備されつつありましたが、なお外車との差は大きく、石油ショックで小型低燃費の日本車が海外でもてはやされる日が来るとは、誰も夢想すらしなかった日々の中での出来事でした。
2019.05.26
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クロニクル プロ野球八百長疑惑 1970(昭和45)年5月25日49年前のこの日、野球賭博に絡んで摘発を受けた、プロ野球八百長疑惑に絡んで、西鉄ライオンズ(当時)の池永正明投手等3選手が、プロ野球界から永久追放されることになりました。プロ野球実行委員会の決定に基づき、セ・パ両リーグ会長立合いの下で、コミッショナーから発表されました。ただ、はっきり八百長を認めた3選手と、種々取り沙汰されながら、確たる証拠が出なかったために、処分を受けなかった他球団を含む選手たちに対する処置に比べると、処分に不公平感が付きまとうことは否めず、スッキリしない要素が残る決着となったことは否定できませんでした。 この不公平感の残る処分に対する救済策が、何度か話題にのぼったのですが、36年後の2007年になって、ようやく3選手の名誉回復が測られ、その後はプロ野球の行事等への参加が許されることになりました。
2019.05.25
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クロニクル 日本初のゴルフ場開業1903(明治36)年5月24日116年前のこの日、日本初のゴルフ場、神戸ゴルフ倶楽部が開業しました。倶楽部を建設したのは、イギリス人貿易商A.H.グルームでした。神戸市の六甲山上に造られた日本最古の名門ゴルフ場です。 倶楽部は、海抜850mにあり、11月中旬から4月中旬は雪のためクローズとなります。開場当時、六甲山には外国人の別荘が建ち並んでいました。彼らのレジャーと社交の場としての利用が造成の目的でした。開場当初は4ホールでしたが、その後造成が進み18ホールになりました。ただしパーは61なのだそうです。
2019.05.24
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クロニクル 日本で最初のキスシーン登場1946(昭和21)年5月23日73年前のことです。8/15からまだ1年も経たない時でしたが、戦争中抑圧されていた歌謡界、演劇界、映画界、そして学界や文壇などは、解き放たれた自由の息吹に、百花繚乱の賑わいを見せ始めていました。 「赤いリンゴに唇寄せて…」と並木路子さんの『リンゴの歌』が、街頭に向けたラジオから明るい歌声を響かせ始めた頃でしょうか。この日、佐々木康監督作品『はたちの青春』が封切られました。そうなんです。この作品で大阪志郎さんと幾野道子さんのお2人によって、日本映画で初めてのキスシーンが銀幕に登場したのです。時間にして僅か5秒ほど、現在から見れば、頬をよせてそうみせかけているだけのようにも見える微妙なシーンだったそうですが、当時としてはちょっとしたセンセーショナルを呼び、各地の上映館は大入り満員の盛況となったそうです。上映した映画会社の思惑は、大当たりだったと言えましょう。ところが、あまりの反響に驚いたからなのでしょうか。GHQは、この映画の封切り後、映画でのキスシーンを禁止する旨の通達を出します。そのため、日本映画2作目のキスシーンは、今井正監督の『また会う日まで』(1950年封切り)で、岡田英次さんと久我美子さんが演じた、ガラス越しのキスシーンまでお預けになりました。
2019.05.23
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クロニクル 東京ゴミ戦争勃発1973(昭和48)年5月22日46年前のことになります。区内にゴミの最終処分場、夢の島を持つ江東区が、高井戸地区への清掃工場建設に反対して、建設計画の実行を妨害している杉並区を、地域エゴと断定して、杉並区からのごみの搬入を拒否してピケを張り、杉並区のゴミ収集車の処分場への入場を阻止して、実力で追い返す事件が起きました。その第1日目が今日だったのです。「東京ゴミ戦争」とは、当時の美濃部知事の名言でした。基地問題でも、地域エゴは問題になりますね。沖縄県民と共に、「日本に米軍の基地は要らない」とか、少なくとも「大きく減らせ」という運動は、一緒にやる必要がありそうですね。まずは、辺野古への基地建設並びに移転反対の運動、沖縄の皆さんは、問答無用で建設作業を強行し続ける政府に対する抗議の姿勢を、粘り強く続けていらっしゃいます。問われているのは、私たちなのではないでしょうか。
2019.05.22
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クロニクル 裁判員制度スタート2009(平成21)年5月21日10年前の今日、裁判員制度がスタートしました。この日以降に発生した事件が裁判員裁判の対象とされたのです。こうして準備を整え、8月3日に初めて裁判員を加えた裁判が実施されました。 皆さんには、まだ裁判員のご指名は届きませんか。届いていたとしても、守秘義務とやらで、「実は…」と語れないため、気づいた日本の裁判制度の問題点など、語れないもどかしさを経験者の皆様は、抱えていらっしゃるそうですね。判例に縛られるプロの裁判官よりも、民間人である裁判員は、現状に合った柔軟な判断が可能ですから、大きな役割を担っていると、私は期待しています。残念ながら年齢制限で、私には裁判員を務めるチャンスが巡ってくることはないのですが…
2019.05.21
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クロニクル 成田空港開港1978(昭和53)年5月20日41年前のこの日、午前10時半から、新東京国際空港(成田空港)の開港式が厳戒体制の中でひっそりと行われました。 建設決定から12年を経ての難産の開港でした。しかも横風用滑走路も第2滑走路もない、日本の顔としてのハブ空港を目指しての開港としては、極めて中途半端な出発でした。 当日、空港周辺では、三里塚・芝山新東京国際空港反対期成同盟が動員した約6300余名が、空港反対を叫んで、集会を開いていました。過激派による実力行使も続き、成田空港の情報ケーブルが切断されたりとか、羽田空港の管制機能が麻痺に陥るなど、反対派との攻めぎ合いが続く中で、この日辛うじて新空港としてのスタートをきりました。
2019.05.20
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クロニクル 雲仙普賢岳の火砕流1991(平成3)年5月19日あれから28年になるのですね。数日前から、噴煙を上げ続けていた長崎県の雲仙普賢岳で、この日大火砕流が発生。報道関係者やカメラマン、火山学者らを含む死者及び行方不明者43名を出す大惨事となりました。 地元住民には数日前から避難勧告が出されていましたので、犠牲者の大半は地元の消防団等警戒にあたっていた人々と、報道関係者や火山関係者といった人々でした。 火砕流が非常な高温だったため、火砕流の本流に飲み込まれた人々は、骨までも溶かされてしまったらしく、行方不明で、遺体さえ見つけられなかったケースが大半という、痛ましい災害となりました。この後も、普賢岳の活発な火山活動が続き、9月15日には、最大規模の火砕流が発生し、家屋170棟以上が焼失しました。 5年前には、木曽の御嶽山の噴火で死者57人、行方不明6人という大きな被害がでました。8年前の東日本大震災以降、火山活動も地震活動も共に活発化しているように感じられます。こわいですね。
2019.05.19
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クロニクル インド核実験を実施1974(昭和49)年5月18日45年前のこの日、インドが地下核実験を実施し、世界に衝撃を与えました。インドは平和主義を国是とし、米ソの冷戦に際しても、どちらにも組せず、平和の調停者の姿勢を崩さないことが日本人の共感を呼び、特に日本人に親しみをもたれていた国でした。それだけに、そのインドが核実験を実施したという事実に対して、日本人は大きなショックを受けたのです。しかし、インドは中国との間に国境紛争を抱えており、中国の軍備状況とりわけ度重なる核実験に脅威を感じていたことも事実でした。こうしてインドは中国の脅威に対抗する手段として、核実験を通じての、核兵器の製造と保有に踏み切ったのです。 このインドの核武装は、インドとの間にカシm-ルという国境未画定地域を持ち、領土紛争を抱えているパキスタンを刺激し、パキスタンもまたインドに次ぐ核武装国になる道を選択するに至るのです。まさに核の連鎖でした。
2019.05.18
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クロニクル サリドマイド系医薬品出荷停止に1962(昭和37)年5月17日57年前の出来事です、この日、サリドマイド系催眠剤「イソミン」の発売元、大日本製薬は、自主的に出荷を停止し、発売を中止しました。これはあくまで製薬会社の自主判断として行なわれ、当時の厚生省は自らイニシアチブを取る事を避け続けました。これは奇怪なことでした。 「イソミン」は、副作用が少ない催眠剤という触れ込みで売り出された、サリドマイド系医薬品でした。西ドイツで売り出された「コンテルガン」と同じ種類の薬でした。この「コンテルガン」について、前年1961年の11月に、ハンブルグ大学のレンツ博士が、妊娠初期に服用すると、副作用から奇形児を出産する可能性が高いと警告を発したのです。この発表を受けて、西ドイツなどでは、ただちに同剤の販売を中止し、製品全てを回収する措置が取られました。ところが日本では製薬会社が奇形との因果関係を否定すると、厚生省は具体的な措置を取らず、この日まで、いたずらに販売が続けられていたのです。それだけではありません。厚生行政は、あからさまに企業の都合ばかりを慮り,国民の健康には注意を払っていなかったのです。厚生省はレンツ警告を受けても、何ら有効な対策を取ろうとしなかったばかりか、この年2月には、他の製薬会社のサリドマイド系新薬にまで、製造許可を与えていたのです。 後、薬害エイズや薬害肝炎で行なわれていたのと、全く同じ厚生行政の悪質な作為がそこにありました。未必の故意どころではない、確信犯的な行動でした。この遅れで、厚生省発表によれば、309人のサリドマイド被害児が誕生したとされていますが、サリドマイドの副作用によると思われる死産児(3000名とも、4000名とも言われています)数を加えると、国民の受けた被害は、10倍に拡大するのです。
2019.05.17
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クロニクル 女性登山隊エベレスト初登頂1975(昭和50)年5月16日44年前の今日、日本の女性登山家田部井淳子さんら、女性登山家のグループが、エベレスト初登頂に成功しました。田部井さんは、昭和女子大を卒業後、社会人山岳会に入会。1969年に「女子だけで海外遠征を」を合言葉に女子登攀(とうはん)クラブを設立して、登山活動を続け、この年エベレスト日本女子登山隊の副隊長兼登攀隊長として世界最高峰のエベレストに挑戦、見事に登頂に成功したのです。なお、登頂は彼女1人だけでした。それから今日まで、25人の女性登山家が、エベレスト登攀に成功しています。そのうちお2人は、登攀後の天候急変に巻き込まれ、不運にもベースキャンプに戻れず、現地で亡くなられています。
2019.05.16
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クロニクル マクドナルド事始 1940(昭和15)年5月15日79年前の今日のことです。アメリカ合衆国カリフォルニア州南部のサンバーナーディーノで、マクドナルドの1号店が、ひっそりと開店しました。ただし、マクドナルドの快進撃が始まるのは、戦後の1948年頃からのことになります。そのマクドナルドも、ファーストフードの多様化と、健康志向の高まりに対応しきれず、大きくシャアを落としましたが、ここへきていくらか持ち直してきているようですが、様々なファーストフード店が乱立、競争も激しいだけに、新たなビジネスモデルを構築が出来るのかどうか、ここからが勝負の時のように思えます。
2019.05.15
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クロニクル 大鵬引退1971(昭和46)年5月14日48年前のことです。前日13日(木)、夏場所5日目に、新鋭の初代貴ノ花との1戦に敗れた大鵬は、翌日にあたるこの日、体力の限界を感じたと、日本相撲協会に引退届を提出、引退しました。大鵬関は1960(昭和35)年の初場所に新入幕すると、いきなり初日から11連勝を飾り、この場所12勝3敗の好成績を上げ、番付の上がった翌場所こそ7勝8敗と負け越しましたが、翌場所は11勝4敗と活躍、名古屋場所と秋場所を共に11勝4敗と大活躍、11月の九州場所は12勝3敗と活躍、場所後に大関に推挙され、新入幕からわずか6場所で、翌年初場所では大関として土俵に上がることになりました。この年は、新入幕でありながら、年間最多勝も獲得しています。新大関の場所でいきなり優勝すると、7月の名古屋場所と9月の秋場所を連覇、ライバル柏戸と共に、横綱に推挙され、優勝回数32回を数える大横綱となりました。その間、2度の6連覇を達成するなど、入幕後の負け越しは、入幕2場所目の7勝8敗が唯一で、出場して、15日間相撲うをとった場所は、すべて10勝以上を挙げていました。もう一点、小兵の大横綱で、精悍な顔つきからウルフとあだ名された千代の富士も、20年後の1991(平成3)年のこの日に、引退を表明しています。千代の富士の優勝回数は31回。夏場所初日の12日に、新鋭の貴花田(後、2代目貴乃花)と対戦、敗れたことが引き金になり、2日目は勝利したものの、3日目の貴闘力戦に敗れ、敗れた14日の夜、引退を発表したのです。2人の大横綱が同じ日に引退を表明しているのですね。
2019.05.14
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クロニクル F1グランプリ始まる1950(昭和25)年5月13日69年前になります。この日イギリスのシルバーストン・サーキットにて、F1世界選手権第1戦が開催されました。これが日本でも人気となったF1サーキットの開幕戦でした。 日本では、鈴鹿サーキット場が有名になりましたが、1987(昭和62)年からフジテレビがF1の全戦を放映するようになり、一時はかなりの視聴率を集めました。しかし、やがてブームはさり、昨今は視聴率確保が難しくなってきているようですね。ホンダの創業者、本田宗一郎氏が情熱を傾けていましたが、そういう時代も過ぎました。今はスピードよりも、環境への負荷をどう減らすかに、経営者や技術者たちの関心が向かっているように思えます。
2019.05.13
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クロニクル 5人の長州藩士イギリスへ密出国1863(文久3)年5月12日 文久3年というのは、森鴎外の誕生の1年後のことです。この日の2日前、長州藩は下関で米国船を砲撃するなど、一方で攘夷を実行していたのですが、もう一方で海軍の建設や洋式工業の研究のため、密かに英国へ留学生を送る計画も進めていたのです。そして156年前のこの日、伊藤俊輔(博文)・井上聞多(馨)等5人が、横浜港で ジャーディン・マジソン商会の持ち船に乗り込み、英国へ向け密出国しました。 渡航費用は1人1000両、合計5000両が同商会に支払われました。ロンドン着は9月23日でしたから、4ヶ月と11日の長旅でした。 彼等はロンドンで英語を学びつつ見聞を広め、攘夷の愚かさを覚りました。しかし1864年に入って、下関の砲撃事件に鑑み、列強が事件の報復のために、4国連合艦隊による砲撃を計画していることを知り、伊藤・井上の2人は、急遽帰国を決意、6月10日に横浜に帰着しました。この5人組、伊藤博文は千円札にもなりましたし、どなたも御存知の人物です。井上馨は初代外務大臣として欧化政策を推進、条約改正に尽力しましたが、志なかばに倒れました。イギリスに残った3人はどうだったでしょうか。その1人 遠藤勤助は、造幣事業に一生を捧げ、お雇い外国人から独立した、日本人自身の手による貨幣鋳造に成功して、造幣事業の父と讃えられました。2人目の山尾庸三は、グラスゴーで造船技術を学び、明治4年に工学寮(後の東京大学工学部の前身です)を創立、日本の造船業の生みの親となりました。3人目の野村弥吉(後、井上勝)は、新橋~横浜間の日本最初の鉄道敷設を指揮し、その後も全国の鉄道建設事業に辣腕を振るった鉄道の父です。晩年小岩井農場を創設したことでも知られます。イギリスに残った3人も、近代日本の礎を築く上で、必要欠くべからざる事業を担当して、大きな成果を上げているのです。。こうしてみると、長州藩がジャーディン・マジソン商会に支払った5千両、決して高かったとはいえないようですね。幕末日本の歴史秘話でした。
2019.05.12
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クロニクル 小沢一郎、民主党代表を辞任2009(平成21)年5月11日10年前のことです。この日小沢一郎民主党代表が、公設秘書の逮捕を受けて、民主党代表の座を辞任しました。後任には、鳩山由紀夫幹事長が、就任。8月30日の衆院選に勝利して、民主党内閣を作りました。しかし、鳩山首相には、政治的センスがなかったですね。
2019.05.11
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クロニクル 怪人21面相の脅迫状登場1984(昭和59)年5月10日ちょうど35年前になります。この日、怪人21面相と名乗った人物からの脅迫状が、一斉に報道機関に送りつけられ、大騒ぎとなりました。グリコ社長の誘拐に始まった世に聞こえた未解決事件、グリコ・森永事件は、この日から本格化しました。 脅迫状は「グリコ製品に毒物を混入した」という内容でした。報道を見て、消費者はグリコ製品をかわなくなり、スーパーなどは棚からグリコ製品を撤去する騒ぎとなりました。この騒ぎは、6月に犯人側の「グリコ許したる」の声明で、突然終止符を打ちましたが、9月に森永製菓へターゲットを替えて、再び表舞台に登場します。10月には、「毒入り危険」と記した紙をつけた菓子が、スーパーの棚に置かれるなど、消費者心理を冷え込ませる、巧みな脅しを展開しました。脅された会社は、他に丸大食品、ハウス食品、不二家と5社にのぼりました。 被害が突出したのが、グリコと森永だったために、グリコ・森永事件と称されます。大手菓子メーカーでは、明治製菓とロッテがターゲットにされなかったですね。 我が家の菩提寺は三田にあります。泉岳寺の近くなので、今では地下鉄で出かけるのですが、当時は田町駅を利用していました。墓参りに出かける度に、本社の近い森永の社員が駅頭でお菓子の詰め合わせを、「1袋千円です」と、声をからして販売に精を出していたこと、良く覚えています。
2019.05.10
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クロニクル 日本登山隊マナスル山頂に立つ1956(昭和31)年5月9日63年前のこの日、日本山岳会のマナスル登山隊(槇 有恒隊長)が、3度目の挑戦で、世界7位の高峰であるヒマラヤのマナスル(8,156メートル)登頂に成功しました。 過去2回はいずれも天候に恵まれず断念していました。日本の登山隊が、世界の8000メートル級の高峰の登頂に成功したのは、これが始めてでした。 当時の通信事情は、現在とは大きく違っていましたから、このビッグニュースも、その日の内に日本に届けられることは不可能でした。それゆえ、当時中学生だった私が、このニュースを最初に知ったのは、翌朝のラジオでした。学校でも専ら、このニュースで持ち切りだったことを、懐かしく思い出します。
2019.05.09
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クロニクル WHO天然痘の根絶を宣言1980(昭和55)年5月8日39年前になります。この日WHO(世界保健機関)は、天然痘の根絶を宣言しました。ここに紀元前の時代から長期に渡って、人類を苦しめてきた強力な感染症である天然痘は、地上から姿を消しました。 天然痘は、致死率40%を超える恐ろしい感染症です。天然痘に関する記録は、紀元前1350年頃から存在しますが、天然痘による死亡が確認される最古の例は、紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムゼス5世になります。ラムゼス5世のミイラを調べた所、天然痘の痘痕が認められた事から、王の死が天然痘に依ることが証明されたのです。 天然痘の撲滅には、エドワード・ジェンナーが開発した天然痘ワクチンの果たした役割が大きく、ワクチンの普及によって、天然痘の流行は、急速になりを潜めました。 そして天然痘は、人類に感染する感染症で、人類が撲滅に成功した最初の例であり、現在まで唯一の例であり続けています。現在自然界には、天然痘ウィルスそのものが存在しないとされています。
2019.05.08
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クロニクル ドイツ降伏1945(昭和20)年5月7日74年前の今日、フランスの古都ランスの西側連合軍司令部において、ドイツ軍の全権代表が無条件降伏文書に署名、ここに全ドイツ軍の降伏が決まりました。ドイツ軍の劣勢は、前年夏以降には既に被い難いものとなっていましたが、45年に入ると東部戦線でのソ連軍の奔流のような攻勢が続き、3月にはグダニスクを解放、ハンガリーからオーストリアへと向かって、4月13日にはウィーンを占領と、着々とドイツ包囲の環を縮めつつありました。4月28日には、ヒトラーの盟友ムッソリーニが逃亡中をパルチザンに捕らえられ、北イタリアの寒村ドンゴで銃殺刑に処せられます。こうして、ソ連軍のベルリン包囲が次第に狭められる中、追い詰められたヒトラーは、愛人エヴァ・ブラウンと共に自殺します。4月30日のことでした。2日後、ソ連軍はベルリンを占領。ヒトラー亡き後、首班の座を受け継いだカール・デーニッツ元帥は無条件降伏を決意、彼の命によって、この日の降伏文書への署名となったのでした。しかし、東部戦線で戦うソ連の代表は、この署名に立ち合っていませんでした。対独戦で最大の犠牲を出し、なおかつドイツの首都ベルリンを占領するなど、誰が見ても対独戦の最大の功労者はソ連でした。そのソ連代表を招かず、しかもベルリンのソ連軍司令部を、降伏文書の調印の場としなかったことは、米英軍の大きな失態でした。 米英の姑息なやり方に怒ったソ連は、この日の文書を黙殺して、ドイツ攻撃を続けたため、困ったドイツは再度9日に、ベルリンのソ連軍司令部において、無条件降伏文書に再度署名する事態となりました。 何やら戦後における米ソ対立を暗示するような一齣です。ところで、同じ5月9日、日本政府は[ドイツの降伏に関係なく、日本の戦争遂行の決意は変わらない]との宣言を発表、破滅への道を走り続けました。 大局を見、自ら責任をとる決意を持った政治家と軍人の不在が、日本人の無益な犠牲を大幅に増やした事実は、忘れるわけには行きません。
2019.05.07
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クロニクル 東西ドイツの分離確定へ1949(昭和24)年5月6日 丁度70年前ですね。この日、連合軍(米・英・仏)の支配下にあった西ドイツと呼ばれていた地域に、ドイツ連邦共和国臨時政府が組織、成立しました。これを受けて、10月7日にはソ連軍の支配地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)政府が誕生し、ここにドイツは東西の分断が固定化されることになりました。 第二次世界大戦の末期、連合国はヤルタ会談において、ドイツの戦後処理を取り決め、米英仏とソ連が、夫々の占領地域を決めて、ドイツ軍の武装解除を担当すること、首都ベルリンはこれとは別に4国で管理地域を定めて、管理することになったのです。このベルリンは東ドイツの範囲内にあったため、西ドイツからすると、飛び地にあたるため、その後ベルリン問題が深刻化してゆくことになりました。 ベルリンの壁が築かれたのは1961(昭和36)年、その壁が崩れたのが1989(平成元)年 、丁度30年前のことです。翌年に東西ドイツが再統一され、今日に至りますから、若い方には何のこと???なのでしょうが、我々世代には、南北ヴェトナムの統一、東西ドイツの統一と並んで、3大分断国家の残りの一つ南北朝鮮の統一が待たれてならないのです。何とかわが目の黒いうちに実現してほしいと思っているのですが…
2019.05.06
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クロニクル 小作争議で仮執行(新潟県北蒲原郡木崎村)1926(大正15)年5月5日93年前のことです。新潟県北蒲原郡の木崎村(現豊栄市<とよさかし>)では、1922(大正11)年11月に小作人組合を作って、集団の力で高過ぎる小作料の減額を勝ち取ろうと運動を始め、翌23年には、創設間もない日本農民組合にも加盟し、この年までに一定の成果を上げていたのです。ところでこの年、一部の地主が小作料が未納の小作地の耕作禁止の仮処分を裁判所に申請して反撃に出、農民側は裁判闘争を受けざるをえなくなったのですが、所有権の保護を大前提とする日本の既成社会の中では、地主の権利擁護が当然の如くに自明の理とされ、仮処分があっさりと認められたのです。こうして、この日5月5日に、小作料未納農民の小作地への立ち入りを阻む、仮執行が行われたのでした。小作農達は、なお頑張り、子ども達も学校に行かず(当時は、5月5日はまだ祝日になっていなかったのです)に、親たちの運動に参加、この行動が大きな反響を呼び、全国から応援団も集まり、賀川豊彦、大矢壮一ら知識人の遠来の応援も多かったのですが、物量の差は遺憾ともし難く、2年後未納小作料の全額支払を条件に、調停が成立、農民側にとってほろ苦い体験となったのでした。
2019.05.05
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クロニクル 人は右車は左…1949(昭和24)年5月4日 今ではあたり前になっていますが、「人は右、車は左」の対面交通が法制化され、はじめて実施に移されたのが、70年前の今日のことでした。 因みに「人は右、車は左」の今もお馴染みの標語が出来たのは、翌昭和25年の初め頃で、学校や交番、駅、当時準公共の場所であった銭湯の入口などに張り出され、ラジオでも良く放送されていました。 元来日本では、人も馬も馬車も、皆左側通行が基本でした。それは江戸時代の支配階級であった武士が、街中を歩く時に、左腰に差した刀が、対面する相手にぶつからないようにするために、都合がよかったからです。そこへ、昭和23年にGHQから、次第に増えて来ている車社会の到来に備えて、米国式の対面交通ルールを日本も定めてはどうかという提案が持ち込まれました。その際ずっと左側通行の習慣があり、車も信号も、左側通行に沿って作られていましたので、費用を勘案して、金のかからない人の方を右に移して、「人は右、車は左」の対面通行システムが出来上ったのです。これイギリスとオーストラリアが日本と同じですね。 因みに自転車は車扱いで、歩道では人間優先ですから、自転車に乗られる方はお間違いのないように。夜間の無灯火走行も極めて危険で、人身事故を起こす可能性が非常に高いですし、歩行者からすると、自動車と違って、走行音が全く聞こえない自転車の夜間の無灯火は非常に怖いので、ぜひともおやめになってください。
2019.05.04
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クロニクル 三河島駅で大惨事1962(昭和37)年5月3日このところ、車の事故が多いですね。今日取り上げるのは、当時の国鉄の大事故の話です。57年前のことです。この日、常磐線の三河島(東京都)駅構内で、貨物列車と2本の旅客列車が二重衝突を起こし、死者160人、重軽傷者325人に及ぶ大惨事となりました。二重衝突であったこともあり、犠牲者数は2006年の尼崎事故を上回っています。 時刻は午後9時35分頃、下り貨物列車が線路脇の砂利山に接触して脱線、ここに平行して走っていた下りの取手行き電車が追突、最前部の1輛が脱線して、隣の上り線路に押し出されてしまったのです。ここに三河島駅には止まらずに通過する、上りの上野行き電車が猛スピードで突っ込み、電車を下りて歩いていた乗客を跳ね飛ばして、脱線した下り電車に激突、この電車もまた脱線、先頭車輛は大破して、2~4輌目は数メートル下へ転落したのです。 事故の第1の原因は、貨物列車の信号無視でしたが、惨事を大きくしたのは、第1の事故後に、上り電車の走行を止めることを怠った駅長以下の職員の人為的なミスでした。当時の国鉄の安全対策のお粗末さが露呈した大事故でした。しかし、尼崎事故も同じですが、どんなに下車駅で都合の良い場所であっても、電車の先頭車輛(追突されることを考えると、最後尾車輛も)には、乗らない事が、重要な安全対策になるようですね。
2019.05.03
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クロニクル スペインで半島戦争始まる1808年5月2日 日本では江戸後期、松平定信の寛政の改革と水野忠邦による天保の改革の中間の時期に当たります。今から211年前のことです。1808年2月、ナポレオンはスペインに兵を進め、バルセロナを占領します。さらにスペイン王家の内紛をついて王家を追放、自らの兄ジョゼフを王位につけました。この状況にマドリードの市民が決起し、ナポレオン軍に対する叛乱に立ち上がったのが、今日即ち5月2日でした。ここに反ナポレオンのスペインゲリラの戦い、半島戦争が始まりました。ところで5月2日の叛乱はミュラ将軍に鎮圧され、捕虜となった1500名の市民は、翌日にかけて銃殺されました。ゴヤの名画、「1808年5月3日、プリンシペ・ピオの丘での虐殺」は、この出来事に対するゴヤの静かな怒りが書かせたものとして知られています。マドリードの蜂起は鎮圧されましたが、山岳地帯に逃げ込んでゲリラ化した市民たちは、反ナポレオンの戦いを続け、ナポレオン軍を悩ませ続けます。大軍の機動的な移動によって、敵の主力との会戦に持ち込むことを得意としたナポレオン戦術は、大軍を動員できない山岳地帯でのゲリラ戦に戸惑い、長くゲリラとの戦いに足止めされ、それがロシアのナポレオンからの離反を招き、遂にはナポレオン失脚につながってゆくのです。スペインは、まさにナポレオンにとってのアキレス腱となったのです。
2019.05.02
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クロニクル 公立小・中学校50人学級へ1958(昭和33)年5月1日 義務教育段階の学級定員を少なくすることは、1人1人の児童・生徒の個性を伸ばし、丁寧に指導して行く上で、欠かせないことなのですが、それには先生を増やしたり、校舎を増築して教室数を増やしたりする必要があるため、政治が全体として教育を重視し、必要な予算措置を講じることが欠かせません。この頃の日本は、ようやく戦後の混乱期を乗り越え、経済の離陸期、高度成長の入口に指しかかったところでした。そして、戦後のベビーブーマーたちが、小学校の高学年にさしかかる頃で、そうでなくても先生増、学級増が必要とされておりました。 そのため、学級定員の削減は、なかなか実現を見なかったのですが、61年前のこの日、ようやく、次年度から50人学級制に踏みきることが閣議決定されたのです(ただし、公立の小・中学校のみ)。この年は、長島選手や杉浦投手等がプロ野球に身を投じ、4月の開幕と同時に大活躍を始め、野球人気が大いに盛り上がっていました。そんな時代でした。 日本社会はこの決定を歓迎し、以後50人学級が一般化します。今日では30人学級が僅かです動き出しつつあるのですから、この間の変貌振りが、いかに大変なものだったかが、いまさらながら確認できます。ちなみに私の小学校時代の卒業アルバムを見ると、4学級で各クラス52人か53人でした。卒業は昭和30(1955)年の3月でした。
2019.05.01
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