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朝鮮戦争(5)朝鮮戦争の話しも終りに近づきました。戦争と日本経済が,今回のテーマです。開戦の1950年6月当時の日本は、ドッジ公使の日本経済再生プランに従って、戦後の悪性インフレを退治するための、緊縮政策、ドッジラインと呼ばれたデフレ政策の最中にありました。当然、倒産の続出する不景気の最中でもありました。そこに朝鮮戦争が降って湧いたように始まったのです。米軍からすれば、日本経済の復興、再建は本国の政策でもある。そして日本で生産可能なものは、本国で購入するよりも安く、しかも輸送コストがかからないメリットがあり、しかも輸送に時間もかかりませんから、注文から納品までが予定よりも短い時間で済むことになります。まさに一石三鳥なのでした。こうして日本国内で生産できない武器類を除いては、米軍は多くの注文を日本に寄せました。世に言う朝鮮特需がやってきたのです。この特需のおかげで、日本経済は戦後の混乱期を経て、再建にに成功したのです。日本経済にとって,朝鮮戦争はまさに神風でした。 糸偏業界も、鉄鋼も、造船も、機械もみな特需景気に湧いたのです。1952年のスターリン暴落。53年の朝鮮休戦協定の締結で、景気はいったん下ブレしますが、2年後には回復し、さらに成長を遂げることになり、しばらくは2年周期の景気循環を繰り返しながら、60年代の高度経済成長の時代を迎えることに なるのです。こうした日本経済復興物語の序章に、朝鮮戦争は位置づけられるのです。ここでも、日本の旧植民地だった隣国の不幸が、日本の経済復興を支えたのです。それにしても、1945年7月末に、ポツダム宣言を突き付けられ、その早期受諾を迫られながら、当事者能力を失っていた軍部は、なお受諾を渋りました。こうした軍部の怠慢が8/6の広島への原爆投下。そして8日のソ連参戦を経て、9日の長崎への原爆投下を招き入れたのです。 私の言いたいことは、もし軍部が蛮勇を振るってポツダム宣言の早期受諾に踏みきっていたら、ソ連の参戦はなく、結果として朝鮮半島の南北分断はなかったということです。戦後60年を経て、なお統一できずにいる隣国を見ると、心が痛みます。分断は当時の日本の独裁権力であった軍部の優柔不断が招いた日本の罪だからです。そして、この不幸な分断さえなければ、当然拉致問題も起こりえなかったのです。こうした重い責任者であるA級戦犯を、どうして戦争犠牲者を追悼する靖国神社に合祀することが出来るのでしょうか。犯罪者と一緒に祀られては、英霊たちも安眠できないでしょうに… 終わり
2019.06.29
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朝鮮戦争 (4)今晩は。昨日の朝鮮戦争の話しの続きです。題して朝鮮戦争と日本です。 当時、日本はGHQの占領下にありました。GHQといっても要員の8割以上がアメリカ人で、司令官もアメリカ人でしたから、実質的にアメリカの占領下にありました。そしてGHQ司令官のマッカーサーが朝鮮に派遣された国連軍の総司令官を兼務しました。そこから米国は、日本駐留のGHQ部隊を半島に投入することで、機動作戦を手際良く実行することが出来ました。輸送・補給基地にも日本を利用することができました。ましてアメリカにとって幸いだったことは、他国では、ことごとく失敗し評判の悪かった米国の占領政策が、日本でだけは評判が良く、特に戦争にウンザリしていた多くの日本人が、戦争中の軍部の横暴に対する強い反発から、憲法9条の平和主義と再軍備の禁止を素直に歓迎し、国民の多数が親米感情を持っていたことでした。それならば、日本国内の基地を今後も自由に米国だけが使えるようにする方が、GHQの一員であるソ連に何の遠慮もしなくて済む。ではそうしよう。これがサンフランシスコ講和への動きが,急速に高まった理由でした。講和の条件は、米国の基地使用を今後も認めること、沖縄・小笠原の施政権は当分返還しないことなどでした。再軍備を禁じられた当時の保守勢力には、日米安全保障条約の締結は、渡りに船だったに違いありません。 米国が、アジアの係争地域、朝鮮半島や台湾海峡に近く、ソ連にも近い日本の基地を自由に使えること の価値を実体験した。これが朝鮮戦争のもう一つの意味だったのです。ここに米国が安保条約をセットにした日本の独立を急いだ理由がありました。隣国朝鮮での戦争のおかげで、日本は早期に占領から脱して、独立することが出来たのです。これが朝鮮戦争のもう一つの意味でした。そして日本の経済復興がもう一つの意味になるのですが、この部分は次回に。 続く
2019.06.29
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朝鮮戦争 (3) さて、マッカーサーは中・朝国境の鴨緑江を渡り、結果的に中国領を侵犯してしまいました。純軍事的判断だったようです。しかし、この事実を中国指導部がどう見たかが問題になります。 前年まで、熾烈な内戦を戦った相手の国民党勢力は、台湾海峡を隔てた台湾に逃げ込み、米国の支援を受けながら、声高に大陸への再侵攻と大陸の解放を主張していました。中国共産党指導部は、米・台連合の大陸侵攻をありうることと受け止めていましたが、長年の内戦に終止符をうった直後だけに、出来れば兵を休めたい、戦争は避けたいと考えていました。しかし、国境を越えて国連軍の仮面を被った米軍がやってきたとなると、話は別です。半植民地状態をようやく脱したのですから、自国領土に足を踏み入る外国軍は、断乎撃退しなければ、再び奴隷的な隷属状態に逆戻りしてしまいます。これは願い下げでした。10/25の中国義勇軍の参戦の裏には、こういう事情がありました。戦い疲れて休息が必要な正規軍に代わって、各地で募集された義勇軍による参戦でしたが、各地の遊撃戦の経験を持つ,良く訓練された部隊でしたから、ここで再び戦局は転換します。中国の参戦で体制を立て直した北朝鮮・中国連合軍は、ソ連の支援も受けながら、浮き足立った韓国・米国連合軍を敗走させ、年末にかけ再び38度線を越えて南に攻め込みます。ここで米軍も増援部隊を送り込み、年明け以降は、38度線を中心とした一進一退の攻防が続けられ、戦線は膠着します。この時期マッカーサーは、トルーマン大統領に新規部隊の増派と中国国内への戦線の拡大を要求して、そうなるとソ連の全面介入を招くことになり、世界戦争となる危険を侵すわけにはいかないと拒否する大統領と、全面的に対立、4/11には国連軍最高司令官を解任され、合わせてGHQ司令官の地位も解かれたのです。この年7/10からは、ジュネーブで休戦会談が開かれますが、協定がまとまるまでには、なお2年の歳月を要します。この間、断続的に戦闘は続けられ、多くの戦死傷者がでたので大型爆撃機B29による爆撃の話しや、38度線の攻防の話しは、日本のラジオ(当時テレビはまだありません)でも良く放送され、私たち子ども達の陣取り合戦は、当時38度線ごっこと称しておりました。それにしても、そもそも朝鮮半島の南北分断がなければ、この戦争はありえず、人為的に切り離され、会うこともままならなくなった肉親や友人・知己が自由に会える日を夢見て、南北統一の早からんことを願うのは、人の情としてごく自然のことでした。そうした願いが冷戦の現実の中で、中国までも巻き込んだ米ソの代理戦争に仕立てられてしまったのが、朝鮮戦争でした。では、この朝鮮戦争と日本との関係はどうだったのでしょうか。明日続けさせていただきます。 続く
2019.06.27
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朝鮮戦争 (2) 昨夜のクロニクルの続きです。6/25の開戦から3日後の28日には、北朝鮮軍がソウルを占領、韓国軍は総崩れに近い状態に陥りました。この韓国軍の危機を救ったのが、連合国軍の主力として日本占領中の在日米軍でした。 昨夜私は,この戦争は米ソ冷戦の代理戦争であり、戦闘は北朝鮮・中国連合軍対韓国・米国連合軍の戦いだったと書きました。韓国を支援したのは国連軍であって、米軍ではないのでは?と疑問を持たれた方もおありでしょうが、私は米国が国連を隠れ蓑として利用しただけで、国連軍は実質的には米軍であったと考えています。 冷戦時代、米ソが激突する問題では、どちらかが安保理で拒否権を発動しましたから、事実上安保理の専権事項だった国際紛争への国連軍の派遣は不可能だったのですが、この時の事情が米国に幸いしました。というのは、48年に始まるベルリン封鎖、ベルリン問題の討議にあたって、国連は米国より過ぎると抗議したソ連は、この時期国連ボイコットの挙に出ていたのです。しかも、本来大陸中国を治める中華人民共和国が持つべき国連議席は、実は1972年まで、米国の庇護の下に、台湾の亡命政府(自称中華民国)が握ったままだったのです。ソ連のいない安保理は、米国の意志通りに行動しました。スターリンのボイコット戦略の失敗でした。(ただここから見えることは、金日成は南を攻撃する了解をスターリンから取り付けたと昨夜指摘しましたが、それは大枠の了解であって、この時期の南への侵攻は、フライングであったろうということです。時期まで了解していたとすれば、スターリンのことですから、安保理決議の可能性を察知して、早期に国連に復帰し、拒否権を行使していたに違いないからです。)かくして、安保理は早くも開戦当日の夜の会合で、開戦は北朝鮮の侵略であると断定、国連軍の派遣を検討することになりました。2日後の27日、米国のトルーマン大統領(日本への原爆投下を命じた大統領です)は米海・空軍に朝鮮半島への出撃命令をくだし、30日には地上軍の派遣も決定したのです。この素早い決定の裏には、ソ連封じ込めの最前線となることを信じて疑わなかった中国国民党のが、中国共産党との内戦に敗れ、辛うじて台湾に逃れていたことへの反省があったようです。反共の政府は、どんなに国民に不人気であっても支える、これ以上社会主義圏を広げてはならない、これがこの当時のアメリカの立場でした。7月上旬、米軍の支援を受けながらも韓国軍はなお劣勢のまま、南へ敗走し、遂には日本に近い釜山と その周辺に追い詰められます。米国に尻押しされた国連も7月に入って国連軍の派遣を正式に決定、7日には米軍に国連軍の指揮を任せることを認めます。こうして国連軍総司令官には、GHQの総司令官マッカーサーが就任したのです。 当時の輸送力は規模、スピード共に遥かに現在に及びません。現在でも戦闘を決断してから、実際に軍隊が出撃するまでには、数ヶ月を要します。それなのにこの時の米軍の展開は、数日のうちに素早く行なわれています。ここにGHQ司令官マッカーサーが国連軍総司令官を兼務した意味がありました。 彼は、日本駐留軍を日本の基地から朝鮮半島に送り込んだのです。米国からやってくる部隊は、しばらく遅れても、安定に向かっている日本で問題が起きる事はない。遅れての補充で十分だということだったのでしょう。 何とか釜山周辺を持ち堪えた米国・韓国連合軍は、日本のGHQ本部を舞台に反攻作戦を練り、北朝鮮軍の警戒の薄い、仁川に狙いをつけ、9/15仁川上陸作戦を展開、南北から北朝鮮軍を挟撃、ソウルを解放すると、敗走する北朝鮮軍を追って、北上を続けました。ここに戦局は一転しました。 敗走する北朝鮮軍の1部は、中・朝国境を流れる鴨緑江を越えて中国領に逃げ込みます。米軍部隊は、逃げる敵を追って鴨緑江を渡ってしまいます。建国1年に満たない中国の立場を顧慮しない純軍事的判断の陥りやすい過ちに軍人マッカーサーは気づかなかったのです。 続く
2019.06.26
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クロニクル 朝鮮戦争始まる1950(昭和25)年6月25日69年前のこの日、38度線を境に南北に分けられた朝鮮半島で、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で戦端が開かれました。53年7月27日の休戦協定調印まで3年と1か月間続いた長い戦争の始まりでした。朝鮮半島は日本の植民地でしたが、日本降伏後、ソ連軍管轄下の地域と米国軍管轄下の地域に分割統治されることになり、中央部に南北を分けるに相応しい、山脈や河川、湖沼等がなかったところから、地図上の線である38度線を境に分割されることになりました。開戦の原因は南北どちらにあるのか、長い間謎とされてきましたが、冷戦終結後の今日では、その事情も明らかになってきました。それによると、前年1949(昭和24)年10月1日の中華人民共和国の誕生に刺激を受けた金日成がソ連の指導者スターリンを口説いて、韓国攻撃を黙認させ、兵士らには、南の攻撃があったから、直ちに応戦する。国土防衛のために最善を尽せと、檄を飛ばして、38度線を越えさせたということのようです。開戦準備をしっかりと整えていた北朝鮮軍が近く戦端が開かれるかもしれないと考えながらも、なお半信半疑だったために、緒戦の対応に遅れた韓国軍を圧倒し、緒戦は北朝鮮軍優位のうちに推移しました。戦争には、韓国側に立ってアメリカが参戦。北朝鮮側に立って中国も参戦。ソ連は兵器の提供などで、間接的に北を支援、こうして戦いは、韓国・アメリカ連合軍対北朝鮮・中国連合軍の戦いになりました。米ソ冷戦の代理戦争として、朝鮮半島が舞台になったのです。 祖国統一を願う南北朝鮮の皆さんの意欲が逆手にとられたのです。 明日に続く 明日、明後日はクロニクルをお休みにして、朝鮮戦争の続きを書かせていただ きます。
2019.06.25
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クロニクル IOCオリンピックの開催を4年に1回と決定1894(明治27)年6月24日125年前の今日ですね。この年、近代オリンピックの開催を提唱し、オリンピックによって世界の平和を実現しようというクーベルタン男爵の熱心な訴えによって、オリンピック実施の大元の組織として、IOC(国際オリンピック委員会)が創設されました。 第1回大会を、2年後の1896年にギリシアのアテネで開くことは、早くに決まったのですが、この日の会合で、その後のオリンピックの開催間隔を4年とし、1900年に第2回大会を開くこと、以後も1904年、08年、12年と4年に1回の大会とすることが、長い議論の末に、ようやく決まったのです。 3年間隔でも、5年間隔でもなく、4年間隔とすることは、結構揉めた過程を経て決まったのですね。私たちは4年間隔に慣れてしまったというか、慣らされてしまっているのですが… 2月が29日になるうるう年、アメリカの大統領選挙のある年ですね。
2019.06.24
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クロニクル 昭和新山誕生1944(昭和19)年6月23日ちょうど75年前のことです。この日、北海道有珠郡壮瞥町の有珠山の東麓にあたる畑地が噴火、溶岩が堆積して標高398mの昭和新山が誕生しました。 誕生当初は、ちょうどアジア・太平洋戦争の最中、しかも次第に日本の敗色が濃くなってきた時期だったため、国民の動揺を恐れた軍部は、噴火と新山誕生の事実を公表せず、かん口令を敷いて事実を隠しました。このため、戦後に事実が公表されるまで、公的機関による観測も禁止されたままでした。それから7年後の1951年には、国指定の特別天然記念物に指定されましたが、温度の低下や侵食などによって、年々高さが縮んでいることが、気にされ始めています。
2019.06.23
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クロニクル 独ソ開戦1941(昭和16)年6月22日78年前のこの日、ヒトラーのドイツ軍は、バルバロッサ作戦を開始、かねての計画通りに独ソ国境を越えて、ソ連への攻撃を開始しました。ソ連軍もこれに応戦、39年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻によって、始まった第二次世界大戦は、ここに独ソ開戦という新たな段階に入りました。しかし、ドイツ軍部は、ヒトラーのソ連侵攻計画には反対でした。西部戦線と東部戦線という2つの戦線を持つことを不安視したからです。 当時ドイツ軍はフランスを制圧、イギリスを空爆しつつ、イギリスを降伏させることに全力をあげていたのですが、アメリカの支援を受けるイギリスは屈服しなかったのです。ヒトラーは、こう話して軍部を説得したのです。 「地図の上からソ連を消してしまえば、それは極東の同盟国、日本の力を増大させる。そうなるとアメリカは、日本との戦いに忙殺され、イギリスへの支援など出来なくなるであろう。孤立したイギリスは、我がドイツに独力で抗戦するしかなく、その抵抗は長くは続けられないであろう」と。 緒戦こそ、思惑通りの勝利を収めましたが、やがてソ連軍の反撃態勢が整い始めると、ドイツ軍は次第に防戦一方に追い込まれていったことは、ご承知の通りです。ヒトラー自身は、「自分はナポレオンとは違う。私は彼を超えて見せる」と、考えていたようですが、史実は、ソ連侵攻計画に乗り気でなかった、軍部の方が正しかったことを証明しています。
2019.06.22
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クロニクル 本能寺の変1582年6月21日(天正10年6月2日)437年前の話ですが、大変有名な話です。この日、京都は本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣の明智光秀の謀反に遭い、自刃して49歳の生涯を閉じました。 信長は時代を超える天才というべき存在でした。時代の旧弊を次々に打破して新基軸を打ち出しており、今しばし長生きをして、改革を続けて欲しかったと、私は彼の死を惜しんでいます。 光秀の行動については、諸説あり、未だに通説はありません。ただ、信長を討って、クーデタを成功させた後の光秀の行動を見ると、信長に比べていかにも凡庸というしかなく、主君と自分の器の違いを、しっかりとはかることも出来なかったのかと、あきれるばかりです。
2019.06.21
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クロニクル 富士通誕生1935(昭和10)年6月20日84年前のことです。富士通信機製造株式会社が、この日産声をあげました。同社は、富士電機製造株式会社(現富士電機ホールディングス)の電話部の業務を分離して誕生しました。3年後の1938(昭和13)年に、専用の新工場を建設して独立、1965(昭和40)年には、資本関係も解消して完全に独立、1967(昭和42)年に社名を現在の富士通に改め、今日に至っています。
2019.06.20
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クロニクル 関釜フェリー運航開始1970(昭和45)年6月19日 今日で49年ですか。戦前1905年から下関と釜山を結ぶ航路が開設されていましたが、太平洋戦争が激化し、日本が日本海の制海権を確保できなくなって、運行中止に追いこまれてから、この日まで途絶えたままになっていました。それが1965年の日韓基本条約の調印によって、国交が回復したのに伴い、次第にこの航路を回復しようという気運が高まり、69年に事前に運輸支局で登録証書などを用意、運航を担当する関釜フェリー株式会社(日本)が設立され、この日の運行開始となりました。 当初は、1艘だけの運行で、夜日本を出立して翌朝釜山到着、その晩釜山を立って、翌朝下関に到着と、2日で1便の運行でしたが、13年後の1983年にいたって、韓国側の受け入れ業務を担当していた釜関フェリー株式会社も船舶を所有するにいたり、両者の共同運航という形で、毎日運行が可能となり、今日に至っています。フェリーですから、運転者が国際運転免許をもってさえいれば、事前に運輸支局で当該車両の登録証書を用意すれば、90日間以内の条件で、国際ナンバーを用意することなく、日本の自家用車やバイクを韓国に持ち込むことが可能となっています。しかし、文大統領の誕生以来、こじれにこじれた現在の日韓関係を見ると、当分距離を置くしかなさそうですね。
2019.06.19
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クロニクル 豊田商事会長刺殺1985(昭和60)年6月18日 金のペーパー商法を利用した豊田商事の詐欺事件を、ご記憶の方も多いと思います。会社が契約者に金を売るのですが、実物の金を持っても仕方がないでしょうと、その金を会社が預かることにして、預り証即ち証券を渡すのです。 実際の金を会社が保管していれば、それは詐欺ではありません。しかし、その金を保管していなかったとすると、これは立派な詐欺になります。この詐欺がばれて、約3万人の被害者と2千億円と言う被害金額、詐欺にあった人たちの大半が1人暮らしの老人であったことなどから、大きな社会問題となりました。その豊田商事の会長永野一男が、34年前のこの日、夜10時過ぎにTV中継中のカメラの前で、彼の住まいのマンションにガラスを割って侵入した男に刺殺されました。その1部始終がTYでナマ中継されたのです。 警察が捜査中の事件の容疑者が、各局のTVクルーがカメラを構え、レポーターがしゃべっているその前で、刺し殺されたのです。2人の争う声も収録され、そのままTVに流れました。カメラもマイクを持ったレポーターも、誰一人機材を置いて止めに入ることをしなかったのです。これはマスコミの姿勢として、当時大きな問題となりました。また責任者の死亡で、集めた資産をどこにどう隠したのか、或いは使ってしまったのか。社員にいくら渡したのかといったことが、わからなくなってしまったため、被害者に返却できる金額が、非常に少なくなってしまうという、残念な結果にも繋がりました。マスコミの姿勢が問われた事件でした。
2019.06.18
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クロニクル ウォーターゲート事件発覚1972(昭和47)年6月17日47年前のこの日、ワシントンの民主党全国委員会本部に、盗聴器を仕掛けようと侵入した5人の人物が逮捕されました。 現職大統領の犯罪として、ニクソン大統領の辞任に繋がった、世に名高いウォーターゲート事件は、この比較的些細な事件がきっかけとなって、世界を揺るがせた大事件へと広がっていきました。あの当時、米国のマスコミ、輝いていましたね。
2019.06.17
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クロニクル 新潟地震発生1964(昭和39)年6月16日 55年前になります。東京オリンピックの年のことです。この日、私は教育実習中で、東京北区の岩淵中学校におりました。お昼を食べ終えて教員室に戻り、指導の先生と午後の授業の打合せをしていた時でしたから、12時50分前後だったと思います。 大きな揺れを感じました。教員室においてあった金魚鉢(当時エアポンプ付の水槽なんて、見かけたことはありませんでした)の水がこぼれおちましたから、かなりの揺れでした。居合せた教生や先生方は,全員大急ぎで教室へ行き、生徒の無事を確認しました。なるほどこんな時は、こう動くのかと良い勉強になりました。 夕方になって、震源は新潟で、新潟市内に大きな被害が出ていることが分かりました。ここから後日談です。この頃、ゼミの合宿を毎年新潟県の阿賀野川沿いの津川の町に近い、麒麟山温泉で実施していました。別のゼミでしたが、親しい友人が新潟市内に住んでいて、見せたいところがあるから、合宿の帰路、新潟に寄れというのです。そこで、ゼミのメンバー全員で、帰路新潟に立ち寄りました。駅の改札を出て、先ずビックリです。当時駅前に大型のホテルが出来ていたのですが、そのホテルが見るも無惨な姿をさらしていたのです。横長のホテルでしたが、中央部が2階部分まで地下に陥没して、両サイドは逆に浮きあがるように変形していました。 信濃川にかかる橋のうち、古い橋はビクともしていなかったのですが、前年の国体用に作られたばかりの新しい橋は、完全に倒壊していたのです。国体のメーンスタジアムしかりです。 国体がいかに、地方ゼネコンの儲け仕事であったのか、おそらく政治家にも相応の金額を贈って、儲けを分け合っていたのでしょうが、国体翌年の大地震は想定外だったのでしょうね。手抜きの欠陥工事であることは、新旧の橋のコントラストが、雄弁に物語っていました。 ゼネコンと政治家の癒着の決定的証拠がここにあるんだと、その友人は力説していましたが、確かに良いものを見せてもらいました。 あの印象は強烈で、今でも鮮明に脳裏に浮かびます。
2019.06.16
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クロニクル 三陸大津波死者2万7千人1896(明治29)年6月15日123年前のこの日、岩手県の三陸沖約200kmの海底で、マグニチュード7,6の地震が発生、地震に伴う津波が岩手、宮城、青森の海岸を襲い、死者約2万7千人という大被害を齎しました。 当時の記録によると、地震の発生は午後7時32分、震度は2程度の弱震で、当初の被害はありませんでした。しかし、地震から約40分後に到達した津波は大きく、一瞬の内に三陸海岸の町や村を飲み込みました。 後に調べたところ、最大の津波は気仙沼郡の綾里村で38,2mに達したそうです。この年は、日清戦争終結の翌年でしたから、この日岩手県の大槌町では、浜辺で出征兵士の凱旋を祝う花火大会が行なわれていました。お祭り騒ぎの中、小さな地震は当然無視されます。そこへ午後8時10分頃、皆の歓声を打ち消すような大轟音と共に、襲ってきた大津波によって、一瞬の内に浜にいた人達が飲み込まれました。村の全戸が流出した地域も数多くありました。 流出家屋のみで、3県合わせて8891戸にのぼったと記録されています。被害の程度は、2011年3月11日の東日本大震災の被害に匹敵する大津波でした。それから37年後、昭和8(1933)年3月3日、三陸地方はまたしても大津波に襲われています。二度の貴重な経験を、経済優先で無視した結果が、3/11の大被害とフクシマ第2原発の崩壊につながったことは、言い逃れのできない事実です。想定外なんて白々しいも」良いところです。
2019.06.15
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クロニクル 南北共同宣言発表2000(平成12)年6月14日あれからまだ19年しか経っていないのですね。随分と長い時間が経過しているように感じられるのですが……大韓民国(略称 韓国)の元首として、初めての朝鮮民主主義人民共和国(略称 北朝鮮)訪問を果した金大中大統領は、金正日朝鮮労働党総書記(北朝鮮の元首)と精力的にトップ会談を行ない、この日南北統一問題の自主解決などを盛り込んだ「南北共同宣言」に調印し、両首脳揃って、にこやかに共同発表の場に現れました。1950年~53年にかけて行なわれた朝鮮戦争は、休戦協定が結ばれたままでしたから、形式的には当時も、両国は戦争状態のままでした。従って、両首脳による南北共同宣言の発表は、抗戦状態が形式的に継続している両国の間で、今後は南北対話を継続しながら、統一問題は話し合いで解決してゆこうという強い意志を、表明したものとなりました。この功績を認められ、金大中大統領は、10月、ノーベル平和賞を賦与されました。しかし、その後の動きは、期待を裏切り続け、それは今も続いています。今後どのように動くのか、残念ながらまだまだ先の読めない状況が続きそうですね。
2019.06.14
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クロニクル 森戸事件1920(大正9)年1月13日99年前のこの日、東京帝国大学経済学部の森戸辰男助教授が休職を命じられる事件が起きました。 創立から日の浅い、同学部の紀要『経済学研究』の創刊号に掲載された森戸の論文「クロポトキンの社会思想の研究」が、無政府主義(アナーキズム)の宣伝になっているというのが、その理由でした。 森戸の論稿は、社会政策を論ずる立場から、単にクロポトキンの無政府主義の考え方を紹介したものに過ぎなかったのですが、右翼御用学者の上杉慎吉らが、危険思想であると騒ぎたて、政治の圧力を招いたのです。これが世に言う森戸事件で、森戸と編集発行人の大内兵衛助教授が朝憲紊乱、新聞紙法違反で起訴されました。その結果、森戸は禁固3ヶ月、罰金70円の罪に問われ、大内は禁固2ヶ月、罰金20円、執行猶予2年を言い渡されました。この事件は国家が学問・思想の自由を弾圧する先駆けとなった事件として知られ、以後こうした動きが強まっていきました。
2019.06.13
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クロニクル 南ヴェトナムで抗議の焼身自殺1963(昭和48)年6月11日63年は東京オリンピックの前年でした。56年前の今日、衝撃的な写真が世界を巡りました。そうです。敬虔な仏教徒の多い南ヴェトナムで、多くの仏教徒の尊敬を集めていた老齢の高僧、クワン・ドゥック師が、政府の仏教徒弾圧に抗議して焼身自殺を遂げたのです。 抗議の焼身自殺は、事前にマスコミ等に報じられており、官憲の妨害を避ける意味もあって、仏教寺院の僧侶から一般の市民まで、6千人を越える人々が、老僧のクワン・ドゥック師を守って、大きな円を描いて、ドゥック師と共に念仏を唱えながら、焼身自殺の1部始終を見守ったのです。それは異様な光景でした。ドゥック師は袈裟姿で、静かに路上に座ると、手ずからガソリンをかぶって、火をつけ、正座のまま、手を合わせて、祈りを捧げながら、自ら命を断ちました。このニュースは外国通信社や特派員の手によって、ただちに世界各地に打電され、日本の夕刊各紙には、手を合わせた姿のまま、黒焦げになって横たわった老師と、涙ながらに見送る群衆の写真が、掲載されました。それは、何よりも、1954年のフランスとヴェトナムとのジュネーヴ協定の約束を無視して、米国の支えを頼りに、一方的に居座りを決め込む南ヴェトナムのゴ・ジン・ジエム政権の強権体質への打撃となりました。ジエム政権では、解放戦線に勝てないと考えた軍部は、同年秋にドン・バン・ミン将軍を担いでジエム政権へのクーデタを敢行、頼みの米国にも見放されたジエム政権は、あっけなく倒れました。高僧の抗議の焼身自殺と、その衝撃的な映像は、世界の世論を動かし、歴史の歯車を回したのでした。
2019.06.11
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クロニクル ハガチー事件1960(昭和35)年6月10日60年安保の話ですから、59年前のことになります。ハガチー氏は、時のアメリカ大統領アイゼンハワー(愛称アイク)の新聞係秘書でした。そのハガチー氏が、アイゼンハワー大統領の訪日を控えて、露払い役として、この日来日したのです。 我々、60年安保世代には有名な話です。安倍総理の母方の祖父に当る岸信介首相は、サンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約が、米軍と米国が一方的に日本防衛の任を負う内容だった事を改め、極東の範囲内において、駐留米軍が攻撃された場合、日本の自衛隊が米軍と共に、共同で防衛の任に当るという双務的内容に書き換えた安保条約改定案を米国と結んだのです。これが新安保条約、60年安保です。この改訂に対し、国内では日本が戦争に巻き込まれる危険性が強まるとか、極東(far East)とは一体どこまでなのかが曖昧なままでは困る。範囲を限定せずにいては、なし崩しに範囲が拡大し、東南アジアにまで広がってしまうことも考えられるなどと、強い反対論が唱えられました。 衆議院での白熱した議論の模様は、当時普及期に入っていた白黒テレビや新聞、雑誌で連日のように報道されていました。国会も今と違って、勉強家の議員たちがしっかりと新安保条約を勉強して、その問題点を次々に追及したのです。当時高校3年生だった私にも、実に面白い国会中継でした。そうした衆議院での論戦が続く中、通常国会の会期も迫ってきます。今と違って強行採決などタブーの時代だったのですが、自民・社会両党の激突(当時は公明党も民社党もなく、2党以外には共産党が僅かな議席を持つだけでした。)の中で、自民党は5月19日未明、遂に新安保条約の強行採決に踏み切ったのです。これが中立系の人々をも反対運動の環に押しやりました。民主主義とりわけ議会制民主主義は、議論を尽すことで、少数意見をも尊重するものだと考えていた大勢の国民が、この日以降、安保反対の陣営に積極的に参加したのです。 強行採決に民主主義の危機を感じとったのです。こうした国民の政治的感度も、今とは違って鋭いですね。こうして「安保反対」に「民主主義を守れ」のスローガンが加わったのです。 国鉄労働者の時限スト(朝9時までとか、正午までが多かったように記憶します。多少不確かですが)には、出勤に遅れる会社員たちから、「頑張れよ」の声が数多く寄せられたのもこの時です。 米国大統領のアイクは、新安保条約の調印後、この新安保の成立を待って、歴代米国大統領として初めての、そして15年前まで、激しく戦った国の大統領としても初めての訪日を実現して、2期8年の任期を間もなく終えるに当っての花道にしようと考えていたようです。ところが日本側の様子がおかしい。大使館情報では、大統領訪日を歓迎する雰囲気など日本側には無いという。下手に訪日して傷を負う愚は避けたい。こうした思いが19日に予定されていたアイク訪日をおよそ10日後に控えた時点での、ハガチー新聞係秘書のお忍びでの訪日となったのです。日本の実情視察が、彼の使命でした。しかし、この情報が事前に漏れ、羽田空港周辺は、ハガチー帰れのシュプレヒコールに埋め尽くされ、空港周辺の道路はデモ隊で埋まり、通行困難の状況になっていたのです。 午後3時過ぎ、都心に向かおうと羽田空港を出発したハガチー氏を乗せた車は、一歩空港外に出た途端に、立往生してしまい、全く身動きできなくなってしまったのです。身の危険を感じたハガチー氏は、空港に引き返し、米軍立川基地に救援ヘリの来援を要請、ヘリで立川基地に降り立ち、そこに一泊することになったのです。 翌日に延期された日本政府要人との会談は、結局実現できないまま、彼は翌11日、米軍機で帰国する破目になりました。その翌日、岸内閣は「警備に万全を期す自信が持てないから…」として、アイク訪日を日本側から辞退したのです。 米国大統領に恥をかかせるわけにはいかない以上、やむをえなかったのでしょうが、岸首相はさぞ、悔しかったでしょうね。でも、当時の日本人の多くは、ハガチーが実質的に日本の土を踏んだと言えない状態で、ホウホウのテイで逃げ帰らざるを得なかったことに、してやったりと快哉を叫んだのでした。私もその中の1人でした。 当時は新聞も元気でした。国民のチェックが厳しく、マスコミにも勇気と気概があれば、菅官房長官を筆頭とする政府の言論界への露骨な介入は、跳ね返せるのでしょうが、世論にもマスコミにも、まだその元気が足りませんね。それが残念です。
2019.06.10
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クロニクル ウィーン議定書締結1815(文化12)年6月9日204年前の話です。その1年前、1814年にナポレオンの退位と地中海のエルバ島への隠棲を受けて開始された、ナポレオン後のヨーロッパの体制を定めるためのウィーン会議は、喧々諤々の各国の主張が入り乱れて、何事も決まらないマラソン会議となりました。その有様は、会議の主催国オーストリア宰相メッテルニヒをして、「会議は踊る、されど決まらず」と言わしめたと伝えられ、名作映画『会議は踊る』を生み出したことは、ご存知の方も多いと存じます。この何も決まらなかった会議が、急に動き出したのは、この年3月ナポレオンがエルバ島を脱出、フランスに戻って、瞬く間に皇帝の座を回復してしまったからでした。ここに会議は急進展し、ナポレオンとの決戦が迫る中、この日遂に合意に達し、ウィーン議定書が締結されたのです。そこでは、フランスは革命前の所領を保証され、オーストリアはベルギーをオランダに譲る替わりに、北イタリアのロンバルディア平原(中心地ミラノ)とヴェネツィア共和国などを獲得、イギリスはオランダからケープ植民地を獲得すると共に地中海のマルタ島を得るなど、海洋帝国の地歩を固めました。 議定書の締結から10日後、ベルギーのワーテルローで行なわれた、両軍の会戦は連合軍の勝利に終り、ここにウィーン体制と呼ばれる時代の幕が上がりました。
2019.06.09
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クロニクル 日本競馬史上最高の珍事発生1929(昭和4)年6月8日 福島競馬場は、1918(大正7)年に完成した、中央競馬の競馬場です。その年6月28日から競馬が開催されていますから、史上最高の珍事が発生したのは、それから11年後ということになります。90年前のこの日、笑うに笑えない珍事が起きました。この日のレースが進み、第5レースがスタートした直後でした。何に驚いたかスタートした馬たちが突然暴れだし、馬上の騎手たちが1人残らず落馬してしまったのです。 騎手がいなくなった馬たちは、てんでに動きますから、もはやレースにはなりません。かくてレースは、騎手全員落馬により不成立という、非常に珍しい事態を招きました。 世界でどうかは、調べていませんが、日本競馬史の上では、最初で最後の珍事でした。気になるのは馬券です。レースはなかったことになり、馬券金額が買った方全員に払い戻されたそうです。
2019.06.09
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クロニクル 長崎造船所、三菱へ1887(明治20)年6月7日132年前のこの日、明治政府は、官有の長崎造船所を、三菱に払い下げました。官有物払い下げの一環でした。払い下げを受けた三菱は、やがて社名を三菱造船所に変更、客船・貨物船・海軍の軍船などの建造を手がけました。この三菱造船所は、やがて三菱財閥の中核企業の1つに成長します。そこからさらに、三菱重工の主力部門にまで上りつめ、三菱のドル箱部門として活躍しました。 戦後、しばらくは苦難の時期を過ごしましたが、朝鮮戦争が追い風となり、それまでに蓄積した高い造船技術が米軍に評価されて復活、60年代に入ると大型タンカーの受注が相次いで活況を呈しました。その後、大型の豪華客船ブームが起きると、次々に豪華客船を受注するようになり、一方での自衛艦の建造と収益の二本柱になっています。2002年10月1日のことですが、建造中の豪華客船ダイヤモンドプリンセスが火災を起こし、2003年7月に決まっていた施主への納入期限が大幅に遅れそうになった事故が起きました。テレビで大々的に報じられましたから、御記憶の方も多いと思います。この時同社は、隣のドックで建造中のサファイアプリンセスを、急遽ダイヤモンドプリンセス仕様に改装することを決め、僅か7ヶ月遅れで、施主に納入するという離れ業を演じ、世界の海運関係者並びに造船業者仲間の称賛を浴びたのですが、こちらはほとんど報じられることはありませんでした。なお、被災したダイヤモンドプリンセスは、同社の別の造船工場に移され、焼損部分を完全に取り除いて、今度はサファイアプリンセス仕様に改装し、2004年5月にデビューを果たしました。
2019.06.07
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クロニクル レッドパージ序曲1950(昭和25)年6月6日69年前のこの日、GHQ(連合国日本占領軍司令部)司令官のマッカーサーは、吉田首相宛て書簡で、日本共産党中央委員24名の公職追放を指令しました。 時に、朝鮮戦争勃発が同月25日でしたから、その19日前でした。米国が国民党の勝利を信じて疑いもしなかった中国の内戦は、前年10月1日に共産党の勝利で終りました。この事実が、GHQをして、反共への傾斜を強める結果に繋がったのでした。 同じ動きは、アメリカでも起き、マッカーシズムといわれたのですが、この日をきっかけに、民間の大企業や官公庁、報道機関や教育機関などでも、レッドパージ旋風が吹きあれ、この動きは、サンフランシスコ条約による日本の独立まで続きました。
2019.06.06
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クロニクル 京王プラザホテル開業1971(昭和46)年6月5日もう48年も経ったのですね。この日、新宿副都心の初の超高層ビルとして、京王プラザホテルが開業、営業を開始しました。霞ヶ関ビル、浜松町の世界貿易センタービルに続く、東京で3番目の超高層ビルでした。あの日から48年、新宿には続いて、三井ビルと住友ビルがほぼ同時に完成。以後は次々と超高層ビルが林立。とても、名前も順番も皆目分からない、ビル風に悩まされる街になりました。そんな超高層ビルが林立する空間、今ではあちこちと増えていますね。 皆さまへ、 ボチボチ再開しました。時々お休みするかもしれませんが、大目に見ていただければ助かります。
2019.06.05
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