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クロニクル 信越本線横川~軽井沢間運行廃止1997(平成9)年9月30日22年前になります。翌日10月1日の長野新幹線の営業開始に合わせて、この日を最後に信越本線の横川~軽井沢間の運行が廃止されました。 碓氷峠を登るために、横川駅で機関車を増結するために、この駅の停車時間は長く、その長さを利用して、横川名物荻野屋の「峠の釜飯」を買うのが乗客の楽しみでしたが、ノンビリと停車中の列車を降りて、駅のホームで買い入れる楽しみは、なくなりました。この日以後、信越本線は高崎~横川間で1度切れ、横川~軽井沢間はバス輸送、軽井沢~篠ノ井間は第三セクターとなり、そして再び篠ノ井~直江津~新潟は信越本線と、長野新幹線の開通で、在来線に頼る人たちが大きな犠牲を被ることになりました。 実は、群馬県の安中に新島学園という、新島襄が開設した私立のミッションスクールがあるのですが、電車の路線が切れたために、長野県側、主に軽井沢、小諸周辺から新島学園に通う生徒達が特に大きな影響を受けることになったのです。私立学校にとって、そして新島学園を目指す長野県側の子どもたちにとって、影響は甚大でした。
2019.09.30
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クロニクル スペース・シャトル打ち上げ成功1988(昭和63)年9月29日31年前のこの日、NASAは、チャレンジャーの事故から2年8ヶ月振りに、スペース・シャトルを打ち上げ、無事成功させました。乗組員は、4日後に無事地球に帰還しました。
2019.09.29
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クロニクル 御嶽山噴火2014(平成26)年9月27日あの日から、もう5年も経ったのですね。5年前のこの日、午前11時52分、基礎のなぁ…でお馴染みの御嶽山が突然爆発、大きな人的被害を出しました。火山性地震などの前触れの全くない、平常(噴火警戒レヴェル1)状態での突然の爆発だったため、たまたま同時刻に河口付近に居合わせた登山者など58名が死亡する、戦後最悪の噴火災害となりました。予兆のない火山の噴火は怖いですね。この時の御嶽山の噴火は、噴煙高度最大7,000m(火口から)、推定噴出量は27日1日で50万トン程度と推定され、1991(平成3)年の死者43名を出した雲仙普賢岳の大火砕流当時の火山灰噴出量と比べると、およそ400分の1程度であったとされています。地震の予知も、噴火の予知も難しいものですね。
2019.09.27
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クロニクル 有楽町そごう閉店2000(平成12)年9月24日19年前の9月24日は、日曜日でした。なぜ覚えているかというと、この日はシドニーオリンピックの女子マラソンが行なわれ、キューちゃんこと高橋尚子選手が、日本の女子マラソン界で初めて金メダルを獲得した日でもあるからです。その同じ日に、7月に産業再生法を申請して、事実上倒産した「そごう」が、売り上げ減で赤字を垂れ流していた「有楽町そごう」の営業を閉じ、この日をもって閉店したのです。 閉店セールは評判を呼び、多くの顧客を呼び込んだのですが、その閉店セールもこの日が最終日でした。こうして、昭和32(1957)年に、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」のメロディに乗せて、華々しいオープニングを演出した「有楽町そごう」は、その43年の歴史に幕を下ろしたのでした。
2019.09.24
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クロニクル 加波山事件1884(明治17)年9月23日 加波山事件は、自由民権運動の過程における、激化事件の一つです。自由民権運動のなかで、急進的な考えを抱いた若い民権家たちが、準備の整わないうちに決起したため、簡単に鎮圧されてしまった事件です。現在から135年前の出来事でした。 福島事件にも関系のあった河野広体(河野広中の弟)らのグループが中心で、これに茨城や栃木の民権家が加わっていました。栃木県庁落成時に、民権運動を厳しく弾圧した県令三島通庸(現在の県知事)や、集まった大臣たちを爆殺しようという計画でした。しかし、爆弾は製造中に誤って爆発してしまい、計画がもれてしまったため、茨城県の加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由の魁」などの旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配り、警察署や豪商の館を襲撃したりしたのですが、多勢に無勢で、この日の内に、数時間で鎮圧されてしまいました。
2019.09.23
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クロニクル 東京六大学野球リーグ始まる1925(大正14)年9月20日94年前の今日、東京六大学野球連盟が発足しました。開幕試合は明治-立教の1回戦でした。現在は、東京6大学野球の人気はすっかり衰え、昔日の面影は残っていないのですが、いまだプロ野球のない時代でしたから、当時の大学野球は早慶戦を中心に大変な人気を誇っていました。 元祖大学野球は、1903(明治36)年に開始された早慶戦でした。1906(明治39)年、応援の過熱などから早慶戦は中断されましたが、1914(大正3)年に明治大学を加えた3大学でリーグ戦を開始しました。1917(大正6)年に法政大学が加入、1921(大正10)年に立教大学が参加し、5大学でのリーグ戦を実施するようになりました。しかし、この間も早慶戦に関しては関係者が過熱を懸念したため実施されない状況が続き、変則的なリーグ戦となっていました。1925(大正14)年春、東京帝国大学(現在の東京大学)が参加、法政以外の各校と1試合ずつ試験的に試合をしました。その年の秋のシーズンにあたって、明治大学が中心となって、「早慶戦を再開しないなら再開に応じない学校を外してリーグ戦を行う」と早慶を強硬に説得、早稲田、次いで慶應が説得に折れて早慶戦が再開されることとなり、ここに東京六大学野球連盟として正式に発足したのです。応援の過熱が、問題になるのは、すでにこの頃に始まっていたのですね。
2019.09.20
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クロニクル 日本チーム、南アフリカに逆転勝利2015(平成27)年9月19日ラグビーのワールドカップ日本大会がまもなく始まりますね。そうなんです。そのラグビーで日本チームが、なんとワールドカップで2度の優勝経験を誇る強豪南アフリカチームに、何とノーサイド寸前の逆転トライで34対32と逆転勝ちを収めたのです。これには驚きました。ラグビーはイングランドで始まったスポーツですが、伝統的に南半球のチームが強く、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、それにフランスを加えた4強が、抜きんでた強さを誇っていたからです。まさかとびっくりしたことを覚えています。選手たちには失礼ながら、まさに奇跡の勝利に思えたものでした。子どもたちの間ではやった五郎丸ポーズも有名になりましたね。さて、今回はどうなるのでしょう。
2019.09.19
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クロニクル 東京モノレール開業1964(昭和39)年9月17日55年前のこの日、羽田空港と東京浜松町を結ぶ、東京モノレールが開業しました。東京オリンピックが開会式を迎える10月10日(オリンピックの日本開催を記念して,この日は体育の日と定められました。それだけに、10月の第2月曜日と不定日の祝日とされると、オメエ違うだろうと、政治家共を叱りとばしたくなるのは、私だけでしょうか)を、23日後に控えての開業でした。オリンピック見物に海外から訪れるであろう見物客は勿論、選手、役員、報道関係者らを、出きるだけ速やかに東京都心に迎え入れる交通手段として考えられたのが、路上を走らないで済む、モノレールだったのです。当時羽田へのモノレールのルートは、今では信じられないかもしれませんが、大部分が海上だったのです。その後に埋め立てが進み、ビルや倉庫群が林立する地域になったのですが……橋げたに支えられた軌道上を走るのですから、交通渋滞も起こり得ません。そんなわけで、到着時間を計算できる便利な乗り物として、このモノレールは人気を博したのでした。 東海道新幹線もまた、国策としてオリンピック開幕までの開業が期待されていました。こちらの開業は10月1日、まさに開会に間に合わせたといえましょう。
2019.09.17
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クロニクル メイフラワー号の旅立ち1620(元和6)年9月16日400年近く前の話になります。日本史で言うと、大阪夏の陣の5年後、家康の死後4年の出来事です。中学校などの英語の教科書に良く出てくる話ですから、ご存知の方も多いと存じます。エリザベス1世の後を継いだイングランド王ジェームズ1世の信仰弾圧を逃れ、新天地での信仰の自由を求めたピューリタンが、メイフラワー号に乗ってアメリカ植民地に渡ったという、あの有名な逸話です。そのメイフラワー号がイングランドのプリマス港を出航したのが、399年前の今日だったのです。 乗組員を除く乗客は全員新天地への移住希望者でした。総勢102名の移住希望者は、イギリスからニューイングランド地方への最初の永久移民となりました。一行は、船上で社会契約説に基づくメイフラワー誓約を結びました。 彼らの一行は、11月19日にコッド岬、そして12月26日に現在のマサチューセッツ州プリマスのマサチューセッツ湾沿岸に到達しました。メイフラワー号はイギリスからアメリカまでの大西洋4,400kmを66日間かけて横断しました。 そして、彼らの上陸した土地は、後にプリマス コロニー Plymouth Colonyと呼ばれるようになりました。ところで、102名の乗客の中に、妊娠中の女性が3名おり、そのうち2名が新天地で下船前にそれぞれ男子を出産しました。また航海中に乗員1名、船客1名が亡くなったことが記録されていますので、移民としてアメリカに上陸したのは、103名ということになります。 彼らは、イギリスのアメリカ植民地として、第3番目となるタウンを建設するのですが、最初の冬を越すことが出来、春に畑を作って耕作することが出来たのは、土地は誰のものでもない神のものだと考えるインディアンが、彼らに食料を援助し、土地を耕作することを認めてくれたからでした。それでも住む家のない最初の冬の生活は厳しく、冬場で乗客を降ろして、すぐに帰ることは危険すぎてできないメイ・フラワー号が現地にとどまっていたので、乗客は全員、船の中で一冬を過ごしたのですが、栄養不足と、不衛生な環境とで伝染病が発生し、半数をやや超える53名が亡くなっています。船員もまた8名が死亡しました。
2019.09.16
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クロニクル 麻原彰晃の死刑確定2006(平成18)年9月15日13年前ですね。この日最高裁は、麻原弁護団から提出されていた特別抗告を棄却しました。その結果、ようやくオーム真理教の教祖、麻原彰晃に対する死刑が確定しました。 弟子達には、次々に死刑判決が確定していただけに、いたずらに裁判を引き伸ばしていた弁護団の対応には、問題が残りました。麻原や死刑判決を受けた幹部信者の死刑が執行されたのは、麻原の死刑判決が確定してから 、何と11年10か月後の 平成30(2018)年7月6日のことでした。これは、オーム真理教事件の全ての被告の裁判が結審するのを待ってのことだったそうです。裁判で幹部の証言が必要になることがあるかもしれないからという配慮でした。 それにしても遅かったですね。
2019.09.15
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クロニクル 津田英学塾開校1900(明治33)年9月14日119年前のこの日、津田梅子さんの手で、津田女子英学塾が開校しました。現在の津田塾大学の前身です。この時梅子女史36歳。 津田梅子さんは、1871(明治4)年に、僅か満7歳で(同行者中最年小)岩倉使節団の一員として渡米しました。そのまま留学生として米国で学び、11年後の1882(明治15)年に帰国後は、華族女学校に奉職したのですが、校風に馴染めずに退職、独立して津田女子英学塾を開校するなど、1929(昭和4)年に65歳で亡くなるまで、女子教育の発展に尽力しました。 津田女子英学塾開校の、約半年後の1901(明治34)年4月20日には、成瀬仁蔵さんが日本女子大学校を開校するなど、明治30年代は、日本の女子高等教育の黎明期でした。
2019.09.14
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クロニクル オスロ合意調印1993(平成5)年9月13日26年前のこの日、ノルウェーのオスロで、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長と、イスラエルのラビン首相は、パレスチナの暫定自治に関する基本協定(オスロ合意)に調印しました。パレスチナ解放機構(PLO)に、第3次中東戦争以来イスラエルが占領中の、ヨルダン川西岸地区とガザ地区における自治権を賦与、いずれは政府と認めることで、アラブ・イスラエル紛争に終止符を打とうとする野心的な協定でした。この協定がアメリカ及びイギリス政府の頭越しに、密かに計画され、そして結ばれたことの意味は、将来のアラブ・イスラエルの関係を見て行く上でも軽視されてはならない、重要な示唆を含んでいるように、当時私は考えましたが、ラビン首相の暗殺で事態は変り、イスラエルの強硬姿勢で、残念ながら事態は、泥沼化の一途を辿ってしまっています。イスラエルの硬直した姿勢が変わらない限り、共存への道は見えてこないのでしょうね。残念でなりません。
2019.09.13
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クロニクル ラスコーの壁画発見 1940(昭和15)年9月12日79年前になります。この日、ラスコー洞窟で、動物壁画が発見されました。ラスコー洞窟は、フランス南西部ドルドーニュ県のヴィゼール渓谷にある、モンティニャック村近郊の洞窟です。この日、洞窟近くで遊んでいた村の子供たちが、地下に長く伸びる洞窟の奥深く入り込み、壁や天井に描かれた数多くの壁画を見つけたのです。この年フランスは、4月に始まったドイツとの戦争に記録的な大敗を喫し、6月には全土の3分の2をドイツ軍に譲り渡すという、屈辱的な講和を結ばされたばかりでした。その後の調べで、15,000年前の旧石器時代後期に、クロマニョン人によって描かれてものと判明する、ラスコーの洞窟壁画の発見は、そんなフランスに訪れた束の間の明るいニュースでした。ラスコー洞窟の壁画は、戦後しばらくは一般に公開されていたのですが、痛みがひどく、1963年以降は非公開とされ、現在も洞窟は閉鎖されています。
2019.09.12
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クロニクル ニューヨーク9:112001(平成13)年9月11日あれは、日本時間で夜10時を回った頃だった。当時大学4年で理系の卒論準備中だった息子が、この夜は大学のスパコンが使えない日だとかで、珍しく自室のPCで複雑なエクセルの計算をさせながら、TVを見ていたようで、リビングで夕刊を読んでいた私に、「オヤジTVを見ろ、すごいぞ!」と大きな声で教えてくれました。 習慣で夜10時頃に自宅にいると、久米宏のNステを点けっぱなしにして、見るというより聞いていたのですが、画面に目をやると、NYのツイン・タワーにまるでスローモーションか、何かSFの撮影かのように飛行機が吸い込まれていくところでした。大きさの実感のない私は、小型機が操縦ミスで突っ込んだのかなと思ったのですが、実はハイジャックされたジャンボ機と分かって2度ビックリ。「事実は小説より奇なり」を地で行く出来事をTV桟敷で目撃したのでした。やがて上階の火災が原因でツインタワーは脆くも崩落、見ているのがTVなもので、それは映画の中のシーンのように思えたものでした。その後が悪夢でした。オサマ・ビン・ラーディンはともかく、実態がどの程度あるのかも定かでないアルカイダという組織が悪役に指定され、そのアルカイダをかくまい、追放もしないという口実で、長い内戦を収拾し、ようやく治安を回復したタリバン政府のアフガニスタンが攻撃されたのです。これは明かにとんでもない拡大解釈に基づく復讐でした。 仇討ちは復讐の連鎖を呼ぶ。だからそれは悪であると規定して、近代世界は仇討ちを禁じてきました。それは国家においても変わることのない真理であると私は思います。米国とブッシュはそれを破りました。 国内の荒廃は内戦である南北戦争による破壊が最も大きく、独立戦争は米国建国前の出来事とすると、本土を敵に攻撃されたのは、1812年の米英戦争の時しか経験のない(因みに、米国国歌「星条旗よ永遠なれ」はこの戦いの際に作られた曲です)米国人は、当時植民地ハワイの海軍基地真珠湾が攻撃された以上のショックを受けたのでしょう。理性では理解できるはずの、アフガン攻撃の不当性は無視され、反 対派への嫌がらせすら続出する中で、アフガン攻撃は実行に移され、その後にはイラク人の政府に難癖をつけ、ここまで攻撃してしまったのです。その米国もようやく反省期に入ったのか、最近になって9:11前後に大きなテロが起きるかも知れない事を察知しながら、ブッシュ政府は意図的にそれを防がなかったのではないかと考える人達も増え、ようやく精力的な9:11前後の状況の検証が始められたようです。それにしても、今のアフガンやイラクの状況は、米国の攻撃前に比べると、惨憺たる状況にあります。米国どうするつもりなのでしょうね。
2019.09.11
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クロニクル スイス国際連合に加盟2002(平成14)年9月10日まだ17年しか経っていません。意外感を持たれる方が多いと思いますが、重い腰を上げたスイスが、ようやくにして国際連合(略称国連)への加盟を決意し、190番目の加盟国として、17年前のこの日承認されました。 永世中立国スイスは、中立政策の維持が国是となっています。それゆえ、欧州安保に組み込まれることを嫌って、欧州統合の動きにも完全に背を向け、マイペースの歩みを続けていたのですが、孤立化の回避のために、国連への加盟を決断するに至ったのです。ただ国連には加盟しましたが、ユーロ圏には入らず、EUにも加盟していません。
2019.09.10
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クロニクル イラク軍、イランを攻撃1980(昭和55)年9月9日39年前のことです。この日、イラク軍は突然シャットル・アラブ河を渡り、イランを攻撃しました。チグリス河とユーフラティス河の両河が合流した下流域のシャットル・アラブ河は、両国国境を構成していました。それは良いのですが、問題は国境線にありました。通常河川が国境となる場合、河の最深部を繋いで国境とするのが普通です。この場合でも河口に近くなると、三角州だ中洲だとややこしくなります。大河で中洲も大きく、しかもその地が資源の宝庫だったりすると、中洲のどちら側が本流かをめぐって、激しい争いが起こります。 中ソ論争の根本には、国境を流れる中国名黒竜江(ロシア名アムール河)の中洲である中国名珍宝島(ロシア名ウリンスキー島)をめぐる争いがあったことは、ご記憶の方も多いと思います。ところが、イランとイラクの場合、国境はシャットル・アラブ河のイラク側国境と定められていたのです。これでは、中洲の島々(その幾つかには、原油の埋蔵が確認されていました。)は、全てイランのものとなってしまいます。就任後日も浅く(79年7月就任)、まだ権力基盤が安定していなかったイラクのフセイン大統領は、イラン革命の進展と、イランと米国との関係悪化、イランイスラム革命の自国への飛火を恐れるサウジ、クウェート等王制諸国の思惑などを計算して、国際的支援の期待できる今こそ、対イラン国境を修正し、アラブ世界におけるイラクの地位を向上させることで、国内における権力基盤を強固なものにすることが出来ると計算して、この日、イラン領への越境攻撃に踏みきったのです。 戦闘は次第に本格化し、22日にはイランとイラクは全面戦争に突入しました。しかし、いくらイラクに国際的な支援があり、近代兵器や資金の支援が潤沢であっても、革命の意気に燃えるイラン市民の熱意、革命防衛の熱意を萎えさせることが出来ないのは、フランス革命の防衛戦争やロシア革命期の干渉戦争の顛末を見れば、明らかでした。戦争は泥沼に陥り、8年の長きに渡りましたが、フセインのイラクは、遂にイラン・イラク戦争に勝利することは出来ませんでした(停戦の実現は1988年8月20日のことでした)。イラン・イラク戦争においては、イラン革命の輸出を恐れるアラブ穏健派(親米派)諸国の政府を維持しようとする米国を中心とする西側諸国のみでなく、ソ連(当時)や中国もサウジ、クウェート、UAE等の資金提供を受けて、豊富な資金を持つイラクへの武器売却を進めており、イラクは米国製は勿論、英・仏・独さらには、ソ・中製の武器を大量に保有するにいたっていたのです。そのイラクを相手に、一歩も引かない戦いを展開したイラン軍の頑張りこそ、この戦争では評価する必要があると私は考えています。それはともかく、戦争の結果、イラクは大量の近代兵器を保有しました。クルド攻撃にフセインが使用したとされる毒ガス兵器ですが、これを生産する工場のプラントをイラクに輸出したのは西ドイツ(当時)でした。戦闘機はソ連製のミグ、ミサイルはフランス製、戦車は英・仏・中国製といった具合だったのです。イランを攻撃する者は善。こうした単純な思考が、その後のアラブ世界の問題児、フセインのイラクを作り上げた事実は,湾岸戦争でも、その後の米国のイラク攻撃(これは理不尽そのものでした)でも、意図的に隠されたままになっていました。 中東への武器輸出、今なお続けられていますね。
2019.09.09
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クロニクル マグワイア62号を放つ1998(平成10)年9月8日21年前のこの日、セントルイス・カージナルスのマーク・マグワイア選手が62号本塁打を放って、1961年にニューヨーク・ヤンキースのロジャー・マリス選手が放った61号本塁打の記録を更新しました。この年、マグワイア選手は、シカゴ・カブスのサミー・ソーサ選手と熾烈な本塁打王争いを演じており、最終的にマグワイア選手70本、ソーサ選手66本という驚異的な数字で、マグワイア選手が本塁打王に輝きました。 当時の米大リーグでは、筋肉増強剤等の薬物の使用は、問題視されておらず、マグワイア選手も、使用を認めていたのですが、後年問題視されるようになると、マグワイア選手の記録にも懐疑的な声があがり、いまだに野球の殿堂入りが出来ないでいます。
2019.09.08
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クロニクル iPod nano発売2005(平成17)年9月7日14年前ですね。この日アップルコンピューター社は、第1世代iPod nanoを発表、即日販売を開始しました。日本時間は深夜でしたから、日本での発売は1日遅れの8日となりました。iPodは、2001年10月23日にアップルコンピューター社が発売した、携帯音楽プレーヤーです。当初399ドルで売り出され、高すぎると話題となりましたが、楽曲を1000曲も取り込めることから、徐々に人気化していきました。 毎年のように第2世代、第3世代とモデルチェンジを繰り返して、若い世代の関心を惹く作戦も図に当たり、売り上げは好調を持続していたのですが、それに飽き足りず、この年、IPod nanoの発売に踏み切りました。作戦は図に当たり、以後nanoは、次々にモデルチェンジした新機種を発売したのですが、2012年9月発売の第7世代nanoを最後に、次世代モデルを投入せず、2017年7月27日をもって。販売を終了しました。
2019.09.07
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クロニクル 第二次印パ戦争始まる1965(昭和40)年9月6日54年前のことです。この日インド軍がパキスタンとの国境を無視して、パキスタン領内に侵攻しました。ここに、第二次印パ戦争が始まりました。インド及びパキスタン、それにバングラデシュ(旧東パキスタン)は、旧イギリス領インドが、イギリスからの独立の過程で、分離独立した国家でしたが、カシミール地方の帰属を巡って、両国の対立は根深かったのです。そのため、1947~48年という独立直後の時期に、第一次印パ戦争を起していました。このときカシミールは、両国の実効支配に任され、最終的な帰属は、何も決められなかったのです。そのため、その後も両国の衝突が続き、この日に始まる第二次印パ戦争となったのです。 戦争は、国際社会の要請を受け入れる形で、17日後の9月23日に停戦となり、再び以前と同じ停戦ラインへ。両国軍が撤退、今日に至っています。こうした未確定の国境を抱えるがゆえに、両国は互いに軍備の拡張を計っており、そうした事態が昂じた結果として、両国は共に核兵器を開発、保有する結果に繋がりました。何ともはや… そして最近もまた揉めてますね。
2019.09.06
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クロニクル 「宮本武蔵」の朗読始まる1939(昭和14)年9月5日80年前ですか。1939年ですから、4日前の9月1日にドイツ軍がポーランドへの侵攻を開始して、それに反発した英、仏がドイツに宣戦を布告、第二次世界大戦が始まったばかりの時でした。もちろんラジオの話です。この日NHKラジオ第一放送が、徳川夢声の朗読というスタイルで、吉川英冶の人気小説「宮本武蔵」の放送を開始したのです。放送は大変な人気で、放送時間になると、ラジオの前に人が集まり、誰もが話声一つ経てずに、放送に聞き入っていたそうです。
2019.09.05
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クロニクル 東京ディズニーシーグランドオープン2001(平成13)年9月4日 今日で19年ですか。日本で2番目のディズニーパークとして、東京ディズニーシーが誕生したのが、19年前の今日でした。 当初は、欧米でヒットしていた映画スタジオ系施設を建設する予定でしたが、マーケティングの結果、急遽方針を変更して、世界で始めて海をテーマにしたパークとして建設されました。計画は大当たりで、開園翌年の7月7日には、早々と入場者数は1千万人に達し、ディズニーランド同様、大変な人気を博しています。 着工は1998年10月22日、着工時に計上した総事業費は、約3380億円と見積もられました。
2019.09.04
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クロニクル ホーおじさん死す1969(昭和44)年9月3日50年前のこの日、ホー・チ・ミン、ヴェトナム民主共和国大統領が亡くなりました。79才でした。ホー・チ・ミンは1930年に香港でインドシナ共産党の結成に参加。41年の帰国と同時にヴェトナム独立同盟(ヴェトミン)を結成して、王政と日本軍に対する蜂起を指導、日本の降伏直後の45年9月、ヴェトナム民主共和国の独立を宣言しました。しかし、旧宗主国のフランスがこれを認めず、大軍をもって再占領に乗り出してきたため、ヴェトミンを指揮して、抗仏救国の長期戦を指導、51年ヴェトナム労働党の結党と同時に、中央委員会の主席に就任しました。 人民の海に隠れたゲリラ戦術を編み出した、ボー・グエン・ザップ将軍を司令官に、54年ディエンビエンフーにフランス軍を破り、同年のジュネーヴ協定で、17度線の北の独立を獲得、南については、2年後に住民投票を行って帰属を決定することで妥協しました。しかし、今度はソ連との冷戦を展開中のアメリカが介入、ゴ・ジン・ジエムという傀儡を仕立てて、住民投票を拒否、ヴェトナム南部を事実上支配下においてしまいました。そのため、ホー・チ・ミンは、北における社会主義建設を進めながら、南部ヴェトナムの解放と祖国の再統一のために戦うことになったのです。ヴェトナム国民は、南北を問わずホー氏を慕い、親しみをこめてホーおじさんと呼んでいました。質素を旨とし、決して贅沢をしなかったホー氏の方針から、ヴェトナム社会は社会主義国の中でも、最も所得格差の低い国として知られ、所得の高い、党や軍の幹部と一般市民や一般兵士との所得差は、1:7以下だったと言われています。 彼の死去した1969年は、なお南ヴェトナム戦争の最盛期にあたっており、さぞや心残りの多い旅立ちだったのではないかと、私も思います。しかし、ホー氏の死によって、かえってヴェトナム市民の一体感は強まり、73年のパリ協定を経て、75年の南ヴェトナム解放に繋がってゆきました。ホー・チ・ミンは、20世紀を代表する、偉大なカリスマの1人だったと言えましょう。
2019.09.03
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クロニクル ロンドン大火1666(寛文6)年9月2日353年前の今日、午前1時頃パン屋さんの火の不始末から、火災が発生。市内の85%を焼き尽くして、4日後の5日午後、ようやく鎮火しました。火災の規模が大きかった割に、死者は少なく5名にとどまりました。当時のロンドンは、ほとんどの建物が木造だったために、燃え広がる火災を止めるすべがなく、大火災となったようです。この火災が契機となって、世界で初めて火災保険が考案されて、人気となりました。
2019.09.02
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クロニクル 北オセチア共和国で学校占拠事件発生2004(平成16)年9月1日 15年前のこの日のことです。ロシア連邦を構成する北オセチア共和国のベスランで、チェチェン共和国の独立を目指す過激派が、小学校を占拠する事件がおきました。 夏休み明け直後の出来事でした。プーチンロシア大統領は、武力弾圧を考え、2日後の3日に突入を決行、人質の生徒や先生など、350人以上が死亡、重軽傷者650人以上という大惨事となりました。 乱暴すぎる解決法が、世界的非難を浴びた事件でした。
2019.09.01
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