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クロニクル 解放戦線サイゴン入城1975(昭和50)年4月30日44年前のこの日、日本時間の午前11時15分、南ヴェトナムのズオン・バン・ミン大統領はテレビで北ヴェトナム軍と南ヴェトナム解放民族戦線軍への無条件降伏を宣言しました。サイゴン市民が歓呼の声をあげる中、解放勢力は南ヴェトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)市に無血で入城しました。ヴェトナム戦争が終結した瞬間でした。1962年頃に始まる、南ヴェトナム解放のための戦いは、64年に始まるアメリカ軍の本格的な介入によって、泥沼の戦いとなり、解放戦線とヴェトナム民衆による民族的な抵抗は、次第に「小よく大を制す」戦いに転化して、世界の注目を集めたのでした。 そこには巨像と戦う蟻の如き、ヴェトナム民衆の不屈の戦いがありました。巨額の戦費負担からドル危機を招いたアメリカは、ヴェトナム戦争に介入し続ける財政的な裏づけを欠き、かつジャングルでの戦争で、兵士の戦闘意欲を保ち続けることが出来ず、遂に73年には撤退に追い込まれていました。このため、アメリカの後ろ盾を失った南ヴェトナム政府の崩壊は時間の問題となっていたのです。1945年8月の日本軍の降伏後、戻ってきた旧宗主国フランスと独立戦争を始めて以来、実に30年目のことでした。
2019.04.30
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クロニクル 一高、三高の誕生1886(明治19)年4月29日133年前になります。この年4月10日に公布された中学校令によって、全国を5つの区に分け、夫々の区に1校、全国に5校(第一から第五まで)の高等中学校を置く事が決められました。 夫々の区とは 第一区 (関東+山梨、愛知、静岡、長野) 第ニ区 (東北) 第三区 (関西、中国、四国+岐阜) 第四区 (新潟、富山、石川、福井) 第五区 (九州)の5区でした。北海道と沖縄は当時特殊な立場にありましたから、対象区域に含まれなかったのです。こうして誕生したのが、東京の一高、仙台の二高、京都の三高、金沢の四高、熊本の五高という旧制高等学校です。ただ、このうち、中学校令が公布された、同年のうちに開校したのは、この日4月29日に設置が発表された一高と三高の2校だけでした。他の3校は翌年設置されました。 初等教育は明治6年から設置が進められますが、なお日本の近代教育は黎明期にあったため、教育上のノウハウの蓄積が少なく、初等教育と高等教育を繋ぐ中等教育校の設置はゆっくりとしか進めることができなかったのです。さて、一高は、既にあった東京大学の予備門を第一高等中学校に改称し、三高は大阪の大学分校を第三高等中学校に改称して誕生したものでした。当初三高は大阪にあったのですが、3年後に京都に移転します。 そして、この高等中学校の名称は、日清戦争の始まる明治27年には高等学校と改称され、名実共に旧制高校の実質が備わっていったのでした。
2019.04.29
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クロニクル マンデラ大統領誕生1994(平成6)年4月27日もう25年経つのですね。この日南アフリカ連邦共和国において、初めての全人種参加による国政選挙が行なわれました。その結果ANC(アフリカ民族会議)が勝利し、議長のネルソン・マンデラ氏が大統領に就任しました。マンデラ氏は、早くからANCの活動に加わり,歴史上他に例がないといわれるほどに世界の注目を浴びた、南アフリカの人種隔離政策(=アパルトヘイト)に対し、敢然と戦いを挑みました。こうした抵抗運動の指導者として、南ア政府に警戒され、1962年に逮捕されると、政治犯として国家反逆罪に認定され、終身刑となって、64年ロベン島送りになりました。ロベン島などでの囚人生活は26年に及びましたが、非転向を貫き通して、1990年遂に釈放を勝ち取ると、ただちにANC副議長に復帰し、翌年議長に就任。全人種参加の選挙と国民和解を強調して、国内対立の先鋭化を避けようと腐心しました。94年の選挙はこうして実現し、マンデラ氏が大統領の椅子についたのです。大統領としてのマンデラ氏は、民族の和解と協調を呼びかけました。彼はまた、アパルトヘイト体制下での白人と黒人の対立意識を捨て去ること、貧富の格差を是正すること、さらには黒人間の対立の解消や経済不況からの回復を目指して、新生南アの礎を築きました。99年に81歳で政界を引退、その後はユネスコ親善大使などを勤めましたが、2013年12月に95歳で永眠されました。
2019.04.27
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クロニクル 1ドル360円体制の誕生1949(昭和24)年4月23日70年前のこの日、GHQ(連合国軍日本占領軍司令部)は、円に対する公式為替レート設定の覚え書きを、日本政府に交付しました。その結果、翌々25日から、1ドル=360円の単一の為替レートが実施されることになりました。1971年8月のニクソンショックまで続く、日本の輸出産業にとって、後年大変居心地の良かった為替レートはこうして決まりました。 しかし、設定当初はかなりの混乱がありました。当時は、物品毎に異なるレートで取引されていたからです。 例えば、塩の輸入は1ドル=103円、生糸の輸出レートは1ドル=420円、陶磁器のそれは1ドル=600円といった具合だったのです。 この単一レートの設定で、輸入品は割高になり、輸出品は値下げしないと売れない状況になりました。ところで、この単一為替レートは、日本経済の健全化を目指すドッジラインに沿ったもので、超均衡予算の実現とインフレの収束を目指す上で、欠かせない一里塚でもありました。 そして、この結果、日本経済とアメリカ経済との結びつきは非常に強固なものとなったのです。「アメリカ経済がくしゃみをする(軽い風邪の意でしょうか)と、日本経済は肺炎を患う」と自嘲的に語られるようになるのは、昭和30年代のことでした。目の調子が悪く、数日PCに触らずにおりました。ボチボチ更新してゆきます。皆様の所へお邪魔するのも、トビトビになりそうですが、お許しください。
2019.04.23
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クロニクル 中国IMFに加盟1980(昭和55)年4月17日39年前になります。この日中華人民共和国(略称 中国)がIMF(国際通貨基金)への加盟を認められ、正式メンバーとなりました。その結果、国際貿易の促進等、国内体制の整備も進み、中国の近代化が加速することになりました。当然外資の受け入れも、この時から動き始め、90年代からの急激な経済成長への下準備が進むことになりました。 中国の現在に至る近代化、工業大国化への出発点となるメモリアルとして、見落とせない出来事でした。今では、中国のIMFへの出資金の引き上げをどこまで認めるかが議論になるのですから、中国経済、問題を抱えるとはいえ、よくぞここまで伸びたものですね。
2019.04.17
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クロニクル 「少年よ大志を抱け」1877(明治10)年4月16日 「少年よ大志を抱け」は、言わずと知れた札幌農学校でのクラーク博士の、卒業生へのはなむけの言葉であり、同時にお別れの言葉でした。クラーク博士は、当時マサチューセッツ農科大学の学長の職にありましたが、日本政府の要請も断りがたく、大学の長期休暇を利用する形で、札幌農学校の礎石を築きに1876年7月に来日しました。9月~4月16日まで札幌に滞在。札幌農学校(現北海道大学)の教頭として、学校の礎石を築きました。形式的には他に名誉職的校長がいたことになりますが、実質的には校長は存在せず、クラーク博士は事実上の校長であったとされています。 初代の北海道開拓使長官の黒田清隆(後首相)に問われて、農学校の校則は「紳士たれ」の一言で良いと、アドヴァイスした話も有名です。博士は卒業生に表記の言葉を送ったあと、142年前のこの日、札幌農学校を去り、しばらく東京に滞在、5月にアメリカに戻りました。
2019.04.16
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クロニクル 本邦初の本格的ターミナルデパート開店 1929(昭和4)年4月15日90年前のことです。この日、大阪梅田に日本初の本格的ターミナルデパート、阪急百科店が開業しました。地上8階地下2階からなるビルのうち、1階が阪急梅田駅、2~6階が商品売り場、7、8階が客席数4,000、ライスカレーを最大の目玉商品とする大食堂という構成でした。 阪急電鉄の小林一三社長が、梅田に5階建てビルを建てたのは、1920年のことでした。この時は2階に自社経営の食堂をおきましたが、1階は百貨店の白木屋(今の居酒屋チェーンは関係ないですよ)に任せ、デパート経営の採算やノウハウをじっくりと観察したのです。 そこから自信を持った小林は、1925年に同ビル内に阪急マーケットを開店、27年から新しい高層ビルの建築にとりかかったのです。当時の日本は経済不況に苦しんでいたのですが、不況下をものともせず、百貨店の経営は順調に伸び、数度の拡張工事を経て、3年後の阪急百科店は、大阪随一の大百貨店に成長したのです。
2019.04.15
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クロニクル リンカン狙撃さる1865(慶応元)年4月14日 彼の死から今年は154年になります。米国を2分した南北戦争の終了から間もない頃でした。日本では幕末の動乱いよいよ激しく、志士たちの活躍も目立ってきた頃です。 大統領2期目に入り、いよいよこれからという時期、ワシントンのフォード劇場を観劇のために訪れたリンカンは、劇場内で狙撃され、重傷を負いました。すぐに病院に運ばれたのですが、翌15日未明に息を引き取りました。もう少し、彼の2期目の施策を見たかったですね。それにしてもアメリカは民主主義国家という割りには、困ったことに暗殺による死者が、多いです。 銃所持の自由がもたらす負の面ですね。
2019.04.14
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クロニクル ソ連軍ウィーン占領1945(昭20)年4月13日74年前の、第2次政世界大戦の一齣です。この日ソヴィエト赤軍はオーストリアの首都ウィーンを占領しました。ドイツの命運は、ここに尽きることになりました。ソ連軍のオーストリアへの侵攻は、4月2日~3日にかけて始まりました。それからわずか10日で、首都ウィーンは陥落、ドイツ軍はオーストリアを放棄して、本国へと敗走しました。
2019.04.13
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クロニクル フランクリン・ローズヴェルト大統領死去1945(昭和20)年4月12日 日本の敗戦の年のことです。ちょうど74年前ですね。対日戦争と事実上の対独戦争の2つの戦争を指揮し、米国を勝利に導いたフランクリン・ローズヴェルト大統領が、この日の昼食前に脳卒中で倒れ、帰らぬ人となりました。ただちに、副大統領のトルーマンが大統領に就任しました。ローズヴェルト大統領は、1921年に39歳でポリオに罹患し、生死を彷徨いましたが、妻エレノアの献身的な介護もあって一命をとりとめたのですが、下半身がほとんど麻痺するという、重度の障害者となり、以後車椅子を常用する生活を送りました。ですから、ローズヴェルトは障害者の大統領であり、車椅子の大統領だったのです。その彼が初代のワシントン以来、2期8年をもって勇退することを不文律とする、歴代大統領の慣行をやぶって、3期目と4期目に挑戦したのは、第二次世界大戦中という非常時に応じたもでしたが、その後は、多選禁止が憲法の修正条項として、加えられました。 彼が健在であっても、日本への原爆投下は、果たしてなされたのでしょうか。この問の答えは、永遠の謎になりました。
2019.04.12
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クロニクル 竹薮に札束の山1989(平成元)年4月11日 「ウラの畑でポチが鳴く 正直爺さん掘ったなら 大判小判がザックザックザクザク…」と子どもの頃歌っていました。そんなお伽噺が、現実に甦ったかのような話が、30年前の今日起きました。 我々がこのことを知ったのは、翌日の新聞朝刊によってのことでした。そうなんです。金額の大きさから、御記憶の方も多いと存じます。この日、川崎市高津区の竹薮に、捨てられていたバッグの中から、大量の1万円紙幣が発見されました。その額なんと、1億4522万円という、破天荒な金額でした。時あたかもバブル景気の真っ只中。誰も日本経済が、バブル崩壊によって、長い苦しみの時を迎えるとは、まだ気付いていない頃でした。 結局このお金、最後まで落とし主が現れず、多額の現金は、届出人のものとなりました。やはり表に出せない性格のお金だったのでしょうね。この竹藪、我が家から車で15分ほどの場所なんです。近くに友人が住んでいて、事件の報道から数か月は、物見高い野次馬が、入れ替わり立ち代わり現れるので、ご近所一同往生したと話していました。
2019.04.11
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クロニクル 君の名は…と~1952(昭和27)年4月10日 本日も[鉄腕アトム」と同じく67年前のお話です。ラジオドラマの名作「君の名は」の放送が、この日始まりました。劇作家菊田一夫の代表作となったNHKの番組です。 当時の日本では、自宅に内風呂のある家庭は少なく、この番組の放送時間中は、女湯は空になり、閑古鳥が啼いていると言われたものです。 「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ…」と語る来宮良子さんのナレーションが流れ、すかさず「君の名はと 訪ねし人あり その人の名も知らず…」織井茂子さんの歌声が流れる冒頭は、今でも何となく覚えています。 気の毒だったのは、同級生に春木君という男の子がいたことで、先生が春木と彼の名を呼ぶたびに、クラス中がどっと沸いたことです。それほど、小学生の間にも、春樹と真知子の名は、知れ渡っていました。勿論、数寄屋橋は東京で1番行ってみたい場所のダントツの1位をしばらく続けていました。
2019.04.10
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クロニクル 富士山頂所有権訴訟が決着1974(昭和49)年4月9日 富士山、日本人なら誰もが知っている名峰冨士。この富士山の山頂の所有権を巡って、国と富士山本宮浅間大社とが法廷闘争を繰り広げていたのですが、この所有権争いが、45年前の今日、最高裁で決着しました。この日の最高裁判決は、国の主張を避け、富士山の八合目以上の土地のうち、登山道と旧富士山測候所の敷地を除く約385万平方メートルが、富士山本宮浅間大社の境内地であると認定しました。ここに、富士山山頂を含む八合目以上の土地が、富士山本宮浅間大社の奥宮の敷地であることが確定しました。ただ、富士山のどこが、静岡県と山梨県の県境であるかが確定していないため、この地の登記はできない状態が続いていたため、国は判決直後に土地を引き渡すことをせず、その後も30年にわたって土地を所有しつけたのですが、2004(平成16)年12月17日に至って、ようやく8合目以上で国が登記していた土地のうち、上記の385万平方メートルを、神社側に無償譲渡する通知書を神社側に手渡しています。ただ、県境問題は未だ解決せず、神社側はなお登記できない状態が続いています。
2019.04.09
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クロニクル 三省堂書店創業1881(明治14)年4月8日 辞書の三省堂、神田神保町の三省堂書店、ご存知ですよね。その三省堂書店が、138年前のこの日、処も同じ神保町で古書店として産声をあげました。 創業者は亀井忠一・万喜子夫妻。2年後の1883(明治16)年に、新刊書店に業態を転換しました。その翌年1884(明治17)年には、出版事業に進出し、辞書編纂業務を開始しました。この出版部門は、印刷部門と共に1915(大正4)年に独立し、出版社の三省堂となりました。家永三郎先生の教科書裁判、版元が三省堂だからこそ、著者と出版社のタッグが組めて、長期の裁判に耐えられたのですね。
2019.04.08
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クロニクル 鉄腕アトム誕生1952(昭和27)年4月7日 私が、小学校の4年生になったばかりの時だったのですね。アトムも今日で67歳ですか。67年前のこの日、手塚治虫さんの「鉄腕アトム」が光文社の月刊雑誌『少年』誌上に初登場、1968年まで11年間に及ぶ長期連載がスタートしました。 「鉄腕アトム」は、連載中の1963年~66年にかけて、日本で初めての国産テレビアニメとしてアニメ化され、フジテレビ系列で放映されたのですが、放映中の平均視聴率が30%を超えるという人気番組になりました。 「10万馬力だ 鉄腕アトム…」という、あの軽やかな歌声と、馬力という昔懐かしい言葉遣いが、今でも耳に残っています。皆さんはいかがですか。
2019.04.07
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クロニクル 「ひょっこりひょうたん島」始まる1964(昭和39)年4月6日もう55年も前のことになるのですね。あの懐かしいメロディ、 「…… ひょうたん島はどこへ行く 僕らを乗せてどこへ行く …… 進めひょっこりひょうたん島 ひょっこりひょうたん島…」あの人形劇「ひょっこりひょうたん島」の放送開始が今日なのです。 遠足に来ていたひょうたん島が、火山の爆発で陸地から離れ、世界の海を漂流する話です。ひょうたん島大統領ドン・ガバチョ、その良いコンビのトラヒゲ、マシンガン・ダンディにサンディ先生といった大人陣に、博士、ダンプ、チャッピらの子ども達。 井上ひさしの脚本は、ミュージカルのように作中歌を多用したユニークな作風もあって、大ヒット作品となったのでした。一時NHKの衛星放送で再放送していましたが、いまだビデオ録画がなかった時代なのが惜しまれますね。
2019.04.06
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クロニクル 森善朗自民党総裁に2000(平成12)年4月5日19年前の話です。この日の3日前、4月2日夕刻、小渕首相が脳梗塞で倒れ意識不明の重態となり、4日には小渕内閣が総辞職する事態となりました。 首相の病気退陣は、戦後に限ると3人目(現職首相のまま死去した大平正芳首相は、死亡による退陣ですから除きます)でしたが、石橋湛山首相も池田勇人首相も、共に本人が後継者を指名して退陣していました。しかし、小渕首相は倒れてしばらく後には、意識不明に陥りましたから、後継指名はありえず、当時の自民党の5人のボスによる密室の談合によって、後継者に押されたのが森善朗でした。こうして、いかにも古色蒼然とした村夫子然とした森善朗が、この日自民党総裁となり、さらに同日中に自民・自由・公明3党連立による森内閣が誕生しました。しかし、村夫子の森には、首相の座は重すぎ、翌年7月には退陣することなりました。
2019.04.05
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クロニクル 「おしん」放映開始1983(昭和58)年4月4日36年前のこの日、NHKは橋田寿賀子脚本の、朝の連続テレビ小説「おしん」の放映を開始しました。 「おしん」は明治の後半に山形県の寒村で貧農の子に生まれた女性の半生記。奉公先での苦労と理解ある大奥様。幸せと思える結婚と姑のイビリなど、幸福と苦難の山場が交互に設けられていたことから人気を呼び、平均視聴率52%、最高視聴率65%という、お化け番組となりました。 主婦がテレビに釘付けとなるため、この時間帯の水道使用量が大きく減るなどの社会現象が生まれ、おしんは辛抱する人の代名詞となり、「おしん横綱」などの言葉も生まれました。アメリカ、中国、オーストラリアや東南アジアの国々からの放映希望も殺到、各国でも大変な人気を博し、来日した中国の胡燿邦総書記がおしんを讃え、経済成長を支えた日本人の生き方の一つの典型を伝えるものとされました。 思えば、この時期が戦後日本の絶頂期だったのですね。バブルがはじけた後の日本は、ゆっくりと下り坂を下りつつあるように思えます。
2019.04.04
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クロニクル 「みんなのうた」放送開始1961(昭和36)年4月3日NHKがラジオとテレビで放送している5分間の歌番組です。この番組にお世話になった方も多いと思います。今日で58年を迎える超長寿番組です。私が大学生としての入学式を迎えた日と、ピタリ同じだったのですね。これは驚きです。 最初に放送された曲は、お馴染みの「おお牧場はみどり」でした。この曲、私は中学時代の夏期キャンプで覚えました。ですから、この番組は、昔懐かしいNHKラジオ歌謡のように、新曲を披露する番組ではなく、みんなで歌いやすい歌を取り上げて放送する番組です。このスタイルを守っていることも、長寿の秘訣なのかもしれませんね。 「山口さんちのツトム君」「ダンゴ3兄弟」「走れジョリー」などなど、ヒット曲も沢山生まれました。これまで放送された曲は1400曲近くになるそうです。
2019.04.03
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クロニクル テレビアニメ「ドラえもん」放送開始1979(昭和54)年4月2日40年前になるのですね。この日テレビ朝日系列で、月曜日から土曜日までの連続10分アニメとして、「ドラえもん」の放送がスタートしました。 当初は関東地方のみのローカル番組でしたが、やがて日曜朝の8時30分からの、30分番組となり、さらに金曜日の夜に移されました。今日まで続く、大人気テレビアニメは、こうして始まりました。80年代の後半から90年代の半ばにかけて、春休みというと、子ども達を連れてドラえもんの映画を見に行ったものです。それにしても、声優さんまですっかり代替わりしましたが、劇場用の映画を含めて、いまだに続いているのですね。
2019.04.02
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クロニクル 宝塚初公演1914(大正3)年4月1日 5年前に100周年を迎えた宝塚、よくぞ続いたものですが、いまだに大人気というのが凄いですねぇ。この間、散々な負け戦に終わった昭和の戦争と、大きな被害を受けた阪神淡路大震災をくぐりぬけているのですから。105年前の今日、「宝塚少女歌劇」(後日、宝塚歌劇団に名称変更)の初公演の幕が上がりました。約4ヵ月後に、欧州で第一次世界大戦の幕が上がるのですが、そんなことはあずかり知らぬ日本では、憲政擁護運動が盛り上がりを見せている頃でした。 会場は宝塚新温泉。5月31日まで61日間の長期公演でした。演目は桃太郎を題材とした歌劇『ドンブラコ』、『浮かれ達磨』、ダンス『胡蝶』、それに管弦楽の合奏と合唱も挿入されていたそうです。この公演の平均入場者はおよそ1日1100人。以後数年間は、お正月公演・春期公演・夏期公演・秋期公演と年4回の公演活動を行っています。5年目を迎えた1918年に東京に進出。帝国劇場に主演して人気を博し、1日平均2千人の入場者を記録しています。
2019.04.01
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