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クロニクル よど号事件1970(昭和45)年3月31日49年前のこの日、羽田発福岡行の日航機「よど」号が、富士山附近を航行中、田宮高麿をリーダーとする9人の赤軍派に乗っ取られました。有名なよど号事件です。乗客・乗員138名でしたから、129名が人質となりました。 赤軍派は、機長に日本刀をつきつけて、北朝鮮行きを要求しました。機長は燃料不足を理由に、いったん福岡空港に着陸することを求めました。空港で給油後、老人や子どもなど23名の乗客が解放されました。5時間後、よど号は北へ向って飛び立ち、いったん北朝鮮領域に入りましたが、そこから南下、韓国空軍機の誘導で、ソウルの金浦(キンポ)空港に着陸しました。 韓国政府は、金浦空港を平壌(ピョンヤン)空港であるかのように偽装して、犯人逮捕を目指したのですが、気付かれて失敗、赤軍派は3日に渡り機内にこもりました。ここで交渉役となったのが、千葉2区選出の衆院議員だった、山村新治郎運輸政務次官でした。彼は、「自分が身代わりになるから…」と赤軍派を説得、乗客の解放と引き換えに自ら捕虜となりました。こうした中、4月3日になって、北朝鮮も受け入れを表明、田宮ら9人の赤軍派は、北朝鮮への亡命という、目的を果たしたのです。 亡命先は、何故北朝鮮だったのでしょうか。当時日本の左翼勢力、とりわけ新左翼各派や共産党の間では、なお北朝鮮神話が根強く、韓国に比べて理想的な国造りが進んでいると考えられていたからです。それが社会主義を理想化しすぎた、とんでもない幻想に過ぎなかったことが露呈し、自覚化されるには、なお10年以上の歳月が必要でした。 彼ら9名のうち3名は、「北朝鮮」で死亡、2名は帰国して刑に服し、4名はなお「北朝鮮」国内で、日本への帰国を望みながら、逮捕投獄を恐れて帰国できずにいるようです。
2019.03.31
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クロニクル 第三次水俣病訴訟に判決1987(昭和62)年3月30日32年前のこの日、熊本地裁で第三次水俣病訴訟の判決が出ました。第一次、第二次の訴訟においても、チッソ工場の垂れ流した水銀との因果関係を認め、チッソの企業責任は認められていました。そうした判決の流れの中で、この第三次訴訟判決で特に注目されることは、国及び熊本県の問題企業に関する監督責任を認めた事でした。ここに、企業の環境汚染に対する行政の監督・指導責任を問い、行政の不作為を問題視する流れが、まだ弱いながらも日本の司法界にも及ぶことになりました。しかしながら、水俣病患者の認定を出来るだけ少なくしたい被告企業や行政の思惑から、患者認定を巡るトラブルは、この後も長く続いたことも、ここで指摘しておきたいと思います。
2019.03.30
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クロニクル 幕府、永代島周辺の埋め立てを許可1696(元禄9)年3月29日この日幕府は、ゴミ船で江戸市中の塵芥収集を行っている、亀井町と小伝馬町の町人2名に、永代島周辺の浚渫を許可し、蒐集した塵芥と浚渫した砂土とで、周辺を埋め立て、土地造成をさらに進めることとしました。 家康の江戸入府以来、幕府は江戸湾の干拓と埋め立てを進めてきました。埋め立てには、急速に発達した江戸の賑わいのなかで、急増する人口と活発な都市経済の影響によって、これまた急増した塵芥の処理を兼ねて、これに浚渫土をまぜて土地を造成し、急増した人口を吸収する新開地を建設する狙いがありました。こうして深川一帯などで新しい町造りが行われたのです。富岡八幡宮はその一角に建設されました。 時に赤穂浪士の吉良邸討ち入り(元禄15年です)の6年前、現在から みて323年前のことでした
2019.03.29
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クロニクル 神仏分離令出る1868(慶應4)年3月28日1868年は明治元年にもあたりますが、一世一元制を定め、それに伴い明治と改元したのは9月8日でしたから、3月の28日は、まだ慶應の内でした。151年前ですね。 西郷と勝が、江戸の無血開城で合意したのが3月14日、官軍の江戸城受け取りは4月11日ですが、ここではもう明治政府を新政府と呼ぶ事にします。この日、新政府は神仏分離令を出し、仏像を神体とすることを禁止し、神社と寺院の分離並びに仏像・仏具の神社からの撤去を命じました。これによって平安朝以来の日本の伝統であった神仏習合の伝統が破壊され、神社内の神宮寺、寺社内の鎮守神の分離独立、八幡大菩薩や熊野大権現などの習合神からの菩薩や権現号の除去が行われました。 比叡山の延暦寺にある、日吉天王社では、武装した神官が神殿内にある貴重な仏像・仏具・経典などを焼き捨てました。奈良の興福寺では、僧侶が一山還俗し、春日社が独立、五重塔だけが残る異常事態となりました。こうした神仏分離の強引な推進により、仏教は大打撃を受け、神道もまた新しい神々を戴く事になりました。ここで行われた仏像や仏具、建築物の破壊により、貴重な文化財が大量に失われました。それはタリバーンによるバーミヤンの石像破壊や、伝えられる「IS]によるメソポタミヤ文明の破壊活動よりもはるかに大がかりな蛮行でした。この蛮行がなければ、日本の仏教芸術は、現存する国宝級の仏像、仏具、建物などは、ゆうに現在の3倍を超えていたと言われています。数年後、行き過ぎを察知した政府は、軌道修正を図りましたが、国家神道の編成は、一層大々的に行われてゆきました。
2019.03.28
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クロニクル ガガーリン死す1968(昭和43)年3月27日ガガーリンの名は、年配の方ならどなたも記憶されていることと思います。そうです。人類初の宇宙飛行士となった、ユーリイ・ガガーリンその人です。 彼がヴォストーク1号に乗って、世界初の有人宇宙飛行に旅立ったのは、1961年4月12日のことでした。彼の乗った宇宙船は、大気圏外に出て、地球周回軌道を1周して、再び地球に戻りました。この間1時間50分ほどの旅でした。 地球に戻ったガガーリンの「地球は青かった」は有名ですね。見事に地球に生還した彼は、一躍と時の人となり、ソ連の広告塔の役割も果たしていたのですが、惜しいことに51年前の今日、飛行指揮官となるための訓練飛行中に、同乗の教官と共に、飛行機事故で墜落死したのです。34歳の若さでした。
2019.03.27
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クロニクル カチューシャ可愛や別れのつらさ...1914(大正3)年3月26日 今年で105年になるのですね。105年前のこの日、帝国劇場で芸術座の公演、トルストイの「復活」が初演の幕を上げました。 翻案と脚色島村抱月、主演は松井須摩子と山田隆也という顔ぶれでした。当時芸術座は、劇中歌を得意としており、ここでも主演の松井須摩子が「カチューシャ可愛や、別れの辛さ...」と、中山晋平作曲の「カチューシャの唄」を歌って大ヒットとなり、それが評判となって、劇への関心を高めたため、帝劇の舞台もまた連日満員の盛況を続け、大成功を収めました。 帝劇後、芸術座は全国を巡演して歩き、新劇の大衆化にも、大いに貢献しました。何しろカチューシャの名を冠した櫛、リボン、絵葉書なども、大変な人気となり、随分売れたそうですから...。 主演女優の松井須摩子は、島村抱月との熱愛が発覚したことから、文芸協会を除名され、前年に島村等と共に芸術座を結成、「復活」の大成功と共に、女優としての絶頂期を迎えました。しかし、「好事魔多し」とは良く言ったもので、4年後の1918(大正7)年11月にスペイン風邪で、島村抱月が急死すると、須磨子は生きる気力を失ってしまい、「カルメン」公演中の1919年1月5日、後追い自殺で自ら命を絶ちました。 大正期を代表した大女優は、こうしてファンの前から姿を消したのです。
2019.03.26
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クロニクル 釜石の高炉閉鎖1989(平成元)年3月25日 昭和が平成に変った年、そしてフランス革命200年の節目の年、ベルリンの壁崩壊に象徴される東欧革命の年。30年前は、そんな大きな潮目の変化があった年でした。そしてこの日、新日本製鉄釜石製鉄所の最後の高炉が火を落としました。釜石は近代日本における鉄鋼生産の発祥の地でした。その創業は、官営八幡製鉄所の影に隠れていますが、1880年に操業を開始し、86年には利益を計上して操業を軌道に乗せていますから、1901年操業の八幡製鉄所よりも、ずっと老舗なのです。 日米戦争の過程で、米軍の艦砲射撃の標的とされ、壊滅しますが、戦後の1950年には復興を遂げ、合併前の富士製鉄の主力工場の1つとなりました。しかし、高度成長の後半、1970年の新日鉄発足と共に、設備の縮小に軸足が移り、この頃から社員の縮小が始まりました。1980年には大型工場は閉鎖され、そして30年前のこの日、遂に最後の高炉の火が消えたのです。 現在は、棒線事業部のみが残り、僅かに310人の社員が線材圧延設備を動かして、仕事をしている状態になっています。ブロ友の「じゅぺ理」さんの郷里ですから、彼が時折「釜石嘆き節」とも言うべき内容を綴るのも頷けます。その町が今、大きな津波の被害を受けた町のひとつとなり、再建に向けての長い道のりを歩み始めています。ラグビーワールド杯日本大会における会場のひとつとなり、スタジアムが建設されましたが、宴のあとに維持できるのか? 私は宴のあとを心配しています。
2019.03.25
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クロニクル コソボ空爆1999(平成11)年3月24日 当時のコソボは、新ユーゴスラヴィア(セルビア+モンテネグロ)の1自治州でした。地理的には、アルバニアとマケドニアに接するセルビアの最南端の地域にあり、アルバニア系住民が7、セルビア系住民が3の割合で混住していました。90年代、旧ユーゴスラヴィアを構成していたスロベニア、クロアティア、ボスニア、マケドニアなどが、次々に独立を達成(それはスロベニアを除けば、民族紛争という大きな困難を伴ったのですが...)すると、セルビア系住民ばかりが優遇される状況に、不満を募らせていたアルバニア系住民によって、コソボ独立運動が始められ、その運動は燎原の火の如くに広まったのです。セルビア政府は、コソボのセルビア系住民の保護という名目で出兵、アルバニア系住民の独立運動を徹底的に弾圧しました。1部ではボスニアで行ったような大量の住民虐殺も行われたと言われます。こうした状況下で、20年前のこの日、NATO軍が国連安保理の決議も要請もないことを無視して、コソボのアルバニア系住民の保護を錦の御旗に、セルビア軍及び軍施設に対する空爆を実行したのです。 NATOはさらに地上部隊をも派遣して、セルビア軍を圧倒、コソボではアルバニア系住民が優位に立ちました。こうして、コソボの形勢は逆転したのです。その後のコソボでは、アルバニア系のコソボ独立を目指す勢力の独壇場となり、2007年11月選挙では、コソボ独立を目指す、コソボ民主党が第1党となり、翌年2008年2月にコソボ自治州議会は、セルビアからの独立を宣言、コソボ共和国を名乗りました。セルビアはそれに反発、国内に民族紛争の火種を抱える国々は、自国への飛び火を警戒して、コソボを独立国家として承認することを控えたため、今日まで、独立を承認した国々は、111ヶ国にとどまっており(2015年7月現在)、85ヶ国は承認を拒否しています。お膝もとのEUでも、 スペイン、ギリシア、ルーマニアなどが承認に反対しており、EUとしての一致した行動は取れないでいます。このためコソボの将来は、いまなお不透明な状態にあります。ロシアの拒否権で国連安保理の承認が得られず、現在もコソボは国連の管轄下における自治しか認めれれていないからです。NATO軍の行動、ウクライナに対するロシアの行動よりも、ずっと露骨で傍若無人の行動でした。国際政治では、あちこちで二重基準がまかり通っていますので、要注意です。
2019.03.24
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クロニクル 中国縦貫自動車道全線開通1983(昭和58)年3月23日36年前になります。この日中国縦貫自動車道の最後の区間が完成しました。総延長は540,1kmで、東北自動車道に次いで、日本で2番目に長い高速道路です。1964年に、建設が決定した際には、中国地方で1本のみの高速道路と考えられましたので、山陽側からも山陰側からも、ほぼ等距離の中国山地沿いに計画されました。しかし、当時の土木技術では(建設着工は1970年)、長いトンネルを掘ることが難しかったため、山肌をぬうように建設されました。そのため、高速道路にしてはアップダウンやカーブが多く、延長キロ数が長くなった経緯がありました。その後計画が変わって、山陽道と山陰道が相次いで建設されたため、現在はお盆やお正月を除けば通行車輌は非常に少ない閑散道路になっています。関東方面から山陰へ抜けるには、便利な道路ですが、最初から山陽道や山陰道が計画されていれば、この道路は作られなかったでしょうね。こういう日本政治の悪習、安倍自民党になってから、またもや復活していますね。この人たちが跋扈する日本政治では、増税しても、財政再建には繋がらず、税の無駄遣いが増える。今回の消費税再引き上げでは、上げる前から、わけのわからぬバラマキ計画が次々にぶち上げられています。なんともひどい政治状況ですね。これでは、財政再建にはつながりそうもありません。
2019.03.23
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クロニクル ダークダックスデビュー1957(昭和32)年3月22日メンバーで一番若かった、トップテナーのバクさんが亡くなって8年になります。レコードデビューから今年で62年。2016年には、バリトンのゲタさんと長期療養中のマンガさん(セカンドテナーでメロディパート担当)があいつで亡くなり、今も健在なのはバスのゾウさんだけになりました。そのゾウさんも88歳。歌声を生で聞かせていただくのは、もう無理なのかもしれませんね。ダークダックスは、御存知の通り、全員慶應義塾大学経済学部の出身です。同大学の男声合唱団、ワグネルソサエティのメンバーで構成されたグループです。その団結力が、音楽グループにありがちな仲間割れを起こすことなく、超長期の活動を可能にしたのでしょうね。グループの結成は、1951年のクリスマスパーティで、まだ入学前のバクさんを除く3人が、「ホワイト・クリスマス」の合唱を披露したのがきっかけでした。やがて、遅れて入学したバクさんが加わり、4人編成になりました。 当初は、ジャズや黒人霊歌を歌っていたのですが、ロシア民謡の『ともしび』をレコーディングして、この日メジャーデビュー。あのきれいな歌声とハーモニーが歓迎されて大ヒット。一躍人気グループとなりました。 結局この年だけで、6枚ものアルバムを発売する程のブームを呼び、歌謡界にコーラスブームを巻き起こしました。
2019.03.22
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クロニクル 高松塚古墳で......1972(昭和47)年3月21日47年前のことです。この日、奈良県明日香村の高松塚古墳の発掘調査中に、極彩色の壁画が発見されました。 古墳内部の石室に、白虎や青竜、金箔の星座や男女の像が色鮮やかに描かれていました。明日香村の依頼で、調査を担当していた橿原考古学研究所が発見、発表したのです。 当時の考古学界では、近畿地方には装飾古墳は無いとする考え方が、定説の地位を占めていましたので、この発見は、定説を覆す大発見として、当時の考古学会及び、日本の古代史学会に大きな波紋を呼び起こし、好事家を巻き込んで古代史ブームが盛り上がったのは、この後のことでした。しかし、この高松塚古墳の主は、いったい誰なのでしょうね? 実は現在でも謎のままで、埋葬者が誰かは、皆目分かっていない,古代史の謎のままなのです。そこがまた古代史のロマンなのでしょうね。その後、高松塚古墳周辺の古墳の発掘調査も進み、2009年~10年にかけての調査で、同じ明日香村の牽牛子塚(かんごしづか)古墳が、八角形の古墳であることが分かり、天智・天武両天皇の母后として知られる斉明天皇の陵墓であることが、考古学会と古代史学会とで、確認されました。(ただし、頭の固い宮内庁は、過去に発表した陵墓の見直しを、いまだに100%確定ではないからとして、なお拒否しています。この牽牛子塚古墳の調査中に、隣接地にいままで未発見だった古墳があることが確認され、調査の結果、斎明天皇の孫にあたる大田皇女の墓であると認められています。この古墳は、越塚御門古墳と名付けられました。
2019.03.21
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クロニクル 第1回WBCで日本チーム優勝2006(平成18)年3月20日13年前の今日だったのですね。あのキューバ戦。8回に追い上げられて6:5、やはり強豪、危ないかなぁと思った9回表、一挙に4点を取った攻撃に、しびれました。奇跡が起きての優勝でした。そうです。13年前の今日が、第1回ワールド・ベースボール・クラシックの決勝戦が行われた日なのです。 最初の予選ラウンドで韓国に敗退、アメリカに移っての第2ラウンドでは、世紀の誤審問題もあって米国に惜敗、韓国にも再び惜敗して、2時予選敗退の危機にたちましたが、ここでメキシコが、再び起きた誤審に奮い立って、米国に勝利したことに恵まれ、3チームが1勝2敗で並び、得失点差で2位に入り、決勝トーナメントに残ったのでした。 準決勝では6:0と韓国に圧勝。この日の決勝では、初回と最終回の4点が効いて、10:6でキューバとの激闘を制したのでした。 3年後、2009年の第2回WBCでも、決勝で韓国を破って再び優勝したのですが、2013年の第3回WBCでは、準決勝でプエルトリコに3対1で敗れ、3連覇は適いませんでした。 続く2017年の第4回WBCでも準決勝でアメリカ合衆国に2対1で敗れ、再び優勝を逃しました。この大会4回目にしてアメリカ合衆国が初優勝を飾りました。
2019.03.20
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クロニクル 『日本沈没』発売1973(昭和48)年3月19日46年前のこの日、小松左京氏の出世作『日本沈没』が、光文社のカッパノベルスとして、上下2巻が、同時に発売されました。この作品は、未発表の書き下しで、小松市は東京オリンピックのあった1964年から書き出して、9年間を経てようやく完成に至った、渾身の作でした。 当時は、田中角栄首相が今太閤ともてはやされ、彼の唱えた「日本列島改造論」がブームを呼んでいました。それゆえ、この作品は、ばら色の未来を描いて、強気一辺倒に傾いていた日本社会に警鐘を鳴らすものとして、驚きをもって迎えられました。 当初上下2巻とも、3万部の発行だったのですが、その衝撃の構想が社会に受け入れられ、何度も版を重ねるベスト・セラーとなリました。同年秋に発生した石油ショックで生じた社会不安が、同書の人気を高め、翌年春にかけて爆発的な売れ行きを見せました。 光文社の発表によると、同書は上巻が204万部、下巻が181万部と、当時空前の売り上げを記録し、超のつく大ベストセラーとなりました。 映画界もこの大ベストセラーを見逃すはずもなく、映画化権を獲得した東宝は、翌年の正月映画として製作を急ぎ、橋本忍脚本、森谷司郎監督で撮影したフィルムを、同年の12月29日から公開しました。 映画も大ヒットし、88万人の観客を動員し、興行収入は約16億4千万円と、74年度の邦画部門でダントツのトップとなりました。2006年の再映画化もヒットし、邦画の興行収入で第4位という好成績を残しました。
2019.03.19
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クロニクル 人類初の宇宙遊泳成功1965(昭和40)年3月18日 54年前のこの日、ソ連の有人衛星ボスホート2号に搭乗中のレオノフ飛行士が、人類初の宇宙遊泳に成功しました。 宇宙空間を巡る米ソの開発競争は、有人人口衛星の打ち上げに続き、宇宙遊泳についてもソ連が米国をリードしていました。この後米国も必死の巻き返しを行い、衛星による月面着陸と上陸では初めてソ連に先んじ、名誉挽回に成功しました。 現在では、いったいいくつの衛星が地球上空の宇宙空間を飛びまわっているのでしょうか。御用済で、宇宙ゴミと化した衛星の残骸もたくさんあるようですね。また放送用、気象用などといった衛星もあって、用途の多様化も進んでいますが、何といっても軍事衛星と偵察衛星が最も多いことは、意外と知られていないようです。
2019.03.18
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クロニクル 沖縄米軍の永代借地構想1954(昭和29)年3月17日65年前のこの日、沖縄の米民政府は、地代を一括払いすることで、軍用地に永代借地権を設定する構想を発表しました。この構想は、当然現地住民の激しい反発を呼び、第一次土地闘争と呼ばれる基地拡大反対闘争に繋がりました。
2019.03.17
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クロニクル イタリアで前首相誘拐事件発生1978(昭和53)年3月16日41年前のイタリアでの出来事です。この日、イタリアの左翼過激派「赤い旅団」は、首相在任時に仲間を逮捕・投獄したモロ前首相を誘拐し、仲間の釈放を求めました。しかし交渉は決裂し、モロ前首相は、5月9日に射殺死体となって発見されました。今でもマフィアの跋扈する国だけに、やることも派手ですね。
2019.03.16
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クロニクル 山陽新幹線部分開業1972(昭和47)年3月15日47年前になります。この日建設中の山陽新幹線が、新大阪~岡山間で部分開業しました。ここに東海道新幹線の東京~新大阪間に接続する形で、岡山までの直通運転が可能になりました。1964(昭和39)年10月の、東海道新幹線の営業開始から約7年半後のことでした。 博多までの全線が開通したのは、それから3年後の1975(昭和50)年3月15日のことでした。
2019.03.15
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クロニクル 大阪万博開幕1970(昭和45)年3月14日あれから、49年も経ったのですね。大阪吹田市の千里丘陵で、この日、大阪万博が幕を開けました。 前日は春の雪となり、準備に追われていましたが、この日天皇陛下や佐藤首相(当時)を迎えての開会式が行われ、午後1時からは、8万人に及ぶ招待者が入場、翌日からの一般公開に先立ち、会場内を見学しました。 前評判の高かったのは、「月の石」などの宇宙展示を競い合った米・ソ両国のパビリオン。早速に長蛇の列になり、早くも入場制限が行われる人気振りでした。 会期は9月13日までの183日間、会期中の入場者は、6421万8870人に達し、従来の記録を塗り替えた史上最高の万博入場者数となりました。 岡本太郎氏の「太陽の塔」も話題になりましたし、ケンタッキー・フライドチキンが日本に初めて上陸したのが、この万博の会場でした。売れ行きに気を良くしたKFCは、この年11月名古屋に1号店を出店しています。 因みに、最初の万博は1851年にロンドンのハイドパークで開かれました。この第1回ロンドン万博の責任者は当時のヴィクトリア女王の夫君、アルバート公その人でした。会期は5月1日から10月15日までの168日間、入場者数は、約600万人を数えたと言われています。しかし、東京五輪に続く、2度目の大阪万博、果たして柳の下に2匹目のドジョウがいるのですかね?
2019.03.14
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クロニクル 東京駅発のブルートレイン全廃2009(平成21)年3月13日ちょうど10年前の今日のことです。寝台特急「はやぶさ」と「富士」が、この日限りで運行をストップしました。その結果、東京・九州間の定期寝台列車、東京駅発着のブルートレインの全てが、運行を廃止したのです。そして、4年前の2015年に、寝台特急[北斗星」とトワイライト・エクスプレスも運行を中止、特に「北斗星」の運行停止によって、国内のブルートレインは、すべての営業運転を停止しました。 最後に残った寝台特急「カシオペア」も2016年、北海道新幹線の運行開始とともに、営業運転をとりやめ、すべての夜行寝台列車が姿を消すことになりました。
2019.03.13
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クロニクル 大手15行に税金投入1999(平成11)3月12日あれからちょうど20年です。20年前のこの日、金融再生委員会は、大手15行に総額およそ7兆5千億円の公的資金(=税金)を投入する事を承認しました。97年の拓銀や山一証券の倒産、98年の長銀と日債銀の1時国有化と、とどまるところを知らなかった、日本の金融危機も、金融再生法の制定と、60兆円に及ぶ資本注入枠の設定によって、ようやく一息つき、この日の公的資金による資本注入によって、束の間の安定を得ました。それでも、その後も金融界にとっては、茨の道が続きましたね。バブルの後始末は長い時間を要しますから、そんなものに浮かれない方が良いのですが、どうも人間には、懲りない面々が多いようで…… またぞろ心配な雰囲気が出てきていますね…。
2019.03.12
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クロニクル 『風の谷のナウシカ』封切り1984(昭和59)年3月11日35年前になるのですね。この日、宮崎駿監督作品のアニメ映画『風の谷のナウシカ』が封切りになりました。この作品は、徳間書店と博報堂が出資した製作委員会方式で製作され、全国の東映洋画系の映画館で上映されました。 環境問題を取り上げていることが話題を呼び、全国で91万人の観客を動員、7億円の興行収入を上げた上に、いくつかの映画賞を受賞して、アニメ映画監督としての宮崎駿の知名度を高めた作品となりました。 以後、宮崎監督は『天空の城ラピュタ』、『となりのトトロ』とヒット作を連発し、アニメ映画界に不動の地位を確立しました。その宮崎監督も引退。ナウシカから30年以上が経過するのですから、やむをえないと思うのですが、やはり寂しいですね。
2019.03.11
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クロニクル ゴルバチョフの登場1985(昭和60)年3月10日34年前になります。この日、ソ連共産党書記長チェルネンコ氏が死去、後任書記長にゴルバチョフ氏が就任しました。1964年から続いた長すぎたブレジネフ時代が、82年の死去で終了した後、アンドロポフ書記長は2年弱で死去、そしてチェルネンコ書記長も僅か1年で死去した後での、登場でした。ゴルバチョフは、ペレストロイカ政策を推進、ソ連社会の変革を推進する気構えを貫き、グラスノスチ(情報公開の徹底)やシュワルナゼ外相を登用しての新思考外交を展開しましたが、「何もしないことが良いことだ」と言わんばかりの、ブレジネフ時代の停滞のツケはあまりに重く、改革は遅きに失したきらいがありました。
2019.03.10
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クロニクル アメリカ帝国主義は……1959(昭和34)年3月9日ちょうど60年前のこの日、訪問先の北京で、日本社会党の訪中団長の浅沼稲次郎(当時日本社会党 書記長)氏が、「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共通の敵」と演説して話題になりました。当時は、中ソの仲はいまだ親密と考えられていましたから、米ソ冷戦が厳しい時代に、アメリカべったりの日米安保を、さらに強化する改訂を実施することは、日本が米ソ戦争に巻き込まれる危険性が強まると考えられていたのです。そこで、自民・社会両党は、表面で徹底的に対立しているように見せながら、裏で手を握り、中ソ両国との関係維持については、社会党が米欧との関係は自民党が担当し、互いに相手国と親密な関係を築くことで、日本が戦争に巻き込まれる危険性を可能な限り小さくすることに、協力していたのです。両党のこうした関係は、知る人ぞ知る公然の秘密でした。
2019.03.09
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クロニクル ハチ公死す1935(昭和10)年3月8日 渋谷駅、道玄坂方面の出口、いつも待ち合わせの人の波で混雑している所です。「ハチ公」の銅像でお馴染みの場所です。この場所の主人公、「忠犬ハチ公」の祥月命日が、実は今日なのです。84年前の今日、ハチ公は亡くなりました。秋田犬のハチ公は、飼い主の死後、毎日渋谷駅頭に現れ、主人の帰りを待ち続けたと言われ、近在の人々に知られるようになりました。やがてそのことが、東京朝日新聞の記事になり、広く世間に「忠犬ハチ公」として、知られるようになりました。ハチ公の主人は、東京帝国大学農学部教授の上野英三郎氏、自宅は現在の東急本店周辺だったとされています。ハチ公は有名犬になりましたので、死後東京大学で病理解剖が行われ、心臓と肝臓に大量のフィラリアが寄生し、そのため大量に腹水がたまっての死であることが分りました。彼の遺体は剥製にされ、国立科学博物館に保存されています。人間の年で数えると12歳でした。 有名犬になりましたので、死後に様々な俗説がまことしやかに流布しましたが、どれも決め手のないものばかり。真実を知るのは、ハチ公のみとお考えください。
2019.03.08
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クロニクル 連合赤軍のリンチ殺人発覚1972(昭和47)年3月7日47年前のこの日、軽井沢の浅間山荘事件で逮捕された(逮捕は2月28日でした)連合赤軍メンバーの取調べから、群馬県の山岳地帯の旧アジト附近の山中から、集団リンチで殺されたメンバーの凍死体が発見されました。逮捕メンバーと行動を共にしていた幹部や仲間の1部の消息が掴めないことが不思議だったのですが、意見の相違を総括する中で、仲間内で凄惨なリンチ殺人が行われていたのです。この日を最初に、3月13日までに、12人の死体が発見されました。この事件を境に学生運動は完全に勢いを無くしました。学生運動の息の根を止めた悲しい事件でした。この後、過激派の1部勢力は,爆弾テロに走ります。
2019.03.07
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クロニクル 歌劇『椿姫』初演1853(嘉永5)年3月6日166年前の1853年のことです。この年はペリー提督の4艘の黒船が、浦賀沖にやってきたことで知られる、日本の歴史の上でも忘れられない年です。この日、イタリア歌劇に、この人ありと知られるヴェルディの歌劇『椿姫』が、ヴェネツィアで初演されました。『椿姫』は、ヴェルディ作品のなかでは、唯一のプリマドンナオペラとして知られる作品ですが、初演は見事なまでの失敗に終わり、僅か2回の公演で打ち切られています。 失敗の原因は、病弱なヒロインを演じるソプラノ歌手が、見た目であまりにも健康的に過ぎたことでした。そのため、第3幕でヒロインが息を引き取る場面では、観客から失笑が漏れるという、散々な出来だったと言います。 『椿姫』の成功は、屈辱に耐え、雪辱に燃えたヴェルディが、キャスティングを見直し、稽古も十分に積んだ、5月の再度のヴェネツィア公演で果たされます。3月とはうってかわって拍手喝采を受けたと記されています。ヴェルディ、さすがですね。
2019.03.06
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クロニクル 鉄のカーテン演説1946(昭和21)年3月5日 日本の降伏から、まだ半年と20日しか経っていなかったこの日、アメリカのミズーリ州フルトンで、チャーチル前英首相が、ソ連を厳しく指弾する演説を行い、ソ連と対決する姿勢を強調しました。73年前のことになります。この演説の中でチャーチルは、ソ連は東ヨーロッパ世界を西欧から隔離し、閉鎖的状況の中で、ソ連型社会主義を押し付けているとして、「バルチック海からアドリア海を結ぶ線に、ソ連は閉鎖的で分厚い鉄のカーテンを下ろしてしまい。カーテンの向こうで何が行われているかが、全く見えなくしてしまった」と、ソ連を強く非難したのでした。 国際政治の領域では、この演説をきっかけとして、米ソ冷戦の時代の幕が開いたとされています。 そして、東西冷戦の現実を、最初に予測した発言として、後に大変有名になる「鉄のカーテン」という比喩の、誕生の瞬間でした。
2019.03.05
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クロニクル 金属バット解禁1974(昭和49)年3月4日45年前のことです。高野連(日本高校野球連盟)は、この日公式戦での金属バットの使用を認める決定を下しました。これによって、甲子園大会でも金属バットが使われるようになり、高校野球での打撃戦のウェートが俄然高くなりました。 1大会ごとのホームランの数が急増してくるのは、選手と指導者が金属バットの徳性を理解し、コンパクトなスイングを意識するようになった、数年後のことでした。
2019.03.04
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クロニクル 全日空国際線に進出1986(昭和61)年3月3日 日航の倒産から9年ですか。経営に官が介入するとロクなことにならない見本でした。全日空、実は国際線への参入を、長く官に禁じられていたのです。 国際線に参入できたのは、1972年の日中国交回復で、日航が本社で台湾便を飛ばせなくなり、ようやく台湾便に限って、国外への旅客輸送が実現したのです。しかし、これは例外中の例外でした。その全日空が、初めて本格的に国際線への参入を認められ、最初の国際定期便を運行したのが、グアム路線でした。その1番機が成田国際空港を飛び立ったのが、33年前の今日、3月3日でした。 僅か30年ほどの年月で日航を追い抜き、経営基盤を整えたのですから、様々な優遇措置に胡坐をかいていた日航の経営が、いかに経営者に人をえなかったかが、透けて見えますね。
2019.03.03
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クロニクル 中国残留孤児初来日1981(昭和56)年3月2日 中国残留孤児とは、1945年の敗戦時、特に1945年8月8日のソ連参戦以降、ソ連軍に追われ、捕まることを怖れた、「満州」に入植した民間人の皆さんが、現地に遺棄した子ども達を指します。 集団でソ連兵に見つからないように、昼間はどこかに隠れ、夜間に移動したそうですが、子どもの泣き声は見つけられてしまう危険が大きく、御法度です。親としては連れて行きたくとも仲間を道連れにするわけにはいきません。こうして、現地中国の人達に子を預け、帰国した人たち、子どもを手放しはしなかったけれども、栄養不良で乳が出ず、貰い乳も出来ないために子を死なせてしまった人達が大勢出たのです。 旧満州以外の地方にも、数は少なくなりますが、現地に残された残留孤児たちがおりました。ここに記す1981年は、今日から見ると38年前、敗戦から36年目です。孤児達は40歳前後に達していました。親御さんの年齢を考えるとぎりぎりのタイミングだったといえましょう。 この残留孤児達の肉親探しの第1陣が、この日日本に到着したのです。来日した孤児達は総勢47人、推計1万人はくだらないとされる孤児総数からすると、微々たる人数でしたが、代々木の青少年センター(東京五輪の選手村を改装した施設です)に宿泊して、僅かな記憶を手懸りに肉親探しを続けました。 結果的に肉親の判明した孤児達は26人と、半数を僅かに超えました。以後30年間毎年肉親探しは続けられていたのですが、孤児自身の高齢化も進み、肉親はさらに高齢であるところから、年々判明率は下がり続けました。 残留孤児及び残留邦人の来日事業は、1999(平成11)年の30回目の肉親捜しを最後に、一応打ち切られたのですが、その後も、新たに残留孤児、残留邦人が判明する毎に、集団一時帰国と調査が行われており、一番最近は2012(24)年に25名の方が来日しています。 孤児達の大部分は日本に永住帰国していますが、言葉と習慣の壁に悩み、生活面の悩みも多く、低賃金に甘んじた最低辺の暮しを強いられているのが現実です。平成24年度の調査によれば、帰国した方々のなんと8割強が、生活保護を受給して、かろうじて家族の生活を支えているのが現実です。 そして今もなお、中国で暮す残留孤児やその2世、3世が存在していることも忘れてならないことです。ここにも隠された戦争の1面があります。 当時の軍部が自分たちのメンツに拘らずに、連合国の発表直後にポツダム宣言を受諾していれば、ソ連の参戦も、2発の原爆投下もなかったことになります。とすれば、中国残留孤児も大幅に減っていたか1人も出なかったことになります。勿論北朝鮮と韓国という分断された国家が分立することも起こり得なかったのですから、当然拉致問題などが発生することもありえなかったのです。 そう考える故に、私は旧軍部の戦争責任の追及は、今日でも緩めてはならないと考えています。
2019.03.02
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クロニクル 第五福竜丸被爆1954(昭和29)年3月1日65年前のこの日、南太平洋のビキニ環礁近くで操業中の静岡県焼津市のマグロ延縄漁船、第五福竜丸は、モクモクと沸きあがる大きなキノコ雲を目撃、直後に降り続く白い灰で甲板は真白に覆われました。 アメリカが強行した、大気圏内での核実験によって生じた死の灰でした。この実験は水爆実験でしたが、実験の効果は米軍の予想を大きく超え、実験のために指定された操業並びに航行禁止区域をこえて、幅広い範囲に死の灰を降らしました。 勿論、第五福竜丸や仲間の漁船には、そんなことは知らされておりません。そのため、降り続ける灰を死の灰とは知らず、23人の乗組員全員が、灰を浴び続けながら甲板での作業を続けたのです。こうして第五福竜丸の乗組員全員が、致死量の放射能を浴びたのです。 乗組員は翌日から、原爆症特有の症状に苦しめられるようになり、3月14日の帰港後、全員が入院するにいたりました。第五福竜丸の近くで操業していた漁船の乗組員からも、全員から大量の放射能が検出され、マグロの魚価が暴落するおまけまでつきました。乗組員の1人、40歳の久保山愛吉さんが亡くなられたのは、半年後の9月23日のことでした。
2019.03.01
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