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クロニクル 「北朝鮮」ミサイル発射1998(平成10)年8月31日21年前のこの日、「北朝鮮」は弾道ミサイル「テポドン」を発射しました。日本政府、とりわけ自衛隊の防空レーダー網は、このミサイルの航跡を捕らえることが出来ず、どこに着弾したかを特定できませんでした。 日本海のどこかに着弾したものと、日本海上を捜索していたのですが、韓国政府並びに米軍から、着弾は日本列島を飛び越えた三陸沖であることが発表され、遅れてその事実を追認したのです。見事な醜態でした。 「北朝鮮」は、人口衛星の打ち上げだと発表しましたが、「北朝鮮」に日本本土を攻撃する能力があることがわかったと、政府・自衛隊は大騒ぎをし、ミサイル防衛網の整備を金科玉条とする、防衛予算の拡大に成功しました。 本来ミサイルは命中精度が問題であり、どこに着地するか分からない程度の、精度の悪いミサイルの脅威など、決して高くはないのですが、国民にはその旨は知らされませんでした。 最後に、ミサイルは何故日本方面に発射されたかというと、これは日本敵視とは無関係で、地球の自転の方向と関係しています。ミサイルを少しでも遠くに飛ばすには、地球の自転と反対方向に飛ばすに限ります。北朝鮮政府と軍部は、まさに地球の自転の逆方向へ、つまり日本の方向へ、ミサイルを発射したというのが、事の真相でした。あれから21年、3代目の若旦那に世代交代しましたが、ミサイルは飛ばし放題で、やたらに飛ばすようになっています。厄介なおもちゃを、3代目に持たせてしまったようです。さてどうなるか?
2019.08.31
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クロニクル 三菱重工ビル爆破事件1974(昭和49)年8月30日45年前のことです。この日、午後0時50分頃、東京丸の内の三菱重工ビル正面玄関前で、時限装置付きの爆弾が爆発、死者8名、重軽傷者380名という大惨事が起きました。 昼休みの終りに近く、そろそろ勤務先に戻ろうかという男女でにぎわうオフィス街に、突然大音響が轟き、爆風がビルの谷間を吹きぬけました。10階建ての三菱重工ビルをはじめ、付近のビルの窓ガラスおよそ2500枚が、こなごなになって飛び散り、ガラスの破片で多くの通行人が巻き添えとなって負傷しました。 三菱重工には、爆発の約10分前、0時40分頃に爆破予告電話があり、同社が防衛庁納入実績でNO,1の防衛産業であることが、爆破の狙いであることが伝えられていました。しかし、僅か10分では対応のしようがありませんでした。1ヶ月後、「東アジア反日武装戦線 狼」と名乗るグループから犯行声明が出され、その後も同じグループに属する「さそり」、[大地の牙」といったグループによって、三井物産ビル、大成建設ビルなどで爆破事件が相次ぎ、都心部の会社員達は、しばらくの間、命がけの通勤を強いられました。 連合赤軍の浅間山荘事件と、その後のリンチ殺人の発覚によって、すっかり落ち目となった過激派グループ残党による、最後の抵抗とも言える事件でした。 一般市民を標的にするようになっては、まさに断末魔。許される行為ではありませんでした。
2019.08.30
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クロニクル ソ連で最初の核実験1949(昭和24)年8月29日今年で70年になるのですね。私が小学校1年生の夏休みが終わろうとしている頃だったのですね。70年前のこの日、今日のカザフスタンのセミパラチンスクというところで、ソ連で最初の原爆実験が行われました。実験は成功し、ソ連は、米国に続いて史上2番目の核兵器保有国となりました。その結果、以後米ソの冷戦が本格化してゆきます。実験は、現地時間午前7時に行われました。セミパラチンスクの核実験場に、高さ37mの鉄塔を築き、その鉄塔の最上部に仕掛けて爆発させたのです。ただ、ソ連政府は、実験について何も発表せず、沈黙を守っていたのですが、1か月近く経過した9月の23日に、トルーマンアメリカ大統領が、「ソ連が核爆発を成功させた確かな証拠がある」と発表、翌日になってソ連政府も、ようやく実験成功の事実を公表しました。この時の実験の映像などは、冷戦終結後に公表されましたので、今日ではかなり細かなところまで、明らかにされています。今日に続く、核の連鎖は、ここに始まったのですね。
2019.08.29
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クロニクル 平沼内閣総辞職1939(昭和14)年8月28日 80年前の今日のことです。5日前の8月23日に、独ソ不可侵条約が締結されました。平沼騏一郎内閣は、前任の近衛文麿内閣を継ぎ、日中戦争の終結と日・独・伊三国防共協定の締結を目指していましたが、この独ソの接近でうまくいかず、この日総辞職する結果となりました。 辞任にあたり、平沼首相が発した声明が、「国際情勢は複雑怪奇‥」という、例の悪い意味で有名な声明です。何という迷言、何という外交音痴。これが、卑しくも日本の首相の言うことかと、あきれてものも言えずに、失笑を禁じえません。 外交とは、まさに戦争に拠らずに、どう互いの利益を調和させ、どう調整するかが問われる世界です。失敗すれば、戦争が待っている。それゆえ、複雑なパズルをどうほぐすかの世界ですから、イデオロギーで対決していようとも、利害が一致すれば手を組むことがありうる世界です。ソ連とポーランドを分割して後、英・仏占領を目指すヒトラーと、ヒトラーと戦って消耗し、英仏の餌食になることを避けたいスターリンの思惑が一致した結果の、不可侵条約締結だったのです。
2019.08.28
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クロニクル チキンラーメン登場1958(昭和33)年8月25日61年前というと、長嶋が巨人に、杉浦が南海に、そして本屋敷が阪神に入団し、1年目から大活躍した年にあたります。この日、日清食品が世界初のインスタントラーメン、日清のチキンラーメンを発売しました。85グラム入り35円(当時の物価参考:大卒初任給13,467円、国鉄初乗り10円、銭湯の入浴料16円)でした。大阪・梅田の阪急百貨店うめだ本店で試食販売が行われ、評判を呼びました。 以来今日まで60年、売れ続けているのですから立派です。日本初のインスタント食品であるインスタントラーメンは、大ヒット商品となり、世界各地で生産されています。チキンラーメンに限っても、アメリカ合衆国、ブラジル、ハンガリー、インド、インドネシア、中国(広東省)、香港の6ヶ国1地域に工場があります。
2019.08.25
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クロニクル アキノ氏マニラ空港で暗殺1983(昭和58)年8月21日36年前のことです。この日、日本時間午後、長期に及んだ米国滞在を切り上げ、帰国の途についた、ベニグノ・アキノ元上院議員は、陸軍と警察による厳重な警備の中、フィリピンのマニラ国際空港に到着、タラップを降りて、ターミナルビルへ向けて歩き出したところを、ヒットマンに銃撃され、即死しました。 日本では、1973年8月8に起きた金大中氏拉致事件が有名ですが、金氏も朴大統領との選挙戦で健闘、次回は逆転もと言われていた時期の、日本での拉致事件でした。その金氏同様アキノ氏も、長期政権を担う独裁者、マルコス大統領との選挙戦で善戦健闘、次回は勝利もと期待された民主派の有力者でした。米国の受けも良く、マルコス大統領にとっては、眼の上のコブのような存在でした。それだけにフィリピンに留まっていては、危険が多いと各方面から説得され、長期に米国に滞在していたのですが、フィリピンに帰って国民の中で、その声を聞き、政策課題に反映させるのが政治家であると、あえて火中の栗を拾うとばかりに、強引に帰国の途についたのです。その結果としての暗殺でした。 暗殺の情景は日本でもテレビで実況中継され、夏休み中だったおかげで、私はその瞬間を生放送で見ておりました。並み居る警官や軍人の間から発砲したのですから、これは軍首脳が、マルコス大統領自身かその側近と綿密に打ち合わせて仕組んだ、権力による暗殺であることは明かでした。米国政府もそう受けとめたのか、マルコス政権に強い不快感を示したほどでした。それほどですから、フィリピン民衆のアキノ暗殺への怒りは深く、マルコス政権が実行犯を逮捕し(警察と軍人が多数警備に当たっていた中での犯行ですから、逃げられるはずがありません)、背後関係のない単独犯だったと発表しても誰も信じませんでした。8月31日にアキノ氏の葬儀が行なわれたのですが、何と100万人以上の民衆が参列する大葬儀となり、以後各地で反政府運動が地鳴りのような広がりを見せたのです。この怒りは2年6ヶ月後の1986年2月に行なわれたフィリピン大統領選で、夫の弔い合戦だからと説得されて立候補したコラソン・アキノ夫人を支援する運動の起爆剤になり、選管の不正を暴くことから始まった、フィリピン革命へと繋がりました。
2019.08.21
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クロニクル プラハの春よさらば1968(昭和43)年8月20日プラハの春とは、1967年から68年にかけてのドプチェク体制下での、チェコ・スロバキアの民主化運動の総称です。言論表現の自由、出版の自由、複数政党制の容認などを含んでおり、チェコ周辺の社会主義諸国からも、強い懸念が表明されていました。もちろんブレジネフ書記長、コスイギン首相、ボドゴルヌイ最高会議幹部会議長というトロイカ体制下のソ連も、重大な懸念を表明していました。6月、7月とドプチェク体制への締め付けは強化され、そしてついに51年前のこの日、ワルシャワ条約機構軍の戦車がソ連の後ろだけを得ながら、プラハを席捲したのでした。 事実上、プラハとチェコの民主化運動は、ソ連軍の戦車で圧殺されたのです。プラハの春では、市民たちの手になる、自由を求めた書簡『二千語宣言』が有名です。この宣言に名を連ねた人々の中には、ヘルシンキ五輪のマラソンと5千メートル、1万メートル3種目の勝者で、人間機関車と呼ばれたザトペックさんや、東京五輪でチェコの名花と渾名された体操の女子個人総合などの金メダリスト、ベラ・チャスラフスカさんなども加わっていました。ドプチェク体制後のチェコの指導部は、頑として二千語宣言への署名を撤回しないチャスラフスカさんのメキシコ五輪派遣を躊躇したのですが、国外からの批判を警戒して派遣を認めたのでした。彼女は仲間の皆さんのためと、東京を上まわる演技で答え、個人総合、鉄棒、段違い平行棒、そして徒手体操と4個の金メダルを獲得、女子団体と平均台で銀メダルを獲得したのです。その後、まさに苦節20年、1989年のオレンジ革命で民主化運動は、苦難の末の復権を果たしました。二千語宣言の署名者たちも、皆名誉を回復したのです。
2019.08.20
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クロニクル バクダッドの国連事務所攻撃2003(平成15)年8月19日16年前のこの日、バクダッドの国連事務所が爆弾攻撃を受け、デメロ代表ら24人が死亡しました。およそ5ヶ月前のこの年3月20日、米国は国連安保理の反対を無視して、一方的にイラク攻撃を始め、圧倒的な軍事力でバクダッドを制圧、イラク各地に駐留して、傀儡政権の樹立に邁進していました。ここに国連の権威は、明確に否定され、大国は都合の良いときのみ、国連を利用する現実が見事に炙りだされました。米国は、イギリスや日本などの派兵で満足し、この問題については、国連を無視し続けていたのです。イラクの人々は弱小国家が、大国の理不尽な攻撃に晒され、一般市民にまで大量の犠牲が出ている現実に強い憤りを覚え、小国の味方として力を発揮しない、国連にまで怒りの矛先を向けたのです。それが、この日の国連事務所砲撃となって、現実のものとなったのでした。イラク戦争は、大国のエゴの前には、国連もまた何も出来ない存在に堕していることを、白日の下にさらけ出してしまったのです。
2019.08.19
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クロニクル 国税庁地価大幅下落を公表1993(平成5)年8月18日もう26年になるのですね。26年前のこの日、国税庁は、1月1日時点の全国の路線価を公表しました。それによると、昨年比で路線価の全国平均は、18,1%という大幅な下落を記録しました。バブルの崩壊は、90年初めからの株価の暴落に始まり、翌年には地価の下落も顕著となり、92年には土地を担保とする融資に傾斜した銀行株が、大幅安を記録するなど、日経平均株価は、高値時の1/3近くにまで、下落していました。この時点で、地価の大幅下落も、市場は見込んでいたと言えましょう。にもかかわらず、政府の公式統計が、地価下落を明らかにしたのは、一年も遅い、今から、26年前の今日のことでした。 日本に15年遅れて、欧米で同じことが起き、同じように解決に時間がかかったのですが、そんなことは、当時は知るよしもありませんでした。まさに因果は巡るというか、人間というのは欲にかられると、何度も同じような過ちを繰り返す、愚かな生き物なのですね。 今また超金融緩和の続く中、ファンド勢があちこちで土地を買いあさっています。やがて、通貨の信用度の低い、新興諸国から、外国勢の資金が引き上げられ、お馴染みの通貨危機へとつながる恐れは十分にあります。いつまで、続けられるのですかね。この金余り現象は…
2019.08.18
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クロニクル 松川事件 1949(昭和24)年8月17日70年前のこの日、午前3時9分頃、東北本線の松川駅(福島県)付近で、上りの旅客列車が脱線転覆し、乗員3人が死亡する事故が起きました。事故現場のレールの釘が何者かによって、抜き取られており、それが事故の原因でした。 翌18日、内閣官房長官が、「集団組織による計画的妨害行為」とする政府見解を公表、警察の捜査をその方向に向けました。福島県警は、内閣の見解を忠実に守って、その線での捜査を行い、9月に入って、国労福島支部の組合員と東芝松川工場労組の組合員ら計20人(その多くが共産党員でした)を逮捕しました。 折りしも、ドッジラインによるデフレ政策の進行で、不況色が強まっており、行政整理や企業整理による失業の増大に対する、労働者の抵抗運動が強まっていました。こうした事情から、マスコミは、下山事件、三鷹事件に続く、国鉄をめぐる第3の怪事件と書き立てました。 裁判は、急ピッチで進められ、翌1950年には一審判決が下り、死刑を含む全員有罪が宣告されました。しかし、裁判の進行に連れて、弁護団の半端でない努力が実を結び、警察および検察が、共産党員らの犯行だという予断をもって臨んだことによる、冤罪事件ではないかという疑いが強まり、作家の広津和郎氏らを先頭に、精力的な裁判批判の運動が広がることになりました。公正な裁判を獲得して、民主主義と人権を守る運動が、大きな高まりを見せたのです。こうして、高裁からは一転して慎重な審議が行われ、最高裁は原判決を破棄して、差し戻しを決定、ようやく1963年に全員の無罪が確定しました。しかし、事故から14年が経過しての無罪確定でしたから、真犯人の追及はなされないこととなりました。既に時効が成立していたからです。政治の介入が、公正な捜査を曲げ、犯人追及を不可能にした事件として、松川事件は、忘れられない事件となりました。
2019.08.17
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クロニクル 経団連の誕生1946(昭和21)年8月16日敗戦の1年後ですから、73年前のことになります。この日、日本経済団体連合会(略称経団連)が創立されました。 経団連創設の構想は、戦後すぐに経済問題の処理と経済再建に向けて、経済界の総力を結集し、総意を動員するための機関を作ろうと計画され、この日実現をみたのです。 設立宣言には、「経済界における各部門の連絡をはかり、財政経済に関する内外の諸問題を研究して、経済界の公正なる意見を取りまとめ、その実現に努力し、もって国民経済の自立と健全なる発展を促進することを目的に…」と記され、各種経済団体並びに企業の総意結集のために創設されたことが読み取れます。 後に財界の総本山と自他共に認める組織に成長する経団連はこうして誕生し、経済団体の中核として、経済政策の樹立、経済行政の整備、経済法規の改善などについて、政府・関係官庁との協議などに尽力し、諸外国の経済団体との連絡などにも注力して、存在感を発揮しました。 日経連と合併した現在は、そうした存在感も、心意気も失ってしまったようにみえるのが残念です。少なくとも原発再稼働の旗振り役を務めることだけは、やめてほしいですね。
2019.08.16
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クロニクル 大韓民国成立 1948(昭和23)年8月15日それは、日本の降伏から、丁度3回目の独立記念日の出来ごとでした。71年前のこの日、朝鮮半島の38度線の南の地域、すなわち日本の降伏後、米軍が治安維持にあたっていた地域が、大韓民国として独立することを宣言したのです。大統領には、李承晩が就任しました。これを受けて、ソ連軍が進駐し、治安の維持に当たっていた38度線の北側は、南の独立から刺激を受け、9月9日に朝鮮民主主義人民共和国としての独立を宣言しました。首相には金日成が就任しました。 日清戦争以後、次第に日本の支配を受けるようになった朝鮮は、1910年に日本に併合され、完全に日本の植民地とされて、日本の敗戦の日まで、35年間の植民地支配を受けたのです。1945年の7月下旬に発表されたポツダム宣言は、「朝鮮の独立を認めること」という一項を含んでいました。そのため1945年、日本がポツダム宣言の受諾を表明したその日が、朝鮮の人々にとっての独立の記念日となるはずでした。しかし、そうはならなかったのです。日本の軍部の無益な抵抗の続行は、2発の原爆投下やソ連軍の参戦を生み、日本の国民にも、本来ならなくて済んだはずの多大な苦しみを生みましたが、それと同じく植民地だった朝鮮の人々にも、大きな苦しみをもたらしました。ソ連の参戦と進出を受け、米軍は対日戦の参謀次長だったラスクに、朝鮮半島中部に、適当な分割ラインを見つけるよう、命じました(この事実については、後にケネディ・ジョンソン政権で、国務長官を務めたラスクが自ら証言しています)。適当な山脈や河川を見つけられなかったラスクは、38度線を分割ラがインに選び、ソ連側との合意に達したのです。 適当な時期に南北同時選挙を実施して、ひとつの国にする予定で‥。しかし、この構想は戦後における米ソ冷戦の激化で水泡に帰し、ここに48年、南北分裂国家が誕生することになったのです。そしてこの分断は、49年10月の社会主義中国の誕生を経て、50年~53年の朝鮮戦争という民族的悲劇に発展し、今なお続いているのです。すべては、東条を筆頭とする日本軍部の頭目たちの、現実を直視できない指導者としての決断力の不足と、敗北を受け入れる勇気の欠如が招いたことでした。
2019.08.15
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クロニクル 片山・プレハーノフの握手1904(明治37)年8月14日 今日から105年前、日露戦争の最中のことです。この日、オランダのアムステルダムで、第二インターナショナルの第6回大会が開幕しました。日本からは渡米中の片山潜が欧州に出向いて参加、日露戦争の最中ということもあって、大会当事者の粋な計らいだったのでしょう、ロシア代表のプレハーノフと共に、大会の副議長に選出されたのです。2人は壇上で固い握手を交わし、大きな拍手を浴びました。第1次世界大戦前夜の反戦運動を綴る時に必ず取り上げられる、世界史や日本史の教科書でお馴染みのシーンです。 片山は、日露両国のプロレタリアが,万国の社会主義者と共に戦争に反対することの意義を強調し、プレハーノフもまた日本が専制的なロシア政府という巨人を悩ませていることを指摘しました。これより先、平民新聞の3月13日号は社説に「露国社会党に与える書」を掲載。「日露両国の社会主義者は、共通の敵である帝国主義や軍国主義と、共に勇敢に戦おう」呼びかけていました。この文章の英訳が欧米の社会主義系の機関紙などに紹介され、大きな反響を呼んでいたのです。ロシア社会民主労働党も、機関紙「イスクラ」5月14日号に返書を掲載、日本の社会主義者の勇気に敬意を表し、「ロシアでは困難な状況の中で、戦いが続けられている」旨を記しました。しかし、その後ロシアでは、反戦平和を求める革命運動が大きな広がりをもって、支持を広げていくのですが、日本の反戦運動は少数者の微々たる運動に留まり、ロシアのような広がりは持てませんでした。その点、明治政府は、教育勅語や軍人勅諭を若い国民に刷り込むことに成功し、挙国一致体制を構築することに成功していたこと、ロシア政府は、それが出来なかったことが、くっきりと浮かび上がります。
2019.08.14
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クロニクル ベルリンの壁建設始まる 1961(昭和36)年8月13日 第二次大戦後のドイツの扱いは、1945(昭和20)年2月のヤルタ会談で決められます。ご承知の通り、ドイツは東西2つに分割され、さらに東ドイツの領域に収まるベルリンについては、そこがドイツ帝国の首都であったがために、米英仏の管理する西ベルリンとソ連の管理する東ベルリンに、分割されることになりました。こうして西ベルリンは、東ドイツの内部にポッカリ浮かぶ離れ小島のような存在となったのです。東西ドイツが相互に自国の素晴らしさを宣伝し合っている内は、特に問題はなかったのですが、50年代の半ばにかけて、西ドイツの経済復興が進み、東ドイツとの経済格差が目立つようになると、次第に西ベルリン経由での、西側世界への亡命が無視できない数となってきたのです。ここに東ドイツ政府は、西ベルリンを東ドイツから隔離するために、西ベルリンの周囲全てを、壁で覆うことを考えました。こうして、58年前のこの日、午前0時を期して、一斉にベルリンの壁を築く作業が始まったのです。まずは、当日昼までに、西ベルリンに通じる道路という道路がバリケードで封鎖され、交通が遮断されたのです。ついで、ブロックで補強され、最終的にはコンクリート製となりました。この壁は東西ベルリンの接触範囲のみでなく、西ベルリンの周囲全てに建設されたのです。総延長は155キロメートルに達しました。ところで、離れ小島の西ベルリンとの交流はどうしたのでしょうか。高速道路は東ベルリン区間には、インターチェンジを設けずに、国境の検問所だけで通行できましたし、ノンストップの特急電車も通っていました。また、西ドイツのルフトハンザは運行できませんでしたが、米・英・仏・蘭などの航空会社は西ベルリンへの便を運行することも出来たのです。また壁は東西の国境線の上ではなく、いくらか東ドイツ寄りに入ったところに建設され、さらにその内側に第2の壁が作られました。こうして西ドイツへの亡命を防いでいたのですが、65歳以上のお年よりは例外で、亡命を申請すると、すぐに許可されたのです。これは、年金受給者が亡命してくれると、支払額が減って助かるからでした。この壁も1989年の11月に、あっけなく取り壊されたのは、ご存知の通りです。
2019.08.13
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クロニクル 御巣鷹の悲劇1985(昭和60)年8月12日34年前のこの日、午後7時数分前頃、日本航空の羽田発大阪往きのボーイング747SR機が、群馬・長野両県の県境に位置する御巣鷹山の山中に墜落して炎上、乗員・乗客524名のうち、520名が亡くなる、日本の航空機事故としては最大の事故となりました。 機体は翌朝発見され、現場には焼け爛れた機体や遺体が散乱し、さながら地獄絵のような姿だったと、現場で救助と遺体の収容にあたった、警察や自衛隊の関係者が語るほどでしたが、機体の後部座席の近くで、女性ばかり4名の生存者が救助され、感動を呼びました。その後生存者の証言などから、離陸後しばらくして隔壁に穴が開き、バランスを崩した飛行機が迷走しながらも着陸を目指して苦闘していたこと、墜落後もしばらくは、助けを求める生存者の声が聞こえていたのに、その声も次第に弱弱しくなり、遂には聞こえなくなったことなどの、生々しい証言が得られ、その都度涙を誘いました。 犠牲者には、歌手の坂本九さん、阪神球団社長の中埜肇さんなどが含まれていました。航空機の中で、最も安全性が高いとされたジャンボ機でなぜ事故が起きたのか。この点が疑問視されたのですが、調査の過程で、もはや言い逃れが出来ないと観念したボーイング社が、同機の修理の際に、隔壁の修理にミスがあったこと、そのため機内の気圧を一定に保つために行なう加圧に絶えきれず、隔壁が飛ばされたことを認め、日航並びに遺族に謝罪する一幕もありました。追記 パソコンの故障で、しばらくインターネットがつながらない状況にありまして、ご無沙汰いたしました。ご心配をおかけしました。これからボチボチ皆様のところへも訪問させていただきます。
2019.08.12
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