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クロニクル 警職法改悪反対国民会議結成1958(昭和33)年10月13日61年前のことです。この日の5日前にあたる10月8日、政府は警察官職務執行法(警職法)改正案を国会に提出しました。その内容は、警察の権限を大幅に強めるものだったため、発表と同時に国内各層から強い反対の声が上がりました。なかでも声優の徳川無声氏が、戦前の「オイ!コラッ!警察」の復活に道を開くとして、声優,俳優、アナウンサー等と共に、反対陣営のスポークスマン役を演じて話題を呼びました。そんな情勢の中、この日、左右の社会党や総評など65団体が、警職法改悪反対国民会議を結成、警職法を廃案に追い込むまで反対を続けるとの決意を表明しました。 時に日米安全保障条約の改定交渉が日程に上がっていたため、安保改訂反対闘争を抑え込むための武器を手に入れる目的で、政府は警職法改悪を強行する積りなのではないかという、憶測もまことしやかに囁かれました。こうした中、11月4日に、政府・与党が国会の会期を抜き打ちで30日間延長したため、かえって反対運動は盛り上がり、野党は審議拒否で対抗、結局警職法改悪は審議未了不成立とすることとなり、岸内閣の強硬姿勢は裏目に出てしまいました。
2019.10.13
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クロニクル 国会開設の詔1881(明治14)年10月12日138年前のことです。この日、政府は9年後の1990(明治23)年に国会を開設する旨の勅諭を発表しました。国会の組織・権限については、欽定憲法を公布して、それを定める旨も同時に発表しました。 前年来、自由民権運動は最高潮に達しており、政府内でもイギリス型立憲政治を理想とする大隈重信等と、君主権が優越するドイツ型を導入しようとする伊藤博文等の対立が激化、これに北海道の開拓使官有物払い下げに関わる汚職事件が暴露され、政府は厳しい状態に追い込まれていました。そこで政府は、11日に開拓使官有物の払い下げを中止すると同時に、大隈を罷免し、翌12日に、国会の開設を約束した詔を発表したのです。こうした一連の動きを総称して、明治14年の政変と呼んでいます。 板垣退助等の民権派は、この後国会開設を見越して、政党作りに本腰を入れ、10月29日には、自由党の結党に漕ぎつけます。追伸 強風の注意報が先行しておりましたが、昨夕からの雨が明け方から激しくなり、雨風とも警戒が必要なようです。今朝から、コンビニから市場まで、次々に閉店、街中の人影も稀なようで、いずこも自宅に籠っての生活となっています。20時過ぎから風も強くなってきました。夜半から明朝が本番のようです。何事もないと良いのですが、さてどうなるか。明日が宵宮、明後日が秋祭り、予約した食糧の注文が、全て一度取り消しになりましたから、どうしたものか、明日落ち着いてからの出たとこ勝負です。
2019.10.12
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クロニクル 閔妃(びんひ)暗殺1895(明治28)年10月8日124年前のこの日、駐朝鮮公使三浦梧楼は、書記官や軍部を動員して、反日姿勢を強めていた閔妃の暗殺を決行しました。この年、日清戦争に勝利した日本は、朝鮮王室に対する支配力を強めようとしましたが、露・独・仏三国による、有名な三国干渉によって、遼東半島の租借権を清国に返還。その影響で朝鮮王室への影響力は低下していました。この間隙をついて、朝鮮政府並びに王室はロシアへ接近し、日露のバランスをとることで、主権の回復を目指す姿勢を鮮明にし始めました。具体的には、王宮の警備を日本軍人が指導する訓練隊から、アメリカ人教官が指導する部隊に換え、日本離れを鮮明にしたのです。この情勢にあせった三浦公使は、この日親日的な国王の実父、太院君を擁してクーデタを起こし、反日派の中心人物と言われた閔妃の殺害を決行したのです。 三浦公使は「日本人の仕業と分からないように決行せよ」という指示を出していたのですが、実働部隊は、そのようなスマートな暗殺を行う訓練を欠いており、王妃の顔も分からぬままに、服装などから王妃と思しき人物を次々と殺害、しかも焦りから、使用を厳禁されていた日本語を乱発、日本語を解せぬ侍女たちを脅えさせるおまけまでつけ、変を聞いて駆けつけた各国公使に、日本人の蛮行であることを、つぶさに目撃されてしまったのです。 当然、日本政府には、各国から厳しいクレームがつけられ、日本の評判を著しく貶める結果となりました。こうして、三浦公使は外交官として失脚、その他の関係者も厳しい処分を受けることになりました。
2019.10.08
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クロニクル 東ドイツ誕生1949(昭和24)年10月7日70年前のことです。この日の丁度1カ月前にあたる9月7日に、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が誕生しているのですが、1か月後にあたるこの日、東ドイツ(ドイツ民主共和国)が誕生しました。この結果、1871年1月に誕生した統一ドイツ(その間に帝国、民主的共和国、ヒトラーの第三帝国などと、有為転変を経験しているのですが‥)は、僅か78年で、東西二つのドイツに分断されました。この分裂国家の誕生もまた、米ソ冷戦のとばっちりを受けたものでした。この日から41年後の1990年10月3日に、再統一が達成されたのは、喜ばしい限りです。さて残された分断国家、南北朝鮮の統一はいつになるのでしょうね。すぐにとはいきそうもない情勢ですが、なんとか生きているうちに、南北の統一の報に接したいなぁと、願っています。
2019.10.07
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クロニクル サダトエジプト大統領暗殺1981(昭和56)年10月6日38年前になります。この日、エジプトのアンワル・エル・サダト大統領が暗殺されました。サダト大統領は、ナセル大統領の死後、その地位を継ぎ、1973年の第四次中東戦争を指導して、イスラエル不敗神話を砕いた後、一転イスラエルとの和平路線に転じて、イスラエルを承認。それと引き換えにシナイ半島の返還に成功しましたが、シリアなどからは、裏切り者とののしられ、国内の強硬派も、同大統領への不満を並べておりました。そうした中での暗殺劇であり、彼の和平構想の展開は、ここからというときだっただけに、大変惜しまれる死でした。
2019.10.06
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クロニクル 政治犯・思想犯2500人釈放1945(昭和20)年10月4日74年前のこの日、GHQは日本政府に「人権指令」を発し、 (1)天皇に対する自由討議 (2)政治犯・思想犯の即時全員釈放 (3)特別高等警察(略称特高)など思想警察の全廃 (4)治安維持法など、人権を抑圧する弾圧法規の撤廃の4点を命じました。この指令から感じ取れることは、敗戦を受け入れた政府がそのまま生き残り、国民の中から旧支配に替わる新しい政府を模索する動きが、この時点でなお生まれていなかったという事実です。なるべく旧制度を残し、将来復活する際の足場を残したい旧勢力の思惑だけで、全てが動いており、本来それを阻むべき日本国民の主体的動きは見られず、GHQという占領勢力によってしか、旧秩序の破壊は進まなかったという事実です。 私はここに戦後日本の民主主義の弱さが集中的に表現されていると考えています。一面では戦時中の思想犯弾圧の徹底で、反対勢力が根こそぎにされていたことも事実でしょうが、少なくともポツダム宣言受諾=敗戦の受け入れを知った時点で、反戦の志の故に投獄されていた思想犯、政治犯の即時釈放を求める運動を始めることぐらいは、出来たのではないかと思うのです。8,15以後の獄中で、哲学の俊英三木清は獄死していますし、名著『東洋における資本主義の形成』の著者で、歴史学者の羽仁五郎(夫人は自由学園の羽仁説子氏)氏は、「敗戦を知ってから、毎日いつになったら、迎えに来てくれるのかと、首を長くして待っていたが、遂にGHQが出ても良いというまで、誰も来なかった」と胸中の無念を獄中記に記しています。 日本民主化の最初一歩が、国民の要求によってではなく、GHQの命令として実現したことを示す一齣でした。
2019.10.04
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クロニクル 「夜のヒットスタジオ」最終回放映1990(平成2)年10月3日 昭和が平成に替わって2年目のことでした。東京五輪の4年後1968(昭和43)年11月4日に放送を開始し、22年間に渡って、営々と続けられてきたフジテレビ系列の音楽番組「夜のヒットスタジオ」が、29年前のこの日で放送終了となりました。放送回数は1133回を数えたといいますから、放送改変期も、年末年始も休まずに、夜10時からの55分間の放送が続けられていたことになります。 同じフジテレビ系列の音楽番組「ミュージックフェアー」は、1964年の東京五輪の年に放送を開始、49年を経過した現在もなお続いている超長寿番組となっています。渡辺プロダクションに丸投げした日本テレビの「シャボン玉ホリデー」が、12年で放送終了となったのとは、好対照ですね。
2019.10.03
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ブロ友の皆様、こんにちは。 今日はこのブログの13歳の誕生日です。2006年の10月2日に産声をあげましたので、ちょうど14年目に入ったことになります。 皆様からいただくコメントに助けられて、ここまで続けることが出来ました。感謝しています。 因みに、第1号の記事は、以下のようなものでした。クロニクル 東証ダウ1851円49銭の最高値つける1968年(昭和43年)10月2日は、日経ダウ平均が1851円49銭と、この日までの東証のダウ平均で史上最高値を記録した日となりました。因みにこの値が抜かれるのは、翌年のことになります。2000円到達は69年、5000円到達は1972年、1万円到達は84年、2万円は87年、3万円は翌88年です。翌89年大納会の38915.87円が最高値で、翌年バブルがはじけました。視力の関係で、長時間パソコンに付き合うことが出来ず、この頃はコメントへのお返事も滞っておりますが、ボチボチ続けていこうと思っています。今後ともどうぞよろしく。
2019.10.02
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クロニクル 5千円札初登場1957(昭和32)10月1日62年前のことです。当時私は中学3年生。この日、初めて5千円札が発行されました。時あたかも、日本経済が上向きとなり、3年後の1960年には、所得倍増政策が打ち出されるなど、戦後日本が経済的離陸の時期に入り始めていた時期でした。そんな関係で、この日登場した5千円札に続き、翌年1958年の12月1日には、2年続きで新紙幣の1万円札が登場することになります。ところで、この5千円札には、1万円札と同じ聖徳太子の肖像が描かれており、1987年11月1日に、新渡戸稲造博士の肖像にバトンタッチするまで、20年少々にわたって親しまれてのです(流通が停止されたのは、1986年の1月4日でした)。 新渡戸博士に続くのが、現在の樋口一葉女史の肖像で、この紙幣は、2004年の11月1日から使われています。
2019.10.01
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