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雨が降ります、雨が降る。今日は雨。 今日、4月29日、富士通WEB MARTで注文して置いた新しいノートパソコンが到着した。(新しいノートパソコン)(同上) 4月9日の記事(「パソコンが不調」)で書いた通り、現PCが、今月初めから、ファンエラーで異音を発しながらの操作であったので、新機種に買い替えることとしたのだが、そのPCが今日到着したのである。今後は、異音に悩まされることも、熱を帯び過ぎないように気を配るという必要もなく、この新しいPCで、ブログなども書くことができる。 まだ、セットアップできていないので、この記事は現PCで書いているが、この記事が現PCで書く最後の記事となるだろう。(同上・付属品) それはともかく、ブログ開設14周年の日、すなわち当ブログが満14歳となった誕生日に新PCが届いたのであります。 我が家に到着した今日を、この新PCの誕生日という風に考えることもできるから、この新PCは、当ブログと同じ4月29日生まれということになるのである。 こういう偶然は、どうでもよいことながら、ちょっと気分を愉快にしてくれる(笑)。 ところで、詩人の中原中也は1907年4月29日に生まれている。 従って、今日は中原中也生誕114年ということになる。 余談になるが、大学時代、ヤカモチが授業で万葉集の講義を受けた犬養孝先生も1907年の生まれであるから、中原中也と同年齢である。 当ブログ「偐万葉田舎家持歌集」の開設は2007年4月29日であるから、中原中也生誕100周年の日に一致している。このことは既に何度か当ブログで記述しているので、古くからのブロ友さんには「またか」というお話になりますが、意識して当ブログ開設の日をこの日にした訳ではなく、たまたま一致していたということでありました。 しかし、こういう偶然の一致は嬉しいもので、この日が来るごとにこのことを思うのであります。 若い頃に親しんだ中原中也の詩であるが、彼は1937年10月22日、30歳の若さで没しているので、遠い昔の人という感じであったが、同年生まれの犬養孝先生は大学で講義も受け、言葉も交わしたという言わば「同時代人」という感覚であるから、面白いものである。 後日、偶然に犬養先生と中原中也とが同年のお生まれであることを知って、驚き、両者に対する自身の「時間感覚」のずれに気づき、これを面白がったのでもありました。<参考>中原中也・Wikipedia 犬養孝・Wikipedia 因みに、犬養先生のご生誕は1907年4月1日、没年月日は1998年10月3日。生誕月も死没月も犬養先生・中也ともに4月と10月で同一である。 これに割り込む形で、偐万葉田舎家持歌集も4月の生誕。 かくて、(中原中也)ー(当ブログ)ー(犬養孝先生)という線が100年差の4月で結ばれる、と手前勝手な解釈の自己満足という訳であります。 お陰で、ブログ開設〇周年を迎えると、その年がご両者の生誕〇+100周年ということになるということに気づけるという次第。 犬養先生に関しては、その最晩年、大学法学部の同窓会(青雲会)で記念講演をしていただいた折、講師控室での応接、そこから会場の演壇までのルートを先生の車椅子を押して歩くなどの介助をさせていただいた、というのがヤカモチにとっての先生との最後の思い出である。 今回、新PCが、2021年4月29日生まれということで、 中原中也(114歳)、 犬養孝先生(114歳)、 当ブログ(14歳)、 新PC(0歳)という形で、新しく4月生まれの仲間入りを果たしたということになるという、これまたどうでもいいような話であります(笑)。各年別記事掲載件数 2007年 128件(4月29日~12月・247日間) 2008年 193件 2009年 216件 2010年 203件 2011年 222件 2012年 233件 2013年 251件 2014年 241件 2015年 210件 2016年 178件 2017年 183件 2018年 183件 2019年 184件 2020年 185件 2021年 47件(4月29日まで・119日間)
2021.04.29
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今日も奈良方面の銀輪散歩の記事です。 ひょっこりひょうたん島、ならぬ「ひょっこりひょうたん山」というタイトルにしましたが、「瓢箪山」というのは、わが自宅から徒歩10分余程度の距離に「瓢箪山」という名の駅(近鉄奈良線)があるということもあって、馴染みの名前である。 その瓢箪山という名の由来は、駅の南東にある瓢箪山稲荷神社及びその背後にある瓢箪山古墳にあります。 瓢箪山稲荷神社の社殿は、瓢箪型の双円墳を背後にして、その小丘に添うようにして建造されていますが、この古墳の形状が瓢箪の形に似ていることから瓢箪山古墳と呼ばれているのだろう。<参考>瓢箪山稲荷神社は下記記事参照 石切・額田・瓢箪山近隣散歩(下) 2010.5.4. 今回とり上げる「ひょっこりひょうたん山」の瓢箪山古墳は、このわが地元の瓢箪山古墳ではなく、奈良市佐紀にある瓢箪山古墳である。 これまでに何度か訪ねているが、調べてみるとブログには未登載のようなので、銀輪散歩で訪ねてみました。(佐紀瓢箪山古墳位置図) 佐紀瓢箪山古墳は、近鉄大和西大寺駅の北東1km位の位置にある。 成務天皇陵古墳や垂仁天皇の皇后である日葉酢媛陵古墳などの佐紀盾列古墳群の一角をなす古墳である。 大和西大寺駅から東へ、平城宮趾公園にさしかかった北側にある佐紀池で左折、池に沿って北に進むと佐紀神社。その前にあるからということで命名されたのか御前池という池がある。この池に沿って進み、坂を上り切ったところにある下吉堂池を左に見て更に北上すると、瓢箪山古墳である。 ながらく来ないうちに周辺は住宅が建て込んで、何やら記憶にある風景とは趣きの違った感じで、ひょっこりと古墳が現れました。(瓢箪山古墳&マイ・トレンクル)しばらくも わが来ぬうちに 家々に 囲まれ古墳 気づまりな顔 (瓢箪家持)(佐紀瓢箪山古墳・説明碑)<参考>佐紀瓢箪山古墳・Wikipedia※説明碑は写真をクリックして大きいサイズの写真のフォト蔵画面でお読みください。この場合、PR画面が邪魔をすることがありますが、画面左上または右下の×印をクリックするとPR画面が消えて、写真画面を見ることができます。 瓢箪山古墳は、4世紀末から5世紀初頭の築造と推定される前方後円墳である。古墳の外周をめぐる小径のようなものがあるので行ってみる。隣接して丸塚古墳があり、これと一体化して「瓢箪山」という呼称が生まれたのでしょうが、ぼんやりと回っていると、瓢箪山古墳と丸塚古墳との区別がつかない。(同上・東面)(同上・西面)(同上・南面 こちらは丸塚古墳になるのだろうか。) ぐるりと古墳の周りを一周しているうちに、何やら方向感覚が狂ってしまったみたいで、古墳の先の分岐道で左に坂を下って行くと、近鉄京都線の平城駅前に来てしまった。途中から何となくそんな予感がしていたのだが、その予感の通りであったという次第。 本人としては、東方向に進み、磐之媛陵に向かうつもりであったのだが、逆の西方向に進んでいたという次第。 仕切り直しで、平城宮趾公園に立ち寄ってから、磐之媛陵に向かう。(平城宮趾公園) まだ高校生であった頃か、それとも既に大学生になっていたのか記憶が定かではないが、佐紀丘陵を歩いていて、奈良駅方向つまり東方向へ歩いているつもりで、北方向に歩いていたようで、近鉄京都線の山田川駅まで来てしまうということがあったが、どうもこのあたりは、道がうねうねとカーブしていることが多いのに加えてアップダウンが多い地形なので、道に迷いやすいようだ。 磐之媛陵は、ヤカモチが立ち寄った多くの古墳の中でも、その回数が最も多い古墳ではないかと思う。奈良自転車道が御陵の前を通過しているということもあるが、そういう道ができるずっと前から度々立ち寄っているから、この古墳の佇まいや周辺の雰囲気が気に入っていたのかもしれない。(磐之媛陵) 仁徳天皇の皇后である磐之媛の歌は、万葉集第2巻の巻頭を飾る4首で、夙に有名である。これまでに何度も当ブログに掲載しているのではないかと思うが、再度掲載して置きます。君が行ゆき 日け長くなりぬ 山尋ね 迎へか行ゆかむ 待ちにか待たむ (磐之媛 万葉集巻2-85)<君(仁徳天皇のこと)の旅は日数を経て久しくなりました。山道を訪ねてお迎えに参りましょうか、それともここでひたすら待っていましょうか。>かくばかり 恋ひつつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを (同巻2-86)<これほど恋しい思いをしているくらいなら、高山の岩を枕にいっそ死んでしまった方がましです。>ありつつも 君をば待たむ うちなびく わが黒髪に 霜の置くまでに (同巻2-87)<このままじっと君を待ちつづけましょう。うちなびくわたしの黒髪に白く霜が置くまでも。>秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ (同巻2-88)<秋の田の稲穂の上に立ち込める朝霧のように、いつになったらわたしの恋が報われて、この恋しい思いが雲散霧消するのでしょうか。>(同上) 磐之媛陵の南側は水上池が広がっている。水鳥の 羽ばたく音す 水上の 池にひとりし 吾が恋ひ来れば (偐家持)(水上池 「佐紀沢」はこの池のこととされている。) 中臣女郎が大伴家持に贈った歌の歌碑がある場所からパノラマ撮影で撮ったのが上の写真である。歌碑の写真は、下記<参考>の記事に写真を掲載していますので、ご参照ください。<参考>藤原百川の墓・相楽神社から平城宮址へ(下) 2014.9.29. 歌碑の歌は、次の通り。女郎花 佐紀沢に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも (中臣女郎 万葉集巻4-675)<(をみなへし)佐紀沢に生える花かつみ、かつて思いもしなかった恋をしていることです。> 万葉集によると、彼女はこの歌を含み5首の歌を家持に贈っている。 もう1首記載して置きましょう。否と言はば 強ひめや我が背 菅の根の 思ひ乱れて 恋ひつつもあらむ (同 巻4-679)<嫌だと言われれば、逢ってほしいと強いたりはしません、あなた。(菅の根の)思い乱れて恋いつづけて居りましょう。> 水上池から自衛隊基地の前に出て、海龍王寺の前を通り、一条通りへ。(海龍王寺)※海龍王寺にも立ち寄ったのですが、本堂縁側にでんと座ったまま長時間動こうとしない男性が撮影の邪魔、西金堂にも3人ほどの人がずっといて何やらされている、歌碑にも布か何かの覆いがかけられていて撮影ができない、というようなことで、いい写真が撮れなかったので、割愛です。(同上) 一条通りを東へ。奈良街道(国道24号)を南へ、大宮橋から佐保川沿いの道に入り、上流へ。 この道は、直近では、一昨年(2019年3月30日)に中学時代のクラスメイト男女6人で歩いた道でもある。この時は、桜はチラホラで早過ぎたが、桜の開花が早過ぎた今年は、遅過ぎた訪問に。(佐保川・大宮橋から下流側) 大宮橋から佐保川上流を望むと、正面に若草山。(同上・大宮橋から上流側) それでも、大伴家持と坂上郎女の歌碑が並んでいる佐保川畔付近は、まだ十分に花が咲き残っていました。 両歌碑の写真及び歌は、下記<参考>記事に掲載していますので、ここでは割愛します。<参考>佐保ウオーク 2019.3.31. 中学同窓との第2回ウオーク下見 2019.2.24.(同上・大伴家持と坂上郎女の歌碑のある付近) 中学同窓とのウオークや集まりも、コロナ禍で昨年は中止。今年もいつ再開できるかは不明。みな恙なく元気にコロナ禍を乗り切って欲しいものであります。 下長慶橋で右折、佐保川にお別れして、南へ、国道369号に出て、近鉄奈良駅前到着。銀輪散歩終了であります。 ちょっと遅ればせの記事と相成りました。
2021.04.25
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今回も、少し前のことになりますが、奈良散策の記事です。 まだ桜が咲き残る頃、興福寺、東大寺二月堂などを散策しました。 興福寺の起源は、藤原鎌足の夫人・鏡王女が、夫・鎌足の病気平癒を願って天智天皇8年(669年)に山背国山階(現、京都市山科区)に創建した山階寺にある。その後、山階寺は藤原京に移転し、厩坂寺となり、平城京遷都に伴い、藤原不比等が現在地にこれを移転し、興福寺としたとのこと。 鏡王女は天智天皇の寵愛を受けるが、後には藤原鎌足から求婚されその正妻となっている。異説もあるが、藤原不比等の母親は彼女とされる。 万葉集には鎌足と鏡王女との愉快なやりとりの歌がある。玉くしげ 覆ふをやすみ 明けていなば 君が名はあれど わが名し惜しも (鏡王女)<夜が明けてしまうと、アンタはいいけど、あたしの評判に傷がつくのよ。人目につかないうちに早く帰ってよ。>玉くしげ みもろの山の さな葛 さ寝ずは遂に ありかつましじ (鎌足)<みもろの山のさな葛じゃないけど、君と寝ないで帰るなんて、ボクにはとてもできないよ。> 興福寺と言うと、猿沢の池などから眺めても五重塔がまず目に入るように、この塔が思い浮かぶ。 これに対して三重塔は、南円堂の裏側にひっそりとあって、目立たぬ存在である。 今日は、この三重塔から始めてみることにしましょう。(興福寺・三重塔) 三重塔(国宝)は、康治2年(1143年)崇徳天皇の中宮皇嘉門院(藤原聖子、小倉百人一首で「法性寺入道前関白太政大臣」と呼ばれている藤原忠通の娘)によって創建されたもの。 現建物は、鎌倉時代前期に再建されたものであるが、正確な再建時期は不明とのこと。 父親・藤原忠通の小倉百人一首の歌は、わたの原 こぎいでてみれば ひさかたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波<海原に船を漕ぎ出して眺めやると、雲に見間違えそうな沖の白波、素晴らしい眺めだ。> また、彼女に仕えていた女官(女別当)の歌も、皇嘉門院別当の歌として、次の歌が百人一首に入っている。難波江の 芦のかりねの ひと夜ゆゑ 身をつくしてや こひわたるべき<たった一夜のかりそめのちぎりを交わしたばかりに、わたしは、生命をつくしても、死ぬまでも、恋いつづけてゆくことでしょう。> 然るに、彼女自身の歌が入っていないのは、父に似ず、歌の方は得意ではなかったということか。 三重塔から南円堂の裏道を通って北円堂へと向かう。 南円堂もこちらの角度から見ると何か新鮮である。(南円堂) 風鐸をズームアップで撮影。(南円堂の風鐸) 南円堂は、藤原冬嗣が父・内麻呂の追善供養に、弘仁4年(813年)創建した八角堂。本尊は不空羂索観音。西国三十三所の9番札所である。 現建物(重要文化財)は、4代目で、寛政元年(1789年)の再建とのこと。 北円堂は撮影しなかったと見えて、写真はなし。 中金堂は完成して、落慶法要も済んでいるが、外周などの工事がまだ続いていて工事中仮囲いが無粋な空気を醸す。 で、これに背をむけて、桜を撮影。(興福寺の桜) 復原なった中金堂と南大門跡礎石の間を通って、五重塔と東金堂の方へと向かう。(興福寺・中金堂) 中金堂は、興福寺の中心的な建物で、藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための建物として、710年平城遷都直後に創建されたとみられる。現在の建物は9代目で、2018年10月の再建である。(同上・東金堂と五重塔) こちらは、昔ながら景色である。 東金堂は、神亀3年(726年)、聖武天皇が元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する建物として建てられたもの。 現在の建物(国宝)は、6代目で、応永22年(1415年)の再建。 五重塔は、光明皇后の発願で、天平2年(730年)創建である。 現在の建物(国宝)は、応永33年(1426年)の再建で6代目。 五重塔と東金堂の間を抜けて、会津八一の歌碑のある道を東へ。はるきぬと いまかもろびと ゆきかへり ほとけのにはに はなさくらしも (会津八一)※上記歌碑の写真掲載の記事は下記です。 参道の奥に憶良の歌碑ありて 2014.1.16.<参考>興福寺・Wikipedia 法相宗大本山興福寺 東大寺二月堂へと向かう。 南方向からだと、手向山八幡宮の前を通ることになる。(手向山八幡宮)<参考>手向山八幡宮・Wikipedia 手向山八幡宮は、天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏建立に際して、東大寺の守護神として宇佐八幡宮から勧請された神社。(同上・御紋) 八幡神の御使いとされる鳩が向かい合っている手向山八幡宮の御紋。 中央にハート型が出来上がっているところがミソである。(同上・鳥居) 今日は、鳥居前を素通りである。 百人一首の菅原道真の歌にかこつけて、ヤカモチも戯れ歌1首。このたびは 前を素通り 手向山 四月といふに ゆく二月堂 (素通道真)(本歌)このたびは ぬさもとりあへず 手向山 もみぢの錦 神のまにまに (菅原道真 古今集420 小倉百人一首24)(注)本歌の菅原道真の歌は、昌泰元年(898年)10月宇多上皇の吉野宮滝御幸に供奉した時に詠んだもの。この時同時に、次の漢詩も作っている。 満山紅葉破心機 況遇浮雲足下飛 寒樹不知何処去 雨中衣錦故郷帰 向かいの三月堂(法華堂)もスルーして、二月堂前に到着。(東大寺二月堂)<参考>東大寺二月堂・Wikipedia 東大寺二月堂の確実な創建時期は不明であるが、修二会は大仏開眼供養と同年の天平勝宝4年(752年)に初めて行われたとされるところから、この年の創建と考えられている。 本尊は十一面観音。 現建物(国宝)は、寛文9年(1669年)江戸幕府(第4代将軍、徳川家綱)の援助により再建されたもの。(同上・南面) 南から入り、西側の回廊へ。 修二会の儀式の中の「お水取り」では、北側の登廊から火をつけた松明を担いだ僧がこの回廊へと駆け上がり、火の粉をまき散らすということが行われるが、昔、若い頃、今は亡き父と一緒にお堂の下でこれを見上げ、火の粉をかぶったことがある。その時着用していた黒いコートは化学繊維のもの。儀式が終わって、帰路の近鉄電車の車内で気が付いたことは、着用の我がコートのあちらこちらが穴だらけになっているということ。その後、何度かお水取りの松明を見物しているが、火の粉の舞い落ちる下には近づかず、遠目に眺めている次第。(同上・回廊からの眺め)(同上・登廊) 西回廊から登廊に回りこれを下って、北側の坂道から大仏殿方向へのだらだら坂を下る。(大仏殿裏手から二月堂への道) 大仏殿の東側を通って、鏡池、南大門へ。 南大門の手前のミュージアムの前に巨大な手。 大仏の両手の実物大レプリカである。(大仏の実物大レプリカ) 境内にある会津八一の歌碑の歌を思い起こさせました。おほらかに もろてのゆびを ひらかせて おほきほとけは あまたらしたり (会津八一)<参考>上記歌碑の写真掲載の記事は下記です。 参道の奥に憶良の歌碑ありて 2014.1.16. 以上、奈良ぶらぶら散策でありました。
2021.04.23
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友人・岬麻呂氏からの旅便りが届きました。 恒例の「桜追いかけ旅」でありますが、今年は早すぎる開花で桜前線の北上も速く、加えてコロナ禍によるホテル休館による直前での宿変更があったりという苦労もあっての桜旅であったようです。 旅の次第は、例によってご本人からの「旅・岬巡り報告268」&「同写真説明」をお読みいただくことといたしましょう。(旅・岬巡り報告268・南東北&同写真説明)※画像をクリックすると、フォト蔵の大きいサイズの写真画面が別窓で開きますので、それでお読みいただくと、読みやすいかと思います。なお、その場合、開いたフォト蔵画面がPR画面で覆われるという無粋なことが起こることがあります。この場合は当該PR画面の左上または右下に出ている×印をクリックするとPR画面が消え、フォト蔵画面を支障なく見ることができるようになります。 今回は、4月13日~16日の3泊4日の宮城、山形、福島の旅。 別途メールで送信いただいた写真を、以下、旅程にしたがい、ご紹介申し上げます。4月13日関西空港→仙台空港→(レンタカー)→岳温泉→二本松城→猪苗代湖→会津若松・鶴ヶ城→東山温泉・庄助の宿(泊) 仙台空港でレンタカーを借りて、向かわれたのは、初日の宿が会津若松の東山温泉ということもあって、南進、安達太良山麓の岳温泉。 船岡城址や白石一目千本桜が本来のお目当てであったが、既に葉桜だというので断念し、福島駅観光案内所での情報で、標高の高い岳温泉に向かわれたという次第。(岳温泉・桜坂) ご覧の通りの満開。 二本松城は葉桜。猪苗代湖は標高が高過ぎて逆にチラホラ咲き。 会津若松の鶴ヶ城は散りまがう桜景色。(鶴ヶ城) 鶴ヶ城はヤカモチも何度か訪ねているので、懐かしい。<参考>越後・会津銀輪散歩 2011.4.23.4月14日早朝・鶴ヶ城→喜多方市・日中線廃線敷の枝垂れ桜→押切公園→山形県境・大峠→米沢城址公園→赤湯温泉・烏帽子山神社→新庄市・最上公園→天童温泉天童ホテル(泊)・天童公園と倉津川枝垂れ桜(喜多方市・日中線<廃線跡>・枝垂れ桜) 廃線跡と聞くと、銀輪家持は自転車で走りたくなるというものですが、ここは自転車道が整備されているのだろうか。 大峠を越えて福島県から山形県へと北上。 桜追いかけ旅ですから、先ず南に下って、そこから北上開始というのは理に叶ったことではある。(米沢城址) 桜旅のかたわら、ヤカモチ用にと米沢市のマンホールの写真も撮影、これを送って下さいました。(米沢市のマンホール) そして、赤湯温泉・烏帽子山神社へ。(赤湯温泉・烏帽子山神社 石造大鳥居と桜) 烏帽子山神社のこの石鳥居は、石造の鳥居としては日本一の大きさだそうな。鳥居であるから、日本一ということは「世界一」ということでもあるのではと思うが、世界一と言わないところが面白い。 新庄市の最上公園・最上城址へ。(最上城址) この日のホテルへチェックインし、夕食を済ませてからだろうと思いますが、倉津川の夜桜見物へ。(倉津川の夜桜)倉津川 妹とし行けば 夜桜は みなもにうつし 今盛りなり (夜桜家持)4月15日天童公園→仙台経由・大和町ふれあい文化創造センター→大衡村・万葉おおひら館→涌谷町・わくや万葉の里天平ろまん館→石巻かわまち交流センター→女川たびの情報館→松島センチュリーホテル(泊) 倉津川の夜桜に対して、翌朝は天童公園の朝桜であります。(天童公園の桜) 天童と言えば、天童よしみ、じゃなくて(笑)、将棋の町。 確か前回のこの方面への旅でもご紹介いただいたかと思いますが、今回も天童公園の人間将棋盤であります。(天童公園の人間将棋盤 正面奥に見えるのが王将の碑) 仙台を経由して北上、大和町から大衡村へ。 大衡村では、こんなマンホールも発見。(宮城県黒川郡大衡村のマンホール) さらに北上して、涌谷町へ。 ここでは、「わくや万葉の里・天平ろまん館」と黄金山神社に立ち寄られたようで、そのパンフレットも郵送くださいました。(天平ろまん館の展示)(同上・大伴家持自筆の書)(同上・砂金をデザインしたマンホール) 以上でお分かりかと思いますが、聖武天皇の時代、大仏建立のため大量の黄金が必要となるところ、折よく、陸奥国で金が産出し、聖武天皇はこれを大いに喜ばれ、出金詔書を発されるが、その金の産出地がここ黄金山神社のある山だというのである。 この詔書に於いて、天皇は大伴氏、佐伯氏の名を挙げて、代々よく仕えてくれたとその忠誠に言及されたので、このことに感激した大伴家持は「出金詔書を賀す歌」(下掲<参考>参照)というのを作っている。 この歌については、過去の記事(「高岡銀輪散歩(その7)」2012.6.29)でも触れているが、歌全文を掲載したことがないので、今回はこれを掲載することとしました。 大伴家持は、その歌の中で「小田なる山に金ありと」と詠んでいるが、この「小田なる山」というのが、ここ宮城県遠田郡涌谷町黄金迫にある山、すなわち、式内社・黄金山神社のある山と解されているのである。 もっとも、この歌を詠んだ時の大伴家持は越中国守として今の富山県高岡市伏木にいたので、そこで詠んだのであって、この涌谷の地に立って詠んだというわけではない。 出金詔書が発されたのは天平勝宝元年(749年)4月1日、大伴家持が歌を詠んだのは同年の5月12日。1ヶ月余も遅れて詠んでいるのは、平城京から越中の家持にその情報が届くのに、それだけの時間を要したということであるのだろう。時に家持32歳でありました。<2021.4.23.追記・注>この年の元号の推移について補足 この年は元号が2回改元されている。 4月14日 天平から天平感宝へ改元 7月 2日 天平感宝から天平勝宝へ改元 従って、正確には、出金詔書の発出は天平21年4月1日であり、大伴家持の歌は天平感宝元年5月12日のこととなる。しかし、後世の書物などではこの年は天平勝宝元年と表記するのが普通で、天平感宝という元号が使用されることはなかった。 この歌の一部は、軍歌「海ゆかば~」の歌詞となっているので、それを知る人は多いと思うが、出金詔書を賀す歌の一部であることを知る人はそう多くはないと思う。<参考>出金詔書を賀す歌 天平感宝元年五月十二日、越中国の守の館にして、大伴宿禰家持作る。 陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌一首併せて短歌葦原(あしはら)の瑞穂(みづほ)の国を 天降(あまくだ)り 知らしめしける 皇祖(すめろき)の 神の命(みこと)の 御代(みよ)重ね 天(あま)の日継(ひつぎ)と 知らし来る 君の御代(みよ)御代(みよ) 敷きませる 四方(よも)の国には 山川(やまかは)を 広(ひろ)み厚(あつ)みと 奉(たてまつ)る 御調宝(みつきたから)は 数へ得ず 尽くしもかねつ しかれども わが大君の 諸人(もろひと)を 誘(いざな)ひたまひ よきことを 始めたまひて 金(くがね)かも たしけくあらむと 思(おも)ほして 下悩(したなや)ますに 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 陸奥(みちのく)の 小田(をだ)なる山に 金(くがね)ありと 申したまへれ 御心(みこころ)を 明(あき)らめたまひ 天地(あめつち)の 神相(あひ)うづなひ 皇祖(すめろき)の 御霊(みたま)助けて 遠き代に かかりしことを 朕(わ)が御代に 顕(あら)はしてあれば 食(を)す国は 栄えむものと 神(かむ)ながら 思ほしめして もののふの 八十伴(やそとも)の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人(おいひと)も 女童(をみなわらは)も しが願ふ 心(こころ)足(だ)らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴(たふと)み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の その名をば 大久米主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし官(つかさ) 海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おほきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かへり)みは せじと言立(ことだ)て ますらをの 清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる 祖(おや)の子どもそ 大伴と 佐伯の氏(うぢ)は 人の祖(おや)の 立つる言立て 人の子は 祖(おや)の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言(こと)の官(つかさ)そ 梓弓(あづさゆみ) 手に取り持ちて 剣(つるぎ)大刀(たち) 腰に取り佩(は)き 朝守(あさまも)り 夕(ゆふ)の守りに 大君の 御門(みかど)の守り 我をおきて 人はあらじと いや立(た)て 思ひし増さる 大君の 御言(みこと)の幸(さき)の 聞けば貴(たふと)み (万葉集巻18-4094) 反歌三首ますらをの 心思ほゆ 大君の 御言(みこと)の幸(さき)を 聞けば貴み (同巻18-4095)大伴の 遠つ神祖(かむおや) 奥城(おくつき)は しるく標(しめ)立て 人の知るべく (同巻18-4096)天皇すめろきの 御代栄えむと 東あづまなる 陸奥山みちのくやまに 金くがね花咲く (同巻18-4097)<現代語訳>葦原の瑞穂の国を、高天原から降りてこられてお治めになった神である天皇のご子孫が、幾代も、日の神の跡継ぎとして治めてこられたその御代ごとに、お治めになっている四方の国々では、山も川も広々と豊かであるので、奉る珍しい貢ぎ物は数え切れず、言い尽くすこともできない。しかしながら、我が大君が民衆をお導きになり、大仏建立というよきことをお始めになって、黄金が確かにあるのかと思ってご心配なされていたところ、(鶏が鳴く)東の国の陸奥の小田郡の山に黄金があると奏上したので、ご安心され、天地の神々もお喜びになり、皇祖の神霊もお助けになり、遠い昔にもあったこのようなことを我が御代にも実現したのだから、治めるこの国は栄えるだろうと、神のみ心のままにお思いになり、あらゆる官人たちをお従えになるまま、老人も女子供もそれぞれが願う心の満ち足りるまで慈しみくださり、お治めになるので、このことが何ともありがたく嬉しいことだと、その思いを一層強くし、大伴の遠い祖先の、その名を大久米主と名乗り仕えた役目で、海を行くならば水に漬かった屍、山を行くならば草むした屍となっても、大君のおそばでこそ死のう、わが身を顧みたりはしない、と誓いの言葉を述べて、ますらおの清いその名を昔から今の世に伝えて来た家柄の子孫なのだ。大伴と佐伯の氏族は、その先祖が立てた誓いに、子孫は先祖の名を絶やさず、大君に従うものだと言い伝えて来た役目の家柄なのだ。梓弓を手に取り持ち、剣大刀を腰につけて、朝の守りも夕の守りも、大君の御門の警備は、我らのほかに誰もあるまいと、さらに誓い、その思いが一層増す。大君のありがたき仰せを聞くとかたじけなくて。 反歌三首ますらおとしての心が湧き上がって来る。大君の有難いお言葉を聞くと。大伴氏の遠い祖先の墓には目立つようにしるしを立てよう。人がそれと知るように。天皇の御代が栄えるだろうと、東国の陸奥の山に、花咲くように黄金が現れた。(万葉歌碑の副碑) 歌碑は判読不能とて、副碑の写真のみ送って下さいましたが、ヤカモチとしては、判読不能でも歌碑の方の写真を送っていただきたかった、というのが正直なところです(笑)。(黄金山神社) 我田引水、万葉関連ということで、長くなりましたが、参考までに、送っていただいた「天平ろまん館」のパンフレットを撮影した写真も掲載させていただきます。 なお、大伴家持の生涯についての年表は下記<参考>の過去記事に掲載されていますので、ご参照ください。<参考>今年は大伴家持生誕1300年 2018.1.6.(天平ろまん館のパンフレット)(同上)(同上)(同上)(同上)(同上)(同上)(涌谷町のマンホール) 涌谷町のマンホールカードはこのデザインのものをカードにしているらしいが、これは涌谷町公民館前の路上で撮影されたとのこと。 石巻市、女川町、松島町へ。(石巻市のマンホール)(女川湾)(松島)4月16日奥松島→松島・西行戻しの松公園→鹽竈神社→七ヶ浜国際村→青葉城→仙台空港→関西空港 最終日は、松島から鹽竈神社、七ヶ浜町へ。(松島町のマンホール) これは、規格品タイプのマンホール蓋であるから、松島らしいのは、中央の町章の部分だけである。(鹽竈神社の桜) そして、七ヶ浜町のマンホールです。(七ヶ浜町のマンホール)(同上・規格品タイプ) 七ヶ浜国際村、青葉城を廻って、仙台空港へ。 走行距離830kmのドライブ桜旅、以上で完結です。 今日もご覧いただきありがとうございました。 なお、旅先でゲットされたマンホールカード全9枚も旅便りに同封されていて、その撮影も行いましたが、今回は写真が多くなりましたので、これの掲載は割愛します。 これらは、下記の市町村のものですが、末尾参考のフォト蔵アルバム「岬麻呂マンホールカード写真集」に収録して居りますので、ご覧になりたいお方はそれをご覧ください。 マンホールカードはブロ友のひろみちゃん8021さんに贈呈すべく送られて来るものであり、追って彼女がご自身のブログでそれをご紹介されるであろうから、ヤカモチがここでこれを掲載しなくてもいいということではあります。 本日、馴染みの喫茶店・ペリカンの家経由で彼女にお渡しすべく、午前中にお届けしたところ、午後2時頃に同喫茶店をご訪問、これを受領されたようで、その旨のメールがありました。〇福島市〇福島県河沼郡湯川村〇新庄市〇宮城県黒川郡大和町〇宮城県黒川郡大衡村〇宮城県遠田郡涌谷町〇石巻市〇宮城県牡鹿郡女川町〇宮城県宮城郡七ヶ浜町<参考>過去の岬麻呂旅便り記事はコチラ。フォト蔵アルバム・岬麻呂写真集はコチラ。同上・岬麻呂マンホールカード写真集はコチラ。
2021.04.21
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パソコンを起動するとウ~ンウ~ンと異音を発し、ファンエラーの表示が出る。そのままだと自動的にシャットダウンとなるようだが、F1キーを押すと、操作継続となり、スタート画面が現れる。あとは通常通りの操作でブログ管理画面を開き、記事を書くことが可能。この間ずっと異音が出つづけているのだが、毎度のことで最近は余り気にならなくなった。ただ、ファンが故障して機能していないのだから、内部に熱を帯びやすくなっているということは容易に推測できるので、長時間の連続使用をして、内部に熱を蓄積させ過ぎないように、という配慮が必要かと思う。 既に、新しいPCは注文済みであるが、それが使えるようになるまでの間は、この異音PCでブログ記事を書くしかない、という次第。 記事ネタはそこそこあるのだが、起動、下書き保存、中途シャットダウン、しばらく放置、再起動、下書き保存、再シャットダウン・・を何度か繰り返してのブログ記事アップとなるので、いつも以上に記事を書き上げるのに手間暇を要することになる。 そんなことで、今日の記事ネタを今日の記事に、というのは無理なことが多い。よって、記事ネタの日付の先後に関係なく、その時の気分でいくつかの記事ネタから、これというものを選び、それが既に下書き保存されているものである場合には仕上げの書き込みなどをした上で、記事アップという段取りになるという次第。 そんなことで、この記事も、今日のことではなく何日か前のことということになります。 さて、久々に春日大社を訪ねて来ました。 春日大社は、これまで何度も訪ねているが、南門から入って本拝殿を遠望、直会殿と「砂ずりの藤」の藤棚との間を通って慶賀門から外に出るというのが普通で、本拝殿の近くまで行ったことがあったのかどうか記憶が定かではない。 先日は、特別参拝料なるものを支払って、特別参拝入口から奥へ入ってみることにしたが、そもそもこのような特別参拝入口と同受付所などが以前はあったのかどうか。 二の鳥居前に自転車を駐輪して、参道を奥へ進み、南門から入る。(春日大社・南門) 下掲の説明碑によると、南門は、藤原氏以外の人間の参入門であったとのことである。(同上・南門説明碑) 南門を入って、正面奥が本殿正面。 左手が幣殿で、通常は参拝所として用いられているので、ここで参拝を済ませて退出することとなる。 右手にあるのが、特別参拝の受付をする社殿。 ここで特別参拝の受付を済ませて、石段を上ると幣殿の前庭・林檎の庭の右手(東側)に出る。 祭典の際に神楽、舞楽などの神事芸能がこの庭で奉納される。 高倉天皇がこの庭に林檎の木を献木されたことから、林檎の庭と呼ばれるようになったとのことである。(同上・林檎の庭と林檎の樹) この林檎の樹に実が多くなるか否かでその年の農作物の豊凶を占ったとのこと。(同上・林檎の樹説明碑) 本殿の前から回廊に回って釣灯籠を見てみる。(同上・本拝殿) 回廊には奉納された釣灯籠がずらりと並んでいる。(同上・回廊の釣灯籠1) 年配の男性二人連れ参拝客の会話が耳に入る。 どうやら、そのうちのどちらかのお方が奉納された釣灯籠がこの中にあるらしく、その前でそのような会話を交わされていました。(同上・同2) お盆の中元万灯籠の折には、これらの灯籠全てに火がともされ、幻想的な光景を現出する。(同上・同3)(同上・同4) 正面の本殿前の通路には、戦国武将などが寄進・奉納した釣灯籠が並べられていて、その旨の説明碑が掲示されている。(同上・宇喜多秀家寄進の釣灯籠)(同上・同説明碑)(同上・直江兼続奉納の釣灯籠)(同上・同説明碑)(同上・藤堂高虎奉納の釣灯籠)(同上・同説明碑)(同上・徳川綱吉寄進の釣灯籠)(同上・同説明碑) 本殿左手にあるのが、本社大杉。 樹齢1000年、周囲7.94m、樹高20m。 鎌倉時代の「春日権現験記」には幼木の姿で描かれているとのこと。 回廊の石灯籠の隙間から見た大杉が下の写真。(同上・回廊前の石灯籠の間から本社大杉を見る。)(同上・本社大杉説明碑) 大杉の根元から伸びた木が西隣側の直会殿の屋根を突き抜けている。 パンフレットには「直会殿の屋根に穴をあけてまで木を生かしているのは、春日独自の信仰によるものです。」とある。(同上・直会殿の屋根を突き抜けている木)(同上・反対側から)(同上・直会殿前から大杉と本拝殿を見る) 直会殿の前から、本殿の方を見る。 本殿は、この建物の奥に第一殿、第ニ殿、第三殿、第四殿とある。 第一殿は武甕槌命、第ニ殿は経津主命、第三殿は天児屋根命、第四殿は比売神を祀る。 タケミカヅチは鹿島の神様、フツヌシは香取の神様、そしてアメノコヤネノミコトとその后であるヒメ神はわが地元の枚岡の神様である。 本殿西側の藤浪之屋という建物内では、万灯籠の光景が再現展示されていました。(同上・万灯籠再現展示<藤浪之屋>)(同上)<参考>春日大社参拝パンフレットより(春日大社大宮配置図)(春日大社境内全図)(春日大社・主な祭典) 春日大社への参道は三条通り突き当りの一の鳥居から真っ直ぐに東へと進む道と、東大寺側の北から斜めに入るもう一つの参道がある。前者を表参道と呼ぶなら、こちらは裏参道とか北参道と呼ぶのが相応しいだろう。 その裏参道には、途中に山上憶良の秋の七種の歌(万葉集巻8-1537番及び1538番)の歌碑がある。<参考>上記憶良の万葉歌碑の写真掲載記事はコチラ。 その裏参道と表参道が交わる付近にあるのが下の写真の灯籠。(同上・参道の石灯籠) 一方、表参道には、一の鳥居を入ってすぐのところ左側、奥まった場所に、このムクロジの古木がある。 これまでその存在に気づかなかったが、たまたま二人のご婦人が近寄って見上げて居られたので、ヤカモチも気づいたという次第。 何とも奇妙な景観である。(同上・参道脇のムクロジの巨木) このムクロジ、幹の中央部が空洞になっているようで、近くの竹藪から地下茎を伸ばして来た竹がそのタケノコを成長させたと見え、中央部分から竹が数本顔を出している。(同上・根元部分) 樹高15.5m、幹回り4.58m。(同上説明碑) ムクロジはわが墓参の道にもあるが、こんな巨木では勿論ない。 竹もしたたかであるが、ムクロジの木もしたたか。面白い共生を見せていただきました。<参考>奈良県の銀輪万葉過去記事は下記です。 銀輪万葉・奈良県篇(その1) 銀輪万葉・奈良県篇(その2)<追記:2021.4.19.>一部に文字のミスタイプがあったので修正。
2021.04.18
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今日は、銀輪散歩その他で見かけた花の写真です。 先ずは、まだ桜が咲いていた頃の写真。(桜と青空) なにかいい感じなので、パチリ1枚でした。 そして、桜は散り、花筏。 それも今はもう過去の景色か。 季節の移ろいの何とはやいことか。(花筏)(同上) 次は、春日大社境内のアセビ。(アセビ<馬酔木・あしび>)我妹子に わが恋ふらくは 春日なる 馬酔木の花の 今盛りなり (酔家持)(本歌)わが背子に わが恋ふらくは 奥山の 馬酔木の花の 今盛りなり (万葉集巻10-1903) 次はトキワマンサク。 トキワマンサクも桜に劣らず美しい。(トキワマンサク) 次はマツバウンラン。 この花、最初に見た時は名前が分からず、「夢の雫」などと勝手な名をつけて、ブログに掲載したら、友人の小万知さんから「マツバウンラン」だと教えていただいたのでありました。春の夜の 夢の雫の ごと咲きて 松葉海蘭 風にそよげる (夢家持)(マツバウンラン)(同上)(同上) ちょっと異質ですが、真っ赤なアネモネで色を添えましょう。(アネモネ) これは、銀輪散歩ではなく、本日、友人・蝶麻呂氏とドライブして立ち寄った小さな公園に咲いていた藤の花です。(フジ)(同上)(同上) 見事な藤の花だとカメラを向けていたら、蝶麻呂氏は「僕は藤の花よりも桐の花の方が好きだ。」と水を差す(笑)。(同上) そして、その公園には、こんな花も咲き群れていました。(ムラサキサギゴケ) この花の名も、かなり以前のことになるが、小万知さんから教えていただいたものである。 遠目にはスミレかと見えるが、近寄ってみると花の形が全く違う。(同上)(同上) 近くには黄色の集団も。 ヘビイチゴに似ているがちょっと違う気がするから、キジムシロかオヘビイチゴではないかと思うが、よくは分からぬ。(キジムシロかオヘビイチゴか) キジムシロもオヘビイチゴも同じキジムシロ属の植物。 花だけでは、どちらと区別するのはヤカモチの手に余ることである。(同上) 以上、ファンの故障で、うなりを上げるパソコンと折り合いをつけながらの記事アップでありました。
2021.04.15
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若草読書会は昨年2月2日開催の新年会を最後に休会が続いている。 昨日は、大阪府の新規感染者数が1099人と、初めて1000人を突破するなど、コロナ禍は第4波の拡大期に入って居り、終息の道なお遠しの状態。読書会もいつ再開できるのか見通せない状況である。 そんな中、メンバーの一人である景郎女さんから、「お元気ですか?断捨離の中、一番困る冊子ですネ(笑)。よいようになさってネ。」というメッセージとともに「野の花文庫45周年記念誌」が送られて来ました。 景郎女さんが取り組んで来られた、子ども達に絵本を読み聞かせるという活動を中心とした「野の花文庫」の活動も、はや45年にもなりますか。 第4号とあるから、30周年の年から5年ごとに記念誌を発刊されているのかもしれない。 1975年~1980年の東大阪市時代、1980年~2001年の大山崎円明寺時代、2002年~現在の高槻市時代のことが紹介されている「野の花文庫のあゆみ」や文庫の子ども達からの寄稿、文庫で育った先輩達からの寄稿など、全72ページの、楽しく立派な記念誌であります。 ののはな 谷川俊太郎 はなののののはな はなのななあに なずななのはな なもないのばな (「ことばあそびうた」福音館書店) 記念誌(下掲写真「同上7」参照)に掲載されている谷川俊太郎の詩。 野の花文庫という命名は、マタイによる福音書第6章28節~29節にある「野の花」によるのかと何となく思っていたが、この詩に由来するものであるのかもしれない。 谷川俊太郎の「ことばあそびうた」は1973年初版発行であるから、野の花文庫創設1975年と時期的にも合っている。(同上1)(同上2)(同上3)(同上4)(同上5)(同上6)(同上7) よいようにしてネ、という景郎女さんのお言葉に従って、このようにブログ記事に転載してしまいましたが、これが「よいように」という言葉の許容範囲内であるのかどうかは微妙ですかな(笑)。 景郎女さんの素晴らしい活動、その歩みに最大の敬意を表し、彼女やそのお仲間の皆さまのご健勝をお祈り申し上げ、野の花文庫がますますご発展されることを願って居ります。<参考>若草読書会関連の過去記事はコチラ。<追記:2021.5.3.> 景郎女さんから、当記事を読ませていただいたとして、若草読書会メンバー宛メールでメールがあり、そのメールに、上記谷川俊太郎著「ことばあそびうた」の写真が3点添付されていました。それを下記の追加掲載させていただきます。 なお、野の花文庫の「野の花」の出典はマタイの福音書からとのことでした。(「ことばあそびうた」)(同上・かえる)(同上・かっぱ)
2021.04.14
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(承前) 石舞台古墳への坂道を上る。 古墳の西側の広場、風舞台で少し休憩。(風舞台から石舞台を望む) 石舞台古墳見学受付所の前を通り過ぎ、更に坂を上った処に、古墳が見下ろせる場所があり、そこにベンチがいくつか設置されている。上の写真にも写っている背後の丘がその場所である。 そこから、石舞台古墳の全体を撮影しようという次第。 で、撮った写真がこれ。(石舞台古墳)(同上・写真奥に写っている建物が風舞台の建物。) ※1枚目の写真とこの写真とは撮影場所が向き合う位置関係にある。(飛鳥坐神社~石舞台古墳~亀石~甘橿丘) いよいよ、今回の銀輪散歩の目的、飛鳥川自転車道に向かいます。 石舞台古墳の前の坂を下り、県道から飛鳥川沿いの道に入ると、こんな可愛らしい光景に出会いました。(飛鳥川畔で草をはむヤギさん)(同上)(同上) 前の2頭はまだ仔ヤギのようだが、奥にいるのは親ヤギだろうか。 桜の幹に長いリードでつながれていて、かなりの範囲の草を自由に食べることができるようになっている。それぞれがリードの届く範囲の除草を担当しているようであります(笑)。 ここまで来たついでにと、久しぶりに亀石にもご挨拶してゆく。 橘寺を左手に見て、飛鳥川からは少し西に外れることとなる。 橘寺の本堂は改修工事中らしく、仮設足場とシートに覆われて、その姿は見えません。(亀石) 明日香村で昔からよく知られているものと言えば、先ほどの石舞台古墳とこの亀石かと思うが、両代表選手にだけはご挨拶を済ませたことになる。(同上・説明副碑) 亀石から、甘橿丘に向かい、飛鳥川自転車道に入りますが、ここで全行程の地図を掲出して置きます。ー線が往路、ー線が復路になります。 甘橿丘を北西側から撮って、飛鳥川自転車道を走ります。JR王寺駅前をゴールに設定。 全50km位になるかと思ったが、地図で大まかな距離をあたってみると、40km程度かと。従って、この日の銀輪散歩の距離は、出発前の平城宮趾公園一周や寄り道、道を間違っての迂回や引き返しなどの距離を加えても50kmには満たないようです。(甘橿丘) 甘橿丘の北側の道を少し西進したところで、橋を渡って、右岸の自転車道に移る。 このアト、自転車道は何度か、右岸、左岸と移るので、ぼんやり走っていて橋を渡り損ねると、自転車道から外れた反対側岸辺の道を走っていることになったりするので、注意が必要。(飛鳥川自転車道A) 桜咲き匂う道ではなく、桜散り敷く道をゆく。(同上B) 途中、おふさ観音とその門前のさなぶり餅の店・さなぶりやとの間の細道に入り、再び自転車道にもどる。 さなぶりやはペリカンの家サイクリングで立ち寄った店。<参考> ペリカンの家サイクリング下見 2018.8.27. ペリカンの家サイクリング・明日香篇本番 2018.9.16. おふさ観音の手前であったか、先であったか、記憶が曖昧であるが、桜の木にヤドリギが寄生して、塊となっているのが目にとまった。(桜の木にヤドリギ) ヤドリギは、ケヤキ、エノキ、ブナ、サクラ、クリ、ミズナラなどの落葉高木に寄生する常緑小低木である。 万葉では「ほよ(保与)」という。 早春(2~3月)に黄色の花を咲かせ、金色の実をつける。宿主の木が葉を落として枯れたようになる冬にも葉が緑であることから、生命の木とされた。ヤドリギが信仰の対象となる神聖な木という見方は世界各地にあるとのことであるが、万葉人も同様の見方をしていたことが、次の大伴家持の歌からもうかがえる。あしひきの 山の木末こぬれの 寄生ほよ取りて 插頭かざしつらくは 千歳ちとせ寿ほぐとぞ (大伴家持4136) ヤドリギを髪にかざして、その生命力を身に取り込もうと、家持さんは新年会で、この歌を詠みつつ、舞ったのかもしれない。 今井町前に到着。(今井町)<参考>今井町 2014.9.25. 今井町は前を素通り、多神社の向かい、県営福祉パークでトイレ休憩。 ここで、ペットボトルのお茶を飲んでいると、一人の男性が声を掛けて来られました。 男性「この道はどこまで行けるのですか?」ヤカモチ「南は明日香の石舞台近くまで、北は大和川まで行けますが、歩いて、ではどうでしょうか。」 男性「私も自転車です。」 確かに、男性が戻られたベンチにはママチャリが駐輪していました。(飛鳥川自転車道C・豊田橋付近の桜)(同上D) もう何度となく走っている道であるが、工事がどんどん進んでいるようで、自転車道が新しくなっていたり、以前とは反対岸に自転車道が開通したりしている。そんな中で、反対岸に真新しい舗装の自転車道とおぼしき道が目にとまって、それを行ってみると支流が流れ込んでいるところで立ち消えになっていて、その支流を渡る橋が見当たらず、引き返すほかないとか、支流の上流側の橋まで大回りして飛鳥川自転車道に戻る、というようなことがありました。(同上E)(同上F) そして、ようやくにして飛鳥川の終点、大和川との合流点に到着です。(同上G・大和川<左>と飛鳥川<右>の合流点) 合流点の手前の橋で、左岸に渡り、やってきて撮ったのが上の合流点の写真です。 これまでは、右岸を直進し、大和川岸辺を少し上流側に進み、上の写真に写っている青い橋を渡って、大和川右岸の道を下流に走り、再び昭和橋で左岸側に渡り返すと王寺駅前、というコースで走っていたが、今回は、まだ工事途中のようだが飛鳥川左岸に自転車道が新しくできているようなので、進入してみたのでありました。 しかし、飛鳥川の西側を流れている曽我川がすぐ西で大和川に流れ込んでいて、これを渡る橋がないので、大和川左岸の道には行けず、曽我川に沿って南へ回り、広瀬神社の前を通って、大和川左岸道に出るしかないのでありました。(広瀬神社) 広瀬神社は、かなり以前、偐山頭火氏との銀輪散歩の折、ここに車を停めて、銀輪散歩の起点とした神社でありました。<参考>大和高田銀輪行 2008.7.20. 法隆寺IC近くで、大和川左岸の道に入り、下流方向へ。 ほどなく沈下橋が見えて来た。 車が渡るのを、しばらく待って撮影。(大和川の沈下橋) 沈下橋から更に下流に走ると、JR関西本線の踏切。これを渡ると王寺駅は間もなくである。 線路を左に見つつ、線路沿いに2kmほど走ると王寺駅前到着。 王寺駅はJR線で奈良方面、天王寺・大阪方面へ、近鉄線で生駒・大阪方面、田原本方面へとつながっている駅である。 ここで、トレンクルを折りたたみ、輪行バッグに収納して、電車で帰途であります。 以上で飛鳥川銀輪散歩終了。 今回もお付き合いいただき、ありがとうございました。(完)<参考>奈良県方面の銀輪散歩過去記事は下記です。 銀輪万葉・奈良県篇(その1) 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2021.04.12
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(承前) 藤原宮跡へと入ると、大極殿跡周辺は、発掘調査の準備中のようで、仮囲いがめぐらされていて立ち入り禁止。 まあ、これまで何度となく訪問しているので、それはそれでよし。東側の道を辿り、木陰とベンチのある小緑地に移動。 東側の香具山、北側の耳成山、西側の畝傍山、大和三山を眺めるには、この場所が最適である。(畝傍山遠望) 耳成山を望む北向きに、藤原宮跡についての説明碑が設置されているので、その写真を掲載して置きます。わがパソコンが不調なので、記述は極力簡潔にという次第にて、この説明碑で代用であります。(藤原宮跡説明碑) さて、前回記事の大和八木駅から醍醐池までのコース地図を示せば次の通りです。(大和八木駅前~耳成山公園~醍醐池~藤原宮跡~小緑地) 上掲の畝傍山の写真は、小緑地から撮影したものです。 小緑地でしばらく休憩し、万葉集第1巻52番の「藤原宮の御井の歌」を思い出しつつ、大和三山の眺めを楽しむ。<参考>藤原宮跡から眺める大和三山の写真は下記記事に掲載しています。 桜井から八木まで 2015.4.18. 藤原宮の御井の歌全文は下記です。やすみしし わご大君(おほきみ) 高(たか)照(て)らす 日の皇子(みこ) あらたへの 藤井(ふぢゐ)が原に 大御門(おほみかど) 始(はじ)めたまひて 埴安(はにやす)の 堤(つつみ)の上(うへ)に あり立たし 見(め)したまへば 大和の 青(あを)香具山(かぐやま)は 日の経(たて)の 大(おほ)き御門(みかど)に 春山(はるやま)と しみさび立てり 畝傍(うねび)の この瑞山(みづやま)は 日の緯(よこ)の 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨(みみなし)の 青菅山(あをすがやま)は 背面(そとも)の 大き御門に よろしなへ 神(かむ)さび立てり 名ぐわしき 吉野の山は 影面(かげとも)の 大き御門ゆ 雲居(くもゐ)にそ 遠くありける 高(たか)知(し)るや 天(あめ)の御陰(みかげ) 天知(あめし)るや 日の御陰の 水こそば 常(つね)にあらめ 御井(みゐ)の清水(すみみづ) 小緑地から東へ。 集落の路地を抜けて、香具山の登り口、天香久山神社へと通じる道に出て、これを左折、神社とは反対方向の北へと進む。 古池への近道は、直進して竹藪を抜けて古池の北西堤の上に出る道であるが、途中ぬかるんだ悪路となっていることが多いので、広い道に出て、北から回り込む迂回コースを選択したもの。 いつぞやの万葉ウオークで桜井方面からご案内した折は、雨模様であったこともあって、やはりこの迂回コースを選択したのであるが、今回はその時とは逆向きにこの道を行くことになった。<参考>万葉ウオーク予定通り実施 2015.4.20.(古池~万葉の森~桃畑の丘~雷丘へ)(古池) 古池は、以前はこの方向からは木々が邪魔して全体が見えなかったのであるが、今回来てみると、立ち木が全て伐採されて池が丸見え。池の全体を見るには、写真奥の岸辺に立ってコチラ方向を見るしかなかったのであるが、その必要もなく、新鮮な「古池」の顔であることだ。 古池を過ぎると万葉の森公園。 ここには多くの万葉歌碑があるが、今回は中に入らず素通り。(万葉の森公園入口)<参考>万葉の森公園の記事は下記参照。 磐余銀輪散歩別巻(1)・万葉の森 2012.10.15. 万葉の森入口前から、香具山の北麓の高みを東へと抜ける坂道を上る。 左手には桃畑。手前に白い菜の花。それとも大根の花か。(香具山の桃畑と白い菜の花) 坂を上り切って、香具山の東側高みを南北に縦断する舗装道路を渡り、斜め左に磐余池跡に下る細いの道を下ると、右手に桃畑の丘が見えて来る。(香具山の麓の桃畑) 桃畑の丘とは、ヤカモチが勝手にそう呼んでいるだけである。 この景色が好きで、何度か通っているのだが、桃の花の盛りに出くわしたのは最初の1回のみ。多くは、少し早いか、少し遅いかであり、今回も少し遅かったようです。 右奥に視線を移すと、春の山里らしき景色。竹と桜と若葉の緑が綾なす眺めは、夢のごと、であります(笑)。(桃畑の丘を望む道から右手奥を眺めると) 磐余の池跡と大津皇子の歌碑を見てぐるり右旋回、香具山東麓の広い道路に出ると、先ほどの桃畑の丘を反対側の東から眺めることとなる。<参考>磐余池跡と大津皇子歌碑の写真は下記記事に掲載。 磐余銀輪散歩(2)・今日のみ見てや雲隠りなむ 2012.10.11.(桃畑の丘 上の写真の桃畑を丘の反対側から見ると) 東麓の道路を南下。万葉の丘、スポーツ広場の標識がある入口道路の南側に、レンゲ畑があり、奥には咲き残りの桜。(レンゲ畑と桜 万葉の丘&スポーツ広場入口付近) 香具山の東側を半周して、山の西側を南北に通じる広い道路を南に進むと、犬養万葉歌碑(大君は神にしませば天雲の雷の上にいほらせるかも<柿本人麻呂・万葉集巻3-235>)があり、その先に雷丘。<参考>上記の犬養万葉歌碑の写真は下記記事に掲載。 ペリカンの家サイクリング下見 2018.8.27.(香具山南~雷丘~飛鳥坐神社~万葉文化館) 久しぶりに雷丘に上ってみた。 と言っても、1~2分で上れてしまう低い丘である。 丘の上にはウラシマソウが何株か自生していました。雷いかづちの 上にしあれば 浦島も 青ききぬがさ 立ててぞあれる (青麻呂)(雷丘のウラシマソウ) この日は、好天気、風は涼やかであったものの、日の照る道は暑く、ウラシマソウならずとも陰が恋しいのでありました。 そして、白いタンポポの花。 白タンポポは関西以西の西日本で見られ、東日本、北日本では見られない、と誰かが言っていたが、真偽のほどは定かではない。たんぽぽも 雷(いかづち)の上(へ)に いほらせば 神かしこむや 白くぞ咲ける (白麻呂)(同上・白いタンポポ) 雷丘を過ぎると、すぐに道は飛鳥川べりとなる。(飛鳥川と甘橿丘) ここで、道路を渡り、東へ。 水落遺跡をちょっと覗いて、飛鳥坐神社へ。(飛鳥坐神社)(同上・本殿)(同上・むすびの神石) 神社の本・拝殿右側にあるのが、むすびの神石。男女のナニをかたどった一対の石が安置され、祀られている。 境内のあちこちにも同様の石が並べられている。 この後、飛鳥寺の前を通過。県立奈良文化館と明日香民俗資料館に隣接してある食事処で昼食を済ませ、犬養万葉記念館の前を通り、石舞台古墳への坂道を上りますが、今日はこれまでとします。(つづく)
2021.04.11
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4月8日の銀輪散歩を3~4回に分割して記事アップします。 久しぶりに飛鳥川自転車道を走って見ようと、トレンクル持参で出かけて参りました。 その前に平城宮趾にご挨拶して・・。(平城宮趾・復原工事中の南門と大極殿)(朱雀門) 大極殿と朱雀門を遠望しつつ、平城宮趾をぐるり一周して、近鉄・大和西大寺駅へ。西大寺駅発9時23分の急行で大和八木駅下車。 飛鳥川自転車道を走るなら、八木駅から西に行くべきであるが、往路は飛鳥川沿いではなく、耳成山、藤原宮趾、香具山経由で明日香村に入り、復路で飛鳥川自転車道を走ろうと、東へと向かう。 耳成山公園に到着。 池がある。池は後世のものであり、万葉集に登場する「耳無しの池」とは違うが、それを彷彿とさせる景色となっている。耳無しの池は、鬘児伝説の池である。(耳成の池万葉歌碑) この歌碑は以前の記事でも紹介済みであるが、再掲載して置きます。<参考>万葉ウオーク下見(6)・醍醐池から耳成山公園まで 2012.10.24.無耳みみなしの 池し恨めし 吾妹子が 来つつ潜かづかば 水は涸れなむ (万葉集巻16-3788)<耳無しの池は恨めしい。私のいとしいあの娘(かづらこ)がやって来て水の中に入ったなら、水は涸れて欲しかったのに。> 鬘児伝説というのは、三人の男から求婚された鬘児という女性が、池に身を投げて死んでしまうという話であるが、詳しくは上記<参考>の記事をご参照ください。 彼女の死を知って、男の一人が詠んだ歌が、上記の歌である。 耳成山の山頂近くに耳成山口神社がある。 今回は、山頂へも、神社本殿にも行かずパスですが、上り口だけ撮影して置きます。(注)耳成山山頂及び山口神社は下記記事に掲載済みです。 大和三山銀輪散歩 2013.3.23.(耳成山登山口・耳成山口神社への石段)(耳成山口神社鳥居)(耳成山説明碑) このコースを選んだのは、藤原宮趾の北側にある醍醐池に向かうためである。桜の盛りは過ぎているだろうが、この池の堤の桜並木とその北側に広がる菜の花畑を見てみたいと思ったからである。(醍醐池北側の菜の花畑) 桜も菜の花畑も、残念ながら「花の盛り」は過ぎていました。 それでも、咲き残る花もあって、それなりに素敵な景色。 あと10日も早ければ、さぞやの景色であったことでしょうが、花は盛りに・・という兼好さんではないが、これもなかなかなものであります。(同上) 池の堤に上がって、堤の道から菜の花畑を眺めると、こんなに素敵な景色なのです。(醍醐池の岸辺道にて)(同上)(同上・耳成山を望む) わずかばかり咲き残る桜木の間に耳成山が見えて、見れども飽かず、の眺めであります。(同上・醍醐池の水面に桜花)(同上・南西方向には畝傍山も見えて)(同上・もう一度、耳成山)(同上・池の東側の堤に回って北側堤を振り返ると)(同上・犬養万葉歌碑) 堤の道の最後にあるのは、犬養孝先生揮毫の万葉歌碑。 持統天皇の有名な「春過ぎて夏来たるらし・・」の歌の碑である。 奥に見える低い丘が香具山である。 醍醐池と藤原宮大極殿跡との間の道を渡って、藤原宮趾へと入りますが、今日はここまでとし、つづきは明日以降とします。(つづく)
2021.04.10
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パソコン(ノートパソコン)が不調です。 何か月か前に、大きな異音(多分ファンの音)を出したことがあり、シャットダウンして電源を切り、再度起動すると音がしなくなった。 ところが、今月になって、再び音がするようになった。 もう6~7年使っているので、そろそろ買い替え時かと、サポート窓口に電話をし、新しいPCを購入することとした。ところが、現在PCの需要が急増して居り、生産が追い付いていないとかで、納品まで1~2ヶ月かかるという。 是非に及ばずで、この異音を発するPCでアト1~2ヶ月を乗り切らなくてはならないという次第。 4月8日には、起動するとファンエラーの表示が出るようになり、F1キーを押すと操作継続となる旨の指示が表示されるようになった。 冷却ファンが故障しているということであるから、長時間使用して、過度に熱を帯びるということが無いように留意する必要があるのかも。 ということで、ブログ記事も、従前のように長時間連続使用してアップ作業をするということは差し控えなければならないかと思う。 今まででも2日に1回程度の記事アップペースであるが、今後しばらくは更にペースダウンとなる可能性があります。 因みに、小生の、ブログ記事アップまでの手順を紹介すると、次のようになります。1.デジカメで撮影した写真をPCに取り込む。2.取り込んだ写真をトリミングなど適宜の編集を加え、名前を付した上で、フォト蔵のマイアルバム「一時ファイル」にアップロードする。3.フォト蔵へのアップロード完了後、PC内の当該写真を原則500×375サイズにダウンサイズする。(ここまでが記事アップ前の準備作業)4.ブログ管理ページを開き、記事の書き込みを行う。記事内容に合わせ、PC内のダウンサイズ写真をブログ記事に貼り付ける。5.ブログ記事貼り付け写真について、当該写真のフォト蔵アルバム内写真の特大サイズ(1024×768)にこれをリンクさせる。(以上でブログ記事アップ完了、以下はアップ後の作業)6.ブログ記事のカテゴリや内容関連区分に応じて、ブログ記事の目次用に開設しているアメーバブログ(アメブロ)版「偐万葉田舎家持歌集」のテーマ別記事集団に、ブログ記事タイトルを書き込み、当該タイトルとこれに相応する楽天ブログ記事とのリンクを貼る。7.ブログ掲載完了の写真については、フォト蔵の「一時ファイル」アルバムから、当該写真に相応しいアルバムに移転する。8.ブログ掲載済みの写真については、PC内に保存せず、PCからこれを削除する。(以上で、全ての作業が終了) 多分、皆さんよりも、一つのブログ記事について要する作業がかなり多いのではないかと思います。 そんな訳ですから、記事を書き上げるまでに要する時間もその分多くなり、PC使用時間も長くなる。 加えて、上記3.のフォト蔵への写真アップロードが最近はうまく行かないことが多く、長時間を要するようになっています。 現在の「ファンの不具合」発生PCにとっては、これらは好ましくないことであります。 まあ、今後は、記事書き上げまでの各段階で、何度か下書き保存の上、中断し、PCをシャットダウンし、熱を帯び過ぎないように工夫するなどしつつ、ごまかし、ごまかし、して記事を書くことになろうかと思います。 こういうのは、書くヤカモチにとってもストレス、PCにとってもストレスでしょうが、この先、1~2ヶ月の辛抱と我慢するしかありません。 そんな次第でありますから、事情ご理解賜りたく、一応ご報告申し上げることといたしました。(今日の空)<追記:2021.4.10.>上記写真のフォト蔵へのリンクを貼りました。
2021.04.09
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3月29~30日の亀岡・京北銀輪桜旅の記事が4回(4日間)にわたったことなどもありましたので、少し遅くなりましたが、今日は4月2日の月例墓参&散歩の記事です。 墓参の折には、途中にあるお寺の門前に掲示されている言葉を撮影して紹介申し上げるというのが、かつてのこの関係記事の恒例になっていましたが、その寺の改修工事が始まった一昨年秋から昨年末まで、「門前の言葉」の掲出はなく、中断となっていました。工事が完了して新しくなった門前に掲出された言葉は、2月初旬の墓参の記事で紹介しましたが、どうやら以前のように毎月更新されるものではなくなったようで、今月もそのままの言葉が貼られていました。 墓地は生駒山系の山脈の西麓の高みにあるので、かなりの急坂を上っての墓参となる。 その分、見晴らしはよく、大阪平野一望である。(墓地とクスノキ) 墓地の高い位置にクスノキの大木があり、これが墓地のランドマークになっている。(同上) 墓地よりも少し高い位置に、昔はため池であったところが埋め立てられて空き地になっている場所がある。 その片隅に桜が咲いていました。(墓地裏の空き地の桜) 上の写真の奥の一段高くなった場所は、昔は畑であった。今は耕作する人も無く、草茫々の土地となっている。 ヤカモチが小学生であった頃、祖父がここでジャガイモを栽培していた時期があって、収穫の季節には、一緒に芋掘りをしたことをぼんやりと記憶している。 墓参のアト、山沿いに野の道を散策しながら家路に。 空き地の片隅には、ムラサキケマンがひっそりと咲いていました。(ムラサキケマン) 畑には、レンゲソウが群れ咲いてもいる。(レンゲソウ)<参考>ゲンゲ・Wikipedia レンゲソウ。 レンゲともゲンゲともいうが、マメ目マメ科ゲンゲ属の植物。 漢字だと蓮華草、紫雲英などと書く。 学名は、Astragalus sinicus。 英語名は、Chinese milk vetch。(同上) 手にとるな やはり野に置け 蓮華草 (滝野瓢水) であるが、写真に撮るのはいいだろう。 遠目には気づかなかったが、写真で見ると、レンゲソウに混じって、スズメノテッポウの穂も見える。(レンゲソウとスズメノテッポウ)<参考>スズメノテッポウ・Wikipedia スズメノテッポウは、イネ目イネ科スズメノテッポウ属の植物。 学名は、Alopecurus aequalis Sobol。 英語名は、Orange Foxtail。 英語圏では、スズメからキツネに変わるのが面白い(笑)。 尾も白い、と掛けてみました。 穂を引き抜いた茎を口に軽く咥えて吹くと、ピーと高い音が鳴る。子どもの頃、草笛にして遊んだものである。 近縁種によく似たセトガヤというのがあって、見分けが難しい。 葯の色が、スズメノテッポウが黄色なのに対してセトガヤは白色であること、穂先に長いノギがあるのがセトガヤでスズメノテッポウのそれは短くて目立たないこと、などで見分ける。(タンポポとバッタの幼虫) 道端に咲くタンポポに何やら小さな虫。バッタの幼虫のようです。(同上) それにしても長い触覚。翅の無い幼虫、飛んで逃げることは出来ないから、触覚が長いに越したことはないと、体長の3倍ほども長い触覚を持つようになったのだろう。 因みに、こいつの体のサイズは10mm未満。 同じく、道端のノイチゴの花。(ノイチゴの花) こちらの花でも小さな虫が交尾していましたが、写真がピンボケにて、何の虫かは不明。 自宅近くまで帰って来たところで目についたのがウンリュウグワの花。 枝がニュルニュルとねじれた風に伸びる木で、葉を落とした季節にはよく目立つ木であるが、今は若葉が繁っているので、そのニュルニュルも余り目立たない。(ウンリュウグワの花) ウンリュウグワは、大正時代に実生から人工的に作り出された枝がねじれたように育つ特異な品種で、生け花の花材として利用される。 香篆桑(コウテングワ)、節曲桑(セッカングワ)ともいう。 桑の葉は養蚕には欠かせない。古代から人々には身近な木であったから、万葉集にも詠まれている。筑波嶺(つくばね)の 新桑繭(にひぐはまよ)の 衣(きぬ)はあれど 君が御衣(みけし)し あやに着欲(きほ)しも (万葉集巻14-3350)(筑波山の新桑の葉で飼った繭で織った着物はあるけれど、あなたのお着物がやたらに着てみたいわ。) この歌は一種の労働歌。桑の葉を摘む女性たちが、このような民謡を歌いながら葉を摘む仕事にいそしんだのであろう。 古代にあっては恋する男女が互いに衣を交換して着るという風習があったとのこと。(同上)<参考>ウンリュウグワのねじれた枝の写真掲載の記事は下記です。 墓参・春ぞ立ちける 2017.2.4. 最後に、桜の花盛りを見て、自宅帰着。(青空と桜) 以下は、2日の撮影ではなく、翌3日の銀輪散歩で、恩智川べりで撮影したものであります。(恩智川のセイヨウカラシナ)(同上) 以上、墓参&近隣花散歩でありました。
2021.04.05
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(承前) 国道477号は、上桂川に沿って、これに近づいたり離れたりしながら、北東方向に進む。 目指す目的地は、常照皇寺とこれに隣接する光厳天皇山国陵である。 そもそもは、健人会の友人である正〇氏から「常照皇寺は桜が綺麗だから、一度行ってみたら」と薦められたことが契機の銀輪散歩である。その後ながらく放置していたら、京北商工会発行の「京都・京北の里」というパンフレットを同氏から頂戴した。これではいよいよ行かざるを得ないと昨年1月に「桜の咲く頃に」と計画を立て、ホテルの手配もしていたのであった。しかし、その後のコロナの緊急事態宣言発出により中止としたもの。 今年になって、偐山頭火氏とのやりとりの中で計画が復活。当初案より銀輪散歩部分を大幅縮小して、道の駅・ウッディー京北から常照皇寺までの往復約14kmを走ることをメインメニューとし、アトは成り行きでプラス・アルファを走るということになった次第。 ヤカモチとしては、桜はともかく北朝初代・光厳天皇開山の常照皇寺とその墓所である山国陵に惹かれての銀輪散歩であります。 道の駅から常照皇寺・光厳天皇陵までの中間地点付近に山国神社というのがある。山国神社は、秋の例祭に併せて催行される「勤皇山国隊行進」で知られる神社。まだ拝見したことはないが、神社だけでも見て置こうと立ち寄る。(山国神社・参道)<参考>山国隊・Wikipedia 国道から延びる一直線の参道。 農兵で明治維新に貢献した「山国隊」、錦の御旗を護衛して凱旋した昔ながらの様子が、勤皇山国隊行進として、この参道によみがえるのであろう。(同上)(同上・本殿)(同上・由緒) 祭神は、大己貴命(大国主命)。 創立は、宝亀年中、光仁天皇とある。 上の由緒が読み辛いというお方は、下の説明板をお読みください。 前述の正〇氏から頂戴したパンフレットの記載によると、常照皇寺には光厳天皇の生涯を描いた絵巻が現存し、そのなかに常照皇寺の庭で住職が里人にふるまったと思われる藁苞に包まれた納豆の画が見られるとのこと。また、前九年の役(源頼義・義家親子が、陸奥の豪族安倍頼時・貞任・宗任親子が起こした反乱を鎮圧した戦)の奥州攻めに、援兵として参加した山国の農兵が納豆を持参していたと云われ、「山国納豆」として今に引き継がれているとのこと。このことから、この地、京北の里・山国は「納豆発祥の地」といわれ、京北地区では「納豆もち」で新年を祝う風習が残っているそうな。 源頼義、義家と言えば河内源氏。山国と河内は前九年の役でつながるというご縁があったのですな。<参考>河内源氏三代墓の記事は下記 銀輪散歩・霞立つ野の上の方に 2014.3.2. 銀輪散歩・彼方の赤土の小屋に 2014.3.3.(同上・由緒説明板) 山国神社から常照皇寺へと向かう。(上桂川) 国道477号とお別れし、桜並木の道を行くと突き当りが常照皇寺。(常照皇寺参道入口)(同上・参道の桜並木) 突き当りの最後の坂道は短いけれど急こう配。 普通なら、難なく漕いで上がるというものであるが、前日の両足こむら返りの後遺症であるか、その元気なく押して上がる。 その姿を撮った偐山頭火氏撮影写真が後日メールで送られてきたが、歳を感じさせる写真にて、本人の気持ち、思い込みとはギャップのある姿がそこにはありました(笑)。寄る歳の 波にあらがひ 行くわれの 姿写しぬ 老いの坂道 (老家持)(同上・駐車場前の案内板) 駐車場に駐輪して、山門を潜り、勅額門への石段の道を上る。(同上・山門、奥の門は勅額門) 勅額門を潜ると正面に勅使門。 銀輪族は皇族とは無関係、左に折れて、拝観受付所へと上って行く。(同上・勅使門 勅額門から撮影)(同上・説明碑) 常照皇寺は、光厳法皇(1313~1364)によって貞治元年(1362)に開かれ、歴代天皇の帰依を得た皇室ゆかりの寺で「大雄名山萬壽常照皇禪」を正式名とする臨済宗天龍寺派に属する禅宗寺院です(常照皇寺のパンフレットより)。<参考>常照皇寺・Wikipedia 境内には、国の天然記念物である「九重桜」、御所から株分けされたといわれる「左近の桜」、一重と八重が一枝に咲く「御車返しの桜」など桜の名木がある。 この日は、九重桜と左近の桜は満開であったが、御車返しの桜はまだチラホラの状態でありました。(同上・九重桜、奥に見えるのが左近の桜)(同上)(同上・庭園) 山門の外側から右に上る道が山国御陵の参道になっている。 勅額門内側の池を廻る道からも参道に出られるというので、それを選択して参道に出る。(山国御陵参道) 上は、池を廻る道から参道に出た地点で、帰途振り返って撮影したものである。 奥の石段を上り切ったところが御陵である。 下は、同じく帰途、山門側にかなり下ったところで振り返って撮影したものである。 レッドカーペットならぬ、苔のグリーンカーペットの参道です。(同上)<参考>光厳天皇・Wikipedia 光厳天皇即位の経緯や生涯のあれこれはややこしいので割愛。 上記<参考>のウイキペディアの光厳天皇をご参照ください。 譲位して上皇となっていた光厳は、この地にあった無住の廃寺を改修して、常照皇寺を開山し、禅僧としての勤めに精進するが、2年後の正平19年/貞治3年(1364年)7月7日に崩御。この地で火葬に付されたとのこと。(光厳天皇山国陵・後花園天皇後山国陵)(同上)<参考>後花園天皇・Wikipedia 後花園天皇の遺骨も、その遺詔により、文明3年(1471年)2月に、光厳天皇陵の傍らに移葬されているので、ここは後花園天皇後山国陵でもある。 後花園は、南北朝合体後の第102代天皇。光厳天皇の玄孫に当たる。(同上) 帰途は、道の駅・ウッディー京北から国道162号(周山街道)のルートをとったので、笠トンネルの手前までは午前中に銀輪で走った道を辿ることになりました。アトはナビ任せ。 途中、どの辺りであったか記憶が曖昧になっているが、こんな風景に出くわしたので、車を一時停止して撮影でした。(周山街道で見かけた花景色) 今回の旅の起点、喫茶ペリカンの家には午後3時半から4時までの間には十分帰り着くということなので、お土産を届けるべしで、そこを解散地点と決める。 ほぼ、午後3時半、少し過ぎていたかもしれないが、ペリカンの家前に帰着。ここで、トレンクルを降ろして、偐山頭火氏とはバイバイ。 ヤカモチは、お土産を手渡すついでに珈琲休憩でもと、店のドアを開けたら、椅子がすべてテーブルの上にひっくり返しに積まれていて、店主のももの郎女さんがお掃除の最中。この日は、他用があって臨時に時短営業、既に閉店されているのでした。是非に及ばずで、トイレだけお借りして失礼しようとしたら、申し訳ないとアイスコーヒーを一杯無料サービスで振る舞っていただきました(笑)。 ペリカンの家からトレンクルにて自宅への銀輪散歩での帰宅。途中、花園中央公園に立ち寄り、銀輪散歩の締め括りは、やはり花園中央公園が似合いと、同公園の桜を撮影して、今回の「桜旅」の締めといたしました。(花園中央公園の桜)(花園ラグビー場と桜) 以上で、亀岡・京北銀輪桜旅記事全4巻完結であります。 お付き合い、ありがとうございました。(完)<参考>京都方面の銀輪万葉過去記事は下記をご覧ください。 銀輪万葉・京都府、滋賀県篇(その1) 銀輪万葉・京都府、滋賀県篇(その2)<参考追記:2021.4.5.>遅ればせですが、同行の偐山頭火氏ブログの今回の銀輪散歩記事のリンクを貼って置きます。〇本能寺の変 信長自作自演 命をかけての大芝居 2021.4.1.〇亀岡の夢が覚めたら常照皇寺へ 2021.4.3.
2021.04.03
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(承前) 3月30日朝7時45分頃、亀岡駅前のビジネスホテルを出発。 コロナの所為で、ホテルは朝食サービスを中止しているとのことで、先ずは朝食をと市街を走るが、見つからない。で、コンビニでサンドイッチと珈琲を購入。コンビニ内の中食スペースに椅子の空きは一つのみ、ということで、何処か適当な場所で食べようと車を走らせる。 府道405号に入り、宇津根橋(橋の架け替え工事中で隣に新しい橋が建設中であった)を渡り、前日にヤカモチが立ち寄った若宮神社を右手に遠望して、しばらく進むと桜の綺麗な公園(七谷川緑地か)が目に入る。ここが良かろうと思ったものの、公園への進入路が工事中でもあるか柵で封鎖されていて入れない。銀輪なら頓着せず進入するのであるが、偐山頭火氏の大型高級車では無理。 幸い、道路脇もずっと桜並木で満開。路肩に車を寄せて、道端での男二人の朝食となりました。もう少し先に進めば平野沢下池・中池というのがあって、そこならもっといい雰囲気で朝食タイムを過ごせたであろうことを知るのであるが、アトの祭りである。 この日は黄砂の飛来が頂点とのことで、遠景は全て霞の中。「~朝がすみいづへの方にわが恋ひやまむ(万葉集巻2-88)」は磐媛皇后の歌であるが、偐偐男二人は「朝がすみいづへの方に」朝めしとらむ、と色気のないことでありました。 やがて国道477号に合流、これを道なりに進む。 亀岡市から京都市域に入りU字カーブして南丹市域へと入る位置に大きなため池があった。桜の木の近くのバス停の表示が神吉池とあったので、神吉池かと思ったが、地図で見ると廻り田池とある。明治に築造された古いダム湖のようである。(神吉池<廻池>)桜花 水面(みなも)にうつす 影清(きよ)み しばしやわれも 風とあそばむ (偐家持)(本歌)藤波の 影なす海の 底清み 沈(しづ)く石をも 珠とそわが見る (大伴家持 万葉集巻19-4199)(同上)(廻池築造記念碑) 石碑には「廻池築造記念」とあるから、廻池(めぐりいけ)というのが正しい名前なんだろう。(同上・副碑) 読みづらいが、副碑によると、明治11年に土地を借り上げて同12年に工事に着手、同13年に貯水量約36万立米の池が完成したようだ。 その後、明治19年、同42年、大正7年、昭和24年の改築等の工事により貯水量が順次増え、84.6万立米の貯水量になったとのこと。 この記念碑は、昭和33年の余水吐大改築等の工事完了を記念して同年7月に建立されたもののようです。 車に再乗車。池に沿って進むと、すぐに南丹市に入る。 阿祇園寺、日吉神社などを過ぎると、道は山中のうねうね道となり、桂川の支流となる細野川に沿った崖を下る道となる。杉林の道でもある。 対向車が来るとすれ違うのも苦労するような道であったが、軽トラック1台とすれ違っただけであったのはラッキーでした。 無事にこれをやり過ごし、二車線の広い道となってひと安心。桂川に出合ったところで桂川沿いに道は進む。 市街地へと入り、道の駅ウッディー京北到着である。(道の駅 ウッディー京北) ここに車を停めて、自転車を降ろして銀輪散歩である。 昼食までの時間調整に国道162号(周山街道)を少し走ってみることにする。(国道162号)(上桂川 京北橋の上から) 京北橋を渡り、京北トンネルへと向かう。(京北トンネル・北口)(同上・南口手前) このトンネル、2.3kmもあるとは知らず、ずっと上り坂にて通り抜けるのに苦労しました。(同上・南口)(同上・説明パネル) やっと出口。 トンネルをくぐるとそこも桜の国でありました(笑)。(同上・トンネルを出たら) そして、何とも不明の石像もありました。(これは何であるか) 次のトンネルは笠トンネル。 さすがに、これをくぐる気はしない。(笠トンネル) 笠トンネルの手前の川は余野川。国道477号の九十九折の山中の道の崖下を流れていた細野川の上流に当たる川である。 これ以上は無理と道の駅に引き返す。 道の駅で昼食とし、常照皇寺へは昼食後の出発とする。 (食事休憩・お昼休み) 昼食後、道の駅で、ペリカンの家へのお土産にとジャム(蜂蜜も含んでいたかも)を適当に買い込む。 常照皇寺へと国道477号を北東へと走ります。(国道477号 常照皇寺への道)(同上・上桂川) この先、2kmほどで山国神社であるが、今日はここまでとします。 (つづく)
2021.04.02
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(承前) 亀山城址をアトにし、大本本部の一般駐車場にある駐輪場に戻り、自転車・トレンクルにまたがって、いざ出発という時に、ちょっとしたトラブルが発生しました。 左足ふくらはぎに「こむらがえり」発生。 かなり強烈な痙攣で固く縮んだ筋肉の痛いこと。いつもよりサドルを高めにしていたので、サドルにまたがろうとした際の左足の無理な「つま先立ち」が「こむらがえり」を誘発したのかもしれない。 これはいかん、と右足を回して自転車から降りようとしたら、右足のふくらはぎも「こむらがえり」。左足と同程度にかなり強烈な痛み。腰を下ろしてふくらはぎの筋肉を伸ばそうとするも、痙攣している両足では体を支えきれず、仰向けに転倒。 転倒と言っても、腰を下ろしかけた姿勢からの転倒であるから、ゆっくりと、スローモーションみたいな格好での、尻餅から仰向けに寝転がってゆくといった感じの「転倒」である。 はた目には、酔っ払いが坐位姿勢から仰臥姿勢になって行くに似た無様な様子ではなかったかと思う。 幸い背中にはザックを背負っていたので、それがクッションにもなって、後頭部を打撲するということはなかった。それ故、益々、自らの意思で白昼地べたに寝そべろうとしている変なオッサンという眺めであったことだろうと、我ながら苦笑である(笑)。 人の気配のない広い駐車場の片隅の珍事。目撃者はなし、である。 しかし、本人にとっては痙攣を収拾しなければならない一大事。 痛いのをこらえて、膝を曲げないようにして足指を手前に強く引き寄せてのストレッチであるが、何しろ両足同時なので、これがなかなか大変。 そうこうしているうちに、固くなった筋肉が緩んで来て、強い痛みは無くなりました。 脱水症状としてのこむらがえりなどもあるからと、泥縄式にペットボトルのお茶を木陰で飲んで、額の汗を拭うなどしつつ、しばし休憩。 こむらがえりの後の筋肉の痛みは完全には消えない。 痛みを残しつつ、「走れば治る」と再びトレンクルにまたがると、保津川(桂川)方向へ。 保津川(桂川)畔に出るには、JR亀岡駅の向こう側(北側)に回らないといけない。駅の西側の保津橋が跨線橋になっているので、これを渡って川岸に行くこととする。(JR亀岡駅) 駅前を通過。 駅の西北側に何やらスタジアムが見える。 保津橋を行くと、「SANGA STADIUM by KYOCERA」の文字。 京都サンガの本拠地競技場がここであったのか。(サンガ・スタジアム) 保津橋は川にかかる手前で三叉路になっている。ここで左にスロープを下ると、サンガ・スタジアムの前である。 スタジアム前を通過して、保津川右岸の土手道に上がる。保津川の川下りの乗船場がすぐ近くにある。 この川の呼称がややこしい。 今回、この疑問を整理・解決すべく調べてみると、と言ってもウイキペディアの記述を参照しただけなのであるが、行政上の表記は桂川で統一されているとのこと。従って、保津川、大堰川などは或る特定の流域についての桂川の別称ということになる。 上流の京北地区では「上桂川」、南丹市園部地区に入ると「桂川」、南丹市八木地区から亀岡市にかけては「大堰川」、亀岡市から嵐山にかけてが「保津川」、嵐山から三川合流地点までが「桂川」ということだそうだ。 桂川、宇治川、木津川の三川合流地点から海までは淀川であるから、亀岡を今流れている水については、上流から海に至るまでの間に、「〇〇川の水」と言う場合の〇〇を5回変えるという訳である。尤も、亀岡を流れている水は上桂川からの水とは限らず、弓削川などその他の支流から流れ込んだ水も含まれているだろうから、このような考察は無意味というものでありますかな(笑)。 ということで、只今は、亀岡に居ますので、以下、単に「保津川」と呼ぶこととします。 その保津川の川下り乗船場の近くにこんな碑がありました。(夏目漱石保津川清遊記念碑) 裏面の記載を見ると、明治40年4月8日に漱石は川下りを楽しんだとのことで、それを記念する碑だそうな。 令和3年3月29日に偐家持が保津川土手道の銀輪散歩を楽しんだことを記念して、偐家持保津川土手道銀輪散歩清遊記念碑を自前の費用で建ててみるのも一興であるが、その前に「京都偐家持の会」を組織しなければならないとあれば、所詮「無理どすな。」であるか。(同上・裏面) 漱石の「虞美人草」には、保津川の川下りの船頭の巧みな竿さばきの描写があるとのこと。昔々に読んだ小説であるが、そんな描写があったということは記憶にない。(保津川 川下り乗船場近くの桜 奥の橋は保津橋)<追記:2021.4.10.>上掲写真のフォト蔵写真へのリンクに不備がありましたので、リンクを貼り替えました。 上流へと走る。 期待したほどには、桜の木が見えない。(保津川右岸から上流側を望む)(同上・下流側を望む)(同上・パノラマ撮影) 対岸の左岸側には桜並木があるようです。(左岸側の桜並木) 上流側の橋を渡って左岸側に行ってみることに。(同上) まだ若木の桜ばかりにて、近寄って見れば、さほどのこともない眺めでありました。 数十年したらまた来い、と桜が言う。それは「無理どす。」 桜が駄目なら、菜の花でもと見渡す。 すると、黄色一面の菜畑が目に入る。 モンシロチョウ・ヤカモチ。 気が付けば、もうそこに向かっているのでありました。(菜の花畑)(同上) 菜の花畑の先に小さな神社と桜の木。 若宮神社とありました。(若宮神社 鳥居とトレンクル) この鳥居の前にスポーツバイクを駐輪して、一人の男性が佇んで居られました。 近寄って「こんにちは、桜が綺麗ですね。」とか何とか、声を掛けましたが、背を向けたまま無言。 見知らぬ人間との関わりはご免というお方なのか、コロナ感染を警戒してのことなのか、ややあって自転車を引き寄せると30mばかり先に行き、そこにある桜の木の下に向こう向きで腰をおろされました。 どうやら、彼の一人時間を妨げる無粋な闖入者となってしまったヤカモチでありました。(同上) 本殿に向かう。(同上・本殿) 祭神は神武天皇とあるが、これは明治以降のことで、元々は、愛宕の若宮祭神である火産霊神(即ち「カグツチ(迦具土神)」のことですな。)を勧請して若宮大権現社と称していたのが、若宮神社という名の由来のようです。(同上・由緒) 菜の花と桜とくれば、月並みであるが、この両者を一つのショットに収めたくなるというもの。 神社から少し東に行ったところにも菜の花畑があったので、行ってみると傍に枝垂桜の木が1本。(もう一つの菜の花畑)(同上) 辛うじて桜の枝先を画面に取り込むことができたが、これでは両者並びの写真とは言えない。 桜の木のそばに電柱があり、その支柱というか支線が延びていてこれが邪魔となって、いいアングルがとれない。 で、菜の花畑に少し遠慮いただいて、両者を何とか一画面に。(菜の花と桜) 桜を遠望して、ホテルへと引き返すこととする。(桜遠望) 花は間近くにのみ見るものかは、であります(笑)。 このアト、ホテルにチェックイン。しばし、休憩してから、偐山頭火氏と合流、連れ立って居酒屋にて夕食でありましたが、本論とは無関係。 以下は省略することとし、次は翌日(30日)の朝から始めることとします。(つづく)
2021.04.01
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