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新しい山荘が出来上がり、バンガローとの間にはコンクリートの土間を作って上に屋根をつけ自由に行き来が出来るようにしました。 畳敷きのバンガローは子どもの遊び場となり、時には泊り客のゲストルームともなりました。何年か後私の友人4人がそれぞれ息子を二人ずつ連れて来たことがあり、うちの息子を入れて幼稚園から小学校5年生まで9人の男の子がそこに泊まったこともありました。 そして母親たちは母屋の部屋で夜遅くまでおしゃべりを楽しんだものでした。 当時都心の団地の狭い狭いベランダで、シーツを四つ折りにしなくては干せなかった私にとって一番うれしかったのが、庭の物干しざおにシーツを広げて干せることでした。 いつも階下やお隣りを気にしながら暮らしていた日常からの解放感は何よりもうれしく、都会育ちの自分がこんなにも自然が好きだったことに気付いたのも驚きでした。 当時の我が家の稼業は次々開局した民放テレビ局で放映されるアメリカ映画やドラマの台本の翻訳でしたから、山荘に来ても夫婦で仕事は毎日していましたが、東京にいるといつも気難しい夫に笑顔が出るのも北軽の自然のなせるわざだったと思います。 これはうちだけのことではなく、別荘に来る人たちに共通のことのようで、カフェフルールにいらしたお客さんが「ここへ来るとお父さんの機嫌がよくなってホッとする」とよくおっしゃってました。それだけリラックスするのでしょうね。 家が出来上がってすぐやって来た私の両親はいっぺんで北軽が大好きになり、翌年には庭の片隅に小さな平屋を建てて二人で毎年5月から10月までそこで過ごすようになりました。 父が71歳で亡くなった年もその前月までそこで過ごし、寒くなったので東京へ戻って来た翌月の11月に亡くなりました。 長年俳句をたしなんでいた父はそこで沢山の句を詠みましたが、最後に詠んだのが浅間大滝を題材にした「人去れど 音変わりなき 秋の滝」でした。 この「人」は観光客や別荘の人々を指していると思いますが、まさに「自分」になってしまったかのようです。 後に父のお墓にこの句を刻んだ石碑を母が建てました。 私は父が生きている間は心配かけまいと踏み切れないでいた離婚をその翌年にしましたので、それからは北軽とは縁がなくなってしまいました。 それが前回書いた「17年過ごした」という意味で、夫はその後もずっと、何年か後に再婚してからは新しい奥さんと毎年そこへ来ていました。 母は父も私もいない所へは行く気持ちになれないと言って、その後は一度も行かないままそれから「17年後」に82歳で亡くなりました。
2013年05月29日
私が初めて軽井沢を訪れたのは今から60年以上前の高校2年生の時。 卒業生のバイオリニストの方が相続した千ヶ滝の古い別荘をまだ夏の保養所を持たなかった母校に寄付をなさったので、食堂とキッチンだけ増築したそのこじんまりとした茅葺き屋根の「寮」に10人ずつくらいに分れて数日間行ったのが初めてでした。 今は「中軽井沢」となっている駅名が当時はまだ「沓掛(くつかけ)」のままでした。 その頃の軽井沢は「お金持ちの別荘地」というイメージで憧れの場所でしたから、10代の私たちにとってそこに泊まりに行けるということは本当にうれしいことでした。 麦わら帽子にショートパンツで2人乗りの自転車に友達と乗っている得意顔の写真が今でも残っています。 卒業後の短大の寮も千ヶ滝にあり、就職した「アバコ」というキリスト教系の所が毎年夏に行なう講習会の会場が「星野温泉」でしたから、軽井沢との縁はずっと続きました。 結婚して夫と初めて行ったら彼も軽井沢が大好きになり、子どもが生まれてからはドライブで行ったりしているうちに北軽井沢で土地を売り出していることを知って、当時団地暮らしで庭のない暮らしをしていた私たちはそこを買うことにしました。 賑やかでリッチな雰囲気の軽井沢とはまったく違う素朴で静かな雰囲気の北軽井沢は、土地の値段が安かったというだけではなく、東京生まれで田舎を持たない私たちにとっては何よりの場所だったのです。 土地さえあればテントでキャンプをしてもいいと思ったのですが、当時テントは今と違ってとても高価なものでした。 すると近所の廃止になったキャンプ場に不要になったバンガローがいくつもあって、それを引っ張って来てもらえるという話があり、テントとあまり違わない値段だったので6畳一間の赤い三角屋根のそれを買って、トイレは庭に穴を掘って囲いを作り、0.5畳の土間に床を張って水道を引き何とか暮らせるようにしました。 ご飯はブロックを組み合わせたかまどで木の枝で炊き、炭火のコンロで料理する生活はとても新鮮で楽しかったですのですが、やはりどうしてもトイレとお風呂のある家がほしくなって、翌年小さな山荘を建てることにしました。 それが一昨年改装して今は「マナハウス」となっている建物ですが、当時の若い二人にとっては大変な大事業で毎月の「月賦」の支払いに追われる日々でした。 東京オリンピックの年でしたから、今から半世紀前のことです。 それから17年間、夏休みに入った日から終わる日まで、毎年夏はそこで暮らす生活が始まりました。(続く)
2013年05月26日
2月25日に救急車で運ばれたままパソコンはずっと家に置きっぱなしだったのでフィルターから漏れたゴミメールも含めて4000通ものメールが溜り、多くの方にご迷惑をかけてしまいました。 ようやくそれも削除が済んで久しぶりにパソコンが使えるようになりました。 入院中はiphoneだけが頼りでしたが、やはりメールなど文字を打つにはキーボードのほうがラクで助かります。 退院してから10日が経ち、足のむくみも少し減って来ました。 まだ普通には歩けませんが、日に日によくなっているのは実感しています。 コルセットは重くてかえって疲れるのではずしてしまいました。 座った姿勢から立ち上がったり仰向けに寝たりして腰が伸びる時多少痛みますが、それもすぐに消えるのでもう大丈夫でしょう。 でもまだ体力のほうはこれまでの何分の一かに落ちているのですぐ疲れてしまいます。 友達には「これまでが元気過ぎたのでトシ相応になったのよ」と言われますが、多分そうなのでしょう、口惜しいけど。 お店も畑もしなくなったので時間はたっぷりあるはずなのに動作がのろいので何事にも時間がかかり、あまりヒマになったという実感はありませんが、以前のようにいつも時計とにらめっこのようなあわただしさはなくなって気持ちの上ではずいぶんゆったりとした気分です。 これもまたなかなかいいものですね。
2013年05月26日
ようやく社会復帰をしたと喜んだ3日後、今度こそ本当の骨折をしてしまいました。 腰椎一番の圧迫骨折です。またまた救急車で運ばれることになり、その日から5週間の寝たきり状態を含め2か月半の長期入院となりました。 CT撮影でレントゲンではわからなかった1月の怪我もほとんど治ってはいましたが、実は骨盤と恥骨を骨折していたことがわかったのです。 思えば10歳の時に肺炎で1か月家で寝ていたことはありましたが、骨折もこんな本格的な入院も生まれて初めてのこと。毎日社会と触れ合って誰かと会ったり連絡を取り合ったりしていた生活から突然シャットアウトされてしまって本当に悲しかったです。 幸い去年の秋にiphoneに換えていたのでメールや銀行の振込み、ゲーム、ラジオや音楽のダウンロード、facebookへの書き込みなどは出来たので退屈はせずに済みましたが、コピペが出来ないのでブログはずっとお休みしていました。 10日前にやっと退院することが出来ましたが、足の筋力や体力の衰えは想像以上のものがあり、まだまだ普通には歩けませんしすぐに疲れてしまってのろのろとしか動作が出来ません。 当然今頃は忙しく働いているはずの「カフェフルール」での仕事も、毎年楽しみだった畑仕事も出来なくなり、入院中に運転免許証も失効してしまったので大好きだった北軽井沢を去らねばならなくなりました。 たまたまケア付きの高齢者用マンションがみつかったので、退院と同時にそこに入居しました。 個室でプライバシーは守られながらも管理人さんが24時間交替で常駐していて、頼めば食事も部屋まで運んでくれるので病み上がりの身にとってはとてもありがたいです。 新しい環境に慣れながら少しずつ回復して行きたいと思っています。
2013年05月21日
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