2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全12件 (12件中 1-12件目)
1

一瞬にして、目の前の怨霊は黒い顎門(あぎと)に姿を変え、師実に喰らいついた。 能季は足元に蹲(うずくま)っている師実を庇おうとしたが、間に合うはずもない。 師実はがっくりと首を垂れ、ぴくりとも動かなくなった。 激しい恐ろしさと悲しみと憤りが、能季の胸を突き抜ける。思わず、能季は怨霊に向かって叫んだ。「我らはただこの柳に結びけられた小袖の片袖を取りに来ただけだ。川に落ちたのも、ただ枝が折れてしまっただけのこと。ここにおわすお方に害をなすつもりなどない。それなのに、命まで取ろうとするのか」 いつの間にか怨霊は元の女の姿に戻り、じっとりとした目で能季を見ていた。片手には、ぼんやりとした薄紫色の炎のようなものが握られている。 あれが、師実の命なのか。 能季は必死になって言った。「どうか、それを返してくだされ。この者は、摂関家の嫡子藤原師実。世になくてはならぬ者だ」 怨霊の赤黒い目が、微かに薄気味悪く輝いたようだった。 怨霊はなおもしばらくその紫色の炎を片手で弄んでいたが、やがて小さな声で呟いた。「摂関家の嫡子とな。それは面白い者が飛び入って来たもの。それも、良い折に」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月30日
コメント(0)

能季の悪寒が激しくなり、思わず大声で叫びを上げたくなった。 目の前にいるのは、荊棘(おどろ)のような長い濡れた黒髪を、全身にまとわりつかせた若い女だった。 身体には衣の切れ端すらつけておらず、ただ黒い蛇のような髪の筋が白い裸身を覆っている。 顔もへばりついた黒髪に隠されたように見えない。ただ、重く垂れ下がった髪の隙間から、赤黒い目のような鈍い光だけがこちらをじっと見つめていた。 女の怨霊は、しばらく能季たちを見据えながら、苦しげにしゅうしゅうという吐息を吐いていた。だが、やがて声を得たのか、低い枯れた囁きのようなものが聞こえてきた。「……そなたらは、何者か。何ゆえ、夜更けにここへ来た」 能季はひどく恐ろしくて、もう気が狂いそうだった。 このままでは、この怨霊に取り殺されてしまうかもしれない。何とかしてここから逃れなければ。 能季は必死になって、身もだえしたが、身体は縛られたように動かなかった。それでも、無理に喉を鳴らしてみると、何とか掠れた声が絞り出せるようだ。能季は目の前の怨霊に呟いた。「何でもない。ただここを通りかかっただけだ」「では、その者が手にしているものは何じゃ」 怨霊は師実を見据えながら言った。「この川は我が物。何人たりとも足を踏み入れてはならぬ。その禁を破った者に命はない」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月28日
コメント(2)

だが、そんな能季の袖を後ろから引く者がいる。 振り向くと、それは行綱だった。行綱はわなわなと震えながら、指先で背後の大宮川の方を指差していた。 それを見た兵藤太も、腰の太刀の鯉口をかちりと鳴らして身構える。 能季は師実から手を離し、立ち上がって暗闇の先に流れる大宮川を見た。 暗い水の面に、何か白い靄のようなものが渦巻いている。 いつの間にか、さらさらと流れていた水音が止んでいた。水の面は不気味に静まり返り、辺りには虫の音一つしない。 能季は喉元がつまり、なぜだか身動きができなくなった。他の者たちも同様なようで、おしゃべりな行綱でさえ黙りこくっている。 女の怨霊……ふいに、能季の背中をぞくりとした悪寒が走った。 髪の毛の逆立つような恐怖が襲って来る。逃げ出したいのだが、足が動かない。せめて目をつぶりたいのだが、それすらできず、なぜか靄(もや)の蠢(うごめ)く水面から視線を外せなかった。 やがて、黒く静まり返っていた水面が、ゆっくりと頭をもたげてきた。 ずぶりずぶりと、へどろの溜まった水底から這い上がってくるような、低い嫌な音がする。 すると、盛り上がった水面に、二つの赤い光が浮かび上がってきた。その光は、能季らを睨めまわすように、しばらくじっとこちらを見据えている。 そして、ゆっくり、ゆっくりと、能季たちの方へ近づいてきた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月25日
コメント(0)

能季にそう言われたのがよほど嬉しかったらしく、師実は少しはしゃぎながら大声で言った。「もう、私には怖いものなんてありませんよ。暗くなってからずっとここにいるのに、女の怨霊なんてどこにも出やしない。怨霊どころか、狐一匹見なかった。きっと、宴の松原にも鬼なんていない。大宮川にも怨霊なんていないんだ。全部ただの噂で、嘘っぱちに決まっている」 そう言って、師実はころころと笑った。さっきまで恐れおののいて、腰砕けになりながら能季の袖にすがりついていたくせに。 能季はそんな師実に苦笑しながらも、ようやく度胸試しの検分役も果たせたと、ほっと胸を撫で下ろしていた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月23日
コメント(0)

能季はようやく気を取り直し、急いで柳の木の根元まで行ってみた。 幸か不幸か、師実は固い地面ではなく、柳並木の傍らを流れる大宮川に落ちたようだ。すでに兵藤太が手を差し伸べて掘割から師実を引きずり上げ、行綱が必死になってぐしょぬれになった主の直衣(のうし)の袖を絞っている。 師実は木から落ちたことに相当驚いたようで、しばらく呆然としていたが、能季が近づくとその顔を見上げた。手には、折れた枝先に結びつけられた小袖の片袖が、しっかりと握られている。師実はにっこりと笑いながら、誇らしげに能季へ言った。「ほら、ちゃんと取りましたよ。自分の手で」 そのまだあどけなさの残る笑顔に、能季の方も思わず微笑み返していた。 心の中に、何となく暖かいものが湧き上がる。能季は師実が可愛く健気に思え、彼に対する誇らしさと愛情で胸が一杯になった。 もし自分に弟がいたら、こんな時はこんな気分になるものだろうか。 頼宗の晩年に生まれた末っ子である能季には、弟も妹もいなかった。頭の上で斜めに傾いている師実の烏帽子を直してやりながら、能季は力強く言った。「そうだ、良くやったな。これで、あの者たちもそなたをもう笑えまい。そなたは一人前の男だ」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月21日
コメント(2)

師実はようやく苦心して幹をよじ登ると、枝先に結びつけられた小袖の片袖に手を伸ばした。 だが、細くしなる柳の枝は捉えづらく、なかなか手が届かない。師実は枝にしがみつきながらじりじりと前進し、無理に片手を伸ばしている。 背後から、能季の従者である兵藤太の呟く声が聞こえてきた。「枝が細い。折れるやもしれませぬ。若君、もう師実様をお止めした方が……」 兵藤太がそう言い終らないうちに、びしっという鈍い音と共に、師実の細い悲鳴が聞こえた。 柳の樹上から、白い片袖も師実の姿も消えている。 能季はぞっとして、すぐには動けなかった。 代わりに、兵藤太が手に持っていた弓をほおり投げて、柳の木の方へ飛び出していく。 行綱も大声で主人の名を呼びながらそれに続いた。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月18日
コメント(0)

先ほどまで時折強く吹いていた風は、今はほとんど止んでいる。 水際にいるせいか、じっとりとした湿気だけが、肌にまとわりつくようだ。 能季は額の汗を単の袖先で拭いながら、ゆっくりと柳の木の方へ近づいていく師実の背に向かって言った。「暗いから、足元に気をつけろ。幹の中ほどに、脇枝を払った痕がある。そこに足を掛けてよじ登れ」 師実は能季に言われた通り、恐る恐る柳の木の傍らまで進んでいくと、幹を手探りして足がかりを探しているようだった。ようやく出っ張りを見つけると、そこに足を掛け、両手を頭上の枝に伸ばしてよじ登ろうとする。 だが、小柄な師実にはなかなか難しそうだ。 師実の従者の行綱は、能季の傍らで手を揉み絞りながら小声で主人に声援を送っていた。 この行綱は剽軽なお調子者として若い公達たちの間で有名な男だったが、意外にも大そう主人思いであるらしい。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月17日
コメント(2)

母屋へ戻ってきた能季は、師実を取り囲んでいる少年たちではなく、あえて信長を見据えながら言った。「師実の言うことにも、一理あるのではございませんかな。宴の松原はこの大内裏内だから良いけれど、大宮川のある東大宮大路はただの往来。追いはぎの横行など、近頃は物騒なことも多いと聞きます。年若い公達が一人でうろうろして、万が一何かあったらどうなさる? それこそ、関白様へ何と申し開きできましょう」 それを聞いて、信長もさすがにちょっと考え込んだようだった。 だが、少年たちは互いに小突きあいながら、師実を蔑むように見ている。師実は赤らめた頬を震わせながら、じっと俯いたまま黙っていた。 このままうやむやにして引き下がっては、師実はこの先臆病者の烙印を押されてしまうだろう。 そう思った能季は、師実の傍らに立って、周りの少年たちに言った。「私が屈強の供を連れて、師実を大宮川までお送りしよう。我らは遠くで見張っていて、怨霊の出るという柳並木の辺りには近づかぬようにする。そこからは師実に一人で行ってもらおう。本当にできたかどうか、私が証人になる。それでいかがか」 少年たちはしばらく互いに小声でぶつぶつ言っていたが、どうやら納得してくれたようだ。というより、怖がりの師実にはそれすら無理だろうと思ったらしい。 信長も御簾の影からいつの間にか姿を消していた。 そういうわけで、今宵能季は師実をつれてこの大宮川のほとりまでやってきたのである。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月11日
コメント(5)

それは藤原教通の子の藤原信長だった。 教通は頼通の弟だから、信長は師実にとっては従兄に当たる。 もっとも、能季の父である藤原頼宗も頼通の弟だから、能季だって師実の従兄ではあるのだが。 ただし、頼通と教通の母は祖父藤原道長の正妻である鷹司殿源倫子で、頼宗の母は次妻の高松殿源明子だった。 母の身分の重々しさが違うということは、この時代においては決定的な事柄だった。だから、明子腹の頼宗たち兄弟は、倫子腹の者たちとの立場の違いを、否応なく骨身に染みさせられていた。 だが、同母の頼通と教通は違う。特に、野心家の教通は、人柄の良いおっとりとした頼通と何かとぶつかることが多かった。 それに、頼通は正妻の隆姫との間に子供ができず、もし脇腹に師実が生まれなかったとしたら、いずれは藤原氏の氏の長者も摂関の職も教通の血筋に譲り渡される可能性も高かったのだ。現に、信長の兄の藤原信家は、頼通の養子になっている。 だが、実子の師実が嫡子と決まったため、教通の息子たちにはその望みがなくなった。当ての外れた信長たちは、師実の地位や幸運を妬み、辛く当たったり苛めたりすることが多かったのである。 能季はそういう信長たちの態度が嫌いだった。 頼通の晩年の子である師実より、信長はずっと年上で、もう三十歳を過ぎている。分別もついているはずの信長が、年端の行かない師実を苛めるやり方は、能季にはあまりに大人気なく思えた。 それに、能季から見れば、信長など自分よりよっぽど恵まれている。 同じ御堂関白道長の孫でありながら……それは、能季が物心ついて以来ずっと味わわされてきた屈辱と憤懣であった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月09日
コメント(2)

他の者たちも師実に詰め寄ってきたようで、口々に師実を罵り、嘲笑いはじめた。「そなたは父君の袖に縋(すが)らねば何もできんのか」「何が近衛の中将だ。聞いて呆れるわ」「摂関家の威光がなければ何もできない小童め」 その執拗な嘲笑に、能季はだんだん苛々してきた。 元々弱い者苛めは好きではない。 それに、能季は師実のことが嫌いではなかった。確かに、甘ったれの小童ではあるが、いかにも名門の御曹司らしい素直で穏やかな性格は、世知辛(せちがら)い宮中にあっては稀有(けう)のものだ。 そんな能季の好意がどことなく通じているのか、師実の方も日頃から能季のことを何となく慕ってくれているようにも思える。 能季はやがておもむろに立ち上がると、御簾を巻き上げながら母屋に入っていった。 能季がずっと簀子にいたことに気づいた者たちは、どことなく気まずそうな顔で能季を見上げている。その顔は皆、能季と同じ年恰好だった。 だが、意外にも奥の御簾の影に、にやにや笑いながら成り行きを眺めている年嵩(としかさ)の男がいる。 どうやら、その男が少年たちをこっそりけしかけていたようだ。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月08日
コメント(0)

なるほど、苛められている相手は師実か。 能季は何となく嫌な感じを覚えた。 師実は時の関白藤原頼通の嫡男である。今最も朝廷から重んじられ、その将来を嘱望されている摂関家の御曹司だ。 だが、師実は昨年元服したばかりの十三歳。幼さの抜けきれない愛らしい顔立ちで宮中の女官たちには人気があるものの、まだ世慣れぬおどおどした振る舞いとおっとりとした性格は、宮中の悪童たちにとっては格好の餌食だった。 その上、師実は父の威光により、この年ですでに正五位下左近衛中将の要職にあった。近衛の中将といえば、若い公達にとっては一番の憧れの職である。当然、妬まれ苛められるのは避けられなかった。「そなたの勇気を見せてもらおうか。それともなにか? そなたは怖いのか。宴の松原に出るのは鬼だが、大宮川はたかが女の怨霊ではないか。そなたは女が怖いのか」「……女など、怖くなんかあるものか」「そうだろうとも。では、明日の夜、一人で大宮川へ行って来い。たった一人でだぞ」「ひ、一人だけで」「当たり前だ。大勢の供を連れての度胸試しなど聞いたこともない」「でも、一人だけで京の街中へ出るなど、父君がお許しにはならない」「父君だと? それが元服した一人前の男の言うことか!」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月04日
コメント(0)

昨夜も、能季は庭に面した簀子の欄干にもたれかかって、曇り空で笠を被っている月をぼんやりと眺めていた。 背後に下ろされた御簾の奥では、皆がしきりに騒いでいる。 どうやら誰かをからかっているようだが、能季は初め気にも留めていなかった。たまたま年配の宿直人が席を外して少年たちだけになると、決まってこのような些細な諍いが起こる。そのような子供じみた行いは日常茶飯事だったし、能季には大して興味のないことだった。 だが、苛めは執拗に続いているようだ。耳を澄ますと、こんな話が聞こえてきた。「昨夜は私が宴の松原まで行って、この小袖の片袖を取ってきた。明日の晩はそなたの番だ。明日の昼間、大宮川のほとりの柳の木に、私がもう片袖を結びつけておくから、夜になったら一人で取って来い」「……そんな約束はしていない」「夜中に宴の松原になど一人で行けるわけがないとそなたが言い張るから、私が行って見せてやったのではないか。こうして証拠の片袖も持ってきた」 今、能季たちのいる内裏の西隣には、宴の松原と呼ばれる広い松林がある。そこには、遥か昔に若い女房が美しい男に姿を変えた鬼に食われたという伝説があった。昼でも小暗い木立の辺りには人通りも少なく、夜ともなれば鬼を恐れて誰一人近づく者などいない。「私などにできるはずはないというくらいだから、そなたにはさぞかし勇気があるのだろうな。さすがは摂関家の嫡子だ」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年04月01日
コメント(0)
全12件 (12件中 1-12件目)
1


![]()