2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全10件 (10件中 1-10件目)
1

「そなたは、そんな言いつけに従ったのか」「わたくしも哀しくはございましたが、それ以外にどんな術(すべ)がありましたでしょうか。わたくしにできるのは、せめて少しでも裕福そうで見目の良い殿方に声をかけることくらい。そんなことをしたって、吉祥様のお心が休まるとは思えませなんだが。でも、男など皆同じでございました。あんなに美しい吉祥様にだって、何度か通えば飽きてしまう。ある旅の商人などは、わたくしに向かってこう言いましたよ。どんなに美女でも、まるで人形を抱いているようで、何の面白みもない。あれなら、淀辺りの遊女屋にでも上がった方がよほどましだと。わたくしは悔しくて、足摺(あしずり)したい思いでございましたが、他にどうしようもありませぬ。そういう風にして、わたくしどもは何とか長い月日を過ごしてまいったのです」「でも、どうして近江へ」 そう問う近江守に、老尼は頭巾の陰で俯きながら小声で答えた。「あなた様方が播磨へおいでになった後、わたくしのところへ文が参りましてな。それは、わたくしの孫息子からでした」「そなたの孫?」「はい。わたくしには一人娘がおりましたが、近江郡司に嫁いで一男を産んだ後に亡くなりました」「その忘れ形見か」「ええ。何でも、京での長宿直(ながとのい…注)の役に当たったとかで、しばらくの間中務大輔様のお屋敷に逗留させてはもらえないかとのことでした。わたくしにはやはり可愛い孫でございますしね。それに、相応の礼や日々の費えも払うということでしたので、これで吉祥様が客をとらずとも何とか暮らしていけると喜んで孫息子を迎えたのですが」「その孫と吉祥との間に何かあったのか」「吉祥様のあのお美しさ。それに、何とか人が住めるのは狭い寝殿の一角だけでしたから。あんな風に一緒に暮らしていれば、仕方のないことでございましょう。わたくしも、道端で見も知らない男を捉まえて引き込むよりは良いだろうと、孫息子とのことを吉祥様におすすめしたのですよ。でも、その頃の孫息子は大そう吉祥様を大事にしてくれ、やがて長宿直が終わった時も近江へ連れて帰って一生面倒をみると申しました。このまま京にいても困窮するばかり。それで、わたくしどもは孫息子を信じて、共に近江へ下ったのでございます」注「長宿直」……地方の荘園の運営を任されている豪族の子弟などが、京の領主の屋敷へ、長期にわたって侍として宿直当番を勤めること。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年02月28日
コメント(0)

「最初は、兵衛佐様のご友人の一人でございました。兵衛佐様が上総へ旅立たれた後、時々様子を見てやってくれと頼まれたと言っていましたが、さてどうだか。大方、美女との評判が高かった吉祥様に、興味をそそられたのでしょう。時々到来物などを持ってくるようになって、だんだん無理に泊まって行くようになってしまったのですよ」「そうか。その男がそなたらの面倒をみてくれるようになったのか?」 老尼は吐き出すようにぴしりと言った。「あんなお方が何の頼りになりますものか。しばらく吉祥様と睦んで満足した後は、暮らしの面倒を見るのは真っ平とばかりに間遠になりました。それどころか、自分の代わりにと、別の友人を寄越したりする始末。でも……背に腹は替えられませぬ」 老尼は目じりの皺に溜まった涙を、古びた衣の袖で拭いながら続けた。「それに、その頃には、吉祥様はすっかりあきらめたようになってしまわれましてね。元々、兵衛佐様とお別れになったことがずいぶんと堪えておいでだった上に、あんな風に他の殿方に弄ばれては。もう何もかも、どうでも良いように思われたのでしょうか。一日中、ほとんど口をおききにならなくなり、いつもぼんやりと庭先を眺めてばかり。そして、屋敷に食べ物がなくなると、わたくしに往来から誰かつれてくるようにとおっしゃるようになったのです」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年02月25日
コメント(0)

「どういうことだ?」 老尼はしばらくすすり泣いていたが、やがて手の甲で涙を拭いながら、近江守を見上げた。「吉祥様はいつも京の都を懐かしんでおられました。わたくしはここより少し離れた山裾の山寺に、吉祥様はずっと西の郡司の舘においででしたから、なかなかお目にかかることが叶いませなんだが、それでも時折会えば京での昔の話ばかり。中でも、あなた様のことを、吉祥様はよく話しておいででした。きっと、あの頃に戻ったような安らかなお気持ちになられたのでございましょう。それでもう、思い残すことはないと。ここへ来てからは、それはもう辛いことばかりでしたから。それを思えば、京は本当に良いところでございましたね」「それならなぜ、京を離れたりしたのだ」 近江守はふいに播磨から京に戻った日の悔恨と絶望を思い出して、つい少しきつい口調で問うた。老尼は深い溜め息をつきながら答えた。「そう、京に留まっていられたら、どんなに良かったか。今更ではございますが、よくそう思うことがございます。でも、わたくしたちに、他にどのような道がありましたでしょうか。幼かったあなた様はご存知ありますまいが、中務大輔様が亡くなられた後のわたくしどもは、その日の米にも事欠く有様でした。婿君の兵衛佐様がいらっしゃらなくなってからは、もうどうにも暮らしが立ち行きませぬ。何の財産も後ろ盾もない女が生きていくためには、殿方のお情けに縋(すが)るほかありますまい」「その事は私も知っている。隣の屋敷に男たちが大勢出入りしているのも見た」「まあ、そうでございましたか」 老尼はまた深い溜め息をついて黙ってしまった。 だが、近江守に強いて促されると、しぶしぶあの頃のことを語りだした。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年02月19日
コメント(0)

恐る恐る顔を上げた老尼は、なおも皺に埋もれた目で訝(いぶか)しげに近江守を見つめていたが、やがてあっと小さな声を上げて呟いた。「多聞丸様。お隣の小さな若君」 老尼はそう言うと、急にすすり泣き始めた。近江守の狩衣の肩先を撫でさすり、薄い髭を生やした口元に触れながら、しわがれた声を詰まらせる。「何とまあ、ご立派になられて。そのお髭のせいでしょうか、あの可愛らしい多聞丸様とはまるで気づきませんでしたよ。今度新しく来られた国守様とは、あなた様だったのですか。死ぬ前にお会いになれたら、吉祥様もどれほどお喜びになられたことか」 老尼は嬉しいのか哀しいのか、よくわからない様子で泣きながら、近江守の顔を見つめている。 近江守は苦痛に眉を顰(しか)めながら、しばらく返事ができずに俯いていた。だが、やがて老尼から目をそらすと、小さな声でぽつりと呟いた。「実は……会ったのだ。ここへ着いた日に」 老尼はそれを聞くと、長い間黙っていた。だが、急に両手の中に顔を伏せると、声を上げて激しく泣き出した。「それで……きっと、吉祥様は安堵なされたのでございましょう」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年02月18日
コメント(0)

夕暮れが近くなると、風が強くなるようだ。 今も、遠くで波の鳴る音が聞こえる。 瀬田唐橋の上に佇んで、近江守は目の前に広がる琵琶湖の水面を眺めていた。 吉祥の遺骸は既に荼毘にふされ、その遺灰は琵琶湖に流されたという。下女の不始末を怖れ詫びた郡司が、近江守に断りもせずに遺骸を始末してしまったのだ。眼下の水際の砂地にはまだ黒い荼毘の跡がある。 その傍らには人影があった。こちらに背を向けて跪(ひざまず)いているが、どうやら両手を合わせているようだ。 吉祥の死を悼んでくれる者が、この近江にもおったのか。 近江守はふと心を動かされ、唐橋の欄干に馬を繋ぎとめると、水際の葦原に降りていった。 近づいてみると、それは薄鼠色の頭巾を被った一人の老尼だった。片手に数珠を握り締め、低い声で経文を唱えている。近江守が声をかけると、老尼はゆっくりと振り返った。 それはまぎれもなく、中務大輔の屋敷に居候していたあの老尼であった。 吉祥と共に姿を消したと聞いていたが、もしかしたらあれからもずっと一緒だったのか。 急に目の前に現れたのが明らかに貴人であることを見止めた老尼は、慌てたように両手を地面へついて平伏した。近江守は腰を屈め、記憶の中の姿よりひどく年老いて小さくなってしまった老尼の背を叩きながら、低い声で優しく言った。「私のことを覚えておるか? 京の中務大輔の屋敷で、そなたともよく話したり遊んだりしたものだ。もう、ずっと昔のことだが……」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年02月17日
コメント(0)

吉祥は身じろぎもせず、じっと近江守の顔を見守っていた。 だが、その瞳には何の表情もなく、まるで底なしの深い淵のようだった。 近江守は吉祥の耳元へ顔を寄せながら続ける。「だから、そなたが兵衛佐と結婚した時は切なかった。その後、そなたの屋敷に多くの男が通っていることを知った時は、もっと」 吉祥はなおもじっと近江守の顔を見つめていた。 だが、急に立ち上がったかと思うと、側に落ちていた小袖を掴んだ。 そして、それを身に纏う間ももどかしげに、引きとめようとする近江守を振り切って、寝間を飛び出していったのである。 夜が明けると、近江守はすぐ郡司を呼び出して、吉祥をつれてくるよう申しつけた。だが、どこを探しても姿が見えないらしい。 近江守は不安で胸が押しつぶされる思いでじりじりしながら待ったが、三日後にようやくその消息を聞くことができた。 瀬田唐橋の袂(たもと)の岸辺に、吉祥の遺骸が上がったのだった。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年02月14日
コメント(0)

腕の中でゆったりとまどろんでいた吉祥は、急に近江守の腕を振り解いて身を起こした。 薄暗い部屋の中に、いつの間にか微かに夜明けの光が忍び込んでいる。その青白い光にも負けぬくらい、吉祥の顔は青ざめて見えた。細く尖った頤が震えている。 近江守は自分も褥から起き上がると、そんな吉祥を労わるように痩せ細った頬を撫でながら言った。「苦労を……したのだな。こんな風にやつれ果ててしまって。どうして姿を消したりしたのだ。せめて私が播磨から戻ってくるまであの屋敷にとどまっていてくれたなら、こんなことにはならなかっただろうに。さぞかし今まで辛かったことだろう。でも、もう安心するがよい。これからは、私がついているから。初めて会ったあの裳着の式からずっと、私はそなたに恋がれてきた。こんなに美しい人はいない、そなたはこの世でもっとも麗しい女だと憧れてきたのだ。他の女のことなど、考えたこともない。あの時、我が父が言ったことを覚えているだろうか。あの時から私は、そなたと一緒になろうと心に決めていた。いつか、きっと……多聞天と吉祥天のように」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年02月12日
コメント(0)

腕の中の顔は、ほんのりと笑みを浮かべる。「若君の方も、わたくしを慕って、いつもわたくしのことを吉祥天女のようだとおっしゃり、いつか自分をわたくしの婿にしてくれなどと。そんな若君も、大きくなられてからは、やがてうちにはおいでにならなくなりましたけれど」 寂しげな声音に、しばらくの間その口は閉ざされる。しかし、やがてまた夢見るような微笑が、目を閉じたままのその顔に広がっていった。「でも、あの頃の楽しかった日々は、今でも毎日のように思い出します。明るい日差し、鳥の囀り、若々しい木々の緑。何の苦しみも哀しみもなく、ただ喜びと微笑みに満ちていたあの頃。何となく、そんな昔のことを思い出すのです」「……私が、わからないか?」 近江守は嗚咽に喉を詰まらせながら問うた。そして、もう一度吉祥の左手を取り、手首の火傷跡を撫でながら言った。「この傷をつけた時のことを、今でもよく覚えている。今日この近江国府へ着いて以来、なぜかそなたのことが気にかかってならなかったのだ。どこかで会ったことがあるような気もしていたのだが、ずっと誰だかわからなかった。この傷に気づかなければ、このまま見過ごしてしまったかもしれないと思うとぞっとする」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年02月10日
コメント(0)

近江守は半身を起こすと、目を閉じたまま自分の胸に寄り添っている顔を見た。 その眉間に深い皺を刻んだ浅黒い顔には、かつての麗しいの面影は今やどこにもなかった。長い間の労苦と汚辱と絶望が、やつれた寝顔をまるで七十歳の老婆のようにさえ見せている。 近江守の目に、また涙が盛り上がってきた。「守殿は、懐かしい匂いがいたしまする」 ふいにまた、腕の中から呟く声がした。近江守は指先で優しく乱れ髪を掻き揚げてやりながら問う。「何の匂いだ?」「都の匂いでしょうか。なぜか、遠い昔を思い出します」「たぶん、衣に焚き染めている香のせいだろう」「そうでしょうね。この薫りは梅香でございましょうか。でも、わたくしの家に伝わっていたものとはどこか違うような。一体どこで嗅いだのでございましょう」「思い出してみるといい」「そう……あれはまだ、わたくしが父の屋敷にいた頃のこと。お隣は右兵衛督様のお屋敷でした。そこには小さな若君がいらして、よく我が家へ遊びにおいでになったものです。やんちゃで可愛くて。年寄りばかりの陰気なわたくしの家を、いつも明るく照らしてくださいました。父も母も、もう夢中になって、そのお方を可愛がったものです。わたくしもその若君が大好きでした」↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年02月07日
コメント(0)

まだ多聞丸と呼ばれていた幼い日、近江守はいつものように隣の中務大輔の屋敷へ遊びに行き、寝殿の庇の間で火鉢をいじって遊んでいた。 その日はなぜか人少なで、辺りには誰もいない。退屈していた近江守は、人目がないのをいいことに、火鉢に山のように炭を積み上げてみた。 赤々とした火が、次第に山を登るように移っていくのが、ひどく面白い。試しに火箸を掴んで、火の中へその先を突っ込んでみると、そこも見る見るうちに赤く変わっていく。 近江守はその赤さがどんどん自分の手の方へ近づいてくるのを、目を輝かせながら見ていたが、いきなり飛び込んできたものに抱きすくめられて、思わず激しく身を捩(よじ)った。 細い悲鳴に驚いて後ろを振り返ると、そこにいたのは吉祥だった。 単の袖で手首を押さえて蹲っている。 近江守は自分の手の中にある火箸を見た。まだ赤く焼けた先から、何か嫌な臭いがする。 近江守が青ざめて呆然としていると、吉祥はゆっくり身を起こして手を離した。袖口から覗いている手首に、焼け火箸を押し当てられた痕が赤黒く爛(ただ)れている。 近江守は自分がしでかしたことを知って、思わず声を上げてわあわあ泣き出した。 少し経って落ち着いた吉祥は、優しく微笑みながら許してくれたが、近江守は到底自分を許せなかった。 あの綺麗な真っ白い手に、自分のせいで酷い傷をつけてしまった。 それは吉祥の腕に残った火傷跡以上に、近江守の心の傷として残っていたのである。↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m
2014年02月05日
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1
![]()
![]()
