全42件 (42件中 1-42件目)
1
>拝金主義者が、科学を部分的に道具としてご都合で摂取しているだけと映る。それならば、商社マンと医師の差など想像するよりも遥かに近接していると言わねばならない。しかり、「医は算術なり」だ。 すごい表現ですね! ”同感です! ゴ-ゴ-モリケンさん実は、私の医者不信は根深いものがあります。2歳で死亡宣告されたときには、3人の医師が自分の祖父を呼べと両親に述べたそうです。まあ、無責任なものですなあ。まともな治療行為をしないで、平気で2歳児を見放したんですね。現実には、母親の必死さと機転で実行した応急処置でからくも死にぞこなったわけなんです。母親は、こちらの日記に以前にもふれましたが京都府立医大の正看護婦だった時代があり、戦後も保健婦として地元役場で勤務していたりなどしました。外地に出向いた兵士などよりも、遥かに大阪大空襲などの支援活動で死人の数も見ている。修羅場をくぐっているという点では、妙な成人男性などに比べても断然腹が据わった面があったようです。日本の医師の権威主義的な顔は、結局生死をわけへだてるような局面に何の意味合いもない寒々しいものだという気がします。このあいだも、楽天仲間とSKYPEをしていたのですがメバロチンのような高脂血症治療剤が、年間に国内売上高1107億円という。このような化け物のような医薬の存在があります。このクスリ、なぜ稼げるのかをよく考えてみれば我々の医療の病的なことが分かるのではないでしょうか。高脂血症って、致死的な病気ではないですよね。健康に気遣いするのは分かりますが、もしかすると病気になるかもしれないよ、って囁くような。病気になることを回避できるかもしれませんよ、って言うような一種の脅迫的な医薬摂取の強要で稼ぐ。極めてダークな稼ぎ方。国は、またそれを追認していると私などには思われてなりません。その妙味がメバロチンに代表される高脂血症治療剤の「正体」だと言っても過言ではないでしょう。予防医療の顔をした、脅迫的な医薬摂取の強要。それをまた国が追認して久しい。わたしは、日本の医療の基調にこのような算術が貫徹している事に子供の頃から猛烈な不快を感じたものです。スカイプ仲間の輪が広がっています。シャルドネ☆のIDを登録してみてください。愉しく御話してみましょう。スカイプID:chardonnay99_jp※2005年2月22日のアーカイブスです。
2007年05月31日
コメント(0)
Re:麻原彰晃のいる風景(02/05) いろいろ考えたが・・・。民主主義という本質をジクジク考えたら、少数派の意見・存在が尊重されない民主主義が現実であれば、必要悪として過激な反体制的な言論には、意味があると、再認識している。シャルドネさんの存在は貴重だろうな~。(alex99さん)alex99さん、こんにちは。先日、宮崎哲弥という知られた評論家が世間で話題の青テントを指して「資本主義には堕ちる自由もあるのだから青テントで暮らす連中を救済する必要がない」などとテレビで放言していたのをみかけた。最近、この手の放言は日常的に耳にするのだが、この宮崎発言がその集約的な印象を抱いた。別に、宮崎哲弥になんの恨みも、つらみもない。たまたま集約的な表現だと感銘を受けたのである。「資本主義における堕ちる自由」とは。ようするに高い偏差値の維持で、追いかける受験生をバッタばったと振り切って名門私学に入学したと自慢しているような感覚の裏声である。言うまでも無く彼は、受験によって有名私学の慶応へ入学し、そのことの恩恵には間違いなく浴している。このことが彼の社会排外主義者としての現在に、かならず残滓として影を落としているのは間違いない。今も彼がまみれているという証左かもしれない。それをひけ目として述べるのならばまだしも、尊大に手放し礼賛で終始するのであれば我々も多少とも突っ込みたくなろうというものだ。余談ながら彼は、自助努力のみで多くの受験生を振り切ったつもりでいるのかも知れない。しかし所詮は、彼の受験期における家庭環境の当然の帰結に過ぎない。恵まれていたか、いなかったかは知らないが両親が青テント暮らし同然の子弟で、一体どうして慶応大学に入学することができようか。こういう想像力の欠如が、実はほんとうは一番問題なのである。権力の本質を定義すれば、さまざまだ。私見ながら、「自身を一切債務者であるとの認識に立てず、その感覚を喪失したるもの」を権力者と呼んでも良いのではないかと私は考えている。宮崎哲弥は、自身がこの世から借りをつくっているというような発想には一度も立ち至ったことがないのだろう。昨今、企業社会においてほんとうにリスクをとっている開発型事業者がそのリスクゆえに事業環境の整った大手にさんざん卑劣きわまり無い仕儀で愁嘆場へ追いやられる現実。彼にはたかだか資本主義社会における「堕ちる自由」の行使という風にしか見えないのかもしれない。こんなヨタを飛ばす評論家など、学部生時代に黄疸をこじらせて逝ってくれても良かったと私は思う。自分の従兄は、某国立大学をでてからしばらくマネシタ電工において配属された先。そこではひたすら東芝の家電製品をバラシて低コストのコピー品を仕立てるという日常だった。酒席では、なにかといえば生涯賃金の格差を根拠に私の生活と意見を揶揄する。いらぬ御世話という他無い。彼ら社会排外主義者の腹のうちはこちらにも先刻まる見え。見事に見え透いているのだ。東芝からパクル同じ手口で、零細な開発事業者に対して仕掛けられたのではたまったものではない。※注社会排外主義とは、いいかえれば既得権益温存主義という事だ。 シャルドネしかし、彼らの「腹のうち」がそのようないびつにねじ曲がっているがゆえにこのあとも澎湃と梅川昭美や宅間守のような確信犯や凶悪犯罪がこれ以後も続々とこの世の中に湧いてくるのである。その系譜につらなるような連中が、今世に溢れようとしているがゆえに、それゆえ避け難くセキュリティービジネスが隆盛になっているではないか。彼らが終生その債務に気づかないのは致し方がない。宅間守や、小林薫に代表をされる「歩く自爆テロ」のような破滅的な人格がふいに身辺に登場して子女に危害を加えられてしまう。そのような劇的な事態になったとしてもまだ自身の債務について想像が及ばない。資本主義の恩恵に浴する(などと思い込んでいる)者たちは、いかようにもど鈍いと言うほかない。スカイプ仲間の輪が広がっています。シャルドネ☆のIDを登録してみてください。愉しく御話してみましょう。スカイプID:chardonnay99_jp※2005年2月7日のアーカイブスです。
2007年05月30日
コメント(0)
平素からゴールドハンド・ながぬまさんなどから、色々教えられる事が多い。医療の問題をなぜ、ここで私がベンチャー支援の問題視点から覗き込んでいるのか。奇矯なうかがい知れない動機のようにみえるかもしれない。事実、私のような視点は、同業者や日本のビジネスマンで理解をされることは極めて少ない。ゴールドハンド・ながぬまさんのような方から理解して貰えたりする経験が多い。私見ながら、いま医療の問題は次第に患者Patientの「固有性」にどのように踏み込むのかという方法論の問題に分岐しつつあるような印象を抱いていた。患者Patientへの手の差し込み方が、世界各国で主流となり医療の世界標準化が試みられていることは皆さんけどっておられる筈。その基本は、臨床疫学を基礎科学とするEvidence-Based Medicine(EBM)と呼称されている。質が高く効率的な医療の提供を目指して、うなりをあげてその体系と医療検査機器の充実が課題解決に向けて機能づけられているのだろう。これに対してNBM アプローチNarrative-Based Medicine(NBM)というやや異端に響くスタンスの医療を目指す陣営が次第に台頭しているという風に聞く。ゴールドハンド・ながぬまさんなどが目指しておられるものを平素の聞きかじりで集約してみると、いうなればこのNBMの補完もしくは医療新潮流との呼応的なアプローチを、ご指摘のボディーワークの視点に融合的な局面がかならずあると個人的に思っている。時代は、すでに医療現場でのインフォームドコンセントなどという静態的なものから、患者参加型Narrative-Basedという動態的な医療への動機を問うものへと遷移しつつあるのではないか、との永年のわたし自身の思いは次第に具体的な医療関係者の隊伍にかたちをなしつつあるようだ。※Narrative-Based Medicine(NBM)のカテゴリーと課題第一回「EBMとNBM」第二回「NBMの実践について」第三回「NBMにおける対話」第四回「NBMを深める」第五回「NBMとEBMの統合的実践」実は、患者の固有性とは疾病への医療関係者のアプローチの姿勢によって実にさまざまなかたちに、その見え方は大きく変わってしまうものだろうと素人ながら考えてしまう。実は、ここの部分で強引に持論へ引き寄せ違和感を感じられる方がおられるかもしれないのだがこの固有性の問題は自分にとっては平素からこの国のベンチャービジネスにとりそれぞれの特有の問題を聞きただしているうちに実は、種々の事業支援の現場で毎回、支援を目指してついに事業の健常な創業支援の問題や方法論と実はまったく同じ感覚ではないかと密かに思っている。事業の固有性は、技術の核心部分においてつねに属人的な創意や考案、そして筋肉蓄積と冗談を言うような永年の経験や失敗をも含めた濃厚な体験の厚みに依存するものがあるものだ。それが高い社会的な便益と進歩点をもたらすことが少なくない。このような実態を、実は詳細に把握しているような行政も政府組織も情けないほど存在していないのである。医療の世界において、ようやくNBMがひとつの潮流となって姿をあらわし始めたことを私は、革新的な新規性を帯びたビジネスの先端的な現場における社会的な支援と、制度的なインキュベーションの地平においても早晩感覚的同位したものとして注力されるようでなければ情けないとの思いで静かに眺めているのである。笑われるかもしれないが、いまや新規性の高い研究開発型事業者という存在は余程幸運な場合をのぞき、その大半はこの国の経済社会の内部においてまったく難病治療の患者なみの課題を山積させている存在だとの実感がわたしにはあるからだ。固有性への視点とは、医療の現場にとっては科学そのものなのである。※2005年3月6日のアーカイブスです。
2007年05月29日
コメント(0)
最近、クラリチンというくすりを知った。これは花粉症に悩む人たちに朗報だといわれている。実は、花粉症患者や喘息もちの方だけではなく厳しいアトピーの発症のある方までかなり歓迎されているらしい。とくに分子量が大きくつくられているので在来の効き目のあるくすりにありがちな強い眠気を催すことも少ないらしい。永年、痒みを押さえるためにヘトヘトになる強い眠気と闘わざるをえなかったアレルギー反応値の高い人たちには大歓迎のことかと思う。去年あたりから、かかりつけの病院で貰い受けているが一週間分を半年ぐらいかけて利用している。一錠を半分に割って痒みが酷い時に食後飲んだりしている。それでも相当効き目はあるような気がする。かつて、何千年も前から人間は体内に寄生虫をやしなっていてこれが頑張っている頃には人間にはアトピーがなかったという説がある。最近、この説の裏づけが次第にとれているようだ。その証拠に、フィリッピンなどでお腹に寄生虫をたくさん養っている人はなぜかアトピーにならないらしい。日本の航空会社の客室添乗員の御嬢さんたちは海外で寄生虫の多い生肉などを食べたりして、それ以後幼いころから悩んでいた強いアトピー症状がケロっと直ったなどという声を聞く。実は、このような現象が自分たちのまわりにたくさんありそうなのである。(つづく)続きは夜に、、、(^_-)☆-----------そろそろ、環境の無菌化の恐ろしさに気づくことが社会教養として定着するべき時代が来ている。元来、人間は微生物の恩恵の膨大な積み上げの御蔭で今日の姿を得たと言ってよい。それが抗菌、抗カビ、殺菌、回虫駆除でくわえて消臭、無臭化、脱臭、芳香浴びせ倒しのオンパレード。その精神の病的なること、極まれり。肉体は、いまやボロボロになりつつあるような気がする。その集約はアトピーである。いまだに医師は、アトピー外来に副腎皮質ホルモン軟膏を黙々と処方する。しかし、医師がいくら安全だといってもあの軟膏類には深い不審感が湧き上がってならない。中学時代に、医師がフルコート軟膏をカルテに書き込みわたしに処方しながら、この軟膏は皮下吸収を促すために毛根をひらかそうと砒素が微量入っているよ、と正直に伝えた。その恐ろしさは子供の自分もよく知っている。いかに副腎皮質軟膏を皮下に大量に吸収させようという薬剤メーカーの考え方が安手な発想か、とその時つくづくと思いしった。抗菌、殺菌という思想はそれらと同根である。そもそも人間の体内には、腸を中心として凡そ100種類の細菌がほぼ100兆個も活動をしているという。われわれ人間の肉体は約60兆個程度の細胞でできているのだという。すると、われわれは彼らにかなりの依存関係を持っているのがよほど無知な者にでも理解できる筈なのである。細菌は、しばしば我々の体内でビタミンの製造や提供にも深くかかわっている。かれらはただ人間の肉体に寄生しているのではない。かれらとわれわれは過去何千万年来気づくことの無いうちに自然とかれら細菌との共生をはかってきているのだ。そして、その大半がわれわれ人類にとって無害であるのみか少なからずの細菌が、しばしば多くの利益をもたらしてくれるように思われるが、これも一方の現実である。(さらに、つづく)※2004年9月7日のアーカイブスです。シリーズで連載でしたから、続きは↑クリックで。
2007年05月28日
コメント(2)
自分が二十代の頃、なぜか理由はわからないが性差を述べる事はタブーであった。性差をことさらに強調するものは反動的だとされた。「反動的」という言葉そのものが、死語に近いと思うので解説をさせてもらうと、英語では Reactionary となる筈である。これではなんのことかさっぱり分からない。しかし、映画をみていてはじめてこの言葉のニュアンスが分かった。字幕は、あの有名な戸田奈津子さんだ。彼女の字幕翻訳によれば、反動とは映画の中で字幕に出てくるところで俳優が叫ぶセリフは、 Fascist となっていた。(笑)まあ、ファシズムと性差になんに関係があるのかはよく分からないがどうも性差を述べることを嫌っているグループがいて性的な差異を意図的に述べている組織的な思惑が世に屹立しており、彼らのグループも常に一方で日々脅威を感じているのだという表明だったらしい。こちらは、なにがなんだか分からないうちに性的な差異について関心を抱いただけでたちまち双方から袋叩きにあいそうな剣呑な雰囲気に巻き込まれるかもしれないと怖くてたまらなかった。性差を述べることを忌み嫌う人達は、普通フェミニズムとか言うらしくてこれもまた難解な語彙を当てるものだとつくづく感心する。つまり、フェミニズムというものはどうやら一種の左翼主義的なものらしくて、左翼の大義を見失いつつある党派が辛うじて社会的に存在感を示すために女性の過剰な被抑圧意識を組織しようと画策したもののようだった。(推量で、切れ味が悪いものいいで恐縮だが実はいまだに正体がよく分からないのだ、、、)まあ、そんなどうでもいい話は皆さん退屈だろうと思うのだけれどもとにかくわずかでも「性差」を口にしたらば不思議なことに突然まわりの男性といわず女性といわず俄かに険悪な表情になって、ときとして囲まれて相当厳しきご指導を受けることもあった。しかし、どれほどコワモテの方々に取り囲まれても性差については実感で存在するように思われてならない自分はなんでそんなに性差についての感じ方を忌避することを党派的に主張されるのかが不可解でならなかった。実は、私自身は素朴に科学的な構成に対して基本的信頼感を抱いていた。ために性差などは純粋に科学的(生理科学的)に徹底して議論すべきものであって、党派的な理念のシモベとなってしまってよいようなテーマではないと直感的に思ったものだった。かくしてこの件、私にとって三十年ほどの長く暗いトンネルであったのだ。最近私の直感がかなり正しかったというありがたい実証が続いて脚光を浴びてきているらしい。つまり、男女には性差が存在する。明らかに存在する。そして性差には具体的な根拠も証拠だてて発見されてきているらしい。我々は、こんな当たり前のようなことですら当たり前だという風に理解するためにも三十年もわざわざ無駄な時間の経過を待たねばならないものらしい。なぜ、「男と女は同じものだ」などという退屈な思想が七十年代に流行をしたのかはいまだに明確には分からないがあの時代にそのような愚昧な思想に染まった女性たちがいまの団塊ジュニアの母親たちの中に相当数いることは間違いない。私の推量するところ、彼らは解体期(敗退期)の左翼主義者でその理念が現実を指揮指導することが難しくなってきたために無理やり男女間の不具合や、不適切な事態、確執にからみ入ってなんらかの勢力温存の根拠地化しようとしたのではないかと私は思っている。おかげで随分と迷惑したような気がする。最新科学の解明するところによれば男と女はやはり相当違うものらしい。その証拠に、性同一性障害などという驚嘆すべき語彙が社会的に認知をされ始めている。性同一性に障害があるとされる事態は、性は矛盾とは言わないまでも非同一なる関係であるという認識を背後に潜めているとせねばならないからだ。つまり、男脳と女脳という生理的な根拠の発見である。つまり、男は生まれて男脳を獲得した人類だ。女とは生まれて女脳を獲得できた人類である。これが基本的な発見で、これの派生的な現象として男性器や女性器が身体的特徴(つまり性差)を形成しているという。三十年前にはあぶなかった新しい思想の登場である。しかし、科学にはそれなりに迫力のある根拠が示せるものでこの男脳と女脳については昔日のフェミニストの思いつきのようなファンタジーとは違い客観的な証拠がいろいろと示されているらしい。しかも、凄いことには人類は一旦女脳を原型として男脳に加工される派生を持っているらしい。つまり男は女になり損ねたものだか、はたまたた女でありえたものを処理されて男になった、そのようなものらしいのだ。そして、性差の根拠を形成しているらしき器官として視床下部に「内側思索前野」というものがある。これはだいたい女性よりも男性が発達しているそうだ。これは体積量で相当男女差がある。ざっと五倍。また、視床下部の「腹内側核」という器官。これも男性が大きい。ここが狂うと食欲が病的になるとか。ストレスで破壊されやすいのは体積が小さい女性に多いという。昨今はやりの右脳、左脳という分類でいえば男は右脳が発達しているケースが多いとか。ざっくりと言って女の子は左脳がはやくから発達する。だから、男の子を育て間違うと言葉が遅くなりやすい。さらに顕著なものに左脳と右脳をつないでいる「脳梁」という組織がどうも相当高度な脳機能をもっているらしいのだけれども男女差が激しく圧倒的に女性がこの部分で顕著な差を示しており、女性が圧倒する。女性が、現実的だというのはこの組織が男性とくらべて著しく強靭に発達しているからだ。逆に、男の子はまかり間違うと現実離れを起こしやすい。典型的な病理ででてくるのはあの須磨の酒鬼薔薇少年だったりするのかもしれない。どうも、遅まきながら男女には「性差あり」という主張に軍配があがりそうな気配である。※2004年4月27日のアーカイブスです。
2007年05月27日
コメント(0)
四夷八蛮の中華思想は、どうやら、借りてきた日本のほうが本家づらになってきました。隋唐文化摂取時代でも、日本はなんとかして、シナをしのごう、しのごうとしてきました。日出る国の天子、日没する皇帝に申すとという手紙を出して、むこうの皇帝にいやな顔をされたのは有名な話です。虚栄心もあったのでしょうが、入れ墨をして、からだに朱を塗った日本人が、張り切りすぎていた結果とも言えましょう。そういう高揚りな国民は、よその国で好意をもたれようはずはありません。半面に、小心で、線の細い日本人は、あいてを鼻であしらう気持ちが、強い反撃に出あうとたちまちくずれて、身のおきどころのない劣等感にかわってしまいます。ノイローゼのはては、卑屈にもなりますし、よりどころを失ってニヒルにもなります。かつてのじぶんの主人に食ってかかる恩しらずの飼犬にもなります。しかし、一方で高度の文明に接触し、科学で証明された合理的な世界に生きていながら、矛盾も、抵抗もなしに、もう一方で、星占いを信じこんでいる人たちが、今日でもふえているのは、どうした傾向なのでしょうか。日本ばかりではなく、それは、どんな文明にもあることです。現代の科学の説明はものたりないと言うだけのことではありません。医学よりも、神ごとにたよりたがる人がいるものです。人はみな光にむかってあるいているものとおもっている人は、光を背にしてすれちがう人たちをふり返り、ふしぎでたまらないことでしょう。いつの時代でも、別の道をゆきたいと思う人はなくなりませんから。 「日本人の悲劇」 金子光晴 (1967年)日本のバブル期を眺めることも無く金子は、1975年に逝く。最晩年の金子光晴は、あの週刊ポストのグラビアに登場してはストリップ劇場の小屋で相好を崩す好々爺だったけれども、その偉才は際立っていたという感がある。清水建設名古屋出張所長、金子荘太郎の養子として育ちなに不自由なく美術絵画骨董の審美眼を養いながら明治大正昭和を無頼で過ごす。戦前、欧州、イギリス、アジアを渡り歩いた独自の視点で、晩年明治百年の空騒ぎをはじめようとする佐藤内閣時代の日本の無造作なナショナリズムを冷笑したのがこの評論の位置づけである。いま読みかえしてみても、我々の狂奔70年、80年、90年と経てますますその書の真価が光彩を帯びているという思いが深まるばかりだ。日本人が、なにかというとカルトがかってしまうというこの情けない個性についても透徹した眼力で見抜いている。鍛冶屋の息子氏が述べるように「私自身の体験から言っても、カリスマの指導者(上司)がいる中小企業では、意見でも言おうものなら、間違いなく疎外されます」と。ご指摘のような現実は、日本のそこかしこにあります。かくゆう私自身、なんどこの手の愚昧な会社代表にポアされたことか。(笑)今日も、厚生労働省の関連団体の方とお話をしてきたのですが、最近西日本の中小企業では以前にもまして企業代表や経営者の理不尽きわまりない経営実態が目立つとの事。従業員に対しては過干渉というのか、販管費を異様なほど敵視して結果5円、10円を追うあまり1000円、5000円をまきちらすような仕儀に陥っている。笑うしかない。これはあの中川昭一、麻生太郎、石破茂らのようにながらく国民年金を支払わず国民の膏血を啜り平然と主要閣僚でいすわるという姿と相似である。いやいや、ほかならぬ小泉純一郎その人こそながらく国民年金の不払いを実行しているというではないか。よりによって時の内閣総理大臣みずから国庫の歳入欠陥の原因者であったとは。しかも、この自民党。すでに昔日のような単独与党がはれるような事態にない。もともと投票格差5倍などという不当な憲法違反で維持してきた程度の政権政党だが、いまや創価学会公明党の支持支援なしに政権を維持できない体たらくである。この体質は、あきらかに多くの有識者ご指摘のように日本のカルト化を裏ささえしている。楽天でもnak1氏が最近、オーム真理教の破防法適用を公明党がからだをはって阻止したとの示唆をご披瀝だった。傾聴に値する指摘であると思う。おかげで日本中、電波系の怪人物が跳梁するところとなっている。そもそも、自由民主党と公明党=創価学会の関係は古い。1969年、まだ自分が十代の頃。村上龍が中核派で佐世保の空母来航阻止の現地闘争に身体を張っていた時代だ。創価学会の言論出版妨害事件というものがあった。当時、この事件の渦中にあったのが藤原弘達という政治評論家で「創価学会を斬る」という出版物を差し止めに動いたのが他ならぬ田中角栄である。先ごろ、娘の田中真紀子も週刊新潮に角栄の孫娘の離婚騒動を記述されたと出版差し止めに動いたがよくよく血筋は争えないものだ。この田中角栄直々の出版差し止め工作は、いったん成功する。しかし、藤原弘達らが別の出版社から本を出し、これに日本共産党が全国的なキャンペーンを行い大量部数を購入。または露骨に無償配布を行なった。これがついに衆目を集めるところとなりこの程度の暴露本が相当な規模の売り上げとなりまんまとベストセラーになってしまう。実は、この事件以後。田中派、竹下派、小渕派、橋本派と現在に至るまで公明党創価学会は自民党の大派閥と深い関係を構築しており、宗教法人への課税問題、脱税問題、はたまた池田名誉会長の身辺に惹起する女性スキャンダル、すべてが直接間接自民党キングメーカーの大派閥が関与しては表沙汰にならぬように「はからい」が生じていると言えよう。実は、この自民党の公明党窓口に位置するボスが田中角栄の凋落以後あの金丸信、その番頭である小沢一郎にお鉢がまわっていった。いうまでもなく創価学会、公明党が金に困窮するなどという事はない。自民党側で田中以後金丸信らをへて請託をされるのは、常にスキャンダル封じ。そして宗教法人への課税阻止。これら巨大カルトの存立を揺るがすような政治活動をつねに芽むしりすることにあったことは間違いない。また、自民党支持層の中にも宗教法人として課税に忌避感が強いということもあり時々刻々と自民党、野党公明党の融合に近い関係が深化してきたのだ。いやま与党自民党の「金庫」ともなりつつあるこの時代の危機の様相は深刻といえよう。※2004年4月24日のアーカイブスです。
2007年05月26日
コメント(0)
今日は、忙しかった。仕事は、休みだったのだが私の場合は仕事の日以外が、むしろ忙しいのである。炊事、洗濯は、あたりまえ。ボランティア活動に、図書館、調査、執筆、おまけに最近は、例の「ど根性ベーグル」の製造もある。ベーグルは、自分がたべるだけなのだけれども、作っているあいだは手が強力粉にまみれてどうしようもない。なまじっか安い、旨いので、ついつい時間のバランスをくずして作ってしまう。今日は、4日分作った。保存がきくのもありがたい。さて、朝は雨の中を滋賀県で霊視をするという方のところへ出向き自分の守護霊とやらの示唆を受けてきた。神妙に話を聞いてきたのだけれど、霊視者いわく「守護霊が、生まれ変わりのあなたにアドバイスをと打診したのですが、長考なさって困惑されています」などと言われて、こちらはもっと困惑した。親兄弟はおろか、親族に至るまで理解を絶しているといわれ続けた自分であるから、致し方ないのだが、霊視者までが守護霊がつかみかねておられます、などといわれては「余程酷い奴なのか、俺」と、失笑を禁じえない。実は、若い時に身延山の修験者で霊能力があるというオヤジのところに連れて行かれたことがある。そこいらの、オヤジやおばさん達にサクサクと色んな助言やら、アドバイスやらを行っていたのだが、自分の番がまわってきたら、その霊能おやじが絶句してしまった。難しいというのだ。とにかく、分かりやすい人間ではない、と俺を評していった。そりゃあ、そうだろう。分かりにくいもなにも、俺が一番よく分かっていない。知りたいのだ。滋賀県という地域は、俺が弁当を毎日詰めてくるだけで周りのオヤジや兄ちゃんが驚くのである。弁当で驚いているのだから、朝食を自分で焼いたベーグル喰っているといったら腰を抜かすだろう。旨いものを経費かけずに、安く喰いたいだけの追求のなにが不思議なのだろう。このあいだ、テレビでアフリカのマサイ族の屈強なのとくっついた日本の女が、エロビデオをその配偶者にみせて、同じセックスをしろと強要したという話題。かなり、きわどい笑いでうけを狙っている学者がいた。マサイ族の兄ちゃんは、はじめてみる日本のAVビデオに「気持ちが悪い」と、反応したらしい。彼らは、セックスを三こすり半なのだと伝統的に捉えていて、日本の発情した女に教えられた性典に、文字どうり「晴天の霹靂」を体験したらしいが、そのままはまってしまったというので、笑うに笑えない。しかし、今日のベーグルはゴマとブランをいれたが、まだまだ工夫の余地はあるようだ。霊視と、マサイ人のセックスと、ベーグルは自分の中では超常的に「絶対矛盾の自己同一」している。なにが霊視だ、心霊現象か、などと馬鹿にする奴もいるが、そんなこと言い出したらあの大ソクラテスだって、デルフォイの神託を読み解きしてギリシャ哲学を始めたのだと知らない無学なヤカラだと笑っておればよい。
2007年05月25日
コメント(3)
カルトという言葉もおぞましいですが、あなたの会社の内部をこの指標で再度確認してみませんか?「新しいメンバーの獲得に余念がない」は、雇用解雇を繰り返し他社や人材銀行からの求職者を短期で、非正規雇用したり、試用期間を不当に6ヶ月も設定したりしている場合にはチェックしてください。「集団の活動に法外なまでの時間を費やすことを 求められる」は、限度を越えた長時間のサービス残業に躊躇がない社内雰囲気は要注意だと思われます。残念ながら、私がここ数年観察してきた日本の企業はいずれもこのマークシートでフルハウスでした。□実在のカリスマ的指導者が中心にいて、メンバーは無条件に心酔している。 □新しいメンバーの獲得に余念がない。 □金儲けにのめり込んでいる。 □ 質問したり、疑問を持ったり、反対意見を唱えることは認められず、 罰せられるケースさえある。 □瞑想や詠唱、体力を消耗させる労働など、精神を麻痺させるテクニックを用いて 疑いの心を持てないように仕組んでいる。 □ 指導者がメンバーの考え方や行動、感情を細部に至るまで支配している。 □ エリート主義的な発想に立ち、集団とそのメンバーと指導者は特別な高い地位に あると主張している。 □自分たちは善、外部者は悪という「二分法」的な考え方に立ち、一般社会との 軋轢を生み出している。 □主流の宗教の聖職者などとは違って、指導者にはいかなる権威に対しても 従う意思がない。 □倫理に反すると考えられるようなこと(不正な目的の募金活動など)でも、 目的のためなら正当化されると教える、または、ほのめかす。 □メンバーの罪悪感をあおって、支配力を強めている。 □メンバーは集団に従属させられ、家族や友人との絆は断たれ、それ以前の 個人的な関心事も忘れてしまう。 □メンバーは当然の義務として、集団の活動に法外なまでの時間を費やすことを 求められる。 □同じ集団のメンバーとの共同生活や、メンバーのみとの交流が奨励される、 あるいは、義務づけられている。 Newsweek日本版1995年4月15号※2004年4月10日のアーカイブスです。
2007年05月24日
コメント(2)
「かつて細川政権が存在した」さて、金丸信は逮捕された。話を進めようとおもったが、やはりこの「墜落」劇は不思議だ。この国では、われわれの感覚で最高権力者とおもわれるような人たちが続々と「墜落」してゆく。失脚というのではなく、墜落という印象がわく。田中角栄しかり、金丸信にしても、野中広務にしても政敵をたたき出し党内で隠然たる力を示しているその権勢ならびなき瞬間にあたかも狙撃されたかのように叩きのめされているという印象がわく。 1992年。自分がはじめてパソコンを購入する一年前。まだ、ワープロでビジネス文書を多産していた時期だ。世間を揺るがす大事件としてメデアは金丸信の不正献金疑惑なるものに沸いていた。金丸は<東京佐川急便の烏雄>渡辺広康から5億円を受領していた政治資金規正法違反で、その結果泰山鳴動罰金たったの20万円の略式起訴で終わった。検察庁の看板石に早朝からあざやかなペンキがふりかけられ、街頭には月光仮面のプラカードをもったオヤジがあらわれた。忘れやすい日本の視聴者もかすかに記憶の底に残っているかもしれない。世論の激しさに検察庁幹部も肝が冷える思いがあったことだろう。サンデープロジェクトでも、田原総一郎が毎回取り上げ番組に話題として登場した。のちに第一次橋本内閣で通産大臣にもなった塚原俊平など発言によどみ田原につっこまれると真顔で「だって怖いんだもん」とグズるしまつだ。いかに時の権力者というものが強力で怖いものか、という事だ。金丸信が、どれほど凄い力があったかといえばあの野中広務に小沢一郎が発言した描写がある。金丸信についての逸話も一つ書いておく。 「金丸先生の“お庭番”をやるように言われてね」 JR京都駅新幹線八条口前の事務所。野中が国会議員になってそう日時が経っていなかった頃だ、と記憶している。古風な表現だったせいか表情は照れていたが、口調は満更ではなかった。 “お庭番”とは、江戸幕府の職名で、将軍の直接の指示を受け、諸大名の動静、治績を探り報告するのが役目である。 現代風に例えれば、選挙に備えて全国の情報を収集するような役割もその一つでもあろうか。野中は要するに「金丸側近」のお墨付きを得たことになるわけで、竹下とともに金丸からも“師”として政治を学び、信義を守ることになるが、「野中vs小沢」激突の構図は、その金丸をめぐってのものだけに根深かった。野中広務 「素顔と奇跡」より天下の小沢一郎が、よりによって往年の野中広務にテレながら誇示するほどの事。それがすなわち金丸信の信頼を得ることだったのだ。また、あの鈴木宗男を思い起こして欲しい。鈴木宗男が最初、師と仰いだのは自民党旧竹下派の実力者だった故金丸信だった。初の総選挙、鈴木は非公認。金丸ですら「自力ではい上がって来い」と突き放した。「政治とは冷たいもんだと思った」。“力”をつけたい-。原点となった選挙体験が鈴木を走らせた。 「自力ではい上がりました。公認、いただけますね」。1983年12月19日、鈴木は前日投票された衆院選での初当選を金丸に報告した。金丸が党執行部に掛け合い、その日のうちに追加公認が発表された。 「恩師中川一郎を自殺に追いやった男」との疑いをかけられての選挙戦。自民党は鈴木を公認しなかった。この時に身にしみた権力の冷たさを語る時、鈴木はいつも涙で声を詰まらせた。北海道新聞 「虚実 ~鈴木宗男を追う」ことほど、左様に金丸信の巨大な存在感がつたわってくるエピソードを読み進むとあの時代の「墜落」劇のすさまじさが感じてもらえると思う。ついにマスコミと世論に叩くだけ叩かれてサンドバック状態となり、議員を続けることはならず議員辞職する。最後に金丸信を追い込んだのは東京国税局という事になっている。「検察秘録」 村串栄一著 光文社 1500円問題の5億円をめぐって東京国税局が、申告されていないから脱税だと襲い掛かってゆく。きっかけは、金丸信の夫人が他界して遺産を残した。どうやらその遺産の規模も半端ではない。相続遺産規模にして56億円。金丸信は、妻からの相続で52億円を得たらしい。これを調べてゆくなかで金丸信の保有する日本債権信用銀行のいわゆるワリシンの不整合をみつけだしたとされている。あの日債銀だ。つまり、日本の55年体制の「終焉」は、、、幕ひきは東京国税局が行なったかのようだ。金丸信の「墜落」で、一気に自民党総裁派閥はまっぷたつになったという大事件。それ以前にも、以後にもないような大事件がよりによって東京国税局の果敢な踏み込みで実現した。それは本当に、本当か?その金丸信の容貌。いまやインターネットを逆さまにふっても生前の画像が出てこない。※2004年4月16日付日記のアーカイブスです。
2007年05月23日
コメント(2)
阪神大震災の前となると大昔という気がする。記憶が薄れかけそうながらも、実はつい昨日の事のようでもある。私がパソコン通信を始めた頃。細川政権は誕生した。空前の日本新党ブームとやらで千里中央には突然無名の新人が立候補したりしたが予想を裏切りみごとに衆議院議員に当選するというような驚くべき政治の地殻変動がまだしも感じられた。スリリングな感触を多少は抱かしてもらえた政治の季節だった。細川政権の存立基盤を、今ふたたび民主党が再構築できたと管直人は宣言する。その存立基盤の再現劇とは、その基盤とはどのようなものだったのだろうか。これは私的なイマージュかもしれない。だから皆さん、片目をつぶって読み進んでいて欲しい。金丸信というオヤジもいた。自民党の当時幹事長として君臨した、大ボス。このオヤジは第2次田中角栄内閣に建設大臣として入閣している。その後には防衛庁長官、そして大自民党の幹事長、自民党で副総裁は名誉職とはいえ、副総理などの役職についているので大幹部だった事は間違いない。イメージとしては一時の野中広務やいまの青木幹雄のポジション、いやそれ以上の位置づけだった。そして、誰も知るようにあの小沢一郎を引き立てて竹下登の後継者として小沢一郎を押し出した真打ちだ。ところが1992年、このオヤジが「5億円献金事件」というのを起こす。これがきっかけとなって田中角栄が築き上げ、竹下派が創世会として引き継いだあの大派閥が分裂する。つまり「竹下派七奉行」が橋本龍太郎・小渕恵三・梶山静六と小沢一郎・羽田孜・渡辺恒三・奥田敬和の二グループに分かれた。あの日本新党ブームと新生党の旗揚げという時期、すでに忘却のかなたに去ろうとしている。われわれには知ったことじゃない。いまにいたる小泉純一郎が政権を旧福田派のながれをくむ森派主導で演じられる基盤ができたのも、この金丸信の失脚がきっかけといえるとおぼろげに覚えているぐらいのものだろう。細かい話は、ながくなる。ようするに金丸信は逮捕された。(しかし、金丸信という大物の画像がインターネットには皆無だ。これほど現代史を語る上で欠かせない人物の画像がないとは、、、)なんで逮捕されたのか、もう皆憶えてもいないだろうが、いきなり大派閥の扇の要が逮捕されて自民党内部の大派閥が分裂する騒ぎになったのだ。この原因は、誰も憶えていないというのは不思議といえば不思議。ここであの時代のギャングスター、山口敏男元議員の描写がある。金丸前副総裁逮捕を、山口敏夫元労相は明治の官僚政治の代名詞である大久保利通になぞらえ「大久保利通の亡霊の復活だ」と、「金竹小支配」に屈していた霞が関の官僚たちの反攻とみる。事実、竹下派分裂で永田町と霞が関の力関係、政治家との関係は変化し始めた。一昨年までは予算編成時に建設省の一室に金丸氏の代理役として小沢一郎元幹事長が陣取り、さらに経世会の若手議員らがこれを取り囲み、同省の予算獲得を励ました。「小沢学校」と称されていた。しかし昨年の予算編成時、小沢氏の姿はなかった。毎日新聞長官3月9日同時に、噂されるのはのちのちに野中広務が失脚した流れからみても当時北朝鮮への送金ルートの「帝王」だった金丸信がこの時期に失脚するについてはアメリカの関与が想定されてもまったく不思議はないと思う。あの田中角栄のロッキード疑獄以来つねにアメリカの対日政策の裏舞台での秘密裏の工作はさすがに鈍いわれら日本国民すら広く知るところである。霞が関の官僚たちにしても、やはりアメリカの後ろ盾なしに自民党分裂劇、それもいきなり頂上に位置する金丸信を痛撃できるはずもなかろう。金丸信が不正蓄財したとされていた巨額の資金は、検察に押収されたことになっている。金丸信は、竹下登の後継者に小沢一郎を推していた。竹下登は、まだまだ院政をしいて影響力を残そうとしていた。小沢一郎は、金丸信の後ろ盾で力をつけていった。その力の背景には金丸信の「集金力」があったと考えれば、検察が押収した資金が小沢一郎の相対的な失脚とも深いかかわりがあるのは物理現象を読み解くようなものだろう。「次は、小沢で」という金丸信の願いは鉄槌を喰らったことになる。裁判中に金丸信側は、当時蓄財していた60億円は「政界再編のための政治資金であって個人的な蓄財ではない」と述べている。案外、あたらずといえど遠からずだろう。個人的な蓄財であってもその資金、たちどころにおりおりの政局へ資金を投ずる事なく終始できるような甘い世界ではなかろうと思う。その証拠に、のちに小沢一郎と対決し続けた野中広務は佐川急便からの献金疑惑をすべて親分の金丸信に押し付け自分だけは逃げ回った卑劣な男としてつねに攻撃材料としている。この事件で、小沢一郎が関与していないとは新聞記者だって思ってはいない。とうぜん、この流れから考えて竹下派分裂後の政局で登場した新生党には巨額の資金が流れ込んでいる。求心力にはつねに巨額の資金がいる。あの時点では、創価学会。池田大作名誉会長の強い意向がなければ成立しない政党、それが新生党だったと思われる。規模にしては5千億円を下まわらないと噂されている。この国でそれぐらいの規模の資金を左右できる存在がそれほど多いとは到底思えない。なぜ、池田大作名誉会長が当時新生党に加担をしなければならなかったのだろうか。つづく※2004年4月15日付日記のアーカイブスです。
2007年05月22日
コメント(0)
ジャスコ西大津店で、ベーグルがあまりに高いので頭にきた。ここのところ、すぐに頭に来る危険な五十代である。五十代を怒らせると、碌なことはないぞ。覚えておれ!実は、ベーグルを自分で焼いた。レシピも、でたらめ。道具もなし。棚にある調味料も、へったくれもない。しまった、砂糖をいれるのすら忘れた。だいたい、卵もミルクもはいっていないベーグルがなぜあんなに高価なのだ。人を馬鹿にするのも、ほどほどにしろ。焼けた。失敗作だと思っていたが、絶品である。これは、はまる。もう、朝食にヤマザキの食パンなど絶対買わない。これから、毎朝自分で焼いたベーグルを食ってやる。焼きたてが、あまりに旨いので朝食用につくったのを4つ全部食べちまった。制作費は、50円ぐらいだろうか。誤解しないでほしい。一個50円ではない。4つ、50円だ。こんなもの、アホでもつくれる。
2007年05月22日
コメント(4)
自分に額面どうりで感じられる「代表的日本人」とは、誰だろう。60年代に知った高橋是清や、原敬には感じるものが多い。だが、偉才過ぎて背丈が見えないところがある。同じ頃に知った相馬黒光は、そのデカさは凄みがあるぐらいだけれど、女性であるという点で多少は理解のよすががあるような気がしてしまう。母親は、南方戦線ブーゲンビルで戦死した伯父から京都の街でカレーを生まれてはじめてご馳走になったと繰り返し言っていた。そのカレーは他ならぬ相馬黒光と夫君相馬愛蔵の新宿「中村屋」が起源だろう。カレーライスを食べる毎に、餓死同然で戦死した伯父のイメージと相馬黒光の足跡は、どこでどう交叉する筈もないのだけれども自分の中ではこの世の謎解きのように繰り返し浮かんでは消える。なにが君の幸せ、なにをして喜ぶ?わからないまま終わる・・そんなのはイヤだ忘れないで夢を こぼさないで涙だから君は飛ぶんだどこまでもそうだ、恐れないでみんなのために愛と勇気だけがともだちさああアンパンマンやさしい君は 行けみんなの夢守るため(アンパンマンのマーチ作詞:やなせたかし 作曲:三木たかし 編曲:大谷和夫)1875年、明治天皇の侍従、山岡鉄舟は知人の木村安兵衛謹製のあんぱんを水戸藩下屋敷は花見の席で天皇に献上されるようにはからったという出来事があったらしい。ことが決まった。日本を象徴し季節感も表現できる桜の花を、あんぱんのヘソにと意匠されたものがもっともクラシックなアンパンの姿だという。明治天皇は木村屋のアンパンをいたくお気に召し、以後宮内庁御用達という事になったらしいのだ。しかし、これも結構巷間に知られていないだけで実に偉大な「事件」である。文字どうり「和魂洋才」を体現する、その可能性を庶民レベルで象徴的に味わう事が始まる。一方、童顔の愛らしい相馬黒光女史は1892年。トンでもない御嬢さまがいたもので当時アメリカに一方的に傾斜する宮城女学校の教育方針にたてついてなんと堂々のストライキを決行、指導者として奔走する。これは1969年の高校生であった自分にも体感で分かる面があるが、途轍もないパワーだと思うわけだ。あげく自主退学。両親をもオルグしてフェリス女学校、明治女学校と転戦する。1997年に愛蔵と結婚して、信州の旧家の内儀に修まるかと思いきや、夫婦揃って東京へ上京しては学生相手にパン屋を開く。この商売、おそらく旦那の愛蔵の手腕ではなく、その成功は大いに黒光の技量らしい。新宿「中村屋」となっては、ギリシャ系亡命露人にロシアパンの手法を学び、はたまた修道院を追われた某には、牧場で奉職、そのフレッシュミルクを製造させ、露人からはチョコレート菓子を製造せしめて、中国人からは中華饅頭の秘伝を開示させる。そして、チベットの僧に邂逅すれば月餅のスキルを授かる。ほどなくあの有名な英国植民地下のインドから脱したインド独立運動の闘士でボース(Rash Behari Bose)を英国政府の追跡や英国より要請を受けた日本政府の苛斂誅求を被っていた処、玄洋社の巨魁 頭山満の庇護。匿った頭山満の意を受けて相馬黒光がボースの隠れ家として「中村屋」を提供したのは有名な話。まさしく本格的インドカレーが日本に根づく、これがその起源という。考えようによっては、われわれ日本人がカレーライスを食するのは反米、反英インド反植民地闘争への日本人民の連帯の意思として興ったブームだったのだといえなくもない。なるほど、アメリカと戦い、アメリカの戦闘機に殺されかけたわが母親がカレーライスを作るたびに伯父に供えて感謝をしたのはどこか通底をしている機微があって、不思議はなかったのかもしれない。※「人は、戦争で死ぬために生まれてはこない」2004年5月5日 ↑クリックでジャンプします。革命家ボース(Rash Behari Bose)は、のちに相馬黒光と愛蔵の娘で長女の俊子と結婚。この海を越えた侠気は、どうも途轍もなく一途なものと映るのだ。戦後、自分は大阪の闇市から叩き上げたわが両親を眺めてきた。生きて行くだけでも精一杯という壮絶な姿。肩越しに目撃してきた体験を踏まえていえば、新宿「中村屋」こと相馬夫妻の実行したことは、市井の一介の商売人の担える限度を遥かに越えておりもはや「国士」とでも呼ぶほか無い。戦後、いかにも我々は軟弱になったものだ。
2007年05月21日
コメント(0)
土曜日までの「うらみの雨」をぬって、バイクで富山へ。富山で一泊して、岡崎塾長と酒を飲む。日曜日と土曜日で合算すると700kmほど走ったことになる。しかし、バイクでの移動経費は安い。ガソリン代は、わずか2000円ほどだ。パソコン通信以来のつきあいで、もう10年以上の知己というわけだ。彼は、土曜夜の携帯電話で突然の電話にも、嫌そうなそぶりもせずに仕事を切り上げてホテルまで出迎えに来てくれた。そこが、普通のつきあいの友人関係とは決定的に違うように思う。周囲の友人関係や、兄弟よりも相手のことがあらかじめ分かっているという不思議な「関係性」が、通信のアクティブの相互にはあるのだろう。なにせ、ニフティーサーブ(パソコン通信時代の@niftyをそう呼んだ)に実在した「新発想ビジネスヒントフォーラム」は、彼とふたりでBL(ボードリーダーとニフティーは呼称した)をやらかして笑いを取っていたのである。読者は、極めて少なかった。この楽天日記程度でも、一日に2、300の足跡スタンプが残っているが、当時パソコン通信では、ビジネス系フォーラムのメイン筋でも一週間に7000アクセスあるか、無きかだったという気がする。あの2ちゃんねるでブレイクした切り込み隊長らがやってきた頃から、妙な排他的な雰囲気が漂って、その後急速に荒んでさまざまな交流も雨散霧消していったらしい。その後、フォーラムにもいろいろあって。一時期、リリパットという独特の雰囲気のフォーラム形成がされたのだけれど残念ながらあの富士通さん、フォーラムというものの生成発展をついに理解できない体質の組織で、お腹の中のデカした赤ちゃんたちを何度も堕胎しそこねて、あげく最近ではただのプロバイダー企業としてもまともに維持できなくなっているような印象だ。話題は、そのことではない。リリパットの中で、懇意にしていた女性社長がなんと岡崎塾長と同じ高校の先輩後輩ということで、わたしが紹介したところ。その後も、富山県民会よろしく、怩懇におつきあいしてくれていたらしい。だが、その社長さんなんと重篤な病気で病床にあるそうだ。岡崎塾長は、本当に親切な男で、その社長さんの励ましやら業務の手伝いやらに誠心誠意つとめて貰っているらしい。富山という地域も、なかなか見事なものだ。ふたりとも東京をはじめ他府県の空気をたっぷり経験したこともあるのに、やはり富山がいいということらしい。富山駅前の、割烹料理店で旬の富山湾の魚をいただきながらひたすら聞き手に廻って塾長の話を聞いていると時の過ぎるのを忘れる思いがする。ホタルイカ、白えび、氷見貝、etcどれも美味だった。
2007年05月20日
コメント(4)
岡本喜八を、強く意識したのは祖母と見に行った映画「日本の一番長い日」だったと思う。当時は、自分は中学生になったばかり。岡本自身は、この映画をあまり好ましく思っていなかったそうだ。けれども、映画の出来ばえは相当なものだったと思う。登場人物の一人づつ、そしてそのエピソードの重さを今に至るまでヒシヒシと感じ取れる映画といういものは、それほど多くあると思えない。ほどなく、高校時代。大谷直子は、NHK朝の連続テレビ小説「信子とおばあちゃん」で主演で登場する。大谷は、自分よりも何歳か上ぐらいだから、あまり好印象を抱いていなかった。しかし、岡本喜八メガフォンの映画「肉弾」では、同世代に強い衝撃を与えたと思う。実は、自分はもう少し遅れて映画に到着した。いわゆるATGシアタ-系ではなく、リバイバル上映されたものに何とかたどり着いたのだ。映画「肉弾」は、これまでのいかなる戦争映画とも違って内面に直接滲みこむようなエピソードの畳み掛けだった。そして、「日本の一番長い日」と「肉弾」が、決定的なほど岡本喜八は、自分に捉えたように思う。大谷直子は、女優としては今もあまり好みではないが、「肉弾」でのデビューは、別格で神話的なまでの何かだったと思う。それは認めざるをえない。岡本は、そんな自分にさらに驚きを最晩年にも用意していた。NHKの「神様がくれた時間」は、衝撃的だった。岡本が、癌だったことか。いや違う。記憶を失いつつ、壮絶な闘病生活だったことか。それでもないような気がする。ドキュメント番組が、伝えたことは別にある。あの映画「肉弾」で描かれた古本屋のおやじ、笠智衆演じる両腕を爆撃で失った老人とその女房、北林谷栄演じる妻の細やかな愛情生活が主人公の心の彷徨と、クロスするささやかなエピソードとして描かれている。挿話はこの映画を大変豊かに肉づけしていると思われた。忘れかけていたエピソード。しかし、岡本喜八と妻みね子の闘病の日々は、まさに映画の笠、北林の再現である。これには心底打ちのめされた。映画「肉弾」で、笠智衆扮する古本屋のおやじは妻を「観音さまのようだ」と述壊する。むろん、岡本みね子が、観音さまだということに納得もできる。しかし、女房を観音さまに育てはぐくんだのは岡本喜八自身だ。ありえないものを見たような気がした。翻って映画「肉弾」が、岡本夫妻にとってみれば、ある種普遍的な倫理の教典のようなものとして存在したのだ。そう感じられた。「肉弾」は、いま思い返しても秀作映画であって、ふたたび三度辿ってみたい作品だと思う。芸術祭文部大臣賞をはじめとする数々の賞にも輝いた。しかしドキュメントは、この映画制作で、岡本夫婦が巨額の債務を負うことになったと告げる。映画は、東宝からも白眼視され、この戦後映画の良心とでもいうべき映画制作は観音菩薩のような妻を得た岡本喜八らの手で、文字どうり菩薩道として具現化したものだ。改めて冥福をお祈りたい。↑クリック
2007年05月18日
コメント(8)
オリジンは米WIRED誌の編集長だったクリス・アンダーソン(Chris Anderson)で、2004年10月の同誌に「the Long Tail」という記事を執筆し、オンラインDVDレンタルショップの米Netflixやオンライン書店のアマゾン・コムなどでは、リアルビジネスとは異なる収益構造が見られることを指摘した。アンダーソンは、ここでエンターテインメント産業の未来はニッチマーケットにあると主張している。 ただし、ロングテール現象はデジタル・エンターテインメントだけに見られるものではなく、広告や一般サービス、ソフトウェア(ソフトウェア・サービス)などにも適用されるといわれている。例えばグーグルのAdsenseのようなPPCSEは、極めてマイナーな広告でも同社に収益をもたらしている。── 幸福な家庭はみな一様に似通っているが、不幸な家庭はいずれもとりどりに不幸である。オブローンスキイの家庭は、ひどくごたついた。 ── トルストイ/原 久一郎・訳《アンナ・カレーニナ 19691030 新潮社》P005最近、ワーキングプアーとロングテールというのは近似した現象だという気がしてきた。AMAZONが、派手に成長しているように言うが怪しいものだ。カネがあそこに廻れば廻るほど、経済社会は苦しくなるだろう。その肝心のAMAZNに代表されるネット系のビジネスが実態でどれほど、儲けているのかもおおいに怪しいと以前から疑っている。真相が流れ出してこないが、たぶん相当隠された赤字を膨大に抱えているだろうと推量する。滋賀の洗堰が、鮒鮨を駆逐している主犯だったというのにも呆れたが、AMAZONがぶっ倒れてどこかに買収されたりするような事態が来たら、世の中の先々はどういうふうに読めるのだろうか。インターネットが、ロングテールの実現を推進しているというが貧困拡大の根拠を具現化しているという側面も見落とすわけに行かないだろう。貧乏人を増やす、最大の凶器。それがパソコンと、インターネットだというのは、あながち暴論ではないだろうと思っている。最近、株屋がやけにFXだ、スワップだとうるさい。なんだか、株屋の嫁さんをレンタルしてくれるのかと思っていたらそうではないらしい。スワップ(夫婦交換)ではなく、外国為替取引の金利差を利用して儲けませんか、ということのようだ。あぶない、あぶない。これは、99%損をさせる謀略だと思う。周囲に、これで儲けたという話を聞いたことがない。こんな、負けが必至というようなバクチに大事なお金を湯水のように垂れ流しできるとは。よほど唸るほど金を持っている連中がいたものだ。ほんとうだろうか?いや、どうせAmazonと同様、どこからか調達してきた火の車のお仲間だろう。つまり、富が偏り。その極限までいきますよ、という。そういうアリ地獄の入り口みたいなものではないだろうか。ロングテールとは、そういう比喩ならばピンポ~ンというものだろう。
2007年05月18日
コメント(0)
滋賀で名物になっているのか、昨今高級品で口にすることもできないという事態にあるのが鮒鮨(ふなずし)だ。これが、どうも洗堰(あらいぜき)を管理している国土交通省のしわざらしいという。聞けば、琵琶湖の水位はこの最南端の洗堰というダムで調整されている。京都、大阪の水源は、こんなところで管理されている。関西では、割合有名な話だ。ところが、梅雨を前にしたこの時期にここで琵琶湖の水位を20cmも一気に下げるというような荒いマネを90年代から実行してきた。これが、どれほど琵琶湖の環境に影響を与えるのか、扇千景が責任を取るわけでもなく。平然とやらかし続けていたわけである。おかげで鮒の産卵は、水草になされても皆ことごとく水面から20cmも晒されて紫外線で叩かれてしまう。なんだ、ブラックバス主犯説は、大嘘だったのか。怒れブルーギル、というわけである。しかし、酷いものだ。これだけの大嘘を、平気でブラックバスのせいにして裏取りもせずに、よくぞ滋賀県民をはじめ、近隣地域住民をだまし続けてきたものだと思う。なんと世間常識というものは、あてにならないかだ。あいた口が、ふさがらないとブラックバスも呆れていることだろう。地球温暖化など、早晩炭酸ガスと何の関係もなかったとバレるだろう。嘘つきは、かならず誰かの利益代表だ。それぞれ、油断せずに眺めていよう。
2007年05月17日
コメント(1)
一昨年暮れに購入して、まずまず機嫌よく使ってきたキャノンのプリンターだが、突然物理的なトラブルにみまわれた。ようするに紙詰まりだ。事務機メーカーの中でも、キャノンは、やや排紙、給紙の物理的なレベルで弱い印象がする。本体を安くして、インキで稼ごうというビジネスモデルにしては、なにか手抜きモードだという気がして仕方がない。概して、サポート姿勢は宜しい部類だけれどもトラブルは、何故か低級な物理的な操作性に傾斜しているような印象が湧いてならぬのだ。相当、沢山の紙を中に詰めてまったく動かなくなった。前からも後からも姿も見えないが内部でギャーというような悲鳴をあげだした。キャノンのサポートに電話をいれたが、さらに込み入ったトラブルにハマっていく。どうやら、詰まっているものを舐めてかかったのだろう。しばらく、電話の向こうで腕組み考えている様子。長い考慮の果てに、「オーバーホールしかないです」との言。だがね。「オーバーホールって、どれぐらい掛かるの?」搬送費こみで、9千円ぐらいいるらしい。ばかな、それならば新しいプリンターを買えばいいと言われているに等しい。そこからが、粘りどころ。徳タワラだ。「こんなに酷い目にあわせておいて、プリンターを買わせれば普通はキャノン製品は買わないだろう」なあ、そうだろう君。「普通」はあ、そうでございましょうねと殊勝に言う。「君のアドバイスに忠実に従ってやってみたが、どう考えてもあの時わたしが危ないといったのに、君がアレ、アレを強行したから、完全に紙詰まりが固着しちまったとは思わんかね。これは、過失相殺ということで、オーバーホールは、キャノン持ちでいよな」はあ、はあ。「即答はいいから、上司と交渉したまえ」しばらく、お時間を・・・(いいとも、いいとも、いいトモロー)(水入り)あの、ヤマトの配達と回収の費用を1700円ご負担させていただければと・・・「君が上司と相談しているあいだに、HPとか、エプソンとかプリンターを眺めていたんだ。なかなか良いものが沢山でているもんなんだねえ」あ、分かりました。では、では、、、(2度目の水入り)では、オーバーホールの費用を7000円程度ご負担させていただきますのでヤマトの往復搬送費の1700円のご負担を・・・「まあ、いいか。君の顔をつぶしてもなんだからなあ」などなど。たまには、我々も中国人にならないと、いつまでたっても日本のメーカーに緊張感が走らないように思う。言いたいことは、遠慮なく言うべしだろう。
2007年05月16日
コメント(2)
2007年05月15日10時16分財政破綻(はたん)した北海道夕張市の代表的味覚、夕張メロンの初競りが15日朝、札幌市中央卸売市場であり、最初の1箱(2玉入り)が過去最高の200万円で落札された。これまでの最高額だった昨年の80万円を大きく上回った。話題性を狙って業者が競り合った末の「ご祝儀相場」で、市場はどよめきに包まれた。↑クリックこれを高いとみるか、安いと見るかは微妙だ。メロン2個は、確実にネット通販で売られてゆくのだろう。誰が買うのかが、問題だ。過去には、バブル期この種のものは東京築地で流通させる選択肢がひとつあって、唯ひとつという事態にあったのを知っている。たとえばバブル期だ。これが、インターネットの時代。産地である夕張ブランドが、築地の地位を揺るがしたともとれる。これが大きい。おそらく、これは高級クラブや贈答目的などに流れてゆく。その世界は、高ければ高いほうがいいというアイテムをつねに捕捉して、予算を用意して待ち受けているという業界で一般消費者が知らないだけで、そういう流通はある。一個100万円のメロンが、まだまだ末端で値を吊り上げている可能性だってある。中間マージンは、流通しさえすれば、むしろ値嵩があるほうが儲かるのだ。つけくわえれば、ネット社会特有の「自作自演」という線も消せない。つまり、夕張ブランドの確立で利得のある集団(グループ)で、200万円を頭割りすればけして高いものではない。そう、宣伝費という損金計上できる金員をグループで分け合えば200万円という支出は、むしろ積極経費として活きてくる。だって、考えてみたまえ。この売り買い、公正なセリだったとしても、これだけテレビ、ラジオ、新聞、メデア、ならびにWEBで話題になる。これを、まともに広告代理店に仕掛けてゆけばどれだけ足元をみられるか、分かったものではない。つまり、数億円ぐらいの支出を表玄関から行けば、取られかねないような宣伝とその訴求効果を、まんまと200万円で略取したようなものだ。そう考えると、夕張のメロンを道具に狡猾なたちまわりを実行したと拍手をしてもいいわけだ。生きているうちに、頭をつかえというわけか。メロンを消費するに際して、スプーンを持っている人間だけが、頂上での消費形態だとは限らないのである。
2007年05月15日
コメント(2)
この下げ、意味わからん。なんで野村証券の格付けで、こんな棒押しのように一本調子で下がるのだろう?実は、570000円で待ち受けていたら、まだ4千円も下げてしまった。まあ買えただけましか?ザラ場(道中)、553000円はジョークかと思うほどだ。それとも550000円を割り込んで、底なし沼か?詳しい方、教えて欲しい。誰が、こんなにNTT株の大量放出しているのだろう。
2007年05月14日
コメント(0)
自分が、二十代。頭を悩ませたのは懐の心配や夜食べる飯の心配よりも、奇怪なものが占めていた。書店にならぶ本の表紙に、「疎外」という二文字が溢れていたことだ。疎外、疎外とうるさくて仕方が無い。意味が分からないので、疎外感を抱いたというのが冗談のようだが、実態で。本当の話だ。実は、当時流行思想の「疎外論」に、もっとも青年が疎外された時代だったといえる。更にややこしいのは、その定義があるやなしかの中に早々と「物象化」を言う一党がいて、また何を言っているのか分からない。どちらの潮流も、私に対して「お前はアホや」と、言っているようなものだったからだ。さらに、ややこしいのは当時学生がやけに威勢が良くて声がデカかったのだ。貧乏な癖にいつの時代にも若いと取り合えずツッパリ勝ちみたいなものを狙うやからが多い。そう一応は思うが、当時は格別それら「疎外論」的に突き出すやつが周囲に多かった。要するに、自分なりに理解すれば「われわれは」常に価値の源泉であり、粗末に扱われてはならない存在であるにもかかわらず、実態はどうか。とんでもない粗末な扱いを受けており、これはけしからん。不条理である。なぜならば、国家と社会そのものがこのような粗末な扱いを強いるについての避け難い構造を帯びており、だから「われわれ」と、国家、社会とはけして相容れない敵対的矛盾を帯びているのだ、という。まあ、そういわれてみれば、そんなものかなと、思わされる時代だったのである。いくつも頭の緩い自分には、理解できなかったことがある。その声のデカい奴らは、みなさっさと国家公務員や、地方公務員、教職員になっていった。つまり、今や疎外の構造の中核におさまっている。少なくとも外から眺めている分には、そのようにしかみえない。下手をすると、「近頃どのように暮らしているのかね。俺もおかげさまで年収3000万円を越えつつあるが、もう定年まじかだ。若い頃に色々あったが、年金もいただきながらアルタナティブな環境のありかたを探ってゆくために余生を費やしようと考えている」みたいな、メールやハガキを送ってくる奴もいる。なるほど、かつて疎外された対象に推参して、骨をうずめようという意図まで抱いている様子だ。だいたい、奴らが「われわれ」と言い出す時はロクなことがなかった。大抵、まわりにいる娘子軍に、論旨明快さを誇示しつつ、お手々を握っていて、半年ほどするとお腹が大きくなった女の子を紹介してくるというパターンがあった。なるほど、論という個的な突き出しよりも、共同制作されたお腹の何者かの突き出しの方が、はるかに疎外論構造を止揚してあまりあるのだと推量した。ことほど左様に、疎外論というのは他者へ)とりわけヤリタイ盛りの男の子が眼中にある娘子軍らへ)の働きかけに利便があったらしい。そう考えると、「疎外論」というのは論の起源や骨格はともかくも、機能的には、昨今の「出会い系サイト」や「パーティライン」と、大差なかったような気もする。
2007年05月14日
コメント(0)
『おおカキ諸君、散歩しにおいで!』とセイウチが差し招く。『すてきな散歩、すてきな談笑潮の浜辺に沿ってでも手を貸せるのは、最高四匹までだよ』最年長のカキ、セイウチをながめでも一言たりとも発しはしない。最年長のカキはウィンクして重い頭を横に振る――カキ床を離れたりする気はないよというつもり。でも若いカキ四匹がいそいそと大喜びで招待に応じ:コートにブラシ、顔も洗いくつもきれいにきっちりと――でもこれってなんか変だってカキには足がない。 さらにカキが四匹つづきそしてさらにまた四匹そして群がりあわててみんなきたそして次、次、もっと次――みんな泡立つ波からピョンピョンと岸辺めがけて押し寄せる。セイウチと大工は一マイルほど歩いてから具合良く低い石の上にこしかけた:そしてかわいいカキたちみんなそこに並んで待っていた。セイウチいわく『さあいろんなことを話し合うときがついにやってきた:くつだの――ふねだの――封蝋や王さま――はたまたキャベツなど――あるいは煮え立つ海の謎――またはブタの翼の有無』『でもちょっと待ってよ』とカキたち叫ぶ『みんなでおしゃべりする前に;息をきらした子もいるしぼくたちみんな、デブちんだ!』『あわてることはないよ』と大工。みんなこれには感謝した。『パンが一斤』とセイウチ曰く『それがもっぱら必要だ:さらにはコショウと酢もあればそれはなおさら好都合――さあ親愛なるカキくんたちよよければ食事を始めよう』『でもまさかぼくたちを』と叫ぶカキくんたちは、みんなちょっと青ざめる、『こんなに親切にしてくれたのにそれはなんともあんまりだ!』『見事な夜だ』とセイウチが言う『なんともすてきなながめじゃないか』『出てきてくれてありがとうなんとも優しい子たちだね!』大工の答はただ一言「パンをもう一切れ頼む:そんな上の空はやめてほしいね――二度も三度も言わせるな!』 『こんなペテンをするなんてこれはなんとも恥ずかしい』とセイウチ。『こんな遠くに連れ出してあんなに急いで歩かせて!』大工の答はただ一言『バターを厚く塗りすぎた!』『かわいそうなきみたち』とセイウチ、『心底同情してあげる』セイウチ、嗚咽と涙に隠れつつ選ぶはいちばん大きいカキばかりポケットからのハンカチで涙流れる目を隠しつつ。『おおカキ諸君』と大工が呼びかける。『なかなか楽しい道中だった!ぼちぼち帰るとしようかね?』でもこれに対する返事なし――そしてこれってどこが変?だって一つ残らず腹の中」 「あたし、セイウチがいちばん好きだな。だってあわれなカキたちのこと、ちょっとはかわいそうと思ってあげたでしょ」とアリス。 「でも、大工よりもいっぱい食べたんだよ。ハンカチを口にあてて、いくつ食べたかを大工に数えられないようにして。対照的に」とトゥィードルディー。 「それ、ひどいわ! じゃあやっぱり大工がいちばん好き――セイウチほどたくさん食べなかったんなら」とアリスは憤然として言いました。あの黄色いTのマークの入っているカードで、画像ソフトをレンタルするビデオショップでは、製品を購入したりソフトを借りないことにしている。あのスキャナーという奴で、個人の個的ななかでももっとも峻厳な趣味嗜好を吸い上げるという「はしたない狼藉」を、なぜ今の若い方々はなんの疑いもなく看過なさるのか、疑うことを忘れたカキが、大工と連れ立ってあるいていくセイウチ君のご馳走になっちまうご機嫌な歌を思い出しちまった。最近は、Amazonも油断ならない。便利、便利でついうっかりと自分の脳みそをあんな怪しい新興ベンチャーにご披露するなんて。ピクニックに狼さんをお招きしちゃう赤ずきんちゃんのようなものじゃないか。でも、最近の狼さんはちょっと頼りになるたのもしい大お兄さんみたいな顔してやってくるんだよね。セイウチ「よぉ、カキ君 世間話をしよう 世間話日和だよ 楽しい散歩 楽しい語らい 人生はこうでなきゃ カキ君」大工「そうさ しかも話して歩いて 腹が減ったら ぺロリさ」年老いたカキは目をつぶり 首を横に振って外にはいつも危険がいっぱい 待っているわカキ「海は最高 安全だもの ここを離れないわ」だとさセイウチ「そうとも さて いろんな話を始めようか? うわさ話ならキリなくある 海が熱いとか ブタには羽根がない さぁ海を後に 丘に上ろう」セイウチ「んーさてと どうするかな… パンだ! パンがあれば言うことなしだよな?」大工「塩と胡椒とお酢はどうだい?」セイウチ「そいつはいい考えだ! ハハッ まったく名案だ!」大工「ヘヘッ」セイウチ「さてと 用意はいいか カキの皆さん? フッフッフッフッフ ではいただくとしよう」カキ「いただく?」セイウチ「……腹ペコペコで死にそうな音さ」大工「コショウやカラシをうまく混ぜて 口に合うように味をつけて ごちそうになろう うんと食べよう」セイウチ「まったく涙が出てしまう (ゲップ)……いや失礼 君たちに同情しとるんだよ すまないね 君たち本当に良く来てくれた わしゃ本当に喜んどるんだ」大工「ちっちゃな可愛いカキちゃんたちよ?」しかしカキは答えなかった答えないのは当たりまえだよね?ひとつ残らず 食われちゃったんだもの!
2007年05月13日
コメント(0)
↑この画面をクリックしてください。世の中には、日本のボランティア活動家を信じられない人もおられるもので。日本語で語られると駄目、ってアレルギーもあるでしょう。では、英語版のオリジナルに挑戦してみてください。迫真の告知姿勢がつたわってくるかもしれません。
2007年05月12日
コメント(0)
↑この画像をクリックしてください。このあいだ、この日記で述べたのだが自分が高校時代に読んだ「五月の七日間」という本格的なサスペンス小説はもはや手に入らない。絶版だ。地元の図書館に手配したら、かろうじて堺の図書館に所蔵されていた。ほぼ40年ぶりに読んだことになる。60年代すでに、アメリカという国を、どういう感覚で捉えなければならないのかについてあの小説は自分にとっては決定的だったように思う。実は、あの小説は映画化もされている。ビデオショップでも、簡単にはみつけられないかもしれない。しかし、その小説で描かれている「謀略組織」の実力はその後もアメリカ合衆国政府部内に着実に根を張って今日に至るのだろうと思う。さて、自分が楽天日記にやってきたのはTak-shounai氏の案内に素直に従ったものだが、すでに4年前ぐらいになるのだろうか。自分は、パソコン通信時代からの未練から、まだ@Niftyで、細々とせいぜい20人ぐらいに向けて「この話題」をニフティー内部の旧フォーラムの中で展開していた。あの当時には、仮説として語っていたつもりだったが今やブロードバンドの浸透で誰でもアクセスできるものに、なりつつあるようだ。さて、どうか上掲の画像をクリックしてご覧いただければと思う。可能ならば、しかるべき箇所で右クリックして皆さんのパソコンに保存してご覧いただければ制作者の希望に沿うものかと思う。
2007年05月12日
コメント(0)
ぼちぼち7203氏が、怒っている。いや、正しくは怒られた。消費者満足度を払底させた製品群を売りつけて平然としている昨今のデル社の企業姿勢を、窓口対応の悪さに重ね合わせ奮闘記を書かれている。その応酬された経緯を描写されているのを好都合に、私が乗じて揶揄したと取り違えられたようだ。なるほど、そういうお怒りもなりたつのかもしれない。いずれにせよ、こちらの日記で展開している2007-05-11 「傷つく感じが素敵」と、 そしてその前の 「失くしたものを思い出す」の2稿は、わたしがデル、富士通、GATEWAY、@nifty、ツクモ、NTT、ケイオプチコム、有線・・・あまたさぶらいそうらいたまいけるIT関連企業との「激越」なまでの干戈まじえての過去一貫した応酬歴の果てにたどり着いた「ひとつの境地」を述べているつもりである。氏へのコメント形式ではなく、自分の日記で展開せよといわれたので渋々退却してきたのだ。ただ、一般解などありそうでないので曖昧な話題で応えさせて貰った。氏は、デルがけしからん、と読み手の私たちから慰めてさしあげるべきところを、不熟ゆえに過去の手柄話披瀝の場にされたと取り違えられたようだ。氏にご不興を与えたのならば、表現の稚拙さのゆえんであって、陳謝しておきたい。 パソコン通信を始めて、93年頃からアップルユーザーとなり、NECのデスクトップ、IBMのノート型パソコンTHINKPAD、デルのINSPIRON やら、その周辺機器のCANONやBUFFALOメルコム社、果てはAU/KDDI、家電店などを含まると数え切れない応酬歴の中で自分なりに理解したのは、彼らは組織一丸となってある種ナンパサイボーグになりつつあるという心象である。窓口のサイボーグたちの哀しい星を斟酌てもしかたがないのだけれど、ここのところでは90年代からの軋轢やら累積効果なのだろうか、サポート窓口は次第に現場決済部分もふえて一時の最低最悪の対応姿勢も緩み、往時の劣悪な対応ぶりから考えてみても少しづつ人間味ある対応へ旋回しつつあるようにも印象する。彼らの最大の弱点は、やはり昨日の稿「傷つく感じが素敵」で申し上げたように関係構築力の無さなのだ。いや、関係を構築することをあらかじめ去勢されて執務している労働者である。消費者の怒りの、まさしく怨嗟の的はそこにあるのだけれど、翻転して考えてみれば彼らの最大の弱点でもある。交渉に際しては、つねにそこを痛撃するようにイメージしている。考えてみて欲しい。窓口に登場する連中の大半は、正雇用職員ではない。契約社員、フリーター、派遣労働者なのである。彼らが、デルや、富士通や、IBMや、@niftyを代表して発言ができる筈もない。痛くても、哀しくても殊更にサイボーグをやらかして飯を喰っている。そんな彼らを動かそうと思えば、まったくこれまでの交渉文法と違ったシンボル操作能力の体系が必要なのは、自明ではないか。そう思ったのだ。
2007年05月12日
コメント(0)
あの映画「AI」に登場する、ご奉仕サイボーグことジゴロ君は、果たして我々男族の理想の姿だろうか。即座にノーといえれば、なかなかカッコいいのであるが、すでにテストステロン欠乏症で萎えマラオヤジらの一群なればともかくも、おそらくまだまだ煩悩無間の衆上である大多数の男は、ここしばらく心の奥底にハイパージゴロへの沸々たる野心を抱いて生きることになるのかもしれない。自分のまわりで、リアルでJude Law扮するあのジゴロに勝てそうなタイプの男をみたことがある。ほかならぬ、元祖ニフティーサーブ内「新発想ビジネスヒントフォーラム」の本当のオーナーだった松島庸だ。そう、光通信の謀略で日米同時上場を果たしながらみずから創業したクレイフィッシュ社を追われた青年実業家だ。異名を「ヒルズ族になれなかった男」とか言う人もいるらしい。彼が銀座で私に向けて誇らしげに打ち明けた女漁りの奔放さは、どはずれていて痛快ですらあった。まあ、生まれ変わったならば彼のようなナンパマシンに魔界転生できるのならば、それも愉しいかもしれないと思う処もある。ヒルズ族とやらが、眩しい瞬間も実直なだけで不器用な庶民派リーマン諸兄にはあるのかもしれないが、あれだけ絶えずいれかわりたちかわり女漁りに余念がなかった松島庸の艶福ぶりを知れば、とてもとても「ヒルズ族になれなかった男」に、シンパシーなど抱くも畏れ多いと思い知ることになるだろう。ここまでは、余談。実のところ、えてして(松島庸のことを指している訳ではないので、誤解なく)ナンパサイボーグ野郎は、意外なほど寂しがり屋が多いのだ。そして、神はえてして残忍なことをなさる。浴びるように女たちとセックスしているにもかかわらず、当事者本人は情けないほど何故にかほどまでに寂しいのかについての、痛烈な自覚がないのである。あの零戦設計者である、天才堀越二郎技師は極度の近眼で飛行機の操舵ができない身でありながら零戦の空中挙動をすべて脳内でシュミレートできたという伝説がある。僭越にも、彼らナンパサイボーグを、私が腑分けをするのもおこがましいわけであるが、彼らの内面は記述すれば以下のような消息だと想う。女をナンパすると、端緒期には相手の女がどのように「我れ」を受け入れてくれるのかについてすべての想念が集中される。この集中力は、なかなかのものでひとつのスーパーな能力であることは認めざるを得ない。この恍惚と不安のない混じった一喜一憂は思い返しても愉しい時期だろうと推量する。ところが、何事にも達人のブレイクスルーというものはあるもので、程なくMY WAYというぐらい、歩留まり何割レベルで初等確率統計学的なまでのレート感覚が身についてくるものなのである。いったん手法が、固化してくると一種の物質力であるからして、しばらくは急速にその成功率が定向進化を遂げる。その瞬間、しばしば人と人の交歓の場ゆえの悲哀というのであろうか。面白い臨界を越えてしまうものなのだ。女族は、このような関係性の磁場の中で「愉しい」「気持ちいい」・・・しかし、これは再現される何かなのだと瞬時に悟るのである。(笑)馬鹿な団塊世代のオヤジたちは、やっかみ半分にそれらを「関係」だと錯誤して理解しがちだ。ところが、当事者らは、すくなくともいずれかの当事者にとっては逆説的にも「関係」から滑り落ち、関係から永遠に疎外されたという痛覚を抱いていたりするものなのである。もしかすると、あの70年。不思議な時代の潮目は、この痛覚のような「傷つく感じ」の喪失者を社会に大量に産出し始めた時代として後世に銘記されることがあるかもしれない。 好きといわない あなたのことを 息を殺しながら 考えてた 愛ってよくわからないけど 傷つく感じが素敵 笑っちゃう 涙の止め方も知らない 20年も生きてきたのにね [薬師丸ひろこ/メインテーマ]
2007年05月11日
コメント(7)
寝つきがいいので、明け方眼が醒めたときに昔の事が蘇ってくることがある。自分は、あまり韓国人の悪口を言わない。nak1さんの日記とかは、大好きで納得しながら読んでいるが、自分ではあまり韓国人を罵倒することはしていないのである。いろいろ理由はあると思うが、生まれ育った街では、在日韓国人に取り囲まれていた生活だった。親も忙しいから、子供づきあいは在日韓国人とその二世みたいなことになる。彼らのオヤジは、容貌魁偉な手合いが多かったが、かあちゃん連中は美人で、そのせいか娘たちは美形も少なくなかった。そんなこんなで、幼馴染はたいてい在日韓国人や二世ばかりで、遊び仲間に日本人の女の子はほんとうに少なかったなと思う。自分自身を反芻しても、12歳以前の性格形成は生涯を貫徹するものだ。韓国人女性をテレビでみていても、たとえば「チャングムの誓い」とか、評判になってみていたが、特段憧れとか可愛いとかいう感情は湧かない。韓国人の識別感覚は、多少鋭敏なのだろうか。駅や繁華街で、すれ違っても在日韓国人やその子弟は、たぶん相当高い確率でかぎ分けているのではないかと思う。あまり嫌韓という心情はない。さりとて、彼らを間違っても仰角で眺めるなどという動機もない。ここで何度も話題にしたが、生まれ育った家を放火された事件でも、その下手人は在日韓国人だと心密かに確信しているのだ。それにしても、恨みが湧かないのは不思議だと言われる。言われても仕方がない、生まれ育った街に、在日が多く、彼らと銭湯では湯に浸かり、走り回って、西瓜を食べ、夏にはプールに行き、たこ焼きを喰らい、同じ学校へ通学した。さそわれて中学時代には、同じ拳法の道院にも通っていた。差別意識もあったような気もするし、無かったような気にも傾く。よく分からないが、希薄だったのではないか。こちらが、差別意識が希薄なのは、奴らもすぐに感じたのだろう。自分の上の年代は、そういうわけには行かない。露骨な差別感情を持っているのがゴロゴトいたし、その反動で韓国女性というとすぐに上に乗ろうとするのも多い。キーセン観光が隆盛の時期には、頻繁にソウルへ出向いては満喫してきたと、手柄話のように大声で放言するオヤジは周囲にいくらでもいた。ところが、自分はどうもそういうのが苦手である。もともと性的な話題をするのは、得意ではない。というのか、ほとんど興味がなかった。とりわけ韓国人女性とセックスしようなどと思ったことは、一度もない。あまりに、子供時代に近すぎると兄妹のような感覚に近くなるのかもしれない。また、何人かの韓国女性から秋波を送られたような印象が湧いたことがあるが(たぶん、余程鈍い自分が感じるのだから、実体のあるモーションだったかもしれない)、昨今と違って女性側から男の子になにかコンフェッションするような時代相ではなかったから、当然なにごとも起きなかった。70年安保闘争が衰退しつつ、終焉を迎えた時期。日本の中等教育の現場では、露骨に文教政策に変化が生じた。左翼活動をさせるぐらいならば、軟弱な学園風景の方がよほどましという官僚的発想なのだろうか。公立高校でも、平気で昼間からラブホテルへ行くカップルが発生しだした。わずか3年ほどのあいだにである。高校の4年後輩ぐらいから、教職員の監視が見事に緩くなり、急速に学生叛乱期特有の剣呑な雰囲気が政治的退潮の流れとともに払底するようになり、それは平成の現在極相にあると思う。この40年を眺めていると、我ながら苦笑を禁じ得ない。自分の幼馴染の韓国人子女らは、はやばやと当時子作りしていたのも多く、その娘が孫をみているというほどだ。世の中が、劇的に変化するのを茫然と眺めているのも、それはそれで致し方ない。自分の役務というものだろう。
2007年05月11日
コメント(1)
この人物、世界でもっとも評判の悪い男の一人である。あの嘘つきブッシュの下で、イラク侵攻を事実上スキームづくりをしたとして悪名高いのだけれども、なにせいまや世界銀行総裁である。しかし、よほどブッシュの抜擢人事が、支離滅裂だったらしく、まともに世界銀行で職務まっとうせずに、職員の女性とロクでもない噂を垂れ流し、スキャンダルまみれである。 ウォルフォウィッツ氏といえば、ブッシュ政権で長年、国防副長官を務め、イラクのサダム・フセイン政権に対してその打倒の軍事作戦を強く主張した保守派の重鎮である。反対派のリベラル勢力からは「ネオコン」という侮蔑的なレッテルを張られ、憎まれてきた。 もともと世界銀行の職員にして、総裁の愛人にあるShaha Rizaという女性は年俸1600万円ぐらいの高給取りだったものを、ゴシップを回避するために出向させられている。ところが、出向先での待遇が、むちゃくちゃだったのである。出向先が、アメリカ国務省で、あろうことかライス国務長官よりも給与報酬が上だという「超お手盛り」を、やらかしちまったから火に油を注いでいる。詳しくは、古森義久氏のコラムを通読願いたい。大体、ユダヤ人のウォルフォウィッツが世界銀行総裁だというだけでアホらしくなってくるのだけれども、ご承知のとうりその世界銀行に我が国が世界で2番目に湯水のようにカネをつぎ込んでいるのだ。なんでネオコンのユダヤ人オヤジの「ちんぽこ」の世話まで我々日本人が気遣いせねばならないのだろう。やってられないわ。こんな世界銀行債だの、なんちゃら高配当投資信託だの、絶対買ってやらないから。
2007年05月10日
コメント(0)
同じ道路を走っていても、スズキのミニバンで買い物する滋賀の主婦もいれば東名高速を疾走するベンツもあるわけでクルマといってもその価格から目的もすべて違う。ネット株をやろうかという動機も、いまでこそ若い40代以下が圧倒的に多いとしても、次第に団塊世代を取り込んで拡大基調を狙っているに違いない。そこで、如実なのが「格差社会」の現実。いきなり小手調べに500万円ほど株式に興じてみようという人たちが現実にいるらしい。その気配は、ネット株をやっていてもよく分かる。たとえば、ヘラクレス銘柄に単元が1株で買えるという貧乏人御用達みたいな新興株がある。売りも、買いも一株単位だから出来高もまるわかり。雰囲気は、さながら小学校の子供銀行みたいなものである。1株価格もせいぜい7万円みたいなの。それが、逆に2ちゃんねるに巣食うディトレーダーに好感されていたりする。そんな春風駘蕩とした場に、いきなり1000株を売ったり、買ったりするオヤジが闖入してくる。これは津波か、伊勢湾台風みたいなものだ。実のところ、購入しているオヤジらは、事情もよく分からずに店頭で説明を聞いて買いに入ったり、新聞よんでいきなり証券会社のネエチャンに電話をいれて、売りに走ったりしているらしい。わがオヤジが生きていたら、やりかねないスタイルだ。普段は、3000円あがった、5000円さがったと楽しんでいる坊やたちには到底新興株とはいえ、あがりさがりを演出するような身上がある者ばかりではない。シテ顔負けで一日何億円も売り買いする兄ちゃんがいる一方で、給料の不足をネット株でかばおうと必死なニート系のディトレーダーも当然いるわけだ。新興市場の成熟を削いでいるには、意外にこういう訳のわからない事情もからんでいると印象する。さて、手数料問題。意外に、この件ぞんざいにできない。売り買いを激しくおこなわなければ貧乏でショボイご同輩が、株式で利殖などおぼつかないではないか。となれば、売っても買っても1000円以上も手数料を取る、三菱系のカブドットコム証券などは犯罪的だと映る。たしかに、ネット検索しても、ボロボロに叩かれている。事実、この手数料はこの証券会社が、消費者をどのように考えているのかを透かしてみせているように思う。ただ、カブドットコム証券のソフトでは売り買いは本当にし難い面がある。逆に、利用者に損をさせないために事業を開始したのではないか、という皮肉が2ちゃんねるでアップされているほどだ。実は、この証券会社の「カブマシン」は、株取引のリスク開示と銘柄選びで迷う人のために手厚い。まあ、貧乏人ではなく、余裕資金がよほど余っていて、孫のファミコン遊びの真似ごとのように株式に手を染める。そういうムキには。多分ちょうどこの証券会社の主旨が合致するのだろう。
2007年05月09日
コメント(0)
真理が多数決にあるわけではないが、運用関連業界では、「ウィーク・フォーム」の市場の効率性が成立しているという見方と、「ストロング・フォーム」の市場の効率性までは成立していないという見方が、圧倒的な多数を占めていて、意見が割れるのは「セミ・ストロング・フォーム」の辺りだ。 たとえば、アマチュアの世界ではそれなりの人気があるチャート分析は、年金運用のような顧客側がプロ(年金基金も一応プロの範疇だ)の世界では、まともな投資分析手法だとは思って貰えない。年金運用のようなフォーマルな運用の世界では、チャート分析で運用している、というファンドマネジャーが雇われることは、ほとんどない。 逆に、「インサイダー情報も含めた、特別な情報収集に基づく」という運用手法は、そのような情報を本当に集めて運用することは難しそうだし、文字通りのインサイダー情報では、場合によっては法に触れる。つまり、「ストロング・フォーム」を否定するとしても、その応用を実現することは現実的に難しい。 そうなると、スポンサー(運用するお金の出し手)側では、ファンダメンタルズ分析が有効だと「信じて」アクティブ運用を採用したり、有効でないと考えて手数料が安いパッシブ運用を採用する、というような行動につながるし、運用側も、それぞれに対応した運用哲学を掲げたり、運用商品を開発したりする。 それでは、「市場が効率的でない」とすると、アクティブ運用は有効なのか。また、株式市場そのものは「効率的」であるのか、否か。 面倒だから、まとめて答えてしまうと、現実の株式市場は「効率的」にはほど遠い。しかし、だからといって、アクティブ運用が有効だと言える保証はない、というのが答えだ。 最近、テレビやWEBに頻出している山崎元氏。彼の書いていることは、読みやすいのでついつい読んでしまう。読みやすいというのは、活字でこみいった文章を読みたくない私にはいたって大切なポイントだ。書いてあることが、さほどたいした事がなくても、アメリカンコーヒーのように何杯でも飲めばいいわけで、そういう点で山崎元は適度な情報量と、読み手にあわせた要約度で便利させて貰っている。実は、楽天証券をメインにしているディトレーダーが多いと聞いたので昨年から証券各社のソフトを試す中で楽天証券の証券ソフト「マーケットスピード」を中心に株式の売り買いを体験した。実は、もう飽きてきたのだけれども色々勉強にはなった。実のところ、この楽天証券提供のソフトは、売り買いを続けているかぎり無料で使えて、その割りには高性能なソフトだ。ありていに言って、マーケットスピードで売り買いした銘柄はすべて利益を確定できた。ほぼ連戦連勝で、日本海海戦なみの圧勝で終始している。いや、実は一件だけ例外があって、唯一4万円ほど損をしたのがある。これはヤフージャパンなどのポータルサイトで登場する投資顧問会社の推奨銘柄で、試しに購入してから一度も値が戻らない。そこで4万円の利益を他の銘柄で確定した瞬間に、売り切った。プラスマイナスゼロである。こういう離れワザが実現するのも、楽天証券提供のソフトの優秀さゆえである。では、べた褒めできるのかといえばこれほど素人の私に証券取引で圧勝を演出してくれているにもかかわらずNOだ。理由は、色々ある。楽天証券経済研究所客員研究員という、いかにも怪しい肩書きをお持ち合わせである山崎元氏のシリーズ「ホンネの投資教室」最新掲載第54回で、山崎元氏が裏声で語っているが、まだまだ素人が喜ぶほどには株価推移を総合的な資産形成の「具」として位置づけるほどの成熟度ではない、ということなのだ。たしかに、「マーケットスピード」の無償提供は凄い。あの200万円を元手にして、180億円だかを稼ぎ出したBNF氏などの動きをみているとこれまで機関投資家などに常に悲哀を味あわされてきた素人投資家が、ついに反撃の拠り所を与えられたというぐらいの印象は、ある。プロのファンドマネージャーからは、蔑視されようと現実に、稼ぎを叩き出せているのならば、それは零戦が太平洋戦争端緒期に連戦連勝の模様を呈していたぐらいの事態にはあるのかもしれない、と思う。確かに、さまざまなパラメーターが整備されており、使い込めばファミコンや、繁華街のゲーム機並に使い込める手練のお兄ちゃんには大手のトレーダーも瞠目する域の跳梁を可能としているようだ。ほぼ瞬時に株式介入ができる。ここまでは確かに現実のものだ。しかし、どう考えても「投機性」が払底しないのだ。また、証券各社のソフトというのかポータルサイトでの格差も酷い。楽天証券で連戦連勝の私も、マネックスの買い物では、全敗だ。これは不思議としか言いようがない。同じ銘柄を購入しているのだが、なぜかマネックス証券で購入すると負けてしまう。(いま、マネックス証券の口座へ投入した資金は、すべてインド株投資信託に変えてしまった。おかげで好調に資産形成してくれてはいる。マネックスで損をしたものを、楽天証券で取り返した。操作性の悪さというものは、予想外に大きいファクターだ。)それに、この「マーケットスピード」のソフトに依存する株式投資をはじめとする、個人の資産運用環境というものが実に怪しく思えてならない。早い話、まともに海外旅行もできないではないか。比叡山の住人である、私にしてすら関西電力が光ファイバーをおかげさまで提供してくれているので成り立っているわけだが、大阪の実家ですらもはや我慢できないというほど依存度が高い。これで韓国や、上海へ少し遊びに行こうなどという気分になるまでには通信環境は、まだまだ整備途上という気がする。いや、そのレベルの話ではない。ズバリ、「マーケットスピード」のデーター解析手法そのものが、まだまだ新開地という気がする。あの昭和30年代、水道完備ガス見込みという歌があった。とてもとても、避暑地のような涼しい使い勝手とは思われぬ。(個人的には、カブドットコム証券の「カブマシン」の方を、初心者にはお奨めしたい。ただし障害情報多発である。恐くて使えない人もいる。)数年後には、はたしてどんな様相になっていることだろう。
2007年05月09日
コメント(0)
女性自衛官がわいせつ被害で提訴 同僚からわいせつ行為を受け、相談した上司にも退職を強要されたとして、北海道内にある航空自衛隊施設所属の女性自衛官(21)が国に対して約1100万円の損害賠償を求める訴えを8日、札幌地裁に起こした。 訴えによると、女性自衛官は昨年9月、夜勤中の男性自衛官(32)に呼び出され、施設内で暴行やわいせつ行為を受けた。上司に相談したが、男性自衛官を異動させるなどの措置をとらず、ことし2月には逆に退職を迫られ理不尽な扱いを受けたとしている。 女性自衛官は体調を崩し、3月に機能性胃腸症と診断された。2月に強制わいせつ容疑で男性自衛官を警務隊に告訴した。 提訴後、父親(48)らが記者会見し「尊厳を取り戻すため戦いたい」との女性自衛官のコメントを読み上げた。 女性自衛官が所属する施設の広報担当者は「刑事告訴を受け、警務隊が捜査している。退職強要についても部内で調査中」としている。[2007年5月8日19時49分]なんだ、なんだ。安倍が、慰安婦問題でアメリカに卑屈にも頭さげてきただけでも腹立たしいという今日この頃。一体なんなんだろうねえ、この女性自衛官についている弁護士て。なにが1000万円だよ。せめて慰謝料の数億円か、取れないまでも請求してみろって。国家賠償請求でもぶちかまして、防衛省だか庁だかのえらいさん一度辞任させるぐらいでないと半島系からまた何言われるかわからんぞお。さっさと調査すませて、網走でもなんでもほりこんで強制労働させちまえよ。さもないとどこかの半島系圧力団体あたりに、「やはり日本の自衛隊にやあ、ご近所に慰安婦小屋がないと治まらないんだ」って、皮肉いわれかねないね。たしか去年ぐらいの防衛費総額は表だったところだけで4兆9千億円弱。うらに隠れ防衛費は、実のところまだまだゴロゴロあるはずだ。こんな金喰い虫が、日本の国家安全保障をまっとうできるなど、個人的には全然思っていない。そもそも窮迫する財政に、被虐的なまでにアメリカへ。貢にみついで、まだそれを背負わされている国民のスネは骨がみえて骨粗鬆症だってえの。そんなこんなのドサクサに、女性自衛官への未払い慰謝料請求支払予算まで滑り込ませて、国民をあてになでして貰っちゃ絶対にこまるんだから。そんなマネは、絶対に承知しないからなあ。それとも、いっその事。実戦配備された戦場で後から女性自衛官らに金的を狙撃して貰ったらどうだ。他国の女性兵士ならばやりかねないだろう。
2007年05月08日
コメント(0)
7時20分台に、突然自宅や携帯の電話が鳴り出した。いろんな知人から、7時30分からの「クローズアップ現代」を見て欲しいという声だ。なんだ、なんだ。(うすうす分かったのは、どちらもパソコンを使われたことのないムキのオヤジさんたちだ。)ブログについて、取り上げるのだという。まあ、NHK受信料は払っていないし内容には興味がないのだけれど、知人の頼みだというのならば仕方がない。ちょっと、苦労して裏ワザ使ってNHK番組をみた。なんだ、この程度の話で俺に意見が聞いたいっていうわけか。善良なる知人たちには、申し訳ないが自分はWEBのコンテンツをすべて「自分都合」で積極活用をしてきのは事実だが、間違っても他人さまのためになにかを日記に書いているわけでもないし、ましてやアルファブロガーを目指したことなど唯の一度もない。自分が楽天日記にやってきたときに、イメージしたのは敬愛する殿山泰司のあの豪快なエッセーだ。あの文体の再現も、真似も到底自分にはできないから、せめてあの人の文体のエスプリつうか、気分だけは再現したいと思ったのだ。なにせ、殿山が死んじまって氏のエッセーは、いまやもうどこでも読むことができなくなったから。しかたがないので、読みたいようなエッセーを自分のために自分で書こうというぐらいの気分だろうか。いまごろ、「アルファーブロガー」だとか、「格付け」だとか笑わせる。こちらは、そういう枠組みにおさまらないために日々、くだらないログを多産しているんだから。ほっておいてくれ、ってものである。そもそも、93年時点でパソコン通信をやらかしていて。あの頃のログ多産家たちは見事にインターネット時代に散開している。彼らが、濃密な時間を提供してくれたから、ネットでも何の不安もないのである。こちらは、もう15年近くログをタバコの煙のように吐き出して見事に自己完結している。まちがっても企業や、テレビなどのヨイショのためにこのカキコ量産日課を、折り合いつけようなどと考え出したらとっくに頓挫していただろう。「だまって毎日!半年!ブログをかけ」だって、笑っちゃった。半年ブログ書いてプロだったらばさあ、楽天日記は、プロだらけなんだっていうんだよ。なんだなんだい、企業ヒモつきライター願望の坊や達が。そろいもそろって茶碗もって箸もってさ。みっともないったら、ありゃしねえなあ。せめて、15年ぐらいシコシコと産業廃棄物みたいなログひりだしてやろうって覚悟はないのかねえ。ところで、自分に電話してきたオヤジたち。いまNHKのテレビで出てきたアルファブロガーよりも、遥かに分野ベースでは第一人者だと思えるのにおかしいよなあ。あんな兄ちゃんたちの真似して、どうすんのって。今度電話してきたら、意見しちゃろう。
2007年05月08日
コメント(4)
千葉真一は、まじめになにかやればやるほど滑稽だ。もともと体育会系で、抜群の運動性能が嘱望されてスター街道に登ってきたらしいのだけれどデビュー時代は、仮面ライダーのお兄ちゃんみたいなものだったから、まさか後年「仁義なき闘い」でヤクザをやるとは思いもよらない。そこは、やはり一本調子ではなく、結構もめたらしい。たぶん、大友勝利という役柄が、あまりにも飛びぬけて無茶だったからだろう。逡巡も、あって当然だ。不思議なことに、大友の役柄は当初北大路欣也に割り振られていたらしい。いまや秋葉原では、大友勝利のソフビ製フィギャーがあるぐらいだから、その存在感は圧倒的なものである。スクリーンで初めてみたときは、ミスキャストとは言わないまでも、やはりが思い切った「汚れ役」転戦に踏み切ったものだと思ったからだ。実のところ、自分の子供時代。あの大友のようなオヤジらに囲まれて育ったようなものだ。毎日、大阪でも乱闘があって、朝冷たくなって死んでいるオヤジが路上に寝そべっているのを横目で眺めながら小学校に通った。ああいうタイプのヤクザは、もともとが子供みたいなヤカラばかりなので小学生には、いたって優しかった。小遣いをくれたり、祭り縁日で愛想したりしてくるのもいた。個人的には、最近のキレる中学生の方が遥かに怖いという気がする。大友のセリフではないが、淫売を露骨に蔑視しているのは武闘派ヤクザの矜持というものなのだろうか。そりゃあ、管理売春でシノギするヤクザは、ストリートファイター型でのしあがってきたチンピラとはいえ、しみったれているという気がしてしまうのだろう。なにせ、派手好きで根が単純で目立ちたいヤカラなのである。この気配は、わが父親にも地続きだと思う。しかし、「アラーの使者」にはまいった。原作者、川内康範先生も「月光仮面」「七色仮面」と爆発的ヒットしてしまい、視聴率が70%近く吹き上げてしまうとさすがにネタに窮したのだろう。
2007年05月08日
コメント(0)
「村岡がもっちょるとこ何売っちょるの。淫売じゃないの。いうなら、あれらおめこの汁で飯喰うとるんぞ。おお、親父さん。神農じゃろうと博打打ちじゃろうと、わしらうまい飯喰うてよ、まぶいスケ抱くために生まれてきとるんじゃないの。」杉山巡先生の日記で、野際陽子の話題が出た。野際陽子は、自分が小学生時代に小豆相場をテーマにした「赤いダイヤ」という人気ドラマの主人公を大辻司郎が演じる中でライバル役のヒロインを演じて一気に人気が沸騰したと記憶する。その後、「キーハンター」とか、正体の分からないサスペンスアクションに登場して千葉真一と所帯をもったが、のちに離婚。この二人は、とにかくさばさばした性格のように印象した。演技派とかいわれても、首を傾げるが子供心にやりたい事をやりたいようにやる叔父さん、叔母さんという風な受け止め方だった。「赤いダイヤ」での、野際陽子のカッコよさは小学生にも理解できるほどだ。東京オリンピック前に、外車で金儲けに狂奔する女性を演じるなど小僧には神様に見える。千葉真一なんか、小学生時代からヒーローでイスラム系の方がのけぞるような「アラーの使者」になって二丁拳銃をぶちかましていた。今おもいかえしても、ぶっそうなテレビ番組があったものだと思う。彼の真骨頂なのは前にも後にも唯ひとつ。彼の演技なのか、生地なのかは存じ上げないが「仁義なき闘い」の広島ヤクザの大友勝利は素晴らしい。最近は、顔もみたくないほど陳腐な登場が多いが、あれは素晴らしいと思った。映画で、彼が夏蝉のように騒がしく死んで行くところは喝采したくなったほどだ。
2007年05月07日
コメント(2)
ご存知万博記念公園の呼び物ジェットコースター風神雷神2で事故だという。ちょっと、度を越した「手抜き」という気がしてしまう。あのJR宝塚線(福知山線)の転覆事故にも程近い。あの千里万博丘陵で、あれだけ永年耳目を集めてきたあのダイダラザウルスや風神雷神2が、まったく無点検で操業されてきたとは驚くばかりだ。亡くなられた方が、滋賀の東近江の若い女性だという事だ。ご冥福をお祈りするしかないのだけれども、ご家族の悔しさは世の交通事故に較べてもあまりあると思う。自分も、娘をつれてあの公園の敷地には何度も遊びにいったものだ。北側の国立民俗博物館は、とりわけお気に入りの施設だった。堅牢度は、配慮されていたにしても所詮は部品の取替えを5年、10年で実行されるべきもので、その指導も監督も無かったとすれば行政訴訟ものだ。呆れてものが言えない。いつもの巨大災害に常連の桜井淳が、またソロ登場している。彼も、身辺にとかくトラブルを抱えているようだが、それでも「人災」だと述べずにはおれないようだ。これほど、明朗な施設の装備ですら部品取替え、交換、補修点検が実行されていないのだ。原子力施設内部の配管など、ガタガタだと風評が流れるのも当然だろう。いまや原子力施設では、震度4で金属配管が破断するなどの事例にことかかない。「もんじゅ」ナトリウム流出からもう10年だ。こんな行政の姿を眺めていると、いつ殺されてもおかしくないという気分になってくる。
2007年05月07日
コメント(0)
自分は、村上龍という作家が嫌いで興味がない。彼の芥川受賞作を読んであまりの退屈さに呆れてしまった。以来、書店で平積みされている彼の著作を購入したことは一度もない。当時、嫉妬とかコンプレックスで、村上龍を悪しざまに言った人は案外少なくて、理由はよく分からないが、ただただ文学作品の供給者として、決定的に相性のレベルでわたしにとって噛みあわなかったのだろうと思う。坂本龍一とか、みな同じで名前を聞いただけでまずネガティブなイメージが湧いてくる。つまり、偏見が先に立つ。ところが、8年ぐらい前からJMMというニュースレターを出しているので自然と彼らの仕事の片鱗が見えてくる。少しは、読むことが増えてきた。時事批評のようなものばかりだから、まだしも読みやすいとは言える。しかし、村上龍の書いているものが、一番読みづらい。たぶん、論旨ではなく論点や目線が完全にズレているのだ。これは良し悪しではなく、生き方の違いなのだから、どうしようもない。そんな自分なのだけれど、いまMSNで動画配信されている「龍言飛語」という彼の登場する語りを聞いてみて驚く。なんだ、俺と同じようなことを考えているオヤジじゃねえか。少なくとも生理的な感覚では、この時代に村上龍のような高額所得者と自分のような低徊自営業者とが一致しているものが多いのは、事実として直面してみると結構面妖な気がする。たとえば、例の向井亜紀の代理出産問題なんかだとボソボソと村上龍が言う。要するに卵子にこだわって他国の女の腹をカネで買ってまで実子にするなどふとどきだ。それぐらいならば、国際養子でも取って他人の子を大切に育てるぐらいの覚悟がないのか、という論旨だ。これは、同年輩のオヤジ同士なのだろうか。感覚的に一致する。だから、どうなんだと言われると困るが、あの村上龍と自分が同じような意見をいくつか持っているらしい事に心底驚いた。
2007年05月06日
コメント(0)
自分は、ケチな癖に派手な衝動買いをしばしばする。要するに頭が良くないのである。20代で、JBL4331を購入したときにはその愚かさが親族一同に鳴り響いた。なるほど、間抜けというにも余りある。つくづく自分の器量というものを思い知ったかぎりである。なにしろ当時、放送局ぐらいしか購入しない水準のスピーカーだ。ジャズ喫茶でも置いている店がなかった。このあいだHARD OFFに出向いたら、中古スピーカーとして後継機種が並んでいた。中古機でも100万円の価格がついていた。それはともかく、この性癖で常に派手な衝動買いをする可能性があるから現金を持たせてはロクなことがない。放置しておくと、そのうちにまたノートパソコンでも購入するおそれがあるのでそんな自分を封殺するためのメデアを捜していた。あった。これは、買い頃だろう。120GのポータブルHDだ。これは、意外にその潜在力を見抜かれていないと私は思う。みなさん、子供だましのようなUSBフラッシュメモリーを日常で活用されているのではないか。実は、自分も持っている。エレコムの124MBというセコイ奴だ。それでも周囲のオヤジは、目を見張って驚いている。いや、彼らが遅れすぎているだけである。いたって不便だ。そもそも単位メモリの密度満足度を価格軸で比べると話にならない。1GB当たりの所要コストは多分1万円を越えるだろう。いや、購入時にはこれでも安く努力して購入したのだ。ところが、いまや120GBが実売レベルであるが11400円だという。つまり1GBが、95円で収容できるのである。こういうものを購入するには、迷っては駄目だ。速攻で買おうと思っている。なぜならば、いまあるデーターが、いつ破壊されてしまうか分かったものではない。それらの収容にかけてきたコストは、下手をすれば数百万円、見方によっては数千万円かもしれない。自分なりに相当な生涯経費を蕩尽して集めたものばかりである。それを瞬時に破壊する可能性のあるメデアに収めては置けない。バックアップをとるにしても、DVDはとかく使いにくい。しかも、このポータブルHDはちょっと頭をひねれば相当凄みのある武器になる。ひらに考えれば、ただのデーター保存倉庫だ。これではインパクトがない。眼の肥えたこの日記の常連読者の諸兄が鼻でフンとあしらって御仕舞いだ。せっかくわたしが提案するのだから、当然衝撃の生活提案が加味されていなければならない。このHDに4~5種のフォルダーを作る。そのフォルダーの構成は、こんな風でどうだろう。まず、使い慣れた通信ソフトをはじめとするIT系の環境設定だ。むろんMSは、あの偏執狂的な金儲け主義者のビルゲイツの会社だからして、OUTLOOKやEXCEL、WORDを収容はできない。だが、自分が好む以下のメニューだったら収容できるではないか。☆Becky!☆Thunderbird☆Open Officeこれだけでも、ピーンと閃く方はこちらの日記の巡回者には相当多いと思う。そうそう、余裕の才能のある方ならば、ファイル管理ソフトから、ファイル転送ソフト、そしてバックアップ用の各種ユティリティ、さらにシステムバックアップや、CD/DVD複製ソフト、高度技能者ならば、暗号化するとだって楽勝で収まる。これぐらいほりこんでもフォルダーひとつだ。わたしはあの☆MarketSpeedをインストールするつもりだ。さて、残りのフォルダーだ。ご存知、画像大好き人間のわたしなので、画像収納用にフォルダーがひとつ。そして、バックアップ用のフォルダーをひとつ。これらをすべて収めてもおそらく120GBでも、しばらく余裕だろう。来年は、240GBぐらいのも発売されそうだ。どうだ、DELLのノートパソコンを13万円も支出して購入して、あの面白くもおかしくも無いビルゲイツの資産に寄与するのもシャクである。例によって例のごとく、VISTAなどにまた騙されるぐらいならばHDでしばらく静観しながら、現有のパソコン環境を整備するほうが余程精神衛生上良さそうだ。
2007年05月05日
コメント(0)
劇団四季なんて、贅沢な観劇はせいぜい4、5回ぐらいしか通えていないが同年代の服部良子が、癌で他界したのは情けない。まだまだ頑張って貰える年齢だと思うものを。「キャッツ」は、それでも2度も観た。あれは中々馬鹿にしたものではない。はまると病みつきになる。カッパえびせんじゃないが、また観たいと思う。あれだけ、大勢ステージにあがってくる俳優が多くてもなぜか自分の視野に飛び込んでくる人は、どういう理由でなのだろうか。決まっているのが不思議だ。なにせ、自分はダンスもバレーも音楽にも疎いので単に視覚的な刺激だけで反応しているのだろうと推量するが、「キャッツ」でも「コンタクト」でも林下友美が気になって仕方が無い。もう退団したのだろうか。とにかく、身体は労わって長持ちさせてもらうことだ。日本の劇団で、まともに商業ベースにのり維持できているのは四季ぐらいのものだろう。なにかと毀誉褒貶も多いようだけれども、継続は力。立派なものだ。しかし、それというのも劇団員個々の自助努力にかかっているのではないか。
2007年05月05日
コメント(0)
この連休、新しいバイクも手元に届いたので少し走り回ろうなどと考えていたのだけれど、ついに出るのを止めた。お金が無いというのは、今に始まったことではないが、いかにも貧乏人ながら、最近手元に多少の現金はあって、なまじ持ちつけないと無駄使いするので東レの株をまとめて買ったりして、とりあえず小旅行する金に困っているわけではない。ようするに疲労回復に集中することにした。何も考えずに睡眠を取る、というのは意外に実行が難しい。今回は、とりあえず何も考えずに横になっていたら寝つく、寝つく。もともと寝つきはいいのだけれども、昼間でも夜でも相当寝ることが出来た。ちょっと頭もクリアになった気がする。明日から、懸案のテーマに手をつけようかと考えている。意欲の喚起は、なかなか金では買えない。
2007年05月04日
コメント(2)
――フリーターや非正規社員などからの相談を通じてわかる、今の若者の現状とはどのようなものでしょうか。私はフリーター全般労組、個人加盟のユニオンなどを通じてフリーターの人々と付き合うようになりました。実態は労働者派遣なのに、請負契約を装うことで企業が雇用責任を免れる偽装請負、偽装雇用の事件を担当してますけど、その部分の若者の現状が一番ひどいですよね。日本は何でこんなになっちゃったのかなってぐらい…。ちゃんと雇用関係になっていないで、月に10万~15万円とか手取りでもらって、どうやって食べてるのかな、と。しかし、それでも安定した職がある人はまだ「マシ」で、スポット派遣といったもの広がっています。数百万人のフリーターとか日々雇用・短期派遣の人たちの実態が一番ひどいにもかかわらず、我々弁護士のところにはなかなか相談に来ないんですよね。というのも、彼らはお金を持っていないですから。行こうと思ってもできないんです。相談だけなら無料のコーナーがあるので、是非利用してほしい。冗談じゃないよ。ニートだのと経済社会や市民から酷評され、蔑視されているような社会階層のフリーター諸君が、どうして高給取りのエリートさまである弁護士に報酬まで貢がなけばならないのだ。それは、どう考えても「往復ビンタ」みたいな話だね。無料相談コーナーだって?自分は、これまで弁護士の無料法律相談とやらを経験したこと。何度かあるが極めて満足度が低いものがほとんどだった。相談料を支払っても、ロクなアドバイスは貰ったことがない。顧問料を払っても、デタラメやる弁護士はゴロゴロいる。理由は、きわめて簡単だ。弁護士というのは、「守り」には機能しても「攻め」には使えないカードなのだ。そんなこと世間では常識なのだよ、ニート諸君。悪いことは言わない。間違っても弁護士などに近寄るのではない。
2007年05月03日
コメント(0)
あまり日本人好みの風貌ではないが、三作も見続けていると慣れてくる。ご存知スパィディーの恋人、クリスティン・ダンストンである。彼女は、あの94年の怪作「インタビューウィズヴァンパイア」の少女吸血鬼の長じた姿なのであった。どうしても、そのジャガバターのような顔立ちであるからして、なかなか日本では売れていないようだが、個人的にはあまり嫌いではない。どことはなしに彼女結構気立てが良さそうな印象がしてしまう。というのも、蜘蛛男3作目では失意の舞台女優役だからだろうか。しかし、このシリーズ1作目から観ていて2作目はまずまずと思ったが、この3作目はもう湯水の様にお金を使えば強引にファンを動員できますというお手本のような仕上がりになっている。「ゴジラにキングギドラ、ラドンにモスラもおまけしときますぜぇ、坊や」みたいな話になってきた。
2007年05月02日
コメント(2)
アレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥ監督は、存じ上げなかったがメキシコ人で多才な人らしい。ただ彼の日本人についての取り上げ方は皮相で所詮は滞在中に見聞きした人間関係に、先入観を加味したものを越えていないと印象する。チエコ(菊池凛子)にリアリティを感じる人は、映画観客の心やさしい人達に多数みられる。だが、哀感過多な映画づくりに、踏み込みの甘いまま延々と続けられる「思わせぶり」なメッセージもどきにうっかりと騙されかけそうになるが、そこにはまるで内実がなく希薄で貧困な「語り」とその多くは「ハッタリ」である。全編を狂言廻しさせるライフル銃にしたって、我々の経済社会で成功者とおぼしき役所扮するビジネスマンが、モロッコで現地ガイドに呉れてやるという、実に偶発的な思いつきとおぼしき作為に依存する怪しい蓋然的なもので、その妻が都心の高層ビルで猟銃で頭を撃ちぬく自殺を遂げるなどとされればもう三流のサスペンス小説並。到底日本の今を寓喩するにたる挿話とも思えず菊池凛子の演技に空漠としたものを仕込むためのあざとい装置話に過ぎないと印象してしまう。冒頭で描かれる少年達の兄弟愛も腕力で描かれているだけで、バスを試射の標的にするなどというばかばかしい話に怒りが生じなかったとすれば日本の観客の善良さゆえだろう。出来事は、次々と派手だから趣向に誘われて最後まで期待させられた人も多かったと思う。だが、期待に添えるような映画ならではの感興はついに与えられずに終わる。
2007年05月02日
コメント(0)
ある社会活動で、年齢階層縦断的なメンバーが出来た。地域のボランティア活動のようなイメージでご理解をいただければ結構。18歳ぐらいの御嬢さんから70代のアーティストまで。それぞれ個性的で、インテリジェントな軌跡をお持ち合わせである。社会的な関心度も高いし、読書量も侮り難く、まあ言ってみれば民度が高いのである。滋賀でもえり抜きの人品卑しくない、誇らしいし面子だと思えた。いや、高い学歴というわけではない。そういう意味の集まりならば、いくらでも知っている。それは、そうではなく何事かなしてきた、またはなしそうな面構えの人たちで意気投合したと思って欲しい。まあ、仮定の話だと思われるのならばそれでもいい。現実に、そういう稀有な結束が地域で形成されることもあるのだ。ところが、ある活動のフィナーレで意気投合して飲み会をやろうという事になって、はたまた二次会もと、とある大手のカラオケ店へなだれ込んだ。正直いって、愕然となる。盛り下がってしまうのである。実は、参加者はすべてとは言わないが相当歌唱力もある。いや、お上手過ぎる位抜きん出た人も多かった。無論、カラオケが嫌いだとか、音程が外れるという人はどんなサークルにも混じているものだ。問題は、そうではない。世代間ギャップというのだろうか、あまりにも隔絶しすぎて寄り付くシマがないというぐらいのものを印象した。当然といえば、当然なのだ。マイクを持っている人が、きちんと唄い込むほど座はシラけてしまう。とりわけ、焦るのは自分のようなポスト団塊組だ。三十歳代から下の歌は耳にしたことがあっても唄えない。これには結構、思うところがあった。世界は二人のために 作詩 山上路夫 作曲 佐藤 勝昭和42年 愛 あなたと二人 花 あなたと二人 恋 あなたと二人 夢 あなたと二人 *)二人のため 世界はあるの 二人のため 世界はあるの 空 あなたとあおぐ 道 あなたと歩く 海 あなたと見つめ 丘 あなたと登る *)繰り返しかつて佐良直美という歌手がいて、こんな歌を唄っていた時にジョークかと思って馬鹿にしていた。しかし極端なことをいえば、カラオケなどが登場することがなければ我々が、かくも寸断されているという事に気づくことも無かったかもしれないと思う。ここで「二人」というのは、三人目は要らない。つまり、「第三項排除」を積極的なものとして、謳歌してきた世代が成り立ちえて。ついに子をなし、いまマイクを握っているのだという気がする。昭和42年生まれの母親が、18歳の娘をなしていてその娘の唄が理解できないなどということは、至極当然のことなのであった。 日本国憲法 第3章 国民の権利及び義務 第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
2007年05月01日
コメント(1)
全42件 (42件中 1-42件目)
1