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サブプライムローン問題の本質は、さまざまな経済記事を読めば読むほど訳が分からなくなる。そこで、問題がどこにあるのか。どれほどの規模の問題なのか。それは今後どのような影響を自分らの生活に与えるのか。その目線は、どこに取ればいいのか。漠然と、そのような受け止めで少し「おさらい」をしてみた。サブプライムローン、サブプライム債についてまず基本から、どれぐらい焦げついているのかが気になった。不良債権という以上、優良債権との比較で真水部分はどれぐらいなのだろうかという発想が湧くのが素人だ。最近、この分野で注目された出来事は、6月末、米大手投資銀行のベアースターンズが昨年から運用していたサブプライム・ローン債権の投資基金(ヘッジファンド)が破綻し、価値がほとんどゼロになってしまったと発表されたことだ.なんだ、なんだ。「価値が、ほとんどゼロとはどういうことなんだ」と、普通は思うのではないだろうか。そもそも、サブプライムローン問題などという、洒落た呼び方をするから誤認するのである。「アメリカ発巨大不良債権問題」と、額面どうり代入すればことの悲愴さが少しはビビッドに伝わってくるというものだ。なれば、その不良債権規模は一体どれほどなのだろう?どうやら世界中が、大騒ぎするぐらいなのだからよほど大きいのだろうか?それとも、誰かがジョーカーを引いて、誰だか分からないということで騒ぎが大きくなっているのだろうか?謎は深まるばかりだ。 大手銀行の中でも、イギリス系のHSBC(香港上海銀行)は、住宅ローンの高リスク債の分野で不良債権が急増し、この分野で半年間に63億ドルの損失を計上したと発表した。日本では野村證券が、サブプライムのローン債券で損失を出したと発表している。勘弁して欲しいなあ。ユダヤ人の金貸しの上海香港銀行が、大損をこいたという。それもご苦労さまに、半年で60億ドルを越えると!規模がまだ拡大する可能性があるのだろうか。ロスチャイルド家の番頭らが、ババ引いたなど額面どうり信じ難いが、どうやら影響は甚大だろうと推量できる。やつらは、そのツケをかならずどこかに振るに決まっている。あの女性に関心の高いヴィダル・サスーンのご一統さんが髪振り乱して狂乱しているのならば、少しは信じてみてもいい。まあ、そんなことはなさそうだ。むしろ野村證券が、毒饅頭喰らった影響の方が大きいのかな、と疑ってかかる。邦銀がかかわる投融資は、サブプライムローンを組み込んだ証券商品とみられ、もちろん1兆円が焦げ付くわけでないが、米国の金融問題がじわりと波及する可能性がでてきた。また米連邦準備制度理事会(FRB)は世界的には約12兆円の損失もありうるとみている。「じわり」なんて、そんな生易しいものではないだろう。FRBの言うことなんぞ、まるで信じる気はないが、それでも桁は数十兆円規模を予感させる。ちょっと、背筋に冷たいものが走るというものだ。(8/10)欧州中銀、15兆円緊急供給・サブプライム沈静化狙う 【ベルリン=赤川省吾】欧州中央銀行(ECB)は9日、米国の信用力の低い個人向け住宅融資(サブプライムローン)問題を契機とした信用不安の発生・拡大を防ぐため、欧州金融市場に約948億ユーロ(約15兆4000億円)を緊急供給した。高リスクのファンドの解約申請や金融株の下落が続く中で、市場不安を緩和するのが狙い。ECBによる大規模な緊急資金供給は2001年の米同時テロで金融市場が世界的に動揺して以来初めて。米国とカナダの金融当局も協調する姿勢を示している。 ほら、もうこの調子だ。欧州中央銀行だけでも15兆円規模の機動的緊急措置で手当てしているじゃないか。まさか、日本銀行が動いていない筈がない。まず、FRBの声明が、さっそくおざなりだと割れてしまう。いったい、その「アメリカ発巨大不良債権問題」の規模は疑心暗鬼などというレベルではないのだけは、はっきりしてきたと思う。これは、日本でヒソヒソ話しているような規模の異変じゃないな。いってみればインド洋沖津波級の大事変だと断定していいだろう。米国の債券市場のBBBの債券の利回りが、6週間で2%上昇、20ポイント価格が上昇した。100円が80円になったのである。サブプライム債は51まで記録にあるが、もはや誰も買わないこの債券価格は、ゼロに近いものになっている。世界の金融機関は、約30兆円償却しなければならないらしい。おい、おい。だんだん物騒な話になってきたじゃないか?償却規模が、30兆円って日本一国が一年間必要とする国家予算ぐらいドボンかい?償却って、戻ってこないってこと?少しは働いて返そうとかいう発想ないんすかねえ?kaiser1さんちでも話題になっていた、超有名人の松藤民輔氏が「30兆円」って言い出したぜい。そうか、誰も買わないというのは焦げたとか、剥がして食うとかいうんじゃなくて、ぜんぶ炭になったと考えないといけないわけだ。米国金融恐慌は始まった。そして全世界、銀行株の暴落に始まることになった。ベアスターンとゴールドマンサックスが、その先頭を走っている。ゴールドマンサックスは資本全体の25%をサブプライムにしていると言われていることから、全世界の市場でゴールドマンサックスや大手のインベストメントバンクを救うために、40兆円の資金が供給されたと考える。世界に8000ほどある大手ヘッジファンド。その大半が20%から60%ほどの損を出している。そして全ての商品市場も下げ、原油も株式市場と同じ暴落の道を歩もうとしている。次に起きることは、商品市場の暴落、それに伴うファンドの破綻、そして取り付け、銀行、不動産会社の倒産に至る道である。中国銀行、米サブプライムモーゲージ債とCDOを計96億ドル保有2007年 08月 23日 20:27 JST [北京 23日 ロイター] 中国4位の国有商業銀行、中国銀行(3988.HK: 株価, 企業情報, レポート)(601988.SS: 株価, 企業情報, レポート) は23日、米サブプライムモーゲージ(信用度の低い借り手向け住宅ローン)債の6月末時点の保有高が89億6500万米ドル、債務担保証券(CDO)は6億8200万米ドルだと明らかにした。 減損処理に備えた引当金をサブプライムモーゲージ債について3億8800万元(5100万米ドル)、CDOについては7億5800万元を計上した、としている。 中国銀行(3988.HK: 株価, 企業情報, レポート)(601988.SS: 株価, 企業情報, レポート)の証券ポートフォリオに占める割合はサブプライムモーゲージ債が3.51%、CDOは0.27%という。なんだ、世界金融恐慌かい?それなら、それで最初からさっさと分かりやすく言ってくれよなあ。
2007年08月31日
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日経平均今年3番目の上げ幅、415円高の1万6569円(読売新聞) 31日の東京株式市場は、外国為替市場で円安が進んだことや、外国人投資家が買いの動きを強めたことなどを受けて、大きく上昇した。日経平均株価(225種)は410円以上も値上がりし、今年3番目の上げ幅となった。 日経平均の終値は前日比415円27銭高の1万6569円9銭で、今月14日以来の高水準となった。東証株価指数(TOPIX)も同40・02ポイント高い1608・25で、約2週間ぶりに1600台を回復した。 第1部の出来高は約18億4000万株。自分は、あまり楽天という会社に対しては全幅の信頼を寄せているわけではないが、こと楽天証券については結構口座利用者に対して正しいメッセージを流し続けているように思っている。彼ら楽天証券の上層から、表の楽天証券のサイトでは流さないような特異なメッセージを、直接口座開設者宛に電子メールで流しているように思えることがよくある。前にもご紹介したと思うが、楽天証券の社外からいろいろ呼んでくる先生方には割合率直な意見を言わせている。妙なバイアスをかけて、楽天マンセーみたいな講義をさせたりはしない。たとえば、東保裕之氏の講義は、楽天証券のサイトを探しても見つからないが、口座開設者には、こっそり電子メールで動画配信された講義を再録している裏サイトから提供したりする。そこでは、「楽天株は、買えませんね」などと平気で発言されている。今日のこの株価高騰についても、到底本格的な上昇などという見通しをそれら客員のアナリストは述べてはいない。客商売としての楽天証券も、口座開設者の懐具合を冷やすような危険な先読みを流せないという危機意識を、昨今の暴落相場に対して抱いているのだろう。私もそう思う。すでに投資信託は、すべて現金化している。なにしろ以前にも述べたが、2カ月で30%も含み益が沸騰するような金融商品は怪しくていかがわしいと思っていた。首を傾げていたやさきに、暴落の兆しが始まったので、全部叩き売った。一切の投資信託はホールドしていない。おかげで少し遅れを取ったものの、5月購入の投資信託などわずか数ヶ月で10%もの利益確定を行えた。これは下手なネット株取引者のアベレージよりも良好な成績だろう。しかし当分、投資信託は封印するつもりだ。また、株式投資はここに来られる方は誰もなさっていないのかもしれないが、長期投資など絶対にやめられるべきだと思う。まだ、まださがる。そう私は読んでいる。では、今日の反騰は一体なんなんだろうか?これは、テクニカルな一連の暴騰に対するディフェンス・ワークだ。つまり、暴落についてのさまざまなリスクヘッジ策が高度化してきて、複数の金融商品や先物取引、ヘッジファンドが定着してきていて、洗練の度合いも加速している。そういうさまざまな価格暴落時の対処策が、一定の時間をかけて効いてきたという事だ。ようするに高層ビルで窓ガラスを掃除しているクルーの腰に装着していた転落防止用のワイヤーが、足をすべらせた時にタイトロープのように落下する体重を支えているようなものだ。次は、バウンドしながらもう一層低いところに落下する可能性も濃厚にある。しばらく、株式などリスク系の投資実行は見合わせたほうがいいだろう。外国人投資家の資金が動いたところで、週明けの月曜日に売りに転じないとどうして言える。それぐらい、日本の株式市場は、短期資金の跳梁跋扈が日常となっている。短期資金の主力は、やはり地下社会の紳士たちだろう。
2007年08月31日
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こちらのブログでは、滅多に話題にしないが自分は日常猛烈に忙しい。仕事している時間の方が気楽なのである。炊事、洗濯、部屋の整理、仕事の準備などで朝から晩まで忙殺されている感じだ。食事時間など、規則正しいほうだと思うが雑用にかまけていると何を食べたか失念してしまうことも多い。滋賀に来てから外食に出向いたことは、ほとんどないので自分の食べるものを自分で世話せなばならないが、最近は手抜きしていてもやはり栄養のバランスは崩していないと思う。昨年の湖北では雪に閉じ込められた季節にみっちり部屋のキッチンで好きな煮込み料理やシチューを作り愉しんだのであるが、比叡山では厨房が非力でせいぜいベーグルを焼くぐらいしか気合が入らない。さて、結果的には一番手抜きしているのが部屋掃除と整理という奴だ。自分なりに、綺麗好きなのだけれども知らない人はゴミの山に住んでいるように思われるかもしれない。これがとんでもない間違いだと思う。自分の装備と持ち物には徹底した統合感覚があって、要らないと見切って判断したものはすべて二度と必要となったことはない。つまり持ち物は、機能と役務のある限り身辺に配されていなければならないという思想と生活を貫徹しているわけである。これに女手がはいるとロクなことがない。とりわけ、母親などの存在は最悪だった。意味の時系列での統合感覚を一切斟酌せずにいきなり捨てられたり、自分にとってはただの無秩序と思えるような「整理整頓」と呼ぶ破壊行為を仕掛けてくる。これがどれほど迷惑行為か、絶対に理解されない。大阪の実家と比叡山の距離は絶妙だと思う。大阪の実家は、とんでもなく広大な屋敷だが自分には興味も関心も湧かない。必要なものが、即座に飛び出して来ないような空間的な配置が我慢できないのである。掃除にしたって、手抜きをしているとはいえ、自分はアトピー症状を生来抱えているので無理して掃除してもロクなことがない。一日に何分か、せいぜい十分ぐらい少しづつあちこちを掃除して結果部屋を一巡していた、みたいな掃除が身体への負荷が一番少ない。部屋のほこりを荒々しく立ち上げるとアレグラ錠のお世話にならねばならなくなる。それでなくてもアトピー症状の負荷が高い自分などは、一日、二回以上シャワーをした方がいいのである。夏場は、三度でもいいぐらいだ。汗とハウスダストは、アトピー発症の引き金の筆頭である。そこで疑うのは、ゴミの分別収集という奴である。そもそも週に二回しかゴミの回収がないというのは不当な気がする。それならば自前の焼却炉で野焼きを復権させるべきだろう。実際、比叡山では堂々と野焼きされている家庭もある。それがまた、なかなか乙なもので枯葉などの煙は大阪時代になかったかぐわしさを与えてくれる。自治体が、おせっかいにゴミを集めて一体環境負荷が減るのだろうか。いや、そんな筈がない。狭い部屋にゴミの仕分けを強いられた我々は、おそらくこのゴミを規則正しく自治体のゴミ収集車へ搬送するために、相当無理を強いられている。これは立派に環境負荷を増加させていはずだ。やれペットボトルを洗えとか、仕分けをせよと強要するが、それもこれも自治体がゴミを一箇所に固めて一括処理しようという不思議な機制があるからではないか。これは裏返せば、社会への福利厚生というよりも利権の形成という風に思えなくない。ポリエチレン樹脂、ポリプロピレン樹脂など、空気のかたまりである。手元で燃やして土壌に戻しても年間数十グラムだろう。こんなものを高額のガソリンを燃やし、高給取りの清掃局員を何名も養いながら搬送するなど狂気の沙汰である。つまり、今の都市のゴミ循環はどこか統合感覚が狂ったまま爆走している印象があるのだ。地域の景色は、一件散乱するゴミも少なくなり美しそうだがこんな無理を重ねた美観は危ういと思う。
2007年08月31日
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中国株式市場が日本超え=好景気背景に時価総額で-英紙8月29日23時1分配信 時事通信 【ロンドン29日時事】29日付の英紙フィナンシャル・タイムズ(FT)は、株式市場に上場する企業の時価総額で、好景気が続く中国(香港含む)が日本を上回ったと報じた。中国経済の躍進ぶりが改めて示された形。 香港に本部を置く証券会社CLSAのフレイザー・ハウイー氏の試算によると、28日の終値ベースで中国市場の時価総額は4兆7200億ドル(約542兆8000億円)、日本は4兆7000億ドル(約540兆5000億円)だった。 最終更新:8月29日23時1分中国人社会は、なんでもありだ。株式市場の上場企業が、雁首そろえて時価総額で日本経済を抜いただの躍進しただのほっておけばいいと思わずにいられない。いま、躍進だとか、抜いたとか、騒いでいるのは株屋の手先みたいなヤカラばかりだろう。世界中から怪しげな真似をしてでもカネを寄せ集め、夜郎自大に経済規模の嵩上げをしなければならない事情があちらの国にはあるわけだ。太平洋戦争末期、日本の大本営発表で転戦だの、転進だのといっていたら負けてましたみたいなことはどこにでも転がっている。騒いでいるときほど怪しいと疑ってかかろう。まず、あやつらが輸入、輸入といっているが昨年2006年前年比20%もの増加でドイツを抜く7916億ドルの輸入規模を達成したみたいな威張りくさった統計を垂れ流ししていたが、現実にはその輸入統計の相手先国が、な、な、なんと「中国」だったりする。つまり、あやつらの輸入統計の9.3%は、733億ドルもの規模になるが、よりによって嵩のわりに高額な製品、つまりハイテク関連のディバイスやら集積回路を「いれポンだしポン」している花電車なのである。われわれは、実のところで田舎芸者のストリップショーをみせられているようなものだ。また、中国側の企業を中心にいたわりの眼でみても、どうやら国内企業から購入すると課税されたりするが、輸出すると補助特典みたいな戻り税が企業振興で「下駄はき」させて貰えていた時期もあった。当時は、といってもついこのあいだ迄だが、利益なしで輸出しても政府系の輸出奨励で15%も利益保証されたりしたらしい。こんな制度特典があるのなら、日本の埼玉や東大阪の企業などとっくに息を吹き返しているだろう。だから、あやつらはややこしい手続の事務費などを嫌って、ついつい特典策、奨励策に慣れ親しんで近隣の拠点へ国外脱出させておいて、再輸入するなど平気のへいざ。得意技なのである。近隣拠点といえば、代表格は、香港だろう。こんな連中の、いたって怪しい経済統計と日本の実勢を比較して一喜一憂するなどばかばかしい。アダルトビデオをみながら、自分の娘を疑っているようなものだ。逐一仕組まれた記事に素直に反応して騙されるのはやめよう。衛星軌道からみる中国大陸の疲弊ぶりをじっくり眺めれば、多少の感慨も湧くというものだ。
2007年08月30日
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活動費の領収書を5重計上 玉沢元農相、政治倫理審査会長を退任へ2007年8月29日 18時40分 自民党の玉沢徳一郎元農相(自民、比例東北)が代表の自民党岩手県第4選挙区支部が、2003年の政治資金収支報告書に添付した政治活動費の領収書の日付などを書き換えて重複計上し、中には印刷代金を5重に計上していた可能性もあることが29日、分かった。 玉沢氏の事務所は「領収書の改ざんがあったようだ。なぜこんなことになったのか担当者から早急に聴取して訂正し、議員が謝罪する場を設けたい」と説明している。 玉沢氏はこれを受けて衆院政治倫理審査会長を退任する意向を示した。 同事務所によると、盛岡市の印刷会社発行で、報告書に添付した領収書のコピー10枚、計377万5000円分について通し番号が重複するものがあった。番号は3種類で、もともと3枚だった領収書の日付などを書き換え、10枚あるように見せかけた疑いがある。 このうち通し番号が同一の5枚は、金額がいずれも36万7500円で文字や印鑑も同じ。日付や支出名目を書き換えたとみられ、5重計上の可能性があるという。なんだ、国民に迷惑をかけただ?政治倫理審査会長さまだっただと?笑わせるではないか。れっきとした詐欺実行だろう。さっさと自首して、お縄にかかれ。迷惑だの、なんだの。ゴタクはいらん。警察はさっさと捜査して、検察に送検せんかい!
2007年08月29日
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司馬遼太郎で、400人当ブログにお越しになられたが翌日舛添要一では、見事に激減してしまった。メデア頻出の舛添だが、結局ヒラの庶民にはどうでもいいおっさんでしかないというのが先刻お見通しなのだろう。それはそれで、私は皆さんのアクセスに対して正直に敬意を表する。俗物は、所詮俗物なのである。舛添要一が、話題になり始めたのはあの電波怪獣こと、田原総一郎の「朝まで生テレビ」80年代の「粉かけ芸」だろう。思想的言辞や論評が、所詮はプロレス、K1と大差ない怪しい格闘技だと露骨にばらしちまったという功労以外に、あの番組はこそっと政治家志向の俗物を大量生産するという仕込まれた任務があったのはミエミエだ。大島渚や、小田実、野坂昭如などという排気ガスのかたまりのような出演者があけがた怒鳴りあう時間まで取り決めして罵倒をくりかえすというふざけたショーで、華々しく登場した舛添要一は、当初メンバー中でも出世頭ということになるのだろうか。選挙分析から、国際政治へのコメント、毎度怪しい論説で支離滅裂ながらお骨の生焼けのようなツラをクイズ番組、時代劇ドラマと、頻出しては茶の間に喰いこんでいった80年代だった。それでも、小沢一郎のゴマスリ政治家とヘッドスライディングした栗本慎一郎や、自社さ擦り寄りの高野孟、松下政経塾押し出しの高市早苗らに較べれば晩成型になるのかもしれない。「トーショーヘイを褒めたいわけではないが、政治家は百万人を殺せるぐらいの神経の持ち主でなければつとまらない」だの、東大を逃げたのは「東大のトーショーヘイや李鵬から、殺される前に逃げた」とか、言っていることに矛盾だらけのご愛矯。なんだ、トーショウヘイに殺されるのを嫌がってたのかいな、と吉本興業的突込みをいれたくなろうものである。この男、東大、東大という。ところが、八幡高校でトップの秀才ながらその素性がさっぱりわからない。六ヶ国語を話せるとか、パリ大学、ジュネーブ国際政治研究所での活躍とか、西ドイツの大学で講義を受け持ったとか、派手な三味線は大体本人の自作自演だといわれている。だれも確認追跡したフシがない。実は、北九州市の出自には相当コンプレックスがあるらしく、マスコミに取材されても丁寧に答えないか、もしくははぐらかすのが常だ。舛添の実家は、ひとさまの軒先を借りて野菜を並べては売るという、零細極まりない八百屋だったらしい。ポケットに小遣い銭があったためしがなく、母親と四人の姉を残して父親が他界したのは、舛添が中学生の頃だったという。そのあたりを耳にすると、自分には姉こそなかったものの、この自分と大差ない貧困極めた生家でよくぞ学業を遂げて東大へ栄達を遂げたと舌をまくばかりだ。家族の結束も堅いらしく、舛添がスキャンダルを撒き散らすたびに、姉たちが手分けして地元九州で週刊誌や雑誌を書店まわりして買占めしてゆくという。ありとあらゆる制度特典に通じ、授業料は徹底して免除を受けていたらしい。企業奨学金のマニア的なまでの調達で今日の厚生労働大臣への道は開かれたそうだ。よほど頭が良かったのだろう。軽佻浮薄な外貌に似合わず、徹底した苦学生で階段を上り詰めてきたという点では、滋賀の山下元利と通じるものがあるように思う。舛添を政治学から保守政治の便利屋稼業へ仕向けたバネは、一体どこにあるのだろう?それは、やはり学問で大成して東大教授になるという夢を挫けさせたことが大きそうだ。彼よりも遥かにノータリンと思われた人物を、彼の学部の教授が後継者に選び、あえてヨーロッパへ語学習得の転戦を強いられた。刻苦勉励の果てに、戻った東大で助教授にも恋々とせず、席を蹴って飛び出した。ここより先へ、ここより先へとたどり着いた先が、厚生労働大臣。得意の絶頂というべきだろう。 波も荒けりゃ 心も荒い 度胸一つの 玄海男 恋も未練も 波間に捨てる それが男さ それが男さ 花と竜 ごんぞ家業も 生き抜く俺は どんな苦労も 承知の海だ 胸をたたいて 青空にらむ それが男さ それが男さ 花と竜 竜の彫り物 伊達ではないぞ 命捨て身の 若松港 俺の死に場所 ここぞと決めた それが男さ それが男さ 花と竜
2007年08月28日
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舛添要一が、入閣をしたらしい。積年の狙い澄ませた行動だろうけれども、国際政治学者で外交防衛委員長歴のある男が、厚生労働大臣とは安倍官邸サイドの口封じ策という印象もわく。彼の後ろ盾、パトロンはずばりさきの自民党参議院幹事長、青木幹雄だろう。いつも最中を喰っているような青木では、何を言っているのか分からない。青木自身も、政治的手腕はともかくも、自分の弁がたたないのは自覚があるだろう。ゴーストラィターならぬ、ゴーストプロンプターに舛添を活用するというあたりで利害は相当以前から一致して、実のところ舛添は、青木の子分のようなものだと見ていいのではないだろうか。青木幹雄は、ご存知竹下登の秘書だった人物。自分の住んでいる比叡山には、他界したあの山下元利が地盤にした地域だ。歴史の表には、出てこないが山下は、竹下登のライバルほどの位置にいた政治家ではなかったのだろうか。個人的には、田中角栄の覚えよかった。よく語られる二階堂ともども孤塁を守り続けた印象も強い。一方で、竹下登が田中角栄の築いた巨大軍団をまんまと手中に収めて、大ボスになりおおせたに比して、一時代に田中角栄の新任を一身に集めていた山下元利が、実に派手さのない生涯に終始したのは何故だろう。滋賀と島根を較べて、よく似たもので土地柄の差とは思えない。宍道湖がよくて、琵琶湖が悪いというわけでもないだろう。山下元利は、秘書にはカネを扱わせなかったらしい。もともと、東大法学部、大蔵官僚。主税局国税一課配属。配属先の課長は、ほかならぬ池田勇人だ。シベリア抑留の経験もあるらしい。戦後、復帰しては神戸税務署長などを経て、国税庁などを歴任している時代に、堤康次郎の相続問題で田中角栄に堤家へ推挙されたらしい。あの有名な堤家の相続問題の心臓部に関わる人物であることは間違いないだろう。その山下元利が、秘書に辛かったらしい。政治家秘書の大物のあいだでは、山下元利が秘書に警戒心が強かった理由を密かに漏らしていたらしい。ずばり、鈴木宗男だという。鈴木宗男は、中川一郎の秘書あがり。中川一郎が、鈴木宗男を信頼するあまりカネの動きを託し過ぎた。政治事務所はおろか、中川派の収支は鈴木宗男が総攬していたとみてよいだろう。鈴木宗男という、恐るべき反面教師の存在が、山下元利をして秘書にカネを託すことを躊躇させたという。結果、山下元利は竹下登の強引な「集金活動」の規模を踏襲することは不可能だった。いきおい田中派の若手は、雪崩をうって竹下登の軍門に下ったというのである。いうまでもなくそのカネを一手に預かっていた人物のひとりこそ、青木幹雄だろう。そのポジションが、いま舛添要一をして厚生労働大臣に送り込ませしめている。山下元利は、なによりも大蔵省OBの実力者。しかも、奉職した先の直属の上司は、あの日本高度経済成長の舵取りを果たした池田勇人である。竹下並とまでは言わないまでも、宍道湖と琵琶湖ほどの差をつけずとも山下元利には、田中派を束ねる程度のカネの流れは演出できたはずだと言う声もある。ところで、舛添要一の元秘書に消防庁長官秘書経験者がいた。いたというのは、舛添が斬ったからだ。その人物は、自民党大阪府連でもとかく噂になることが多かった。週刊文春も狙いさだめて追跡していたらしい。舛添が身辺にいたく配慮していたのは立派だが、ますますボスの青木幹雄のリモコンからははずれられないとの観測意見もある。
2007年08月28日
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F86Fという戦闘機は、確かに音速もでない昨今では旅客機よりも遅いというウソのような戦闘機だが、激戦の朝鮮戦争ではソビエト戦闘機ミグと激しい干戈をまじえ、映画でも頻出していたのはある年代のご同輩には記憶に明るいところ。早い話、東宝の「ゴジラ」や「ラドン」では、これが出てこないとおさまらないというほどの認知度高い戦闘機だった。70年代では、すでに訓練機としての利用が中心だったのかもしれないが現役の航空自衛官らが、仮想敵へ向ける憎しみをこめて民間旅客機を標的にした追尾をしかけて追突するというような惨事は、夢にだも思い至らなかった衝撃的事件だったと思う。世に雫石航空機事故は、昨今ネット上で軍事おたくの焦点が呆けた論評しか留めず、当時の衝撃度はいま風化させられて微塵も感じられるものではなくなっている。だが、当時極左の論者に平岡正明という人物。彼の著書で「あらゆる犯罪は革命的だ」という物騒なタイトルの書があり、戦後犯罪史を独自の視点でトレースしてゆくという試みを実行していた。その中に、この雫石航空機事故の犯罪としての「革命性」が言及されていたと記憶する。それはそうだろう。なにしろ平和憲法下、自衛隊員が本来ならば守るべき尊い国民の生命を乗客162名即死させておきながら、平然と隅太茂津一尉が「一々ほかの民間航空機のことを考えていたのでは訓練はできぬ」と発言したことのインパクトは当時、極めて大きかった。隈一尉もある種の確信犯なのであったことだろう。軍人という存在は、常にこの種の確信犯でなければ、成り立たない。そういう存在だと思ったほうがよいだろう。彼は有罪判決を被りながらも、反省の弁はついに国民の耳には入ってはこなかった。判決にはただただ不服として自衛隊ともども控訴を行い実刑判決を課せられるまで、意思を貫いたと思う。ここをして、極左論者にしてすら、革命的な存在とまで顕彰されてしまうわけだ。つまりは、自衛隊の反国民性を際立たせてくれたという功労を指すのだろうか。革命的なまでの犯罪性というわけなのだ。教育大付属池田の惨劇、あの宅間守の事件を遡ること20年も以前の話である。日本人を占領していた軍部 司馬(遼太郎) 私はね、戦後社会を非常にきらびやかなものとして考えるくせがあるんです。これは動かせない。それは自分の体験からくるんですけれども、私は兵隊にとられて戦車隊におりました。終戦の直前、栃木県の佐野の辺にいたんですけれども、東京湾か相模湾に米軍が上陸してきた場合に、高崎を経由している街道を南下して迎え撃てというのです。私はそのとき、東京から大八車引いて戦争を非難すべく北上してくる人が街道にあふれます、その連中と南下しようとしている、こっち側の交通整理はちゃんとあるんですか、と連隊にやってきた大本営参謀に質問したんです。そうしたら、その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。これが私が思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点ですけれども、「ひき殺していけ」といった。われわれは日本人のために戦っているんじゃないのか。それなのに日本人をひき殺して何になるだろうと思いますでしょう。私は二二歳か二三歳ぐらいでしたから、もうやめたと思いました。何ともいえん強烈な印象でした。つまり、私たちは、参謀肩章をつっている軍部の人間に日本民族は占領されていたわけですね。それはやはり思想的な背景が強烈にあるんで、集団狂気のなかからいえば、高崎街道を北上してくる避難民はひき殺していけという結論が出るわけです。ぼくは猛烈に幻滅した。これはマルクス思想に対しても、カトリック思想に対しても、思想の悪魔性という点で同じです。戦後、アメリカ軍がなるほど占領にやってきたけれども、その占領のほうがやや軟弱なる占領であって、その前の占領のほうがきつかったという感じ。ぼくは復員して普通の生活に入るんですけれども、戦後社会を見たときに、これが初めて日本人が持った暮らしやすい社会なんじゃないかという感じがしましたですね。いまだって、戦後社会のそのときに感じた民主主義なら、うまく守っていきたいという感じがついしちゃう。狂気じゃありませんけれども、そういうことを守るためなら自分は死んでもいいという気持がしょっちゅうあります。むろんこの死ぬというのは日本人の口ぐせであって、気持の高揚のときに言うんで、言いながら私は自分を軽蔑してますけれども(笑い)そんな体験がありますね。「朝日ジャーナル」昭和46年1月18日号
2007年08月27日
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元陸上自衛隊イラク先遣隊長の佐藤正久参院議員が、派遣当時、自衛隊を警護していたオランダ軍が攻撃を受ければ、駆け付け、あえて巻き込まれて警護を行う考えだったことを明らかにしたことに対し、弁護士を中心とする市民らが二十二日、「シビリアンコントロール(文民統制)を無視するものだ」と批判する記者会見を開いた。同氏らには公開質問状を送付した。 (中略) 発言は、集団的自衛権を研究する政府の有識者会議「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」が、活動を共にする他国軍が攻撃された場合に駆け付け応戦する「駆け付け警護」を容認する方向で一致した、とするテレビ報道の中でのコメント。「駆け付け警護」は、憲法で禁じた海外での武力行使につながるとして認められていない。 質問状では、意図的に巻き込まれる行為は「正当防衛・緊急避難の要件を満たさず、自衛隊法に違反するばかりか、憲法九条をないがしろにし、シビリアンコントロールをも無視する許し難い行為」と批判。佐藤氏と、派遣を決めた小泉純一郎前首相に回答を求め、安倍首相には議員辞職を勧告するよう求める要望書を提出した。 ◇ 佐藤正久参院議員の発言要旨 「(オランダ軍が攻撃を受ければ)情報収集の名目で現場に駆け付け、あえて巻き込まれる。巻き込まれない限りは(武器使用が可能な)正当防衛、緊急避難の状況はつくり出せない。普通に考えて手を差し伸べるべきだという時は行ったと思う。日本の法律で裁かれるのであれば喜んで裁かれてやろうと」 元「ひげ」隊長 佐藤議員の発言波紋 「駆け付け応戦容認」文民統制無視と批判(08/23 08:45)予想どうりだ。こういう人物が、参議院議員に当選するだろうということも、読めていた。彼は、昭和35年生まれの防衛大理系卒の人らしい。東京オリンピックも、まともに覚えていないぐらいの景気のいい時代の日本しか知らない世代。そんな時代の軍事オタクが大きくなればこういう風になるという典型だと思う。物理学を専攻した秀才なのである。発言したことの波紋や展開も読みきってのことなのだろう。いわゆる確信犯のようなものだと思う。シビリアンコントロールを無視するものだ、とかなんとか、憲法9条を守れとかいっても虚しい。彼は、横紙破り隊長なのである。そういう世論喚起の目的で、参議院議員になったこと自体も、ある種のプロパガンダのようなものだったに違いない。ことは、イラク派遣でマスコミ頻出し始めたときから狙い、布石はあったのだろう。自分らの年代では、記憶にある。1971年7月30日、午後2時2分、高度8500メートルの岩手県雫石町上空で、千歳から羽田に向け南下中の全日空旅客機ボーイング727と自衛隊ジェット戦闘機F86Fの訓練機が空中接触して、分解、墜落するという事故があった。岐阜中津川では、フォークジャンボリーなどがあって、全国から二十代の青年が岐阜中津川に10万人規模結集するという時代。反戦平和だと大衆的規模で喧伝されていたそんな時代に、航空自衛隊はソビエト空軍の東京上空へ頻出する偵察飛行に対して軍事的最前線という様相にあり、スクランブル出動の緊迫した風景はつねに報道番組でも告知されていたことは鮮明に覚えている。彼らは、常時緊急離発着訓練を繰りかえしソビエト偵察機を領空侵犯機として牽制するという活動を行っていた。よりによってその軍事訓練に日本の全日空民間機を仮想的国のソビエト偵察機にみたてて追尾訓練を行っていたのだ。なにしろF86Fは、朝鮮戦争当時に活躍したとはいえ、最速でも音速で飛べるようなジェット戦闘機機ではない。航続距離も短く、単なる操縦訓練ならば太平洋上空でやればよいだろう。そのほうが合理的である。民間旅客機を、敵偵察機にみたててなんと教官機と訓練生の戦闘機2機で40秒も執拗に追尾し、ついには接触して墜落させた。パラシュートで脱出して逃げた航空自衛隊の隈一尉と、訓練生であった市川二曹は岩手県警に逮捕され、盛岡地検から業務上過失致死と航空法違反で起訴された。当時新聞紙面を埋め尽くす大事件であった。なにしろ全日空機は、乗客155人、クルーら7人が死亡している。国民の生命財産を守るべき自衛隊が、国民を墜落死させるという笑うに笑えないシンボリックな事件だったのである。この事件の渦中の人物、航空自衛隊の教官であった隈一尉の発言が当時注目された。国防のためならば、旅客機を利用する多数国民をいちいち留意していられるかという事なのだろう。民間機のことを考えて訓練などできぬと発言して物議を醸したものだ。人殺しの訓練をしている連中に、国民の生命を守れといっても無理なものは無理だと無意識が雄弁に語っているのではないだろうか。昔も今も、人間が大きく成長して変わるとは思えない。上田哲君 御答弁はほんとうに反省の立場に立っておりません。その意味では、これほど明白な事故に対して、いわば線路の上を走っているものにかってにぶつかっていった。まことに飛行機の高度からいっても、入り方からいっても、これは明らかに全日空機には責任がないということを明言されないことは、この点作為があるというふうに言われてもしかたがないと思います。はなはだ言い方が、御答弁のしかたが不明確であるという点を、就任早々ではあられますけれども、その点だけははっきりして国会に御答弁に立たるべきであるという点について、不満を表明しておきます。そういうふうな問題の発想の根底には、一つの例をあげるならば、隈一尉があの事故の直後、一々ほかの民間航空機のことを考えていたのでは訓練はできぬという発言をされる、あるいは上司が、もう疲れているから報道関係に対して質問をするなということでもって言った。これは録音がとれております。全国民が聞いております。こういうふうな状況に端的にあらわれていると思います。こういう姿をどうお考えですか。第066回国会 内閣委員会 第1号昭和四十六年八月二日(月曜日) 午後一時四十分開会
2007年08月27日
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TBS「報道特集」は、またまた北の首領さまの苛政について報じていた。しかし、この国もたいした差はないではないか。国民の生きていく最低の意欲も摘み取って、平然と生活保護を打ち切り死へ追いやるような仕打ちを平然と行える国だ。なに、「北」のデタラメな独裁政権にいそいそと巨額の送金を看過し続け、事と次第では銭函扱いにしてきたのはほかならぬこの国の保守政権である。この国でも、名も知られた大企業ですら2001年から5ヵ年ほどのあいだに従業員の給与は6%弱も減じている。ところが、一方で役員の給与賞与報酬が97%も増えているという。企業一社当たりの配当は、174%の増加である。我々が株式を好むと好まざるとにかかわらず、手を染めずにおけない理由はそのあたりにもあるのではないだろうか。正社員は、派遣社員やパート労働者にすげかえられ。派遣労働で儲け上場を果たしたたグッドウィルやフルキャストは、これまで厚生労働省の天下り先だったではないか。いずれもマザーズでも、ジャスダックでもない。堂々の東証一部上場企業なのである。何が最低賃金の引き上げだ。笑わせるのもほどほどにしろというものである。
2007年08月26日
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福井県を移動した。市内で一泊しながら、地方都市を眺めて観察した県内の模様をノートに整理してみる。県民性という言葉があることは、二十代から知っているが県民性のリアリティが分かったのは、やはり五十代になってからだと思う。請われて3年前に滋賀に転居して仕事をしてみて、はじめて大阪の外から眺める日本の地方都市について利害を超えたイメージが湧いてきた。滋賀で理解が進むと、富山、福井と観察する目線が変わってくる。さいわい不定期だが、他府県での仕事の依頼も来る。しかも、ここのところ自分のレポートが相当有効だったようで、レポートの依頼数がじわりと増えてきた。当面依頼先から仕事量を増やしてもよいかと、打診してきた。具体的には、商圏分析の仕事に近い。県下をくまなく移動して過去の依頼先企業の事業方針などを点検吟味するような要素が加味されている。理由は、分からないが自分のレポートで依頼先の企業の業績が飛躍的に更新するような事態があったらしい。こちらは、素人ながら先様の事業が掘り下げていなかった顧客の動態を少しは捕捉して掴みだして差し上げられたのかと安堵しているという具合だ。県民性は、ある種法規範を超えるほどの物理力だ。地域には、そのような物理力を必要とする理由も背景もある。たとえば雪である。福井県は、富山県同様に地域の構成が厳冬の冬、雪で地域の疎通が憚られる事態にまみえるわけであるがその為に道路事情や店舗の装備、門構えまで当然冬季を想定して出来上がっている。こういう地域では、都市型の個人の恣意的な自由は相対的にみて抑圧されざるを得ない。福井駅前の書店で、なんと7時に大勢の顧客が店内に詰めているにもかかわらず見事に定刻に閉め出してしまうので驚いた。大阪ならば開店時間を延長して10時、11時と夜間集客を図るのではないだろうか。福井駅前は、もう夜8時には深夜という印象だ。滋賀大津駅前よりは余程ましだと思うが、都市型の消費形式は福井県の「さっさと帰って寝ろ」という暗黙のメッセージに、すごすごと退却させられているようだった。
2007年08月26日
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経産省、ベンチャー投資優遇拡充――20%分を税額控除 経済産業省は、個人のベンチャー企業への投資を税優遇で後押しする「エンジェル税制」を拡充する検討に入った。個人が投資をする段階で、投資額の20%相当分を所得税額から差し引ける税額控除による新たな措置を2008年度の税制改正要望に盛り込む。現行の株式売却益から投資額を差し引く所得控除方式では効果は薄いため、ベンチャー投資促進には優遇措置の拡充が必要と判断した。 エンジェル税制は一定の条件を満たした未上場のベンチャー企業に投資する個人が対象。現行制度では、投資段階では投資額をその年の他の株式売却益から控除でき、投資年度の課税額を減らすことができる。投資先企業の株式を売れば、譲渡益の課税額を半分に圧縮する優遇措置もある。花形官庁である経済産業省が、ぶちあげるこの種のリリースはいつも派手だが実現するとばかりは言えないので、毎度眉唾で引き算して聞いていなければならないのである。個人資産家が、投資行動をしたいと思っているわけではないがお役人から「20%ぐらい損をしても投資に用いたのならばあらかじめ税金から控除してあげるので、たとえ損をしても元々税金で取られたのだと思えばあきらめられるだろう」と、耳打ちされてハイそうですかと易々と出資者として大切なお宝を海のものとも山のものとも知れない零細ベンチャー事業者に対して投じるのだろうか。などと、すぐる90年代を回想しながら思いめぐらせた。考えれば、90年代は悲愴だった。このカネ余り現象も、病的だと思うが90年代後半の強烈な貸し渋りを経験した我々からすればこのカネ余りなどもまったく信じていない。デタラメな日銀通貨の大増刷という綱渡りとバブル期にデタラメな放漫なマネーゲームをやらかした不良債権先や地下社会の怪しい連中に対して責任を問うどころか盗人に追い銭のような「公的資金投入」というような平成の大徳政令でしのいでいるだけなのである。玄関先で何千億円もの金融機関の貸付金を踏み倒した連中に何兆円もこそこそとお勝手口でプレゼントして成り立つというような景気浮揚策など、国民を騙し続けているだけなのだから、この大判振る舞いもまもなく氷河期に向かうのは必定だ。そこで本気で再びかちかち山が勃発せぬうちに未然に火種を消さねばならないというわけなのだけれども、つまるところ株式市場の個人資産流入への熱い期待と低金利のままで過剰流動をしばらく維持しつつまだしばらく景気浮揚を演出し続けようとしているわけだ。一般投資家が怒涛のごとくに大挙して株式市場から脱走することになったらば、経済産業省は一体どうするつもりなのだろう。
2007年08月23日
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175億円も株で儲けた人物を、執拗に追っかけている理由ははっきりしている。研究開発型ベンチャーが資金に窮して、かたっぱしからつぶれていくこの国でパソコンのスキルが高いというだけで、二十代のニート諸兄の中から、烏雄のごとくに億万長者が澎湃と現れでているということに、やはり不条理を感じているからだ。羨ましいとか、憎いというわけではなく、彼らはもはや自分らの息子ほどの年齢でありながら立派にこの国の風景の一部になりきっているという点で舌をまいているわけなのだ。確かに、この運、不運のようなもので社会が組み立てられていることには大いに危惧する。危惧したところで、なにも世の中は変わりはしないが、それでも折々に言葉を吐き出して行くのが正しい生きものの証明だろう。ありていに言って、いまから彼らの真似を行ったところで所詮は悲惨な結果になるだろう。さりとて、彼らが義務に駆られてまで金集めせねばならない状況とは・・・この地上は、アメリカが贋金同然にドルを大量に世界流通をさせてしまって以来、狂いに狂ってしまった。もはや取り返しようがないほど地表の景観を崩してしまったと言ってよい。すべてドルの奔流のような暴れ方にあると常々私は断じていいのではないかと思っている。第二次大戦後、アメリカは世界戦略として自国の石油資源を最終的に大きな切り札にしようと発想した時代があったと思う。愚かなことだ。中東にある石油を徹底的に世界消費に一巡させ油井そのものを枯らせるほどに戦後経済復興に供する、しかる後に自国や南米、北米の石油の資源価値を高める中で強いアメリカを演じるステージを招き寄せるという発想だ。また太平洋戦争終結後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争とアメリカの軍事依存的なまでの戦費浪費癖は収まらない。ドルは、当時おびただしく刷られ続けて虚しい戦費支出と原油などエネルギー資源購入に当てられ、これに従うように世界から中東に向けてオイルマネーと呼ばれるほど世界から資金が流入する。オイルマネーは、中東の地に過剰流動性をもたらすようになり、その後に頻発するマネーゲームがそれらオイルマネーを主役として演じられ始めるわけであるが、もとはといえばアメリカ政府がこのような児戯のような思想にもとづき国際的な決済通貨であったドルをおびただしく刷り世界流通させたことにあるのではないか。そして私などが、ようやく成人に達する頃、つまり1971年8月15日。ついにアメリカはドルと金の交換を一方的に停止し、今にいたる「変動為替相場制度」に突入する。金本位制を維持できなくなったアメリカの意図的なまでの仕掛けられたインフレ要因を、戦後経済復興の途上にあった日本やドイツは驚きをもって向かえ日本銀行やドイツ連邦銀行は、膨大な戦費濫用体質のアメリカのばらまきドルをそれぞれ自国で買い支えるという事態を余儀なくされる。カップヌードルを啜りながら百円ショップにかよう億万長者たちの発生は、その起源を求めればようするにそれだ。戦後営々とアメリカが戦争につぐ戦争を繰りかえし濫費する「過剰財政支出」という天を衝くようなドル増刷と、シワ寄せを円とマルクで繕いするという「国際管理通貨体制」などという響きの良い扶助システム。実のところ、アメリカが自国経済の維持できかねてのだらしなさを軍事的地位の高さを背景にして、太平洋戦争に負けた日本、ドイツの属国的なまでの買い支え通貨介入を前提としたドル安誘導と、変動相場制により世界経済は常にマネーゲームという姿で巨大戦費の穴埋めとアメリカの完全雇用のツケをアメリカ以外の国々で支えるという構図を余儀なくされた。その集約こそ、1985年9月22日、対外不均衡解消を名目とした協調介入への合意(プラザ合意)だ。ドルの買い支えなど協調介入などというが手品ではあるまいし、日本や欧州先進工業国がつねにアメリカの貧乏クジを引かされる構図であり、いわば暴君への貢物を強いられたわけであるが、これに応じるに量的緩和などといいつつ日本銀行はながらくゼロ金利で市中銀行に金を提供し続ける。金が無限に湧き出すように提供し続けられた日本円。ようするにわが国までも膨大な通貨の増刷を行いアメリカに追随してきたわけだ。日本銀行が通貨を刷るのは新聞を刷るのとは訳が違う。国民のあずかり知らぬところで、自国中央銀行が、国富の価値を減殺しているようなものだと言ってよいだろう。日米金融当局が刷る膨大な規模のにせ札。カップヌードルを啜りながらただひたすら金集めに奔走する超人。つまりは、ありえない規模の資金が、つねに市場を泳ぎ続けなければならないという仕掛けられた不幸な時代を支えるシンボリックな英雄だと私は思う。↑よろしければクリックにて
2007年08月22日
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最新号のZAIという雑誌を注目している。ダイヤモンド社の出している月刊誌で、10月号である。この出版社は、いつも少し高めの価格帯でも、読んで面白い記事づくりを工夫している印象がある。この表紙の表紙、「者」の直下にうつっている顔写真こそ、あの個人資産175億円のBNF氏こと、小手川隆さんだ。ここのところ、孫正義やあのSBIの北尾吉孝など怪しい人士と対談を繰り返しているが、今月号では同じネット株仲間のCIS氏とくだけた話題交歓を行っているので、興味深い。7年間でアルバイトの稼ぎ160万円が、現在資産175億円に化けるに至る過程について町工場の従業員あがりのCIS氏が論評しているものがリアルである。CIS氏は、ソニーのプレイステーションの蓋づくりに励む樹脂成型工場で就労しながらためた105万円を同じ時代に50億円規模の資産にもってゆく。これで無敵だろうと自負していたら、遥か前方にBNF氏がすでに資産規模を175億にもっていって独走していたというわけである。彼らは、2ちゃんねる仲間で驚くべきことにオフ会で面識があったという。千疋屋で、CIS氏が奢った果物にもハヤシライスにも手をつけなかったBNF氏がすでに10億円の資産を越えていたという話も凄い。非力なノートパソコンで、データー交換も出来なかったというBNF氏が、すでに億万長者だったのであるから最近の二十代のしみったれは侮れない。散開後に秋葉原で1万円そこそこのファミコンソフトの100本入りお買い得袋を逡巡しながら、ついに買わなかったという億万長者の素顔に、あっぱれと喝采したくなる。これだけケチでなければ、運用資産175億円がいずことも知れず散逸するのは必定だ。胃袋には、カップヌードルをほりこんで運用する資産規模は、バブル期の青年たちのネガフィルムのようである。バブル期には、リースでベンツに乗りながら部屋は1Kで、晩飯はカップヌードルという奇矯な生活スタイルこそ青年であると言われていた。いまや酒も飲まないクルマも欲しくないという二十代の青年たちが、一度も就労経験なしに億万長者になるという想像を絶する状況が、確実に存在しているようだ。一番関心があったのは、彼らの「端緒的蓄積期」である。やはり、彼らのフランクな意見交換をみているとバクチさながらの全力買いが成功因らしい。怖いもの知らずの二十代ならではだろう。30%の担保に稼ぎをつき込み3倍以上の運用規模で狙ったとうりに乱高下と値上がりの激しい株を立て続けに売り買いしなければ、一億円の壁は到底厚く乗り越えられなかっただろうと思う。彼らは、社会の底に沈むリスクを取っていた。これだけは間違いない。BNF氏発言集↑クリックから↑よろしければクリックを!
2007年08月22日
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山口小夜子が、他界したと聞いて最初は冗談かと思った。美人だが、自分より2歳年上だ。あの年齢は、不味い。どう考えてもご縁がない。自分の高校に、彼女そっくりの先輩がいた。おかっぱで切れ長の眼。こういう女性は、まず敬遠するにしかずである。どこでどんな仕打ちを受けるか分からない。とりわけ柔道部などにいたら、廊下で話しているだけで危ない。あとで柔道場で締め上げられても、こちらは理由が分からない。十年以上たってから、あの時は殺してやろうかと思った、などと先輩から言われたりする。こちらは堪ったものではない。個人的にも、山口小夜子はあまり好きではない。テレビCMに登場してきたとき、マネキンが歩いてしゃべっているようなものだと思った。大体、小夜子という名前がよくない。自分の近所に、小夜子という名前の女の子がいたが、経験的に危ない名前だと思う。外側からノーマルにみえて、絶対にその実は危ない人だと直感している。最後まで、なにもシデかさなかったからといって、この偏見は揺るがない。73年頃が、彼女のポスターが日本中に大量にまかれていた時代だと思う。実生活でも、あの時代はまるで面白くもおかしくもなかった。自分は、断然80年代が好きである。大体、海外で受ける美人というものが、反動的だ。東京を歩いていても、山口小夜子のような美人は滅多におめにかかれない。そもそもそういう存在そのもが、極めていかがわしいと思う。化粧品CMに登場するモデルは、彼女以後次第に肩から力が抜けた脱力的な傾向を呈してきて自分は、好感できるものだ。記憶する山口小夜子の思い出など皆無である。絵葉書のようなモデルが、消えてゆく。当分くたばりそうにないと思っていたのが、さっさと死んじまって流石に惜しいという気持ちもあるが、まずは惜しまれて亡くなられることが彼女の為だろう。冥福を祈る。
2007年08月21日
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夜更けに電話してくる相手など限られている。友人の医師である。彼は独身で、一度も結婚したことがない。もう、四十年近いつきあいだ。こちらのブログでも、何度か彼の話題を取り上げて述べた。シャロックホームズとワトソンのような関係とは違う。教えられる事が多い。パソコンを買ったのは、いつぞや10年以上前に、ご同様の夜更けの電話でアップルコンピューターが安いという話からのスタートだった。93年の歳末だっただろうか。その何年か前には、彼からファミコンのお奨めがあって、ドラゴンクエストを試してみたりしている。考えれば、パソコンをあの頃に購入してから世の有為転変をモロかぶりしてきた。彼は診察室から出られないという境遇なので、夜更けの電話がきっかけでわたしが世の中の荒波をかぶったりしているのを感慨深く思っているのだろう。いつも自分の転機に、彼からの夜更けの電話が大きく影響してきたのである。破天荒な人生スタイルの自分と、地域で専ら女性たちの健康と生命の誕生に貢献している彼がなんで年間数本の電話でコミュニケーションできているのか本当に不思議である。自分が上海に乗り込んでゆけば、彼はたまさかの年次休暇にその後を散策したりしている。バイクに乗って富山や福井を疾駆しているのも常々電話口で話題になり聞いてくれているので、呆れていた。バイクを購入したのは98年頃だが、その経緯も夜更けの長電話で知っている。今だに自分が乗り続けているというのが驚きだという。こちらにすれば快適で便利、気分転換になるからだけれど、彼からすれば五十代のオヤジがすることではない、と映るそうだ。なんどか大阪へ戻ったときには、自分のバイクを彼に見せたこともあるし、花粉症で困惑する彼を後部座席に乗せて市街地を走ったこともある。環境ボランティアなどといいながら、炎天下を肉体労働で奉仕活動したりするというのも、医師の彼からすると、一般社会通念からそうとう逸脱した行為にみえるようだ。第一、金儲けの対極のすがたである。こちらからすれば、金儲けが下手なだけだと思うのであるが、彼からみると買いかぶりで、金銭欲がなく経済的な価値観とは違った高い志で生きているという風に見えるのかもしれない。しかし、ここの処環境の悪化についてお互い憂慮することが増えた。彼は、中国がつくづく空恐ろしいとひたすら嘆息だ。自分が奔走したあとの人間関係を辿って彼も江蘇省などを皮切りに遊びに出向いた中国本土だが、最近は憑き物が落ちたように出かけようという気持ちが失せてしまったらしい。電話の最後に、怖ろしいことを指摘した。最近中国の胎児スープという話題でインターネット上で画像が流通しているのを見かけたらしい。彼は、無論その筋のプロ。専門職だ。彼の意見では、この画像を見る限り間違いなく人間の胎児を食材にしたスープだという。グルメ道うんぬんではなく、れっきとした殺人事件。もしくは死体遺棄損壊ではないか。このような国でオリンピック開催があったとして、誰が出向くのだろう。地球温暖化にしろ、輸入食品の危険性にせよ、中国が我々の生活に直撃してくることはここのところ災いばかりという気がする。彼と自分のように中国に復次渡航してまで通い詰めた中国支持派が、引いてしまう今の中国とは一体なんなのだろう。世界の嫌われ者は、アメリカばかりではなかった。以下の衝撃的な画像は、極めて不愉快な感情を抱かせます。リンク先には、覚悟なしにはけして行かないようお願いいたします。↑リンク先はこちらのクリックで。オリジナルソースは、こちらのクリックで。
2007年08月21日
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信用収縮とは、全般的危機に準じるほどの大事件だと思う。まあ、言ってみれば津波が来たようなものである。まだ、楽天ブログの諸兄も新聞紙面に踊る活字のリアリティが足下に届いていないので、多少ノー天気でいられるのかもしれない。しかし、いまや「冗談じゃない」と翻弄されて大慌てしているのは平素は派手に脚光を浴びているスーツにネクタイをしめた海賊さんたちだろう。合併、買収、M&Aと、札束で顔を張り倒して企業資産を巻き上げてゆくというスタイルで、肩で風を切っていた人達の一群がいま真っ青になっているはずだ。乗り込んでいった先の船の金銀財宝は、雨散霧消したかのように株価暴落で価値下落。火縄銃の引き金引こうにも湿気て銃口から弾丸が飛び出ない。もってきたはずのサーベルがみあたらず、手下は勝手に戦線離脱して士気阻喪しているやら。頼みの本船にある大砲は、海原の大波にもまれて海中に転落したようなものだ。下手をするとフック船長のように海の中のオオワニに手足を喰いちぎられて金時計ごと持ってゆかれかねない。普段は、子供扱いしていた投資家や一般株主のピーターパンみたいなのと、これから揉まれて絞り上げられる可能性が濃厚だ。とかく、海賊稼業もラクではない。
2007年08月20日
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パソコンと広域暴力団とは、どういう面妖な組み合わせであろう。哲学者の九鬼周造は、「蝶とクジラの共通点は?」とその著書の中で問う。そのココロは、どちらも「木に登らない」である。93年頃、自分が始めてパソコンを購入した感激から、さまざまなオフラインパーティに参加したものだが、その席上で密かに話題になっていたのが、このパソコンと広域暴力団の不思議な結合力(もしくは斥力)である。当時、湾岸戦争を通過して時代は物理的実力がIT洗練化度に依存するという現実を誰ともなく痛感させられることになった。広域暴力団幹部のデスクの上から、ティッシュボックスとサントリーウーロン茶が消え、アップルコンピューターのノートパソコンが置かれているのを目撃したという人の話が、まことしやかに囁かれた。一種の都市伝説のようなものである。そんなウソのような逸話が描写するのは、極道世界の潮目の変化を指し示している。当時、大阪南部の暴力団の組長が世を儚んで自殺するなどという事件もあり、もはやただの粗暴な筋肉屋ではヤクザにもなれない社会が到来したと改めて新聞記事に瞠目した方も多かったのではないか。同時に、東京では中国人不法就労者の青龍刀に追い立てられる状況を前に頭をかかえる暴力団組員などの情けない事例が週刊誌記事に現われ始め、いよいよ広域暴力団の存在感が変化しているのだと笑ったものだ。トカレフを磨いているのは、もしかしたら下級組員にも少なくなって、ウィンドウ95の教本を必死で読んでいたりするのが実態かも、などとオフラインパーティの座興話になった。その後、報道番組などで嫌がる組員に回転銃やトカレフの密輸入を教唆していたのが札幌道警の現職刑事だったりするのだと報じられて、世間をたばかっているのは警察のほうであって、むしろヤクザは時代の先をみているのかもしれないと真顔で思料するばかりである。実は、証券市場ではむかしから「仕手筋」などといわれる御得意さまが一丸となって株価を操作し、利ざやを巻き上げて跋扈するというのが知られていた。それはここしばらく隆盛を誇っており、ネット上で見かける投資顧問会社のほとんどが、それら仕手筋の宣撫班、別働隊とみてよいのではなかろうかと思う。ところが、この投資顧問をぶち抜き個人投資家が躍り出るなどという事例もあり、過渡期とはいえ様相は複雑怪奇である。あのジェイコム誤発注事件で一躍脚光をあびたBNF氏など、千葉県在住の28歳の無職フリーターだという。学校を出てから就職体験がなく、いきなりアルバイトで稼いだ160万円をネット株で170億円もの運用規模に。以前、こちらのブログでもご紹介した記憶がある。杉山巡先生が、原則証券業界のこしらえたフィクションだろうとの推量をいただいて、そのような印象も抱いた。ところが、その後さまざまな大手企業の有価証券報告書に彼のような個人投資家の保有株式の規模と軌跡がつまびらかにされ始めて、どうやら仕手株を脅かす個人投資家の存在はウソ偽りでもなさそうだという事が見え隠れし始めてきたのである。いうなれば広域暴力団よりも怖い、あるいは侮り難いと言えばよいのだろうか新勢力存在の登場が証券市場で始まったのである。あの孫正義が投資顧問を思わず依頼する個人の台頭。パソコンという不思議な暗箱が、どれほど社会の様相を変化させてゆくのか興味は尽きない。
2007年08月18日
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「片言隻句」(へんげんせっく)という熟語がある。ようするに、些細な言葉 取るに足らない発言のことである。ところが、自分中では「隻句」の「隻」という漢字は特別なニュアンスを生じている。一言で言えば、カッコいい漢字なのである。いわずと知れた丹下左膳は、隻眼の人。片腕の剣豪、丹下左膳は少年時代の憧れの人であって、有無をいわさずカッコよくなければ困るのである。スクリーンの丹下左膳が、カッコいい理由は、明快で原作者の林不忘こと、長谷川海太郎が断然カッコいい作家なのである。自分は、学生時代ついに林不忘、牧逸馬などさまざまなペンネームを使い分けた長谷川海太郎の全集を購入してしまったほどだ。これは余談。そんななにげに放たれる片言隻句は、カッコよくて当たり前という私の「信仰のような気分」をまんまとハズす輩が続いた。まあ本人の名誉のために実名は出さないが、ふたりとも証券業界の人間だ。某証券会社のネット株参入者に対する啓蒙的な動画配信番組の中で、いわく「ハシタガネ」、はたまた「個人投資家の生首」などという発言を今月になり繰り返し耳にする。彼ら証券業界で、日常茶飯に使われている表現なのだろうと推量する。一種の職業的な感性が言わしめるのだろうと思うのだが、品がない。彼らが言うハシタガネは、20億、30億という我々が眼が回るような規模の話なのだけれども。彼らが、露悪的なまでに過度に悪ぶって蔑視するかのような語り口でもってする理由は、株式市場が、何兆円という出来高を追求するテーマの中で、その程度の規模の話では証券マンは振り返りもしないというわけなのだ。また、証券ニュースのコメンティター氏によれば客観報道は無理としてもある程度の全体掌握の真理性、事実性を踏まえてモノをいうにつけては「個人投資家の生首」を踏みしだいてなお行くという感覚のプロでなければ言及できない、という状況もあるなどというわけである。それは、事実としてそうなのだろう。だが、下品である。彼らは、株屋として誇りを抱いているのを素直に出せないのかもしれない。だが私は同情もしないし、憐憫も抱かない。彼らは、精神に異変をなしていないとしても、プロとしても二級である。私が、かねてから敬意を抱く将棋界の谷川浩司十七世名人は、プロは強いのは当たり前なのだと言う。強さを表現するに際して、素人をして納得せしむる表現としての勝ち方ができなければ、プロとは呼び難いというような事を言っている。それにくらべれば、証券業界のプロというのは、どう考えても獣がスーツを着ていてなにが悪い、と言っているような気がしてならない。現下の信用収縮は、こういう片言隻句のぶざまさにも招きよせられるものではないか。
2007年08月16日
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「はだしのゲン」が、連載を開始した73年当時はまだ石油パニックやニクソンショックの前で、それなりに穏やかな景況だったのではないか。学生運動も退潮期にさしかかり赤軍派も海外へ出稼ぎに。前の年の浅間山荘事件が、もう大きく若者の気持ちを内向化させ始めていたのが如実に時代相にもあらわれていた時代だ。由実かおるという同年代の俳優が、ヌードポスターで街角にあらわれた「同棲時代」が、その気分に重なる。たしかに大学のキャンバスでもゲバルトよりも女だ、という眼のひかりだったのだろう。そんな時代に、きちんと屹立するように連載が始まったのは、いまから思えば有意味なことだったように思う。ただ自分は、あの漫画を連載開始から少年誌でみかけていながら怖くて読み続けられなかった。いま、あの全集が全国の小学校図書館に設置されていると聞いて、信じられない思いがする。どう考えても冷静に読んでいられる漫画とは思えないからだ。5歳の時に、放火されて自分の実家が焼け落ちた。たぶん両親は、半狂乱になりながら世帯道具を持ち出しに懸命だっただろう。自分は、燃え落ちる家の前で、鈍い子供特有のアパシーというのだろうか、綺麗な火炎を長いあいだ眺めていた記憶がある。自宅が焼けた程度でも、熱戦は自分の身体の表面の体毛やまつ毛、毛髪を焦がしていたらしい。熱ければ逃げればいいのだが、親がここにおれと指示したのを真面目に守っていたのだ。親も、それほど危険な場所に自分を放置したわけでもないと思う。聞き分けの良すぎた子供だったのだ。まだ妹は2歳だし、母親も忙しかっただろう。放火だったのは間違いない。翌朝、面倒を見てくださった近隣のおうちで朝食に貰ったオニギリがおいしかった。家が焼けただけでも、身体の表面が焦げそうになるのである。7000度の巨大な熱球が頭上で破裂したら・・・われわれは瞬間に蒸気にされて文句も言えない。そんな中で、「はだしのゲン」こと、著者の中沢啓治は6歳で原爆投下の憂き目に遭遇する。自分の火事体験とは比べものにならない大惨劇だ。しかも、彼の動きは作品を通してみている限り、大人にも勝る立派なものだという気がする。怖くて読み進めなかった自分自身の虚弱な精神をおして、一度なんとか通読してみたいと思った。少年ジャンプ連載から35年ほども経つのだと感慨深い。
2007年08月15日
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きのう部屋に戻ったら、いつものアマガエルさんが玄関で待っていたらしい。いきなり部屋に飛び込んだ。おもてなしもなにも出来ないので、さっさと退出していただこうと思ったのだけれど、どうも亭主の案内がまずかったのか、どんどん部屋の中にお進みになられて一向にお帰りになられる様子がない。困ったことだが、いま部屋に二匹で暮らしている。ペットを飼うという思想はないので、しばらくお部屋で遊んで帰ってもらおうと思う。やっぱり、自分の守護神さまなのだろうか?好物のバッタを供物に要求されては困惑だ。詳しくは、「樹上生活の守護霊さま」を!
2007年08月15日
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いよいよ日本は貿易立国を返上、投資立国とは聞こえが良いが金貸しの真似事で喰わなければならなくなってきた。国際収支速報によれば、ついに企業や個人が海外投資する収益配当が、所得黒字を演じる中、とうとう貿易黒字額を上回ってしまったのである。昨日、話題にした「サブプライムローンの問題深刻化」などとスカした表現は自分はしない。「信用収縮」とか、分かりにくく表現してごまかす気もない。ようするにアメリカなど海外の貧乏人の借用証文までを、踏み倒されることも厭わず買い漁っているわけで、貪欲さは貧乏クジまで買い求めて投機の対象にするほどなのである。これは、つまるところ欲ボケであろう。あげく日常で買い物にいってはエスカレーターに足をはさまれて気の毒なことに足の親指をもぎ取られたりするなどというあってならないご不幸まで報じられている。足下をみなさい、という神の啓示というものだ。その後も、アメリカのローン会社が経営破たんしてバタバタ斃れている。そこに金をつぎこんだとされているのは、ご存知ユダヤ系の投資会社である。そこで私は恐憚るばかりだ。あやつらが手元だけで損をするはずがない。あの90年代、山一證券倒産の頃。わたしは、山一證券から投資実行を予定されていて、ほかならぬ山一證券が先駆けて倒産するという信じられない現象を目の前で目撃した。投資実行の対象が、自分の会社なのだから笑い話ではない。そして、その時期に日本の三和だの富士だの大和だのといった、今にいたる銀行金融機関の担当者たちがユダヤ系金融機関の日本買いに同伴して後からゾロゾロ芋虫のように揉み手しているのを目撃した。象徴的な出来事である。わたしは、今回のサブプライムローン問題はまたしてもユダヤ系に日本の投融資機関が踏み倒されるのを予知、予測すらせずにまんまと一杯喰わされた可能性が高いのではないかと予感する。あたらずといえど遠からずだろう。日本の庶民のフトコロにあるお宝。滅多やたらと投資信託やら、利殖話に嫁がせてはならない。どうしても実行するならば、虎の子と水さかずき交わしてからになさることだ。あいつらは、アメリカの貧乏人に踏み倒されかねないような借用証文を売りつけられても黙っていそいそ買い付けるだろう。
2007年08月14日
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誰が言い出したのか知らないが、「お金の使い方には4つしかない」という面白い指摘がある。WEBで調べると福島の地方議会でこの話題が取り上げられているのが見つかった。「他人の金を、他人のために使う」ということが基調となった通貨の消費形式(交換)。それが大手をふって投網をかけるように広域、グローバル経済の巨大な様相があり、すでに国家独占金融資本のさらに上層に暗雲のように垂れ込んでいる。われわれに等しくのしかかっている怪物の正体だという風に考えられるかもしれない。お金が、とんでもなくピッカピカな存在なのは幼稚園児でも知っている。みな恋焦がれてやまない。亭主女房よりも、恋人よりも大事にする男性、女性も多い。金がないのは、命がないのと同じ。首がないよりもひどい事態だとされている。その理由はなんだろう。あなたが魚屋さんで、わたしが八百屋さんだとする。トマトと秋刀魚を交換したいと思っても、秋刀魚が好きなわたしはうれしいがトマトの嫌いな魚屋さんだと塩をまかれるかもしれない。そんな魚屋からわたしが秋刀魚を取り上げるためには、トマトよりもお金を持っているほうが強い。どうしても秋刀魚が食べたい私は、トマトよりもお金を大切にする。トマトも大切だが、それはお金と交換できるかぎりでの範囲でトマトが大切なのだと考えるようになる。これが現代社会だ。古代や超歴史的な世界では、かならずしもそんな事はなかった。幸運なのか不幸なのかは分からないが、とりあえず自分たちは、現代社会に生まれて育った。われわれはトマトよりもお金を大切に思うココロを抱いた八百屋さんなのである。常にそのように育てられてきた。ただ自分が子供の頃には、お金よりも強力な交換があると実感できた。何度も死に掛けていると、お金も秋刀魚もトマトもありがたくない。とりあえず死なずにすむことが最優先だった。爆撃でできた廃墟がそこらへんに一杯残っていた時代をみている自分らは、お金などよりも「へっ、それよりコップ一杯の水が欲しい」といえる人がいくらでもいたことを体験的に知っている。死に掛けている人は、ダイヤモンドよりもコップ一杯の水を思い切り飲んで死にたいものらしい。ところが、四十代以下の経営者やサラリーマンは体感でそういう突飛な話には反応しない。ズバリ、お金だ。思いきり刷り込まれている。個人差はあるかもしれないが、基調でそのように思われる。国家運営の主力も、すでに四十代以下が中心になっているのは間違いない。この連中が、「他人の金を他人のために使い」節約と効率を考えなくなると怖ろしい。儲かるという話に反応する速度も、もともと速い。だが元手が「他人の金」となると一層早くなる。悪いことに、グローバリズムとやらで海外での儲け話に、「他人の金」を預かっている奴が群がって飛び込むということが日常になっている。飛びつく早さで、ボーナスを決められているのだから、なおさらである。アメリカでサブプライムローンの焦げ付きが問題になっている。これは、アメリカの貧乏人に金を貸したら危ないが、儲かるという話だ。それだけならば、サラ金の化け物のような海外の話題なのだけれども、これが債権として国際流通し始めたからたまらない。早い話、日本でも「他人の金を他人のために使う」という美名の下、どはずれた金額の運用をまかされた連中が、群がって買いあさった。つまり日本の大衆の大切なお金を、アメリカの貧乏人の借用証文と交換したようなものだ。こんな連中にお金を預けていては大事になる。そこで気がついた人たちから順番にお金を回収する動きが出てきた。いま証券市場で起こっている「信用収縮」とは、そういうことだろう。
2007年08月13日
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高校時代の妹は、後年デビューした早見優によく似た印象だった。女子高に通っていたが、バス停で立っていると毎朝のようにどこからともなくクルマが停まって送迎を申し出るような事があったそうだ。食卓で、その話がでると母親も自分も根が田舎者なので「なるほど街ではそうなんやあ」と、しきりに感心して聞いていた。いまならば、親がハラハラと心配したりするのだろうが、滋賀から出てきた両親らは街の流儀はそういう風になっているのか、と真面目に驚いていたのだから大笑いである。妹は、家族の中で一番気丈だったので、そういうナンパ行為には冷淡に黙殺実行していたらしい。大学生になってからも、梅田の繁華街で高校生にナンパされたと苦笑いしていた。どうやら相当モテたらしい。女子高でも、不思議に同性から意識されたと言っていた。これもよく分からないが、どうやら男の子のような性格と雰囲気が、周囲の眼にとまりやすかったからだと言う。しかし、そういう話題にも両親と自分は、完全に脱落していたので間抜けである。都市型の生活感覚が、まるで他所事なので終始テレビでみたドラマのようだなあ、と思って聴いていた。こういう間抜けぶりが、滋賀から大阪へ戦後出てきた出稼ぎ家庭には、結構あったのかもしれない。妹の方は、都市部の生活様式や社会関係にスルスルと馴染んでいたので、やけにずれている自身の家庭には常時憤懣を抱いていたようだ。だから、平素は秘密主義なほど自分のことを話さないほうなのに、そういう話題をわざわざ家に持って帰ってきたりしたのかもしれない。しかし、両親も自分も終始茫然とど鈍いほど妹の話を額面どうりに聞いていただけだった。いまから考えても、かなりおかしい。七十年代頃になって、書店で声をかけられた男の子と懇意になって時代の先取りでアッシーに使っていたようだった。アッシーなどという世相語彙が登場したのは八十年代の後半だ。だから時代を十年以上先取りしていたのかもしれない。ところが、この件は少々変則的なことを惹起した。その男の子たちが頻繁に自宅に訪問してくるようになった。そこでわが母と彼らが懇意になってゆくのである。推量するにその男の子たちは、地方から大阪に登ってきた青年たちで、母親にも理解のよすがが多々あったのだろう。そのうち、母親に手土産を持参したりして、やけに打ち解け始めた。母親から聞いていると、行き届いて親切げないい青年たちだったらしい。根が田舎者の母親だ。やけに踏み込んで、その男の子たちと母親が意気投合してしまったのだろうか。突然、妹がその男の子たちを突き放す。なんどか訪ねてきたが、完全黙殺。最後は、出入りしないように宣言しておいてくれと私に振られた。振られた自分も、困惑する。なんで妹のメッセンジャーか、ベルボーイみたいな真似をしなければならないのだろうか。理不尽である。いや、理不尽を絵に描いたような存在が、わが妹なのである。記憶では、渋々メッセンジャーを務めたような気がする。母親から聞いていた男の子に、初めて出会っていきなり相手を不快にさせるようなコメントをさせられるのは、いかようにも不本意であった。なるほど、母親が気に入っただけのことはあって、善良そのものという印象の青年であったのだから、罪つくりである。まあ、遠慮会釈なしに袈裟懸けでバッサリと突き放す妹の流儀はいまから考えると正しかったのかもしれないと思える。当時は、母親とふたりで、わが妹とは言うものの随分とたくさんの生首を切り落とすようだとおっかなびっくりでヒソヒソ話込んだものだった。
2007年08月12日
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死ぬことを想像して、怯えを感じるという子供がいるらしい。「オーラの泉」に出演していた渡辺えり子がそうだったらしい。自分は、渡辺とは対極的だ。死の恐怖に直面したことは、一度もない。死そのものに直面したことは、数え切れなくあったにもかかわらずである。以前から、こちらの日記で何度も述べたように自分は死にかけるような「のっぴきならない隘路」は、何度も通過していると記憶しているし、記憶のかなたでも何度も死に掛けたと親から聞いている。だが、死に面した恐怖心とは疎遠である。あまりに何度も死に損なっているのに、死への想念というのか恐怖心そのものから免れている事をむしろ不思議に思ってきた。番組で、江原らが渡辺えり子に対して授けているファンタジーは、「前世で中途半端な死に方をしてきたからだ」みたいなご託宣だが、前世が立派な往生だったら死の恐怖がないのだろうか、などと思ったりする。自分が、死の恐怖からまぬがれていることは妹などには読めるらしくて、いつぞや十代ぐらいの頃に妹がわれわれ兄妹は、世間の子供とは少々違って斜にものごとをみる癖があるのもそこにかかわりがあるのではないか、などと言っていた記憶がある。妹と自分は、あまり疎通が良くなかったが、ある程度年齢を経てくると十代の頃の妹が言っていたことが、折々に理解できるようになる事もある。逆に、妹などのメッセージは、十代の男の子でしかない当時の自分には酷な気がしたりする。男の子は、とりあえず自分を形成するのに精一杯なのだ。死を想念するなどという高級な精神活動を行えるほど、余裕のある男の子は稀有だという気がして仕方がない。もっとも、その後も死についての恐怖感が身に取りまつわらない理由については考え続けてきたほうだと思う。我々は、生きる死ぬを考えても所詮は生きているものとも死んでいるものともつながってはいない。死の恐怖を感じるものは、死そのものとつながっているのではなく、単に死の恐怖とつながっているだけである。我々は生きていると同時に死んだものでできた複合体だ。死をとりあげても、それだけでは意味がない。意味がない、ということは核心と疎通がないという謂いだ。我々の核心は、永遠の生とも死んだ物質とも直接には疎通がない。死の恐怖がないという理由は、おそらく永遠の生の想念か、もしくは死そのものに近いのだろう。死そのものは、恐怖とはなんの関係もない。なぜならば恐怖とは、人間にとっての恐怖だからだ。それでも恐怖に囚われた人間の精神が有意味であるのならば、それはよく生きたものにとってのみ唯一意味を生じるのではないだろうか。死を選択した者には、死の恐怖はすでに意味をもってはいないのだから。
2007年08月11日
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最近、夜の報道番組をみているとNYやナスダックの株価を話題にするものが多くなったような気がする。NHKまで、踏み込んで株価予想をするのだから相当なものだ。早朝は早朝で、新製品の紹介番組がNHKとは思えないほど。推量するに小谷真生子がキャスターしている「ワールドビジネスサテライト」の影響をNHKがモロかぶりしている印象だ。あんなユダヤ人金融資本の手先のような番組が報道スタイルのお手本になって、ロクなことがないだろうといまいましい。ところで、ネット株愛好者というのか市民生活に次第に定着しているのは間違いないと思う。「えっ、そんなことないでしょう」と周囲でまだ言っている人もいる。つまり、ホリエモンやら、村上ファンドの親分が逮捕されての世相で素人が株に手を出すなんて退潮しているんじゃないのだろうか、と単純に考えている人が多いのである。しかし、現実にはここのところ間違いなく株式市場の流動性はとんでもなく高くなっている。いま手元には、資料が整っていないが実勢でバブル期をぶち抜くほどの株式市場の活況が現実のものである。つまり、株価が上がっていないのに売り買いだけは怒涛のごとくに増えているのだ。ごぞんじ日経平均225は、いっこうに上昇せずにいまだ過去最高値の半値半分という不完全燃焼なのである。アメリカのNYがあがったの、さがったのと揺さぶりをかけても日本側はあまり、まじめに反応し難くなった。この現象は、奥が深い。そう思う。ひとつには、日本の株式市場も、銀行も、金融制度などもが株式市場の主役になりつつある個人投資家陣営全般には、もはやまったく信用されていないのだろう。これまでだまされっぱなしの個人投資家を、いまだにだませるつもりでいる機関投資家や、経済誌の裏をかいて知恵のついた個人投資家が、小刻みに利益確定の売り買いを繰り返すので大きく上げ下げを仕掛けて、永年ひとり浮きで妙味を得てきたを仕手筋も焦りを隠せないほど、読めなくなっているのだろう。あの日経新聞で推奨銘柄など、まともに動いたことがない。日経新聞が、買い推奨がでると売られて下がるし、底値圏などと言い出してもみな、またまた日経新聞社が臆面もなくやらかしている大本営発表だぐらいにしか信じていないのではないか。具体的にいえば、あの悪辣極まりない日雇い労務者の派遣を中核事業に営むフルキャストが大暴落した一件が最近眼にとまる。もやはや彼ら自身が、その業績予想を大幅に下回ると宣言せざるを得ない事態だ。報道によれば、業績修正が、当期純益でも瞬時に70%が吹き飛んでしまった。言うまでもなく、違法な派遣労働で事業停止の処分をうけた会社だ。この時勢に、12000人におよぶ日雇い労働者の大多数が、職を失うという羽目に陥るものといわれている。この会社、もともとは家庭教師派遣取次からののし上げで、昨今あのグッドウィルに次ぐ業界第2位にのしあがった派遣労働者ブローカー業者だ。上場企業をやっているのもパソコンと携帯電話の普及を背景にした労働環境の変化に上手く追い風にしたという程度の足腰だったのだろう。今回にかぎらず、厚生労働省の棄民体質とそしられようが日雇い労務者の失業保険給付など、まったく想定しておらぬと黙殺同然だ。このフルキャスト、株価がついているのが不思議なぐらいであるが日経新聞は、はやばやと底値が4万4千8百37円だ、などという八百代言をぶちかましている。ウソだと思う方は、8月9日の朝刊をご覧あれ。どこにも根拠を示さずに下値余地だとぬかすから仰天だ。こんな労務手配師がネクタイしめただけのような会社、上場企業だというだけでもいまいましい。現状でさえも純益が吹き飛ぶと自社サイトのIR情報で発表するフルキャストは、さらに爆弾をかかえている。フルキャストは、日雇い労働者らの給与の天引き(業務管理費)の返還に関する費用は計上しておらず、業績はさらに悪化する可能性が濃厚なのだ。こんな事業者の株価に、下値余地を示唆する日経新聞などばかばかしくて購読料が払えるものか、と言いたいほどだ。彼らは、買戻しリバウンドのマネーゲームを仕掛ける「仕手筋」(きれい事を言っても、その大多数は広域系のヤの字だろう)にお追従しているようなものだ。こういう時代背景にもかかわらず、けなげな個人投資家は騙されぬようお宝を大切に運用している筈だ。たとえばディトレードというのは、その日のうちに株式を金に戻して株式市場に個人資産を預けないという知恵なのである。そもそもプロの機関投資家だって、株式市場など信じていないから基本は、もともとディトレードだというぐらいである。だから、日経225はどうにもこうにも騰がらないのである。自分は、そういう風に読んでいる。なにせ日経225の著作権者は、日経新聞社なのである。
2007年08月10日
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自慢ではないが、夏はカキ氷を何杯食べても平気である。実妹は、半分も食べると頭がいたくなるという。子供の頃から、妹の氷宇治金時はいつも自分が食べていた。これが恒例だったので、自分は最初から氷いちごか、みぞれと呼ばれる甘い蜜のカキ氷を食べていた。実は、生まれた生家の真向かいに作曲家服部良一の実妹がやっている飲食店があって、そこが多角経営ではないが、つぎつぎとスナック菓子やら氷菓を開発する。次は、なにを考案するのか楽しみで仕方がなかった。かといって、けして高額な食べ物で澄ました打ち出しではなく大阪の下町の庶民の店で、地域に愛されていたと回想する。アルミニウムのスプーンで食べる、氷菓は実に美味だった。しかし、当時のスリリングなまでの商品開発力(?)を通過している自分は大規模食品製造メーカーの提供する氷菓などバカにしているところがある。自分が唯一、脱帽するのはグリコの「アイスの実」ぐらいである。あれは、素晴らしいでかした商品だと感服する。しかし、グリコ「アイスの実」に較べてもけっして見劣りしない秀逸な氷菓を発見した。ずばり、フタバ食品株式会社「練乳ソース入り氷いちご」である。これは絶品だ。セブンイレブンと共同開発されたバージョンと、ローソン等で販売している系統と微妙に違うのでそれぞれ愉しまれると良い。これを一度食べると、ばかばかしくてイオン系スーパーや平和堂で売っている氷いちごなど食べる気がしなくなる。なんと、こんな絶妙な味わいの氷菓がわずか100円なのである。
2007年08月09日
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一月に、父親が他界して以後。順序だてて晩年に父親を取り囲んでいた関係者たちと出会い交渉を行っている。まあ、どいつもこいつもワルなのである。幾分とも礼を尽くして関係者と呼んでいるが、実妹などの緻密な調べでは追いはぎ、強盗の類と大差ない。しかし、本人たちは証拠がなければ、健常な市民でございますと、平然としているというわけである。しかし、ここでもわが母子には怒りがない。あるとしても希薄である。そもそも、晩年に自分の周囲に、こういう「ちょいワル」なヤカラを好んで配していたのはほかならぬ父親なのである。ジャングルで土民の酋長のように君臨していたカーツ大佐のようなものだ。人は、小銭で狂喜乱舞する場合がある。そういう人間観察を好んで積極的に愉しもうという部分も人間にはあるらしい。戦後、そういう性格の男たちを大量に輩出してきたのがこの地上の現実である。小銭に群がるクズのような人間模様。それを好んでいたのがわが父親なのだからしょうがない。この世に、巨悪など滅相もない。ほかならぬ、あなたや私の周囲を見渡せばいくらでもそういう中途半端なワルがいるわけだ。いわゆる巨悪と呼ばれるものも、そういう中途半端なワルの中からでてきた猫又(ねこまた)のようなものだ。本質的に人間に、それほどご大層な差異があるとは思えない。われわれだって、戦場で他国の人々を殺戮してきた祖父母の末裔だし、株式市場では日常のように利食いと称して他人さまの専用離脱なさっていた資産を平気で頂戴することを楽しみに暮らしていたりする。まあ、泥棒と大差ないといえば言えないこともない。そういう父親の関係者たちにインタビューをしている理由も、次第に曖昧になってきているのだが、曖昧になっているからいいので明瞭になれば告訴することになる。この世は適当にしているから、仲良くできるという面もあるのだ。ホッブスは、万人が万人に対する狼であると著書の中で書いている。しかし、狼同士がしばしば同じ閨の中で肩モミしあっていたりするのが人間社会だ。野生の世界でも、食餌に満足している野獣同士が案外相互干渉せずにいたりするということはあるのではないか。面白いことを言う関係者がいた。父親が、わが母と婚姻に及んだに際して「親のおしつけ」だったと独白していたという証言があった。父親が親というのは、自分にとっては祖父のことだ。生前、息子の自分にはそういう下手なことは、言わなかったが他人さま、それもフトコロを狙っていそうなギャング同然の連中に、自分の婚姻についての禍根を正直に述べているところが愉快だ。まあ、それぐらいの事は思っているだろうと推量していたので、驚きはしなかったけれども、よりによってそういう連中に対してしか、ホンネを語れないというのは人間社会の複雑な側面をあらわしている。さっさと意に添わぬ結婚だったのなら、はやばやと離婚しちまえば良かったのにと妹は言う。理由は、よく分からないが滋賀のある年代の人はそういう時に不思議な見栄体裁を気遣ったものらしい。どうやら世界の中心が、自分の自我よりもそういう見栄体裁を仕切る「世間」で出来上がっていたらしい。これは、実の親子といえど、隔絶した差異性である。あの「バカの壁」ではないが、理解を越えている感覚的な相違。これは乗り越え難い。親子、夫婦間でもこのジャンプは、終生難しいのではないか。
2007年08月07日
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前、後の議論をはずしていきなり言えばこの方。あの任天堂の三代目社長にして大躍進の立役者、山内溥氏だ。歩く7000億円というのか、今も任天堂の大株主で10%も保有している。時価総額で7000億円というのだが、株式は簡単に売るわけにもゆかないので帳簿にゼロがたくさんついた数字が動いているだけ、とも言える。ただ、その資産規模の1%だけを京都大学に寄付をした。その1%が、70億円である。なんと、なんとの70億円である。やはり資産7000億円の迫力は存在するものだ。傍系の会社に、父方の親戚が株を持たせてもらっているのがいるがホクホク顔をしている。ホクホク顔をしているが、公益性の高い寄付をするわけでも、ボランティア活動をするわけでもない。所詮、オヤジの親族などどいつもこいつも俗物ばかりだ。それに較べてこの山内溥氏は、ファミコンを世に問う以前から、伝説の変わり者だった。京都の伏見にあった花札屋さん。ここに学生時代バイトに行った連中が、そのままいついて就職したという話を聞いたことがない。それもそのはず、なんどもなんども倒産の風評が絶えなかった。ところが、その任天堂がいまやソニーや松下電器産業の時価総額を上回り。従業員一人当たりの売上げ規模は、2億8千600万円超である。なんともはや唸るしかなかろう。山内溥氏、同社任天堂の役員退職慰労金を惜しげもなく放棄して任天堂の将来のために使って欲しいと宣言したそうだ。怪物と呼ぶべきだろう。
2007年08月06日
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選挙の週から、この土曜、日曜とバイクで走りこんだ。毎月オイル交換をしている。つまり、月度に3千キロほどは走っていることになる。当然、そのあいまにセダンでも走っているので、ガソリンの消費も馬鹿にならない。京都、滋賀、大阪、奈良と集中して地域観察を行ったが印象深いのは日本のデフレは、まだまだ続くのではないかという確信だ。景気が浮揚しているなどというが、どっこい厳しい地域が多いし、立派な商業施設がドカドカと立ち並んでいてさえも周辺はいたって物悲しい雰囲気だ。国道沿いは、レンタルビデオ店、パチンコ店、郊外型大型書店で林立しているが、はたしてどれほど収益を得ているのだろうかと危ぶむ。直感的な印象だけでも、すでに斜陽化しているというようなことではないのだろうか。ただただ危惧するばかりだTSUTAYAという牽引役の乱立は、一見して威勢がいいのだがその周辺に後続するレンタルビデオ店は、すでに旧作100円代というディスカウントぶりである。競争が熾烈な証左であろう。あのパチンコ店でも、往時のような派手な金使いをする人間が減っているとみる。中にはいっても、閑散としていないまでも熱気を感じるほどの店は、次第に減っているし国道沿いの席に座っているのはサクラだというのは、昨今常識となっている。自動車の新車登録台数が減っているのだ。勝ち組筆頭の日産のカルロス・ゴーンですらも不貞腐れているのではなかろうか。比叡山のお近くのソープ街も、これはもう見るも情けないほど凋落的な景色だ。若い人に聞くと、あんなオヤジカルチャー足も向けないと断言する。需要がないわけではないが、もはやビジネスモデルとして陳腐化しているということなのだろう。バブル期の3分の1ぐらいのダンピングを行っても、集客に困難を生じているらしい。一昔前ならば、高級店でつとまりそうな美形の二十代のソープ嬢が、客単価をさげて回転を狙ったサービスに編成がえを行ってもあの侘しい風情なのだから、この国の景気の実態は知れようというものだ。キャバクラ通いのマニア氏に聞いても、終電時間まぎわには誰もフロアにライバルがいないと笑っていた。ましてや、インターネットカフェで、毛布かぶっている兄ちゃんたちがキャバクラで金を落とせるわけもなく、景気、景気と言うがいったいこの国のカネはどこに行っているのだろうと思うのである。このあいだから、東京電力の空売りを試みてあっけなかった。ひきつづき、みずほHDを838000円で空売りを仕掛けたら、目の前で急降下。一瀉千里に、720000円まで暴落したので呆れた。ニューヨーク株式は、持ち直して高騰しているというのに、日本のメガバンクがこのていたらくである。景気回復にも、企業間格差社会が厳然とあるようだ。
2007年08月05日
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憲法違反の疑義があると、さすがに腰が重くど鈍い最高裁すら述べざるをえないような参議院選挙の怪しいインチキ定数を見過ごしたままやれ「野党が大躍進した」だの、「憲法を守れ」だの、「社民党の零落が寂しい」だのと言っている愚昧な人達が多い。たとえば今回、自分と誕生日がわずか二週間ほどしか違わない有田芳生が参議院議員になったと聞いて失笑を禁じえなかった。有田は、同年の立命館大卒。ばりばりのミンセイあがりだ。あの赤旗の編集にかかわっていたわけだから、関西の大学に某前衛政党の機構を駆使して恐怖支配していた当事者のひとりだろう。そもそも芳生というのは、あの時代の共産党員の子弟に猛烈に多かった名前だ。ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ 20世紀にその名を残す独裁者の1人。「スターリン」とはペンネームで、「鋼鉄の人」の意。『赤いツァーリ』の称号で呼ばれることも多い。党内反対派や「反革命分子」に対し、粛清と称して2000万人もの人々を虐殺し、過酷な抑圧政策をとったことで知られる。スターリンの実名にあやかってヨシフなどと名前をつけられた奴を、個人的に6人は知っている。四天王寺の境内で姓名判断されて名をつけられた自分とはわけがちがうのである。有田芳生が、スターリン主義者だと言っているわけではない。あの宮本顕治に楯突き損ねた上田耕一郎らに絡みすぎて、馬の足扱いされて前衛党からパージされるなどという「大儲け」した幸運さ。今回もツキでまわってきた。早い話、政治音痴の都はるみに助られて足を向けて寝られない事態にあるらしい。だが、宮本顕治の党の元エリート前衛党員が、なぜか安倍晋三の翼賛ジャーナリストばりのお追従をくりかえすコメンティターをわざわざやらかしておきながら、舌の根も乾かぬうちに、ふたたび田中康夫の子分みたいなポジショニングをする。これまた知人だか、恩人だかしらないが、都はるみがやけにありがたがって神輿を担ぐ。例によって、例のごとく政治的痴呆状態にあるこの国の有権者の民度の低さを象徴してあまりある。大阪にいた時代、50万票を獲得して落選した参議院議員候補がいた。毎回のことながら、政治的に無効にされてコケにされ続けてきた何十万人もの政治意思からすれば、こんなデタラメな選挙制度を維持していること自体が犯罪的だと思う。今回、野党が大躍進だなどと大喜びしているやからは、どいつもこいつもアホである。今回も、投票場に出向かなかった沈黙する無党派層は圧倒的に巨大な第一党である。有権者の60%にも満たない投票行動で政治の模様が変わっただの、変わらなかっただのと欣喜雀躍している連中は、やはりどこか狂っている。実態で、今回の選挙結果はせいぜい600万票程度で演出できたものだと印象する。しばしば「憲法を守れ」などと声を出して恥知らずな事をいう者たちが、戦後この憲法精神となんら相容れない怪しい選挙制度を護持してきたブロックだ。政治的に無軌道で、場当たり、現状追認でまるで平気というのがこの国の伝統のようである。
2007年08月04日
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滋賀に住んでいると、子供の頃から憧れの小動物や昆虫が日常でゴロゴロいるので愉快さがある。アパートの玄関のドアチャイムには、なぜかいつもアマガエルが遊んでいる。あれは、一体なぜなのだろう。不思議で、調べてみた。どうもアマガエルは、樹上生活者で床には住まないものらしい。英名を TREE FROG というのらしい。どうりでアパートの床ではみかけないわけである。壁面でよりつく先がない中、ドアベルボックスが、一番手ごろな落ち着き先だったのだろう。いつも同じアマガエルが来ているというわけではないのだろう。カエルは、それほど好きな方ではないがアマガエルは可愛い。一応、毒も持っているらしいが人間があまり虐待しないのか、毒もたいしたことがないらしい。ただ触ったら必ず手を洗えとのレポートが多い。佐藤さとる先生の「誰も知らない小さな国」では、大切な脇役だ。アマガエルは、小さな神さまという扱いになっている。飼いやすいので自宅でペットにしている人も多いらしい。水棲なのかと思いきや、あまり大きな容器に水をはって与えると溺れたりするらしい。大阪時代は、せいぜいゴキブリと夏セミぐらいしかご縁がなかった。大阪のセミは、世界で一番うるさいそうだ。なにしろ都市で過酷環境なためにセミ類の中でももっともタフなクマゼミが南方から押し寄せて居ついたらしい。電車の高架下の騒音よりも奴らの鳴き声はうるさいらしい。一応、害虫のはずなのだけれども話題にならなかった。最近、その害が光ファイバーに及びだして少し人類社会が反撃の機会を狙っているそうだ。しかし、あちらからすれば地球には遥かに長く先住しているつもりだから、新参の人類が偉そうにモノを言うな、というところだろう。さわがしいセミに較べると、アマガエルは思弁的で賢くみえる。どうやら自分の守護霊さまも変化したらしい。
2007年08月03日
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「わたしが一番きれいだったとき」 (詩華集「おんなのことば」より)わたしが一番きれいだったとき街々はがらがら崩れていってとんでもないところから青空なんかが見えたりしたわたしが一番きれいだったときまわりの人達が沢山死んだ工場で 海で 名もない島でわたしはおしゃれのきっかけを落としてしまったわたしが一番きれいだったときだれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった男たちは挙手の礼しか知らなくてきれいな眼差だけを残し皆発っていったわたしが一番きれいだったときわたしの頭はからっぽでわたしの心はかたくなで手足ばかりが栗色に光ったわたしが一番きれいだったときわたしの国は戦争で負けたそんな馬鹿なことってあるものかブラウスの腕をまくり卑屈な街をのし歩いたわたしが一番きれいだったときラジオからはジャズが溢れた禁煙を破ったときのようにくらくらしながらわたしは異国の甘い音楽をむさぼったわたしが一番きれいだったときわたしはとてもふしあわせわたしはとてもとんちんかんわたしはめっぽうさびしかっただから決めた できれば長生きすることに年とってから凄く美しい絵を描いたフランスのルオー爺さんのように ね
2007年08月02日
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ビジネスの世界で、えらそうな口をきく奴は「慈善事業じゃねえんだ」などと強欲そうな物言いをする。ホンネで、強盗でもやれるのならばやりたいというのが見え隠れする。こういう連中は、明治にも大勢いたのだろう。今よりも踏み倒しを覚悟したら豪快にやれた時代だろうから、債権側も命懸けで強盗もたじろぐぐらいの剣幕のやからも跋扈していたかもしれない。夏目漱石も、そんな時代を目の当たりにしていた筈だ。金儲けが自由で、人殺しも折り込み済みというのでは社会が成り立たぬ。そこで弱者も実力をもって対峙し、平等に取り憑かれたような一派があちこちで強訴にでて、しばらく血まみれになったというのが欧州近代の歴史だろう。そこで、博愛という論点がおそるおそる登場してきたわけなのだけれども、よくよく考えればわざわざ博愛というような議論を打ち出さなくても人間は、相互に善隣友愛で何万年も地上で暮らしてきたのである。経済の言葉で、「有効需要の喚起」などとわざわざ事更に言うのであるが、もともと歴史社会が形成されるまえから、人間の家族相互の関係はつねに有効需要の貫徹したもので、村もその近隣の交易圏も無効な需要に向けて押し売りを仕掛けるような真似は、少々無理があっただろう。つまり老いて(はたまた傷病で)生産から離脱した者たちも、家族の中では無効な需要者などと考えるごとき「恩知らず」な振る舞いには至らず、それは相互に手厚く扶助されていた筈である。無政府共産という思想は、なんだか勿体つけて19世紀に登場したようであって、実は南米でメヒコ、インデオが穏やかに貪らず暮らしているのを見て帰ったヨーロッパ人が「ユートピア」と、名づけ賛美したのが流行思想として蔓延したようなものだ。後に社会主義とかいって、一部左翼の陰謀団が散々利用したりするのであるが、もとはといえば縄文時代、アイヌの一部がアリューシャン列島をわたりイヌイットに、はてはアメリカ大陸を南下した生活と暮らしの名残を、ヨーロッパ人が羨望目線で描写したものに過ぎない。これは、この日記で繰りかえし述べている。遺伝子分析では、着実に社会科学の研究成果を裏付ける実証もでてきていて、南米のメヒコとは古代の縄文人の遺伝子形成を損ねず今日に至る末裔だと捉え始めた。つまり、博愛が喰えぬ思想なのではなく喰えぬように追いやった「自由主義」やら、博愛の精神を含有せぬ陰謀家らの多数派工作としての「平等主義」が、ここ数百年地上を席捲しているということではないのだろうか。
2007年08月01日
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