全31件 (31件中 1-31件目)
1
暴力と、暴力装置では似て非なるものです。暴力装置と暴力機構が、国の命運を左右するということから、転じて談合する魂に饗する飽食の具にばける。いまやイージス艦も、戦車も2ちゃんねる右翼諸君が思っているような暴力装置的な実態よりも、遥かにゼネコンの談合ハコものに化体しているという側面の方が色濃い。実は、国を守るための暴力にはこの暴力装置的に装いながら国富を蚕食するという談合「公狂」工事のような法外なる「膨力」装置的実存形態がむしろ国家安全保障を揺るがしている。そんなことに気づかない戦争オタクは生きていてもあの世の人。
2007年10月31日
コメント(0)
希ガス元素の一つ。常温、常圧で無色、無臭の気体。希ガス元素のため不活性である。融点は摂氏 -189.2 ℃、沸点は摂氏 -185.7 ℃(融点、沸点とも異なる実験値あり)。比重は、1.65(-233 ℃ : 固体)、1.39(-186 ℃ : 液体)、空気に対する比重は、1.38。固体での安定構造は、面心立方構造 (FCC)。空気中(地表)に 0.93% 含まれているのでアルゴンは空気を液化、分留して得ることができる(酸素の沸点が近いので、これとの分離が少々面倒)。 空気中にアルゴンが存在するのは、自然界に存在していたカリウム 40 が電子捕獲によってアルゴン 40となったためである。希ガスの中では最も空気中での存在比が大きく、空気を構成する物質では第2位の酸素の 20.93% についで第3位の 0.93% である。第4位は二酸化炭素だが、現在得られる資料では 0.03% でありその差は大きい。最近、アルゴンガス屋の手先のような業務で奔走している。アルゴンガスなんて、なじみなさそうだが大気中に結構多いという点。便利なガスだと思う。実は、これが我々の生活に思わぬところで貢献してくれている。一生懸命仕事をして、我々の社会の縁の下で力持ちしてくれているのである。最近は、メッキになりかわって金属などの薄膜はアルゴンガスがつけることが増えている。メッキのように環境への負荷を与える工程が少なくて済むからだ。電圧をかけて電子流を飛ばしていると、電極から金属電子が飛んで膜をつくることが発見されてから新しい技法になった。その際、アルゴンガスが手助けする。金属にのめりこむほどぶつかって金属をたたき出すのだ。このワザが、パソコンのモニターや液晶テレビ、そして携帯電話を作るときに使われている。調べていると非常に面白い。奥の深い技術だ。
2007年10月30日
コメント(0)
↑クリック守屋武昌・前防衛次官(63)との親密な関係が指摘されている航空・防衛分野の専門商社「山田洋行」(東京)の宮崎元伸・元専務(69)が、米国現地法人の元社長(70)に指示して現地法人の資金約1億円を国内に送金させ、うち3000万円を新会社の資本金に流用していた疑いのあることが分かった。みな、国会喚問で耳目を釘付けにしているが、この空中戦が見える眼力が果たしてあるのだろうか?山田洋行と守屋が封殺しようとしていた巨大な組織については「一点透視」ということか。よくよく眼を凝らしてみると、水平線のかなたにみえるものがある。山田洋行と守屋らの綱引きは、実のところ国民の血税をどちらが多くとるのかの角逐なのだから綱引きは片側では成り立たない。この画像を良く眺めれば、綱引きの相手がうっすらと見えてくるだろう。
2007年10月29日
コメント(0)
シャルドネ。>昨晩のブログで、ベンチャー事業の定義を五箇条述べたのですが、黒田官兵衛の祖父は見事に定義に当てはまりますな。(笑) ◆広い意味での近江人の面目躍如だと思います。>>なにもシリコンダイオードが必要ではないし、バイオもなにも関係ない。中世から立派にベンチャー事業はありえたという事でしょうか。 ◆販路のニーズ・薬に応えた製品造りがポイントだと思います。>>ちなみに資産を田圃から人へ、というのは相当な大胆さです。>>価値生産を、やはり労働だと見抜いた点はマルクス並ではないでしょうか?これは真正ベンチャーの面目だと思いますよ。 ◆徳川でこれが後退します。田沼時代、これに気付いたようですが、農民は保守的です。 徳川の家臣団はまるで自民党のようです。 現在、ベンチャーの可能性、法律で縛られていて、闇社会系企業が元気になるわけです。 黒田官兵衛の合理主義(10/27) 杉山巡さん いつも、こちらのブログで独自の創意あるコメントをいただく杉山巡氏です。最近、「黒田官兵衛の合理主義」というブログのコメントで実に秀逸な視点をいただき昨今味わった事のない、ネットの醍醐味を痛感します。四年もログ多産を行なっているだけの甲斐がありました。パソコン通信で、90年代に中小企業庁のキャリア(東大法学部出身)の係長と応酬したことがあります。秀才ですが、この視点がなかった。彼は善意で、本気で日本に研究開発型ベンチャーを澎湃と湧き上がる環境に誘導しようと奔走し、事実相当な仕事を20代で実行した。これは間違いない。そう思いました。彼は、しかし日本の法律と法律の運用、そしてその解釈がふたたび経済社会に対して擬制の法環境の如くに挙動し、多重債権のようにまとわりつき、ついに国土からまともな研究開発型事業者を芽のうちに毟り去っているという現実には、ついに辿りつかなかったと思われました。それを突いて逆上されるよりは、看過して善き仕事をしてもらう。それ以外にネット上での応酬に可能性はなかったのです。しかし、市井のブロガーの中にはちゃんとそれが分かっている人がいる。それだけでも、このようなブログを四年も継続してきた価値があるというものです。
2007年10月29日
コメント(2)
ものはついでと言うものだ。4年ほど前は、このブログではこのネタで毎日やっていた。脱線してから、歯止めがきいていないが一応ビジネスヒントフォーラムだった。lolこれから口にすることは、どこの教科書にも書いていない「真実」だ。NHKの記者が、電話して来た時にも教えてやらなかった。こちらから質問をしたら答えもせず、黙殺しておしまい。そういうのが教育番組でベンチャー事業の特集をディレクターしている。笑わせるのもいい加減にして欲しいものだ。ベンチャー事業は、自分の見るところトランジスタが集積度をあげてICを形成した時代に併走してマイクロプロセッサーが登場するという予感を生じた頃。その時期に発生した概念だと思う。先日も話題にしたが、アリに叩きつぶされる「巨人頭脳」という空想のコンピュータをドイツ人が描いたSF作品では、作家の脳裏にあった未来のコンピュータその機構の素子は真空管だった。ありえないこの世の果ての世界だと思って読んだものだ。いま自分のデスクの上に転がっている。そんな時代が来るなど夢にも思わなかった。鉄腕アトムがジェット推進で大空を飛び交いながら、突然裏庭に降りてきて「おばさん、電話を貸してください」という時代だ。原子力で空を飛ぶ、アトムには携帯電話というような未来は想定されてすらいなかった。ベンチャー事業とは、未来を切り裂く独創的技術、商品、販売方法を擁してこれを事業化しようという独立的な中小企業のことだ。これを狭く捉えたいというのが、ひとつのビジネスについてのスタンスとしてはありえるかもしれないが、マイクロプロセッサーが必須だということではない。バイオや、ITが花形であることは否定しない。しかし、ベンチャー事業には、在来技術の中に新しい知識集約的なものを独自に考え出して商品(サービスを含む)として販売方式そのものの革新を狙うと言うようなものも、当然含まれても良い。一、中小企業であること。二、独立した事業者で、巨大企業や大手の指揮系統に属さないこと。三、急成長を社会から期待される事業テーマをその事業の中心に持ち合わせていること。四、研究開発型、ないしはそれに匹敵する科学的合理性に立脚した技術、考案、独創性を 社会に対して提起し、最終的に公的な総括を受け得る内実を備えていること。五、当該事業者において少なくとも経営幹部、中核職員の胸裏に困難を乗り越え実現への 確信、自身が開発普及させんとする商品ならびに事業に対して「興奮」があり その 興奮の共有が存在すること。「キレイごとを言うな」と云われそうだ。それは違う。うっかりすればキレイごとになりそうな熱いものがあり、それが持続されないのならば止めたほうがいい。間違ってもメンデルの法則を、一秒の何分の一かの速度で言い当てる精神ではなく、生涯を蕩尽して果てても悔いないという魂にのみ付託されるようなボリューム。課題解決であるべきなのだ。
2007年10月28日
コメント(0)
滋賀の中小企業は、おおむね真面目に働く勤勉な従業員に恵まれ農業生産県としての出自を、工業生産労働者となり変わってもその勤勉さから大変質の高い労働を維持してきたものと印象する。ただ、例外的な事例として他府県の風に当たっていない経営者のジュニアが、そのまま企業を継承するなどがあると、不要不急でむしろ過剰装備といってもよいような設備投資を中長期の事業成長を考慮せずに、しばしば慎重なマーケティングもなしに無造作に導入実行してしまい、せっかくの勤勉な労働生産性を削いでしまう事だ。自分が眺めてきた、湖北の製造者も、膨大な厚みのドイツ語で書かれた操作手引きを棚に並べて若い職長が、メモに手書きで手順を記しながら日本の機械でオペレーションしていた経験と類推でかろうじて操作をしなければならないヨーロッパ製の製造装置に孤軍奮闘しているのを至近距離でみていた。三階建てのビルのような、新築の建屋に巨大な装置を導入して朝から晩まで調整に追われていたが、製品がなかなか安定して出力できない。しばしば装置が変調を起こす。研修時期にも、ドイツ語と英語しかできない技師と、英語の通訳を介して意見交換して嘆息しきりだったが、帰国してからも変調はやまず、インターネット経由で東京の飯野ビルにある輸入代理店が現地側と応酬をしてくれるまで方針が立たなかったりする。ばかげた風景だった。この装備導入、実は創業者の子息が社内の誰にも相談せずに単独決済で契約をしてしまったものだ。なにしろ、通常ならば数週間もかかるような製品を、わずか数分で出力してしまうという優れものだが、そもそもそんなに量産して需要があるのかとは考えなかったらしい。恐ろしいことに、国内に同型機種を先行して導入した事業者が何社かあって、そちらの会社との合意があるらしく、近隣県にすら販売ができないという契約を抱えていた。つまり、装置がまともに動き出せば、県内で年間採用される規模のものを数ヶ月もしないうちに作れてしまい、どのみち装置を稼動させることが出来ない運命だったらしい。安い装置ならばいいのだけれども、建屋と地下工事をあわせて軽く10億円近かったらしい。製品を少し広域販売できるものに路線変更できればいいのだけれども、その際にはあらたに金型を購入しなければならないのだけれども、その金型たるやこれまた調整や動作確認などを済ませるまで調整すると本体を含めて別途一億円ぐらいの支出を余儀なくされるという。雪国にもかかわらず勤勉な従業員を多数擁していて、いらざる省力設備を導入したために結果たちまち内部留保の資金が一気に枯渇して会社運営の短期資金にも不如意を生じる羽目になったようだ。このような会社も、昨今流行のROE(株主資本利益率)を狙っていると褒められていたのかもしれない。アメリカからやってきて若い経営者(創業者の子弟)を呪縛する新思想の装いをした経営指針は、実に罪つくりである。これも滋賀特有とは思えないが、まんまと罠にはまったかのように資産の圧縮にかかる。まず従業員への虐待だ。嫌がらせのような真似をして、熟練工やベテランをナンセンスな嫌がらせを行なってまで整理する。資産売りの店開きである。装置やら、手作りラインの金型まで売り払ってしまっていた。立派に金を稼げていた装置を売り、ベテランの生産技能者やら優秀な指導者を追い払い、ドイツ語でペイントされた新鋭機を守るというわけだ。なんのことはない、ROEの思想からすれば「企業価値を高める」という教えになるそうである。滋賀でも油断はできない。えてして地元で世評の高い中堅企業の二代目がやらかすこの種の不始末は、なかなか滋賀の銀行や信金のセンスでは見抜けないらしい。最悪の事業指導の最中に、追加融資を行なっては早晩地域経済の疲弊を招くだろう。財務が窮地になると、ワラをもすがるというのだろうか別途新規事業編成を行いベンチャー事業へ手を染めようとする。第二戦線で盛りかえそうというわけだ。しばしば、自分などはそんな段階などで呼び出されたりする。おかげで外からは、凶状持ちな企業ゴロ同然に見える人もいるそうだ。消防車で駆けつけているつもりが、火事場泥棒と誤認されたようなものだ。地域の経済団体などから呼ばれてほりこまれるのだけれども投入時期を完全に逸している。一度ぐらい額面どうりに弁明させて貰いたいものだ。昨晩も、ニュースステーションで古館伊知郎やらヤメ検事の堀田力があしざまにベンチャー事業を馬鹿にしていたが、こういうデタラメを言う奴が報道番組でコメントを行なうのには閉口する。彼らにかかるとライブドアやら、村上ファンドまでベンチャー事業者だとなる。味噌もなにもごちゃ混ぜでベンチャー事業だと呼びなす。NHKの記者とまったく同じだ。何も分かっちゃいない。
2007年10月27日
コメント(0)
私が彼、グリゴリー・ヤコフレヴィチ・ペレルマンГригорий Яковлевич Перельман、Grigory Yakovlevich Perelman、にこだわるには理由もある。自分は、彼の孤独を理解できる数少ない人間の一人だという自負があるからだ。自分は、90年代を走り抜けてある仕事をした。その仕事が私の仕掛けだというエビデンスは当然持っている。だが、それを披瀝することを求められる事もないし、これからそれを誇示するつもりもない。また、それを自分の業績だと尊大に述べるつもりもない。具体的にいえば、90年代に通産や厚生が新規化学物質と認定した組成のあるセラミックスを積層構造にして、塗膜層を形成した。わたしが仕掛ける前には、無機の教科書で絶対に不可能と言われていた。また、ほかならぬ新規化学物質を世に問うたメーカー自身が塗膜層形成に不可能視していたものを、私が再現実施できるかたちでプロデュースし、具現化した。あまつさえ、その塗膜資材を日本の車両メーカーと商社を通じてアメリカへ売り込み、現在シカゴの地下鉄や大陸横断鉄道で装着され義務づけされるまでにした。実行している企業は、私になんの関わりもない顔で流通させているが、この流通をつくったのは私だ。実証が必要ならば、それについてはいつでも応じられる。日本の経済誌もメディアも一切黙殺しているし、これからもけして私の業績だと認めさえもしないだろう。それはそれで構わない。自分にとっての最高の報酬は、個人の資格ですらその程度のことはアメリカに仕掛けて実現するのだという事。その心証だけが望みだった。それだけを報酬に血飛沫あげて奔走した90年代だったのだ。カネではない。カネを求めることは、何度も可能だった。しかし、私がカネを取得するほうに走れば、この目論見けして実現しなかっただろうと思っている。私は、このことについて誰がどうのように思うとも、私はご意見無用で自分の目論見がアメリカの国土を駆けているという事実だけを誇りにして、いつでも墓にはいれると思っている。私は、グリゴリー・ヤコフレヴィチ・ペレルマンの孤独を斟酌できる数少ない人間のひとりだという自負だけで生涯を終えてまったく異議はないのだ。命がけでさえあれば個人が成せることは、けして侮れるものではない。私は、そう思っている。
2007年10月26日
コメント(0)
グリゴリー・ヤコフレヴィチ・ペレルマンГригорий Яковлевич Перельман、Grigory Yakovlevich Perelman、(1966年6月13日 - )は、自分などよりもひとまわり以上も若い。だが、もう人生を何度か過ごしてしまったような迫力がある。数学者とはいえ、これまで世界的に著名な超人的頭脳が挑んで果たせなかった難題を、ついに解き明かした。豪の者と言うしかない。彼の風貌からは、頭脳の世界で宮本武蔵があらわれたような印象がした。しかし、この「ポアンカレ予想」という難題も多くの数学者の生き血を吸っている。並大抵の難問ではなかったらしい。昨晩のNHKの番組は、素人の視聴者に理解の手立てを与えようとかなり噛み砕いていたが、空恐ろしさに足が竦んだ。これでは、朗らかな少年が人格を破壊してまで取り組まなければ突破できなかったわけだ。それだけは、伝わった。つくづく偏差値など、屁でもないと痛感できた。メンデルの法則が試験に出れば、東大出や京大出の秀才は、一秒の何十分の一で正解を見てとるだろう。しかし、メンデルが法則に辿り着くためには、生涯を棒に振っている。どちらが人類史にとっての大貢献者か。そんなことが分からないものは、たわけである。この化け物のような数学者は、数学者の世界ではノーベル賞とも位置づけられる賞を、数学者としては初めて蹴ったらしい。蹴られたフィールズ賞のほうも、蹴られてたまるかとばかりに。受賞者は、賞を授与されることを拒めないと、あくまで賞を押し付けるつもりらしい。しかし、副賞の一億数千万円は、ついに固辞して受け取らないつもりらしい。まあ、この世の果てをみた男ならではの仕業というべきだろう。
2007年10月25日
コメント(5)
《 ほへと数秘 : 4 EX Std5 》 今日は生まれてこのかた20352日目です。 (前)誕生日から263日目、 次の誕生日まで102日です。 55歳は第8波動年であり、 最も力のある時期です。多くの人が協力してくれます、願望を実現するチャンスです。今年の成果は来期の運気に影響しますので、ぜひ成功を掴んで下さい。 モチベーションは日曜日(生まれた曜日)から底から這い上がってきています。 今日は4波動の日です。 諦めずに頑張ってみる。やりきる喜びを感じましょう。 ☆ 数秘4の基本性質 ☆ ・基本性格根性と体力、気が強い、負けず嫌い。コンプレックスの固まりであり、常々成長を目指し精進の日々だが、やり方がまずい場合が多く、成長のペースは他人以下の場合が多い。頑張りやで根性もあるが、遊び心や余裕が大切である事も学んで欲しい。・人間関係人間関係は不器用である。自分の事で精一杯。何故かほめられると困る。処世術には長けてる、パワフルさで人脈を開拓していく。しかし人をいまいち大事にしない。一匹オオカミ系になりやすい。自分にも厳しいが他人にも厳しい、特に目上に対して反抗し、年下には優しかったりする。ただ尊敬できる人間には従順である。・恋愛恋愛嫌いの人も、恋愛は自分と向き合うチャンスです、避けては成長しませんぞ。ハイな自分を見せても、恋愛には発展しません。好きでもない人に、誤解を与えないように(トラブル注意)。・生活朝一からハイテンションになれる。起きてる間はなんかしていないとダメで無駄に時間を埋める傾向に注意してください。仕事は薄利多売、低賃金長時間労働。自分を安く売る傾向。・金運ただ単にケチケチは金運を失います、お金を楽しんで下さい、みんなと楽しんで下さい。お金を貯めても、情に流されて貸したり、だまされたりしないように。ギャンブル系は熱くなるとダメ(負けず嫌い)。 ☆補正オプション Std5:バランスをとり、数秘のもつ性質の弱点を補正。複数の考えがたまに自己矛盾を引き起す場合もあるが,現実に幅広く適応できる。初心者向き(謎)。サブに数秘5の性質を少し合わせ持つ。 結果、流行感覚アップ、適当さが追加されます。 EX:人を超えた感受性とパワーを持つ、世の常識に囚われない。狂っている。人によって一見普通の場合もある。高次エネルギーのコントロールが課題。 オダギリチガ氏のところで、教わった。紅茶きのこって、昔流行った。もう少しで、飲まされそうになったのを辛くも逃げた。それをふと思い出した。数学で、ポアンカレ予想が解かれたのを知って、100年がかりの大問題が解かれる怖さを知った。明朗な数学少年が、廃人同様になる。明日のジョーじゃないが、灰になるまで脳をすり減らしたらしい。人間って途轍もなく怖いものだと思って番組をみていた。それで気持ちが萎縮しそうになっていたら、「ほへと数秘」だと来た。コケそうになったが、救われた。当たっていそうに思わせるワザが、なかなかのものだ。主観的には、すべて当たっている。凡人の自分らには、ポアンカレ予想など生涯疎遠でいられて良かったのかもしれない。画像は、20世紀最大の数学の難問、ポアンカレ予想を見事解いた。ロシア人天才。Григорий Яковлевич Перельман氏。日本円換算で一億円を遥かに越える賞金の受け取りを拒否している。数学界のノーベル賞であるフィールズ賞の受賞による名誉のみならず、副賞である現金すらも、ともに拒否している。孤高。隠遁。そして狂気の人。
2007年10月24日
コメント(0)
赤福の餅を知ったのは、小学生時代に伊勢神宮へ修学旅行に行った時だ。学年主任が、修学旅行の前に、赤福の注文を取りに各組に顔を出してきた。伊勢には、赤福と御福があるなどと公立小学校の教諭のぶんざいで、餅を売り歩いていた。(恥をしれ!大阪市立五條小学校)当時、すでに赤福餅を薦められることが当然のようであった。赤福の先代は、伊勢の名士だったそうだ。どうせ今の路線は、先代が牽いた。そのとばっちりを後継者が喰らうわけだ。餅屋のジュニアは、左団扇というわけにはゆかなかった。自分は、相当な甘党だが赤福餅は好きではない。あれば食うという程度。御萩の類は、やはり小豆の残っている天王寺ステーション地下の大阪前田と個人的には決めている。餅屋が、汚い真似をするのは子供の頃から先刻承知である。実は、小学生時代。大阪の鶴橋の裏町を走り歩いていた。突然、母親が口にする「ういろ」というのが食べたくなり、生菓子づくりの家に通いつめてとうとう作らせてしまった。あれはかなり嫌な仕事だっただろう。名古屋じゃあるまいし、大阪で。ういろを食べたいと騒ぐ。なんという悪い餓鬼だ。失礼したもんだ。というわけで、多少は生菓子屋が苦労しているのか、結構舞台裏から眺めて知っていた。その代わり賃つきなどといって、餅米を持参したら半分取り上げて鏡餅にするサービス(というのか、れっきとした収益性の高いビジネス)も眺めていた。なにしろ鏡餅をつくってくれるだけで、餅米をせしめては、一年間の製造にまわすといわれていた。ほんとうかどうかは知らないが、砂糖や餅は食糧統制時代には、ほんとうに調達には困ったことだろう。終戦直後には、闇市でご婦人に砂糖を分けてくれるとか、米を望むだけ売ってくれる農家があるなどと騙して山奥で狼に化けた殺人鬼がいた。今からは想像できない砂糖に価値があった。餅は、まばゆかった。早死にした祖父が、赤福の餅は本当に旨いと手放しで褒めていた。農家の惣領といっても、その程度のものだ。自分は、どうしても赤福は好きじゃない。ちなみに、赤福にかぎらず食品メーカーやスーパーマーケットなどいい加減なものである。ダイエー系など、毎朝前日の食肉やら鮮魚をラップをはずして翌日のラベルを貼り付けるのが行事化していた。バイトやパートは、みな知っている。食べるものが無かった時代を通過した連中は、そんなこと平気のヘイザ。世間からどれほど指弾されても断固としてやったもんだ。八百屋や魚屋を駆逐したスーパーマーケットを選択したのは、ほかならぬ消費者なのである。自分から言わせれば、消費者も悪い。
2007年10月23日
コメント(0)
最近、Googleという奴のおかげで旧交を廉価に引き寄せることが可能になったせいか、やけに同窓会のサイトが立ち上がっている。眺めていると、なんだか偏差値の高い大学へ行ったのが幹事をやっていて、あまり面白い集まりだと印象しない。同窓会に集まってくるのは、どう考えても生活に窮している雰囲気の人士ではなさそうに思う。そもそも教諭陣が、高額の退職金拝受して悠々自適の晩年で暇をもてあましていそうな風情だ。こちらは、距離の問題もあるが大阪のど真ん中の出身校の同窓会など気味悪くて近づく気がしない。だいたい、自分には「根城」というものが皆無だ。滋賀は、親の郷里であったにせよ、自分には、いままさに学習の途上にあって所詮は馴染み薄い異郷と同然なのである。大阪は、とりとめなさすぎる。生まれた家は、転々としてどれが生家やら分からない。育った家は、放火で焼かれた家も、道路収容で自治体に敷地ごといっちまった家も、成人してから親が過ごしていた家も、みな他人の持ち物になっている。つまり、出身校と言われても自分には、郷土だとか、「懐かしいの学び舎」だのという思いの拠り所という思いは皆無だ。まあ、運不運という意味では多少不運目な印象だろう。しかし、自分ではこういう酷い境遇は嫌いではない。孤独といえば、孤独だが、どうせ人間は最後まで孤独なのだから、こういふうに最初から地域や社会が自分を露骨に翻弄してくれてきたほうが、精神指導面では有難かったという風に思うわけである。なぜ、出身校のことを持ち出したのかというとひとりの女の子を思い出したからだ。彼女は、中学時代。3年15組の同級生。大人びた美貌の少女なのだけれど、女の子であることを拒否しているような語り口で男子生徒からも、女子生徒からも距離を置いていた。そういう風に印象した。間違いなくきれいな女子中学生なのだけれども、いわゆるアイドルになることを峻厳に拒否するような雰囲気がしたたかに漂うので、生意気な男の子たちも間合いが掴めずに困惑しているフシがあった。だが、クラスの少なからずの少年たちは彼女に参っていたと思う。自分は、どうだったのだろうか。これはちょっと良く分からない。ただ、彼女について眼が追ってしまうのは、謎めいている所作にどうしても気がいってしまうからだ。彼女は、腎臓に深刻な負荷がかかていたらしい。担任と薬の摂取のことでよく相談していた。彼女の愉しいところは、ときどき自分らの意表をつく真似をする。日本国憲法の前文を丸暗記していて、空でゆっくりと読み上げたりする。皆、一体なんのおまじないなのだろうと訝しく感じていても、茶化したりする奴もおらず多分、ますます不思議さが加速していったりしたのだろうと思う。少なくとも自分は、そうだった。日本国憲法について考える時、彼女のことを思い出してしまう。あれは、彼女なりに周囲の男の子たちへ向けて。多少のねぎらいめいた趣向だったのかもしれないと、この年齢ぐらいになると想像できたりする。人間、謎が溶けてしまったほうがいいという主義もあるそうだが、自分は彼女のような謎めいた女の子がこの世にたくさんいてくれたほうが生きていることを豊かにする気がする。30代で、出身校から程近い深夜のレストランで、彼女がひとりで食事しているのをみかけた。腎臓の負担が、進行していないなら良かった。都会のアノニムとして、参加者俺ひとりっきり。とっても豪奢な同窓会だった。
2007年10月22日
コメント(0)
栗林 慧(くりばやし さとし、1939年-)という昆虫写真家がいる。なにげなく人がいるというが、こういう人が「なにげなくいる」日本という国は本当に凄いと思う。なにしろ自分が、弱い柔道部員で汗をかいていた時代に、すでに自衛隊員で、働きながらフリーの写真家になって昆虫を追っかけていたというあたりで、もう戦慄するような人物像だ。氏がカメラマンに転戦した頃といえば、自分の高校時代だ。小豆島で合宿していた自分らのところに忽然と自衛官になった先輩がやってきて、おかげさまで合宿最終日ぐらいにパニックになった記憶が蘇る。いや、栗林氏が、柔道家だと言っているわけではない。おっそろしく氏の活動のエネルギッシュさが、体感レベルで感じられるといいたいのだ。最近、出色の仕事だろうと思うのはオーストラリア北部で撮影されたウミトゲアリの生態だろう。なにげなくNHK「ダーウィンが来た!」第75回がワンセグで流れていた。自分は、パソコンを打鍵していても、テレビ番組をモニターできるのである。しかし、なにげなく眼が泳いだ瞬間に、海を泳ぐアリが飛び込んできたのには驚く。海を泳いでいるだけではない、その速度が秒速で50CMだという。人間の体躯に換算すると一秒で100メートル泳ぐぐらいの勢いだ。このアリ、凄すぎる。海の底の泥地にコロニーを形成しているらしい。これを栗林氏は、自ら考案したありとあらゆるカメラで徹底的に解剖してゆく。昆虫写真家も凄いが、そのカメラに収まった側のウミトゲアリもドハズレ天下一だ。こんな凄い映像番組を、惜しげもなく流している報道番組には、あきれを通り越して痺れる。近日中に、BS2で再放送されるようなので可能ならば視聴されるといい。ちょっと、想像を絶する生態だ。たぶん報道側も、あまり凄いアリなので俄然闘志が湧いてきたのだろう。ついに体表の電子顕微鏡写真まで、飛び出してくる。このアリ、海を泳ぐだけではなく海を体表にためた空気で潜るらしい。つまり、超微細なアクアラングである。巣の中が異変で、海水で圧殺されそうになっても、自身で仮死状態を選び取り海水が巣から脱落するまで代謝を停止するという技まで持っている。これじゃあ、村上知義「忍びの者」がカタナシである。アリもアリで、世界で唯一の生態を持つ昆虫だが、そんな無茶なやつの生態を徹底精査したカメラマンも本当に凄い。あっぱれである。ふと、65年頃に読んだドイツSF「巨人頭脳」(gigant hirn ハインリヒ・ハウザー 1962)を思い出した。この小説は、SFが隆盛でなかったドイツでアマチュアの作家が、書いた作品で作者は60年に他界している。処女作にして、遺作となった。ところが、なかなかの名作で日本に紹介されたのが3年後。自分は、高校時代に、読んだ。主人公が昆虫学者で、1975年のアメリカ産軍共同体の巨大管制コンピューター(といっても、時代が時代なので真空管性で描写されているのだが)を、オーストラリア産のアリを用いて痛撃するという豪奢なストーリーなのである。アリという存在は、獰猛さでは人類の比ではない。人類後の世界が、一瞬見えた気がした。ウミトゲアリ トゲアリの一種。1992年にオーストラリアのマングローブ林で発見された。マングローブ林に住処があり、海に巣をつくる唯一のアリである。泳ぐのが得意で、水に浮くことも可能。 ↑ぜひクリックを!
2007年10月21日
コメント(3)
嘉田由紀子滋賀県知事は、埼玉出身のおばさんだけれども何故か滋賀県と縁が深いらしい。専門が、文化人類学で滋賀を徹底踏査したという。それだけ滋賀に魅力があったのだろう。自分は、滋賀なんて一生近づきたくないと思っていたのに、まんまと住み着いている。仕事で関与したのだが、ものすごく面白い地域だとこのブログでも何度も述べている。京都の人間も、滋賀の県民は毛嫌いしているらしいが、滋賀という地域の空間的な豪奢さには舌を巻いているようだ。とにかく景色は、惜しみなく豪勢だ。自分が、滋賀嫌いだったのはオヤジとおふくろが滋賀出身だったからだ。間違っても足を踏み入れるつもりはなかった。ちょっと感じ方がかわったのは、3年も前に県立琵琶湖博物館に遊びに行った頃からだ。なんのことはない、あの面白い博物館は、在野時代の嘉田由紀子の作品のようなものらしい。少なくとも嘉田の趣味があちこちに散りばめられている。一日いても飽きない面白い施設である。自分が北千里で過ごしていた時期に、頻繁に通った国立民族博物館に似ている。良き前例として踏襲したのは間違いないと思う。嘉田由紀子は、琵琶湖を「里湖」(さとうみ)と呼ぶ。彼女の造語かもしれない。さすがわ文化人類学者だ。また、思いつきではない証拠に、彼女は琵琶湖周辺を30年間ものあいだ徹底精査している。これは凄い。琵琶湖生態系の隠れた権威者だと思って間違いない。滋賀県民は、素晴らしい選択をしたものだ。ちなみに自分は、投票権がなかったので選挙には行っていない。まったく選挙に関心がなかったが、彼女が当選したと聞き滋賀県民を見直した。この地域の住民は、ちょっと並の人物鑑定眼ではないと思った。しかし、政党はど鈍いやからばかりで、嘉田由紀子はすべての政党に推薦を求めたが結果なんと推薦に応じたのは社民党だけだったらしい。おかげで福島瑞穂が胸をはっているそうだ。彼女の書くもので、琵琶湖がらみの話題にはそういう経緯で猛烈に説得力があるのだ。彼女は、琵琶湖を愛しているが危惧を隠さない。かつて我々が生まれた時代には、琵琶湖では一年間に6000トンのシジミがとれた。いまは、わずか200トンなのだという。嘉田由紀子は、これは大変危険なことなのだという。シジミがとれない、とか。沿岸漁民が、生活しずらいという話ではない。琵琶湖という湖は、滋賀県のみならず日本の国富といってよい機能性がある。その琵琶湖の生態系考えると、嘉田は琵琶湖でじゃかすかシジミが取れてわれわれがそれを消費できるという状態が、最適なのだという。シジミといわず、魚類といわず、どんどん琵琶湖の漁業が盛んになり、漁獲が増えるという状態が環境にとって最も良い状態なのだというのだ。理由は、琵琶湖の窒素量やリンの循環なのだという。つまり、琵琶湖はいま富栄養価とは聞こえがよいが、汚染されて有機物が危機的に増えてしまっている。これを生物濃縮で回収することが、琵琶湖の汚染を低減するためにも正しく有効な方向性なのだというのである。そうして、水が澄み関西圏の健康を取り戻すことができるのだ。滋賀県民のみならず、関西圏の都市生活者はぜひとも滋賀県産のシジミなり佃煮なりを賞味されよ。フナ寿司をどんどん消費されたい。まちがっても中国原産のフナ寿司などのモグリ行為を許すな。
2007年10月21日
コメント(2)
すでに学校で習うだけの歴史に退却してしまっている感があるけれども、振り返れば日本にとどまらず家族は世界的にみても生産の中心で、仕事の現場であり、仕事の単位だった。林真理子は、かつてアグネスチャンが仕事場に子供を連れまわした角で、攻撃を加えた。当時、1987年。アグネスチャンは2桁を越える番組を抱えており、むしろテレビ局から子供を連れて仕事を行なってよいなどと教唆されて出産後職場に復帰したというのが経緯だったが、これを林は叩いた。東郷順氏と結婚してこの小説家は、夫君とのあいだに不妊手術の果てに産んだ子供をベビーシッターにあずけて小説を書く。それがプロ意識ならば、家庭はいまや嬰児、児童虐待の現場となりつつある時代の象徴のよう。現代は、地球的規模で歴史的社会に変化を生じてきた流れの極相にある。産業革命以後、工業生産の高度化が仕事の現場を拡張していった。知らぬ間に、仕事をするのは「家を出てゆく」ことになった。当たり前のようだが、実は1950年代まで家を出て通勤するお父さんは町内の花形。羨望の的だのである。確かに家族は、子育ての渦中でもっとも意識される何かとなっている。というのも、農家でも、商家でも、町工場ですら、家族全員が仕事をしていた。子供は、その群れの中に登場すると相場が決まっていたのだ。当時の映画をみれば、わずか40年ほど前の映画のスクリーンにそんな日本の子育て風景はきちんと映っている。林真理子が、プロ意識をうんぬんするテレビ放送局そのものが、経済社会の中で忽然と勃発した子育ての気配のない、異様な空間だったに過ぎない。つまり、産業近代化が日本といわず、世界の職場から子育てを駆逐したのだ。そんな家族の変容は続いたが、それでもなお家庭には食の共同性を維持しようというギリギリの攻防があった。一家団欒とは、火を囲む囲炉裏端でまちがってもコミュニケーションの欠落などありえなかった。家族とは、濃密なコミュニケーションのひとつの極だと信じられていた。しかし自分は、84年に幼稚園児へローソンの100円お握りを買い与える母親を目撃して打ちのめされた記憶がある。すでに弁当とは、外で買ってくるもの。母親が子供のために作ってくれるものではなくなった。つまり自分らの年代は、その超歴史年代の境界にあって、その両方を目撃することになった最初で最後の立会人ということになるのだろう。そして、仕事と食と家庭から離脱した中で唯一の根拠が子育てということになる。だが乳児期には託児所、小学校から塾がよい。塾でもなければ、部活などといって両親から学校は、子供を取り上げる。加えてお稽古事。スポーツクラブ。卑近な例で恐縮だが、父親の自分は、娘に半年前からアポイントをいれて、なんどもドタキャンを食らっている。今年の春、わがオヤジが他界した時、娘の担任は祖父の葬儀は二親等なので忌引は認められないと言い放ち、恫喝をうけた娘は皆勤賞を失う屈辱に耐えられず祖父の葬儀から離脱したという事がある。某県の教育委員会は、現場教員をどんな指導しているのだろうかと暗澹とする。ことほど、左様に現代社会は、子育てを徹底的に疎外(非本来化)している。つまり、現代とは「外食」「職場分離」「義務化/準義務化教育制度」により組織的に家族を破壊する社会で、この傾向はまだ今世紀に徹底して貫徹されることになるのだろう。かつてカンボジアの地において、強権と暴力、殺戮をもって実行されようとした家族の解体が日本では粛々ととりおこなわれて誰も疑うことをしない。この国土は、いわば歴史的なまでの実験場というべきかもしれない。
2007年10月20日
コメント(0)
ふと、気づいた。「疎外」という言葉に、もはや「今」が交差してはいないのか。これは、失礼つかまつった。疎外とは、「非本来」という謂いだ。労働疎外とは、マルクスだと皆思っている。これは、違う。労働疎外を、世界史で始めて提唱したのは、なんのことはないギリシャ哲学だ。マルクスは、それを近代的に再構成したに過ぎない。そして、ギリシャ哲学を今日我々に継承したのは、驚くことにイスラムびとなのである。まあ、それは余談だ。反吐をはく、ゲロをはきだす。人間、身体がうけつけなければ嘔吐する。サルトルは、小説のタイトルに「嘔吐」と名づけたのは偶然ではない。人間が、不条理の極みで、さも物理のように嘔吐するのは理の当然なのである。疎外とは、内なる不条理を外化し、吐き出すことを言う。人間、いくら寛容で我慢強くともある限界を越えれば受け付けなくなる。そんな臨界を描写して、いわく「疎外」というのだ。マルクスは、大工業化へ近代が向かうに際して「個人」の発生を、なにかしら積極的なものだと確信した。それは歴史的な制約のなかで、マルクスにとっては最善な思弁だったのかもしれない。しかし、現代の我々にとっては多少の疑念も違和も表明したいところだ。「個人」が、それほど善きことか。歴史的な社会、経済社会を「個」に向けて最適化することが、本当に我々の「アガリ」なのだろうか。
2007年10月19日
コメント(0)
人類史500万年というが、「子供を生まないでいい」という倫理が勃発するとか、流布するとかいう事態は、どうやら無かったらしい。日本に限っていえば、江戸時代になっても、子供を生むことは、あえて語ることもないほど。人の生涯の一大事。誰も疑うことなく、社会の公的な了解事項という域だっただろう。戦国時代だって、子供をなしで暮らすことをぞんざいにやれていた筈はない。この時代の殺伐、その起源はどこに由来するのだろうか。マルクスは、労働疎外を言う。だが、人間にとってもっとも普遍的な疎外は、子供のいない社会から人類が被る疎外を骨頂とするのではないだろうか。マルクスは、子供をつくらぬ個人の社会に対してなすという種の疎外を見抜けなかったのだろうか。労働する個人の存在を、至上の価値とする思想が勃興した。そうなれば個人は、理念としては人類そのものよりも、個の貫徹について最も価値の位階が高いとなれば、・・・そう、まっさきに子供をつくる必要を見失うだろう。人類を正しく清く維持、扶育しよう。などといっても、いっぽうで実もふたもない。だって、個人が大切だと。そう言われて、たじろいで、退散するだけでは。でも、個人が個人の思想で、子供をつくり楽しいと思う。そういう「一部」の人だけが頼りで、個人主義者の中の、そういう子供を育てて、伝統に生きるという反自然的な動機を抱いた人たちが、担っている社会。それがいまの現代社会、というような倒錯した事態にあるのかもしれない。(この稿、まだまだ続く)
2007年10月18日
コメント(0)
人類が、ついついやってしまう「失敗」は家族前段状態というべき段階にある時代の男女に集中して実行されているように思う。結婚などをしでかすと、だいたい本能やら何やらが起動してきて、とりあえずしばらくは閨房ごとに夢中になる。まあ、仕方がないといえば仕方がない。そういう風にデザインされているものらしい。そこで錯覚がある。これほど夢中でひとつ事に協同一致できるのだから、家族になり地上最大の結合力を得たものと信じ込む。ところが、それではまだ「単なるカップル」にすぎない。そんなもの、どこの男、女のカップルにもあまねく提供された愉しみであって、実に月並みな引力に過ぎない。地上最大であるかどうかは別にして、しばしば痴情的であったりする。ことに、昨今は結婚そのものには特別な意味がなくなった。世間的な意味あいでは、イベントとして面白おかしく執り行われればいいのであって、それをビジネスにしている手合いにはまじめに議論されるそれがあるのも致し方が無い。しかし、実も蓋もない言い方をすれば、家族が始まるのは子供が生じてからだろう。子供ができたトタンに離婚するカップルなど、当初から家族的な結合力がなかった組み合わせだったに過ぎない。子供が生まれたあと、人は親になる。実は、子供が親にしてくれる。子供が、親という関係を形成しているようなものだ。親になることが、人生最大の一大変化であって、童貞でなくなるとか、処女でなくなるというのは本人にとってはともかくも、人類社会的にはたいした問題ではない。そして、この親になるという変化をどのように乗り切れるのか、否か。男女両性の合意形成度が決定する。これが憲法に謳う「両性の合意」が担保すべき最大の課題である。最大の課題を担わずに、「両性の合意」が先行しているのは憲法が条文に記述し忘れたほど自明だからであるが、条文にならなかったために戦後男女は親になることを、両性の協働であることを失念してしまった。実は、閨房に向かう衝動面だけが担保されてしまった。だから全国どこへ行っても交通の要所にラブホテルが乱立している。乱立しているが、あれは親になりそこねた男女にも積極活用されている施設である。間違っても立派な親になるための訓練所ではない。やはり、家族を基礎にしているもの。それは、この親になることの困難さにある。そこにむしろ人類喫緊の課題が集中していると思われる。少子化時代は、実に野蛮な人類の危機である。なぜならば、少子化する時代には当然親が減る。親になる者が少なくなる時代として、少子化社会を考えた者はきわめて少ない。つまり、「両性の合意」が結果的に、親を少なくする方に機能したというようなことが、もしあるとすれば戦後特有な悲劇である。親という役務を経験しない男女は、どうしても人生と生涯を「自己充足」と「刹那的」に考えるようになる。ダブルインカムノーキッズDINKSなどというのは、本人は悦にいっているであるが、人類としては絶望的に終わっている。世界史が産出した、人類腐敗態の極相といってよいだろう。こういうカップルは、「自分の死後の社会」や「未来への発想」は少なくなり勝ちである。というのか、そういうものを持ち合わせがない者同士が、野合しているようなものだ。カルト教団のミニマムな形態というべきだろう。これは、持論ながら侘びだサビだ、ワサビだというが所詮若いほうが活力がある。いろいろな可能性が豊富である社会には子供が大勢いるに違いない。小説でも映画でも音楽でも絵画でも子供がいるから面白い。かつて千里丘陵に暮らしていた時、平日の夕方公園に子供がまったくいないことに慄然としたことがある。大阪の廃墟を走りまわっていたかつての子供である自分には、見事な遊び場と端正な公園の連続のような千里丘陵。そのあちこちに散在する見事に手入れされた公園、また公園。その夕方に、どこにも人影がない。そのことに震撼とする思いを抱いたのだ。美しい公園があっても、子供の走る姿がない社会は、絶望的に殺伐とした社会である。
2007年10月17日
コメント(2)
団塊の世代は「ビートルズ世代」「全共闘世代」「ニューファミリー世代」などとも呼ばれ、我が国の戦後の新しい価値観を生み出してきた世代とも称されてきた。ちなみに、団塊の世代にあたる男性を対象に今年2月に実施されたアンケートでは、「『団塊』を言い換えると何の世代か」という質問(複数回答可)に対し、「ビートルズ」と答えた人が135と最多で、以下、「全共闘」(91)、「グループサウンズ(GS)」(85)、「ニューファミリー」(58)、「アイビー」(47)という順番であった。 ところが、これには異論がある。 全共闘については、団塊の世代が全共闘運動の主力を占めていたことは事実だが、当時の大学進学率を考慮すれば、団塊の世代で全共闘運動に関わったのは15%、多く見積もっても2割に満たないというものである。 ビートルズについても、ビートルズが来日した1966年時点で、ビートルズのファンはクラスで2、3人しかいなかったと、当時高校生であったミュージシャンの仲井戸麗市は証言している。 これらにみられるように、団塊の世代にとって同時体験していても積極的に関与していなかった出来事が、キャッチコピーが先行する形で神話化され、いつのまにか世代に同化していく様子がみてとれる。団塊の世代は、新しい時代を切り拓いた世代と称されてきたが、実は周囲が創りあげた世代観に順応してしまう世代なのかもしれない。国土経営研究グループ 椿 幹夫まっとうな意見だ。ようやく団塊の世代などという実に危うい世代論を、踏み越えて過去を丁寧にかつ冷静に観察する力をそなえた論者が登場したものと歓迎したい。「周囲が創り上げた世代観に、するすると順応してしまう世代」というのはよかった。まさしくそのとうりだと思う。いつも引き合いにして恐縮だが、糸井重里やら、坂本龍一やら、村上龍なんて奴らを眺めていると、しかり、しかり、千度もしかり、と言いたくなる。家族というものを、結果的に徹底的に破壊したのもこの団塊の歴史的な役目だったように思う。現代は、「少子化社会」だと言われる。つまり、子供が少なくなった理由も、この1945~1950年生まれが精神的な意味で「親」となることを忌避した。まかり間違うと親子に友情を持ち込みかねないのだ。フロイト的な意味でいう超自我たることを退けるあまり、未来にも自身の死後にも視線が届くことがなくなり、社会を殺伐とさせた世代である。子供が少ない社会とは、人間が人間らしく育てる鋳型を喪失する社会といって良いのではないだろうか。
2007年10月16日
コメント(3)
民主党案は魅力的だが、財源も提案する必要=津島自民税調会長2007年9月14日(金)17:34 [東京 14日 ロイター] 津島雄二・自民党税制調査会会長は14日、都内で開かれた討論会で、最低保障年金の財源として全額消費税を充てることを主張している民主党案について「非常に魅力がある」と述べ理解を示した。 一方で「財源の見通しがないのにやるというのは政権担当能力のある政党として言うべきでない」と批判した。 今後の年金制度のあり方で津島会長は民主党案に一定の理解を示し、「所得の低い方は幸か不幸か保険料が払えない。そういう人たちを地の果てまで追いかけて保険料と言ってみてもできない。最低保障年金は退職後保証する。保険料を払った人の負担(だけ)でやるのが具合が悪いということになれば、税方式しかない。これはロジカルで魅力がある」と語った。 一方で、基礎年金国庫負担割合を現行の3分の1から2分の1に引き上げることに伴う2.5兆円の財源についてさえ「見つからず大騒ぎになっている。全額税方式とすれば7─8兆円はいる。魅力ある考えだが、同時に財源をどうするか国民に提案する必要もある」と述べた。 これに対して民主党衆議院議員の野田佳彦広報委員長は「評価していただいたが、本音はよくわからない」と首をかしげ、財源論では、2005年の衆院選では消費税3%上げが必要としながら、2007年参院選では消費税を据え置いても十分可能とした推計には、この間に政府が定率減税を廃止するなど国民負担を増やしてきた状況があると述べ、根拠が乏しいとの政府・与党批判をかわした。 さらに、野田氏は「国民に負担を求める前に、国勢調査権をフル活動させ、天下りの根絶、官製談合根絶、特別会計・特殊法人独立行政法人の見直し、補助金の不正受給の見直しなどでどこまで無駄を削れるのかとことんやってみたい」と語った。あの日本売りの売国奴のようだった宮沢やら、その子分である津島だのが大蔵、財務省当局の手先かスポークスマンだというのは自明だ。分かりきった事を、さも難しそうに語っているが、ようするに税金を国民から取りたい、税金を取る官庁である財務省の権益を減じることは絶対に避けたいという「刷り込み」をけして無くすことなく墓にはいるつもりでいる津島らの都合に国民が擦り寄る必要などまったくない。こんな連中を、税金で養っていること事態が恥辱である。民主党の野田もせいぜいイメージが「天下り根絶」、「談合根絶」、「特殊法人・独立行政法人」の見直しなどなど。なんだか、これまでサボっていただけと響く。またぞろ国民たぶらかしのネタにしようという様子だ。天下り廃絶は、響きがいい。憤懣やるかたない国民の怒りの矛先を差し向けるには好都合なのだ。だが節税効果的には、はるかに補助金がらみが大きいだろう。自分も、わずかばかりの研究開発補助金というものを貰った経験があるが、貰って大損というようなシステムごと見直す必要があると思う。補助金が無駄遣いになる理由は、対象となる事業や認定対象が適切に選ばれていない、という可能性。それ以上に、補助金の出動が対象となる課題解決に適切ではないと判明しても、けして出動を取りやめない日本の行政職、そしてそんな行政職に対してあくまでも補助金の使いきりを強要する国賊のような中央官庁の予算使いきり文化が、大きいと思う。うっかり予算規模をあまらせそうになると彼らは、ゴキブリでも追うように巨額の補助金の剰余を無理強いする。自分の経験でも、平成七年など酷い事例を目撃した。各地の自治体で中央官庁から出向させている上級職に、数億規模で追加認定をだし使い切れと指令するのだ。こういう無駄遣い癖のついた行政職を、節税意識の皆無な中央官庁が、指揮指導している限り税源がない、といいつづける津島のようなヤクザな代議士が国会に送り込まれ続ける仕組みとして温存される。往復ビンタのようなものだ。ばかばかしい。財源など、このような売国官僚と親米ポチ政治家らを叩きだせば手品のようにいくらでもある。国民の税金は、堂々と合理的に節約できるのだ。しかも我々日本人の誇りを取り戻すことも同時に可能だ。では、自分のような素人でも簡単に思いつく2兆円規模の財源案を具体的に提案して差し上げよう。日本の映画界では、制作費累計でざっと2000億円規模の活動にたいして、やれ文部科学省特撰だの何だのと御託をまいて50億円もの補助金が動いている。一方で、オタクだのなんだのと蔑視して、日本市場を13兆円も拡大している漫画、アニメの新人育成にこの国は補助金を一切出していない。いってみれば、文部科学省のクサレ役人を漫画、アニメ業界がまだまだ受け入れていないからなのかもしれない。この誇り高い外貨獲得部門に、勲章も与える気はないのだろう。あのビートルズですら、大英帝国は外貨獲得に功績があったと勲章Members of the Order of British Empire を与えているというのにである。日本の官僚が、泥棒であるだけでなく無能である証左と言うべきだろう。ご存知のとうり、日本の知的財産権は2005年には13兆6000億円を越えようとした。その中には著作権、意匠権も当然含まれている。だが、台湾、香港、中国などのアジアのギャングどもは、軽く大量の海賊版で2兆円も踏み倒しているのである。金塊のインゴットで2億円も持ち逃げされたら大騒動だ。ところが、役人が黙殺しているとはいえ漫画、アニメ、ゲームの、ドラゴンボールZや、北斗の拳、ポケモン、ハローキティーは2兆円も泥棒されて日本の役人どもは、沈黙したまま。これは時計の服部セイコーやカシオG-SHOCKだって同じことなのだ。数えあげればキリがないだろう。津村のような脳軟化症なヤカラが税制調査会長を務めるような党が、さっさと政権を去れば税源などウジャウジャあるのだ。
2007年10月15日
コメント(0)
日本で新左翼およびその同伴者へ走った連中は、当時は多数派だったのだろうか。そんなことはない。路上の激突が頻発していた時代だって、ヘルメットの隊伍に参加しない者が圧倒的に多かった筈。いまや全学連と全共闘、新左翼とトロツキズムの差異など理解されもしない時代にあって、団塊世代などと括られて新左翼の時代と重ねられては迷惑だというムキも多いだろう。自分は、彼らの後続世代になるのだが彼らの無造作、無意識は彼らの内部で完結することなく後続する我々を巻き込み、理不尽を繰り返し、しかも一顧だにされてこなかったという恨みはある。団塊の世代は、サルトルを読んだか。読んだかもしれないが、理解はできなかっただろう。サルトルが描写する実存体験は、彼らの撒き散らす不条理を一身に背負ってきた我々の年代こそ頻発して被ったものと確信する。彼らに、シンパシーはないが固有の内在する状況論議をいえば彼らには国家的不条理の連鎖を生きたという義憤があったのだ。彼らは意外なことに、戦後八紘一宇の空が晴れ、アメリカが政治文化支配を貫徹する国土の上でくりひろげられる「言論抑圧の排除」、「人権弾圧の排除」、「政治活動弾圧の排除」、それら要するに近代社会の回復劇を解放軍と錯誤するほど歓迎した。これは最近のWEBに巣くうネットウヨク諸君らには想像できない心情圏だろう。彼らは、なんと当初(つまり幼少期に)アメリカ軍を解放軍だと錯誤すらした世代である。たしかに敗戦以前、日本国内は歴史や洋の東西を問わず必須とされなければならない社会的基盤形成が日本国家に維持扶育できない事態に陥ったために、それを手早に回復するアメリカ占領軍の占領政策がまばゆく映ったことは、あながち責められはしない。哀しいことと、アメリカ占領政策の指令、そのひとつづつが赫々と光を放っていたのである。残念ながら戦争に負けるということは、そういう事だった。国際共産主義者たちが、実のところコミュンテルンなどという虚構の巨大組織をぶちあげインターネット無き時代のまま理念レベルとしても世界網としてとしても維持できていず、ただのロシア陰謀左翼の国際謀略組織同然で機能させていたように、この国でペリー艦隊来航以来、明治維新全期を通じてついに果たせなかったような近代改革のほとんどを「マッカーサーの二千日」で実現してしまった。この夜が明けるような体験をした彼らの一部が、その後わずか十有余年で怒涛のように反米闘争に走る。これはいかように考えても奇異だったのである。かたや占領軍の「改革指令」に狂喜乱舞し、その一方で平和憲法を2週間で書き上げて押し付けておきながら5年後の1950年には「日本再軍備」を事実上強力に指令してくるアメリカに茫然とする。これがいわゆる団塊の世代の内面を読み解く際に欠かせない固有の内実だ。アメリカが踏んだアクセルとブレーキに歪む内面を理解せずに、彼らを読み解けない。そう思う。
2007年10月14日
コメント(2)
新左翼といっても、世界潮流だったのである。ロシア革命で叩き出された左翼反対派というロシア赤色陰謀団の分派が、起源となって世界中にさまざまな党派をもたらした。党派ごとに主義、主張を掲げているが彼らの政治信条を、実のところ担保していたのは結局、ロシア革命の末期的な段階で、ひそかにスイスからロシア入りしたレーニンらユダヤ人陰謀団が実行したロシア革命政権だったと言って良いのではないか。レーニンが、個人倫理としても左翼思想を抱いていたのは偶然に過ぎないと思う。レーニンの革命の原動力には、軍事冒険主義的な傾向を隠しもしなかった新興帝国主義国日本の巨額の工作資金が侮り難く機能していたのも事実。陰謀団は、リアリストでけして思想信条だけで政権が維持できるなどと信じてはいない。だから、60年代のこの国の新左翼とは結局日本的な固有の事情と世界的な新左翼的都合が「野合」したものだったと思う。それら外部的な要因をはずして日本の新左翼の固有性だけを、議論すれば私見では一種の「経済的要求実現」をはかった「都市型多発一揆主義」だと思っている。実は、西欧型新左翼にもこれに似たような事情がある。アナルコサンジカリズムと呼ばれるものがそれで、謂ってみれば「無政府系労働組合運動」とでも言うようなものだ。日本の学生叛乱は、一種の労働予備軍として国公立大学、有名私立大学に収容されていた都市型の知的労働者準備委員会が、企業社会に収容される前に労働争議だけをぶちあげたようなものなのである。巨大前衛党派、日本共産党の下部組織である民青同(全国学生自治会総連合、いわゆる全学連)に対して「モノトリ」と繰り返し侮蔑してはいたが、結局のところ彼ら反日共系と括られた連中にしても、結局は暴力的なスタンスの違いはあっても経済闘争に限りなく近傍にあった。分かりやすくいえば、この国日本から最大利益を与えられんとする闘争ではあっても、国家転覆を目指した社会革命を志向していたにしては恐ろしく稚拙であったのだ。その稚拙さは、幼さ若さのゆえではない。彼らは、最初からこの国を痛撃することだけを目的としていたにすぎない。だから極左と標榜してはいても所詮は、一揆主義者に過ぎない者たちだったのだといえる。しかし、このような解釈はあの時代の空気を吸っていた自分がせいぜい思い出して知恵を絞ってなした要約ではあるが、努力の甲斐ない総括だと言わざるを得ない。遠景からいえば、農村から離脱して都市流入を果たしつつあった企業労働者予備軍たちの事情は世界に同時並行して到来した「状況」だったのだ。これが当時彼らが散々ほざいていた、世界同時革命なるものの正体である。だが皮肉なことに、当時世界で蔓延していた都市化の同時進行は、アメリカがデタラメに増刷した中東原油の簒奪。油買いのドル大増刷が起因していると言わねばならない。今にいたるバブルの連鎖は、実は同根なのではないだろうか。
2007年10月13日
コメント(2)
Re:夜がまた来る(10/11) 杉山巡さん 革マルが警察無線の傍受をずっと続けています。それを雑誌にするという話、核マル幹部と岡留(噂の真相)が相談していましたが、まだ、実行されていないようですね。最近の新左翼持ち上げは赤軍派(北朝鮮から帰りたい組)の社会復帰の地ならしのような気がします。彼らも骨董品的価値しかないのですが、田原総一郎あたりが特番でも組むのでしょう。(2007/10/12 10:26:45 PM)新左翼を語る人は、最近滅多にいない。私見ながら、「新左翼の思想」と「歴史の中の新左翼運動」とは、別物だと考えた方がいい。高校時代に、突然教室に社学同とペンキでかかれたヘルメットをかぶった同級生が登場して、たちまち2桁の動員規模に化けた経験がある。同じ時期に、大阪府下の府立高校、公立高校で一斉に新左翼系に依存度の高い高校生活動家もどきが膨れあがった。これをその渦中で目撃していた。というのか、既存の高校生自治会の顔ぶれがそのまま、ヘルメットをかぶり始めたわけだ。これは、もう端緒ではただのファッションのようなものだったのである。昔、ハーメルンの町はねずみに悩まされていた。ある日、背の高い男の人が市長を訪ねて来て、 ねずみを退治する代わりに千ギルダーをくれるように言った。その男が笛を吹くと、数えきれないほどのねずみたちが出てきて、川に飛び込み、溺れ死んでしまった。町の人たちは大喜び。笛吹き男は約束の千ギルダーをくれるように市長に頼むが、市長はお金を払うのが惜しくなり、ねずみたちは勝手に出て行ったのだと言う。笛吹き男は、笛を吹き、子供たちを岩山の穴の中へと連れていってしまった。子供たちは二度と戻って来なかった。(ドイツ民話) 楽天でこのブログに来る人も、せいぜい一日に300人。誰もオヤジの話題に興味もなさそうだ。それはログ(文字)で読んでいるからだ。文字ずらを読んで共感するとか、感銘を受けるというのは、相当高度に自身の感度を努力して高めてきた痕跡のある方々であって、そうでない大多数の人たちは沈黙して離脱してゆく。言葉で理解してゆく過程と、語られているものとは、かならずしも生態が同じではない。しかし、私にとどまらず人は、言葉をもって思考し、表現するしかないのである。それゆえ、歯がゆいのであるが、私の言及してきたことはほぼ楽天ブログの大多数の読者に、正確には伝わってゆかないとあらかじめ諦観をいだく。断念もしている。しかし、私が語っていることは一定真実を含んでいると思うわけだ。しかし、40年近くあの学生叛乱以後の同年代やら少し上の団塊の世代の挙動を眺めているかぎりでは、あのような笑うべき失態に近い集団的逸脱はこれからも何度でもおきるし、左翼運動のような表面をとらずとも、さまざまな意匠に化体し今後も勃発するだろうと思っている。踏み込んでいえば、このような笛に踊る人たちが大量に社会に輩出された理由の追求こそ新左翼運動などの正しい総括なのだと銘じてきた。わたし以外に、それを行なっている人は、この楽天ブログでも存在しないように思う。見当たらなくても当然だ。カネになるわけでもなく、熱心にそれを言及する人が、それほどいないという理由もあらかじめ分かっているようなものだ。しかし、新左翼の思想。それこそ、眼もあてられぬヘタレな思想だったと思う。けれども。だがしかし。「歴史の中の新左翼運動」を生じさせた機制、メカニズムはどっこい見事に温存されている。これに無自覚な大衆は、まんまともう一度同じヘタレに憑かれて頭をかかえることがあるかもしれない。だから、これだけは言っておきたいと始めた。それがこのブログだと思って貰いたい。ヘタレな思想を泳がすことは、生きているわれわれには許されない。思想の対象化、吟味、検証こそ生きている証である。哲学とは、いってみれば町内のご隠居の繰言。そういうたぐいの思弁を言う。誰かがそれを行なわねばならない。
2007年10月12日
コメント(0)
実のところ、語られている新左翼と60年代の学生叛乱の個々の現象とは本当に疎通があるのかよく理解ができない。あれが思想運動だったとは、いまでも思えない。しかし、周囲の学生や近しい男たちが、突然のように眼の色をかえて誰かを敵だと言い出したり、血走って鉄パイプをかついで乱闘を繰り返すという時代が、ほんとうにあった。証言しているわけでもないが、きわめて近い距離の同窓の中には、パトカーで巡回してきた警察官を殺傷した奴もいた。土台狂気の沙汰で、よく短時間にみなさまご記憶が薄れるものだと驚くわけだ。テレビでは、旧日本軍兵士の老人たちが先の大戦の時代の悪逆非道を反芻して語りだしている番組が繰り返し流されているが、先の大戦どころか60年代あたりの戦後的な風景も相当風化していると言えるだろう。80年代に生まれた青年たちと仕事をしていると、「おお、俺も老人のうちか」と苦笑することがある。彼らの父親なみの自分の記憶が、とんでもなく過去のもののように耳に響くのは避けがたいだろう。それどころか90年代のオーム真理教の一連の事件についても考古学的手法で取り上げられるありさまだ。考古学だろうが、なんだろうが語られるだけまし。60年代の学生叛乱など語る人もいなければ、まじめに耳を傾けるむきすらいないように思う。これが、現代人の陥穽だと思う。陥穽、すなわち落とし穴だ。忘れた頃に、また陥るのは必定である。バブルについても、人々は何度も狂奔する。つまり、陥穽を一度もまじめに埋めようとはしないから、なんどでも悲劇を再生する。オーム真理教だろうが、学生叛乱だろうが、日本人がまじめにこれら過去から学ぶことはしばらく無いのかもしれない。断言してもいいほどだと思うが、ふたたび日本にはオームサリン規模の異変は起きるだろう。学生叛乱は、姿をかえてまた往時を知る人間すら見分けがつかない形でふたたび勃発する。これは不可避だという風に思う。それほど、われわれの社会が過去に配慮、考慮をしないからだ。つまり適当に勃発して、誰知るものもいないうちに熱病のように消えてしまう。不思議なことが何度も生じるものである。
2007年10月11日
コメント(4)
自分は、こちらのブログにやってきた4年ほど前から一貫して新左翼を話題に取り上げてきた。その理由は、間違っても2ちゃんねるウヨク諸君のような視点でもない。はたまた同年代論やら、近接世代論に持ち込むつもりもなかった。とはいえ自分が戦後的左翼主義者を観察してきたには、多少の理由もある。新左翼などというが、いまやすでに遅し。60年代当時の新左翼は、今日もはや新左翼であろう筈もなく、また当時とても新左翼などとはおこがましく。実態で、オールドボルシェビキ(つまりユダヤ系ロシア陰謀左翼。膾炙した言辞でいえば、スターニストとなるのかもしれない)と大差ない。せいぜい、ボルシェビキの異端。贔屓目にみてもボルシェビキの非主流派という程度の運動であったものと確信している。どうも周囲には、生真面目な日本人が多いようで、彼らを本気で額面どうりに思想運動として読み解きするような人たちが、いまでも散見するのであるけれども、それは野暮だと思う。なぜ、そのように読み解きしちまったのかについては次回述べよう。
2007年10月11日
コメント(0)
↑クリック男の色気。そんなもの伊勢丹にも三越にも売っているわけがない。努力しても身につくものか、とっくの昔に諦めている。さっき永島敏行のインタビューを読んでいたら、永島の母堂が「今の男は、50代、60代で色気のある人がいなくなった」とよく言っていたとか。なんの永島も自分も同年輩だし、同年輩をみわたせばWEBでは村上龍とか、舌だし作曲家坂本龍一とかいろいろいるけれど、どれもこれも小ズルそうで小銭はためていても気風よさそうな印象が湧かない。銀座で飲んでても領収書を出版社にまわしそうなイメージが消えない。永島は、朝鮮戦争時代の男がよかっただの、時代に色気があったのなんのというが地方の旅館のおぼっちゃんだった永島が言う色気などまっぴらごめんだ。生きるのにへとへとだっただけで、50年の時間を隔てて昔は良かったといっているだけだからだ。あんな殺伐とした時代に色気を感じるなど、笑わせる。自分は、永島と違って2歳ぐらいから結構記憶がある。いちど自身がタイムマシンであの時代に戻り、生まれた旅館でも放火されて焼け出された経験でもしてみろ。手仕事でつくった大根やトマトぐらいの色気はつくだろう。自分は、この時代に無いものねだりはしない。いまが最高だぜ。
2007年10月10日
コメント(2)
8月まで遺跡発掘現場を観察していたときは、関与している人たちの世代が高く60代など珍しくもなかったので、概して居心地が良かった。30代以下のフリーターも多かったが、彼らもちょっと現代離れしたアーティストなどが多く、職務が経済社会を切り取って自然と選別をしているのを体感できる。土木作業員よりも、遥かに厳しい作業だが皆迷いもストレスが少なそうだった。個別に聞いていても、土や自然観察に関わると比較的心が沈静させられるのかもしれない。なかに面白いオジサンがいて、パソコンは諸悪の根源だと繰り返し言っていた。たしかに、パソコンは戦後というか、現代を著しく変えたように思う。30代までに早々と億万長者になるというようなチャンスを一部の若者にもたらした。しかし、それ以後は経済社会の格差を増幅することはあっても、それほど新しい世代に魅力のある道具という印象も湧かない。携帯電話もしかり。登場した頃の、輝かしいイメージはすでになく、うるさくて堪らない。80年代に、上野千鶴子が携帯電話がもたらす男と女の関係性の流れに異変を示唆した時には、やや訝しく「ホンマかいな」ぐらいの気持ちで彼女のエッセーを読んでいた自分がいた。頭で理解していても、感覚がまだどっぷりと戦後的風景で育ったままだったからだ。いま、回顧的に彼女のエッセーを思い起こすと、当時彼女の言説を遥かに現実がぶち抜いているのを痛感する。とりあえず、ベンツに移動体通信として自動車電話を装備していた人士が、嬉しそうに周囲に誇示するように利用していた時代の電話の眩さはもうない。そもそも移動体通信社は、早々と疲弊して終焉を迎え市場から消えた。笑うしかない。パソコンが、諸悪の根源といわれるほど嫌われている事情は分かる。格差社会を増幅する尖兵。この憎たらしい暗箱の正体のひとつであることは間違いない。その証拠にパソコン習熟もスキルも低い遺跡発掘のおじさんたちは、ストレスが少なく快活で愉しそうだった。その一方、まだ30歳にもなるやならずで個人資産を10億ほども積み上げた若い経営者などは目つきが悪いし、女性には不自由しない筈なのにカリカリして、性的にも消化不良を生じているふしすら感じた。個人的な偏見かもしれないが、最近の20代は実にショボクてへこたれている子も多いにせよ、多少感覚的にまともな日本人も増えてきた印象がある。とことん駄目なのはバブル期に成人した都市部の40代と、現代状況を完全に桎梏として焦燥している50代以上に多いように思う。60代から上になると、もはや現代をどこか「あの世」的俯瞰でみていられるので、すでに達観していられるのだろう。諦観に満たされているように思う。いま中国沿岸部では、経済的なバブルだという。十年後、いまの日本人のような風景が彼の地にも生じるのだろうか。
2007年10月09日
コメント(0)
滋賀に一昨年越してから、AMAZONでの買い物が増えた。書店で衝動買いするよりも、結局手ごろで安く仕入れていると思う。書籍以外でも、結構いろいろと買い物をしているが次第に巡回のコースが固まってきた。電化製品、パソコン、時計、雑貨なんでも一応このコースからはじめる。一、AMAZON二、ヨドバシカメラ梅田三、ビッグカメラ京都四、YAHOOオークション五、価格ドットコムこれぐらいで、探し物は飽きてくる。いくらほりだしても無駄。折り合いがつかなければ、AMAZONのウォッチリストに登録しておく。価格が安くなれば毎回連絡してくれるので、それから買うことにして放置する。これが、見事に安くなる。価格があがろうが知ったことではない。瞬時高騰しても、早晩安くなる。高値になったままならば、諦めればよい。もっと安くて便利なものが登場することが多いからだ。不満が多いのもAMAZONで、サイトがでたらめに分かりにくい。最初に登録してから、丸二年ぐらい買い物しなかったぐらいだ。それでも、サイトのレイアウトもデザインも変わらない。余計な情報ばかりを送りつけてくる。ノイズばかりだ。肝心な情報に辿り着けないような情報は、購買欲を削ぐ。プログラムだけ、得意でも消費者を規模で捌いてきたようなショップ経営者のようなあきんど嗅覚は、のぞむべくもない。気づくのには、多少時間がかかるということか。しかし、パソコンを売っている店の店員のIT化がまだまだだなあ。商品には詳しくても、商品が稼動して動き出した先のイメージまできちんとアドバイスができる人が少ない。安いからといってうっかりGATEWAYとかe machineなどに手を出すとロクなことがない。授業料は、これまでたっぷり払った。
2007年10月08日
コメント(2)
現在、弁護士や調査部でIPアドレスから名前を割り出し、住所の特定を探し出しているところ。ウィキペディアは問題が多く、組織にはなっていない。創始者であるウェールズという男は、実にいい加減な人種である。そもそも、ボランティアで百科事典と称して、お金も出さずに、学生や主婦、学者に資料作成を呼びかけている。文章を作るには、本来の百科事典では、膨大な時間と筆圧が要求されるので、資金と時間の軽減のためにこのようなものを思いついたと思われる。しかし、完全に落書き帳のようになってしまったり、役人の政治に利用するケースが後を絶たない。名前を伏せているために、勝手なことを書く連中が、どの国にも起きている。そこで、私のことを書いたものは2人おり、一人は岩瀬透(写真)という31歳の若者。住所を割り出すのは時間の問題であろう。このようなものに勝手なことを書かせない為に、ハンドルネームから名前の割り出し、住所、電話番号まで抽出する。私以外で問題が生じた場合、裁判に利用できるための資料を少しずつ作成し提供する予定である。同時に週刊雑誌にIPアドレスと実名を提供してゆく。日本にはウィキペディアの支社がないが、日本チームの代表が、福澤俊という20代、お宅族の代表になっている。インターネットの功罪の中では、罪にあたる部分が多い。だが、中には仕事をしながら真面目なスタイルで頑張っている人もいるが、悪に利用されないとは限らないので、いずれこの組織を壊滅させたいと考えている。今回は、こちらで真面目に供養する人の阻害をしたことで、供養する人にとっては大きな損害を被ったであろう。毎日利用しているインターネットだが、舞台裏では仮想世界をいいことにネグラ同然にしているヲタク同士が熾烈なバトルを繰り返しいるらしい。20代の切れやすい青年たちが、社会公正の良俗感覚を養うまえにパソコンという所詮は道具に過ぎないものを多少世間よりも先走って使いこなしているだけの分際で、乱暴狼藉、すき放題というのは路上を走る暴走族と、いったいどんな差異があるというのだろうか。そんな中で、最近知った。Tietewと名乗る人物が、WIKIPEDIA日本語版が「恣意的削除の嵐」の首領さまだとか。嘆かわしい限りだ。なぜ首領さまなのかは、よく分からないが尊大で、傲慢な世間知らずな青年が本来ならば高い公共性のある筈のネット上に展開された巨大百科事典を指揮支配しているという現実は、知っておいたほうがよさそうだ。はしなくも彼と衝突中のヲタク陣営の暴露でその様相の一旦がかいまみえた。笑うしかない。いずれも、よく似た人種なのだろうとは思うが、バトルにも多少の効用があるというものだ。実をいえば、私自身もWIKIPEDIA日本語版上でこのTietewなる人物に「投稿ブロック」などという私的制裁もどきを被った経験がある。
2007年10月07日
コメント(1)
↑クリック無添くら寿司の田中邦彦社長は、自分よりも一歳上という比較的年齢が近い。近いといっても、自分らの年齢の一年は劇的に違う。一歳上では、就職が普通にできた。自分の年には、いきなりニクソンショックで、就職説明会そのものに選別の論理が働くというありさま。極端な企業では、私大出身者は就職説明会に参加させないというほど酷かった。だから羨ましいということではなく、鍛えられた先が違っている。装置や設備をつかって収益を生産するというビジネスモデルには自分は縁がなかった。だから、革新的新規性を思考のモデルそのもので問われるという次元で動くしかなかったのだ。残念ながら、この国はアイデアや着想を有価証券に化体させるとか、それに与信を付与して金融が発動するとかいう風なシステムが存在しない。存在しないのは法科が金融の元締めの財務省を支配しているからだ。だからオーム真理教が、霞ヶ関に毒ガスをばらまくような国に成り果てるのである。それは余談。くら寿司の田中邦彦社長は、廻る寿司のベルトをあのE型で家族囲い込みを着想して実行したパイオニアだ。考案には、店舗のレイアウトやら自動廃棄システムやらに並んで、モニターで景品が当たるようなインセンティブに至るまで並みの発明家ではない、創意を知財化させるアイデアマンだ。反面、自動廃棄システムでせいぜい5%だった廃棄物を、10%まで増加させ眼も当てられない事態も招いたらしい。しかし、逆にいえばそれまで5%も不味い鮮度落ちの寿司を消費者が食べさせられていたわけであるから、このシステムは消費者に支持されたと見てよいのだろう。その動機には、一人っ子で子供の頃に両親と一緒に食事ができなかったという事があるという。ビジネスに着手し始めたときに、家族を取り込んで家族でとる外食で、楽しいアミューズメントを付加するという発想が機軸にあったらしい。ひとつの統覚が、幼児体験だったというのは面白い。それが店舗設計に貫かれていることで消費者に一種の慰藉の共同性とでもいうような提供力を個々の店舗に持たせることができるようになったらしい。回転寿司チェーンが嫌いで、利用したことが少ないのだが、また機会があれば店舗に出向いて近接観察してみたいと思う。
2007年10月07日
コメント(2)
「感覚の共有」などと言葉では言えるが、簡単なことではなさそうだ。そもそも、感覚と呼ばれる事柄は、普通は個々人の属人的な領野のもの。かなり幼い子供でも「自分のもの」であれ、「他人(周囲)のもの」ではないということを会得しているらしい。感覚などと言葉を与えて、すかして考える習癖は確かに後年に待つとしても、乳幼児期から人間は、感覚に自己所有された「もの」としての統覚がそなわっていると思う。具体的にいえば、I HAVE TO PEE. オシッコせねば。オシッコしたい。こういう英語は、習わなかったがテレビで外国映画をみていると飛び出してくる。なるほど、オシッコには痛烈に感覚があって外化して一瞬たりとも早く開放されたいという取付くような感覚がある。これを子供たちや乳幼児ですら「張りついているもの」として意識をしているために、彼我の差ありと瞬時に見抜けるわけである。この感覚を共有するなどといいだす部課長は、いってみればアホである。まして、この感覚に傾斜性があり、その傾斜性をそれぞれ吟味しながら言い当てるというこれまた統覚(ある種の高次な感覚)が、登場するまで感覚を共有するなどということは実は不可能なのである。感覚の変異を察知する統覚は、感覚であって感覚ではない。これには人間の作為というのか、努力というのか、感覚の方法化というのか、ようするに「態度」を要求される。この辺の事情は、どうも西洋人のほうが上手らしい。日本人は、感覚は最初から共有されるものと思い込みしたい動悸があるように思う。つまり、動機の強要こそが、感覚の共有というメッセージの裏の真相なのだ。実は、この強要はながらく日本では成功してきたらしい。その証拠に、自分の近親には強要を強要とも思わずに今だに幸せな暮らしを維持している人たちも多い。ところが、自分ら戦後、とりわけ昭和三十年代に思春期を過ごした世代以降では、この共有やら強要が日常茶飯事で、どれほど酷いハードルを繰り返し乗り越えてきたことかしれない。いわばハードルリレーの錬度では、日本の歴史でも最大の体験をこうむってきたように思う。ところが、今度はそのハードルを越え続けて、妙に錬度が高いという感覚が、忌避されているのを実感するようになった。つまり、人々が組織や地域の中で、内向だか閉塞だか停滞している時代には、感覚の差異性について、みょうに統覚を鍛えていることが不利なのだと感じはじめている。見ざる、言わざる、聞かざる。残念ながら、これは極意中の極意ということのようだ。
2007年10月06日
コメント(0)
滋賀で、ここのところラッシュアワーに電車移動している。湖西は、間抜けな地域で比叡山から滋賀の中心に出ようとすると一旦は、京都のキワである山科まで出かけなければならない。山科から出直しで大津やら、草津やらに出向くのである。それでなくても、屈辱なのは家父長制温存県にありがちなバイクへの偏見がまだあるようで、日々の生活に最適化されているバイクの選択にもかかわらず移動時間が倍以上、移動経費は3倍以上もかかるのにJRで県内を移動しているのである。しかも山科あたりで駅の階段を上り下りせねばならない。ラッシューアワーに駅の階段の登り降りなど本当にばかばかしく、不条理極まりない。そもそもそういうばかげた企業の理不尽が嫌いで、組織に属さずフリーで過ごしてきたのである。我流で世渡りしているが、別になに不自由はない。組織に所属して、報酬が増えるわけでもなし。むしろうっかり企業内部で雇用契約を採用してしまうと時折、年額報酬総額が激減する場合も多い。今回は、請われて託されたテーマが自分にとって過去十有余年やってきたことの集約的なために、それならばと始めたものなのである。それにしても企業は、個人とは隔絶した合理性を追求している運動なのだと、改めて驚くばかりである。無論、規則規約合意などを裏切って黙ってバイクで通勤するなどを実行しても、滅多に見つかるような地域ではない。しかし、とりあえず企業側の諸規則の状況下で、いちど日常を過ごしてみてその妥当性がどこにあるのかを見極めしたいと考えた。しかし、所属する研究所に到着するまで一時間以上はかかる。バイクで移動したのならばわずか30分ほどの場所に実に無駄な経費の浪費そのものだと思う。こういう企業の規則は、どうしてQCにかけられないのだろう。「たて社会」が維持されている理由は、どこかに何らかの理由があるからなのだろう。腹をくくって、新しい時代を合流するためには組織内部の創意を横断的に形成しなければならない事は昨今自明である。これは、おそらく私見ながらこののちいかなる権威、権力をもってしてもけして忌避できない現実であろう。滋賀という地域性が、どうのこうのと言ってみてもけして悪しき伝統の継続はもはや成り立つわけもなくさっさと年貢を納めればよいのである。にもかかわらずなぜか優良中堅企業ほど、まだ過去数十年ほどの経済社会のわずかばかりな成功体験に縋り、実のところ高々慣性程度のものに過ぎない古い習い性にこだわって、地域に新しい芽吹きのレベルを「たて割り都合」で切り刻んでいつまでそれが許されるというものだろうか。実は、自分は数年前までメールマガジンを配信していた。その際に、日本的な風景の中でいかにして急成長期待型研究開発ベンチャービジネスが成立可能かを突き詰めて行くとき、どうしてもこの企業、組織、地域を横断するような創意の連鎖が必要だと痛感したのだ。このボトムアップが、どうして形成できるのかについての完璧な解答を持ち合わせている企業は、まだまだ少ないように思う。
2007年10月03日
コメント(2)
全31件 (31件中 1-31件目)
1