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昨日は朝から浜田城に登城。浜田に泊まったのは松江で宿が取れなかったため。未見で続100名城のスタンプがまだだからこの機会に。浜田城は関ヶ原後の築城、長州征伐に敗れ自焼退城。そのため建物はなく、残された石垣が残るのみ。三重櫓があった本丸からは、北前船の停泊地外ノ浦が見える。散策してると小さな寺があった。重文の阿弥陀様がおられるようだけど誰もいなくて見られなかった。それにしても島根県は広い。山陰線はローカル線そのもの。浜田からも広島や大阪への移動は高速バスが主流のようだ。ふと思ったが青春18きっぷって実は増収になってたりして(笑)。
2024.05.06
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昨日は朝から、しおかぜとやくもを乗り継ぎ米子城へ。新型やくもじゃないけど…。行ったことはあるがその後続100名城になったのでスタンプを押すために。登り石垣は前回は見なかったと思う。全体に石垣がはっきり見えるように木々を伐採したようだ。駐車場はそこそこ賑わってるが観光地というほどでもない。次の汽車まで時間があったので重文の後藤家住宅を見学。廻船問屋。今もお住いのようで外観だけになる。
2024.05.05
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昨日は、青春18きっぷの旅。続100名城、広島県本郷駅から新高山城を目指す。駅の近くの市の施設でスタンプを押す。しん高山城じゃなく、にい高山城なのか。ここまでは晴れ。沼田川を渡る、城が見える、ちょっと険しい。左手が新高山城、右手が高山城。どっちも登ろうかな。小早川隆景によって、高山城から新高山城に本拠が移された。三原城に移るまでの本拠。案内図によると、駐車場から本丸まで1000メートル。鐘の段への分岐の番所跡まで570メートル。登り口で杖を借りる。何も案内がない最初の570メートルが特にきつかった。雨が降りだすし…。番所跡からは、100メートル(匡真寺)、230メートル(中の丸)、100メートル(本丸)、70メートル(詰の丸)とポイントが続き気分的に楽!最高地点197メートル到着。案内テープを聞く。ここからは対岸の高山城と本郷の町がよく見える。雨が強くなったので散策は止めて一気に降る。休み休み歩いて、駅から往復2時間半。登城中8人とすれ違った。城もブームかもしれないな。これでスタンプ押したの106城。まだまだ半分、昨年は2城だけ、このペースだと生きてるうちには無理(笑)、先は長い。
2024.01.08
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昨日は朝から北陸新幹線かがやき、満員。長野駅や富山駅で降りる人は少数。金沢人気が分かる。北陸(長野)新幹線には何度か乗ったが、飯山駅から先は初めて、日頃の行いの悪さのためか荒天。寒くなる予報だったので一昨日から冬仕様。富山駅ではくたかに乗換え座るとすぐ新高岡駅に。8号車付近のエスカレータを先頭で使ったら乗換え時間4分。新幹線駅とは思えないレトロな設備の城端線に乗換え砺波駅。ネット経由で予約しても新幹線から在来線に乗換えると紙切符が必要。本当は自転車の予定だったが雨、タクシーで往復、散在だ〜。続100名城にして史跡の増山城。かなり離れた施設でスタンプを押す。標高100メートルの山城。神保氏が城主で上杉氏と戦い、前田氏の時代に廃城。熊はいないと聞いたが、熊鈴を付けて登城。休憩所から主郭の二の丸往復だと1時間かからないくらい。二の丸と安室屋敷との間の堀切は立派。比高は丸亀城より低いだろうな。どっち何メートルとの案内板はたくさんあるが、全体の中のどこかすぐ分かる表示がない。現在の城主らしい昇太のガイド聞けばよかったかな(笑)。小雨とは言え、雨じゃなきゃ楽しめたろうが、雨で服が濡れるので歩き回らず下城。こんな雨の中登城するもの好きはいないと思ってたら、降りたとき合羽を着て登ろうとする二人組に出会った。
2023.11.11
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昨日は少し曇ってるけど雨は降りそうでないので、財田町の橘城(天王城)跡へ。財田小学校と運動公園があるところの山が城跡。比高数十メートルで簡単に登れる。橘城の城主は大平国秀とされ、獅子ヶ鼻城主大平国祐の弟。大平氏は藤原秀郷の後裔。山上の主郭は平坦で50メートル四方くらい。神社が鎮座している。周りが高いのは人工の土塁であろう。空堀と見られる窪みも残ってる。
2023.06.05
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五台山から桂浜にMY遊バスで向かう。浦戸大橋のかなり前と桂浜の手前で渋滞。龍馬記念館前で降りて浦戸城を探索。長宗我部氏の居城。国民宿舎建設でかなり改変されたよう。国民宿舎と龍馬記念館がある辺りが本丸のようだ。遺跡にこんなことしてて大丈夫か高知県に高知市さん??小高い森に天守の看板を見つけ満足。この脇の石垣は本物だろうか?二ノ段との表示があるとこにも石垣が、これ本物かなぁ。石垣から灯台の横を龍王岬(桂浜の写真の神社があるところ)まで降りて行く。龍馬像まで歩き、土佐藩の浦戸砲台場跡を確認。周囲の土塁が当時のものかは不明。案内板があるところに弾薬が貯蔵されていたようだ。高知駅までは路線バス700円のところMY遊バスで1回無料。1000円でこれならMY遊バスは優れもの、MY遊バスの方が安いし、竹林寺の拝観料200円割引もあった。そこから城の北にある大川筋武家屋敷(旧手嶋家住宅)を見る。24万石の250石の馬廻り、いつを基準に置き換えるかだけど、大企業の課長クラス、確定申告が必要かどうかくらいか。城の西をグルっと回る。高知城も整備が下手。訳の分からないイベントで城を痛めるのでなく、もう少し地に足つけた整備をしようよ。堀を埋めた城は格が落ちるのを感じる。幕末の藩校到道館の門を見て、旧山内家下屋敷長屋門(重文)を見る。せっかくのMY遊バス、記念に路面電車にもただで乗った〜。
2023.05.06
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昨日は朝から京成の大佐倉駅で続100名城の、もとさくら城のスタンプをゲット。歩いて城跡に向かう。案内が乏しいのは、駅は佐倉市だけど城の大半は酒々井町だからなのかな。しばらく歩いて、小高い丘がそうかな。戦国時代に下総を治めた千葉氏一族100年の居城、豊臣秀吉によって滅亡。将門山に築かれた内郭7郭と外郭が3郭からなる連郭式平山城。城跡のうち内郭が史跡指定。見えたのは東山。大佐倉駅からは北方向の東山虎口から入城となる。案内所(ここにもスタンプ設置)でガイド受付中。所要時間1時間ほど無料とのことで申し込む。見学者は私を含めて2名でガイドも2名。ガイドがベテランの方だったようで見習い1人と案内所の1人も参加合計4人。東山の上からは印旛沼方面が見えるがあいにくの曇り空で筑波山は見えない。虎口を一旦出て、セッテイ山と倉跡の間の空堀へ、城山と奥ノ山との間の堀切を見て、回り込むようにⅣ郭、倉跡、奥ノ山から主郭(城山)へ。主郭には主殿があり庭園もあったそうな。ここから引き返すところ外郭の向根古谷の馬出し跡と思われるところまで案内してもらった。根古屋とは東日本で一般に城のふもとの居住区画等を指すようだ。これだけの広大な範囲、維持出来たか疑問は残る。その後、住宅地になってるもう一つの根古屋の脇を通り、古墳も将門神社も経由して大佐倉駅まで。1時間50分ガイドしてもらった。
2023.04.23
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昨日は、午後は彦根城。特別史跡にして、天守は国宝、玄宮園は名勝。京極口から入り内堀へ。桜はもう終わってる。鉢巻石垣も綺麗やな。大手から入ると登り石垣がはっきり分かる。昔は見にくかった記憶があるから伐採したのかな。天守閣は外国人さんが多いなぁ。入るのもちょっと待ったが、中はかなりの渋滞。最初に来たときは、誰もいなかった。城って密かなブームから定着した人気になったようだ。急に強い雨が降り出して天守からの坂を濡れながら黒門から堀端まで下る。玄宮園までの間びしょ濡れ。玄宮園に入ると晴れ間が出てきたけど…。雨が降ったり止んだり、登るときに降ってたら、登城は断念したろうな(笑)。
2023.04.09
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昨日は朝から高松城へ。史跡・100名城。重文は、月見櫓・水手御門・渡櫓・旧東の丸艮櫓と大正時代に建てられた披雲閣(旧松平家高松別邸)。桜ノ馬場くらいしか桜がないので、建造物と桜といったテーマを撮りたい私には難しい場所。土日祝開いてる再建がなった桜御門の建物内に入る。ここで香川県庁に苦言。文化を育むべき県民ホールと県立ミュージアムが城の景観を台なしにしている。行政による文化財破壊の典型例。私だけの感じ方と思っていたが、職歴も違う知人が同じことを言ったので同じ思いの人も多いのではと考えた。高松城を愛する人たちには、天守閣復元に気を取られることなく城下町と一体となった景観と歴史を大切にしてもらいたいなぁ。豆知識、私は旧 丸亀藩領に生まれた善通寺市民だけど、旧 高松藩領に生まれた善通寺市民もいる。多度郡と那珂郡(櫛梨は丸亀藩領)で分かれる。あっ、旧 多度津藩領もあったっけ(笑)。
2023.04.03
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昨日は朝から空が青かったので丸亀城に。史跡・現存12天守・100名城。天守と大手一の門、ニの門は重文。桜が満開の中、大手門から見返り坂を登り扇の勾配と桜を見る。三の丸、二の丸経由で本丸まで、天守を。二の丸の井戸脇からぐるっと周り三の丸を再び通って、搦手から下る。今は北側が大手になってるが、敵は南から(長宗我部をイメージ)のため元々は南が大手。南側からの登り口の方が櫓台は充実している。南西の崩落した石垣の工事は令和10年まで続くようである。丸亀市役所に苦情を言うけど、せっかく北側のガソリンスタンド他が立ち退いたのだから、そこも含め現在駐車場になってる北側の外堀を復元すべきだ。城の風格の向上と景観の維持から考え、櫓や御殿より優先順位は高いはずだ。買収&公約違反の市長にはその能力も歴史への思いはないか…(笑)。
2023.04.02
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前日から天気が良さそうだったので昨日は福山へ。駅を降りたら目の前にある福山城。でも「見たか見てきたか福山の城を 前はお堀でボラが住む」と謡われた堀はすべて埋め立てられてる。城好きとそうでない人の違いは、天守閣を城と呼ぶかどうかだろう。ついでに言うと城好きの中の天守閣好きの割合は低い。好みは土塁や石垣、堀など。維新、戦災いろんな要素はあるが、福山城の物足りなさは行政の城に対する理解のなさの結果と言えよう。福山城天守閣は第二次大戦で焼失したので、資料は残ってたはずだが、外観復元の精度は高くないようである。北側には昨年史料に基づいて鉄板か貼り付けられて黒くなってる。城の弱点というか予算不足で築城時に手が加えられなかった北側の五千石蔵跡、護国神社、小丸山を巡る。この辺りも改悪が行われ江戸期の状況は分からなくなってる。現存する建物は、重文に指定された伏見櫓と筋鉄御門だけかも。本丸を使ってイベントが行われたけど、これって城好きの私には、迷惑なだけ。戦災で焼け、他に土地がないなど事情はあるとしても城本来の意味を考えたイベントを考えて欲しい。天守の礎石を誰も見に来てなかったから城への理解を深めるものではなかったのだろうな。いろんな意味で堀を埋め立て公園にしたり建物を建てたのは間違いだったようだ。堀の有無は城の価値だけでなく、都市の格にも雲泥の差を付ける。
2023.02.06
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昨日は休み。雨じゃない普段の休日の行動。用事をすませネタになる店に向かう。あるうどん屋の2階のうどん屋を目指したが休み。前回も休みだったし…。仕方ないので1階のセルフで食べたが、特別なことがない限り一周りするまでは県内のうどん屋は再掲していない。で、割引クーポンをもらってるかざし温泉に300円で入浴しながら作戦を考えた。まずは寒桜が咲いてる綾歌町の福成寺を目指そう!浄土真宗本願寺派の立派な寺。長尾大隅守の家老がこの地に再建したらしい。まだ満開じゃないけど、訪れてる人が多い。長いレンズを持ったカメラマンの姿を複数見かけたが、三脚を持った人は一人だけ。鳥と桜がテーマならそれで良いけど、被写界深度のためシャッター速度遅くすることないのか?手ブレ補正がそこまで進化したのか?昔カメラ小僧だった私は考えてしまう(笑)。お寺の駐車場は広いけど手前を曲って入るので注意。その後、栗熊地区の中村城。辺りを歩いたが南の山から川が複数流れ、地形としてかなり起伏がある地域だ。島のように丘が開墾され残ってるのもあり、複雑な地形をなだらかにして水田や宅地にしたのが分かる。この川の間に元々ちょっとした丘が広がってて、そこに長尾大隅守一族の城が築かれてたらしい。今は土取りされたようで遺構はない。跡に出土したという五輪塔が祀られてた。西の水路を挟んだ小高いところに神社がある。城もこれくらいの高さがあったのだろうか。
2023.02.04
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松山城に子供の頃に行った写真がある。その後天守に登った記憶も二之丸に行った記憶もあるが、100名城スタンプがまだであった。今回、美術館に来る用事があったのでスタンプを押しに登る。前日の山歩きで膝が痛いので登りはロープウェイで。松山城は堀が南西側だけにあって、東郭と北郭は囲われてない。維新後久松伯爵が買い戻して松山市に寄付した範囲に含まれなかったところは市街地に埋没。東郭の石垣らしきものを大街道からロープウェイへの道の奥に東郭の石垣らしきものを見つけてテンションが上がる。山上は本丸とその上部に本壇(天守郭)がある。天守の入場料を払うところでスタンプゲット。本壇だけでも、本丸の石垣だけでもそこらへんの城よりカチッとしてる。山上まで石をどうやって運んだのだろう。個人的にはトリックの要素がある中ノ門を復元して欲しい。歩き回ったあと夏みかんソフトで休憩。山上の滞在2時間ちょっと、膝痛の中、傾斜地の登り降りが不自由でまぁまぁかな。この広い山上と麓に2つの城があるみたい。これをつなぐのが登り石垣。国内には他に洲本城と彦根城しか存在しない。下山開始。この道は藩政時代にはなかったらしい。藩主の居館は麓の少し高い二之丸にある。そこと山上をつなぐのが南北の登り石垣。北側は探索出来なかった(搦手から古町への道の左の下の方に二之丸に向かって尾根筋に痕跡は残ってるらしい)が、南は木の伐採して見易くなってる。武家屋敷を囲んだ三之丸の堀と土塁も立派。高松藩と大して石高が変わらないのにこの城としての規模と風格の差はどこにあるのか?しっかりした復元もその一つか。一般的に平城はどうしても見栄えが劣るので天守閣は似合わないというのが定説だけどね。将来、四国州が出来るとして州都を決める住民投票があったなら、間違いなく松山市に投票する。
2022.10.02
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昨日は、文楽が跳ねた後、コロナ禍で高速バスが減便のため時間が余ってる。天気も悪いし、新装なった藤田美術館かなと考えたが、帰り道にある尼崎城にした。私は復元天守が嫌いだ。尼崎城は個人の寄付で造られたらしいが、そんなの造るお金があるのだったら、縄張りが分かるように整備して欲しい。本来の位置で発掘の成果を基に造るのならもっと評価するけど、この天守は城の西の端にコンクリートで建てられたもの。本来はずっと東の方に天守は建ってた。本丸の南側の堀であった辺りにも石碑が建ってる。城は取り壊され石材は転用されたらしいが、地盤の変化はあったのだろうか?その辺り現地で知りたいもんだ。天守内の映像の説明で甲子園球場の3倍ほどの広さと言ってたが、具体的に想像できない。どこまでの城域を指すのかは不明だが、大阪を守る拠点としては、かなり狭い城だなぁということだけ分かった。何ヘクタールとか縦横何メートルの方が私は分かりやすい。私は城を探訪するとき藩校の跡と寺町を歩くことにしている。寺町がそのままの形で残ってた。その中の善通寺という寺。時宗らしい。
2022.04.04
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昨日は、先週晴れて登り口まで行ったのに地面がまだ乾いてなくて登るのをあきらめた大川町の雨滝城へ杖を持って再挑戦。 その前に、雨滝城主安富氏の家臣六車氏の居城六車城へ。津田川の横の低い丘陵にある。 東側の神社が鎮座する方だけ登り、堀切で区画された西側の曲輪は籔が深そうだったので入らなかった。 そして雨滝城へ。細い舗装道を東屋まで車で登り、そこから300メートルだけの登城開始。 堀切を渡り虎口を越えてどんどん登り、広めの曲輪に、あと数メートル登り雨滝山(253メートル)の山頂の主郭に到着。主郭を中心に尾根に沿って三方に曲輪があるらしいが、足もとが悪いので省略。 雨滝城は15世紀半ばに築城。城主の安富氏は下総から播磨の三ケ月郷に移り、細川氏の配下として讃岐に来た。 御多分にもれず長宗我部氏によって落城。 主郭からは津田湾が望まれる。
2021.05.31
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昨日の午後は、飯山町島田の法勲寺館跡に。天正年間に小川伊勢守が法勲寺城を築き、平時の居館として法勲寺館を造ったらしい。 現在は嶋田寺になっており館の痕跡はない。 軽い散歩過ぎたので、帰りに丸亀市飯野の飯神社にお参り、ちょっとだけ石段を登る。延喜式式内社 讃岐国鵜足郡飯神社。 飯野山の南西に鎮座している。
2020.06.22
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昨日はランチの後、観音寺の藤目城跡に。室町時代に斎藤下総守によって築かれた。長宗我部元親によって落城。 麓の粟井神社(延喜式内名神大社)横に登山道があるが、今はアジサイの季節。参拝のついでにしばし見物。 車でも登れる道をちょっと登ると平坦な二の丸跡に石碑が。 さらに畑の間を歩いて、急な歩道を登るお堂が、さらに石段を登ると頂上に細長く平坦な本丸跡。どこが痕跡かよく分からないが、一段低いのは帯曲輪かな。
2020.06.18
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昨日は昼食の後、予報に反し雨が降ってなかったので綾南町の西村城へ。北條池に面した小高い丘にある。 城跡は赤天神神社の境内となっている。 分譲住宅地の高台と城の丘との間は低地で畑になってるが、これって人工の堀切だろうか?
2020.06.11
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昨日は、雨の予報だったが薄曇りに時折日が差す天気に。家からの散歩に丁度いい仲村城に。途中おばさん一人、自転車に乗った一人と農作業中の一人に出会った。現地は当然誰もいない。これなら自粛警察にも追及されないな(笑)。地名は中村町字土井、いかにも城跡らしい。 香川氏の祖鎌倉権五郎景政を祀った景政神社に土塁と堀跡が残り一帯が城跡らしい。鎌倉権五郎景政と言えば歌舞伎十八番暫の主役。 仲村城は、平安後期、源氏に属した行司貞房の居城とされ、ニ町四方の平城。甲山城が築城され廃城。 南にもこんもりした藪があるが城の土塁と堀跡だろう。
2020.05.11
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昨日の昼は、自粛要請中なので家からすぐの善通寺市内の鷺井城。もちろん誰もいない。鷺井神社の境内の青龍古墳(市指定)を利用して築かれた平山城で周囲に土塁と堀が残る。 青龍古墳は、直径42mの二段築の円墳。 近くの天霧城と関係があるとのことだが詳細は不明。南側の堀は古墳の遺跡じゃなく戦国時代のものとのこと。
2020.04.27
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昨日は昼食のあと、川之江の畠山城。城と言っても川之江城の砦の小さな丘。 神社の石段を登って社が建つところが二の丸、更に数メートル登って本丸がある。石垣があるがどの石垣が当時のものか分からない。 戦国時代に川之江城とともに落城し廃城に。 ここで、古城巡りは終了の予定だったが、八幡神社にちょっと古そうな門があったので見てみたら一柳直家によって寛永年間に築かれた川之江陣屋の門。一柳氏が転封の後、移築された。 陣屋の跡は転封後規模が半減し、代官所になり、現在は商店街に埋没。 その川之江の商店街はゴーストタウンみたい。
2020.03.21
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昨日の昼は、綾上町の後藤城。大正の主基斎田跡の北にある丘にある。羽床氏の一族後藤氏の築城といわれる。 斎田跡の碑や牛の碑を見たあと川沿いの北側から登り始めた。途中で曲輪か畑か判別しない平場が何段か続く。目印が赤テープとネットにあったが籔っぽくなり途中で見失った。 あと少しで主郭というところで、切岸らしい崖が目の前に立ちはだかる。登り口を探したが分からず撤退。無理やりよじ登れば登れたけど降りれないと困るからなあ(笑)。
2020.03.16
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昨日は昼食のあと鷲尾山にある川之江城に登った、と言っても、途中まで車。讃岐国と伊予国の境の交通の要衝。南北朝時代に南朝方の河野氏の砦として築かれ、戦国時代に長宗我部氏によって落城。城主は点々とし、秀吉が豊臣と名乗った頃廃城になったらしい。現在は模擬天守が建つ。別名、仏殿城。 本来の石垣らしきものも残ってるが、説明がないのでよくわからない。 城としての整備の方向性がどこか違ってると思う。 中腹に駐車場はあるが、途中離合出来ない箇所があるので、混雑時は注意。
2020.03.13
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昨日の午後、うどんを食べたら、雨が上がってたので、古城巡りに前田城。目印となる前田西町の宝寿寺を目指すといかにも城跡らしい小高い丘が見えたが、登り口が分からず近寄れない。 十河氏の一族の前田氏の居城。長宗我部との戦いで落城し廃城に。 北と南の本丸と二の丸の曲輪からなり、墓地になってるのが本丸、寺があるのが二の丸。寺は無住になってる模様。
2020.03.09
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昨日は午後天気が崩れる予報だったので、昼前に鬼無の佐料城(讃綾の館)に。香西氏が承久年間に築いたといわれ、背後の勝賀城を詰めの城とする居館。戦国時代に香西氏が長宗我部の侵攻に備え他に城を移すまで3世紀にわたり本拠地としたという。山城は苦手なのでこちらだけに。 神社参道横の看板は容易に発見出来たが、南東のL字型に残ってる堀は神社奥からのぞけたか、城跡らしき住宅街の周囲を回り、迷いながらたどり着けた。北東の痕跡は確定出来ず。
2020.03.08
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昨日は、綾南町の羽床城跡。家からマイカーで行けて、誰にも会わない屋外だからこんな時にピッタリ。ちょっとした丘を利用した平山城。南北の登り口があり南から登る。 竹やぶが伐採されて見学しやすい。羽床氏による平安末期の築城といわれ、戦国時代に長宗我部元親に攻められる。 本丸と二の丸の曲輪と土塁は明確に残る。登城口の案内板にあった井戸は発見出来ず。調査が行われて整備されるといいなぁ。
2020.03.02
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昨日は、宇多津町の古城に。まずは聖通寺山城へ。城主は奈良氏、仙石氏、生駒氏。 結婚式場がある車で登れる北峰には平山城跡と書いた石柱のみ。坂出市と宇多津町の案内板が混在してるのは、両自治体にまたがってるのだろう。 鉄塔がある南峰と途中の本丸には何かありそうだけど、車で登れるか不明で撤退。 山を降りて古い街並みの中にある円通寺と多聞寺の境内一帯といわれる守護館を目指す。義満の時代の管領細川頼之の守護館と伝えられる。まず多聞寺門前の案内板。 次に円通寺。ここには石碑がある。 ちょっと離れた場所にある本妙寺も城跡と書いてるサイトがあったので行ってみたけど痕跡発見出来ず。 風情がある町並みだけど、室町時代と直接結びつける遺跡がないのが弱い。 (追記) 鉄塔には、坂出と宇多津の分岐の近くにある、ゆるぎ岩の矢印にそって走れるとのネット情報で行ってみた。(一部だけだが離合が難しいので、矢印のとこの空き地に車を置いて歩いても近い)展望台の駐車場脇に石柱発見。 遺構がどうかはわからないが、雰囲気は山城。
2020.02.24
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昨日は、満濃町の大堀城。うどん街道の吉野交差点から南に走った県道の脇に案内板が立っている。それによると中世の豪族、酒部道隆の館跡と伝わるが詳細不明。県道が斜めに通っているそうだ。 ということは、県道の西側にあるこの高低差は土塁と堀と考えていいのかな。
2020.02.03
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昨日は、大川町みろく公園すぐの茶臼山城に。 四国最大の富田茶臼山古墳の墳丘を利用し、1500年頃築かれ、寒川右馬允が城主とされるが詳細不明。可能性はあるが墳丘の規模から物見程度かな。 古墳としては史跡指定され、5世紀前半の墳丘の長さ139メートルの前方後円墳。 なお、四国2番目の古墳は徳島県に。3番目は、綾歌町の4世紀中頃の前方後円墳、快天山古墳で、墳丘長98.8メートル、史跡。
2020.01.14
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先月の15日、高知城に行ったことは書いた。ライトアップのため、こんな状態だったので、城が可哀想だと高知県庁に抗議のメールを送った。 その後、高知県庁から閑散期の誘客のためで、前年も同趣旨の苦情が寄せられ、精一杯の改善した結果との返信メールがきた。 でもね、凄く言い訳がましく本気でやる気が感じられなかった。観光シーズン真っ只中の秋のことだったのに、高知県では秋から閑散期入りするらしいし。 詰門の正面の仮設足場が精一杯というのも、高知城の縄張りの最大の見せ場である詰門の価値を県庁観光課は知らないようだ。それでよく観光行政が出来るとある意味呆れる。照明はしろうとの県庁じゃなくプロに委託してるのだろうから、詰門の価値を業者に伝えればいいだけなのに。文化を理解する照明屋さんはプロとして、制約が大きいほどプロらしい腕を見せてくれるはずだ。 青空と天守で十分魅力あると思うけど。
2019.12.15
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昨日は早起きして大嘗宮一般参観及び秋季皇居乾通り一般公開に、7時半から坂下門前に並んだ。9時からの予定が早まり、8時半には右手に富士見櫓を見て 坂下門(角度を変えた桝形の櫓門のみ現存)から入場。 途中大嘗宮と乾通りにコースが別れるので迷ったが、蓮池濠沿いに進み、富士見多聞を下から見る。 左手には、局門、門長屋、道灌濠を見て、 西桔橋から、本丸に入り、合流して間近に大嘗宮を見る。 北桔橋門から北の丸公園へ向かう。 朝一番なので、混雑もなくゆっくり見られたが、ほとんど立ち止まることなく歩き、坂下門から北の丸公園まで45分だった。
2019.12.09
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夜、帰りのバスまで時間があったので広島城まで散歩。広島の町は歩行者に優しくない。やたら歩車分離で地下道を造るし、自転車は猛スピードで地下道を駆け下りるし。広島って市(いち)とか品とか付く地名が多いなぁ。 原爆で崩れ再建された天守。 それにしても福島正則にしろ、加藤清正にしろ、城づくりではかなり過剰防衛気味。秀頼を守る気持ちがどこかにあったのかな。 平城なので、馬出しを用いて防備を固めているが、幕末の会津城の攻防戦から考えてもこれは攻めれんな。
2019.11.17
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宮島は混み混み。早朝に来ないと駄目ですね。空いてそうな陶晴賢と毛利元就との厳島の戦いの舞台の古城を訪ねる。まずは、陶軍の本陣の勝山城跡。 現在多宝塔があるところ。 ここから陶軍は前線基地である塔の岡に陣を移した。 現在五重塔があるところ。 そして攻略目標の毛利軍の宮尾城跡。 港の後ろの小高い丘で要害山と表示される。ここを攻めてる途中背後から毛利軍に攻められ陶軍は壊滅した。 塔の岡は分かるが、多宝塔や要害山でも外国人さんに遭遇。どれだけ来てるねん(笑)。
2019.11.17
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高知城には何度か来たが、押してなかった100名城のスタンプをゲット。追手門と天守の組合せは他には丸亀城。弘前城も天守と追手門が残るがこの角度の写真は撮れないはず。 国宝を目指す運動があるそうだが、享保年間に焼けた後の再建なのでちょっと難しいかな。天守と本丸御殿との組合せなら可能かなぁ。 でもそんな運動がある城なのに訳のわからんイベントのため、天守や門の前にイベントの仮設ヤグラがあるし、アチコチに無粋な配線がある。このイベントの主催者が城を愛していないことは明らか。 イベントは否定しないが、高知城の売りが何か、城にプラスになることを考えて行うべきだ。 私は高知城が可愛そうと感じ辛かった。それで、一応一城好きの意見として、高知県庁の文化財課と文化庁に電話、観光課にメール、お城のボランティアさんに直接感じたことを伝えた。ボランティアさんは答えなかったが、表情からは同意見だけど立場上イベントに否とは言えない感じだった。思ってる人はいるんだと少し元気がでた。
2019.11.16
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昨日は、朝から白金台。あの白金である。街の中にある武蔵野の森、国立科学博物館附属自然教育園。ぐるっとパスで100円引き。隣の東京都庭園美術館とともに松平讃岐守(高松藩)下屋敷跡になる。 白金長者屋敷跡、案内板には館跡とある。 南朝方だった雑色の柳下上総介なる人物がここに暮らし、白金長者と呼ばれる富豪になったといわれ土塁が点在。ただ園路が決まっており自由に観察することは出来ない。 下屋敷、火薬庫という歴史もあるので全ての土塁が南北朝のままかは不明。
2019.10.21
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昨日は午前中人間ドックを受けて昼から有休。どこかの城を見ようと思ったがあまりの晴天に近場。 で丸亀市の垂水城。現地の案内板はないような。藤田大隅守の居城で三好氏に滅ぼされたと伝わるまでは丸亀市のサイトでつかめたが詳細不明。 現在は、寺。その名も古城山浄楽寺。寺の外が堀跡か。 境内の小高いところは土塁かも。
2019.10.11
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専称寺から笠島城(東山城)へ。鎌倉時代の高階保遠の居城であったといわれる。 でも、専称寺に案内標識はあるが、泊から笠島の峠道に架かる橋は寸断されてる。墓地の間をそれらしき方向へ登るとまた東山城の案内標識が、しばらく歩くと堀切らしき場所に。 南北どちらの郭らしき段には、よじ登ったが、ほとんど蜘蛛の巣と藪で全景も跡らしきものも分からない。 また歩くと北の端に看板が。 笠島の集落を遠望し降りる道があったのでそこを降る。笠島は城の城下町といわれる。最後まで笠島城へ正規のルートは分からないまま。 笠島は瀬戸芸の客で賑わってた。
2019.10.07
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昨日は、またまた本島。先週に比べて、フェリー代が20円値上がりしてた。 瀬戸芸の期間中運行されるバスに乗り、泊から笠島への峠にある専称寺、高階氏館へ。鎌倉時代の地頭高階保遠の居館といわれ、法然上人がこの地へ配流されたとき館の前に庵を建てたと伝わる。館と庵の跡が今の寺。 境内に年寄(人名から選ばれた自治領を治める人)吉田彦右衛門の墓がある。
2019.10.07
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千歳座での浄瑠璃の後、本島中学の横にあるという、泊古城に。城主は宮本氏と伝わるが、詳細不明。現地に何もないので場所が分からない。学校の西の竹藪の丘がそれらしいけど、どうかなぁ。 学校の一角には城主宮本氏の子孫であろう年寄宮本家の墓がある。 勤番所を通り過ぎ、 特別に公開されている、現在は無住の東光寺の薬師如来坐像(重文)と両脇侍を拝観に行く。藤原氏(近衛家)の荘園だったからだろうか平安後期の定朝風の仏様。 年代や作者が判明したら、国宝に昇格しても不思議でないお姿。
2019.09.30
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昨日も昼に、観音寺市の柞田城に。と言っても公民館の敷地の端に教育委員会が建てた石碑があるだけ。築城年代も築城主も不明だが天霧城主香川氏の家臣の居城らしい。 柞田小学校と善正寺という数百メートルほど離れた2箇所が城跡の候補地。どっちも周りより少しだけ高い。 石碑は小学校の隣にある。 別名の北岡城なら、お寺の辺りの字名。
2019.09.10
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豊中町に城山寺というお寺がある。どう考えても、城跡だろうと、昨日昼休みに訪れた。 小高い丘になっており、まさに城山、岡本城と呼ぶようであるが、城主西谷藤兵衛からか、別名、西谷城。 寺の境内になってること、木が茂ってること、全体像が見えてこない。 土塁と空堀があるようだが、寺として改変もあり、どれが当時のものかは分からなかった。 市の史跡なんだから、現地に縄張り図でもあればいいなぁ。
2019.09.03
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昨日は仕事の合間に、観音寺の街中で気になってた「殿町」辺り。一国一城令まで観音寺城(高丸城)があったそうな。元禄11年の観音寺古地図に「太閤様与力上坂丹波守 古城 今田地也 酒屋町ノ内 元和年中御亡」と城趾が大きく描かれているそうだ。 堀跡の水田があったというが、今付近は住宅地でどこがどうだか分からない。痕跡でもあれば嬉しいが、公園にある石碑と近くの一心寺に移築された大手門と伝わる山門があるだけ。 先日の朝日新聞に、松江市・高松市・新宮市・丸亀市が城の建物の古写真や資料を懸賞金付で求めてる、とあった。 城好きとしては、写真や資料が集まることは嬉しいが、目的が再建のためと聞くと、ちょっとずれてるなと思う。 城好きにも色々いるが、天守閣にこだわるのは、少数派だと思う。縄張りやロマンを感じる人の方が圧倒的に多いだろう。 例えば高松城の課題は、天守閣の復元より、市街地に埋没した景観の回復ではないだろうか?所有者が県であるホールと美術館を移転させるなどして、城らしい風情にすることの方が優先度は高いと考える。
2019.08.28
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敦賀駅で電動自転車を借りて、まず大谷刑部が城主だったと伝わる敦賀城跡に。海に面した平坦な場所にある。 敦賀西小学校正門の真横の敦賀城の案内碑を探す。 次に、城の北西に位置する真願寺。北側の川は堀跡のようだし、城の礎石が残る。 城域から西に外れたところにある来迎寺の山門は、中門の移築と伝わる。
2019.08.18
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昨日は、続100名城の引田城。引田の古い町並みの井筒屋敷で続のスタンプ(引田公民館にも設置)を押した後、登城。30年以上振り。 生駒親正が讃岐を与えられ入城した城とされている。この後、生駒氏の本拠地は、宇多津そして高松城を築いて移る。 引田港側の登山口が車が3台駐車して停められなかったので、何台も停められる田の浦キャンプ場側に駐車。 北曲輪から北二の丸を通るルートになる。 上段の石垣はシートで覆われてる北二の丸の石垣。途中に点在する石は石垣の部材かな。 東の丸を見て灯台に降りる道は急だったので引き返し、本丸へ。 本丸石垣を見た後、城山の高さ82メートルを確認し、本丸の先端まで行った。 引田港を囲むように突き出した城山から徳島県方向を見る。化粧池に降りるらしい道も急だったので、来た道を引き返し駐車場に戻った。 織豊系の貴重な城と言われるけど一国一城令で廃城になり詳細が不明、今後の研究が待たれる。
2019.08.12
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屋島にうどんを食べに行ったついでに屋嶋城(やしまのき)。 白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷が築いた防衛施設の一つ。 『日本書紀』の天智天皇6(西暦667)年11月に 、「大和国に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築く」とある。城門が復元され手軽に見られる。 古代の城が大好きな百名城の選考者は大野城(665年)と鬼ノ城(記載なし)を百名城に、水城(664年)と基肄城(665年)と金田城を続百名城に選んでいる。明確な遺跡がない高安城は止むを得ないとしても屋嶋城が選ばれないのは不可解。独りよがりな百名城の選考の一つの実例。
2019.06.02
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高崎から上信電鉄に乗って七日市で下車。加賀百万石の前田家の分家、七日市藩の陣屋に向かう。途中立派な長屋門がある。案内板はなかったが格式の高い武家屋敷だろう。 国道を渡ると富岡高校、そこが陣屋跡。国道で分断されている。 富岡高校の敷地に門と御殿が残っている。瓦に前田家の紋がある。 当時のままではないらしいが、御殿が残ってる城跡は数えるほど。山城が多い続100名城より、100陣屋のスタンプラリーをして欲しかったな。
2019.05.03
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昨日は朝起きてしばらくすると天気もそこそこ回復したので、青春18きっぷで備中高松へプチツアー。 まずは駅から最上稲荷の大鳥居をくぐって水攻めの時に築かれた蛙が鼻の築堤跡。 城は2回目になる。資料館で続名城のスタンプを押す。案内の人がスタンプの客ばかりと言っていた。歴史の転換点という意味じゃ貴重な城だからの続だが、低地で大雨が続くと漬かるような地形が広がるのみで想像力を働かすしかない。ちょっとだけ高いところが本丸だが、廃城になったのではなく花房氏の陣屋として使われたため、形状が当時のままかどうかはあやしい。 駅に戻ると時間があったので、コンビニにでも寄ろうと歩いていたら、うどん屋発見。おおもり。一般店。ざる定食720円。 細め柔らかいけど、ちゃんとしたうどん。名のとおり麺の量は多い。
2019.03.17
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昨日は早起きして、青春18きっぷの旅。四国から抜け出すまでは大変だけど、岡山までたどり着くとあとは快適に三原駅へ。 三原城の本丸を貫く駅から直結の天主台に登り、観光協会で続100名城スタンプゲット。昔、天主台に登った記憶があるから2回目。 街中に埋没した城の痕跡をたどる。本丸中門跡、船入櫓跡はかなりよい状態で残っている。駅の下にも石垣が保存されている。城としてまとまって残らなかったのは時の流れとは言え惜しいなぁ。続に選ばれたのは小早川隆景のお陰かな。 一番の見どころ天主台石垣は優美な勾配。ざっと見て1時間ちょっとかかるくらい城域は広大だ。なお江戸時代は広島浅野家の家老の領地。
2019.03.10
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昨日は天気がよくなったので、前回スタンプだけ押した高槻の続100名城芥川山城に登城。三好長慶の本拠。バス亭塚脇(700メートル手前にある服部なら本数が多い)から登る。 台風の影響で倒木が多いが、一番行きやすいとあった東側からのルートをたどり往復85分のちょっとしたハイキング。案内の矢印もあり迷うことはない。 土塁とか石垣とかあったが、ガイド付きじゃないと理解するのは難しいなぁ。
2019.01.14
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昨日は、久しぶりに引き込もりから脱出。徳島の続100名城の一宮城。家から2時間で着くはずが駅伝とやらで大渋滞。 まず麓の一宮神社に初詣。諸説あるが元の阿波国一の宮らしいし、元は88か所札所。 昇り口看板でスタンプを押し、登城開始。比高120メートル、気温が低いのでそんなに苦しくない。案内板もあって、才蔵丸、明神丸、帯曲輪、本丸と迷わずに昇る。 石垣は蜂須賀氏時代とされる。往復60分、山登りというより、ちょっと負荷がかかる散歩。
2019.01.07
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