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当市の市議選も明日が投票日、僕の日記を読んでいれば、伊那の有権者はもう誰に入れるべきかわかっているね。昨日は、「耳に痛い言葉」という記事を書いたが、忙しい中で成りゆきで書いたようなものだから、実のところ自分ではとんと気にしていない。alex99さんやシャルドネさん、勿論それ以外の方々の記事も、自分の気づかなかった角度から書いていることが多く、とても参考になっている。しかし、それだけであり、耳に心地よい痛みがあっても心が痛むことはない。このように書いたことで気にされたらゴカンベン!さて、定番のアダムとイブの話し。人間の最初のカップルは、リンゴを食べてしまったことで、知恵を盗んだが、その知恵を正しく便う術までは盗めなかった。そもそも身体のほぼ中心部をカエデの葉っぱで隠すところまで知ったということは、恥じらいは持ち合わせていたのだろう。そこまで考えたのに、どうすればもっと楽しく隠すコトができるんだろうかとか、工夫しているうちに不幸にも全身をすっぽりと隠すようになってしまった。毛深くなくても、肌を寄せ合わせなくても寒くないとしうそれまで考えもしなかった皮肉な事実の発展系は、やがで多くの悲劇を人類の歴史にもたらすようになる。二十世紀の現在、そのもっとも危惧すべき点は自然科学とその応用の問題であろう。勿論自然科学はその応用によって、私達の生活を豊かにするという利点をもち、百年二百年前の先祖が全く想像しなかった便利な生活を送っている。しかし、この快適な生活に眼をうばわれ、私達の気付かぬところで危機的状況は更に進行し、alex99さんやシャルドネさんの言葉を待つまでもなく、地球は気付いた時には取り返しのつかない事態になっているに違いないだろう。国家間、宗教間、人種間における諍いというものが、人間のおかれた宿命的なものとしたら、あらゆる場面で立場を異にする正義や大義がはびこり、小島の領海争いといった小さなきっかけで、双方にとって壊滅的な悲劇まで招きかねない。正義のために悪魔的手段を用い、新兵器の開発を科学者にさせてきている。企業もまた激しい企業間競争に勝ち技き、利益を手にする為には、すこしでも目新しい便利で強力な商品を開発するだろう。もう、核兵器は勿論だが、化学製品なども密かに開発されている可能性は高い。原発や、地球温暖化による予期できない事態も含めて、ダッチドール寸前なのかも知れない。それらは、やがてどのような結果を人類や他の生物や地球にもたらすかは全く予想もできない。しかし国家や企業にだけ責任を転嫁していてよいものだろうか。第二次大戦でナチス・ドイツや日本の軍部を支持しそれに協力したのは、他ならぬドイツ人であり日本人であったし、現在各企業に次々と新製品をつくらせているのも、もとはと言えば私達消費者が目先の新しさにつられ、より快適で便利な生活を追い求めているからである。あえて言えば、日本や欧米諸国、そして後からきている韓国・中国などが、その結果どのようになってもそれは自業自得と言えよう。しかし皺寄せはいつも、後進地帯や地球上の他の生物にもいくのである。 とかく忙しいときには、こんな記事でヒマツブシ。
2006.04.29
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自分が読む本や、はなす相手はつい自分の意見や見方を正当化してくれるものを選びがちになるものだ。新聞やテレビ番組の選択でも同じことがいえる。自分が革新か、リベラルか、保守に所属すると思いこんだとたんに、○○新聞を読んで、選挙には何が何でも自分の所属すると思いこんだ候補に投票したがるものだ。実際には、誰一人として自分と同じ考え、同じ思想の人などいないはずなのに、なぜだろう。もし、同じだと思ったとしたら、自分が相手に知らず知らずにすり寄っているだけのことだ。もっと言えば自分の思想がないということなのだ。自分をもたないのに、革新だ保守だと自分をすり込むこのかたくなさは悲しい。実は、自分とは正反対の意見や視点から多くのものが学べるはずなのだ。自分と同じ意見や視点以外のものに心を閉ざすというかたくなさが、どこかで、ものすごく大きな心のストレスを生むという点も悲しい。閉ざされた心は、すべてのものを突き放そうとしてしまう。自分の正当性を疑ってみよう。気に入らない相手にこそ、目を開かせてくれるものを与えてくれることが多い。僕にとって、ここではalex99さんやシャルドネさんがしばし、痛いところを突いてくれる。それによって、思考のありかたがずいぶん勉強できたと思っている。ありがたいことだ。いや、耳に痛いことを言ってくれるalex99さんやシャルドネさんが気に入らないなどということでは、けしてない。ほんとだってば。
2006.04.28
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日本が「恥の文化」を育ててきたというベネディクトの指摘は、日本人からも好感をもって受け入れられたようです。しかし、ベネディクトが必ずしも日本への好意をもって書いたものでないことも確かのようです。「恥の文化」は自分たちの「罪の文化」に劣るとして、差別意識をもっていたことからもうかがえます。しかし、当時の日本はマッカーサーが「日本人は12歳程度の精神年齢」と卑下したように、「相手の実像を見なかった」蔑まれて当然な無能のリーダーたちを戴いてきたのですから、そのように見下されてもやむおえなかったでしょう。僕は、江戸時代の政治体制のいわゆる環境システム(そんな意識はなかったかも知れないが)については高く評価していることは前にも書きました。まことに江戸時代の環境型循環システムはよくできていて、ゴミや排泄物はことごとく再利用されていた。また、例えば大規模庭園などの造成技術や職人達の練達の技巧を育てる仕組みなど、世界に誇れるシステムだったと思います。しかし、当然ながらマイナス面もありました。体制の維持を確固たるものにするために、身分制度をつくり住民同士の相互差別を行わせたことです。それらはまるでマトリクスのように徹底したもので、士農工商はもとより、その下にエタ(非人)という汚れ役をつくったり、主従関係は勿論、夫と妻、姑と嫁、親子というようにすべてにわたって対等でないことを良しとする社会を育ててきたわけです。僕は、師弟や親子など一定の上下関係はあってしかるべきという立場です。しかし、体制維持という不純な意図でつくりあげた身分制度は全否定します。江戸時代の武士は、一方では武士としての誇りがいわゆる自分を律する、自他に厳しいモラルを形成してはいましたが、身分の違う相手に対しては“切り捨てゴメン”のような、理不尽な優越感ももたされていました。それらの差別は現在でも少なからずつづいているものと思います。「忠臣蔵」という馬鹿殿様の仇討ちに、あたら家臣の命を粗末にするという差別物語がいまだ有りがたがられている世の中ですから、なにをかいわんやですが…。余談ですが、昨夜は僕の応援している市会議員候補者のひとり、Kさんの集会に参加してきました。Kさんは女性ですが行動力のある人で、バリアフリーのペンションを経営する傍ら宅老所も運営しています。集会の後半、参加者がそれぞれ、Kさんへの期待の言葉を語ったときのこと、その宅老所に世話になっているというひとりの老女の話しに衝撃が走りました。「私は部落と呼ばれる地域に住んでいます。そのために随分いわれない差別を受け、苦しみを味わってきました。私は部落の人と結婚してこの地域にきたのですが、結婚にもずいぶん反対されました。(部落の人は)人間としては下等で何をするかわからんとケモノのように言われ、まるでケダモノと結婚するかのように反対され、縁切りを覚悟で嫁いできました。嫁いでからはときに家畜以下の扱いを受けてきました。…(後略)」賑やかだった座は一瞬にして静まり、僕もその話しに愕然としました。部落差別はもうはるか過去の問題で、むしろ被差別地域出身の団体が自治体に理不尽の補助金や無利子融資などを迫るなど、ダニ的存在だという認識でしかなかったのです。ましてや、我々の住む地域においては“部落差別”などは消滅したものと思いこんでいました。その老女は「この宅老所にくるのもはじめは躊躇しましたが、通い始めてからKさんが誰とでもわけ隔てなく接して、何かと相談にも乗ってくれることが嬉しかったので、こうして皆さんの前で自分の身元を証す決心をしました」と言います。江戸時代の体制維持の弊害が、いまだに潜在しているのでした。人間から差別意識を完全にとることは難しい。僕にしても、相手によっては無意識にどこかででてしまっていることがあります。こんなときにどうすればいいのかと考えると、世の中に、差別があるということを認めてしまうことではないだろうか、と思います。学校でも、わずかな弱点をとらえてシカトしたりイジメをしたりすることは日常化しています。これを対処療法的に無くそうとしてもそれは儚い抵抗でしかないでしょう。差別自体はどのような社会でも生じてしまうものだということを前提に、差別される人たちに一方的な不利益をもたらさない仕組みをつくるのが、政治の力でしょう。小泉や阿部など日本の政治に責任をもつべきリーダーたちが、「差別社会の拡大も競争力のためやむを得ないこと」と平然と述べさせる有権者たちが、実は、差別社会を膨らませているのだと<自覚せねばならないでしょう。 この後におよんで、米軍の引っ越し費用の半分以上を税金から出すという、負け犬根性。 いい加減にこれから抜け出さなければ、いつまでも日本は世界の嘲笑という差別を受けつづけるでしょう。
2006.04.27
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戦後すぐに発刊された『菊と刀』はアメリカの知識層の日本人観におおいなる影響を与えたようだ。アメリカの人類学者クリフォード・ギアーツは『文化の読み方/書き方』(森泉弘次・訳、岩波書店刊)の中で、次のことを言っている。アメリカ人は『菊と刀』を読む前は、日本人のことを自分たちが戦った敵の中で最も気心の知れない相手だと思っていたが、読み終わる頃には、自分たちが勝った相手の中で最も筋道の通った相手だったと思っている、というのである。マッカーサーは初めて訪れた日本の印象を12歳程度の精神年齢と言っていたが、それが18歳程度まではかさ上げさされた格好だ。ベネディクトが『菊と刀』を著したことで、アメリカ人に与えた日本人観に多大な影響を与え、その後の対日政策にも少なからぬ影響をもたらしたということは大きな意味がある。しかし、ベネディクトが『菊と刀』で述べた、西欧文化は罪の文化、日本文化は恥の文化であるという理論も、結果的には“罪の文化”が“恥の文化”より優れているということになっている。いろいろ言っても、欧米人は西欧が世界の中ではもっとも優れているという前提でものを考えているフシがある。何かの本で読んだが、キリスト教がアニミズムに始まる宗教の最高の発達段階にあることになっているし、人類は猿が胎児化したものであるという理論においても、白人は黒人より高い段階に進化しているということになっているし、ヘーゲルは国家の生成の最高形態はゲルマンの君主制であるとしていたし、ダーウィンもヨーロッパ人を進化の最高段階においてあったし、ヨーロッパ人の知能形態が人類の知能の最高の発達形態であると書いてあった本もあった。だからヒトラーが、“アーリア民族が全人類を支配すべき最優秀民族だ”とした彼の理論も、これらの理論とどこかでつながっている。こうしたことを見ても、西欧人は(神に対する)罪の意識はあっても、恥の意識のまるでないということがわかる。最近何かと話題になっている藤原正彦著『国家の品格』では、「武士道精神」にこそ日本人のもつべき魂があると書いている。「武士道」が本当にすばらしいものだったろうか。僕は新渡戸稲造がだいぶ底上げして評価して書いたのではないかと思っている。武士は高潔なものということになっているが、もろもろ出てくる武士は、すぐにカッとなって刀を抜いたり、やたら威張り腐っていた印象もある。戦争のない江戸時代にはさまざまなバイトで糊口をしのぎ卑屈になっていたという面もある。武士が本当に人格優れた存在ばかりであったかどうかについては、何となく僕は疑いをもっている。
2006.04.26
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昼食を食べに行った店にたまたま『週刊ポスト』があった。記事に、『菊と刀』を書いたベネディクトが「西欧人は罪の文化、日本人は恥の文化」をもっていると云っていたのに、現代の“日本人は「恥」ということを意識しなくなった、嘆かわしい”という趣旨のことを書いてあった。そのポストのグラビアが、タレントや有名人のおっぱいポロリ写真の特集だから“あんたに言われたくない”の代表例ではないか、といいたいが(僕もそういう写真がキライではないので…)ひとまず脇において、「罪の文化と恥の文化」についてをテーマに考えてみたい。『菊と刀』について、名前だけは知っていても内容を知らない人もいると思いますので、今日の所は、簡単に概要を記しておこう。アメリカの女性人類学者ルース・ベネデクトの主著の一つ。原著は1946年に刊行され、48年(昭和23年)に日本語訳が出版された。第二次世界大戦下のアメリカの一連の戦時研究の中から生まれたとされている。直接現地調査が出来ないという制約にもかかわらず、在米日系人との面談、文学や映画の分析を通じて、複雑な日本社会の体質に鋭く迫っている。日本社会を特徴づける上下関係の秩序に注目し、その秩序の中で「各人にふさわしい位置を占めようとする」人々の行動や考え方について、「恩」「義理」といった日本人独特の表現を手がかりに分析を進めている。とりわけ日本の文化を、内面に善悪の絶対の基準を持つ西洋の「罪の文化」とは対照的な、内面に確固たる基準を欠き、他者からの評価を基準として行動が律されている「恥の文化」として大胆に類型化した点は、戦後の日本人に大きな衝撃を与えた。(ブリタニカより)と書かれているように、日本人の民族性、行動の裏側にある心理的な裏づけについてみごとに分析している。アメリカには無い、恩、義理、人情、恥、などの概念は当時の日本人がごくあたり前に思っていた。そして更に、アメリカ人はそんなものが無くても、普通に生活できるのに、日本人はそれら概念に生まれつき縛られて生活している、と指摘している。もちろん『週刊ポスト』が叱るように(笑)、現在ではそれらの概念は希薄になっているが、それでも日常社会では、無意識に常識化して流れているともいえよう。それで回りくどく書かずに、「罪の文化と恥の文化」の違いを端的に書くと、アメリカ人と日本人のSEX感などに現れている、と思う(また、誰かからツッコミが入りそうだな)。キリスト教式に言えば“種の継続”という崇高な目的以外のSEXは罪である、と罪の意識を説いたから、いっそう“罪を犯すよろこび”をもってしまった。それに対して日本人は「恥」と考えたから、SEXを隠微の世界のものとして扱い、より「隠微なもの」への興味をかきたてた。と、まあこのように思うのだが、こういう決めつけはちょっとゴウインすぎるかなー。
2006.04.25
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もう10年も前に「日本一短い母への手紙」という公募に何気なく出した一遍があります。応募された作品は3万通以上もあったといいますが、どれもお母さんへの感謝や、よき家族の情景をほのぼのと書き上げてあるものだったといいます。本当に世の中の親子関係って、そんなに立派なものなんでしょうか。そのなかで、僕の出したものがただ一通、母への恨み言めいたことを書いてあったということで、監督:澤井信一郎、主演:十朱幸代、裕木奈江等で映画になったり、イメージビデオや本になったり、何が何だかわからぬ大騒ぎされたことがあのます。その一遍とは、「あの人と幸せでしょうかお母さん、父さんは無口を通し逝きました」というものでした。その作品から、僕の母親のことを誤解してとった人もいたようで、見知らぬ人からいたく同情をされたこともあったり、「私も子供を捨てて別の男と暮らしています…」などと告白する手紙も何通か届いたりして、苦笑することしきりでした。親戚からは「お前はお母さんのことをいったい…」とお小言までいただき、世の中は文芸上の創作と事実をいかに混同して読むものかと、つくづくおかしく思ったものでした。しかし、僕の母親はふしだらなことは一切なかったし、僕にとっては尊敬できる良い母親でした。たぶん母親はわかってくれたことと思っています。僕にとっての収穫はただひとつ、その騒動がきっかけで知り合った映画監督の伊藤俊也さんとその後も親しくおつきあいしていただいていることかな。なぜ、今頃こんな日記を書いたかというと、ある出版社から漫画化したいから許可欲しいといってきたのです。断る理由もないので「どうぞご勝手に」と返事をしたところ、先日、その漫画が掲載された週刊誌が送られてきました。なかなか泣かせるというのか、よくまとまった仕上がりになっていましたが、その週刊誌に載っている他の漫画が気に入らないのです。二流雑誌特有のエログロ漫画ばかりなので、みなさんに勧めることもできません。僕はその漫画週刊誌は、よく大衆食堂(懐かしい響きですな)などに置いてあるものの、表紙だけは目にしたことがありますが、金を出してまで買ったことは一度もありません。ということで、はっきりいって、買ってまで読む内容ではありません。ということで、どうしても気になるという人はコンビニか本屋でコッソリ立ち読みでもしてくださいな。★
2006.04.24
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市議選が始まりました。1日目はポスター貼りなどいろいろ仕事があります。思わぬ助っ人が徹夜明けの眠い目をこすりながら手伝いにきてくれ、3時間ほど一緒に走り回りました。伊那はいま花盛り、梅桃桜が一斉に咲いています。街の端で、旅行者から話しかけられました。「温泉に行きたいが…」とのことです。それならこの車の後ろに乗りなさいと言ったら、「実はもう一人いるんです」という。しかたなく、ふたりを乗せて「みはらしの湯」まで届けてきました。伊那も東京から日帰りで遊びにくる距離になったんですね。午後は、「山小屋」付近の整備。湧き水を利用したせせらぎづくり、いずれはホタルが発生できる水路づくりなどをしてきました。池も3つありますから、事務所わきに昇ってくる魚を捕まえて放す予定です。訪れた人たちは釣りも楽しめるようにしようと思っています。それにしても、残してあった大きな木が何本か立ち枯れてしまいました。木は密集しすぎても、孤立させすぎても枯れるということがあります。人が多すぎてもうるさいけれど、独りぼっちにも耐えられない…。人間に似ているなー。
2006.04.23
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マリィ ジョー ♪さんが「第3次世界大戦…」という日記で、フランツ・アルトの「エコロジーだけが経済を救う」から引用して、化石燃料いわゆる石油文明の近未来の危険性を警告して、シャルドネさんが、人類はチェルノブイリ事故によってすでに終末に向けて歩み始めていると、絶望的な予言をしている。細木数子程度のインチキ予言(?)であれば笑って見過ごせるのだが、この指摘は残念ながら予言というより予告に近いものだろう。僕たちのグループでも、エコロジーやエントロピーというものについて少しずつ勉強している。書物や仲間内の科学者だけでなく、大学の先生なども交えて学んできたものを、わかりやすく伝えてゆかなければならないと思っている。仲間たちが、それぞれ育てたいとする候補者の政策づくりのお手伝いをしているのも、学んだものをわかりやすい形で知らせてゆくチャンスだという考えも、少しはある。そうして持ち込まれたものをチラシなどにするわけだが、選挙ともなると明るい未来も書いてゆかなければならない。悲観的な未来ばかりあげるわけにはいかないから、イメージ戦略で目くらましもをしなくてはならないのが、少し胸の痛むところではある…。ここでは、学んだことをそのまま書くことにするから、悲観的な未来予測に、こうすべきだという反論があればぜひ寄せて欲しい。現代石油文明が始まる以前においては、ほとんどの場合、資源の枯渇は考えなくてもよかった。西欧の農業でも昔は三年輪作で、初年は牧草用クローバー、次年は麦、三年目は休耕というやり方で、土地を荒らさずに作物を得ていた。日本と違って、西洋ではあまり人糞尿などは使わなかったようだが、それでも環境において廃物は資源に戻して、循環が成立していた。日本は江戸時代には、人糞は「金肥」と言って、近郊の農家や汚穢屋が買って肥料に使っていた。町内を流れる水路もきれいに保たれ、飲用や炊事にも使われ、中水で洗い物などと、使いわけていた。この名残は、岐阜の郡上八幡などでみることができる。西欧で発達した経済学は、この環境における循環が行われることを暗黙の前提としていた。アダム・スミスが、「農業においては白然も働いている」といったのは、この暗黙の前提が存在するからだ。しかし、現代石油文明の排出する廃物については、環境はこれを資源に戻す能力がなく、埋めるか焼くしかない。したがって循環が形成されていないのだ。つまり、石油などの資源の枯渇という問題だけでなく、元には戻らない廃物が一方的に増大するという問題が生じている。(焼いても毒物を完全に消し去ることはできない)資源の枯渇のほうは、実はたいした問題ではない。というのは、資源がなくなったら、その資源を利用しない生活をすればよいからである。(できる?)資源がなくなるという問題だけなら、(第三次世界大戦など)一時期混乱はあっても、人間の生き方を変えればいいだけだから、明治か江戸あたりまで生活を戻せばすむ。しかし、循環と切り離された廃物の問題、特に廃物の毒性が長期間にわたって続く場合には、そういうわけにはいかない。化石燃料のみならず、原発からでている使用済み放射性物質は、何万年も毒性が消えないという。それがどんどん溜まっているのである。しかも、それは簡単に核爆弾の製造にも利用できる。電力会社などはリサイクル技術が進んでいるというが、100歩譲ってそれを信じたとしても、循環から切り離された廃物は、際限なく溜まり、どこかへ捨てなければならない。その捨て場所はたちまち枯渇するだろう。当面は、過疎地や僻地の住民をだまして、補償金などの利益誘導で解決するだろうが、それは一時しのぎでしかない。しかも、一時しのぎの策をとることで、その廃物がでる元を断つ機会を失うことになり、廃物問題はより深刻な情況となって、子孫に引き渡されることになる。われわれは、現在は有史以来、飢えることのほとんどない暮らしを送っているが、人間の生存してきた歴史のほんの一瞬でしかないのだ。それなのに人類が行っていることといったら、現代人は最も罪深い生き方をしていることになるし、もっとも刹那的な幸運のときを享受していることにもなる。ホリエモンを笑えないのである。明るい未来を書こうと思ったのに、いっそう暗くしてしまった。
2006.04.22
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いまわが街は、合併にともない首長と市議の選挙がある。すでに実質的な選挙活動がたけなわだ。今は集会やチラシなどで、各派がどのような街にしたいかというプレゼーテンションの真っ最中なのだが、僕ら仲間たちも出馬予定者にアドバイスを求められることが多い。というより、それぞれが候補者にべったりとくっついて政策づくりに関わっているといっていい。人によっては公約は当選するまでの方便であり、当選すると忘れてしまう輩も少なくないのだが、僕らはそういう人は相手にしない。ということで、これはと思う候補者ためにはアドバイスや文案づくりなどを手伝うことになる。そんなときに必要なのは“空想力”“創造力”だ。人々はどんな街になってほしいか。未来にどんなまちを遺したいか。などを想像しながら、文案を創造する。これはけっこう楽しい作業でもある。もちろん創った以上、当選後はその実現をせまってゆくわけだが、なかには変質してしまう候補者もいる。前回の市議選のときに、告示5日前に若い男性から出馬の相談を受けた。その場でスタジオに連れて行き写真を撮り、徹夜で文案を練り、次の日にチラシやポスターをつくり選挙に滑り込んだ。彼は2位に1.5倍もの得票差をつけてトップ当選をした。その後、本人なりに議会報告も出して、こまめに活動はしているようだったが、僕の作った政策との摺り合わせがされているとの報告は一度もなかった。こうなると彼への思い入れは急速に減退してしまう。今回はとても応援する気にはならなかったから、こちらからは接触しない。逆に、苦戦して当選したが思った以上に働いている議員もある。僕としては、心情的にはそうした議員を中心にお手伝いしたい。だから、一人だけでなく、複数応援している。自分の票は一票なのに、おかしいではないかと思うかも知れない。ちょっと自慢すると、僕にはこんな生き方に賛同してくれ、誰に入れるべきか相談してくれる人が少なくても10人近くはいるから、票割りは大丈夫だ。まもなく告示を迎える。さて、それぞれの候補者がどの程度の戦い方をしてとどんな結果がでるのか楽しみだ。
2006.04.21
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「幸せ」という状態ほど、相対的であいまいなものはない。“平凡が幸せ”などというけれど、平凡などという状態だって、そんなに安定したものではないはずだ。恋人ができて、結婚までの逢瀬はあるいは「幸せ」と感じることのできるわずかな時間かも知れない。希望の職業に就いて、何かやりとげることができたときに「幸せ」を感じることができるかも知れない。結婚して、好きな相手を独占できたときに「幸せ」を感じることができたのかも知れない。しかし、たいがいの「幸せは」一過性のもので、やがて色あせどうでもいいものになってゆく。あれほど好きだった相手だって、やがて恋から醒めれば欠点ばかり見えてくることは誰もうすうすわかっているはずだ。一目で恋に墜ちてしまった代替え品だって、手に入れたとたんに色あせる。自分のなかで「幸せ」と感じる定義を簡単なものにしておいたらどうだろう。「朝ご飯の湯気にあたったら幸せ」「朝日にあたったら幸せ」「夕焼けをみたら幸せ」「寝る前に言葉をかわせたら幸せ」こんな日常的にあることを、自分の幸せと決めておけば毎日一つやふたつ幸せを感じることができるだろう。僕は今、花の移ろいをみたときに幸せを感じている。
2006.04.20
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昨日の日記「大人の関係より」について、たくさんの意見をいただいた。当事者が読んでいるかどうかは聞いてないのでわからない。時々はここを覗いているようだから、いずれ目にするかも知れない。もちろん、本人にしてみれば「事実関係が少し違う」とも「そんな単純なことではない」と思うだろう。だからといって、誰かが特定できるほど正確に書いてしまったのでは、どんな不測の事態になるかわからないから、痛し痒しというところだ。ちなみに、僕がリアル友人だと思っている人は男女あわせて、3,40人位はいる。読んだ人は誰々のことではないかと、勝手に推測しないで欲しい。内容についての質問も不可。マリィ ジョー ♪さん どうして離婚しないのでしょうか。もちろん離婚すればいいといった簡単なことではないとは思いますけど。-----msk222せめて子供が高校をでるまで(養育費などの関係で)待っていたようです。でも、荒れてしまっては…。takanebiranjiさん 男の子を持つ、しかも一人っ子を持つ母親にとっては、この文章、深刻です。あのかわいかった息子が、母親から逃げたがっている…切ないねえ。今の夫(最初で多分最後の夫ですけど)は、介護に関しては母親の言いなり…ということは、私の息子もそうなる可能性がある?でもそれじゃあ、息子も、いつか現れるはずの彼女もかわいそう…私が村同様に自立できればいいんだ…-----msk222男の子の場合は、母親の影響を強く受けやすいですね。ただ、悪く受けるだけでなく、良く受けることが多いから、takanebiranjiさんは問題がないでしょう。難関をくぐって教員になったのに、捨てて別の世界に挑戦するなど逞しいようだし。彼女は心配ない、takanebiranjiさんの息子さんなら…。みらい0614さん 性別によって、親に対する感情や子ども自身の性行動がどのようになるのかの分析や解釈は、この日記に書かれていることも当たっているのかもしれません。同時に、それぞれの性格などの違いや、家庭以外で所属している環境の違いも大きいはずです。(学校、友達、つきあっている他の大人たちなどなど)私は、この母子の基本的な課題は、「男女関係、夫婦関係」の考え方(価値観)だと感じました。高校生の年齢の男女は、性関係を持っても責めることはできません。残るのは健康問題と、モラルの問題でしょう。この母親がモラルは別としての男女関係や夫婦関係を選択しているなら、娘の行動に文句は言えないでしょう。「大人としての分別」とは、何なのでしょうか。それを自信を持って説明できたらいいですが、多分できないと思います。娘さんの行動が「非行」なら、母親の行動も非行ではありませんか?自分の行動に自信を持っているなら、母親が注意できるのは「安易なセックスによる自分の身体への危険性(病気のこと)」と「妊娠した場合の困難性」を教えることだけだと思うのですが・・。-----msk222母親はとても真面目に友人とつきあっていて、友人をとても信頼しています。しかしいずれにしても、不正常であることには違いありません。子供への責任はあるでしょう。子供たちとは正面から体当たりで話し合うしかないでしょう。しかし、娘が素直に聞けるのかどうかはわかりません。子供が可愛かったら、友人との関係を清算してから、話し合うべきだとは思います。ようちゃん2号さん 以下↓引用。(『思い残し症候群』より)------------------------女性の成長は二段階 一段階めは、男性と同様、愛される時期である。両親のみならず、社会の多くの人々から愛され、親切にされることが重要である。特に父親からの愛情は重要だ。父親から深く愛されないと、結婚をしようという意欲が低下するばかりでなく、夫や子どもを大事にしようとは思わなくなるからである。男性を応援しようという気にもなれない。 女性は愛の貯金箱のようなものだ。心のダムに一滴ずつ愛をためていくのである。 二段階めは、人を愛する時期である。これまで愛されたエネルギーを使って、今度は人を愛する側の人になるのである。もちろん、この時期でも愛され、見つめられることを女性は願うが、愛されるよりも愛する量が多くなる時期である。 つまり、女性の一生というのは、極端に言うと愛される前半と、人を愛する後半に二分できるのだ。 だが、母から嫉妬されて(呪われて)いたり、父親の呪縛があると愛は入らない。だから、いつまでたっても人を愛することができなくなる。女性の最大の特徴である共感と一体化は、愛されてはじめて発揮される能力である。女性にとっては最も重要な能力だ。------------------------以上↑引用。引用文の内容に従うなら、その娘は第一段階にあるんじゃないかと思います。-----msk222引用の本の著者は香川大学にいた岩月謙司氏ですね。彼はとんでもないことになって、いま刑務所にいますね。ただ、上の文章はそれなりに納得できます。この娘の父親は、おなじ屋根の下にいて子ども達とはまったくといってよいほど没交渉ということでした。子供たちも小さい頃から父親として認めていませんでした。そういうことでは、かなり当たっているかも知れません。いずれにしても、子供にとっては不幸な状態です。*夏芽*さん 会社の先輩が「良好な男女関係を大人になって築けない女性は、父親との関係に問題がある」っていう説の本をおもしろいって紹介してくれたのですが、読む前に、その本の先生が淫行で先日捕まったような気がします。母親が女だっていうのは、子供としては許せないことなんじゃないでしょうか?だから、お母さんが娘さんに、どうしてこういう状況なのか、本心をお話して、性的なことってどうしても女性が最終的にリスクを取るんだから、その辺りはきっちり伝えないといけないのでは?お父さんのことだって娘さんはひっかかってると思うから、その辺りをどう話すかが難しいでしょうけど。。むずかしそうですね。。。でも、娘の行動の原因だって自覚あるなら、分別あるとか言ってないで、原因行動を止めればいいのにって思いました。。娘さんと話すのはそれからじゃないと理解してもらえなさそ。。。-----msk222そう、父親に問題がある。しかし、母親にも問題がある。不幸なのは子供です。最後には、彼女と娘さんがガチンコで徹底的に話し合うしかないと思います。逃げないことでしょうね。まき~♪さん 個人的には型どおりの白黒なんて、ないんじゃないかと思ってしまいます。まずは、お母様が、自分を大事にする、大事にされる関係を選んでいるということ、たとえば、自分が娘さんから、どんな風に見えているのか尋ねてみてもいいかも知れない。ということと、むすめさんが、誰かに(特にお母様に)愛されている、家庭は、居心地の良いところである、という感覚を持てるようにすること、大人としての判断に任せるよ、ということを伝えることが大事なんじゃないかな。親だって、全く正しいことばかりしていられないと思う。でも、後ろめたいからと言ってお子さんがあぶないことをしているのを放置していたら、愛されていないと思うかも知れない。それから、別に聖女と娼婦が頭の中でスプリットしているのが、ロマンティックだとはぜんぜん思わない。男だってぜんぜんロマンティックじゃない人とかいるし、自分のロマンに酔っている人もいるし。要するに生殖能力と気持ちの問題でしょ。色恋沙汰と関係のない性欲については、味けのない物だと思いながらも、認めざるを得ないわけだし、そこで女を物として考えることで、プライドみたいなやつを守ろうとする。女性の場合、そこまでつき詰めて男を求めることはないかと言えば、援助交際とか、売春とか、ホストとか。(そこまで、ってわたしは思うけれど、そこまで必要に感じる女性がどれだけいるのか、わかんないや。)人を物みたいに思うのは、よくあるけれど、本当はあんまりいいことじゃないよね。-----msk222さすが心理学の先生。ありがとう、参考になると思いますよ。ようちゃん2号さん *夏芽*さん はじめまして >でも、娘の行動の原因だって自覚あるなら>分別あるとか言ってないで、原因行動を止めればいいのにって思いました。。ちょっと↑ここが気になりました。 まさに捕まった人の書いた文章を引用しましたので、トラックバックではなく引用にとどめたのですが、訴えたのは、著者に父親の代わりを求めた女性のようです。事実はわからないのですが、見るところは、そうなってしまうほど女性が父性的な愛をもらうのはむずかしいということなんだと思います。母だって女性で、娘だって女性なんだと思うのです。どちらかが女性を手放すことで理解が生まれるとは思えないのです。-----シャルドネ☆さん *夏芽*さん>会社の先輩が「良好な男女関係を大人になって築けない女性は、父親との関係に問題がある」っていう説の本をおもしろいって紹介してくれたのですが、読む前に、その本の先生が淫行で先日捕まったような気がします。。-----岩月謙司のことですか?書店で立ち読みしたことがありますが、朦朧とした話題で何をどのように理解してよいのか良く分かりませんでした。私の頭がよほどよくないのか、実感レベルのものがこちら側で枯れているのか、いずれにせよ読んで理解できる説ではなかったので買い求めるのを断念した記憶があります。そうですか。あの方、淫行でつかまっちゃったんですか?-----msk222本題とは直接関係ないのでここでは触れませんが、元香川大教育学部教授の岩月謙司氏は相談女性にわいせつ行為という容疑で逮捕されました。男女間の性医学の精神的権威のような存在だっただけにちょっと複雑ですね。-----みなさんたくさんのコメントありがとうございます。 ○○さん、もし読んでおられるとしたら、参考になるところは参考にして、対処してください。いずれにしても、なるべく早い段階で正常化すべきだと思います。たいした力にもなれませんが、僕で役立つことであればメールなどで言ってください。では、
2006.04.19
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ある女性の娘のことが気になっている。女性の夫は、家庭をまったく省みない人(えっ、僕も…!?)で夫婦関係はもう10年以上前に破綻して籍は抜いてないが別居状態にある。そして、ここ数年は僕の友人と大人の関係にある。友人は僕と違って、とことん面倒見のよい性格で、頼りがいがあったのだろう。念のため書いておくが、その女性と僕ら夫婦もつきあっているが、もちろん僕とやましい関係は断じてない。女友達には男女2人の子供があり、2人とも母親の“男友達”のことはよく知っている。男の子は、母親を理解して僕の友人に進路の相談をするような関係になっている。ところが、高校生入った娘が荒れ出した。どうやら複数の男性と関係をもっているようなのだ。女性はそのことで深く悩んでいる。自分の、男との交際が娘の非行の原因であるとの自覚はあるが、さりとて自分の交際はあくまで大人としての分別をわきまえたものだという自負がある、という。僕はこの問題に対して、正しい回答などもちようがない。そんな修羅場の経験もなくて、どうしてしたり顔ができようか。そんなわけで、男女の性意識について考えてみた。いや、頭の中で整理している途中だといってもいい。一応ここに記録してみるが、思うことがあったらコメントをくださると嬉しい。しかし、返事はできないかも知れない。なにしろ経験不足なのだから…。 *今頃になっていうのも気恥ずかしいのだが、ロマンチシズムというものは一般的に男のほうが強いものだと思う。これは僕だけでなく、誰に聞いてもおおむね男に共通する現象だ。男が抱く女性像は、岸田秀氏によると西欧近代においては、聖女と娼婦という両極端に分裂して考えたようだ。たとえば位の高い女性は聖女視され、それに近づけない男はもっぱら娼婦を性の対象にした。聖女には愛情を抱き尊敬し愛を得ようとし、娼婦にはさげすみをもって愛情抜きの性の対象としたのだから、身勝手といえばいえる。このような現象はいまだに男の中に大小はあっても、潜在しているのかも知れない。ところが、女性は男性像をそれほど分裂しては見ていなかったので、男との関係で男ほど愛と性を使い分ける必要がなかった。男のようなはっきりした分裂はないのであろう。(本当?)女の男性像が男の女性像ほど分裂していない原因は、女の子が異性である父親を知る時期と、男の子が異性である母親を知る時期との違いにある、という。男の子が生まれてすぐ母親と接する。初めは、母親と自分の区別もつかないが、その区別がいくらかできるようになっても、まだ現実感覚の発達は不十分で、母親について現実離れした誇大なイメージをもちながら育つ。男が乳房崇拝から抜けられないのも、幼児体験に根ざす。つまり母親は全知全能の神のようなものになるのだ。男の子にとって、この全知全能の母親は無力な自分を全面的に保護してくれると同時に、自分を支配し圧迫する存在でもある。男は、のちに恋人をもとめるとき、このような母親から逃げようとして、自分が軽蔑し支配することができる女性を見つけるか、つくりだすかする傾向がある。一方、女の子が父親の男としての存在をはっきり知るのは風呂に一緒に入り、母親との違いを知る時期であり、この時期には自我も芽生え、現実感覚はかなり発達しているから、女の子は、男の子が母親を理想化するほどには父親を理想化しない、ということだ。つまり、父親についてそれほど現実離れしたイメージをもたない。たしかに、一般に父親は、母親が男の子を支配したがるほどには女の子を支配しようとはしない。要するに、女の子が父親を知ったときの自分と親との隔たりは、男の子が母親を知ったときの自分と親との隔たりほど大きくないので、女の子は、男の子が母親に圧迫されているほどには父親に圧迫されてはいない。したがって、のちに男性との性関係をもつ場合にも、女は、男ほどは怯えておらず、傷つきやすくなく、そして、圧迫からの解放というか、圧迫の打倒というか、そういうことを求める必要を男ほどは感じない。男は、男女関係において、一方では女を必死に貶めようとしながら、他方では過度に理想化し、崇め、憧れる傾向にある。考えてみれば、僕も青春時代までは、愛すべき女とは聖女のように見えたものだ。(今でも、少しは尾をひきづっているが…)彼女の娘が、母親をたんなる女としての認識しかしなかったとき、非行への行動はたやすいものであり、自分の性への尊重を強くもたなかったのも、むべなるかなとも思う。と、分析してみても僕には今のところ黙って見ているしかないのが、現状だ。
2006.04.18
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娘は、国語科の教師を志望していたが、教師にたいする最近の厳しい求職環境や親の経済状態を判断して、断念した経緯がある。親としては「目標をもったなら、達成するまで頑張れ」と励ましてやるべきだったかも知れないが、家計情況や教員応募が定員の何十倍という競争率を考慮すると、そこまで勧められなかった。昨晩は、芸術家でもあり武道の達人という人を交えて、友人の娘さんと朝の三時過ぎまで話し合った。娘さんの名前は仮にSさんとしておこう。Sさんは高校時代に医師になりたくて、国立大学の医学部を志望していた。家計のこともあって、国立以外の選択肢はなかった。学校からは、T大でも合格できるかも知れないと言われるほど教科の成績は優秀だったが、滑り止めの某国立の歯学部と薬学部以外は失敗した。親の期待もあってS予備校に通い、翌年も受験したがまたも失敗して、やむおえず私立の文学部に入った。私立といっても、誰もが知っているいわゆる有名大学だ。しかし、医学部に行けなかったSさんの挫折感は大きく、大学に通ううちに心に変調をきたしていった。しだいに人との交わりが苦痛になり、親が気づいたときにはアパートにひきこもりガリガリに痩せこけてしまった。大学をやめ家に戻ったが、そのときには統合失調症と診断され、医者どころではなくなった。以後しばらくしてから、ソフトウェアー開発の仕事に就いたこともあったが、症状がだんだんすすみ、まったく仕事に就けなくなった。家からほとんど出ることがなくなった。それから約10年、父親の病気をきっかけに父親とともに行動するようになった。家庭のなかにある深刻な問題が起こり、父親がそれを解決しなければならなかったのだが、病をもちながらの行動なので、Sさんは心配してついて歩くようになったのだ。父親はSさんをとても可愛がっていたから、それに応えたかったのだろう。不思議なもので、父親の秘書代わりのように行動するようになってから、Sさんの症状がとても良くなってきた。抗うつ剤などの薬により乱れていた言葉もしだいに明瞭になってきて、動きもかつての動きに近くなっている。家に引きこもっていた頃、過食症気味になり70キロを超えた体重も40キロ台にまで下がり、スマートだった頃の体型に戻った。聞いたら、今は毎日15キロ以上も歩いているそうだ。自分がしっかりしなければ家がもたないと思ってから、自分をコントロールしようという気持ちが戻ってきたのだという。Sさんは僕に対して「アドバイスして貰ったのがとても役だった」といってくれるのだが、実のところ特別なことを言った覚えはなにもない。来るたびに「Sさんが来ると事務所に花が咲いたようになる」とか「今日はちょっと太っていい女になったね」、「季節の食べ物がいちばんの薬だよ、それも野山のものね」などと、ごく当たり前のことばかり言っていただけなのだが…。考えてみるにたぶん、Sさんはいつからか物事をプラス思考に考えることができるようになってきたのではないだろうか。プラス思考が体調を好転させたのであろうと、僕は思っている。それにしても、教育や進路の選択は難しい。僕の娘は、志望を途中で落ちこぼれたため、志望とはかけはなれた職場で妥協した。しかし、会社や仕事先からは良い評価をもらいったため、今のところは溌剌と働けている。僕の娘よりだいぶ能力の高かったSさんは、だいぶ遅れてのリベンジになる。彼女らの人生はまだまだ洋々と広く長い。Sさんがこれからどのように潜在能力を発揮してゆくのか楽しみだ。あまり干渉しすぎてもいけないと思っているが、うるさいオジサンたちを相手に朝まで討論につきあうところまできてくれた彼女に、ひそかにエールを送っている。
2006.04.17
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さくらが満開ですいよいよ春になりました。山荘の整備を開始します。散歩道を整備したり、敷地内の片付けと木の芽草の芽を刈ります。池にも水を導入して、ホタル水路もつくる予定です。草刈りボランティア募集!宿泊場所と食事は提供。ムキムキマンに鍛えてあげましょう。希望者はメールをご返事ありがとうございました。とりあえずの見通しはたちましたので、明日から作業に入ります。
2006.04.16
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信州の奥地にはまだ日本の原風景が細々と息づいています。わが生地の長谷村も、この春に合併して大きな市のなかにのみこまれてしまいましたが、その集落の奥まった場所では延々と伝承的な芸能がつづいています。信州・伊那市長谷の中尾地区では4月29日に中尾歌舞伎が、隣の大鹿村では、5月3日に大鹿歌舞伎があります。素朴な山村芸能ですが、なかなか見応えがあります。村人たちがお重などにそれぞれ手作りのご馳走をもちより、隣に座った見ず知らずの人にふるまったりもします。歌舞伎見物は無料で、運営費は村からの補助のほか、寄進や見物人のおひねりなどでまかなわれています。数年前、田中知事が5,6人で訪れたところ、やはり弁当がふるまわれたため、おひねりがわりにご祝儀をだしたところ、公選法違反だとして県議会が蜂の巣をつついたような騒ぎになったこともありますが、それまで県議や村会議員などは普通にご祝儀を出していたこともあったため、それ以来どう扱うか頭を痛めているとも…。現在、後藤俊夫監督の手で伊那谷に伝わる農村歌舞伎を題材にした映画「村歌舞伎一代」の撮影に入りますが、そのモデルとなるのがこの歌舞伎です。の~んびりと連休を過ごしたい方は、声をかけてください。一緒に農村歌舞伎の見物ができるかも…。 ごとう・としお 38年長野県伊那市生まれ。62年に立教大社会学部を卒業し、新世紀映画に入社。山本薩夫監督の「戦争と人間」「あゝ野麦峠」などの助監督を務め、78年「こむぎいろの天使・雀(すずめ)と少年」で監督デビュー。最近は小学生向けの演劇塾「NPO法人アクターズゼミナール伊那塾」を立ち上げたり、地域の文化事業を仕掛ける「いいじま文化サロン」の会長を務めたりしている。
2006.04.16
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わが長男息子夫婦は結婚してから5年を経過しているのに子どもを産まない。どちらかに生まれないという欠陥があるとは聞いていないので、自分たちの意志でそうしているのだろうとは思う。男女のどちらかに肉体的な事情があって子どもが産まれないという人はベツにして、その気になればいつでもスタンバイできるのに、子どもを産まない夫婦が増えている理由はどこにあるのだろう。大きくは地球や日本の将来を考えれば、産まれても明るい未来を保証できないからと「産まない」を選択することもあり得るだろう。しかし、動物学的に考えれば(というほど大上段に言うほどのことでもないが)自分の遺伝子をこの世に残したいというのは生命体に備わった本能ではないだろうか。しかし、それでも現実には少子化が進んでいる。現在の日本人女性が生涯に出産する人数は平均で1.43人だという。人口を維持するには 1 組の夫婦につき最低2.1人の子供が必要があり、予測では、2100年には日本の人口は6000万人程度、すなわち現在の半分以下になると言われている。現代の少子化の原因とはなんだろう。岡山県で調査した例をあげてみるから、どれがあてはまるのか順位を考えてみよう。1 子育ての経済的負担が大きい2 子育ての精神的負担が大きい3 住環境が良くない4 仕事と子育ての両立が困難5 夫婦だけの生活を大切にしたい6 自分の趣味やレジャーを大切にしたい7 結婚年齢が高くなった8 結婚しない人が増えた9 未婚で子供をもつことに抵抗感10 子育てに自信がもてない11 子供がほしくないから12 その他13 わからないこれは、岡山市の『男女共同参画に関する市民意識実態調査』から写したものである。それによると順位は、1、4、8、2、7、10、6、5、3、11、9、12、13とつづく。経済的な負担や、精神的な負担、住環境が上位にあげられているが、そうだとすれば発展途上国ほど夫婦対比の子供が多いのはなぜだろう。また、日本にあっても高所得家庭だから子供が多いという統計はみたことがない。むしろ逆ではないだろうか。“子供は社会が育てるべき”だという考え方は中国やかつての社会主義国では違った意味で活用されている。運動能力などでめぼしい子供が地方にいると、国が抜擢し手厚く公的支援をして、国の施設や選抜されたコーチのもとオリンピック選手などに育てている。日本は、スポーツエリートを育てるためだけに国家予算をつぎ込むという、矮小な考え方ではなく、ごく普通の健全な社会人を育てるためにこそ国の予算をつぎ込むことが必要ではないだろうか。予算をつけろというと、“健全な社会人”=“体制に従順な社会人”とかってに解釈し、今度の自民、公明両党の「教育基本法改正」案のように、「愛国心」を強調したり「公共の精神」「道徳心を培う」と、都合の良い人間ばかりつくりたがる。「愛国心」は、むしろ右翼や「桜のように散り際を大事にしたい」などと侍がかったことをいう人より、庶民のほうが持っているものだと、僕は思う。社会や地域が保たれ、家族や自分が平和に安心して暮らせる地域であって国。国が平和であってこその愛国心であって、他国と諍いをおこした為政者のために戦うロボット人間が“愛国”心などでは断じてない。本当に健全な社会人とは、ひとつの方向や物事だけにとらわれない様々な方向性をもった、一人ひとりが個性的な人間なのだと思う。少子化のいちばんの原因は、声の大きい旗振り役のあとをぞろぞろついて行く国民を欲しがる政府への、無言のレジスタンスではないだろうか。
2006.04.15
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人にとってどうしたいとか、何に成りたいとかいう物事は“思いこみ”の使い方ではないかととみに思う。よくビジネスの社会では「成功方程式」というものがあって、成功する人というものは商売にしても志にしても、成功する確率が高いという。たとえば政治家。大成する人はこの“思いこみ”が強い人が多いと思う。「自分は絶対に政治家になるんだ」と思いこんだ人は、たとえ一度や二度落選しても、それは勉強のうちだとして、前に前にとすすむ。(本来の資質はベツにして)結果として、政治家として大成することが多い(そのために市民が迷惑してもだが…)。反対に、その資質を買われて選挙に出て当選した人でも、一度落選すると「自分は向いていないのではないか」と思いこみ、再挑戦に及び腰になる人がいる。(誰とは言わないが…)“思いこみ”がその人の足を引っ張っているのである。たしかに政治家に“毛の生えるような心臓”も大事ではあるが、もっとも大事なのは政策立案能力であったり、特定の人のためでなく広く住民の立場で働くことであったり、将来を見据えた社会づくりであったり、光りのあたりにくい弱者を切り捨てない政策であったりと身を粉にすることであり、地域ボスや高級公務員の名誉職としてのポストづくりではない。“住民や弱者のための献身”ができるのは自分であると思いこめばいいのであって、そのために、わずかな可能性であっても挑戦する気概が欲しいのである。「当選の確立が高ければ出馬する」というのでは、仮に当選したときの仕事だって“大過なく”に落ち着くに決まっている。そんなふうに変質した奴はゴマンといる。僕は地方選挙で、何度となくいわゆる市民の立場で働くだろうという志の人には、裏方になって応援してきた。せっかくそうして当選できた人も、議員として必ずしも期待通りの仕事をしない人もいた。逆に、しっかり成長していい仕事をしてくれている人もいる。それらを分けているのも“思いこみ”ではないだろうか、と思う。こころのどこかに不純な思いが潜んでいれば、人は簡単に変質する。純粋に使命感をもっていれば仮に途中で一度や二度の挫折があっても成長してゆく。僕は青臭いといわれようと、変質しない人を応援してゆく。友よ「一度や二度の失敗は肥やしだぜ」、顔をあげよ!
2006.04.14
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近所に森林管理事務所があり、その庭の桜が満開です。近くの「はらっぱレストラン」で昼食をたべて、昼休みにブラリと花の下をくぐってきました。「はらっぱレストラン」は、解離性障害(一般的にいうところの精神的障害)の人たちが自主的に営業している食堂です。解離状態というのは、日常的非病的な現象から、重症で病的な現象までの連続性を持った心の状態で、意識、記憶、同一性、知覚などの統合が崩壊する、互いに類似性を持った広範な状態像の総称とのことです。たとえば、ぼうっとしている状態、空想にふけっている状態、白昼夢のような状態、何かにとりつかれているかのような状態、人が変わったように荒れ狂う状態、ある種の記憶障害、心因性とん走、離人症状態、多重人格などをいいますが、通常は普通の人とそれほど変わることはありませんから、レストランのなかで僕をみかけても、彼らと区分けはつかないでしょう。「解離」というのは、心的外傷(トラウマ)によっておこることも多いのですが、本来トラウマは、現在の一般用語としては心の外傷をおこすような体験をトラウマと呼びます。「はらっぱレストラン」は木、金、土の週3日しか営業していませんが、定食はごはんのお代わり自由で650円。けっこう美味しい料理を出してくれますから、機会があったら訪れてみてください。場所は、伊那北駅から県道を北に向かって約200メートルです。花を眺めながら、そういえば昨年の今頃は、駒ヶ根高原美術館で行われた小林とむぼさんのアーティスト・ドール展の準備で忙しかったなー。最近日記の更新が少ないけれど忙しいのかな、などと…。楽天広場で知り合って、直接お会いしたことのある人は、10人くらい。今日午前には、そばがおやき「きょう庵」のM京子さんの引き合わせで、最近楽天友だちになったそーたさんと会ってきました。もちろん始めて会いましたが彼のほのぼのまんがに出てくるそーたくんをすこしイケメンにした感じで、話し方もさわやかな好青年です。可愛くてほのぼのとしたキャラクターのまんがを描いていますから、覗いてみてください。きっとファンになりますよ。
2006.04.13
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昨夜、ある男の夢を見ていた。しばらく考えているうちに夢が実現しそうな気になって、眠りから覚めてしまった。実は最近、その男から2度ほど「昨夜mskさんの夢をみた」と言われた。夢の内容?、いや今は言えないが、男のロマン、しごく真っ当な夢であってあなたが想像するような嫌らしい(えっ、想像しない)夢ではない。そんなわけで、夢か現か少し動いてみようと思う。僕はしばし、ゲーテの言った「夢に見ることができるのなら、始めなさい。人の夢には魔法の力があるのだから―」という言葉で動くのだが、身近な人からはよく「もういい加減に夢をみるのはやめて現実をみつめなさい」と言われている。しかし、この世の中の進歩はすべて、ひとりの夢から始まっているのではないか。みんなが夢をみるのを諦め、日々、現実ばかり追って生きてゆくのだとしたら、何でこの世に生まれた意味があるのだろう。 夢が叶ったかどうか、遠くないうちに報告します
2006.04.12
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信州の伊那から飯田にかけて、昔から蛋白源として虫を食べる習慣があります。いちばんポピュラーなものが、イナゴ、バッタ。そして、蜂の子、蝉。そして、ザザ虫といって水生生物。これなんか川の中にいる虫をねこそぎ食べてしまうという感じです。昔ゲンゴロウの佃煮をごちそうになったことがあったなー。蚕の蛹、蛾。木の中にいるゴトウムシ、コオロギ、カマキリも食べました。なんとなくモニターの向こうで顔をしかめている姿が見えるような気がしますが、現在ではイナゴ、ハチノコとかザザ虫程度です。あとは茶碗虫(?)。森本先生は好奇心が高じて、いろいろな虫を食べてみたそうです。アリやコガネムシはもちろんカミキリムシ、アオムシなどもレパートリーにはいります。皆さんも覚えておくと、地球的規模の食糧難がきたときには役立つかもしれません。そのなかで失敗例も語ってくれました。信大の学生達と虫食パーティーを開いたときに持ち込まれたのがしらが太夫という毛虫。これを食するにはどうすればいいのだろうと思案して協議の結果、炎で毛を焼いて、フライにしてみたそうです。それを森本先生を先頭にみんなで食べてみたそうです。しばらくすると喉が痛くなり、声も出なってしまったということです。自分はともかく学生達に万一のことがあったらいけないと、病院に行って診て貰ったのですが、医者にいったい何を食べたのですかといわれ、「毛虫」と答えたら絶句されたそうです。後で調べたら、毛虫は毛の根元の部分に毒の入った袋をもっていて、毛を焼いただけでは毒が消えないそうです。それにしても、医者も毛虫の毒にどんな薬が効くのか迷ったことでしょう。幸いみんな生きているから、治療が成功したということで笑い話で済むことになりました。
2006.04.11
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今日も雨… 僕たちの市民グループは発足して15年ほどになります。発足当初は、まちの抱える諸問題を市に提言したり、ボス議員に対抗馬を立てたりと跳ね返りぶりが目立ったので、何かとマークされていましたが、メンバーも50歳台が主体となり、すっかりサロン化しておとなしくなりました。昨晩は、信州大学元学長で農学部名誉教授の森本尚武さんをお招きして昆虫にかかわる話しをゆっくりとお伺いしました。 森本尚武さんは平成16年夏から、子供自然教室を開催しています。平成17年は合計10回、600人以上の親子に伊那谷の自然と昆虫の生態などを教えています。森の植物や動物についても触れ、自然とかかわることが好きな子ども達を一人でも増やしたいと意気込んでいます。学長を退き、「ようやく好きなことに使える時間ができた」と嬉しそうに話し始めました。完全なボランティアで、子供たちに昆虫や森と触れあう時間を提供していますが、信大も、教授や大学院生たちも教室を手伝っています。いろいろな虫や植物のスケッチ。チョウの卵を持って帰らせて、幼虫から成虫へと飼育するまでの観察。稀少蝶の保護観察…。単に知識を覚えるのではなく、子供たちが昆虫や植物に日常的に関心をもち、触れ合っていけるきっかけにしたい―そこから地域や自然を大切にする気持ちが生まれるはずだといいます。パソコンゲームやケータイの普及で子供が室内から出なくなったと言われます。自然との接点は少ないままの子供たちの関心を自然に向けさせるには小学生のうちに、自然への興味をもたせることが大切だと語ります。親子連れ立って野山に出かけるきっかけを増やせば、おのずと故郷の自然を愛する心が育まれ、それがきっと、今後の社会に大きな影響を与えるだろう―と考えているのです。森本先生は京都市生まれ。京大で学んだ後、昭和41年に信大農学部の教壇に。以来、学生とともに山に登り、森を這い回り、信州の虫という虫を見て、研究してきました。中央アルプスの高山ハイマツ帯に発生するマツノキハバチは、雪融け時期に羽化するが、羽化後に梅雨が続くと生きのびられない。だから雪融け時期が異なる色々な地形の雪渓に卵を産んで、種を守っていることを発見したといいます。そして信越県境の黒岩山では、次第に数が少なくなって絶滅が心配されていたヒメギフチョウと、それに良く似たギフチョウの棲息状況を観察して、ヒメギフチョウを増やす里山整備の方向性を示し、現在では30パーセント以上発生量が増えています。「農薬使用を極力抑え、ある昆虫には天敵の昆虫がいるというような、生物の循環系を活かした環境保全型農業が必要だと大学にいるころから指摘してきたが、ようやく、そういう考え方が広がってきた」といいます。ところで、僕は森本先生とは親しくしており、月に1度くらいお会いし、ときには飲むこともありますが、とても気さくでエッチな話しも大好きです。そんな話しもいずれ…。
2006.04.11
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ちょっと忙しくなりましたから、昨年の復刻日記で…。僕は青春時代に、自分の若さというものを憎んでいたのかも知れない。今、思い返してみても20歳代の頃の自分は厄介なものだったと思う。冬から春への脱皮に、どうしてこんなにも手間がかかったのか。小椋佳の「シクラメンのかほり」の歌詞のように、身構えながら話す憶病さがいつも身に付いていた。そのくせ、人恋しくいつも誰かに片恋していたような気がする。この年代になって、冬から春にむかう季節は青春とひき替えに、僕には何にものにも替えがたい宝物のようになった。花が咲き、緋もうせんの上で空を見上げながら花見ができたら、大抵のことを捨ててもいい。その怠惰な時間は何ものにも替えがたいと思うのだが、そんな時間が持てるのは、せいぜい年に1、2回のことである。この数年、遠くから高遠公園の桜を眺めることを欠かしたことがない。青春時代には、花のピンクがまぶしすぎて花を避けて歩いたような気がする。いや、青春を奪われるようで見るのが少し怖かった。清楚な少女のように咲いた花びらが、やがてひらひら舞い降る頃になると、にわかにあらぬ妄想が湧き起こり、妄想の中でなんども好きな少女を汚してしまう予感がした。妄想の快感に酔いながら、妄想に翻弄される不潔な自分を憎んだ。好きだった女の子とすれ違うときには、妄想の中味を見透かされているようで、視線を避けて足早に通り過ぎた。少年の含羞とは自らへの恥じらいだった。いつしか眼に入る景色が普通のものになり、花の季節などに興味をもつことも忘れ、人並みに恋をして青年から中年の時代を過ごした。そして、この頃になって、あらためて花の下がいいなと思う。公園からすこし外れた土手に腰を下ろし、ワンカップを舐め、イカの足を囓りながら花を見つめる。運のいい時には、コップの中に花びらが入ってくる。泣きたいような一瞬だ。その頃は、桜の花は春の陽気にかすんで、眠気を誘うが、夕なずむ花を見ていると、なにか妖気がこもっているようで、背筋がゾクゾクっと寒くなるような時がある。このゾクゾクのときがまたいい。できれば隣に女ともだちでもいて、ほのかな熱を寄せあえればこれ以上の贅沢はないだろう。酔ってその人の膝枕とまではいわないが、時間がほんの一瞬でもそこで止まってくれれば、その時間は極楽になる。若かったあの頃、春を前にして悩んだり、自分を憎んだり、それなりに苦しんだりしておいて、本当によかったと思う。それがあったらこそ、今のように、春を楽しむことができると思うからだ。春を待ち遠しく楽しむことができるのだ。今、人生の半ばも越えて、自分がとしを取ったとは思わないが、一つだけはっきり思うことがある。それは、春になると、あと何年、こんな気持で花見ができるかなということである。なにも人生を悟った気持ちで言うわけではない。ただ、春という季節が、自分の中で、だんだん大事なものになってきているのは確かなのだ。よくいう、花は桜木、人は武士というのは好きじやない。そんないさぎよさは僕には向かない。ダラダラと、桜咲く季節を大切に生きたい。
2006.04.10
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少しずつ花が咲き始めましたね…。
2006.04.09
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上野千鶴子女史によれば、「性の自己決定」を「したいときに、したい相手とセックスする自由を。したくないときに、したくない相手とセックスしない自由を。そしてそのどちらの自由を行使してもどんなサンクション(制裁)も受けないこと」(『発情装置』筑摩書房)と規定している。なぜ唐突にこんな言葉をとりあげたのかというと、政治の季節まっただ中といおうか、諸々の選挙の中で政策立案などを検討していると、必然的に社会の情況や制度を考えることになる。たとえば年金制度。これは端的にいえば貯金ではなく「老いた世代を若い世代が支える仕組み」となっているが、その若い世代となるべき子どもの数が減り続けている。セックスをするのに子どもを産まないのはけしからん、という趣旨の発言をしていた政治家がいるが、足下を見ていない発言だ。そのたび子どもを産まなければならないとしたら、セックスさえしなくなる(ということはないか…)。本来は、「年金は強制貯金」と規定してあれば、現在の政治家が悩むことはなかったのかもしれない(悩んでいるという性善説で語れば、だが)。しかし、「支え合う」という詭麗事(アテ字だよ)で片付け、十分わかっていたはずの将来への対応を怠ってきた。その結果、団塊以降の世代がワリをくう可能性が120パーセント確実になってしまったわけだが、少子化にあてつけるだけで語るべき問題だろうか。実はわが長男夫婦は結婚していて、とっくに子どもが産まれていても不思議ではないのに、まだいない。ふたりとも特別できない因子があるようでもないし、産めない経済状態でもないようだから、産まないようにしているということなんだろう。このように未来への不安は、夫婦の事情だけでなく、産まれた子どもが暮らす社会がどのようなものかと想像すると、あまりにもお寒い将来が見えてしまい、ますます“産まない”を選択する夫婦が増えているということなんだろう。そして下支えの構造が崩れてゆく。昨日のニュースでとりあげた子ども3人に万引き指示 容疑で父逮捕、母も加担の夫婦には6人も子どもがいた。今の日本社会からすれば希望の星であっていいはずだ。子どもに犯罪行為をさせることは親として言語道断、もちろん許せないことではあるが、発展途上以前の国ではよくあることで、かつての日本でも似たようなことはあった。東北地方などで、冷害のときに娘を遊郭に身売りしたケースとこんどの事件のケースとどちらが親として非道なのだろうかと考えたら、あなたはどう答えるだろうか。“子どもは宝である”とは絵空事なんだろうか。6人もの宝をもった夫婦が、経済的にもここまで追いつめられた原因は詳しく聞かなければ何とも言えないが、夫婦だけの問題ではないような気がする。もちろん一義的には、夫婦が悪い。しかし、夫婦が悪いといって切り捨ててすむ問題ではない、と僕は考える。子どもが、地域や社会の宝として育てられる環境こそが、成熟した社会ではなかっただろうか。日本ほど(?)豊かでない国では、産まれた子どもは一族郎党で育てるというケースはよくみかける。このバカ夫婦が逮捕されて、6人の子どもたちが辿るであろう今後の人生を思うとき、劣悪な家庭環境に生まれた子どもは親になってもそれを引き継ぐという“下流社会”の構造がそのままここに反映されてしまうように思えてならない。それでいいのだろうか。日本は本当に先進国???首を傾げてしまうのである。
2006.04.08
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とスピーカーでアナウスしながら事務所脇の道を宣伝カーが走っている。「神に対して犯した罪」…? そんなものなにもないよ、といいたいところだが…。考え出したら、なんとなく思いあたることがチラホラ。いや、あれは神様に隠れてやったから知らないはずだ、あれはいくら神様だってやっているはずだ、あんなことくらい許してくれるだろう、などと自己弁護しながらニュースをみていたら、こんなとんでもないものがでてきた。子ども3人に万引き指示 容疑で父逮捕、母も加担。夫婦には子どもが6人もいて、母親は「とにかく金がなかった。子どもなら罪に問われないと思った」と供述しているという。今の時代に子どもが6人もいたら、生活が苦しいのは当然だ。しかし、子どもに万引きをさせてはいけないよなー。このバカ親を糾弾することはたやすい、が、罪は罪として脇におき、考えてみた。この少子化時代に子どもが6人も産むとは見上げた根性、いや何にも考えずに自堕落にセックスをしただけの結果だったのだろうか。思うところがあるので、明日の日記では少子化についてとりあげてみようと思う。
2006.04.07
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民主党の党首選挙が話題になっている。小沢一郎(63)と菅直人(59)ということで、どちらが党首になったとしても、過大な期待はもたないほうがいいだろう。といいながら、若干期待をもっていうと、どちらがなっても前原よりはマシではないかなと思っている。個人的にいうと、民主党のなかでは菅直人にシンパシーは感じるが、今度は一度、小沢にやらせてみるのも面白いではないかと…。小沢の壊し屋としてのイメージがマイナスだとも言われているが、民主党はむしろぶっ壊してつくりなおしたほうが良いような気がする。もっとも、これはどの党にも言えることで、一度ブッ潰れて出直したほうがよいところばかりに見える。それにしても、民主党も堕ちるところまでおちたという気がする。自民党の補完政党としての支持はあっても、本気で期待感をもっている国民はほとんどいないんじゃないかな。という遠くの話題は置いて、地元でも市議選・市長選の真っ最中。市町村合併がおこなわれ今は暫定市長がおかれ、新市長選出のための準備期間に入っている。前市長の独断専行、頭の高い行政はすこぶる評判が悪いが、それでも立候補を表明すると、例によって強いものの周囲にはザコが集まる。国会・県会の保守議員、そして大多数の市議を引き連れての大名行列が始まっている。対抗馬の模索もあるが、さてどうなることやら…。“3人寄れば文殊の知恵”という言葉があるが、女が3人集まると“かしましい”と言うそうだ(僕はおもわないよ、少ししか思わない)。市民のあいだでは、こんな独善市長でいいのか、こんな人を市長にするならウチのポチのほうがよっぽどマシよ、とかまびすしい。この“かまびすしい”だが、語源を調べてみたら平安時代にすでに使われていたようだ。為忠集に「かまびすく鳴くひよどりに……」とある。平安時代にも、政争があるたびに、人々はかまびすく囀ったんだろうな。それにしても、清廉でまともな市長候補、でないのかな。
2006.04.06
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このようにほぼ毎日日記という形で文章を書いていると、自分のボキャブラリーが非常に貧しいことを自覚します。言いたいことがのど元付近まできているのに、その想い表現する一言が単語としてでてきません、しかたなくいつも使っている部品を代用品として使ってつじつまを合わせているのですが、結果的に言いたかったことの何分の1も伝えられなかったという、歯がゆい気持ちで終えてしまうことが多いのです。僕は、川柳文芸を趣味にしているのですから、少なくとも平均以上の語彙をもって、言葉を駆使したいという願望があります。しかし、現実にはまったく願望に届いていないというのが本音なんですね。だいぶ昔になりますが、ヘレン・ケラーを題材にした映画、「奇跡の人」だったか「ヘレン・ケラー物語」だったかを見たことがあります。そのときに僕の印象に残ったのは、三重苦の彼女が人生を切り開いてゆく感動物語の面もより、彼女の家庭教師として雇われたサリバンという女性が、ヘレンに言葉を教える数々でした。サリバンはヘレンの手を水のところにもってゆき、その冷たい感覚にあわせて、もう一方の手のひらに「W-a-t-e-r」というように綴って、皮膚の感覚で言葉を覚えさせました。このようにして覚えた言葉はヘレンの血肉となって、忘れることがなかったことでしょう。昨日、僕の女友だちのひとり山崎きわ子さんが猫を連れてひょっこり訪ねてきました。可愛がっていた猫が、恋の季節ということもあってか夜遊びでエイズを貰ってしまい、動物病院で診て貰った帰りだというのです。その彼女は、いわゆる知的障害者ですが、見た目には健常者とほとんど変わりません。同じ境遇の仲間数人とグループホームで生活しています。彼女とはねこ先生の仲介で、575の会をしたのが縁で友だちになったのですが、とても天真爛漫で明るい女性です。しかし、社会では偏見の眼でみられ、安定した職場にはなかなか雇って貰えません。雇ってくれても不当に安い給料だったり、なかには雇い主に性的暴行を受けたという仲間もいたりして、リーダー的役割の彼女としては苦労が耐えないようです。彼女自身も、昨年、仲間のひとりと諍いを起こたはずみに鉄道自殺しようとして、警察に保護されてしまったと笑いながら語ってくれました。その知的障害だという彼女が、一所懸命に話してくれる言葉がとても魅力的なんですね。「ここにくる途中でさ、水仙がポカンポカンって咲いてて、猫に見せてやろうと思ったらフルフル~って恥ずかしがるんだから、なんだか幸せになってさー、ひさしぶりに顔を見たくなったんだよ。」って嬉しいことを言ってくれます。たぶん、花を見ているときに風でも吹いてきて揺れたのでしょう。それを「フルフル~って恥ずかしがる」という表現に変換できる能力はとてもステキです。あけても暮れても常套句作品をつくっている人たちと比べて、どこが知的障害かと思ってしまうのです。社会の効率化をもとめて人々が編み出してきたマニュアルを記憶して、それを企業や社会で小出しにしながら生きてゆける人々と、マニュアルはまったくもたないけれど、自分の言いたいことを自在に表現するきわ子さんをわけているものは何でしょう。どこに能力をもち、どのように使うかの違いだけのようにさえ思います。経済に結びつく智恵が上だなどという錯覚で僕らは生きているのではないか、とも思うのです。そのどちらにも欠ける僕が、エラソーにこのように書くのもはばったいことですが、春になるといろいろな話題が飛び込んできて飽きさせてくれません。 また雨ですね。花は大丈夫かな?
2006.04.05
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伊那の地に住む俳人の春日愚良子さんが『井月の風景』という本を上梓した。井月と書いて「せいげつ」と読む。江戸時代末期、長岡藩の武士であった井月は、17歳で故郷に妻や家族を捨て江戸にでたとされているが、その詳しいいきさつは謎である。一節には芭蕉に憧れて、同じように全国を放浪し、30歳頃には長野に漂泊している。 稲妻や網にこたへし魚の影そこでは、などの俳句を残している。その後はこの伊那地方に辿り着き、俳諧師柳家井月(通称は乞食井月)と呼ばれ、俳句好きの家々をまわり、世話になりながら露命を繋いでいた。それまで放浪の旅人であった井月が、この伊那の地から離れることなくその後の30年あまりを過ごしているが、当時伊那の地には俳句愛好者が多く、この乞食俳人を好んで受け入れたことが、住み着いた理由であろうといわれている。その作品は馴染みやすい人事・人間諷詠の作品が多く、 何処やらに鶴の声聞く霞かなを最期に、六五歳でのたれ死にしているのが発見されている。今でも伊那の旧家などからは井月の短冊や書き物などがでてくるが、それは井月が泊まった家に、礼として書き残したからだ。「露命を繋ぐ」極貧の生活で、お堂に住んだともいわれているが、ほとんどは今日はあの家、明日はあの家というふうに泊まり歩き、俳句を書き残している。酒仙といわれるほどの酒好きで、家々で馳走になると俳句をつくり、それを短冊を書き宿賃替わりに残した。当時の信州は、ものの豊かさはなかったが、子弟の教育に熱心な土地柄で、俳句など文芸の座も盛んに開かれていた。そうした下地があって、井月も居心地が良かったのであろう。 井月の文字は格調高く達筆であった。僕の好きな作品を一部抜き書きしてみよう。 転寝した腕のしびれや春の雨 鬼灯を上手にならす笑くぼかな 塗り下駄に妹が素足や今朝の秋 親持ちし人は目出度し墓祭り (墓祭=墓参り) 朝顔の命はその日その日かな 人知れず拾い取りたる髑髏(しゃれこうべ)今でも伊那の地は、他国の人を受け入れる雰囲気をもっているのかも知れない。知人にも信州大学を卒業後ここに住みついてしまった人、都会を捨て移住してきた芸術家など少なくない。彼等がこの地方の文化にさまざまな刺激を与え、それが土着の文化と融合して育ててきた。文化の循環や共生に地域も助けられて、独特な文化が成り立ってきたといっていいだろう。近年は、この地も大規模小売店やチェーン店などがひしめき、日本中どこに行っても見られるような金太郎飴の街をつくりつつある。もう、井月が現在を生きたとしても、住みついてはくれない土地になってしまったのかも知れない。(酒の作品より)酒風呂を客にすすめて春の雪翌日(あす)しらぬ身の楽しみや花に酒乞食にも投盃や花の山酒有りといふまでもなし梅の宿しら梅と呼たき酒の薫哉寝て起きて又のむ酒や花心不沙汰した人も寄合ふ煮酒哉酒の味かはらぬ老いの機嫌かな
2006.04.04
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てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。この詩が向山洋一さんの授業で採りあげられていることについて、秀さんはつぎのように述べている。>「分析」という「鑑賞」ではないことを教えるための材料を教えるのなら、芸術作品を使うべきではないと思う。「分析」は、論理的な文章を対象にして行うべきだ。芸術作品を分析してしまったら、芸術の中の、誰もが賛成する部分を分析するしかなくなる。つまり、芸術としては実につまらないところを読むしかなくなってしまう。論理的な文章なら、本質的に優れた部分を分析することが出来るが、芸術作品ではそれが出来ないのだ。仮説実験授業研究会が向山氏の詩の授業を批判した気持ちは、僕には実によく分かる。安西冬衛のこの一行詩の記憶はあるが、小学校の教科書に載っていたとは知らなかった。僕の感覚からすれば驚異的にことだ。この詩を示された小学生が、この詩の味わいを理解できるとしたら、僕のこの半世紀余りの人生はいったい何だったろう、とさえ思う。この詩は、作者の置かれていた境遇や、当時の地理的環境などもあって、ひとつの望郷詩とも読むことができるし、一行詩としてみたまま、漢字とひらがなの絶妙なコントラストとリズムを感じて読んでもいい。計算され尽くされた詩という言葉があるが、自分の実感からいうと、詩や文芸作品を創りだすときに、計算が先にあると失敗することが多いのではないかと思う。計算はいうなれば作為である。作為はおのずと勘のいい相手に作為と感じさせてしまうものだ。僕は「よしできた!」と実感できる作品は、ひらめきのなかから生まれることが多い。そのとき何ものかから刺激をうけた感情のひだが、自然に書かせてくれるという感覚だ。僕は夜中にぽつねんとしているときに生まれることが多いが、朝になって読み返してみると、醜い駄作に変わっていて驚くことがある。まるでシンデレラを乗せたきらびやかな馬車が、朝には腐りかけたカボチャに変わっているような感覚だ。いずれにしても、よい作品は結果として計算されたかのような姿形をしているのであって、始めから計算して生まれることは少ないと思う。ただ、自然景観にもよく計算されたかのような美しさを感じるように、ある種の必然性のもとに形成されていることが多い。例えば波に洗われて浸食された岩が、荒々しさと美しさを同居させている姿、あるいは季節の移ろいごとに、あるいは時間の経過ごとに姿を変えてゆくアルプスの景色が、計算では表現しきれないであろう完璧な芸術性を感じさせてくれる。芸術作品を「分析」してみせ、自分の高尚(?)な分析結果を押しつけるということは、僕ら文芸の世界でも多く行われているが、「分析」は、芸術の鑑賞眼を養うためのひとつの手法であって、芸術の大部分は「分析」できないものという前提で、「分析」という遊びをこころみる、ということでならあってもいいのかも知れない。しかし、アルプスを前にしたときの美しさを「分析」してみたところで、それは自分のなかに留めればいいことで、他者に押しつけるものではない。他者には他者の感じ方があるのだから。もっともらしい「分析」は、その鑑賞者が作品の評価を固定化してしまうという弊害を意識しなければならない。したがって、芸術作品の安易な計量的な分析は、僕も秀さんと同様に否定的だ。そうしたうえで、芸術(的作品)を理解するための訓練としての「分析」を試みるということは、多用していいと思う。というより鑑賞者レベルでは日常的に意識すべきだと思う。矛盾するようだが、芸術性を、見たままの具象からしか受け取ることができない人というのが、おなじ文芸をしている仲間にも多いという現実を実感しているからだ。いや、僕らの地方にいたっては、そのレベルの人が大多数を占めているように思う。秀さんは、このようにも指摘している。>「視点」を教育するなら、もっと水準の低い芸術作品を使うか、芸術作品でないものを教材にすべきだと思う。もちろん、水準の低いもので教えてもつまらなくなるので、優れた説明文を見つけてきて、他には解釈が出来ないという唯一の解釈を「分析」するような授業を組み立てるべきだろう。優れた説明文ならそういうものが見つかるはずだ。このような訓練を経て、すぐれた作家や鑑賞者が育ってゆくのだから、作者あるいは鑑賞者双方にとって切磋琢磨としての「分析」は必要なのだろう、と思う。頭から、鑑賞のあり方を否定してしまったら、育つ芽も育たなくなることも考えられるからだ。
2006.04.03
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今日は終日冷たい雨が降っている。昨日はエイプリルフールだということで、ちょっとイタズラ日記を書いてしまったら、本気にされてしまった人もいたようで申しわけない。騙すといえば、家の近くに県道を横切る獣道がある。あるといっても僕しか知らないであろうが、夜中の仕事帰りによく狐や狸と出会う。いや、人間の姿ででてくれれば楽しみも増えるのだが、残念ながらまだ化かされたことはない(とおもう)。昔はムジナに騙されるとよくいったもので、僕のおじいさんなど町に出て、お白粉の匂いのするムジナに騙されて3日も帰らなかったとおばあさんに聞かされたことがある。ムジナとは狸のことだと思っている人も多いようだが、実際には穴ぐまのことだそうだ。穴ぐまも狸も穴に住んでいて、同じような仲間と思われたことから「同じ穴のムジナ」という言葉ができたようだ。なぜ悪い印象があるかというと、穴ぐまも狸は人家付近に出没して作物を荒らしたりする迷惑な存在だったので、同じ悪いことをする者どもということで、男を騙すのはムジナということになったらしい。昔は“ムジナに騙された”といえばいいわけが立ったのだから良き時代といおうか…。今では、信州の県庁付近に集中して出没して、シロをクロとでっちあげて知事に濡れ衣を着せたり、議会で罵声をあげたりしているらしい。こういう迷惑ムジナは退治しないといけないな。動物で比喩した言葉は多いが、「ネコババ」をするという言葉もある。女性たちからは、なぜ「ネコジジ」はないかと言われそうだが、この場合のババは「婆」のことではなく「糞」のことをいう。猫は糞をしたあと外では足で土をかけて糞を隠すことから、臭いものを隠して知らんフリをすることを「ネコババ」をするというようになったようだ。また、「牛耳る」(ぎゅうじる)という言葉、議会などでボス議員などが同僚議員の指導権を握って好き勝手に操ることをいうが、人の耳を握って操るのではなく、なぜ牛の耳でいうのだろう、とこれも諺辞典で調べてみた。中国の春秋時代、諸侯が盟約するときに、盟主となる人が牛の耳を切り裂き、その血を吸って誓い合った、ということから来ているそうだ。とすると、今使われている意味より少しは崇高な意味があったようだな。わき道にそれてしまったが、その獣道のあるところが拡幅工事で削られてしまっている。どうやらコンクリートブロックでも積むらしい。道が広くなったところで、車がスピードをあげて騒がしくなるだけで、僕はなんのありがたみも感じないどころか、獣道がどうなるのか心配でしかたがない。今までも何度か狸が車に轢かれている。時々は毛並みの美しい雌狐(と、決めつけている)とも出会えたのだが、これからは人間の化け物で代用しなければならないのかも知れない、残念だ。
2006.04.02
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この楽天広場にブログをもって約3年半、この間いろいろなことがあり、皆さまと楽しく遊んできましたがそろそろ仕事に専念することにします。平成の大合併とやらで、日本全国にあった3232市町村が1820に減り、地方交付税も大幅に減らすことができたと国も大喜びをし、わがまちも花の高遠町、そして長谷村と合併し、小坂市長も辞任し、民主党の前原代表も辞任し、小泉首相も前倒しで辞任するそうですから、僕もこのブログを閉じることにします。なんて、この日には皆さんこんなことを書いて遊んでもいいなんて誰が決めたのでしょうかという今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。というきっこの日記風の書き出しをしてみましたが、やっぱり僕にはこういう滑ったような文章は書きにくいですね。 ということでここからはマジメな話し、先日も書いたけれど長野県議会のデタラメぶりについての論証について秀0430さんの日記の連載が快調だ。偽証はどのような論理によって証明されるか(2006.03.29)発端となった事実はどういうものなのか (2006.03.30百条委の議論を分析してみた (2006.03.31)事実と解釈の混同(2006.03.31) 公文書か私文書か (2006.03.31) と、全体量としてちょっと多いが、明日にかけて休日の人も多いと思うから、読んでみて欲しい。どれほど長野県議会に低脳議員が集まっているか、くっきりと見えてしまって恥ずかしいくらいなんだけれど、ウミを出し切るにはしかたがないと思う。この低脳議員を生み出している温床が、わがうるわしの信州なのだから、自分たちの問題でもあるわけだ。新しい市が始まったばかりというのに、ああ恥ずかしい。 というとで、ちょっと仕事に専念しなければならない。4月1日だからということでなく、日記は少し飛ぶかもしれない。いや、ここはやめませんよ。見捨てないでね!
2006.04.01
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