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まりあのじいじこと氣賀澤剛さんの葬式に行ってきた。出過ぎたこととは思いながらも、弔辞を読んできた。弔辞は3組、といっても1組はお孫さんだから、実質的には二人。先に読んだ人は、故人がいかに社会に貢献したか、良い社会人だったか、人々に慕われながらも69歳という早すぎる死を迎えざるを得なかった無情さを涙ながらに読んだ。一方、僕は故人が、若くして事業を失敗させ、家族に苦しみや苦労を与えつづけながらも、それをクスリにして、自分の信念に基づいて面白楽しい人生を送り、最後には家族に感謝し、孫の活躍に目を細め満足しながら悔いなく死を迎えた、羨ましくもすばらしい人生だったと読んだ。聞く人によっては、真逆とも思える弔辞にとまどった人もいたかも知れないが、どちらも故人の人生。遺族からは感謝された。安らかにあれ…。しかし、お孫さんのまりあちゃんあいかちゃんの送辞は愛しくてとても良かった。「おくりびと」に孫のセリフがあるとしたら、こんなふうだろうなと思わせる内容だった。と、葬儀会場からトンボ帰りして、「逃げられ女房」の旦那にともない就職先の面接。足下を見られてか、給料は思ったより低かったが背に腹は代えられない。仕事ぶりをみて待遇をあげるべしという要求を呑ませて彼の就職決定。移動手段として、その足で探し回ったところ、友人のひとりがホンダのスーパーカブを提供してくれるという。もつべきものは友だ。ところで、行政の対応は部署によってかなり落差があることがわかった。当面の生活費については、手続き上の都合で予定した日を2週間ほど遅れると彼に連絡があったという。その内容を聞くに、これはここまで現状を放置していた彼の生活姿勢への制裁的な意味も含まれていると感じた。しかし、現在の彼の所持金は1000円。もし、彼の子供が腹を空かせて万引きなどに走ったら、行政は責任を負えるのか? などと詰めてこなければなるまい。また余計な時間を費やさなければならない。しかしその一方で、他の部署では彼の仕事を探してくれていた。これも正規雇用ではない安い仕事だが、僕の探したものと時間帯が違い、ふたつ併せても8時間ほどだからかけもちが可能だ。行政の担当者の姿勢によって、これほどの違いが生じる。事務的に、生活保護などに追い込むのではなく、仕事や生活のケアにまで踏み込んだサービスができれば、長い目でみた行政の経営にもプラスになるのではないか。自治体はそこまで頭を働かして欲しい。また、彼が本格的な東北弁ということもあってか、行政との意思疎通が十分でないようだ。これは、人によって行政サービスに違いができるという証左である。たとえ、我々のようなサポートがなくても、最低限の保証はすべきだ。あらためて述べるまでもないが、日本国憲法では、第25条1項において「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と定めている。ちなみにこの部分はGHQ草案にはなかったが、当時の衆議院議員森戸辰男による発案で、盛り込まれている。アメリカ憲法にはない画期的な文言である。で、ここで不毛な憲法論議をする気はない。今、決められていることは守れというだけである。個人的には「天に唾」でもあるが…。「逃げた女房」については、正直なところ議論百出である。女性にとっては理解出来がたいという意見が大多数であるのはむべなるかな。しかし、それについて踏み込んでみたとてそれこそ不毛であろう。ただひとつ言えるのは、この出来事は子供たちのこころに深い傷を負わせずにはおられないだろう。そこまで想いがめぐったうえでの覚悟であれば、もう何もいうことはない。行政もふくめて、サポーターとしては、本当の親子の情とはそういうものではないということを、この子供たちに教えていくしかない。しかし、簡単に癒える傷ではないだろうなぁ……。
2012.02.24
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今年の春から、ある学校を卒業する子供を僕の事業所で預かることになった。昨年、何度か研修に通って、学校も本人も事業所の雰囲気がいたく気に入ったとのことで引き受けることにした。具体的な方針を話し合う3者面談のとき、彼の父親と初めて対面した。この震災の被災地となっている東北のある地方が一家の出身地で両親と子供3人。ことに末の女の子はまだ小学生だという。仕事を求めて当地に流れ着いたのだが、体調を崩して入院しているときに円高不況のあおりでリストラされてしまったという。そのうえ驚いたことに、母親が管理していた現金・通帳をはじめ一家の全財産をもったまま出奔。調べたら、家賃、電気、ガス、国保料などすべてがギリギリの滞納状態になっていた。そして、月末までにそれらを払わなければ、ライフラインさえ停められると通告されているという。知人から生活保護を受けるには車を持っていてはだめと聞き、車を手放してから市役所で相談したら、子供手当も出ており、妻は一定の収入があったはずだから生活保護は出せないと断られたという。ハローワークにも通っているが、50歳過ぎに仕事はなかなか無く、もう20社ほどに断られているという。つぎつぎと話されることばに唖然とするばかりだが、親はともかく子供たちを放っておくわけにはゆかない。友人の市議を通じて、役所や社協とかけあって、直面するライフラインだけは確保できるように手配できた。幾分かの食料品なども届けるとともに、役所の担当部署と社協らに対策を申し入れた。その後の話し合いで、過去の滞納分はともかく、一定の期限付きの緊急避難として、これから発生する家賃・電気・水道・ガス代などの経費は行政側で負担するということになった。後は、父親の仕事である。定職がなくてはせっかくの手助けもすぐに底をついてしまう。四方八方手配をした結果、ようやく今日になって勤務先を確保することができた。明日は父親を連れて、その勤務先を訪ねる予定になっているが、実はまだ問題があった。車を処分してしまったので、彼の足かないのである。いよいよとなったら、ぼくのポンコツバイクでも修理して与えなければならないと考えてはいるのだが…。このところの多忙のひとつには、このような問題もあった。そこで気になるのは、逃げた母親はいったいどう思っているか、どうすべきかである。案の定、大都市で筋ものの男と一緒にいることが判明したが、母親がこんなに簡単に子供を捨てることができるのだろうか。僕の妻などは、子供たちのことを思うとこんな女は逃げてくれて良かったという。もう、子供たちと会わせないように家族を別のアパートに移して、一切切るべきと憤る。のこった子供たちの世話をわが家で引き受けかねない剣幕だ。しかし僕は、ちょっとべつの可能性も想像している。これまでの一家の生活苦が、背水の陣として彼女をこんな状態に追い込んでしまったのではないか。一家が揃った状態では、もはや公的支援も受けられない。家計も立ちゆかない。いっそ子供を置いて自分が出てしまうことによって、誰かが手をさしのべるのではないか、と思い詰めた結果ではないかという想像だ。とにかく、子供たちの生存をおびやかすような状態にだけはできない。この仕事を始めてみて、親子何代にもわたって不幸を引きずっている負の連鎖の多さを目の当たりにしている。ここは何としても切ってあげたいと思う。幸い、行政側も最悪の事態にだけはしないようにと、さまざまな手配を始めているという報告が非公式にあった。当市の行政は、まがりなりにも機能しているかという安堵があった。しかし、当局もこのふがいない父親への不信感があるようにふつふつと感じる。このような社会情勢になると、もはやこの一家だけが特殊なケースではなく、似たような状況がいくつも出現しているようだ。今回も、われわれが介入してようやく打開への道が始まったわけだが、水面下には手つかずのケースもあるのではないだろうか。増えつづける行政支出に、困窮家庭も黙っていたら救わないよ、という行政側のどこか冷めた感情も感じてしまう。このままでは、一家ごとのホームレスというような、某隣国を笑えないような事態が日本にもでてくるのではないだろうか、と心配している。
2012.02.23
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僕のブログを読んだという友人のひとりから「それでイトウさんはどうするの?」と問いかけられた。その友人は、大震災直後から被災地支援を呼びかけて組織し、現在も活動中。僕が那須塩原を訪れた数日前も東北に行き南三陸町一帯を中心に何が必要かという調査をしてきている。僕も昨年はそのグループで、幾つかの活動に参加し、物資を運んだり、福島の子供たちを信州に招くなどのボランティア活動をしてきた。しかし、このところ自分がやらなくてはならない仕事が山積しており、何もできていない。最近もある文芸仲間から、水仙の球根を1000個ほど提供するから被災地に植えられないかという相談も受けているが保留中。自分の今後の行動についても検討中。どのような活動であっても、参加することは尊いと思うが、だからといって自分を投げ捨て闇雲にその渦中に飛び込むことはちょっと違うかなと思っている。いいわけめくが、目の前に困っている人がいれば助けてあげるのは当然だ。かくいう僕もこれまで何人もの人々に助けられてきたから、今があり、頑張ってくることもできた。しかし自分の手で出来ることはほんのわずかだ。被災地にも、その周辺にも救われなければならない人は星の数ほどいる。天空の星を見上げて、どれかひとつを選んで手助けできたとしても、残るのはわずかな自己満足でしかない。圧倒的多数を救うべく動かなければならないのは、本来は国であり、政治の力であろう。なのに霞ヶ関は、政争や政局に明け暮れている。とりあえず、このボンクラどもを動かすべく動かなければなるまい。この際、多少気に入らない方にいたとしても目をつむろう。本気でいま、困難に直面している多くの国民を救おうとする人であれば誰でも応援したい。格好だけの輩には「落選運動」もあり得ると思う。そうしたことでは、政治に対しては今後は少し過激な文章や提案もしてゆくつもりだ。などとぼんやり考えているのだが、 友人のKくんの仕事場を訪れてみた。ぶっきらぼうだが、彼の言葉はいつも的を得ている。彼はいう。「1000年に一度の災害だって? 種類や規模の違いはあっても、日本のどこかで毎年のように大災害が起きているではないか。日本という地域からみれば、千年どころか頻繁に大災害は起きている。とくに今回、日本人はみんなこれでもかという災害を目撃した。被災地の姿はつぎへの警鐘を鳴らしているんだ。それなのにこれからの備えを怠って死んだとしても、それは自己責任ってものだ…。つぎに、東海、関東、南海…、どこかで(災害が)起きてもオレは何にもしないよ…、たぶん。」あえていうが、彼は まつり工房という和太鼓を主とする会社の社長であり、太鼓指導者だ。そこに所属するグループは全国の和太鼓コンクールで優勝回数の多さで群を抜いている。昨年は、その公演収入と彼の元を訪れた人たちの寄付金すべての380万円を、被災地支援にあてている。そのほかに被災地支援ネットの代表として、無料の公演活動もし、社員は数度のボランティア活動にも参加して汗を流している。そうした実績のうえで、遅遅としてすすまない国と政治の対応を叱っているのだ。震災のことだけでなく、社員の生活も真剣に考えている。「もし、今オレが死んでも、まつり工房の社員たちが食べていける体制だけは備えているつもりだ」といい切る。それなんだと思う。自分の足が地に着かない活動がながつづきするはずがない。人々の記憶が薄らぐとともに、やがて遠ざかってしまうような活動はしたくない。やるのであれば、気心の知れた心の許せあう仲間と、息長く、楽しくつづけてゆきたいものだ。ところで、今日はちょっと落ち込んでいる。今朝方、親しい先輩が亡くなった。まりあのじいじという名で、ときどきコメントもくれていた人なのでご記憶の方もあるかも知れない。5年ほど前に癌で内蔵の半分ほどを切除するような大手術を行ったが、その後は抗がん剤治療も化学治療も拒否し、自分の信じる食物療法と軽運動だけで過ごしてきた。「若い頃から好き勝手に生きてきたから、今の生活はおつりのようなもの。一日ながく生きたらもうけもの」と、つね日頃から公言してきたから、悔いはないはずだ。つい2日前に見舞って、「奥さんも家族も心配いらないから、安心していいよ」と半ば冗談をいったら、うっすらと微笑んで頷いてくれた。ちなみにまりあとは、特別可愛がっていたお孫さんの名前。夏休みには僕の山荘にもよく遊びにきてくれたが、その妹のほうは 廣田あいかという名でタレントとしてもCMやドラマなどで活躍中。そのお孫さんたちに囲まれた写真がベットの脇に飾ってあり、これが一番のクスリだよと笑っていた。ご冥福を祈ります。いずれ、そちらで酒酌み交わす日を楽しみにしています。[Ctrl]を押しながら、左右クリックしてください。
2012.02.22
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このところ、命とどうむきあうかという問題も含めて、あまりにも多くの問題と直面してきました。少しずつ、それを吐き出してゆこうと思います。1週間ほど前に叔母が亡くなりました。98歳という歳でしたから、大往生としてお祝いのような葬式となっても不思議ではない人生でしたが、正直いって、亡くなった間の悪さにとても淋しさがつのります。先頃、NHKで「開拓者たち」という旧満州(中国東北地方)に渡り、過酷な運命を送った人たちのドラマが放映された。叔母の一家は、まさに開拓者たちそのものを体験した家族で、もっといえば過酷な運命を今なお引きずっているといっても過言でない。昭和の初期、国策により“夢の大地”満州大陸に渡り、前宣伝とはうらはらの環境の土地で苦心の末ようやく軌道にのりはじめた農業経営。しかし、戦況の悪化による開拓民の強制一斉徴用で夫を戦地に取られ、そしてソ連の対日宣戦による侵攻。開拓者の花嫁として満州に渡った叔母は、背に生まれたばかりの赤児を背負い、5歳の息子と3歳の娘の手をひき長い逃避行についた。5歳と3歳の兄妹には赤児のためのオムツや当面の食料を背負わせるという出で立ちだったという。300日余におよぶ逃避行の途中では、雑草や蛙や虫を食べ、ソ連軍や匪賊たちの目を逃れるために、夜や雨の中を選んで歩くという行程だったという。700キロ以上もの逃避行の末ようやくたどり着いたチチハル駅、気がついたら背におぶわれていた子はとうに死んでいたという。そしてそこから1ヶ月の旅を経ての錦州。そこから船に乗りようやくたどり着いたのは日本の博多。今でも信州からは遠い場所だ。一緒に逃避行した仲間はちりぢりとなり、そこにいるのは数名だけだった。幼子ふたりをつれてたどり着けたのは、奇跡のようなものだった。そこから信州の生家にたどり着いたときには戦争は終わっていた。その後相次いで、兄だった僕の父、そし夫が応召から帰り、1年後に僕が生まれた。叔母は生まれた僕を、背負ったまままま死んだ子供の生まれ代わりのようにかわいがってくれて、母が妬くほどだったということを、かなり後になって知った。そしてようやく一家としての落ち着きを得た頃に、満州より長野県に戻った人たちによる北海道開拓団に加わり、一家は北海道に渡った。信州は山国、一度に増えた帰還民たちが将来も暮らしてゆけるだけの土地はなかったのである。しかし、渡った北海道でも国が用意した土地は荒れ地で、良い作物は育たず、芋と食べられる草木を探して腹を治めるという日々だったという。その後、たまりかねて再度の開拓地として探し当てたのが、栃木県那須高原の大地だった。しかし、そこも肥土は表面にわずかにあるだけで、後は石と砂ばかりの土地だった。そこは広い河川敷のような場所で、天気が悪ければ河川が氾濫し、表土をもっていかれてしまうような地域だったという。草しか生えないような土地で開拓民たちが再起の夢を掛けたのは、牧畜だった。牛を飼い、堆肥で薄い表土を埋めて野菜を作る。人間はもちろん、牛や鶏の糞も宝物のように扱われた。そして、味の良い乳の出る牛を育てるための必死の努力。満州東北部からの逃避行のとき5歳だった僕の従兄弟は今年70歳になる。その彼が10代の頃から一家の柱となって働き、苦しい家計のなかから米国や豪州への酪農視察団にも何度か参加し、酪農のノウハウを学ぶ努力と研究を惜しまなかった。ともに頑張ってきた人々たちとの努力の結果が実って、那須高原はおいしいミルクを供給する日本でも有数の酪農地帯として発展してきたのだ。従兄弟も、今ではその子供へと世代交代を果たしているが、成牛、子牛あわせると500頭以上もの牛を飼う牧場主となり、仲間とBSE(牛海綿状脳症)や病気に備えた研究機関を発足させたり、ハエや蚊の発生しない清潔な牛舎や、糞尿はコンベア式に堆肥肥料として熟成される工場的プラントを設け、乳製品の加工直売で観光客を受け入れるなど、旧来の牛飼い農園のイメージとは一線を画す牧場へと育ててきていた。そうした3代にわたる苦闘の末、順風満帆の農場経営を掴んだと思われた矢先の、東日本大震災と忌まわしい原発事故。那須高原にも放射能は降り注ぎ、国の出荷基準値を下回ったとはいえ、那須高原と名のついた牛乳は50パーセントにも満たない売れ行きにまで急落してしまった。そのうえ、工夫に工夫を重ねてきた堆肥は(圧縮するため)放射能セシウムが濃くなり、とても出荷できない、畑にも使えない厄介者の状態となってしまった。たぶん、このままではせっかく肥沃の地となった那須高原の畑は数年を待たずに、野菜の育たない荒れ地に逆戻りしてしまうのではないかと、従兄弟は心配する。生まれる子牛の値段も暴落し、一頭6万円もしていた出荷価格が300円とか500円。しかも、市場に出す手数料が数千円するため、お金をつけて出荷しなければならない事態となっているという。余った乳は、穴を掘って捨てるしかない。100歳近くにもなった叔母は、「私は負けないよ。何があっても負けないよ」と、秋まではせっせと草むしりをしていたという。雨にあたった草はセシウム濃度が高くなる。草を除いて固く丸めて、ラップ状に巻き始末をする。少しでも除線につなげたいという思いがあったのであろう。そして、とうとう天命を全うする日が来てしまった。せめて、あの事故を見る前に亡くなっていれば幸せだったのかも知れない。いや、また再起して、家族が汗を流す姿を見せてから逝かせたかった…。と、従兄弟は遠くを見ていう。東電からは、昨年秋になって見舞金が入ったが、減収赤字はすでに数千万円にまでふくらんでしまっている。数百頭の牛の世話をする人件費や、牧草が使えなくなったため輸入に頼る飼料も高騰していて、焼け石に水状態だという。話を聞いているだけで暗澹とした気持ちになってきたのだが、従兄弟は明るくいう。「ここはまだいい。津波に襲われたわけではないし、元気な家族がのこっているから…。これまで働いて得た蓄えを失っただけだから、また働いて取り戻すさ。それは、子供や孫の時代までかかるかも知れないけれど、ここで負けたらバアちゃんに申し訳がたたないっぺ。」内心はどんなに悔しいことだろう。しかし、泣き言だけではなにも解決してゆかないことを、何度も経験してきているのだろう。なんだか少し励まされた気持ちになって、帰路についたのだが…。これからも開拓者たちの苦闘はつづくことだろう。
2012.02.19
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