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今朝は快晴。昨日の雨のためか、庭の芝のなかに、細~いキノコが一本。思わず写真を撮りました。
2006.08.31
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たまに読んではわかった気になってすぐ忘れる(身に付いているわけでもないのだが)。相対性理論のこと。高校生の頃から、10回くらいはそんな出会いと別れを繰り返している。今回は読みやすい本を手にした。 ○二間瀬敏史『七転八倒アインシュタイン 甦る天才の予言』大和書房 2006年著者の方は東北大の先生だ。私はこの本で初めて名前を知ったが、偶然と言うことはあるもの。昨夜帰りに書店の店頭で目に入ったが、ナツメ社の雑学本で宇宙をテーマにした本を書いているようだ。相対性理論の説明とアインシュタインの人生を織り交ぜた説明。実は、仙台とのつながりは、文中にアインシュタインの日本訪問で、仙台の2文字があるだけ。■関連する過去の日記 ○ アインシュタインと仙台(その5)(1月15日) ○ アインシュタインと仙台(その4)(1月4日) ○ アインシュタインと仙台(その3)(12月18日) ○ アインシュタインと仙台(その2)(12月17日) ○ アインシュタインと仙台(12月14日)
2006.08.31
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記念すべき勝利です。仕事の帰りに、ラジオを聞きながら駅から約20分、途中でビール買って(発泡酒が正しい)飲みながら歩いて、岩隈を応援。この実況、マウンドには岩隈、という実況を聴いている事実に浸って、何かすごく安心。ファンの皆さんそうですよね。岩隈は調子が全開でないとはいえ、要所で三振をとるのは、さすがエースだ。そしてそして、後半の粘り。今年のイーグルスの持ち味。ベッドでラジオを絞って聴いていた。8回の満塁逸機は痛かったが、9回によくぞ同点に! もう10時の時報で寝てしまった。さきほどネットで確認、なんと12回にエリックのホームラン! ついに38勝。岩隈で試合を作って勝ったのが、本当に大きい。さあ、今季はもう失うものはないですヨ、GO!GO!イーグルス!
2006.08.30
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山形の観光まちづくりが4件選定されている。8月25日発表の国土交通省「地域いきいき観光まちづくり-100-」のこと。東北6県中で4件は最多。事例紹介だから、その数をもってどうこう言える話ではないとしても、山形の取り組みの熱心さの現れか、とうなずけてしまう。全国を見渡すと、山形の他に4地域選定されたのは島根県。それより多いのは、大分県が全国最多の6地域。選定ゼロの県もある(茨城県、東京都、神奈川県など)。青森県3地域 八戸 五所川原 横浜岩手県3地域 花巻 遠野 江刺宮城県3地域 気仙沼 登米 鳴子温泉郷秋田県2地域 田沢湖・角館 小坂山形県4地域 小野川温泉 長井 酒田 銀山温泉福島県2地域 会津若松・喜多方 大内宿・湯野上温泉各地域についてすぐにでもテーマにして書きたい気分になってしまう。
2006.08.29
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津軽に古代文明が存在していたという。津軽の地名は、古代にチパンル(太陽が出る地)と呼ばれた。これが、都迦留、東日流、津刈、などと変遷した。マルコ・ポーロが日本をチパングと記録したのは、中国大陸と津軽の船の交易があったから大陸に名が残っていたから、という。紀元前の津軽古代王国は、ミステリーの分野だと思うが、空白の日本古代史や蝦夷との関わりを、津軽文明で説明する壮大な仮説だ。
2006.08.28
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(前編から続く)4 郡山遺跡の性格 地方官衙には、国の官衙である国府、郡の官衙である郡家(ぐうけ)、蝦夷の地に設ける城柵などさまざまあるが、郡山1期官衙(学術上はローマ数字だがブログ表記上アラビア数字)は城柵、2期官衙は陸奥国府、と考えられる。 越では渟足柵(ぬたりのさく、647年)、磐舟柵(いわふねのさく、648年)が設けられた。1期官衙は、これら日本海側の城柵に対応して陸奥側で設けられたものと考えられる。7世紀中頃国造制が施行された地域のすぐ外縁の蝦夷居住地に設けられているという、共通点があるから。 蝦夷の居住地に評や郡を設置するには、移民を送り込んでこれを評や郡に編成した。渟足、磐舟と同様に、郡山1期官衙に際しても、関東地方から移民が送り込まれた(関東系土器が出土)。 評や郡の設置の仕方について、蝦夷居住地域は、移民と城柵設置という2点で一般の地域で異なっていた。周囲に塀をめぐらして蝦夷の反乱に備え、また蝦夷をすぐには公民にできないから移民を送り込んだのだ。移民を編成して評・郡を置き支配領域を拡大し、移民を守りながら、かつ蝦夷に服属を働きかけた。 郡山1期官衙は仙台平野南部でこのような活動を担っていた。 続く2期官衙は陸奥国全体の国府であると思われる。次の4点が根拠として上げられる。 第一に、多賀城建造(724年)前の国府は仙台平野にあったと考えられること。718年に陸奥国をほぼ2分して、石城(いわき)国と石背(いわせ)国ができる。前者は福島県の浜通りから宮城県亘理町にかけて、後者は中通りと会津の地域。従来都から陸奥国府へは中通り地方を経由する東山道が通じていたが、石城国設置で719年に石城国内に10の駅家(海道十駅)が設置され駅路(都と諸国国府を連絡する官道)が開かれる。これは常陸国府(茨城県石岡市付近)まで来ていた東海道をさらに延長したもの。海道十駅は浜通りを北進し玉前駅(たまさきのうまや)で東山道に合流。岩沼市玉崎と推定される。この駅路が陸奥国府との連絡を目的としているから、719年時点の国府は玉前駅以北のはずである。 第二に、出土土器から。第三に、郡山廃寺が多賀城廃寺と共通性があり、その前身とみられること。第四に藤原京をモデルにしていることから単なる城柵や郡家と言えないこと。 2期官衙建造の時期は、陸奥国は仙台平野南部や米沢・山形盆地なども領域としており、陸奥国の国府として設けられた。城柵であると同時に国府であった。『続日本紀』には715年に陸奥国府が見える。 なお、渟足柵、磐舟柵も郡山と同様に変遷する。越国は683年以前に三分割され、越後国が置かれるが、最初の越後国は沼垂(ぬたり)評と石船(いわふね)評の二評で構成され、渟足柵に国府が置かれたと推定される。城柵に国府を置いた点でも、郡山と同様の変遷。政府が陸奥と越後で並行して辺境経営を進めた表れ。5 郡山遺跡時代の陸奥国 関東からの移民は仙台平野南部では6世紀末から、城柵として1期官衙が建造された7世紀中頃に本格化し、大崎平野にも及んだ。10世紀の『和名類聚抄』に全国の郷名があるが、郷は郡の下の行政単位で717年までは里と呼ばれた。同書の陸奥国の郷としては、関東諸国や陸奥南部の郡名と一致するものが検出できる。名取郡に磐城郷、宮城郡に磐城郷、白川郷、多賀郷(常陸国多珂郡)があるなど。移民が出身地の郡名をつけたのだ。 また、『日本書紀』には689年に優耆(※山偏に耆)雲(うきたま)郡の城養蝦夷(きこうのえみし、城柵に支配される蝦夷)が出家したとある。この時に置賜郡の前身の優耆雲評があり、また城柵もあったことになる。名取、宮城とほぼ同時に、優耆雲評と最上評が置かれたと思われる。 1期官衙の時代には、『日本書紀』によると、越国国守阿倍比羅夫が船団を率いて3度北征し(658年-660年)、秋田、能代、津軽、渡嶋の蝦夷を服属させた。同時期に太平洋沿岸でも陸奥国による遠征があったと考えられる。両国軍隊は渡嶋(北海道)では共同作戦を採った。大規模な船団を組織したが、評を通して徴兵され、評督・助督が指揮官として参加した(評軍制)。 これは蝦夷服属という国内事情もあるが、東アジアの緊迫した情勢を反映したと見られる。大唐帝国が出現し、半島では3国が対立、日本も戦乱に巻き込まれる。この時期に国内問題だけで大軍を動かす余裕は無かったはずで、国土の北方と大陸(高句麗)との地理関係を探検するためだっただろう。この探索は、661年の百済救済戦争で中断する。 7世紀後半は仙台平野の政情も安定し、2期官衙を建造し国府が移された。 大宝律令施行で、陸奥国の政治もこれに則って行われた。陸奥国は国の4等級のうち最高ランクの大国として、国司は、守(かみ)・介(すけ)・など11人が2期官衙に常駐。軍制は大宝令で軍団制がとられ、陸奥国には、安積、行方、名取など4団4千人を置く。これらの兵士が2期官衙と優耆雲柵に交替で勤務した。 2期官衙の時代は、仙台平野の北部にも本格的に郡が設置された時期。7世紀中頃から移民が進んだが、名生館遺跡(大崎市古川)、赤井遺跡(東松島市)に官衙が置かれる。705年の蝦夷反乱はこれに触発されたもの。 715年に坂東六国から千戸の移民があり、黒川以北十郡が建郡される。一戸約20人で、千戸は約2万人。一郷は50戸なので、千戸は20郷分。『和名類聚抄』による十郡の郷数31郷と比較しても膨大な数の移民である。 これら十郡の確立を受けて、718年に石城国、石背国が分国される。その前716年には米沢盆地や最上が、出羽国に移管される。これは全国的に地域の実情に即した支配を強化を進めるためにとられた分国政策の一環。6 郡山時代の終わり 715年以来の大量移民による支配強化で、720年に蝦夷が大反乱、政府は征討軍を派遣し鎮圧、722年から陸奥国再構築に取りかかる。 石城、石背の両国を再統合し、国力軍事力を増強。前線には、拠点として玉造、新田、色麻、牡鹿など5城柵を建造、それらを後援する根拠地として多賀城が建造された。724年に2期官衙から国府が移されるのである。○参考:花登正宏編『東北-その歴史と文化を探る-』東北大学出版会 2006年、「2 郡山遺跡の時代」(今泉隆雄) ■関連する過去の日記 ○多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) ○多賀城の基礎知識(後編)(06年8月7日) ○郡山遺跡が国指定史跡に(06年8月24日) ○郡山遺跡の概要(前編)(06年8月27日)
2006.08.27
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郡山遺跡の概要を辺境支配の変遷の見地から整理。遺構の概要は省略し、多賀城以前の同遺跡の存在意義を中心に。1 時代概要(地方支配制度)大化の改新(645年)を出発点に大宝律令の施行(701年)で律令制国家が完成する。地方支配制度は、大化の改新で従来の国造制から、国評(こくひょう)制に転換される。国造(くにのみやっこ)制は各地の豪族を任じたのものだが、国評制は、国と評の二段階の支配組織で、国造のクニを分割再編して評を置き、その上に国を設けた。評には評督、助督などの役人を置いて、国造など有力な地方豪族を任じ、国には中央政府から国宰という役人を派遣した。地方豪族の上に中央から派遣された国宰が常駐することで中央集権を強めた。国評制は評が国より先に設置される。649年に全国に一斉に評制施行が開始される。まず国造のクニを評に転換し、次いで653年に評を分割して新らしい評をもうけ、評督・助督を任命。このときの評が、後の郡の前身を形成している。全国の国造のクニ数は120、8世紀初めの郡の数は555なので、評制の転換で支配単位が細分化されたことになる。国の設置は評制に遅れて行われ、地方によって遅速がある。大宝律令で国評制が国郡制に代わり、評が郡に代わり、国司と郡司という役人を設ける。国評制の国宰が国司に代わり、評督・助督は、郡司の大領(長官)・小領(次官)に代わる。2 陸奥国の状況全国の国造名を記す『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、大化改新以前の陸奥の国造は10である。 菊多国造(後の菊多郡)、石城国造(磐城郡)、染羽国造(標葉郡)、浮田国造(宇多郡)、思国造(曰理国造の誤り、後の曰理郡)、白河国造(白河郡)、石背国造(磐瀬郡)、安尺国造(安積郡)、信夫国造(信夫郡)、伊久国造(伊具郡)。 これら10の国造が置かれた陸奥では、全国と同じく649年、653年の2段階で11の評が設置される。それを受けて、653年から654年頃に陸奥国が設置される。国名は「みちのおく」と読み、古くは道奥とも表記。 陸奥国と越国の以北は蝦夷の居住地域である。この時代の両国の北限は、太平洋側(陸奥)は、現在の亘理町、角田市など阿武隈川以南、日本海側(越)は渟足(ぬたり)柵を最前線に新潟平野南半分以南。山形県地域(後の出羽国)はまだ組み込まれていない。3 郡山遺跡の概要 新旧の遺構が重複している。1期官衙(学術上ローマ数字を用いるがブログ表記上アラビア数字に。)は7世紀中頃から末。2期官衙は7世紀末から8世紀初めの多賀城建造(724年)までで、郡山廃寺が付属。藤原京(694年-710年)をモデルにしたとみられるが、飛鳥時代の都と共通点も。 2期官衙の政庁の後庭にある石組池は古代遺構に珍しいが、飛鳥の石神遺跡に類似の石組池(7世紀中頃、斉明天皇時代)がある。『日本書紀』では657年から660年に蝦狄が都に参上し須弥山の園池で服属儀礼をしたとあるが、それが石神遺跡の石組池である。 蝦夷の服属儀礼は701年の大宝令を境に様式と性格が変わっている。7世紀の服属儀礼は呪術的性格が強い。斉明朝の服属儀礼がこれ。仏教で須弥山は世界の中心であり、儀礼は、天皇に服属を誓約する意義がある。 天武持統の時代には蝦夷の服属儀礼は飛鳥寺の西の斎槻(ゆつき)の広場で行われる。斎槻は神が降臨するケヤキであり、神に服属を誓約した。これが700年まで続けられた。藤原京遷都(694年)の後も飛鳥で呪術的な服属儀礼が行われていたのだ。 701年からは、蝦夷は元日に大極殿・朝堂の朝賀に参列して服属を誓約するようになる。朝賀は、臣下が毎年元日に天皇に拝礼する儀礼で、蝦夷もこの一般的な服属儀礼に参加するようになった。 園池での服属儀礼は神に誓約する神聖で呪術的なものだから、池は、水に入って身心を清めるために用いられたと思われる。郡山の石組池も、この呪術的な服属儀礼のミソギに使われたのだろう。つまり、政庁後庭は、飛鳥の須弥山の園地や斎槻の広場と同様の意義があったのだ。4 郡山遺跡の性格 地方官衙には、国の官衙である国府、郡の官衙である郡家(ぐうけ)、蝦夷の地に設ける城柵などさまざまあるが、郡山1期官衙は城柵、2期官衙は陸奥国府、と考えられる。(以下後編へ続く)○参考:花登正宏編『東北-その歴史と文化を探る-』東北大学出版会 2006年、「2 郡山遺跡の時代」(今泉隆雄) ■関連する過去の日記 ○多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) ○多賀城の基礎知識(後編)(06年8月7日) ○郡山遺跡が国指定史跡に(06年8月24日)
2006.08.27
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土曜日はだいたい午前中に家の掃除などをします。最近土曜日に用事があったり山に行ったりしたので、久々の掃除。私は堅絞りしたぞうきんで床を拭かないと気が済みません。特に湿気の多い今年の夏だと、床の足触りが気になってしょうがないからです。だいたい2時間ほどかけて、これをやって、途中に娘のピアノ練習で例によってちょっとモメて、後は庭の芝刈り。今日は、3方向、つまり120度づつ、アスタリスク(*)のように、かけてみました。写真では芝目がわかりにくいかも。これも終わって、ただいま一息、です。
2006.08.26
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宮城県の地図を眺めるたび先人の偉業を讃えずにはいられない。運河の水運と治水対策だ。わが宮城県・仙台藩は、北上川、阿武隈川の奥州二大河川によって潤されている。これを活用し水運を開き、また水害防止や干拓による石高増強など、先人は気宇壮大に取り組んできたのだ。今回は、人工河川「高城川」について。潜穴(トンネル)で水害防止と干拓を計るという壮大な河川工事だ。かつての品井沼は、吉田川と鶴田川が流入し、また鳴瀬川が増水すると逆流を受けてしまう湿地帯であった。四代藩主綱村の時代に、新田開発を進めるため品井沼の水を松島湾に直接流下させる大工事に着手した。吉田川をサイフォンで交差させ、トンネル(元禄潜穴)を掘る。この元禄水路は、延長7.5km、うち潜穴部分が2.6kmという大工事だ。後に明治の水害をきっかけに、明治排水路(6.9km、潜穴延長1.3km)が開削された。 ○参考資料:貞山運河・高城川歴史散歩ガイド(宮城県土木部、財団法人リバーフロント整備センター)北上川大改修、鳴瀬・江合川の合流問題、など近日中に県北の治水の歴史を整理して勉強します。 ■関連する過去の日記 舟曳堀(鶴巻-苦竹)を探して(06年3月12日)
2006.08.26
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伊藤京都大学名誉教授のガウス賞受賞、ある学者のフィールズ賞辞退、そして惑星の定義問題、など昨日今日は科学の話題で持ちきりだ。創設されたガウス賞の名になった数学者ガウスは、今回惑星に昇格しかけた小惑星セレスの軌道を計算したという「縁」まである。さて、IAUは太陽系惑星の定義に関して、冥王星をはずす案を賛成多数で可決したという。米国人が冥王星を発見し、ディズニーのキャラクター名(プルート)になるなど、愛着の強い米国を中心とした政治・社会的運動を、純粋科学の考えで押し切った、と解説されている。確かに、占星術や教科書など社会的影響も一応はあるだろう。しかし、科学の視点を優先することが当然だ。もっとも科学者の集団で決議するということ自体、1つの政治とも言えるけれど。我が家の娘も2日前くらいから騒いでいる。惑星の数が減るんだって、と。8つになると地球を除けばホルストの組曲と同じになる。私は第二曲の金星(平和の神)が好きです。関係ないが。教科書について言えば、科学者(?)が歴史をねつ造する天文学的大事件が、恥ずかしくもわが宮城県であった。今回は全く違って、科学の視点で定義変更、教科書は追随するという形。ところで私が気になっているのは、フィールズ賞を辞退したペレルマン氏が、ポアンカレ予想の解決に道筋をつけた、とされる(証明したと見られる、と表現する新聞もある)こと。あれっ、あの報道との関係はどうなのだろうか。 ■関連する過去の日記 ○ポアンカレ予想を完全証明(2006年6月7日)ペレルマンの02年論文はいまだ検証の段階にあるが、欠陥は報告されておらず、ポアンカレ予想を完全に証明したものと想定されている。そして、本年6月に大騒ぎした中国人2学者による「完全証明」報道も、この検証の一環に過ぎない、という。これも「政治」か。
2006.08.25
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郡山遺跡が7月に国史跡に指定された(仙台市記者発表資料)。東北地方最古の官衙遺跡と寺院跡からなる遺跡群。大化の改新の頃に成立し、多賀城の造営の頃まで営まれた。宮城県の古代、中世というと、どうしても多賀城(国指定特別史跡)が中心だ。仙台市域も、国分寺や歌枕の宮城野原などの由緒あるスポットもあるが、政宗の築城と都市計画以前は、多賀城や塩釜に比べて何となく影が薄い。ここに来て郡山遺跡の登場で、仙台市のプライドを大いに発揮、か。こんなうがった見方はどうでも良いのだが、この郡山遺跡、まだあまり一般に知られていないのではないか。というより私が不勉強、とまず自分のことを言うべきだが。一般向けの書物で少し勉強した。 ○花登正宏編『東北-その歴史と文化を探る-』東北大学出版会 2006年 「2 郡山遺跡の時代」(今泉隆雄)郡山遺跡は陸奥国府として、多賀城の建造(724年)まで存続。今朝は時間が無くなったので、後に勉強内容を整理します。 ■関連する過去の日記 ○多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) ○多賀城の基礎知識(後編)(06年8月7日)
2006.08.24
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以前に苗字と名字の違いに関心を持って整理したが、根本的には姓と苗字の相違の方が深い意味を持つようだ。日本の政治・社会制度のみならず、家産制度の歴史とも深く関係する。以下は、坂田聡『苗字と名前の歴史』吉川弘文館 2006年 による。結構面白いことが書かれている。なお、「名字」の語はなく「苗字」だけが登場する。1 姓 そもそも姓(かばね)は、古代の氏(うじ)が氏名(うじな)のもとにつけた称号で、政治的社会的位置関係を示す。朝廷から氏名と姓を与えられ、一族が世襲。姓の例は臣(おみ)、連(むらじ)、君(きみ)、直(あたい)など。具体例で、蘇我大臣馬子は、蘇我が氏の名、大臣が姓。 しかし律令の官位制度導入で平安時代には姓(かばね)も形骸化。姓もセイと読まれるようになり、姓が、氏の名と同義化する。 国司として地方に下向した下級貴族が現地に定着することで、当地の氏の構成員(血族)がすべて、例えば藤原を名乗るようになる。このように、氏の構成員に広く共有され、承継された。 そして、貴族の構成員ではない庶民も、荘園・公領の範囲で、庶民レベルで独自の氏を、あるいは擬似的に貴族の姓をまねて名乗っていたと思われる。2 苗字 苗字は、姓が一族の名であるのに対して、家の名である。現在日本人が名乗っているのは、家の名だから、苗字ということになる。 苗字は平安中期以降戸籍が作成されなくなったことで、氏の名(庶民も擬似的に藤原などの姓を名乗っていた)を失ったため、地名や職名などを通称として用い始めた。例えば、鎌倉武士の三浦や北条は家の名であって、氏(一族)の名ではないから、父子兄弟がそれぞれ異なる地名や官職名を称している。この時代は分割相続が原則だった。 南北朝内乱期以降、長男単独相続に移行したことで世代を超えて家産を承継する「家」組織が成立し、その呼称として確立し世襲されることとなる。一家に一つが本来の姿だから、同族でも別苗字が原則。現実には分家は同じ苗字を名乗る例も多いが、家名としては本質的に別もの。3 姓と苗字 現在、法制上は「氏」とされ、家の名前として認識されている(氏名が個人の名称だとか夫婦別姓の議論はあるが)。しかし由来をたどれば姓と苗字が現在にまで混在している。 両者の違い(見分け方)を具体的に何点か。(1)「の」が入るのが姓、入らないのが苗字 源頼朝は、「みなもとのよりとも」と読むが、「の」を入れて読むのが姓。北条、足利、徳川、は苗字。秀吉の羽柴は苗字だが、豊臣は天皇から賜った姓で、「とよとみのひでよし」と読むべきとの説がある。 現在も、藤原、菅原、大江など、姓の系譜を引く名が残るが、「の」を入れて読まないのは、明治8年の苗字必称令に伴い、苗字として古代の姓を起用したからとされる。(2)下の名とのセット 姓は実名(じつみょう)とセットになる。実名はおめでたい漢字二文字訓読が基本。藤原道長、源頼朝など。例えば、徳川家光も公文書では、「源家光」である。正式な儀式では、姓と実名を用いる風習は江戸時代にも残っていた。そもそも松平の苗字だった家康は源氏の新田義貞の一族得川氏にみずからの系譜を結びつけて源氏を名乗ることで、征夷大将軍となることができた。 これに対し、苗字は字(あざな)と呼ばれる通称とセットになる。例えば、足利尊氏の場合、足利は苗字、尊氏は実名(じつみょう)だが、本来的には字(あざな)を用いて足利又太郎と呼んでいたと思われる。やがて姓と苗字の混在化で、苗字+実名で表記されるようになる。4 江戸時代の庶民は苗字を持っていたか 明治になって寺の坊さんに適当に苗字をつけてもらった、と学んだ。しかし庶民も、武士の前では使えなかったが、村の中では苗字を用いていたことが明らかになっている。それをそのまま維新で届け出たのだ。5 名の呼び方(本名忌避の習俗) 例えば義経は実名(じつみょう)だが、それを口にすることはめったになく、「九郎どの」「御曹司」と一般に呼んでいたと思われる。 古来日本には、相手の名を実名(じつみょう)、あるいは本名(実名に限定せず広く本当の名前の意味)で呼ぶことを非礼とする習俗があった。このタブーの根底には本名が他人の口にのぼると支配されてしまうという感覚があり、文化人類学的にも世界各地にあるという。 ■関連する過去の日記 ○苗字と名字の違い(06年5月22日)
2006.08.23
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梅原市長が仙台都市ビジョン会議の内容を全面公開に方針転換したことに関して、市議会のベテラン市議が、今度は「議会報告がないのは議会軽視だ」とかみついたという。今朝の河北新報(22日)の記事。詳細を知らないから報道の範囲で考えるに、市長が遅ればせながらも適正な判断をした矢先、今度は市議会が旧態依然でノンキな政治家根性をさらけ出した格好だ。市長は記者会見でちゃんと説明している。この市議がオレ(たち)は聞いていないよ、というだけのことで、要するにメンツだけの話。くだらない。市長や当局に、うまくやればいいのに、という思いはある。議会が市民の代表だから報告するのが筋とも言える。特に議論もされたのだし。しかし、その点を差し引いても、市議がわざわざ市議会でそんなこと言う必要はない。この場合市民はわかっているのだし。同じページには、同じ21日に開かれた県議会の各常任委員会の記事。学区制見直しに参考人を招致、など3つか4つの報道がある。中身の議論がされているのに対して、仙台市議会は、この報道1つだけ。何かしら、情けない。浅野前知事の時代の知事と県議会の緊張関係、また何人かの県議による議会活性化の動きなどが背景にある。市議会はどうだろう。市議会調整型市長ではないタイプの市長の登場で、淋しくカスんでしまう危機感のあわられかも知れないが、そんなメンツのために市民は選んでいるのではない。市議会も自分たちのあり方と意義を考え直さなければならないのかも知れない。ところで河北新報に言いたい。政治に関する事実報道だ。コラムじゃないし、議会会派の動向などを解説する記事でもないのだから、「ベテラン市議」の名前を読者市民にちゃんと出すべきだ。この報道だと、そんな批判もあった、で終わってしまうおそれもある。この市議個人の挙動なのか、議会や特定会派の総意なのか、わからない。議論のはじっこでチクリと一言牽制した、という程度なのかどうかも、わからない。問題として正面から取り上げる報道ではなく、暗にこの市議か梅原市長の姿勢を批判するだけの意図か。なんのための新聞か、と言いたくなる。この常任委員会が非公開だったはずはないから、伏せる理由もない。事実報道である以上、せめて5W1Hはちゃんと伝えるべきだ。(上記の通り事実関係がわからないで書いた。議論の状況などを調べて、当ジャーナルの批判が的ハズレだったならば、後日あらためて書きます。)■関連する過去の日記 ○情報公開とノブリス・オブリージュを考える(06年8月18日)
2006.08.22
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戊辰戦争は東北の1つのアイデンティティである。本格的に勉強しようと、ここ40年ほど(!)思っているが、なかなか手が回らない。星先生の著書を読んでいるが、夜明けを迎えた日本のうねりの中で、わが仙台・東北が目ざそうとしたもの、そして同盟諸藩の相互関係や内部事情などについて深く考えたい。 ○ 星亮一『仙台戊辰戦史 北方政権を目ざした勇者たち』三修社 2005年賊軍の汚名を負い白河以北の発展が遅れた、というのは私たちの世代には決まり文句にしか聞こえないことが多い。しかし、私たちの先輩たちは、どのような意味を持ってこの言葉を語り継いだのか。仙台にとって戊辰の戦いは何だったのか。これから当ジャーナルのテーマとして行きたいが、今日は同書の終わりの方にある印象的な部分を記す。藤原相之助は明治44年に『仙台戊辰史』を著した。私の祖父の生まれた年だ。藤原は、戊辰戦争をこう総括しているという。 列藩同盟は利害の打算が多く、各藩内の状況も様々の行き掛かりがあって、各個人としては思慮があり実力もあり技量もあったが、団体としては脆弱であった。このため同盟が容易に破れ、戦争のたびに敗戦に終わった。 当時の時勢において列藩同盟が5ヶ月にわたり屈せず、薩長政治家をして国政の前途に対して猛省を発せしめた効果は確かにあった。列藩同盟の余勢は五稜郭戦争に及び、武門三百年の意気を示し、東北人が自ら反省する点と、自ら重んずべき点を発見することができる。後段の、東北人の意気に誇るべき点と反省すべき点、の語に強く惹かれる。やっぱり戊辰戦争史を学ばねばならない。藤原相之助は、秋田仙北郡生保内村の生まれだ。つまり同盟を離脱して南部藩に攻撃された地域だ。しかし、当時子供の相之助に対して、祖父は「南部人が賊でもなければ、秋田が官軍でもない」と教え諭したという。わきまえのある祖父だ。ちなみに私の祖父は、秋田人とは付き合うな、と孫の私に何度か言っていた(自分もそういわれたという言い方だったとは思うが)。官軍か賊軍かという一面的な歴史観を斥け、東北にとってのこの戦いは何だったかを追求したのだろう。藤原は後年、河北新報の主筆となり、昭和23年に死去。■関連する過去の日記 ○玉澤さんと戊辰戦争(06年5月27日) ○輪王寺宮と東北(06年4月8日)
2006.08.21
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エコーラインから、前山、杉ケ峰、屏風岳まで往復。休憩を入れて5時間半。4年生の娘も完歩です。下の写真は、宮城県最高峰の屏風岳から南屏風を望む。下は、帰り道杉ケ峰から屏風山頂方面。天気も良くなりました。最後は、杉が峰を降りながら、前山、蔵王山頂(レストハウス)方面です。
2006.08.20
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今朝はこれから蔵王に出かけるのですが、そのため一昨日ガソリンを入れておきました。夕食後8時前に、下の娘に付き合ってもらって、いざ出発。娘はアメがもらえるという期待がホンネですが、なんか夜に出かけるなんてワクワクだね、などと言います。さてどこで入れようか。私はGSを一定の場所に決めていません。手元に、ガソリン割引券が2つあります。そのうちの1つ、「(1Lあたり)3円割引券」のA店に行きました。近くにあるセルフのスタンドです。ここで3千円分入れました。割引後で139円でした。利用後に、「2円割引券」をもらいました。貧乏人のいつもの癖で「満タン」に躊躇いが出るのです。悲しや。それと、もう1枚のB店の「5円割引券」も気になったので。一旦帰宅しようとしましたが、やっぱりB店に行くことに。ちょっと遠いのですが、B店はセルフでないのでアメがもらえるよ、と娘に説明して。割引5円というけど、割引前が高いだろうな、と思いながら到着すると、看板価格は144円。結局同じ139円になります。ここで思い切って「満タン!」で2千円弱。実は7月31日に120円台で満タンにして、8月になってからGSは初めて。やっぱりどの店も上がっていますね。最後に、B店で子供向けのアメはもらえませんでした。これも合理化なの? 1個10円もしないだろうに。いや、その10円の費用を割引券に向けている必死の経営策か...娘は、代わりになぜかお父さんの机にあるピンクの貼るヤツをちょうだい、というので、ハイハイと付箋(PostIt)を差し上げました。
2006.08.19
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梅原仙台市長が8月8日(火)の記者会見で、今後「都市ビジョン会議」の議事は公開すると話した。同会議は、これまで、腹蔵ない議論のため議事を非公開としていた。会見で市長は、議事は非公開だったが透明性の確保に努め、HPで会議資料や議事要旨を公開するなど、事実上の公開と言って差し支えない状況だった、と説明。たしかに、実際に市のHPに公開された「議事要旨」も相当に具体的で、誰が発言者か明示しても別に支障あるとは思えないから、今後ハッキリ公開としたのは全く自然だ。むしろ非公開にこだわったことが不自然にも思えた。今回の方針変更に梅原氏の「脱皮」を感じ取って、安心した市民は、私だけではあるまい。一般論として、腹蔵ない意見を出すために非公開にするべきこともあろう。しかし、自治体の基本方向という高度な公益がテーマで、しかも公的な立場の人間が話すのに、非公開にする方が、今の時代には相当な冒険だ。つまるところ、「こういうものは非公開にすべきだ」という論にどこまでこだわるのかというだけだろう。以後は梅原氏がこうだ、ということを離れるのだが、多分、こういう考えの人、は行政過程の情報公開には反対ないしは抑制的に考えているのだろう。そういう人には、ノブリス・オブリージュと緊張関係にあるのでなかろうか。本来これらは相容れないものではない。何故に緊張関係に立つかと言えば、「情報公開を徹底するとノブリス・オブリージュが失われて困る」と思い込んでいるからだろう。そこには、2つの点で、やや誤った認識があるのではないかと思われる。1つは、情報公開を為政者の判断の自由を縛るものと片面的にしか見ないこと。もう1つは、ノブリス・オブリージュを規範でなく実のところは、恣意(やりたい放題)とはき違えているのではないか、である。以下に整理するが、梅原市長がこうだと断定するものではない。1 情報公開の作用と効果たしかに情報公開は、ともすれば政治や行政を糾弾し匡正する手段として理解されがちだ。実際に近年、行政のご都合主義や不正を摘発する道具として情報公開が脚光を浴びたことを見れば、うなずける。憲法論では、表現の自由に基礎をおく見解が伝統的に主流で、近時は人格権や生存権と結びつける見解すら登場しているが、少なくとも統治機構の情報に関する限りは、国民主権原理から派生して来るというのが基本だろう(99年の情報公開法の第1条もこの原理を示す。なお例えば宮城県の条例には、これに加えて知る権利の尊重を趣旨としている)。つまり、基本は、主権者たる国民が国政を監視しまた参政権を十全に公使するために情報開示を権利として(憲法上の権利かどうかはともかく)認めたのだ。このような本来論からすれば、糾弾・匡正の効果は言わば副次的作用と言うべきかも知れないが、行政の不正な実態がゾロゾロ出たことで、糾弾・匡正の作用がクローズアップされた。もちろん、それはそれで良いことだ。しかし、情報公開は単に主権者に武器を与え為政者を縛るだけではなく、長い目で見れば為政者や行政を救う機能がある。これは政治家や学者が知ったかぶりして論じる以上に、行政に携わる人には実感だろう。もっとも、国の役人にはわからないかも知れない。市町村、特に都市部の役所の職員ほど、その正しい意味がわかるだろう。つまり、情報を常に公開している仕事ぶりほど、住民にとっても役人にとっても、安心できるものはない。住民の関心と批判が寄せられることが、結局は信頼となるのだ。(これは外交関係にも言えると思うが、表面的な友好姿勢は真の友を作らない。また、公法関係特有の議論ではなく、企業と消費者の関係、あるいは人間関係一般についても通用しそう。ただ、行政とくに国政の場合は「知らしむべからず」の伝統なのか、その意味がわからないのだろう。)つまり、行政活動が縛られて困る、という側面でしか捉えていないのだ。現実に、そういう面はあるだろう。人間誰しも、万人に公開されていると思えば、やましいところがないとしても、ためらいが生じるものだ。「腹蔵ない意見をもらうため」、という理由も表面的には理解できないではない。しかし、情報公開の大きな流れと長期的な意味を考えれば、その理由は非常に小さいことに過ぎないと気づくのが普通だ。確かに、情報公開が行政活動を萎縮させると思わせる面はある。最近も梅原市長が誘致したアセアン大使会議の批判があるが、あまりにも極端な議論で私は賛成できない。公費の優先順位が低く不当だというにしても、基本は市長の裁量だろう。しかし見解の存在は認めるし、議論は重要だ。2 ノブリス・オブリージュについて高い地位にある者や権力を持つ者は、自覚をもって自らを規律すべし。そうあって欲しい。本当に偉い人は自分を律しているものだ。行動の面で見ても、昔の金持ちや名望家は、献身的努力で或いは私財をなげうって人々のために尽くした。だから、本当のノブリス・オブリージュなら、情報公開と緊張関係にあるはずがない。公開されて、褒められることこそあれ、当人が困ることはなかろう。賢者の美徳で「人に言わないでくれ」というのなら、まさにノブリスだが。これが自分を律するという側面で機能している分にはいいが、時として「自分で律しているのだから外から見られなくて良い」「いや、むしろ外から見られない方がやりやすいのだ」と変質してくると、誤ったノブリス・オブリージュ感覚に接近する。端的に言えば、オレは高官(ノーブル)なのだ、俺の裁量だ、オレだけが関知すればいい、ということだろう。単なるゆがんだ特権意識、と言っても良い。客観的にはおかしいことでも、当の本人は主観的には、オレの裁量が国のためになっている、と思いこんでいるのかも知れない。手がつけられない。私がこの「誤ったノブリス・オブリージュ感覚」を最も強烈に感じたのは、数年前の福岡高裁判事の妻の被疑事件に関する福岡地方検察庁情報漏洩事件(2001年2月に発覚)だ。あの時、確か情報を流した検事だと思うが、記者会見では、刑法にも親族による特例があってどうこう、などと堂々と釈明していた。一般市民が知らないだろう法律をタテに煙に巻けばいいんだという意図と、オレたち特定の者が世の中を決めているんだという、最も誤ったエリート意識が丸出し。それと、裁判官との間に一種の同族意識もあったろう。世の中を正しくする立場の者が、身の回りの悪は握りつぶす。権限とやりたい放題をはき違えて、自分の裁量で世の中を動かしたつもりになっている。これでは、真のノブリス・オブリージュが泣いて呆れる。一生懸命やっている大多数の裁判官や検察庁職員に顔向けもできるまい。一般人が「どの検察官が悪だ」と最初からわからない。組織全体に不信の念を抱くのは仕方がない。警察の中の闇も、だからこそ事態が重大なのだが。3 情報公開をどう見るかこの「誤ったノブリス・オブリージュ感覚」に対して、情報公開は真っ向から緊張関係に立つ。当然だ。だから、歪んだ特権意識を持った人には、情報公開は邪魔者に映るだろう。このような歪んだ特権意識に基づいた事件が発覚すると、対策としてさまざまな「装置」が考え出される。情報公開が最大の「装置」だが、他にも、人材交流、研修、外部人材の登用、審議会的組織の活用などが案出される。それはそれで大切なことだろう。しかし、最大の防御策は何と言っても彼ら特権者の正しい意識、つまり「正しいノブリス・オブリージュ感覚」なのだ。人的信頼ほど確かなものはない。例えば、依頼者が弁護士に話した事柄が筒抜けになっては、誰も親身に相談できない。医者に相談したら、別の機関から高額の検査の案内が通知されたら、商売の対象にされただけで医者を信用できない。古典的な想定例と言われそうだが、相談を受けた医者が、患者の家族の財力を察して、自らの費用で高額の投薬を行い、カルテには低廉な薬を処方する。弁護士が法律論では相手に勝っても和解にならないと考えて、相手方に話して勝てる事件もあえて話し合いさせる。このように、識見をまさにフル活用して一般人のために行動する。その過程で自ら犠牲にするものもあるが、識見者でしか解決できないのだから、と社会的な役割を自認するが、ことさら外に言うこともない。ただ、しっかりと世の中のために行動する。期待を裏切らない。そんなのがノブリス・オブリージュではないか(一般の意味と多少ズレるかも)。ところが、歪んだノブリス層は、重大な勘違いをする。すなわち、例えば古典的な美談について言えば、「もし情報公開されたら身動きとれなくて、やろうにもできない」とも考えてしまうかも知れないからだ。先の古典的事例なら、医者は勝手に個人情報を改ざんした、と言われるだろうし、弁護士は弁護士倫理に問われるだろう、と。でも、「だから本来の専門家たる活動ができなくなる」と言い訳をするのは、とんでもない思い違いだ。同様のことが、学校の先生にも言える。内申書の公開がされるから、何にも書けない。学級便りには全児童のことを平等のスペースで書かなければいけない。今日プールに入れて良いか、給食で食材に問題がないか、全部保護者の了解がないと決定できない、などなど。でも、生徒と教師の人的信頼こそ教育の真髄。途中途中でいちいち保護者に話す必要も本当はないのだ。口うるさい保護者がいるなら、言わせておけばいい。当の先生や校長がビクビクしては何にもできない。堂々と生徒と向き合っていただきたい。私は、きれいごとと言われそうだが、教育現場にモヤのように掛かっていた「情報公開と個人情報の一時的混乱」は、教師側の(注:学校や教委の、ではない)自発的働きかけと自信回復を経て、そのうちに晴れると思っている。保護者側の過敏な意識も、やがて大人になるだろう。表面的な「情報公開に縛られる」感覚は、乗り越えられると思うのだ。教育は、情報公開が目的ではないから。教育内容と成果に理解があれば、何を公開するかしないかなどは小さいことで、共通理解を得られるだろう。よく考えれば当然のことなのだが、こうしますか、ああしますか、などといちいち神経質になって逆問してくる専門家ほど頼りにならないものはない。こっちは素人だからこそ、公務員や医者や弁護士や先生に委ねているというのに。困るのは、これら専門家が、情報公開や個人情報に過敏になるあまりに、真のプロフェッショナリズムを犠牲にして、機械的な事なかれ主義に陥ること。報酬もらっている範囲で、無理なく仕事すればいい、オレは余計なことする義務もないし... と。福岡高検のように現実にやましいところのあった専門家は極端な例としても、一所懸命やっている大部分の専門家にとっても、ちょいとやりづらくなっている面はあるかも知れない。しかし、それでは専門家の意味がない。社会の中ではその人にしかできないことなのだから、信頼も生まれない。仕事をしない言い訳を、情報公開や個人情報の風潮に帰するような専門家は、さっさと転業して欲しい。もちろん大多数の専門家はわかっているだろう。問題は国の中枢に位置する役人だ。政治家はむしろ変わってきたように思う。なにしろ選挙の洗礼を意識する。残るは役人だ。国益はどこへやら、ひたすら自己目的化して三位一体改革に徹底抗戦し、旧態依然と業界人や地方の役人を下働きさせ、他方で情けない組織的不祥事も改まらない。これでは、やましいことがあるだろうと思われても仕方ないのだ。彼らは、自分たちの社会的使命を自覚して見せ、オレたちは高尚な大局的判断をしているんだ、情報公開なんて下界の小事よ、とさげすみながらも、実は見えない敵だと意識しておびえている像が浮かぶ。何とも情けない。(冗長な割には整理がつかない文章でした。 編集長)
2006.08.18
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何ともやるせない。昨夜(16日)は疲れていて夜8時台に横になりながらも、ポケットラジオを耳元にか細くつけていた。6-2という安心感もあってウトウトしていたが、佐藤アナが大声が出るたびに、目を覚ました。福盛が不調、エラーも連発で、なんと同点ではないか。延長戦はつらくてスイッチを切ってしまった。ああ、ファンとしてあるまじき行為。昨日は、フルスタの花火を子供たちと一緒に家から聞いた(光は見えなかったので)のだけど。先ほど確認したら12回裏にもチャンスありながら無得点。なんでわざわざそこまでして、引き分けにこだわるのかネ。沈滞ムードを霧が演出したようですが。そういえば、延長で勝ったのは日大山形でした。山形勢初のベスト8。そして東北6県で唯一残っている。日大山形よ頑張れ!
2006.08.17
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何とも残念で不愉快だ。靖国問題や歴史認識に関係していることは明らかだが、人様の建物に放火する愚かさ。言論の自由とかの洗練されたコトバで批判しても良いが、もっと単純に、人に迷惑をかける行為をする人間が許せない。靖国参拝問題については、わたしも一定の考えは一応ある。現時点で参拝を憲法上許されるかどうか、という問題にとどまるものではない。戦争に関与し(関与させられ)た国民の意識と靖国に寄せる感情をどう扱うかが基本で、その後に、講和後の戦犯の扱い、さらにその後に近隣諸国への配慮いかん、という整理だと思っている。どうも近隣諸国の反応から発想する風潮が強すぎるように感じる。自分たちの戦争をどう反省するかが先の筈だが。憲法問題と位置づけて攻撃する論調に対しては、今になって何を評論家気取りか、と思う。戦後に靖国が宗教法人になって、合祀がともかくもなされて、首相参拝がされてから周辺国が問題視し始めた。これを憲法を持ち出して批判して見せるのだが、その経緯と国際関係対処が問題となっているのに、何の解決にもならない。しかしながら、哀悼の意を表するのにとやかく言われるべきでない、という小泉氏の断固とした態度も、状況をふまえた「政治家としての」姿勢とはいいにくい。片面的な方向にあえて持って行っている。とやかく言う方が悪い、という言い方は、1つの見解の吐露にはなるけれど、置かれた状況を舵取りする政治最高責任者の対応としては、淋しい。国際関係問題としても、非常に難しい。例えば米国大統領の靖国参拝は、その気になって頼めば簡単に実現しそうな話だ。相手国の戦没者を敬い追悼する気持ちはどこの国でも同じで、日本を訪問した国家元首が、日本の追悼施設で手を合わせたいと考えるのは明快で当然のことだ。だが、わが政府はそれは困る、というだろう。ここに、複雑さがある。複雑にしたのは中韓でしょ、というのが小泉首相。そういう面はある。しかし、複雑にさせられたニッポンをどうしますか、それは総理が示さないと。憲法に反するから、とただ批判だけする論者と、これでは五十歩百歩じゃないか。あとは次期総理に委ねるという本心か。少し飛躍するが、戦後61年、この問題が解決するどころか、まさに火種となる状況だ。政府には、見解の表明合戦の一当事者ではなく、責任ある舵取りを求めたい。
2006.08.16
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学生時代に吉野家の牛丼を食べるのは、贅沢に浸れる幸福なひとときだった。仙台では、青葉通り店によく行ったが、徹夜明けに友人の分まで牛丼弁当を自転車で買いに行ったりもした。社会人になってからも、深夜の仕事の後や、また酒飲みの後(その場合は国分町店か駅前店)にお邪魔している。最近では胃袋の能力も下がり、あまり行っていないが、先日事情あって登米市の佐沼店で朝飯に豚丼を食した。米国産牛肉の輸入解禁の動きがあるが、店で提供できるには2ヶ月ほどかかるという。さて、20代の頃の私は宮城県内の吉野家はすべて制覇したと自慢していたが(もちろん「はんだや」も同じ)、あの頃の記憶では県内の店舗は次の通りだったと思う。 ○青葉通 一番お世話になっている。牛丼が食えるという噂があり、バイトしたかった。 ○扇町 結構古くから有るはずで、兄におごってもらった記憶あり。 ○高砂? 小さな店舗。2回ほど行ったことがある。 ○向陽台 泉店が正式名称。1度だけ行った。当時はここで宮城県内全店制覇が完成。 ○北根 昭和64年昭和天皇崩御の朝に大先輩と一緒に朝食を食べた。帰宅途中夜中に入るパターン多し。 そのほかに、仙台駅前店や岩沼店も早くからあったような気がする。その後、仙台市内などできめ細かく店舗展開しているようだ。吉野家D&CさんのHPで現在の店舗状況を確認。どうでも良いことだが私の訪問実績を付記しました。 ○青葉区 7店舗 私の訪問実績5/7 ○宮城野区 5店舗 3/5 ○太白区 2店舗 0/2 ○泉区 4店舗 2/4 ○石巻 1 0/1 ○塩釜 1 0/1 ○気仙沼 1 0/1 ○白石市 1 0/1 ○名取市 2 1/2 ○岩沼市 1 0/1 ○登米市 1 1/1 ○大崎市 1 0/1 ○大河原町 1 0/1 ○利府町 1 1/1 ○大和町(鶴巣PA内)1 0/1 ○富谷町 1 0/1というわけで、私の宮城県内店舗訪問実績は、31店舗中13店舗。打率にして現在 .419です。吉野家HPによると、出店形態にビル・イン(駐車場のない都市内部型)とフリースタンディング(ロードサイド型)と2つあるが、後者の場合、 ○車両交通量が多いこと(12時間で10,000台×片側車線数が目安) ○人口増加率が高いところが条件で、敷地面積 150~250坪、.間口 25m、店舗面積は25~30坪、駐車台数は15台以上を標準とするそうだ。吉野家の場合、直営とFCの混合展開だと思うのだが、HPに建設協力金は1000~2500万円と記載があるのは直営店舗を想定してのことか。とすれば、なおさら、立地条件を本部で相当吟味して出店を決定するのだろう。以下に東北地域の吉野家店舗を拾ってみた。○青森県 5(青森市、弘前市2、八戸市、五所川原市)○岩手県 8(盛岡市4、花巻市、北上市、奥州市水沢区、一関市)○秋田県 6(秋田市3、能代市、横手市、大館市)○山形県 6(山形市2、米沢市、酒田市、鶴岡市、天童市)○福島県 19(福島市4、会津若松市2、郡山市6、いわき市2、須賀川市、相馬市、伊達市、本宮町、西郷村(新白河))東北の主要地方都市が規模の順序できれいに揃っている。合併前ベースで人口7万人程度の集積の都市にはある、という感じ。吉野家は直営とFCが混合していると思うが、徹底した立地調査をしているはずだ。競合する牛丼チェーンでは、すき家(全店舗直営)が結構展開しており、各都市への展開はほぼ吉野家と同様の状況だ。FC展開のなか卯(ゼンショー)は、宮城、山形以外には、秋田市に1店舗、八戸市に3店舗のみ。吉野家に戻るが、例えば岩手県では、6万人規模でも水沢にあって宮古にない、という辺りが丁度分かれ目なのだろう。配送の交通事情も加わっているかも知れない。宮城県の気仙沼にはあるのは、やっぱり宮古と差が付いている。その宮城県内では、登米市(佐沼)にあって栗原市にはないのが、1つの分水嶺だ。佐沼の都市集積が反映された形。秋田県では、次は本荘や大曲だろうが、ちょっと集積が足りない(4万人クラス)。青森県では、五所川原にあるなら十和田市にあっても良いようなものだが、交通状況などの差が反映しているのだろうか。山形、福島はきわめて自然な結果。私は宮城県以外にも都内各所で相当食べている。夜行列車で東京に行った早朝、青雲の志を持った18才の私が、兄の案内で人生最初に入った吉野家は、四ツ谷の駅を出てすぐの店だった。店を出たら冬の空が明るくなっていた。
2006.08.15
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朝の日記で大館城のお化けネコを書いた後のミステリー。 ○大館城と化け猫(06年8月14日)日記を書いた後で、ふと庭をみたら駐車場のわが車の斜め前にノンビリと居座るネコ君。どこかの飼い猫でしょう。以前にも見かけましたが、今朝は夏バテのせいか、テコでも動かない雰囲気。窓を開ける音に気付いても、立ち上がる気配もなくジッとこっちを見ている。日記を書いた直後だし、何かの巡り合わせか。何か災いがあるとでもメッセージを伝えようとしているのだろうか。子供たちに教え、また妻に呆れられながらも、取り急ぎ、望遠で写真を撮る。追い払おうかどうしようか迷ったが、結局私が車を出す前には、どこかに消えていた。写真のネコの表情。何を伝えようとしていたのか。
2006.08.14
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大館城(桂城)に化け猫が出たという。鎌倉幕府は甲斐国浅利郷を本拠とする鎌倉御家人浅利氏、大館地方一帯の地頭職を与え支配させた。南北朝の動乱期を経て16世紀に入ると、交通や軍略の要衝である大館地方を支配しようとする南部・安東(秋田)氏と、独立を堅持しようとする浅利氏との間に、めまぐるしい攻防が展開される。天文十九年(1550年)浅利勝頼により大館城が築城されたが、太閤検地により、この地は秋田氏のものとなった。関ヶ原の後、秋田氏は常陸に移封され、かわりに秋田県一帯は佐竹氏が支配することになる。(一国一城令の例外としてこの城は横手城同様に存続。)城は戊辰戦争で焼失。以上が略史だが、天正10年(1582年)に城は浅利氏から安東氏のものとなる。やがて(秋田)実康が大館城に入場したときのこと。城下を進む実康の行列の前に巨大な猫が居座る。その時は忽然と消えたが、今度は城の湯殿に出るようになる。実康みずから湯殿に潜み、化け物に斬りつける。臣下総動員で赤い血の跡をたどると、林の洞窟に巨大な猫股が倒れていた。実康は、虫の息の化け猫にとどめを刺した。しかし、その夜から奥方は原因不明の病に苦しみ、年末に死去。実康も同じく不明の病で死ぬ。浅利様のたたりだとして、城内では猫を大事にするようになったという。(平川陽一編『日本列島名城の謎』1995年 トラベルジャーナル などを参考にしました)
2006.08.14
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河北新報の世論調査で、梅原市長の市政を評価するかどうかの世論調査結果があった。 評価する 6.3 どちらかといえば評価する 35.5 あまり評価しない 39.2 評価しない 13.1という総合評価(問1)であり、前二者の計が4割。高いとは言えない。評価する理由(問2)のトップは、親しみやすさと改革意欲。評価しない理由(問3)は、市民感覚の欠如。私はいつも思うが、政治手法や個人のキャラクターをもって評価が高低する政治運営ほど貧しいものはない。中身や出力がどうなのか。もちろん、一定の成果を生むがために必要又は有効となる政治手法ということもあろうが、要は道具と目的の関係であって、道具だけが取り沙汰されて、良い悪いという議論は空虚だと感じてしまう。少し前までの県政がそうだった。道具だけを論じていられるのは、平和で豊かで、心底困っていない世相の表れか。世の中を動かすのは庶民に共有される切迫感だ。首長のキャラクターが好き嫌いなどとノンビリ言っていられるのは、仙台市民も現状安住なのだろうか。端的にコトバで言えば、「市長」の評価などはどうでも良い。市政の評価だ。アクが強くても何でも良いから。そして、「政治手法」とか「市長の感覚」がどうとか議論される貧しい市政風土ではなく、中身の議論を深めたい。さて、その中身だが、東西線建設の推進派25%は随分と少ないと感じた。だいたい東西線が財政を好転させるはずはないから、本当に財政状況を冷静に考えれば、建設しない方が良いに決まっている。推進派の考えは、交通基盤として仙台に東西軸が必要なのだ、市財政をみてもそんなに負担にならないのだから、という。財政状況の見地からは、推進する理由は全くない。梅原市長も昨年の選挙では、当初は東西線について特別の意見を持たなかったが、ある時点から加速的推進を明確に打ち出した。個人としてどこまで東西線を熱望するか、また財政問題を考えているか、よくわからない。近所に駅ができるとか、何らかの開発利益を狙ってる人は別として、大体の人はそんなに是非とも東西線が欲しい、ということではないだろう。それにしても、随分と慎重派が多いように感じた。市民の議論を深めたい。
2006.08.13
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2日前に家族が撮影したものです。私は仕事で同行していませんが、写真がとても絵画的で印象に残ります。
2006.08.12
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全国的にプールの不備の実態が表面化し、文部科学省のまとめ(10日)では2千カ所以上にのぼる、などと報道されている。ふじみ野市の事故に関して、私は関係者は絶対目にして気付いているはずだ、と書いた。■関連する日記 ふじみ野市プール死亡事故を考える(06年8月3日)全国的にこれだけの不備の箇所が報告されると、その数に驚くとともに、ふじみ野市のケースでも気付かなかったのだろうか、と一瞬思う。しかし、全国の多数の例についてもそうだが、そんなはずはない。私がなぜそこまでこだわるか。それは、排水口のボルト締め点検は、度重なるプール事故の都度、少なくとも学校プールについては点検せよと連絡されているからだ。かりに、不徹底で点検していないとしても、関係者は、プールといえば「ボルト締め」という意識があるハズだ。そして夏のプール開きの際、あるいは自分が泳いでいる際に、排水口を目にするだろう。そして、そこに、「ネジ穴があってボルトがない」とか、「針金で巻き付けてある」などのアブノーマルな事態があれば、ハッと気付くのが、全く自然のことだ。私自身、先月鶴岡市内の公営プールに行ったが、流れるプールの吸水口を目にした記憶がある。目に入るのだ。あたりまえだ。そして、その後はプール事故と関係通知を知る関係者か一般人かで分かれるだろうが、関係者ならアブノーマルな事態に必ず気付く。もし私が、針金止めを目撃したら、間違いなく監視員かフロントに話しただろう。とすれば、どういうことか。つまりは、通知が徹底されないから現場が意識を持てないか、通知されてもどこかで黙殺されるのか、或いは逆説的だが事例があまりに多すぎて関係者みんな組織的に感覚が鈍磨しているとしか言いようがない。学校の場合で考えよ。大概の先生は、排水口の痛ましい事故のことを知っているはずだ。その都度文部省や県教委からボルト点検の通知があることまで理解されているかどうか確信はないが、もし連絡されていれば間違いなく、毎年自分の目で確認しているだろう。生徒の安全を考えない先生はいないからだ。体育の先生でなくたって、意識をもってボルトを点検するのが当たり前だ。今回の事故は学校プールではないが、児童の尊い命が失われた。そのことに、ふじみ野だけでなく全国の先生たちは本当に悔しく感じているに違いない。明らかに防げる事故なのだ。全国でこれだけ不備の実態があるということは、やっぱり現場の先生にまで徹底していないのだろうか。組織的に受け流している、としか言いようがない。本当に悔しく、残念だ。
2006.08.11
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今朝(10日)の新聞に出ていた。仙台南署が自転車2人乗りの女子高生(15歳)を道交法違反(乗車積載制限)の疑いで検挙、仙台家裁に書類送検の予定。8日午後、中田町の市道で同級生の女子高生(16)を自転車の後ろに乗せていた疑い。パトカーの同署員が拡声器で警告したが無視したため悪質と判断し交通違反切符を切ったもの。自転車の2人乗りの検挙は、県内で初めてという。現場の状況は、見ていないからわからない。感覚で言っては良くないだろうが、なぜか、長町や中田町あたりで歩道を蛇行したりする女子高生を多く見かけるような気がする。余計なことだが身なりもシャキッとしていないように感じる。話しながら運転するから、歩行者にとって危ない。少なくとも、注意されたら気付かなければならない。常に、とはいかないが、なるべく私も注意するようにしている。一昔前だと、下手に注意するとオヤジ狩りに遭うような気もしたが、意外と話してみると素直に従ったりすることが多い。1週間くらい前も、自転車を出そうとして倒した隣の自転車を起こしてやったら、ありがとうございますと、小学生みたいに礼を言われたこともある。2人乗りや並行運転、蛇行運転なども、友人とつるんでいるから奔放にダラシ無くなっているだけで、言われればわきまえはあるのだ。普通は。だから、今回のケースはやっぱり悪質だったのだろう。もちろん、言うことを聞かないから懲らしめる、というだけではなく、客観的にも危険な状況だったのだろう。自転車が原因の交通事故も増加しているという。本人はちょっぴり運が悪かったと思っているのかも知れないが、とにかく悪いことをしたと認識して欲しい。
2006.08.10
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仙台七夕も終わった。蒸し暑い夏真っ盛りで、本当に「夏」という感じ。季節感を感じる祭りです。七夕そのものは全国で行われる年中の風習。中国の牽牛織女の伝説から、織姫星にあやかって、手芸や裁縫が上手になるように祝う女子の祭が生まれた(乞巧奠、きこうでん)。これが、日本固有の棚機女(たなばたひめ)信仰と結びついて、七夕となったという。上方から江戸に伝わり、近世に手習いごとの普及とともに盛んになった。仙台七夕の始まりは確かな時期はわからない。昔は、竹飾りには7種類。五色の短冊、紙の着物、折り鶴、巾着、吹き流し(五色の糸に代わるもので手芸が上手になるよう)、紙くず籠(その裁ち屑を入れた)、七夕線香。旧暦7月6日の午後から準備し、7日の朝には飾りを広瀬川に流し、竹だけは物干しざおとして残した。県内各地に独特の飾りや食べ物がみられ、竿灯を作って町を練り歩くものもあった(角田市金津)。現在の仙台七夕は、昭和のはじめから飾りコンクールなど華やかさをもち、戦後は商業ベースの観光イベントとして発展し、開催日も月遅れの8月となった。
2006.08.09
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盛岡の酒造会社岩手川の倒産は、ちょっとした衝撃だった。岩手県に生まれ育った私も、あの70年代風ライトポップなテレビのCMソングを小学生の頃に聞いてよく覚えている。(ちなみに他には、岩○電気、タ○○スポーツ、など)現在、酒蔵の保存にむけて運動が起きているという。仙台の南町通りの旧商工中金ビルを思い出すが、盛岡の酒蔵の場合はもっと古い。市民の総意として盛り上がるかどうか、注目だ。
2006.08.09
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(多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日)から続く)6 多賀城の建設 造営には公民や兵士、また過重な負担のため本籍を離れた浮浪人などが多数動員されたようだ。発掘では瓦が出土しているが、第1期の創建には、木戸窯跡群(大崎市田尻)、日の出山窯跡群(色麻町)などで瓦が生産された。第2期以降は、仙台市の台原や小田原丘陵の窯跡群に集中しているが、陸奥国分寺にも瓦を供給している。窯構造も第1期の地下式ではなく半地下式。第4期の春日大沢窯跡群(利府町)も半地下式。7 役人と兵士 陸奥国は大国のため、国司は、守(長官)、介(次官)をはじめ多数の職があった。また陸奥国には鎮守府も置かれた。上級官職は中央貴族。国司は任地との不正な結託を防ぐため約2年半で交替させられたという。中央の官職と兼務とされたため実際には多賀城に赴任しない者も多かった。職務内容は、管内の実情や役人勤務評定に関する文書の作成や整理が中心。硯や木簡が出土している。 兵士は一般公民から義務として徴発される。期間中の食料や武器は自弁だから、相当な負担であった。九州の防人と同様に、蝦夷対策の多賀城行きは相当な苦難であった。8 呰麻呂(あざまろ)の乱と蝦夷対策 律令政府は多賀城を根拠地として、桃生城と出羽国雄勝城(759年)、伊治城(767年)を造成して北方対策を進めた。これら城柵造成に貢献した牡鹿郡出身の豪族、道嶋宿祢嶋足が、陸奥国大国造として勢力を持つ。他方で蝦夷との武力衝突が生じるようになり、政府側で覚べつ城(ベツは敝の下に魚)の造営の指揮を執っていた按察使紀広純と道嶋大楯が、780年に伊治城で蝦夷出身の大領伊治呰麻呂に殺害される。さらに、呰麻呂は多賀城を攻略し炎上させた。 大楯と呰麻呂の対立が原因だが、北進政策に対する現地の不満が背景にあったとされる。 この乱の衝撃から、律令政府は多賀城を単なる行政府だけでなく、兵士を駐屯させることとした。蝦夷の抵抗はなおも続き、東北や物資兵力の供給地だった坂東(関東)諸国も疲弊させたが、801年に坂上田村麻呂が胆沢地方を完全制圧、811年の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の征討で岩手県地方までが陸奥国に取り込まれる。9 古代の城柵 六国史には越後国を含む東北の古代城柵として19カ所が記載されている。多賀柵(国府)のほか、玉造柵、新田柵、牡鹿柵、色麻柵が737年の文献に記載。なお、出羽国では城輪柵(きのわのさく、酒田市)が平安時代の国府で、やがて秋田(後の秋田城の地)に出羽柵が移された。 奈良時代後半には、桃生城、出羽に雄勝城を造成。次いで、767年伊治城、その後覚ベツ城造成に着手。呰麻呂の乱を経た征討で、胆沢城(802年)、志波城(803年)、徳丹城(813年頃)10 奥州藤原氏 奥六郡(胆沢、江刺、和賀、稗抜、志波、岩手)はなお中央政府に完全に服属せず、俘囚長を中心とした独自の統治が行われていた。11世紀には俘囚長から出た安倍氏が奥六郡を支配し、国司に反抗。政府は源頼義を陸奥守兼鎮守府将軍に任命、頼義は子の義家とともに、出羽の俘囚長清原氏の援助を得て安倍頼時を討つ(前九年の役、1062年)。 この戦功で勢力を広げた清原一族の内紛に、陸奥守源義家が介入、清原清衡を応援して反乱を平定(後三年の役、1087年)。 この過程で東北の現地族長権力は清衡を初代とする奥州藤原氏に一元化。3代秀衡は鎮守府将軍、やがて陸奥守に任ぜられ(1181年)、平泉が多賀国府に代わり本庁の性格を持つようになる。 その後、源頼朝が多賀国府に立ち寄りながら平泉に進み、4代泰衡を討ち東北を支配下に入れた(1189年)。直後の藤原旧臣大河兼任の乱に、多賀国府留守職が加担したことから、頼朝はこれを平定後直ちに解任、伊沢家景を陸奥国留守職に任命。これにより多賀国府は完全に頼朝の支配下となる。(この項目については近時の平泉の調査で研究が進んでいるだろう。後日整理。例えば、岩手日報の工藤先生の連載。)11 中世の多賀国府 鎌倉幕府の奥州支配は、葛西、伊沢両氏の奥州総奉行を通じて行われた。北条氏一門が陸奥守に任命されることが多い。 多賀国府はあまりわかっていないが、建武親政(1333年)に際して北畠顕家が陸奥守となり下向し、多賀国府が再び政治の拠点となった。 南北朝の動乱に際し、顕家は後醍醐天皇の命で京都に進撃するが、そのため奥州も足利の勢力が強まり、帰国した顕家は多賀国府を放棄し、霊山(福島県)に移る。 足利尊氏は1346年新たに奥州管領として、吉良貞家、畠山国氏の二人を多賀国府に下向させる。しかし足利氏の内紛でこれら両名も対立、岩切城の合戦が行われる(1351年)。この間隙に南朝方が多賀城を奪回するが、吉良貞家の攻撃で多賀国府は南朝の抵抗から足利の支配が確立。 それでも奥州には、斯波、吉良、畠山、石塔(いしどう)の4氏が管領を名乗って勢力争いを続け、やがて勝ち残った斯波氏が大崎地方を根拠地としたため、多賀国府は使命を終えることとなる。12 多賀城碑とおくのほそ道 多賀城跡の南部にあたる部分に多賀城碑がある。近世のはじめから陸奥の歌枕である「つぼのいしふみ」と結びつけられ、松尾芭蕉も訪れるところとなる(1689年)。 仙台藩も顕彰し、現在に残る覆堂が作られた。 しかし、土中から発見されたというこの碑、本当に762年に建立されたかどうか、真贋論争があった。しかし多賀城の発掘調査と、碑の周囲の発掘調査で、碑文の内容が正しいことと碑が当初からここに建立されていたことが明らかになった。これで、724年の多賀城創建も確定したわけである。 10年くらい前のこと、私が文化財関係の先生から話を聞いた際には、中の碑よりも覆屋の方が文化財的価値がある、と聞いた。覆堂の修復の話だったのと、碑の真偽問題があったことで、ユーモアで語ったのだと思う。あるいは、国の重要文化財指定(平成10年)のちょっと前の頃だから、まだ真贋論争が残っていたのか。いずれにしても当時の私はまったく不勉強だったので、しばらくそれを信じていた。■関連する日記 ○多賀城の基礎知識(前編)(06年8月7日) ○岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) ○平泉への道(06年1月11日) ○芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) ○古代東北の理解(06年5月31日)
2006.08.08
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多賀城は古代東北の政治の一大中心地だ。近世の初めからも遺跡として広く認知されているし、芭蕉も碑を訪れて涙した。しかし実態としてどんな人々がどんな営みをしていたのかは、昭和30年代以降の発掘調査によることになる。多賀城発掘調査の成果を広く知らしめるための資料『多賀城と古代日本』(東北歴史資料館・宮城県多賀城跡調査研究所編集、仙台宝文堂、1975年)を読んでみた。昭和49年の東北歴史資料館開館記念展の解説を編集した小冊子だ。以下に同書から何点かを、整理要約して記す。多賀城と古代東北史を簡略に勉強するに好都合なので。1 多賀城研究略史 戦国の動乱で多賀国府も姿を消したが、近世には、多賀城碑の存在が紹介されたことに伴い、遺跡として多賀城跡も知られるようになる。佐久間洞巌の論考などがある。 明治9年の東北巡幸で天皇が立ち寄ったことから、地元有志が政庁正殿跡地を国に寄附。研究面では大槻文彦が、多賀城と多賀国府の変遷を確実に考察した。大正には、国の実地調査を経て外郭線を把握、多賀城跡のほぼ全域を史跡指定にした。昭和に入ると、東北帝大関係者の研究が進められる。 戦後は1960年に伊東信雄東北大学教授を中心に発掘調査団が組織され、また63年からは多賀城町の買収事業がスタート、さらに66年からは廃寺跡の史跡公園化が行われ、一帯が史跡として面目を一新。69年には県教委に多賀城跡調査研究所が設置される。 75年刊行の本書に収められた航空写真では、国府多賀城駅はもちろん無く、線路の両脇には城南小学校があるだけ。説明の地図には「県道根白石塩釜線」「旧塩釜街道」などと記されている。ちょっと昔の雰囲気です。なお、改めて旧塩釜街道はこっちなんだな、と気付く。古人は塩釜様に行くのに、案内や今市で休みながら、ここを通ったのだ、と。2 調査の成果 廃寺跡は、伽藍配置と僧坊の変遷などが明らかになる。 多賀城跡政庁は、朝堂院風式建物配置の鎮守府及び国府の政庁跡とみなされ、調査が進むと、更に数棟の堀立柱建物が発見され、何時期かの遺構変遷が予想された。そして研究所の調査により、政庁地区の5期にわたる建物変遷が解明される。 また城跡の外郭線に土手状の高まりがあるため防御的性格の土塁と考えられたが、調査により、これは古代の宮殿や寺院を囲むものとして用いられた築地の崩壊痕と判明。推定5m前後の高さ、平城京朱雀門跡付近と同程度の堂々とした築地である。3 多賀城の変遷(1)第1期 創建年代は不詳。城跡の碑には神亀元年(724年)とあるが碑の真偽が不明(編集長注:その後、奈良時代建立の真碑と確認され、平成10年に国の重要文化財に指定)。続日本紀天平9年(737年)の城に多賀柵の名が見える。全て堀立柱構造。(2)第2期 奈良時代の中頃には礎石を使用する建物や門に改められた。多賀城碑には天平宝字6年(762年)に修造と記される。この期終末に火災焼失したのは、伊治公呰麻呂の反乱(780年)によると考えられる。(3)第3期 火災後に復興。同時に兵士の宿舎とみられる竪穴住居群も出現。貞観11年(869年)の陸奥国大地震で被害。(4)第4期 築地を中心に震災による修復。(5)第5期 平安時代後半にあたる。竪穴住居が消え、小規模な堀立柱建物が多くなる。源頼朝が1189年に見た多賀国府はこの時期。4 多賀城の時代背景 奈良から平安前期は、朝廷が全国の土地人民を一括支配する律令体制の時代。全国には、国・郡・里(のち郷)の3層の行政組織が敷かれた。1里は50戸で有力農民が里長。郡司には在地の豪族(古くは国造だった家柄が多い)。国司は畿内の役人が派遣された。公民には戸籍に基づき条里制の口分田が班給され、租庸調などの税負担と兵役が課せられた。 帝都平城京や平安京には中央官庁が置かれたのに対して、地方組織には、国に国府庁、郡に郡家が置かれ、特に九州には太宰府が置かれた。国府庁、太宰府、多賀城などの政庁建物配置は規模に差があっても、大体規格が一致している。5 陸奥国の成立 古代の東北地方の太平洋側で、古くは道奥国とも書かれた。東山道の奥にある国の意。以前は在地の豪族(国造)の支配する国があったが、朝廷が支配を広げ、天武朝の初めには陸奥国統治体制の骨格はできあがったようだ。大化の改新を契機に律令国家を整備すると、東北も中央から派遣された国司が統治するようになる。 当初は最上、置賜の2郡も管轄したが、712年に出羽国を設置すると2郡は同国へ。なお、陸奥国の北方には蝦夷の居住地が広がり、律令政府が服属の策を講じ、次々と律令制に基づく郡を設置していくこととなる。天平期には宮城県北部まで、平安の初めまでには大規模な武力制圧で岩手県南部までを掌握。(後編に続く) ■関連する日記 ○岩切の寺社をめぐる(06年1月3日) ○平泉への道(06年1月11日) ○芭蕉が感激した「おくのほそ道」岩切・多賀城(06年1月25日) ○古代東北の理解(06年5月31日)
2006.08.07
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夏休みで子供との約束。仙台は七夕の夏。ナイター応援に行ってきました。祖父母も参戦して、3世代6人で。さほど野球に関心のない妻の一言。「4番がダメだね。」お~っと、何ともズバリ正直というか、鋭い一言。そうナンデス。上の娘。「礒部が一発もいいけど、塁にいないんじゃ1点だけなんだよ。塁にいなくなると、打つんだよね。」はい、そうナンデス。あれだけ残塁とダブルプレーの山を見せられると、何とも... 明日仕事の私は、祖父母に了解を得て、みんなでバスに乗り9時台の電車で帰りました。シャトルバスは7回裏終了時からナンデスね。帰宅10時。NHKのTVスポーツニュースを子供と見たら、1回裏の主軸の不発の場面と、北川の一発の場面が、悲しく流れた。全員バタンキュー。でも、カラスコのダイブや、感想文でキャップをもらって、子供たちはフルスタが大好き。楽天さん、ありがとう。あとは、営業面だけじゃなくて、中身を是非。私の通算フルスタ勝率.556です。
2006.08.06
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土曜日午前10時頃に電話が鳴って、ウニを届けるからご飯を炊いておけ、と。ハイハイ、どうもです。今朝むいたばかりの新鮮なウニ。さっそく、ウニどんぶりにいたしました。写真で見ると、下の子がちょっとイタズラしたので盛りつけ方が美しくないかも知れませんが、味は最高。ちゃんと4人分用意いたしております。特に上の子は小さいときからウニやイクラが大好き。テレビのレポーターのマネをして堪能していました。考えてみるとわが宮城県は海の幸も豊富。サンマ、カキ、ホヤなど新鮮さが売り物のものが、うまい。産地で食べるから当然だ。編集長はサンマの刺身が大好物。宮城県に来て初めて食べたが、人生で食したうまいものベスト3に間違いなく入る。内陸で生まれ育った私、子供の頃は、魚と言えば焼き魚、イカは塩辛、ホヤもうまくなかった。これは仕方のないことだった。昔、宮城県では水産のPRのため「みやぎのさかな10選」を制定したが(平成4年)、入りきれなくてプラス2の12個となった。しかもそこにはウニやフカヒレは入っていない。それだけ、宮城県の水産物は豊かなのだ。東京や関西の友人が仙台に来ると、居酒屋で食べても魚がうまい、という。本当は、石巻に連れて行ってサンマの刺身を、あるいは鮎川まで行ってクジラの刺身を食べさせたいのだけれど。そうそう、牛タンも良いが、やっぱり新鮮な食材を産地で食したい。私は食材についてさほど知識もウンチクもない。うまいモノはうまい、と思うだけ。だから、仙台のかしこまったテーブルで食べるよりも、衛生上ちょいと不安が無くもないような石巻の雑然とした店の、傾いたカウンターでオヤジさんに刺身を切ってもらうのが、いい。塩釜、松島にも良いところがたくさんある。ある人が、米も魚もうまい、宮城県はすごい、と言っていた。そう、すごいんです。他から見ればうらやましいのだろうが、だから食べる、という訳でもない。うまいモノを、うまいから食べる。日常生活の枠内で自然に食べていく。それだけのこと。特に、もらったものは、格別にうまい。そういうことです。生活の枠を飛び出して、例えば特別にお金を払って高級店で食べると、何が何でも、こりゃ~うまい、と言うしかないから、味がわからない。庶民の悲しさか。だから、例えばカニ専門店は、私はあまり好きではない。何たって、建物の全フロアで、百人もの客がカニを食って、こりゃ~うまい、と言わされているのだ。そんな非日常な事って、アリですか。建物を一歩出たらたちまち味を忘れるに違いない。家族で食べるウニどんぶり。見た目はどうあれ、とにかく旨かった。いただいた方、それに生産者の方、それからウニ君たちにも、感謝の気持ちを。ありがとうございました。
2006.08.06
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梅雨も明けて東北の短い夏も真っ盛り。仙台も今日(5日)が花火大会で明日から七夕祭り。昨日も駅前には、ガイドブック片手の観光客の方々がたくさん。家族連れ、若者、外国人の人たち。そうそう、仙台に来てくれているのです。こんな時に気になること。以前も報道されたが、酔客から預かったキャッシュカードで数十万円を勝手に引き出していた飲食店の経営者が、この手口で別の客からもボッタクっていたという(06年8月4日河北新報朝刊記事)。歓楽街の安全は、観光・交流都市としての一つの生命線だ。私ら普段仙台にいる者は、安い居酒屋で一杯、となるけれど、外から大都市仙台に来た人なら、この機会に少々楽しんで行こう、となるかも。とすれば、せっかくの仙台で嫌な思いをして欲しくないから、地元の我々としても健全な国分町であって欲しい。そういう店に縁遠い私のような者としても、都市イメージや経済効果という点で、見過ごせない問題だ。店のぼったくり問題もだが、路上犯罪、ピンクチラシ、交通渋滞など、総合的に安全安心な国分町であって欲しい。仙台市では「安全安心街づくり条例」に基づいく重点推進地区として国分町地区クリーンアップ作戦などの環境美化に取り組んでいます。また、宮城県警の繁華街・歓楽街総合対策のHPによると、健全で魅力あふれる繁華街・歓楽街の再生のため、全国12の都道府県が指定を受けて対策に取り組んでいる。摘発の状況も公表されており、本件のD店もちゃんと出ている。ところで、今回の事件、窃盗罪で再逮捕との報道。窃盗なのかな。一瞬アレっと思う。カネを引き出した時点では、カネが経営者(犯人)の占有に入っていたとは言えないから、横領の前提を欠く。そして、誰かを欺罔してはいないから(相手は現金自動預払機)、詐欺も成立しない。結局、他人の財物たるカネを窃取したとみて窃盗ということになるのだろう。そして厳密に言えば、客からカードを預かった時点も問題となる。この時点では財物(カード)を窃取したとは言えず、窃盗は成立しない。(もし窃取していれば、カードとカネと2時点で2つの犯罪が成立し併合罪となるはず。)しかし、後に不正に引き出す意図でカードを預かっているから、この時点でカネの窃盗の実行の着手とみることはできないか。かりに引き出しに至らなかった場合に窃盗未遂で逮捕できるかどうかの問題である。この経営者の場合、こんなケースもありそうだ。すぐに客からカード返還を求められた、とか。多分、理論上主観主義を徹底しない限り実行の着手を認めるのは無理なのだろう。現実にも立証が難しい。単に預かっただけ、と弁明されるから。
2006.08.05
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本職はおだずまジャーナル編集長、副業としてサラリーマンの私だが(その逆デス)、たまに無料の求人情報誌を電車の中で眺める。どんな業界や企業が進出しているのか、待遇はどうだろう、など最新の経済情勢がわかる(気になる)ので、楽しい。同じ意味で賃貸住宅情報誌もよく眺める。オジサンがいい年して転職考えているんだな、と周りに思われるだろうが、それならば、とかえって真剣に読んで見せたり、している。私の年だと「35歳以上」マークに着目しなければならないが、それでも結構仕事はあるものだ。45歳まで、というのが結構多い。50歳までというのも少なくない。食品関係やラーメン屋さんなどだと、あの店本当にそんなに売れてるの? と思ったりもする。さて、昨日電車の中で読んだ中で、一番印象に残ったのが、柴田町のヤマザキパンの短期アルバイト。1週間の期間で時給700円から870円。4万円くらいになりそうだ。パン工場で仕事してみたいと、素朴に思う。小さい頃、パン工場見学でもらった小さいアンパンのおいしかったこと。ちなみに年齢要件もクリアしています。
2006.08.04
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私は大いに憤慨している。市の姿勢に対してだ。責任ある姿勢とはとても思えない。ふじみ野市長のことばが市のHPにあるが、読むとなおさら腹が立つ。これがこの市長の意識なのか。とても市民の安全を預かる者の言葉ではない。新聞によれば、合併で市職員の点検の日数が減った、とか、管理委託会社が市に無断で再委託していたとか、さまざま問題があったようだが、何も複雑な問題ではない。明らかに、防げた事故であり、起こるべきでない事故を起こしたのだ。直前に誰かがはずれた吸水口のフタをもってきた際の、監視員や会社の対応に問題がある、再委託の届け出が無かったから遺憾だ、これから調査する、などと市では言っているようだ。それはそれで、重要なことだが、問題の本質とはかけ離れている。委託先会社のテイタラクが事実だとしても、それに転嫁してはいけない。単純なことだ。ボルトがはずれて針金で固定していたのを、事故が起きるまでそのままにしていた。県警によると、このプールの他の2カ所の吸水口もボルトがはずれて針金で代用していた。しかも、7月15日の今夏のプール開業時点から備えられていなかった可能性があるという。いままで、吸水口の状況を目で見た人は、何百人もいただろう。再委託先のアルバイト学生だって見ていないはずがない。利用者からの訴えもあったはずだ。特に7月15日から針金で止めていたのならば、なおさらだ。断言するが、市の職員がいままで全く知らなかったはずはない。絶対にない。間違いなく、誰かが、見たり聞いたりしているはずだ。開業時に自分の(市営の)プール施設がボルト固定されていたかどうか、確かめるのが当たり前のことだ。見ているはずだ。かりに見ていなければ、それこそ重大問題だが、絶対に目にしているはずだ。そうでなくても、委託先任せで一度もプールに来ていないはずはない。また市職員が私的にプールで泳ぐことだってあっただろう。そして、担当課の担当者には伝えられていたが黙殺された、のか、あるいは伝えすらしなかったのか、のどちらかだ。危険なものは危険だ。誰でも分かる。特に、プール事故は昔から頻発しており、例えば学校プールの排水口での痛ましい死亡事故が毎年のように繰り返されてきた。かりに生徒の無理な行動に主因があるとしても、設備上当然あるべき安全性が備わっていれば防げたことを直視しなければならない。事故の都度、当局から全学校に通達が回るが、受け流しているのだ。つまりは意識の問題だ。校長や先生には設備の安全性について知識がないから、などと本音も聞くが、そんな言い訳は生徒に通用しない。そもそも、蓋がボルトで固定されているか、なら、校長だって見ればわかることだろう。危険なものを危険だと、なぜ感知できないのか。良識、常識、いやそれ以下の当たり前のことだ。委託した会社がどうだとか、点検の日数がどうだとか... 馬鹿も休み休み言え。市民の命の犠牲の重みの前に、市はまずもって自らのだらしなさを恥じなければならない。
2006.08.03
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太平洋戦争で米軍は6大都市の空襲の後に、中小都市を標的として、仙台市と、海軍防備隊基地の女川町を攻撃した。○仙台 昭和20年3月10日、7月3日、7月10日にB29空襲。特に7月10日の大空襲は午前0時3分から約2時間半にわたり、市内中心部や川内地区が火の海。死者1,066人、負傷者1,689人、被害家屋11,933戸、罹災者57,321人(当時仙台市人口26万人)。 第二師団、仙台駅、青葉城大手門、瑞宝殿などを失う。 宮城県全体では死者1,170人、負傷者2,018人、建物12,821戸と言われている。以下に仙台市以外の概況。○亘理町 8月10日午前9時頃に、亘理駅発仙台行き列車が吹田付近でグラマンの機銃攻撃を受け、死者6人、負傷者多数。○名取市 7月9日、10日の仙台空襲で、高舘に焼夷弾が落とされ、熊野堂や川上部落で68戸が被害。○岩沼市 6月から飛行部隊104部隊が駐在した矢ノ目飛行場(仙台空港)に空襲。7月11日午前11時に、空襲による火事で玉浦・千貫地区の11戸全焼。8月10日に岩沼駅が空襲受ける。○塩釜市 昭和19年12月29日空襲、死者1名、負傷者13名、462戸(2,142名)被害。○古川市(現大崎市) 8月10日田尻方面から数機が台町に爆弾を投下。死者7名、負傷者8名。○小牛田町(現美里町) 8月9,10日の2度、グラマン十数機が小牛田駅の鉄道施設や野田橋を攻撃し、死傷者。○矢本町(現東松島市) 8月8,9日、金華山沖の米軍空母艦載機が矢本飛行場(松島航空隊)を攻撃。○石巻市 8月10日、海軍の造船所(中瀬)に艦載機が船を狙って攻撃。電話局や小学校も被害。死者数名。○女川町 8月9日早朝から10日にかけて、グラマン編隊が海軍防備隊基地である女川港から町中心部までを、機銃掃射。町民は防空壕で過ごす。乗組員など200名が死亡。日本軍が駐屯した江ノ島も攻撃され、死者19人、負傷者16人。○気仙沼市 8月8,9日の昼夜、グラマン編隊が亀山スレスレに飛行し、梶が浦、浪板、内の脇方面に爆弾投下、機銃掃射。鹿折地区で死者18名。参考:宮城県図書館協会編著『郷土みやぎの姿』1985年、宝文堂出版販売■関連する過去の日記 藤井前市長の話(06年7月13日)
2006.08.02
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鎌倉幕府を開いた頼朝は平泉藤原氏攻めに参加した武士に、土地を与えた。これが関東御家人の東北移住である。移住といっても、それぞれ関東に所領を持つから、実際には鎌倉時代の中頃、頼朝が土地を与えてから3代から4代を過ぎた鎌倉武士の子息や一族の人が移り住んで土着した。例示すると、熊谷氏(現在の気仙沼)、葛西氏(石巻)、千葉氏、畠山氏、伊沢氏、長江氏(桃生)、白石氏(白石)、秋保氏、宮城氏、国分氏、結城氏、島津氏、武石氏(亘理)、留守氏、などである。なお常陸国真壁郡(茨城県)中村の豪族だった伊達氏(伊佐氏あるいは中村氏を名乗っていた)も藤原征伐の功績で福島県北に土地を得て、伊達を称するようになる(初代伊達朝宗)。時代が下って戦国時代には、県北部では大崎氏、石巻では葛西氏、仙台平野では国分氏、留守氏、八幡氏、などが有力となる。16世紀中頃の宮城県の勢力地図は、北に大崎、東に葛西、中央に留守と国分、という豪族が有力であった。これら豪族から戦国大名として生き残りをかけた淘汰がなされることとなる。伊達氏は福島県北から徐々に宮城県や山形県に勢力を広げてきて、本格的に現在の宮城県全体に版図を広げたのは政宗の時代である。16世紀中頃の他の豪族としては、大崎氏勢力下が、高泉氏、高城氏、百々氏。葛西氏勢力下が、熊谷氏、山内首藤氏。伊達の勢力下に入る県南部では、留守氏、大河戸氏、八幡氏、国分氏、秋保氏、白石氏、亘理氏。伊達氏勢力圏と大崎氏・葛西氏の勢力の境界に位置するのが、黒川氏、長江氏。これらの苗字のいずれかならば、宮城県では由緒ある名前ということになろうか。私はどれにも該当しない。参考:宮城県図書館協会編著『郷土みやぎの姿』1985年、宝文堂出版販売■関連する過去の日記 ○苗字と名字の違い(06年5月22日)
2006.08.01
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