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また朝のNHKラジオの東北「町から村から」の話題なのですが、昨日(30日)は、鶴岡の致道博物館学芸員の酒井賀世(かよ)さんが話しておられた。桜の開花予想は4月15日、隣接する鶴岡公園など市内は桜が多く見事。また、松ヶ岡の水芭蕉も美しい、などの話でした。鶴岡といえば、昨秋の初訪問で藩校致道館などを訪れ、伝統を大事にする当地の気風に感嘆した思い出があります。大変良い旅でした。花を見に、また行くのも良いですね。鶴岡の旅を思い出すと、口の悪い私は、どうしても仙台の「伝統文化」論議と比較してしまいます。ヨソはよく見えるという部分もありますが、鶴岡の場合は、市民に根付いた「誇り」としての深さの度合い、また認識されている価値観にブレの少なさ、を感じる。藩校致道館を訪れたとき、入口の説明の方、市教委の先生でしょうが、鶴岡では4年生になるとここで授業をするとか、朝暘学校は当時は東北一の建物だったとか、いろいろ誇らしげ?に、訪問者の私に話してくれたのが印象的でした。市民の誇りなのでしょう。大変素晴らしい事です。 ひるがえって、わが仙台は、伊達文化を顕彰する気風は強くありますが、一部の層だけで浮き上がっている面もあるように感じるし、何が伝統文化かについても確固たるブレのない認識があると言えるだろうか。仙台城も若林城も姿がなくされたことも、一因か。(現代の市民にまで誇りと認識される確固たるものナシ、そのような状況こそが仙台だとの見解もアリ)。なお、最近、仙台でも伝統文化を声高に言い始めた市長がいますけど。 この辺、編集長のいつもの「仙台文化」批判論のようにも聞こえますが、仙台を愛する故ですので。一応言い訳。写真は鶴岡のカトリック教会。よく晴れた秋空でした。■致道博物館のサイト(今日の話題に関して「花だより」のコーナーが充実しています)■編集長一家の昨秋の庄内旅行に関する過去の記事です ○11月4日の日記(2005年11月4日) ○鶴岡を訪れて考える(2005年11月5日) ○鶴岡市の南岳寺について(2005年11月6日) ○鶴岡でのちぎり絵体験(2005年11月6日) ○鶴岡のちぎり絵体験・続(2005年11月6日) ○鶴岡からちぎり絵をいただく(06年1月12日)
2006.03.31
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朝のNHKラジオを車中で聞きますが、7時40分からの東北のコーナーが結構おもしろいです。各県の人が地元の話題を提供してくれる。特に、秋田の自然保護関係の方の、野鳥や森林の話は、自然を愛する気持ちにあふれる心温まる話しぶりが良い。また、大間で床屋をしている元気なお母さんの話も大変いい。昨日(29日)の朝は、その大間の床屋さん。これが正調の下北弁なのでしょうか、話しぶりも明快。いつもコレを聞くと、下北半島の先にいつか行ってみたい、と思うのです。海や祭りの雰囲気はどんなんだろか。勝手に光景をイメージして、もう芭蕉の気分。私、下北半島は全く未踏の地です。青森県の東半分は、はるか昔小学校時代に東北本線で青森まで行ったことがある、つまり八戸・三沢・野辺地を通過しただけ。ちなみに、三陸海岸沿いも宮古から北は未踏です。上の子が1歳の時、遠野経由で宮古に一泊しました。岩手県もずいぶん北まで来たような気になるが、まだ半分程度なのですね。そこで、構想中ですが、今度の夏に次のようなルートで旅してみたいです。 ○ 盛岡から4号線を北上、金田一温泉(座敷ワラシ) ○ 新郷村(キリストの墓、ピラミッド) ○ 八戸市内周遊(ここで泊?) ○ 小川原湖(寺山修司) ○ 海岸線沿いに北上して、六ヶ所、東通、むつ市、尻屋崎 ○ 恐山、大間(泊) ○ 仏ヶ浦、脇野沢(サル) ○ 海岸沿いに、野辺地まで戻る。 ○ 青森から東北道で仙台に戻る。題してミステリーの旅。ワクワクします。妻には大反対されそうですが、もう少し具体的なツアープランを考えてみます。
2006.03.30
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今「楽天イーグルスTV」を見ています。すごく便利。実は、TV応援していたのですが、内容もボロボロ、客席もまばら、何か辛くなってきて電源オフにして、今度はPCでブログ管理画面を開きました。例によって変なTBを消す作業をして、やっぱり気になって「楽天イーグルスTV」とTBCラジオ双方で、結局応援しています。山村良かったのに、守備がイマイチ、打線もつながりがね。そろそろ勝利の実績がないと。雪の夜空を吹き飛ばす熱いガッツを見せてくれ。さあ、9回裏、佐竹頼むぞ。(応援に集中します!)
2006.03.29
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先日ある資料を見て知ったのだが、仙台藩出身の学者で、刑律の体系的研究で先駆的成果をあげた人がいる。芦東山(あしとうざん、1696~1776)。元禄年間に、現在の岩手県一関市(合併前の大東町)の渋民の肝入の家に生まれ、やがて仙台藩の儒学者田辺希賢の門下生。農民出身としては異例の藩生(藩が学資を給付)となる。京都や長崎に遊学した後、綱村の御前講義も務める。26歳で江戸に出て室鳩巣の門下となり、鳩巣の志を継いで、中国古来からの諸家の刑律の研究に打ち込んだ。東山の名声は高まったが、学問所では身分の隔てがないという東山の主張が問題とされ、藩要職の怒りを買った。具体的には、「藩校の席順は親の家柄ではなく年齢によるべき」、「藩の上役臨席の際に講師が下座に回る規則は改めるべき」など、の進言をしたそうだ。これにより、43歳の時に加美郡宮崎村に幽閉されてしまいます。しかし24年の幽閉生活の間、東山は研究に心血を注ぎ、独自の見解を加えて、全18巻からなる「無刑録」を書き上げた。赦免され故郷渋民に帰った時には既に66歳。その後も亡くなる81歳まで東北各地を歩き、学問を教え続けた。ところで維新政府は、近代的な刑法典の編纂を急ぐこととなり、日本の大宝律と唐・明・清の律を基本に、公事方御定書など旧幕刑法をも参照して、法典整備を進めた(明治6年改訂律例)。その後西欧法制導入の機運が高まり、客観主義、応報刑思想に依拠するフランス流のボアソナード刑法草案が明治15年に施行。なお、その後に、共和制フランスではなく立憲君主制国家に範を求めるべきとされ、ドイツ刑法典をモデルとする現行刑法が明治40年に公布。同時に、当時隆盛したリスト新派刑法理論が直輸入され、日本の刑法解釈に大きな影響を及ぼすこととなった(牧野英一など)。(この部分、前田雅英『刑法総論講義第3版』p16-を参考)この政府の刑法典整備の初期段階で、宮城上等裁判所判事の県信緝が「無刑録」を知りその内容に驚嘆、これを水本成美に知らせ、さらに陸奥宗光らの尽力もあり、明治10年(1877年)に元老院が公刊。東山は儒教的な性善説、寛刑主義に基づいて、教育刑論を結論づけているという。刑法の学派論争は欧州で19世紀末から始まるが(新派刑法学の登場)、すでに独自に理論を確立していた東山の卓見には驚く。なお、改訂律例の編纂者の1人でもあった岡千仭は旧仙台藩士だが、東山の孫娘の子なのだという。(以上は、佐々久編「郷土史事典宮城」、昌平社出版、1977年 などから)■一関市HPから■岩手日報記事(2005年9月8日)芦東山の「無刑録」現代語訳が完成昭和57年には地元で顕彰の機運が起こり、芦東山先生記念館ができたという。すばらしいと思うのは、東山が宝暦5年(1755年)に完成した著作が、実に122年を経て評価され、近年にいたってなお現代語訳の動きがあるなど、今に生きていること。学者としてこれ以上の冥利はないだろう。しっかりしたものは、長く評価されるのだ。題名の「無刑録」とは、「刑ハ刑無キニ期ス」、現代の刑法理論でいう教育刑の思想なのだという。維新による西欧文明の輸入で、藩政時代は過去のものというステレオタイプの認識を植え付けられてきた私たち。著作が歴史を通じて評価され今に息づいている(歴史の激動があってこそ不動の業績が評価された、とも)、芦東山の偉業は、大いに再認識すべきでないだろうか。仙台藩の大きな文化遺産だ。
2006.03.29
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いよいよ本日。昨日の荒川さんの凱旋の余韻の残る仙台で、楽天イーグルスのホーム開幕戦です。さあ、盛り上がってきた!!思えば去年の4月1日は、礒部の先頭打者ホームランと岩隈の快投で、見事勝利。寒い春のナイターでしたが、仙台は異常に盛り上がりました。私は国分町の中華料理屋でテレビ見ていました。今季開幕2連戦は、日本ハム相手に負けはしたものの、結構試合の形は作ってきた。そして、ホーム開幕は特別な意味がある。よし、今日からだ。新装なったスタジアムと、東北のファンの待つ仙台で、華麗なスタートを待っているぞ。(写真は今朝の河北新報の1面。朝5時過ぎに外光で撮影したので、やっぱりチョイと暗いです。)
2006.03.28
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予告どおり青葉区役所の9階からカメラで撮りました。図上演習の成果により東二番丁がバッチリ先まで見えます。空には取材ヘリが4機ほど舞っています。沿道や勾当台公園にはどんどん人が集まってきます。所定のスタート時間の12時30分を数分すぎた頃から、先導のパトカーの赤色回転灯や、その直後でパレードの先頭だろうか黄色い旗を振る人が、何とか望遠できる。パレードは歩くようにゆっくり進み、広瀬通を過ぎ、中央署跡地から三越前まで来た頃には、荒川さんがオープンカー上にいるのが何とか認められる。定禅寺通りを越えて勾当台公園の広場に回り込む頃では、黒いスーツに赤いベルトの金メダルを下げて、にこやかに(多分)手を振る姿がわかった(写真)。望遠したものをトリミングしているので、粗い画像ですが。ということで、仙台・宮城の歴史に残るパレードでした。東北放送ラジオでは、7万人の人出、とのことです。■河北新報記事(3月27日ウェブ版) ○女王凱旋「金」輝く 荒川選手、仙台でパレード(13:43) ○静香スマイル満開 古里にメダル披露 仙台凱旋(14:29) ○荒川選手、感動ありがとう 興奮、歓声に包まれて(14:30)
2006.03.27
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何日か前に新聞で見たのだが、社民党宮城連合が頑張っているな、と思った。佐高信さんを塾頭にして政治塾を開催、4月から11月まで8回の連続講義。そのうち公開講座は随時参加も可能(1回2千円)というもの。公開講座は、初回と最終回の佐高さん、第5回の福島瑞穂党首。他の回は、地元の学識者の方々で、年間受講料1万円で塾生になることが必要とのこと。■「佐高信」政治塾(社民党宮城県連合のHPに出ている。なお、これを見て、佐高さんが酒田市の出身と知りました。)うたい文句には、無理心中解散を断行した小泉ヒトラーと対決するとき、などと威勢が良いが、政党が関与しているから(形式上は運営委員会主催になっているけど)そうなのだろう。ただ、私は佐高さんの肉声も一度聞いてみたいとの興味を持った。初回講演のテーマは「『歴史と人間』をどう読むか 司馬遼太郎と藤沢周平」。でも、思い直した。たしかに良い機会だが、おそらく内容的には著作を読んで知る以上のことが講演で得られるとは思えないし、実物を是非見たいほど氏に心酔している訳でも全然ない。「頑固に平和」の純朴な社民党ファンの雰囲気の中にポツネンと座っている自分も、やっぱり何か珍奇だし。最近仙台での講演モノで関心を持ったのでは、他にZ会の野口悠紀雄さんの講演がイベントホール松栄で。あ、これは昨日26日(日)だから、もう終わっていますね。(昔東京で研究会に来て頂いたことがあります。「超」整理法で超有名になる前ですが。)ところで、社民党には、党勢を支える佐高さんのようなキーパーソンが何人かいる。私には、佐高さんに対しては、昨年の総選挙で返り咲いた保坂展人と重なるイメージを持っている(不勉強ですが)。保坂は憲法判例で超有名な麹町中事件の当事者だ。その彼が今では教育に関する本まで書いているという。ちなみに保坂氏も仙台生まれだそうだ。これらのシャープで自意識の固まりのような論客を活用して、社民党宮城県連も何とか盛り返そうと努力しているのだ。高校くらいの頃の私は、全国的には社会党はまだ知識人の拠り所だと思っていた。現にそうだったろう。大都市地域では学者出身の首長が多かった。市民運動の政治チャネルの役割も果たした。そして、自分も若さゆえの反体制ムードに染まっているから、河野洋平の新自由クラブや社会民主連合(江田三郎も離党していなければ社会党も変わっていただろうに。)に注目していた。大学では学生運動の残党たちには全く共感を持たなかったが、それでも成人して自民に投票するのはためらわれた。単純に言えば、若かった。客観的に見て東北各地の地域レベルで見た場合、知識人のアフェクションや冷戦対立などは直接関係がないと思うが、それでも、当時の社会党は、教員や官公の組合、それに政治家個人の魅力などで、一定程度の裾野を確保していた。小川仁一さんが、岩手の参院補選で当選し「ミスター(反)売上税」と言われたのを思い出す。今のような「政策本位」(マニフェストなどと耳障りだけで、本当に政策本位か疑問だけれど)ではないにしても、有権者は冷静に判断するから、政府の施政に反対なら自民党員でも自民党に投票しない。そこに、社民党も確固たる地盤をもち実力ある候補者もいるから、票は流れた。今はどうだろう。社民党は三宅坂の会館だけは伝統を受け継いだが、縮小純化し、反体制票の流動先の地位も民主党に明け渡した。私自身、社民党の党としての憲法に対する考えについては理解できないし、教育や環境問題にしても、理念や手法論がどうしても出てしまい(拭えない体質なのだろう)、よくわからない。ただ、それでも、地域では根強い支持があるようにも思える。宮城県では、県議会に6議席、仙台市議会にも6議席を持つ。県議会の民主会派が7人であることと対比。余計な憶測だが、地域の声を真摯に聞こうとする社民党議員にとって、中央レベルの理念や手法論はどう映るのだろうか。とにかく、混乱してくれるな、シャープな著名人もいいけど、福島さんのイメージ戦略もいいけど、地元の今の課題である雇用と生活をどう守っていくのか。党自体の将来と政策の混乱に不安を持ちながらも、うすれゆく自らの組織と地盤を必死に保ち、日々生活者の声を聞こうと努めているのではないか。何か、そんな政治家像が浮かんでくる。そう言えば、ベテラン議員が多い。自民に若手が多く生まれたのと好対照だ。最後に、東北の他県の社民党議席をみてみよう。(社民党各県連合のHP等から。推薦含む。数は不正確かも知れない。) ○宮城(定数60)県6 なお仙台市6 ○青森(50) 県3 ○岩手(47) 県3 なお盛岡市4 ○秋田(46) 県4 ○福島(56) 県3 なお福島市4 郡山市4 ○山形(46) 県「山形21世紀の会」会派14人のうち3人くらい?やっぱり宮城は社民党が根強いと言えるかも。民主王国と言われながら総選挙では惨敗したこととの関係は、どうだろうか。
2006.03.27
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昨日25日(土)は加美町に行った。合併前の宮崎町。写真は、加美石地区の道路から、右に薬莱(やくらい)山、左に遠く雪の船形山を望む。旧宮崎町は7年くらい前から結構頻繁に行っている。旧役場のある町場を通り抜けて、日帰り温泉の「ゆ~らんど」に家族で行くことが多いから。真夏のイベントにも行った。ここ2年くらいは行っていないが。旧宮崎町は、現在の主要道路網からはちょっと離れているので、いわば、「その地のために行かねば通らない」場所になっている。南隣の旧小野田町は国道347号(鍋越越え)で山形県に抜けることと比較しても、そうだ。でも、かつては、羽前街道のルートのいくつかがこの地にもあり、寒風沢の番所なども残る。実は、「ゆ~らんど」の先にもいつか行ってみたいと思っているのだが、まだ果たしていない。そのことが逆に、とっておいた楽しみでもある。昨日は、旧宮崎町でも、そのような奥まったところではなく、中新田寄りで、鳴子に通り抜ける地でもある加美石地区。なだらかな山懐にいだかれた静かな良いところだ。センターラインもなく、拡幅されていない昔ながらの道を進み、小学校の角を曲がって、田んぼの中を山裾に向かう。昨日は下の娘の保育所退所(卒業)式。我が子の晴れ姿を見ようと思っていたが、それは妻に任せて、私は仕事の関係の知人の葬儀に当地を訪れたのだ。一回りほど先輩だが、つい先週の金曜日まで普段通り雑談をしていたのに。まだ53歳。奥様を数年前にガンでなくされ、何よりも大事な大学生と高校生のご令嬢2人を残しての急逝は、さぞかし無念だったろう。春の穏やかな陽気の中、寺を後にした私は、亡くなった大先輩の明るい笑い声を心に聞きながら、先輩が見てきた風景、今日もどこかから見ているはずの風景をじっと見つめた。船形山も、薬莱も、美しかった。早すぎましたね。ご家族を必ずや見守ってください。
2006.03.26
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先週のことです。下の子の保育所預けも今月いっぱいと思いながら、いつものように登所すると、いつも朝早く来るS君が、「コレ、○○ちゃん(我が娘)ちのだよ」と指さす先には、見慣れたレッサーパンダが、ホールに置かれた小さなテーブルの脚に両腕を回して(マグネットでくっつく)、つかまっている。あっ、これ確かにウチのオモチャだったけれど、火曜日の燃えるゴミの日に捨てていたはず。何でここにあるの?我が家では、今まで1階で4人寝ていましたが、娘2人を2階の別部屋に寝せるために、2階を整理する一環で、幼児時代のオモチャを整理した。その前の土曜日のこと。ただ単に捨てるのも寂しいので、ゴミ袋に詰め込む前に、並べて写真を撮っておく。これは、以前に何かで読んだ知恵。私は、モノを捨てられない性分だが(妻は逆のよう)、写真を撮っておくと、幾分か気持ちが整理できる。ゴミ袋2つに詰めて、翌週の該当日にゴミに出す段取りが完了。私としては、当然清掃車に乗ってサヨウナラしたはず、と思っていた。 ...が、さにあらずだった。後で家人に「事情聴取」したところ、以下のような真相が判明。祖母(妻の母)が家に来た際にゴミ袋を見つけて、何だもったいないと、汚れの少ない人形など何点か選りすぐって取っておいたらしい。そして、一部は家に残し、その他は、どういう訳か、生協の宅配の人に「もらってくれませんか」と持ちかけ、生協の人快く(?)受け取る。そして、生協の人が我が家の次に、保育士さんが共同購入でもしているのだろうか、保育所に訪問した際に、その人形たちをプレゼントした、のだそうだ。保育士さんは、ありがた迷惑だったかとは思うが、これまた快く(?)受け取ってくれ、晴れて保育所で子供たちのオモチャになっている、ということのようだ。S君が我が家の人形だと知っていることから考えれば、生協の人が、ソコの○○さん宅から受け取ったのだけど、と説明付きで保育所に渡し、保育士さんも、みんな~、コレ○○ちゃんの家の人形よ~、てな感じで子供たちに話したのだろう。そういえば、先週もちょっと変に思ったことがあった。捨てたはずの小さいキティちゃん一家の面々が、家に居たから。これは私の祖父が生前中、上の娘が2歳くらいの頃に買ってくれたもの。こうやって、縁あって?家に残っている姿を見ると、やっぱり捨てられるよりは良いか、と多少安心はする。22日(水)の朝には、E君が寄ってきて「○○ちゃんのお父さん、この猫ね、こうすると気持ちいいんだよ」と、顔にすり寄せて自慢げ。その持っている猫のオモチャを見て、「オイ、E君、そいつはな...」と思わず言いたくなったが、そこはぐっとこらえて。これも例によってウチの出したモノ。この猫は、その昔20代の私が東京にいた頃もらったもので、生きながらえて現在の我が家にいたのだった。我が家の子供たちにも多少遊んではもらったが、状態は結構きれい。毛足が長くて、手触りがいい。23日(木)朝には、同じE君、今度は「この猫ね、名前ニャ~ニャ君だよ」。名前を付けてくれたようで。ハイ、どうもです。そして24日(金)の朝は、E君に猫の名前を尋ねてみたところ、ニャ~君?とか何とか、名前を変えたそうだ。いやはや、気に入ってくれて、どうも。...何でこうなるの。それに、いくつ保育所にお世話になって残っているのか。聞くに聞けない。25日(土)は退所式(卒園式)。ウチの子は卒業するが、人形たちはこれからも子供たちに遊んでもらえるなら、とりあえず良かった... と思うしかない。(画像は、家の庭に出るドア周囲の朝の光景。XPのデスクトップ背景にある「カントリーハウス」(赤むらさきの壁に青い窓枠)のイメージで撮影してみました。やっぱり、かなり違いますが。)
2006.03.25
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ついにその日が決まりました。新聞によると、3月27日午後零時半、東二番丁小前をスタート、市役所前の勾当台公園市民広場まで、東二番丁通の約1キロを、オープンカーで約30分かけて北進、引き続き、1時5分から1時40分まで、勾当台公園市民広場で、県民栄誉賞、仙台市賛辞の楯などの授与、荒川選手のあいさつなどの記念セレモニーを開催する。入場は自由、とのことです。■河北新報記事「フィギュア荒川選手が凱旋 27日仙台でパレード」(3月23日)■仙台市HPにも出ました「荒川静香選手「金メダルおめでとう」記念式」(3月23日)■利府町HPにも出ています「荒川静香選手が仙台にやってきます」待ちきれない私は、さっそく図上演習。道路脇で群衆に飲まれながら眺めるのも結構だが、パレードを鳥瞰できるポイントはあるだろうか。沿道で一番高いのは、第一生命タワービル。交差点にある朝日生命本町ビルも良さそう。広瀬通角、ホテル江陽隣の黄色いビルで、郵便局や本屋さんのあるビル。斜に構えているビルだけに手前が広く展望できそう。(なお、広瀬通をはさんで南側の1階が喫茶店のビルは、朝日生命仙台中央ビルと呼ぶらしい。)でも、意外なベストポイントは...二番丁通りは勾当台公園で(その名の通り)屈折するから、公園以南の二番丁を北に直線で延長した線上にある建物だと、ちょうど北進してくる荒川さんのパレードを正面から望遠することができそう。それは、仙台市役所北庁舎の屋上です。青葉区役所ではなく、市役所のすぐ北で環境局や教育委員会がある5階建ての白いビルです。実際に二番丁の電力ビルあたりから北方を望むと、二番丁のちょうど延長上に北庁舎がぽっかりと見えるのです。編集長はしっかり確認しました。昔の料亭「八百久米」さんの跡地に現在建設中の高層ビルがもし完成していれば、ここも絶好のポイントになったはず。などと、考えていたら、教科書ビルのオズワルドみたいなので(真相は如何に。そういえばダラスは仙台市の姉妹都市ですが)...やめます。当日は編集長、可能な限り、カメラ持参で写真を撮りたいと思います。もちろん、当おだずまジャーナルでご披露させていただきます。
2006.03.24
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衝撃的な事件だった。何者かが患者に筋弛緩剤を投与し、1人死亡など5人に重大な被害。01年1月逮捕された守大助被告はいったんは容疑を認めたが否認に転じ、公判でも一貫して無実を主張。一審仙台地裁は04年3月、無期懲役判決(殺人1件、殺人未遂4件を認定)。そして昨日(22日)の仙台高裁もこれを支持し控訴棄却。真相は裁判で解明するしかない。被告自身が無罪を主張することは、もちろん非難できないし、だからこそ裁判を充実したものにすべきだ。守被告は不規則発言によって退廷を命じられたという。問題なのは、弁護人の態度。訴訟指揮に反発し、7人のうち4人が退廷を命じられたとの報道。朝日新聞によると、「弁護側は冒頭、裁判長が弁護側の鑑定請求を却下し、怒った弁護側が自主退廷した後に結審が宣告された第4回公判での訴訟指揮に反発。「私たちは最終弁論をしていない。判決期日も聞いていない。なぜ判決を急ぐのか」と抗議した」とのこと。一体なんなんだろう。裁判長の訴訟指揮がどう問題なのか調べていないから論評できないかもしれないが、弁護側は判決期日前にいくらでも防御の機会はあったはず。注目の公判期日にあえて打ったパフォーマンスと言われても仕方ないのじゃないか。河北新報の23日朝刊は、事実審理の請求をことごとく退けた高裁の訴訟指揮は、訴訟の迅速を優先した形だが、被告側防御権の確保が課題だ、と解説している。(いつも感じるが、河北新報の裁判に関する報道は、各利益に対する配慮を示してバランス感覚が良く、かつ説明がわかりやすい。)弁護人としては、事実審理のチャンスも与えられない以上、こうでもするか、という行動だったのだろうか。刑事裁判は、真実の解明が最優先されるべきだ。弁護人と検察と裁判所と、3者が審理の充実に協力すべき。現に、被告が全面否認し真相究明が要求されたこの事件は、刑事訴訟法の学者からも、刑事訴訟のモデルとされ、1審も裁判所が精力的に審理をしてきた。私としては、昨日の弁護人の態度は、不可解、というより呆れてしまう。被害者への配慮がないという報道もあるが、それは期待してはいけない。被告人のための弁護なのだし、有罪を前提にして考えては行けない。無罪推定原則は、現段階では誤判を防ぐための社会の知恵だから、崩してはならない。(被害者側の心情として報道するのなら理解できるが。)しかし、訴訟の充実を、まさに被告のために努力すべき立場の弁護人が、この態度だ。勘ぐれば、判決理由朗読中の守被告の「ぼくはやっていない」発言も、弁護人が誘導したのではないか、とさえ思ってしまう。最高裁で高裁判決の不当を主張するという。まあそれはいいだろう。ただし、真相解明に対する弁護人の姿勢こそ大事なのに、と言いたい。そのことが疑問だ。
2006.03.23
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写真はJR東仙台駅構内のすぐ西側(仙台駅方向)の踏切です。「案内踏切」との表示があります。県道仙台松島線(利府街道)の東仙台中学校の南側あたりに、県道と並行する旧道(と思われる)があり(東仙台二丁目)、これと古宿町を結びます。東北本線のもう1つ仙台寄りには、松岡街道踏切があり、これは、旧中嶋病院から中原住宅脇を経由して国道45号苦竹交番(中原入口)に至る道路で、案内踏切は松岡街道ほどには交通量はないようです。 注目したいのは、由緒ある名前「案内」が付いていること。 昔の塩竈街道は原町から岩切(今市橋)に通じていましたが、現在の東仙台小・中学校周辺の丘陵地を、「案内」と呼んでいたそうようです。 「案内」の名の由来。善応寺の古い絵図によれば、旧小田原村と岩切村の村境に案内御控所と記してある。政宗が岩切城(高森城)を攻めようとした時この地の百姓が道案内をつとめて戦いを有利に導いたのでこの地を案内と呼ぶようになったという。 またこの付近を今も御立場(おたつば)といっているのは、伊達家家法として藩主が国元にいる年は正月3日の早朝、上は一門から下は大番組に至るまで城から岩切へ行列をくり出し、藩主は案内の高台の本陣で御野初めの儀を行うが、その時標幟を立てたのが、この「案内」の「追標幟場」、転じて「おつたば」となったという。 江戸時代に編纂された「奥州仙台名所尽(づくし)集」は、絵と文章で当時の名所がつづられた、おもしろい文献です。この中「案内」の部分が画像のとおりです。 さらに、「奥州名所図会」巻之二には、「案内より七・八丁坂を登りて茶店多く、行く人しばらく杖をやすめ、一杯の甘酒に渇をうるほし、松が浦島の遠望には辻籠のホトトギス、しばしば馬子の昼寝の夢をやぶる...」とあります。案内から、「比丘尼坂」(比久尼坂とも)、今の市営バス東仙台営業所や燕沢小学校のあたりを上る道路でしょうが、この坂をのぼると、茶屋などの休憩どころがあった、ということです。坂の名は、その昔、平将門の妹がここで尼となり茶屋を開いたという伝えによります。政宗の植えた松並木が美しかったそうです。 大正初期に新道ができて(国道4号バイパス山崎交差点を通る現在の利府街道でしょう)、旧道は住民の生活道路になったということです。 塩釜街道の名物と言えば、その比丘尼坂の甘酒、今市(岩切)の「おこし」と、そして「案内」の湯豆腐だったそうです。湯豆腐屋は、今の東仙台二丁目交差点(東仙台中学校付近)のあたりで、大蓮寺の下の旧宅だったそうです。住宅地図で見ると、利府街道(新道)に面した歩道(新道の西側)が三日月湖のようにふくらんでいるのが、旧道のルートの名残りなのでしょう。 話がそれますが、冒頭に書いたように、案内踏切から上ってきたところにも旧道らしきものが残り、また燕沢郵便局やセブンイレブン付近にもありますね。昔は案内の丘陵を曲折しながら徒歩や馬で越えたのでしょうが、今は自動車に合わせてなるべく直線に道路改良した、そのあとでしょう。 そんな「案内」ですが、手許にある、『21世紀版みやぎ地図百科』(平成13年、河北新報社)の巻末の、昭和44年仙台市街図には、東仙台小学校、今の東仙台5丁目のあたりに「案内」と堂々表示されています。なお、旧村単位でいうと、案内は燕沢村(明治22年の合併では岩切、鶴ヶ谷、燕沢、小鶴の4カ村で岩切村となる。)に属したようで、小田原村(明治の合併では、南ノ目・苦竹・小田原の3ケ村で原ノ町となる。)が現在の宮城野図書館やNHK原町ラジオ塔付近まで、だったようで、それ以東が「案内」と呼ばれたようです。(明治時代の地図を確認できればいいのですが、未確認。) それにしても、踏切名にちゃんと残っていたとは、意外ですね。 「案内」の名が残るもの、住宅地図で、もう2つ探しました。 まず、「案内公園」です。バス停にも「案内公園前」と。旧中嶋病院の変則交差点からちょっと上に(東仙台小学校方向)ある三角公園です。(私の持っている昭和50年代の地図ではバス停名も単に「案内」です。) 実は、私は根拠もなく「あない」と読むのだろうと思っていたのですが、市営バスに乗ってみたら、次は「あんないこうえんまえ」と、音声テープが流れました。(先日、夜の東仙台営業所行きバスに乗りました。公式な読み方を知るにはこれしかないと思ったもので...) もう1つ。「旅館案内荘」(案内温泉)。利府街道を、焼き肉ひょうたん亭の交差点からちょっと鶴ヶ谷方面に入って、燕沢住宅の反対側、東仙台幼稚園の脇からさらに入ります。同幼稚園の創始者で東仙台の発展に尽力した菅野喜八郎氏が開削したもので、昭和初期には大変にぎわった、とか。■参考 仙台市中央市民センターHPの「地域情報」から「燕沢・小鶴」(このサイト結構勉強になります)■以前の記事です。 ○仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) ○仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2006.03.22
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家の庭に春が来ました。黄色い小鳥クン、野鳥は詳しくなくて恥ずかしいですが、とりあえずセキレイみたいな感じ。今日の朝の画像です。デジカメで家の中から、最大限のズームで撮りました。仙台は昨日から強風ですが、風の中よくぞやって来てくれた。夕方には、自家製の巣箱を1つ竹にくくりつけて庭に立てました。小鳥が寄りつけば居間からも見えるような場所に。以前から考えていたことで、上の子の夏休みの宿題の際に、巣箱を2つ作っておいたのです。実は今日、私にとって大きな転機の日。娘たちが子どもの寝室で初めて寝ています。ベッドは買っていたのですが、子どもたちの誕生日(2人とも3月下旬です)になったら、親とは別に寝る、と約束していたのです。子どもたち、9時に行きましたが、物音がないので寝付いたのでしょう。意外とアッサリ。父親の9年間の1つの役割が、いま、ガラガラ音を立てて崩れています。ウ~ン...涙。この時間帯に手持ち無沙汰なのは、私としては極めて不自然。それで、PCに向かってしまいました。それで、朝撮った小鳥クンに登場してもらいました、という訳で、ハイ。さて、これからPCをオフにして、IT社会と隔絶、ラジオでもつけて読書します。久々の夜の自由時間で、まだ変な感じ。慣れないな。
2006.03.21
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いつの間にかアクセス数1万件に達していました。地味な内容なのに、訪問いただく方には本当に感謝です。このブログ、昨年8月末に初めて半年余り。アクセス数は気にしませんが、1ヶ月も続かないだろうと思って始めた自分にとって、大事な節目となりました。この節目を機に、私事でつまらないことですが、このブログ自体のことを開始のキッカケに立ち返りながら記します。昨年8月、暑い夏。十何年ぶりで、出身高校のクラブの同窓会に参加しました。昔の先輩後輩同輩仲間で、皆いい年になっています。近い先輩で同窓生同士結婚した(共学校ですよ)先輩たちの娘さんも現役に入部したと聞いて年の経過を実感。楽しく夜遅くまで飲み、10年ぶり以上に会う東京の大先輩の実家に泊めてもらい、朝6時の電車でフラフラと仙台に出勤となりました。こんなに楽しいことはないです。楽しいついでに感じたことですが、今の自分は、あの頃の自分が年を経た存在。物理的には同じ人間。当たり前で、誰でもそうです。その間20年以上、いろいろありますが、一応社会人として職を得て給料もらって生きてきました。そのことを振り返るとか、反省するとか、ほめるとか、後悔するとか、そのような深刻な話では全然ないのですが、自分は何をしようとしていたのだろうか、という1点が、通奏低音のように気になっていたのです。私、地域のことを考えたり、地図を眺めたりしているのが、好きです。世界の各地もそうですが、やっぱり自分の地域が一番関心がある。それなのに、実はよくわかっていないことや、あやふやに覚えていることなど、たくさんあります。また、勝手に自分の意見を言うことが多いが、冷静に理由を整理しなければならないと自覚することもある。このまま曖昧に過ごして人生終わっても、別にそれでいいのだけれど、せっかくならば、できるだけ整理して形にしてみようか。それらを、一日1件づつ勉強して日記にして行けば、何かの足しになるのではないか。自分のもっとも関心あるテーマを中心に。私、ハッキリ言って(言う必要なし)、取り柄も一芸もありません。学問も中途半端、仕事でオレだからこそと威張れる成果もなし。仙台の歴史など調べたからと言って、人に価値発信できるほどのレベルには達するはずもありません。しかし、中身では人を超えられなくても、整理や説明で付加価値を出すことができる。私の人生も実はそのようなものです。超・総論人間。十分に自覚しています。地域を考える、地域について薄く広く多角的に考える、とりあえず継続することこそ、他にない何かになるのでないか(心意気だけは高い)。そんな私に、ある訪問者の方から「編集長」の称号をいただき、気に入って自称しております。編集長は、子供と一緒に早く寝る習慣が根付いているので(もうすぐ子は別部屋で寝ることになりますが)、朝の4時や5時台が作業の中心時間です。編集室は3畳の小部屋。スタッフは編集長兼作業員の、総勢1名。これからも無理のない範囲で続くと思います。たまに生活雑記を書いているのは、早起きできなかった朝です。勉強が義務に感じる時が来れば、はいそれまで。その時、自然に終わります。以上のとおり、このブログ、仙台・宮城・東北を考える、私の勉強日誌です。考えること、調べること、整理がつくこと、意見がまとまること...の楽しみが支えです。勉強の蓄積を楽天さんのシステムに整理できる上に、他人にも見てもらえるのですから、ブログって便利。つまらない話でした。これが「おだずまジャーナル」です。これからも訪問・コメントいただければ幸いです。
2006.03.21
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下弦の月がまだ光る早朝ですが、仙台の我が家のあたりは、風速20mはあるかと思われるような、ものすごい風が、3時頃から吹き荒れてます。さて、前回はデジカメ写真の容量が大きくて、トリミングした随分とミクロな絵しか載せなかったのですが、業者さんによってスッキリした我が家の庭を、携帯カメラで撮影しました。なるべくワイドに撮るため、2階のベランダから撮ってみました。本当は、道路側の植え込みの花壇とか、玄関アプローチとか、庭に出るドアの周囲とか、脇にある畑とか... ここに写っていない部分も、「オイ何だよ俺たちも載せてくれヨ」、と主張していますが、割愛しました。(実はこれまでのデジカメで撮った写真を載せる場合は、トリミングしていました。容量大きすぎて。なにか良い方法あるのでしょうが、勉強してみます。)この写真は昨日の朝6時台で朝日が東(写真の上方)から差し込んでいます。床屋にいったばかりのような、我が家の木々が、今朝は、春の強風に枝を震わせています。
2006.03.21
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突然家の中のあちこちに何とも怪しい貼り紙が登場しました。写真は、お父さんのデスクの上に置かれたモノ。下の子(5歳)の筆で読みにくいので、一応解説しますと、「お知らせ すいませんが、2階の子ども部屋は工事中ですので、立ち入り禁止します。申し訳ありませんがお願いします」と書いています。もっと上手な姉の貼り紙を、真似して書いたようです。姉のは5枚くらい、妹のは2枚です。ごくろうさん。何でこんな怪しいことをしているかというと、まもなく来る自分たちの誕生パーティーを企画しているからです。2人とも3月生まれ、1日違いの誕生日です。そして、部屋の中で、飾りの紙のチェーンのようなものをせっせと作っているようです。「工事中」としておけば、誰も入らないだろう、という作戦ですが、だいたい読まれています。下の子に、お父さんハサミ貸して、いいけど何に使うの、と聞きましたから。まあ、狙いは、祖父母をおどろかすということのようですが。
2006.03.20
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昨日、近くのいつもの園芸業者さんに来てもらい、木を剪定などをしてもらいました。4人で一斉に作業してもらいました。ずいぶんとスッキリしました。不思議なのは、単に植栽という個々のパーツを手直しするだけなのに、空間全体がまるっきり変わってしまうこと。写真は、芝生の目土を入れた後の絵です。デジカメの多いのでトリミングを重ねて随分小さく見づらくなりました。後で携帯で全景を撮って載せてみます。実は芝生は自分でやると言っており、目土を3袋買っておいたのです。業者さんが、その土を入れてくれたのですが、全然足りません。業者さんが、こんな良い土でなくて良いんだよ、山砂持ってきてやるよ、と山砂をどっさり持ってきて、入れてくれました。ああラッキー。午前中は好天だったのが午後は随分寒くなりました。ちょうど6年前、下の子があかちゃんの時に、庭を造園してもらった業者さん。通りかかると気になるところを世話してくれます。イヤ~、大きくなったね、と言われた下の子も、もうすぐ1年生。
2006.03.19
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仙台人でこれを知らないとモグリ。半田「屋」と半田「家」の違いを答えよ。さらに、「めしのはんだや」と漢字の違いと、それぞれの登場順番や店舗展開の経緯なども答えられれば、すばらしい模範答案でしょう。(1)めしのはんだや(2)大衆食堂半田屋(店舗によってデザイン違うようですが)(3)半田家(駅前できらら寿しと一緒のところ。「めしのはんだや」が最近改装されました。)わざわざこの写真を撮るために、帰り道に大回りして帰った編集長、かなりのヒマ人です。なお、「仙台ミステリー?風景」というタイトルを改めました。(長期連載の決意? いや、たぶん3回くらいでネタ切れでしょう。)■以前の日記 仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2006.03.18
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燕沢の名前の由来は「チバネ」沢、つまり血が跳ね飛んだ沢のある所、という説があるそうです。今日知りました。蒙古の碑に関連する伝説です。13世紀、弘安の蒙古襲来で、台風で海に沈んだ蒙古の残兵が陸奥に落ち延び、ここで倒れていた。哀れに思った僧が寺にかくまったところ、幕府の役人がやってきて首をはねたら、血が沢一面に飛び散った、というのです。すごい名の由来です。(『仙台漫歩』昭和59年、仙台漫歩編集委員会編集、宝文堂、から)この辺には、4代藩主綱村ゆかりの善応寺もあります。また、市営バスの営業所のあたりから旧道に入ると、緩やかに坂を登り、今市橋方面へ至る道があります。かつては塩釜や石巻への往来がさかんだったのでしょう。一度ゆっくりと散策したい所です。
2006.03.17
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河北新報朝刊1面に、毎日「イーグルス開幕まであと○○日」と出ています。昨日(15日)はカラスコが変な格好している。単にのけぞっているのではなく、やっぱり、イナバウアーしているようです。
2006.03.16
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楽天野球団は13日、仙台市泉区に建設中の2軍練習用球場の命名権をデンコードー(名取市)が取得したと発表した。「デンコードースタジアム泉」になるという。契約期間は2年間で契約金は非公開。同社は、球場近くや2軍本拠の山形県内にも店舗を展開しており「ネーミングを機に、地域と一体となって盛り上げていきたい」としている。(朝日新聞の記事、デンコードーの発表資料)ところで宮城県の人には、デンコードーというと、仙台のような八戸のような、いろいろ合併もしたり、ちょっとあやふやなのではないでしょうか。エッ、私だけ?ですか。そこで、整理します。デンコードーHPの「沿革」から。 昭和40年八戸市に株式会社電巧堂を設立、青森県と岩手県で店舗展開。昭和56年仙台市の小松電気株式会社の経営を継承し、昭和57年、仙台市に本店を移転。昭和63年株式会社デンコードーに商号を変更、ジャスダック市場に上場。福島県下に4店舗を開設。平成3年、株式会社電巧堂チェーンと合併し、営業店43店舗を引継ぎ東北6県および北海道に店舗網を構築、青森市に本店移転。平成4年仙台市榴岡に本店移転、平成6年TSUTAYA店舗展開、平成7年SUPER Denkodo店舗展開、Comp City店舗展開、平成9年Mr.コンセント店舗展開、平成10年MAX Denkodo店舗展開。平成14年本部を名取市に移転。 平成16年には東京都、神奈川県に店舗展開。 いや~めまぐるしい。何がなんだかわからないが、すごいですね。 比較しては何ですが、むかし「エルタウン庄子デンキ」とかいうCMがありました。庄子デンキは、宮城、山形、福島で「電激倉庫」を展開していますが、現在はラオックスの子会社だそうです。 それから、あいまいな記憶ですが、ササキデンキ。確か仙台周辺にチェーン展開していたように記憶。北環状のやまやのある周辺に店舗があって、カード電卓を買った記憶があります。客は入っていなかったです。名称(カタカナ?)も記憶があいまい。調べようにも、手がかりがないです。時間もないので、アキラメます。以上、地元資本ではデンコードーの強さが光ります。というわけで、デンスタ、となるのでんした。
2006.03.15
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夜中にうっすら雪が降ったようで、軽い雪化粧の朝。陽のあたっているところはもう溶けているくらい、薄いですが。例えれば、家々の屋根にオブラートをかけたような感じ。もうすぐ溶けます。いや~寒い。昨日の帰りも震えるくらい寒く感じた。朝の夢の中で風邪をひいている自分だった。正夢になるかも知れない。寒気団のせいか。春になったと浮かれた時期なので要注意。
2006.03.14
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鳴子町の鬼首(おにこうべ)中学校では12日(日)に閉校式が行なわれた。10日卒業したばかりの21人の生徒も出席したという。閉校は、生徒数の減少による措置で、新年度から町内にある鳴子・川渡の2つの中学校と統合。3校いずれも今年度いっぱいで59年の歴史に幕を閉じる。卒業生や地域の方にとって、気持は淋しいことでしょう。生徒数は、101人(鳴子中)、100人(川渡中)、50人(鬼首中。いずれも平成17年学校統計)だから、中学生のためには統合の方が良い。今月末には大崎市もスタート。地域にとっては新しい時代の始まりだ。実は編集長は鬼首の地域づくりを整理しようとしています。その契機は1月に久々にスキーに訪れたことです。久々のゲレンデにて気づいたこと。 ○リフトが2本くらい撤去されている。 ○テレキャビンは運行せず。鍋倉はリフトは休止、ゲレンデは使用せず。客層も、どこのスキー場もそうですが、軽いレジャー感覚の若者は絶えてなくなり、若者なら目的志向のボーダー中心、あとは、県内の家族連れ、単身シニアスキーヤー、というところです。以前にも夏や秋のイベントには結構家族で行っていた。また、吹上高原やその周辺もよく行きます(滝の温泉とか)。ダム主催のイベントで荒雄岳の奥の方の林に子どもたちと行ったことも。結構、鬼首には行っているのです(さらに47号沿いを含めれば鳴子にはもっと行っている)。私個人としても実は昔々学生時代にボランティアに行った思い出の地でもあります。でも、スキー場の現実をみて改めて気づかされた。オニコウベリゾートの経営主体も変化したのです(三菱地所の撤退)。それに今回の中学校閉校などと考え合わせると、時代の大きな変化を感じます。よく、行政(宮城県や鳴子町)が中央大手資本と結託してリゾート開発に浮かれ、結果として後に残ったのは環境破壊と過大な自治体の負担だ、などとする論調があります。たしかに、施策の検証は多角的に行われるべきで、また行政投資が妥当かどうか自治体の政策決定の是非は慎重であるべき。しかし、私は、鬼首の歴史をみるとき、そんな皮相的で通り一遍の大資本批判と権力批評だけでは、何にもならないと強く感じます。かえって地元のためにならない。地元は熱意を持って観光開発に向かって進んで来たのだ。考えるべきは、この地の良さと時代の変化(交通事情、在住の方の生活の変化、来訪者の観光志向の変化などなど)を謙虚に受け止めて、これからどう対応していくか。ODAZUMA Jorunal久々の(前にあった?)大型地域スタディ。少しづつ考えていますが、今回まずは鳴子の観光開発小史。大手資本の入る前まで。鳴子町史と下記各種資料からODAZUMA Journal要約。------------○ 昭和22年、県立公園玉造温泉郷(鳴子町、川渡村、鬼首村の全域)を県が指定。昭和37年には、山陰地方の同名地域と重複を避けて、鳴子温泉郷と改称。○ 昭和43年には、4県にまたがる栗駒国定公園が指定される(鳴子町分では鬼首地域)。○ 国定公園指定に伴い昭和43年栗駒観光開発株式会社が設立される。町、県、名鉄などが出資、山本壮一郎(当時副知事)が社長就任。第1次開発(~昭和45年)で吹上高原、潟沼を整備。第2次開発(昭和46年~)で、火山道路、カムロ高原などを開発。○ 鳴子ダムは昭和32年完成。昔から江合川は洪水による被害が多く、明治43年は鳴子地区に大被害。大正6年から江合川改修行うも、昭和22年カスリン台風、23年アイオン台風、24年キティ台風と続き、25年の豪雨で江合川沿いの町は大きな被害を受けた。そこで国は洪水に備えて江合川に堤防をつくると共に、発電・利水もできる多目的ダムの建設を決めた。○ ダム底に沈む鬼首の26戸は川渡に移転。水害が無くなるならと、あまり反対はなかったという。○ ダムによる人造湖の荒雄湖は、仙北新聞(鳴子町)の一般公募で命名。昭和32年。○ 日本こけし館 昭和50年8月完成。○ 鬼首地熱発電所 昭和50年3月完成。○ 鳴子熱帯植物園 昭和34年開園。有限会社鳴子植物園中山平農場による。○ 林業館 昭和44年完成。○ 宮城県農民の家 農民出資による日本初のレジャー・ヘルスセンターとして開設。○ 鳴子ゴルフ場 昭和40年7月地元有力者が株式会社鳴子ゴルフ場を設立、昭和41年完成。上野々の町有地を借用。○ スキー場は、(1)上野々が最も早い。(2)花渕山は昭和38年冬季国体スキー会場、後年も全国大会の会場に。(3)恒常的に12月末から使用できるスキー場を設置するべく、町が主体で昭和48年から着手。 ■参考 国土交通省鳴子ダム管理所のサイト ■ 特にその中で「水源地域ビジョン」 ■参考 (財)日本ダム協会の鳴子ダム情報------------町史を見ると、観光開発にかける地元の人たちの期待と熱意が伝わってきます。上記の鳴子町史(下巻)は昭和53年発行で、三菱地所による本格整備の前の時点ですが、カムロ(禿)高原開発が、後の三菱の参加により、リゾートパークオニコウベ開発となるようです。(以下続く。次回は大手資本の参加後の開発と今後の方向。ただし、いつになるか...)
2006.03.13
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以前から気になっていたこと。仙台藩の城下に物資を運び入れるため、「舟曳堀」が鶴巻(梅田川口)から苦竹まで通っていたが後に埋められ宅地になった、というのだが、一体どういうルートだったのだろう。ちょっと整理すると、南部では阿武隈川河口(納屋)から名取川河口(閖上)まで「木曳堀」がある。すでに政宗の時代に川村孫兵衛により掘削され、仙台城の建材もこの運河を利用して運ばれた。名取川・広瀬川をのぼり、その名も舟丁に蔵(若林御蔵)があった。そして北部。塩釜港から城下までの陸送に悪路や急坂があるため、2代忠宗の命で塩釜(牛生)と七北田川(大代)の間に運河を開削。さらに大代から、七北田川の流路付替え工事(岩切-福田町間)で新たに河口となった蒲生まで延長した。これが「舟入堀」である。現在は仙台港(新港)の区域に沈んだ。そして、あわせて「舟曳堀」を鶴巻と苦竹の間(5km)に完成させた。実は政宗は仙台開府の当初から、宮城野原五輪下から塩釜に向けて運河工事を始めたが、隠密によって幕府に知られ中止したという。(なお、のちに命名される「貞山堀」を構成するもう1本の大運河で「新堀」(蒲生-閖上)は明治新政府によって開削された(明治5年完成)。幅5mほどだった新堀と木曳堀も、県が大改修を施し拡幅。さらに、北上川と結ぶための北上運河(石巻-野蒜)、東名運河(野蒜-松島湾)を合わせ、政宗の気宇を今に伝える仙台湾に沿った壮大な水運ネットワークである。)蒲生(蒲生御蔵)、鶴巻(御蔵場)、苦竹(御蔵前)は米蔵が建ってにぎわったという。特に蒲生(町蒲生)は塩釜をしのぐ隆盛だったという。仙台港建設前の航空写真をみると、蒲生の町に舟入堀の舟だまりの地形が残り、密集する人家のようすがよくわかる。大崎や登米のコメが北上川を下り石巻から塩釜港に運ばれ、舟入堀で蒲生まで来る。一度蒲生で積み替え、七北田川を上って鶴巻で再度積み替える。今度は船曳堀に入るが、鶴巻では七北田川と堀は直接つながらず、藤川(地図では、幸町、東仙台を経て苦竹駅付近、国道45号の日産プリンスの北で梅田川に合流。)の水を注入した。落差があり城下への進水を防ぐためである。また、いわゆる「落し堀」とし、補修や浚渫のため、「辰の口」という地点で水を落とした。舟曳堀は幅5~8間、深さ4尺ほど。底の浅い高瀬舟で曳夫2名で米48俵など諸物資を運んだ。曳夫などの住んだ町は福田町一丁目の旧45号線北側で当時「新町」と呼ばれた。さらに、堀はわざと蛇行させて、敵の侵入や横流しを監視したという。そのため、鶴巻から苦竹まで何度か積み替えをする。舟曳堀(お舟堀)は狭い運河で、その名の通り綱で舟を曳いた。そして苦竹から原町の米倉までは、小田原牛小屋町から出てきた何十頭の牛が、原町の宿場町を通って運んだ。原町御蔵は、現在の榴岡の気象台のある場所。明治中期まで校倉造りの蔵が6棟残っていたという。さて、その舟曳堀のルートである。鶴巻御蔵から福田町南西方を経て苦竹御蔵まで、大まかに言えば、現在の国道45号線の南側で、梅田川と並行する形で、その南側を通っていたようだ。まず鶴巻。七北田川の船だまりは現在の鶴巻1丁目(鶴巻小学校のある町)で、舟曳堀の始点でもある。御米蔵3棟、御塩蔵1棟があった。鶴巻御蔵場跡地は、鶴巻小学校や仙台市ポンプ上のやや北側、梅田川と七北田川の合流する地点の南側。地図では今工場になっているようだ。そして、梅田川の南側に沿って舟曳堀が進み、運河の水を落とした「辰の口」は、45号線が梅田川を越える福田橋のたもと、ちょっと南側である。扇町六丁目、現在の仙台市動物管理センターの北のあたりだ。付近に(福住町)船小屋という地名もある。この辺から、舟曳堀は梅田川とはやや離れ、現在の45号線の南側を城下へ進んだのだろう。苦竹の御蔵だが、地図では現在の自衛隊のあたりのようだ。今朝は歴史の整理に終わってしまって時間がないが、具体的ルートの特定は、もう少し色々な資料で調べればわかるだろう。詳しく調べてネットで紹介している方もいるようだ。できれば私の地図に鉛筆でオーバーレイして、ヒマなとき(何時だろう)に自分で歩いてみたい。往事に思いをめぐらしながら。(仙台市高砂市民センター『高砂をあるく』第10集、平成10年、ほか各種資料からODAZUMA Journal編集局整理)
2006.03.12
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一応毎日日記つけている自分へのケジメとして、3月11日(土)の日付で入れます。つまり、ロシア人気分(3月10日の記事になっている)がそれでして、どうも携帯から記入すると朝の6時以降でも前日の記事になるようです。言い訳がましいですが、一応。もしこの記事を読んでいただいた方がいると、これだけでは申し訳ないので、多少内容のある記事を以下に書きます。並んだのは、ニンテンドーDSライトが入荷販売されるためです。私自身は、川島先生のCMくらいしか知識がないのですが、金曜日に妻に言われて、そんなら行列してみようかという気分になったのです。娘2人の誕生日プレゼントに買ってあげることにしたのですが、予約しても何時になるかわからない、そのうち誕生日も近づいたので、この情報を重視したというわけ。私としては、朝の早起きは日常だし、じっくり書物を読めるから悪くないと思ったのがホンネです。どうしてもと懇請されたとか、妻に命じられたとか、家庭内の権威を回復しようとか、そういうものでもありません。どちらかといえば自発的なものでした。エライ、お父さん。上の娘は多少の責任感もあったのか、自分も並ぶと前夜約束したので、朝4時に起こして連れて行きました。まだまっ暗い4時40分頃から並びました。13番目。娘も並んでいて相当寒かったはずですが、ヤセ我慢していました。7時前に妻が来て、食べ物と毛布と新聞を差し入れ。娘は帰しました。結構日が出てからが寒い。7時頃に店の人と警備員が来て、説明。55台入荷、とか言っていた。そして、並んだ順番に名前を聞いてリスト化してくれました。それでも開店まで並んでいることは条件です。私は、お堅い学術書をじっくり読める良い機会で、ハッキリ言って短く感じたくらいです。自慢じゃないが、一度もトイレに行っていません。朝10時15分に開店、No.13の整理券(写真)をいただいて、行列チームはしずしずと順番通りに売り場に進みます。無事希望の品物、色も娘たちの希望通りのアイスブルーを買いました。ソフトも1本買って、あわせて2万円でおつりが来て、ちょうど切れていた台所の蛍光灯も買いました。妻によると、DSは中古で3万円で売られているという。随分人気のようだが、私としては、楽しい行列で買えたから、これでいい。子どもたちは、1回30分という約束です。パソコンも同じ。今(日曜日朝9時)も、さっそくやっています。その前にピアノをやっていたが、好きなことをやる前なら、多少嫌な(?)ピアノ練習もやれるようだ。上の娘が昨日寝る前に言っていた。「こういうのって、買った初めの頃は毎日やっちゃうんだよね~」。
2006.03.11
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今7時20分、実は未明からある目的で並んでいます。 上の子と来たのですが、寒いので先ほど妻に来てもらい、帰しました。食糧もバッチリ。あと3時間、頑張ります。
2006.03.10
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仙台城下の火事鐘は3カ所、北は亀岡八幡、南は向山虚空蔵堂、そして中心部は北一の勾当台角、旧養賢堂(現在の県庁)西北隅にあった。この火の見櫓界隈を「櫓下」と通称したが、明治維新のちょっと前に、鉄砲屋方職人に生まれたのが明治の名物男の福の神「櫓下の四郎」である。市長の名を知らずとも、四郎なら誰でも知っていた。発する言葉は「バアヤン」だけ、年中ドテラに縞のハンテン、いつも両手を組んで懐に入れ、座ると前を合わせないから膝カブを丸出しにする。もらい物を入れる袋を首にかけて毎日市中を徘徊する。人には絶対仇をすることなく愛嬌がある。欲も得もないから、勘が働く。四郎が舞い込んだ店は必ず繁盛。そのため市中どこでも四郎は無料。いくら呼んでも四郎が見向きもしない店は遠からず左前。郷土史の研究で有名な三原良吉さんの著作をみると、仙台四郎にまつわる面白い話が載っている。明治31年の春、三原さんが明治30年1月生まれだから満1歳を過ぎて歩き出した頃なのだろう。自宅の前、国分町の道路で遊んでいるうちに行方不明になった。みなで探したが見つからない。そのうちに、四郎が幼児を抱いて歩いているという通報があり、芭蕉の辻の交番に届け出た。やがてお菓子をいっぱい手にした三原さんを抱いた四郎が、例の「バアヤン」と言って、笑顔で店(三原さんの家。あの有名な時計屋さんですね。)に戻ってきた、のだそうだ。おそらく四郎と三原さん、愛嬌たっぷりに、市中の方々でお菓子をもらって回ったのでしょう。以上、三原良吉『郷土史仙臺耳ぶくろ』、宝文堂、昭和57年、を読んで記しました。この本を見ると、昭和40年前後のことなのだろう、米ヶ袋の自宅にリスが訪ねてきたことが書いてある。また、中山や越路山(八木山)にオオカミやキツネが出たことなど、自然あふれる仙台の情景が記されて、面白いです。
2006.03.10
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八戸-新青森間(82km)が2010(平成22)年に開通すると、東京-新青森間が3時間12分で結ばれるという。なお、工事路線となった(平成17年5月着工。平成27年完成目指すとか。)北海道新幹線の新青森-新函館間(149km)が開通すれば、東京-新函館間は3時間50分。現在、東京仙台間の最短所要時間は1時間36分(表定速度203.4km/h、最高速度275km/h)です。比較のため東京と主要都市の間の最短所要時間をみると、 ○ 東京-長野 1時間23分 ○ 東京-仙台 1時間36分 ○ 東京-新潟 1時間37分 ○ 東京-名古屋 1時間38分 ○ 東京-盛岡 2時間21分 ○ 東京-新大阪 2時間30分 ○ 東京-山形 2時間30分 ○ 東京-八戸 2時間56分 ○ 東京-秋田 3時間49分 ○ 東京-博多 4時間58分いやはや、東京青森間が3時間とは、すごいですね。新聞記事には2時間55分程度としているものもありました。3時間というのは、飛行機と新幹線の分かれ目なのだそうで、JRとしては、飛行機需要をごっそりいただきます、という作戦でしょう。秋田は田沢湖線が最高速度130km/hと制約があるため、どうしても他に劣ります。山形も奥羽線の制約がありますが、3時間を切っているので上記の「3時間理論」のとおり鉄道に軍配が上がり、山形空港は年間利用者20万人にまで落ち込みました。既にJR東日本は、新幹線の八戸延伸(02年12月開通)の効果で、首都圏と青森県の輸送について航空機に対する勝利宣言(シェア逆転)を出しています。ちょっと面白いのは、飛行機は青森空港、三沢空港とも羽田便を減便している(両空港で1日13便→8便)ように、開業前後(01年と03年の比較)で航空輸送実績は23%減っているが、JRは104万人から204万人と、何と倍増以上なのだ。つまり、航空会社は経営効率化(減便の理由ができた!)、JRは在来線レールは地元に回して客だけはとる。地元も客が増えて経済効果でハッピーということでしょう。とりあえずは。しかし、その八戸も、今度は通過地点となり新たな課題に直面するのです。また、並行在来線(青い森鉄道も青森まで「延伸」することとなる。)や地元負担の問題もあり、複雑な問題です。いずれにしても青森に新幹線による効果は間違いなく出ます。JR東日本が威信をかける世界一の新幹線「FASTECH360」、ネコミミのついているやつですが、現在、仙台-北上間で走行試験をしています。これが目標の360km/hで走ると、東京-青森間は2時間以内でしょうか。■文中の最短所要時間などのデータは、700円で買った『数字で見る鉄道2005』による。ポケットサイズのこの本、パラパラ眺めるだけでも楽しいです。■東奥日報の特集「東北新幹線 青森」を参考にしました。とは言え、じっくり読んだわけでもありません。地域づくりにおいて新幹線の効果(負の効果も含め)は甚大。人体で言えば手術をするようなもの。本当はもっと真剣に考えなければならないテーマです。交通経済、政治学、社会学など学際的テーマとも言えます。盛岡開業の際にもさかんに議論されました。時間があれば、後ほど。
2006.03.09
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思い立って各県の1人当たり預貯金残高を比較しました。データ出典は金融中央広報委員会HPです。平成17年3月末時点。個人の預貯金残高です。なお「その他金融機関」は、信組・農漁協・労金で、信用金庫は含みません。■データ(億円) 個人預貯金残高計 銀行 郵便 その他金融機関 (a+b+c=d) (a) (b) (c)青森 48,831 25,512 16,310 7,009岩手 53,798 25,380 18,027 10,391宮城 92,129 49,295 30,021 12,813秋田 44,411 21,604 14,622 8,185山形 52,584 23,284 16,425 12,875福島 78,479 31,655 29,550 17,274全国 6,487,786 3,317,239 2,141,400 1,029,147■構成比(%) 銀行 郵便 その他金融機関 (a) (b) (c)青森 52.2 33.4 14.4岩手 47.2 33.5 19.3宮城 53.5 32.6 13.9秋田 48.6 32.9 18.4山形 44.3 31.2 24.5福島 40.3 37.7 22.0全国 51.1 33.0 15.9■1世帯あたり残高(世帯数は04年3月末、千世帯) 個人預貯金残高計 世帯数 (d) (e) (d/e)青森 48,831 551 88.6岩手 53,798 488 110.2宮城 92,129 856 107.6秋田 44,411 410 108.3山形 52,584 387 135.9福島 78,479 716 109.6全国 6,487,786 49,837 130.2------------貯蓄高は家計単位でみるべきと思われ、世帯数で割ってみました。世帯でも独身者の比率など細かくは一様でないので有意な傾向が読み取れるかどうか確信が持てませんが、全体として見れば山形県が高いようです。そして金融機関別では「その他」が高いので、これは農協でしょうか。山形県民は1世帯あたり1千3百万も貯蓄があることになります。すごい。我が家はとても及びません。ちなみに、総務省統計局のデータによる世帯の資産(1999年)というのがあります。何だ、最初からコレを見れば良かった、という気がしますが、これを見ると山形県は1世帯あたり13,045千円、とやはり高いです。なお、上記の金融中央広報委員会データと異なるのは、生保や有価証券を含む全資産であることのほか、統計上単身世帯を除いていること(2人以上の世帯の抽出調査)によるのでしょう。全国的には、関東や東海の各県を除くと、福井、石川、岐阜が顕著に高いです。何となくわかります。福井の19,639千円は全国最高。さすがは豊かさの北陸です。東北は全国的には最低レベル。他方で負債現在高は全国平均レベルですが... 悲しや、県民所得の低さと相関するのでしょう。最後に一言。豊かさはカネじゃない。心豊かにメシを食えれば(はんだや標語に似たようなのが有りましたネ)。
2006.03.08
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最近の日記(仙台藩の行政上の特異性(06年3月5日))で、血縁や家臣を一門、一家、一族に分けた伊達独特の家格制度...と書いたのですが、自分でその具体的な内容がわからなかったので、各種資料で基礎知識を少し勉強しました。○ 一般に各大名は家臣団を統率するために、何らかの「家格」制度を持っていた。仙台藩は旧大名級の家臣を数多く抱えるため、独特の新家格制を設けている。大別して門閥、平士、組士、卒の四等級に区分。○ 門閥は伊達氏との親戚関係や由緒、功労によって格付けされ、8階級に分かれる。一門、一家、準一家、一族、宿老、着座、太刀上、召出である。一家や一族の制は中世大名にも一般的にみられるが、江戸時代になってからも維持できた大名は他にないという。○ 一門(11家) 伊達家臣団の最上級家格。直接藩政には関与しないものが多い。以下序列の順に。各一門の紹介を付して。(1)石川氏(一門筆頭) 石川郡所領を奥州仕置で秀吉に没収され、後に政宗から志田郡松山領を拝す。石川昭光は政宗の叔父にあたることから一門筆頭に待遇。慶長年間に角田に移り角田要害主として続いた。角田城は、二の丸三の丸を持ち、さながら大名城郭のようだったという。(2)亘理伊達氏(一門二席。以下序列表示は省略。) 人取橋はじめ多くの合戦で功をなした勇将伊達成実が祖。亘理氏、片倉氏に次いで慶長年間に亘理に入り本格的に町割りを行う。二万三千石は当時の家臣随一。戊辰戦争後に北海道開拓に転じた各家の中で、分裂もなく当主と家臣主従が一致して移住したのは亘理伊達氏だけで(北海道伊達市)、成実公以来の誇りを守る強い意識があったからという。(3)水沢伊達氏(留守氏) 奥羽留守職として多賀国府に任じた伊沢左近将監家景の後裔。京都の名門である。戦国時代に伊達家臣団となり水沢に移る。文禄年間に留守18代政景が伊達姓を授かる。留守政景は政宗の叔父。政景の子宗利が一関、金ヶ崎を経て水沢初代。知行一万石に減封されたことで逆に漁網など殖産や新田開発に励んだ。早くから寺子屋をおこすなど学問にも力を入れた。水沢三偉人は全国に著名。(4)涌谷伊達氏(亘理氏) 建久元年亘理郡を領し亘理氏を称し、応永年間に伊達氏に属し、天正年間に大崎氏勢力下だった涌谷に移封。遠田郡の中心部をつくるため野谷地に町を形成。新田開発と江合川の舟運で栄えた。久惣(久道惣五郎。御用商人)やその分家久保(久道魯因。のちの久保旅館)、桜井屋など、涌谷商人は明治期まで栄華を誇ったと言うが、今はさびしい限りです。合併して遠田市とすべきだったのに。(5)登米伊達氏(白石氏) 後三年の役に勲功あった刈田氏が刈田郡白石城に住し白石氏と称す。室町時代に伊達氏へ属し、安達郡塩松から水沢に移る。慶長年間に南部利直に対する和賀一揆に援軍を挙兵したが撤退、家康から関与を疑われた政宗の判断により登米に移された。のち政宗は詫びる意味もあって白石宗直に伊達姓を与えた。初代宗直は川村孫兵衛以前から北上川改修に着手。11代宗充が他領の流民を保護・登用するなど、徳の深い家柄。戊辰戦争に敗れた際には、8千石の領地を家臣に分与して、領主の領地没収を防ぎ、領民をまもったという。(6)岩谷堂伊達氏(岩城氏) もと磐城地方の豪族で戦国時代に伊達氏と度々戦う。天正年間に家は断絶するが慶長年間に伊達姓を賜る。江刺郡岩谷堂に封ぜられる。(7)宮床伊達氏(田手氏) 伊達朝宗の六男が祖で、3代藩主綱宗の代に一門に列せられ、伊達姓を賜る。箱モノ建設と放漫財政で隠居を強要された4代綱村に代わり、宮床伊達氏の吉村が藩主となり(5代仙台藩主)、倹約と収入確保尽力。私生活は質素で、仙台藩中興の英主とされる。(8)岩出山伊達氏 政宗の四男宗泰が祖。京都冷泉家から輿入れがあったため、竹細工、凍み豆腐、酒まんじゅうなど京文化が残る。有備館は現存する国内最古の学問所で、京の礼儀作法が厳しく教えられたという。御譜代町の町名(立町、荒町、柳町など)は米沢、岩出山、仙台と政宗の移転した3つのまちに共通して引き継がれている。(9)川崎伊達氏 三代藩主綱宗の次男村和が祖。享保年間五代藩主吉村の代に一門に列せられた。(10)白河氏 白河の豪族であったが秀吉に取り潰される。慶長年間政宗に召され客分となり四代藩主綱村の代に一門に列せられた。(11)三沢氏(一門十一席) もと山陰の大名尼子氏の遺臣。3代藩主綱宗の夫人や綱村の生母が三沢氏だった関係で三沢信濃が綱宗に召し出され、延宝年間に一門に列せられた。○ 一家(17家) 伊達晴宗の頃から上席を占めた鮎貝氏をはじめ、秋保、柴田、小梁川、塩森、大条、泉田、村田、黒木、石母田、瀬上、中村、石川、中目、亘理、梁川、片倉の17氏。主に戦国時代から藩政初期に大功労のあった者。片倉氏は二代忠宗のとき一門に昇格したようだ。○ 準一家(10家) 猪苗代氏を筆頭に天童、松前、葦名、本宮、高泉、葛西、上遠野、保土原、福原の10氏がある。葦名氏、葛西氏は戦国大名の後裔である。○ 一族(22家) 大立目、大町、大塚(胆沢郡金ヶ崎)、大内、西大条、小原、西大立目、中島(江刺郡上口内)、宮内、中島(伊具郡金山)、茂庭、遠藤(胆沢郡下衣川)、佐藤、畠中、片平、下郡山、沼部、大町(宮城郡中野)、高城、大松沢、石母田、坂。伊達家譜代の家臣。○ 宿老(3家) 政宗の初期から側近として仕えたものが多く、一門、一家、一族の取り締まりにもあった。○ 着座(38家) 低い身分から政宗に登用され、先祖から家老(仙台藩では奉行とよんだ)を出した家。○ 太刀上 毎年正月の賀礼に太刀を献上し、藩主から盃を頂戴できる家柄。○ 召出 毎年正月の宴会に召し出される資格のある家柄。○ 平士(大番士)は軍事の主力をなす騎馬軍団で、仙台城の警備や治安維持に当たり、また藩政を執行する諸役人に任ぜられる。○ 組士は平士の下の下級武士で、身分としては組士以上が士分。○ 卒は家臣団の中で最下層を占める最下級武士であるが、一般には士分とみなされず「凡下」と呼ばれた。小人・足軽・同心・諸職人がこれに属していた。幕末において仙台藩は約3万3千8百余人の家臣を抱えており、諸藩の中でも隋一。領内全域に濃厚な軍事的な性格を有していたが、末端の家臣は農民同様の生活を営んでいたものと思われる。○ 地方(じかた)知行制 仙台藩は、家臣に知行を土地で与えていた。一万石以上の大名級家臣が10人を超えており、仙台城下にそれぞれの屋敷を与えられるとともに、領内各地に配置されていた。○ 仙台藩四十八館 家臣の重要性によって、城・要害・所(ところ)・在所に四区分。(1)城は白石城1ヶ所で一家の片倉氏が配置されていた。一国一城令の例外で仙台藩の扱いの高さを示す。(2)要害は重臣を配置。中世以来の城館に小城下町を形成。知行主は知行百姓、町民に対する支配権を有していた。(3)所(ところ)は、要害に次ぐ要地でおもに交通商業の場である町場。上級家臣を配置。(4)在所は、要地である農村。やはり上級家臣を配置。○ 仙台藩四十八館なる家臣団配置システムも仙台藩独特のものだが、藩境(角田、亘理、水沢)、商業や水運の要衝(登米、涌谷)などの重要な要害には伊達一門の一万石以上の大身を配置している。統治上のシステムである四十八館と、家格の序列とうまくバランスさせたのでしょう。○ なお一関は地位が異質で、支藩の扱い。旧一関市の磐井川以東部分(以西は仙台藩)と旧花泉町、旧金成町などを領地とする。 田村氏は政宗の正室愛姫の実家だが、断絶後に仙台藩2代忠宗三男宗良が田村姓を回復。以前は一関は留守政景、次いで伊達兵部(政宗の十男)が領し町の体裁を整えた。ところで、田村宗良、伊達兵部はいずれも亀千代(のちの4代仙台藩主綱村)の後見役を命じられた伊達騒動の当事者である。宗良は岩沼に、兵部は一関にそれぞれ三万石を分与された。騒動後、宗良の子の田村建顕が岩沼から一関に移封し、支藩たる田村一関藩が成立。文武両道に長け将軍綱吉の信任を得たが、財政支援を求めた本藩仙台藩に何かと気を遣ったという。反面独立心と向学心も強く、大槻氏(葛西の遺臣)や建部清庵など多くの学者を輩出。
2006.03.07
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荒川選手金メダルの仙台で残念な課題です。県や仙台市の調整能力も重要だが、何といっても経済界の実力と本気度が問われます。勝山スケート場はホッケーでいっぱいというが、何とかならないのか。或いは建設や資金提供する企業は名乗り出ないのか。コストがかかるというのなら、既存施設をうまく転用できないか。青森のカーリング施設はあまり金がかかっていないように見える。仙台市体育館やグランディ体育館でもディズニー・オン・アイスやっていたし。低コストで実現できそうにも思えるが、手頃な施設はないだろうか。仙台の伝統というなら、口だけに終わらせないで。仙台経済界の実力が試されているように思う。(写真は県議会の建物にかけられた「金メダルおめでとう荒川静香さん」という幕です。言葉遣いが柔らかくていいと思いました。)
2006.03.06
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仙台・宮城の気風の根拠を、藩政時代の他と異なる独特な行政体制に求める考えもあります。そこで、何が独特だったのかを整理。1 五貫文制の踏襲 百姓人頭一人前の持ち高を五貫文(50石)の土地までに制限2 知行地 家臣に知行で土地を与えた。家臣(給人)には拝領地(給人前)と在郷屋敷を与えるが、城下にも屋敷を与えて、参勤交代のように交互に住まわせた。3 五公五民 多くの武士を在郷に住ませ、知行地を管理させたが、農民から五割の税を徴収した。特筆すべきは、2の知行地の制度。藩から俸禄を受ける「蔵米取り制」をとらず、拝領地を耕作させて年貢を徴収する「地方知行制」を幕末まで改めなかったのは、全国的には少数である。新田開発の促進を意図したのだという。確かに、奥州仕置きで会津や米沢を失ったが、やがて実質百万石の豊かな藩となった。この地方(じかた)知行制を支えたものとして、やはり仙台独特の配置制度があった。居館を、城、要害、所(ところ)、在所の四種類に分類。城は藩主と、例外的に幕府から認められた白石城。要害は中世以来の城館で、一関、登米、亘理、涌谷など枢要の地で、これらを結ぶ街道も発達。この家臣団の配置は「仙台藩四十八館」とも呼ばれた。支配する側からは、地方知行制は都合がいいが、直轄経営しないことから慢性的な歳入不足に見舞われた。また、武士も農民も土地にしがみつくため、世の中の動きに鈍感になる。新しい空気に触れることがない。伊達の血縁や有力家臣を、一門、一家、一族に分けた家格制度の厳しさもあるが、とにかく根強い保守の気風が生まれたというわけだ。
2006.03.05
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朝は7時半に家を出て、セントメリー・スキー場へ。9時の開場時間にちょうど到着。最近は本当に空いていますね。快晴に無風。雪質は、上の方を除いて、砂糖の海を滑っているよう。昼過ぎには気温が上がって、粗いザラメ砂糖のようにザクザクとなってしまいました。写真は下の娘。5歳ですが、スピードだけは大人顔負け。すごいです。ちょっと立ち止まっていると、このようにどんどん先に滑っていきます。このスキー場は山形自動車道の上や下を滑るコースです。自動車道や、国道286(笹谷街道)も記念に1枚撮りました。家族4人でファミリーパックだったのですが、上の子が体調悪く、結局代わる代わる3人で滑りました。1時半頃には出て、3時帰宅。
2006.03.04
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仙台の某所、ミステリアスな情景? この写真の木、よく見るとオバケのように見えます。ユーモアたっぷりの人が上手に刈り込んだのだと思います。毎日通っているのに、ずーっと気づかず、つい最近になって知りました。結構みんなは知っているのかな。良く晴れた3月3日ひな祭りの日の朝の撮影です。めったに使わない携帯のカメラ機能で、今後も仙台のさりげない1コマを発掘してみます。(などとシリーズ化の予告しましたが、多分ネタが続かないでしょう。)
2006.03.04
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この季節毎週金曜日朝に仙台駅のホームに降り立つと、反対側のホーム(5番線)に、見慣れない列車が止まっている。季節列車「ゲレンデ蔵王」号です。金曜の夜に確か大船を出発し、仙台経由、仙山線で土曜の早朝に山形まで行く、夜行のスキーヤー用の列車です。面白いのは、片道(下り)だけ。だから、金曜の朝のこの時間は回送なのでしょう。今から大船まで長い長い回送の旅、ですね。頑張れよ。今日は一枚撮らせてもらいました。
2006.03.03
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仙台市の聖ウルスラ学院高校について、大変面白い記事を目にしました。伊達藩作法を学校認定科目に取り入れている、というのです。「仙台藩作法指南役」なる先生が教える。具体的には、挨拶から始まって、お茶の飲み方、マナーなど、あらゆる作法を教えるのだという。秘書検定合格にも役立つという効果もあるとか。校長によると、「真の国際化は日本の文化を身につけること、そして個々の存在意義を確立させること」だという。目に見える違いとして、体育館に集合した生徒たちの頭が動かなくなった、そうです。(以上、「仙台経済界」2006年3-4月号による。)真の国際化のためには、日本を知り、個々を確立すること。はい。私も全く同感です。数年前ですが、当時教頭先生だった現校長に、私も何度か話を伺ったことがあります。聖ウルスラ会がそもそも世界規模の組織で、仙台は大きな拠点なのだそうですが、先生ご自身も国際交流活動を通した教育に非常に熱心で意欲的でした。私自身、私立の女子校の建物に合法的に(!)入る数少ない機会でもありましたが、生徒さんの礼儀の正しさが印象的だった。しつけが行き届いているのだ。今は聖ウルスラ学院英智高校となり、一部コースは男女共学。また小中学校も新たに一貫教育の男女共学学校となり(聖ウルスラ学院英智小・中学校。小中を通じての「4・3・2制」は加速的発達段階を考慮した先進的システム)、他にない大きな特色を出している一本杉の風景もだいぶ変わりました。個人的な思い出だが、大学1年か2年の時、フランス語の先生でもあったシスターに招いていただき、ウルスラ高校と隣接する一本杉教会を訪れたことがあります。赤ワインと、いっしょに行った宮城学院の人の歌が記憶にあります。確か音楽科の4年生できれいなお姉さんだったな。ま、それはともかく、クリスチャンでもない私にとって、印象的なクリスマスパーティでした。バスで行ったはずで、当時はどの辺かもよくわからなかったのですが、冬の夜の、ささやかで美しい思い出の地です。今では、高校のすぐ南側に都市計画道路が開け、若林区文化センター・図書館もできた。藩政時代からのたたずまいに加えて、文化拠点という雰囲気も出て、まさに学園ライフに好適と思います。英智高校のある場所も伊達屋敷だったそうで、その縁もあって伊達藩作法の授業が実現したようです。少子化時代を迎えて特色を出すという私学の経営上の事情はもちろんあるでしょうが、仙台の教育環境の多様化・充実の観点からも、大変素晴らしいと思います。小中段階からの人間教育が最大の特色。頑張れウルスラ学院。 ■朝日新聞(宮城版)でも紹介されていました。 (卒業式には伊達泰宗当主が直々にいらっしゃったそうで。すごい。) ■なぜか仙台市ガス局のHPに聖ウルスラ学院一本杉キャンパスの紹介 (ウルスラの挑戦を簡潔に紹介。校長先生が国会で説明しているのも、すごい。)
2006.03.03
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私は毎朝下の娘を保育所に連れて行きます。出る時間が遅くなった時など、ホレすぐそこだ、一人で歩いて行ってくれ、と言いたくなることもあるのですが、3月になって私の心情も少々複雑です。保育所に連れて行けるのも、もう1ヶ月もない、と気づいたからです。4月には姉と一緒に小学校に行くことになります。今朝はそのことを妻に言って、たまには連れて行ったら、と話してみたら、いつもの反発がない。拍子抜けしたが、どうやら同じような心情のようだ。話した自分も、改めて気づいて、やっぱり自分で娘を連れて行った。思えば、歩き始めたばかりの上の娘を保育所に連れて行き、2人を連れて行き、そしてまた下の娘1人だけになり... ついに今月で保育所ライフも終わり。毎日毎日、大変な日課をこなすようにして、子どもを「出す」作業に「追われて」きました。なにか半永久的に続く作業のように思っていました。気づきませんでした。終わりがあるのですね。時が来ればあたりまえのことなのに。子どもはしっかり日々成長していたのでありました。ふとそう気づくと、何ともいえない気持ちになる。この建物に、もう来なくなるのか。この私も。だいたい同じ時間に来る子どもたちとの会話も、もう終わり。もう電車に乗り遅れても良いから、少しでも長くいようかな、とさえ思う。早く支度しろよと怒りながら、子どもをおいて走るように去っていった毎日を、少し反省したりして。勝手なものです。親なんて。未就学児時代の終わり。私も、卒業です。
2006.03.02
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昨日(1日)はみぞれ雪の仙台でした。写真は我が家のおひな様。4日の土曜日には早速片づけなければならないのですね。もう片づけるしかない、と思うから、出すときの決断(気の重さ)に比べれば、迷いはありません。
2006.03.02
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伊達文化とは、決して既存の発想にとらわれず、中央の模倣をせず、気宇壮大で誇り高い。そんな伊達の文化や気風の真骨頂ともいうべき歴史上のエピソードが長崎の対馬にあり、対馬の人々は伊達に恩義を感じているというのだが、実は仙台ではあまり知られていない。秀吉の朝鮮出兵に際して、全国の大名が忠義立てのため、前線基地の名護屋(佐賀県)に着陣し、半島に渡った。半島攻めは元来無理な戦で、朝鮮側に三十万とも五十万とも言われる犠牲者を出し、また十万の半島住民が日本に連行される悲劇を生んだ。また渡海した日本側も飢餓や病死で数万の死者を出し、帰途の対馬で命を終えた者も多かった。東北からは26歳の伊達政宗だけが渡海している。途中、壱岐を経て、対馬に寄港する。伊達政宗の出兵は文禄の役の五ヶ月間だけだが、血気盛んな青年武将も、当地にあっては、老太閤の明国征服なる誇大妄想を内心で恨みながら、水が合わずに多くの者が死んでいく様を目の当たりにし、無益の戦を嘆き、また望郷の念を募らせていたようだ。ところでその40年後の寛永10年(1633年)、対馬藩の国書偽造事件が発覚した。この事件の経緯はこうである。関ヶ原に勝利した家康が、秀吉の侵略で断絶した朝鮮王朝との国交を回復しようと、対馬の宗氏を交渉に立てた。朝鮮側は条件として日本が二度と侵略戦争を行わないことを誓約するよう求めたが、宗氏の口から家康に戦争放棄を誓えとは言えず、窮した対馬藩は国書偽造を計ったのである。これが家光の時代になって、対馬藩の内紛もあって表沙汰になったのである。このとき、政宗は、宗家当主の義成を、「朝鮮の役で父上の義智公に危機を救って頂いた。今こそ恩義に報いたい」と励まし、死の前年、69歳の老体に鞭うって、三大将軍家光に諫言をした。いわく、昔から親しい朝鮮に向けて秀吉は理由もなく兵を動かし、天の報いで豊臣は程なく滅びた、その過ちを正された家康様に、将軍殿は合わせる顔があるのですか、と。かりに諫言に失敗し、強気に出がちな家光により戦いが勃発すれば、秀吉の二の舞になり内外に大きな混乱と犠牲が生じる...果たして、政宗の言葉に家光は諭された。政宗の他に家光にものを言える者はいなかった。政宗が大陸との和平を説き、朝鮮との友好をもたらした。また、幕府を欺く国書の露見で取りつぶしの危機に瀕した対馬藩を、伊達政宗が救ったのである。なぜ政宗は老体にむち打ってこのような行動に出たのか。対馬藩十万石は古代から半島を窓口に中国大陸とを結ぶ文明の回廊でもある。古くから朝鮮王朝とも親しく、半島貿易で藩を立ててきた宗氏は、秀吉の理不尽な要求に苦しんでいた。「朝鮮に討つべき罪などない」と漏らした宗義智の声を、若き政宗は深く受け止めていたのだ。朝鮮出兵を経験した自分が、今こそ動かねばならない、歴史を誤った方向に導いてはならない、そう直感したに違いない。この一件は、雄壮な武将政宗あるいは気宇壮大で豪華絢爛の伊達文化とはちょっと違う側面かも知れない。しかし、無益な戦争の反省にたち、歴史の対局を見誤らず行動し、そして恩義を大事にした、これも伊達の誇りだと思う。国際的視野をもった偉大なる政治家、伊達政宗の本領といえるのでないだろうか。(『仙台藩ものがたり』河北新報社編集局、2002年、第1章 を参考にしました。)
2006.03.01
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