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鳥海山麓はとても良いところだ。東北人でありながら、よく知らなかった。鳥海登山はもちろん、高原のサイクリングのメッカのようで、ホテルから朝早く出かける人たち。わが一家は朝はゆっくり過ごし、10時頃フォレスタ鳥海をチェックアウト。どうせ今日は仙台に帰るだけだし、天気も良いから、子供たちのやりたいことをやろう。フロントに教えてもらって子供の乗馬体験をすることに。昨日の道を戻るが、由利方面へ。花立牧場、南由利原高原、と昨日の遊んだところをちょうど逆戻りして、さらに、南由利原からは道を入り、一本橋を渡り(こう教えられたのですが)、由利ふれあい農場(ゆり高原ホースパーク)へ。2人の子には乗馬体験。曳き馬なら体験があるが、自分で手綱をさばくのは初めて。とは言ってももちろん先生がすぐ前にいるのだけど。30分くらい。結構緊張していたようだが、後から聞くと、ひもをこうひくと右に曲がるんだよ、とか得意げだった。いい思い出になったようだ。ここはちょっと前までは行政主導の物販やレンタサイクルなどもあったそうだが、今は行政とは無縁に個人で(ホースパークを)やっている、とインストラクターのSさんが語っていた。高原で見るサラブレッドは美しかった。さて、6歳の下の子がせがむのに負けて、また南由利原でサイクリングをする。よっぽど自転車が好きなようだ。今日はロードレース大会やっているようだから、家にかえってからやろう、とか提案したが納得しない。だって家の自転車は空気が抜けてるし、とか言われたので、もう観念した。やりましょう。昨日と同じ湖一週に、プラスして今日はさらに別の小さい周回コースもまわる。疲れた子供たちは車中でスヤスヤ。鳥海山麓に別れを告げて、一気に108号線を秋の宮温泉郷へ。るるぶで見ておいた蕎麦屋さんに入ろうと思ったのだが、電話したらこの番号は使われていないという。やむなく、大きな施設のフロントにそば屋さんを尋ね、国道沿いのKという店に入る。もう2時過ぎ、遅いお昼。ずいぶんと待たされた上に、さほどおいしくない。旅には、こういうこともある。108号線から宮城県に入り、一路仙台へ。帰宅は6時前。さて、鳥海山は今回初めて訪れた。海に近い独立峰で、容姿はすばらしい。北麓の高原アウトドアも楽しかった。知らないだけで、良いところはあるものだ。また家族で行きたい。鳥海山(2,230m)は東北で2番目の高さだそうだ。てっきり一番だと思っていた。いま地図をみたら、福島・尾瀬の燧ケ岳の2,346mが一番なのだろう。尾瀬には3年前の秋に家族で行った。長蔵小屋脇にある望遠鏡から覗くと、燧ケ岳のてっぺんを歩く人の姿が見えた。あの時は下の子をおんぶして湿原を歩いた。今なら、自分で歩いてくれるだろう。写真は宿のフォレスタ鳥海から撮影した、朝の鳥海山です。今回の費用、昼食やガソリン代なども含めて総計で8万9千円台でした。
2006.07.31
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29日(土)は曇り時々雨の天気。湯ノ田温泉の宿を出て、十六羅漢岩。展望台で写真を撮ったり海に浮かぶ飛島の青い島影を眺めたりしているうちに、妻子は下の海岸の羅漢さんを見に降りていった。ふと、妻子を見失って、あわてて反対側の小道を下に降りて行く。いない。展望台に戻って、今度は妻子の降りていった小道を降りて、ぐるっと一周するが、いない。まさか北朝鮮が連れて行ったかと、半分マジメに不審な船が海にこぎ出していないか目をこらしてみる。駐車場に戻ったら、子供たちが待っていた。ホッとする。鳥海ブルーラインを上るが、すぐ霧に包まれる。前が見えない。何とか鉾立のビジターセンターに着くが、車から降りもせずに、秋田側へ降りる。やがて霧から抜け出して、元滝という名所を訪れる。落差や幅がすごいわけではないが、清冽な水と、立ち登る霧。滝の美しさを眺める、というよりも、直接清流に身を委ねている、という感じだ。マイナスイオンもバリバリだ。最初は車一台しかいなかったが、帰るときには、ワゴン車で高齢のカメラ同好会のような方々、タクシーで来た観光客、団体のバスなどもつけていた。我が一家は南由利原高原へ。昼食のあと、サイクリングで湖一週。花立牧場公園へ移動し、バターづくりの体験をさせてもらう。ジャージー牛にエサをやったり、子供広場で遊んだり、と子供たちもハッスル。昼頃からは雨も降らず、夕方には太陽も見えた。宿はフォレスタ鳥海。部屋の窓からは頂上に雲をまとった鳥海山が見える。夕食の後、持ってきた花火をする。フロントにバケツなどを貸して頂いた。
2006.07.30
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ODAZUMA Journal の県外実地調査(単なる家族旅行デス)。昨日(28日・金曜日)は酒田を訪れる。酒田は三度目だが、町の大まかな地図は頭に入っている。2度目に行った4年前、神社の近くの寿司屋さんに飛び込みで入ってとてもおいしかった。昼すぎに強くなった雨の中、その寿司屋さんに向かう。あの坂のあたりだ、と車を回して、ズバリ。店の名は、鈴政さん、そうそう思い出した。駐車場の位置が変わっている。子供たちも、おいしいとご満悦。あらためて北前船で栄えた港町に思いを馳せる。この寿司屋さんのあたりは、今でも料亭など飲食店街となっているが、往時はさぞかし華やかだったろう。私は酒田の町は好きだ。ちょっと石巻とも似ているが、酒田の方が中心市街地の風貌や文化的たたずまいは格が上だ。3度しか訪れていないが、地図を見るだけで楽しい町だ。土砂降りの雨になったが、雨の時に備えて調べておいた光が丘室内プールへ向かう。しかし、中学生の記録会か何かで一般利用はダメ。窓口の人に「残念だったの」と同情していただく。野外は一切活動できないから、もうプールに絞って、窓口の人に聞くと、湯野浜にスパールという施設があるという。決断。豪雨の中を県道(空港通り)を湯野浜(鶴岡市)へ南下。途中2カ所ほど路面に水がたまっている場所があったが、とにかく南下。スパールは、「県民の海」という県立施設のようで、4時過ぎまで楽しんだ。プールにスライダーに、子供たちは大喜び。外は相変わらずの豪雨。宿に遅れるかも知れないと電話した後、再び酒田を経由し、宿の湯ノ田温泉(遊佐町)へ向かう。空港トンネルを抜けたあたりは水が深くなっており、マフラーに水が入らぬかとヒヤヒヤ。しかし、酒田を抜けた頃は豪雨も止み、7号線を快適に北上。お世話になった旅館は、海岸沿いの木造の建物。日本海と7号線の間の狭いスペースに建っているから玄関は国道下、客室と浴室の窓の下は波打ち際。夜にまた雨が降り出して、波の音と風雨とで、上の子はなかなか寝付けなかったようだ。夜中に私の布団に来たが、すぐ妻の方へもぐりこんだ。
2006.07.29
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宮城を代表する山で、秋田、岩手、山形とも縁の深い栗駒山と蔵王連峰。栗駒の名は、栗原にある駒ヶ岳の意味。山の名前というのは、各方面からさまざまに呼び名があって、やがて自然にか人為的にか統一されていくのだろう。駒ヶ岳は、残雪が馬の形になることから。私も地元の人に指さして教えてもらったことがある。馬もいるし、種まき坊主もいる。農耕のカレンダーだ。そして栗原の名は、8世紀に中央政府が北方対策の拠点とした伊治城(栗原市築館城生野)に由来する。訓読みで「これはり」で、これに栗原の文字が当てられた。昨春には遂に市名になった。従来の町名は大名の名や城館の名に由来するものが多いが、21世紀に栗原の名を冠したのは、新しいスタートに好適だ。葛西や伊達などよりもっと歴史も古いし、山の名にまでなってスケール感もある。蔵王の場合は地名由来ではない。そもそも蔵王は連峰であって、個々の山は、熊野岳、刈田岳、屏風岳、不忘山などの名がある。古来の山岳信仰に密教(仏教)が結びついて、修験道が生まれ、山奥での修行が行われるようになると、蔵王も修行の場とされた。そして、蔵王権現(仏像)が祀られた。現在、刈田岳の頂上に刈田嶺神社があるが、維新まではここに蔵王権現が祀られていたそうだ。権現は仏様が、現世に仮に(権は仮の意)姿を現すもの。蔵王と呼ばれる姿の権現だ。活火山で厳しい修行をする場にふさわしく、怒りをあらわにした姿の仏様だ。カップラーメンの「ラ王」が登場したとき、蔵王を連想したのは、私の他に3人くらいはいるのではなかろうか。語感だけではないのです。
2006.07.28
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梅雨の晴れ間も今日までらしい。一日子供たちといっしょの今日は、午前中に子供の宿題やら、雑事やら、近くの公共施設に行った後、家でヤキソバを作り食べさせる。午後には旭ヶ丘の科学館へ。上の子が一度学校で行った際に、とても面白かった、夏休みの研究テーマ探しにもなるし、お父さんの休みになったら、いくぞ!! さあ、いざ、こどもパスポート持って行くぞ~!!と意気高々に行ったのですが、あれあれ、「休館日」とバッチリ看板あり。こどもパスポートをよく読むと、毎月第4木曜日は休みだそうで... 泉の宇宙館や仙台文学館も同様。ションボリ。上の子も、「来てしまうと、残念だね~」などと言う。しかし、親の心境もわかってきたのか、あまり責めることはしない。ああ、我が子よ成長したな。よしよし。さてどうするか。我が家の困ったときの一手は、いつもコレ、県民の森のアスレチックです。最近新しい木製遊具ができたし、あまり混んでいない。もちろん無料。あそこに限ります。去年の春三月頃だったと思うが、筋肉番付的なテレビを見ていてストレス発散したくなった上の子を、県民の森のアスレに連れて行ったら、大満足。それ以来頻繁に行っています。2週付き合わされた日もあります。今日は、新型のすべり台に初めて乗った。前は、雨の直後のためか使用禁止だったので、初スベリ。子供たちは何度も駆け上がっては滑る。この写真は、そのすべり台の最終地点で横になったまま見上げた空。高い木の葉が、ゆるやかな風になびいて、波のよう。子供たちもこのビューポイントを楽しんでいた。中央広場から記念館に上がるところが以前は急峻で、木の根っこをつかみながら登っていた。娘と私は「ファイト一発の坂」と名付けていたが、そこに、木製の階段が取り付けられていた。結構あちこち変わっている。それから、記念館のホールに以前あったアイスの自販機も消えていた。家に戻って一息。あとは、晴れているうちにと思い、芝刈り、洗濯物タタミ、夕食のおかずはサバを焼いて食べさせる。すっかり暗くなり、寝そべって、のんびり「奇跡のアンビリバボー」を見ていた。よくある姿勢なのだが、私がうつぶせに寝て、その上に娘2人が座ったり横になったりして、本を読んでいる。お父さんは、腰や背中が気持ちいいので、安楽のひととき。さらに説明すると、防災用のラジオを傍らに置いて、楽天の途中経過を随時チェックは当然。すると妻が帰ってきて、はやく風呂に入れとか、○○は終わったのか、○○はどうなった、などとまずはヤカマしい。こっちは一息ついているだけなのに。いつもの私が、多分このようなのだろう。
2006.07.27
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今一息ついたが、朝からアツくなっていた。外の気温じゃありません。私が、です。宿題やピアノ練習をやったら出かけるぞ~、と子供たちに言い、8時半頃から2人の娘はそれぞれ、読書やピアノ。上の子はピアノ練習を私が聴くのを嫌がる。あれこれ言われるから、である。私はいつも言う。練習はキッチリやれ。早く済ませたいなら、なおさらチャンとやれ、と。今日はどこまで、何が課題か、を意識しないで、姿勢も変にしてやる、いかにも、はい練習しました、というだけの練習なら、やめてしまえ、などといつも怒号するものだから、いい加減娘も嫌だろう。わかる。さて、今朝はあるところでどうしてもつまづく。音楽之友社の子供のバイエル下巻というやつです。Andanteで4分の3拍子。8分音符で裏から入る主旋律で、左手は8分音符の簡素なアルペジオ。楽譜の16分休符の直後のGの音を、どうしても8分音符のように弾いてしまう。おそらく、アウフタクトで入るフレーズが続く関係だろう。いろいろ説明した。○ ここまでずーっと裏から8分音符で入ってきたが、それとは長さも意味も違うのだ○ 16分休符はないものと考えて、この小節の3つの拍は(ピアノの先生は初歩の時にはリンゴ三個と教えているようだ)「付点8分+16分」が3回繰り返される、と考えろ○ 音程にひきずられるな。この小節内を「付点8分+16分」全部Fの音で弾いてみろ。リンゴ三個全部平等に扱え○ 16分音符で止まるな。次のEにアクセントあるのは、ここはしっかり拍に入れ、ということ。むしろ16分音符(G)は省略して練習して、後からつけても良い。全部16分音符に分解して弾いて見せたり、紙に書いてみたり... それでも直らない。まあ、本当はここにだけこだわるつもりもなくて、全体ができたら、修正して自然とわかるようになるのかも知れない。それに、音の物理的な長さができたと言うだけで、音楽ができたわけでも何でもない。あまりこだわりたくないのがホンネだ。それに、教え方は全く我流だから、ピアノの先生の教えにジャマになってはいけない。自制心はあるつもりだが...だけど、ついついこっちも熱くなる。何とかできたように聞こえたが、とりあえず「できたじゃないか」と言っておさめた。最初は、私の言っていることが解らないと繰り返していた娘にも、言っている意味がわかったようだ。右脳左脳の議論じゃないが、私はどうしても楽譜から入る。楽譜は便宜上記号で音楽を書き留めたノートであって、譜面で音楽全てを表現や記録できるわけではない。無理に一定の論理法則に押し込めて書いたものとも言える。例えば、桑田佳祐は楽譜を読めないという。それでも立派に曲を作り演ずる。実は外国語についても、私はそうだ。頭の中で文法書のページを忙しくめくりながら会話する。日本伝統の、文法から入り英会話英作文に出る、式の人間だ。フランス語は今では簡単な読み書きしかできないが、学生時代はやっぱり活用表を頭に浮かべて会話していた。場に合わせた表現が自然にできるようになる、というのはもっともらしいが、ネイティブでないいじょう、それしかないだろう。日本人が考えてきた文法と学習法が結局もっとも有効だ、と思っていた。カネがあって留学する人はいざ知らず。もちろん、英語の先生に言わせれば、私のような伝統的?考えもあるけど、今の学校英語教育の考えはだいぶ違うのだそうだ。学習の興味を持続させるという面もあるのだろう。実は私は、文法それじたいが非常に面白かった。言語の成り立ちとか、思考構造とかに思いを巡らして。漢文や日本の古典も、そのような意味で、面白かった。これは、ちょっと特殊かも知れない。話が戻って、音楽もそういう面があった。小学校の図書館に、旧字体で書いているような楽典の本をみつけて乱読したが、耳ざわりの良い音楽も、じつは科学的に説明されて居るんだな、と関心をもった。男だからだろうか、男の中でもリクツっぽいからだろうか。どうも私の特殊性のようだ。
2006.07.27
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今週の月曜日だったと思う。雨だったので、バスに乗った。たまたま乗った市営バスだが、どうも様子が違う。運転手さんが、「ただいま停止信号です」「雨ですので傘などお忘れ無いように」「定刻より4分ほど遅れまして大変ご迷惑をおかけしました」などとアナウンスする。 あれ、これはと思って、車内の表示を見ると、やっぱり白沢出張所管轄のバスだ。 最近新聞に出ていた。以下にちょっと要約する。 ■河北新報記事 バスの行く先 第1章〈1)(06年7月12日)------------仙台市交通局は本年4月から5年間、白沢出張所(23台)内の運行業務を入札でJRバス東北に委託、同社社員が運転手を務める。経費節減策の一環で、背景には深刻な市民のバス離れがある。利用者数は1980年度の1億1000万人をピークに減り続け、2004年度は4000万人にまで落ち込んだ。乗車料収入も86年の136億円をピークに、04年度は84億円に減少。この5年間の委託で、運行本数を減らさず約6億円の経費節減が図れるという。人件費が縮減できるからだ。 仙台市に限らず公営バスは一般に民間に比べ人件費が高い。市交通局のバス運転手の平均年齢は49.5歳(04年度末)。一方、白沢出張所にいるJRバス東北の運転手の平均年齢は約35歳。市バスは、市街地の路線でも赤字に悩まされている。全49路線のうち、唯一の黒字路線は、鉄道開業に伴い来年3月廃止される仙台空港特急リムジンバスだけだ。 民間委託は、道路運送法に基づく通達で「バス路線の長さか使用車両数の2分の1が上限」と決められている。00年から民間委託を開始した京都市は、全車両数の半分に当たる375台まで委託を進める計画だ。現在までの委託台数は324台。財政効果は06年度までの合計で77億6100万円に上る。同時に、職員の削減など人件費を抑える取り組みを実施。さらに管理職手当、早朝や深夜の乗務手当も見直した。この結果、02年度決算で約50億円だった赤字が、03年度には11年ぶりに黒字に転じ8億円を計上。04年度も9億円の黒字となった。同様の公営バス民間委託は神戸市、兵庫県尼崎市でも04年度から行われている。 札幌市の場合は、民間委託ではなく事業そのものを民間に移管。03年度から段階的に民間会社3社に移管し、04年3月末で市はバス事業から完全撤退し、翌日から民営サービスが開始された。路線移行時の混乱を避けるため、市は事業者に当面の間、市バスが提供した運行サービスの維持を求め、一部に補助金を出す。事業者が新バス停を設けたり本数を増やしたりして、むしろサービスは向上したという。函館市、岐阜市でも同様。------------ 公営バスも大変だ。人員整理は困難だし、定年不補充策は即効性がない。たしかに外部委託は良策だろう。 ただ、明らかに言えるのは、地下鉄はもっと大変だろう。バスの場合、経費(営業的支出)の実に78%が人件費である(04年度決算)。労働集約型と言えるが、逆に言えば全体の経費が地下鉄に比べれば圧倒的にサイズが小さい。人件費は90億円である。なお、06年度予算では、人件費は84億円、70%に下がっている。地下鉄の場合、人件費(約28億円)は、経費の17%に過ぎない(同決算)。減価償却費が52億円、支払利息が59億円と、ガッチリあるのだ。なお06年度予算では、人件費は33億円に上昇している。(以上、仙台市交通局のHP による。なお、06年度予算の地下鉄(高速鉄道事業会計)の「収支見込み」の支出の費目構成が間違っているようだ。減価償却費が営業外費用の内数になっている。) ともかく、これが民間委託バスか、とまずは実感の乗車であった。
2006.07.26
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随分前のことだが、平日のお昼過ぎに仙台駅ホームで電車を待っていたら、背後に何か入線してきた気配。振り返ったら、試運転と掲げた新型の車両。JR東日本E721系だ。並んでいる列を離れて、わざわざ携帯で写真を撮る私を、列に並んだ人がいぶかしげに眺める。(携帯のフォルダに写真が残っていたので思い出して日記にしております。)新しい銀の車体がスマートだ。緑と青のラインは、何故か昔の富士銀行を思い出してしまった。仙台空港線に走らせる予定だそうで、床面がホームと同レベルで、車椅子のまま入れるトイレなど、などユニバーサルデザインに配慮。シートにはビニールが張られていた。試験のためだろう、機材を持った乗務員が何人か降りてきた。運転台をちょっと覗いてみたが、なにやら画面型のモニターがある。これも従来のメーター計器とは随分違うようだ。新しい時代の息吹は、時おり何かモノに表れて登場する。それが物質文明というもの。クレジットカード、パソコン、携帯電話。そこまでエポックメイキングではないが。いや、毎日乗る電車だから、実感はかえって深いとも言える。高校生の頃の通学は、まだ客車だった。発車停車時にガクンと来る。最後尾車両に乗って友人と過ぎゆくレールを眺めたものだ。その後すぐ東北本線から客車は消えたように思う。電車も現在は417系や719系。今後は、徐々に721系が主力になるのだろうか。時代は着実に進むのだと思わせる。■仙台百景画像散歩 以前の記事です。 ○仙台百景画像散歩(その10 ワンコイン端末)(06年7月7日) ○仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) ○仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) ○仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) ○仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) ○仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) ○仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) ○仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) ○仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) ○仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2006.07.25
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仙台藩の財政を調べようと思っている。現在どこの自治体も財政改革と騒いでいるが、太平の藩政時代に、わが伊達藩も苦しかったはずで、吉村の藩政改革で息を吹き返したとの言い方もあるが、米相場の影響で一時的に赤字が解消したのだろう。全国第三の大藩を標榜しながら苦しい台所だったはずで、何が原因で、改革が進まないのはなぜだったか。今に通じる仙台の役人や商人の苦楽がわかるか、或いは、現代に何か学び取れるものはないのか。できれば Odazuma Journal が継続的に取り組む一大テーマとして、考究していきたい(企画倒れの予感有り)。今回は、ちょっと変わった角度から入る。すなわち藩札発行について調べた。藩財政の歴史を赤字対策の面から観る。有価証券の勉強にもなるという思わぬ副収入もありそう。(主に伊東信雄『仙台郷土史の研究』1979年、宝文堂出版)1 貞享の金札 我が国で紙幣が多く使用されるのは江戸時代。幕府自体は発行しないが、各藩が領内の紙幣を発行。寛文元年の越前福井藩の銀札が最初とされるが、仙台藩では、ハコモノ好みで借金を抱えた4代綱村の時代、若老の古内造酒之祐が発案して、貞享元年(1684年)に初めて金1分札を発行。 そもそも紙幣とは正貨との交換が保証されて初めて流通するのだが、藩政の窮乏を救う目的だから正貨の準備などなく、むしろ藩札を流通させるために藩内の正貨通用を禁じて、正金を藩に引き揚げようとした。結果として札は信用を得ず、使用に制限のない銭の相場が高くなる。物価高騰を来して社会を混乱させた。 こうなると結局、藩札を回収し正金通用に戻すことになるが、藩札回収のための資金を調達せねばならない。正金を得るためには、江戸、京、大坂の商人からはすでに借財し尽くしたから、江戸回り米の代金しかない。そこで、貞享3~4年度は借金の返済を中断して、返済に回す予定の米代金を、藩札回収に振り向けて、元禄2年(1689年)まで4年かけて藩札を回収した。2 元禄の金札 貞享の失敗に懲りず、綱村が幕府の許可を得て、元禄16年(1703年)に再び発行。物価高騰と経済停滞で、早々に打ち切ることとしたが、発行済みの藩札を正金と引き替えるにも正金が準備できない。本当は「札潰し」にしてしまいたいが、大藩の面目が許さない。そこで、宝永2年(1705年)度の藩士の禄の半分を召し上げる大胆な措置に出た。今で言う公務員給料カットだろうか。 ところが同年は干ばつで減収が激しく、結局2カ年に分けて召し上げた。そして、宝永3年にやっと金札の禁止、正金使用が命ぜられた。もっそも、現実にはどの程度まで正金引き換えができたか怪しいようだ。3 天明の銀札 元禄の金札の後、しばらくは藩札は使用されなかった。藩財政の悪化につれ発行論は唱えられたが、濫発の弊害をおそれたのと、幕府の金銀札禁止令による。 しかし天明3年(1783年)の冷害が大凶作を招き、56万石の減収となり藩財政も危機をきたし、幕府の老中田沼に賄賂を使って、救民のためを強調して藩札発行に踏み切った。発行には、藩主重村も関心を持って参画し、説明文を自ら起草している。 これが天明4年(1784年)の銀札である。関西と異なり銀貨がほとんど使われない仙台藩で、なぜ銀札かというと、金札に厳しく銀札に緩やかな幕府の意向によると考えられる。 これにより正貨である金貨使用は禁令となり、柳町三浦屋惣右衛門方の両替所で銀札と引き換えて使うこととなった。藩では4月10日に藩士の登城を命じ、全奉行列席の上、4月14日から銀札を一定割合で家中に貸付け、返済は年賦にするから、各自生計を新たにし、質素倹約して奉公せよ、と申し渡している。12日には御触れとして一般に周知。藩士には貸付だが、一般で困窮の者には無償で与えた。 今回も札は不人気で円滑に通用せず、他方で従来通り使用できた銭は払底してしまい、物を売買する手段が喪失。裕福な商人以外は物を買うに困る事態を招いた。銀札の相場は急落し紙くず同然、物価の高騰が起きるから、銀札を懐に行き倒れる餓死者が続出したという。 これを放置できず銀札を回収する必要があったが、かといって正金と引き換えるのは藩財政が許さない。そこで、正貨の通用を解禁し、公の支払には正貨を用いるべきとしながら、銀札は時価での通用を継続した。この間、わずか5ヶ月で、仙台藩の藩札で最も短命。 正貨を銀札に引き換えるものが少なく、藩のもくろんだ民間の正貨引き揚げは結局進まなかった。むしろ、銀札回収のため、献納者には苗字のほか、扶持の特権を与えたことで、これが更に藩財政の負担にもなった。日野屋などの大商人たちは、銀札の正貨引き換えの約束を藩が実行しなかったため損失を受けた。4 寛政の米札 幕府は宝永4年以降、しばしば法令を出して金銀札を禁じてきた。すると諸藩では、米札などの名称で藩札を発行するようになった。仙台藩は、例外的に幕府に認めさせた天明の銀札が失敗したため、再び金銀札が許可される見込みはなかった。そこで米札を案出したのだ。 米札は、米の代金を支払う形式の金銀の引換券である。仙台藩の場合、買米と呼ばれる米の専売制度があり、自家用米と年貢米以外は藩が買い上げて、米価の高い江戸に送出して藩の収入としていた。しかし藩に米を買い上げる資金が無かったので、米札を発行して、買米を江戸で売った代金で金貨に引き換える、という方式を考えた。 仙台藩は、寛政6年(1796年)にこの米札を発行。しかし、天明の銀札の失敗の記憶もある時代、百姓一揆も懸念され、これも成功しなかった。5 升屋平右衛門預かり手形 失敗のオンパレードの仙台藩藩札だが、これだけは信用を得て流通した紙幣である。寛政年間から仙台藩蔵元となった大坂の豪商の升屋平右衛門が、文化6年(1809年)に発行した預かり手形。 預かり手形とは、形式上は金銀の預かり証文で、幕府の金銀札禁止令に反しない点では米札と同様である。具体的には、升屋平右衛門から為替組あてに発行した手形である。1枚1枚筆で書かれ、裏面には番号を記している。升屋は引き換え準備金を十分に用意したので次第に信用が出て、円滑に藩内に流通するようになった。幕末まで流通し、仙台藩では藩札を単に手形とも呼んだ。 升屋は藩の財政を一手に引き受けることとなり、買い米も担当したから、自ら発行する藩札で領内の米を買い、江戸に回送し深川で高く売って正金を得る。藩札が信用を得ているから、農民に直ちに正金を引き渡す必要がない。このカネを大坂に回して大きな利子を得る。こうして升屋は莫大な富をなした。この妙案は、升屋の大番頭で学者の山片蟠桃の発案。 なお、偽札も登場したため、文政2年(1819年)からは京都西陣特注の小さな布片を貼り付け、仙台領内の模造を防いだという。 この藩札は、25年間継続して発行され、天保の凶作後の財政に関する意見対立から、天保5年(1834年)升屋が仙台藩の蔵元を断られるに至って、発行を終了した。もっとも、既に出回った手形は流通を続け、天保8年以降の両替所預かり手形とともに使用された。そして、両替所預かり手形の乱発で相場が下落すると、升屋手形も信用を落とすこととなる。 現在残る升屋手形が他の藩札に比べ汚れの多いのは、長年の流通を物語る。6 両替所預かり手形 天保7年の冷害大凶作は飢饉を招き、仙台藩は92万石の大減収となった。年貢米はもちろん、百姓の飯米も足りず、当然ながら買米はできないから藩収入も皆無。他領から高価な救援米を買い入れたが、領外には正貨を支払わねばならず、30万両以上の正貨を失って藩財政は危機に瀕した。天保5年に縁の切れた升屋に借りることもできず、天保8年、藩では升屋手形にならって藩が新たに預かり手形を発行した。これが両替所預かり手形である。両替所とは南町の藩引換所をさす。 しかし、正貨の準備などなく、ただ升屋手形の信用に便乗したこの札は、領内の使用には役だっても、他領への支払には使えない。たちまち藩札が下落し、天明の銀札の際ほど著しくはなかったものの、物価高騰となって領民を苦しめた。7 改正手形 安政3年(1856年)に藩の蔵元となった大町の商人、中井新三郎が両替所名義で発行。一般に改正手形と呼ばれる。中井は近江商人で平素は近江国日野に在住。元文5年(1740年)に仙台大町に古着店を出して巨利を博し、幕末の仙台城中では、佐助(佐藤助五郎)と並ぶ豪商。藩の御財用方御用達の筆頭となり、安政3年には遂に藩の蔵元となったものだ。 中井は、改正手形を条件に望んで蔵元を引き受けたようである。中井の計画は、手形が額面の4分の1に下落したのは引換準備金が足りないためだ、準備金を上方借金で調達する(実際には自分のカネを藩に貸す)、その際に藩の名義では信用がないから、中井自身の名義で借金して藩札を発行する、その代わりに買米は仲居に任せよ、という条件であった。 時あたかも黒船直後で仙台藩も蝦夷地警備、大砲鋳造など巨額の軍事支出を強いられ、さらに、13代藩主慶邦と八代姫の結婚費用もかさみ、窮乏の時であった。藩は上方からの借金を模索したが、従来の貸金20万両のカタをつけなければ融資はしないと強硬に断られた。そこに、仙台藩の財政支配権を上方から奪取しようとしたのが、中井である。 藩内では主席奉行の芝多民部が、中井の献策を採用し、蔵元に任じた。 この手形は国分町の引換所で、徐々に旧札と引き換えることとされた。しかし、発行高が増すにつれて準備金が枯渇。芝多民部は巨額の支出を工面するため、準備金にお構いなく手形を増発し、紙幣インフレが生じた。
2006.07.25
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新聞の隅に出ていたが、23日投開票の銚子市長選は、現職の野平匡邦氏が接戦で敗れ、新人の元中学校長が当選した。野平氏は4年前にやはり現職を破って当選した。今回は、大学誘致の評価や合併の破綻などが争点だったようだが、ザーッと報道をみただけだが、独善的な市政運営に批判が強かったようだ。現職野平氏の政治手法を批判し、市政の混乱の解消を訴えた対立候補者の1人は、4年前の野平後援会幹部である。仙台市役所にも居た人だ。指定都市になってから仙台市も旧自治省からの人事を積極的に受け入れた。この方は、地道で手堅い役人と言うよりは、闊達で洒脱、自由自在な思考と言動。たまにこういう人もいる。銚子出身、地元の秀才で、また地方財政の経験豊富ということで、1期目は皆が見守っていただろう。この人に限らないが、役人出身の政治家や候補者には、例えば行政経営のプロという言い方をする人がいる。良いことだろうが、結果がでるかどうか、だ。経営手法それ自体や秀才ぶりに投票するわけではない。たまに取り違える人がいて、オレのこのやり方でいいだろう、付いてこれないヤツが悪い、というタイプ。独尊だ。言い方は悪いが、オレが首長になってやっているんだ、という感覚か。首長ポストは社長じゃない。市民が選ぶ公職だ。秀才ぶりの発揮は別なところで存分にやってもらえばいい。秀才でも愚直でも、どっちでもいいが、市民のためになるかどうか、だけのこと。
2006.07.24
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昨日(22日)の秋田大会準決勝で、本荘高が故意に三振するなどしたのは、フェアプレーに反する行為で、県高野連は本荘に対し始末書を求めた、との記事を各紙が一斉に報じている。県高野連によると、12-1でリードしていた本荘の尾留川徹監督が、7回表1死二塁の攻撃で、打者に空振りを指示。打者は明らかなボール球を三振、そして走者も無気力な本盗でわざとアウトになった。試合はそのまま7回裏の秋田高校の攻撃を終えて本荘が12―1のコールド勝ち。 規定では雨天コールドは7回が終了すれば成立。7回終了前で雨天中止なら、ノーゲーム再試合になる。だから、大雨の中で「大差の」試合を続行している渦中の両軍ベンチの思いは対照的だろう。 大差をつけている本荘は、主催者が雨天中止を決定する前に早く7回表裏まで終わって欲しい。でなければノーゲーム再試合になってしまう。なお、雨天でなくても5回終了時で10点差ならコールド成立だろうが(秋田大会の規定を確認していない)、この試合では5回終了時には9-1で8点差。問題の7回表に本荘が3点を追加して11点リードしたから、今度は7回コールド(これも規定を確認していないが7回で7点差ならコールド成立)がますます現実味を帯びてきた。雨でないなら、7回裏をじっくり守り切ればいいだけだが、雨が強くていつ審判が中断するか、気が気でない、という状況だったろう。 対する秋田高校は、12-1となった以上は、7回裏に5点以上を奪いまずコールドを阻止、9回までの2イニングで7点差を詰め寄る。雨でコンディションが悪いから相手に乱れも出るだろう。一方で、もし雨天ノーゲームになるならラッキー。主催者次第だが、7回表裏が簡単に終了しないように気をつけなければ、といったところだろう。 本荘の監督は、空振りの指示を認め、早く回を終わらせて試合を成立させたかったと答え、秋田が遅延行為をしたとも言及している。秋田の監督は、負けた以上の屈辱だ、と話した。 本荘は秋田大会の本命である秋田商を破り、優勝に向けて躍進中。対する秋田も伝統的に文武両道の強さを誇り、春の中央地区大会決勝では、本荘を相手に延長14回を4―3で秋田がサヨナラ勝ちしたという。因縁もある訳だ。 まあ、どうだろう。フェアプレーに反するといえば、たしかにそうかも知れない。しかし、雨の中でどう試合運びをするかは、戦術の一環だと言って良い。プロ野球でも、雨天下のゲーム運びにはいくつかのセオリーがある。また、場面は違うが「敬遠のフォアボール」もフェアプレーに反するという意見もあろうが、高校野球では、松井や清原が敬遠されたが、始末書にはならなかったはず。バレーボールでも「このセットは落とせ」はあるだろう。サッカーで終盤に1点リードしたら、パス回しして反撃の目を摘むことをやるが、誰も非難しない。 今回の件では、「明らかな三振」「アウトになるための走塁」だから際だっているのだろう。自らアウトを献上する行為は相手に失礼だということか。たしかに敬遠とは明らかに違う。 でも、と私は思う。晴天ならコールドゲーム、雨という偶然でギリギリのノーゲーム...これはつらい。連投の投手の心配もある。本荘の監督の心中は、わからないではない。 むしろ、どんなときでも全力を尽くせ、という「精神」を強要する側に違和感を覚える。大差で負けていても全力でプレーする、大差で勝っていても正々堂々勝負する、それが美談で、記事になる。それで読み手が満足するなら、それはそれで構わないが、当の高校生の勝負とは別の世界だ。 高校野球には、スポーツとしての野球とは別次元に、「高校野球観」というものがあり、日本の文化の1つの柱になっている。大多数の国民は、「誉める野球」「観る野球」として捉えているから。 大人の判断としては、アウトを取りに行く行為をとらず、審判の「合理的な」判断(7回裏まで攻撃させれば秋田高校も納得するとの判断が働くはず)に期待すべきだった、ということだろうか。 とりあえず、始末書で済むなら良いとでも考えよう。 本荘高校には、決勝戦を全力で頑張って欲しい。 1件目が長くなったが、もう1つ、宮城大会の、松山-東北戦。0-0で3回雨天コールドの後の再試合が昨日(22日)にあった。ラジオで聞いていたが、松山高は投手が三振を奪うなど、昨日の勢いを引き継いでほぼ互角に戦う好試合で始まった。しかし、結局は2回と3回の守りの乱れがひびいて、負けた。 こちらは雨の水入りが東北に利したかも知れない。しかし、善戦の松山高校、あっぱれだ。以上は朝書いていたが楽天さんのメンテナンスで書き込めなかった。先ほど(夕方6時半ころ)帰宅して確認したら、本荘は決勝戦をサヨナラ勝ちで見事代表。甲子園でも頑張れ。
2006.07.23
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21日(金)の岩手日報の特集号を手にしている。130年記念特集だ。明治9年の創刊から130年だという。わが河北新報が明治30年だから、すごい歴史だ。明治天皇の東北巡幸の報道が第1号だったそうだ。特集号の中に、各界の先輩のインタビュー記事がある。当然岩手にゆかりの人なのだが、載っている人はというと、 村上弘明(俳優) 小山実稚恵(ピアニスト) 栃乃花 中村誠(グラフィックデザイナー) 梅原誠(シチズン時計社長)小山さんは仙台出身と思っていたが、育ったのは盛岡なのだそうだ。盛岡二高の出身とか。「音楽は風土から生まれます。自然に囲まれた盛岡が私の感受性をはぐくんでくれました...」と、メッセージ。盛岡人がみれば涙が出そうです。
2006.07.22
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昨日は小学校の終業式。我が家の子たちも通知票と荷物をもって帰ったようだ。夜に帰宅すると、1年生の下の子は初めての終業式だが、もらったもらったと大喜びしている。喜んでいるのは、通知票ではなくて、「きゅうしょくペロリ賞」の方だ。ペロリ賞は、給食を15回以上完食した人がもらうそうだ。1学期に50回以上は給食があっただろうから、15回で表彰するというのは、相当残している実態があるのだ。祖母によれば、子供以外の周囲からも話を聞いているのだろうが、給食の量が結構多くて残す児童が多いようだ。上の子も、給食は量が多いと言っている。う~ん、私には信じられない話だ。給食を残す、なんて。さもしい根性だが、オレなら、家で食わなくても学校の給食はお代わりしたはず。1度おかずにアリが入っていた時以外は、残した記憶はない。給食が楽しみで学校に行ったようなものだ。豊かな時代の象徴なのか、過食を戒める風潮なのか。量が多くて太ッチョになるという声もあるそうだ。妻や祖母も、どうもそれを気にかけているようでもある。1年生の子の担任の先生は、ことし新任の先生だ。先生も初の終業式で、大変ご苦労様でしたと言いたい。児童も親も地域も一筋縄では行かない昨今の学校事情だろうが、とにかく子供は学校が楽しいと言っていますから、まずは満点ですよ。ついつい仕事柄(実は無関係だが)、先生の立場に立ってしまう。毎日、ペロリする児童をチェックして、賞状を書くのも、手間がかかっただろう。こっそり子供には言った。給食は全部食えよ、と。
2006.07.21
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政宗の墓の発掘調査は、コンクリート製造りで瑞宝殿を再建する際に行われた。新しく基礎を作ることになるし、墓室の位置も不明で、さらに地下には乱掘された亜炭の坑道があり、難しかったようだ。たしか、宮城県内で驚異的な視聴率を記録したNHKの大河ドラマ「独眼竜政宗」(昭和62年?)の最終回にも、政宗この人だ、という風に発掘風景を映像で流したように記憶している。さて、無事、文献に記録されたとおりに石室が出現し、遺骨が確認された。身長は159.4cm、当時なら標準的。米沢で落馬した足の骨折痕(治癒)も見られたという。そして血液型はB型だったという。
2006.07.20
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仙台駅で何気なく手にしたパンフレットは、盛岡さんさ踊り。花火大会の写真もある。そういえば、もう7月も半ばを過ぎた。これから8月にかけて、東北も短い夏本番。夏祭りの季節だ。この盛岡さんさ踊りのパンフには、「東北5大夏祭り」と銘打っている。一般には、東北の3大(夏)祭りと言えば、青森ねぶた、秋田竿燈、仙台七夕、で決まりだろう。小学校の頃からそう覚えている。しかし、「4大祭り」だと、山形の花笠が入るのか、或いは岩手チャグチャグ馬コなのか、と迷う。多分、これは我こそ4番目だ、という地域が主張するのだろう。一般には山形だと思うが。それから、「6大祭り」という言い方も聞く。6県から満遍なく選ぶとすれば、例えば、福島の代表格である「相馬野馬追」を加えるだろう。子供の頃に聞いたのはこれだったように思う。しかし、組み合わせパターンには異説も多かろう。弘前を加えたり、とか。ところで、盛岡さんさ踊りの「第5番」とはどういうことか。そもそも従来はあまり聞かなかったように思う。最近になって観光イベント化したのだろうか。ある旅行者のツアー「東北五大夏祭り5日間」では、上記3大祭りのほか、山形の花笠と「五所川原の立佞武多」だった。さんさ踊りは、ない。もっとも、これは「5大祭り」というより、祭りを5つ組み込みました、という意味か。日程の組み合わせ方もあるのだろうが。ここで気付く。季節の問題も絡んでいるのだ。「n大祭り」というのと「n大夏祭り」というのでは、対象時期が異なる。「夏祭り」は当然夏に限られる。逆に言うと、盛岡さんさ踊りは、(チャグチャグ馬コが6月なのに対して)「夏祭り」として堂々と自己主張して、ツアーにも組んでもらう、というアピールだろう。しかも8月1日で、ツアーのトップの位置を狙っている。ツアー対象となることも踏まえれば、「夏祭り」は8月上旬に限られることになる。交通の事情もあり、高速道から遠いところは立候補できないだろう。これに続けとばかり「6大夏祭り」と銘打って6番目の座を自称する都市もあるようだ。この点では、7月下旬の相馬野馬追も、「6大祭り」には入れても、「6大夏祭り」にはなれないのだ。さて、これらの著名な祭りで、仙台七夕以外に見たことがあるのは、青森ねぶた。小学生の頃、青森におばさんが住んでいて、夏休みに祖父と行った。祖母だったかも知れない。祖父と祖母と、それぞれ一度づつ連れて行ってもらい、どっちかの時に見た。普通列車で1日かけて行ったはずだ。暑い夏、夜に張りぼてが光って動いて、夜の海に流したような光景の記憶。あれが青函連絡船だと教えられ、列車が岸壁から船に入る場所を不思議に思いながら眺めたような気もする。夜に買ってもらったアイスの舌触り、ちょっとザラついて、程よい甘さで、新鮮な感覚だったのを覚えている。30年以上前の夏だ。
2006.07.19
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パロマの事故で死者は20人になったという。雪印、三菱ふそう、シンドラーと、様々だけれど内部で情報がわかっていたことは共通か。表面化していない危険が、他の大企業にもあるはずだ。実は、明石花火事故の教訓を整理しようと思ったが、時間が足りず。もう少し調べないといけないが、行政側が気付いていながら組織的な認識としなかった点、パロマと同様か。もちろん刑事責任の面で不起訴になるかどうかの結論とは関係ない。
2006.07.19
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飲泉、つまり飲む温泉についての本を手にしている。分析表どおりの成分を摂取して効能を得るなら、湧出口から直接飲むのが一番。飲める温泉ほど、本物だ、という。そして、著者ご自身が訪ね歩いた温泉宿をじっくり紹介している。後半には飲泉や温泉療法の読み物もあって、結構面白い。 ○野口冬人『からだにいい飲泉湯治の旅』2006年、実業之日本社さて、この本で紹介された飲泉地で、わが東北関係分を見ると、 ○浅虫温泉(青森市) ○谷地温泉(青森県、八甲田) ○国見温泉(岩手県、秋田駒の南麓) ○小本温泉(岩手県岩泉町の三陸沿岸) ○岩手湯本温泉(西和賀町) ○奥湯野浜温泉(鶴岡市) ○湯野浜温泉(同) ○赤湯温泉(南陽市) ○小野川温泉(米沢市) ○笹谷温泉(宮城県川崎町) ○白石湯沢温泉(白石市) ○鷲倉温泉(福島市土湯)宮城県分では2件紹介されている。1つは笹谷IC近くの笹谷温泉の保養館一乃湯。地元の事業者がボーリングして平成3年に設立。私も知ってはいるが行ったことはない。血糖値が下がるなど、糖尿や肝機能に効能があり、腸のポリープが消えた、との体験もあるという。もう1つは、湯沢温泉の旅館やくせん。小坂峠と七ヶ宿を結ぶ由緒ある街道筋、下戸沢にある一軒宿。長く休んでいたが、平成6年に検査してみたら胆石や胆のう炎に効能があることがわかり、再開したという。常連が多く、温泉を汲んで帰る人が多いという。白石湯沢温泉は是非いってみたい。
2006.07.18
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今、ラジオ聞きながらちょっとPCつけたら、瞬間にフェルナンデスの一発。見事3点リード。いいぞ、いいぞ。映像のとおり、タイシの納豆もイーグルスを応援しています。礒部、続け~~!我が家は毎朝納豆です。ヤマダフーズとか、このタイシとか。ヤマダは秋田県、タイシは青森県、いずれも東北の元気企業ですね。あ~っと、礒部もセンター前ヒットで続いたよ! 月並みな言い方ですが、納豆のような粘りで頑張ろう、イーグルス! 次はバレントですな。
2006.07.17
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今まで何十回と通過していながら、ラーメン屋さんとケーキ屋さんに立ち寄る以外に車を止めることがなかった岩出山(大崎市)の市街地。はじめてゆっくり探訪した。まずは有備館。岩出山伊達家の学問所で、現存する日本最古の藩校。写真は竹林の奥に望む有備館。手前が池になっている。実はこの写真、隣接する公園から川沿いの散歩道を歩くと、このように見えるポイントがあり、そこで撮影。という訳で、私は入場料金を払っておりません。その代わり妻と母が払って入場。その他(娘たちと、私、お爺さん)は公園で遊ぶ。足を入れて水遊びできる池に大満足。地元の少年がオニヤンマを捕まえて見せてくれた。その後、城山公園へ登る。途中の広場でSLを見たりしながら、てっぺんの城跡へ。もちろんここも初めて来る。なるほど家康が勧めただけはある素晴らしい城山だ。以前日記にも書いた伊達政宗の立像です。なお、サイズをわかりやすくするために、右下に身長115cmの6歳児のモデルさんに立ってもらいました(当家の下の子です)。 ■関連する過去の日記 政宗公騎馬像の歴史(06年6月11日)祖母が言っていた。なんでこんな素晴らしい町を宣伝しないんだ、と。有備館や堀のある通りなど、本当に風情があって良いと思う。しかも有備館は駅とすぐ隣接。自転車で町を散策して、あとは鉄道で鳴子温泉へ、なんて大変良いと思う。他県ナンバーの車も来ていたが、連休中日の観光地と言える程の数ではない。さびれた街と、風情ある町は、紙一重なのだと思わせる。観光開発や宣伝をすることばかりが良いとは思わないが、それにしてもここは、素材は一級品だ。
2006.07.17
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新聞に小さく記事が出ていた。条例無効の最高裁判断。少し詳しく見たくて、山梨日日新聞社の記事を見た。その概要は以下のとおり。------------○ 高原リゾートとして知られる清里の別荘住民らが、一般住民より高い水道料金を定めた高根町(現北杜市)の条例無効などを求めた訴訟。○ 判決などによると、町は1998年に給水条例を改正し水道基本料金を改定。一般世帯を月1300円から1400円に値上げする一方、住民登録のない別荘所有者は月3000円から5000円に値上げ。 ○ 一審判決は「格差は合理的な範囲内」との町側の主張を認めたが、二審東京高裁判決は一般家庭と別荘の料金格差を「不当な差別で憲法違反」として条例の一部を無効と判断。料金格差の妥当性に対する最高裁の判断が焦点となっていた。 ○ 上告審判決が14日あり。最高裁第二小法廷(滝井繁男裁判長)は条例の一部を無効とし、格差分返還などを命じた二審東京高裁判決を支持、町側の上告を棄却。○ 最高裁は「水源や給水施設を確保するため、別荘住民に相応の負担を求めること自体は許される」と認定。その上で、今回のケースについては、一般契約者と別荘世帯の年間の水道使用量を比較した上で「一般契約者には、別荘所有者全体の四倍以上を使うホテルなどの大口契約者が含まれ、格差は合理的な範囲を超えている。条例は住民の差別的な取り扱いを禁じた地方自治法に違反する」と断じた。 法の下の平等を定めた憲法14条の判断には踏み込まず。憲法判断を下すまでもなく、地方自治法に照らして無効とした。条例の無効確認を求めた行政訴訟の部分は無効とし、高裁判決の一部を破棄。 ○ 住民側勝訴が確定で、市は判決を受けて水道料金を改定して格差を縮小する考え。○ 高根町(現北杜市)の水道料値上げをめぐる訴訟の上告審で町の敗訴が確定した十四日、同市役所は「想定外」(市幹部)の判決への対応に追われた。判決後、白倉政司市長は「大変残念な結果だが、最高裁の判決を厳粛に受け止めている」とコメントを発表。市は条例を見直し、基本料金を現行の五千円から値上げ前の三千円に戻す方針という。○ 上告審では弁論が開かれたため、市関係者の間でも最高裁が住民勝訴の二審判決を見直すとの見方が強かった。判決では既に支払われた格差分の返還を命じていて、市の試算では原告だけでも七百五十万円以上を返還する必要がある。今後は原告以外の別荘住民への対応が大きな課題となる。------------ 原審(東京高裁)は原告の条例(料金規定)の無効確認の訴え(行訴法3条4項)を適法と判断。その前提は、条例制定により以後の個別的処分を経ずして給水契約上の義務を負うから、条例制定行為が抗告訴訟の対象たる行政処分に該当すると見た。 しかし最高裁は、水道事業の料金を一般に改定するもので、そもそも限られた特定の者に対して適用されるものではなく、本件条例制定行為を、抗告訴訟の対象としての行政処分とみることはできない、としている(最高裁HPの最新判例)。 その上で、公の施設の利用に関する地方自治法244条3項に反するから条例関係規定は無効だ、という論理のようだ。(法律論については余裕あれば後日取り上げます。)事情をよく知らないが、「取れるところ(別荘所有者)から高く取ってやれ」という発想にはお灸を据えた格好か。これから精算、返還の作業を行う市の担当者は大変だ。
2006.07.16
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前回は宮城県史をみたが、仙台市史にはアッサリと次のように記されている。○ 『仙台市史特別編4市民生活』仙台市史編さん委員会編、仙台市発行、1997年 p196「木道と鉄道」(中川正人)から、仙台駅の位置の記述部分------------ 当初、榴岡に置くことが予定されていていた。しかし仙台の商人が繁華街から遠いと反対し、住民の請願をとりまとめて運動し、東六番丁の現在地に移された。------------このように、引き込み反対論はおろか、松平県令さえも出てこない。なお、資料編に次のような資料がある。○ 『仙台市史資料編5 近代現代1 交通建設』仙台市史編さん委員会編、仙台市発行、1999年 上記に所収の「路線変更の照会状」(明治19年6月24日、草刈親明、佐藤運宜、三宅種信から大日本鉄道会社あて)。なお平仮名に変更して記載。------------ 当仙台区長は路線を変更し、当仙台区内に停車場を置かんとし、当区会の評決を経、貴社に対し金3万円を寄附を以てその請願をなすべしとのことは〔略〕、甚だ不当の事と確信し候、その故は、抑も(そもそも)鉄道なるものは其の性質上租税を以て経営すべきものにこれなきことは素より論なき処に御座候、且つこの事は貴社に於いて而既に御許容相成候ときは、私共区民に非常の影響これあり候に付き、〔略〕若し御許容相成候はば、私共区民の輿論に従い、其の取消の詞(ママ)訟を提起すべき心得に有之候条、此段共為念申添候也。------------というわけで、草刈らの反対の根拠は、鉄道の経営に租税からの補填をすべきは筋が違う、とのことにあるようだ。■関連する過去の日記 ○仙台駅のはなし・続(06年7月11日) ○仙台駅のはなし(06年7月10日) ○宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2006.07.15
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あれはペドロ&カプリシャスで、高橋真梨子さんの歌だっただろうか。♪別れの朝二人は、冷めた紅茶飲み干し~、駅へ続く坂道、何も言わず歩いた~♪(何か違うな)。20年使った除湿機君とついに別れの時。写真は、粗大ゴミとして連れられていく直前の除湿機君。別れの朝です。昭和62年頃だったか、どうしようもない暑い今頃に3万円台で衝動買いした。冷風が出るというのが売りだった。東京の夏を一緒に過ごし(ほとんど使わなかったが)、結婚後は雨天時の室内干しで活躍。ゴーッとうるさい上に、水があふれて何度か事件を起こした。ついに機能しなくなって、引退です。さようなら。お世話になったな。
2006.07.14
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朝の車中のラジオは普段NHKだが、なぜか昨朝(12日)は妻の運転で、私は選局ボタンをいじって、東北放送を聞いてみた。誰かの話を途中から聞いたのだが、60年前の仙台空襲に関連して、あの時は釜石にいてB29やグラマンを見た、艦砲射撃にも遭った、などの話。穏やかなしゃべり口。あっ藤井前市長だなとすぐわかった。このコーナーは「藤井黎のラジオ歳時記」として月に1回やっているのだそうだ。東北放送のホームページにも出ています。何事でもそうだが、直接体験した事実は、直接体験した人に聞くのが一番だ。そして、このようなお話を伺うと、改めて時代がつながっていることを思う。今年は戦後61年、長いようにも思えるが、私が小学生の夏に広島や長崎を教えられた年代は、戦後30年近く経過した頃だ、あれから更に30年経過したと考えれば、時代はまさにホットに動いている。つながっている。ちょっと話が飛ぶが、仙台城の大手門復元の話も、近年は退潮した感があるが、論者にはホットな話だろう。唯一の仙台城遺構ともいうべき国宝大手門と脇櫓などがB29の仙台空襲により焼失したのが、昭和20年7月10日未明という。大手門も何もない仙台にやって来た私などには、あまりピンと来ない。大手門のない仙台が当たり前で、大手門のある仙台は写真でしか知らないから。でも大手門のある仙台を直接見て暮らした人には、考え方が違うのだろう。時代はつながって流れているのだ。人も心もつながっている。そして時は一定の早さで流れ、必ず夏は毎年やって来る。 ■関連する過去の日記 青葉城の概要と略史(06年7月1日)
2006.07.13
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朝のNHKラジオ(11日)で、盛岡の岩手公園の名称について今地元で盛り上がっているとのレポートがあった。盛岡に生まれた私は(ウソです)、岩手公園は縁が深い。街の真ん中にある城跡の公園で、中津川沿いの市役所、県民会館、公会堂などの施設からも近く、ホッとするスペースだ。秋田市の千秋公園、山形の霞城公園なども、外周の濠とあわせて市街地のオアシス的で大変良いと思うが、生まれ育った(またウソ)盛岡だけに思いも格別だ。啄木や賢治のゆかりの地でもあり、高橋克彦さんの小説にも登場する。また、山川恵里佳さんがスカウトされたのは、ここでお母さんと鳩にエサをやっていた時だ、と以前に何かで聞いたこともある。岩手県生まれの(本当です)私には、盛岡城跡の岩手公園として馴染んでいるので、今更改名と言われても特に必要は感じない。盛岡市のサイトで市長記者会見を斜め読みすると、開園100年を機に、盛岡を強くPRする意図のようだ。わからないではない。本年度予算の発表資料に、岩手公園開園百周年記念事業費15百万円、という新規事業も見えるが、これに引っかけて盛り上げようというのだ。 ■関連記事(岩手日報HPから)渦巻く賛否 岩手公園「改称」(06年5月24日)この手の議論は、だいたい賛否がかみ合わず決め手がなく、最後は言い出した人など政治プレイヤーの利害得失をうまく調整するか逆に決裂するかして、決断に至る。折衷案が出せるなら政治的には収拾できるとも言えるが(例えば「燕三条駅」)、長い目で意味があるかどうか。かみ合わないのは、次のように書き出してみれば、よくわかる。 ○改名推進派 → 盛岡を表す方が良い。 ○名称保持派 → 長年親しんでいる。なお次のように書けば、一応かみ合って見えるが、これは二の次のリクツに過ぎず、これだけで禅問答しても始まらないことも、これまた明瞭。 ○改名推進派 → 名は体を表す。 ○名称保持派 → 名前より中身だ。名称として盛岡と岩手のいずれが良いかは、まさにセンスの問題。歴史的には「岩手」が早く、「盛岡」は南部氏が入来して従来の不来方を改称した(訓読みを同じくする「杜陵」とも表記)のだろう。「仙台」と「宮城」の関係も、基本は似ているが、だけど、古いからといって「岩手」にすべしという問題では、もちろんない。「盛岡」派は、藩名こそ中身や伝統を表すのであり、廃藩置県のタイミングでたまたま採用された郡名には中身がない、と反対するだろうし。そして今度は「岩手」派が、百年で十分に馴染んだ、というだろう。かみ合わない。私が思い出すのは、宮城フィルハーモニーが仙台フィルと改称したこと。一般にはたいして問題にはならなかったが、私は一人で勝手に憤慨していた。理由は単純で、ワザワザ大を小にする必要を感じないことと、石巻の人はどうなるの、ということ。オーケストラは都市とともに在るべきだから、というのが公式発表のリクツだが、何も長年親しんだ名称を変えるまでもない。本当は指定都市に移行し、また楽団の財政支援の主力となった仙台市の意向だろう。ちょうどその頃だが、パリーグの南海の球団撤退で、近鉄バファローズが名称に「大阪」を入れるかどうかが話題になり、近鉄ファンは全国区だから、という理由で見送られた。東北の片隅でラジオ大阪の電波を拾って近鉄を応援していた私には、涙の出るような嬉しい話だった。何年か後、南海の撤退で、99年に「大阪」を冠することになるのだが。たかが名前とも言えるし、名前こそ大事とも言える。噛み合わない。お利口な一般論で申し訳ないが、人々や社会のためにどういう政策を必要とするのか、その一環として改名も意味を持つかどうか、という常識的議論をしてほしい。谷藤盛岡市長は、「岩手公園」という正式名称は残しますから、というようだが、とにかく改名させるために考えた便法のようにも聞こえ、ちょっと浅ましい。こちらにも、頑なに歴史的名称にこだわる市長がいる。便法はダメだというようだから、堂々と一貫しているとも言えるが、市長は全体を見渡す立場にある。一意見にこだわるようにしか見えない。
2006.07.12
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前回の日記では、明治に仙台駅を市街地により近い現在地に引き込んだ際に、反対論も根強かったということについて、その事情を若干調べてみたいと記した。その第一弾です。権威に弱い私?なので、まずは「正史」と、宮城県史を見てみました。以下は当ジャーナルの要約。 ○ 『宮城懸史5』宮城県著、(財)宮城懸史刊行會編、1960年発行 (1987年復刻版、ぎょうせい発行)p643- 「東北本線の開通」の項(佐々久)------------ 明治15年11月に日本鉄道株式会社の事務所が県内に置かれ、株金を募集。松平県令の世話もあり、県下2,888人から3万株(1株50円)が集まる。 なお払込み段階になって繭、生糸、米の価格下落があり、伊具郡の小株主から払込延期願。地元は今でも「汽車は本来阿武隈川沿いだったはずが反対したため白石に行った」と伝えているが、当時の情勢では国道沿いに白石を通るのが常識的な路線。伊具の全員から延期願いが出たのは、果たして養蚕不況のためか、あるいは昔語りの汽車反対説が流布されたためか。 野蒜開発が進められ、汽車も野蒜まで敷設される計画であった。県の催促もあり明治17年12月に大宮以北着工。18年5月には会社が青森までの政府施行を申請し、6月聴き届けられる。政府が会社から仕事を請け負う特殊な形態となった。18年6月には宇都宮まで開通。19年3月白河まで着工。しかし、野蒜築港が絶望視されたのを受け、野蒜までの敷設は中止される。18年12月福島-仙台-塩釜の測量が開始され、19年6月起工。なお白河-福島は19年5月測量開始で8月着工に至る。 明治19年春に鉄道局長官井上勝が視察に訪れ、仙台駅は、宮城野原の北端で榴岡の東南にほぼ決定。市内では用地買収の困難を見越しての決定だろう。これに対し松平県令は市街地に不便と反対、有志40名を集め、早川智寛土木課長に説明させ、「これで良いのか」と激励。大町や国分町の商人たちは、「仙台区興廃の分かれ目」とばかり、停車場引き込み実現によりより相談したという。 4月から5月にかけて、停車場問題はさらに活発化、自由党員が中心になって、資産家や実業家を対策委員にした。市内引き込みに会社は6万円から7万円を要するから、3万円を用意して陳情すれば可能かも知れぬ、と寄附を募った。木村久兵衛の600円を最高に、藤崎三郎助、角田林兵衛、大倉定七、佐々木重兵衛、小谷利平衛など、各数百円。全市の小区長を動員して各丁(町)の請願をとりまとめ、会社に申し出、これが奏功した。------------と、以上の通りなのだが、これだと市の大勢も市街地引込み案に賛成、とも読める。前回日記のような引き込み反対論(宮城野原賛成論)があったことや、開業後も議論が続いたとされる件は、言及がない。もう少し文献を見てみます。なお、『宮城県の百年』という本がある。県政百年を記念して県が作成したようで、写真集を中心にコメントをつけた読み物だ。 ○佐々久ほか編『宮城県の百年』、1972年、宮城県このp15-p16に東六番丁に建てられた仙台駅の写真を載せてあり、次のような文章がある。この部分が佐々久さんの執筆かどうかは不明。------------ 元来東六番丁と清水小路は南北に一直線をなしていた。駅を設置するためにこの大道をたち切った。さらに、東六番丁から蒲生に行く木道を駅の東裏に締め出してしまった。このために木道会社はつぶれ、鉄道は谷を作って仙台の町を二分し、今も発展を阻害している。道をつけ線路を引くとき、百年の大計を考えるべきであり、軽々の思いつきをいましめるべきであろう。------------エーッ!? 何デスと? 停車場を市街地に近づけた策が、百年先を見ない愚策とでも言うのか。確かに、例えば「駅東」地域は、不便で発展が相対的に遅れたかと思われるかも知れない。しかし、そんなミクロにとらわれた見方こそ近視眼だと、私は思いますが。でもこれこそが、後まで尾を引いたという「反対論」なのだろうか。というわけで、このテーマ(仙台駅位置論争の始末期)はもう少し深めてみます(編集長)。■関連する過去の日記 ○仙台駅のはなし(06年7月10日) ○宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2006.07.11
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仙台駅は明治20年12月の東北線開通の際に現在地に開業した。日本鉄道会社は明治19年春に仙台駅を宮城野原の北、榴ヶ岡下に設置すると発表したが、松平知事が大反対し、東六番丁(現在地)を強硬に主張。「市街を通さなければ貨物輸送に不便。客は岩切や長町、増田に降りて泊まる。人口7万、1万2千戸の東北一の繁華街も寒村古駅となる」と。会社側は駅舎変更に伴う工事費増額の半分に相当する3万円を、地元負担として要求。松平知事は仙台区議会に議決させ、第一銀行から借りて会社に支払った。東京在住の旧仙台藩士の会「仙台議会」は宮城野原駅に賛同していたため、反対の活動。また、宮城野原駅論者の代言人(弁護士)草刈親明は区議会を相手取り、3万円寄附決議の取消の訴えを提起したという。これに会社が驚いて3万円を松平に返還。やむなく松平は第一銀行に利子を工面して返済したが、後に市民有志で寄附が集まり、結局現在地に建設された。第一銀行は利子分を県警察庁舎建設に寄附したという。開業後も仙台駅が宮城野原が良いか現地が良いか、論議は続いたという。ところでこれに先立ち明治15年、宮城県内最初の軌道(馬車鉄道)である「木道社」が蒲生から仙台まで(12キロ)に開通し、現在の仙台駅南側あたりから、平成に地下化される前の仙石線の線路沿い、宮城野原北辺、蒲生街道を経由して、野蒜からの海運を期待した蒲生までつないだ。時は過ぎて大正14年、宮城電気鉄道の仙台-塩釜(現在の西塩釜)間が開業、後の仙石線である。起点仙台駅は鉄道省線仙台駅の地下に置かれ、平成の地下化までは仙石線地下改札所とされた場所である。当時の地下駅は日本では最初、ニューヨークの七十七番街の駅を模したという。電車も当時の最新鋭で速度を誇った。約130メートル通って地上に出ると、次の東七番丁駅(平成の地下化前の仙石線仙台駅ホーム)。(以上の参考:逸見英夫『仙台はじめて物語』創童舎、1995年)仙台駅を中心部に持ってくるのに反対が強かったのはなぜだろうか。今の感覚ではわからないが、鉄道の意義の無理解、蒸気に対する嫌悪感、それとも3万円の負担は過大か。あるいは松平知事への地元旧藩士の反対の気風でもあったのか。この辺あまり読み聞きしていないので、何かで調べてみたい。たしかに東北本線は仙台駅に停車するために西に大きく弧を描いているが、現在ではこの選択を非難する人はいないだろう。仙台が一地方都市にとどまらずここまで成長した1つの理由とも言える。東北新幹線の整備の際も、直線性を重視して貨物支線ルート上の宮城野貨物駅あたりに新仙台駅を設置する構想もあったはずです。ただ、仙台市街地東部の地域整備の核にという待望論はあったのかも知れないが、市民の大勢は在来線の駅と一致を望んだでしょう。もちろんその選択で良かった。■関連する過去の日記 ○宮城県内の東北本線のルートの話(05年11月27日)
2006.07.10
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随分前のことになるが、昭和63年3月1日に泉市と秋保町が仙台市に吸収合併された。ちなみに宮城町は前年昭和62年に先に合併している。秋保町が仙台市に編入されることで、仙台市と山形市が境界を接することとなった。その頃のこと、確か河北新報が「県庁所在都市で隣接するのは全国に例がない」旨の記事を書いていた。血気盛んな若者だった私は、いや京都市と大津市も境を接しているじゃないか、と猛然抗議しようと思ったが、ある人に、京都は「府庁」だから記事はマチガイではない、と言われ、新聞社に連絡するのは一応止めた。さて、その後に市町村合併も進み、仙台市と山形市以外にも、あれっウチもお隣さん?という事例ができているかも知れない。そう思って、東北6県を地図で拾ってみた。○大崎市と湯沢市、最上町 何せ大崎市は細長い。旧鹿島台町も、市町村単位では秋田県湯沢市、山形県最上町と接することとなり、何と2県とお隣さん。実感はないでしょうけど。○平川市と大館市 未だになじめないのが、青森県平川市。碇ヶ関ICのある所だ。郡名(南津軽郡)でもないし、由来は川の名前だそうだが、青森を不勉強の私にはまだシックリ来ない。 なお大館市は弘前市ともお隣さん。○由利本荘市と酒田市 いずれも由緒ある町がお隣さんに。ではクイズです。第1問。東北6県の「市」で、他のどの「市」とも境を接していないのは、何市でしょうか。答えは、3県の6市。すなわち、むつ市、三沢市、八戸市、宮古市、久慈市、そして白河市です。なお、新庄市も秋田県湯沢市との接点が神室岳のピークだと見れば、これに含めて良いかも知れません。(ODAZUMA Jounal調べ)合併前に比べると、だいぶ減りました。以前は、例えば、弘前市、盛岡市、二戸市、一関市、石巻市、古川市、能代市、秋田市、湯沢市、本庄市、原町市、相馬市などが、堂々「お山の大将」だったのですが、市のお隣さんを持つに至りました。宮城県と秋田県では消えてしまった訳で、特に秋田は面積の大きな市でドンドンと埋め尽くされました。パネルクイズ・アタック25を連想しますね。アタックチャ~ンス。終わりに、もう1つクイズ。ある県の県土を市町村単位で、当該市町村を含まない2つの部分に分断する場合、1市町村だけで分断できるのは、何県あるか。なお、外周が陸地でも当該県の外には出られないものとする。言い換えると、ある市町村がお隣りさんのマチの1つとケンカして「オラの土地は踏ませない」と言われたとしても、同一県内の他のマチに出ていけるか、すべての市町村についてそれが言えるかどうか、という幾何学問題です。答えは、意外にも、6県全部で分断現象が生じます。ケンカできません。まず、宮城県はご存じのとおり仙台市で南北に分断される。青森県は、むつ市や八戸市で分断される。岩手は、一関市が藤沢町とその他の県土を分断できる。秋田県は、由利本荘市がにかほ市を切り離せる。山形県は、酒田市が遊佐町を分断。福島県は、相馬市が新地町を切り離す、という具合です。他の都道府県でも、だいたいは分断現象があるのですが、長野県、奈良県、徳島県、大分県では、この事態は生じないようです。
2006.07.09
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昨日(7日)は暑かった。梅雨空で体の中までカビが生えそうな日が続いた後だから、晴れ間は嬉しいが、湿気も高い。昼過ぎ、電車を降りて仙台駅を出ようとしたら、今まで気づかなかったが、小さいパソコン画面が公衆電話みたいに置いてあり、100円で15分間インターネットができる、という。より正しく言うと、仙台駅2階の出入口にある「仙台市総合観光案内所」に、5カ国語対応のワンコインネット端末を2台設置、6月から8月まで3ヶ月間試行するということだそうだ。 ■仙台市記者発表資料(平成18年5月31日)早速100円を投入して始める。残り時間のカウントダウン表示がちょっと気になるが、もともと用事もないので、自宅にメール打って、あとは自分のホームページ見るくらい。映像はその端末。出ている画面はもちろん「おだずまジャーナル」です。残り5分くらいになって飽きてきた頃に、隣のもう1台を興味深げに眺めている日本人のお姉さんが登場。あ、良ければボクの時間残ってますから、と言おうと思ったが、思わず「終了」ボタンをクリックしてしまい、自爆。言葉を飲み込んだ。家に帰ってからメールを開いてみてわかったが、ソフネットジャパンという会社の、コイン式インターネットテーブル CYBER PetIT(サイバープチ)なるシステムを使っているようだ。この会社のトップページに紹介されている導入例をザッと見ると、ホテル、本屋、スーパー銭湯、などで導入されているらしい。(なお仙台駅の紹介はハイパーリンクが誤っていて他の事例に飛んでしまうのが、仙台人としては残念。100万市民を代表して、会社にメール出してみます。)仙台の場合、外国人ビジターに利用してもらう趣旨のようだが、どれだけ使われているのだろうか。知りたい。■仙台百景画像散歩 以前の記事です。 ○仙台百景画像散歩(その9 ヤギさんの看板)(06年6月19日) ○仙台百景画像散歩(その8 キック治療?)(06年6月18日) ○仙台百景画像散歩(その7 ホテルモントレ)(06年6月4日) ○仙台百景画像散歩(その6 佐々重ビル)(06年5月24日) ○仙台百景画像散歩(その5 車止めポール)(06年4月29日) ○仙台百景画像散歩(その4 オロナミンC)(06年4月4日) ○仙台百景画像散歩(その3 東仙台案内踏切)(06年3月22日) ○仙台百景画像散歩(その2 はんだや)(06年3月18日) ○仙台ミステリー?風景(06年3月4日)
2006.07.08
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博物館とは、歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し、展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するために必要な事業を行い、あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関をいうそうだ(博物館法第2条第1項)。そして、同法の博物館であるためには、所在する都道府県の教育委員会の登録を受ける必要があるが(同法第10条)、これに類する事業を行う施設を、都道府県教委が博物館相当施設(同法第29条)として指定することもある。その博物館と博物館相当施設、いかにも役所的なネーミングはともかくとして、東北にはどれだけあるのだろうか。宮城県のホームページでは、登録博物館9、相当施設7。県立の東北歴史博物館、美術館、仙台市博物館など公立のもの、五橋のカメイ記念展示館などがある。大崎の吉野作造記念館、石巻の帆船ミュージアムなどは記載されていないから、該当しないようだ。全国統計は文部科学省の社会教育調査をみた。平成14年度なのでやや古い。○ 宮城 登録博物館10 相当施設7○ 青森 5 3○ 岩手 14 5○ 秋田 7 1○ 山形 12 4○ 福島 13 5○ 全国 819 301岩手県が登録博物館14施設と多いのは、市立7、町立3、が他県より際だっているから。ちなみに宮城は市立3、町村立はなし。山形は法人設置が9施設と多い。何か解釈が欲しくて、ちょっと無理して言うが、岩手は行政による地域振興の努力の現れ、、山形は歴史や文化を重んじる民間の気風の現れか。しかし単に数だけでは何とも言えない。なおこの統計には、「博物館類似施設」という項目もあって、これは宮城が114施設で一番多い。
2006.07.07
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滋賀県知事選で現職が敗れ、環境関係の女性の学者が当選したという報道があった。面白いと思って、地元新聞の論調を読もうと探したが、滋賀県本拠の新聞は共同通信加盟社にはないようだ。おそらく京都新聞が滋賀県エリアをカバーしているのだろう。日本の都道府県は100年の歴史があって、廃藩置県の直後は混乱もあったろうが、その後、政治的にも社会的にも経済的にも、各県のエリアが活動範囲や考え方の単位となって定着していると言って良い。特に、メディアは考え方を反映したり先導したりするから、メディアの所在じたいも大きな意義を持つ。国の免許を受ける放送の場合は別として、行政上の監督がない新聞についても、地方紙はだいたいは県の単位である。たまに、1県に2紙が拮抗したり、旧藩を統合した県など地域で主力紙が分かれたり、という例はあるけれど。この点、宮城県などは完全にモノカルチャーで、何事も仙台中心のモノポールだから、滋賀県のように地元本社の主力地方紙がない「県民感覚」は、何というか、新鮮だ。大げさだが、どういう文化風土か、住民の思考構造はどうだろう、などと余計な想像をしてしまう。さて、その滋賀県知事選挙だが、以上の事情で京都新聞の論調を引用する。7月3日の解説記事をまとめると、下記の通り。 ○争点となった新幹線新駅やダム計画の「凍結」を掲げた嘉田氏を選んだ。 ○建設を推進してきた県や県議会に方針転換を迫る有権者の判断。 ○現職の国松氏は民主党と自民党の推薦を受けるも、嘉田氏を支持する両党議員も目立った。 ○両党が推薦候補を決める際にも嘉田氏を同等に扱って政策を問うたことも、有権者には国松氏の低評価につながった。 ○嘉田氏の不安材料。第一は、行政経験がない点だ。県は、9千億円近い県債残高や1千億円を超える造林公社の累積債務、少子高齢化など、待ったなしの多くの懸案を抱える。 ○第二は、オール野党の県議会。新幹線新駅やダムを公約通り凍結するには、県議会の理解が欠かせない。 ○今後、県政の大きな混乱も予想されるが、嘉田氏は県民の負託に応えるため強力なリーダーシップを発揮すべき。また県議会も新知事に託された最新の民意を真摯に受け止め、懸案の解決に向けて協調することが求められている。安易な対立は許されない。最後の点は、一般論ながらも、これから滋賀県の政界の試練となるであろう、非常に大切な点を指摘している。滋賀の地方政治事情を不勉強なのだが、京都新聞の解説をさらにコメントする意味で、当ジャーナルとして次の点を挙げたい。「県民の付託」とは、魔物である。政治家にとって、その政治判断の依拠すべきところと言えるが、冷静沈着に有権者の意思を熟慮する(実体的適正)、というよりは政治的立場の正当化(手続的正義)に使われることが多い。また、地域や政策云々よりも、自分の保身第一の目立ちたがりの政治屋さんにとっては、自分自身の地位の言い訳だ。選挙をうまく切り抜ける術さえ駆使すれば、ハイ県民の付託ですからネ、と言えるからだ。このような政治屋にとっては、まさに麻薬だろう。既存政治勢力の手厚い支持のない候補が当選する場合や、現職を破って型破りの新人が当選した場合(仮にサプライズ知事と呼ぶ)、地方政界は1つの岐路に立たされる。そして、大まかに言えば、その後にサプライズ知事による混乱だけで時間を無駄にするか、あるいは混乱や反目の化学反応の後に地方政治と地方が「良く」なるかどうか、に分岐する。つまりサプライズ知事の言動を政界がどう受け取り、どのような政治的化学反応がなされるか、そして究極的に県民のためになっているかなっていないか、が分かれるのでないだろうか。サプライズ知事の代表は、前都知事の青島氏でないだろうか。鈴木俊一氏の都政末期の倦怠ムードの中で、なぜか当選してしまった。バブル崩壊の世相で都庁舎が無駄遣いの象徴と見られたのが、青島氏には幸いした。世界都市博の中止は断行したが、それ以外は結局何もせずに身を引いた印象だ。本人もあまり都政に関心がないように見えた。都庁の役人には相当バカにされただろう。これを停滞の4年間と評するか、与党政治に冷静にアンチテーゼを示した意義を見いだすかは、ちょっと分からない。一政治家が蛮勇をふるうより無策(官僚的出力に身を委ねる)の方がマシな場合もあるにはある。ただ、次の石原現職知事が現状打破的な政策を(銀行税、新銀行、都立大学統合、都立高校改革、五輪誘致など)次々と実行しているのを見ると、リーダーシップのあり方に天地の差がある。石原氏の政策を手放しで評価するつもりではないが、首長として何をする、そして有権者はどう判断するか、というダイナミズムがある。少なくとも、居ても居なくても良い知事では、都民に対して時間(任期)を浪費した罪がある。長野の田中知事。長期保守政権に疎んじた地元に推されて見事当選。「脱ダム宣言」自体は、私は大い評価されるべきものだと思っている。なぜなら、政財コンプレックスの本質を突いているし、象徴的にも財政管理的にも、焦点の当て方が鋭いと思うから。政治家や役人の反対は相当なものだろうが、理念にとどまらない肉付け(説明)を与え、立場を越えた住民個人としての意識にジワリと浸透していけば、支持も広がる。そして後世から大きく評価されるだろう。田中氏にお願いしたいのは、短期的な人気取り挙動を慎むこと。知事室を1階に移して県民に公開、信州改称、記者クラブ問題、どこかに住民票移転したり。特に記者クラブ問題などは私も日本社会の1つの悪弊でもあると思うし、田中氏の言動は面白いのだけれど、政治家である以上、自らの言動が周りと干渉して起こる化学反応にも目を配っていただきたい。素直に市民的感覚や地域の誇りを訴えるという心はわかる。だけど、政治リーダーたる以上、実現過程も大事だ。政治課題を遅滞なく実現すること(時間のコスト)も重要。任期は有限だ。大人になれ、とか、気配り型政治家を良しとするつもりは毛頭無いのだが、政治過程は人間関係学だから(打算的な意味ではなくて)、戦略と行動がほしい。政治を荒立てないため、ではない。荒立てて結構、ただ、県民の付託を実現するがためにつながるかどうか、なのだ。地道にかつ大胆に、お願いしたい。次の選挙も出るようだが、県民は表面的な政治対立に喝采したり辟易したりするだけではなく、県土と生活をどうするかを見ている。どの候補が良い悪いではなく、実のある選挙と成熟した民主政治実現を願う。滋賀の嘉田新知事には、選挙で受けた有権者の思いは勿論だが、今後の住民の多様な考えも十分にすくい上げ、組織を掌握し、議会を是々非々で対応する、ある程度の戦略と柔軟性をもって成果をもたらす「政治家」になっていただきたい。見るところ、官僚型でもなく(県職員という経歴はお持ちのようだが)、経済界リーダー出身でもなく、いわば色が付いていない。社民党支持があったようだが、市民運動バリバリで自分の行動を逆規定してしまう自滅タイプでもなさそうだ。良かった。俗な言葉で大変失礼だが、是非「大化け」していただきたい。表面だけでない新しい政治スタイルと成果を形にして欲しい。そのような政治リーダーが出現することが、地方政治全体にも、国政にも必ず良い影響を及ぼすから、だ。とすると、滋賀県は、政治の岐路に立っているわけだ。県議会議員など地元リーダーの言動にも変化が生じるだろう。対立に終始することなく、達するところをシカと見定めて明朗な県政運営をお願いしたい。
2006.07.06
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やられた。さっき日記つけている場合じゃなかった。下の子のオネショです。ただいまパジャマの着替え完了。1年生なのですが、まだまだ安心できません。夜中に起こしてオシッコさせるのも良くないというので、気長に根気強く。だいたい4時か5時頃にするようなので、できればそのころに完全に起こして自力でトイレに行くようにしたり。でも結局は洗濯物を増やすことの方が多いです。このところの梅雨に同調しているのか、ここ何日かは連続です。寝る前にトイレに行かせますが、十分出たように見えても、するときがある。法則性も有るようで、たぶん無いのだろう。それにしても、3時にしているとは。しかも、日記つけていた短時間の間を見計らったように。うまいぞ、我が子よ。我が家の夜の盗塁王? そういえばイーグルスの盗塁は、高須8、鉄平5、まだまだ少ないですね。我が子を見習って欲しい!いつもの納得法。大人になってもオネショする人はいない。現に上の子もこんな時期有ったけど、今は完全に大丈夫。いつか懐かしくなる時が来るでしょうから、ハイ。小さい声で言いますが、かくいうワタクシ編集長も、たしか2年生くらいまで記憶がありますので、仕方有りません。こればかりは。
2006.07.06
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昨夜は帰りにバス酔い。船以外に乗り物酔いはあまりしないのだが、何か体調がおかしいようだ。この梅雨空のせいもあるのか。体の中にまでカビが生えたのかも知れない。あまりに具合が悪いので、8時過ぎには下の子と一緒に寝てしまった。まあ、いつも9時台には寝るから特別早く寝たとも言えないが。今度は先ほど2時前後からパッチリ目が覚めて、子供が足で吹っ飛ばす毛布を掛けてやっては吹っ飛ばされ、を繰り返しつつ、アレコレ由なし事を思案。外は雨が止んだようで、かすかに木の葉の擦れ合う音か。踏ん切りをつけて、子のベッドを抜け出してきた。ボーっと外を眺める。無言でただ機械的に点滅を繰り返している赤信号。意味もなく覚醒しているオレの脳の思考回路に似ているか。イヤ、信号の方が役に立っている、ご苦労さんです、と言いたくなる。夜中にあまり悩み出すと、際限の無い深みにとらわれて、無力感に全身がしびれる感覚にはまることがあるので、何かに思考を集中させた方が良い。昨夜帰りに仙台駅前の丸善で3500円で衝動買いした本があるので、これから読むか。
2006.07.06
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石巻線に乗っていると、和渕や曽波神の駅のあたりにポットリとした里山を見ることができる。岩手県に生まれ育った私は初めて見たとき、とても新鮮だった。柴崎徹さんによると(『宮城の名山』1992年、河北新報社)、宮城の山を大別し、奥羽山脈、北上山地、阿武隈山地、そして沖積平野に点在する残丘など、に大きく4区分しておられる。そして、形成過程や景観分類などの解説をしている。高校の頃は秋保電鉄から歩いて蔵王縦走をした、などとの記載もあり、カラコルムやチベットも踏破されたというから、宮城の山々を相当歩きつくしたのだと思うが、実に変化に富んだ宮城の山々を、科学的に、かつ温かく解説していて、大変おもしろい。登山ガイド本にとどまらない面白さがある。最初に書いた和渕山も説明がある。173.9mと高くないが、よく目立つ。旭山もほぼ同じだ。こんどゆっくり散策したくなった。ところで、イタリアドイツ戦の途中に書いているので、今からTVに戻るのだが、先ほど前半戦の30分ころに、画面テロップで北朝鮮のミサイルが日本海に着弾との情報、と出た。本当だろうか。
2006.07.05
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青葉城について調べる際に下記の資料を読んだが、随所に「仙台城秘話」なる面白いコラムがある。逸見英夫さんが書いておられる。○ 逸見英夫、水殿畔『仙台城歴史散策 青葉城の盛衰とロマン』株式会社宮城文化協会、1988年その中で仙台城の「奥」が何度か説明されている。何点か以下につまんでみます。仙台城(二の丸)の奥は、長さ80間の廊下で「表」とつながっている。この廊下は檜の板張りで「御鈴廊下」と呼ばれる。中ほどに杉戸があり、御屋形様が奥にお成りのときには杉戸の前のヒモを引いて鈴を鳴らす。すると奥の女中が迎えに出る。この杉戸を自由に通過できるのは御屋形様だけ。大奥には(一説には正室愛姫殿がが江戸にいるから中奥というべき)御老女をはじめとした女性職員が勤務。御老女と若年寄の部屋を「局」という。御中老、若き衆、御小姓が「お目見格」といわれる格で、ここまでが御前様や側室の側近として「締切り内」に入れる。その下に、表使い、御祐筆、お茶の間、御次、御三の間、御使い番、御膳所、御末頭、おすまし、御末。これら役職が41人。さらにこれを支えて雑務を行う下女がいる。御前様は起床後まず化粧。うがい、薬のあと、また化粧。朝食のあと入浴。お白粉をつけて髪を整え、三度目の化粧。仏前に拝礼、お茶とお菓子。医者が脈を見に来る。以上が終わると、書物、和歌などをする。昼食後に長刀や乗馬の稽古、庭園散歩、琴などをさえる。午後4時ころ夕食、就寝午後10時。御前様の食事のためには一日5升もの米を炊く。良い米を1粒づつ取り出してお椀に盛るからだ。実際に食べるのはほんの小量だったそうだ。毒味は若年寄の役目。料理と運び役は若き衆、検査は若年寄、御末頭がフタと箸を持っていく。御前様の側には御老女と若年寄が控えている、と奥がフル回転するようだ。ご飯を一膳上がるごとにお膳は取り替える。箸は杉箸で食事ごとに焼き捨てる、という。以上、「奥」の様子でした。ちなみに我が家の娘2人の子供部屋もたまにオヤジ禁制になります。中でオモチャを散らかして遊ぶのが楽しいようです。関係ないですが。■関連する過去の日記○政宗公騎馬像の歴史(06年6月11日)○青葉城の概要と略史(06年7月1日)
2006.07.04
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仙台藩や宮城県の県民性について何度か書いた。幕末に東北を歴訪し、的確にも「大藩」仙台藩の怠惰で後ろ向きな民情と産業の乏しさを見事に見抜いた薩摩藩士肝付兼武の評は、まことに21世紀の今にも通用するようだ(『東北風談』、風譚とも)。■過去の日記 ○見透かされた「大藩仙台」の空虚なる風土(06年4月2日) ○肝付兼武のこと(06年6月13日)明治の廃藩置県で仙台県ができ(明治4年)、県令は塩谷良翰。次いで、登米県、角田県を分合して、仙台県(参事塩谷)と一関県(参事増田繁幸)に。一関県は水沢県、仙台県は宮城県と改称し、塩谷が県令となる。塩谷は館林の出身、勤王の志士として新政府の大蔵の役人になった人物。初代県令塩谷の後は、権県令(「権」は仮の意らしい)宮城時亮(ときすけ)である。彼は赴任の際に、任地と自分が同名であることを気にし差し支えあれば姓を変えようと太政官に伺い出たという。さて宮城時亮は、赴任後に「宮城県風土民俗の情況」を次のように報告した。東は海に面し、土地広漠、山野荒蕪多し、然れども其地肥沃にて米穀魚塩及び動植物産生盛すべきなり。加うるに諸川水利遭運の便亦無きに非ず。但し人民衆多ならずして勉強進取の気力に乏しく頑然自ら鄙陋に安んじ、復た富強の域あるを知らず。其曾て地力の尽さざる亦職として是に由れり... 近年稍々(やや)進取の気力を発生するに赴かんとす...つまり、産物は結構良いし、水運にも恵まれているが、怠け者で現状に甘んじ、外を知らない、ということだ。中央政府から見れば賊軍の遅れた民心を評したのか、あるいは県令として開墾開発の必要を政府に訴えるが為の表現なのか。そして、時亮の後、初代の宮城県知事は、内務の三松の一、松平正直である。このときの県は、既に磐井県(水沢県を改称)が消滅し、現在の宮城県の範囲となっている。野蒜築港や道路整備を推進した時代だ。明治14年東北・北海道行幸の際、明治天皇に松平は県の情況を次のように上奏報告した。なお文案は友部伸吉が草したという。本県の人民は固陋にして進取の気象少なく、怠惰にして忍耐の精神に乏しと、夙に笑を上国にひくところなりと雖も、是唯皮相の論のみ。その実樸直にして浮躁の情態なく、質素にして虚飾の風習あらず。若しよく薫陶誘掖を加えなば将来必ず忠厚の人士を生ずるに至らん。参考:佐々久『近代宮城のあゆみ』仙台宝文堂、1979年
2006.07.03
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た、大変です。仙台地方にUFOが出現。世紀の一大スクープ。昨夕サザエさんを見て夕ご飯の頃、既に閉めたカーテンが妙に明るい。不思議に思って明けてみると、雨上がりの庭がボワーッと明るい。空は曇天なのに、西日が差し込んで庭の木々や近所の屋根など、近景を明るくしている。子供は、「外がオレンジ色だ」と表現していた。自然は巧みな芸術家だ。よくよく見るとうすく虹がかかっている。この写真ではUFOのすぐ左下をかすめるように弧を描いています。わかりにくいでしょうか。ところでUFOは、ガラス窓を明けもせずに写真を撮ったための、食卓の蛍光灯が映ったもの。書くまでもないですが。
2006.07.03
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三河生まれの教養人菅江真澄は、秋田と縁が深い。前半生は知られていないが、30歳ころから旅に出る。東北や北海道を歴訪した際、天明4年(1784年)象潟を訪れ数年滞在する。やがて佐竹義和から藩の地誌編纂を要請され、角館で没する(文政12年、1829年)。秋田に延べ29年間滞在した真澄の著作は、秋田の民俗をひろく知る手がかりとなる。■東北地方整備局秋田河川国道事務所のサイト■ITと菅江真澄を活用した社会実験(終わったのか?)鉱山では「よろけ」(じん肺)なる病気が多く、40歳前に死ぬから、42の厄年を32歳で祝う、などとの記載もある。佐竹藩は、常陸から秋田に転封されて以来、鉱山資源の開発に力を入れてきた。杉山などの金山、院内などの銀山、そして阿仁銅山。院内銀山の最盛期(慶長の頃)には、町の人口1万数千、全国から参集した鉱山労働者7千人以上と推定されるそうだ。すごい状況だったろう。
2006.07.02
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広瀬川が生み出した青葉山段丘は、三方が断崖の天然の要害で山城には絶好の場所だ。戦国以前には仙台周辺には留守氏(岩切・高森城)と国分氏(千代城)が勢力をもち拮抗していた。伊達氏は留守、国分の両氏に入嗣してその支配を強め、奥州仕置と葛西大崎の一揆を機に当地はいよいよ伊達の支配に組み込まれる。ところで時代とともに、城は軍事の要害から、政治の中心として大名の居館とされ、山から平地に移ってきた。国分氏が居城とした頃の千代城は本丸部分だけの、中世的な山城だったと思われる。奥州仕置で岩出山に移された政宗は、やがて徳川家康の普請許可を得て千代城を再興する。このとき、政宗は、榴ヶ岡、野手口(大年寺山)、青葉山の3カ所を家康に示して、このうち1つを願い出たという。そして、政宗の本意は榴ヶ岡だったが、一番目に記すと不許可になるので青葉山を最初に記したところ、思惑に反して家康は最初の青葉山を指定した、という説がある(元禄ころの『仙台名所聞書』による)。また、元禄から享保にかけての『東奥老士夜話』によれば、政宗は石巻日和山(葛西氏の石巻城本丸跡)、榴ヶ岡、青葉山の3カ所を願い出た、とされる。青葉山の本丸には、千畳敷と称される大広間などの建物が置かれていたが、家康への遠慮と財政への配慮から天守閣は設けなかった。現実には大阪夏の陣を経て、日常の治世に山城は不便となり、二の丸が政治と居館の役割を果たしたからである。現在の東北大学の文科系四学部周辺。その二の丸には、城下大町から大橋を渡り、坂道の大手門を通ることとなる。もっとも公式の登城はそうだが、通常は扇坂を通用したようだ。大手門は、朝鮮出兵の前線基地だった肥前名護屋城のものを政宗が秀吉に懇請して移築したとされる。桃山様式で重厚な美しさを持ち、城の防御としても堅牢なものだった。三の丸は現在の仙台市博物館などの周辺だ。御米蔵屋敷などが整備されたが、三の丸という名称は寛文の頃から使われる。幕末戊辰の役に敗れた仙台藩は、明治元年10月、伊達慶邦が仙台城を官軍に明け渡した。版籍奉還により、二の丸に藩庁が置かれ、知藩事は伊達宗基。明治4年の廃藩置県により、仙台藩は廃され仙台県が設置され、養賢堂を県庁とする。県令は塩谷良翰。明治政府の廃城令(明治4年)により仙台城本丸も取り壊された。その時期はハッキリしないが、東北鎮台の榴ヶ岡の洋風兵舎に廃材が転用されたとも言われる。他の城もそうだが、廃材は払い下げられて風呂屋の焚き付けなどにされたようだ。明治天皇の東北巡幸(明治9年6月)の際に、二の丸跡の鎮台参謀部で休憩する天皇から、仙台城は名城と聞いたがその後どうなったか、と御下問を受け、権県令宮城時亮は答えられずに冷や汗をかいたという。二の丸参謀部での休憩の前に、天皇は騎乗で本丸跡に登臨され市街を一望。本丸の解体の経緯を聞き、「あやまちなり」と嘆いたという。二の丸は明治4年に置かれた東北鎮台の本営となった。鎮台は本当は石巻に置かれる予定が臨時的に仙台城を利用し、明治6年に正式に仙台鎮台と呼ばれたものだ。明治15年に、花火製造中に爆発して本営が炎上し、伊達家累代の建造物がほとんど焼失、大手門、巽門、寅門の3門のみを残した。軍組織の再編で明治21年には第二師団となる。ところで本丸跡は鎮台の管理とされ立入禁止で荒れていたが、明治35年に昭忠碑が建立されるなど整備が進み、大正末期には自然公園に指定され、大手門から出入りが自由となる。大手門と隅櫓(脇櫓)は昭和6年国宝指定。昭和6年八木山吊り橋が完成し、長町越路山(八木山)と結ばれる。八木山球場のベーブルースもこの年。昭和10年には政宗没後300年を記念し政宗騎馬像が完成した。(騎馬像については以前の記事を参照。政宗公騎馬像の歴史(06年6月11日))やがて戦争を迎え、昭和20年7月10日未明、B29の仙台空襲により、唯一の仙台城遺構ともいうべき国宝大手門と脇櫓などは焼失する。戦後は二の丸跡には米軍が駐留した後東北大学、本丸跡は護国神社、三の丸には追廻住宅と後の仙台市博物館(昭和61年)などとなった。大手門と隅櫓の復興が企画されたが、募金(目標約5千万円)が思うとおり集まらず、野口増蔵氏の尽力もあり隅櫓だけが昭和40年に着工し、42年に完成(仙台市に寄附)。昭和40年には新八木山橋が完成し、従来はトンネルだった八木山側も切り通しの道路が開け、、八木山動物公園も開設。参考は下記文献など。逸見英夫、水殿畔『仙台城歴史散策 青葉城の盛衰とロマン』株式会社宮城文化協会、1988年佐々久『近代宮城のあゆみ』仙台宝文堂、1979年
2006.07.01
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