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読売新聞の報道より----------------------------橋下知事「学力テスト、市町村別の点数公表を」大阪府の橋下徹知事は30日、同府貝塚市で開かれた教育シンポジウムで、全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果について、「市町村別の点数も公表すべきだ」と述べ、府内全市町村の「学力順位」を公表するよう近く府教委に求める考えを明らかにした。Click here to find out more!参加者にも「どんどん(成績の)情報公開請求を」と呼びかけた。学力テストの都道府県別成績で、府は2年連続で全国平均を下回っており、橋下知事は「大阪の公教育は崩壊している。府教委は最悪だ。教育委員はみんなお飾り」と批判。「結果が示されないから市町村教委は甘えている」との認識を示した。(2008年8月31日06時40分 読売新聞)----------------------------相変わらずの橋下節が続いているようですけれど、教育委員会は建前上は独立行政委員会とは言え、実質的には教育委員も教育長も首長が選任するんだから、まるで他人事のように「最悪」とか「お飾り」とか言っている場合じゃないだろうに。
2008.08.31
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先日、やっと「崖の上のポニョ」を見てきました。最近の宮崎アニメには賛否両論ありますが、私は結構好きです。話としてはかなり単純で、「ちょっといい話」という感じです。「ハウルの動く城」や「ゲド戦記」より分かりやすい。(この両作品も決して嫌いではないですけれど)そういう意味では系統的にとなりのトトロの延長線上とも言えます。個人的にもっともツボにはまってしまったのは、夫の乗り組む小金井丸と発光信号で交信する場面。急に仕事で帰れなくなった夫に「BAKA BAKA BAKAAAAAAA」と発光信号を送るところは、何となく泣けた。色鉛筆調の背景は、最初は驚きました。結構よかったです。♪ポニョポニョポニョ魚の子~~の歌もよかった。ところで、アニメ界の巨人といえば、今は宮崎ですが、アニメの黎明期には手塚治虫でした。少なくとも世間一般の認知度ではそうだった。そして、この2人の関係というのはなかなか微妙で面白いものがあったようです。生前の手塚治虫は、宮崎駿をかたくなに認めなかったと言われています。一方の宮崎駿も、1989年、手塚治虫が亡くなった直後のインタビューで、漫画家としての手塚を、かつて自分もものすごく影響を受けたこと、今でも高く評価していることを認めた上で、アニメ作家としての手塚治虫は全面否定していました。その最大の理由は、手塚が、制作原価を遙かに下回るダンピングでテレビアニメの制作を請け負ったことです。そのことによって、日本のテレビアニメの低予算、それに伴う低品質(静止画の止め絵、スライド、同じセルを様々な場面で繰り返し使うなど)と低賃金が定着してしまった。そのあおりを受けたのが当時宮崎のいた東映動画です。1960年代には優れた劇場長編アニメを次々と発表していた東映動画は、次第に安かろう悪かろうのテレビアニメを拡大して、劇場長編を縮小していきます。それに抵抗した東映動画労働組合の活動家(その頃、高畑勲が副委員長、宮崎が書記長だった)は会社から干されたり、そうでなくとも品質の高い劇場用アニメに携わる機会が失われ、結局は次々と東映動画を去っていったのです。しかし、それでも、漫画家としての手塚治虫は、宮崎にとって大きな存在だったようです。「乗り越える相手」としても。インタビューの中で、自分の絵が手塚に似ていると指摘されて、それまでに描いた絵を燃やしたりした、というようなことを語っていました。ちょうどその前後に公開されたのが「魔女の宅急便」です。その中で、主人公キキの魔法が弱まって空を飛べなくなり、絵描きのウルスラの家に泊まりに行くシーンがありました。ウルスラはキキに「自分も、それまでの絵が誰かの物まねだって気づいて、絵が描けなくなることがある。」と語るのですが、これは、多分宮崎駿自身が手塚治虫に対する思いを台詞にしたんだろうなと、そう思いました。
2008.08.30
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私が子どもの頃、というのは1970年代から80年代はじめ頃ですが、町中で時々「傷痍軍人」を見ることがありました。片手がなかったり、片足がなかったりする人が、駅前でアコーディオンを弾いたりして投げ銭を集めるあれです。しかし、いつの間にか、そういった人々は町中から消えていきました。その当時(つまり戦後三十数年)、戦争体験者はまだ50歳代でしたが、今では戦争体験者は80歳以上ですから、見なくなるのも当然かも知れません。戦争経験者の姿を見かけなくなるとともに、片手のない人、片足のない人を目にすることが、滅多になくなりました。私は南米の音楽が好きで、これまでに3回ほどボリビアに行ったことがあります。この国には、片手片足のない人が町中に大勢います。1日街を歩けば10人や20人はそういう人とすれ違うのです。日本では、1日に1人とだってすれ違うことがないのに。何故そうなのでしょうか。かつての日本のように、大戦争を行ったというわけではありません。少し前まで、ボリビアの主要産業は鉱業でしたから、鉱山の事故で手足を失った方は多かったようです。しかし、いくら鉱夫に危険の高いとしても、戦争に匹敵するような事故の頻度と犠牲者の数だったはずは、もちろんありません。それで私は人に聞いてみたのです。答えは明快でした。「ここは医療水準が低いから、複雑骨折くらいでも、お金がないと医者が面倒くさがって切断しちゃうんだよ」なるほど、そういうことでしたか。そういえば、チャランゴ(ボリビアの小型弦楽器)のプロの演奏家でも、右手の指が3本しかない人がいます。それに比べると、日本の医療水準は、びっくりするくらい高いと言えるでしょう、これまでのところは。けれども、昨今の医療崩壊の状況を見聞すると、この医療水準の高さも風前の灯火になってきたような気がしてなりません。先日取り上げた福島県の県立大野病院の事件を契機に、産科医療崩壊の問題が盛んに取り上げられました。けれども、根元的には、医療崩壊の原因はおそらく医療費削減(抑制)政策にあるのだと思います。たとえば、主要国の医療費対GDP比を比較したサイトがあります。日本は、いわゆる先進諸国の中ではもっとも高齢化が進んでいるにもかかわらず、医療費の対GDP比は最も低くなっています。逆に、主要国の中で唯一公的保険制度のない米国の医療費は、対GDP比で15%以上、日本の倍近い数字となっています。イギリスは、サッチャー政権の下、医療費が抑制され続けてきた結果、先進国中でも最悪といわれる医療崩壊が起こったため、労働党政権に変わってから医療費の拡大政策に転じ、医療費のGDP比は日本と逆転しています。そして、医療に投じられるお金が少ないということの当然の帰着として、日本は医者数も少ないのです。日本の人口10万人あたり医師数は約200人。OECD加盟国の平均は290人で、日本は加盟29ヶ国中26位という状態です。キューバに至っては、10万人あたり580人もの医師がいます。さすがにラテンアメリカの医療大国だけのことはあります。ちなみに、先ほど触れたボリビアは、人口10万人あたり医師125人。日本より少ないのは当然としても、日本との経済力の差ほど医師が少ないわけではなさそうです。(アフリカには、人口10万人あたり医師が数人という国がゴロゴロしています)金がない、医者の数も足りないでは、医師の勤務条件が過酷になるのはある意味当然でしょう。こんな状態で、危惧されているような新型インフルエンザのパンデミックが起こったら、どういうことになるのか、考えると恐ろしいです。医療を経済効率と財政の都合だけで考えるのはやめにしたいものです。
2008.08.28
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オリンピック開幕のわずか10日前、オリンピック反対の学生デモに対して軍隊が無差別発砲を行って弾圧した・・・・・・・・と書くと、ひょっとしたら北京オリンピックのことかと思う人もいるかも知れませんが、これは北京オリンピックのことではありません。私が生まれた年、つまり1968年10月2日にメキシコで起こったことです。当時、日本でも全学連などの学生運動が盛んでしたが、これは世界的な現象で、メキシコでも学生運動が大きな盛り上がりを見せていました。彼らは10日後の10月12日に開会式が予定されていたメキシコオリンピックに反対を叫び、メキシコ市北部のトラテロルコ広場で集会を開こうとしていました。それに対して、軍が周囲を包囲し、無差別発砲して虐殺、生き残りのおおくも逮捕、投獄されました。公式発表によると、死者は二十数名とされていますが、実際の死者は300人以上というのが通説です。この血塗られた事件の10日後、オリンピックは予定どおり開会されたのです。その次、1972年のミュンヘン・オリンピックでは、パレスチナ・ゲリラの襲撃によって(というより、武力解決の失敗によって)11人の死者を出した黒い九月事件がありました。その次、1976年モントリオール・オリンピックでは、IOCとアパルトヘイト下の南アフリカの関係が問題となって、アフリカ諸国の大半がボイコット。続く1980年のモスクワ・オリンピックは、ソ連軍のアフガニスタン侵攻を受けて、日本を含めた西側諸国の大半がボイコット。このとき、全盛期だった多くの選手が、メダルを争う機会を失いました。有名なのは柔道の山下選手。彼は幸いなことに次のロサンゼルスオリンピックに出場し、金メダルを獲得しましたが、モスクワオリンピックの柔道日本代表の中で、ロサンゼルスオリンピックでも代表になれたのは彼1人だけでした。世界レベルの選手にとって、4年間という時間は余りに長かった。その1984年ロサンゼルスオリンピックは、モスクワオリンピックを米国が主導して多くの国がボイコットしたことへの報復として、ソ連をはじめとする東側諸国のほとんどがボイコット(例外は中国・ユーゴスラビア・ルーマニア)。続く1988年のソウルオリンピックは、旧東側諸国の大半が参加し、方肺状態には終止符を打ったものの、開催前年にオリンピック妨害を目的として、北朝鮮による大韓航空機爆破事件が起きています。オリンピックとは、それほどまでに政治と国家間の対立、テロ、弾圧の道具とされ続けてきたイベントということができます。
2008.08.27
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太田農水相、「消費者がやかましいから」発言に引き続き、今度は政策秘書の自宅を「主たる事務所」として届ける一方、事務所費計550万円余りを計上していたと報じられています。あきれ果てました。「消費者がやかましいから」発言の際は、マスコミはこの部分しか報じなかったのですが、実際にはそれだけではなくて「潔癖バカ」まで言ってしまっているんですね。http://jp.youtube.com/watch?v=kv-DEC_S5_o&feature=related問題のインタビューの映像です。その瞬間、隣に座る桝添厚労相がギョッとして太田の方を振り向いているので、彼も相当驚いたようです。報道によると、太田は農水相辞任を拒否したとのこと。素晴らしい。そうやってどんどん悪あがきしてください。そして、なおいっそうスキャンダルと問題発言で恥の上塗りをしてください。
2008.08.26
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8月18日の日記で、「たとえば沖縄戦の犠牲者数は公式には約18万人ですが、実際にはそれよりずっと多かったのではないかと言われています」と書きました。このことについて説明したいと思います。というのは、沖縄戦の死者の数も諸説あり、最近は極右系の方々が、少しでも人数を少なく見せようと熱烈努力中の模様だからです。まず、一般的な「定説」では、沖縄戦の死者は約18万人となっています。この数字の内訳は県外出身の軍人戦死者65,908人沖縄出身の軍人軍属28,228人(現地召集の正規兵・補充兵・防衛隊)戦闘参加者55,246人(一般住民の中で戦闘に協力したと認定された死者)一般住民38,754人(Wikipediaの沖縄戦の項目より)となっています。このうち、戦闘参加者と一般住民の合計94,000人が、一般に定説として扱われている沖縄戦の一般住民の死者です。でも、ぴったり94,000人とは、何だかずいぶんとキリの良い数字に見えます。実は、偶然そうなったのではなく、キリのよい数字にならざるを得なかったのです。上記の数字のうち軍人軍属の戦死者は、おそらく広報の発行枚数などから算出されたものだと思います。実際には、戦死しても戦死公報が来なかった、とか、戦死公報が来た後で本人が生きて帰ってきた、という例は耳にしますので、これも正確な数ではありません。けれども、まあものすごく大きな誤差があるというわけではないという意味では、比較的正確な数字です。3番目の「戦闘参加者」というのは、当局にそのように認定された死者という意味です。言い換えれば、一般住民の死者の中でそれだけを「別扱い」認定したという意味ですから、認定した数がそのとおりであることは確かです。(認定が正しいかどうかは別にして)問題は、最後の一般住民の死者です。実は、一般住民の犠牲者数の調査はまったく行われていないのです。ではどうやって犠牲者数を算出したのかというと、沖縄戦の始まる直前1944年の人口統計と、戦後1946年の人口統計を比較して、その減った人数から更に県外疎開者(約62,000人)を引くと、概算で94,000人だったのです。そこから「戦闘参加者」と認定された55,246人を引いた残りが38,754人というわけです。整理すると1944年2月の沖縄県人口 491,912人 から1946年1月沖縄群島人口 315,775人 を引き、さらに県外疎開人口 62,000人(概数)を引いた残りが県全戦没者数 114,137人(沖縄出身の軍人戦死者を含んだ数)となります。そこから沖縄出身の軍人軍属死者 28,228人 を引き逆に上記の人口調査には宮古・八重山諸島の人口が入っていないので、別に推測した宮古・八重山諸島の戦死者 8,590人 を足した合計が県民(一般住民)戦没者数 94,490人これを四捨五入して 94,000人というわけです。さらにそこから戦闘参加者と認定された 55,246人 を引いた残りが一般住民の死者 38,754人となります。ところが、この数字には問題がいくつかあるのです。第1に人口統計の精度です。沖縄戦直前の1944年の人口統計は、当時としてはそれほど精度の低いものではなかったと思われますが、1946年の人口統計は、戦争で公的機関もほとんど壊滅しているので、かなり不正確なものだったと思われます。そして、人口統計の結果に従って食糧の配給を受けられたので、人口を水増しして報告する方が有利でした。だから実際の人口は統計の数字より少ない可能性が高かった。第2に、1944年2月の沖縄県人口には軍人が含まれていません。しかし1946年の統計には元軍人がおそらく含まれている。軍人(1946年には元軍人)を含んだ人口を比較すれば、人口の減少はもっと大きかったのです。第3に、県外への疎開者は計算から除外されていますが、実際には疎開中に乗船していた船が撃沈されて亡くなった方が少なからずいます(有名なのは対馬丸)。第4に、1944年から46年までの約2年間の人口の自然増が計算に入っていません。第5に、1946年の人口調査には、復員兵、サイパンなどから帰ってきた出稼ぎ者など、沖縄戦当時は在島していなかった人々が、かなりの数含まれています。前述の県外への疎開者の中にも、1946年には帰島していた方がいるでしょう。これらのことを総合して考えると、1944年の人口はこの計算より多く(軍人が人口統計に入っていないから)1946年の人口はこの計算より少なく(水増しがある可能性が高いから)1946年の人口の中で1944年の人口統計には入っていない人がいる(復員兵、出稼ぎ帰還者、自然増つまりその後生まれた人)計算から除かれた疎開者の中に計算から除くべきでない人(死者、1946年には帰還していた人)がいるというわけで、一般住民の実際の死者の数は、この計算で算出された94,000人より遙かに多い可能性が高いのです。実際の数は、おそらく15万人くらいではないかと言われています。それに軍人の死者約94,000人を合わせると、おおむね24~5万人。それが本当の死者の数である可能性が高いのです。一方、米軍の死者は約14,000人です。
2008.08.22
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福島県大熊町の県立大野病院で04年、帝王切開手術中に患者の女性(当時29歳)が死亡した事件で、業務上過失致死と医師法違反の罪に問われた同病院の産婦人科医(休職中)被告に対し、福島地裁は20日、無罪(求刑・禁固1年、罰金10万円)を言い渡した。-----------------------------いろいろと話題になっていた裁判ですが、まずは妥当な判決かなと思います。私は不勉強で知らなかったのですが、この件は亡くなった妊婦の遺族(父親)の刑事告訴、「絶対に許せない」という強い意志が背景にあって、起訴に持ち込まれたようです。気持ちは分かります。自分の娘が出産で命を落として、悲しまない親はいないでしょう。それが医師に対する憎しみというかたちで表現されるのも、まあ仕方がないかも知れない。ただ、それが医師に刑事罰ということになると、そりゃどうなの、と思わざるを得ません。まして、産婦人科という、もっとも過酷で医師不足の深刻な分野で。(美容整形とかだったら、どんどん賠償金を取り立てろ、とか思ってしまいますけれど)もちろん、明らかなミスとか、まして悪意があったというなら話は別ですけれど、今回の件でそこまで明らかなミスがあったとは、考えにくい。遺族が刑事告訴にまで至った理由の一つは、長時間に及ぶ手術の間、病院側から家族に対して何の説明もなかったことで医師や病院に対する怒りを招いた、ということがあるようです。確かに、何も知らされないままただ待たされて、結局最終結果が「亡くなりました」では、怒りを買うのはもっともです。が、その反面、緊急事態に直面した医師が、一瞬たりとも手が離せない、家族に説明する余裕すらない、という事態だったであろうことも想像に難くない。そうだとすると、医師に対する心証の悪化とそれによる刑事告訴は、不幸なことながら回避のできない事態だったのかもしれません。でも、警察・検察がそれを取り上げなければ、話はそこまでだったはずですが・・・・・・・。
2008.08.21
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さて、昨日の日記に第二次世界大戦の中国の死者を1000万から2000万人と書きました。推計の幅がかなり大きいのですが、いずれにしても膨大な数の犠牲者であることは間違いありません。ところで、中国の発表する第二次大戦の犠牲者数は、時代を経るに従って次第に数が多くなってきているようです。そのことをもって、「犠牲者数を水増しした」とか「信用できない」といった意見があるようです。たとえばhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q128896407こういう意見です。こういうことを書く人は、きっと戦争が終われば直ちに被害の全貌が確定できるものだとでも思っているのでしょう。実際には、何年にも渡る全面戦争の被害の全貌は、そんなに簡単に把握しきれるものではないのです。これは、戦争に限ったことではなく、大規模な災害でも同様のことが言えるでしょう。地震などでも、最初に報じられる被害はごく小さく、それが次第に膨らんでいくというのはよくあることです。たとえば、太平洋戦争の日本の死者は、現在では310万人というのが一応の定説となっています。しかし、敗戦から1ヶ月後の1945年9月、東久邇内閣が発表した最初の数字では、陸海軍の戦没者数50万7千人、一般国民24万1千人※の合計74万8千人だったのです。そこから見れば、現在の定説は、実に4倍にも膨れ上がっていることになりますが、そのことをもって「日本は戦争の犠牲者を水増しした」とでも言うのでしょうか。※一般国民24万1千人という数字が抜けており、陸海軍の戦没者数50万7千人しか記述していなかったため、訂正しました。ちなみに、日本でも死者310万人というのはもっとも広く認められている定説ではありますが、他にもいくつかの説があり、私の知る限りでは、約200万人というのがもっとも少ない説のようです。また、これも昨日書いたように、各戦場ごとの犠牲者数を見ていくと、現在でも意見が分かれている例が見られます。たとえば沖縄戦の犠牲者数は公式には約18万人ですが、実際にはそれよりずっと多かったのではないかと言われていますし、シベリア抑留の犠牲者に至っては、厚生省(現厚労省)の認めている公式発表数値(約6万人)に対して、実際にはその6倍、30万人以上の死者が出たのではないか、と言われています。戦後63年を経た(シベリア抑留が終わってからは約50年ですが)現在でもなお、それだけ意見が分かれるのです。このように、戦争の犠牲者数を確定するのは非常に困難なことであり、数字が揺れ動く(たいていの場合、数字が大きくなる方向に揺れ動く)のは当たり前のことなのです。それを「水増し」などというのはあまりに馬鹿馬鹿しい意見と言うしかありません。
2008.08.18
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諸説あるので数字は一定しませんがアジア太平洋地域日本 310万人朝鮮 20万人台湾 3万人中国 1000-2000万人ベトナム 200万人(餓死者が大半)インドネシア400万人フィリピン 100万人インド 150万人(ベンガル地方の餓死者)ミャンマー 5-15万人シンガポール・マレーシア10万人など中国における犠牲者数の推計の幅が大きいのですが、下限の1000万という数字を採用しても、死者の合計は約2100万人以上になります。ヨーロッパ米国 40万人イギリス 30万人フランス 50万人ベルギー 8万人オランダ 20万人ギリシャ 40万人ソ連 1800-2000万人チェコスロバキア20万人ハンガリー 50万人ユーゴスラビア 150万人ポーランド 600万人ルーマニア 50万人フィンランド 8万人ドイツ 500-700万人イタリア 40万人など合計すると3200万人から3400万の犠牲者が出ています。アジア太平洋とヨーロッパを合計した第二次世界大戦の全犠牲者数は、少なくとも5000万人以上、ひょっとすると6000万人に達するかも知れない。いずれにしても、膨大な数です。戦争に勝ったのはもちろん連合国側ですが、犠牲者数を比較すると、枢軸国側の死者は1000万人前後、残り(4000万から5000万)の死者は連合国側なので、実は連合国側の方が圧倒的に多くの死者を出しています。参考までに、ウィキペディアの第二次大戦の項目では、連合国側の死者5000万人(軍人1700万人と民間人3300万人)、枢軸国側の死者1200万人(軍人800万人と民間人400万人)という数字を採用しています。日本における犠牲者310万人の地域的な内訳は、日本本土 70万人フィリピン 51万人中国(東北を除く) 46万人中部太平洋 25万人中国東北(「満洲」) 24万人沖縄 18万人ビルマ 13万人東部ニューギニア 12万人ビスマルク・ソロモン諸島 11万人朝鮮 5万人モルッカ・西部ニューギニア 5万人ソ連 5万人などとなっています。個別に見ると、おや?という部分もあります。沖縄の犠牲者数は諸説ありますが、18万人よりは多いという説が有力ですし、ソ連での死者(シベリア抑留者)も、以前は5~6万人とされていましたが、実際は30万人以上に達するらしいと現在では言われています。だから、日本の死者の数は、一般に言われている310万人より多かった可能性が高いように思います。それでも、死者の数が300万人台前半であることは確かでしょう。軍人軍属(戦闘員)が230万人、民間人(非戦闘員)が80万人となっているので、軍人が3/4、民間人が1/4の割合なります。しかし、第二次世界大戦全体としてみると、犠牲者の半分以上は非戦闘員だったと推定されています。特にアジア太平洋地域では、日本・朝鮮・台湾を除くと犠牲者の大半が非戦闘員でした。たとえば、1944年にビルマとインドでインパール作戦という戦いがありました。当時ビルマを占領していた日本軍が、インド北東部の要衝インパール占領を目指して侵攻した作戦です。すでに敗色濃厚な時期に行われた無謀な作戦で、日本軍は惨憺たる敗北を喫しました。参加兵力約9万人のうち、8万人近くが戦死、その多くは餓死(戦病死を含む)と言われます。一方イギリス軍の戦死者は1万7千人ほどです。ところが、その背後では、インドのベンガル地方(インパールを含むインド北東部)では、150万人の餓死者が出ているのです。これを含めれば、実は日本軍の死者よりもイギリス(当時のイギリス領インド)の死者の方が遙かに大きい。インパール作戦は、参加した日本兵に悲惨な運命をもたらしただけでなく、戦場周辺の住民にも、更に大きな犠牲をもたらしたのです。そして、それはおそらくインパールに限らずどこの戦場でも同様だったと思われます。
2008.08.17
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昨日の続きになりますが、アジア太平洋戦争の日本軍の犠牲者のうち、おそらく過半数は餓死(病死、戦病死を含めて)によって命を落としています。なぜそんなことになったのかと言えば、そもそも当時の日本には、中国から太平洋の全域まで広がった戦場に、ふんだんに補給できるだけの物資も、補給のための手段もなかったのです。つまり、日本の生産能力を越えた戦争を行ったことが、飢餓地獄に至ったそもそもの根本原因でした。それに加えて日本軍自身、特に陸軍が補給・兵站を極めて軽視する体質をもっていたことが、事態を更に深刻化させたのです。陸軍の補給・兵站軽視を象徴する有名な話があります。1942年ニューギニアのポートモレスビー侵攻作戦の準備段階でのことです。当時日本軍はニューギニアの北岸を占領していましたが、更に南岸の拠点ポートモレスビーに侵攻しようとしたのです。当初、日本軍は海からポートモレスビーに上陸しようとしますが、輸送船団を援護する空母部隊が珊瑚海海戦で損害を受けたことからこの作戦は失敗し、陸路の侵攻に切り替えます。しかし、ニューギニアは本州より大きな島で、北岸から南岸のポートモレスビーまで360kmもの距離がありました。その間自動車の通行可能な道路もなく、途中3000mを越える峻険な山脈を越えるのです。移動は全て徒歩によるしかありません。現地の部隊(南海支隊)が机上計算(※下記参照)すると、5000人の前線部隊に補給するために必要な補給部隊の数は3万2千人になりました。そんな数の補給部隊があるはずもなく、とても実施不可能な作戦、というのが南海支隊司令部の出した結論だったのです。しかし大本営はこの計算結果を無視して作戦を実行に移し、案の定ポートモレスビーに侵攻した南海支隊は飢餓地獄に陥って作戦は失敗します。なぜそんなことになったのか。単純なことで、それまでの日本軍は、補給を重視する必要がなかったのです。「現地調達」つまり現地での略奪によって食糧を確保していたからです。南方の戦場でも、それまでの中国戦線と同様に現地で食糧を略奪すればいいと考えていた。しかし太平洋の絶海の孤島や、ニューギニアの密林地帯には、そもそも人がごくわずかしか住んでおらず、略奪すべき対象がいなかった。だから、略奪すればいいと補給を甘く考えていた日本軍は飢餓地獄に陥ったのです。アジア太平洋戦争は1945年8月15日に終わりました。遅きに失したと思います。300万以上の戦没者の8割方は最後の1年に亡くなっています。すでに戦争の結末が事実上確定した後、100%勝ち目のない戦いで悪あがきを続けた結果の死者なのです。これを無駄死にといわずして何というのでしょう。が、それでも、日本本土で南方の戦線のような餓死者が大量に出る事態に至る寸前に、かろうじて戦争は終わりました。(もちろん、「火垂るの墓」に見られるように、餓死者は少なからず出ていますが、程度の比較としての話です)敗戦時の日本人成人の平均摂取カロリーはわずかに1500Kcal程度に過ぎませんでした。成人の必要カロリーは、概ね2000カロリー以上(当然、男性か女性か、また体の使い方や年齢によっても違いますが)ですから、かなりの栄養不足です。しかし、1945年の秋は記録的な不作でした。もし戦争があと半年でも続いていたら本土でも大量の餓死者が出たことは間違いありません。父が、「もし1945年の冬まで戦争が続いていたら、学童疎開の子どもたちの中には餓死者が続出したはずだ」と言う所以です。ところが、毎日新聞の昨日朝刊のコラムによると、東条英機は敗戦間際の手記(上記のコラムには書いてありませんが、8月10日に書かれているらしい)で「もろくも敵の脅威に脅(おび)え簡単に手を挙ぐるに至るがごとき国政指導者及国民の無気魂なりとは夢想だもせざりし」と放言しているというのです。8月10日といえば、ソ連参戦、長崎原爆の翌日です。東京をはじめとした主要都市が焼け野原となり、2発の原爆が投下され、本土でも餓死者続出の事態が目前に迫った状況でなお、「簡単に手を挙ぐる」(降伏する)のは無気魂なのだそうです。しかも、東条の行動は単に手記に留まらず、実際に終戦工作の妨害に動いているのです。そう書いている本人は、開戦時の陸軍大臣兼首相、1944年に首相を辞任したとは言え、戦死の危険も餓死の危険もない立場に身を置いていたのです。開いた口がふさがらないとはこのことです。※ 人間が徒歩で進むことしかできないのですから、補給部隊も兵士が荷物を担いで進むしかありません。運べる食料は、1人あたりではせいぜい25kg。急峻な山岳地帯をとおる360kmの道のりを徒歩で歩けば、1日の歩行距離は頑張っても20km。往復するのに36日かかります。その間補給部隊自身も背中に担いでいる食糧を食べなければなりません。当時の陸軍の定量は、兵士1人あたり1日米4合でした。「多い」と思わないでください、他にほとんど何もなくて米4合だけです。カロリー計算すると、成人の標準必要カロリーである1日2000カロリー程度にしかなりません。米4合の重さは約600gですから、36日分は21.6kgです。つまり、25kgの食料を担いで出発しても、360km先の前線の部隊に渡る食料は3.4kgにしかならない計算になります。もちろん、それ以外に武器弾薬などの補給も行わなければなりません。その結果、360km先の5000人の戦闘部隊に補給物資(日量3トン)を徒歩で補給するのに要する人員は3万2千人という結論になったのです。
2008.08.16
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63回目の終戦記念日です。私の父は敗戦時小学校4年生、学童疎開で宮城県にいました。一方、母は小学校1年生、空襲で家を失い群馬県の高崎に家族で疎開している間に敗戦を迎えました。学童疎開が始まったのは1944年、対象は小学校3年以上でした。つまり父は学童疎開の最年少、母は学童疎開対象外だったわけです。その代わり、母の実家のあった川崎は、日本鋼管など重工業の街だけに、猛烈な爆撃に晒され(東京の爆撃は焼夷弾が多かったようですが、川崎は爆弾でした)、母も炎のなかを逃げ回ったようです。しかも、疎開した高崎にも、空襲はあった。一方、学童疎開中の父は、B29の大規模な空襲はなかったものの、疎開先に小規模の工場があったため戦闘機の機銃掃射を受けて逃げ回ったことがあるそうです。戦争が1945年8月で終わったので、学童疎開の子どもたちに(というより、日本の本土の一般市民全般に)餓死者は出ませんでした。けれども、もし1945年の冬まで戦争が続いていたら、学童疎開の子どもたちの中には餓死者が続出したはずだと父は言います。もっとも、その時南方の戦場では状況は更に過酷でした。アジア太平洋戦争の日本の死者は総数約310万人、そのうち軍人軍属が230万人と言われていますが、藤原彰「飢死にした英霊たち」(青木書店)によれば、軍人軍属の戦死者のうち過半数は純然たる戦闘による死者ではなく、病死、戦病死を含めた餓死であったといいます。そして、そこに暮らす地元の人々は・・・・・・・・。アジア太平洋戦争の犠牲者は、総計2000万人以上と推定されています。そのうち何割が餓死者だったのか、正確な数字は知りません。前掲書によると、中国を侵略した日本軍も、戦争末期にはかなりの餓死者を出していました。1944年の大陸打通作戦では、日本軍の各部隊は、できるだけ味方のいないところを進撃しようとしたと言います。まだ日本軍が通っていない「処女地」を進撃すれば食糧が自由に略奪できたからです。すでに味方の別部隊が通った後だと、略奪され尽くしていて、食糧が手に入らない。そこまで略奪の限りを尽くしても餓死者が出たというのですから、略奪された側にどれほどの飢餓状態が起こったかは、想像に難くありません。ベトナムでは第二次大戦で約200万人の死者が出ていますが、そのほとんどは餓死者だったようです。それらのことを考えあわせると、戦争の犠牲者の多くが餓死者だったのは日本だけではなかっただろうと思います。さて、話は戻って、当時小学生だった私の両親も、もう70歳を越えました。もう、兵士としての戦争体験者は、80歳以下の人はほとんどいないでしょう。戦争の体験者は年々高齢化しています。それによって、戦争の記憶もまた遠くなってきているのでしょう。戦争はテレビの中のもので、しかも視聴者は解説の軍事評論家と共に将軍か提督になったような気分でいられる。歴史修正主義、好戦的な言動が大手を振ってまかり通るようになってきた背景には、そのことがあるのではないか、という気が、私にはします。何はともあれ、平和が一番です。今日という日にあわせてこの曲を・・・・・・ http://jp.youtube.com/watch?v=mkcS3i2HR2M&feature=related------------------Sobreviviendo(生き残る)私は自問する、どうやって生きてきたのかと。生き残ってきた、と私は言う。生き残ってきた、と。私は、千回以上も書かれた詩をもっている。その詩は繰り返されてきた。この大地の上で誰かが死のうとしている間に、そして戦争のための兵器が製造されている間に。私は、生き残ってこの大地を踏みしめる。危険に直面する全ての者が、生き残っている。悲しく、放浪する男たちは、生き残っている。月日が流れ、以前のような笑いが消えた、かつて、私は、ヒワのように笑っていたのに。私を傷つける確かな記憶がある、どうして広島を忘れることができようかこの地上で、どれほど多くの惨劇が今日、私は笑いたいけれど、もうできないもはや、わたしには、ヒワのような微笑みも、1月の松のような平和もない。生き残って、この世界のために歩く。私は、たった1人の生き残りにはなりたくない。私は、自分の死ぬ日を選びたい。若者よ、私は平穏と赤い血と、よい歯並びと精子をもっている。私の主義に沿った生き方がしたい。私は、動物たちの世界に対して平和の宣言を行う日など見たくない。そんな、狂った日など、笑ってしまうだろう。彼らは、命のために宣言するのだそして、我々はほとんど生き残ることが出来ない。 ------------------追記Sobreviviendo+火垂るの墓http://jp.youtube.com/watch?v=FJ44hbTW-OU&feature=related
2008.08.15
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しかし、昨日の北京オリンピック開会式当日に、グルジアとロシアの戦争が勃発の報。どれだけの犠牲者が出るのか、残念です。http://jp.youtube.com/watch?v=04XLZAKqxJQただ、神に祈ることただ神に祈ることは痛みに対して自分が無関心でいたくないということ充分にやった、という思いも抱くことなく乾ききった死を迎えたくない、ということ。ただ神に祈ることは不正義に対して無関心でいたくないということ戦争が私の運命を傷つけたうえにもう一方の頬を叩きたくないということ。ただ神に祈ることは、戦争に対して無関心でいたくないということそれは、貧しく無実な全ての人々を踏みにじる巨大な化け物だから。ただ神に祈ることは忘却に無関心でいたくないということもし裏切り者が何かをしでかしてもそれを容易に忘れ去ったりしないということただ神に祈ることは未来に対して無関心でいたくないということ絶望しても行進しなければ別の新しい文化の中で生きるために。ただ神に祈ることは、戦争に対して無関心でいたくないということそれは、貧しく無実な全ての人々を踏みにじる巨大な化け物だから。
2008.08.09
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・・・・・・・実は、オリンピックにはそれほど興味のある方ではありません。過去の他のオリンピックでもそうでしたし、北京オリンピックも同様です。部分的には興味のある種目もあります。マラソン(自分がランニングをやっているから)、サッカー、野球あたりでしょうか。今回のオリンピックに関しては、中国を巡る諸問題に絡めて、様々な批判があります。批判の具体的な中身については、同意できる部分もありますが、それをオリンピック批判の材料にするのはどうかなと思います。それは、結局のところスポーツの祭典を政治に利用することに他なりません。かつて1980年モスクワオリンピックを、ソ連のアフガニスタン侵攻にからめて西側諸国の多くがボイコットしました。確かにソ連のアフガニスタン侵攻は非難されるべき行為でした。しかし、オリンピックボイコットという行動は、1984年のモスクワオリンピックを東側諸国のほとんどがボイコットし返すという結果になって跳ね返ってきただけです。ところで、「諸君」という極右系の雑誌があります。その最新号(2008年9月号)は総力特集 北京五輪 虚飾の祭典-北京五輪を観てはならない10の理由だそうです。http://www.bunshun.co.jp/mag/shokun/この雑誌を出版しているのは言わずと知れた文藝春秋ですが、その同じ会社が「Number」というスポーツ雑誌も出しています。その最新号(709・710号)はオリンピック直前特集 ニッポン最強宣言だそうです。オリンピック(より正確には日本代表)のヨイショ記事オンパレードです。「北京五輪テレビスケジュール&見所ガイド」という記事もあるようです。http://www.bunshun.co.jp/mag/number/index.htm同じ出版社が、片方の雑誌では北京オリンピックを「見てはならぬ」と言い、片方の雑誌では「見よう」という。さて、読者はどちらに従えば良いんでしょうか。
2008.08.08
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http://mainichi.jp/select/jiken/archive/news/2008/08/04/20080804dde041040064000c.html海自護衛艦火災:放火の海士長、懲戒免職--横須賀地方総監部海上自衛隊の護衛艦「さわゆき」艦内で放火したとして、海自横須賀地方総監部は4日、海士長の被告=艦船損壊罪で起訴=を懲戒免職処分にした。総監部によると、海士長は7月6日午前3時10分ごろ、青森県尻屋崎沖を航行中、いかりを操作する揚錨機室で、油ふき取り用の布きれにライターで火をつけ、室内の床や天井などを損傷させた。(以下略)---------------------海上自衛隊の護衛艦って、不審火が多いようです。昨年末には護衛艦「しらね」が、戦闘し機種に置いてあった私物の(ということになっている)保冷温庫から出火して、火災発生、戦闘指揮所の電子装備が全損。その前には、2002年、護衛艦「うみぎり」で次々と3回の放火が起こったことがあります。1度目の放火犯だけは捕まって有罪となっていますが、その後で2度目、3度目の事件が起こり、その犯人として逮捕された乗組員(両方とも尉官級の幹部乗組員だった)は、いずれも嫌疑不十分として後で釈放されています。実は、軍艦に不審火が多発するのは、旧日本海軍でも同様でした。戦艦「三笠」1905年9月、佐世保港に入港の際火薬庫から出火して沈没。引き上げられて修理の後現役復帰したが、1912年10月、神戸沖で再び火薬庫から出火(今度は沈没を免れた)防護巡洋艦「松島」1908年4月台湾の馬公に入港時に突然爆沈、原因不明。装甲巡洋艦「日進」1912年11月、清水港で火薬庫から発火して火災。沈没は免れる。戦艦「筑波」1917年1月、横須賀で火薬庫爆発で沈没戦艦「河内」1918年7月、徳山湾で火薬庫爆発で沈没戦艦「陸奥」1943年6月、広島湾で火薬庫爆発で沈没実に多い。このうち、「日進」の火災だけは、乗組員の放火と断定されて、犯人が死刑になっているようですが、それ以外は公式には原因不明です。しかしほとんどが放火あるいは重大な過失による失火であったことは公然の秘密です。「三笠」は、弾薬庫で酒盛りをやっているうちに失火したと言われています。ろうそくの火をたよりに酒盛りをしていたら、そのろうそくを倒してしまったという話もあるし、信号用のアルコールに火を付けて、臭いを飛ばしてから飲んでいたら、その火が弾薬に移ってしまったという話もある。いずれにしても、当時連合艦隊旗艦、そして日本海海戦の「武勲」に輝く「三笠」ですら、一皮むけば志気はこんなに弛緩していたのです。「陸奥」は、艦内で盗難事件が多発して、容疑者の査問直前に爆沈したことから、犯人あるいはそう疑われた乗組員が、艦もろとも自殺を図って弾薬庫に火を放ったのではないかと言われています。火薬庫から出火した他の例でも、乗組員が艦もろとも自殺を図って火を放った例がかなりあると言われています。つまり、広い意味でのいじめが放火の原因になったわけです。現在を振り返ってみると、護衛艦「うみぎり」の放火事件でも、最初の放火犯(有罪判決を受けている)は、放火の理由を「いじめられたうっぷんを晴らすため」と明言しているようです。今回逮捕された「さわゆき」の放火も同様の理由である可能性は高いです。不審火に加えて、乗組員のいじめという「伝統」まで、海上自衛隊は旧軍から引き継いだということでしょうかね。
2008.08.04
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先日、岩波新書の「 新型インフルエンザ―世界がふるえる日」を読み、その後ですぐに、日本放送出版協会の「最強ウイルス―新型インフルエンザの恐怖」も読みました。今年1月にNHKスペシャルで放送された番組を書籍化したものです。どちらも非常に平易な内容ですから、一読をおすすめします。ただ、新型インフルエンザの脅威がどの程度深刻なものとなるかは、正直言ってよく分かりません。この問題の専門家は誰もが、「新型インフルエンザのパンデミックは近い将来必ず起こる」と断定しています。ただし、パンデミックを起こすのが、今世界的に問題になっている鳥インフルエンザH5N1型かというと、それについては異論もあるようです。現段階で新型インフルエンザはまだ発生が報告されていません。従って、それがどのようなものになるかは、推測する事しかできないわけです。新型インフルエンザの元になるのがH5N1型なのか、予想外の型なのかも分からない。まして、それに対して既存の抗ウィルス薬(タミフル)やワクチンがどの程度の効果を発揮するのか、毒性の程度、被害の程度についても、何も分かっていないと言っていい。20世紀には新型インフルエンザによるパンデミックが3回ありました。最初が1918年のスペイン風邪、それから1957年のアジア風邪と1968年の香港風邪です。しかし被害の程度では、スペイン風邪と他の二つでは大差があります。スペイン風邪の死者は4000万から5000万、日本でも40万人前後と言われています※。しかも、20代30代の健康な青壮年がバタバタと死んだ。それに対して、あとの二つのパンデミックでは、死者は全世界で100万人以上(もちろん、数字だけ見ればたいへんなものあることは確かですが)、高齢者と乳幼児がその大半を占めていました。近い将来、確実に起こるであろうインフルエンザのパンデミックが、スペイン風邪、あるいはそれ以上の規模になるか、あるいはアジア風邪、香港風邪程度のもので収まるかは、神のみぞ知る、です。とは言え、もちろんスペイン風邪かそれ以上の規模の深刻な事態が起こるかも知れないという前提で備える必要があることは言うまでもないでしょう。ただ、個人のレベルでどの程度の対策が準備できるのかは、正直言ってよく分かりません。インフルエンザ予防の一番の手段は人混みを避けることと言いますが、まさか流行が始まったとたんに仕事を休むわけにもいかないし、むしろそういう場合には率先して職場に駆けつけて対処しなければならない性質の仕事に、私は就いています。かといって、プレパンデミックワクチンやタミフルを優先的にもらえるような立場でもない。せいぜい通勤時にマスクをする程度か・・・・・。※父に聞いた話によると、父方の親戚のある家で、娘さんと女中さんが次々と3人スペイン風邪でなくなったそうです。もちろん、当時父だってまだ生まれていませんから、祖父か祖母に聞いたのだと思いますが。
2008.08.02
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まずは開設しました。なお、当ブログは、既存のいかなる掲示板・ブログとも関係はありません。あまり宣伝はせずに、細々とやっていこうと思っています。
2008.08.02
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