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重源は、1121年に生まれ1206年に没した平安末・鎌倉初期の勧進聖です。 左馬允紀季重の子で、俗名重定、13歳で醍醐寺で出家し、法名重源、房号俊乗房、のち、みずから南無阿弥陀仏とも名乗りました。 ”人物叢書 重源”(2004年8月 吉川弘文館刊 中尾 尭著)を読みました。 東大寺大勧進職として源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした重源の生涯を詳しく紹介しています。 中尾 堯さんは、1931年広島県三次市生まれ、立正大学大学院文学研究科修士課程修了後、立正大学文学部教授などを歴任し、1974年文学博士(東京教育大学)、日蓮宗勧学職、日本古文書学会顧問を歴任しました。 重源が自らの生涯の事跡を記した南無阿弥陀仏作善集によれば、青年期には四国や大峯を修行して歩きましたが、のちに下醍醐に栢杜堂を建て上醍醐の一乗院や慈心院塔に結縁するなど、前半生の活動の拠点は醍醐寺にありました。 3度宋国に渡り、1180年に平重衡の兵火によって東大寺の大仏殿以下が焼失すると、1181年に被害状況を視察に来た後白河法皇の使者である藤原行隆に東大寺再建を進言し、それに賛意を示した行隆の推挙を受けて61歳で東大寺勧進職に就きました。 東大寺の再建には財政的・技術的に多大な困難がありましたが、周防国の税収を再建費用に当てることが許され、自らも勧進聖や勧進僧、土木建築や美術装飾に関わる技術者・職人を集めて組織し、勧進活動によって再興に必要な資金を集め、それを元手に技術者や職人が実際の再建事業に従事しました。 また、重源自身も京の後白河法皇や九条兼実、鎌倉の源頼朝などに浄財寄付を依頼しました。 自らも中国で建設技術・建築術を習得したといわれ、中国の技術者・陳和卿の協力を得て職人を指導しました。 自ら巨木を求めて山に入り、奈良まで移送する方法も工夫したといいます。 また、伊賀・紀伊・周防・備中・播磨・摂津に別所を築き、信仰と造営事業の拠点としました。 幾多の困難を克服して東大寺は再建され、1185年に大仏の開眼供養が行われ、1195年に大仏殿を再建し、1203年に総供養を行いました。 この功績から、重源は大和尚の称号を贈られ、死後は栄西が東大寺大勧進職を継ぎました。 重源が再建した大仏殿は戦国時代の1567年に松永久秀によって再び焼き払われ、現在の大仏殿は江戸時代の宝永年間に再建されたものです。 東大寺には重源を祀った俊乗堂があり、国宝の重源上人坐像が祀られています。 東大寺には重源時代の遺構として南大門、開山堂、法華堂礼堂が残っています。
2011.03.29
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震災に遭われた皆々様 心よりお見舞い申し上げます。皆様の安全と一日も早い復旧、救護の進展をお祈りしております。 気象庁が命名した地震の名称は2011年東北地方太平洋沖地震ですが、NHKが東北関東大震災、民放は東日本大震災としています。 本震の発生は2011年3月11日14時46分(日本標準時)、震央は日本の三陸沖、北緯38度6分12秒、東経142度51分36秒(米国地質調査所発表は、北緯38度19分19秒、東経142度22分8秒)、震源の深さ 24km、規模はM9.0、最大震度7でした。 この地震は、断層面が水平に対して10度と浅い傾きを持ち、上面と下面がそれぞれ西北西-東南東方向にすれ違う形で圧縮される、低角逆断層型のずれであり、破壊断層は南北に400キロ、東西に200キロの広範囲で、少なくとも4つの震源領域で3つの地震が連動発生し、断層の滑り量は最大約20メートルに達しました。 気象庁は当初M7.9と速報しましたが、後に関東大震災を引き起こした関東地震のM7.9を上回るM8.3に、そしてM8.4に修正され、そのあと日本の観測史上最大規模のM8.8に修正され、さらに、3月13日には外国からの観測データも用いてマグニチュード9.0と修正されました。 M9.0は、地震の規模としては1923年の関東大震災のM7.9を上回る日本国内観測史上最大で、アメリカ地質調査所の情報によれば1900年以降、世界でも4番目のものとなりました。 被害を大きくしたのは大津波でした。 大津波警報、津波警報、津波注意報のいずれかが発令された範囲は日本の沿岸すべてとなり、津波によって三陸沿岸をはじめとする全国各地で被害が発生しました。 特に岩手県・宮城県・福島県の3県では海岸沿いの集落や、名取川などの河口周辺から上流に向け数キロメートルにわたる広範囲が水没するなどの甚大な被害が出ました。 港湾空港技術研究所が三陸海岸で津波の高さは15メートル以上になっていたと推定されました。 日本以外の国・地域では、アメリカのハワイ州が現地時間3月10日21時31分に津波警報を発令、太平洋津波警報センターはその他、ロシアやニュージーランド、南米のチリなども含む約50の太平洋沿岸の国・地域に津波警報を発令しました。 地震直後より国際連合とアメリカ、ロシアを初め世界各国が日本に対して支援の用意があると表明し、日本国内外を問わず様々な組織・団体または有志がこの地震に対しての支援を実行しています。 そして、余震はいまだに続いています。 福島第一原子力発電所の損傷による放射能漏れなどが発生し、東北地方を中心に甚大な被害をもたらしています。 1号機、3号機には水素爆発、2号機には爆発、4号機には爆発と火災が起きています。 フランスの核安全局では、1986年の史上最悪とされる旧ソ連のチェルノブイリ原発事故ほどではないものの、1979年のアメリカのスリーマイル島原発事故を上回るとの見方を示し、アメリカのシンクタンクの科学国際安全保障研究所では、国際原子力事象評価尺度のレベル4を超えてレベル6に近く、最も深刻なレベル7に達する可能性もあると指摘しています。 政府や企業の努力が功を奏して、原発事故が大事に至らないよう祈っています。
2011.03.22
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歩いてする学問とは何でしょうか。 ”歩く学問の達人”(2000年8月 晶文社刊 中川 六平著)を読みました。 既成の机上の学問を追究するのではなく自分で自分の道を切り拓き歩くことで学ぶことを広げてきた人たちを紹介しています。 お仕着せを嫌い、誇りを持って行動し、新しい学問を着実に獲得してきた16人にスポットをあてています。 鶴見良行さんが書いた「歩きながら学問を育てた人たちがいる」という一行を、口のなかでころがして人を選別して紹介している。 最初はアルフレイドーウォレスさんで、イギリスの博物学者でアマゾンやマレー諸島を探検調査しました。 「かれの歩きぶりは、同時代の白人のなかでもきわだっている。蒐めた標本をロンドンのエージェントを通じて売り、それで暮らしを支えた。つまり自前の旅だった。目的地に着けば、小屋を建てたり借りたりした。そこはまったくの海岸であるよりは、いくらか内陸に入った、水場のある森林だった。」 そんな島での生活について、食べ物は村人との物々交換であるがゆえに、行く先々で、その土地の社会との関わりは濃いものになっていきます。 スポソサーのいない、自前の旅だけに、土地のひとびとの暮らしぶりも、よく見えてきます。 そして日本の歩く学問に動いていき、菅江真澄さんと松浦武四郎さんをあげて紹介しています。 菅江真澄さんは、東北から蝦夷に渡りその一生を行脚にあけくれました。 菅江さんが渡った蝦夷を踏査しはじめての蝦夷地誌を書き上げたのが、松浦武四郎さんです。 学問そのものを論じてはいません。 学問を、ただ方向づけられた知識の体系と論じることに意味はありません。 歩くこと、そのことに楽しみがあり、それが学ぶことです。 どこを歩くのかは、自分で見つけなさい。 本のなかを歩いてもいい、雑誌という海もある、住んでいる町だって、川だって海だって行くことはできます、島を歩いても、歴史に身をおくことだってできます。 そのようにして、強烈な個性、きらめく才能の源泉をさぐり、明かしていきます。 混沌とした今の時代に一石を投じています。鶴見良行--歩いてつくったアジア学山折哲雄--京教学界の異邦人高良倉吉--行動する琉球史家藤森照信--建築界の文学者古文書を返して歩く--網野善彦さんに訊く長井勝一--『ガロ』学派の育ての親森まゆみ--地域雑誌からの出発目黒考二--活字中毒者の雑誌づくり粕谷一希--保守的自由主義者の編集作法上野博正--『思想の科学』の同伴者宮本常一のこと--夫人・アサ子さんに訊く小沢昭一--放浪芸を探る旅をつづけて野田知佑--川に暮らす自由人熊谷博子--体験を活かす映像ジャーナリスト松下竜一--叙情派作家が描く戦後五十年大城立裕--沖縄文学の創始者
2011.03.15
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昭和13年にヒットした、作詩、梅木三郎、作曲、佐々木俊一の「長崎物語」では、「赤い花なら曼珠沙華、阿蘭陀屋敷に雨が降る、濡れて泣いてるじゃがたらお春、未練な出船のあゝ鐘が鳴るララ鐘が鳴る」と歌われました。 しかし、お春は決してあわれな女性ではなかったようです。 ”じゃがたらお春の消息”(2001年7月 勉誠堂出版刊 白石 広子著)を読みました。 混血児ゆえ13歳で追放され流行歌にも歌われたお春の人生を探っています。 白石広子さんは、1944年大阪生まれ、2001年に学習院大学日本語日本文学科卒業、児童文学、シナリオの世界に身を置きつつ、二度にわたり8年間ジャカルタに在住しました。 お春は1625年に長崎でポルトガル商船の航海士であったイタリア人・ニコラス・マリンと、長崎の貿易商の子女・マリアとの間に生まれました。 筑後町の親類宅に住み、容姿端麗、読み書きにも長けていたとされます。 1639年6月に発布された第五次鎖国令により、10月に長崎に在住していた紅毛人とその家族がバタヴィアへ追放された際、母・マリア、姉・お万と共に14歳で日本を追われました。 追放後、21歳のときオランダ人との混血男性で、平戸を追放されていたシモン・シモンセンと結婚しました。 夫はオランダ東インド会社へ入り活躍しました。 三男四女を儲け、1697年4月に72歳で死去したといいます。 ジャカルタから故郷の人々に宛てたとされる「じゃがたら文」によって知られます。 「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれました。 1714年に西川如見が著した「長崎夜話草」第一巻によって初めて紹介されました。 以来、募る望郷の念を少女とは思えぬ流麗な調子でしたためた名文として高く評価されました。 明治時代に貴族院議員・竹越与三郎がじゃがたら文を評し「じゃがたら姫のじゃがたら文を読みて泣かざるは人に非ずと申すべし」と述べています。 発表後間もなく「偽作ではないか」との疑いもあり、蘭学者の大槻玄沢は、「疑うべきもなき西川の偽文」と断じ、大槻の門弟であった山村才助も「人多くこれを偽作ならんかと疑うべし」としています。 近年では偽作とほぼ結論づけられていて、本書では、新出資料や詳細な時代背景考証を駆使し、伝説の検証とともにお春の一生を綴られています。 お春は悲劇の女性ではなく、実は強い女性だったそうです。 ジャカルタ古文書館にお春の遺言書が保存されていて、遺産の分配法などが示されています。 富裕層の証である奴隷も所有していたことが明らかとなっていて、悲劇的な印象とは異なる生涯を送った記録が残されています。 近代の息吹がまだ遠い時代の中で、異国に住んでいたお春たちは男性に従属するだけの生活から一歩踏み出した新しい女性として生きていたようです。 このような多くの富と地位を得て生活者として確固たる足跡を刻み痕跡を残した女性が、はたして江戸初期の日本に存在していたでしょうか。 自分の名前を書いた遺言書を残している女性がいたでしょうか。 少なくとも、お春があわれな女性であったとは到底思えないそうです。 内容は、実際に現地に滞在した人の時間と情熱を傾倒したものとなっています。
2011.03.08
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東ローマ帝国はビザンティン帝国、ビザンツ帝国とも呼ばれ、330年に誕生し1453年に陥落しました。 西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となりました。 カール大帝の戴冠による西ローマ帝国復活以降は、西欧ではギリアの帝国、コンスタンティノープルの帝国と呼ばれました。 ”ビザンツ帝国史”(2003年12月 白水社刊 ポール・ルルメル著/西村六郎訳)を読みました。 ビザンチオン、今のイスタンブールを首都とした帝国が東のローマとして誕生してから陥落するまでを概説しています。 西ローマ帝国はゲルマン人の侵入などで急速に弱体化し476年に滅亡したとされますが、東ローマはゲルマン人の侵入を退けて古代後期ローマ帝国の体制を保ち、コンスタンティノポリスの東ローマ政府が唯一のローマ帝国の正系となりました。 アナスタシウス1世の下で力を蓄えた東ローマ帝国は、6世紀のユスティニアヌス1世の時代には、名将ベリサリウスの活躍により旧西ローマ帝国領のイタリア半島・北アフリカ・イベリア半島の一部を征服し、地中海沿岸の大半を再統一することに成功しました。 しかし、相次ぐ遠征や建設事業で財政は破綻し、それを補うための増税で経済も疲弊しました。 ユスティニアヌス1世の没後はサーサーン朝ペルシアとの抗争やアヴァール・スラヴ人・ランゴバルド人などの侵入に悩まされました。 7世紀になると、サーサーン朝にエジプトやシリアといった穀倉地帯を奪われるに至りました。 混乱の中即位した皇帝ヘラクレイオスは、シリア・エジプトへ侵攻したサーサーン朝ペルシアとの戦いに勝利して、領土を奪回することに成功しました。 しかし間もなくイスラム帝国の攻撃を受けて、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを再び失ってしまいました。 655年にアナトリア南岸のリュキア沖の海戦で敗れた後は東地中海の制海権も失い、674年から678年にはイスラム海軍に連年コンスタンティノポリスを包囲されるなど、東ローマ帝国は存亡の淵に立たされました。 717年に即位したイサウリア王朝の皇帝レオーン3世は、718年に首都コンスタンティノポリスを包囲したイスラム帝国軍を撃退しました。 以後イスラム側の大規模な侵入はなくなり、帝国の滅亡は回避されました。 9世紀になると国力を回復させ、バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになりました。 10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世ブルガロクトノスの下では、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活しました。 東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノープルは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげました。 しかし、1025年にバシレイオス2世が没すると、大貴族の反乱や首都市民の反乱が頻発して国内は混乱しました。 1071年にはマラズギルトの戦いでトルコ人のセルジューク朝に敗れたために東からトルコ人が侵入しました。 同じ頃、西からノルマン人の攻撃も受けたために領土は急速に縮小しました。 1081年に即位した、大貴族コムネノス家出身の皇帝アレクシオス1世コムネノスは婚姻政策で帝国政府を大貴族の連合政権として再編・強化することに成功しました。 ヨハネス2世コムネノスはこれらの軍事力を利用して領土の回復に成功し、小アジアの西半分および東半分の沿岸地域およびバルカン半島を奪回し、東ローマ帝国は再び東地中海の強国の地位を取り戻しました。 息子マヌエル1世コムネノスはイタリア遠征やシリア遠征、建築事業などに明け暮れましたが、度重なる遠征や建築事業で国力は疲弊しました。 1176年には、アナトリア中部のミュリオケファロンの戦いでトルコ人のルーム・セルジューク朝に惨敗しました。 1180年にマヌエル1世が没すると、地方における大貴族の自立化傾向が再び強まりました。 アンドロニコス1世コムネノスは強権的な統治でこれを押さえようとしましたが失敗し、イサキオス2世アンゲロスの時代に皇帝権力は弱体化し、ブルガリア・セルビアといったスラヴ諸民族も帝国に反旗を翻して独立し、帝国は急速に衰微していきました。 1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国し、東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権を建てて抵抗することとなりました。 各地の亡命政権の中でもっとも力をつけたのは、小アジアのニカイアを首都とするラスカリス家のニカイア帝国、ラスカリス朝だった。3代目のニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリスの死後、摂政、ついで共同皇帝として実権を握ったミカエル8世パレオロゴスは、1261年、コンスタンティノポリスを奪回し、東ローマ帝国を復興させて自ら皇帝に即位し、パレオロゴス王朝を開きました。 しかし、かつての大帝国は甦りませんでした。 皇族同士の帝位争いが頻発し、西から十字軍の残党やノルマン人・セルビア王国に、東からトルコ人のオスマン帝国に攻撃されて領土は首都近郊とギリシアのごく一部のみに縮小しました。 14世紀後半の皇帝ヨハネス5世パレオロゴスはオスマン帝国のスルタンに臣従し、帝国はオスマン帝国の属国となってしまいました。 1453年4月にオスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世率いる10万の大軍勢がコンスタンティノポリスを包囲し、5月29日未明にオスマン軍の総攻撃によってコンスタンティノポリスは陥落しました。 皇帝コンスタンティノス11世は自ら戦闘に加わった後行方不明となり、戦死したものと思われます。 これによって古代以来続いてきたローマ帝国は完全に滅亡しました。
2011.03.01
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