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カダフィ大佐はニックネームのようなものでしょうか。 リビアでは、元軍人に敬意を払うため、退役した時の最終階級で呼ばれる慣習があるといいます。 ムアンマル・アル=カッザーフィーは、リビアの独裁者でした。 カッザーフィーが敬愛するエジプトのナーセル大統領が陸軍大佐であったから、それに倣ったということらしいです。 本人は、リビアには公式には直接民主制を標榜して政府や国家元首は存在しないということから、リビア最高指導者および革命指導者と言っていたようです。 かつて中東で最も反欧米の強硬派だったことや、数々の極端で奇怪な言動から、砂漠の狂犬とかアラブの暴れん坊とか呼ばれていました。 1969年のクーデター以来、リビアの実質的な国家元首を務めてきました。 2009年2月から2010年1月までの期間は、アフリカ連合の議長も務めました。 2011年リビア内戦の結果、首都トリポリが8月23日に反体制派リビア国民評議会の手に落ち、カッザーフィーの政権は事実上崩壊しました。 そして、10月20日にカッザーフィーの死亡が確認されました。 カッザーフィーは、1942年にベドウィンの子としてスルトで生まれ、ムスリムの学校で初等教育を受けました。 1956年のスエズ危機で反イスラエル運動に参加し、ミスラタで中等学校を卒業しました。 1961年にベンガジの陸軍士官学校に進み、仲間たちとサヌーシー朝王家打倒を計画し自由将校団の組織を始めました。 1965年に卒業するとイギリス留学に派遣され、一年後に帰国して通信隊の将校となりました。 1969年9月1日、カッザーフィーの同志の将校たちと共に首都トリポリでクーデターを敢行しました。 病気療養でトルコに滞在中の国王イドリース1世を退位させ、国家の中枢機関を制圧して無血革命に成功しました。 11月に公布された暫定憲法により、カッザーフィーを議長とする革命評議会が共和国の最高政治機関となることが宣言されました。 1974年に革命評議会議長職権限をジャルード少佐に委譲しましたが、カッザーフィーは退任しませんでした。 1977年の人民主権確立宣言により、初代全国人民委員会書記長に就任しました。 1979年からは全国人民委員会書記長を辞任し一切の公職を退きましたが、革命指導者として2011年まで実質上の元首としてリビアを指導していました。 2011年2月、カッザーフィーの辞職を求める大規模な反政府デモが発生し、国民に対し徹底抗戦を呼びかけましたが、欧米を中心とした軍事介入を招きました。 2011年6月27日、国際刑事裁判所は、人道に対する罪を犯した疑いでカッザーフィーに逮捕状を請求しました。 その後、反政府勢力により首都全土が制圧され、8月24日までにカッザーフィーは自身の居住区から撤退しました。 独裁政権は事実上崩壊し、とうとう、昨日、反カダフィ派のシルト攻撃が午前8時ごろ始まり、最後の攻防は約90分間続き、NATO軍機がシルト付近を走行中のカダフィ派の軍用車を空襲し、シルトから離れようとした100台の車の中にカッザーフィーがいたとの情報があります。 そして、排水溝トンネルに潜んでいたところを反カダフィ派の戦闘員が発見、拘束されました。 地面で複数の男に蹴られ、大佐は耳や鼻、口から血を流し、カーキ色の衣服は引きちぎられていたそうです。 黄金の銃を持ち、上半身裸の状態で道路を引き回されました。 最後は、カッザーフィーは「何をする」と話し、「撃つな、撃つな」と懇願した後、降伏したとのことです。 そして、銃殺されて、遺体は非公開の場所に搬送されたようです。 一方、シルトやトリポリは、祝賀ムード一色となったようです。 独裁者の最後は、みな哀れなものだと思いました。
2011.10.25
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多様なインドに、なぜ人間の一生を見据えたゴーダマーブッダによる思想・哲学が生まれたのでしょうか。 坐る、称える、瞑想することで身体性を強めることによって大衆を救済する宗教となった仏教は、老病死に向き合う高齢者にどう応えられるのでしょうか。 生きることに虚しさをおぼえる人々にどう語りかけることができるのでしょうか。 ”仏教の身体感覚 ”(2010年5月 筑摩書房刊 久保田 展弘著)を読みました。 仏教の論理的な問題として語れない仏教信仰の世界を身体感覚という観点から考えています。 久保田展弘さんは、1941年生まれ、早稲田大学卒業、アジア宗教・文化研究所代表で、神教世界を多岐にわたるテーマから追究し独自の宗教研究を展開しています。 著者自身、60歳を機に老病死が間違いなく自分の人生そのものとして実感されるようになり、仏教のもつ意味があらためて自分の問題として迫ってきたといいます。 でも、仏教が、高齢社会の只中にあって老病死に向き合う人間の何になるというのでしょうか。 そもそも手がかりは、20歳を間近にした年の春にはじめた座禅の実践にあったということです。 呼吸法を伴う身体感覚を通して、大地と地つづきの自分を実感し、呼吸が絶えず大地をつらぬいてゆくような感覚が、自分自身を解放し、同時に周囲と世界とつながっているという思いを広げてくれたそうです。 仏教をいかに身体感覚によってわかるようになるのでしょうか。 きのう、きょう、明日への思いに、仏教がどう響き合うのでしょうか。 ブッダは、人間存在、あらゆる生命の在りようそれ自体の限界を認識した上で、そこに生まれる無限におよぶいのちの関係、つながりを慈しみということばとともに説きました。 仏教は、呪術性と身体性を強めることによって、人々を救済する宗教となりました。 宗教は信仰の世界の話であり、論理の積み重ねだけで語ることはできません。 この10年、いまほど仏教が身近に、自分の問題と思えるときはありません。 それはいま世界が直面し、その渦中にある問題とも決して無縁ではないからです。 いま、誰もがいのちの危機にさらされ、情報社会といわれるなかで、人間関係は恐ろしく稀薄になっています。 ここで、互いが常ならぬいのちであること、縁を説いてきた仏教があらためて問われなくてはならないのではないでしょうか。はじめに 日本という宗教風土と仏教第1章 ブッダとダルマ―仏教を実感するとき第2章 縁起・空、そしてこころの変革第3章 仏教の変容と救済―インドから中国・日本へ第4章 法華経―現世に向き合うとき第5章 浄土教と日本人の霊魂観第6章 華厳経の現代―その世界観・生命観終章 いのちという身体感覚
2011.10.18
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アパートメントホテルは、キッチン、家具、調理器具、食器類、電話、ランドリーなど生活に必要な設備が整った短期アパートです。 ホテルでは望めない広いスペース、自分の家のようにリラックスできる環境で、入居当日から海外生活がスタートできます。 旅行者ではなく普通に住んでいる家族もたくさんいて、建物の前にドアマンがいて、小さめのフロントがあります。 部屋の掃除やベッドメイキングはアパートホテルによりあったりなかったりしますが、鍵は滞在中自分で管理します。 すでに日本でも、いろいろなところで運営されているようです。 ”アパートホテルで巡る欧州 ”(2010年3月 中央公論新社刊 山内 英子著)を読みました。 アパートホテル、修道院、プチホテルなどの宿泊スタイルを組み合わせた新しい形の欧州の旅を紹介しています。 山内英子さんは、山口県岩国市生まれ、山口大学教育学部卒業、日本プレスセンター・電気通信技術ニュース社勤務時代に、テレコムライターとしての猛特訓を受け、その後フリーランスとなり、経済、テレコム、教育、サッカー、美術のレポートを海外から寄稿しています。 著者がよく利用するお勧めのアパートホテル、修道院、プチホテルなどが紹介されています。 アパートホテルはヨーロッパでは結構一般的のようで、旅行案内所で渡される宿泊施設案内にも一つのカテゴリーとして載っているほどであるといいます。 海外での住まい探しの期間の仮宿として、また6カ月未満の海外出張の宿舎として、アパートメントホテルはとても快適のようです。 リビングルームが付いた部屋は、寝室と食スペースを分けることによって広々とした空間がえられます。 ランドリー付きですので、かさばる洋服も最小限で大丈夫です。 生活に必要な家具・家電がそろっていますので、長期滞在でも、生活用具をイチから準備する煩わしさがありません。 自炊ができ、合理的かつ健康的な生活を送ることが可能です。 現地の友人、同僚を入室させることができます。 利用は日本からも、電話、FAX、E-mailで滞在期間、予算、人数を連絡して物件を決めて予約することができます。 一部のトラベルサービス会社でも取り扱っているようです。 施設に滞在するということなので、観光主体の移動というよりはその地にゆっくりと滞在して生活するような感覚を楽しむ旅行に合っています。 紹介されているアパートホテルは大体一泊30~50ユーロで、住所や電話番号も記載されています。 いまユーロはだいぶ安くなっていますので、宿泊には追い風が吹いているようです。入門編 有名観光地を違った視点から 快適な“パリ市民”になる―パリ(フランス)、修道院施設での宿泊を楽しむ―ローマ(イタリア)、古城ホテルに泊まるチャンス―モン・サンミッシェル(フランス)基礎編1 アパートホテルという選択 上手なアパートのカギの受け渡し術―フランクフルト(ドイツ)、住人同士の交流は旅の醍醐味―ラコルーニャ(スペイン)、とことんシティライフ―ポルト(ポルトガル)、「日本食」への抑えがたい欲求―セヴィリア(スペイン)、滞在のヴァリエーションを楽しめる大都会―マルセイユ(フランス)基礎編2 異空間を味わえる都市&ホテル “壁”の向こう側にあった秘境―クヴェトリンブルク(ドイツ)、歩いて国境を越える―スウビツェ(ポーランド)、現代版ルネサンスを謳歌できる城郭都市―チェスター(イギリス)、屋根裏部屋で満天の星を眺める―チェスカ・トレボヴァ(チェコ)、家族経営のペンションを拠点に―カダケス(スペイン)、プチホテルで過ごす南仏―ニース(フランス)応用編1 町と町をつなぐ 夜行フェリーの船室に泊まる贅沢―マヨルカ島→イビザ島(スペイン)、夜行列車でイタリアを脱出応用編2 旅はどこまでも続く 地中海の絶景を独り占め;町に楔を打ちこんで;短期間でも利用できるルームシェア
2011.10.11
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まだあの津波の記憶は生々しいですね。 浜口梧陵さんは、「稲むらの火」という話で知られています。 ”津波とたたかった人―浜口梧陵伝 ”(2005年8月 新日本出版社刊 戸石 四郎著)を読みました。 幕末に起きた安政大地震による巨大津波によって壊滅した紀州広村の復興と津波を防ぐ堤防の建設に立ち上がった醤油屋当主、浜口梧陵の生涯を紹介しています。 NHKでも取り上げられた梧陵の業績と生き方を史実にもとづいて検証し、今日的視点から再評価した伝記的読本です。 戸石四郎さんは、1929年生まれ、高校教師をへて著述業、日本科学者会議会員です。「稲村の火」とは稲束のことを言い、昭和12年から22年までの国定教科書、尋常小学校5年生用「小学国語読本巻十」「初等科国語六」に載っていた話です。 原典は小泉八雲の「生ける神」とのことです。 ある海辺の村を襲った大津波を庄屋の五兵衛がいち早く察知し、刈り取った大切な稲むらに火を放って村人に知らせ、おおぜいの命を救ったというものです。 五兵衛は浜口梧陵その人であり、紀州広村、現在の和歌山県広川町での実話だったといいます。 浜口梧陵は1820年に紀伊国広村、現・和歌山県有田郡広川町で、紀州湯浅の醤油商人である浜口分家・七右衛門の長男として生まれ、12歳で本家、濱口儀兵衛家の養子となって銚子に移りました。 浜口儀兵衛家は現在のヤマサ醤油当主で、浜口梧陵は七代目浜口儀兵衛を名乗りました。 梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則です。 若くして江戸に上って見聞を広め開国論者となり、海外留学を志願しましたが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して事業を行いました。 1852年に広村に稽古場、耐久舎、現在の和歌山県立耐久高等学校を開設して、後進の育成を図りました。 1854年頃、七代目浜口儀兵衛を相続しました。 そして、この年=安政元年12月23日に、先に安政の東海地震が発生しました。 マグニチュードは8.4でした。 その32時間後に、今度は安政の南海地震が発生しました。 マグニチュードは8.4でした。 災害の後、梧陵は破損した橋を修理するなど復旧につとめたほか、延べ人員56,736人、全長600m、幅20m、高さ5mの大防波堤を約4年かけて修造しました。 広村の復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたもので、後に小泉八雲は「生ける神=A Living God」と賞賛しています。 蘭医、関寛斎、勝海舟、福沢諭吉と交流があり、広い交友関係がありました。 1868年に、商人身分ながら異例の抜擢を受けて紀州藩勘定奉行に任命され、後に藩校教授や大参事を歴任するなど、藩政改革の中心に立って紀州藩、和歌山県経済の近代化に尽力しました。 1871年に、大久保利通の要請で初代駅逓頭、後の郵政大臣に就任しましたが、半年足らずで辞職しました。 1880年に、和歌山県の初代県議会議長に就任し、国会開設に備えて木国同友会を結成しました。 1885年に、世界旅行に行ったがアメリカ合衆国ニューヨークで病没しました。 堤防完成から88年後の1946年に広村を昭和南海地震の津波が襲ったとき、この堤防のために被害を減らすことができたといいます。 はじめに―浜口梧陵という人を知っていますか 一 幕末激浪のさなかに―「人となる道」を歩む 天下国家に目を開く/ペリー来航の衝撃 二「稲むらの火」の真実―津波とのたたかい 津波ドキュメント/防災百年の計にとりくむ 三「五兵衛話」と「稲むらの火」 ハーン(小泉八雲)の「生ける神」/中井常蔵の「稲むらの火」 四 明治維新と改革のこころざし 紀州藩改革への取り組み/自由民権運動と梧陵 五 今日から見た梧陵―むすびにかえて 経営者としての梧陵/防災の観点から
2011.10.04
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