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福島原発事故はまだ片付いておらずまだ多くの時間がかかりそうな模様です。 原発の安全性には疑問があるという指摘はずっと以前からあったそうです。 日本においては電力需要の3割を原発が担っており、原発を止めるなら必ず代替の発電所が必要で、それは現実的には火力ということになってしまいます。 地球の温暖化から化石燃料の使用は控えざるをえませんが、代替を期待される自然エネルギー技術は余りに未熟です。 そして、事実上頼れるのは原発のみであると考えられていました。 そこで、今の原発を根本から変え安全な原発は造りえないかという疑問も起こります。 日本の原発は軽水炉という形式ですが、これに変わるべきものとして、効率性、コスト、安全管理の面から、トリウム核燃料発電が提唱されています。 ”「原発」革命”(2001年8月 文藝春秋刊 古川 和男著)を読みました。 プルトニウムを消滅させる安全優良な炉によるエネルギー論です。 古川和男さんは1927年大分県生まれ、第五高等学校理乙、京都大学理学部卒業、東北大学金属材料研究所助教授、日本原子力研究所主任研究員、東海大学開発技術研究所教授、トリウム熔融塩国際フォーラム代表、熔融塩熱技術協会会長を歴任しました。 それは、アメリカのオークリッジ研究所で成功した長期実験の反応法、トリウムを燃料とするサイクルを主体とした原発です。 現状の固体燃料を用いた発電サイクルよりも優れており、危険なプルトニウムは消滅させることが可能であるといいます。 燃料に固体のウランではなく液体のトリウムを使うため、プルトニウムが発生しません。 燃料の成型が不要で低コストです。 放射性廃棄物の発生量が少なく、炉内を常圧で高温にできます。 しかし、利点が多いのですが、全く普及していないのはなぜでしょうか。 プルトニウムが発生せず核兵器に転用できないため、建設された1960年代では軍事的にメリットが少なかったようです。 また、燃料成型の必要がなくメーカーにとってもメリットが少なかったといいます。 ただし、トリウム熔融塩炉は実現されていないために良く見える面が無いわけではないという人もいるそうです。 使い終わった原発を解体するときにいろいろな問題があるといいます。 今の軽水炉原発が安全に運転される限り、わざわざ熔融塩炉を造る必要はありません。 しかし、今回の大きな原発事故で、熔融塩炉では過酷事故が起こらないという主張も、かき消されてしまいそうです。 今後、より冷静で現実的な対応が求められるのではないでしょうか。なぜ今「原発」を見直すのか第一章 人類とエネルギー第二章 核エネルギーとは何か第三章「原発」のどこが間違いか第四章「安全な原発」となる条件第五章「原発」革命第六章「原発」革命第七章「原発」革命第八章 核燃料を「増殖」する第九章「革命的な原発」の全体像第十章 核兵器完全廃絶への道
2011.04.26
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日蓮は1222年の春、安房国小湊に生まれ、比叡山、高野山などで、修業を積んだ後、法華経にこそ仏教の神髄があるという信念を持ち、1253年に政治不安や天災に苦しむ社会を救おうとして鎌倉にやって来ました。 邪教に惑わされている世間と邪教を許している幕府を強く批判しました。 ”人物叢書 日蓮”(1990年12月新装版 吉川弘文館刊 大野 達之助著)を読みました。 諸国を遊学して、数多くの経典や書物を学び、法華経こそが釈尊の真実の教え最高の経典であるとした日蓮の生涯を詳細に紹介しています。 大野達之助さんは1909年生まれ、1935年に東京帝国大学文学部卒業、警察大学校教授、駒澤大学教授を歴任して1984年に没しました。 日蓮は日蓮宗宗祖で、1282年の死後、皇室から、日蓮大菩薩(後光厳天皇1358年)と立正大師(大正天皇1922年)の諡号を追贈されました。 父は三国大夫、貫名次郎重忠、母は梅菊とされ、幼名は善日麿と伝えられています。 1233年に清澄寺の道善に入門、1238年に出家し、是生房蓮長の名を与えられました。 1242年に比叡山へ遊学し、1245年に比叡山横川定光院に住みました。 1246年に三井寺へ遊学し、1248年に薬師寺、高野山、仁和寺へ遊学し、1250年に天王寺、東寺へ遊学し、1253年に清澄寺に帰山しました。 1253年4月28日朝、日の出に向かい南無妙法蓮華経と題目を唱え立教開宗し、正午に清澄寺持仏堂で初説法を行ったといいます。 名を日蓮と改め天台宗の尊海より伝法灌頂を受け、1254年に清澄寺を退出して鎌倉に出て弘教を開始しました。 1257年に鎌倉の大地震を体験し、実相寺で一切経を読誦し思索しました。 1260年に『立正安国論』を著わし、前執権で幕府最高実力者の北条時頼に送りました。 安国論建白の40日後、他宗の僧ら数千人により松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされましたが難を逃れ、その後ふたたび布教を行いました。 1261年に幕府によって伊豆国伊東へ流罪となり、1264年に安房国小松原で念仏信仰者の地頭東条景信に襲われ、左腕と額を負傷し、門下の工藤吉隆と鏡忍房日隆を失いました。 1268年に蒙古から幕府へ国書が届き、他国からの侵略の危機が現実となりました。 日蓮は、執権北条時宗、平左衛門尉頼綱、建長寺道隆、極楽寺良観などに書状を送り、他宗派との公場対決を迫りました。 1271年に極楽寺良観の祈雨対決の敗北を指摘し、良観・念阿弥陀仏等が連名で幕府に日蓮を訴え、平左衛門尉頼綱により幕府や諸宗を批判したとして佐渡流罪の名目で捕らえられ、腰越龍ノ口刑場で処刑されかけるが免れましたが、評定の結果佐渡へ流罪となりました。 流罪中の3年間に法華曼荼羅を完成させました。 1274年に赦免となり、幕府評定所へ呼び出され、頼綱から蒙古来襲の予見を聞かれ、「よも今年はすごし候はじ」と答え、同時に法華経を立てよという幕府に対する3度目の諌暁を行いました。 その後、身延の地頭、波木井実長の領地に入山し、身延山を寄進され身延山久遠寺を開山しました。 1274年に蒙古襲来の文永の役があり、1281年に蒙古軍再襲来の弘安の役がありました。 1282年に病を得て、波木井実長の勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山し、武蔵国池上宗仲邸へ到着し、池上氏が館の背後の山上に建立した一宇を開堂供養し、長栄山本門寺と命名しました。 死を前に弟子の日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持を後継者と定め、10月13日辰の刻に、池上宗仲邸にて入滅しました。
2011.04.17
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それぞれの人の経験には必ず時代が反映しています。 一見してばらばらに見える人びとの経験は、時代の影響を受け時代の共通性を帯びています。 ”近代社会を生きる―近現代日本社会の歴史”(2003年12月 吉川弘文館刊 大門正克/天野正子/安田常雄編集)を読みました。 明治維新から1920年代までにわたって、歴史的経験を知るうえで重要と思われる家族、くらし、地城、文化・思潮などの領域が各時代にわたってとりあげられています。 大門正克さんは1953年生まれ、横浜国立大学教授、天野正子さんは1938年生まれ、東京女学館大学教授、安田常雄さんは1946年生まれ、国立歴史民族博物館教授です。 都市と村の暮らし、徴兵される人々、南洋に渡る移民たち。さまざまな人生には時代の共通性が刻まれています。 近代社会は近世以来の社会的結合を強力に解体、再編しようとしました。 そのもとで人びとは、家族、地域、社会のなかで多様な結びつきをつくることによって生存の方途を編み出そうとしてきました。 その結びつきはきずなであると同時に、しがらみでもありました。 近代社会は新たな序列化と流動化を促し、そこから社会的上昇志向や疎外感からの脱出願望を引き起こすことになりました。 脱出願望は階層間の上昇にとどまらず、植民地や満州にもおよびました。 さまざまな人生を振り返るとき、思い通りにならずあとには辛酸や悔恨、代償が残った人が多かったように見えるかもしれません。 どのような人も時代の転換と無縁ではなく、近代社会の形成と帝国への膨張、戦争の時代、敗戦が人びとに与えた影響は大きかったです。 また、家族の結びつきも人の一生を左右した大きな要因でした。 時代と家族の結びつきが複雑にからまりあい、きずなやしがらみが形成されています。 歴史のなかにおける人びとの痕跡は、聞取り、写真、記憶、文字史料のなかなどに残されます。 さまざまな人生はバラバラに存在しているのではなく、多様な痕跡を通して結びつき、その連鎖が歴史を形づくっているように思われます。1近代社会の誕生 文明化と国民化 地域にくらす 家/家庭と子ども 軍隊の世界 いのちの近代2帝国日本とデモクラシー 帝国日本の地域 無産階級の時代 南洋へ渡る移民たち 家庭という生活世界 改造の思潮 さまざまな人生
2011.04.12
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漢字が読めない、歴史を知らない、計算ができないとか、大学生の基礎学力のなさが言われて久しいです。 教育に過剰なこの国の若者が学力を欠いているのは驚くべきことではないでしょうか。 私たちが無教養になったのは、現代の日本人が見失った独学の精神にあるのではないでしょうか。 ”独立の精神”(2009年2月 筑摩書房刊 前田 英樹著)を読みました。 身ひとつで学び生きるという人間本来のあり方か教育論に決定的に欠けた視座を説いています。 前田英樹さんは、1951年大阪生まれ、中央大学大学院文学研究科修了、立教大学現代心理学部教授、専攻はフランス思想、言語論です。 近頃、子供の数が大きく減り、望めばたいていの人が大学に行けるようになりました。 それで、世間が大学に対して注文をつける機会が格段に多くなり、教師はのんびり好きな勉強をするというわけにいかなくなってきました。 教育内容はいつも大学間で手厳しく比較され、国からは、このカリキュラムを修めると年次ごとにどうなり、最後にどんな仕事に就けるのかをちゃんと説明しろ、と言われるようになりました。 外からの評価に晒されるということは、なかなかいいことです。 世間の注文がうるさくなることに全然不服はありませんが、これを盾に取って次々と打ち出される政策には困り果てたりしています。 実は、ほんとうに大事なことは何ひとつ教えることなどできないのです。 学ぶことは身ひとつで生きる自分が学ぶというあり方でしかなされえないのです。 この自覚のないところに教育があるでしょうか、学ぶということが成り立つでしょうか。 学ぶのは自分が学ぶのであり、生まれてから死ぬまで身ひとつで生きる自分が学ぶのです。 この身を通さないことは、何ひとつ覚えられません。 体を使わない勉強だって、それとまったく同じです。 この身がたったひとつであるように、心も気持ちもただひとつのものです。 人が本を読み、ものを考えるのは、どんなふうにしてでないとできないでしょうか。 柴を背負い歩きながら本を読んでいる二官金次郎の像は、いきなりその答えになってしまいます。 人がそういう学び方をするほかないのは、私たちがどんな具合に生きて死んでいく生き物だからではないでしょうか。 職人がその手技を身に付けるやり方は、学ぶことすべてにとってきわめて正しいことです。 そして、米作りによって生きることが、人の独立のなかできわめて尊いのです。 私たちの学びのいちばん深く強い独立は、実のところ農による自給の生活に正しい根を持つのではないでしょうか。 米を作らないで本を読んだり、街をうろついたりしている人間は、せめて大いに旨い米を食べようではないでしょうか。 それで足りなくなれば、作る人も増えるでしょう。第1章 身ひとつで学ぶ(金次郎の独立心学校嫌いこそ正しい、ほか)第2章 身ひとつで生きる(葦のように考えよ、知らざるを知らずと為せ、ほか)第3章 手技に学ぶ(大工仕事は貴い教える愚かさ、ほか)第4章 農を讃える(狩猟の悲しみ農の喜び、ほか)
2011.04.05
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