全3件 (3件中 1-3件目)
1
孔子は、今から約2500年前に生きていた実在の人物です。 実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末に魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げました。 孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家をなしました。 ”孔子”(1991年9月 集英社刊 加地 伸行著)を読みました。 中国・魯国の政治改革をめざしながら、政治の波に翻弄され、不遇のままに終わった孔子の生涯を紹介しています。 加地伸行さんは、1936年生まれ、京都大学文学部卒業し、文学博士で中国哲学史を専攻し、高野山大学、名古屋大学、大阪大学文学部教授を歴任しました。 周王朝は中国各地を分割し、各地それぞれに責任ある統治者を定めていました。 これら統治者を諸侯といい、その上に立っていたのが、天子の周王でした。 魯はこの諸侯の1つであり、紀元前1055年から紀元前249年までの、周代、春秋時代、戦国時代に亘って存在した国です。 魯国では、周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統が受け継がれ、古い礼制が残っていました。 この古い礼制をまとめ上げ、儒教として後代に伝えていったのが、孔子とその一門です。 魯国は、春秋時代に入ってから、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となりました。 国内では、魯公室の分家である三桓氏が政治の実権を握り、国政はたびたび混乱しました。 孔子の死後、国としての魯はますます衰退し、事実上三桓氏に分割されて、魯公室は細々と生き残るものの、紀元前249年に楚に併合されて滅亡しました。 孔子は紀元前552年生まれの春秋時代の思想家、哲学者で、紀元前479年に73歳で没しています。 周王朝の支配体制がくずれ、諸侯が対立抗争する春秋末の動乱期に過ごしています。 当時、魯国でも君主の威権は地に落ち、季孫氏・孟孫氏・叔孫氏という3公族が政治を専断していました。 さらに3公族のうちもっとも強力な季孫氏では、家臣の陽虎が権勢をふるい、下剋上の様相さえありました。 幼いとき父に死別した孔子は、貧困と苦難のなかに育ちました。 孔子の一生は、世俗的欲望にふくらみ、その欲望に圧されてもがきつづけた生涯でもありました。 その周辺に起こった事件や問題は、現代社会の状況と、驚くほどよく似ています。 われわれ現代人や現代社会が、ひいては、いつの世、いつの人にも通じて抱えている問題を映し出す普遍性を持っています。 人間はだれでも、人に認められたいと思っています。 何歳になっても、どのような地位にあっても、なおかつ自分の才能や能力を人に認められたいと思って生きています。 あるいはまた、自分はこの世に役立っており、生きる価値のある人間であることを、他人に認めてほしいと切に願って生きています。 他人から認められること、それもとりわけ力のある人から自分が認められたとき、人間は生きる喜びに震えます。 その喜びは誇りとなって、人間をしっかと支え、生きる意味を与えます。 逆に、自分が認められないとき、怒りとなり、悲しみとなり、絶望となり、無気力となってゆきます。 この世には、そういうつらい思いに生きている人間もまた多いのです。 孔子は、人に認められたいと強く願って生きた人物です。 しかし、ある数年の期間を除いて、政治の波に翻弄され、人に認めらませんでした。 孔子の生涯は、自分の才能を、自分の能力を認めてほしいと悲痛に叫びつづけた70数年でした。 孔子は、それをどのようにして耐えるか、自戒のことばを自分に説きながら、不遇の運命と闘いつづけました。 老年の孔子は、死の世界について考えて死への深い思いを述べています。 孔子には多くの名言があり、2500年前のものとは思えない深い響きをもってわれわれに追ってきます。 孔子の生涯とそのことばは、時を越えて新しく、考えるべき多くのことを、われわれ現代人に語りかけてきます。〔1〕時代〔2〕出生〔3〕青春〔4〕野望〔5〕不遇〔6〕権力〔7〕流浪〔8〕弟子〔9〕対話〔10〕終焉/孔子関係地図
2013.08.27
コメント(0)
ベルリンはドイツに16ある連邦州のうちの一つで、現在、首都が置かれていて、市域人口は350万人と、ヨーロッパではロンドンに次いで2番目に多いです。 ドイツ北東部、ベルリン・ブランデンブルク大都市圏地域の中心に位置し、この地域の人口は590万人に達しています。 ”ベルリン物語”(2010年4月 平凡社刊 川口マーン恵美著)を読みました。 かつての冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊してから20年以上経過し、これまで数奇な運命を辿ってきたベルリンの歴史を描き出しています。 主に1871年と1990年の2回のドイツ統一の間に起きたベルリンの出来事を中心に人や街の魅力に触れています。 川口マーン惠美さんは、1956年大阪府生まれ、日本大学芸術学部音楽学科ピアノ科卒業、シュトゥットガルト国立音楽大学大学院ピアノ科卒業のノンフィクション作家、評論家です、 2011年から拓殖大学日本文化研究所客員教授を務めています。 ベルリンが最初に文書に言及されたのは13世紀のことで、それ以後プロイセン王国やドイツ帝国、ワイマール共和政、ナチス・ドイツの首都でした。 第二次世界大戦後、ベルリンは東ベルリンと西ドイツの飛び地で周辺を、ベルリンの壁で囲まれた西ベルリンに分断されました。 1989年のドイツ再統一によりベルリンは再び首都としての地位を得て、今日に至っています。 プロイセン公国かプロイセン王国になった1701年、ベルリンはまだ、東方の辺境の垢抜けない田舎町に過ぎませんでした。 1871年、多くの領邦から成っていたドイツはようやく統一され、ドイツ帝国か成立しますが、その直前に3度の戦争が起こっています。 3度ともプロイセンが関わっていて、1864年にはデンマークが、1866年にはオーストリアが、1870年にはフランスかプロイセンに敗れました。 統一前夜のプロイセンは、ヨーロッパでも列強の一つに伸し上がっていました。 ドイツ統一はプロイセンの主導のもとに行われました。 プロイセン王はドイツ帝国の皇帝となり、プロイセンの首都であったベルリンはドイツ帝国の首都となりました。 ドイツの産業革命は1830年頃に始まり、20世紀に入ると鉄鋼の生産量はイギリスを抜き、化学や電気の部門も発達してヨーロッパ一工業都市になりました。 産業の担い手である労働者たちは過酷な労働条件に苦しんで、労働運動が活発になり、鉄血宰相ビスマルクは、飴と鞭の政策を敷きました。 鞭は社会主義者鎮圧法、飴は社会保障制度でした。 皇帝ヴィルヘルムニ世の1914年にドイツは第一次世界大戦に突入し、次第に泥沼にはまり込んでいきました。 1918年のキール軍港での水兵の反乱がきっかけになってヴィルヘルムニ世は退位・亡命して、ようやく第一次伊界大戦は終了し、ドイッ帝国は潰えました。 1919年、新政府はワイマール憲法を打ち立てたものの、国民の生活は苦しいままでした。 1920年代のベルリンは、世界で最も進歩的な町でした。 とりわけ性的には、ヨーロッパで一番解放されていたと言われています。 ベルリンは文化的にも科学的にも急速に発展し、ヨーロッパ一の文化都市として自由を謳歌することになりました。 しかし、1929年に世界恐慌が起きて、1932年にプロイセン州のオットー・ブラウン政権がクーデターによって倒れ、共和政は極左・極右の影響を受けて崩壊し、共産党が市議会で単独第一党となりました。 そして、1933年1月30日にヒトラーが帝国首相に任命されました。 この町の繁栄は、ヒトラーが町を手中に収めたとき、あたかも蒸発したかのように唐突に消えてしまいました。 その後の12年間、ベルリンはヒトラーと共に上昇し、そして、最後には、最初いた場所よりもさらにずっと下まで転落してしまいました。 ベルリンが息を吹き返しやっと少しずつ蘇り始めたとき、この町はすでに首都ではありませんでした。 そして、唐突にも、1961年には町の真ん中に壁が築かれ、それ以後、ベルリンは冷戦の最前線となり、東西陣営の火薬庫となりました。 それから28年経って、またもや唐突に壁が消えると、今度は平和の象徴となりました。 1990年、東西ドイツはドイツ連邦共和国として念願の統一を遂げ、二度目のドイツ統一が行われました。第1章 ビスマルクとドイツ帝国-ドイツ統一まで第2章 チェツィリエンホーフ-ドイツ帝国の時代第3章 黄金の20年代-ワイマール共和国の時代第4章 帝国議事堂-ヒトラーの台頭第5章 シュタウフェンベルク-ナチへの抵抗の時代第6章 ベルリン崩壊-ポツダム会談と原爆第7章 ベルリン封鎖と壁の建設第8章 壁の生活-冷戦の時代第9章 ブランデンブルク門-ドイツ統一の時代
2013.08.20
コメント(0)
英語の勉強は、話すより聞くのが重要だということです。 ”「超」英語法”(2004年3月 講談社刊 野口 悠紀雄著)を読みました。 英語学習の間違った点を克服し、実用英語を確実にマスターする方法を説いています。 これを読めば、英語習得のキモ、TOEIC、英会話学校、留学、ビジネス英語、どこで手を抜くか、専門用語の重要性、英語を聞き取るコツ、モチベーションを維持する方法など、英語に対する多くの疑問が解消します。 野口悠紀雄さんは、1940年生まれ、元官僚の経済学者で、専門は日本経済論、ファイナンス理論です。 一橋大学教授、東京大学教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学教授を経て、早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問、一橋大学名誉教授を務めています。 たとえば“海外旅行で使える英会話100”などといったハンドブックを持って、アメリカに行った日本人が、駅までの道をその本のとおりに訊きます。 訊ねられたアメリカ人が親切に答えてくれたとして、本当にうまく駅までたどり着けるのでしょうか。 逆に日本国内で外国人が“エキハドッチデスカ?”と訊ねてきて、日本語だからと“三つ目の信号を左に曲がって、100mくらい歩くと銀行があるから、そこを右に曲がれば駅ですよ”と説明して、相手は理解できるでしょうか。 つまり、話しかける言葉を覚えたとしても、相手の言うことを聞き取れる能力がなければ意味がないのです。 英語の勉強は話すより聞くのが重要、という意見です。 会話というのは、話すことよりも聞く機会のほうがはるかに多いのです。 会議でも自分が話すよりも、誰かの報告を聞く時間のほうが多いです。 そして、英語は聞けるようになれば自動的に話せるのです。 普通の会話なら身振り手振りでなんとなく意思を伝えられるかもしれませんが、ビジネスの世界や、具体的に解決したい問題、目標がある部分ではそうもいきません。 その業界や分野の正確な専門の英語が必要です。 その専門英語が使えるようになるには、目的をはっきりすべきだといいます。 目的が明確ならば、勉強すべき専門英語がはっきりします。 ビジネス英語はほとんどが専門分野なのですから、専門用語がわからないまま英語を覚えても、ビジネスで使えませんし、使えなければ意味がありません。 自分が今いる世界で通用する英語は、専門用語を中心に学ぶべきなのです。 ネイティブが教えてくれるから英語ができるという神話、英会話で覚えたものはどんなシーンでも通用するはずだという思い込み、両者こそが、英語教育の間違いだといいます。第1章 実用英語の勉強における4つの間違い~英会話学校に通えば英語ができるようになる!? 英語を話そうとするな 英語細胞を増やせ~第2章 どこに注力しどこで手を抜くか~rとlの区別ができなくてもいい 目的に応じて「8割」をめざそう~第3章 これさえ分かれば英語を聞ける(その1) ~ユエン・ナツバラ・ハウンドーって、正式な英語!? 子音の消失、変形、連結ルール~第4章 これさえ分かれば英語を聞ける(その2) ~ホッチキスはステイプラ Noと言えない日本人 口語における文脈上の注意~第5章 聞く練習を実践する~通勤電車は最高の勉強環境 政治家の演説が初心者用のテキスト?~第6章 TOEIC征服法 ~TOEICマニアになるな~第7章 私は英語をどう勉強してきたか~私は中学のときに『「超」英語法』に気付いてた! スヌーピーが教科書~
2013.08.05
コメント(0)
全3件 (3件中 1-3件目)
1


