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価値観が多様化した現在、自ら人生を設計していく時代を迎えたといえるようです。 これからの生き方をとらえ直して、自分なりの人生を考えていく必要性を強く感じます。 ”人生の現在地”(2000年12月 大和出版刊 立松 和平著)を読みました。 2000年に50代を迎えた団塊の世代の、当時の前途多難な人生を立ち止まって考えたエッセイ集です。 立松和平さんは、1947年に宇都宮市で生まれ、宇都宮高校を卒業し早稲田大学政治経済学部へ進学しましたが、当時、大学は学生運動で騒然としていました。 1970年に第一回早稲田文学新人賞を受賞、1973年に経済的理由から帰郷し宇都宮市役所に就職し、栃木を題材にした小説を書き続けましたが、1979年に退職し文筆活動に専念しました。 1980年に第二回野間文芸新人賞を受賞、1997年に第51回毎日出版文化賞を受賞、2007年に第35回泉鏡花文学賞を受賞しました。 晩年は自然環境保護問題にとりくみ積極的に活動しましたが、2010年2月に東京都内の病院にて多臓器不全で死去しました。 当時の大学紛争から30年経ち、全共闘世代は高度成長戦士に転じてから早やくも50代になり人生の節目にさしかかりました。 人生50年の短命の時代には、人は早く成熟しました。 幕末の動乱期を生きて死んだ志士たちは、ほとんど20代の若さであり、10代の人物もたくさんいました。 短命なのだから時間はたちまち過ぎていき、モラトリアムなどと言っている余裕はありませんでした。 しかし、現代は40にして惑わずという気概はとうになくなり、50になっても迷ってばかりです。 変化の激しい時代になり、時は激流になって飛び去っていき、めまぐるしい変化にさらされながら、それに適応するだけで大仕事です。 過ぎてしまった時を振り返れば、諸行無常のことわりは働いています。 50を過ぎてなお惑うことが多いのは、周りの変化によって自分か取り残されているのではないかという不安があるからです。 今が盛りのものでも、明日になれば必要がなくなってしまうかもしれません。 それほどまでに、諸行無常の流れは激しく速いです。 人は旅をし、旅には長い旅と短い旅、楽しい旅と苦しい旅があります。 その目的はさまざまであり、人は旅をしながら生きているようなものです。 そして、旅をしている人は必ず道に迷うものであり、道が分からなくなり遠回りをするからこそ旅なのです。 知らない道を一人で歩き道に迷い、地図もなければ目的地さえも分からなると、人はとりあえず今いる場所を知りたいと思います。 現在地が分からなければどこにも行きようはありませんので、現在地を把握した上で目的地への道を探そうとします。 30歳までには結婚し、35歳頃には2人の子どもをもち、40歳には課長になり、50歳までには何とか部長に昇進し、退職金で家のローンを精算し、あとは海外旅行でもしながら楽しく暮らそうというふうに、地図の中には1本の太いルートが描かれています。 しかし、人生に地図などあるわけがないのです。 人生の旅も道に迷うものであり、人生の地図に描かれた道をその通りに歩むことはできません。 松尾芭蕉が奥の細道の旅に出だのは46歳の時で、当時の人生50年からその歳は晩年でした。 みちのくへの大旅行に際して、それまで持っていたものをすべて捨てて、身ひとつになって俳諧師として生き直したのです。 おのれの表現を信じて奥の細道を書いて、歴史に名をとどめる存在となりました。 もし芭蕉が俳諧の大家とされる中に安住していたなら、これほどの名声は残らなかったのではないでしょうか。第1章 人生の倖せの分量 倖せの分量/失われつつある共同体/人生の現在地/少欲知足/因果の種/江戸時代の幸福/人生の落とし穴第2章 五十歳からの旅立ち 三十年ぶりの同窓会/若さの価値/置き去りにされた教育/マルクスの理想郷/気骨に欠ける男たち/組織と男/中高年の自殺/人生で不要なもの第3章 次の世代に伝えたいこと 物を書くこと/川ガキ/大衆の悪意/情報化時代の言葉/崩壊の危機にある家族制度/プロが消えていく第4章 自然が教えてくれるもの 川の風景/漁師の死生観/諫早湾の死/他人との比較/裏街道のやさしさ/田舎暮らしと農業/阪神・淡路大震災に思う
2013.07.30
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7月21日は参議院議員選挙の日でした。 参議院議員の任期は6年で、3年ごとに半数を改選することになっています。 参議院議員通常選挙は全国規模の国政選挙ではありますが、総議員を一斉に選出するわけではなく、半数改選ですから、総選挙とは呼ばれません。 公職選挙法条では、3年ごとの参議院議員選挙は通常選挙と呼んでいます。 今回、マスコミの分析では、自民・公明の与党は引き続き半数を超える勢いで、参議院で与党が少数のねじれ国会を解消することが確実な情勢となっていました。 自民党は、選挙区で40台後半、比例代表で20以上の、あわせて60台後半の議席を確保し、改選議席34を倍増させる勢いでした。 公明党も好調で、10議席を超える可能性が高く、改選議席10を上回る勢いでした。 さらに、全ての常任委員会で委員長を独占することができる安定多数129に届く勢いとなっていました。 民主党は厳しい状況が続いていて、結党以来最低の10台後半の議席となる可能性が高かったです。 日本維新の会も振るわず、選挙区と比例をあわせても、1桁の議席にとどまる勢いでした。 みんなの党は一時の勢いが見られず、10議席に届かない勢いでした。 共産党は12年ぶりに選挙区で議席を獲得しそうで、比例とあわせて改選議席の3から倍以上の議席を確保する可能性がありました。 さて、その結果です: 自民党は改選34議席からほぼ倍増し、公明党は11議席を獲得しました。。 自公両党は非改選を含めて参院の過半数122を獲得し、さらに、全常任委員会で委員の半数を確保したうえで委員長を独占できる安定多数129を超えました。 民主党は改選44議席から大幅に減らし、結党以来最低の10議席台にとどまりました。 共産党は12年ぶりに選挙区で議席を獲得しました。 日本維新の会とみんなの党は改選議席を上回りましたが、伸び悩みました。 これからの政治日程には、原発再稼働、脱原発、TPP、憲法改正、消費税など、今後の日本の行方を左右する重要な争点がいくつもあります。 今後の動向が大いに注目されます。
2013.07.23
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”秋葉原、内田ラジオでございます”(2012年12月 廣済堂出版刊 内田 久子著)を読みました。 いまも現役で活動中の秋葉原ラジオセンター2階内田ラジオ・アマチュアショールーム店主の内田久子さんのこれまでの人生が語られています。 内田久子さんは大正15年8月、父福次郎、母スズの両親のあいだに、兄二人、弟一人、四人兄弟の一人娘として箱根・塔ノ沢萩の里で生まれ育ちました。 父親は箱根・環翠楼の支配人を務めていました。 環翠楼は1614に開湯した由緒ある宿で、当時の名は元湯でした。 皇室や将軍への献上湯を行い、和宮が病気療養のため環翠楼へ登楼したり、篤姫が和宮終焉の地となった環翠楼に行きたいと登楼した、といいます。 昭和14年の春に旧制県立の高等女学校に入学しましたが、入学式に来てくれた母親は、その秋に出産のおりに亡くなりました。 子どものために再婚はしないという明治生まれの父親のもとで、きびしいしつけを受けて育ちました。 小学校5年生のときに日中戦争がはじまり、戦中は勉強よりも農家などへの勤労奉仕の日々でした。 昭和23年に技術一筋の内田秀男さんと結婚し新生活をはじめました。 ご主人は1921年に福井県で生まれ、福井商業学校を卒業して税務署に1年間務めたあとNHK福井放送局に入局し、その後、NHK技術研究所に勤めました。 結婚した半年後に、故郷福井で大地震があって、義妹と姪の二人を東京に引きとったそうです。 翌年に長男を出産しました。 ご主人はNHK技術研究所時代は新型真空管の開発に従事していました。 それが、ある日突然NHKの研究所を辞め、タクシーに荷物を積みこんで帰宅したそうです。 その後、独立して内田ラジオ技術研究所長となり、雑誌への執筆、メーカーヘの技術指導などをしていました。 ご主人は、この時代に三極鉱石というトランジスタを発明しました。 トランジスタは実用化につながった1948年のベル研究所によるものがよく知られていますが、三極鉱石による増幅作用の発見はそれ以前に既になされていた、ということです。 秋葉原電気街には電子部品店がたくさん入った、東京ラジオデパート、ラジオセンター、ラジオストアの三大ビルがあり、内田ラジオはラジオセンターの2階にあります。 ご主人は、お店は昼間は従業員まかせ、夕方になると出かけていって、アマチュアからの質問や相談に応じ、家ではさまざまな研究をしながら、特許申請、研究発表と奮闘しました。 ナムジュン・パイクら文化人との交流、オーラメーター研究、イオンクラフト円盤研究なども行いました。 昭和52年の秋、ご主人は過労のため脳梗塞に倒れ、車椅子の生活となりました。 その後、久子さんは、14年もの間、看護に追われながら、原稿の代筆、講演での代読、アマチュアの相手をするための勉強をしながら午後3時過ぎにお店に出るのが日課だったとのことです。 3年前に癌がみつかり、治療、そして再発、1年半の放射線治療は通院ですませ、満86歳になるいまも週4日、世田谷から杖を突きながら片道1時間かけて秋葉原のお店に通っている、といいます。目次:ガード下のマーケット箱根のこと、父母のこと大事件の記憶と記録発明家・内田秀男との結婚夫唱婦随の不思議研究「アキバの語り部」として
2013.07.16
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水は万物のおおもとであり、水を吸って伸びる植物は水が姿を変えたもので、この世のすべてのものは水から生まれました。 水と水はあらゆる所で手をつなぎ、溶け合って生命の営みを支えています。 ”水の舳先”(2005年3月 新潮社刊 玄侑 宗久著)を読みました。 クリスチャンの女性と禅僧の出会いを通じて、多様な宗教観にたつ人間の病と死を描いています。 温泉施設ことほぎの湯の社長が目玉として妙な印を組んだ観音像を建てたのに、僧・玄山が開眼供養を頼まれたことから話が始まっています。 そこは重い病を患う人が集まってくる温泉施設で、玄山はそこで書道教室を開き、彼らの相談相手になっていました。 そこには、ガン患者である久美子や達成、無農薬製品以外は口にしない宏子、患者ではないが施設に通い気まぐれに一句詠むミネオなど、さまざまな個性が集まっていました。 特に久美子はキリスト教徒で、明るく人気者ですが心に深い孤独を秘めていました。 玄侑宗久さんは、1956年福島県三春町生まれで、慶應義塾大学中国文学科を卒業し、様々な仕事を経験した後、京都、天龍寺専門道場に入門し、現在は臨済宗妙心寺派、福聚寺住職を務めています。 仕事の傍ら小説を書き、2001年に第125回芥川賞を受賞しています。 僧・玄山は人の死に際に関わり看取りと葬式を執り行い、死と救済、看取りと葬儀の意味などを説いています。 そして、末期癌の久美子は、あるとき、身寄りもなく死んでいくサトウという男を懸命に世話するのです。 玄山は、仏教に半ば醒めた疑問も感じつつ看取りの意味について真摯に考え抜くひとりの僧です。 久美子の死に際して、仏教者はキリスト者の救いを理解できるのかという、宗教理解の問いを含みつつ進行します。 神の子・イエスの教えを絶対とするのと違い、仏教には懺悔で神に赦しを乞うと言う考えはありません。 クライマックスは看取りの瞬間にあり、送るものと逝くものの恍惚、エクスタシーの中にその本質があるようです。 一見異教的なその恍惚に、異なる宗教が歩み寄れる原初的救いの地平があります。 人は水から生まれ出て、死ねば水に替えます。 僧の身である玄山と、久美子の体を恍惚裡に浮かばせたのは水でした。 水と水とは手をつなぎサトウと久美子を溶かし合い、最後には、玄山もまた水の手に招き寄せられて、久美子の体へとつながれてっゆきます。
2013.07.09
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