全4件 (4件中 1-4件目)
1
幸田露伴は幸田文にあらゆることを教え、生きる姿勢をしつけました。 父親は掃除、食事、身だしなみ、言葉遣い、性、死生観などの教え、娘は反発しつつも必死に食い下がったそうです。 ”幸田家のしつけ”(2009年2月 平凡社刊 橋本 敏男著)を読みました。 幸田露伴が父親として娘の文に理詰めで教えた、いろいろなしつけを紹介しています。 橋本敏男さんは、1937年に東京で生まれ、1963年に読売新聞社に入社し、主に婦人部で教育・子どもに関する問題を担当し、1997年に定年退職しました。 戦後の混乱がまだ収まっていなかった1946年に、幸田露伴と永井荷風が相次いで市川市菅野に移り住んだとき、著者も近くに移り住んだといいます。 しばしば露伴と文を実際に見かけ、1947年の露伴の葬儀も目の当たりにしたそうです。 幸田文は1904年に作家の幸田露伴の次女として東京向島に生まれ、5歳のとき母を失い、後に姉・弟も失いました。 女子学院を卒業し、24歳で結婚しましたが10年後に離婚し、娘の青木玉を連れて父のもとに戻りました。 戦時中には露伴の生活物資の確保のために働き、少女時代から露伴にしこまれた生活技術を実践していました。 露伴没後に、露伴の思い出などを中心にした随筆集を出版し注目されました。 その後、断筆宣言をして柳橋の芸者置屋に住み込みで働き、そのときの経験をもとにして書いた長編小説”流れる”で日本芸術院賞と新潮社文学賞を受賞しました。 1955年に読売文学賞を受賞し、1976年に日本芸術院会員となりました。 一人娘の青木玉は未刊行作品を編さん刊行し、平凡社で編著”幸田文しつけ帖”などを刊行しました。 幸田露伴は1867年に幕臣の幸田利三を父として、猷を母として江戸・下谷で生まれました。 幸田家は江戸時代、大名の取次を職とする表御坊主衆でした。 1875年に東京師範学校附属小学校に入学し、卒業後の1878年に東京府第一中学正則科に入学しました。 のちに家計の事情で中退し東京英学校へ進みましたが途中退学し、1883年に給費生として逓信省電信修技学校に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任しました。 1887年に職を放棄して上京し、免官処分を受けたため、父が始めた紙店愛々堂に勤めました。 1889年の”風流仏”で評価され、1892年の”五重塔”1919年の”運命”などの文語体作品で文壇での地位を確立しました。 1896年に山室幾美子と結婚し、1男2女を設けました。 幸田文は1992年に86歳で亡くなりましたが、その作品や話し方、立ち居振る舞いには、父幸田露伴の影響が大きく投影されていました。 文は戦後父を失った後に作家として一家を成すに至りましたが、この父娘は普通の親子とは違った絆、縁で結ばれていました。 露伴は兄弟の多い貧困の中で育ち、朝晩の掃除はもとより、米とぎ、洗濯、火焚き、何でもやらされました。 そのなかでいかに能率を挙げるかを工夫したといいます。 家庭の事情から、露伴はごく自然に自ら娘の家事教育、家庭教育に手を出し、食事の作り方、配膳のことや、ほうき、はたきの扱いなど、掃除の仕方まで伝授しています。 文のしっかりした生活者としての姿は、この教えによって培われました。 文にとって父は、博識な学問の人であるばかりではなく、何でも出来る大きな絶対の存在でした。 そんな偉大な父に反発を覚えつつも慕い、生涯畏敬の念を抱きつづけたということです。第1章 理詰めで教える掃除の達人第2章 父に向けた手厚い看護第3章 反発しながらも畏敬の心第4章 父は遊ばせ上手第5章 最もおいしいときに食す第6章 無言で育む美しい心第7章 「わかる」とは「結ぶ」こと第8章 形が人を美しく見せる第9章 着物は着こなしにある第10章 言葉遣いに厳しく第11章 父と娘の性教育問答第12章 夫婦の不和で傷つく子の心第13章 男の子に甘い父心第14章 生死の間に最後の教え
2013.03.26
コメント(0)
”昭和のまちの物語”(2006年7月 ぎょうせい刊 伊藤 滋著)は、評論家・詩人・小説家、伊藤整さんの長男である伊藤滋さんの追憶の山の手の物語です。 昭和初頭には典型的な農山村であった山の手が、その後の国の発展とともに都市に変わりゆくさまを、子ども時代の思い出とともに図解を交えて描写しています。 伊藤滋さんは、1931年東京生まれ、都市計画家、早稲田大学特命教授、慶應義塾大学大学院客員教授、東京大学名誉教授で、学位は工学博士です。 伊藤滋都市計画事務所を主宰し、NPO法人日本都市計画家協会会長、アジア防災センター・センター長、内閣官房都市再生戦略チーム座長、国土審議会、都市計画中央審議会委員を歴任しました。 伊藤整さんは、1905年に北海道松前郡炭焼沢村で、小学校教員の父の下に12兄弟の長男として生まれました。 父は広島県三次市出身の下級軍人で、日清戦争の後、海軍の灯台看守兵に志願して北海道に渡りました。 1906年、父の塩谷村役場転職に伴い小樽へ移住し、旧制小樽中学を経て小樽高等商業学校に学びました。 卒業後、旧制小樽中学の英語教師に就任し、宿直室に泊まり込んで下宿代を浮かせたり、夜間学校の教師の副職をするなどして貯金を蓄え、2年後に教師を退職し上京しました。 1927年に旧制東京商科大学本科入学し、内藤濯教授のゼミナールに所属し、フランス文学を学びました。 北川冬彦の紹介で入った下宿屋にいた梶井基次郎、三好達治、瀬沼茂樹らと知り合い、親交を結びました。 その後大学を中退し、1932年に金星堂編集部入社しました。 1935年から1944年まで日本大学芸術科講師、1944年から1945年新潮社文化企画部長、1944年旧制光星中学校英語科教師、1945年から1946年帝国産金株式会社落部工場勤務、1946年北海道帝国大学予科講師、1948年日本文芸家協会理事、1949年から1950年早稲田大学第一文学部講師、1949年東京工業大学専任講師を経て、1958年に東京工業大学教授に昇格しました。 1953年に”婦人公論”に戯文エッセイを連載し、翌年”女性に関する十二章”として一冊に纏めたところベストセラーとなりました。 評論”文学と人間”や小説”火の鳥”もベストセラーとなりました。 チャタレイ裁判とともに、伊藤整さんの名を広く知らしめることになりました。 1962年日本ペンクラブ副会長に就任し、1963年に菊池寛賞を受賞しました。 1964年に東工大を退職し、1965年に日本近代文学館理事長に就任し、1967年に日本芸術院賞を受賞し、1968年に日本芸術院会員となりました。 1969年に胃がんのため亡くなりましたが、1970年に日本文学大賞を受賞しました。 伊藤滋さんは、成蹊学園をへて1955年に東京大学農学部林学科を卒業し、恩師加藤誠平の忠告にしたがい、工学部建築学科に編入学し、1957年に同学科を卒業し、大学院に進学、高山英華に師事し、高山研究室に席を置きながら土木工学科八十島研究室で交通計画を研究し、1962年に東京大学大学院工学系研究科博士課程を修了し、工学博士号を取得しました。 1963年から都市研究所客員研究員としてボストンに渡り、都市解析や交通計画を研究し、帰国後、東京大学工学部都市工学科助教授として、都市防災と国土計画を担当しました。 本書は、人生の8割を昭和の時代に暮らし、生まれてからの25年間がこの回想記にまとめられています。 昭和6年の経済大恐慌のとき、両親の生活は貧乏ではあっても、毎日の暮らしに困ることはなかったといいます。 家には若い文学者連中が集まって、海外の文学作品の勉強会をしていたそうです。 父は英語とフランス語が得意で、その才能を生かしながら誰も知らない海外文学の流れを出版社に売り込んでいたのかもしれません。 記憶の中には、母親がいつも忙しそうに客のために酒と食事の支度をしていた姿がうかんでくるといいます。 そして、太平洋戦争時代の戦時体制の思い出や、敗戦後の世の中や生活の様子が語られています。 少年に成長する過程で、戦争中のわずか1年であったけれど、伊藤家は現代的な一戸建ての住宅に移り住めました。 庭付き一戸建て住宅に住むことによって、伊藤家は東京の中産階級の一員になれたという満足感と安堵感が生まれたそうです。 敗戦のときは中学校1年生で、本州の敗戦のきびしさから少し距離のおける北海道で生活の再建を考えていました。 その後、東京に帰ってきて、自宅の周りの林を開墾して半農半学の生活がはじまりました。 広い土地があったので、戦後の食料危機をきりぬけることができたそうです。 父親の生活の向上に合わせて、住む場所も徐々に変わった様子を時系列で整理して思い出を語っています。第1章 最初の情景-中野区西町・千代田町(昭和6-11年)第2章 子供と界隈-杉並区和田本町(昭和11-16年)1第3章 少年と町並み-杉並区和田本町(昭和11-16年)2第4章 戦争と学校-和田本町・千歳烏山・北海道(昭和16-20年)第5章 山林と都市-北海道・豊田・久我山(昭和20-28年)第6章 父親の場所-久我山(昭和28-)
2013.03.19
コメント(1)
1873年に旧長岡藩家老の娘として生まれ、渡米した杉本鉞子(えつこ)は、文明開化の東京、アメリカで異文化と出会い、1923年に米国の雑誌”アジア”に英文の自伝”武士の娘”を掲載し、日米文化交流の懸け橋の役割を果たしました。 ”海を渡った侍の娘 杉本鉞子”(2003年7月 玉川大学出版部刊 多田 建次著)を読みました。 明治維新期に越後の家老の家に生まれ、厳格な躾を受けて育った杉本鉞子の生涯を紹介しています。 武士の娘のモラルに照らして行動した人間像を”福翁自伝”の福沢諭吉と対比し分析しています。 多田建次さんは、1947年生まれ、慶応大学文学部卒業、同大学院社会学研究科博士課程終了し、玉川大学教育学部講師、助教授を経て現在教授を務めています。 鉞子が10歳のとき父親が亡くなり、翌年の夏、鉞子が物心つく頃から家を出て渡米した兄が帰国し、兄の存在が鉞子の人生を大きく変えることとなりました。 12歳のとき、兄の友達の杉本松雄という在米の青年実業家と婚約したのです。 結納後、14歳の鉞子は英語を学ぶため、東京のミッション系の女学校に入学しました。 鉞子は新しい文化を受け入れながら、自分を育んだ文化を愛し、西洋と日本の文化の差異やその理由、両者の美点や欠点を問い続けたといいます。 そして、4年間の学業を終えて単身で渡米し、杉本松雄と結婚式を挙げました。 結婚生活は次第に落ち着き、新しい環境を愛するようになったそうです。 同時に、鉞子の文化の差異に対する興味は増していきました。 共に考え導いて助けたのが、名家の未亡人、フロレンス・ウィルソンでした。 フロレンスは杉本夫妻と共に暮らし、終生一家のよき理解者であり庇護者であったといいます。 嫁として母としてまた米国人として、生涯の働き時を過ごしたこの米国の友人におくるつもりで、コロンビア大学日本語学と日本文化史講座勤務中にペンをとった小冊子が草稿となりました。 後に雑誌に掲載された”武士の娘”は、単行本化されると一躍ベストセラーとなり、杉本鉞子は日本人初の米国におけるベストセラー作家となりました。 ほかに、”成金の娘””農夫の娘”なども著しました。 その後、夫が亡くなったため2人の娘を連れて1927年に帰国し、1950年に亡くなりました。 福沢諭吉は下級武士の次男として封建門閥制度に不満を抱き、その打破を生涯の念願としたのに対し、鉞子は上級武士の娘として身分制度に違和感をもちませんでした。 諭吉が緒方洪庵の適塾で自然科学中心の高等教育を受け、その後人文・社会科学にまでその学問を拡げていったのに対し、鉞子はミッションースクールで中等レベルの教育を受け、文学・歴史・地理・民俗など人文科学中心の教養をおさめました。 諭吉は日本国の存立そのものに直接かかわる問題として東西両文化の比較研究を試み、西洋文化を日本に移植しようとしたのに対し、鉞子は個人の視点から日米国文化の比較をし、書物や大学の講義をとおして日本文化をアメリカに紹介しました。 両者はたがいに対極に位置し相容れないのかもしれませんが、”武士の娘”と”福翁自伝”の読後感にはなぜか類似性があるといいます。序 章 自伝と自伝的作品とのあいだ第一章 鉞子のルーツ―長岡と米百俵第二章 鉞子の生涯―越の国第三章 鉞子の生涯―外つ国へ第四章 異文化との出会い第五章 異文化への対応終 章 “二重国籍者”鉞子の視座
2013.03.12
コメント(2)
春一番は、例年2月から3月の半ばの立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り強い風です。 主に太平洋側で観測されます。 1859年2月13日、長崎県壱岐郡郷ノ浦町の漁師が出漁中、強風によって船が転覆し、53人の死者を出して以降、漁師らがこの強い南風を”春一”または”春一番”と呼ぶようになったといいます。 1987年には、郷ノ浦港近くの元居公園内に”春一番の塔”が建てられています。 春一番という語が新聞で紹介されたのは1963年2月15日で、朝日新聞朝刊で”春の突風”という記事だとされ、2月15日は”春一番名付けの日”とされています。 今年は、鹿児島では2月4日、福岡では3月1日、広島では3月1日、高松では3月1日、新潟では2月7日、東京では3月1日に観測されました。 大阪と名古屋ではまだ観測されていません。 2013年2月2日には、南方の暖かい風が吹き込み全国的に気温が上昇しましたが、立春の前であったために、定義上、春一番とは認められませんでした。 なお、那覇・仙台・札幌ではそもそも発表そのものがなされていません。 春一番が吹いた日は気温が上昇し、翌日は西高東低の冬型の気圧配置となり寒さが戻ることが多いです。 また、雪解け、雪崩、花粉、春の嵐、花冷え、晩霜などがあります。 春の陽気となっても朝晩は冷え込むことも多いので、まだ注意が必要です。 梅は咲いたが桜はまだかいな、これからは桜の開花が待ち遠しい季節です。
2013.03.04
コメント(0)
全4件 (4件中 1-4件目)
1


