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今日の午後から実家の方に行ってしまうので、明日のブログはお休みします。みなさま、良いお正月をお過ごし下さい。************では、現代人が苦手な「体験から学ぶ」ということはどういうことなのか、ということです。体験から学ぶことが得意な人は、「成功」からではなく、むしろ「失敗」から多くを学びます。実は、「失敗」もまた「発見」なのです。その「失敗という発見」を繰り返すことで、全体像が見えて来るのです。そして、全体像が見えてくるから「本当のこと」に近づいていくことが出来るのです。一見、失敗を繰り返すのは無駄なことのように感じますが、でも、失敗を繰り返すことで工夫力や応用力が身についていくのです。というか、それ以外に「工夫力」や「応用力」を身につける方法はないのです。工夫や応用の世界には「正解」はないのですから。でも、最初から成功や正解を求める人は、失敗を恐れます。そして、あれこれ工夫したりしません。そして、正解を暗記するだけでその場を切り抜けようとします。でもだから何も学ぶことが出来ず、常に正解を探し続けることになるのです。実は「正解を暗記すること」は単なる「記録」であって、「学ぶこと」とは異なる行為なのです。でも、現代人はその違いも分からなくなっています。「学ぶ」とは吸収するということなのです。だから、人は食べ物を食べて成長するように、学ぶことで成長するのです。それに対して「暗記」は、洋服のように身にまとうだけです。いっぱい暗記していれば見栄えはいいですが、少しも成長しません。むしろその重さが成長の邪魔になるでしょう。この「失敗から学ぶ」という考え方は、色々なところで応用することが出来ます。例えば、「病気」や「ケガ」は「失敗」ではありませんが、「喜ばれる状態ではない」という点では失敗と似ています。そして、面白いことに「失敗」を恐れ、「正解」にこだわるようなタイプの人ほど、病気やケガを恐れ、避けようとするのです。現代社会の過剰な「清潔信仰」も「正解信仰」と根っこは同じだからです。そこには「不安」があるのです。そのような人は子育てにおいても、「子どもが落ちこぼれないように」、「ケガをしないように」、「苦しまないように」、「病気をしないように」先回りしてあれこれ手配したり、子どもを追い回したり、管理したりしています。こんなにもゲームが普及してしまっているのも、その不安が大きく影響しています。子どもが外で遊んでケガをしたらどうしよう。遊ぶ友達が見つからなくて寂しい思いをしたらどうしよう。お店に連れて行ったり電車に乗って退屈して騒ぎ出したらどうしよう。子どもが退屈して「お母さん遊んで」とまとわりついてきたらどうしよう「どうして僕だけ持っていないの」と言われたらどうしよう。うちの子だけゲーム機を持っていなくて、仲間はずれになったらどうしよう。というお母さんの不安がゲーム機の普及を促進している一因でもあるのです。でも、その「不安」が子どもにも移って、子どももまた不安を基準にした行動を取るようになるのです。そのような子は工夫や試行錯誤をしません。そして、正解ばかり求め、失敗を恐れます。そのため、体験から学ぶことが出来ません。また、そのような子育てをしている人は子どもに「冒険」をさせません。積極的に色々な体験もさせません。万が一を考えてしまうからです。でも、子どもはケガをしながら、ケンカをしながら、失敗をしながら色々なことを学び、成長する生き物です。だから、そのようなものを恐れません。逆に、そのようなものを求めているくらいです。赤ちゃんが転んでも転んでも立ち上がり一生懸命に歩こうとするのもその意思の表れです。だから、その「冒険」を与えられない子どもほど、ゲームの世界の中に冒険や危険を求めるのです。続きます。
2012.12.31
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全ての生き物は、基本的に「体験」によって学ぶように出来ています。それは人間においても同じです。でも、人間はその「体験によって学ぶ」という方法以外に「お勉強」という学び方も発見しました。そして今では、子どもたちは「体験」によってではなく、「お勉強」によってのみ学ぶように育てられています。体験したくても、体験する場も消えてしまいました。でも、その結果「いっぱい知っているけど何も出来ない」という状態になってしまっています。それは大人たちも同じです。その「何も出来ない」の中には、「人間として生きて行くために必要な基本的な能力」まで含まれています。なぜなら、「人間として生きて行くために必要な基本的な能力」は「お勉強」という方法では決して学ぶことが出来ない事だからです。それは「体験」を通してしか学ぶことが出来ない事なのです。現代人がそれでも生きて行くことが出来ているのは、便利な機械と社会システムのおかげです。現代人は便利な機械と社会システムに寄生して生きているのです。でもだから、その社会システムを変えることが出来ないのです。そして、不安ばかり強く、自己肯定感もなく、子育ても出来ないのです。お勉強という方法で学ぶことが出来るのは「知識」と、生活には必要がない「特殊化された能力」だけです。その「知識」と「特殊化された能力」があるから、様々な機械を作り、ロケットを飛ばすことも出来るわけです。でも、そういうものは「人間」として生きて行くためには必要がありません。でもだからこそ、「体験」によっては学ぶことが出来ず、「学校」という場で教える必要があるわけです。それはそれでいいとして、問題は、では「人間として生きて行くために必要な基本的な能力」はどこで、どのように学ばせることが出来るのか、ということです。現代社会にはその「場」がないのです。また、そのような学びを大切にする価値観も失われてしまっています。それどころか、子どもも含めて現代人は、学校で教えているようなことを知らない人をバカにする傾向があります。「生きるための知恵と技術」を持っていても、成績が悪かったり学校を出ていなかったりするとバカにするのです。大人はあからさまには言いませんが、その感覚があるから子どもを追い立てているのです。また、子どもははっきりとそのような価値観を示します。大人が何を大切にしているのかを子どもたちは知っているのです。現代では、成績や学歴が「人間としての価値」まで決めてしまっているのです。そしてその価値は、競争によってしか手に入れることが出来ません。だから、その競争からドロップアウトしてしまっているホームレスの人たちに対して、暴力を振るったり、追い立てることを「遊び」として楽しむことが出来る子どもたちが生まれてくるのです。そのような子は、警察に捕まっても平気で「僕たちは悪いことはしていない」と言うそうです。相手が大けがをしたり、時には死んでしまっても、何で自分が警察に捕まったのかすら分からない子もいるそうです。今私たちは、「体験を通して学ぶことの大切さ」に気づき、子どもたちが「体験を通して学ぶ場」を作る必要があるのです。小さいときから「お勉強」などさせてはいけないのです。学びには順序があるのです。少なくとも9才頃までは「体験」を通して学ぶ能力を育てる必要があります。子どもの生活とつながらない「知識」や「能力」を学ばせるのは9才を過ぎてからでいいのです。そのような学びの順序を大切にすることで、「知識」や「能力」を応用することが出来るようになるのです。体験を通して学ぶ能力がない状態で知識を学んだり、子どもには必要がない能力を得てしまうと、その使い方が分からないため、それに束縛され、不自由になってしまうのです。現代人は頭でっかちで、理屈ばかりは立派ですが、人間として生きて行くための必要な能力はお粗末な限りです。だから仲間作りも、子育ても出来ないのです。「体験から学ぶ能力」があれば、「子育て書」など読まなくても子育てを楽しむことが出来るのです。「子育ての方法」を目の前の子どもから学ぶことが出来るからです。
2012.12.30
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今日も、同じような内容の文章で申し訳ないのですが、同じ事でも違う視点から書いています。**********人類は自由に考える能力を得た時点で、仲間からも自然からも切り離された存在になってしまいました。人類は「自由」と引き替えに「つながり」を失い、「孤独」という重荷を背負わなければならない宿命を負ったのです。その能力こそがアダムとイブが食べてしまったとされる「禁断の木の実」なのでしょう。そしてだから、人間は常に「つながる努力」をしている必要があるのです。人類が「心の自由」を得た時点で、「つながり」は「遺伝子によって与えられるもの」ではなく、自分たちの意思と努力で、育て、守り、伝えていかなければならないものになったのです。そうしないと、人間はすぐにバラバラになってしまう宿命を背負った生き物なのです。それでも、人類がまだ一人で生きるのが困難な時代には、みんなが支え合い、つながり合って生きていました。人類の能力は、一人で生きて行くのには適していなかったからです。助け合わないと生きて行くことが出来なかったのです。そして、支え合い、つながり合う努力をする過程で部族のつながりが生まれ、村が生まれ、社会が生まれ、国が生まれ、様々な知識や技術や文化が生まれ、そして受け継がれるようになりました。でも、社会が大きくなり、そのシステムが固定化してくると、相対的にその「つながり」の役割は小さくなりました。「人と人のつながり」によって支えられていた社会が、「つながり」ではなく、規則やシステムというものによって支えられるようになってきたからです。何百人、何千人、何万人という人たちが暮らす社会は「つながり」だけでは維持できないのです。さらに、「お金」が社会を支えるようになると、ますます「つながり」の役割は小さくなりました。それでも、「地域社会」が活性化していた頃は、ほとんどの人々は人と人のつながりを大切にして生きてきました。お金さえあれば、「つながり」から外れても生きて行くことは出来ますが、「つながり」の中にいないと、その土地に根ざした生活が出来なかったからです。でも、その地域が崩壊し、社会の中に便利な機械や、お店や、生活のシステムが整ってくると、「つながり」は面倒くさいだけの「無駄なもの」になりました。それでも、人は一人では寂しいので一緒にいようとはするのですが、一緒に何かをするだけでそこに「つながり」はありません。今でも、一緒にディズニーランドに行ったり、一緒にゲームをしたり、一緒に買い物をするような仲間は大切にされています。でも、助け合い、支え合うような活動をするわけでも、対話をするわけでもありません。ただ寂しさを埋めるためだけの仲間です。先日、うちの教室の生徒が「今日は教室に来るまでズーッと○○と遊んでいた」と言いました。「○○くん」もうちの教室の生徒です。それで、「二人で遊んでいるときは何をしているの」と聞きました。すると、当然のことにように「ゲーム」と答えます。それで、「ネットか何かで対戦して遊ぶの」と聞いたら、そうではなくバラバラのゲームをやっていたそうなのです。一つの部屋の中で、二人の男の子が別々のゲームをやっていて、それを「一緒に遊んでいた」と表現したのです。このような状態は子どもだけでなく、大人でも同じでしょう。よく、お母さんがお父さんに「たまには子どもと遊んであげてよ」と言うと、「じゃあ、一緒に買い物に行こう」と出かけるお父さんが多いそうです。そういう関わり方しか分からないのでしょう。そしてそれは現代人の一般的な感覚なのだと思います。でも、そのような関わり方では子どもが育たないのです。人間の様々な能力は、「つながり」の中での様々な学びと体験を通して育つように出来ているからです。この学びは、教科書やテレビからは出来ません。なぜなら、学びの基本である「体験」が欠如してしまっているからです。そして、「つながり」が失われた状態の子どもは、意識が閉ざされてしまうためいつも同じ事ばかりして遊びます。そして、その世界から出てきません。子どもの成長には意識を広げるための多様な体験が必要なのです。そして、そのためには様々な形の「つながり」が必要なのです。「つながり」は「体験」を通してしか生まれないからです。だから、「子育て」はお母さんたちの「つながり作り」や「仲間作り」と並行して行う必要があるのです。そして、そのことでお母さんもまた育ち直しが出来るのです。
2012.12.29
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昨日も書いたように、人間は一人一人別々の心を持ち、その心に従って感じ、考え、行動しているので、そのままでは必然的につながり合うことが出来ずにバラバラになってしまいます。そこで、言葉や文化やルールといったものを共有したり、様々な形で自分を表現して理解し合う必要性が生まれてくるわけです。また、相手が人間でも自然でも物でも、その相手とつながり合うためには「感覚の働き」が必要になります。感覚が目覚めていないと、心は外の世界に向かって窓を開くことが出来なくなり、孤立してしまうからです。そのような状態では、いくら「誰かとつながりたい」と思っていても、つながることができません。感覚が閉ざされた状態では、他の人と同じものを共有することも、自分を表現することも、相手の表現を受け入れることも出来ないのです。でも困ったことに、現代人は心と心をつなげることが出来るような「共有するもの」を失ってしまっています。また、日本人は自分を表現したり、相手の表現を受け入るような学びもしていないし、自己肯定感も低いのですぐにそのようなことから逃げてしまいます。さらには、小さいときから人工的な環境の中で便利な機械やおもちゃといった「物」ばかりを相手にして生活しているので感覚も育っていないし、開いてもいません。つまり、現代人は「人と人」や「人と自然」がつながり合うためには最悪の状態の中で生活しているということです。そのような状態でも社会がバラバラにならないのは、損得勘定や、利害関係や、相互依存や、法律などが働いているからです。また、現代人は人工的な閉鎖空間の中でないと安心できないので、無意識のうちに安全で、安心で、便利な人工的な空間の中に集まろうとするのです。心はバラバラなのですが、とにかく群れていないと不安になってしまうのです。それは感覚が閉ざされていることの表れでもあります。でも、心がバラバラな状態の人が大勢集まって、少ない富や、安全や、社会的地位や、名声を奪い合っているいるわけですから、必然的に生存競争が激しくなります。競争をしていないと自分の居場所を確保できなくなってしまうので不安なのです。そして、その競争がまた社会をまとめる働きをしています。だから、競争を止めることが出来なくなってしまっているのです。さらには、自然や地球までこの競争のために搾取されています。この流れの先には「破滅」しかありません。そんなこと冷静に考えればすぐに分かることなんですが、ほとんどの人が目先の事にしか興味がないし、不安になるようなことは考えたくないので、さらに心や感覚を閉ざして、競争にばかり熱心になっています。原発の問題でも「そんな先の事や、万が一のことを考えるより、今電気がないと困るだろ。もっと現実を見ろよ!」という意見の方が多数派のようです。でも、私たちは何万年という未来にまで影響を与えるような行為をしているのですから、何万年という単位で、物事を考え「今どうするべきか」を考えなければいけないのです。それが出来ないのなら、何万年という未来にまで影響を与えるようなものに手を出してはいけないのです。でも、それをすると現在進行形の競争に負けてしまうので、競争に一生懸命な人たちはみんなそのことを考えないようにしています。では、「そのような流れを変えるために私たちに出来ることは何か」ということです。実はそれは「原発反対」を訴え、戦うことではないのです。いくら原発反対を訴え、戦っても、社会全体が「人と人のつながり」を失い、「支え合い」ではなく「競争や奪い合い」によって成り立っているなら、アリが砂糖に群がるように、人々が利益が大きい原発に群がるのは避けようがないからです。ただし、「原発を止めよう」という意思表示をすることは大切です。それは原発を止める力にはならないかも知れませんが、仲間をつなげる力にはなります。そのつながりが「競争によって支えられている社会」を変えるまでに成長すれば、自然と「そろそろ原発を止めよう」という意見が多くなっていくのです。「対立」は相手と同じ土俵に乗ることで起きます。でも、同じ土俵に乗ってしまったら、社会は変わらないのです。社会を変えるために、具体的に私たちが私たちの立場で出来ることは、まず「感覚」を開いていくことです。もちろん、子育てを通して子どもの感覚を育てることも重要です。そして、「人と人がつながり合うことが出来るようなもの」を守り、育て、共有することです。さらには、様々な形で自分を表現する訓練と努力をすることです。また、相手の表現を理解する訓練も必要です。そして、夫婦がつながりを取り戻す。家族がつながりを取り戻す。そして、仲間を増やしていく。社会の変化は、その流れの延長上にしかないのです。それがまた、「みんなが幸せに生きることが出来る社会」を作ることにもなるのです。
2012.12.28
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今日もまた分かりにくい話です。適当に流し読みして下さい。**************人間は一人一人が「自分の心」と「自分の意識」を持っています。そして、その心と意識の中で色々と感じたり考えたりしています。それが「心の世界」です。そして人は、その「心の世界」の中で世界と出会っています。これはなかなか説明が難しいのですが、からだに備わった五感や様々な感覚が心の外の情報を取り入れ、それを脳が「リアルなもの」に加工して、それを私たちの心や意識が見ているのです。つまり、私たちは「心の外の世界」をリアルに、直接見ているのではなく、一度脳が加工した映像を見ているということです。もっと無機的に言ってしまえば、私たちは神経系を流れる電気信号を「見ている」のです。ですから、そういう点では夢も現実も似たようなものです。その間には明確な違いはありません。子どもたちはファンタジー的な世界に生きているため、大人とは異なったものを見て、異なった感じ方をしています。そして、子どもが大人の常識と異なったことを言うと、「嘘を言うんじゃありません」とか言って否定します。でもそれは、幼い子どもの脳が、外側からの情報を「ファンタジー的」に解釈するように出来ているからであって、嘘ではありません。ただ、「大人の脳とは情報の処理方法が異なっている」というだけのことです。それに、大人たちだって「本当のこと」を見たり聞いたりしているわけではありません。大人の場合でも、脳は、その人のそれまでの体験や、それまでに学んだことなどによって、一人一人異なった情報処理を行っているのです。ですから、「自分が見ている世界」は「自分だけにしか見えない世界」でもあるのです。その証拠に、数人に同じものを見せてからそのものの絵を描いてもらったり、そのものについてに印象を書いてもらえば、その結果は「みんな違ったもの」になります。人間はみんな「自分の心の世界」という一人一人異なった世界に生きているのです。そういうことは、「表現」という方法を使えば簡単に分かることなのですが、日本のように「自分を表現しない社会」に生きていると、いきなり「どっちの方が正しい」とか、「どっかに正解があるはずだ」ということになってしまうのです。その「心の世界」の有り様は、7才までのファンタジー期にどのような体験をしたのかということが大きく影響しています。子どもたちはファンタジーの世界の中で、「7才以降に自分が生きて行く世界」を創造しているからす。でも、今日はそのテーマは扱いません。人間は「心」というものを持ってしまったが故に、「自分」という存在がリアルに存在している現実世界に生きることが出来なくなってしまった唯一の種なのです。だから、人と人が理解し合うことが難しいのです。(だからこそ、宗教や物語や文化といった「共有するもの」を持とうとするのです。)それなのに人はみんな、自分が生きているのが本当の「現実の世界」であって、「自分の考えや感じたことは正しい」と主張します。そして、「自分の世界」を守ろうとして、対立したり、逃げたり、閉じこもったりしています。これは、政治の問題と言った大きなテーマにおいても、家族や個人の問題と言った小さなテーマにおいても同じように言えることです。人が主義主張で徒党を組むのは、基本的に自分を守るためであったり、自分の正しさを証明するためです。でも、いくら「自分の正しさ」を「自分の倫理」で説明しても、それは客観的な証明にはならないのです。ある人が「自分の正しさ」を「自分の論理」で説明しても、相手も同じように「自分の正しさ」を「自分の論理」で説明するでしょう。でも、両者の考えが基本的なところで異なっていたら、どんなに言葉を尽くして説明しても理解し合うことは出来ません。キリスト教の正しさを聖書の中の言葉を使って説明し、イスラム教徒がイスラムの教えの正しさをコーランの言葉で説明しても、永久に「どちらの方が正しいのか」という結論は出ません。科学の場合はその論理の正しさを実験や観察や、また実際に機械を作ったりして確認しています。どんなに論理が完璧でも、実験や観察に合っていなかったり、その論理通りに作った機械が予定通りに機能しなければ、その論理には何らかの間違があるのです。科学はそのようにして「正しさ」を確認することが出来ます。だから、人類にとって普遍的で共有出来る財産として大切にされている訳です。でも、その科学を「どのように使ったらいいのか」という点に関しては科学的に証明することが出来ません。そこでまた対立が生まれます。原発の可否も科学的には決めることが出来ません。では、その一人一人異なる「心の世界」は決してつながり合うことが出来ないのか、理解し合うことが出来ないのかというと、必ずしもそうではないのです。でも、そのためには「自分だけが正しい」という考えは捨てることです。相手もまた正しいのです。ということで続きます。
2012.12.27
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この前の選挙の時の野田さんの言葉や、選挙で大敗したときの民主党議員の言葉などを聞いていて、「ああ、この人たちは何にも分かっていない」という想いを強く感じました。どうしてそういうことになってしまうのかというと、自分たちの視点、自分たちの論理、自分たちの価値観だけで物事を見てしまっているからです。そのような人の集まりでは、自分たちとは異なる視点、論理、価値観の人たちは排除されます。そして「身内」だけの組織を作ります。そして、身内だけで話し合い、身内だけで考え、それを実行しようとします。でも、その「身内の論理」は多様な視点や、論理や、価値観とのつながりを持っていません。「身内以外の世界」とのつながりがないのです。そのため、「身内以外の場」でその「身内の論理」を実行しようとすると、矛盾や対立や論理的不備が発生してトラブルが発生します。でも、与党は権力を持っていますから「自分たちの正しさ」を「自分たちの論理」で語り、無理矢理それを実行しようとします。なぜなら、自分たちとは異なる視点、論理、価値観の人たちを排除するような人たちは、異なる視点や、論理、価値観の人と話し合うことが出来ないからです。でも、そのようなやり方では最初はうまく行っても、次第にどうしようもない状態になっていきます。そして最終的には金を出しても、脅しても、何をしてもどうしようもないことになります。そして崩壊します。ただしこれは民主党だけの問題ではありません。自民党もまた同じです。さらに言えば、他の政党もみんな同じです。このような「身内の論理」だけにこだわる組織のあり方は、現代社会全体に蔓延しているのです。例えば総合病院に行くと、内科・外科・神経科・泌尿器科・歯科・眼科など様々な「科」に分かれて、「人間を構成する様々なパーツ」を検査し、治療する体制は整っています。ですから、体の調子が悪い人はそれぞれ自分の病気を診てくれそうな科に行きます。そして、その科では、その部分だけを見てくれます。でも、どの科でも「丸ごとの人間」の状態を見て、整えようとする視点や論理や方法を持っていないので、その症状の原因がその科の扱い範囲ならそれ問題は解決しますが、別の科や複数の科にまたがるような原因の場合には、対処不能になります。行政でも、与党とは異なる視点や価値観が必要になる場合や、異なる省庁や課にまたがるような問題が起きたときは解決できないことになります。そのような現代的なシステムでは、小さなトラブルなら効率よく解決できるのですが、体質改善が必要になるような大きなトラブルが解決できないのです。なぜなら「全体」を見る視点も、その全体をコントロールする手段もどこにもないからです。そして、「全体」は人々の力関係や利害関係や趣味や興味に任せて、ただ流れていくばかりです。その流れの先に大きな滝があっても、人々は「身内の論理」にこだわり、「自分たちの世界」を作ることだけに一生懸命になっているので、そのことに気づきません。気付いた人がいて、みんなを説得しようとしても、外側の世界に目を向けることが出来ない人には、何のことか理解できません。私たちは「自然」という川の上に浮かぶ、船長も操縦桿もない船に乗っているのです。しかもその船の窓には外が見えないように目隠しがしてあります。でも、見ようとしていなくても、私たちの生活も、生命も、心も、からだも、多様な世界とつながり、多様な世界に支えられて成り立っています。なぜなら人間は「多様な世界の一部」として生まれ、存在しているからです。人間以外の生き物たちは全て、その多様性を受け入れ、その多様性の一部として生きています。ですから、船長も操縦桿も必要がありません。でも、人間だけが自分たちの優位性を主張し、身内の論理だけで「人間中心の世界」を作ってしまいました。それは「自然」という川に浮かぶ「船」のようです。だから、船長や操縦桿が必要なのです。さらに人間は、自然や他の動物に対してだけでなく、人間同士の間でも同じように「同じ価値観の仲間」ばかり集めて排他的世界を作ろうとしています。そうして世界がどんどん狭くなってきました。最初のうちは「人間と自然」という対立しかありませんでした。でも、次に「民族と民族」「国と国」という対立が生まれ、さらに、「会社と会社」、「グループとグループ」という対立が生まれ、最後には「個人と個人」というところまでたどり着いてしまいました。「政党と政党の対立」もその中の一つです。対立で成り立っているから必然的に「自分中心の論理」になってしまうのです。また逆に「自分中心の論理」しかないから「対立した関係」しか作ることが出来ないのです。そして今ではみんな「自分」を守るために必死です。そして、「自分論理」だけで考え、感じ、行動しています。だから、助け合う事も話し合うことも出来ないし、苦しみから抜け出すことも出来ないのです。さて、ここからが本題です。「個」のレベルまで対立するようになってしまった社会の中で、いかにまた「つながり」を取り戻すことが出来るのか、ということが今回のテーマです。人間は仲間どうして集まり、異なる価値観の存在を排除するだけでなく、さらに自分たちが住んでいる世界も全て自分たちの価値観に合わせて作り替えてきました。町に出て周囲を見回してみても、人間の手が入っていないものは空に浮かぶ雲と青空と太陽ぐらいなものです。あとはほとんど全部、人間によって作られた世界です。それはコンピュータが作った仮想空間と似た世界です。その世界の中で生まれ、その世界の中だけで育った子どもたちは、「人間の外の世界」を知りません。ですから、自分たちの生活や価値観や考え方がどんなにも、「自然界の現実」と乖離しているかなどということにも気付きません。でも、閉ざされているのは脳の中にある「人間の意識」だけであって、その脳も、感覚も、からだも自然の一部であり、自然とつながっています。「赤ちゃん」はその人間が否定し、排除したはずの「外の世界」からやってきます。そして、「大人の意識が作り出した閉鎖的な虚構世界」が見えませんから、「外の世界」と同じように振る舞おうとします。そこで、「外の世界」を知らない人はパニックになります。そのような子どもたちの育ちには、「外の世界」との出会いや触れ合いが必要なのですが、逆に大人たちはそのようなものを子どもから遠ざけ、仮想空間の中だけに存在しているものだけを与えます。でも、それでは自然も一部としての「感覚やからだの育ち」が損なわれたり、歪んだりしてしまうのです。*********話があっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりして分かりにくいかも知れませんがお許し下さい。私は「目の前の真実」に「宇宙の果ての真実」を見ようとしてしまう癖があるのです。明日も続きます。
2012.12.26
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今朝、ブログ用の原稿を書いていたのですが、食事をした後、急に別のテーマで書きたくなってしまったので、そちらにテーマ変更します。ただ、今から長い原稿を書いている時間はないので、予告編だけにさせて頂きます。以前から書いていることですが、人間は「心の中の世界」と「心の外の世界」の二つの世界にまたがって生きています。「心の外の世界」とはリアルで現実的な世界のことです。その二つの世界をつないでいるのが「からだ」です。ですから、「からだ」は「心の世界」からの影響も、「心の外の世界」の影響も受けています。そして、気づきも、学びも、成長も、「からだ」が「心の外の世界」から取り入れたものを、「心」や「からだ」が消化・吸収することで成り立っています。実は、「心」や「からだ」は素材が与えられればそれらを処理し、吸収する能力は持っているのですが、素材そのものを創り出す能力はないのです。ですから、「からだ」が閉ざされた状態で育ってしまった人、また生きている人は、気づきや学びを得ることも出来なくなるし、肉体の成長も損なわれることになります。もちろん、「からだ」が完全に閉ざされてしまっていたら生きていることは出来ないのですが、でも、人によってはかなり閉ざされています。苦しみから抜け出すことが出来ない人、鬱病の人たちは、「心の中の世界」に閉じ込められている人です。そのような人は苦しいですから一生懸命に出口を探しているのですが、心の中をいくら探してもその「出口」はないのです。逆に、心の中に「出口」を探す行為が、「からだ」を余計に閉ざしてしまうのです。そのため、ますます出てくることが困難になってしまうのです。そして、このようなことが文明全体で起きています。というようなことを書く予定です。
2012.12.25
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♪♪♪ メリークリスマス ♪♪♪今日二度目のアップです。今日は2012年12月24日です。言わずと知れた「クリスマスイブ」です。でも、昔と比べたら、クリスマスの盛り上がりはあまりなくなってきています。サンタさんからではなく、お父さんからプレゼントをもらう子も増えて来ました。そのうち、子どもたちに「サンタクロースって誰?」と聞かれるようになってしまうかも知れません。それでも私は冬至を祝う古代信仰とつながったこの日は「大事な日」だと思います。ちなみに、実はいつキリストが生まれたのかははっきりしないのです。それでもこの日が選ばれたのは、キリストが「死と再生の象徴」だったからです。「キリスト」という存在の意味が、冬至の意味とつながったのです。マヤの暦の2012年12月21日も、もっともっと長いスパンでのこの冬至的な意味の日だったのでしょう。だとすると、2012年12月21日で「古い世界」が終わり、「新しい世界」が始まるのでしょう。でも、その「新しい世界」を迎えるためには、一度ちゃんと「古い世界」の「死と終わり」を見つめ、お別れをする必要があるような気がします。そのような意味で、今年のクリスマスには特別な意味があるような気がするのです。人間が便利さや豊かさを求める過程で失われてしまった多くの動物や、植物の生命、壊されてしまった伝統や文化や自然、また自然から遠ざかった生活によって歪んでしまった人間の心とからだのことを想い出し、祈りを捧げます。新しい世界では、みんなが生き生きと幸せに生きることが出来ますように。
2012.12.24
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昨日、何かを作ることに喜びを感じることが出来るなら、そこにその人が生まれて来た意味があるのかも知れません。空の青さや道ばたの花に感動することが出来るなら、そこにその人が生まれて来た意味があるのかも知れません。「ありがとう」と言われて喜びを感じるなら、そこにもその人が生まれて来た意味があるのかも知れません。美味しいものを食べて喜びを感じるなら、そこにその人が生まれて来た意味があるのかも知れません。ということを書きましたが、実はこのようなことは「気質」とも関係しているのです。私は「気質」を「神様が与えてくれた役割」につながるもの、と理解しています。光には光の役割があり、風にも、水にも、土にも、火にもそれぞれの役割があります。また、植物には植物の役割があり、動物にも動物の役割があります。もっと言えば、タンポポにはタンポポの役割があり、杉の木には杉の木の役割があり、ミミズにはミミズの役割があり、人間には人間の役割があります。そして、太郎さんには太郎さんの役割があり、花子さんにも私にも役割があります。この世界には役割を持っていない存在など存在していないのです。その役割とは「何かをする」ことだけではありません。存在しているだけで役割を果たしているものもあります。石垣の石はただそこにいるだけですが、立派に役割を果たしています。また、祭りの御輿は何の役にも立ちません。でも、御輿がないことには祭りが成り立ちません。人がつながれません。石も御輿も何にもしていませんが立派に役割を果たしているのです。そういう「役割」もあります。子どもに何にもしてやることが出来なくても、側にいてあげるだけで果たすことが出来る役割もあります。でも、人間だけがその「役割」を「束縛」として放棄し、欲望に任せて「やりたいこと」ばかりを追い求める存在になってしまいました。今では、「女性としての役割」、「男性としての役割」、「母親としての役割」、「父親としての役割」までもが「束縛」として扱われています。そして、「自分の役割として」ではなく、利害や、損得や、趣味や、興味といった個人的な理由だけで何かをするようになりました。その結果、家庭も、地域も、社会も、自然も、地球もバランスと調和を失い、崩壊しかかっています。私は、そのような状況の中で「気質」を学ぶことが、「忘れられている役割」を想い出すことにつながるのではないかと考えています。「自分の気質」を知ることで、「自分の役割」を知ることが出来るのです。そして人は、自分の気質に合った自分の役割を果たすことが出来ているとき「幸せ」を感じるのです。実は、多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質という四つの気質はそれぞれが補い合うような関係になっていて、それぞれがそれぞれの役割や生まれて来た意味につながっているのです。ですから、「気質」の考え方は、単なる性格分類とは異なるのです。多血質の人は色々なものをつなげ、楽しくすることが好きです。ですから、分析的ではなく、感覚的です。物事を論理的に考えることも苦手です。この世界には論理的に考えることで見えてくる世界もありますが、論理を無視して感覚的になることで初めて見えてくる世界もあるのです。これはどちらの方が正しい、ということではありません。芸術を鑑賞するときに必要になるのは論理ではなく感覚です。そんな多血質の人にはロケットは飛ばせませんが、打ち上げが成功した後の楽しいパーティーを企画することは出来ます。胆汁質の人はロケットを飛ばす企画を立て、それを実行に移す行動力はありますが、ロケットそのものの設計や製作をすることは出来ません。憂鬱質の人は設計をすることは出来ますが、予算を獲得するために行動することは苦手です。粘液質の人はその設計図に基づいて、部品を作り、組み立てをすることに長けていますが、与えられた仕事をこなすだけです。このように「気質」が違えば「役割」が違うのです。気質についてもっと詳しくお知りになりたい方は、過去のブログの記事をお読み頂くが、私が書いた小冊子をお読み下さい。
2012.12.24
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「人はなぜ生まれてくるのか」というのはなかなか難しい問題ですが、もっと突っ込んで「私はなぜ生まれて来たのか」というのはもっと難しい問題です。もちろん、この問いに対する「客観的正解」はありません。でも、その本人が「納得できる正解」はどこかにあるはずです。そして、人が自分の人生を生きる上で心の支えになるのは「客観的正解」の方ではなく、「納得できる正解」の方です。でも、「客観的正解」なら科学者や哲学者が見つけてくれますが、「自分が納得できる正解」は自分で見つけるしかありません。そのためには多くのことを考える必要があります。自分の短所や長所の中にその答えが隠されているかも知れません。自分が喜ぶこと、幸せを感じること、やりたいことの中に答えが隠されているのかも知れません。本を読んだりテレビを見たりしたときに、強く心が動かされるようなことの中に答えが隠されているのかも知れません。もし、人に「生まれてくる理由」があるなら、絶対にそのサインがどこかに表れているはずなんです。そして、それは必ずあるのです。そのサインとつながらない「自分が生まれて来た意味」は観念論に過ぎません。これは、「自分には価値がない」、「自分など生きていても意味がない」、「死にたい」と思っている人でも同じです。何かを作ることに喜びを感じることが出来るなら、そこにその人が生まれて来た意味があるのかも知れません。空の青さや道ばたの花に感動することが出来るなら、そこにその人が生まれて来た意味があるのかも知れません。「ありがとう」と言われて喜びを感じるなら、そこにもその人が生まれて来た意味があるのかも知れません。美味しいものを食べて喜びを感じるなら、そこにその人が生まれて来た意味があるのかも知れません。苦しみばかりでそのような喜びや楽しみとは無縁な生活を送っている人でも、「何で自分はこんなに苦しむんだろう」と考えているなら、その苦しみには意味があり、その苦しみと向き合うのが「その人が生まれて来た意味」なのかも知れません。
2012.12.23
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「人はなぜ生まれてくるのか」というのは難しいテーマです。でも、これは私の推測ですが、人がまだ自然の中で自然と共に生きていた時代にはこんなことを考える人はいなかったのではないかと思います。今でもジャングルの中で暮らしているような人たちは、「人はなぜ生まれてくるのか」などということは考えないと思います。なぜなら、そんなことは考えるまでもない自明の事であったり、考える意味がないことでもあるからです。そのような状況で生きている人たちの社会は、非常に強いつながりによって支えられています。また、自分たちと自然との間の「つながりの物語」も持っています。ですから、そのような社会で生きている人は、「自分の生き方」を自分では決めることはしません。「部族の一員」や「物語の一部としての自分」というものしか存在していないからです。オギャーと生まれた時にはもう「役割」が決まっているのです。現代人的にはそれは「束縛」なのかも知れませんが、見方を変えるとそれは「受け入れられていること」であり、「絶対的な肯定」でもあります。また、「他の生き方」が存在していないのですから「束縛」ではありません。それを「束縛」と感じるのは「色々な生き方」を選ぶことが出来る状況に生きている現代人の感性に過ぎません。私たちが「私はなぜ生まれてきたのだろう」と問うことが出来るのは、私たちが「自分で自分の生き方を決めることが出来る社会」の中で生きているということの表れでもあるのです。会社の出張のように、行き先や目的を与えられて旅に出た人は、「何のために旅に行くのか」ということは考えません。でも、「どこでもいいから旅に出なさい」と追い出された人は、まず「なんのために旅に行くのか」ということから考え始めるでしょう。そうでないと迷子になってしまうからです。それと同じです。もっとも、世の中には「迷子」を楽しむ人や「迷子」を気にしない人もいます。そのような人は、「何のために」などと考えることはしないでしょう。多分、多血質の人や粘液質の人はあまり気にしないような気がします。でも、胆汁質や憂鬱質が入っている人は「目的」」を考えやすい傾向があります。ということで、物語やつながりが失われた社会に生きている人ほど「私はなぜ生まれてきたのだろう」と考えることになるのです。それはそれだけ私たちの選択肢が広がったという事でもあるので、善し悪しの問題ではありません。でも、自分で自分の生き方を決めなければならない時代を生きるためには「自分の哲学」が必要なのに、そういうものを一切持たないまま生きている人がほとんどなのが問題なのです。また、そのための教育も皆無です。だからみんな「自分探しの旅」で迷子になってしまうのです。どんなに本を読んでも、どんなに色々な人の講座に出たり、色々な人のセラピーを受けても、「自分の頭」で考えない人は迷子になってしまうのです。人はみんな「自分だけの道」を歩き、「自分だけの旅」をしているのですから。人の意見は自分の人生を生きる「ヒント」にはなりますが、「ヒント」にしかならないのです。でも、自分の頭で考えない人はそれを「ヒント」ではなく「正解」として受け取ってしまいます。それで行き詰まってしまうのです。子育てにおいても同じです。その、「考える力」を育てる教育は決して詰め込みでは出来ません。でも、ただ「ゆとり」を与えればいいというものでもありません。そこのところが分かっていないので「ゆとり教育」が失敗したのです。子どもを受け身にさせたまま「ゆとり」を与えたら、子どもは怠けるばかりです。でもそれは、「押し込み教育」をしても同じです。子どもを「学びの主人公」にしない限り、「考える力」は育たないのです。でも、日本の政治家はそのようには考えないようです。3才前の子どもは決して「どうして僕は生まれて来たの」などとは聞かないものです。なぜなら、3才までの子どもは「自分」という意識自体が希薄だからです。でも、3才頃から社会的な意識が目覚めるとともに、「他者」と「自分」が分離され始めます。その時、自分が親や周囲から受け入れられていないと感じた子は「どうして僕は生まれて来たの」と聞くことがあります。自分が必要とされていないと感じるときや、受け入れられていないと感じるときには幼い子どもでも「どうして僕は生まれて来たの」と聞くことがあるのです。その背景には「孤独」があります。人は「孤独」を感じたときに「自分は生きていていいのだろうか」と感じるのです。これは幼児でも感じるのですから、人間として本質的な感性なのでしょう。でも、その問いに答えるのは困難です。また、一度目覚めたその感覚は、「根拠のない孤独」として成長してもズーッと残っていきます。
2012.12.22
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19日に書いた「もったいない」に関するブログに関して、友人のかめおかゆみこさんから、「こういう記事もあったよ」を教えて頂きました。「もったいない」考「日本人の深層心理」を考えるヒントになります。ご興味のある方はご覧になって下さい。*******************今日は記念すべき「2012年12月21日」です。ほとんどの人が知っていると思いますが、「人類が滅亡する(かも知れない日)」として有名な日です。このブログを書いている時点ではまだ何も起きていません。また、明日も、来年も、10年後も何も起きていないかも知れません。でも、人が「死」というものを無視せず、「死」を見つめて生きることで、逆に「生」を充実させて生きることが出来るように、人類もまた「滅亡」を無視せず、「滅亡」を見つめて生きることで、「本当に大切なこと」を見失わない生き方が出来るかも知れません。人は死を避けることが出来ません。同時に人類も滅亡を避けることが出来ません。ただ、「それがいつか」ということが不確実なだけです。それは今日かも知れませんし、1万年後かも知れません。でも、その時が来たときに後悔しない生き方は今から始めた方がいいとおもいます。「人類の滅亡」はまだ先かも知れませんが、私たちの生命に関しては「明日の保証」があるわけではないからです。また、確実に言えることは、地球の自然が失われるときには、人類もまた滅亡します。「科学の力があれば」という幻想を語る人がいますが、自然を守ることすら出来ないレベルの科学で、人間の生命を守ることが出来るわけがないのです。そこには矛盾があります。人間は、「誕生」と「死」で自然とつながっています。それが「生命の世界」です。その「生命の世界」には「絶対の真実」があります。「自然とつながっているもの」として、「変えてはいけないもの」、「守らなくてはいけないもの」があります。でも人間は、自分が「自然現象の一部であること」を忘れて生活しています。そして、「生命」という自然現象を狂わせるような生き方ばかりしています。でも、「誕生」と「死」の時だけは、人間は「自然」とのつながりを感じ、人間を超えた世界と出会うことが出来ます。よく、「どんなにお金や財産を貯めても、どんなに偉くなっても、それをあの世に持って行くことは出来ない。人は裸で生まれ、裸であの世に帰っていくのだ。」と言われます。だから、「死の直前に後悔しない生きたかをしようね」とか、「幸せに生きる」とか、「一期一会」という考え方が大切になってくるのです。でも、現代人は「死」から目を背けるような生き方ばかりしています。だから、「本当に大切なこと」に気付かないのです。「2012年12月21日」を「バカバカしいこと」として一蹴するのは簡単です。でも、せっかくの機会ですから、「自分の死」や「人類の未来」について考える日にしてみませんか。そうすることで、「子育て」や、「教育」や、「生活」や、「経済」や、「科学」や、「原発」などに対する考え方も変わってくるかも知れませんよ。
2012.12.21
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私たちは、その人の「その人らしさ」を表現するときに「個性」という言葉を使います。そして、その「個性」は「他者との比較」によって導き出されています。ですから、みんなと同じだと「個性がない」などと言われたりします。でも、私が言っているところの「らしさ」は、それとは全く異なるものです。人間も含め全ての存在は、「他者と共通する部分」と他者と共通しない「固有の部分」の二つの要素によって成り立っています。その二つを合わせた存在が「わたし」です。そのどちらが欠けても「わたし」ではなくなってしまいます。そして、一般的な意味での「個性」はその「固有の部分」の方を指します。でも、どちらの方が大切かというと、「共通する部分」の方なのです。全ての存在において、共通する部分が本体で、「固有の部分」は「飾り」のようなものだからです。生物学的な「種」を規定しているのはその「共通する部分」の方です。ですから、人間にとっては、「まず人間らしくあること」が一番重要なことなのです。そのため、子育てや教育の場においても、まずそこの部分をしっかりと育てる必要があります。そうでないと人間が「人間」ではなくなってしまいます。差違を付けるための早期教育はその「人間としての育ち」を阻害してしまいます。でも、人間も含め、全ての存在は「共有する部分」を失ったら、存在自体が消えてしまうのです。そして、その「共通する部分」は比較対象によっても異なります。人間は植物やカエルなどとも「共通する部分」を持っています。もちろん「共通しない部分」もありますが、どちらの方が大きいのかというと、人間とカエルの間では「固有の部分」より「共通する部分」の方が大きいでしょう。人間と人間だったら、ほとんど全てが「共通する部分」で、違いは小さな「飾り」程度のものです。でも、人間はその「飾り」で「個人」を識別しているので、「飾り=その人」のように思い込んでしまっています。そのため、子育てや教育などにおいても、「本体」(共通する部分)の方を育てようとしないで、「飾り」の方ばかり大切にしようとしたり、豪華にしようとしています。「早期教育」に熱心な人も、子どもの問題行動を「子どもの個性です」と言い張る人もそのような人なのでしょう。よく、幼稚園の案内などを見ると「個性を伸ばす教育」とか「個性を大切にする教育」などと書いてありますが、それは「本体」を育てなければいけない時期に、「飾り」にばかり目を向けるようなものです。でも、「本体」がしっかりと育っていないのに、「飾」りの部分だけに目を向け大切にしようとしたら、結局はその飾りも無駄になるでしょう。「じゃあ、個性は育てなくてもいいのか」とお思いになる方もいるかも知れませんが、「個性」は「らしさ」の延長上に自然に生まれるものであって、大人が意図的に育てるものではありません。だからこそ「個性」なのです。子どもが生き生きと成長できるように支えてあげていれば、子どもの「個性」は子どもの内側から自然に湧き出てくるのです。逆に、「個性」にばかり目を向けていると、「本当の個性」ではなく、単なる「歪み」を個性と勘違いしたり、「個性」を育てようとして「親の期待」を押しつけ、「らしさ」から生まれる「本当の個性」が損なわれてしまうことになるでしょう。(「歪み」と「偏り」は違います。)それに対して、「らしさ」を大切にする子育てや教育では、「共通する部分」も「固有の部分」も合わせた「丸ごと」を育てようとします。なぜなら、「らしさ」は、その「丸ごと」から生まれてくるものだからです。そして、その存在が「自分らしく」あることができる時、昔の人はその状態を「自由」と称したのです。それが元々の日本語における「自由」という言葉の意味です。現代人が使っている意味は、日本語本来の意味ではなく、明治の時に導入された英語の翻訳的な意味に過ぎません。ですから、自然は自由そのものです。水は自由に流れ、木は自由に生長します。そして、子どもたちは自由に遊びます。でも、その「らしさ」を外側から規定するとき、本当の「らしさ」も「自由」も失われます。「水はさらさら流れていなければいけない」と規定したとき、水は「水らしさ」を失います。その場の状況に合わせて、池にも氷にも水蒸気にもなることが出来るのが「水」の「らしさ」だからです。「そんなことをしたら女(男)らしくない」という言葉は、「女(男)としての個性」の押しつけです。それは「飾り」(男性と女性の違い)の方ばかりに目を向け、「本体」(男性と女性の共通する部分)を無視する考え方です。(9才頃まではその違いはあまりありません。)日本人はその押しつけに反発して、本来の「らしさ」まで否定するようになってしまったのでしょう。それでも、本質的に女性には「女性らしさ」があり、男性には「男性らしさ」があるのは否定できない事実なのです。生理があるとか、妊娠・出産が出来るというのも「女性らしさ」の一部なのです。そもそも女性と男性とでは脳の働きも、体の構造も、ホルモンも違うのですから、それぞれの「らしさ」があって当然なんです。それを無視するのは生命の否定であり、また不自然です。また、「気質」も「らしさ」を作り出します。ですから、「気質」が違えば、「らしさ」も違うのです。各種の性格分類が対象にしているのは「性格」ですが、「気質」はその「性格」を生み出す「原因」として働いています。
2012.12.20
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私はよく、日本人の悪口のようなことを書いていますが、でもだからといって、日本人はダメな民族だとは思っていません。むしろ、非常に優れた民族だと思っています。ただ、今の日本はその日本人の優秀さが「長所」ではなく、「短所」として働くような状態になってしまっているということです。多くの場合、非常に高い能力はある種の偏りによって生まれます。水泳で高い能力を示す者が、音楽の演奏でも高い能力を示すことは滅多にないでしょう。それはただ単に練習をしていないからではなく、一つの分野で非常に高い能力を発揮できるような人は、最初からその分野に適応しやすいような能力の偏りを持っているからです。音楽家であれば音に対する感受性がそれに相当するでしょう。運動選手なら運動神経が、文学者なら想像力が他の人よりも優れているはずです。気質もまたそのような違いを生み出しています。多血質の人は社交性に優れ、粘液質の人は安定性に優れ、憂鬱質の人は感受性に優れ、胆汁質の人は行動力において優れています。(気質に関しては私の冊子をお求め下さい。)ですから、そのような偏りが生かせるような仕事や、生活をしているなら、それらの偏りは「長所」として働くでしょう。でも、その偏りを生かすことが出来ないような仕事や生活の場では、その偏りは「短所」として働くでしょう。そして、現代社会では、日本人の持っているその偏りが「短所」として働いてしまっています。日本人は粘液質や憂鬱質が強い国民です。そして、粘液質や憂鬱質の人は基本的に「みんなと同じことをする」とか「競争をする」ということが苦手です。これは現代人が持っている日本人観とは全く異なるのかも知れませんが、実は日本人は「個」を非常に大切にする民族でもあったのです。その「個」とは「らしさ」のことです。現代人が考えている「個」とは「プライバシーで守られた自分」のことですが、昔の日本人は「らしさ」を大切にしたのです。だから、寺子屋でも子ども達を競争させることも、一斉授業のようなこともしなかったのです。一人一人を大切にしていたからです。でも「プライバシー」はあまり大切にされませんでした。でも、現代人は「プライバシー」は大切にしますが、「らしさ」は大切にしません。だから平気で一斉授業のようなことが出来るのです。大量生産と大量消費の社会でも「らしさ」は大切にしません。今では、日本語の「もったいない」は「物を無駄にしないようにしよう」という意味で解釈されていますが、本当はそんな意味ではないのです。「もったいない」の本当の意味は「らしさを大切にしよう」という意味なのです。昔の人は、水の水らしさ、道具の道具らしさ、生命の生命らしさ、自分の自分らしさを損なうようなことをした時、「もったいない」と言ったのです。だから例えば、豆腐料理などを作るときに、その豆腐の「らしさ」を殺すようなお料理しか作れなかったときに「もったいないことをした」と表現したのです。ですから、子ども一人一人の「らしさ」を生かすような教育をしなければ「もったいない」のです。自分の「らしさ」を生かすような生き方をしなければ「もったいない」のです。現代人は、「男らしさ」や「女らしさ」というようなものを「周囲から押しつけるもの」として理解していますが、本来は、女性や男性として生まれた人が、自分の持って生まれた性のらしさを大切に生きようとしたときに現れるのが「女性らしさ」や「男らしさ」と呼ばれるものだったのです。ですから、それは「自分を大切に生きる」ということともつながっていたのです。それなのに現代人はそれを「社会的束縛」と考え、「男らしさ」や「女らしさ」を捨ててしまいました。そして「自分らしく」生きようとしているのですが、「自分」の根底を否定している人が「自分らしく」生きることが出来るわけがないのです。そのような人は、観念論や社会的価値観に縛られ、「生命とつながった本当の自分」を見失い、振り回されているだけです。日本人は、そのような「らしさを大切にする」ということを価値観や美意識の根底に持っていたのです。日本庭園は、松は松らしく、水は水らしく、自然は自然らしくという価値観で構成されています。私には「プライバシー」ばかり大切にして、「らしさ」を大切にしない現代社会の方がよっぽど「個を大切にしていない社会」のように思えるのです。日本人の良さは、一人一人が自分の「らしさ」を生かしながら、みんなが助け合う事によって一つの目的に向かうとき、最大限に発揮できるのです。そのような日本人の良さを取り戻すためには、子ども一人一人の「らしさ」を大切にするような教育を取り戻す以外に道はないと思っています。その「らしさ」を否定するような教育ばかりやっているから、日本人の特色が短所として表れてしまうような社会になってしまっているのです。以下、ウィキペディアよりもったいない(勿体無い)とは、仏教用語の「物体(もったい)」を否定する語で、物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表している。どうですか、「無駄遣いしない」ではないでしょ。
2012.12.19
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いい意味でも、悪い意味でも、日本人には「今」が全てです。それは最近になって始まったことではなく、昔からそうなのだろうと思います。つまり、日本はそういう文化の国なのではないか、ということです。だからどんな自然災害に見舞われても、過去に囚われることなく「今」を生き延びることだけに集中することが出来るのでしょう。それが日本人の強さでもあります。でも日本人は、台風や津波などの自然による災害だけでなく「人間による困った出来事」に対しても、「自然災害」と同じように受け止めてしまう傾向があります。それは、「起きちゃったことはしょうがないじゃないか」「嫌なことは忘れよう」という論理です。(日本人はこの考え方を、戦争中日本が侵略した国に対してまで求めています。)そして、「自然災害」と同じように受け流し、「今」を生き延びることだけに集中します。ですから、次回同じようなことが起きたときの対応として身を守ることだけは考えますが、その災害自体が起きないように工夫することはしません。「○○事故が起きたら私はこう逃げる、こう身を守る」ということは考えても、その事故自体が二度と起きないように考えることはしないのです。なぜなら、「原因」を究明することは、「責任」を究明することでもあり、それは仲間の輪(和)を乱す行為だからです。日本人は責任を取らない民族ですから、責任をはっきりとさせるような「原因究明」にも消極的なんです。そして、いつまでも原因や責任にこだわっていると「野暮なやつだ」と言われます。ただこれは、いい悪いの話ではなく、「日本はそういう文化の国だ」ということです。だから日本は主義主張の対立によって分裂することもなかったのです。でも、人々が自然と共に素朴な生活をしていた時にはそれでも良かったのですが、近代国家としてはそれでは困るのです。日本語の時制は非常にあいまいです。欧米の言葉では、その出来事が過去から未来への時間軸の中で、「いつ、どのように起きたのか」また「起きるのか」と言うことを明確に表現させます。だから、出来事を原因と結果のつながりの中で、一つの論理として構成することが出来ます。そしてそこが、日本人が英語を学ぶときに障害になる点です。日本人は出来事を原因と結果のつながりの中で理解しようとする癖がないので、「時制」というものをどのように使ったらいいのかがよく分からないのです。また以前、韓国人の友人から「韓国語には主語不明な受け身的な表現はない」というようなことを聞いたことがあります。日本語では「僕はいじめられた」と言います。でも、韓国語では「彼が僕をいじめた」と表現するらしいのです。「彼が僕をいじめた」と言われたら「いつ」「どこで」「どのように」「原因は」と聞きたくなります。でも、ただ単純に「僕はいじめられた」と言われたら、「そう苦しかったよね」と共感したくなります。その違いは大きいです。このような表現の違いだけで判断するのは早急なのですが、韓国人は事実を伝えようとし、日本人は共感を求めようとしているのかも知れません。ただ、韓国語に関しては不明なのですが、日本語には「共感を求める表現」が多いということは事実だと思います。その出来事自体は「過去」に起きたことなのですが、求めている共感は「今」の感情に対してなのです。だから、過去の出来事に対する詳細な説明は必要がないのです。日本人にとっては、「誰が、いつ、どのような原因で僕をいじめたのか」が問題なのではなく、その結果としての僕の悲しみや苦しみに対して共感して欲しいだけなのです。ちなみにこれは憂鬱質の特徴の一つでもあります。日本には「文化としての哲学」が生まれませんでした。それも、その日本語の特徴や日本人の精神性によるものでしょう。確かに日本にも道元や空海や鈴木大拙や西田幾多郎のような偉大な哲学者もいました。でも、彼らはみんな外国語(中国語や英語)に非常に堪能でした。というか、外国語を学ぶことで、同時に日本語にはない「時制の使い方」や、「因果関係に基づく論理」の使い方を学んでいたのでしょう。ただし、その際必要になるのは「会話能力」ではなく「読み書き能力」の方です。でも、現代人は「読み書き能力」よりも、お手軽な「会話能力」の方ばかりを求めています。
2012.12.18
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今日二度目のアップです。選挙の結果を見て、言いたいことがあったので・・・。日本人の長所 ---> 昔のことをすぐ忘れること だから日本人は明治維新の時も戦後も、 簡単に主義主張を取り替え、繁栄することができました。日本人の短所 ---> 昔のことをすぐ忘れること だから反省が出来ず、何回も同じ失敗を繰り返します。 当然、成長もしません。日本人にとっては、常に「古いもの」より「新しいもの」ものの方が正しいのです。だから「古いもの」を改良して「良いもの」に変えていくという発想がなくうまく行かないとすぐに「全とっかえ」をしたがるのです。
2012.12.17
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人間は肉体のみならず、意識、思考、感覚、意思、感情、想像力、記憶力というものを持っています。「心」はそれらの要素の複合体です。感覚や感情や記憶力などは、その底辺で直接「生命の働き」とつながっています。」肉体は、その「心と生命の器」として、また「内側の世界」と「外側の世界」をつなぐものとして機能しています。ですから、人間において「自由」ということを考えるときには、これら全ての要素における自由について考える必要があります。肉体は「内側の世界」とも、「外側の世界」ともつながっていますから、「内側の世界との関係における自由」と、「外側の世界との関係における自由」との二つの自由が存在しています。私がいつもひらがな表記している「からだ」は、「内側の世界とつながっている肉体」のことです。ですから、「からだ」は意識、思考、感覚、意思、感情、想像力、記憶力、そして生命の働きといったもの全ての影響を受けています。以降、外側の世界とつながっている肉体を単に「肉体」と書き、内側の世界とつながっている肉体を「からだ」と書いて分けていきます。このようなことを踏まえて、「自由」ということについて考えてみます。人間にはこれらの要素があり、これらの要素がお互いに支え合うことで「人間」という存在が維持されています。この中のどの要素が欠けてしまっても「人間らしさ」は失われてしまいます。それはつまり、「人間としての自由」が失われてしまうということでもあります。ですから、「人間の自由」を考えるときには「肉体の自由」のみならず、「意識の自由」「思考の自由」「感覚の自由」「意思の自由」「感情の自由」「記憶力の自由」というものも同時に考える必要があります。「教育の意味」もこの視点から語られないことには意味がありません。「受験に必要だから」という理由だけで行う教育は、「調教」であって「人間を育てるための教育」ではありません。でも、「肉体の自由」は目に見えるので分かりやすいですが、その他の自由は目に見えないため分かりにくいのです。その「目に見えない自由」の状態を見るためには「心の自由」が必要になります。「心の自由」を得た人だけが「心の目」を持つことが出来るのです。ですから、「心」の自由が育っていなかったり、「心」が何らかの束縛を受けている人は「心の目」を持つことが出来ません。そのため、「目に見えないもの」を見ることが困難になります。そして「目に見える世界」だけが全てだと思い込んでしまいます。欲望や、本能や、感情に振り回されてしまうのはそのような人です。それは人間以外の動物に近い状態です。でも、そのような人はそのような世界しか知らないため、世の中に「自分には見えない世界」があるということを知りません。説明しても理解することが出来ません。「山」を見たことがない人に「山」を説明しても馬鹿にされるだけです。人は「他者からの束縛」があるときは、自分が不自由であることが分かるのですが、「心の自由」が育っていなかったり、自分で自分を束縛しているようなときには、自分が自由であるのか、不自由であるのかということが分からないのです。大人から見たら子どもは言語能力においても、身体能力においても、知的な能力においてまだ未熟な状態なため、「大したことも出来ない不自由な状態」に見えますが、子ども達はそうは思っていません。子ども達にとっての「不自由」はお母さんや大人からやってくるものだけです。逆に子ども達は、他人の目や常識や欲望に縛られている大人達の不自由をちゃんと見抜いています。でも、大人はあまりその不自由に気付いていません。だから、子どもを自分の不自由な状態に無理矢理合わさせようとするのです。オタマジャクシは親ガエルのように地面の上をジャンプして歩くことが出来ません。ですからカエルはオタマジャクシを「不自由なやつだ」と思うでしょう。でも、水の中にいるオタマジャクシは不自由ではありません。親ガエルに無理矢理、陸に揚げられ「さあ、ジャンプしろ」と命令されるとき、不自由になるのです。そんな時、逆にお母さんの方が自分の束縛に気付き、その束縛から自由になることが出来たら、子どもの世界に寄り添うことが出来るようになり、子育てを楽しむことが出来るようになります。それは親ガエルがオタマジャクシのいる水の中に入って一緒に遊ぶようなものです。でも、そのことに気付くことが出来る人は多くありません。人は自分の心が自由なのか、不自由なのかを知らないからです。でも、実は「心の自由」を持っている人と、持っていない人を簡単に見分ける方法があるのです。相手がどんな人であろうと、「人の話に素直に耳を傾けることが出来る人」は「心の自由」を持っている人です。そのような人は「心の目」も持っています。それは、エンデの小説「モモ」に出てくる少女、モモのような人です。だからモモは人の自由を奪う「灰色の人間」を見ることが出来たのです。「心の自由」を持っていない人には「灰色の人間」を見ることが出来ないのです。ただし、「人の話に素直に耳を傾けることが出来る」ということと、「相手の言いなりになること」は全く別のことです。そして、それが「子どもを受け入れる」ということでもあるのです。皆さんはお子さんの言葉に素直に耳を傾けることが出来ますか。それが出来ないようなら、心が不自由な状態なのです。その時は、意識、思考、感覚、意思、感情、想像力、記憶力のどれかが不自由な状態になっているのです。ただし、それらは相互につながっているため、一つが不自由になると、同時に他のものも不自由になります。足が不自由になると手も頭も不自由になるのと同じです。ちなみに私は、教育の目的は、それらの要素を育て、「子どもの心とからだ」を自由にしてあげることだと思っています。*********************<告知です>1月から3月まで月一で「セルケア」(心とからだを軽くするためのレッスン)のワークをします。1月21日(月)、2月4日(月)、3月4日(月)の三回で時間はいずれも10:00~12:00です。会場はJR茅ヶ崎駅の近くです。参加費は1500円で2,3人枠ですが保育があります。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。
2012.12.17
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今日は、選挙ということもあり、ちょっと人類と日本の未来について考えてみました。よく、「自然界は弱肉強食だ」と言われますが、あれは嘘です。「弱肉強食」とは「競争」とか「奪い合い」の論理です。そして、そんなことをしているのは欲望に支配されやすい人間だけです。人間以外の生き物たちはみんな「欲」ではなく、「本能」に従って生きています。そして、その「本能」は35億年かけて作られてきた精妙なバランスの上に成り立っています。全ての生き物たちが自分の本能に従って生きても、出来るだけ多くの種が共存できるように出来ているのです。なぜなら、全ての生き物は「種の多様性」によって支えられているからです。人間もこの世界に人間だけしかいなくなったら生きて行くことが出来ません。食料となる生き物も、酸素を作り出す生き物も必要です。そしてさらに、それらの生き物を支える生き物も必要です。「生命」というものは、全ての生命がお互いに助け合うことで生き延びることが出来るように作られているのです。ですから、「俺が支配者だ」という生き物が現れ、全ての生き物を自分の欲望のままに支配しようとしたら、そのバランスは崩れ、多様性が失われ、やがてその生き物は自分を支えてくれていた土台までも失い、やがて消えていくことになるでしょう。そして実際そのような支配者が現れました。その支配者は、相手を支配することで「自由」を得ようとします。確かに、支配されていたら自由はありません。だから、相手と戦って勝ち、相手を支配する側に立とうとします。そして、その生き物は、他の生き物に対してだけでなく、仲間の間でもその戦いを繰り広げるようになりました。支え合っていたつながりが失われてしまったからです。つながりが失われた世界では、常に自分を守ることだけが最優先されます。そして、みんなが「自分を守ること」しか考えていない世界で「自由」を得るためには、支配する側に立つ以外に方法はありません。その結果、余計に奪い合いや戦いが熾烈になります。その「生き物」とは人間のことです。でも、今はそんな状態の人間ですが、昔からそうだったわけではありません。昔は「自然界の多様性を支えるもの」として慎ましく暮らしていたのです。その頃の人間は、必要以上のものは殺さず、採らず、貯めずという生活をしていました。その必要な量を得る時でさえ、「頂く」とか「分けてもらう」という意識がありました。これは西洋でも東洋でも同じだったと思います。そして、「欲望」は反自然的な原理なので、その取り扱いには細心の注意を払っていました。「欲望」に支配された人はその「人間性」を失い、「つながり」やそれまで伝えられてきた様々なことを破壊してしまうため、昔の人は「欲望」の恐ろしさがよく分かっていたのです。そして、その「支配」が実際の権力者によるものであろうと、欲望によるものであろうと、お金によるものであろうと、母親によるものであろうと、「支配」という束縛を受けている人は、自分もまた誰かを支配しようとするものです。そのため、昔の人たちは、様々なつながりや、しきたりや、タブーや、宗教や、言い伝えや、物語などによって、その「欲望」の暴走を押さえ込んできました。「欲望は悪魔や、破壊神の働きによるものである」というような表現もしたでしょう。でも、今私たちが生きている社会を支えている「資本主義」という原理では、「欲望は善である」ということになっています。人間の価値観がひっくり返ってしまったのです。科学の発達により人間は万能になり、欲望を抑えきれなくなったのです。欲望によって支配されている社会は、「支え合う」ことによってではなく、「奪い合う」ことで「循環」と「バランス」が保たれる仕組みになっています。それが「弱肉強食」の世界です。実は、人間の世界だけが「弱肉強食の世界」なのです。でも、この原理の社会では弱者は常に搾取されるだけになります。そして、ますます弱くなります。そのため、その状態が進むと、次第に循環やバランスがうまく調節できなくなり、偏りや滞りが多く生まれるようになります。すると、最後には全体が機能麻痺になります。でも、政治家達はどのようにしてその「欲望を満たすことが出来る社会」を存続させるのか、ということしか語りません。また、欲望に支配された人たちは欲望を満たしてくれる人にしか投票しません。そろそろ、欲望の暴走に歯止めをかけるような原理や、価値観や、社会システムも必要なのではないかということです。何事にも限度はあるのですから。ただし、私は資本主義や現代社会を否定しているわけではありません。ましてや共産主義を肯定しているわけでもありません。そうではなく、欲望に振り回されることのない「新しい資本主義の形」を提案しているだけです。そしてそれは教育の改革から始めるべきだと思っています。私たちは今、「欲望以外の価値観」を子ども達に伝えなければならないのです。確かにそのことで経済は低迷し、日本も経済大国ではいることが出来なくなるでしょう。多くの失業者も出るでしょう。でも、「支え合う」という原理を取り戻せば滅亡だけは避けることが出来ると思います。私は、日本は「経済大国」ではなく「農業大国」と「物作り大国」に戻るべきだと考えています。この二つが一番日本人の気質に合った目標のような気がします。日本は「強い国」を目指さない方がいいです。それは日本人の気質には合いません。無理があるのです。それよりも、安全で安心で美味しい食べ物を作ったり、世界の人が驚くようなものを作り世界に発信し、世界中の技術者が日本に来て学ぶようになれば、経済大国でなくても、ちゃんと生活も、それなりの豊かさも、世界に向けての発言権も維持することが出来るのです。最後に、昨日までの「中学生」の話と今日の話を無理矢理つなげてしまいますが、中学生という時代は「欲望」に目覚める時代でもあります。中学生は、「本能から欲望へ」という転換の時期でもあるのです。だからこそ、余計に子どもの周囲に「支え合うつながり」と、「広い世界との出会い」が必要なのです。私の個人的な希望では、中学生にはもっと「農業体験」や、「物作り体験」や、「芸術体験」をしてもらいたいと思っています。日本の未来を救うのはそのような教育だと思っています。資本主義はそのままでも、その資本主義を動かす原理が「欲望」だけでなくもっと多様になればバランスは戻ってくるのです。「欲望」という原理しか知らない人間は「欲望」を押さえることが出来ないのです。今、問題になっているのはそういうことなのです。
2012.12.16
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最初にちょっと告知です。1月から3月まで月一で「セルケア」(心とからだを軽くするためのレッスン)のワークをします。1月21日(月)、2月4日(月)、3月4日(月)の三回で時間はいずれも10:00~12:00です。会場はJR茅ヶ崎駅の近くです。参加費は1500円で2,3人枠ですが保育があります。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。***********************中学生という時期はいわゆる「反抗期」と呼ばれる時期でもあります。そして、この「反抗期」は親からの自立のサインとして理解されています。親から自立する時期が来たということです。ですから、この時期に親が何か子どもの行動に干渉しようとすると子どもは非常に反発してきます。そして子どもは、それまで自分を守ってくれていた「家族」を「束縛」と感じるようになり、もっと広い外の世界に自由を求めるようになります。ですから、この頃から子ども達の趣味や興味や行動が多様化してきます。そしてまた同時に、そのようなものを吸収する能力も高くなります。ですからこの時期、大人達は子ども達を「人間が築き上げてきた多様な世界」と出会わせたり、体験させてあげる必要があります。そのことで子ども達は「人間が築き上げてきたもの」を受け継ぐことが出来るようになるのです。人間の学習能力には「時期」があります。言葉は2,3才頃までに学習しないと、その後から学ぶのが困難になります。それと同じように、中学生という時期は「人間が築き上げてきた多様な世界」と出会い、受け継ぐための時期でもあるのです。ですから、中学生になれば(上手下手はともかく)基本的に、大人が出来ることのほとんど全てが出来るようになります。セックスをし、家族を作ることさえ出来ます。そして、この時期に「広い世界」と出会えた子は、「広い意識」を持ち、「広い意識」で物事を考えることが出来るようになります。でも、この時期に狭い世界、狭い価値観に囚われた生活をしていると、幼い子どものような「狭い意識」のままになってしまう可能性が高くなります。それが多くの日本の中学生の状態です。日本の中学生は本もあまり読まず、「教科書とテレビ」という本当に小さい窓を通してしか、「広い世界」を見ることが出来ない状態です。これでは「広い意識」を持つことは困難でしょう。(当然のことながらそうでない子もいっぱいいます。私が言っているのは、大局的な視点で見た時、そのような傾向があり、さらにそのような傾向が強くなっているということです。そこの所をご理解下さい。)もちろん、2,3才を過ぎてもそれなりに言葉の学習が可能なように、中学を過ぎても「広い世界」と出会うことで、それなりに「広い意識」を育てることは可能です。でも、ちょうどぴったりの時期に学習した子どもには追いつくことは出来ません。私の個人的な感覚では、まだ頭が柔らかい30才頃までは何とか取り戻せるような気がしますが、それを過ぎると脳が老化を始めるので、意識を変えることはドンドン困難になると思います。不可能ではないと思いますが、困難であることは間違いないと思います。このように、中学生という時期は「広い世界」と出会い、「自由」を求める時期なのですが、だからといって「好き勝手にやらせればいい」ということでもありません。「自由」に目覚めたからこそ、同時に「自由の限界」や「自由の使い方」も学ばなければならないのです。それは「言葉」に目覚めた子どもが「言葉の使い方」を学ばなければならないのと同じです。「言葉」に目覚めていない段階の子どもに「言葉の使い方」を教えても無意味です。それと同じように、「自由」に目覚め始めた時期だからこそ、「自由の使い方」を学ばせる必要があるのです。でもそれは、「自由」が与えられている状況でのみ可能なことです。ナイフを与えずに「ナイフの使い方」を学ばせることは出来ません。そして、その「使い方」こそが文化なのです。茶道や禅などではなく、私たちの日常的な言葉の使い方、包丁の使い方、からだの使い方の中にこそ本当の「日本の文化」があるのです。ですから、ただ「自由」を与えるだけでは「自由の使い方」を学ぶことは出来ません。逆説的ですが、実はそこで「不自由」が必要になるのです。日本語を自由に使いこなせるようになるためには、「日本語という言葉の不自由さ」も知る必要があります。それが「日本語のルール」です。「ルール」というものは「自由」を束縛します。でも同時に「自由」を守るものなのです。「ルール」があるから「自由」が保証されるのです。それは例えば、「何でも自由に切っていいよ」と包丁を与えるのではなく、同じ厚さで丁寧に切るとか、美味しく切るとか、薄く皮をむくというような「不自由な課題」も同時に与える必要があるということです。また、包丁で木を削ってはいけません。そのような目的のために作られているのではないので、刃こぼれするからです。包丁は基本的に「柔らかいもの」を切るためのものです。そのような学びを通して、子どもは「自由と自分勝手は違うんだ」ということを学ぶのです。実は、「自分勝手」というやり方をやっていると、逆に「自由」を失ってしまうのです。自分勝手なやり方で包丁を使っていたら、刃こぼれしてしまい、切れなくなってしまいます。世の中の人みんなが自由勝手に生きるようになったら社会は崩壊し、治安は悪くなり、自由に学ぶことも、遊ぶことも出来なくなります。衣食住ですら手に入れることが困難になります。でも、自由を求める時期に自由を与えられない子ども達は、その「自由の使い方」を学ぶことが出来ないため、いつまでも自由に生きることが出来なくなります。そして、「自由」と「自分勝手」を取り違えて、自分勝手に生きるようになります。子育てにおいても、「子どもという不自由」を肯定し、子どもと共に自由になろうとすれば、いくらでも自由になることが出来るのですが、お母さんが「自分だけ」自由になろうとするから、逆にどんどん不自由になって行ってしまうのです。
2012.12.15
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うちの4番目は今中学三年で、いわゆる受験生です。でも、4人の中で一番勉強には関心がない、我が家としては異例のタイプです。もしかしたら、お兄ちゃん、お姉ちゃんが成績優秀だったので、同じ方面で頑張っても無駄だという末っ子特有の感覚もあるのかも知れません。手仕事は器用で、造形では高い工夫能力を持っているので頭はいいのですが、勉強には全く興味、関心がないようです。家内はこの状態にイライラしていますが、私自身は、中学、高校の時は家にいる時は勉強しかしていなかったので、逆に「勉強しない子」の日常に関心を持って見ています。(私は趣味が「勉強」だったのです。)我が家にはゲーム機はありませんが、パソコンでゲームをやっています。ただし、30分と決めています。「勉強はしなくてもいいから、ゲームは30分にしなさい」と言っています。すると、空いている時間(ほとんどの時間ですが)は寝ているか、マンガを読んでいるか、パソコンでヤフオクを見ています。(新しいマンガはめったに買わないので「ドラゴンボール」や「ハンターハンター」などの古いマンガを繰り返し読んでいます。)私は、ゲームをやるよりは寝ている方がからだにはいいと思っていますからそれでも何も言いません。マンガは空想力を刺激します。勉強は塾の勉強しかしません。(塾は中三になってから行き始めました。うちの子は全員中三になってからです。他の三人はそれで充分に間に合ったのですけど・・・。)それで、志望校を決めるために、お兄ちゃんお姉ちゃんが受験生の時には全く話題にならなかったような高校に見学に行っています。普段は家内が一緒に行くのですが、先日は家内が仕事だということで私が一緒に行ってきました。そこは英語教育に力を入れている私立なのですが、これは当たり前のことなのでしょうが、親向けの説明には「どうやって成績を上げるか」とか、「どのような受験対策を行っているのか」という「お勉強の話」ばかりなのです。それで話を聞いているうちに退屈してしまいました。さらには強い違和感を感じました。人生のうちで、心とからだや、感受性や意識が一番急激に成長するこの時期に、学校が「受験にしか役に立たないようなお勉強」を子どもに押しつけるだけの場になってしまっているのです。そして、そのことに何の問題も、違和感を感じていないような学校や、先生や、親たちにも違和感を感じました。多分これはどの学校でも似たような状況だろうと思います。先日、テレビで全人的な教育を行おうとしているある高校を取り上げていましたが、そこの先生が、「この高校は落ちこぼれ達が来るような学校だから、受験勉強をさせなくてもいいので、かえってこのような教育が出来るのです」と言っていました。このような状況って変ですよね。今の日本の社会は、受験だけにしか役に立たないような偏った勉強だけをした子が、社会に出て「社会を動かす仕事」に付き、幅広い体験や勉強をした子が「こき使われるだけの仕事」にしか付くことが出来ない仕組みになっているのです。<続きます>
2012.12.14
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昨日の新聞に「理数学力テストでアジア勢が上位独占、日本もベスト5に」という記事が出ていました。ネットでも見ることが出来ます。(以下は抜粋です)ベスト3は小4算数がシンガポール、韓国、香港で、中2数学が韓国、シンガポール、台湾(日本はともに5位)。また理科では小4が韓国、シンガポール、フィンランドで、中2がシンガポール、台湾、韓国(日本はともに4位)となった。日本の順位が上がったことで「脱ゆとり教育の効果が出てきた」というようなことを書いている人もいました。ネットでは、その記事とと共に以下のような記事も出ていました。(以下は抜粋です)「韓国の数学・科学の実力は最高、生徒の自信・関心は最低」というものです。 だが高い学業到達度にもかかわらず、韓国の生徒らの自信と関心度は非常に低いことがわかった。評価とともに実施された調査で「数学に自信がある」と答えた小学4年生は11%で50カ国中49位にとどまった。中学2年生も3%で42カ国中41位だった。「数学が好きだ」という回答も小学4年生は23%で50位、中学2年生は8%で41位にすぎなかった。教育課程評価院のキム・ソンスク評価本部長は、「韓国とシンガポールなど学業達成度が高い国であるほど自分の成績に対する期待値が大きくなり自信は相対的に低く現れる」と説明した。アジアの国々はいまだに「欧米に追いつけ、追い越せ」「競争に勝ち抜け」という強迫観念に囚われているのでしょう。でもそれは、自己肯定感の低さや欧米に対するコンプレックスの表れに過ぎません。そして、このような競争原理は「人間としての幸せ」という価値観を否定します。競争原理を信じている人は「競争に勝てば幸せになることが出来る」と信じているのでしょうが、競争は人を孤独にするだけで、幸せにはしてくれないのです。人は、どんなに一流の大学に入り、一流の会社に勤め、高額の給料をもらい、社会的に身分が高くなっても、孤独では幸せになることが出来ないのです。それが「人間」という生き物の宿命なのです。そのような人は他の人と比較して、「おれは勝ち組だから幸せなんだ」と自分に言い聞かせるばかりです。でも、側にいる人と顔を見合わせて「しあわせだね」「うん、しあわせだね」というつながりを得ることは出来ないのです。人間は一人では幸せになることが出来ないのです。「誰かと共に」でないと幸せになることが出来ないのです。子どもが幸せそうにしている時、お母さんは幸せを感じます。仲間と一緒に遊んでいる子ども達は幸せそうです。子ども達を見ていると、「人間にとって“幸せ”とは何か」ということがよく分かるのです。でも、一人でゲームで遊んでいる子は幸せそうには見えません。本人は幸せなのかも知れませんが、その「幸せ」はゲームの世界の中にいる時だけの幸せです。自分の生命が生きている現実世界における幸せではありません。そのため、現実の生活を生きる力にはつながらないのです。ですから、幸せになりたい人はまず、身近な誰かを幸せにしてあげることです。すると、自分も幸せになることが出来ます。「自分だけの幸せ」を求めているからいつまで経っても幸せになることが出来ないのです。でも、そのような人はそのことに気付かず、「競争に勝てば幸せになることが出来る」と思い込んでいます。だから、さらに「自分だけの幸せ」を求めて競争してしまい、さらに孤独になり、さらに幸せが遠くなるのです。時には、夫婦の間や子ども相手に競争しているお母さんもいます。「自由の奪い合い」という競争です。それが現代人の状況です。また、「学校の成績が優秀だ」ということと、「人間としての能力に優れている」ということは全く別のことです。たしかに、学校の成績に表れるようなことも「人間としての能力」の一部ではあります。でもそれは「道具としての能力」であって、「人間らしさの根底」を支えている能力ではありません。そして、その「人間らしさの根底」が育っていなければ、「道具としての能力」を使いこなすことが出来ないのです。自分の能力でありながら自分で使いこなすことが出来ないのです。どんなに立派な武器を手に入れても、それを使いこなすだけの精神力や、体力や、技術や、智恵が身につかなければ役に立たないのと同じです。そういうものが伴わない「立派な武器」は、かえって身を滅ぼす原因にもなりかねません。(幼稚園児に原爆のスイッチを与えたら、世界は破滅するでしょう。)そのため、どんなに素晴らしい能力を持っていても自己肯定感を支えることが出来ないのです。皆さんは、学校で学んだことを使いこなすことが出来ていますか。また、生活の中で使う場面がありますか。確かに知識を学ぶことは大切です。でも、「知識の使い方」を学ぶことはもっと大切です。知識はすぐに手に入る時代なのですから。「知識の使い方」を知っている人は応用力があるので、子育てや生活の様々な場面でその能力を使うことが出来ます。数学などの問題を解く能力を育てることも大切です。でも、問題を解く能力以上に、生活の中に「不思議」や「問題」を感じ、「問い」を自分で見つける能力はもっと大切です。与えられた問題を解くだけしか出来ない人は、自分の人生を「自分のもの」として生きることが出来ないのです。そして、「知識の使い方」や「問いを見つける力」は、「競争」という手段では決して育てることが出来ません。現代人は知識はいっぱい持っています。問いを与えられれば解く能力もあります。ですから、ドライブに例えれば、目的地を教えられ、地図を渡されれば、正確に目的地にまでたどり着く能力はあります。でも、目的地を自分で探すことが出来ません。地図がない状況でも工夫して道を見つけることが出来ません。だから必然的に迷子になります。そして、トラブルや問題が起きても、学校で学んだ知識では解けないため、ただ苦しむだけで前に進むことが出来ません。今の日本の子ども達は、学校の中や試験という場でしか役に立たないことを学ぶために、人生で一番大事な「子ども時代」を犠牲にしています。だから「人間としての基礎」を育てることが出来ず、競争ばかりに熱心な大人が増えてきているのです。今回の選挙はそんな大人達の見本市のようです。
2012.12.13
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「自然」との直接的な関わり合いを失ってしまった現代人は、人間が頭の中だけで作り出した妄想の世界の中に生きるようになりました。その妄想の世界の中では、「真・善・美」は単なる主義や、流行や、利害によって決められ、「宇宙や自然とつながり、時代を超えて不変なるもの」は存在していません。その世界はいつでも「人間の都合」だけで動いています。そして、地震や災害などで被害を受けた時だけ「神も仏もいないのか」と言って、外の世界にいる神様や仏様のせいにします。中には「バチが当たったのだ」などと言う人までいます。でも、神様や仏様は人間の都合に合わせてはくれません。宗教的に言えば、人間の方が神様や仏様に合わせなければいけないのです。それを、「神様(仏様)が人間に合わせてくれない」と言って文句を言うのはお門違いなのです。また、神様(仏様)は「バチ」を当てたりはしません。神様(仏様)は人を恨んだりはしなからです。もともと、神様や仏様といった存在は、生命の働きや、人間の心の本性や、宇宙や、自然の法則を具現化したものなのですから、人を恨むわけがないのです。ですから、その意思に沿った生き方をすれば楽に幸せに生きることが出来る確率が高くなります。ロケットを飛ばす時、物理法則を無視して設計したり、飛ばしたりすると失敗します。逆に、物理法則に沿って設計し、打ち上げれば、成功する確率が高くなります。それと同じことです。と、神様や仏様のことを書いていますが、別に私は宗教のことを書きたいわけではありません。私が書きたいのは、神様や仏様に近い存在でありながらその大切さが理解されず、逆にその「ありのままの状態」が否定され、どこでも「未熟なもの」として扱われている「子ども」という存在についてです。「子ども」は、「生命の働きや、人間の心の本性や、宇宙や、自然の法則を具現化した神様や仏様」に近い存在です。そして、「神様や仏様」と、「欲望に振り回されている大人達」との間に存在しています。ですから、「人工的な知識や技術」に対しては大人の方が賢いのですが、「生命の智慧」という点に関しては大人より子どもの方が賢いのです。だから、大人達は子ども達に「人工的な知識や技術」を教え、子ども達からは逆に「生命の智慧」を教えてもらう必要があるのです。私たちはその両方の価値観がうまく融合できるように工夫すべきなのです。そしてそれが、人類がこれからの未来を生き延びるための道でもあるのです。大人達がその謙虚さを失ったら、人間の社会は暴走し、破滅へと向かうでしょう。
2012.12.12
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お母さん達にもよく言うことですが、昔のお母さん達は子育てなんかあまりやりませんでした。忙しくてそれどころではなかったからです。今では「子育て」はお母さん一人の責任になってしまっていて、子どもが何か問題を起こすと、お母さんの「子育て責任」が問われますが、実は最近の子ども達の問題はお母さん達だけが「子育て」を押しつけられるようになってしまった結果でもあるのです。子どもはお母さんに対して、食事と愛情しか求めません。逆に言うと、そういうものを与えるのが人間本来としての「お母さんの役割」でもあるのです。「仕付け」などは二の次です。でも、お母さんから充分な食事と愛情を受けている子は、お母さんから学び、お母さんに従おうとします。犬や猫でさえ、優しくしてくれたり、餌をくれる人には従うものです。それが動物としての自然な感性なのです。人間も例外ではありません。確かに「仕付け」は大切なものですが、「仕付けよう」と子どもを追い回す必要などないのです。子どもの方から「大好きなお母さん」の真似をしたり、お手伝いをしたがるので、その時に色々と教えてあげていれば「お母さんとしての仕付け」は自然に出来てしまうのです。そしてその、「お母さんとしての仕付け」以外の「仕付け」に関してはお母さんの役割ではありません。その他の「仕付け」を子ども達に伝えるのはお父さんや、周囲の大人や、先生達の役割なのです。子どもと関わる大人全てが「子どもの仕付け」に対しては責任があるのです。それをお母さん一人に押しつけてしまうから、親子の関係がおかしなことになってしまうのです。大勢の子ども達と遊んでいると、ルールを守らなかったり、他の子に暴力を振るったり、意地悪をしたり、悪意はなくても困ったことをする子がいっぱいいます。そういう子がいると、普通は「お母さんがちゃんと仕付けていないから子どもがそういうことをするんだ」と「お母さんの仕付け」が非難されます。でも、それは違います。それはその場にいる大人の責任なんです。実際、そのような場合お母さんがいくら子どもを追い立て、叱っても子どもは言うことを聞きません。いくらお母さんが叱っても子どもの問題行動は直らないのです。叱って止めさせることが出来たとしても、それはその場だけのことです。またすぐに同じことを繰り返します。ですから仕付け的な効果は全くないのです。でもそんな時、周囲の大人が止めたり、叱ったり、教えてあげているうちに子どもの行動は修正されていくのです。その時大切なポイントは、お母さんは叱らないことです。私がやっている幼児教室でも「子どもが困ったことをしている時には他のお母さんや私が叱ったり、教えたりするので、お母さんは叱らないでね」と言っています。私や他のお母さんに叱られ、さらに自分のお母さんからまで叱られたら、子どもは居場所がなくなってしまうのです。でもそれは、子育てで一番やってはいけないことなのです。私は時々「こういうことをしたらダメだろ」とやんちゃな子を泣かしてしまいます。そうすると子どもはお母さんの所に逃げ込みます。そんな時、お母さんも「ダメでしょ」と言いたくなるのですが、それは私がもう言ったことだからお母さんが言う必要はないのです。それに泣いている状態の子どもは「聞く耳」を持っていないので何を言っても無駄です。お母さんはただ、泣いている子を抱いてあげていればいいのです。家庭の中でも、お父さんが叱っている時には、お母さんは叱らずに子どもの悲しみを受け止めてあげて下さい。それをお父さんと一緒になって叱ってしまうと、子どもは居場所を失ってしまいます。また逆に、お母さんが叱っている時にはお父さんは叱ってはいけないのです。幼稚園や学校の先生との関係においても同じことが言えます。先生が「お宅のお子さんは○○という点が問題です」と言ってきても、先生と同じ価値観で子どもを叱ってはいけないのです。学校でも家庭の中でも同じことで叱られたら、子どもは居場所を失ってしまいます。そもそも幼稚園や学校の先生にも「仕付け」の責任はあるのです。それを一方的にお母さん一人の責任にしてはいけないのです。「お母さんにしか出来ない仕付け」があります。でも、「お母さんには出来ない仕付け」もあるのです。「先生にはできない仕付け」があります。でも、「先生にしか出来ない仕付け」もあるのです。先生達はそのことをしっかりと自覚すべきだと思います。ただし、私は生活指導や生徒指導のことを言っているわけではありません。先生と生徒というつながりの中でしか伝えることが出来ない「仕付け」があるということです。だから、昔の寺子屋では「学ぶことに対する仕付け」はかなり厳しかったようです。ただしそれは「先生の言うことに従わせるような仕付け」ではなく、「教えを請うものとしての礼儀と態度に対する仕付け」です。今の学校教育は「義務」であり、「子どもが先生に合わせる」という形で授業が進行していますが、江戸時代においては寺子屋に行くかどうかは任意であり、また寺子屋では「先生が子どもに合わせる」という形で授業が進行していたため、子どもの側にしっかりとした「先生への敬意」や、「学ぶ態度」や、「学ぶことへの意欲」が存在していない限り教育が成り立たなかったのです。親はそのことを言葉で子ども達に伝え、先生は身をもってその言葉に恥ずかしくない態度で子ども達に臨んでいたのです。そこにも「仕付け」があったのです。さらに現代では、多くの子ども達において、「親以外で密接に関わる大人」と言えば先生だけなのですから。先生は子ども達にとって「大人の代表」でもあるのです。ですから、先生達が大人として恥ずかしくない態度で子どもと向き合うこともまた、大切な仕付けなのです。教師は単なるサービス業ではないのです。
2012.12.11
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いつもいつものことですが、私は「特別なこと」を書いているのではありません。冷静に考えたら「当たり前のこと」ばかりを書いています。ただ、その「当たり前」が失われ、また忘れられてしまっているから、そのことをしっかりと書いていく必要を感じているのです。人間のDNAは数十万年前からほとんど変化していません。ですから、「からだ」に関して言えば数十万年前の人間も現代人も基本的には同じです。そこにあるのは、今世界中の民族の間にある違いのレベルのはずです。だとすると、数十万年前の子ども達のからだがちゃんと成長するために必要な栄養も、現代の子ども達のからだがちゃんと成長するための必要な栄養も同じはずです。現代の食糧事情、食環境に合わせて、子ども達のからだの成長に必要な栄養が変わるなどということはあり得ません。ですから、過去の時代には存在しなかった、食品添加物や過度の砂糖やスナック菓子の摂取に関しては注意深くなった方がいいでしょう。遺伝子を組み換えたり農薬が入っている野菜や、成長促進剤や抗生物質が入っている肉などは特に注意すべきでしょう。それが「危険」とは断言できませんが、人類が今まで食べたことがないものなので、それらを大量に摂取するということは一種の「人体実験」的な覚悟が必要になります。それで何かトラブルが起きれば、未来の人はそれに対応して社会的な状況を変えていくでしょうが、その人体実験を受けた子どもは一生そのままになります。だからといって、過度に心配する必要はありません。人間のからだはその能力の範囲内ならそれなりに適応することが出来るからです。また、その多くの「人体実験」のおかげで現代人の豊かな食生活があるのも事実です。でも、その危険性を理解した上で子どもの状態を見守っていた方がいいでしょう。わざわざ、我が子で人体実験をする必要はないと思います。また、戦後流行した「スポック博士の育児法」も、結果としてはあまり良い結果を生み出さない人体実験に終わってしまいました。それは皆さんの親の世代や皆さんが受けた子育て法で、いわゆる「科学的な子育て法」です。でも、そのスポック博士の時代よりも科学が進んだ現代では、皮肉にも「スポック博士の子育て法」よりも、それ以前の「素朴な子育て法」の方が肯定されています。(だから、お姑さんと若いお母さんとでは子育て法に関して意見が合わないのです。)ちなみに、幼い子ども達において食べ物のトラブルはまず感覚や神経系に表れます。肉体的なトラブルとして表れるのは、大人になってからです。なぜなら、幼い子ども達において一番成長しているのが感覚や神経系だからです。思春期が近くなると、食べたものは肉体の形成において重要な働きをするようになりますが、幼い子ども達の場合は感覚や神経系の形成に重要な働きをするのです。食べ物だけではありません。幼い時にどのようなものを食べ、どのような活動を多くやり、どのような環境で育ったのかということが、その人の感覚や神経系の状態の形成にも大きく影響を与えています。幼い時に偏った食事をし、偏ったからだの使い方をし、偏った環境の中で生活していると、感覚や神経系の育ちも偏ります。そしてそれは「心の偏り」として表れます。でも、「からだのトラブル」として現れるのは大人になってからです。ただ問題は、「からだのトラブル」は自覚しやすいのですが、子どもの時に始まる感覚や神経系の偏りは自覚できないということです。みんな同じ状態なら、それが「普通」だと思ってしまうからです。でも、6才にもなって人の話が聞けない、ジーッとしていることが出来ない、一つのことに集中できない(延々ゲームをやり続けるのは中毒であって、集中ではありませんからね)、仲間と助け合うことが出来ない、論理的に考えることが出来ない、指先の活動が苦手、創造的な活動に興味を示さない、というのは人類史の中では普通ではないのです。(実際、大人が叱らなくても、そういうことがちゃんと出来る子もいます。)昔の日本でも、また世界中でも、キチンとした教育が始まるのはだいたい7頃からです。ちなみに、昔の年齢は「数え年」ですから、昔の6才は今の7才です。その頃から教育が始まるのは、昔の子ども達はその頃にはもう大人の話をちゃんと聞ける状態になっていたからです。寺子屋は義務教育ではないので、静かに話を聞くことが出来ない子は教育を受けることが出来なかったのです。だから私は、現代という時代に合わせた「特別な仕付け法や子育て法」ではなく、素朴な生活の中で何万年と続いてきた「当たり前の方法」を想い出して欲しくて色々と書いているわけです。「現代」という時代に合わせた教育は、感覚や神経系の育ちが一段落した思春期頃(10才頃)から始めれば充分なんです。一万年前も現代も「子ども」は同じです。そして、「子ども」が変わっていないのですから、幼児期の子育ての原則は一万年前も現代も変わっていないのです。ですから「時代に合わせた子育て」というものがあるとしたら、それは「子どもを現代に合わせる子育て」ではなく、「現代の方を子どもに合わせる子育て」ということになります。それでも心配する必要はありません。何十万年という人類の歴史の中で、こんなにも近代的な社会になったのはほんのつい最近のことです。それはつまり、古代から受け継がれてきた感覚や感性がしっかりと育っていれば、現代人としての能力を身につけるのはそれほど難しくないということでもあります。幕末、明治と活躍したジョン万次郎は15才までは漁師としての学びしかしていませんでした。でも、遭難の後アメリカに渡り学校に通い始めた万次郎は、すぐに適応して大学で非常に優秀な成績を収めるまでになりました。幼い時から学校に通って勉強していた連中を追い抜いてしまったのです。そんなもんです。*********西丸震也という食物生態学者がいます。その人が「41歳寿命説」というのを唱えています。今、平均年齢を引き上げているのは子どもの時に粗食をし、からだを思いっきり使い、仲間と群れて遊んでいた人たちです。そのような人は「からだの基礎」がしっかりとしています。だから、医学の進歩がそのまま寿命の延長につながったのです。でも、今の子ども達は「からだの基礎」が出来ていません。だから、これからはどんどん平均寿命がさがり、今の子ども達が大人になる頃には41才が平均寿命になるだろうという説です。
2012.12.10
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子どもは遊びが大好きです。そしてそれは人間の子どもだけに限りません。猫や犬や熊やイルカといった高等な哺乳類の子ども達もよく遊びます。その遊びは「物」で遊んだり、「子ども同士」で遊んだりというようなものです。そして、どの動物たちも大人になるとあまり遊ばなくなります。ですから、どうやら「遊び」は子どもの成長と関係しているようです。高等な動物たちにとっては、「遊び」は子どもの成長に必要な活動なのでしょう。うちには猫が二匹います。今は二匹とも大人になってそれほどイタズラをしませんが、子猫の時にはイタズラばかりしていました。羊毛で作った作品をしまい忘れていると、翌朝にはまた羊毛に戻っていた、などということもよくありました。それが教室の子どものだった時は焦りました。一番バカバカしかったのは自分のしっぽを追いかけて遊んでいるのを見た時です。人間の子どもも、2才頃の反抗期が来るまでは基本的に「物遊び」や「一人遊び」が中心です。でも、反抗期辺りから似たような年齢の子どもとじゃれて遊ぶようになります。「ケンカ」が始まるのもこの頃からです。ただし、この時期の「仲間遊び」は、「じゃれ遊び」や「共鳴遊び」が基本で、遊びにルールはありません。「共鳴遊び」とはただみんなで同じことをやるだけの遊びです。一人が大声を出せば他の子も大声を出し、一人が走れば他の子も走るといったようなものです。そして、この時期を過ぎると3人以上の仲間と「ルール」を共有して遊ぶことが出来るようになります。それは例えば「鬼ごっこ」や「わらべ歌」のような遊びです。そのような遊びでは「役割の交代」が行われています。鬼はいつまでも「鬼」ではなく、誰かを捕まえると「鬼」を交代することが出来ます。それが、単純にみんなと同じことをやって遊ぶ「共鳴遊び」とは異なるところです。人間以外の動物たちは物で遊んだり、じゃれて遊んだり、共鳴遊びまでは出来ますが、大勢で「ルール」を共有したり、「役割」を交代して遊ぶことは出来ません。それが何百人、何千人、何万人という集団でも有機的な社会を作り、維持することが出来る人間と、せいぜい数十体の個体でしか活動できない動物たちとの違いです。チンパンジーの知能は人間の三才児程度と言われていますが、三才児の知能ではこの遊びは出来ません。この遊びが出来るのは4、5才を過ぎた人間の子どもだけです。でも、子ども達の遊びの進化はそこで止まりません。次の段階として「目的」を共有し、助け合うという形での遊びが始まります。それは例えば「基地作り」といったような遊びです。このような遊びをする群れには「リーダー」が必要になります。そして、この「リーダー」は交代しません。「鬼ごっこ」や「わらべ歌」の段階には「リーダー」は必要ありません。「鬼ごっこやるものこの指とまれ」と言って、指を一本立てるだけで鬼ごっこを始めることが出来ます。でも、「基地作り」のような「はっきりとした目的を持った活動」の場合には、リーダーが必要になります。それがいわゆる「ガキ大将」です。ここまで遊びが進化して、ようやく人類が今まで育ててきた文化や文明を受け継ぐ能力が身についたということになります。このような遊びが出来るようになるのは10才(小5)を過ぎてからだと思います。人間の子ども達は、人類が人間としての知能を得た時から、何十万年とこのような遊びを繰り返してきたのです。そして、「遊び」を通して「大人になる準備」をしていたのです。でも最近、この「子どもの遊び」に一大異変が起きています。小学生になっても、2,3才児レベルの「共鳴遊び」や「じゃれ遊び」しか出来ない子ども達が増えてきているのです。「鬼ごっこ」ですら困難な子どももいます。逃げ回っているうちは楽しく遊んでいるのですが、鬼に捕まって、鬼をやらなければならなくなると「僕は鬼はやりたくない」といって、止めてしまう子もいるのです。幼稚園や保育園に行って「わらべ歌」で遊ぼうとしても、まず「輪」を作ることが出来ません。みんなと手をつなぐのも困難です。説明や人の話を聞くのも困難です。ジーッとしているのはさらに困難です。ですから、「わらべ歌」以前の状態なんです。その状態の子ども達は「じゃれっこあそび」ばかりを求めてきます。オンブやダッコをしてあげると喜びます。年長さんでもです。ちなみに、パンチやキックをして来るのも、「じゃれっこあそび」です。ファミレスなどで大騒ぎをしている子ども達も同じです。そのような子ども達はまだ「ルール以前」の状態なんです。そのような状態の子ども達が多ければ、学級崩壊など簡単に起きてしまいます。だから、「ちゃんと仕付けろ」という声が上がるのですが、でも、無理に大人が仕付けても、それは昨日も書いたように「大人のルール」ですから、大人の目が届かないところでは全く野生児に戻ってしまうのです。「仕付け」には、「大人が仕付けることが出来る仕付け」と、「大人には仕付けることが出来ない仕付け」があるのです。「大人には仕付けることが出来ない仕付け」は、大人がどんなに頑張っても子どもに伝えることは出来ないのです。それは「気づき」に属することだからです。本人が体験を通して気付く以外に、学びようがないことなのです。そして、この仕付けを行うためには、群れて遊ぶことが出来るような「場」や「仲間」や「リーダー」が必要なのです。ですから、子どもの周囲からそのようなものが失われてしまっている現代社会では、それを用意してあげるのも「仕付け」の一部なんです。今、このような遊びが出来ない子ども達が増えています。そのような子ども達はお互いに自分の権利を主張するだけで助け合おうとはしません。そして、そのまま成長して大人になってしまった人も増えています。そのような大人は、この社会は自分たちで作り上げ、守り、伝えていくものだということを知りません。ですからそのような活動には参加しません。そして、「あれが欲しい」「これが欲しい」と2,3才の幼児のように要求ばかりを繰り返します。
2012.12.09
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大人が子どもに伝えるべき重要な仕付けに「ルールを守ることの大切さを伝える」ということがあります。もしかしたら、人間が人間らしく生きて行くためにはこれが一番大切な仕付けかも知れません。なぜなら、手を洗わなくても、箸の持ち方が悪くても、大人と挨拶が出来なくても、仲間とのつながりの中でルールを守ることが出来れば、仲間とつながり、仲間から学び、一人の人間として成長していくことが出来るからです。また、大人になっても一人前の社会人として生活することが出来るでしょう。でも、ルールを守ることが出来ない子は、大人からだけでなく、仲間からも拒否されます。すると「肯定的なこと」を何も学ぶことが出来なくなります。学習も困難になります。自己肯定感も低くなります。ちなみに子どもに「挨拶」を求めるのは大人だけです。子ども同士の付き合いでは、いちいち相手に挨拶など求めません。子ども本来の価値観においては「挨拶」はあまり重要ではないのです。子どもの同士の挨拶は「一緒に遊ぼう」、「仲間に入れて」、「鬼ごっこしよう」という言葉です。大人と子どもでは「挨拶のルール」が違うのです。ですから、大人に対して「おはようございます」が言えなくても、仲間同士の間でちゃんと「一緒に遊ぼう」「仲間に入れて」「鬼ごっこしよう」と言えるなら、子どもの育ちとしては何にも問題はありません。子どもの時に「子どもの挨拶」が出来る子は、大人になれば自然と「大人の挨拶」が出来るようになるものです。ただし、大人はちゃんと子どもに「おはよう」などの挨拶をすべきです。日常的に大人が手本を見せることで、子どもは「大人のルール」を学び、他の大人に対しても「大人のルール」で挨拶することを学ぶからです。「ごめんね」「ありがとう」などの言葉も同じです。子どもに無理に言わせても意味がありません。状況に応じて、ちゃんと大人が子どもに対して「ごめんね」と謝り、「ありがとう」と感謝の言葉を言っていれば、子どもは「大人のルール」を学ぶことが出来るのです。「大人のルール」は大人が手本を見せることから始めないことには伝えようがないのです。でも、「ゴメンナサイって言いなさい」と怒鳴っているお母さんに限って、自分はあまり子どもに対して「ごめんなさい」も「ありがとう」も言わないような気がします。自分自身が、素直な気持ちで自然に「ごめんなさい」とか「ありがとう」と言えるような人は、人に対して「ゴメンナサイと言いなさい」と強制しないものです。「優しくしなさい」も同じです。時々、子どもに「小さい子には優しくしなさいと言ってるだろ」と叱っているお母さんがいますが、それは逆効果です。子どもが学ぶべき「ルール」には、そのような「大人のルール」の他に「仲間のルール」があります。そして、その「仲間のルール」はお母さんには教えることが出来ません。「ちゃんと順番よく並びなさい」と教えても、それが「大人の強制」によるものなら、それは「仲間のルール」ではありません。「仲間のルール」は「自分たち子どものためのルール」ですが、大人に指示命令されるルールは「大人のためのルール」です。だから、状況に合わせて自由に運用、変更、適応することが出来ません。ですから、ルールというものがよく分かっていない小さな子にまで、無理矢理そのルールを守らせようとします。そして、大人が「小さな子は特別だよ」というと「ずるい」と言って非難します。続きます。
2012.12.08
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お母さん達が「大切な仕付け」として考えていることの中に、「食べ物の大切さを伝える」ということがあります。それで時々「うちの子は食事の時、食べ物で遊んだり、グチャグチャやってちゃんと食べないのです。私は、食べ物の大切さを伝えたいので、それをやめさせたいのですけどどうしたらいいのでしょうか」というような質問が来ます。お母さんとしては、子どもがそのようなことをする度に叱ったり、「食べ物の大切さ」を説いたりしているのですが、一向に子どもがやめないので困っているのです。確かに「食べ物の大切さ」を子どもに伝えることは大切です。それも重要な仕付けの一つには違いありません。ただ問題は、食事の時に叱ったり、教えたりするだけで「食べ物の大切さ」を伝えることが出来るのかどうか、ということです。私としては、もしかしたらこのようなお母さんもまた「食べ物の大切さ」を知らないのではないかと思うのです。私の周囲には、本当に食べ物を大切にしている人がいっぱいいます。そのような人は大根やニンジンの皮や葉まで無駄にしません。ゴミのようになってしまった「食べ物くず」でさえ堆肥として利用する人もいます。以前、キャンプのような場で、私がピーマンを切って中の種を捨てたら、そのようなお母さんに育てられている小学生の子に叱られました。どうですか。「子どもに食べ物の大切さを伝えたい」と毎日子どもを叱っているお母さんで、ここまで食べ物を大切にしているお母さんはどれくらいいますか。(正直に言うと私もここまでのことは出来ません。)実は「食べ物を大切にすることが出来るかどうか」ということは、「知識の問題」ではなく、「感覚の問題」なのです。だから、いくら言葉で叱っても、くどくど説明しても無意味なんです。「挨拶」も、「手を洗う」ということもみな「感覚の問題」です。だから、言葉で説明しても伝えることは出来ないのです。「仕付け」は「教えるもの」ではなく、「伝えるもの」です。ですから、お母さんにないものは、子どもに伝えることは出来ません。そして、「伝える」ということは、「気付かせる」ということでもあるのです。これが「教える」と「伝える」の根本的な違いです。そして、子どもがそのことに気付くことが出来るためには「受け皿」が必要なのです。その受け皿とは、「感覚的な準備」ということです。子どもの中に「感覚的な準備」が出来ている時には、ちょっとしたきっかけで気付かせることが出来ます、でも、その準備が出来ていない時にはどんなに働きかけても「気づき」は起きません。ヘレンケラーに「water」という言葉を伝えようとする時、サリバン先生はヘレンケラーの手に水を流しました。ただ単に「water」という言葉を覚えさせるだけなら、そんなことをする必要はありません。でも、「water」という言葉に感覚的中身を入れるためには、「本当の水の感覚」が必要だったのです。「伝える」ということはそういうことなのです。でも、今の日本の教育にはこの視点が全く欠如しています。日本の教育では、「water」という言葉を覚えればそれだけでOKです。それと同じような仕組みで、子どもに「食べ物の大切さ」を伝えようと思うのなら、まず、子どもと一緒に何かの野菜を育てて下さい。農家の人の話を聞いたり、お手伝いをするのもいいでしょう。また、私たちが食べているものは野菜でも肉でも、もともと「生命あるもの」であったことを教え、また実感できるような体験も必要でしょう。玄米を水につけておくと発芽します。そんな実験観察も面白いでしょう。子どもと一緒に釣りに行って、お魚を捕まえ、お母さんと子どもで調理する体験もいいと思います。私と友人達のキャンプでは「マスのつかみ取り」をやることが多いのですが、それを調理するのは子ども達の仕事です。「生命を奪ったものの責任として」と言っては大げさかも知れませんが、子ども達で洗って、内臓を取り除き、塩をつけ、串に刺して焼きます。私の友人の子ども達はこういうことを普通に出来ます。こういう体験をし、感覚的な下準備が出来ている上に「食べ物を大切にしよう」というのなら子どももまた理解することが出来るのです。「食べ物を大切にする」ということは「命を大切にする」ということと同じことなのです。ですから、「生命と触れる体験」がない子ども達には「食べ物の大切さ」も「命の大切さ」も伝えることが出来ないのです。そのような視点を持たずに、ただ食事の時だけ「食べ物を大切にしなさい」と子どもを叱るのは、「自分が作ったもの」(自分の努力)を台無しにされて腹が立っているだけです。また、テーブルを汚されたり、グチャグチャやられるのが生理的に嫌なので、それを止めさせる理由として「食べ物の大切さを伝える」という大義名分を使っているだけなのかも知れません。そして、それは本当の意味での「仕付け」とは異なるものです。
2012.12.07
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何回も書いていますが、昔の仕付けは社会で共有されていましたが、現代の仕付けはお母さんの個人的な価値観によって決められています。では、「どうしてそうなってしまっているのか」ということです。昔は、仕付けだけでなく様々なものが地域や社会の中で共有されていました。それは、挨拶の仕方、言葉遣い、箸や筆の持ち方、着物の着方やどんな時にどんなものを着るか、歌や踊り、物語、季節の行事、お料理、お化粧の仕方などです。実際にはもっともっといっぱいあります。そしてそれらは、総称して「文化」と呼ばれています。「文化」とは「その地域や社会で、長い年月、人から人へと直接手渡しで伝えられ、大切に守られてきたもの」のことです。その文化を継承することで、日本人としての精神性や感性や感覚も継承されてきたのです。「文化」が受け継がれていた時代には、「仕付け」はその「文化」の一部であり、文化を伝えるために使われていました。「仕付け」がないことには「文化」を伝えることが出来ないからです。言葉遣いを学ばないことには学ぶことが出来ない文化もあるのです。でも、現代の「仕付け」は「文化」から切り離され、「仕付け」本来の意味を失ってしまっています。だから個人的なものになってしまっているのです。もっといえば、日本人は「文化」そのものを失ってしまいました。そしてこの現象は今世界中で起きています。世界中で、何百年と受け継がれてきた「文化」が、ここ数十年であっという間に崩壊し始めているのです。それは、それまで「人」がやっていたことを、「機械」がやるようになったからです。歌も機械が歌ってくれます。だから親から子へ、人から人へと「歌」を伝える必要がなくなってしまったのです。必要なのは「歌を聴かせてくれる機械やメディア」を買うことだけです。さらには、「伝える」ということさえ、機械がやってくれます。「日本の文化」について知りたければ、ネットで調べたり、様々な動画で見ることが出来ます。でも、そのような方法では「受け継ぐ」ことはできません。でも、現代人には「文化」を次世代に伝える必要がないのですから、「文化」を受け継ぐ必要もないのです。必要なのは、その「文化」を味わうためのお金を得る能力を子どもに得させるだけです。このような社会では「人と人のつながり」なども必要がないのです。「つながり」が必要なのは「伝えなければならないもの」を持っている社会だけです。ですから、今でも「祭り」のようなものを受け継いでいる地域には「つながり」が残っています。そして実は、「その人がどのような仕付けをしているのか」ということは、「その人が子どもに何を伝えようとしているのか」ということと密接につながっているのです。何も伝えるものがない人の「仕付け」は「支配」になります。そしてその方法は「調教」と同じです。でも、「伝えたいこと」がある人の「仕付け」は、それを「伝えるための方法」になります。つまりその場合は、「仕付け」が意味と目的を持つことが出来るのです。ですから「支配」にはなりません。どんなにその「仕付け」が厳しくても、ちゃんと目的がある場合は「支配」にはならないのです。中村勘三郎さんが亡くなりましたが、歌舞伎の世界の仕付けは非常に厳しいです。でも、それは伝えられてきたことを伝えるためですから、支配ではないのです。子ども達もそのことを理解することが出来ます。ですから厳しくされても親を恨むことはありません。むしろ感謝するでしょう。それは、それだけ自分が大切にされていることの裏返しだからです。以前、両手がない女の子を育てているお母さんのドキュメンタリーをテレビで見ました。そのお母さんの仕付けはまるで鬼のようでした。でも、子どもは歪むことなくまっすぐに育ち、しかもお母さんに感謝していました。だから、「仕付けは厳しくした方がいいのか、それとも優しくした方がいいのか」という議論にはあまり意味がないのです。「仕付け」で重要なのは、「方法論」ではなくその「目的」なのです。「大切なことを子どもに伝えるため」という目的のない仕付けは、優しくしようと、厳しくしようと「支配」であることに変わりはないのです。本当に「仕付け」において、大切なことは「子どもに伝えたいことがあるかないか」ということなのです。そして、「大切なこと」を伝えようとすると、何をどうしたらいいのかは自然と分かるのです。
2012.12.06
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子どもは模倣という形で色々なことを学んでいます。ですから親が特別に教えなくても、親や、周囲の大人を見ながら勝手に学び、成長します。「親が教えなくても」と書きましたが、実は教えても無駄なんです。子どもは自分から模倣したものでないと身につけることが出来ないからです。だから子育てにおいては「模倣しやすい状況」を作ってあげる必要があるのです。それが「仕付けの方法」でもあります。それは教育の場においても同じです。大人達は模倣などさせなくても、「アメとムチ」を使えば子どもに色々なことを教え込ませることが出来ると思い込んでいますが、それは全くの勘違いです。「アメとムチ」を使う大人を見て、子どもは「アメとムチ」の使い方を学ぶばかりです。そして、同時に「大人の喜ばせ方」を学びます。「アメ」をもらった時、「こういうことをすると大人は喜ぶんだ」ということを学ぶのです。そして要領よく立ち回る方法を学びます。そこには「人と人のつながり」がありません。ですから、そのように育てられた子は孤独になるでしょう。また「人間としての成長」もないでしょう。「アメとムチ」の方法は、「人間としての成長」を否定するものだからです。「アメとムチ」の方法が目指すのは「成長」ではなく、「行動の改善」だけです。そして行動の改善を目指すだけなら「アメとムチ」という方法は非常に効果的です。ですから、犬や猫に使う分にはいいのですが、基本的に人間に使う方法ではないのです。「マニュアル」という方法も同じです。「マニュアル」は基本的に機械を操作するための方法ですから、当然「成長」という概念は含まれていません。でも、現代人はそのことに問題を感じなくなってしまっています。なぜなら、現代人は「人間としての成長」ということそのものに価値を見いだせなくなってしまっているからです。現代人が一番関心を持っているのは、「物質的・経済的豊かさ」と「社会的な成功」だけです。「勉強しなさい」と子どもを追い回すのもそのためです。だから、「仕付け」が個人的なものになってしまっているのです。でも、子ども達は成長したいのです。なぜなら、それが何十万年と人間の子ども達に受け継がれてきた本能だからです。その本能があったからこそ、人間は進化、進歩し、これだけの精神文化や、物質文化や、文明を手に入れることが出来たのです。でも、その頂点にいる現代の大人達は、子どもに対して「人間としての成長」ではなく、「従順さ」ばかりを求めています。その結果、大人と子どもが出会えなくなってしまっています。そしてそのような子育てや教育を受けた子が、大人になってまた「物質的・経済的豊かさ」と「社会的な成功」だけを求める生き方をするようになっています。今、選挙で話題になっている原発の問題も、TPPの問題も、単純に経済の問題としてばかり扱われ、「人間としての生き方」とは切り離されて論議されています。でも、本来は、経済活動のために人間が存在しているのではなく、人間のために経済活動が存在しているはずなのですから、「人間としての生き方」を議論した上で「経済をどうするのか」という議論をすべきなんです。そうでないと本末転倒なのです。そこを忘れてしまっているから、地球の状態がこんなにも悲惨なことになってしまったのです。
2012.12.05
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人間の脳は、欲望などを満たすための「アクセル的な働き」と、その欲望を抑制する「ブレーキ的な働き」の二つの働きによってコントロールされているそうです。野生動物は、基本的に「本能」という「アクセル的な働き」によって支えられて生きています。でも、猿や犬などの群れで生きている生き物たちは、群れのルールを守るために「ブレーキ的な働き」も必要になります。欲望に支配され自分勝手なことをやったら、群れから排除されてしまうからです。人間においては、そのブレーキ的な働きはさらに強くなり、自分の判断と意思で自分の行動を抑制することが出来ます。犬や猿の場合はただ単純に、「群れのルール」に従うだけですが、人間だけが「自分のルール」に従って自分を抑制することが出来るのです。ただ最近、この自分を抑制するための「ブレーキ的な能力」があまり働かない若者達が増えてきたそうです。そしてそれは、若者だけではないようです。そのような人は、人が見ているところでは自分を抑制しますが、人が見ていなかったり、匿名のような場では、自分の欲望を満たすために行動してしまいます。ネットイジメはその象徴です。さらに「アクセル的な働き」が強ければ、自分の欲望を満たすために人前でも困ったことをするでしょう。問題は、どうしてそういう人たちが増えてしまったのかということです。最初に書いたように、脳の中には「アクセル的な働き」と「ブレーキ的な働き」を受け持つ部分があります。「アクセル的な働き」をする部分は本能を支配する大脳基底核と脳幹と呼ばれるところで、これはオギャーと生まれた時には出来上がっています。これに対して、「ブレーキ的な働き」を受け持っているのは大脳新皮質と呼ばれる部分で、この部分の能力は育ちの過程の中で育っていきます。ですから、生まれたばかりの赤ちゃんは「ブレーキ」ゼロで、「アクセル全開」の状態です。だから本能のままに行動し、反応します。でも、様々な体験を通して色々なことを学ぶ過程で「ブレーキ的な働き」が目覚めていきます。そして、大人になるとその「アクセル」と「ブレーキ」をうまく使い分けることが出来るようになります。というか、そのようになるはずなのですが、最近、その「アクセル」と「ブレーキ」の使い分けが出来ない人がどんどん増えているのです。自己肯定感の低い人は「アクセル」が弱く「ブレーキ」ばかりが強い状態です。逆に、自尊心やブライドや欲望ばかりが強くて集団のルールを守らない人は「アクセル」ばかりが強く、「ブレーキ」が弱い状態です。そして今、このどちらかに当てはまってしまう人が非常に多いのです。むしろ、アクセルとブレーキのバランスが取れている人の方が少数です。ある大脳生理学者の本によると、昔の子ども達と今の子ども達とでは、この脳の中の「アクセル」と「ブレーキ」の発達の状態が異なるそうです。昔の子ども達は、子ども時代にはアクセルばかりが強く、ブレーキが弱い状態なのですが、成長と共にブレーキの働きが強くなり、思春期が来る頃にはバランスが取れるように成長したそうです。でも、最近の子ども達は幼いうちからブレーキの働きが強く、アクセルが働きにくい状態になってしまっているようです。そして、成長すると共にブレーキの働きが弱くなり、アクセルが強くなっているそうです。つまり、昔の子どもとはアクセルとブレーキの育ちの状態が逆になっているのです。でも、幼児期の子どもが欲望のままに行動しても他愛のないものですが、思春期の若者が欲望のままに行動したら困ったことになってしまいます。最近の子ども達のその「ブレーキ」は大脳新皮質の働きによるものではありません。まだ、大脳新皮質は未発達だからです。ですから、「自己抑制」の結果としてのブレーキではないのです。では、それは何かというと「お母さんからの強い束縛」です。子どもはお母さんに逆らえないので、お母さんの命令には反抗しません。お母さんとしては「全く言うことを聞かない」と思っているのかも知れませんが、それは、まだお母さんの要求に応える能力がないからであって、反抗しているからではありません。例えば、幼い子どもは「早くしなさい」と言われても何のことか分からないし、分かったとしても、自分の行動をコントロールする能力がありません。まだ自分をコントロールする大脳新皮質の働きが未熟だからです。そして、自分の能力以上のことを常に求められている子どもは自己肯定感を育てることが出来ない状態になります。それでもお母さんに叱られないように子どもは頑張ります。その結果、アクセルが押さえられ、ブレーキばかりが強くなってしまうのです。そのまま大人になると自己肯定感の低い大人になります。でも、子どもの成長と共にお母さんの支配力は弱くなります。特に、男の子の場合は思春期頃になるともうお母さんの体力じゃ押さえきれません。子どももお母さんを怖がらなくなります。すると、押さえ込まれることによって発生していたブレーキが消えていきます。でも、それまで自分の判断で行動してこなかったし、群れ遊びの体験もないので、「自分で自分を抑制する」という形でのブレーキ能力が育っていません。さらには、子どもの時に思いっきりふかしたかった「アクセル」をふかせないままだった欲求不満も溜まっています。かといって、自己肯定感は低いままなので、隠れたところで欲求不満を解消しようとします。このような状態にならないためには、幼児期はその行動を抑制するのではなく、むしろ思いっきりアクセルが全開に出来るような状態にしてあげることが必要なのです。ただし、だからといって「ファミレスで走り回らせてよい」ということではありません。「ファミレスに行くより、ハイキングなどに行って野山でお弁当を食べるようにして下さい」ということです。そして、そのような形で欲求が満たされている子は、たまにファミレスに行っても、「ここはお山じゃないから静かにしてね」と言えば、ちゃんとしていることが出来るのです。おかしな例えで申し訳ないのですが、「お便所」を与えられている子は、お便所以外の場所では排泄しません。でも、お便所が与えられていない子は、自分が出したい時に、出したいところで出してしまうでしょう。それと似ています。自己抑制能力が育つためには、思いっきり「自分らしさ」を発揮する(排泄する)ことが出来る「自由」と「場」と「仲間」が必要なのです。子どもの時に、「子どもらしい子ども時代」を過ごすことが出来た人が、大人になった時に「一人前の大人」(大人らしい大人)になることが出来るのです。子どもの時に大人のような行動と価値観を求められていると、逆に、「一人前の大人」になることが出来なくなってしまうのです。
2012.12.04
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先日あるテレビ番組で、「ゆで小豆」の柔らかさは砂糖を入れるタイミングで決まってしまう、ということを知って驚きました。砂糖を入れてしまったら、その後いくら煮込んでもそれ以上柔らかくはならないというのです。女性には当たり前のことなのでしょうが、それまで私はどんなものでも「煮れば煮るほど柔らかくなる」と思い込んでいましたから、結構驚きました。「料理」というものは非常に奥深いです。そして、よく考えると「子育て」とも非常によく似ているようです。例えば、材料として「魚・塩・みりん・酒・砂糖・ショウガ・醤油」などをつかった料理があったとします。じゃあ、それらをいっぺんに鍋に入れて煮れば、美味しいお料理が出来るのかというとそんなことはないですよね。また、出来上がったお料理に含まれる水や、調味料や、素材だけでもお料理は出来ませんよね。パスタを作る時にはパスタを茹でるために「捨ててしまう分の水」までも必要です。また、煮物をする時には水蒸気になって逃げて行ってしまう分の水も必要です。そういうものはいくら出来上がったお料理を調べても検出できません。考えようによってはそれらは「無駄なもの」なのかも知れません。でも、そのような「無駄」があるからこそ、美味しいお料理を作ることが出来るわけですよね。また、お料理では「寝かす」ということもしますが、結果を急ぐ人にとってはこれなども「無駄な時間」です。科学はこのような無駄を極力除こうとします。有名なことですが、美味しいお料理を作るためにはちゃんとした「サ(砂糖)・シ(塩)・ス(酢)・セ(醤油)・ソ(味噌)」に配慮した手順と、素材や調理内容に合わせたタイミングと時間が必要です。ちなみに女性はご存じのことだろうと思いますが、お料理には詳しくない男性のために「サシスセソ」の意味をウィキペディアから引用しておきます。 1.まず甘味はなかなか浸透しにくいので、砂糖を入れるのは早い方がよい。特に塩や醤油を先に入れてしまうと食材に甘味が付きにくくなる。 2.塩(塩水)は浸透圧が高く食材から水分を呼び出すため、煮汁の味を決める初期に入れる。 3.酢は早く入れ過ぎると酸味がとんでしまうので、調理進行を見計らって入れる。 4.醤油、味噌(またはソース、ソーダ)は風味を楽しむものなので、仕上がりに入れる事が望ましい。 なお調理酒・本みりんを入れる場合は砂糖よりも早く最初に入れ、みりん風調味料は味噌より遅く最後に入れる。 そして、子育てや仕付けにおいても、この「サシスセソ」のような要素を様々な順序やタイミングや時間で案配することが非常に重要になるのです。また、「無駄」も必要です。2,3才の幼児は、その「感覚の働き」において「外の世界」とつながっています。ですから、幼児期は感覚に働きかけるような関わりが必要になります。そして、この時期は強い刺激は避けることです。強い刺激は「小豆」を煮る時の砂糖のように、子どもの感覚を固くし、閉ざしてしまいますから。そして、毎日のように強い刺激を繰り返し与えられていると、子どもはかすかな刺激を感じ取る能力が育たなくなってしまいます。すると「優しさ」が育たなくなります。実は、「かすかな刺激を感じる能力」と「優しさ」はつながっているのです。この時期は、優しく、暖かく、柔らかく、心地よい感覚刺激が子どもの感覚を開かせ、感覚の育ちを支えてくれます。子どもの「優しさ」も育ちます。この時期までは「仕付け」は全く無意味です。「仕付け」と称して、いくら子どもを追い回してもよい結果を得ることが出来ないばかりか、逆に、余計に状態が悪くなるばかりです。何かしら問題行動があったとしても、それは生理的な現象ですから、生理的なレベルで問題を解決してあげないことにはその問題行動は消えません。あとは「自然現象」として受け入れるしかないのです。2,3才の幼児に落ち着きがないのは自然現象なんです。3,4才頃になると「からだの動き」によって「外の世界」とつながるようになります。ですから、飛んだり、走ったり、踊ったりというような活動を楽しむようになります。この時期にテレビやゲームと出会ってしまうと、その「からだを動かす」という欲求が萎えてしまう恐れがあります。「動く楽しさ」を充分に味わう以前に「見る楽しさ」を知ってしまうと、「動く楽しさ」が入りにくくなってしまうのです。ゲームは「小手先の動き」で「からだの動き」を代償させてしまうので、本当の「からだ」をうごかすことが億劫になってしまいます。また、視覚的・聴覚的に常に強い刺激にさらされていると、子どもは受け身的になり、能動的に活動することが出来なくなります。子どもが能動的に活動するようになるためには「退屈」が必要なのです。多くの大人が、子どもは小さい時からいっぱい刺激を与えると、脳が早く成長すると思い込んでいます。確かに、刺激を与えられることで脳は成長します。でも、問題は「脳のどの部分が成長するのか」ということなんです。「意思の育ちを支える脳」が成長すべき時に、「情報を処理する脳」ばかりが成長してしまうと、意思の育ちが阻害される恐れがあるのです。脳の成長にも順序と時期とタイミングがあるのです。「脳」は「お料理」のように成長するのです。それは進化の過程で育ってきた順序ですから、人間の都合で変えることは出来ないのです。
2012.12.03
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「仕付け」というものは本来社会的なものなのですが、最近の日本では、その「社会のつながり」が失われてしまったため、個人的なものになってしまいました。「仕付け」が社会的なものであった時には、それが子どもに厳しいものであろうと、また優しいものであろうと、子どもは不満を持たず、大人に従ったでしょう。なぜなら、自分のお母さんだけでなく、友達のお母さんも、他の人たちもみんな同じことを言い、同じことを守っていたからです。でも、それが個人的なものになった時、自分の母さんと友達のお母さんの言うことが違ってきました。あるお母さんは、外から帰ってきた時や、食事の前には絶対的に手を洗わせようとするのに、別のお母さんは、「まあ、そんなに汚いものを触ったわけではないし」とあまり気にしないこともあります。あるお母さんは、自由にテレビを見せ、ゲームをさせてくれるのに、別のお母さんはテレビやゲームを禁止しています。また、あるお母さんは食事の時はちゃんと椅子に座って食べるように言うのに、別の母さんは子どもの自由にさせています。子どもが他のお母さんのことを知らなければ、別にそれで済むのですが、子どもが仲間と遊ぶようになると必然的に他のお母さんとの関わりが生じ、自分の母さんとは異なることを言っていることに気付きます。すると子どもは混乱します。うちの子ども達も、小学生の頃、鉛筆の持ち方がおかしいので注意したのですが、なんべん言っても「みんなこうだから」というようなことを言いました。よその家では「鉛筆の持ち方」は「仕付け」には入っていないのでしょう。そんな時、子どもは自分に楽な方を選びたがります。そして、「○○ちゃんの家では、いつでもお菓子を食べていいんだよ。どうしてうちでは3時じゃなきゃだめなの?」などと言ってきます。自然育児を目指しているお母さん達が困るのもこの点です。自然育児を目指しているお母さん達は、共通してテレビやゲームに対しては否定的です。スナック菓子や牛乳やお肉に対しても否定的な人が多いです。そのため、多くの人が現代社会における一般的な常識とは異なった仕付けを行っています。それでも、子どもが幼稚園に上がる前や、同じような仲間が集まるような幼稚園に通っている間は、それはそれほど問題になりません。問題は、自分とは異なる価値観のお母さん達が多い幼稚園を選んだり、小学校に上がった時です。子どもは、今まで自分が禁止されてきたことを自由にやっている友達たちを見ると素直にあこがれるのです。ただし、ここで誤解してはいけないのは、子どもがあこがれるのは「テレビ」や「スナック菓子」そのものに対してだけでなく、その「自由な状態」に対してという要素が強いと言うことです。子どもは本能的に自由を求める生き物だからです。だから、それまで厳しく管理されてきた子ほどその反動として、他の子にあこがれます。そして、他の子を模倣しようとします。さらには、そのものとの関わり方を仕付けられていないので、その関わりは無制限になります。家でスナック菓子を一切食べさせてもらえなかった子が、幼稚園のお友達の家に行ってスナック菓子を食べさせてもらったら、その友達の分まで独り占めしてみんな食べてしまうようになってしまった、とか、テレビを一切見せてもらえなかった子が、友達の家でテレビを見たら、友達と遊ばないでズーッとテレビばかり見ているようになってしまった、という話は時々聞きます。そこに現代の仕付けの難しさがあるのです。お母さんがいくら「うちは厳しく仕付けよう」と思っても、子どもは周囲の子どもやお母さんを見て、自分の家と比較して、楽で、自由で、楽しそうな方を選んでしまうからです。さらには、厳しくしているお母さんほど、自分で考え、判断し、関わり方を学ぶ機会を与えていないので、子どもにその反動が表れた時には、そういうものを最初から与えられている子どもよりも過剰に反応してしまうことも多いのです。だから、仕付けをする時には、強制によってではなく信頼関係によって、義務としてではなく楽しい遊びとして仕付けた方がいいのです。そうすれば、反動が少なくなるのです。そして、ゼロにしようとするばかりでなく、避けようのない状況なら、逆に「関わり方を教える機会だ」という気持ちも必要になるのです。
2012.12.02
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昨日、最近のお母さん達が子どもに求めている仕付けは「手を洗う」などの「個人的なもの」ばかりですが、昔のお母さん達が子どもに求めた仕付けは「人と共に生きるため」のものでした。ということを書きました。古代の人と現代人とでは価値観もライフスタイルも異なります。ですから当然「仕付け」の内容も異なります。また、同じ時代に生きていても、国や文化や民族や地域が違えば価値観やライフスタイルも異なるので、「仕付け」の内容は異なります。例えば、日本人は人間関係に応じて言葉の使い方を変える文化を持っています。目下と話す時、仲間と話す時、目上と話す時は違う言葉遣いをするのが本来の日本語のあり方です。ですから、昔から「言葉の使い方」をきちんと教えるのは非常に重要な「仕付け」でした。この言葉の使い方によって、日本人の日本人らしい社会が維持され、人と人のつながりが支えられてきたのです。でも、その「日本人らしい人と人のつながり」が喪失してしまった現代社会では、「言葉遣い」を「大切な仕付け」として考えている人は多くないでしょう。実際、お母さんやお父さんに対して、友達のような言葉遣いで会話する子ども達もいっぱいいます。今では、「言葉遣い」よりも「手を洗わせる」ことの方が重要な「仕付け」になってしまっています。確かに、英語においては、日本語と違って、あまり人間関係によって言葉遣いを変えることはありません。(全然ないということではないようですけど)ですから、アメリカなどのように英語を母国語とするような社会では「言葉遣い」は「仕付け」の中には入っていないのではないかと思います。今の日本人は、その「アメリカ流」を真似しているのでしょうか。うちの教室にも、アメリカ流に母親の名前を呼び捨てにしている子どもがいます。でも、そのアメリカでは、子どもであろうと公共の場所における勝手な振る舞いに対しては厳しく仕付けています。日本の社会は「文化」というものを共有することによって支えられてきました。それに対して、アメリカの社会にはその「共有すべき文化」がないので、「ルールを守る」ということによって支えられているのです。ですから、「ルールを守る」ということを教えることが非常に大切な「仕付け」になっているわけです。日本では「言葉遣い」を教える段階で、間接的に、人間関係や、人と人との関わり方を教えていましたが、アメリカではそれをもっと直接的に教えているわけですそして、日本人は言葉だけはアメリカ流の使い方をするようになりましたが、「ルールを守ることを伝える」という「仕付け」は取り入れませんでした。日本人はアメリカから「個人の自由」とか「個人の権利」ということを学びましたが、それに伴って求められる「個人の義務」とか「個人の責任」には関心を持たなかったのです。それは、戦争中、自由や権利は奪われ、義務や責任ばかりを押しつけられてきた苦い記憶があったからかも知れません。その結果としての現代人は、束縛されることが嫌いです。テレビなどで若者の考えを聞いていると、みんな義務を押しつけられることや、束縛されることに対して強い嫌悪感を持っています。「ルールを守る」という当たり前のことでさえ「束縛」と感じ、拒否しようとする人がいっぱいいるのです。フリーターや派遣で生活している若者が多いのも、「就職が困難だから」ということだけでなく、「そのような生き方の方が気楽だから」という理由もあるようです。だから、正社員になっても、「義務」を押しつけられると苦しくなってすぐに辞めてしまう若者がいっぱいいるのです。「今の若者は辛抱が出来ない、我慢が出来ない」と言われますが、それもまた「束縛」を嫌う感覚とつながっています。本来は、「ルールを守る」ということは「束縛されること」とは違うことなのですが、「群れ遊びの場」のような、「ルールを守ることによって支えられるつながり」の体験がないまま成長してしまった若者達には、「ルール」の意味も価値も分からないのです。そして、だから「自分を守ること」ばかりに一生懸命になってしまうのです。確かに国や文化が違えば「仕付けの内容」も異なります。でも、「人と共に生きるためのもの」ということに関しては古今東西みんな同じなのです。実は、「箸の上げ下ろし」や、「立ち居振る舞い」や、「挨拶」といった「仕付け」も、みんなが心地よく共に生きるためのものだったのです。そして、それが「仕付け本来の意味」なのです。でも、現代日本では、「子どもを親の価値観に従わせる」のが「仕付け」の目的になってしまっています。束縛から逃げようとする人は、他者を束縛しようとするからです。「引きこもり」も、見方を変えると、「自分の自由」を得るために親を束縛する行為です。その結果、ますます束縛を拒否する若者が増えています。そして、「仕付け」と称して子どもを束縛しようとしている人も増えています。
2012.12.01
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