全30件 (30件中 1-30件目)
1
束縛のない状態を自由であると考える人も多いですが、私が考える自由とは、選択肢をいっぱい持っていて、且つその選択肢を選び、実行する能力を持っていることです。今日はそのことを「からだ」について書いてみます。人は自分のからだを無意識に使っています。ほとんどの場合、「からだ」は自動的に動く機械のように、反応によって自動的に動いています。感情も同じです。感情はからだの状態が作り出しているので、からだが反応によって自動的に動いているだけの人は、感情もまた自動的に発生しています。子育てにおいて、子どもを怒らないように頑張っているお母さんはいっぱいいます。でも、人間は怒らないようにしていると余計にイライラしてくるものです。心が「楽しむモード」ではなく「我慢するモード」になってしまっているからです。その「我慢するモード」の時には、人はからだを固めています。そのため、首も肩も、腰も、背中も、お腹も固くなっています。そして、人はそのような状態の時には、ただ反射だけで感じ、考え、行動しています。心の余裕がないからです。からだに余裕がない人は、心にも余裕がないのです。そんな時は、怒らないように我慢するのではなく、固まってしまっている自分のからだに意識を向け、ゆるめてあげることです。すると、からだにゆとりが生まれます。すると、心にもゆとりが生まれます。でも、この「ゆるめる」というのはなかなか難しいものです。人は「ゆるめよう ゆるめよう」と意識するほど固くなってしまうからです。それは人前で話などをする時に、「あがらないよう あがらないよう」に意識すればするほど上がってしまうのと同じです。ではどうしたらいいのかというと、普段とは違う動きをゆっくりとやってみることです。人間は普段とは異なる動きをしようとする時、意識の働きによってからだに意識的に動かそうとします。そうしないと、普段とは異なる動きをすることが出来ないからです。そして、人間のからだは、意識が通ることで柔らかくなるように出来ているのです。逆に言うと、からだが固い人は無意識的にからだを使っている人です。そのような人の感覚は鈍いです。緊張したり、あがってしまってからだが固まるのは、意識が「からだ」から離れて、「心」に捉われてしまうからです。深呼吸するとからだが緩むのは、深呼吸することで意識が「からだ」に戻ってくるからです。<続きます>
2012.04.30
コメント(2)
今日は、お母さん業界新聞(湘南版)用に書いた文章を転載させていただきます。************「夫婦の意見が異なる時」 まず、最初に言っておかなければならないことは、どこの夫婦でも意見は違うものです。自分の所だけが違うわけではありません。それは、当然のことながら性別も違うし、役割も違うからです。夫婦が全く同じ意見だったら、夫婦でいる楽しさがなくなってしまいます。 夫婦という関係以前に男性と女性も異なった意見を持っています。性別が違えば感覚も、感じ方も異なるのでそれは当然のことなのです。現代社会はその違いを無視していますが、人間はもともと同じ教育を受け同じ環境で育っても、男性と女性は異なった考え方を持つように出来ているのです。だからこそ夫婦になる意味があるのです。 ですから、子育てや原発の問題などに関して、結果論的には同じ意見でも、その意味するものや目的は異なるものです。 例えば、夫婦で共に「原発反対」を訴えていても、女性の方は「子どものため」であり、男性の方は「人類の未来のため」かも知れないというようにです。時に「原発賛成」の男性もいますが、そのような人もまた「人類の未来のため」という視点で賛成しているのかも知れません。(ただし、一部のお金目当ての人を除きます。) それを「どちらが正しい」という議論に持って行ってしまうから話がおかしくなるのです。 子育てのことについても、女性は今現在の子どもの心やからだのことを心配し、男性は将来の生活のことを心配する傾向があります。(単にそのような傾向があるというだけで、全ての女性や男性がそのように考えるということではありません。念のため・・・。) その際、同じ「子どものため」でも、考えている内容が異なるのですから、結果として子育ての方法も異なってきます。 でも、ここで大切なことは両者とも「子どものために考えている」ということなのです。このことを忘れてしまうから「子どもの問題」が、子どもを置き去りにした「夫婦の問題」に発展してしまうのです。 違いから議論を始めるのではなく、お互いの意見が一致しているところをまず探すのです。そして、その一致点を忘れないようにしながら、そこから議論を始めるのです。 これは子どもの問題で幼稚園や学校の先生と話し合いをする時も、趣味の集まりで話し合いをする時も同じです。 その話し合いが成り立たないような場合は、相手を説得しようとせず、自分の立場で、自分に出来ることをしっかりとやることです。相手を無理に説得しようとすると、相手も無理に説得しようとしてきます。 子どもは幼い頃は母親の考えを理解し、思春期頃から父親の考えを理解します。どちらも正しいのです。だから、「どちらが正しいのか」ではなく、「どのように補い合うことが出来るのか」という視点で考えるのです。男性と女性は補い合うために結婚するのですから。
2012.04.29
コメント(7)
私の子育て観や教育観を支えている根柢の価値観は非常にシンプルです。それは「子育てを楽しむことが出来る人間を育てる」ということと、「幸せに生きることが出来る人間を育てる」ということです。それ以外はありません。成績を良くするとか、良い子に育てるとか、高い能力を身につけさせるとか、そういうことには私は関心がありません。なぜなら、子育てを楽しむことが出来ない人、幸せに生きることが出来ない人が増えてしまった社会は内部崩壊してしまうからです。どんなに頭がいい人がいっぱいいても、どんなに物質的に豊かでも、子育てを楽しむことが出来ない人、幸せに生きることが出来ない人が増えてしまったら、社会は崩壊してしまうのです。なぜなら、そのような社会では子どもたちが生きる希望を見出すことが出来ず、成長を諦めてしまうからです。子どもたちが希望を持つことが出来ない社会に未来はないのです。そして、子どもにとって最大の希望は「大人たちが幸せに生きている」ということなのです。お母さんもお父さんも頭が良くて、美男美女で、かっこよくて、おしゃれで、お金持ちで、社会的に成功していても、もし幸せに生きていないのなら子どもは自分の人生に希望を持つことが出来なくなってしまうのです。そのような「幸せに生きることが出来ない大人たち」は、お金をかけて子どもたちに希望を託しますが、幸せに生きていない大人を見ている子どもたちが希望を持つことはかなりの困難なんです。その大人の姿こそが「自分の未来」だからです。また、希望を失った社会では、心の育ち、からだの育ちにゆがみを持った子どもたちも増えていくでしょう。希望によって支えられた成長への意志が、子どもの心とからだの育ちを支えているからです。人間の成長には「希望」が必要なのです。それが「人間」という生き物の特性なのです。そして希望に満たされた子は心もからだも真っ直ぐに育っていくのです。そのような子には道徳教育など必要がありません。だから、「子育てを楽しむことが出来る人間」、「幸せに生きることが出来る人間」を育てる必要があるし、また私たちも子育てを楽しむ必要があるのです。「楽しむ能力」こそが「幸せに生きる能力」でもあるのです。
2012.04.28
コメント(2)
幼児はまだ汎用的で、柔らかい状態の能力を、用途に合わせて特殊化(固定化)させることで、環境に適応していきます。生まれたばかりの赤ちゃんは、世界中の言葉の音を認識し、発音する可能性を持っています。でも、アメリカで英語を話す人たちの中に生まれた子は、英語の音を認識し、発音する機能だけを発達させ、英語にはない音を認識したり、発音する機能は捨ててしまいます。必要のない能力を持っていても、脳の無駄だからです。日本で日本語を話す人たちの中に生れた子は、日本語を認識し、日本語を発音する機能だけを発達させ、その他の音を認識する機能を捨ててしまいます。だから日本人はLとRの区別がつかないのです。フランス人は「ヒ」の音が認識できないみたいで、私の名前の「ヒデオ」を何べん繰り返しても「イデオ」としか発音できませんでした。ですから、能力を特殊化するということは、能力の用途を限定するということであり、それはつまり脳の使い方を限定するということでもあるわけです。そのため、幼児期に身に付けた特殊化された能力は、それ以降に学ぼうとすることに対して選択的、排他的に働きます。これは、思春期以降に何かを学ぶ場合とは全く異なります。例えば子どもの時に、A・B・Cという三つの能力を育ててきた人が、思春期以降にDという能力を身につけようとする時には、この人はA・B・Cの能力を組み合わせ、応用することでDという能力を獲得しようとします。大人になってから英語を学ぼうとする人は日本語を手掛かりに英語を学んでいきますが、そういうことです。その結果、この人は日本語も英語も理解できるようになります。それはつまり、A・B・Cの能力にプラスしてDという能力も獲得したということを意味しています。ただし、A・B・Cの組み合わせで処理できないDの機能については基本的に無視されます。子どものうちなら、その時点で新しいDという要素を学ぶことも可能ですが、大人になってから、全く新しい能力を身につけるのは非常に困難です。つまり、大人になってから英語を学んだ人の英語は、決してその人の日本語の能力を越えることはないということです。逆にいえば、高い日本語能力を持った人は、高い英語能力を身につけることが出来る可能性も持っているということでもあります。でも、A・B・Cという能力が成長する以前の幼児期に、Dという能力を求められた子どもはまず、Dを処理する能力だけが発達します。そして、その後に学ぶことは、このDを応用することで学ぼうとします。そのため、A・B・Cを処理するために必要な能力の方が、Dを処理するために必要な能力よりも大きい場合、まずA・B・Cから学ばないことには困ったことになります。最初にDを学んでしまい、能力がD対応に特化してしまうと、それよりも大きな能力を必要とするA・B・Cを学ぶことが困難になってしまうからです。それは、家を建てる場合、最初の土台を大きく作れば、その上に小さなうわ物を建てるのは簡単ですが、最初の土台が小さいと、その土台を超えるうわ物を建てるのが困難になってしまうのと同じです。だから、「何を最初に学ぶのか」という順序が非常に重要になるのです。そしてだからこそ、子どもはまず、汎用的な能力から学ぶ必要があるのです。例えば、最初に「暗記力によって色々なことを処理する能力」を身に付けてしまった子は、「考える力」を育てることが困難になります。ほとんどの場合、考えなくても記憶で対応できてしまうからです。でも、最初に考える力を育てた子は、後からでも記憶力を伸ばすことは可能です。「考える能力」では「記憶する能力」の代用が出来ないからです。また「考える能力」の方が、「記憶する能力」よりも高度であり、応用範囲も広いです。最初に英語を学んだ子が、大人になってから日本語を学ぼうとする時には、英語を手掛かりに日本語を学んでいきます。でも、そのような人の日本語は英語的です。子ども時代に、英語も日本語も中途半端にしか学ぶことが出来なかった子は、その後、一生懸命に頑張っても、日本語も、英語も中途半端なままになってしまうでしょう。「言葉を処理する能力」そのものが充分に成長することが出来ないからです。小さい時から英会話教室に通っても、英語の本を読み、毎日の日常生活の中で英語を使っていないのなら、その子の英語は発音がいいだけで中味のない英語になります。逆に、幼児期から英語など学ばなくても、しっかりとした日本語を学んだ子が、中学に入ってから一生懸命に英語を学び始めたら、発音がいいだけの子を簡単に追い抜いてしまいます。「言葉を処理する能力」が育っているからです。ただ、発音だけはかなわないと思いますが、相手は発音ではなく、内容に耳を傾けるので、内容がしっかりとしていなければ、どんなに発音が良くても相手にされません。それが「言葉」というものです。言葉の本体は「内容」であって、「発音」ではないのです。子ども時代に、より汎用性の高い能力を身に付けた子は、大人になってから学ぶことが出来る範囲が広くなるのです。そのような子は、世界を広く、自由に生きていくことが出来るでしょう。でも、幼児期に特殊化され、限定された能力しか育てることが出来なかった子は、大人になっても狭い世界の中でしか生きていくことが出来ません。子どもの時には(特に幼児期)、どんな能力でも育てることが出来るのですが、その子ども時代を過ぎてしまうと、人間はすでに自分が持っている能力を組み合わせ、応用する形でしか新しことを学ぶことが出来ないのです。欲が深い大人は、その幼児期の「どんなことでも学ぶことが出来る能力」に目がくらみ、子どもに特殊な能力を身につけさせてしまうのです。でも、最初に特殊な能力を身につけてしまった子は、それ以降、その特殊な能力が生かせるようなことしか学ぶことが出来なくなってしまいます。それはまた、その能力の中では自己肯定感を感じることが出来ますが、それ以外の能力が必要な場では無力でもあるからです。だから私は早期教育に反対しているのです。ただし、「早期教育をしなければOK」ということではありません。何も学ぶことが出来ないままの子は、「学ぶ能力」そのものを得ることが出来ないまま成長することになってしまうからです。幼児期に日本語を母国語として学んだ子の脳は「日本語用」になります。英語を学んだ子は「英語用」になります。でも、何語であろうと「言葉」というものを学ぶことが出来なかった子は、「言葉」を学ぶ能力自体が育たなくなってしまうのです。幼児期からテレビやゲーム漬けの生活をしたり、狭い部屋の中や小さな公園で一人だけで遊んでいるような生活の繰り返しでは、新しいことを学ぶための基礎能力自体が育たないままになってしまうということです。それならばまだ早期教育を受けた子の方が能力的には高くなるでしょう。なぜなら、たとえそれが限定された能力であっても、その応用範囲内でなら、新しいことを学ぶことが出来るからです。その延長に夢や希望を持つことも出来るでしょう。それに、早期教育においては大人との関わり合いもあるので、大人と関わる能力も育っていきます。でも、孤独な子は、学ぶ能力も、夢や希望も持つことが出来なくなります。
2012.04.27
コメント(4)
<告知です> 「遊びの会」という活動を4月29日(日)から始めます。 幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。 詳しくは<チラシ>をご覧になってください。*************************人間は自然の一部ですから、自然が持っているリズムと共鳴するリズムを持っています。そして、そのリズムによって支えられています。でも、あまりにも人工的な環境の中だけで暮らしていると、自然との共鳴が失われ、生命を支えている自然のリズムを失います。それでも、時々自然と触れ合うことでそのリズムを取り戻すことができます。だからこそ、自然には癒しの効果があるのです。瞑想もまた同じです。瞑想はリズムを整える方法です。でも、最近自然の中に行っても自然と共鳴できないからだの人が増えてきました。そのような人は、からだのリズムの基礎が形成される幼児期を人工的な環境の中だけで過ごした人なのではないかと思います。機械やテレビなどの様々な人工的なメディアは共通したリズムも、また私たちのからだと共鳴するリズムも持っていません。ですからそれらに取り囲まれていると、不自然で無秩序なリズムにさらされることになります。また、現代人の生活自体も自然のリズムを無視しています。幼児期にそのような状態の中だけで生活していると、子どもの心とからだは機械や様々なメディアのリズムに適応してしまい、自分の心とからだを支える基本的なリズムを獲得することが出来なくなってしまいます。その結果、機械の操作は得意になります。人工的な環境の中でもストレスを感じなくなります。環境への適応が起きるからです。そして、現代社会では多くの大人が子どものそのような状態を好意的に受け止めています。昨日も朝のテレビで自由にiPadを使いこなす2,3才児の話題を取り上げていましたが、その番組に出てくる大人がみんな子どものたちのその状態を「すばらしいこと」として語っていました。その中で、一人の人が「今の子どもたちはすごい」などと言っていましたが、これは単なる適応であって、現代の子どもたちの能力が昔の子どもたちの能力よりも高くなったわけではありません。10万年前の赤ちゃんをタイムマシンで連れてきて、iPadを与えても同じように使いこなせるようになるのです。人間の子どもは幼児期の間に、自分が生きてゆかなければならない生活環境に合わせてリズムや様々な能力を調整するように出来ているのです。それは見方を変えると、「環境に合わせて特殊化する」ということでもあります。そして、特殊化することで、その他の能力は不要なものとして切り捨てられてしまいます。言い換えると、その他のものを無駄なものとして切り捨てることで「特殊化」が成り立つのです。鳥は、空を飛ぶために特殊化されています。だから自由に空を飛ぶことが出来るのですが、その代償として自由に大地を走り回る能力を失いました。ピューマは早く走るために特殊化されています。でも、猿のように自由に手を使う能力は失いました。文明人は人工的な環境の中で生きていくために特殊化されていますが、自然の中で生きていくための能力は失いました。その「自然」には「仲間」や「子ども」も含みます。特殊化するということは「得ること」であると同時に、「失うこと」でもあるのです。でも、人間だけがその能力を特殊化することなく進化してきました。だからこそ逆に、何でもできる存在になったのです。人間の人間らしい能力とはその「何でもできる能力」なのです。それなのに、いやそれだからこそ? 人間は特殊化された能力に魅力を感じるようです。オリンピックはその特殊化された能力を競う場です。そして、学校もそのような場になってしまっています。でも、その能力は生活を楽しみ、人間として生きていくためには全く無用です。人間は、生まれた環境や教育に合わせてその能力を育てることが出来るという点で、無限の可能性を持って生まれてきます。でも、幼児期に特殊な能力だけを必要とするような偏った生活をしていると、能力もまたその生活に合わせて特殊化してしまいます。その結果その分野においては高い能力を得ることが出来ますが、それと引き換えに人間として自由に生きていくための可能性は失われることになります。早期教育が行っているのはその「特殊化」です。そして、iPadもまた特殊化された能力を育てます。ですから確かに偏った分野での非常に高い能力を得ることは出来るのですが、その能力の代償として失うものも大きいのです。まず、幼児期に形成される「心とからだのリズム」がその人の自律神経や新陳代謝を支えているので、幼児期に自然とつながったしっかりとしたリズムを獲得することが出来なかった子は大人になっても、身体的、精神的に不安定になります。それは「理由のない不安感」を作り出します。どんなに機械の操作が上手になったとしても、人間そのものは機械ではなく、自然に属しているのだという事実は変えようがないのです。また、機械とは心を通わせ合う必要もないので、機械とばかり触れ合った生活をしていると、「心を通わせ合う能力」が育たなくなります。また、当然のことながら人間と関わり合う能力も育ちません。他者を機械のように操作しようとするばかりで、他者と「対等の関係」で関わり合うことが出来ないのです。確かに能力を特殊化することで、良い成績を得、良い学校に入り、良い就職先に努め、社会的には成功することも可能です。でも、心を通わせ合うことが出来る仲間や、お互いに支え合うことが出来るパートナーを得ることは困難になるでしょう。また、子育ても困難になるでしょう。生きていることに喜びを感じることも難しくなるでしょう。今、そんな人がどんどん増えています。だからこそ、幼児期に育てるべきなのは「特殊化された能力」ではなく、どんな状況にでも対応することが出来る、「心とからだの基礎能力」なのです。それは、楽しむ心、工夫する心、つながりを喜ぶ心、発見や学びを喜ぶ心、からだを動かし、チャレンジすることに喜びを感じる心などです。これらの能力を育てることが出来た子は、人生のどんな困難な状況をも乗り越えていくことが出来るでしょう。そして、子どもがそれらの能力を獲得するためには大人が子どものリズムに寄り添ってあげることが必要なのです。生活のリズムを整え、いっぱい自然のリズムと触れ合うことで、子どもはそのリズムを通して自分の能力を育てていくのです。
2012.04.26
コメント(5)
人間はあせれば歩く速さも、話す速さも、呼吸も早くなります。心が落ち着いている時には歩く速さも、話す速さも、呼吸も落ち着きます。元気がある時にはそのリズムが強く安定し、元気がない時には弱く不安定になります。このような現象は、からだだけでなく心にも起きています。「心のリズム」というのは分かりにくいですが、心にもリズムがあるのです。「心のリズム」が早い人は反応は早いですが待つことが苦手です。ちなみに、一般的に男性よりは女性の方が、大人よりは子どもの方が速いリズムを持っています。そして、リズムがゆっくりな人は考えながら、感じながら行動するのに対して、リズムが速い人は感覚的、直感的に行動します。そのリズムは、昨日書いたように気質ともつながっていて、人それぞれに自分固有のリズムを持っているものです。でも、子育てや仕事の場では自分のリズム通りに考え、感じ、行動することが出来ません。どうしても相手に合わせなければならないからです。だからストレスが溜まるのです。特に子育てでは一日中、ズーッと子どもにリズムを支配されてしまいます。仕事の場合は結果のリズムだけを合わせればいいのですが、子育てでは過程のリズムまで支配されてしまうのです。つまり、仕事では「○○時までにこれを仕上げてくれよ」と言われれば、○○時までの時間配分は自分で決めることが出来ます。でも、子育てではズーッと子どものリズムに合わせながらお料理を作り、お掃除や買い物をしなければなりません。時間配分を自分のリズムで決めることが出来ないのです。だから苦しいのです。子育ての苦しさは「仕事の量」ではなく、子どもに振り回されてしまうことによって、自分のリズムを失ってしまうことから生まれているのです。でも、男性は「仕事の量」しか見ません。そして、「仕事の量」だけを比較したら、家庭内での仕事よりも、会社での仕事の方が多いです。さらに、お母さんは昼寝までしています。(しない人もいるとは思いますが)昼寝によって「自分のリズム」を取り戻そうとしているのですが、男性は「お気楽だね」と感じます。ちなみに、人が疲れるのは仕事の量が多いからだけではありません。量は少なくても自分のリズムを破壊されるとものすごく疲れるのです。ちなみに人を洗脳する時には徹底的にその人のリズムを壊します。朝起きる時間を毎日変えたり、その人固有の歩く速さや話す速さなどを否定してしまいます。すると、からだの中のリズムが壊れ、精神が異常な状態になります。リズムが壊れると自分の頭で考え、自分の感覚で感じることが出来なくなるのです。時に、孤独の中で子育てをしているお母さんが、このような状態になってしまっています。そのような状態の時に強い感情的な方法で「何か」を教え、その「教え」を守っている時だけリズムを安定させてあげると、「リズム」がご褒美になり、その「教え」に染まっていきます。自分固有のリズムでなくても、不安定なリズムよりは安定したリズムの方が安心するのです。スロウテンポが好きな人でも、デタラメなリズムよりも、ちゃんと整ったアップテンポの方が落ち着くのです。DVを受けていながら逃げないのは、その押しつけられた新しいリズムを捨てることで、デタラメなリズムが戻ってきてしまうことを恐れているからです。一度「自分固有のリズム」を失うと、それを取り戻すのは非常に困難なんです。実は、このリズムの問題は人間の精神や意識や認識にとって非常に大きな意味を持っているのです。「リズム」は単なる「音楽」の一要素ではないのです。人間はリズムを持っていないものを認識することが困難なんです。逆に、物事を認識しようとする時にはその対象の中に「リズム」を探します。聴覚的な音楽にはもちろんリズムがあります。でも、視覚的な絵画や彫刻にもリズムがあるのです。下手くそな作品はそのリズムがしっかりとしていません。それだけではありません。私たちが人や物を見たり、風景を見たり、言葉を聞いたりして何かを認識しようとする時には、その対象の中にまず「リズム」を探すのです。四角形を「四角形」と認識し、三角を「三角」と認識することが出来るのは、その形が含んでいるリズムを感じることが出来るからです。「ケヤキの木」と「松の木」の形の違いは「リズムの違い」なんです。「しあわせ」と「くやしい」という言葉を日本語を全く知らない人に聞かせて、どっちが「しあわせ」という意味で、どっちが「くやしい」という意味なのか聞いたとしても、その語感の違いからちゃんと選ぶことが出来るでしょう。その認識の際にもリズムが関係しているのです。では、その「自分のリズム」を失わないためにはどうしたらいいのかということです。そこで「楽しむ」ということが必要になるのです。人は、楽しもうとする意識の時には「自分のリズム」を失わないで済むのです。だから、同じ仕事をしていても、「楽しもう」と思っている人はそれほど疲れませんが、イヤイヤやっている人は非常に疲れます。
2012.04.25
コメント(0)
昨日は「現代人は自分のリズムを見失っている」と書きました。全ての生命にとって、この「リズム」は本質的な要素です。生命はリズムによって支えられ、そのリズムを作り出しているのが生命の働きでもあります。ですから「生命を受け継ぐ」ということは「生命のリズムを受け継ぐ」ことでもあります。そのリズムの調子が狂うと、心の調子も、頭の調子も、からだの調子も狂います。そして、人にはそれぞれ「自分固有のリズム」があります。人はそのリズムが安定している時、外の世界に意識を向けることが出来ます。生命のエネルギーにゆとりが生まれるからです。でも、そのリズムが狂っている時には、生命のエネルギーはリズムを回復する方に向けられてしまうため、意識もまた外側ではなく、内側に向かうことになります。そのため他者を受け入れることが出来なくなります。自分の生命の働きを守るのに精いっぱいになってしまい、他者のことにまでエネルギーを使う余裕がなくなってしまうのです。これは、心や、かからだや、生命の働きを、国や政治に置き換えてみるとよくわかります。平和で安定した社会や国では色々な分野での循環が安定しています。人の循環、知識や技術の循環、物の循環、生命の循環が安定しているのです。それがその社会や国のリズムを作り出しています。そして、そのような安定した社会や国においては他者に対する共感も高いし、他者を受け入れることに対しても寛容です。自分の社会や国にゆとりがあるからです。でも、人の循環、知識や技術の循環、物の循環、生命の循環に乱れが生じている社会や国では、人々の意識は「自分を守ること」ばかりに向けられるようになり、他者に共感することも、他者を受け入れることも出来なくなります。今、世界中の国々がそのような状態になりつつあります。そのような社会や国では保守的、右翼的な勢力が強くなります。リズムが狂ってくると、個人では自己中心的になり、社会や国は保守的、右翼的になるのです。このリズムはまた「気質」とも関係しています。多血質のリズムは軽やかで多様で楽しいです。そして、他のリズムに合わせて変化することも出来ます。胆汁質のリズムは力強いけれど単調です。そして、他のリズムに強い影響を与えます。憂鬱質のリズムは弱く、不安定です。そのため、他のリズムの影響を受けやすいです。粘液質のリズムは強くも弱くもなく単調ですが、非常に安定しています。ですから他のリズムの影響も受けにくいし、他のリズムに影響を与えることも少ないです。ですから、リズムという点で見ると多血質と憂鬱質は比較的似ています。それはつまり、多血質のエネルギーが低下すると憂鬱質的な状態になりやすいということです。多血的な女性が、妊娠と子育て中に憂鬱質的になりやすいのはそのためです。でも、本来の憂鬱質の人はその状態でも耐えることが出来ますが、多血質の人がその状態になると、非常に苦しくなります。心とからだがそのリズムに慣れていないからです。胆汁質と粘液質も似ています。胆汁質のエネルギーが低下すると粘液質的な状態になりやすいです。ライオンが獲物を追いかけている時には胆汁的で、お腹がいっぱいになると粘液的になるようなものです。お腹がいっぱいになると生命エネルギーは消化の方に向けられてしまうため、からだを動かす方のエネルギーは低下するのです。そしてリズムが粘液的になります。でも、「自分のリズム」を失うと、どの気質の人でもリズムが不安定になり憂鬱質的になります。そして、機械のリズムや組織のリズムに合わせて動いている現代社会は、人間に対して「自分のリズム」や「生命のリズム」を破壊するように働きかけています。その結果、現代人は「自分のリズム」も、「生命のリズム」も、食のリズムも、生活のリズムも、からだのリズムも、感覚のリズムも、一日のリズムも、成長のリズムもみんな崩れてしまっています。だから不安ばかりが強くなってしまっているのです。
2012.04.24
コメント(2)
子育ての分野では「子どもを受け入れて下さい」ということがよく言われています。でも、そのような言葉に対して、「子どもの言うことばかりを聞いていたら、子どもがわがままになってしまう。子どもを甘やかしていいことなどない。」と反論する人がいます。特に、自分自身が受け入れられてこなかった人ほど、そのように言い張ります。そして、「厳しく育てられてきたからこそ今の自分があるんだ」とも言います。でも、その言葉を裏返せば、「本当は私はだめな人間だ」、「子どもは未熟でダメな存在だ」ということでもあります。でも、今日はこの問題には深入りしません。今日は、この「受け入れる」ということについて考えてみます。そんな風に「受け入れる」ことに強く異論を唱えなくても、「受け入れる」ということの意味が分からない人はいっぱいいます。というか、そのような人の方が多いような気がします。そのような人の多くは、感覚的には受け入れてあげたいと思っています。それは、子どもを否定していてばかりいては子どもとの信頼関係を築くことが出来ないし、子どもも自己肯定感を育てることが出来ず、元気を失ってしまうということを感覚的に知っているからです。でも、「どうしたらいいのか」が分からないため、「受け入れる=言いなりになる」というように解釈してしまい、子どもの言いなりになってしまっているのです。そのように対応していると、トラブルは避けることが出来るし、子どももその時は喜びます。そのため、そのような関わりあいをしていると子どもとの信頼関係を育てることも出来るし、子どもも生き生きと育つと思い込んでしまうのでしょう。でも実際には、そのような子育てを続けていると、「受け入れ否定派」の人たちが言うように、子どもはどんどんわがままになっていきます。そのため、ご主人や姑などから、「子どもを甘やかすな」などと強く言われるようになります。実は、「子どもを受け入れる」ということは「言いなりになる」ということとは違うのです。それは昨日の「死を受け入れる」ということとも同じです。「死を受け入れる」ということは、「じゃあ死にましょう」と簡単に死んでしまうことではありません。そうではなく、死ぬときに後悔しないように「今」を精いっぱい生きるということなのです。「子どもを受け入れる」ということは、子どもの短所も長所もちゃんと見て、毎日の子どもと一緒の生活を楽しむことです。子どもを厳しく管理しようとする人は子どもの「短所」ばかりを見ています。子どもを甘やかしてしまう人は「長所」ばかりを見ています。でも、子どもを受け入れるためには、短所も長所も全部含めた「子どもの丸ごと」をちゃんと見てあげる必要があるのです。自分の価値観に合わせて子どもを見るのではなく、子どもの成長に即した形でありのままの子どもの姿をちゃんと見てあげるのです。そして、子どもとの生活を楽しむのです。それはつまり、「子どもを受け入れる」というのは「方法の問題」ではなく、お母さんの「意識の問題」だということです。ですから、「どうやって子どもを受け入れたらいいのでしょうか」と聞かれても答えることは出来ません。それは「どうやったら絵を描くことを楽しむことが出来るのでしょうか」という質問と同じなのです。方法を聞いて、方法に従って絵を描いても楽しくなるはずがないのです。幼い子どもたちは「方法」にこだわらないからこそ楽しく描くことが出来るのです。方法に従って子育てをしている人は、「子ども」を見ないで、その「方法による結果」ばかり見ています。だから楽しくないのです。じゃあ、「どうしたらいいのか」ということですが、「子どもを受け入れる方法」は提示できませんが、「自分」を「子どもを受け入れることが出来る状態」に変える方法がないわけでもありません。子どもを受け入れることが出来ない人、子育てや様々なことを楽しむことが出来ない人の一番大きな特徴は「自分のリズム」を見失ってしまっているということです。人は「自分のリズム」を見失うと、他者と心を通わせることが困難になり、楽しむことが出来なくなってしまうのです。これは子育てだけの問題ではありません。子育てを楽しむことが出来る人は、子育て以外のこともまた楽しむことが出来るのです。子どもを受け入れることが出来る人は、子ども以外のものも受け入れることが出来るのです。逆に、子育てを楽しむことが出来ない人は、子育て以外のことも楽しむことが出来ないのです。子育てを受け入れることが出来ない人は、子育て以外のことも受け入れることが出来ないのです。そのような人は「楽しませてくれるもの」に依存しようとばかりします。それは、その人の心やからだの状態がそのようになっているからです。だからこそ「方法」では問題を解決することが出来ないのです。そして、そこに「自分のリズム」という問題が隠れているのです。そして今、ほとんどの現代人が「自分のリズム」を見失ってしまっています。
2012.04.23
コメント(6)
「自由」の問題を考えていたら、「死」に行き当たりました。もしかしたら人間が自由に生きたいと願うのは「死」という現実を知っているからなのではないかということです。「自分はやがて死ぬ」という事実を肯定的に受け入れている人は、自分が生まれてきた意味を知りたいと思うでしょう。そして、生きていることを楽しみたいと思うでしょう。その場合の「自由」とは、「束縛からの自由」ではありません。「死」は「絶対的限界」だからです。逆に言うと、「死」という限界、すなわち「束縛」を肯定的に受け入れないことには絶対に「自由」はやってこないということです。束縛は、そこから逃げようとするから「束縛」なのであって、受け入れてしまったらそれは「束縛」ではなくなるのです。親から離れたい、親から逃げたいと思う人にとっては親は「束縛」ですが、「親と共にいたい」と願う人にとっては親は「束縛」ではないのです。現象的には同じでも、拒否すれば「束縛」になり、肯定すれば「自由」になるのです。それはつまり、「束縛されている」と思い込んでいる人は、自分で自分を束縛しているということです。ですから、「死」を否定し続ける人は、死ぬまで「死」に束縛されることになります。それは旅に似ているかも知れません。「やがてこの旅は終わる」ということを肯定的に受け入れている人は、旅に来ている間は色々な物を見て、色々な体験をして、旅を楽しみたいと思うでしょう。だから、「自由であること」の必要性が生まれ、あれこれ自由に考え、自由に行動することが出来るのです。でも、「帰りたくない」という想いにばかりに捉われている人は、ホテルに閉じこもったまま外に出ようとしないでしょうし、逆に、「帰らなければいけない」ということを忘れている人は、目先の楽しさに束縛されて、時間を無為に過ごしてしまうでしょう。中には、せっかく旅に来たのに自分の部屋の中でテレビを見たり、ゲームをやっているだけのような人もいっぱいいます。「自由であること」の必要性が生まれないからです。「自分」を肯定できる人は「自分」に束縛されなくなるので、自由になることが出来ます。だから、他者とつながり合うことができます。逆に、自分を肯定できない人は、自分にこだわってばかりいる人です。それは、「自分で自分を抱いている状態」「「鏡に映っている自分の姿ばかりを見ている状態」です。だから、他者とつながり合うことが出来ないのです。だからこそ、自由に生きることが出来るようになるためには、まず「肯定する」ということを学ぶ必要があるのです。そしてそれが「楽しむ」という方法なのです。それは「心の自由」においても「からだの自由」においても同じです。「心」が自由な人は「心を楽しむことが出来る人」です。「からだ」が自由な人は「からだを楽しむことが出来る人」です。自由に絵を描くことが出来る人は絵を描くことを楽しむことが出来る人です。自由に描けるから楽しむことが出来るのではありません。楽しんでいるから自由に描けるのです。でもみんな、「自由に描けないから楽しめない」と言います。そうではないのです。楽しめないから自由に描けないのです。そしてそのような人に限って「○○さんは上手でいいわね」などと人を羨みます。幼い子どもたちは下手くそなのに自由に描いているでしょ。幼い子どもたちはただ描くのが楽しいから自由に描くことが出来るのです。それを上手に描くことを求めてしまうから楽しくなくなり、自由に描くことが出来なくなるのです。
2012.04.22
コメント(6)
私は色々なことをあれこれ書いていますが、それらは全て「自由になるため」だということに最近気づきました。気質を学ぶのも、からだのことを学ぶのもみな自由になるためだし、子育てや教育のことを考えるのは子どもたちが自由に生きることが出来るように、ということです。人の苦しみの原因は「他者からの束縛」と「自分自身による束縛」の二種類があります。他者からの束縛は逃げることが可能です。また、苦しくても、自分で自分を責める必要はなく、怒りという形でその苦しみを行動のエネルギーに転換することも可能です。でも、「自分自身による束縛」だけはどうしようもありません。逃げることが出来ません。また、束縛しているのも自分なので、束縛している自分を責めてしまうと余計に苦しくなります。この苦しみからは逃れることが出来ません。消すことも出来ません。麻薬やお酒やお金や様々なものへの依存を通して、一時の安楽を得ることは可能ですが、それらには常に一時的な効果しかありません。人は死ぬまで「自分」からは逃れることが出来ないからです。「だから受け入れなさい。生きるとはそういうことなのですから。」と説いたのがお釈迦さまです。イエス・キリストは「私も一緒に苦しんであげよう。一人で苦しまなくてもいいんだよ。」と説きました。この二大聖人のいずれも「苦しみを取り除く方法」を提示したわけではありません。「苦しみの受け入れ方」を提示しただけです。つまり、お釈迦さまやキリストでさえ、苦しみを取り除くことは出来なかったのです。それだけ「生きる」ということにおいて苦しみは本質的な要素だということです。でも、「生きる」ということにおいて人間が得たのは「苦しみ」だけではありません。「喜び」もまた、「生きる」ということにおいて本質的な要素なのです。苦しみがあるから喜びがあり、喜びがあるから苦しみがあるのです。この二つが組み合わさって「生きる」という事象が成り立っているのです。空腹という苦しみがあるから、食べることの喜びもあるのです。子育ての苦しみがあるから、子育ての喜びもあるのです。でも、そのどちらの面を強く意識しているのかということは人それぞれです。「人生は嬉しいことがいっぱいだ」という人もいれば、「人生は苦しいことでいっぱいだ」という人もいます。でも、登山のように、時として「大きな苦しみ」は「大きな喜び」の種であることがよくあります。だから修行者は、大きな喜びを得るために、わざわざ大きな苦しみを引き受けるのです。マザー・テレサも同じです。お釈迦さまやキリストさまでさえ「苦しみを取り除く方法」を知らなかったのですから、当然のことながら私も知りません。でも、「人生は苦しいことだけじゃないんだよ」ということを伝えることは出来ます。苦しみがやってくる時には苦しみを否定せず素直に苦しみ、喜びがやってくる時には苦しみを想い出さず素直に喜ぶ。そして、苦しみも喜びも共に楽しんでしまう。雨が降ったら雨を楽しみ雪が降ったら雪を楽しみ子どもが生まれたら子育てを楽しみ病気になったら病気を楽しみ老いたら老いを楽しむそうやって、一歩一歩前に進んでいくのです。多分、そういう生き方が「自由な生き方」ということなのではないでしょうか。
2012.04.21
コメント(10)
世の中には上達を求める人と、成長を求める人がいます。上達とは技術的な向上で、成長とは精神的な向上です。もちろんこの二つは無関係ではなく、上達を通して成長する人もいれば、成長を通して上達する人もいます。特に、武術のような精神性の高い技術を学ぶ場合には、この二つの向上は両方とも大切です。技術的な上達だけを求める人や、精神的な成長だけを求める人はいつまでたっても初心者どまりです。子どもの成長においてもこの二つの「向上」が見られます。上手に自転車に乗れるようになる、上手にコマが回せるようになる、上手にお話が出来るようになる、上手に算数の問題が解けるようになる、などというのは「上達」です。そして、それらを自分の意志で行っている時に限り、その技術的な上達は、精神的な成長をもたらします。でも、大人にせかされてやっているだけの時は、技術は上達しても、精神は成長しません。精神の成長が発生するためには「自分の意志」で行うことが絶対的に必要なのです。言われたことをやっているだけでは決して精神は成長しないのです。ですから、からだだけでなく精神も成長しつつある思春期前の子どもたちは、本能的に全てのことを「自分の意志」で行おうとします。でも、子どもの教育を、大人が決めたスケジュール通りに管理したい大人たちは子どもの意志を否定して、生活の細部に至るまで大人のやり方に従わせようとします。そして、子どもが親の期待通りに育たないと「子育てに失敗した」などと言ったり、「大人の言うことを聞かない子は悪い子だ」などと言い立てます。昔の子どもたちには、大人の目の届かない場所や時間もあったので、そのような所で息抜きをしたり、自分の意志で行動することも出来たのですが、今の子どもたちは四六時中大人の目から逃れることが出来ません。それでも、あくまでも「自分の成長」を望む子は、その大人のやり方を拒否します。そして落ちこぼれます。何らかの障害を持っている子どもたちもまた、上達よりも成長を望んでいるので大人のやり方を拒否して落ちこぼれます。でも、大部分の子が大人の期待に応えようとして、「自分の意志」を否定します。そして、成長を伴わない上達だけを求めるようになります。上達は目に見えますが、成長は目には見えません。その子どもの成長の度合いは、ただ感じることによってしか知るすべがないのです。でも、精神が成長しないまま大人になってしまった人にはその「子どもの成長を感じる能力」がありません。ですから、目に見える「上達」しか求めることが出来ないのです。現代人は「成長すること」、「成長する喜び」を忘れてしまっています。だから物や、権力や、お金や、便利などに依存し、振り回されてしまうのです。そのような状態から抜け出すためには、自分の「意志」を働かせることです。「心の自由」も「からだの自由」も、この「意志の働き」によって支えられています。だから「意志の働き」を取り戻さないことには、「心の自由」も「からだの自由」も得ることが出来ないのです。でも、この「意志の働き」とはどのようなものなのかを伝えるのはなかなか困難です。太極拳は力を抜いてゆっくりと動いていますが、からだの中に意志を満たして動いているのでその動きを止めることが出来ません。普通の人が力を抜いてただゆっくりと動いているだけの時、その動きを止めるのは簡単です。でも、からだの中に意志を満たすと、それは大河の流れのようになり止めることが出来なくなるのです。この「意志の働き」を「気」と呼ぶこともあります。「意志」が動く時、「気」が生まれます。「やる気」とか「元気」は、意志の働きの現れです。ですから、「意志」の働きが弱い人は「やる気」とか「元気」も弱いのです。この「意志の働き」は誰でも持っているのですが、それが働き出すためには、昨日書いた「求める心」や「祈り」が必要になるのです。幼い子どもの心には「求める心」も「祈り」もいっぱい詰まっています。だから「意志」が働くのです。そしてだから夢中になって遊ぶし、また元気なのです。でも、今、成長と共に元気を失っていく子どもがいっぱいいます。
2012.04.20
コメント(6)
キーロさんが気付くまでが難しいのかもしれませんね。とコメントを入れて下さいましたが、ポイントはここです。気づきというのは出会いですから、周囲がいくら教えても、本人の準備が整っていなければ気づきは生まれないのです。こればっかりは私でもどうしようもありません。その人の運命ともつながっていると思います。でも、大切なことは求め続けることです。気づきや出会いはいつ来るか分かりませんが、求めていない人のところには永久に来ないのです。答えを得ることは出来なくても、求め続けている限り、人は成長を続けるのです。その変化は小さく、また実感できないかも知れません。でも、求め続けている人は間違いなく成長しているのです。そしてその成長が飽和状態になった時「気づき」として「質の転換」が生まれます。それは禅の「悟り」と同じです。それがいつ来るかは全く分かりません。1年求め続けて来る人もいれば、10年求め続けてくる人もいます。でも、一生求め続けても来ない人もいます。でも確かなことは、求め続けない人の所には永久にやって来ないということです。それは「祈り」に似ています。日本人は「祈り」と「お願い」を同じもののように考えていますが、この二つは本質的に異なるものです。「祈り」は自分を差し出すもので、「願い」は他者に求めるものです。ですから、「祈り」は結果を求めませんが、「願い」は結果を求めます。そして、結果が与えられないと「裏切られた」と感じます。そして、人が成長するためにはこの「結果を求めない祈り」が必要なのです。でも、結果を求めずに祈り続けることは至難の業です。と、なぜ今日はこんな話になってしまっているのかというと、昨日ネットで「マザーテレサ」の映画を見て、強く感銘を受けたからです。主演のオリビア・ハッセ-がすごく似ていました。話し方、歩き方、表情などは本当にマザーテレサのようでした。(「ロミオとジュリエット」の時の、あのかわいかった子が・・・というショックはありましたけど。)以下はそのマザーテレサの言葉です。******もし、経験がないならば、尋ねなさい尋ねることは恥ずかしいことではありませんけれど、知らないことを、知っているようなふりをするのはやめなさい******この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも自分は必要とされていない、と感じることです。******考える時間を持ちなさい祈る時間を持ちなさい笑う時間を持ちなさいそれは力の源それは地球でもっとも偉大な力それは魂の音楽遊ぶ時間を持ちなさい愛し、愛される時間を持ちなさい与える時間を持ちなさいそれは永遠につづく若さの秘密それは神が与えてくれた特権自分勝手になるには、一日は短すぎる読書する時間を持ちなさい親しくなるための時間を持ちなさい働く時間を持ちなさいそれは知識のわき出る泉それは幸福へつづく道それは成功の価値施しをする時間を持ちなさいそれは天国へと導く鍵*****ガンジーは、キリストのことを知った時、興味をいだきました。しかし、キリスト信者たちに会って、がっかりしたそうです。キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害物になっていることがよくあります。言葉だけきれいなことを言って、自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。*****今、この瞬間幸せでいましょう。それで十分です。その瞬間、瞬間が、私たちの求めているものすべてであって、他には何もいらないのです。今、幸せであるようにつとめましょう。他の人を-あなたより貧しい人々も含めて-愛しているのだということを、行動によって示すことで、彼らを幸せにすることができるのです。たくさんのものが必要なわけではありません。ただ、微笑みかけてあげるだけでいいのです。だれもが微笑むようになれば、世界はもっと素晴らしい場所になるでしょう。ですから、笑って、元気を出して、喜びなさい。神はあなたを愛しているのですから。******大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。
2012.04.19
コメント(12)
三日月さんが心の中を整理すると、自由になるのですか。本当に大切なものから、取り組むこと、今の自分が出来ることと繋げて考えるかあ。なるほど。考え方が、仕事と似ていますね。とコメントを入れて下さいましたが、まさにその通りです。仕事でも人生でも不自由を感じている人は、「想い」ばかりはいっぱいあるのに、自分のやるべきことが見えていない、自分の能力を理解していない、自分の考えが整理されていない、自分のやりたいことがはっきりしていない、記憶や情報が整理されていないのです。それはつまり、「心の中の想い」と「からだ」も含めた、「心の外の現実」が一致していないということです。「心の中の想い」と「心の外の現実」をつなぐ回路が閉ざされてしまっているのです。だから、「心の中の想い」を「心の外の現実」の中で実現することが出来ず、不自由な状態になってしまっているのです。それは寝ている時に起きる「金縛り」と同じ状態です。私は若いころ時々金縛りにあっていました。体験したことがない人には分からないでしょうが、なかなか怖いものです。怖いので必死になってからだを動かそうとするのですが、意識はあるのにからだを動かすことが出来ないのです。だから余計に怖いのです。さらに、何かが見えるような気がするのです。でも、40歳ごろだったと思いますが、金縛りにあった時、「動かせない所」ではなく「動かせるところ」を探してみたのです。そうしたら、手足は動かせませんでしたが、眼球は自分の意志で動かすことが出来ました。「あ、眼の玉は自分で動かせる」と気付いたとたんに金縛りは消えました。それ以来、金縛りにはあっていません。自分の意志で動かすことが出来るところに気づいたことで、「心の中の想い」と「心の外の現実」がつながったのです。だから金縛り状態から抜け出すことが出来たのです。これは苦しみに捉われて自由を失ってしまっている人の場合も同じです。そのような人は「出来ること」ではなく「出来ないこと」ばかりを探しています。だから身動きが取れないのです。でも、どんな状態の時にも必ず自分の意志で自由に動かすことが出来る所は残っているはずです。その自分の意志で自由になるところを探していけば、人は自由になることが出来るのです。道を歩いていて正面に大きな木が立っていたとします。そこで、その障害物だけを見て「私はこれ以上に前に進むことが出来ない」と嘆くのが「不自由な人」で、「君が動けないのなら私が動くから大丈夫だよ」と障害物のない道を探して回り道をすることが出来る人が自由な人です。この両者の状況は同じです。それなのに一方は不自由になり、一方は自由なのです。あなたが誰かに腕を掴まれたとします。相手は力の強い男性です。当然のことながらあなたはその手を振りほどこうとするでしょう。でも、相手の力が強くて動きません。それでもそれを振りほどかなければ自由になれないと思っているので、必死になってその腕を振りほどこうとするでしょう。でも、それでも相手が動かなければ無駄に時間ばかりが過ぎ、体力も精神力も無駄に消耗するばかりです。それが不自由な人の状態です。でも、冷静に考えてみて下さい。あなたは腕を掴まれているだけです。そのほかの部分は全く自由なんです。逆に、掴んでいる人の方は、一生懸命あなたに逃げられないように腕を固定しているので心もからだも固まってしまっています。あなたが「掴まれた腕」のことだけを考えているならあなたも不自由ですが、掴まれていない部分に意識を向けるならあなたは自由です。その自由を使いこなせば、不自由な状態の相手から逃れたり、倒したりすることはそれほど難しくはないのです。本当は、掴まれている人よりも、掴んでいる人の方が不利なんです。腕を掴まれた状態のままでも、歌を歌ったり、踊りを踊ることすら可能なのです。そして、それが子どもの状態でもあります。お母さんは必死になって自由に動き回る子どもを押さえようとします。でも、子どもは腕を掴まれても足やからだを動かします。お母さんがからだ全体を使って子どもを押さえこんでも、丸ごとを押さえこめるわけではありませんから、子どもは自由に逃げ出せます。また声を使うことも出来ます。子どもはどんな時でも自由なんです。それでお母さんは子どもを脅かすことで束縛しようとします。恐怖心にはからだを固める働きがあるので、恐怖心を与えることで子どもの自由を束縛することが出来るのです。すると子どもは自由を失います。手足を束縛されたから不自由になったのではなく、自分の意志で生きることを止めてしまっているので、不自由なのです。それが「不自由」を嘆いているばかりの人の特徴です。自分の意志で生きていない人に限って「束縛」をその原因に仕立て上げるのです。そして、その恐怖心はずーっと残っていきますから、あとはお母さんの声や目つきだけで子どもをコントロールすることが出来るようになります。でも、大人になっても、子どもの頃に植えつけられた恐怖心は消えませんから、いつまでも自分の意志で生きることが出来ず、心もからだも固まったままになってしまっています。そして、「心の中の想い」と「心の外の現実」が分離してしまいます。「心の中の想い」と「心の外の現実」は「意志の働き」でつながっているので、「意志」が途絶えてしまうと、その「つながり」も途絶えてしまうのです。そして最初に書いたような「金縛り状態」になります。その状態から抜け出すためには、「今の自分に出来ること」を見つけ出して、実際に行動してみることです。すると意志が働き始めます。そして意志が働き始めると金縛りも溶けていくのです。だから、色々なことを整理して、「今の自分に出来ること」を探してみるのです。
2012.04.18
コメント(4)
自由に動くことが出来ない人、自由に生きることが出来ない人を見ていると、無意味にからだ全体を固めていたり、無意味に完璧性を求めていたりします。以前も書いたことですが、昔、太極拳を学んでいた頃、「站椿」 ( たんとう)という修行をさせられました。腕を何かを抱えるような形にして、ただ中腰で立っているだけの修行です。これをズーッとやらされるのです。すると、足が痛くなって苦しくなりからだ全体に力が入ってきます。からだ全体を固めることで、足の痛みに耐えようとするのでしょう。みなさんもちょっとやってみて下さい。足が痛くなって苦しくなると、からだ全体に力が入ってしまうものです。すると先生が、「頑張るな」と言います。それで私は「頑張るな、と言うんだから止めてもいいのかな」と思って、立ち上がると「立つんじゃない」と叱られます。ある時は、腰が砕けて立ち上がることが出来なくなるまでやらされました。その時「腰が抜ける」という状態を初めて体験しました。立とうとしても、全く足に力を入れることが出来ないので立てないのです。人は頑張っている時はからだ全体を固めてしまっています。でも、その状態では自由に動くことが出来ません。太極拳は武術であって我慢大会ではないので、ただ耐えるためにからだを固めて頑張っても、そのことで不自由になってしまったら無意味なんです。それでも足は痛いし、苦しいし、でも、「我慢するな」とか「笑え」とか言われて、「一体どうしたらいいんだ」と悩んだことを覚えています。武術においてはどんな状況の中でも「自由であること」が求められます。特に、太極拳や合気道のように力に頼らない武術においてはそれは決定的に大切なことです。そして、自由であるためには「捉われない」ということが必要になります。足の痛みや苦しさにとらわれてしまうと、心やからだ全体が固まってしまうからです。かといって「捉われないように頑張る」のも「捉われ」です。昨日の話の続きで言うと、自由を求めて「不自由」と戦うのもまた不自由な状態だということです。「不自由」と戦うのではなく、「不自由」を気にしなくならないと自由にはなることが出来ないのです。自分を束縛してくるものと戦う必要などないのです。「私は私」という意識を持つことが出来れば、人はそのままでもう自由なんです。頑張っている人は目先のことばかりに捉われて、全体のことが見えなくなってしまっています。「大切なもの」と「どうでもいいこと」がごちゃまぜになってしまっています。それが「私」を見失っている状態です。「私がちゃんとしている状態」とは、「何が大切で、何が大切ではないかということがちゃんと判断できる状態かどうか」ということです。そういう状態の人は「無駄なこだわり」が少ないため自由なんです。「無駄なこだわり」が人を不自由にするのです。ということで、自宅ででもできる簡単なワークをご紹介します。名刺大の紙をいっぱい用意してください。そしてそこに自分にとって大切なことを書きだしていきます。一枚のカードには一つだけ書きます。思いつく限り書き出してみて下さい。その時、なるべく具体的に書いてください。「大切なもの」として「家族」をあげる人は多いのですが、ただ「家族」ではなく、「家族の笑顔」とか、「家族の信頼関係」というように具体的に書いてください。「世界の平和」をあげる人もいますが、その場合ももっと具体的に書いてください。世界が平和な状態ってどんな状態ですか。この「具体的に考える」ということが非常に重要なんです。無駄なこだわりが多い人ほど具体的には考えることが出来ないものです。書き出し終わったらそれを色々な形に並べて整理します。まず、大切なもの順に並べてみて下さい。みんな「大切なもの」ではあるのでしょうが、その「大切度」においては違いがあるものです。その並べる過程においても自分と向き合う必要があります。重要度のランクを判断できず、「全部大事」としか思えない人は、そのカードを一枚一枚眺めて、これが本当に大事なこと何かを考えてみて下さい。それも出来ない人はいっぱい歩くようにしてください。いっぱい歩くと、からだの中が緩みます。からだの中が緩むと、心の中にもゆとりが生まれるので、判断が出来るようになります。大切なもの順に並べ終わったら、下半分を「後回し」ということで片づけて下さい。本当に大切なものから取り組むようにするのです。残った「大切なもの」を一枚一枚見ながら、その「大切なもの」を守るため、育てるために自分は何が出来るかを考えて、またカードに書き出してみて下さい。「家族の笑顔」が大切なら、その家族の笑顔を守るために自分が出来ることを考えてみるのです。そして、「自分が出来ること」が思いつかないカードは取り去ってください。自分が出来ないことを考えても無駄です。もちろん「世界平和」も大切ですが、それを「今、自分に出来ること」とつなげて考えることが出来ないのなら、そのことを考えても世界は平和にはなりません。「世界平和」は他の誰かに任せましょう。「自分が出来ること」が思いつかないカードは全部取り去って下さい。どんなカードが残りましたか。一枚でも、二枚でも残ったら、そのことに心を向けて一生懸命にやるようにしてみて下さい。心の中が整理されると、心は自由になるものです。とまあ、こんな感じですが、実際のワークでは一人ひとり違うので、想定外のことがよく起きます。「具体的に書く」ということが理解できない人もいます。また、私が結構突っ込むのでそこで新しい流れが生まれることがありますが、ご自分一人でなさっても何か発見できると思います。お試しあれ。仲間を集めてワークを企画して頂けると嬉しいですけどね。
2012.04.17
コメント(4)
ネットで北朝鮮から脱北した人にインタビューした記事を読んだことがあります。それで驚いたのですが、彼は北朝鮮にいた時には北朝鮮が不自由な国だとは思っていなかった、というのです。ただ、食べるものがなかったので脱北したのであって、不自由だからではないというのです。日本人や民主主義社会の人は「北朝鮮の人は自由がなくて苦しいだろうな」と思うのですが、生まれた時からその自由がない社会で生きている人にとっては、それでも自由な社会なんです。なぜなら、生まれた時から普通に存在している「枠組み」は空気のようなものだからです。そのことに気づくのは、自分たちの社会の枠組みとは異なる枠組みの社会に触れた時です。そして人は、出来ないことが当たり前の社会では、「出来ないこと」ではなくその枠組みの中で「出来ること」を探そうとする習性があります。だから、外部の人には不自由に見えても、その社会の中に生きている人たちはそれなりに自由なんです。でも、その「枠組み」に気付いた人は、急に不自由を感じるようになります。そして、その「枠組み」を壊して自由を得ようとします。そして、「自由」ではなく「不自由」を探すようになります。不自由を探して壊すことが「自由を得ること」に変化してしまうのです。戦後の日本の人々もまた、旧来のものを壊すことによって自由を得ようとしてきました。そのおかげで日本は法律に違反しない限り「なんでもOK」の自由な国になりました。でも、逆にいえば、もう壊すものがなくなってしまったので、どこに自由を求めたらいいのかが分からなくなりました。不自由もないし、かといって自由もないのが現代社会です。この過程で私たちが失ってしまったのは「心の自由」と「からだの自由」です。社会的な枠組みがあった時には、その枠組みに支えられていました。だから、枠組みの中で「自由」を探すことも出来たのです。また、「枠組み」を壊している時も「枠組み」によって支えられていました。でも、その全ての枠組みが壊れてしまった今、私たちは自分で自分を支えなければならなくなりました。でも、長い間「枠組み」に支えられてきた人にとっては、その自分で自分を支えるというということがよく分かりません。そこで必要になるのが、「自由な心」と「自由なからだ」なんです。ちなみに、「束縛からの自由」は「枠組みに依存した自由」であって、「本当の自由」ではありません。例えば、不自由な会社に嫌気がさして、「こんな会社辞めてやる」と飛び出しても、会社の外で何をしたらいいのかわからなければ、それで自由になるわけではありません。そういうことです。
2012.04.16
コメント(10)
「自由とは何か」というのは難しいテーマです。多くの人が「自由とは束縛がない状態」だと思っていますが、実際にはそんな簡単な問題ではありません。なぜなら、「束縛がない状態」がそのまま「束縛」になってしまうことがよくあるからです。地球に生きている私たちは、大地の固さや、重力という思い通りにならないものに束縛されて生きています。だから人間は空を飛ぶ鳥に自由を感じ、憧れているのでしょう。でもその鳥も、からだを休める時には地上に降りてきます。地面や重力を「束縛」と考えている人も、寝る時ややらだを休める時には、その地面や重力に身をゆだねます。もしかしたら、私たちが「束縛」だと考えているものは、私たちを支えてくれるものなのかも知れません。逆にいえば、地上に降りることを許されない鳥は自由なのでしょうか。大地も重力もない宇宙空間に放り出された人は自由なのでしょうか。それと同じように、もしかしたら子どもの頃の苦しい想い出すらも、私たちを支えてくれているものなのかも知れません。その「苦しい想い出」を失うことは自分が立っている大地を失うことと同じことだからです。だから、苦しくて、忘れたい想い出なのに手放すことが出来ないのです。実は、どんなに苦しい想い出でも、「手放すことが出来ない」ということは、「手放したくない」という無意識の現れでもあるのです。手放せない人は、自分の中に「手放したくない想い」があるのです。そこを見つめない限り「苦しみ」を手放すことは出来ません。その苦しみの中に、向かい合わなければいけない「大切なもの」があるのです。「無意識」はそれを知っているのです。だから手放せないのです。*********************生徒募集です。●「土曜アトリエ」 月一回、原則第二土曜日にJR茅ケ崎駅近くで行っている造形教室です。●「ネネムの森造形教室」 茅ヶ崎市円蔵の自宅で行っています。詳しくはチラシをご覧になってください。●表現遊びクラス「ポコペン」 音で遊ぶ、踊って遊ぶ、劇で遊ぶ、描いて遊ぶなど、様々な表現を楽しんで遊ぶクラスです。月2回、JR茅ケ崎駅周辺の会場で行っています。●「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。詳しくは<チラシ>をご覧になってください。
2012.04.15
コメント(0)
多くの人が苦しみを抱え、苦しみの中で生きています。そして、その苦しみから抜け出そうともがいています。でも、実際にはもがけばもがくほど苦しみは強くなるばかりです。でも、もがくのを止めたらもっと苦しくなるような恐怖心があるので、もがくことを止めることが出来ません。海や川でおぼれている人は「ワラをもつかむ気持ち」で必死になってもがきます。でも、実際にはもがけばもがくほど沈んでいくし、息は苦しくなるし、冷静な判断は出来なくなります。そんな時は、フッと力を抜けば浮くのです。さらに、冷静になることも出来ます。無駄に酸素を消耗することも減るでしょう。とは言っても普通の人にはそんなことは出来ません。苦しい時には苦しみから逃れることしか頭の中にないからです。でも、このブログをお読みいただいて下さっている人の苦しみはそれほど切羽詰まってはいないと思います。おぼれている人は何もしなければ死にますが、みなさんはもがかなくても死にはしないのですから。人はどんなに心が苦しくても、(自分で自分を殺さない限り)それが原因で死んだりはしないのです。それは「生命」が「あなた」を支えていてくれるからです。「あなた」がどんなに苦しい時でも「生命」は「あなた」をあきらめないで、「あなた」を支え続けているのです。食べれば、消化吸収してくれるし、ケガをすれば治してくれるのです。それは「お母さん」の働きと似ています。その「お母さん」は、あなたが「自分」をあきらめない限り、絶対に「あなた」をあきらめません。だから、自分ではどうしようも出来ないほど苦しくなってしまったら、その「お母さん」(生命の働き)に任せてみませんか。悩むのをやめたらどうなります。苦しむのを止めたらどうなります。もがくのを止めたらどうなります。どうもならないですよね。空が落ちてくるわけでも、地面が裂けるわけでも、死んでしまうわけでもありませんよね。だったら、何のために苦しんでいるのですか。何のためにもがいているのですか。このことを考えてみて下さい。「お母さんのせいで・・・」とお母さんに恨みつらみを言う人は、お母さんが大好きな人です。だからこそ、お母さんから受けた苦しみを忘れることが出来ないのです。そのような人はお母さんを忘れたくないからいつまでも苦しみ続けるのです。でも、苦しまなくてもあなたは死ぬまでお母さんと一緒なのです。なぜなら、あなたのからだ、あなたの生命はお母さんにもらったものだからです。その「お母さんからもらった生命」があなたを支えているのです。それがお母さんの愛情であり、本当のお母さんの姿です。ですから、自分の生命に気づき、自分の生命に感謝する時、人は誰でも「お母さん」と出会うことが出来るのです。道端に花が咲いていたら立ち止まって、時にはしゃがんで見つめて見て下さい。その時、生命が喜び「お母さん」と出会うことが出来ます。子どもの遊びは全てそのようなものです。子どもは遊びの喜びの中で「お母さん」と出会っているのです。だから遊ぶことが大好きなんです。その遊びを否定することは、お母さんが「お母さん」を否定することです。だから子どもは「お母さん」を見失ってしまうのです。
2012.04.14
コメント(14)
子どもの人生は子どものものです。ですから、子育てや教育における大人の役割は、子どもが自分の人生を生き生きと生きることが出来る状態に育ててあげることです。ただし、毎回同じようなことを言いますが、「子どもの人生が子どものものだ」と言っても、だからと言って「子どもが自分勝手に生きていい」という意味ではありません。そうではなく、簡単に言うと「後悔しない生き方をする」ということです。「自分の人生を自分のものとして生きる」ということは、「後悔しない生き方をする」ということです。「こんな私に誰がした」と愚痴ばかり言う毎日を過ごしていても、やがて死は訪れます。その死を前にして自分の人生を振り返った時、「私の人生は愚痴ばかりだった」と気付いても手遅れだということです。人は愚痴を言うために生れてくるのではありません。自分の人生を生きるために生れてくるのです。そして、子どもたちが「自分の人生」を生きることが出来るように支えてあげるのが、子育てや教育における大人の役割だということです。その場合における「学ぶ」ということの意味は「自由になる」ということです。そして、「自由になる」ということの意味は「束縛から逃れること」ではなく、「束縛されない能力を得ること」です。そのために知識や知恵を学び、技術を身につけ、工夫する能力を育てるのです。あなたがたった一人で無人島に流れついたとします。その時、助けてくれる人がいない、電気がない、水道がない、食べ物がない、虫がいるなどといって文句ばかり言っているとしたら、あなたはその無人島に束縛されている不自由な人です。でも、自分の頭で考え工夫し、自分の心と感覚で感じ気づき発見し、自分の責任と意志で行動することで生き延びようとすることが出来るなら、あなたは自由な人です。この無人島を「人生」と考えることも出来ます。だからこそ、子どもたちは自由になるために学ぶ必要があるのです。でもそれは、子どもを自由勝手にさせることではありません。自由に生きる能力を得るためには不自由と向き合う必要があるのです。自由勝手に育てられてきた子は、不自由から逃れようとするばかりで、乗り越えようとはしなくなってしまうでしょう。でも、逃げてばかりではやがて袋小路に追い込まれてしまいます。昔の子どもたちの遊びには、その「不自由」がありました。コマ回しでも、剣玉でも、竹馬でも、お手玉でも、練習しなければ出来ませんでした。そして、その努力に応じて上手下手もありました。そして、上手な子は尊敬されました。だからみんな頑張ったのです。そして、頑張ることで不自由を乗り越える感覚を育てていたのです。そしてその過程で仲間との強いつながりを育てることも出来ました。でも、今の子どもたちは楽を求め、その不自由から逃げようとするばかりで、乗り越えようとはしません。そして、すぐお金で問題を解決しようとします。もっと新しいソフト、もっと強いカード、もっと機能が高いおもちゃを買ってもらおうとするのです。そして、そのお金は親に依存しています。造形の現場でも、今の子どもたちはちょっと思い通りにいかないとすぐに投げ出します。逃げることで自由を得ようとするのです。でも、逃げてばかりいたら自由に生きるための能力は育ちません。そもそも、逃避そのものが一つの束縛なのですから、逃げてばかりいたらますます自由を失い、苦しくなるばかりです。そのような状態に対して、古い大人たちは、「我慢」を押しつけようとしています。でも、その「我慢」を押しつけられて来た子どもが大人になって、我慢できない子ど子たちを育てているのが今の日本の状態なのです。ですから、子どもたちに「我慢」を押しつけることはますます状態を悪化させるだけなのです。「じゃあ、どうしたらいいのか」ということですが、このような問題を解決するためには、子どもの「からだ育て」が一番効果的だと思います。「自由なからだ」を育ててあげるのです。「我慢」を学ばせるのではなく「自由」を学ばせるのです。(自由にさせるのではありません。「自由」を学ばせるのです。)「自由なからだ」は「心」とつながったからだでもあります。「意識」や「意志」や「感覚」や「知性」ともつながったからだでもあります。そして人は「自由なからだ」を得ることで、「心の自由」を得ることが出来るのです。「心」と「からだ」は一体だからです。色々なことに束縛されて自由を失ってしまっている大人においても同じことが言えます。
2012.04.13
コメント(1)
「子どものために」という言葉はよく聞く言葉です。でも、この「子どものために」という言葉の意味はあいまいです。子どもに対してだけでなく、「それがあなたのためなんだから」という言い回しもよく聞きます。子どもを勉強や様々な習い事に追いまわしている人も「子どものために」頑張っているのでしょう。逆に、そういうものに流されないようにして、自然の中で自由に遊ばせてあげようとしている人も「子どものために」頑張っているのでしょう。うちの四番目は生まれてからすぐひどいアトピーになりました。からだにはあまり出ませんでしたが、顔中ひどいヤケドのような状態で、ジクジク、ズルズルで、おんぶしていると背中が血で赤くなりました。そんな状態の赤ちゃんをおんぶして歩いていると、色々な人が話しかけてきます。そして、色々な体験談を話してくれます。温泉や鍼灸や食べ物などで良くなった、という人もいれば、ステロイドで良くなったと言う人もいました。でも、「悪くなった」と言う人は一様にステロイドの使いすぎでした。「ステロイドで良くなった」という人もいましたが、その場合もそのお医者さんが慎重にステロイドを使っていたようでした。ステロイドは非常に効果的なので、つい使いすぎてしまうのでしょう。でも、免疫力を無視するほど薬を使ってしまっては免疫力が萎えてしまうので、ますます薬が効かなくなります。すると、ますます大量のステロイドを塗りたくるようになります。ある人は、壁のようにステロイドを塗っていたと言っていました。それでも次第に効かなくなり、寝るときはベッドに手足を縛りつけていたそうです。そうでないとあまりの痒さのため、肉の中までかきむしってしまうからです。結局、成長障害を起こして大変な状態だと言っていました。ただし、この人の場合は何十年も前の話ですから、まだ医者にもステロイドの危険性に対する認識がなかったのでしょう。どんな場合でもからだを治すのは薬ではありません。からだを治すのはからだ自身です。薬はその手助けをするだけです。そして手助け以上のことは出来ないし、してはいけないのです。薬には免疫力を支える力はありますが、免疫力の代わりとして働くだけの力はないのですから。からだの免疫力が萎えてしまったら、その薬すらも効かなくなってしまい、本当に困ったことになってしまうのです。今、抗生物質がその状態になりつつあります。子育てや教育においても同じことが言えます。子どもの成長は子どもの意志によるものです。大人はそれを手助けすることは出来ますが、「あなたのためなんだから」と言って色々なものを押しつけ、その意志を否定してしまったら子どもは成長できなくなります。どんな素晴らしいことを学ばせようとしても、どんなにお金をかけて色々な教室に通わせても、本人が学ぶこと、成長することを拒否するようになってしまったら、もうどうしようもないのです。そして今、そのように「押しつけられ過ぎている子ども」が増えてきています。そのような子は無気力です。言われたら、言われたことだけを最小限の労力でやりますが、それ以上のことはやりません。その場合、その子を動かしているのは「成長への意志」ではなく、「叱られることへの恐怖」です。もしくはゲームの世界に逃避してしまい、大人の言うことを拒否してしまっている子もいっぱいいます。そのような子においては、頭も意志も働きません。ただ、大人の顔色を見て行動するだけです。そして、追い立てる人がいないと、何もしません。子育てや教育で一番大切なことは、子どもの「成長への意志」を支えることなんです。それが本当の意味での「子どものため」なんです。ただし、だからと言って色々なことを学ばせることや、習い事をさせることが無意味だとか、害になるということを言っているわけではありません。ステロイドと同じように、ようは「使い方」の問題だということです。子どもの「成長への意志」を否定してまで押しつけるのはよくないということです。うまく使えば、何もしないより、子どもの成長への意志を育てる可能性もあるのは事実です。でも、逆にいえば「ステロイド」のような薬を使わなくても、子どもの成長への意志を育てるような関わり方をしていれば、子どもはどんどん育っていくということです。そして、そちらの方が失敗の危険性は少ないです。一般的に、効果的な薬には強い副作用があるのです。その副作用を最小限に保ちながら薬の効果を発揮させるためには、高度に専門的な知識が必要になります。ですから、目先の効果に目を奪われるような人がその薬を使うと取り返しのつかないことになってしまうのです。確かに、幼い頃からすごい能力を発揮させるような方法(薬)があるのも事実です。そして、その方法を使えば天才少年を創り出すことも可能でしょう。でも、問題はその子どもたちがどのような大人になるのかということです。「子どもの時から死ぬまで天才少年のまま」などということは、ほとんどあり得ないのですから。(モーツアルトやピカソのように、歴史上にはそういう人もいますが、その多くは人間関係において普通ではありません。発達障害が疑われる人も結構います。)元・「天才少年」が子どものころから与えられ続けてきた強い薬の副作用で、大人になってからの人生を苦しみ続けないことを願うばかりです。ちなみに、我が家は結局ステロイドを使わないで乗り越えました。三歳ごろにはケロイド状態は消えました。今ではアトピーは完全に消えています。その後、喘息になりましたが、中学三年の今、体力もついてきてその喘息も大分収まってきています。(喘息はステロイドを使わない医者に行っています。)*********************生徒募集です。●「ネネムの森造形教室」 茅ヶ崎市円蔵の自宅で行っています。詳しくはチラシをご覧になってください。●表現遊びクラス「ポコペン」 音で遊ぶ、踊って遊ぶ、劇で遊ぶ、描いて遊ぶなど、様々な表現を楽しんで遊ぶクラスです。月2回、JR茅ケ崎駅周辺の会場で行っています。●「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。詳しくは<チラシ>をご覧になってください。
2012.04.12
コメント(9)
最初にちょっと生徒募集です。●「ネネムの森造形教室」 茅ヶ崎市円蔵の自宅で行っています。詳しくはチラシをご覧になってください。●表現遊びクラス「ポコペン」 音で遊ぶ、踊って遊ぶ、劇で遊ぶ、描いて遊ぶなど、様々な表現を楽しんで遊ぶクラスです。月2回、JR茅ケ崎駅周辺の会場で行っています。●「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。詳しくは<チラシ>をご覧になってください。************************これまでも書いてきたことですが、子育てや教育には、「子どもの心とからだを育てる方法」と「子どもの能力を育てる方法」の二種類の方法があります。いずれの場合も「子どもを育てる」という言い方をしますが、この両者ではその行為における主人公も、また対象としているものも異なります。そして現代人は「子どもの能力を育てるやり方」の方を選んでいます。それは「能力育て」の方が結果が見えやすいし、子育てや教育の意味も明確にしやすいし、子どもや教育の評価もしやすいし、管理もしやすいし、将来の経済的有利さも得ることが出来るからでしょう。また何よりも、大人の努力が子どもの能力の育ちの中に結果として現れるので、頑張りがいもあります。それに対して「心とからだを育てる方法」では、結果が見えにくくなります。大人がどんなに頑張ったとしてもその努力が結果に反映されるとは限りません。むしろ、無理な頑張りは子どもを委縮させ、心とからだの育ちに悪影響を及ぼします。子どもの心とからだを育てる方法において大切なのは、子育てに対する方法や努力ではなく、親自身の信念や生き方なのです。その信念や生き方があるから、結果に振り回されないのです。結果に振り回されてしまう人は「能力育て」の方が安心するのです。その子育ての結果が現れるのは、子どもが親から離れて自立するようになってからです。それでも、それが自分の子育ての結果かどうかは不明です。心に傷を負った人は、「この心の傷はお母さんのせいだ」と言いますが、ニコニコして幸せな人は、「この幸せはお母さんのおかげだ」とは言わないものです。「心の傷」の場合は「あの時のあの言葉や行動が・・・」と因果関係を明確にすることが出来ますが、「幸せな気分」は毎日のさりげない日常の中で育つので因果関係がはっきりしないからです。ですから自分の努力の見返りを求める人はみんな「心とからだを育てる方法」ではなく、「能力を育てる方法」の方を選びます。「子どものこの能力は私が頑張って身に着けさせたものです。どうです、すごいでしょ。」と言うことが出来るからです。「天才を育てる方法」などというようなタイトルの本はそれを自慢するためのものです。それが資本主義経済に生きる現代人の当然の感覚です。今時「見返りを求めない行為」を喜んでやる人はそれほどいません。でも、この二つの異なった方法は、当然のことながら子どもの育ちに異なった結果として現れます。心とからだが育った子は、特別な能力や才能は持っていないかもしれませんが、「心とからだの自由」を手に入れることが出来ます。自分の頭で考え、自分の感覚と心で感じ、自分の意志と判断で行動することが出来るからです。特に「これが出来る」という固定的な能力はなくても、色々なことにチャレンジすることが出来る自由な能力は持っているのです。それに対して、「能力」を育てられた子は特別な能力や才能を持っています。ただし、それは親が成功した場合の話です。「能力育て」を目指す子育てや教育は競争原理に支えられているので、成功するのはほんの一握りの親子だけなんです。ほとんどの場合は、途中で親が挫折するか子どもが挫折するかして失敗します。そして、心とからだも、能力も育たず、親子ともども「傷ついた心」だけが残ります。それでも、その競争に勝ち抜いて、何らかの能力を得ることが出来た子どもはそれはそれで幸せなのかもしれません。でも、「能力」と言うものは基本的に適応分野が限られているので、自分の人生を自分の意志で自由に生きることが出来なくなります。「能力」と言うものは人間を特殊化するための方法だからです。サッカーや野球やピアノなどの素晴らしい才能を持っている人は他の生き方を選択することが困難になります。勉強も同じです。小さい時からピアノ教室に通わされて、それなりに実力も付いたのに、「ピアノとは全然違う仕事がやりたい」と言ったら、親は「私を裏切ったな」と怒りだすでしょう。東大を出たのに、「肉体労働者になりたい」と言ったら親は怒りだすでしょ。身に付いた「能力」はそのまま「親の期待」なので、その能力に縛られて生きるということは、「親の期待」に縛られて生きることと同じになってしまうのです。たまたま、「親の期待」と「自分のやりたいこと」が一致している場合はそれでもいいのですが、そうでない時には苦しいことになります。
2012.04.11
コメント(8)
<告知です>「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。詳しくは<チラシ>をご覧になってください。************************私たちは何気なく「育てる」という言葉を使いますが、でも人によってその言葉の主人公が違います。子どもが育ちの主人公である場合も「育てる」と言いますし、大人が「育ててあげている」という意識の時にも「育てる」と言います。そこに言葉としての区別はありません。でも、その意識の状態は正反対ですし、子どもの状態も正反対になるでしょう。子どもが育ちの主人公で、大人がそれをサポートするような子育ての場合、子どもは自分が「自分の人生の主人公」としての意識を持つことが出来るでしょう。でも、大人が主人公で子どもはその命令に従うだけの子育ての場合、子どもは依存心ばかり強くなり、自己肯定感を育てることが出来なくなってしまうでしょう。単に「大人になること」が「育つ」とか「成長する」ということなら、確かにそれでも子どもは育って行くでしょう。そして、社会的にはそれだけで充分なのかも知れません。でも、「育てる」ということを、「心やからだの育ち」まで含めて考えると、違う問題が見えてきます。「育ててあげている」という意識の子育ては、「育てる」というよりも、内容的には「強制」や「調教」や「生産」に類する行為です。だから、工場のように育てる側の都合に合わせてスケジュール管理をしようとします。でも、それに合わせることが出来るのは暗記や訓練によって育てることが出来る「能力」と呼ばれるものだけであって、心やからだは育てることが出来ません。なぜなら、心やからだの成長は「生命が決めたスケジュール」に従うように出来ているからです。それは何十万年も前から決まっているスケジュールです。社会が合理化され、全ての作業時間が短縮しても、子どもの心とからだの育ちにかかる時間は短縮することが出来ないのです。それは妊娠期間を短縮することが出来ないことと同じです。「忙しい時代だから妊娠期間を一週間にしたい」などと言ってもそれは不可能なんです。だから、子どもの心とからだを育てる時には、励まして、寄り添って、見守って、待ってあげるしかないのです。その理解がないから、強制し、調教すれば子どもは大人の都合通りに育つなどと思い込んでしまうのです。確かに、強制や調教のような子育てや教育で「成功した」と言っている人たちがいるのも事実です。本屋さんに行くと、そのような成功体験を書いた本がいっぱい並んでいます。それは、その方法によって「大人の期待通りの能力の子が育った」ということなのでしょう。それは、東大に合格したとか、何らかの優秀な選手に育った、という類の話です。確かに、能力を育てるだけなら強制や調教や様々なマニュアルが効果的な場合があります。そして、今、本当に多くの大人が子どもの「能力育て」に夢中になっています。子育ても、教育も子どもの能力を育てることだけを目的にしている人がいっぱいいます。学校もまたそのような場になってしまっています。なぜなら、子育てや教育を「能力育て」と置き換えることで、簡単に子育てや教育の目標を決めることが出来るからです。心やからだの育ちはなかなか目に見えません。ですからそれらを育てるためには「待つこと」とや「寄り添うこと」が必要になります。でも、どんなに頑張って待っても、また一生懸命寄り添っても、なかなか目に見える形での成果は得られないものです。なぜなら、子どもの「心とからだの成長」は「大人のため」のものではなく、「子どものためのもの」だからです。子どもが大人になった時に、自立した一人の人間として幸せに生きていくために必要な能力なのです。だから分かりにくいのです。そして、そのため「信じる」ということも必要になるのです。それに対して、「能力の育ち」は比較可能な形で目に見えるので、親の努力の結果も分かりやすくなり、目標を立てやすくなります。またそのため、容易に達成感も得ることが出来ます。だからすぐに飛びついてしまうのです。でも、当の子どもはそれを望んでいるのでしょうか。また、そのように育てられた人が、他の人と「幸せな関係」を築くことが出来るのでしょうか。能力だけを育てられ、「生命の知恵」を失ってしまった人が、人間以外の生命や自然や地球と共存していくことが出来るのでしょうか。何よりも、「心とからだ」を無視されて育った人が、自分自身の「心」や「からだ」と幸せな関係を築くことが出来るのでしょうか。*****************先日来から、「からだ育て」のことを書こうと思っていたのですが、具体的なからだのエクササイズを書いてしまうと、「からだの訓練」になってしまうような気がして、なかなか書けないでいます。「からだ育て」は方法ではないからです。でも、方法を書かないことには具体的に伝わらないことも分かります。でも、方法を書いてしまったら、方法としてしか理解してくれない人もいるでしょう。実際のワークでは相手の状態を見ながら補足を加えていくことができますが、ブログではそれが出来ません。ということで、仲間を集めてワークを企画してくださる人を募集しています。からだ育てのワークでも、気質のワークでも、子育てのワークでも、親子遊びでもOKです。5人以上集めていただけばどこでも行きます。
2012.04.10
コメント(5)
<告知です>「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。詳しくは<チラシ>をご覧になってください。************************どうも現代人は「育てる」という感覚を忘れてしまったようです。それは、子どもを育てる、地域のつながりを育てる、後継者を育てる、文化を育てる、心を育てる、からだを育てる、知性を育てるというようなことです。その代わり、「鍛える」とか、「生産する」というような感覚ばかりが目立ちます。この両者においては何が違うのかというと「主人公」が違うのです。「育てる」という場合の主人公はその「育つ本人」です。それに関わる人や大人たちは、環境を整え、きっかけを与え、励ましながら見守り、成長を待ち、かつ成長を喜ぶ立場です。それに対して、「鍛える」とか「生産する」というような場合の主人公は「鍛える人」であったり、「生産する人」になります。その場合、その主人公は自分の行為の対象を監視し、指示命令を出し、追い立て、競争させ、評価し、服従させます。「育てる」の基本は「待つこと」です。ですから待つことが出来ない人は育てることが出来ません。そのような人は自分のスケジュールに相手を従わせようとします。でも、成長には時間がかかるものです。成長は「成長の論理」に合わせてしか進行しないものなので、いくら叱られても、命令されても、叩かれても、その本人にすらどうしようも出来ないのです。それで、追い立てられている子は要領よく見かけだけを整える方法を学びます。思考力は「育つもの」ですから追い立てられている状況では育ちません。そのため、「暗記」を活用することによってなんとか対応しようとします。小学生のうちはそれでなんとか対応できます。感覚やからだも「育つもの」ですが、「鍛える」というような発想の人はもともとそのようなものには興味がないので、無視します。子どもの方も、そんなもの育てる時間もないし役にも立たないので、「感覚」や「からだ」を育てることが出来ないまま大人になっていきます。スポーツなどで「肉体」を鍛えても、「からだ」が育っていないので心もからだも固くなり、ケガをしやすくなったり、いわゆる「体育会系」の思考しか出来なくなります。そのような人はスポーツの世界でも一流にはなることができません。「待つ」という行為は「何にもしない」ということではありません。実は非常に能動的な精神的行為なのです。確かに、行動としては何もしないかも知れませんが、心の中はものすごく働いているのです。そして、周囲の人には「何もしていない」ように見えても、その「待ってもらっている子」には、「この人は待っていてくれている」ということが分かるのです。それは行為を視覚的に確認することによってではなく、直接「感覚の共鳴」によって分かるのです。ですから、子どもはそのような人の周りに集まります。子どもには分かるのです。でも、その共鳴を感じることが出来ない人には「何もしていない」ようにしか見えません。だから「何もしない」と非難されます。現代人は肉体労働には価値を感じても、精神的な労働には価値を感じなくなってしまったのです。というより、そのようなものが存在していることすら分からない人がいっぱいいます。肉体的な労働は目に見えますが、精神的な労働は目には見えないからです。また、肉体的な労働は「物を作る時」に役に立ちますが、精神的な労働は「生命を育てる時」や「芸術的な活動をする時」にしか役に立ちません。そしてそれは簡単、便利を目指す社会とは矛盾する世界です。簡単・便利に作品を作ろうとする芸術家などいないのです。芸術家は自分の作品を「作っている」のではなく、「育てている」のです。だから自分の作品を「わが子」と言うのです。「待つ」ということは芸術的な行為でもあるのです。待つことを大切にする教育は、一種の芸術なのです。だからこそ、待つことを忘れてしまった人たちに「待つこと」の大切さを思い出させるためには芸術を再生する必要があるのです。人は、芸術の働きを通して「精神の働き」に目覚めるのです。そして、自分の「からだ」と向き合う時も芸術家が作品を作る時のような芸術的な感覚で向き合うのです。
2012.04.09
コメント(2)
「からだの世界」は面白いです。私は30年間自分のからだと向き合ってきましたが、いまだにちょくちょく新しい発見をします。その度ごとに感じるのは、もしかしたらようやく入口までたどり着いたのかも知れない、という感覚です。いつまでたっても入口なんです。それだけ奥が深いということです。そして、「からだ」と向き合っていると「心」も見えてきます。「心の世界」は「からだの世界」の延長にあるからです。でも、ほとんどの人が「からだの世界」とは向き合わずに、いきなり「心の世界」に向き合おうとしています。現代人は「からだの世界」には価値を感じていないからです。そんなものが存在していることすら知らない人がほとんどです。そして近代的な科学技術文明は「からだの世界」を否定することで成り立っています。確かに、現代人も「からだ」は大切にしています。ですから本屋さんに行くと「からだ作り」や「健康作り」の本がいっぱい並んでいます。でも、そこで対象にされているのは「からだ」であって「からだの世界」ではありません。現代人は、心には「心の世界」があるとということを知っています。でも、からだにも「からだの世界」があるということは知りません。ですから当然、「心の世界」が「からだの世界」と共鳴していることも知りません。そして「からだの世界」を通らずにいきなり「心の世界」に入ろうとしています。でも、それは無理なんです。また、「からだの世界」を通らずに直接「心の世界」に入ろうとすると非常に危険でもあります。無茶な「精神主義」も「からだ」を無視することから生まれてきます。ちなみに麻薬はそのための方法の一つです。最近流行りのスピリチャルブームも同じです。「からだ」は一つの現実です。ですから「からだの世界」も感覚的な現実です。でも、「心の世界」は現実ではありません。だから「からだの世界」という現実とつなげて「心の世界」に入っていかないと、妄想によって創り出された現実離れした世界に取り込まれてしまう恐れがあるのです。でも、それがまた現実逃避をしたい現代人には受けているのかも知れません。また、シュタイナー教育でも子育て関係のことでも、子どもの心のことを理解するために、様々な本を読みますが、本で理解できることと、本では理解できないことがあります。そして、現実とつながった「心の世界」のことは、本を読むだけでは理解することが出来ないのです。理解できたような錯覚を得ることが出来るだけです。本を読むだけで「心の世界」を理解しようとすると観念論になってしまうのです。実際には、「心の世界」のことを理解しようとするのなら、現実とつながった「からだの世界」と向き合う必要もあるのです。でも、「心の世界」は言葉化出来ますが、「からだの世界」は言葉化できません。本当はその「言葉化できない世界」の体験が必要なのですが、言葉化できないために伝えることが困難なんです。マスコミでも扱うことが出来ません。また、「からだの世界」は奥が深いので、入口に辿りつくだけで何年もかかります。だから、結果を急ぐばかりの現代社会では「存在しないもの」として処理されてしまっているのでしょう。
2012.04.08
コメント(4)
人間は目に見えるものに意識を奪われるように出来ているようです。ですから、目を開けているとなかなか意識を自分のからだに向けることができません。それは、視覚が主に獲物を取る時に使われる感覚だからなのでしょう。ですから一般的に視覚の活動が活発な子は活動的です。でも、あまり思慮深くはありません。獲物を取るのに必要なのは、即座に動くことであって思慮ではないからだと思います。気質的に言うと、胆汁質や多血質の子にこの傾向があります。胆汁質の子は考えることは考えるのですが、強い目的志向型で、自分の目的に合わせた思考は活発ですが、それ以外のことには興味がありません。音に対しても同じです。それに対して、聴覚は敵から身を守るために使われる感覚です。視覚で確認してから逃げていたら間に合わないのです。そのため、音に敏感な子はあまり活動的ではありません。音に敏感な子は音を聞こうとするのでからだの活動が止まるのです。でも、その一方で内面的な活動量は高くなります。昔の日本は聴覚優先の社会だったと思います。ですから、「ししおどし」や「水琴窟(すいきんくつ)」や「風鈴」などを楽しんだのでしょう。それに対して西洋文明は視覚優先の社会だったと思います。だから芸術やスポーツなどの「見せる文化」「見る文化」が発達したのだと思います。気質的に言うと憂鬱質や粘液質の子がこのタイプになります。ただ、憂鬱質の子はよく見ることもするのですが、強い目的志向型で、自分の興味に合ったものは良く見ますが、興味のないものは視野に入りません。胆汁質と憂鬱質は「感覚の集中」という点では似ています。多血質と粘液質は「感覚の拡散」という点では似ています。多血質は色々なものを見ようとし、粘液質は色々な音を聞こうとします。でも、西洋文明の延長線上にある現代文明は、行き過ぎた視覚優先の社会ですから、子どもたちは自分本来の気質の特徴を生かすことが出来ずに、ますます思慮と落ち着きを失っています。マスメディア社会においては聴覚は視覚の補助に過ぎません。で、本題の「からだ育て」ですが、からだ育てで大切なことは「からだを動かす」ことではなく「からだに聞く」ことなんです。(野口体操では「貞く」と書いて「きく」と読ませています。)だから、聞くことが得意な日本人は独特の身体文化を作り上げることが出来たのです。と言っても、ほとんどの現代人は日本人が作り上げてきた独特の身体文化など知りません。その身体文化は、便利、安全、効率ばかりを求める世界とは正反対の価値観に基づく世界だからです。中国で生まれた太極拳などでは「からだを練る」という言い方をします。この感覚も東洋的です。太極拳では「站椿」 ( たんとう)という修行をします。日本語的には「立禅」と呼ばれます。ただ中腰で立っているだけの修行です。私は最初これは足腰を鍛える鍛練法だと思いました。でも、それならば立ったり座ったりを繰り返すスクワットでも同じはずです。むしろズーッと効果的な気がします。その「站椿」が単なる足腰の鍛錬法ではないということに気づくまでに数年かかりました。これはからだを練るための方法なのです。そして、からだを練るためにはただ筋肉を動かすだけではだめなんです。そこで重要になるのもまた「聞く(貞く)」ということです。太極拳には「聴勁」(ちょうけい)という技法があるのですが、「聴」という文字がつかわれている通り、この技法でも「聞く」ことが大切にされています。ただし、耳で聞くのではありません。肌やからだで聞くのです。と言っても、体験がない人には全く分からないと思います。そしてこれをブログで説明することは困難です。ただ、からだにはこのような世界もあるということを知っておいてください。
2012.04.07
コメント(2)
最初に少し告知させて下さい。「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。詳しくは<チラシ>をご覧になってください。************************子どもはいつでもからだ全体を使って動いています。それはからだを動かすのが楽しいからです。でも、それ故に無駄な動きもいっぱいあります。そもそも、意味もなくスキップで歩くなどということはエネルギーの無駄な消耗以外の何物でもありません。大人になると過程を楽しまなくなり、結果だけが全てになりますから、そんな無駄なことはしません。またやりたいとも思わないし、やるだけの元気もありません。子どもはからだが成長しつつある過程にありますから、とにかくからだを動かしたいのです。だから、からだを動かすのが楽しいのです。それを支えてきたのが昔から伝わってきた、からだを使った伝承遊びです。でも、その成長が終わってしまったり、老化に向かっているような人の場合はなるべく無駄な動きを避けるようになります。ちなみに20歳を過ぎた頃から老化は始まるようです。子どもでも、便利な生活ばかりしているような子は、からだを動かすことが億劫になり、無駄な動きはしなくなります。そのような子はからだを動かすことを楽しむことが出来ません。だから大人っぽくなり、大人は喜ぶのですが、見方を変えると、子どもなのに老化が始まっているということでもあります。また、大人になると生活の中での動きのパターンも決まってしまうので、毎日同じ動きを繰り返すばかりになります。そのため、よく使うところは疲労し、使わない所は固まったり、萎えたりします。ですから、まれに普段やらない動きをやるとつってしまったり、痛みを感じたり、ぎっくり腰などになってしまいます。また、知らないうちに四十肩、五十肩になってしまうのもそのせいです。これは私の観察に基づくもので、客観的なデータがあるわけではありませんが、からだの動きがパターン化されているような人の場合、物事の考え方もまたパターン化されているような気がします。からだは「思考」を実現するための道具でもあるので、「からだの癖」はそのままその人の「思考の癖」でもあると考えられるからです。逆に言うと、子どもが自由な発想をするのは、からだを自由に動かしているからなのではないかということです。実際、からだを動かすことを億劫がるような子は自由な発想をしません。現代人は「からだを動かす」というと体操やスポーツを考えますが、体操やスポーツは趣味としては否定しませんが、「からだ育て」としてはあまり意味がありません。むしろ、体操やスポーツのやりすぎでからだを壊してしまう人もいっぱいいます。それは体操やスポーツには「からだを鍛える」という発想があるからです。その時、感覚は否定され、からだは道具として扱われます。だから、壊れやすくなるのです。そもそも、スポーツなどを始める前と後に整理体操を必要とするということ自体が、スポーツが不自然なからだの使い方をすることの証拠でもあります。そして、その整理体操は学校で教えている体操とは異なります。整理体操はからだを緩めるための体操ですが、学校で教えている体操はからだを固めてしまいます。本当は、からだ育てや、今時の子どもたちにはその「整理体操」の方が必要なのですが、なぜか学校ではそういうものは教えてくれません。ちなみに、中学校で武道やダンスなどが必修化されますが、整理体操もちゃんとやって欲しいと思います。また、私は武道が好きですが、簡単な研修を受けただけの素人の先生が教えることには反対です。また、教えるなら教えるで、3年ぐらいかけてちゃんと教えてあげてほしいと思います。また、そのくらいの指導が出来るような先生でなければ子どもに教えることも出来ないと思います。私は子どもの頃(小・中)、柔道の道場に通っていましたが、受け身をいっぱいやらされました。それと有段者の先輩が受け手になって練習してくれました。あまり子ども同士で練習をした記憶はありません。(子どもが少なかったから?)でも、学校での体育では、そのいずれも難しいでしょう。「下手くそ」と「下手くそ」が組んで練習するのは非常に危険だと思います。それにそれでは柔よく剛を制すという「柔道」ではなく、ただの「つかみ合い」になってしまうと思います。それならむしろ柔道より相撲の方がズーッと安全だし、からだ育てにも有効だと思います。それと「武道を通して礼儀作法を教える」という考え方もあるようですが、これは全くのナンセンスです。本来、そういうことは大人がお手本になって、毎日の生活の中で教えるべきことです。生活の中で教えることが出来ないから、武道の中で・・・という安易な考えなら、武道を通しても教えることが出来ません。ということで「からだ育て」のためのエクササイズを始めてみましょう。まず、肩幅に足を広げて立って下さい。右手で出来るだけ大きな円を描きます。(右手が終わったら左手でも)この時からだ全体を使います。手が上に上がる時はつま先立ちになってこれ以上、上まで手が届かない所まで上げます。左右に行くときも、「もうこれ以上は無理」というところまで手を伸ばします。下は床を触るぐらいの感じです。からだ全体を使って、最大ギリギリの円を描くのです。ただ、色々な人を見ていると、本人は「もうギリギリです」と言っている人でも、ちゃんとからだ全体を使っていない人の方が多いものです。「ここをこうしてみて」、「ここを意識してみて」「もっと行くでしょう」とか言うと、もっともっと動く場合が多いのです。そのような人は自分で勝手に自分の限界を決めてしまっているのです。足首や膝や腰を固めたまま動こうとするので、限界が小さくなってしまうのです。でも、ブログではそこまでのチェックは出来ませんから、ご自分で「これが限界なのかどうか」ということをチェックしながらやってみて下さい。<続きます>
2012.04.06
コメント(2)
心の状態としては、「楽しいことをする」ということと、「やっていることを楽しむ」ということは全く正反対です。「楽しいことをする」というのは、相手に楽しませてもらうということであり、対象に対する依存です。そして現代人はこれが大好きです。テレビや、ゲームや、ディズニーランドが人気なのも楽しませてくれるからです。そして楽しませてくれるお礼としてお金を払います。だから企業は、一生懸命楽しませる方法を考えます。そして中毒はどんどん進行していきます。ただし、そういうものが悪いということを言っているわけではありません。それだけに依存することを問題視しているだけです。それに対して、「やっていることを楽しむ」という行為にはお金はかかりません。なぜなら「楽しむ」という行為では、誰にも依存していないからです。対象は何でも構いません。歩くことでも、お料理を作ることでも、子育てでも、仕事でも、なんでも楽しむことが出来ます。3歳ごろまでの子どもたちは例外なく「楽しむ」ことの天才です。でも、それ以降、「楽しむことが出来る子」と、「楽しいことしかしない子」に分かれていきます。基本的に「楽しいこと」に依存した生活をしている子は、自分で「楽しいこと」を発見する能力が萎え、楽しむことが出来なくなります。するとゲームがないと遊べない、ボールがないと遊べない、遊んでくれる大人がいないと遊べない、という状態になります。「それが今時の子なんだからそれはそれでいじゃないか」という考えもありますが、そのような子、また、そのような大人は依存心が強いため、自分の力で困難を乗り越える力がありません。私が言っていることは「それでもいいのですか」ということです。単に「遊び」だけを問題にしているわけではありません。どんな場合でも、困難を乗り越えるためには「楽しむ心」が絶対的に必要なのです。頑張るだけでは次第に疲れてきてしまうのです。でも、「楽しいこと」ばかりが大好きで「楽しむこと」が出来なくなってしまっている人が「楽しむ心」を取り戻すのはなかなか困難です。「楽しいこと」が大好きな人は刺激が大好きです。「楽しいこと」がないと苦しくなってしまうような人は「刺激中毒」です。ネット中毒、携帯中毒、ゲーム中毒の人たちはそのような人たちです。でも、「楽しむ」という行為においては刺激は存在していないのです。そのため、楽しいことが大好きな人たちが何かを楽しもうとしても、すぐに「退屈」という禁断症状が起きてしまうのです。じゃあ、楽しむことが出来る人たちは、刺激もないのになんで楽しむことが出来るのかと言うと、その行為の中に、「発見」と、「気付き」と、「対話」があるからなのです。特に「対話」は重要です。対話があるとそれ自体が刺激になるのです。そして、「対話」があるから、発見と、気付きが生まれるのです。「楽しいこと」ばかりに依存した生活をしていると、その「対話する能力」が萎えてしまうのです。それは子育てにも影響してきます。「楽しいこと」ばかりが好きな人は、赤ちゃんや子どもとどう対話したらいいのか分からないのです。だからすぐに退屈してしまうのです。そしてそのような人が増えてきています。それはまた学習にも影響してきます。楽しむことが出来ない子は、勉強が退屈になってしまうのです。「どうして退屈してしまうのか」、「どうして対話できないのか」というと感覚を働かせていないからです。「どうして感覚を働かせることが出来ないのか」というと、心を働かせることが出来ないからです。「どうして心を働かせることが出来ないか」というと、自分のからだと対話する能力が萎えてしまっているからです。つまり、「自分のからだ」と対話できない人は「他者」とも対話できないということなのです。「自分のからだとの関わり方」と「他者との関わり方」はシンクロ(同調)しているのです。「自分のからだの声」に耳を傾けない人は「他の人の声」にも耳を傾けません。そのような人は、相手が何を言ったのかという「意味の理解」は出来ても、その言葉を通して相手が何を言いたいのかという「相手の気持ち」が分からないのです。なぜなら、「相手の気持ち」を知るためには、「相手の気持ち」を「自分のからだ」と共鳴させることで感じ取るしかないからです。悲しい状態の人のその「悲しみ」が分かるためには、相手の人の悲しみを自分のからだに共鳴させる必要があるのです。共鳴させることで「他者の悲しみ」を「自分の悲しみ」として感じることが出来るのです。だから、自分の中に怒りでも、恐怖でも、喜びでも、共鳴しやすい感情(からだの状態)があると相手のそのような感情に特に敏感になってしまうのです。
2012.04.05
コメント(6)
最初に少し告知させて下さい。「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。詳しくは<チラシ>をご覧になってください。************************昨日は、古代ギリシャではこの世界を構成しているのは「地・水・火・風」の四大要素だと言われていたけど、東洋ではそれに「空」を足して五大要素にしている、という話を書きました。その「空」を私流に解釈すると「つなげる働き」ということになります。「地」は固める働きで、「水」は循環を支える働きで、「風」は自由に変化する働きで、「火」は創造と破壊をもたらすエネルギーです。でも、それらが寄せ集まるだけでは世界は生まれません。それらの働きを、調和を保ちながら適材適所的につなぎ合わせる五番目の要素がないと世界は生まれないのです。でも、「分解して調べる」という方法では、その五番目を見つけることは出来ません。分解した段階で、「つなげる働き」としての五番目の要素は失われてしまうからです。だから物事を分析的に考えようとしたギリシャ人たちは、この五番目の要素に気づかなかったのかも知れません。もしくは「神様の働き」をこの五番目の要素として考えていたのかもしれません。そのため、科学のような分析的な方法に基づいて作りだされたシステムは、「神様」が抜けているため「生命」のように自律的システムにはならないのです。そして、このシステムを維持するためには、神様の代行人としての「人間」が必要になります。それはつまり、人間が作ったシステムにおいては必ず「管理」という方法が必要になるということです。それが神様の役割であり、また人間の役割だと考えられていたのでしょう。だからその役割を「世界を構成する要素」には加えなかったのかもしれません。これは子どもの育ちを考える時も同じです。東洋的には大人がお手本を示していれば子どもは勝手に育つと考えられていました。それはつまり、子どもも大人と同じ一つの「自立したシステム」として考えていたということです。でも、欧米の人たちは、大人が教育しないと子どもは育たないと思っていたのではないかと思います。だからこそ、教育方法や学校というシステムが発達したのでしょう。現在の日本の学校も、子育てにおける仕付も、欧米と同じような考え方で行われています。また、管理するためには「理解」も必要になります。物質世界を管理するためには物質世界を分析的に調べ、管理する方法を知る必要があります。科学はその「管理」の延長上に生まれました。「なぜ?」「どうして?」という疑問だけでは哲学や宗教は生まれても科学は生まれないのです。科学が生まれるためには「管理」への欲求が必要なのです。でも、日本のシステムには「管理」だけがあって「理解」がありません。子育てでも学校でも、子どもを理解しようとしないまま、子どもを管理しようとしています。だから、おかしくなってしまっているのです。大阪の橋下さんの教育に対する考え方がその象徴です。日本の文化は本来「丸ごと」を大切にする文化ですから、分析したり理解するための精神的基盤がないのです。そもそも日本語はそのような用途には向いていない言葉です。だから、「理解」を抜きにして「管理」だけが先走ってしまうのです。ではどうしたらいいのか、ということですがそれは難しいことではありません。今の教育では、「知」は学問を学ぶことで、「情」は情操教育で、「意」と「体」は体操や訓練などで、というように縦割りに子どもを育てようとしていますが、まずそれをやめることです。どんなにいっぱい色々なことを学んでも、縦割りに学んだことはお互いにつながりあうことがないため、子どもの精神は成長しないからです。だから東大を出ても精神年齢が幼いままの人間が生まれてしまうのです。でも、困ったことにそのような連中が日本を動かしています。まず、大人の管理に基づく縦割り教育をやめるのです。縦割り教育は子どもの本能に合わないため、必然的に管理を必要としてしまうのです。縦割り教育は大人の都合に過ぎません。(ただし、これは小学校の話です。中学以上は縦割りでもOKです。)そして、子どもの「学びたい意欲」や、「成長したい意欲」を信じることです。その際、大人は「お手本」や、「きっかけ」や、「手助け」として関わります。子どもがその「学びたい意欲」「成長したい意欲」の中で学ぶ時、「知・情・意・体」は一つの統合体としてつながるのです。と書くと難しいように感じますが、簡単に言うと、それは「学ぶことを楽しむ」ということに過ぎません。「楽しむ」という心の働きが「つなげる」という五番目の要素を目覚めさせるのです。それは以前書いた「味わう」という感覚ともつながっています。学ぶことを楽しむことが出来るような学びでは、「知・情・意・体」はそれぞれつながって、丸ごと育っていくのです。ただ最後に付け加えておくと、このように書くと「勉強は遊びではない」とか「仕事を楽しむなんて不謹慎だ」とか、「楽しいことばかりやっていると怠惰な人間になる」などと言う人がいますが、私はそんなことを言っているわけではありません。それがお分かりにならない方は、子どもの頃から、強制され、押しつけられて生きてきたのでしょう。だから、「楽しむ」という方法を肯定することが出来ないのです。それを肯定してしまったら、自分の今までの人生の意味を否定することになってしまうからです。でも、今それを肯定しないと、これからの人生の意味まで失うことになってしまうのですよ。
2012.04.04
コメント(4)
告知です。「遊びの会」という活動を四月から始めます。幼稚園児とその親が対象で、土曜日か日曜日の月一回です。会場はJR茅ヶ崎駅周辺です。詳しくは<チラシ>をご覧になってください。************************一般的に、人間は「知・情・意・体」の四つの要素によって構成されていると言われています。気質との対応で言うと「知=憂鬱質」「情=多血質」「意=胆汁質」「体=粘液質」ということになるのでしょう。気質はまた、ギリシャ時代にこの世界を構成する四大要素と思われていた「地・水・火・風」にも相当します。それは「地=憂鬱質」「水=粘液質」「火=胆汁質」「風=多血質」です。ちなみに「地」は凝縮し、集中し、固める働きのことです。地面のことではありません。この働きがないと全ての「形あるもの」が生まれません。「水」は流れや循環を支えている働きのことです。物質的な「水(みず)」のことではありません。「風」も流れますが、風がすぐ拡散するのに対して「水」はあまり拡散しないまま流れます。生物の「体」はこの「水」の働きによって支えられています。世間一般的には「体」は、「体=筋肉・骨格系」と考えられているようですが、四大要素的に見た「体」は筋肉や骨格を指すのではなく、むしろ内臓や循環器系のことを指します。これらは「流れ」によって支えられています。「火」はエネルギーであり、変化を起こす力です。この働きが失われると、全てのものの動きが止まります。「風」は「変化」です。固まらず、循環せず、自由に動き回り常に変化しています。また、消えたり現れたりもします。また「水」を見ることは出来ますが、「風」を見ることは出来ません。「水」は触れたり、器に入れることが出来ますが、「風」は一か所に留まる事をしません。また感じることは出来ても触れることは出来ません。人間では「感情」がそれに相当します。これが、四大要素と呼ばれるものや、人間の働きを支えているものと、「気質」の間の関係です。でも、今日書きたいのはここから先の話です。古代ギリシャでは「地・水・火・風」の四つだけがこの宇宙を構成する要素として考えられました。シュタイナー教育の気質論もこの説に基づいています。でも、東洋ではそれに「空」(くう)を足して、五大要素にしています。「地・水・火・風・空」の五つです。五輪の塔はそれを表しています。西洋では見落とされていましたが、私はこの五番目の要素は他の四つの要素以上に重要なものだと考えています。そして私の気質論でもこの5番目の要素は大切にしています。四大要素論では、この世界は四つの要素で構成されているといいます。でも、その四つの要素の関係が示されていません。それは「なぜ、四つなのか」ということと、「なぜ、四つの要素が補い合うように働いているのか」ということです。この世界はお互いに異なる四つの要素で支えられているということは、四つの要素がお互いに支えあっているということを意味しています。それを説明するためには五番目の要素が必要になるのです。そこで話は「からだ」に戻ります。最初に書いたように、一般的に人間は「知・情・意・体」の四つの要素によって構成されていると言います。でも、それだけでは「なぜ人間が人間なのか」ということが説明できないのです。つまり、「全体を要素に分けると四つになった」ということは分かるのですが、その四つの要素をいくら調べても、どのような働きによってその四つが統合されていたのかということは分からないということです。人間を分解していくと筋肉や骨格や内臓などに分けられます。さらに分けていけば細胞になり、もっと分けていくことも可能です。欧米で生まれた科学はそのような手法によってそのもののことを調べようとしています。でも、どんなに細胞を調べても、どうして何十兆と言う細胞が助け合って、「人間」というシステムを作り出しているのかということが分からないのです。その五番目の要素が失われてしまうと、他の四つの要素が正常でも、全体はバラバラに崩壊してしまうのです。「全体」のことを調べるためには、全体を部分に分割せず、全体は「全体」として調べるという手法も必要なのです。それを「丸ごと」という言葉で表しますが、現代社会には、その「丸ごと」という視点が抜け落ちてしまっているのです。子どもの成長においては「知・情・意・体」が丸ごとの状態で育っています。ですから丸ごとを大切にしながら子育てや教育を行う必要があるのです。その「丸ごと」が育てば、四つの要素はそれぞれお互いにバランスを取りながら、ちょうどよい速さで、ちょうどよい状態で育っていくのです。「理解する方法」と「育てる方法」は同じではないのです。一流の教育学者が子育てがうまいわけでもなく、無学文盲のお母さんが子育てが下手だというわけでもないのです。それは「自分のからだ」を育てる時も同じです。鍛えるのでも、訓練するのでもなく、ただ「ありのまま」を受け入れ、じっくりと育てるのです。その時、知性も、心も、精神も、意志も丸ごと育つのです。それが私が言っているところの「からだ育て」の意味です。
2012.04.03
コメント(2)
人間は動物です。動物とは動くことを基本とした生き物だということです。ですから私たち人間の様々な能力や、機能や、生命力や、感覚といったものの多くは「動くため」に進化してきたものです。神経や脳といったものも「動くため」のものです。だから、ただ成長するだけで、動くことをしない植物には神経や脳がないのです。その、「動くことを基本とした動物」が動かなくなる時、もしくは動けなくなる時、その能力も、機能も、生命力も、感覚も萎えていきます。必要がなくなるからです。さらに、人間の場合はそれらの機能に支えられている意識や、思考力や、イメージ力や、創造力まで萎えてきます。それが生命の仕組みであり、また私たち現代人の状態です。現代人の価値観ではスポーツなどでからだを動かすのはOKですが、毎日の生活や仕事の中では出来るだけ簡単、便利に、楽をしたいと思っています。不思議なのは、それなのになぜか仕事が終わった後、走ったり、ジムに通ったりしていることです。ただ私はスポーツやジム通いを否定しているわけではありません。そうではなく、毎日の生活の中や仕事の場においても積極的にからだを使うように工夫すればもっともっと元気で健康になるのに、そっちの方は避けている人が多いのが不思議だということです。これは、現代人が「不便は悪で、便利は善」、「お金を使うのは善で、お金を使わないのは悪」という趣旨の新興宗教を信じているからなのでしょう。その新興宗教が日本の経済を支えています。この宗教を熱心に信じている人は出来るだけ合理的に仕事をし、楽をしたいと思うようです。そして、家庭の中でも仕事の場でもからだを使わないでも済むように、お金を使うのです。でもこの新興宗教は人々を幸せにするためのものではなく、一部の人や会社や国が、人々のお金を吸い上げるためのシステムなのです。そこで使われているトリックが「豊かさ=幸せ」と思い込ませることです。そのように洗脳されている人は、裸足で遊んでいる子どもや、学校に行っていない子どもや、貧しい人を見ると簡単に「かわいそう」と言います。でも、アジアなどの、その貧しい国々の人たちは、ただ単純に「豊かな国、日本」にあこがれてはいません。むしろ、日本の失敗を反面教師にしようとしています。日本人自身は「失敗した」とは思っていませんが、戦後、日本が行ってきた「未来を食いつぶして目先の豊かさを得る」という方法がもうすでに限界に来てしまっていることは誰が見ても明らかなのです。それでも政治家たちはわずかに残っている未来のための余力までも、目先の豊かさのために、今使い切ってしまおうとしています。このことに関しては言いたいことは山ほどありますが、それは別の機会に回して、今回は「からだを動かすこと」にテーマを絞ります。ちなみに、私が使う「からだ」という言葉の意味は、医学的な肉体だけを指すのではなく、「様々な精神活動や生命活動の表現体」のことです。「生きている」ということを表現するための存在を「からだ」と呼んでいるということです。ですから「からだを使う」ということは「心や感覚や知性を使う」ことと同じです。実際科学的にもこの二つを分離することは出来ません。コップを取ろうとする時も、ホウキでお掃除している時も、歯を磨いている時も、肉体だけが動いているのではなく、心も感覚も知性も同時に働いているのです。だから人間は他の動物が出来ないような多様な動きをすることが可能なのです。でも、そのような時、からだがうまく動かない状態の人以外の人は無意識的に動いているでしょう。その「無意識的な動き」を「意識的な動き」に変えるだけで、より有効に「からだ」を使うことが出来るのです。その場合、見かけ的には同じ「からだ」の動きのままです。でも、からだを意識的に使った方がより「からだ」を使ったことになるのです。それは、「からだ」がより明確に「様々な精神活動や生命活動の表現体」として動くことが出来るからです。特別に新しいことを始めなくても、今やっている日常的な活動を意識的に行うようにするだけでも「からだ」は目覚め始め、感覚や生命力もアップして行くのです。これは「体操」とか「スポーツ」といったような意識で行う現代人の運動とは異なった「からだの活動」なのです。
2012.04.02
コメント(0)
心と向き合うのなら、ゆったりとした服を着、静かで、あまり明るくなく、音などの刺激も少なく、またあまり広くない所で、呼吸を整え、姿勢を正しくして行うのがベストです。それは、昨日書いた子宮内の状況に似たような場所が、心と向き合うのにはちょうどいいということです。この際、姿勢と呼吸を整えることは非常に重要です。姿勢と呼吸が乱れていると、向き合うのではなく、囚われてしまうのです。ちなみに、いつも頭からそのことが離れない状態というのは向き合っているのではなく、囚われている状態です。そして、そのような状態ではいつまでも苦しみが続くばかりで、そこから学ぶことも、乗り越えることも出来ません。不思議なことに、姿勢と呼吸が整っていると感情に囚われにくくなるのです。感情が湧き起こっても、一か所に留まることがなく流れていくのです。それは、からだというものが一種のアンテナのようなものだからです。アンテナが不純物が少なく正しい状態のときには、気付きや、様々な肯定的メッセージを受信することが出来ます。でも、アンテナが曲がっていたり、不純物が多い状態だと、雑音を多く発生させ混乱を引き起こすと同時に、否定的なことばかりを受信するようになるのです。発信する時も、アンテナが正しい状態なら肯定的な情報を発信することが出来ますが、そうでないと否定的な情報ばかりが発信されることになります。本人にはその気がなくても、無意識に混ざりこんだ雑音によって受け取った人が不快になってしまうのです。多くの人がこのような状態を「心の問題」として考えていますが、実はこれは「からだの問題」なのです。昨日も書いたように、人間は「“自分”という意識に属する自分」と、自然や他者に属する「自分」という二つの自分によって構成されていますが、思考や感情というものは「自分という意識」に属してはいるのですが、それを作り出しているのは「自然や他者に属する自分」の方なのです。それが「からだ」です。だから人間は自分の思考や感情を、自分の思い通りにコントロールすることが出来ないのです。そして、「からだ」という「自然や他者に属する自分」を整えてあげると、肯定的な思考や感情が生まれやすくなるのです。でも、実際には姿勢と呼吸を整えるのはなかなか難しいものです。なぜなら、人は今まで自分がやってきた姿勢と呼吸の方法しか知らないからです。それは「歩き方」と似ています。人は毎日歩いていますが、自分の歩き方を正確に知っている人はほとんどいません。だから、いつもとは違う歩き方も出来ないし、自分の歩き方を矯正することも出来ないのです。正しい状態が身についている人は、自分の状態や狂っているいる状態を感じ分けることが出来ますが、狂っている状態の人は自分の狂いを感じることが出来ないのです。だから「自分の状態」を見てもらう立場の他者が必要になるのです。それが「師匠」という立場の人です。武道やその他の習い事でも、正しく「一人稽古」が出来るようになることが大事なのですが、それなりに正しい状態が身についてこないことには「一人稽古」は出来るようにならないのです。ちなみに「一人稽古」とは「自分で自分を成長させることが出来るような稽古」ということであって、単なる「練習」とは異なります。この姿勢と呼吸を整えることで「自分」を整える方法を「静の方法」と考えると、からだに意識を向け、からだを動かすことで「自分」を整える「動の方法」もあります。フェルデンクライスメソッドや、野口体操や、野口整体の活元や、ヨガや、太極拳や、シュタイナー教育におけるオイリュトミーなどもそれにつながる方法です。茶道も本来はそのようなものだと思います。それは、「“自分”という意識に属する自分」と「自然や他者に属する自分」のつながりを育てるための方法です。そして、「静の方法」よりも、「動の方法」の方が取り組みやすく、危険も少ないです。「静の方法」はやり方を間違えると精神が狂ってしまうこともありますが、「動の方法」は単なる健康体操になってしまうことはあっても、精神が狂うことはありませんから。ちなみに私は「静の方法」の指導は出来ませんが「動の方法」の指導は出来ます。ということで「動の方法」は明日書きます。
2012.04.01
コメント(4)
全30件 (30件中 1-30件目)
1

![]()
![]()