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現代社会は競争社会です。日本でもかなりすごいのに、話に聞くと韓国やシンガポールなどはもっともっとすごいようです。当然のことながら、競争意識が強い国では小さい時から子どもを追い立てます。子どもが嫌がっても、追い立てて他の子よりも早く社会的に有利な能力を身につけさせないと、落ちこぼれてしまい、不幸になってしまうという不安があるからなのでしょう。シンガポールの病院で赤ちゃんを産んだ人の話では、生まれたばかりの赤ちゃんにも「頭が良くなる薬?」を飲ませているようです。それでその人がその薬を拒否したら、「赤ちゃんの時から競争は始まっているのよ」と脅かされたそうです。子育てにおいては子どもを追い立てても決していいことはありません。確かに、早期教育をすれば、お金を得るための能力は身につくかもしれませんが、心もからだも不安定になり、「幸せを感じる能力」や「幸せに生きるための能力」は確実に育たなくなるでしょう。もっとも、競争意識が身についてしまっている人は「お金こそが幸せなんだ」「お金がなくても幸せだなんて嘘だ」と思い込んでいるでしょうから、『「幸せを感じる能力」や「幸せに生きるための能力」など誤魔化しだ』と言うでしょうけど・・・。そのような人は「お金こそ幸せ」なんでしょうから、それはそれでいいのかも知れませんが、ただ確実に言えることは、競争社会では一部の人しか「幸せ」を手に入れることが出来ないということです。競争社会では勝ち組は少数しか存在することが出来ないのです。逆に言うと、そのことを知っているから、みんな競争するわけです。それはつまり、少数の「勝ち組の幸せ」は多数の「負け組の不幸」の上に成り立っているということです。私にはそれ自体が不幸な状態だと思えるのですが、「お金がすべて」という価値観の人は「自分さえよければOK」と思い込んでいるのでしょう。そのように過度の競争意識に支配されてしまっている国に共通しているのは、自分の国の歴史や文化を喪失してしまっているということです。具体的に言うと、欧米化される以前の歴史や文化が消えてしまっているのです。なぜなら、それ以前の歴史や文化を否定する形で欧米化を進めてきたのですから。自国の歴史や文化を否定しないことには欧米に追い付くことが出来ない、という焦りがあったのです。日本でも明治維新の時や戦後それは徹底して行われました。「風の交響曲」という大好きな映画があるのですが、その映画の中ではタイの民族楽器やそれにつながる文化を守ろうとする人々の姿が描かれています。タイでも、戦争中は徹底的に「古いもの」は否定されたのです。音楽や楽器すら否定されたのです。ただ、日本と違うのは(映画を見る限り)タイでは軍部の圧力で「古いもの」を捨てさせたのに、日本では日本人自らが喜んで「古いもの」を捨ててしまったということです。日本人は自ら進んで「根なし草」になったのです。その根なし草は、競争に勝つことによってしか、自分の位置を固定させることが出来ません。足場として存在していた大地を失ってしまったため、今度は仲間を足場にするのです。それはつまり、他者の犠牲の上にしか自分の立場を築くことが出来ないということです。ヨーロッパに行って感じるのは、300年前の人たちの生活と、現代人の生活がつながっているということです。田舎の方に行くと町の風景すらも300年前からそれほど大きく変化していません。そこでは、人から人へとちゃんと歴史や文化がつながっているのです。そのような社会では過度の競争は起きません。なぜなら、過度の競争は人と人のつながりや、社会や文化の多様性を崩壊させ、せっかく守ってきた歴史や文化を失うことになってしまうからです。「守るべきもの」を受け継ぎ、伝えようとする意識を持っている社会の人々は無駄な競争などしないのです。言い換えると、いくら「競争をやめよう」と訴えても、「守るべきもの」が存在していない社会や状況では競争はなくならないということです。これは個人でも同じで、「守るべきもの」を受け継いでいる人は無駄な競争などしないのです。「守るべきもの」を持っていない人は自分自身のアイデンティティーにおいて不安だから競争するのです。だから誰かを競争させようとする人は、その人が大切にしていることを否定するのです。そして、子どもを競争に追い立てている人は、「子どもが大切にしているもの」を否定するのです。この競争社会を終わらせるためには、子どもが大切にしていることを大切にしてあげることです。それが「幸せな社会」を作るための第一歩です。そして、自分自身もまた「本当に大切なこと」に目覚めることです。それが「幸せな人生」を生きるための第一歩です。
2012.05.31
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マーチさんから初めての幼稚園の運動会であまりの完成度の高さに違和感を感じました。ダンスも衣装も太鼓もかけっこも本当にすばらしいのです。きっと何度も練習して、先生がつきっきりで教えたのだろうとありがたくも思いましたが、、、、何ていえばいいか、分からない違和感がありました。お友達のお母さんは、「小学校の運動会は完成度が低いのよ」と言っていました。私は幼稚園や小学校の運動会は少しくらい失敗やぐちゃぐちゃがあってもいいと思うのですが、皆さん完成されたshowを期待しているのだなとなんだか違和感を感じました。森の声さんはどう思われますか?というコメントを頂きましたので、これに答えさせていただきます。子ども達が求めるのは「達成感」であって「完成度」ではありません。造形なんかでも、一生懸命に作って、すごい作品が出来たのに、最後はみんなで遊んで、ボロボロになってしまうこともありますが、“あー、楽しかった”と言うばかりで、ボロボロになってしまったことなど気にしません。でも、大人は目に見える形での完成度を求めます。それは「安心」が欲しいからです。そこに、子どもと大人の悲しいすれ違いがあります。その達成感を得るためには自由意思に基づく能動的な行動がなければなりません。その場合、親や先生は指示命令によって子どもを指導し、完成度の高い作品を作らせるのではなく、子どものやる気を引き出し、より自由に、より能動的に活動できるように支えてあげることが必要になります。指示命令によってどんなに立派な作品が出来あがっても、自分の自由意思に基づく能動的な行為の結果でなければ、子どもはその作品を誇ることが出来ません。当然のことながら達成感を得ることも出来ません。却って、無力感を感じるばかりです。でも、幼稚園などの発表会で親が見ることが出来るのはその「作品」だけです。そして親は、その作品の出来、不出来によって先生や幼稚園の努力を評価します。だから先生や幼稚園は必死になって「立派な作品」を作らせようとします。つまり、マーチさんがご指摘くださったことは「幼稚園の問題」ではなく「親の問題」なのです。幼稚園は「親のニーズ」に答えているだけなのです。その「親のニーズ」の背景には、「不安」があります。我が子の「子どもらしさ」を認め、受け入れてしまったら、落ちこぼれてしまうのではないか、という不安です。お母さんが「親」として落ちこぼれてしまうことへの不安もあるでしょう。そしてこれは、多様性を失った社会に生きている現代人の宿命みたいなものです。多様性が失われた世界では必然的に比較や競争が起きるのです。そして落ちこぼれることに対する不安も生まれます。でも、多様性に支えられている社会では、比較し、競争することには意味がありません。トンボとチョウチョを比較しても意味がないのです。でも、全部がトンボの世界では、競争が起きます。餌も、テリトリーも、行動パターンも一緒だからです。マーチさんが感じられた違和感の背景にはこの「多様性の喪失」の問題があるのです。そして、この視点から論じないことには、本当の問題点も見えてきません。そうでないと、マーチさんが「なんか変だ」と言っても、他の人からは「変なのはあなたの方でしょ」とか、「それはあんたの個人的な趣味でしょ」など言われるばかりです。でも、この問題は単に「趣味の違い」で済ますことが出来るようなレベルの問題ではありません。多様性を失ってしまった種や社会は活力を失い、やがて滅びてしまうのが自然の摂理だからです。また、多様性のない環境に育った子どもは自分の可能性を広げることが出来ません。そして、他の人の目ばかり意識して、競争することばかりを考えるようになるでしょう。そのように育ってしまった親がまた幼稚園に同じことを望むのです。じゃあどうやったら多様性を取る戻すことが出来るのかと言うと、一人ひとりが「自分」に目覚めるしかないのです。そのためには「感覚の目覚め」が必要になります。そして感覚が目覚めるためには「芸術的な活動」が必要になります。芸術には「個のめざめ」を助け、そしてその「個」と「個」をつなぐ働きがあるのです。芸術はそれ自体は何の役にも立ちませんが、子どもの成長を促す「触媒」として働くのです。
2012.05.30
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私は色々な活動をしていますが、その出発点は造形教室です。その造形教室ではテーマは自由で、絵を描いたり、木で何か作ったり、モーターを使ったり、陶芸をしたり、子どもがやりたいことを何でも自由にやらせています。どうしたらいいのか分からない子には色々なものを見せ、色々なものを提案し、一緒に考えます。このような活動を20年以上やっているのですが、その20年の間に子どもたちが大きく変わって来ました。簡単に言うと、「買っちゃえばいいのに、なんでわざわざ時間と手間暇かけてそんなことするの?」という感性の子が非常に増えてきたのです。生徒もだいぶ減って来ました。そもそも、子どもたちが「自分で作るってどういうこと」ということ自体が分からなくなって来ています。見たことも聞いたことも、もちろん体験したこともないことですから。当然、「作る」ということに対する興味もありません。昔は生活の中に「作る」という行為がありました。古くなったセーターは糸をほどき編み直しました。電子レンジなどありませんでしたから、毎日のお料理は最初から全部自分で作りました。ズボンに穴があけば布を当て、ほつれれば縫いました。棚やちょっとした物はお父さんがトンカチとノコギリで作りました。子どもの遊びの中でも、子どもたちはみんなナイフを持っていて、遊び道具を自分たちで作っていました。ビニールでできた凧など売っていなかったし、買ってもらえなかったので、自分で竹を割いて竹ヒゴを作る所から凧を作り始めました。でも、今の子どもたちが一番知っているのか「買う」という行為だけです。そして、「作る」ということに関してはテレビで見る「ワクワクさん」ぐらいです。そのため、教室に来た子は最初みんな、「何でも簡単に作れる」と思い込んでいます。しかも、お店で売っているように上手できれいなものが。そのため、「ここは自分で作りたいものを自由に作っていいんだよ」と言うと、ノコギリも使えないような子が、全くとんでもないものを作りたいと言います。それで、「それは君にはまだ無理だと思うよ」と言うのですが、「作る」ということを見たことも、聞いたこともないわけですから、「無理」ということの意味すらも分からないのです。それで「先生が教えてくれれば出来るからやりたい」などと言います。養老さんの「バカの壁」ではないですが、世の中には教えてもらっても出来ないこと、分からないことは山ほどあるのに、あまりに生活体験が少ないためそれ自体が分からないのです。ゲームの中ではアイテムさえあれば何でもできるので、その感覚なのかもしれません。それで、とりあえずやらせてみるのですが、当然のことながら始めてすぐに自分の予想とは違うことに気づきます。「○○を作りたい」と言う子に、「○○の作り方」を説明するのですが、「何でこんな説明を聞かなければならないのか」ということすら分かりません。だから「作り方」を教えているのに、「そんなんことはどうでもいいから作り方を教えて」と言うのです。「だからそれを今教えているんだ」と言うのですが、「私が言っていること」と、「自分がやりたいこと」や、「自分がやらなければならないこと」が子どもの頭の中でつながらないのです。どうも、「作る」ということを「電子レンジに入れてチンする」ような感覚で理解しているようなのです。そして子どもは、「作る」ということが「こんなにも時間がかかって、こんなにもかったるくって、こんなにも難しくって、しかも下手くそなものしか出来ない」という現実を知ります。ある子どもは自分が作ったものを見て「こんな下手なものしか出来ないんだったら買った方が良かった」と言いました。それで、教室に来た最初は「あれも作りたい、これも作りたい、ぼく作るの好きなんだ」と言っていた子が、急に「作りたいものがない」と言いだします。そこから何年もかかって、「自分で作る」ということに目覚めていく子もいますが、「スポーツ教室などに行く」と言ってやめて行く子もいます。昔は6年生までいる子がいっぱいいたのですが、最近では高学年になるとやめていく子の方が多いです。6年生頃になれば、「作る」ということを理解し、体験のなさを知識や思考力で補って、それなりに「作る」ということに目覚めていくのですが、今の子どもたちは、そこまで行く前にやめてしまうのです。でも実は、それは子どもたちの問題以上に、お母さんの問題なのです。今、サッカーやピアノや英語などには価値を感じても、造形(作るということ)に対して価値を感じているお母さんは多くないのです。そして、お母さんが造形に興味のない子どもほど「作ること」に対する興味も感性もありません。子どもが下手くそなものしか作ることが出来なくても、時には何も作らなくても、とにかく作ることの大切さを子どもに伝えたいと願って辞めさせずに教室に通わせてくれているお母さんの子は、最初はどうしていいのか分からなくても、次第に作ることに目覚めていくのです。と、長いですがここまでが前置きです。「作る」という体験から「買う」という体験に移行するのは簡単です。でも、「買う」という体験が先に来てしまうと、「作る」という体験が出来なくなってしまうのです。「歩く」という体験から「自動車に乗る」という体験に移行するのは簡単です。でも、先に自動車に乗ることに慣れてしまった子は歩かなくなります。「手を使う」ことから「機械を使う」ことに移行するのは簡単ですが、その逆は困難です。子どもは自然が豊かで強い刺激がなく、落ち着いた環境の中で豊かな感性を育てていきます。そのような子でも、思春期が来れば刺激が強い都会の中でも生活できるようになります。でも、その逆は困難です。小さい時から強い刺激の中で育った子は静かな環境の中では暮らすことが出来ないのです。子どもの成長には順序があって、1,2,3,4,5、6・・・・と連なっている成長を、1からではなく、最初に5を入れてしまうと、次には6以降しか入れることが出来なくなってしまうのです。あとから、1,2,3,4を取り戻そうとしても、取り戻せないのです。それは、家を作る時に、柱を立ててしまってからでは基礎を直すことが出来ないのと同じです。さらに困ったことに、6以降の多くは失ってしまった1,2,3,4を前提としていることが多いということです。それでも、家が建ってしまえば基礎の部分は見えなくなります。また、基礎がいい加減でも見かけは立派な建物を建てることが出来ます。ても、強い地震(困難)に耐えることが出来ません。それが今の若者たちの状態です。自分の人生を自分自身のものとして造形する能力が育っていないのです。自分の人生を自分自身のものとして生きるということは、自分の人生を造形することと同じなのです。この造形だけは「買って済ませる」とか、「機械にやらせる」とか、「レンジでチン」というわけにはいかないのです。自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、汗水たらして自分の手とからだで作り上げなければならないのです。それは、子どもの時の造形の体験と同じなのです。あと、これは最も大切なことなんですが、赤ちゃんが生まれたら、とにかく「生まれてきてよかった」という体験をいっぱいさせてあげることです。ここから全てが始まるのです。知的な能力は後からでも育ちますが、この体験によって育つものだけは後からでは取り返すことが出来ないのです。
2012.05.29
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今日の文章は「横浜自然育児の会」の会報のために書いたものですが、亮月さんさんからのコメントとも関係していると思われるので、ここでもご紹介させていただきます。「トロル」とは毎月やっている外遊びの会のことです。************************ 5月のトロルは「色水遊び」でした。食紅で作った「赤・青・黄」の三色の色水を混ぜて「自分の色」を作って遊ぶ遊びです。ちなみに食紅を使う理由は、小さい子は色水を時々飲んでしまう子がいるのと、混色がきれいだからです。 その「色水遊び」をすると、3才前後の小さい子のほとんどが全ての色を混ぜてしまい、茶色か黒っぽい色になってしまいます。そのため、いっぱい色水を作っても全部同じ色になってしまいます。計画的にきれいな色を作ることが出来るのは年長さんぐらいからのような気がします。 それでお母さんとしては、「そんなに全部は混ぜないの」とか「もうそこでやめよう」とか言って、きれいな状態の色水を作らせようとします。でも私は「好きにやらせてあげて」と言います。なぜなら、全部の色を混ぜてしまう状態の子はまだ「きれいな色」には興味がないからです。興味がないことを求められればそれは強制になるし、楽しくないし、またその体験から学ぶことも出来なくなるでしょう。 子どもだけでなく大人もそうなのですが、人間は興味があることをやっている時にしか発見もないし、学ぶことも出来ないのです。 実は、その年齢の子どもたちが興味あるのは結果としての「きれいな色」ではなく、過程における「色を混ぜること」や「色が変化すること」の方なのです。もっと小さい子の場合は単なる水遊びですが、それもまたそれを楽しむことが出来る子どもにとっては大切な遊びです。 大人がどんなに大事なことだと思っても、子どもがそれを能動的に楽しむことがなければそれは子どもにとっては無用なものであり、そこから何も学ぶことはできないのです。むしろ、「押しつけられた」という否定的な記憶しか残りません。 実は、「能動的に楽しむことが出来る」ということがそのまま「必要なことである」ということの表れでもあり、またその体験が子どもの能動性を育ててもいるのです。 幼い子どもの心とからだの内側はものすごい勢いで変化しています。そのため、子どもの心とからだはその「変化」と共鳴するようなものに強く惹かれます。逆に、年を取ってくると心とからだの内側が変化しなくなります。だから「変化しないもの」と共鳴しやすくなり、「変化しないもの」に惹かれるようになります。人間は自分の「内側」と共鳴するものを「外側」にも求めるのです。ですから、その人がどのようなものを求め、どのようなものを楽しんでいるのかということを知れば、その人の心とからだの中の状態を知ることが出来ます。 ただ、年を取ってきて「変化しないもの」に惹かれるようになったとしても、その人の意識が単に「保守的な生活」や、「保守的な考え方」に固執するようになるのか、もしくは「普遍的真理」に向かうのかは、その人の生き方の問題です。 小さい時にはグチャグチャやっていた子でも、年中さん、年長さんぐらいになるとちゃんと色を作るようになります。それは、偶然による変化を楽しむことから、能動的、意図的に変化を創り出すことの方を楽しむようになるからです。ただしそれは、それ以前にグチャグチャ遊びを体験していた子の場合です。グチャグチャ遊びを体験したことがないまま、年長さんや小学生になった子に色水遊びをさせると、年長さんや小学生でもグチャグチャ始めるか、知識に従って色を作るだけです。そして、なかなか能動的、意図的に変化を創り出す段階に移行しません。一般的にそのような子どもたちは、ただ大騒ぎをするか、すぐに飽きてしまいます。なぜならまだ「能動的意志」が目覚めていないからです。 「能動的意志」というものは自由意思に基づく、自由な行動によって目覚めるため、それを簡単に目覚めさせることが出来るのは、知識や常識にとらわれる以前の子どもたちだけなのです。知識や常識を気にするようになってしまってからでは自由に活動することが出来なくなってしまうため、能動的意志を目覚めさせるのが困難になってしまうのです。 ちなみに、大人になってからでも自我の働きによってそれを目覚めさせることは可能ですが、実際にはかなり困難です。子どものように「楽しみながら」というわけにはいきません。なぜなら、知識や常識によって固まってしまった自分を壊さなければならないからです。そのため「修行」が必要になります。 グチャグチャにはそういう意味があり、だからこそ必要な体験でもあるのです。でも、知識や常識に捉われない状態での活動ですから、必然的に知識や常識に縛られている大人が好まないような結果になります。それで大人はそのような活動を止めようとしたり、丁寧に教えようとするのですが、その結果子どもは「自由」を体験できなくなり、能動的意志に目覚めることが困難になってしまうのです。 そんな時は子どもの行為を止めたり、指導したりするのではなく、子どものそばでお母さんが色作りをして楽しんでください。そうすると、そのお母さんの活動が目標になって、子どもの能動的意志が目覚めやすくなるのです。実は、能動的な意志が目覚めるためには自由意思に基づく体験だけでなく「お手本」や「目標」も必要なのです。 昔、子どもたちが異年齢の群れで遊んでいた頃には年上のお兄ちゃんやお姉ちゃんがその「お手本」や「目標」になっていましたが、一般的に今では「お母さん」しかその役割をこなせる人がいないのです。 このようなことは「色水遊び」だけでなく、子どもの活動全般に言うことが出来ます。子どもに伝えたいことがあったら、言葉で指導するのではなく、お母さんが楽しくお手本を見せるのです。「仲良く遊びなさい」と叱るのではなく、お母さんが仲間と仲良く遊んでいる姿を見せ、実際に我が子とも仲良く遊ぶのです。 子どもは見て学び、体験して学ぶ生き物です。言葉で説明しても学ぶことは出来ません。その扉が一番大きく開いているのがグチャグチャやっている時期なのです。
2012.05.28
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水はある時は液体であり、気体であり、個体でもあります。この三つの状態を持っているのが「水」です。でも、液体である時は気体や固体の状態の水を見ることは出来ません。気体である時は液体や固体である時の状態の見ることは出来ません。固体である時も同じです。水は液体でもあり、気体でもあり、固体でもあるのですが、でも、水は液体ではありません。気体でも、固体でもありません。今どのような状態であるのかは、その水が存在している状態が分からない限り言い表すことが出来ないのです。ですから「水」というものの特徴を一言で言い表すことは出来ません。「ある時は、またある時は・・・」というように時空に限定された表現でないと言い表すことが出来ないのです。でも、「水本体」はそのような「限定された時空」を超えた存在です。ですから、時空を超えた世界に意識を向けることが出来ない人には、「液体としての水」、「気体としての水」、「固定としての水」が統合されることなく、この三つのものは「一つのもの」としてではなく、「三つのもの」として扱われます。でも、時空に束縛されていない世界ではたった一つの存在です。それを科学ではH2Oと書き表します。でも、この記号を見て、水であり、気体であり、固体である水をイメージすることは困難です。わけのわからないことを書いていますが、何が言いたいのかというと「真理」とは常に「時空を超えた所に存在している」ということです。仏像には顔をいくつも持っている仏像も少なくありません。先日、奈良の興福寺で「阿修羅像」を見てきましたが、阿修羅像も顔をいくつも持っています。不動明王や観音様も顔をいっぱい持っています。常識的には顔がいくつもあるなんてありえませんから、その姿に異様なものを感じますが、でも、時空を超えた世界に存在している真理を、無理やり現世的な表現にしてしまうと、あのような表現にせざるおえないのです。それは「水」という神様の像を作るとしたら、中央に「H2O」の象徴としての像を作り、その側面や背面に「液体」や、「気体」や、「固体」としての姿を象徴するものをくっつけるのと同じです。あの千手観音の異様な姿は「観音」という仏について説明した「説明像」なのです。あのような姿の仏様が存在しているなどと考えていたわけではないのです。「真・善・美」という言葉があります。それで、私たちはこの世界には「真」と「善」と「美」という三つの大切なことがあるのだな、と理解します。でも、それは違います。「本当に大切なこと」はたった一つなのです。その「たった一つのこと」がある時には「真」として現れ、またある時には「善」や「美」として現れるのです。「心」と「からだ」も同じです。よく、「心とからだはつながっている」と言われますが、つながっているのではなく、もともと一つのものの現れなんです。それは「水」において、液体の水と気体の水と固体の水はつながっている」という表現と同じです。こんなことを書いていると「だから何なんだ」とおしかりを受けそうですが、実はこのようなことは子育てや教育にも関係しているのです。人間は「知・情・意・体」の四つの要素によって構成されている考え方があります。それで、私たちはそれぞれの要素を別々に育てようとしています。「知」はお勉強で、「情」は情操教育で、「体」は体育でなどというようにです。これは欧米的、科学的な思考方法なのでしょう。でも、「意」だけは育て方が分かりません。なぜ「意」の育て方が分からないのかというと、これらを別々のものとして考えてしまっているからです。そして実は、これらを別々のものとして考えてしまっていては「知」も「情」も「体」も育てることが出来ないのです。子どもは「知」「情」「意」「体」の寄せ集めではありません。子どもは「子ども」という一人の人間です。ただ、その「子ども」は「知」「情」「意」「体」という四つの顔を持っているということです。だから、子育てや教育の場面では、「知」「情」「意」「体」に対してではなく、常に「子どもの本体」に働きかけるという意識が必要なのです。お勉強を教える時も、情操的な活動をする時も、体操をする時も、「子どもの本体」に働きかけるようにするのです。すると結果として「意」も育つのです。その「子ども本体」を「丸ごとの子ども」と言い表すことも出来ます。でも、このようなことは、素朴な心で子どもと向き合っている人には言う必要がないことです。素朴な心の人はいつも「子どもの本体」と向き合っているからです。そのような人はいつも「丸ごとの自分」で「丸ごとの子ども」と向き合っているのです。だから共鳴が起き、「知」「情」「意」「体」の全てが同時に育つのです。それが「芸術的な子育て」であり、「芸術的な教育」なのです。分析的、科学的、論理的な方法では「子どもの能力」を育てることは出来ても、「丸ごとの子ども」を育てることは出来ないのです。そのため「意」も育てることが出来ません。ただし、それが出来るためには「丸ごとの自分」を感じ、受け入れ、肯定する必要があります。
2012.05.27
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私は、「芸術とは何か」ということを考えることは「幸せとは何か」ということを考えることとつながっているのではないかと思っています。その「幸せの形」が昔と今とでは変わってしまったため「芸術の形」も変わってしまったのでしょう。現代人が求めている「幸せの形」は自分の要求が満たされることです。現代人は、望むものが手に入れば幸せなんです。そこでは「創造的であること」は意味を持ちません。それよりも「望むもの」を手に入れるためのお金や、権力や、情報の方が必要になります。確かに、昔の人にとっても「望むもの」を手に入れることは「幸せ」の一つの形ではありました。だからお金や権力に執着する人もいっぱいいたのでしょう。その点に関しては今も昔も、東洋も西洋も同じです。でも、それと同時に昔の人はその虚しさも知っていました。どんなにお金持ちになっても、どんなに権力者になっても「死」は必ず訪れます。そして、死ぬ時は生まれた時と同じように無一物です。生まれた時は「からだ」を得ましたが、死ぬ時はその「からだ」すら捨てなければなりません。その不安と恐怖が、人を「永遠なるものとのつながり」へと向かわせました。神様や仏様を信じることも、その「永遠とのつながり」を得るための一つの方法でした。さらに、権力者はお寺や教会を建てたり、多額の献金をしたりしました。また、「美」を求めました。「美」は人に永遠を感じさせてくれるからです。昔の人は、ただ自分の要求を満たすだけでなく、「永遠なるもの」との一体化にも幸せを求めたのです。これは全く不思議なことなんですが、人は「美」に永遠を感じるのです。だから「美」を求め、「美」に飽きることがないのです。人間は飽きっぽい動物なので、色々なことにすぐに飽きてしまいます。だからファッションでも、車でも、家でも、流行やモデルチェンジがあるのです。でも、夕日や花の美しさには飽きません。名画や名曲にも飽きません。絵描きは毎日絵を描いていても飽きません。陶芸を作る人も、毎日陶芸を作っていても飽きません。「人はなぜ、美に対しては飽きないのか」、これは「人間とは何か」ということを考えるための非常に大きなテーマです。ファッションなどにはすぐ飽きてしまうということは、そこに「変化する楽しさ」はあっても「美」がないからなのでしょう。現代人は「永遠」や「普遍的な美」を求めるのではなく、現世的、日常的な「変化」を求めています。そしてその「変化」によって経済活動が支えられています。「永遠」や「普遍的な美」を味わうためにお金は不要ですが、「変化」を楽しむためには「お金」が必要になります。また、変化の中に幸せを求める生き方は必然的に消費を増大させます。破壊も進行します。どんなにリサイクルをしても、リサイクルの過程で自然を破壊しているので、長い目で見たら結果は同じ所に行きつきます。このままでは地球上から人間が消えるという限界まで行ってしまう恐れがあります。でも、人類の滅亡は人類にとっては絶望ですが、他の動物たちにとっては希望になるでしょう。皮肉なことに、人類は今、地球にとってそのような存在になってしまっているのです。子どもたちが自然の中で仲間と遊んでいる姿は、それはそれは美しいものです。デパートの中で走り回っている子どもには困惑しますが、森の中で走り回っている子どもは美しいのです。私は、人間は「自然と共に」という生き方が一番合っているような気がするのです。とにかく、その状態が一番美しく感じるからです。その「自然と共に」という生き方に目覚めるためには、もう一度「美を求める心」を取り戻す必要があるのではないかと思うのです。その「美」は自然からやってくるのです。人間には自然に「美」を感じる本能が埋め込まれているのです。それを無視しているからおかしくなってしまっているのです。ですから「美」を大切にする人たちは、自然も大切にします。「資源」だから大切にするのではなく、「美しい」から大切にするのです。でも、経済優先の人たちにはどうしてもその感覚が通じません。
2012.05.26
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私は「芸術的である」ということと「創造的である」ということを分けていません。いわゆる「芸術」と呼ばれているような絵画や音楽の分野でも、「芸術もどき」のものはいっぱい存在するし、一見芸術とは無関係なような分野でも「芸術的な仕事」は存在しているからです。R.シュタイナーは「教育芸術」という言葉を使いました。「芸術教育」ではありません。「芸術のような教育」ということです。宮沢賢治は農業を芸術にしようとしました。ですから、「芸術的である」ということと、社会的ジャンルとしての「芸術」は異なるのです。そして私が重要視しているのは「芸術的であること」の方です。幼い子どもは「芸術」には興味ありませんが、毎日芸術的に活動をしています。その「芸術的である」ということは「創造的である」ということです。幼い子どもには「無から有を創り出す能力」があります。それは「信じる力」と、「発見する能力」と、「イメージする能力」と、「楽しむ能力」を持っているからです。でも、大人はその逆の能力を持っています。「有を無に帰する能力」です。それは、信じず、発見しようとせず、イメージせず、楽しまないからです。大人はすでに知っていること、出来ること、持っているものを組み合わせて対応するだけで、無から有を創り出すようなことはしません。それは単なる作業であり、お仕事です。でも、だから楽しむことが出来ないのです。ただ、「創造的であるということはどういうことなのか」ということが、創造的ではない人には伝わりにくいのです。太極拳の動きは決まっています。ですから毎日太極拳をやっている人は毎日同じ動きを繰り返すことになります。でも、その同じ動きの繰り返しでも創造的に動くことが出来る人と、単なる作業のように動く人がいます。この両者の違いは感覚的な違いなので機械で測ることは出来ません。この違いをマニュアル化することも出来ません。そして、創造的に動くことが出来る人が見れば、この両者の動きは全く異なる動きに見えますが、創造的に動くことが出来ない人にはその違いは見えません。その違いは触れてみれば分かりやすいですが、見ているだけではなかなか分かりません。私の先生もよく触れさせました。簡単に言うと、作業的に動いているだけの時には表面だけが動き、中は止まっているのです。でも、創造的に動いている時には内側が動き、外側は結果として動いているだけです。腕一本動かすだけでも、「作業的動き」と、「創造的な動き」の両方が可能なのです。作業的に動かしているだけの腕は単なる「物」ですが、創造的に動かしている腕には「生命」がこもっています。鉛筆や筆で一本の線を引くだけの時でもこの違いは現れます。作業的にひかれた線は記号のようであり、創造的にひかれた線は生き物のようです。森光子主演の『放浪記』(ほうろうき)という舞台は2000回以上も上演されました。当然のことながら森光子は2000回同じ役をやり、同じセリフを言い、同じ動きをしました。でも、2000回も続いているということは毎回初演のように演じることが出来ていたということでもあります。なぜなら、同じ作業の繰り返しになったとたん舞台は色あせ、退屈になり、お客が来なくなり、2000回も続くわけがないからです。リピーターもいっぱいいたでしょう。そのような人は毎回同じ芝居を見るのです。でも、毎回感動するのです。だからリピーターになるのです。名画と呼ばれるものも同じです。毎日見ても見あきないのが名画なのです。それが創造的であるということであり、同時に芸術的であるということなのです。見かけ的には全く同じでも、人間は本能的に「創造的な活動」には「生命」を感じ、単なる「作業」には「死」を感じるのです。だから子どもの遊びにも生命を感じるのです。大人の目には子どもは毎日「同じこと」を繰り返しているように見えますが、子どもは毎日「新しいこと」をやっているのです。新しいことだから毎日楽しいのです。そこに気づかないと子どもの心を感じることは出来ません。大人も毎日を「新しい日」として迎えることが出来るようになれば、毎日が楽しくなるのです。昨日の繰り返しだと思うから退屈するのです。でも、この違いを理解し、実際に創造的に動くのは非常に困難です。私も意識していれば出来ますが、意識していなければ出来ません。それが、子どものようにいつでも無意識にできるようになったら達人です。偉大な芸術家でも、年を取ってくると次第に慣れが働き、「創作」が「作業」になってしまい、作品が退屈になってしまうことも多いのです。
2012.05.25
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マシュマロさんが学級崩壊もイジメも引きこもりもニートも生活保護も、表面上は「問題」ですけど、その必然性はあると感じます。と書いて下さいましたが、確かにその通りです。簡単に生活保護に依存してしまう若者にも必然性はあり、それは必ずしも彼らだけの責任ではありません。野菜を育てていて、その野菜の出来が悪かったとしてもそれはその野菜のせいではないのと同じです。だから私はそのような若者を責めているのではありません。そのような若者が増えてきていることの問題点を指摘しているだけです。(これはマシュマロさんに対して書いているのではなく、結構そのように受け取ってしまう人が多いので一応書いています。)野菜の例でいうと、それは育て方の問題かもしれません。雨が少なかったり、多かったり、雨が降る時期が悪かったり、寒すぎたり、熱すぎたりしたせいかもしれません。また、もっと別の原因があるのかもしれません。このような問題を「個人責任」にすり替えてしまうと、本質的な問題を解決できなくなります。でも、そのような問題にしっかりと目を向け、「この葉っぱは色がおかしい」とか「この実には○○虫がついている」というように、個々の状態の問題点を検証して行かないことには「本当の原因」は見えてきません。でもそれは「個」を非難するためではありません。そうではなく、「個」を救うためにです。「他の野菜にはトラブルがないのに、この野菜にだけトラブルがある」というような場合は、その問題は「個」の問題です。でも、ある地帯全部の野菜に異常があるとしたら、それは「個」の問題ではありません。日本中でそのような状態が進行しているとしたら、それは日本という国の問題か、その日本を含む世界全体の問題です。そして私はこの若者の問題は、人類の未来に関わる「世界全体の問題」だと思っています。その証明をするために、「個」の状態を検証しているのです。ですからもし、2,30代で生活保護を受けていらっしゃる方がこのブログをお読みになっても「おれたちを馬鹿にするな」などとお怒りにならないようにお願いします。今、「遊んでくれる何か」がないと遊ぶことが出来ない子どもがどんどん増えています。森や野原に連れて行っても、ボールやゲーム機や遊びを指導してくれる大人がいないと遊ぶことが出来ないのです。そして、目の前に広がる自然と関わろうとせず「退屈だ」と繰り返します。うちの教室では「これをやりなさい」という指示は出しません。基本的に自由に作らせています。そのため、造形関係の本も山ほど置いてあるし、見本などもいっぱいあります。それで昔は「ここは何でもできるから楽しい」という子がいっぱいいました。それでこちらが困るようなことまで勝手にやってしまう子も結構いて、「それはやめてくれ」というような場面もよくありました。造形教室なのに穴掘りや焚火に夢中になる子もいました。でも、10年ぐらい前あたりから自信がなく無気力な子どもたちが増えてきました。(20年前ぐらいから、子どもと関わる現場で働いている人から「子どもたちがおかしくなってきた」という話は聞いていました。今、その時の子どもたちが親になっています。)それ以前は「そこまでやるな」と注意しなければならないような元気な子がいっぱいいたのに、その頃から「わかんない」「できない」「先生やって」を連発する自己肯定感が低く、無気力な子が増えてきて、「大丈夫 頑張ればできるから」「先生が手助けしてあげるからやってみよう」などと励まさなければ活動できない子どもたちが増えてきたのです。1991年に「大事MANブラザースバンド」が「それが大事」という以下の歌詞の歌を発表しましたが、これもそのような子どもたちの増加と関係しているのではないかと思います。負けない事・投げ出さない事・逃げ出さない事・信じ抜く事駄目になりそうな時 それが一番大事負けない事・投げ出さない事・逃げ出さない事・信じ抜く事涙見せてもいいよ それを忘れなければ今では「負けるな」というような「励まし歌」ではなく、「それでいいんだよ」というような「慰め歌」がいっぱい流行っています。SMAPの「世界に一つだけの花」も「慰め歌」の一つです。当然、そのような状態では創造的な活動は出来ません。ただ、言われたことをやるだけです。でも、それでは退屈なので「退屈だ」を繰り返します。「退屈ならなんかやったら」と言っても「何をやったらいいのか分からない」と言うのです。それで「こんなことも出来るよ」などと色々と教えるのですが、能動的に動くこと自体が困難な状態なようで、「それはやだ」というばかりで何もしません。おもちゃやゲーム機がないと何もできないのです。偶然かどうか分かりませんがそれと同じ頃から発達障害の子どもたちも増えてきました。(診断を受けている子も数人いますが、それと同じ程度かもっと状態の悪い子の方が多いです。)よく、「昔もいたけど、今のように障害に対する関心が薄かったから発達障害に気づかなかっただけだ」などという人がいますが、明らかにそれだけの問題ではありません。私が子どもの頃は1クラス50人以上いましたが、(先生が厳しくなくても)クラスが混乱することなど全くなかったからです。一人、授業中フラフラしている子もいましたが、それはその子だけでした。でも今、自分で自分をコントロールすることが出来ない子どもたちが急増しています。そのような子は、誰かがフラフラすると、つられてフラフラ始めてしまうのです。その結果学級全体が崩壊します。その背景には発達障害の子の増加もありますが、それだけではありません。そのような子の一番大きな特徴は「無気力だ」ということです。無気力な子は発達障害でなくても、集中できなくなってしまうため、ちょっとの刺激にも振り回されてしまうのです。そしていつも「刺激」を求めています。私には「発達障害的な素質」+「無気力」が状態をさらに悪化させているのではないかと思えるのです。うちの教室の子どもたちを見ていても、発達障害の診断を受けている子でも無気力でない子の場合はそれなりに仲間とうまくやっているし、それなりに落ち着いてもいます。そのような子のお母さんは、「その子らしさ」を肯定した子育てをして、また子どもが強い刺激に触れないように注意しています。今、その無気力な子どもたちが増えてきていますが、その「無気力」を作り出しているのは社会や子育てのあり方です。「発達障害」そのものは、子育てや社会のせいではありませんが、発達障害を悪化させているのは子育てや社会のあり方だということです。確かに昔も「発達障害的な素質」を持った子はいっぱいいたと思います。でも、小さい時から自然の中で仲間とからだいっぱい遊んでいたので、無気力にはならなかったのでしょう。それで、素質はあっても状態が悪化することなく、小学校に上がる頃にはそれなりに落ち着いて行ったのではないかと思います。子どもたち本来の遊びは、非常に創造的、芸術的です。それは我が子たちを見ていても強く感じました。いつでも遊びを発見していました。何かがなければ遊べないなどということはありませんでした。そんな遊びを通して子どもたちは「元気」を育てていました。でも今、その「元気を育てる遊び」が消失してしまいました。だから子どもたちが無気力になっているのではないかと思うのです。ちなみに、大人は「遊び」と「芸術」を分けますが、子どもたちにとってはそれらは同じものです。
2012.05.24
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日本人にとって「芸術」とは主に見たり聞いたりして観賞するものです。それ以外の「芸術」はほとんどありません。あったとしてもごく一部の人たちだけが行っているだけです。日本には「職業」としての芸術活動や、商品としての「観賞用芸術」は存在していても、親から子へ、また人から人へと直接伝える形での、「文化としての芸術的創作活動」というものが存在していないのです。確かに、学校では絵を描いたり、歌を歌ったり、何かを作ったりします。でもそれは、常に「評価」の対象であり「上手」を求められています。そんなもの「芸術」ではありません。本来、「芸術」とは「評価しえないもの」だからです。当然のことながら、芸術にも個人の感想として「好き」「嫌い」「合う」「合わない」はあります。それらを競うことも可能です。でも、それはあくまでも個人の感想に過ぎません。それはその、「創作されたもの」の価値とは異なります。子どもが「ピーマンが嫌い」と言ったからといって「ピーマンには価値がない」などという判断を下す人はいませんよね。それと同じです。芸術的創作活動によって創造されたものは、唯一無二であって比較のしようがないのです。そういう意味では幼稚園児が作った粘土の動物と、有名な作家が作った粘土の動物も同じなのです。だから真に偉大な芸術家は常に初心者なのです。そしてそのような人は、作者がどんな有名な芸術家でも「いい加減に作ったもの」は馬鹿にしますが、作者がたとえ初心者であっても「真剣に作ったもの」は馬鹿にしないものです。そこにはただ第三者による「商品価値の違い」があるだけです。そして現代人は「商品価値」と、「芸術としての価値」を混同してしまっています。ですから、本来は「芸術のコンクール」というものもありえないのです。世界には、ピアノコンクールとかダンスコンクールというものがありますが、あれはあくまでも「表現の技術」を競うものであったり人気投票のようなものであって、一等になったからといって芸術的に素晴らしいとか、落選したから芸術的に価値がないということではありません。ただ単に「審査員のお眼鏡にかなった」というだけのことです。それは芸術の歴史が証明していることです。その作家が生きている時には全く評価されなかったのに、後世になって評価されるようになった芸術家などいっぱいいます。当然、その逆の「生きている時には高い評価を得ていたのに、現在では評価が低い芸術家」もいっぱいいます。さらにまた、将来その評価が逆転するかもしれません。私は、コンクールのようなものも芸術を堕落させてしまった一因だと考えています。多くの人がコンクールが芸術の社会的価値を引き上げ、その評価基準を一定化させ、芸術の振興に役に立っていると考えているようですが、でも、そのコンクールのせいで芸術が庶民のためのものではなくなってしまったのです。そして、経済活動によって商品化され、「管理されるもの」になってしまったのです。子どもたちやお母さんたちに「絵を描こう」とか「歌を歌おう」などと言うと「私は下手だから」と言って拒否します。劇やダンスなどはもっと強く拒否します。「次回は劇をやるからね」などというと参加者がガクンと減ります。でも、本来芸術の世界に「うまい・へた」はないのです。本来の芸術的な活動においては、その創造的世界の中に入ることが出来るか、創造的活動を楽しむことが出来るかということだけが大切なんです。芸術活動とはただ単に絵を描いたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりすることではなく、創造的な活動のことなのです。ですから、芸術家と呼ばれる人でも、ただ技術だけでそれを行っているなら、それは職人的な行為であって、芸術家としての活動ではありません。逆に、職人と呼ばれる人でも、常に最高のものを目指して活動をしているなら、その行為は芸術的な行為です。それはジャンルを選びません。サラリーマンでも、常に最高の仕事を目指して仕事をしているなら、その人の仕事は芸術的な行為です。勉強でも、勉強方法を自分で工夫して勉強をしている子は芸術的な行為をしていることになります。どんなに下手くそであっても、自分の頭で考え、自分の心や感覚で感じ、自分の意志で活動しているならそれは立派な芸術活動です。芸術的行為、創造的行為とは「無」から「有」を創り出す行為のことです。絵を描く時は真っ白いキャンバスから始めます。歌を歌う時は無音の状態から始めます。価値のないものに価値を与えさりげない動きを表現に変え古いものを新しくし意味を失ってしまったものに、新しい意味を与えまだ存在していないものに姿を与え見えないものを見える形に変え聞こえない音を聞こえる音に変えます。だからこそ、自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意志で活動する必要があるのです。自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意志で活動することが出来ない人には「見えないもの」は観えません。「聞こえない音」を聴くことも出来ません。だから、それらを「見える形」「聞こえる音」に変換することも出来ないのです。よく「自分が生まれてきた意味が分からない」などと言う人がいますが、それは真っ白いキャンバスを前にして、「何が描いてあるのか見えない」と言っているようなものです。自分が生まれてきた意味は自分で創り出す以外にないのです。つまり、「生きる」ということそのものを「芸術的な活動」に変えていかないことには、「生まれてきた意味」は生まれないのです。「生きる」とは真っ白いキャンバスに絵を描いていくようなものなのです。そして現代の教育や社会に欠落してしまっているのは、その芸術的活動なのです。だからみんな依存心ばかりが強くなり、無気力になってしまっているのです。今、20代の働き盛りでありながら生活保護を申請する人が増えてきているそうです。社会に出て、ちょっと頑張ってみたけどレールに乗り損ねてしまった若者が、非常に安易に生活保護に依存しようとするのです。ネットには、若者たち向けに「働くよりも生活保護の方が利点が多い」ということを説明し、簡単に生活保護を申請するためのマニュアルが流布しているそうです。指示命令に従って生きてきた若者たちは、自分の頭で考え、自分の心と感覚で感じ、自分の意志で行動することが出来ずに、すぐに何かに依存しようとします。脱法ドラッグのような麻薬も同じです。そのような若者は「創造する生き方」が出来ないのです。そしてそのような若者が増えてきたら必然的に社会は崩壊します。
2012.05.23
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現代社会では何でもかんでも管理しようとしています。なぜならその「管理」こそが文明の本質的な要素だからです。人類の文明は、水を管理する、気候を管理する、野菜の成長、牛や豚の成長を管理する、お金を管理する、時間を管理する、自分の心とからだを管理するという方向で発展してきました。現代では、空気中の二酸化炭素や、海にすんでいる魚たちや、地球そのものまで管理しようとしています。動物たちに対しては、その行動だけでなく、出産や死や、時には遺伝子まで管理しようとします。でもそのことで、管理された対象は、自然から切り離され、その内側に存在していた自然のリズムや生命力を失います。現代社会では、人間もまた管理されています。その行動だけでなく、思想や、知識や、出産や、死や、時には遺伝子まで管理されています。そのように管理された社会では人間の「能動的意志」や「自由意思」というものは大切にされません。むしろ、管理を妨げる邪魔者として扱われています。文明社会はなぜ管理を目的とするのかというと、それは「文明」を守るためです。管理を失ってしまったら自然な状態に戻ってしまうため、文明を維持するためには管理が必要なのです。つまり、そこで生きている人々のために文明があるのではなく、文明を維持するために人々が生かされているのです。それは軍隊と兵隊さんの関係と同じです。軍隊は兵隊さんのためにあるのではありません。軍隊のために兵隊さんが存在しているのです。だから、軍隊では徹底的に兵隊さんを管理するのです。現代社会も同じ状態です。子どものために幼稚園や学校があるのではなく、幼稚園や学校を維持するために子どもが必要なのです。もちろんそうでない幼稚園や学校もいっぱいありますが、でも、社会全体の流れはそのように進んできています。大阪の橋下さんや東京の石原さんはその流れの象徴的な人物です。そのような幼稚園や学校では、「子どものため」ではなく、「お金を払ってくれる親」や、政治家や経済界のための教育をします。そして、親もまた「子どものための教育」ではなく「親が自慢できるような子どもを育ててくれる教育」を望んでいます。そして、「アメとムチ」という方法を使って、動物を調教する時のような教育をします。ですから当然、子どもの自発的意志や自由意思は否定されます。でも、そのような教育では「個」が育ちません。そして、自己肯定感も、自尊心も持っていない大人たちばかりが育ちます。それで結局、文明も社会も家族も崩壊します。それは、兵隊を管理しすぎてやる気を失わせてしまい、軍隊自体が崩壊してしまうようなものです。今私たちの社会は、その崩壊直前の状態です。地域は崩壊しました。仲間も家族も崩壊しました。今度は政治や経済が崩壊して日本という国自体が崩壊しそうです。自分の思想や哲学を持たず、まともな判断能力も責任能力もない人たちが、日本の政治を動かしているのですから。あの人たちが日本の教育制度の結果です。どうやら私たちは「守るべきもの」「目的とするべきこと」を間違えてしまったようです。本当の教育の目的は子どもに高い成績を取らせることではなく、学ぶ喜びに目覚めさせることなのではないのでしょうか。本当の仕付の目的は「従順な良い子」を育てることではなく、子どもが、「自分で判断して、自分の意志と責任で行動することが出来る大人」に成長できるように支えるためのものなのではないでしょうか。本当の政治の目的は「物質的に豊かな社会」を作ることではなく、「人々が豊かさを感じることが出来る社会」を作ることなのではないでしょうか。今の日本は、物質的には世界でトップクラスに豊かな国なのに、でも、豊かさを感じることが困難な国になってしまっています。唐突なようですが、この危機を乗り越えるためには「芸術」が必要なのです。「芸術とは何か」という問いかけの中に、現代社会が抱える問題点を乗り越えるための答えが隠されているのです。「管理」は「芸術」と対立するのです。なぜなら芸術はその内側に、自然とつながった秩序を内在しているからです。だからこそナチスや共産主義国などでは芸術家を迫害したのです。「管理」を否定するだけでは、社会が崩壊します。そうではなく、今必要なのは「自然」というものと「人間」が共存することが出来る新しい秩序なのです。それが「芸術」だということです。なぜなら、「芸術は、「人工」と「自然」をつなぐ所に存在しているからです。ですから、芸術を大切にしている人たちは子どもを管理したりはしません。また、芸術的な活動に親しんでいる子どもたちは管理を必要としません。芸術そのものが秩序だからです。そして、現代人は、「芸術」を失ってしまったから「哲学」を失ってしまったのです。哲学と芸術は兄弟なのです。
2012.05.22
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教育の場においては「子どもの能力を育てる」「子どもの知性を育てる」「子どものからだを育てる」「子どもの心を育てる」「子どもの感性を育てる」というような表現はごく普通に使われています。でも、「能力」も、「知性」も、「からだ」も、「心」も、「感性」もみんな、「子ども」というたった一つの統合体の内側に存在するものですから、その「子ども」を通さないことにはそれらのものに働きかけることは出来ません。そして、「子どもの内側」に働きかけるためにはその世界の主である「子ども」の協力が必要になります。ですから、肝心の「子ども」が協力を拒否したら、一切の教育は不可能になってしまうのです。「子どもの知性を育てる」といっても、大人が直接子どもの知性にアクセスできるわけではありません。子ども本人の協力がない限り大人は決して子どもの内側にある「知性」にアクセスすることは出来ないのです。だからこそ、子育てでも教育でも大人の思い通り、計画通りには子どもを育てることができないのです。でも、なぜか大人たちは子ども本人の協力を得ようとせず、子どもを押さえつけ、言うことを聞かせ、無理やり子どもの内側に侵入しようとします。確かに、時にはその方法で子どもの部分的な能力だけを強化することは可能です。でも、その能力は「大人のもの」であって、「子ども本人のもの」ではありません。子どもの内側にはありますが、子どもにとっては不要な「異物」なのです。ですから、コントロールすることも出来ません。さらに、自分の内側にその異物を埋め込まれてしまった子どもは、自分が「自分」の主人であることが出来なくなり、一生その異物に支配されることになります。それは、「子ども」が大人によって植民地化されてしまうようなものです。統合体(丸ごと)として存在しているものを、要素に分解して働きかけようとする時、必然的にその統合体の「主」は否定されてしまうのです。でも、本来、子育てや教育で育てなければいけない対象はその統合体の「主」の方なのです。様々な能力や要素はその「主」本人が育ち、その「主」本人の意識と努力によって強化されなければならないのです。また、そうやって得た能力でないと使いこなすことが出来ないのです。それに、そうやって能力を得ることが出来るから自己肯定感も育つのです。自己肯定感は自分が自分の主であるという自覚が生み出すのです。周囲の大人に出来ることは、その「主」の手助けをすることだけです。でも、今の子育てや教育では全くその逆をやってしまっています。**************日蝕見えましたよ。でも、日蝕グラスは役に立ちませんでした。薄曇り状態だったので、日蝕グラスを通すと真っ暗で何も見えませんでした。
2012.05.21
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現代人は、もともとつながり、支え合い、一つの「丸ごと」(統合体)として存在しているものを、バラバラに分割して、それぞれに機能強化すれば全体としての能力もアップすると考えているようです。それは、XがAとBとCの集合体として存在する時には、A・B・Cそれぞれの機能をアップすれば全体としてのXの機能もアップするという考え方です。だから、「頭」を育てる時には「頭」だけに働きかけ、「からだ」を育てる時には「からだ」だけに働きかけ、「心」を育てる時には「心」だけに働きかけるのです。学校で教えている教科が、国語、算数、理科、社会、音楽、美術というように縦割りになっているのもそのためです。でも、そこでは非常に重要なことが見落とされています。それは、現実の世界では、統合体として存在しているものは分離不可能だということです。機能によって分離することが出来るのは抽象化された人間の脳内イメージの中だけであって、現実にはそのようなことは不可能だし、また実際そのようには存在していないのです。私が誰かの腕を握って引っ張ったとします。腕はからだの一部ですから当然その時、相手のからだも引き寄せられます。でも、その時に発生しているのは相手のからだの位置の変化だけでしょうか。まず、引っ張られることでバランスが崩れますから、頭の位置や背中や足などを含めた、からだ全体の状態を変化させて、倒れることを防ごうとします。当然、「え? なぜ? どうして?」などと思考も動くし、感覚も、感情も動きますよね。私は「部分」に働きかけただけなのに、相手は「全体」が反応するのです。なぜなら、統合体においては「部分」の状態はつねに「全体」と共鳴しているからです。そして「全体」の状態もまた、常に「部分」に影響を与えています。確かに、イメージの中だけでなら、その統合体を、機能ごとに分離することは可能です。私もそのような視点でものを語ります。全体のことを同時に語ることは出来ないからです。それが「言葉」の限界です。私たちは、「象という生き物は、鼻はホースのようで、からだはビヤダルのようで、尻尾はヒモのようで、足は柱のようで」というように部分の説明を通してしか、「象」という生き物のことを説明することが出来ません。本当は「象」は「象」という一つの統合体であって、鼻やからだや尻尾や足の寄せ集めではないのですが、言葉では「寄せ集め」という形でしか表現することが出来ないのです。なぜなら、「言葉」そのものが寄せ集めることで作られているからです。ですから、言葉だけに依存した文化では、人々が「部分」だけにこだわるようになり、肝心の「全体」のことを忘れてしまうのです。その結果、「がん細胞には勝ちました。でも、患者さんは死にました。」ということになってしまうのです。それに対して、芸術では常に「全体」をその対象にします。絵画の中に描かれている「象」は鼻やからだや尻尾や足の寄せ集めではありません。工場などで作業する時にはからだの部分だけを動かします。でも、ダンサーは常に心もからだも全体を動かしています。見かけ的には指先だけしか動かしていないように見えても、その指先を動かすために目に見えないような形で心やからだの全体を動かしているのです。だから指先を動かすだけでも美しくなるのです。太極拳などでも同じです。先生の動きを真似して動くことは出来ますが、見かけだけ真似をした動きは部分しか動いていないため、全体としてのパワーが出ないのです。「火事場の馬鹿力」という言葉がありますが、あれはいつもは部分しか使っていない人が、非常事態の中で部分を忘れ、全体を使うことで生まれてくる力なのです。ただ、このように書きながら今ジレンマを感じています。「全体」のことを説明しようとしているのですが、「全体」を「全体」のまま説明することが出来ないからです。ですからお読みになっている方は、全体を部分化したものしか理解することが出来ないでしょう。それでも、「全体」のことが分かっている人は「そうですね」と分かってくれるのですが、「言葉」という手段では、分からない人に分かるように伝えることが出来ないのです。どんな文豪に料理のおいしさを書いてもらっても、決してその味は伝わらないのです。むしろ分かった気にさせてしまう危険性もあります。だから私はワークショップという形式で活動しているのです。全体は全体との共鳴を通してしか伝えようがないのです。その場合、理解するのではなく、感じることが大切になります。部分は理解できますが、全体は感じるしかないのです。
2012.05.20
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私たちは「心」と「からだ」と、意識や思考をつかさどる「頭」という三つのシステムによって構成されています。この場合の「からだ」とは、単なる肉体のことではなく、感覚やからだを維持するための生命システムの全てが含まれます。そして、この三つのシステムはそれぞれ進化における発生時期が異なります。まず「からだ」というシステムが発生し、次に「心」というシステムが発生し、最後に意識や思考をつかさどる「頭」というシステムが発生しました。ですから、原則的に、私たちのからだの中でその三つのシステムは別々に管理されています。三つのシステムは密接につながり、「私」という存在の中で統合的に管理はされているのですが、個々のシステムを中心的に管理している場所はそれぞれに異なるのです。だから記憶にも「頭の記憶」と「心の記憶」と「からだの記憶」があるのです。そして、人間が生まれ、成長していく過程でも、この三つのシステムは人類の進化を繰り返すように「からだ」「心」「頭」の順に成長して行きます。ですから、幼い子どもたちを育てる時には、感覚や自律神経や様々なからだを維持するための生命システムのことを大切に考えながら育てる必要があります。この時期の「からだの育ち」が、それに続く「心の育ち」と「頭の育ち」の基礎になっていくのですから。受精した時点から7歳前後の歯が抜け変わるまでの時期までは、この「からだの育ち」を支えてあげることが非常に大切だと思います。また、この時期に、充分に「からだ」が育っていないと、その後に続く「心」と「からだ」の育ちにも影響が出ると思います。「心の育ち」は社会性の育ちとつながっていますから、2,3才の反抗期の頃から、14才前後の思春期頃までが一番重要だと思います。「頭の育ち」は客観的な意識の目覚めと関係していますから、7~9才頃から、20才前後までが一番重要でしょう。ただし、抽象的な思考が可能になるのは14才前後からですから、大人と同じような頭の使い方が可能になるのは思春期以降です。それまでは「思考によって考える」という方法ではなく、「体験を通して考える」という方法の方が重要になります。ですから、思春期前の学習においては「体験とセットにして学ぶ」ということが大切だと思います。そして、この三つの育ちは「からだの育ち」が「心の育ち」を刺激し、「心の育ち」が「頭の育ち」を刺激するという関係になっています。さらに言えば、「具象的な思考」が「抽象的な思考」を刺激します。逆にいえば、「からだ」が目覚めなければ「心」は目覚めず、「心」が目覚めなければ、「具象的な思考」も目覚めず、「具象的な思考」が目覚めなければ「抽象的な思考」も目覚めないということです。人間の成長にはこのような順序と関係と時期があるのです。ですから、これを無視して幼いうちから「頭の教育」をしようとしたり、からだの育ちをないがしろにしていると、最終的に「心の働き」や「頭の働き」において未熟な人間が育ちます。そのような人は「からだの働き」もまた不安定でしょう。ただ、これらの三つのシステムは別々の時期に別々に育っているのですが、これらを一人の人間の中で統合する必要があるのです。そうしないと「私」が分裂してしまうからです。その、統合する作業が様々な「遊び」や「芸術的な活動」なのです。子どもたちは遊ぶのが大好きですが、子どもたちはその遊びを通して、「頭の働き」と「心の働き」と「からだの働き」を統合しているのです。続きます。
2012.05.19
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昨日は、人間は「頭の記憶」と「心の記憶」と「からだの記憶」の三つの記憶を持っていると書きました。からだには「からだの言葉」があります。心には「心の言葉」があります。ですから「からだの記憶」は「からだの言葉」として記憶され、また語られます。「心の記憶」は「心の言葉」として記憶され、語られます。「頭の記憶」も同じです。私たちは文字で書き笑わすことが出来るものだけを「言葉」として考えていますが、「言葉」を「コミュニケーションのための道具」として考えるなら、この世界には、文字で書くことが出来ない言葉も、音声化することもできない言葉もあります。ちなみに、その「文字化出来る言葉」を「頭の言葉」と定義しておきます。そして、「心の言葉」も「からだの言葉」も文字で書き表すことは出来ません。ですから文字化出来るような言葉として語ることも出来ません。子どもたちは産まれてからまず「からだの言葉」を学び始めます。それは感覚を使って直接コミュニケーションする言葉です。多くの動物たちがこの言葉だけでコミュニケーションをしています。次に、「心の言葉」を学び始めます。それは声や表情やしぐさによる言葉です。ですから、子どもにとっては「何を言ったのか」という「文字化出来る情報」ではなく、「どのような声としぐさと表情で言ったのか」ということの方が重要になります。大人が優しい言葉で語りかけても、その時の声や表情やしぐさに優しさを感じないなら、子どもはその言葉から大人の意図とは異なる意味を理解します。思春期前の子どもたちはそのように「からだの言葉」や「心の言葉」の方が得意なので、子ども同士でも「頭の言葉」はあまり使いません。ですから、思春期頃の子どもは議論することも可能ですが、思春期前の子どもには議論は出来ません。そしてそのため、思春期前の子どもは自分の心やからだの状態や、心やからだが体験したことを「頭の言葉」として言葉化することが苦手です。「からだの言葉」や「心の言葉」として表現はしているのですが、そのような言葉に鈍感になってしまっている大人は、「頭の言葉」で説明してもらわないことには理解することが出来ないのです。子どもは、からだの調子が悪い時や、お腹が痛い時や、頭が痛い時なども、どの辺がどのように具合が悪いのか、痛いのかを言葉化することが出来ません。そして、ただ機嫌が悪くなったり、寝込んだり、泣いたりするだけです。そんな時、不安になったお母さんが一生懸命にその様子を聞きだそうとしても、子どもはそれを説明することが出来ません。何か心の問題で幼稚園や学校に行けなくなった時も、子どもはその心の状態を説明できません。そして、「お腹が痛い」というようにからだの状態として訴えたりするのですが、お腹のどの辺がどのように痛いのかを説明することは出来ません。子ども同士がケンカした時も、どうしてケンカしたのか、どのようにケンカしたのかなどを説明することが出来ません。遠足の作文を書かせると、「○○へ行きました。楽しかったです。」「○○を見ました。面白かったです」的な記述ばかりです。何かを食べて感想を聞いても「まずい」とか「美味しい」というような、紋切り型の言葉しか出てきません。読み聞かせをして感想を聞いても「楽しかった」というような言葉しか返って来ません。大人は「どこがどのように面白かったのか、そしてどのように感じたのか」と言うことを聞きたいのですが、子どもはそれを説明することは出来ません。それで大人はがっかりするのですが、子どもたちは感じていないのではないのです。ただ、「頭の言葉」で言葉化することが出来ないだけなのです。多くの場合、子どものこのような状態を大人は「言語能力が未熟だから」という形で理解しますが、そうではありません。思春期前の子どもでは、「心の働き」と「からだの働き」はつながっているのですが、それらと「頭の働き」(意識の働き)がまだつながっていないからなのです。「大人の言葉」(文字化することが出来る言葉)は「頭の働き」によって生まれてきます。心で感じたこと、からだで体験したことを言葉化するためにはそれらを「頭の働き」を通す必要があるのです。でも、それがつながっていないため、それらを言葉化することが出来ないのです。でも、感じていないわけではありません。覚えていないわけでもありません。なぜなら絵のような芸術的な表現活動の中では表現することが出来るからです。手のない自分の絵を描く子、真っ黒に塗りたくる子、いつも小さくしか描けない子、色を使うことが出来ない子達に、「どうしてそういう絵を描くの?」と聞いても答えることは出来ませんが、でも、何かを感じているからこそ、そのような表現をすることが出来るわけです。臨床心理学では「箱庭療法」というものを行うことがあるようです。これは簡単に言ってしまえばジオラマで遊ぶ遊びのようなものです。一種の表現活動でもあります。そのような活動の場では、自分の状態を言葉で表すことが出来ないような子ども達でも、表現として自分の心やからだの状態を表すことが出来ます。思春期前の子どもたちにとって、「頭の言葉」は「大人と話すための道具」であってまだ自分自身のための道具ではないのです。だから「自分のこと」を語ることが出来ないのです。そして子ども同士では「頭の言葉」を使わないのです。自分の心やからだの状態を自分の言葉で語ることが出来るようになるためには、思春期が来て、「頭の働き」と「心の働き」と「からだの働き」が統合され、「自分の言葉」を持つことが出来るようになってからです。確かに幼稚園や小学生の子どもでも、言葉の表現が上手な子もいます。大人のような表現をする子もいます。テレビでよく見かける子役の子どもたちはみな言葉の使い方が上手です。でも、ここで誤解してしてはいけないのは、「言葉の表現が上手」だからといって、「自分の心やからだと対話するのが上手」だとは限らないということです。そのような子は、ただ単に「大人と話すのが上手」というだけのことなんです。さらに、その言葉は「自分の言葉」ではありません。子どもにとって大人は自分たちとは異なる感覚や思考や言葉を持った外国人と似たような存在です。ですから、子どもたちが大人と会話しようとする時には、「心の言葉」や「からだの言葉」といった自分たちの「子ども語」ではなく「大人語」を使う必要があります。そのため、自分の感覚や心やからだの世界を感じる能力が萎えてしまう恐れがあるのです。そのような子は、言葉をいっぱい知っているのに、自分のことを語ることが出来ません。そこで語られる「自分」は自分の心やからだとつながった本当の自分ではなく、大人が理解できるように頭の中で作り上げた「観念的な自分」です。そのような子は自分に嘘をつくのが上手です。
2012.05.18
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昨日の続きです。私たちは日常的に「記憶力」という言葉を使いますが、その記憶についてあまり厳密に考えることはしていません。でも、実は記憶の働きというのは非常に複雑で、そう単純なものではないのです。一般的に、人間は記憶喪失になっても言葉や歩き方や様々な技術が失われるわけではありません。以前、記憶喪失状態で発見されたピアニストが話題になったことがありますが、昔のことは全然想い出せないのに、ピアノは弾けるのです。それは想い出せないのは「頭の記憶」だけであって、「心の記憶」や「からだの記憶」は普通に想い出すことが出来るからです。というより、基本的に「忘れる」という現象が存在しているのは「頭の記憶」だけなんです。3歳前ぐらいに虐待を受けた人には、虐待された記憶は残っていません。でも、それは「頭の記憶」の話です。「心の記憶」や「からだの記憶」には「忘れる」という働きがないため、意識として想い出すことは出来なくても、反応という形で心やからだがその状態を再現してしまうのです。オギャーと産まれた赤ちゃんはまず「からだ」での記憶を始めます。そのからだの記憶能力があるから、言葉や歩くことを学ぶことが出来るわけです。次に笑ったり、泣いたり、寂しがったりすることで「心の記憶」が始まります。赤ちゃんがお母さんを後追いし、お母さんの姿が見えなくなると泣くようになるのは、この「心の記憶」の働きです。孤独感や喪失感という感覚は「心の記憶」によってもたらされます。ですから、幼児期にはからだや心に働きかける必要があります。とくに、気持ちがいいとか、楽しいという体験が、肯定的な心の記憶やからだの記憶を形成して行きます。これが「根拠のない自信」や自己肯定感の土台になっていきます。でも、成長と共に次第に「頭の記憶能力」も成長して行きます。その頃から、記憶を遊ぶような遊びを始めます。それは自分の名前を逆さまから言ってみたり、「シリトリ」などの遊びです。駅の名前や、ポケモンの名前を覚えたりする遊びが好きな子もいます。でも、まだこの「頭の記憶」「心の記憶」「からだの記憶」の三つの記憶はつながっていません。これがつながり始めるのは思春期が来てからです。そして、痴呆になるとこのつながりが消えていきます。だから覚えていても想い出せなくなるのです。このつながりがないと、頭で覚えたことが心やからだに作用することもないし、からだで覚えたことが頭に作用することもありません。それはつまり、頭で「からだの動かし方」というマニュアルを記憶しても、その通りにからだを動かすことは出来ないということです。また、からだで覚えたことを言葉化することも出来ません。この時期の子どもは説明では学べません。「見て学ぶ」「やって学ぶ」ことしか出来ないのです。テストを中心とした学習では頭の記憶だけが大切にされています。でも、その頭の記憶は頭に留まるだけで、心やからだに作用することはありません。すると、心やからだで学ぶべき時期に何にも学ぶことが出来なくなってしまうのです。「お父さんやお母さんを大切にしよう」とか「友達と仲良くしよう」などというようなことを覚えさせても、それが心とからだに作用しないのなら全く無意味です。また、国語や算数といったようなお勉強でも、心やからだを通して学ぶことが出来れば、その子どもの感性の中に取り込まれ、一生自由に使いこなせる能力として吸収することが出来ますが、頭で記憶するだけのお勉強は、テストの時にしか役に立ちません。そして、思春期前の「頭の記憶」は、「心の記憶」や「からだの記憶」を否定するため、心とからだを固くします。すると常識的で、融通がきかず、頭の固い人間になります。これは私の個人的な印象ですが、面白いことに、小学校の時に優等生ではなかった人の方が、大人になってから自由に生きているような気がするのです。また、子どもの時にからだなどを使っていっぱい遊んでいた人の方が子育てが上手な気がします。「子どもの自由」に合わせることが出来るからなのでしょう。だから、少なくとも小学校ではテストなどしてはいけないのではないかと思うのです。テスト中心の教育では頭の記憶にしか働きかけることが出来ないのです。シュタイナー教育では学んだことを絵画や詩などの芸術的な形にして表現させます。それは頭で学んだことを心やからだの記憶につなげる非常に有効な方法だと思います。また、よく子どもに読み聞かせなどをして、後から感想を聞くお母さんがいますが、それは止めた方がいいです。「お話を聞く」のはからだの体験です。子どもたちは大人以上にからだで体験する能力には優れていますから、お話を聞いてお話を体験することは出来ます。でも、それを言葉化する能力はありません。それを無理に言葉化させていると、子どもはお話をからだで体験することをせず、お話を聞きながらお話を覚えることだけに意識を向けるようになってしまいます。それでは子どもが「お話」で育たないばかりか、「お話」で固くなってしまいます。
2012.05.17
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「身体化する」ということは「食べる」ということと似ています。他の人は食べ物を用意してあげたり、いっぱい持たせることは出来ます。でも、それらの食べ物を実際に食べて、自分の血肉にするのは本人にしか出来ません。そして、実際に食べて血肉にすることがないのなら、どんなにいっぱい食べ物を持っていても、成長にとっては全く無意味なはずです。ただ、周囲の人に自慢することが出来るだけです。与えられた食べ物を食べてしまっている人は一見何にも持っていないように見えます。だから、いっぱい持っているだけの人は持っていない人を馬鹿にします。でも、それらを実際に食べている人は、自分が何を食べたかは覚えていなくても、元気で、健康で生き生きとしています。それに対して、持っているだけで食べていない人は、いっぱい食べ物を持っているのに、元気がなく、あまり健康でもありません。確かにいっぱい持っていれば人に自慢できるし、それを売ってお金を得ることも出来ます。でも、食べ物は食べるために存在しているので、持っているだけでは意味がないのです。と、私は思うのですが、どうも現代人にはとっては、この場合の「食べ物」は人を評価するための基準であるため、実際に食べるという感覚はないようです。現代社会では、食べてしまった人より、いっぱい持っている人の方が評価が高くなるのです。でも、本人は貧しい食べ物しか食べていないため、虚弱になってしまっています。これらは例えばなしですが、「学ぶ」ということにおいて同じことが言えます。学んだことを学んだまま覚えているだけでは栄養にならないのです。でも、学んだまま覚えていないことにはテストでは役に立たないし、自慢も出来ません。私は、ワークや講座の時に「メモを取らないように」と言います。メモを取って、それを覚えても無意味だからです。テストでもやるなら、私が言ったとおりに覚えていた方がいいのでしょうが私はテストなどしません。もし、学んだことをしっかりと覚えておきたいのなら、ワークや講座が終わった後に、そのワークや講座を想い出して、記録するのです。その時大事なのは「記録されたノート」ではなく、はっきりとしたイメージで「想い出す過程」そのものなのです。なぜなら、「想い出す」という過程で、学んだことが血肉化されていくからです。それが、「頭」ではなく、「からだ」で覚えるということです。国語や算数のような、一見「からだ」とは無関係なようなものでも、イメージを通して想い出すことで「からだ化」するのです。すると、忘れていても覚えているという状態になるのです。ですから、極端なことを言ってしまえば、そのノートは想い出して書き終わったら捨ててしまってもいいのです。学んでいる最中に見たり、聞いたりしていることをそのままノートに書き写している時には、心も感覚もからだも働いていません。それはICレコーダーやビデオにでも出来る、ただの自動処理機械の状態です。でも、終わった後に全てを想い出してノートに記録するという訓練をしていると、学んでいる最中には心も感覚もからだの働きもフル回転するようになるのです。そして想い出す過程でそれらが整理され、理解され、血肉化して行きます。実は、学ぶために一番大切なことは、「記録する」とか、「記憶する」という行為ではなく、「想い出す」という行為なのです。ですから、学んだことをズーっと覚えている必要はないのです。必要な時に必要なことを想い出すことが出来るような状態になっていればいいのです。一般的には「想い出すことが出来る」ということと「覚えている」ということは同じ意味のように捉えられているのかも知れませんが、それは違います。「想い出す」という働きは「動的」で、「覚えている」という状態は「静的」です。「覚える」(記憶する)のは単純に脳の働きですが、「想い出す」のは心の働きです。猿や犬でも色々なことを覚えることは出来ます。でも、その場に必要のないことを想い出すことは出来ません。つまり、「覚えること」は出来ても「想い出すこと」は出来ないのです。「オスワリ」と言われてお座りする犬は、「オスワリ」を覚えています。でも、「オスワリ」と言われない状態で「オスワリ」を想い出すことはありません。幼児期の虐待の記憶に苦しんでいる人は、想い出そうとはしません。想い出そうとしていないのに記憶がよみがえってしまって苦しむのです。でも、そんな時は逆にはっきりと自分の意志で想い出してみることで、その記憶の束縛から自由になることもあるのです。それは非常に苦しい作業ですが、前向きに向き合うことで越えることが出来るのです。逃げようとするから追いかけてくるのです。「想い出す」という作業はそのようなものです。ですから、これは単に「覚えている」という状態とは異なるのです。また、痴呆のお年寄りも、切れ切れの記憶をつなげて、はっきりと想い出すように誘導することで心の働きが活性化し、痴呆が改善されることもあるのです。痴呆になっても色々なことは覚えています。でも、心の働きの機能が低下してしまうため、想い出せなくなってしまうのです。忘れちゃっているのではなく、想い出せないのです。この違いが分かりますでしょうか。コンピュータ的に言うと、テータは保存されているのですが、そのデータにアクセスすることが出来ないのです。この二つは症状的には似ていますが、本質的には異なるのです。
2012.05.16
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最初にちょっと事務連絡です。今日の「ポランの広場」は雨のためお休みにします。***************************ブログという媒体で伝えることが出来るのはどこまで行っても「頭での理解」だけです。そして現代人は「頭での理解」だけしか求めていません。子育てや教育の現場でも、大人たちは一生懸命に頭で理解させようとするばかりです。でも、「頭での理解」は「絵に描いた餅」と同じようなものです。見ることは出来ても食べることは出来ないのです。それは、象の絵や写真やビデオを見て、「象」というものを理解したつもりになっているのと同じです。「真実」というものは決して言葉化出来ないし、映像化することも出来ないのです。「真実」を知っている人は、言葉や映像の中にも「真実」を感じることが出来ますが、「真実」を知らない人はどんな言葉を聞いても、どんな映像を見ても「真実」に気づくことはないのです。日本語を知っている人は、テレビなどで色々な国の言葉が流れている中で「日本語」だけを抽出して聞き取り、理解することが出来ます。でも、「日本語」を知らない人はその情報の中に「日本語」が入っていることに気づきません。当然、聞きとることも出来ません。そのようなことです。童謡「浦島太郎」の中では竜宮城の様子を「絵にも描けない美しさ」と表現しましたが、言葉で表現することが出来るのはこれが限度です。般若心経の「色即是空 空即是色」も同じです。実際に竜宮城を見た人は、「絵にも描けない美しさ」という表現を聞いて、「そうそう そうなんだよな」と共感しますが、見たことがない人にはこの表現は全く無意味です。そして、「言葉」や「頭の理解」と「真実」をつなぐものとして、昨日書いた「身体感覚」や「芸術的感性」というものが存在しているのです。当然のことながら、ブログという媒体では、私は言葉でしか表現することが出来ません。そこにあるのはどこまで行っても「頭での理解」だけです。でもそれはゴールではなく、入り口なのです。言葉は「地図」であり「ガイドブック」です。現地の様子がどんなに詳細に書いてあっても、そこは現地ではないのです。ガイドブックを読んだだけで満足してしまう人は永久に現地にたどり着くことは出来ないのです。でも、実際にはそのような人がいっぱいいます。そのような人は、「自転車の乗り方」という本を読み、理解し、暗記しただけで、「もう自分は簡単に自転車に乗ることが出来る」と思い込んでしまいます。シュタイナー教育でも、宗教でも、その他色々な分野にもそのような人はいっぱいいます。子どもにもいっぱいいます。テレビで「トンカチの使い方」、「ノコギリの使い方」などを見ただけなのに、平気で「僕はトンカチもノコギリも使えるんだ」というようなことを言う子がいっぱいいるのです。身体感覚や芸術的な感性を大切にしていない社会に生きていると、「頭での理解は単なるガイドブックに過ぎないのだ」ということが分からなくなってしまうのです。そのガイドブックに書いてある世界を、自分自身の身体感覚と芸術的感性で確認し、さらに「絵には描けない美しさ」を実際に確認するためには、頭で理解した後、その理解したことを忘れる必要があるのです。頭で理解することは非常に大切です。でも、理解したら忘れないと、さらに先には進むことが出来ないのです。そしてその作業は、自分一人でやるしかありません。私は「理解する手助け」をすることは出来るのですが、「忘れる(身体化する)手助け」は出来ないのです。そして、この「忘れる」という作業がなかなか困難なんです。現代社会では理解していることと覚えていることだけが価値を持っているからです。それしか「テスト」では確認できないし、マスメディアでも扱うことが出来ないからです。でも、忘れないことには頭の理解が身体化していかないのです。そして身体化しない知識や理解はその人の心とからだを束縛します。(シュタイナー教育ではこの「忘れる」ということを大切にしているのに、シュタイナー教育を学んでいる大人たちはただ一生懸命に理解し、覚えようとするだけで、忘れようとはしません。そのため、シュタイナーの言葉が身体化せず、学問化してしまっているような気がします)私は今は古武道の道場に通っています。そこでは毎回自分の未熟さを実感し、「どうしたらいいのか」ということを真剣に考えます。考え続けていると「答え」は見えてくるものです。でも、次の時その答えを実践しようとすると、全く通じません。それは答えが間違っていたからではなく、答えにこだわってしまっているからなのです。「相手がこうきたら こう返せばいいんだ」ということが分かっても、またそれが事実であっても、それを意識してしまったら技としては通じなくなってしまうのです。頭での理解を忘れて身体化しないことには技としては使えないのです。でも、そのためにはまず理解する必要があるのです。それはまた、「考えろ 考えろ」と言っておいて、考えることが出来るようになったら「考えるな 考えるな」と言うようなものです。ここには現代人には理解できない矛盾があるのですが、でも、真実に近づくためにはこの矛盾が必要なのです。「頭での理解」は入口に過ぎないのです。でも、入り口を通らないことには中に入ることが出来ません。でも、入り口に留まってしまったら、「中」を体験することが出来ません。「中」を体験するためには入口から離れなければいけないのです。現代人は入口にしがみついているだけなので、そこから先にもっと素晴らしい世界があることを知りません。私はまだまだ未熟で、「頭での理解」をなかなか身体化出来ない状態なので、逆にそのことがよく分かるのです。
2012.05.15
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人間にとって一番苦しいのは何だと思いますか。人を苦しめるものとしては、お金がないこと、食べるものがないこと、愛するものと別れたり、愛するものを失うこと、理解されないこと、受け入れられないこと、否定されること、病気、イジメ、虐待、失敗、思い通りに生きることが出来ないこと、自己肯定感を持つことが出来ないこと、死ぬことなどなどいっぱいありますよね。ここに書いたことは具体的な表現ですが、実はこれらを抽象化すると、「食べるものがないこと」のように身体的な苦しみは別にして、ほとんどの場合苦しみの原因はたった一つのことに帰結していくのです。それは「孤独」です。人間にとって一番根源的な苦しみは「孤独」によってもたらされるのです。お金がないから苦しいのではなく、お金がないことが人を孤独な状態に追いつめてしまうから苦しいのです。そして、現代社会はそのような仕組みになっています。みんながつながり合い、支え合って生きている社会ではお金がなくてもそれだけで苦しくなることはないのです。時には、つながりに支えられている時、人は死ぬことすら苦しみではなくなるのです。逆に、衣食住には不自由がなく、便利で豊かな生活をしていても、つながりに支えられず孤独ならば、とくに苦しみの原因は存在していなくても、生きていること自体が苦痛になるのです。それは魂が孤独だからです。ですから、虐待などされなくても、お母さんやお父さんが優しくても、そのお母さんやお父さんとの間に「心のつながり」を作れないまま成長した人は生きることに苦しみを感じるようになるのです。そして、その苦しみは虐待を受けて育った人の苦しみと同じです。だから、「虐待」にこだわってしまうと、本当の苦しみの原因が見えなくなってしまうのです。最初に書いたような「苦しみの原因」はみな「苦しみのきっかけ」に過ぎません。その「苦しみのきっかけ」が「孤独」を作り出す時、それが実際の「苦しみ」に転換されるのです。だからこそ人は、同じような状況にあっても「苦しむ人」と「苦しまない人」がいるのです。また、つながりの中で苦しみから救われていく人もいるのです。いじめられたから苦しいのでも、虐待されたから苦しいのでもなく、そのことで魂が孤独になってしまうから苦しいのです。いじめられたとか、虐待されたという事実は変えようがありません。ですから、過去にこだわる限り永遠に苦しみから逃れることは出来ません。でも、「孤独な魂」を癒すことは出来ます。それは今現在の話だからです。そして、「孤独な魂」が癒されると、過去は変わらなくても苦しみは消えるのです。苦しみに束縛されなくなるからです。人をその孤独から救いだす究極的な方法として宗教が生まれました。神様や仏様といった存在は、何かをお願いするためのものではなく人を孤独から救いだすためのものなのです。だからこそ、神様や仏様を信じている人は苦しみに耐えることが出来るのです。でも現代では、神様や仏様の存在は否定されています。また疑り深くなってしまった現代人はそのような「常識を超えた存在」を信じることが出来ません。神様や仏様だけではありません、現代社会では人間が人間を信じることすらなかなか困難になってきました。利害関係だけで人間関係を作る人が増えてきたからです。人々がつながりの中で生きていた時代には、人は人を信じることが出来ました。それはまた、そうしないと生きていくことが出来なかったからでもあります。でも、つながりが崩壊して、人が一人で生きていかなければならなくなってしまった現代社会では、みんな自分を守ることに精いっぱいになって生きています。そのような状況の中では、人は利害関係に敏感になり、人が人を信じると言うことが困難になってしまいました。今では、夫婦や親子といった家族の間ですら「無条件のつながり」を失い、利害関係によってつながり、そして対立しています。その利害関係に捉われず「無条件のつながり」を求めているのは思春期前の子どもたちだけです。思春期前の子どもたちは、まだ神様や仏様を信じることが出来る感性を持っています。ですから、人を信じることも出来ます。ただしそれは、信じるに足る大人や仲間がいるときに限られます。その結果、孤独な人が増え、生きることに苦しみを感じる人が増えました。そのような人は苦しみに耐える力が弱いので、時として些細な挫折すらも乗り越えることが出来ずに死を選びます。でも、人間が孤独から抜け出すために必要なのは神様や仏様だけではありません。身体感覚的、芸術的な活動や体験にによっても人は孤独から抜け出すことが出来るのです。なぜなら、身体感覚や芸術には「つなげる力」があるからです。だからこそ、宗教ではただ「信じなさい」というだけでなく、身体感覚的、芸術的な活動や体験とセットになっているのです。これは世界中の宗教で共通していると思います。人は身体感覚的、芸術的感性の先に神様や仏様を発見するのです。そして、孤独な人は身体感覚も、芸術的な感性においても閉ざされてしまっています。でも、本人はそのことに気づいていません。
2012.05.14
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私の中には、人間のことを考えたり、他の人のことを理解しようとする時の根底的な前提として「人は誰でも一生懸命に生きている」という考え方があります。大人も子供も、善人も悪人も、まじめな人もいい加減な人も、みんな一生懸命に生きているのです。私はこのことに例外はないと思っています。イジメのことを考える時も、いじめる子もいじめられる子も共に一生懸命生きています。虐待されている子どもだけでなく、虐待しているお母さんやお父さんも一生懸命に生きています。このことを理解し認めないことには、「本当のこと」は見えてこないと思っています。どんなにいい加減に見える人も、いじめる人も、子どもを虐待している人も、一生懸命に生きている結果として、そのような状態になってしまっているのです。どんな人だって、子どもの時からそのような人生を望んでいた人などいないのです。それは、未熟な判断力しか持っていない人が、間違った地図と、狂ったコンパスを持って「人生」という旅に出ているようなものです。ちゃんとした判断力と、正しい地図と、正確なコンパスを持っている人から見たら、そのような人はいい加減に生きているようにしか見えませんが、決して本人はいい加減に生きているわけではなく、常に一生懸命なんです。一生懸命でないと、生きていくことが出来ないのが「人生」という旅なのですから。でも、未熟な判断力と、間違った地図と、狂ったコンパスしか持っていない人は一生懸命になればなるほどおかしな方向に進んでいってしまうのです。その結果、犯罪を犯したり、子どもを虐待したりしてしまうのです。でも、そのような人でも一生懸命に生きているのです。その証拠に、そのような人の心の中には孤独と、悲しさと、苦しさがいっぱいつまっています。本当にいい加減に生きているなら、苦しんでなんかいないはずなのです。一生懸命に生きているのに、求めているのと違う方向に進んできてしまっているから苦しいのです。虐待をしている人にそのことを指摘すると、怒りだします。そしてムキになって自己弁護を始めます。それはその人が、その人なりには一生懸命に生きているからです。この、喜びと共に幸せな人生を生きるために必要な判断力と、正しい地図と、正確なコンパスは子ども時代に身につけるものです。自然と関わり、仲間と遊び、手を使い、心を使い、からだを使い、素敵な大人と関わり、芸術的に遊び、作り、活動する過程で、子どもたちはこのようなものを育てていくのです。でも今、これら全部が子どもの育ちの中から消えかかってしまっています。世の中全体の価値観が「そんなもの必要がない」という方向に進んできてしまったからです。現代人は「競争に勝つことが出来る能力」を育てることにしか興味がなくなってしまっています。でも、その競争の先には、千尋の谷底へと落ちていく崖があるばかりです。でも、競争ばかりしている人間にはその崖が見えないのです。気づくのは、崖の直前か崖から落ちてからです。でも、競争に夢中になっている人は、そんな遠くのことは見ずに、すぐそばにいる競争相手のことばかりを気にしてさらに早く走ろうとするばかりです。
2012.05.13
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「癒しのワーク」などでは過去の状況を再現して、過去に言うことが出来なかったこと、やることが出来なかったことを言ったり、やってみることで、心の中のトラウマを乗り越えようとします。でも、その劇を再現すると、それはワークに集まった他人による、その場限りの作り物の劇なのに、過去の記憶がフラッシュバックして幼かったころの心とからだの状態を再現してしまい、幼かったころと同じように恐怖と不安で固まってしまい、何も言えず、何も出来なくなってしまいます。それが簡単に出来るようなら、そんなワークに出なくても自分の心だけで乗り越えることが出来るのです。言うことが出来ないほどの状態だから苦しいのです。そんな時、周囲が「勇気を振り絞って」などと言っても、心まで幼いころに戻ってしまっている本人にはなにも出来ません。むしろ、そのように言われると周囲から責められているように感じて、余計に苦しくなります。でも、それではワークが進みません。それで、「補助自我」という役割の人が登場します。この「補助自我」の人は、その本人の「変わりたい気持ち」「乗り越えたい気持ち」「言ってやりたい気持ち」「やりたい気持ち」の代弁者として、その人に寄り添います。そして、苦しんでいる人の心の声を代弁するのです。お母さん役の人が、「あれやりなさい」「これやりなさい」「まったくあんたはグズなんだから」「あんたはブスなんだから勉強が出来なきゃ生きていけないんだよ」などと言ってくると頭も心もからだも固まってしまい、何も考えることが出来ず、何も言うことが出来ず、何も行動することが出来なくなります。そんな時はただ苦しいだけです。でも、「苦しい」ということも言えません。それで、(例えばですが)「補助自我」の人が「お母さん苦しいよ」とその人の心の声を代弁してあげます。ここで大事なことは「補助自我」役の人はあくまでもその人の「心の声」の代弁者に徹することです。決して、自分の意見を言ってはいけません。お母さん役の人が、「言いたいことがあるなら言いなさい」と言ってきても、本人が黙っているなら「言いたいことはいっぱいあるけど 言えないんだよ」と、心の中の声を代弁してあげます。本人は何も言えなくても、そのようなやり取りを聞いているうちに「自分の心」に気付き始めるのです。補助自我の人は「否定し続けてきた自分の心」を本人に気付かせる役割なのです。実は、過去のトラウマに捉われている人は、苦しみの原因をみんなお母さんやお父さんに押しつけるばかりで、自分で「自分の心」を否定していることに気づいていないのです。でも、その苦しみが大人になってまで続いているのは、そんな「自分の心」を否定し続けているからなのです。お母さんやお父さんに虐待されたから苦しいのではなく、その時感じた感情や言葉を押さえこんだままだから苦しいのです。だから心とからだが固まったままなのです。ワークでは補助自我の力を借りてそれを吐き出させます。でも、だとすると、その自分が抑え込んでいる感情や言葉に気づき、吐き出すことが出来るなら、ワークに参加しなくても、自分で自分を癒すことが出来るということです。それは、苦しんでいる「自分の心とからだ」に気づき、「ありがとう、もう大丈夫だよ」と緩めてあげることによって可能になります。
2012.05.12
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昨日のマシュマロさんの以下のコメントは非常に重要だと思われるので、全文引用させていただきます。私もトラウマの妄想でずいぶん自分を苦しめてしまっている一人ですが、最近あるカウンセリングを受けて面白いことを知りました。私は最近、辛い記憶を「思い出す必要があるから思い出すんだな」と、からだで分かった気がしています。当時のトラウマと似たような感情を感じるために、同じような出来事を無意識に繰り返してしまう事を「再演行動」というのだそうです。からだは、感じたがっているんですよね。嫌だった感情を充分感じきって、感じきった後、からだが本当はしたかった行動を取りたがっているんだと分かりました。例えば(当時は子供だから不可能だったけど)嫌だと叫ぶとか、やめてくれと暴れるとか。何かを蹴り飛ばすようなしぐさを取るとか。不思議なんですが、この「本当にしたかった行動」は「今」でもいいんだと分かりました。過去には戻れないから無理ということではないんですよね。>夢の中で起きることでも、脳にとっては現実なのです。ここが面白いなと思ったところです。脳って、からだって不思議です。想像、妄想を使って辛かった過去にしっかり浸り、その時の感情をじっくり感じきった時、からだは次のアクションを取りたがります。そのアクションを思いっきりやってみる。辛かった過去の感情を思いきりぶつけるような感覚で。そういうことをカウンセリングで行いました。するとからだが解放されていくのを感じました。英語ではこれを「勝利のアクション」などと言うそうです。「癒しのワークショップ」と呼ばれるようなワークには色々とありますが、このマシュマロさんが書いて下さったようなことを行っているものもあります。参加者の「いつも想い出して苦しくなる記憶」を話してもらい、何人かでそれを劇のように再現してもらうのです。そして、その時言えなかったこと、出来なかったことをやってみるのです。その劇は、ただの記憶の再現であって、過去に起きた現実の出来事とは異なります。でも、その劇の中で「過去の自分には出来なかったこと」「過去の自分がその時言いたかったこと」などを、今やったり、言ったりすることで、過去が変わっていくのです。よく、「過去は変えることが出来ないが、現在と未来は変えることが出来る」と言いますが、実は過去も変えることが出来るのです。なぜなら「過去」は単なる記憶によって作られた「思い込み」に過ぎないからです。「過去」というものは、その人の「記憶」の中にしか存在していないのです。だからその記憶を書き変えてしまえば、過去も変わってしまうのです。SF映画などでよく見かけるパターンです。ただし、このようなことを自分一人でやるのはなかなか困難です。実際に、怒りや悲しみや言いたいことをぶつける相手がいないからです。そのため「癒しのワーク」などではなるべく具体的に劇形式で過去を再現するのです。自分一人でやる時は「記憶」ではなく、「その時」の自分の心とからだの状態に目を向け、その心とからだの状態を変えていくように意識してみた方がやりやすいです。過去の「記憶」自体には人を苦しめる力はありません。記憶は単なる知識に過ぎないからです。記憶が人を苦しめるのは、その記憶によって、心とからだが過去の状態を現在に再現してしまうからなのです。ですから、その記憶によって再現される心とからだの状態を変えてしまえば、その記憶は心とからだをコントロールする能力を失い、単なる「想い出」として、心の中の陳列棚に飾られるだけの存在になってしまうのです。劇仕立てのワークの時も、実際に「言いたいこと」を言ったり、「やりたいこと」をやることで心やからだの状態が変化するから効果があるのです。人が苦しみに襲われている時には、背中や股関節が固くなり、呼吸も浅くなり、視野も狭くなり、歩く時の歩幅も小さくなり、からだを大きく使った動きが困難になります。また、上を見上げなくなります。だから、これらを変えてしまえばいいのです。そのためにはよく自分を観察する必要があります。怒りが抑えられない時、苦しさや、悲しみによって束縛され身動きが取れないような時、自分のからだはどのような状態になっているのかを観察するのです。このような時、人は記憶と向き合ってしまいますが、記憶に向き合ってしまうと記憶に縛られてしまい、いつも過去の再現ドラマが繰り返されるだけになってしまいます。「記憶」と向き合うのではなく、その時の「心やからだの状態」と向き合うのです。
2012.05.11
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8日のブログに、「人間のからだは、石をイメージしただけで固くなり、水をイメージしただけで柔らかくなる」ということを書きました。ならば、それをもっと活用してみましょう。妄想において人間は自由ですから、その妄想を活用してしまうのです。ワークでもたまにやるのですが、床にタオルなどを敷いて寝て、目を閉じてもらいます。そして、私が「ここはハワイのワイキキビーチです。空は青空、海岸は真っ白く、海は青く透き通っています。風は肌に心地よく、遠くの方からハワイアンの音楽も聞こえてきます。」などと言います。面白いことに、人間の心やからだはイメージの働きによって騙されやすいように出来ているので、こんな「ごっこ遊び」「やったつもり遊び」にでも反応してしまうのです。そして、心もからだも緩んできます。だとしたら、こんな便利な方法を使わない手はありません。というか、実はみんなその方法を日常的に使っているのです。ただ、その使い方が、心やからだがゆるむようにではなく、固まるように使っているのです。幼いころのトラウマに縛られている人は、繰り返し繰り返しその幼いころのことを想い出しては妄想遊びをしてしまいます。そして、繰り返し繰り返し、その時の苦しみを再体験しています。だから、もう大人になっているのに、いつまでたっても心やからだが緩まないのです。子どもの頃はお母さんやお父さんに束縛され、今では自分で自分を束縛しているのです。それに対して「子どもの時の出来事は事実で、ハワイは空想だから同じではない」とおっしゃる方もいるかも知れませんが、それは知識による判断に過ぎません。脳自体は「空想の中の出来事」と「現実の出来事」を区別していないからです。だから、夢の中で起きることでも、脳にとっては現実なのです。現代人は、知識による判断によってその両者を区別しようとしますが、古代の人たちや、今でも自然と共に生きている人たちや、子どもたちはその区別をしません。だから、彼らは現代人からしたら荒唐無稽なことを言うのです。でも、それはそのような人たちにとっては事実であって、「嘘」ではないのです。そして、私たちの心やからだもまた古代の人たちと同じですから、夢や空想に対して古代の人と同じように反応してしまいます。その古代の人たちは空想と現実の区別をしませんでしたから、現実に起きたことに苦しんでいる人に対しても、空想的な体験を与えることでその苦しみを癒そうとしました。「悪魔払い」というのもその方法です。現代人は知識に従って「そんなバカバカしいこと」と判断しますが、現代人であっても、心とからだの方は古代人のままなので、子どもやその知識に縛られていない人は素直に反応してしまうのです。人間は脳の中だけが現代人なのであって、心とからだにおいては古代人と同じなのです。だからこそ、心とからだは理性にしたがわず、大人になっても幼い時の記憶に苦しめられているのです。ですから、まず「自分の中の古代人」を肯定してみましょう。それはまた、「心とからだ」を肯定することでもあり、「自分の中の子ども」を肯定することでもあります。苦しみも、喜びも、人と人のつながりも、セックスも、妊娠・出産・子育ても、全て古代人の営みのままなのです。そして、妄想(記憶)に束縛されるのではなく、逆に妄想(空想)の働きを積極に活用してしまうのです。6日のブログに、忠武飛龍さんが>白隠さんの「軟酥(なんそ)の法」を思い出しました。白隠さんのようにイメージを使うのも一つの方法ですよね。と書いてくださったのもその方法の一つです。「軟酥(なんそ)の法」に関しては、「白隠禅師~500年に一度の名僧~」に自己暗示によって、精神意識を変えさせる精神療法である。卵くらいの大きさの軟酥(柔らかいバターのこと)の丸薬を頭に乗せたイメージを思い描く。丸薬の清らかな色と馨しい香りが頭全体を浸し、両肩、両手、胸、内臓まで浸透し、潤すと想像する。全ての内臓の疾患や腹部の疼痛が消失する有様が意識できる。軟酥は両足を温め、足の裏まで到達して止まる。この方法を熱心に何回も根気よく行えば、どんな病気も治せると、白隠禅師は言っている。と書いてあります。でも、これはなかなか難しいので、私は「ハワイ」でもいいと思っています。皆さんもご自分に合った妄想を発見してみて下さい。
2012.05.10
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固まった心やからだや状況などを緩めるためには、とにかく心やからだを動かすことです。意味や目的なんかなくてもいいのです。スポーツ選手が試合に臨む前にはからだを動かします。ストレッチをやる人もいれば、走る人も、ぴょんぴょん飛ぶ人もいます。その動き自体は、直接試合とは関係がありませんが、でも、そのようにからだを動かしていないとからだが固まってしまい、本番で実力を発揮することが出来ないからです。心やからだが固まってしまっている場合にも同じことが言えます。何でもいいですから、普段やっていないような何かをやってみるのです。★いつもと違う道を通って買い物に行ってみる。★いつもと違う速さで歩いてみる★いつもうたわない歌を歌ってみる★いつもはただ通り過ぎるだけの道で立ち止まってみる★公園の草花にも、触れてみる、そして匂いを嗅いでみる★いつもは行かないお店に行ってみる★子どもと普段やらない遊びをやってみるなどなど、何でもいいですから、普段はやっていないことをやってみるのです。すると、その時だけ「いつもとは違う自分」になることが出来ます。そして、人はそれだけで何かに気づくのです。そして「気づき」が心とからだを緩めてくれます。でも、心やからだが固まってしまっている人に限って、「いつもと同じ自分」を演じることだけに必死になっています。というか、それが「固まってしまっている人」の特徴なのです。そんな自分が嫌なのに、そんな自分自身や生活状況を変えたいと思っているのに、でも、同じことをやっていないと不安なため、同じことばかりを繰り返してしまうのです。そして毎日同じようなことで悩み苦しんでいるのです。でも、それを変えるのはそれほど難しくないのです。ただ単純に、普段自分がやらないことをやるだけで、普段の自分ではない自分になることが出来るのですから。その時、「そのことに何の意味があるのか」などと考えてしまうと動けなくなってしまいます。それが固まってしまって動けない人の悪い癖です。その行為自体には何の意味もなくていいのです。大切なことは「普段とは違うことをする」ということの方なのですから。そのことで、「普段の自分ではない自分」になることが出来、相対的に「普段の自分」が見えてくるのです。そして、その「普段の自分の姿」に気づくだけで緩んでくるのです。固まってしまっている人は「自分がどういう状況なのか」分からなくなってしまっているのです。人間は自分を変えようとしても、自分の意志で頑張るだけでは変えることは出来ません。でも、それが「とるにたらないようなこと」でも、普段の自分とは違うことをするだけで、変えようとしなくても変わってしまうのです。お試しあれ。
2012.05.09
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私自身は「心やからだが固まっているな」と感じた時は、野口体操の「ゆすり」をやるか、一時間程度、早足で歩きます。歩く時は平地ではなく野山が最適です。平地を歩く時は単調な繰り返しのため、からだの動きがパターン化してしまい、「動くところ」と「動かない所」が決まってしまいます。その結果、動かない所が固まってしまうからです。その点、野山を歩いていると山坂やデコボコがあるため、動きがパターン化せず、からだ全体を使うことになります。また、意識や感覚も使います。だからゆるむのです。野口体操の「ゆすり」の方は、ブログではお伝えすることが出来ません。「方法」ではないからです。野口整体の「活元」も非常に効果的ですが、これもまたブログでは説明できません。誰かから直接学ばないことには学びようがないのです。「唯仏与仏」です。ちなみに野口体操と野口整体は全く別のものです。野口体操は野口三千三の考案で、野口整体は野口晴哉(はるちか)の考案によるものです。また、からだを緩める時には「心のこだわり」を捨てる必要があります。考え事をしていたり、「ゆるめてやろう」などと考えてはいけないのです。「ゆるめてやろう」と強制的な意識を持つとそれだけで固くなってしまうのです。そして、ひたすら「気持ちいい」という感覚に浸ります。それはまた「たのしい」という感覚と同じです。以前、少しだけですが故・渡辺栄三先生に「操体法」を学んだことがあります。(心やからだの世界では「誰から学んだ」ということが重要な意味を持っています。だから私は「先生」はしっかりと選びます。)(連続講座を申し込んだら参加者が私しかいなかったのです。それでも中止せず、マンツーマンで教えて頂きました。渡辺先生には申し訳なかったのですが、私にとっては非常にラッキーでした。)その時、私がベッドに寝て、渡辺先生が私の足を持ってゆすりながら、「石をイメージしてみて」とか「水をイメージしてみて」というのです。すると、「石」をイメージしただけでからだが固くなり、「水」をイメージしただけでからだが緩むのです。それだけイメージや意識という人間の心が、からだの状態と密接につながっているということです。この時、もっと緩めるためには、ゆれている自分のからだを楽しんだり、「気持ちいい」という感覚に浸ることです。ちなみに「操体法」は便利ですよ。からだの調子が狂っている時、痛みがある時など、操体法的にからだを動かすと大分楽になります。15年ぐらい前にぎっくり腰をやった時など、操体法にものすごくお世話になりました。この操体法の基本も「気持ちがいい」ということです。そして、この「気持ちがいい」という感覚はブログでは伝えることが出来ません。日本人は「気持ちがいい」とか、「楽しい」という感覚を押さえこんでしまっているため、心もからだも固まってしまっているのかもしれません。でも、「気持ちがいい」とか「楽しい」ということを押さえこんで生きている人に、その感覚を伝えることは出来ません。自分で気づくしかないのです。ただ私は、「そういう世界があるよ」ということを伝えるだけです。と、ブログで「ブログでは伝えることが出来ないこと」ばかり書いていてもしょうがないので、ブログでも書くことが出来ることを書いてみます。「ゴロゴロ」蒲団の上でゴロゴロ転がるだけです。この時、上半身は力を抜いたままで、下半身だけで転がっていきます。下半身が最初に動き、上半身はそれに引っ張られて動くということです。ゴロゴロしているだけで、からだは緩みます。「ハイハイ歩き」赤ちゃんのようにハイハイで歩くだけでも、からだは緩みます。「波を見る・風の音を聞く・雲を見る」無心になって動いているもの、変化するものに心を向けていると、心もからだも緩んできます。メロディーが素敵な音楽を聞いているだけでもOKです。その動いているものと共鳴して踊ってみるともっといいですが、それは難しいかもしれません。フラダンスなどもいいと思います。「粘土や水彩絵の具や布など、柔らかいもので遊ぶ」 柔らかいものを見たり、聞いたり、触れたりしていると、こちらも柔らかくなるのです。などなどですが、「私はこうしている」という「私の方法」をお持ちの方はご紹介ください。
2012.05.08
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人間が心とからだを固める一番大きな要因は「孤独」です。逆に言うと、基本的に心やからだを固めるような要素はみな人を孤独にします。強いストレスも、虐待も、不自然な生活や不自然なからだの使い方も、簡単便利な生活も、競争も、戦いも、みな人を孤独にします。だから、からだを固くしてしまいます。うちにはコマが何十個とあります。大きいのは直径が20cmぐらいで、小さいのはベーゴマです。子どもたちと遊ぶために買い集めたものですが、木でできたコマの大部分は「大山ゴマ」です。伊勢原にある大山(1252m)のふもとの村の民芸品として昔から伝わっているコマです。そのコマを作る職人さんは、今はもう数名しかいないようですが、屋号としては「金子屋」と「はりま屋」の二軒しかないのではないでしょうか。「金子屋」は結構大々的に宣伝して、お店も大きいですが、「はりま屋」さんは一人だけでやっている小さなお店です。茅ケ崎で幼稚園をやっている友人がその「はりま屋」さんと親しくなり、職人さんを幼稚園に呼んで子どもたちの目の前でコマを作る所を見せてくれたり、絵付けをさせてくれたりしました。その時の話で、コマを作る時に使うカンナや刃物類も全て自分で作ったものだとおっしゃっていました。昔はコマ職人に弟子入りするとまず、鍛冶屋の仕事から学ばされたそうです。現代人が考えたら、「コマ職人になるためにはまず鍛冶を覚えてから」などというのはものすごく遠回りだし、無意味なことのように思えます。でも、良い刃物を作れるようにならないと、良い木地師にはなれないと言うのです。これと似ていますが、昔の大工は最初ノミ研ぎだけを三年もやらされたそうです。これはイジメでも、ただの雑用係でもありません、ノミがちゃんと研げるようにならないと、ちゃんとカンナが使えないからです。このように、昔の人たちは現代人から見たら無駄なこと、無意味なことをいっぱいやっていたわけです。現代人の感覚では、刃物は刃物屋で買ってきて、コマの形を作る人、絵付けをする人、売る人などを分業で分けて仕事をした方が効率的で、便利だと思います。また、ノミ研ぎなど出来なくても、電気鉋を使ってしまえば問題がないように思ってしまいます。でも、それでは「心がこもった仕事」「責任がある仕事」「誇りを持つことが出来る仕事」が出来なくなってしまうのです。職人は心がこもった仕事をすることで、自分が職人であることに誇りを持つことが出来るのです。職人の仕事だけではありません。心をこめて仕事をすることが出来る人だけが、自分の仕事に誇りを持つことが出来るのです。そして、心をこめるためには、「部分」ではなく「全体」に責任を持つ必要があります。また、その「全体」を自分の意志と意識と技術で作り上げようとする時、人間は自分の意識や心や知性やからだや感覚の全てを動員する必要が出てきます。「丸ごと」を作るためには「丸ごと」で関わる必要があるということです。そして、丸ごとで関わるから責任も、誇りも感じるのです。食事の世界にも「丸ごと食べる」という健康法がありますが、「丸ごと」の中には「丸ごと」を支える力があるのです。それに対して「部分」には「部分」を支える力しかありません。そのため、部分だけを一生懸命に育てても、全体のバランスが崩れてしまうばかりです。そのままではやがて全体が崩壊してしまうでしょう。ですから、無意識のうちに固めることで全体が崩壊することを防ごうとするのです。リンゴの実ばかりを大きくすることだけを考え、枝や幹や根っこを育てることを怠っていたら、結局そのリンゴの実は熟す前に落ちてしまうか、腐ってしまうのです。時には木全体が倒れてしまうかもしれません。これは物を作る時でも、毎日の生活でも、勉強でも同じです。そして、「丸ごと」が大切にされている時には心やからだは固まらないのです。無理がないからです。からだを使う時にも手だけ、指だけ、足だけでなく、いつでもからだ丸ごとを使うように意識すると固まらないのです。子育てや教育でも「頭だけ」、「からだだけ」、「感覚だけ」、「技術だけ」、「心だけ」、「能力だけ」、「成績だけ」を育てようとするから、心やからだが固まってしまうのです。丸ごと育っている子どもは固まらないのです。そして、人は、「丸ごとの世界」に生きていると孤独にならないのです。「丸ごとの世界」は宇宙や自然とつながっている世界だからです。「部分の世界」に閉じ込められてしまうから孤独になり固まってしまうのです。***********最近の学校の工作は「キット」になっていて、基本的には組み立てるだけです。だから「物」は出来るのですが、丸ごとの体験がありません。それで、うちではその「丸ごと」を体験させるために、材料選びから自分でさせてきました。材料を自分で選び、自分で切って、自分で加工して作るのです。昔の子どもにとってはそれは当然の作業でした。でも、今の子どもたちにはそれが全然できないのです。学校で「水鉄砲」を作ったという子に、材料を選ばせても全然選べません。学校で使うのは竹ではないので同じ太さですが、うちにあるのは竹ですから太さも異なれば、上下で太さも違います。また、○でもありません。組み立てるだけなら原理が分かっていなくても組み立てることが出来ます。でも、丸ごと作ろうとすると原理が分かっていない子には作ることが出来ないのです。また、丸ごと作るためには原理を知っているだけではなく、感覚や感性やイメージ能力を使う必要もあります。当然、ノコギリなどを使うためにからだも使います。今の学校での工作はただのお土産作りに過ぎません。子どもは何にも学ぶことが出来ていません。そういう教育をやっているから心やからだが固まってしまうのです。
2012.05.07
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「心の緩め方 からだの緩め方」などと聞くと、ヨガや整体のように何か特別な方法が必要なように聞こえてしまうかも知れませんがそんなことはありません。本来、心とからだの自然に即した生活をしていれば、心やからだが固まってしまうなどということはないのです。その状況に応じて一時的に固まることはありますが、その状況が過ぎてしまえばまた元に戻るのが心とからだの自然な状態なのです。それは病気と似ています。健康な人は一時的には病気になってもまたすぐに元に戻ります。「病気にならない人」が「健康な人」なのではなくて、「すぐに治ってしまう人」が「健康な人」なのです。なぜなら、動物にとって「病気になる」というのはごく自然なことだからです。健康な人はすぐに治ってしまうため、周囲の人には病気にかからないように見えてしまうだけです。ただし、あまりに緊張が強くてからだが固まってしまっているような人は、からだが鈍くなってしまっているため、あまり日常的な病気にはかかりません。そのかわり生命に関わるような病気になることがあります。麻酔をしていればナイフが刺さっていても痛くありません。痛くはないのですが、そのままにしておくと死にます。そのようなものです。生命が正常な状態を維持するためのは、この「復元力」が必要なのです。一般的にはこの復元力のことを「免疫力」などといいますが、この復元力は病気やけがなどだけでなく、生命の働きを支えている根源的な働きです。この復元力があるから、毎日細胞が入れ替わっても、死ぬまで私は「私」であり続けることができるのです。また、大きな悲しみや苦しみによって心が傷ついても、この復元力を持っている人は、しばらく苦しんだ後また元に戻ることが出来ます。幼い時にお母さんや家族の愛情に包まれて育った子はしっかりとした「心の復元力」を持っています。だから、思春期頃に、一時道を外れて親の望まないような道に入って行ってしまっても、信じていればまた元に戻ってきます。この「家族の愛情」の根本はお互いに信じるということです。子どもは信じられている時、愛されていると感じるのです。そして、信じているから待つことが出来るのです。ですから、子どもを愛することが出来ない人はいっぱいいますが、それでも頑張れば待つことは出来ます。すると子どもは「愛されている」と感じるのです。時には家族以外の人がその役割を果たしてくれることもあります。子どもを追い立てる人は、子どもを信じていない人です。そして、子どもを信じることが出来ない人は自分自身をもまた信じていません。そのような人の心やからだは不安定です。不安定だからこそ、かたく固めて身を守ろうとするのです。心やからだの固さの根柢には「不安」があるのです。そのことに向き合わないことには心とからだを緩めることは困難です。そして、その不安を緩めてあげていると、心やからだは(その人の状態に合わせて)緩んでくるのです。とはいっても、一般的に自分では自分の不安に気付かないものです。空気のような存在だからです。また逆に、心やからだを緩めようとする時、隠れていたその不安が顔を出してきたりもします。その時、その不安を隠そうとすると、また固まります。ということで、家庭で簡単に出来る心とからだの緩め方を書いてみます。固まってしまっているものをほぐすためには「ゆっくりとした動き」が効果的です。視覚的、聴覚的にも柔らかいものを見たり、聞いたりする必要があります。固いものや静止したものや動きが固いものばかり見たり、刺激的な音ばかり聞いていると人の心もからだも固くなります。自然を見たり、自然な音を聞いていると、緩むものです。家の中では、部屋の照明を柔らかいものに変えたり、壁などに柔らかい布をかけて部屋の雰囲気を柔らかくするのも一つの方法です。それだけで、そこで生活している人の心もからだも緩むものです。蛍光灯の光は固く刺激的です。また音楽でも、アップテンポなものよりスローテンポなもの、リズミカルなものよりメロディアスなものの方が緩みます。それは緩んでいる時の呼吸のリズムと関係しています。特に、幼い子どもにはそのような音楽の方が必要です。アップテンポでリズミカルな子守唄などありませんよね。逆に言うと、心とからだが固まってしまっている人はそのようなものが苦手です。軍歌のような曲は固く直線的で、強いリズムを持っています。からだを固める必要があるからです。音楽を聞いていて涙が出てくるのは、そのリズムに対してではなく、メロディーに感応して心とからだが緩むからです。アフリカの部族の人たちが戦いに行くときに踊るのは太鼓のリズムが強いものです。リズムは心とからだを固めて強くしてくれます。でも、まだ心とからだが柔らかい状態の幼児には強く固いリズムより柔らかいメロディーが必要です。年を取ってくると演歌のようなものが好きになって来ますが、それは年を取ることでからだが弛緩してくるからです。ちなみに「緩んでいる状態」と「弛緩している状態」は一見似ていますが、本質的には異なった状態です。緩んでいる人は自分の意志や状況に合わせて固めることも出来ますが、弛緩しているだけの人は固めることが出来ません。つまり緩んでいる人は「ゆっくり」も「早く」も出来ますが、弛緩しているだけの人は「ゆっくり」というより「トロイ」動きしか出来なくなります。鬱病の人もそのような状態なのではないかと思います。昨日、一昨日と、奈良、飛鳥路を歩いて、色々なお寺や仏様を見てきましたが、万葉人たちの心とからだは非常に美しく緩んでいたことを感じることが出来ました。鎌倉時代に入ると一気に緊張が強くなります。
2012.05.06
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今日から5日まで、私の父親と京都に行ってきます。ということで、5日までお休みします。皆様もよいGWをお過ごしください。***************************心はからだと密接につながっているので、からだを緩めるためには心を緩め、心を緩めるためにはからだを緩めることが有効になります。多くの人が心の問題に対して、心のケアを求めますが、心は自分でもコントロールできないし、ましてや他の人が触れることも出来ません。そのため「働きかけて待つ」という方法しか取りようがありません。でもその時、からだに余裕がなく、強く固まってしまっているなら、いくら待ってもなかなか心は緩まないものです。それに対して、からだを緩めることを通して心を緩めようとするなら、もっと効率的に心を緩めることが出来ます。そして実際、そのようなセラピーの方法もあります。でも、この方法は時として非常に危険なことにもなります。心の中に溜め込んだものがあまりに大きいと、強制的にからだを緩めることで「負の感情が」その人の精神を破壊するほどの勢いで爆発的に外側にあふれ出てきてしまう恐れがあるからです。それに対して、カウンセリングのようなセラピーは、基本的に働きかけながら待つだけなので、そのような危険性はありません。でも、非常に長い時間と、偶然が組み合わさらないとなかなか効果が出ないものです。カウンセリングには、怒りが溜まって、目の前の子どもにそれを吐き出してしまいそうな時に、その怒りを鎮める力はないのです。そんな時は、長い時間がかかるカウンセリングよりも「からだ」を通して直接「心」に働きかける深呼吸のような方法の方が有効です。このような場合に、どうして深呼吸が有効なのかというと、新しい空気が肺を満たし、脳やからだ全体へと送られることで、生命力が活性化するのと、胸や横隔膜が大きく動くことで固まっていたからだが一時的にでも緩むからです。緊張が強い時、怒りが強い時には胸と背中の筋肉が収縮した状態で固まってしまっているので、呼吸がちゃんと出来ないのです。胸が緩まないことには深い呼吸は出来ないのです。でも、この緊張や怒りを鎮めるためには深呼吸が有効だということは皆さんもよくご存じだと思いますので、今日はちょっと違う方法をご紹介します。それは「皮膚を緩める」ことと「動きに意識を向けること」です。この方法は過激でも、強制的でもないので危険性はありません。実は、緊張や怒りが強い時には皮膚もまた固くなっているのです。そして、感覚的に鈍くなっているか、逆に過敏になっています。からだの場所によって同時にその両方の状態が現れていることもあります。あるところは異常に過敏なのに、別の部分は触れられても感じない、というようにです。(最近、このような状態の子どもが結構います。)そんな時、皮膚を緩めてあげるだけでからだが活性化し、心も緩んでくるものです。私はマッサージというものを受けたことがないのですが、マッサージでは結構強くもむのでしょう。でも、そんな必要はありません。優しくからだ全体をなでてあげるだけで皮膚もからだも緩むのです。すると心も緩みます。時には、手を当てるだけでもゆるむのですから。ただし、お母さんや好きな人に手を当てられると緩みますが、嫌いな人、怖い人に手を当てられると逆に固くなります。この方法は、緊張が強い子ども、癇が強い子どもには非常に有効です。まず、両手をしばらくこすり合わせて下さい。すると掌が熱くなってきますよね。そうしたら、しばらく手を合わせたままその温かさを感じてみて下さい。そして、その温かさの中に心とからだを緩める秘薬が生まれてきたようなイメージを持って下さい。その秘薬をからだ全体に丁寧に塗っていくのです。子どもが寝てしまってからでもいいのです。頭のてっぺんから足先まで手のひら全体で薬を塗るようなイメージで丁寧に優しくなでてあげるのです。急がないでゆっくりがいいです。その時、中心から外側へ、上から下へという流れに沿ってなでてあげて下さい。胸やお腹は円を描くように。指は指先から糸を引っ張り出すようなイメージで、指先で動きを止めるのではなくスーッと抜いて下さい。そうすると、皮膚が緩むのでからだ全体も緩むのです。これは寝ている子どもに対しても行うことが出来るので、非常に便利で、かつ効果的です。子どもが起きて、騒いで、言うことを聞かない時に「しつけ」と称して怒鳴りまくっても、余計に子どもの心とからだは固まってしまうものです。そして逆効果になります。でも、この方法を使うと寝ているうちに「しつけ」が出来てしまうのです。そして、この方法は自分自身に対しても行うことが出来ます。掌の秘薬を顔、頭、腕、指、胸、腹と丁寧に塗っていくのです。その時、自分の掌を感じながら行ってください。以前やったワークと同じですが、例えばほほをなでる時は、掌でほほを感じながらなでるのではなく、ほほで掌を感じながらなでて下さい。目を閉じてやるとやりやすいと思います。最後は、自分で自分を抱くポーズでしばらく自分を感じているとよりいいかもしれません。(右手を左脇の下に入れ、左手を右脇の下に入れます。親指は外です。)そんな時間がない時には、手をこすり合わせて秘薬を作り出し、顔と頭をなでてあげるだけでも気分が変わってくると思います。そうそう、耳にも丁寧に塗ってください。そして、最後に両耳を両手でつまんで両側に少し強く引っ張ってスポンと抜きます。(耳の上、真ん中、下の三か所)本当に時間がない時にはこの「耳スポン」だけでもいいような気がします。腹が立っている時などにお試しいただいて、結果を報告して頂けると嬉しいです。「効いた」でも、「全然効かなかった」でもOKです。どんな薬や方法でも、100%効果があるわけではないからです。「動きに意識を向ける」については、京都から帰ってきたら書きます。
2012.05.03
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4月30日にはじめさんが私も怒らないように頑張っている一人です (苦笑)。でも、ときどき爆発してしまいます。頑張ってるから爆発するんですね。身体をゆるめる訓練を普段からすることが近道なのかな。瞑想とかヨガとか太極拳とか。。。とコメントを入れて下さったので、今日はこのことについて書いてみます。気質の勉強会をしていると「私はいつも怒っているので胆汁質だと思います」という方が時々いらっしゃいます。でも、このような人の大部分は胆汁質ではなく、多血質か憂鬱質です。なぜなら胆汁質の人は「怒っている」という自覚自体があまりないからです。それは憂鬱質の人が「悩んでいる」という自覚があまりないのと同じです。多血質の人は「落ち着きがない」という自覚がなく、粘液質の人は感情の起伏が少ないことへの自覚がありません。そのような気質の特徴は、他の気質の人が見た時の状態です。だから、自分ではなかなか自分の気質が分からないのです。胆汁質の人の場合、周囲の人には怒っているとしか見えないのですが、本人は「怒ってなんかいない」などという場合もあります。胆汁質の人は、「腹が立つ」ことへの自覚はありますが、「怒っている」という自覚はあまりないのです。「怒っている」ことへの自覚があるのは「腹」ではなく、「頭」にきている時です。この違い、お分かりになりますか。はじめさんがおっしゃっているような「怒る」は「頭にくる」という状態です。それに対して、胆汁質の人の場合は「腹」に来るのです。それが「腹が立つ」という状態です。具体的にどのように違うのかというと、「頭」に来た人はイライラするばかりで身動きがとれなくなります。心とからだが固まってしまうのです。思考も固まってしまい、同じことしか考えることが出来なくなります。そして、愚痴を言ったり、怒鳴ったり、子どもを叩いたりすることは出来るのですが、行動することは出来ません。なぜなら、このような人の怒りの原因は「他者」ではなく「自分自身の中にあるからです。そのような人は、首や背中や股関節が固まってしまっています。つまり、心もからだも身動きが取れない状態だから、すぐ「頭」に来るのです。そして、ある程度「怒り」が溜まってくると、「ガス抜き」をするために怒りが爆発します。発散する(ガスを抜く)ことでからだが緩んで楽になるからです。だから抑えることが出来ないのです。それを無理に抑え込んでいたら自分が壊れてしまいます。それに対して、「腹」が立つ時の原因は他者にあります。理不尽なことをされたり、理不尽なことを見聞きした時に腹が立つのです。ですから、腹が立った人は何らかの行動によって問題を解決しようとします。だから「腹を立てる」は「もっと腹を立ててもいいんだよ」とか「男なら腹を立てろ」という言い方が出来ますが、「もっと頭に・・・」という表現は出来ません。「頭にくる」のは感情ではなく、生理的な現象なので、自分の意志ではどうしようも出来ないのです。(喜びや悲しみは感情ですから、「もっと喜んで」とか「もっと悲しんで」というような言い方が可能です。「感情」はある程度、気分の持ち方を変えることでコントロールすることが出来るのです。)胆汁質の人の「腹が立つ」というのは一種の正義感なんです。そして、胆汁質の人の怒りはこの「正義感」によって生まれます。ただし、この正義感はあくまでも「自分にとっての正義」であって、社会的に認められた正義とは限りません。そして、胆汁質の人にとっては「自分こそが正義」です。私の教室や講座には元幼稚園の先生や、元保育園の先生が結構います。そのような人たちが一様に言うのが、「仕事で他の子を見ている時には寛容になれたのに、わが子に対しては寛容になることが出来ず、イライラしたり、怒ってしまう」ということです。この場合の「怒り」の原因は、お母さんの心とからだの状態の中にあります。子どもは単なる「きっかけ」であって「原因」ではないのです。だから、「幼稚園の子には寛容になることが出来たのに、わが子に対しては・・・」ということになるのです。それに対して、「腹が立つ」ようなことは、幼稚園の子供であろうと、街中で見かける知らない子であろうと、わが子であろうと、テレビの中の子どもであろうと腹が立つのです。このように、「頭にくる怒り」と「腹が立つ怒り」は異なるのです。そして、「頭にくる怒り」の原因は、自分自身の心とからだの中にありますから、何らかのエクササイズによってそれを緩めることは可能です。ちなみに「頭」にきた時には、「気を静める」必要があります。そのためにはからだを緩める必要があります。「腹」が立った時には、「腹を収める」必要があります。そのためには納得する必要があります。同じ「怒り」でも、この二つは対処法が異なるのです。三日間ぐらい子どもをご主人や実家に預けて、温泉旅行に行き、マッサージなどを充分に受けてくれば、一時的にはそのイライラは収まり、帰宅後三日間ぐらいは、子どもがイライラしている時には怒ってしまったようなことをしても、怒らないで済ませることが出来ます。でも、そんな旅行に行くことが出来る人は滅多にいないでしょうから、自分で何とかしましょう。(明日ちょっと書いてみます。)それに対して、「腹が立つ」人の怒りは、その人の価値観とつながっているので、温泉に行ってマッサージを受けても消えません。原発の対応にいい加減な政治家への怒りは、温泉に入っても、マッサージを受けても消えないのです。これが「胆汁的な怒り」です。みなさんが子どもに対して怒ってしまう時には、このような怒りではありませんよね。
2012.05.02
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人間のからだは実に多様な動きが出来るように出来ています。指先のような細い筋肉も、足腰や背中などの太い筋肉も、訓練次第でかなり自由に動かすことが出来るようになっています。そのため、人間以外の動物に出来て人間には出来ない動きはほとんどありません。早くはありませんが四足で走ることも、猿のように枝から枝へと飛び移ることも訓練次第では出来るようになります。魚のように泳ぐことも蛇のようにうねることも出来ます。確かに、その動きが専門の動物たちにはかないませんが、こんなにも何でもできる動物は人間だけです。どうして人間だけがこんなにも自由にからだを動かすことが出来るのかというと、人間のからだや脳が一つの目的だけに特殊化されていないからです。それに対して、動物たちの動きは目的に合わせて動くだけの「目的志向型」です。ですから、目的に合わせて動く機能しか必要としていません。そして、動物たちは脳の働きもその機能が有効に働くように特殊化されています。だから、特殊化された動きにおいてはすごいことが出来るのですが、逆にいえば、それしか出来ないのです。それに対して、人間のからだは何らかの特定の目的を実現するためには作られていません。だからこそ、(その動きが専門の動物にはかないませんが)何でもできるのです。その、自由なからだの働きを支えているのが自由な意識の働きです。言い換えると、人間のからだは、「意識」が創り出すイメージを実現するために特殊化されているということであり、「意識を視覚化する機能」を持っているということです。太極拳はもともとは武術です。ですから、組み合って動くことも可能です。そのように組み合って動く時にはからだは目的に合わせて動いています。その時、「相手をやっつけるためにからだを動かしている」という点では、その状態はライオンが戦っている時と同じです。でも、太極拳は一人でも動きます。その動きを支えているのは意識の働きです。目の前に相手がいなくても、意識でイメージしながら、感じながら、からだを動かしているのです。そして、こういうことが出来るのは人間だけです。ライオンは決して、獲物を取る時の動きを一人(一匹)で練習したりはしないのです。自分の意識(イメージ)に合わせて自分のからだを動かすことが出来るのは人間だけなんです。逆に言うと、人間はそのような活動を通して、意識を働かせる方法をトレーニングしているわけです。意識の状態をからだに投影することで、それを意識にフィードバックし、意識をコントロールする方法を学んでいるのです。ですから、意識に従ってからだを動かす訓練をしていない子どもたちは、意識の働きが成長せず、無意識に支配されやすくなります。そのような子どもたちは自分のからだをコントロールすることが苦手です。一般的に、スポーツではこの能力は育ちません。サッカーなどを練習すれば、ボールをコントロールする能力は育ちます。でも、この時の意識とからだの動きはライオンが狩りをする時の動きと同じ目的志向型です。からだは状況に合わせては動いているだけで、意識に合わせて動いているわけではありません。意識は状況を判断するためだけに使われています。そのため、サッカーの練習をいくらやってもそれだけでは意識の働きが育つことはありません。ただし、スポーツでも自分の動きをチェックして一人で工夫して調整することが出来る子は、技能の上達に応じて意識の働きも育ちます。スポーツでも陸上や体操などの個人競技ではそのような要素が強いと思います。でもそれは個人の資質において行われているだけであって、スポーツそのものではありません。それに対して一人で行う太極拳では、最初から意識の働きとからだの動きが密接につながっています。というより、意識とからだをつなげないことには太極拳を練習すること自体が出来ないのです。また、そのような意識でやらないことには「気」が動かないのです。意識とつながっていないからだの動きはただの反射に過ぎません。そして、意識の働きとからだの動きがつながる時、心もからだも自由になるのです。子育てや教育の場で、子どもたちのこの意識とからだの働きを育てるためには、「ごっこ遊び」や「劇遊び」が最適です。イメージでからだを動かしたり、自分以外の誰かになってそれらしく動くという過程で、意識とからだがつながり、意識もからだも育つのです。逆にいうと、意識の育ちが遅れている子はそのような遊びが苦手です。思春期前の子どもには太極拳のように、直接からだと向き合うことは困難です。それほど意識の働きが成長していないからです。ですから、何かしらの媒介を間に入れた方がいいと思います。他にも伝承遊びの中にはこのような働きを持った遊びがいっぱいあるのですが、そのほとんどが絶滅してしまいました。また、昔の人は立ち居振る舞いやしぐさなどにも気をつけ、生活の中でも意識的にからだを使っていたので、普通に生活しているだけで自然に意識とからだを育てることが出来ました。でも、現代人はそのような生活をしていないため、意識的に何らかの活動をしないことには意識とからだを育てることが困難になってしまいました。現代人の意識は「判断」だけに向けられ、「からだ」に向けられることが少なくなってしまったのです。その結果、意識もからだも育ちにくくなってしまっています。
2012.05.01
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