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最初に告知です。11月22日(木)に「自分の心を取り戻そう」(心とからだの深呼吸)というワークをやります。時間は10:00~15:00参加費は3000円 会場は茅ヶ崎市民文化会館4F 「練習室4・5」(和室)です。申し訳ありませんが保育はありません。お問い合わせ、お申し込みは「ここ」までお願いします。**********************人間の意識や感覚や様々な能力は、それらを通して感じたことを言葉化することで、より高度に成長するように出来ています。子どもと一緒にお風呂に入った時に「気持ちがいいね」とか「ちょっと熱いね」などと子どもに話しかけることで、子どもは感覚を言葉化する能力と、その感覚を意識化する能力を育てることが出来ます。また、その言葉を通して子どもと感覚を共有することも出来ます。人間は言葉を通さないと感覚を共有することが出来ないのです。そして、子どもの育ちにはこの「感覚の共有」が絶対的に必要なのです。何かを食べた時に「美味しいね」とか「甘いね」などと話しかけたり、大きな木を見た時には「大きいね」「すごいね」「木の王様かな」などと、大人が感じたことを言葉化することで、子どもはそのようなことに対する感覚能力や表現能力を育てることが出来ます。また「共感する能力」も育ちます。これは感情においても同じで、子どもが「困ったこと」をした時に、「お母さん困ったよ」とか、「お母さんちょっと怒っているんだけど」などと自分の感情を言葉化することで、子どもは「感情」というものに対する感覚や感性や、またそれを言葉化する能力を育てることが出来ます。「嬉しい」とか「悲しい」ということも同じです。ですから、お母さんが「くるしい くるしい」と言っていれば、子どもは「苦しみ」に対する感覚や感性を育てることになります。そして「苦しいこと」を発見する能力が育ちます。子どもは「お母さんの言葉」を聞きながらその背景にある感覚や感性や、それらを言葉化する能力を育てているのです。子どもとしては、お母さんが言葉で自分の感情を表現することなく、いきなり怒り出したり、泣き出したりしたら、何が起きたのか分からず、びっくりしてしまいます。また、自分自身の感情に対する気づきも、またそれを言葉化する能力も、意識の働きも育たなくなります。その結果、無意識に支配されやすくなります。お母さんが自分の感情を抑え込んでいると、子どももまた自分の感情に鈍感になり、自分の感情を抑え込むか振り回されるようになってしまうのです。笑わないお母さんの子どもは、あまり笑いませんが、それはお母さんが自分の感情を押し殺しているため、子どもの感情が育たなくなってしまっているからです。でも、そのように育てられた人でも、自分の感覚や感情や考えなどを言葉化するように意識し、実行することを通して、自分で自分の育て直しをすることが出来るのです。怒りを感じたら、ただ単純にそれを相手にぶつけるのではなく、「お母さんは今怒っているよ」「お母さんはそういうことが嫌いなんだ」と言葉化してみるのです。すると、そのことで「自分の感情」に気づき、それを受け入れることが出来るようになるのです。もし、そういう「否定的な言葉」を子どもに言いたくないのなら、「嬉しい」とか「楽しい」とか「おいしいね」というような肯定的な言葉をどんどん言って下さい。自分の感情を抑え込む習慣のある人は、否定的な感情や言葉だけでなく、肯定的な感情や言葉も押さえ込んでいるものです。ですから、肯定的な感覚や感情を言葉化することでも否定的な感覚や感情に対する気づきは高まるのです。そのことで感情をため込む癖が消え、爆発を防ぐことが出来ると思います。怒らないように怒らないように自分を抑えるのではなく、嬉しいこと、楽しいこと、などをいっぱい見つけて子どもに言う習慣を作ってみて下さい。怒った時には「お母さん怒っているよ」と言ってもいいのです。そればっかりでは困るということです。「無言の子育て」は子どもの育ちに対しても、お母さんの育ちに対しても、悪い影響しか与えないのです。ちなみに、これは様々な学びにおいても同じです。スポーツをやっている人も自分がやっていることを言葉化する習慣を付けることで、上達します。絵を描くことでも、踊りを踊ることでも同じです。それは言葉化することで、意識化することが出来るからです。ですから一流の人はみな「一流の言葉」を使うことが出来るのです。
2012.09.30
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またまたようこさんからの質問を使わせて頂きます。小言を言わないでおこうと頑張っても、だんだんとイライラがたまり、爆発していまします。このようなことはようこさんだけでなく、非常に多くのお母さんから相談を受けることです。そんな時、私は「我慢しないで下さい」と言います。我慢してしまうから爆発してしまうのです。我慢するのではなく、日常的に自分の考えや気持ちをその時、その場でちゃんと伝えることです。怒りを爆発させずに、こちらがちゃんと伝えようとするなら、相手は聞いてくれるものです。でも、爆発してしまう人ほど、それが出来ずに、いつもため込んでしまいます。そして、爆発します。でも、爆発されたら子どもも、ご主人もその爆発に驚き、恐れ、逃げようとするばかりで、皆さんが相手に伝えたい想いが全く伝わらなくなります。我慢している皆さんの気持ちなど知らずに、相手は「ほら、またお母さんが爆発したぞ、逃げろ!」という反応しかしないものなのです。そのため、想いは伝わらず、いつまでも同じことが繰り返されます。そのような人は普段から「自分の気持ち」や「考え」を伝える努力をしていないのではないかと思います。それは子どもやご主人に対してだけでなく、お母さん仲間のような様々な場面、様々な相手に対してです。日常的に、「考え」や「想い」を伝える努力はせずに、感情だけをため込む習慣があるのでしょう。日常生活の中で、自分の考えや想いを伝える努力をしているなら溜まらないので爆発もしないのです。ただし、想いを伝える時は「私はこう思うの」「私はこう感じるの」という風に一人称で表現して下さい。「あなたのそういう所がダメなの」とか「何でいつもそういうことをするの」「なんべん言ったら分かるの」という表現はしないことです。そのような「相手を悪者にするような表現」をしてしまったら、相手は怒り出します。子どもだったら萎縮してしまいます。その結果、ケンカになるか、一方的な押しつけになり、あなたの想いや考えは伝わらなくなります。大事なことは「自分の気持ちや想いを伝えること」であって、「相手を非難すること」ではないのです。それをやってしまうから相手はあなたの言葉を拒否し、想いが伝わらなくなってしまうのです。でも、実はそのような表現をする人は自分でも「自分の考え」や「想い」がよく分かっていないのです。だから、「私はこう思うの」「私はこう感じるの」という形で自分の考えや感情を説明することが出来ないのです。そして、そのような人に限って、「言っても無駄だ」「どうせ分かってはくれない」と思い込んでいます。それなのに、「分かってくれるべきだ」「分かってくれるはずだ」「どうして分かってくれないの」という想いも強いのです。だから爆発してしまうのです。本当に「言っても無駄だ」と諦めている人は爆発などしないのです。でも、普通の人間にはテレパシーなどありませんから、ちゃんと伝えようとしない限り、想いは伝わらないのです。そしてそのためには、自分の感情や想いとちゃんと向き合うことです。そして、自分の感情や想いを表現する言葉を見つけることです。自分の心の底に押し込めている感情や想いを、「自分の言葉」で表現できるようになったら、爆発しなくなるものです。「表現されることのない感情」が自己主張のために爆発するのです。自分の感情や想いを自分で無視しているから爆発するのです。そしてだから、相手にもその感情や想いが伝わらないのです。
2012.09.29
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最初に告知です。11月22日(木)に「自分の心を取り戻そう」(心とからだの深呼吸)というワークをやります。時間は10:00~15:00参加費は3000円 会場は茅ヶ崎市民文化会館4F 「練習室4・5」(和室)です。申し訳ありませんが保育はありません。お問い合わせ、お申し込みは「ここ」までお願いします。**********************今日も、ようこさんからの自営業で、あきらかに主人のグータラが私にシワ寄せを寄せていると感じています。子どもの前で喧嘩したくないと思いながら、つい小言を言ってしまいます。どうして小言をいってしまうのか、自分の生い立ちからの性格上、自覚症状はあるのですが、小言を言わないでおこうと頑張っても、だんだんとイライラがたまり、爆発していまします。夫婦喧嘩がもたらす影響が、実際に子供たち(5歳、2歳)に出ているように思います。子どもたちも、私のように、自分の思うように人に動いてほしがります。悩んでいます。どうしたらいいでしょうか?という質問に対する答えの続きです。ようこさんのからだには強い緊張と、疲れが溜まっているようです。その疲れはお仕事からも来ているでしょうが、ご主人やお子さんによって自分のリズムが狂わされていることからも来ています。人は自分のリズムが狂わされると、緊張が強くなり、からだが固まり、苦しくなるのです。それでも、からだが緩んでいる人はリズムの変化に対する許容範囲も広いのですが、ようこさんの場合は、どうもその許容範囲が狭いようです。その原因には、質問の所に書かれているようこさんの生い立ちが関係しているのかも知れません。幼児期の苦しい想い出は、強い緊張としてからだの中に残ってしまうことが多いからです。そして、からだの緊張が強い人は、自分のリズムが狂わされると、非常にイライラするのです。だから待つことが出来ないのです。ですから、ようこさんが書かれた「自分の思うように人に動いてほしがります」というのは支配欲ではなく、相手のリズムに合わせることが出来ない、ということだろうと思います。そんな時は、自分の心やからだの緊張に気付いて、「心ほぐし、からだほぐし」をすると効果があります。一番簡単なのはストレッチですが、少しでも時間とお金に余裕があるなら、マッサージを受けたり、ヨガや整体を学びに行ったり、散歩やハイキングなどを楽しむといいと思います。また、この問題を「気質」という視点から考えることも出来ます。実際のご主人の状態が分からないので一つの可能性としてのお話ですが、気質の違いによってお二人のリズムが異なる時にもこのようなことが起きます。うちでも同じようなことが起きています。私はじっくりと考えてから行動するタイプです。それに対して家内は、反射的、直感的に動くタイプです。その結果当然、家内から見たら私は「何もしない人」に見えてしまいます。そして私を追い立てます。でも、私はそんな家内に対して、「なんでもっと落ち着いて考え、落ち着いて行動しないの」、「そんなに急がなくたっていいじゃない」と思うのですが、その価値観は少しも彼女には通じません。家内と私とでは「大切にしたいこと」が異なるのです。若い頃はそれを「価値観の違い」ではなく「人間性」や「善悪の問題」として考え、よくケンカしていましたが、最近ではもう諦め、「家内は家内」と割り切っています。私が諦めたら、家内も少しは諦め始めたようです。それで最近はそのことでケンカはしなくなりました。その時、気質の学びがだいぶ役に立ちました。その「価値観の違い」は「気質の違い」とつながっていたのです。私は粘液質が強く、家内は多血質が強いので、そのようなことになってしまっていたのです。粘液質は生理的、感覚的リズムがゆっくりで、多血質はそのリズムが早いのです。だからテンポが合わないのです。うちと似たような組み合わせの友人の奥さんは、粘液質のご主人のことを「物言わぬ壁のようだ」と言っていました。私から見たら、そのご主人は人が気付かないところを見て、先回りして考え、しっかりと行動できる素敵な人なんですが、目先の事ばかりが気になる多血が強い奥さんにはご主人がやっていることの意味が見えないのです。これは全くの想像ですが、ようこさんは緊張が強い状態の多血質なのかも知れません。それ故に、多分、憂鬱質も強くなっていると思います。多血質の人は、多血的な自由を阻害されると苦しくなり、憂鬱質が強くなる傾向があるからです。ただし、本当の憂鬱質になるわけではありません。ただ単に悩みが多くなるだけです。気質については過去のブログの記事をお読み頂くが、私が書いた小冊子をお読み下さい。
2012.09.28
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今日は、ようこさんからの自営業で、あきらかに主人のグータラが私にシワ寄せを寄せていると感じています。子どもの前で喧嘩したくないと思いながら、つい小言を言ってしまいます。どうして小言をいってしまうのか、自分の生い立ちからの性格上、自覚症状はあるのですが、小言を言わないでおこうと頑張っても、だんだんとイライラがたまり、爆発していまします。夫婦喧嘩がもたらす影響が、実際に子供たち(5歳、2歳)に出ているように思います。子どもたちも、私のように、自分の思うように人に動いてほしがります。悩んでいます。どうしたらいいでしょうか?という質問に答えさせて頂きます。ようこさんだけでなく、「自分を変えたいと思うけど変えられない」とか、「怒らないようにしたいと思っているのに怒ってしまう」というような相談はよく来ます。そんな時、私は「自分を変えようとか、自分を押さえ込もうなどと考えない方がいいよ。そんなこと出来ないんだから」と答えています。実は、人間は自分で自分を変えることは出来ないのです。それが出来るなら、みんな自分の思い通りの自分になっているはずです。それは、子育てでも子どもを変えることが出来ないのと同じです。子どもを変えようとすればするほど、子どもは反発して、余計に思い通りにはならなくなるのです。なぜなら、「相手を変えよう」とする時、人は相手の短所ばかり見ています。そして、短所ばかりみられているその相手は、必然的に防御を強くして頑固になってしまいます。そのため、変えようとすればするほど変わらなくなってしまうのです。これは「自分」に対しても同じです。「自分」を変えようとすると、「変わりたくない自分」が反発してくるのです。その「変わりたくない自分」とは、自分の心の奥深くに潜んでいる「無意識的な感情」です。では、「諦めるしかないのか」というと、諦めるのも一つの方法です。お釈迦様はそのような方法を説きました。ある人がお釈迦様に「死ぬのが怖いので、死なないようになる方法はありませんか?」と聞きました。(数十年前に読んだ内容をうろ覚えの記憶で書いているので正確ではないかも知れません。ご承知下さい。)そうしたら、お釈迦様は「今まで死人を出したことがない家を探して、その家のカマドの灰をもらってきなさい。そして、その灰を飲めば死なないようになるでしょう。」と答えました。それでその男は、できる限りの家を回って「死人を出したことがないかどうか」を聞いて回りました。でも、そんな家、一軒もありませんでした。それで、その男は「人は死ぬものなのだ」ということを「知識として」ではなく、「自分自身の覚悟」として受け入れることが出来るようになったのです。その結果、死を恐れなくなり、生き生きと生きることが出来るようになったということです。これは子育てでも同じなのですが、「諦める」ということは「受け入れる」ということでもあります。すると、変えようとしても変わらなかったのに、変わってしまうことがあるのです。それは、心が攻撃を受けなくなり、自由を取り戻すからです。ただし、その本人にとって良い方向に変わるだけであって、あなたの希望通りの方向に変わるわけではありません。そして、諦めることが出来ない人に限って、自分の希望通りに変わるのではないと受け入れないのです。なぜなら、その背景には「不安」と「孤独」があるからです。その「不安」と「孤独」が強い人ほど、自分の欲求を手放すことが出来ないのです。「安心」が欲しいから相手を支配したいのです。そのような状態に至るまでにはその人の人生の歴史があります。ですから、その「不安」と「孤独」を直接癒すことは出来ません。そこで、「からだ」と向き合う必要があるのです。その「不安」と「孤独」の背景には「感覚の孤独」があります。実は「不安」とか「孤独」というのは「心の問題」であると同時に、「感覚の問題」でもあるのです。相手を支配したい人は「感覚」が閉ざされているのです。そしてそれは「からだの問題」でもあるのです。<明日に続きます>
2012.09.27
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子どもたちの心を育てるためには素敵な心を持った大人たちとの人間らしい関わりや、仲間との遊びや、様々な体験や、学びや、物語との出会いが必要です。「自分の心」に気付くためには表現活動を通して自分と出会うことが必要です。実は「子育て」もこれに属しています。「子育て」はお母さんの表現活動でもあるのです。お母さんは毎日、24時間、子どもに向かって表現活動をしているのです。ですから、子どもたちはその「お母さんの表現」を受け取って、その表現に応じた変化をします。だからこそ、子どもは「親の鏡」になるのです。お母さんが笑えば子どもも笑います。お母さんが笑わなければ子どもも笑いません。お母さんが頑固なら、子どもも頑固です。お母さんが「聞く耳」を持っていないのなら、子どもも「聞く耳」を持っていません。簡単な原理です。ですから、「自分」を知るためには「他者」を知る必要があります。自分で「自分のこと」を知ろうと思って「自分」だけを観察していても、「自分のこと」は分からないものです。子どもがいない人の場合は、絵を描いたり、踊ったり、文章を書いたりする時の「自分との対話」や「他の人からの反応」によって「自分の心」を知ることが出来ます。作品や表現は「自分の子ども」と同じだからです。その時も、自分との対話だけでは「自分のこと」は分かりません。他者にも意識を向けていないと、「自分のこと」は分からないのです。それと、もう一つ「心の健康」を保つ工夫も必要です。そしてこれは、心を育てる方法ともつながっています。「からだ」でも、どんなに立派なからだに育った人でも、日々の健康維持を怠れば、その「立派なからだ」を失ってしまいます。それと同じように、どんなに「素敵な心の人間」に育っても、「心」の健康管理を怠れば、その素敵な「心」も失われてしまうのです。その時に、必要になるのが「心にとって美味しいものを食べる」、「心の深呼吸をする」、「心の体操をする」などというようなものです。それは基本的に「からだの健康管理」と同じです。「心の健康」を維持するためには、そのような活動を継続して行う必要があるのです。明日に続きます。*********明日、横浜駅近くの「Umiの家」というところで、「いじめ」などについてのお話をさせて頂きます。ご興味ある方は「Umiの家」に問い合わせて見て下さい。毎月、「Umiの家」で何らかのワークをさせて頂いています。
2012.09.26
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「心とは何か」というのは非常に難しい問題です。また、「自分の心」が「他の人の心」と同じかどうかも分かりません。比べようがないからです。男性と女性の話を聞いていると、どうも男性と女性とでは心の状態が異なるようにも感じます。昔、「ラブレターは夜書くな」と言われましたが、それは、同じ人でも、「夜の心」と「昼間の心」が同じではないからです。夜、ラブレターを書くと想いが強くなりすぎたり、妄想が暴走してしまったりします。主観的になりすぎてしまうのです。そのような状態で書いたラブレターを昼間読むと、自分でも恥ずかしくなってしまいます。人は、寝ていなくても夜になると半分「夢の中」のような状態になってしまうのです。ただし、これは「眠い」という状態のことではありません。眠くなくても意識がそのような状態に変成してしまうということです。でも、昼間になると客観的な意識が目覚め始めます。壁が青い部屋と赤い部屋の中にいる時とでも「心の状態」は異なります。どうしてそういうことが起きるのかというと、男性と女性とは生理的な状態が異なるからです。夜と昼とでも、青い部屋の中にいる時と赤い部屋にいる時とでも生理的な状態は異なります。そして、「心の状態」は「生理的な状態」にダイレクトに影響を受けるのです。ですから、ストレスでからだがパンパンになってしまっている時と、温泉に入ってマッサージを受けた後とでは「心の状態」は異なるのです。ですから「心」はしょっちゅう変化しています。でも、「心」はその変化を感じることが出来ません。「心」は「心の変化」を感じることが出来ないのです。人間は明るいところから暗いところに入っても、瞳孔を調節して基本的に同じ明るさで見ることが出来るようになります。でも、その瞳孔の変化を感じることは出来ません。それと同じです。では、どうやったらその事実に気付くことが出来るかというと、絵を描くなどの表現活動をやってみればすぐに分かります。ラブレターも同じです。その表現された形の中にその時の「心の状態」が刻み込まれるので、違う心の時にそれを確認することが出来るのです。ですから、絵描きでも昼間しか描かない人も、夜しか描かない人もいます。その時の心の状態が、自分が表現したい世界に合っていると感じるからです。スペインの画家「エル・グレコ」は昼間でも部屋をカーテンで閉め切って、ろうそく(ランプ?)の光だけで絵を描いていたそうです。それだからあのような絵が描けたのでしょう。ですから、人は何らかの表現行為をしてみることで「自分の心」に気付くことが出来ます。気質のワークでも様々な表現活動をしてもらいますが、それはその表現を通して、「自分の心」や「他の人の心」と出会うことが出来るからです。そういう方法をとらないと、人は「自分の心」となかなか出会うことが出来ないのです。昔、気質のワークを始めた頃は、自分で自分の気質をチェックするようなチェックリストを作ってやってもらったりもしました。でも、そのチェックリストと本人とを見比べているうちに、次第に「あまり自己判断は当てにならない」ということに気づき始めたのです。自分を客観的に見ることが出来る人もいますが、実際にはそのような人は少数です。大部分の人が自分のことを主観的にしか見ることが出来ません。すると、自分の先入観を自分に投影してしまうのです。よく、大して太っていないのに「私はデブだ」と言う人がいます。全然ブスではないのに「私はブスだ」と言う人もいます。それと同じです。ですから、私は町でよく見かける「セルフチェック」を信用していません。それは「本人はそういうセルフイメージを持っている」ということであって、実際にそのような状態であるかどうかとは直接関係がないからです。気質の勉強会でも、時々「先生、私憂鬱質ですよね」と聞いてくる胆汁質が強い人がいます。そのような人でも、ワークの場で色々な表現をして、本当の憂鬱質の人の表現と出会うと「あ、私は憂鬱質じゃない」と気付いたりするのです。本当の憂鬱質の人は本能的に胆汁質の人を見分けます。そしてあまり近寄りません。また、「私は憂鬱質ですよね」などと聞いてきたりはしません。ということで、何らかの表現活動をやってみて下さい。そうすると、自分の心と出会うことが出来ますよ。その時、上手下手ばかりが気になる人は、「自分の心」と向き合うのが苦手な人です。「セルフイメージ」を知ることは、それ自体は大切なことです。でも、「セルフイメージ」と「本当の自分」とは同じではないと言うことです。そして、「本当の自分」と出会うためには、様々な表現を通して「他者」や「他者としての自分」と出会う必要があるのです。
2012.09.25
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モアイさんが自分の判断でできることが多いほど自由なのだと思います。アラスカの川っぺりで水を汲み、薪を割りながら生活している人が"とってもやりがいがある。"と生活している姿を見て、私も憧れます。と書いて下さいましたが、実は人間の「心」も、「からだ」もこのような活動を通して育っていくものなのです。そして、その「からだ」は単なる「肉体」を超えたものです。「肉体」は解剖も出来るし、標本として取っておくことも出来ます。でも、「からだ」は解剖できないし、標本として取っておくことも出来ません。なぜなら、「からだ」は「肉体」という「目に見えるもの」と、「心」や「感情」や、「知性」や、「感覚」や、「記憶」といった「目に見えないもの」の両方にまたがって存在しているものだからです。「逆上がりが出来るかどうかは肉体の問題ではなくからだの問題だ」と言えばお分かり頂けるでしょうか。皆さんが自転車に乗ることが出来るのも「からだ」が学習したからです。「学習」は「からだ」が行うものであって「肉体」はその活動を支えるだけです。ですから、どんなに細かく肉体を解剖しても、その人が自転車に乗ることが出来るかどうかなどということを調べることは出来ません。ですから「からだの成長」も目には見えません。目に見えるのは「肉体の成長」だけです。でも、いくら「肉体」が成長しても、それに伴って「からだ」も成長していなければ、何にも出来ないただの「デクノボウ」になってしまうのです。「音が聞こえるかどうか」は「肉体の問題」です。でも、「その音を聞き分け、味わい、意味を知ることが出来るかどうか」は「からだの問題」です。そして、その「からだの成長」と共に「心」も成長していきます。また、「心の成長」と共に「からだ」も成長しています。この二つは分離できないのです。ですから、「心」を育てるためも、「からだ」を育てるためにも、「目に見えない世界」を見る眼が必要になります。「目に見えない世界」を観ることが出来なければ、「目に見えない世界」に支えられている「心」や「からだ」を育てることなど出来るわけがないからです。でも、「自分の心」を見失ってしまっている人は「目に見える世界」しか見ようとしません。そして、「目に見えない世界」を否定します。なぜなら「目に見えない世界」は「心の目」を通さないと観ることが出来ないからです。だから、子どもの「努力」も、「悲しみ」も、「喜び」も観ることが出来ず、目に見える「結果」だけを求めるのです。でも、それでは「子育て」が出来ません。そして、「子育て」が苦しくなります。じゃあ、どうやってその「自分の心」を取り戻したらいいのか。また「子どもの心」を育てたらいいのかということです。その時に、重要になるのは「子どもの心は子どものからだと共に成長する」ということなのです。そして、「心」は「目に見えない世界」に存在していますが、「からだ」は「目に見える世界」と、「目に見えない世界」の両方にまたがっています。だから、「子どもの心」を育てようとするなら、「子どもの心」ではなく「子どものからだ」を育てるように意識するのです。いきなり「子どもの心」を育てようとすると、「道徳教育」のような方法しか思いつかなくなります。でも、「からだ育て」とつながらない道徳教育は観念論になり、100%失敗します。その時、あまりに便利な生活環境は子どもの「からだ育て」の邪魔になるのです。工夫する余地が残されていないからです。また、「心育て」には「物語」をいっぱい語ってあげることも必要ですが、同時に「からだ」をその物語の「受け皿」として育ててあげることも必要です。「森の物語」を語ってあげるなら、実際に森に行って、森を体験することも必要だということです。そうすることで「心」と「からだ」の両方が同時に育つのです。
2012.09.24
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昨日ネットで色々なニュースを見ていたら、2040年(2050年?)頃には、車の運転は全て自動化されていて、運転をしなくても目的地まで連れて行ってくれるようになる。そのため、運転免許も必要がなくなるのではないかというような記事を目にしました。確かにそうなったら事故も減るでしょうし、人間は運転に煩わされることなく、車に乗っている間はテレビを見たり、ゲームをしたり、寝ていたりすることが出来るでしょう。それを「人間が自由になる」と表現することも出来るでしょう。そして、自動車だけでなく人間は自由になるために様々な機械を発明してきました。電気掃除機も、洗濯機も、冷蔵庫も、人間を様々な労働から解き放ち、自由にするために発明されました。そのうち、「子育てロボット」が作られたらお母さんたちはもっと自由になるでしょう。私が小さい頃にはまだ、電気掃除機も、洗濯機も、冷蔵庫も、テレビもありませんでした。自動車や電話は金持ちだけが持っていました。でも、小学生・中学生の頃になると、これらの家電が発明され、あっという間に普及しました。それに伴い生活は便利になりました。余暇を楽しむ時間も出来ました。特に、母親たちは辛い労働から解放され自由になりました。いや、なったはずです。でも、自由になったはずなのに、今度は子育てに縛られて苦しむお母さんたちが増えてきました。その状態は、どう見ても全然自由になったようには見えないのです。むしろ、昔のお母さんたちよりも不自由になった気がします。人間は生活の中や「生きる」ということに対して「充実感」を求める生き物です。心の中を何かで満たしていないと、孤独になり、不安になってしまうのです。そのため、「何もしないでいいよ」と言われたり、実際に何もすることがない状況に置かれるとかえって苦しくなってしまうのです。これは人間の本質的な本能です。人間は「自由」を求める生き物ですが、同時に「不自由」の中に「生きがい」を求める生き物でもあるのです。「自由」だけに囲まれていると、「充実感」も「生きがい」も得ることが出来ないのです。昔のお母さんたちは毎日の生活をやりくりするだけで、「家族のために頑張っている」という充実感を得ることが出来ました。それだけ大変な労働だったからです。でも、その重労働から解放された現代のお母さんたちは、同時にその充実感も失いました。そのため、その充実感を求めて様々なカルチャーを学んだり、色々な集会に出かけたり、「子育て」に夢中になっています。また、小さい時から子どもを保育園に預けて仕事に出かけるお母さんも増えてきました。その多くは「自分の生きがい探し」です。「誰かのため」とか、「家族のため」という名目はあっても、その多くは「自分の生きがい」のためです。人間は「誰かのため」という名目があると大義名分と充実感が得やすいのです。そして、昔のお母さんと同じくらい忙しい状態になってしまっています。人間は自分の背中の大きさ以上の荷を背負うことは出来ません。でも、背中に空きがあると不安になってしまうのです。そして、何かを見つけて背中をいっぱいにして安心するのです。人は、不自由を与えられると「自由」を求めますが、最初から自由を与えられていると「不自由」を求めるのです。それは時として「心の苦しみ」という荷であることもあります。それが現代人の状態でもあります。電車の中や公園などで小さなゲーム機に見入っている姿は、ゲーム機に支配されている非常に不自由な状態です。でも、その「不自由」が居場所と安心を与えてくれます。そして、その不自由な状態に慣れてしまうと、「依存」が始まります。ということで中途半端ですが、この続きは明日描きます。
2012.09.23
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昨日も書いたように「自分の心」を失っている人は自分の意識を自分でコントロールできなくなっています。だから振り回されてしまうのです。そのための方法として「ゆっくりと丁寧に動く」という方法があるのですが、まだまだいっぱい方法はあります。今日はあまり時間がないので簡単にいくつかの方法を書いていきます。●フリーハンドで○や□を描いてみる。 広告の裏でも画用紙でも構いませんが、フリーハンドで正確な○や□を描いてみて下さい。最初は自分が描きやすい大きさで構いませんが、慣れてきたら少しずつ大きくしてみて下さい。そのような活動は意識の働きを使わないことには出来ません。ただ、これを「意識のトレーニング」として考えずに、単なる「技術の習得」として考えてしまうと、意識を使っているのに、その意識の働きに気付かなくなってしまいます。上手下手(結果)にはこだわらず、ただ、自分の意識の働きの方に意識を向けて下さい。シュタイナー教育の中に「フォルメン線描」というものがあります。これなども子どもが「自分の心」を育てるのに大きな働きをしています。ただし子どもの場合は、そんな難しいことを考えさせないようにします。私が書いているのは大人用です。●写生やスケッチなども意識の働きを目覚めさせます。 その時も上手下手にはこだわらないで下さい。上手下手にこだわると全てが台無しになります。 ものを見たり聞いたりする時に、その目的が異なると、異なる物が見えて、異なる音が聞こえてくるのです。 木を描こうとするなら、幹と大地はどのようにつながっているのか。枝と幹はどのようにつながっているのか。幹の触感は、匂いは、というようなことを観察しながら色々なことを発見して下さい。その時、意識が働き始めます。●気質のワークでよくやるのですが、部屋の中や公園などで、自分にとって「居心地の良い場所」や「居心地の悪い場所」を意識的に探してみて下さい。その「意識的に見る・感じる・行動する・探す」という行為によって意識が働き始めます。●知らない町を歩いてみる●いつもはやらないことをやってみる●いつもやっていることでも、いつもとは違う方法ややり方でやってみるなどというようなことも意識の働きを目覚めさせます。実は、意識の働きが目覚めている人にとってはこのようなことは結構楽しいのです。逆に意識の働きが萎えている人にとっては、意味が分からず、疲れるだけの行為です。うちの教室(自宅では造形教室をやっています)は子どもたちに自由に作らせています。というか、子どもたちに「自由に作る場」を与えたくて始めたのです。でも、「ここは自由に作れるから嬉しい」と言う子もいますが、逆に「何をしたらいいのか分かんないからつまんない」と言う子もいます。そして、教室を始めた頃は前者のタイプの子も結構いたのですが、今では後者の子がほとんどです。特に男の子にその傾向があります。そして「早く家に帰ってゲームをやりたい」と言います。それとともに生徒がどんどん減ってきています。それでも低学年のうちは「子どもにこういう体験をさせたい」という親も多いので子どもは連れてこられていますが、高学年になると塾に行き始めるのでどんどんやめていきます。昔は中学に入るまで来ていた子がいっぱいいたのですけどね。(ですから、造形教室の方は「火の車」状態です)そのような子どもたちは能動的に遊ぶ「遊び」や、「遊び場」や、「仲間」や、「時間」を失ってしまっているのでしょう。大人も子どもも、「言われたことをやっているだけ」、「やらなければならないことをやっているだけ」、「しょうがないからやる」というような受動的な意識で日々の生活をしていると、どんどん意識の働きが萎えていってしまうのです。その結果、「自分の心」を失ってしまうのです。そして、「自分の心」を失った人は大人でも子どもでも「自由」が苦手なのです。だからすぐに「何か」に依存するのです。ただ問題なのは今の日本の経済活動はその「依存」によって成り立っているということです。
2012.09.22
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最初にちょっと告知させて下さい。11月22日(木)、「自分の心を取り戻そう」というワークをやります。時間は10:00~15:00です。会場は茅ヶ崎駅近くで、参加費は3000円です。残念ながら保育はありません。詳細は明日お知らせします。お問い合わせ、お申し込みは「ここ」までお願いします。******************************人間の心には「意識」という働きがあります。その意識の働きが理性や、客観的に物事を見たり考えたりする能力や、創造性や、能動性や、心の自由を支えています。人が「心」を失っている時には、その「意識」が能動的な働きを失い、受動的にしか働くことが出来なくなっています。意識が能動的な働きを失うと、心は自由を失い「自分」に振り回されるようになります。ちなみに、7才前の幼い子どもたちもまだ意識を能動的には使うことが出来ません。でも、大人と違って心が振り回されることはありません。まだ、心を振り回す「自分」もないからです。幼い子どもたちの心はただ成長の本能に従うだけです。ですから、幼い子どもたちは大人のような「意識の働きとつながった心の自由」を知りません。だからといって不自由なわけでもありません。幼い子どもたちの心は、鳥や野の花のように自由なのです。それが、明治以前の日本語における「自由」という言葉本来の意味です。それに対して、大人にとっての自由は「自分」を「自分の意志と意識でコントロールできる」という意味も含んでいます。それはつまり、「自分」が「自分の指導者」になるということです。禅の方ではその状態を「随処作主 (ずいしょにしゅとなる)」 <臨済録>と表現しています。その意味は「どんな時でも自分が自分の主人でいなさい」ということです。「心の自由」を失っている人は、自分が「自分」の主人ではなくなり、他の「誰か」や「何か」に従って生きている人です。それは記憶の中の母親であったり、苦しい記憶であったり、欲望や、本能や、不安や、恐怖心であったりします。そこで、今日はその意識の働きを目覚めさせ、心を自由にするための簡単な方法をお教えします。それはいつも書いていることと同じになってしまうのですが、ゆっくりと丁寧に動くことです。学校で習ったような体操でも、ゆっくり、丁寧に動こうとすると意識が目覚め心に働きかけます。心の自由を失っている人はこの「ゆっくり」と「丁寧」が出来ないのです。茶道にはこのような働きがあります。だから、禅の延長に生まれ、命を賭けて戦う戦国武将に好まれたのです。茶道を通して不安や恐怖に振り回されない心を育てていたのです。「なんでお茶を飲むだけのことにあんな面倒くさいことをしなけりゃいけないんだ」といって茶道を馬鹿にする人がいますが、そのような人は「心の自由」が分からないのです。
2012.09.21
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最初にちょっと告知させて下さい。11月22日(木)、「自分の心を取り戻そう」というワークをやります。時間は10:00~15:00です。会場は茅ヶ崎駅近くで、参加費は3000円です。残念ながら保育はありません。詳細は明日お知らせします。お問い合わせ、お申し込みは「ここ」までお願いします。******************************大人たちは子どもに「よい子」を求めます。でも、ほとんどの子が大人の言うことなど聞きません。それで「困った子だ」と嘆くことになるのですが、でも、言うことを聞かそうとしても言うことを聞かない子の方が子どもとしては正常なんです。子どもは「やりたい」と思ったことはやりますが、「やりたくない」と思ったことはやらない生き物なのです。でも実は、「やらない」ではなく「出来ない」のです。なぜなら、子どもは「自分」に嘘をつくことが出来ないからです。ですから、お母さんに反抗しているわけではありません。お母さんの方が子どもに「無理難題」を押しつけているのです。でも、「やりたい」と思ったことは「やめなさい」と言ってもやります。ですから、子どもがやりたくなるように誘導すればいいのです。その一番簡単な方法がお母さんも一緒にやってあげるという方法です。「手を洗いなさい」ではなく「一緒に手を洗おうね」です。それでも、時々「お母さんの言うことをよく聞くよい子」がいるのも事実です。でも、そのような子の中には裏表がある子が結構います。お母さんの前では挨拶もよく出来て、言葉遣いも丁寧な「よい子」なのですが、お母さんがいなくなると豹変するのです。そのような子は「嘘」も上手です。でも、子どもとしてはこれも正常な状態です。心とからだのバランスを取り、生き延びるための智恵ですから。でも、その一方で裏表がない「よい子」もいます。そのような子は、お母さんに喜んでもらうことばかり考えます。そして、お母さんや大人の評価ばかりを気にします。大人になっても周囲の人からの評価ばかり気にします。そのような子は、お母さんからの評価はどうか分かりませんが、子どもは一生懸命に「よい子」になろうとしています。でも、その動機には「よい子にしていないと認めてもらえない」という「不安」と「孤独」があります。意外なことかも知れませんが、そのような子の多くは叱られるのではなく褒められて育っています。叱られて育った子は自分を守るために裏表を使い分けます。でも、褒められて育った子はお母さんに認められることばかり考えるようになってしまうのです。ただし、褒めることが悪いわけではありません。問題は「何を褒めるか」です。「子どもの努力」を褒めるのはOKです。でも、お母さんの期待通りのことが出来た時だけ褒めていると、そういうことになります。それは「結果だけを褒める」ということです。「一人で手が洗えて偉いね」とか、「100点取れて偉いね」とか、「お片付け出来て偉いね」というような褒め方です。「よい子を育てる方法」として、そのような褒め方を推奨している人もいっぱいいます。そして、実際にそのような褒め方をしているお母さんもいっぱいいます。でもそれは「犬の調教」と同じです。子どもを褒める時には「結果」よりも「努力」を褒めてあげて下さい。また、「気付いたこと」に対しても褒めてあげて下さい。お散歩の時に、子どもが「風さんの歌が聞こえる」などと言った時には、「風の音」に気付いたこと、それが歌に聞こえることをを褒めてあげて下さい。子どもは「成長過程」にいるのですから、「大人にとって都合の良い結果」を求めるのではなく、褒めることでその成長を応援してあげるのです。「結果」ばかりを求められている子は、「自分の心」を失ってしまいます。そのため、「心の成長」が止まってしまうことがあるのです。そのような子の心の中には孤独と不安があります。そのように育てられた人でも、社会に出て会社に入れば、会社は結果主義ですから、何の違和感もなく社会人として生活することが出来ます。でも、結婚して子どもが出来ると「子育て」が出来ないのです。子育てはすぐには「結果」がでない仕事です。また、思い通りの結果が出ることは滅多にありません。また、どんなに頑張って「結果」を出したとしても誰も褒めてくれません。さらには、大人の常識としての「よい子」を目標として子どもに結果を求めると、子育てはますます困難な状態になります。7才前の子どもは100%「自分の心」だけで生きています。ですから、お母さんが「自分の心」を失ってしまっていると「子育て」が出来ないのです。「自分の心」を失ってしまっている人は、子どもの「自分の心」に寄り添うことが出来ないからです。それで、子どもにも結果を求め、結果が出た時だけ褒めます。すると子どもはお母さんに褒められたいので、次第に「自分の心」を失っていきます。その方法が使えない時には虐待に走ります。恐怖と痛みで結果を出させようとするのです。そのように、「自分の心」を失った人は「子育て」も出来ません。それと同時に、表現行為も出来ません。表現すべき「自分の心」がないからです。でも、逆に言えば、表現行為を通して「自分の心」を取り戻すことも出来るということでもあるのです。
2012.09.20
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私たちは日常的にからだを動かしています。寝ている時でさえ動かしています。それなのになぜ、わざわざ「体操」などしてからだを動かす必要があるのだと思いますか。私たちの日常的な動きのほとんど100%が無意識的な動きです。歩く時も、車を運転する時も、歯ブラシを取る時も、人はみんな無意識的に動いています。そして、そのような時の人の動きはパターン化されていて、いつも同じ筋肉と、同じ神経を同じように使って、同じように動きます。また、基本的に出来るだけ少ない筋肉、少ない神経、少ない動きで動こうとします。どうも人のからだは、エネルギーの無駄な消費を嫌う横着者のようです。それに対して、子どもたちは「無駄」の塊です。道を歩く時も無意味にスキップしたり、意味もなく歌ったり、踊ったりしています。食事の時もジーッとしていればエネルギーの消費は少ないはずなのに少しもジーッとしていません。それは、感じたり考えることにおいても同じです。特別な必要もないのに「なんで?」「どうして?」と聞いてきます。そもそも「遊び」自体が無駄なものです。でもだから、いっぱい遊んでいる子どもたちには体操が必要ないのです。人の心もからだも有機的な統合体です。全ての筋肉、神経、骨格が支え合って、補い合って働いています。そんな統合体の中で、一部分の機能が低下すると、それに合わせて他の部分の機能も低下します。そうでないと、その機能低下した部分が過負荷によって壊れてしまうからです。足の指が痛くなっただけで、他の部分は異常がなくても、からだ全体の動きが狂ってきます。からだ全体で、その異常な部分を守ろうとするからです。いつも同じ動きばかりしていると、動いている部分の機能は低下しません。でも、疲労します、そして、動いていない部分の機能は低下します。すると、動いている部分は機能低下した部分の能力に合わせて動こうとします。すると全体の機能が低下します。その時、無理して同じ事をやろうとすると機能が低下している部分ではなく、動けるけど疲労が溜まっている部分に普段より強い負荷がかかり、そこが壊れます。それが腰痛が起きる仕組みです。心の病である「鬱病」も同じ仕組みで起きます。だから、無駄なことはやらないような真面目な人が「鬱病」になるのです。鬱病は「心の腰痛」です。そして、一部分が壊れることでさらにからだ全体の機能が低下します。でも、そこでまた小手先の動きだけでなんとかしようとすると、さらに使われていない部分が機能低下を起こし、それに合わせて全体の機能も低下します。老化はその悪循環によって進行します。つまり、老化によると思われている「心やからだの衰え」の多くは、年を取ることからの必然的な結果ではないということです。役に立つことばかりやって、無駄なことを排除してしまうから、その排除されたものによって全体の機能が低下してしまうのです。教室の中で優秀な子ばかり相手に授業をしていると、見捨てられた子どもたちが混乱を引き起こし、結局は優秀な子どもたちの成長も妨げられます。それと似たような仕組みです。なぜなら、人間の心やからだにとって無駄なものなど何もないからです。人間の価値観からしたら意味がないことでも命を支えるためには意味があるのです。だから、心とからだが成長しつつある子どもたちは、思いっきり「無駄なこと」をやっているのです。その「無駄なこと」が子どもの心とからだの成長を支えているのです。「私には頭と手だけあればいい」と、足もからだも動かさない生活をしていると、足とからだの機能が低下します。すると、それに合わせて頭と手の機能も低下してくるのです。人間は大人になると無意味なこと、無駄なことはやらなくなります。でも、そのことで少しずつ心とからだの機能が低下していくのです。ですから、多芸多趣味で「役に立たないような無駄なこと」をいっぱいやっている人の方が若々しいのです。「体操」はそのような人たちに「意識の働き」によって普段使わない筋肉や感覚を使うことを求めます。そのことで「意識」と「からだ全体」の機能低下を予防することが出来るのです。でも、「体操」では「心の機能低下」を防ぐことは出来ません。だから、体育会系の人の中には脳みそまで筋肉になってしまったような人がいるのです。そのような人は「からだ」は若々しくても「心」は頭が固い老人のようです。「心」の機能低下を防ぐためには「心の体操」が必要なのです。そのためには、意識の働きによって「心」を普段とは違うように使ってみるのです。昨日書いた「ごっこ遊び」もその一つです。大人には「ごっこ遊び」など全く無意味です。でも、その無意味なことに意味があるのです。
2012.09.19
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最初に事務連絡をさせて頂きます。今日の「ポランの広場」は中央公園でやります。**************************16日のブログに「大人とは、色々な視点で物事を考えることが出来る人」と書きました。自分の視点だけにこだわらずに、相手の視点や、鳥や、雲や、動物や、地球や、子どもなどの視点に立って物事を考えることが出来る人、ということです。そして、その視点が失われる時「対立」と「無視」が生まれます。「イジメ」や「虐待」もその視点がないから生まれます。でも、大人になれば誰でもが「色々な視点」で物事を考えることが出来るようになるわけではありません。競争ばかりさせられて育った人、比較されてばかり育った人、虐待を受けて育った人、もしくは指示や命令ばかり受けて育った人などは、「自分の視点」にばかりこだわります。それはそのような人にとっては、「自分」を守ることだけが一番大切なことになってしまっているからです。子育てや教育の現場で子どもたちを競争させれば、確かに個人としての能力はアップするかも知れません。でも、そのような子育てや教育を受けて育った子は「大人」になることが出来なくなってしまうのです。今、ゲームばかりやっているお父さんがいっぱいいます。また、幼稚な行動しか取れないお母さんやお父さんもいっぱいいます。怒り出すと怒りを抑えることが出来ずに、子どもに向かって物を投げてきたり、BB弾をバンバン撃ってくるお父さんまでいます。(子ども本人に聞きました。お母さんがやめさせるそうですが、“痛い”と言っていました。)経済優先の社会は競争社会です。その競争によって社会の豊かさは支えられています。でもその一方で、人間はどんどん幼稚化しています。どうも、人間は「助け合う心」を失うと幼稚化していくようです。ちなみに「幼稚化」と「子どもらしさ」は全く別のものです。「子ども」は仲間を大切にし、成長を望みますが、「幼稚化した人」は自分のことしか考えないし、成長には興味がありません。でも、困ったことに幼稚化した人間は自分が幼稚化していることに気付きません。被害者意識も強いです。そして、自分の価値観に合わないものに対しては攻撃し、排除しようとします。「あなたはあなた、私は私、お互いに自分らしさを大切にしようね」という価値観が理解出来ないのです。「競争」はそのような価値観を否定することで成り立っているわけですから、競争ばかりさせられて育った子が、そのような大人になってしまうのは必然的な結果なのでしょう。このブログをお読み頂いている方はそんなことないでしょうが、でも、もう少し積極的に「心のトレーニング」をしてみませんか。「心の深呼吸」です。色々な視点で物事を考えることが出来る人でも、忙しい毎日に振り回されていると、知らないうちに「心」が失われてしまうのです。そして自分のことしか考えることが出来なくなります。そして、子どもの気持ちを無視して、お母さんの気持ちを押しつけようとしてしまいます。すると、子どもはお母さんが望まない方向に育って行ってしまうのです。子どもと一緒に出来る「心のトレーニング」の一つに「ごっこ遊び」があります。子どもと一緒に熊になったり、ウサギになったり、空を飛んだりして遊びます。子どもはこのような遊びが大好きです。それは心が成長している時だからです。からだが成長している時にはからだを動かしたくなります。それと同じように心が成長している時には心を動かしたくなるのです。「ごっこ遊び」はそのためのものです。でも、ほとんどのお母さんたちが、子どもとの遊びの中でこれが一番苦手です。心が固くなってしまっているからです。だから「自分以外のもの」になってみることが出来ないのです。でもだから子育てが苦しくなってしまっているのです。そして「一人で遊んでいなさい」と子どもを遠ざけます。すると子どもは相手がいないので、「ごっこ遊び」ではなく、一人で「空想の世界」で遊ぶようになります。ちなみに「ごっこ遊び」は空想の世界の遊びではありません。現実の世界とつながった「視点を変えた世界」の体験です。そこで必要なのは空想力ではなく、想像力です。それに対して空想の世界は「現実」とはつながっていません。それが「子どもの嘘」につながることもあります。ということで、しばらく「心のトレーニング」(心の深呼吸)について書いてみます。秋頃にワークもやりたいと思っています。(今、この方向の活動に力を入れていきたいと思っています。ワークに呼んで下さい。)
2012.09.18
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人は誰でも20才を過ぎれば法律的には「大人」です。でもそれは「大人として扱われる」ということであって、「大人としての意識」を持つことが出来るということではありません。また、昨日書いた「子どもにも大人にもなることが出来る」というのも「大人としての能力」のことであって「大人としての実感」のことではありません。私自身、20才を過ぎても、社会人になっても、「大人になった」という実感はありませんでした。実を言うと、60才を過ぎた今でも、あまり「大人になった」という実感はありません。それでも、今まで「大人になるってこういうことなのかな」と感じたことは二度ほどあります。一度目は30才の頃です。私は30才で仕事を辞め、リュック一つでヨーロッパやインドに出かけたのですが、そのしばらく前に、子どもの頃いつも遊んでいた海岸にお別れに行きました。そして、砂浜に立ってしばらく海を見ていたのですが、急にその時目の前に広がる海が「子ども頃に見ていた海」と違うことに気付いたのです。「子どもの頃に見ていた海」は、もっと不思議で、怖くて、ファンタジックなものでした。それは何か「生き物」のようでした。そして、海を見ていると、海の底や海の向こうの世界が見えるような気がしていました。でも、30才の私に見えたのはただの「海」でした。砂浜も、水平線も、広々とした海原も見えるのですが「それ以上のもの」が見えないのです。その時、一抹の寂しさを感じると共に「大人になるってこういうことなんだな」と感じたことを覚えています。でも、今の仕事をするようになってからその感覚はだいぶ戻ってきました。「海」が変わってしまったのは「大人になったから」ということではなく、「大人の仕事」にばかり振り回されて、子どもの時のような「心や感覚の使い方」をしなくなってしまったからに過ぎなかったのです。次に「大人になるってこういうことなのかな」と感じたのは子どもが生まれた時です。「子どもへの愛」は「異性への愛」とは全く異なるものです。大好きな八木重吉の詩に「陽二よ」 なんという いたずらっ児だ 陽二 おまえは 豚のようなやつだ ときどき うっちゃりたくなる でも陽二よ お父さんはおまえのためにいつでも命をなげだすよというものがありますが、「自分の命をかけてまで守りたいもの」が我が子です。親になって見て初めて、親というものはこんなにも子どもを愛しているんだ」ということを知りました。その「愛」を知った時、「大人になった自分」を感じました。ただし、それは「自分の中の子どもが消えて、大人に変化した」という感覚ではなく、「大人の感覚も分かるようになってきた」という感じです。「変わり玉」という飴がありますが、あれと同じように「子ども」という核の回りに「大人」という層が出来てきたという感じです。ですから「核」の部分は「子ども」のままです。あと、今の仕事をするようになって、全て自分の責任で色々なことをやらなければならなくなった時、「大人としての自覚」も目覚めてきました。でも、それは「徐々に」という感じです。みなさんはどんな時に「大人になった」ということ、「自分が大人であること」を感じましたか。
2012.09.17
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昨日、茅ヶ崎の公園で、友人が企画した「アースウォーク」をやりました。「反○○」ではなく、「地球や生命のことを想い出すところから始めようよ」という趣旨の活動で、多くの家族が参加して、鳥になったり、雲になったり、草や木になったり、動物になったりして遊びました。「鳥」になった人は、「鳥の視点」で「ひと言」言って、みんなが作った輪(地球)の中を飛びます。そのようにして、次々と「ひと言」言って、「輪」の中に入っていきます。公園の中で仲間だけでやっているのですからアピール性はありません。ですから「変えよう」とする人たちには「意味がないこと」かも知れません。でも、この会に集まった人たちは「変わろうとする人たち」です。「変えようとすること」も大事なことです。でも、それ以前の問題として「変わろうとする意志」がなければ、結局「勝つか負けるか」だけの戦いになってしまい、本質的な問題は解決しません。戦いに勝ったとしても「白と黒の位置」が逆転するだけで、パターンは同じだからです。「アースウォーク」が終わった後、みんなで食事をしていたのですが、その時一人のお母さんが「先生、大人と子どもの違いって何ですか?」と聞いてきました。その答えに正解はないでしょうし、色々な答えが可能だと思いますが、私は「アースウォーク」とのつながりで、「大人とは、色々な視点で物事を考えることが出来る人」と答えました。鳥や、雲や、動物や、地球や子どもなどの視点に立って物事を考えることが出来る人、ということです。子どもにはそれができません。子どもは常に「自分」を中心にした「視点」からでないと、物事を見たり、感じたり、考えたりすることが出来ないのです。子どもは「ごっこ遊び」が大好きで、よく犬になったり、ウサギになったりしていますが、でも、それは、「自分」が犬やウサギに変身しているだけであって、「自分」を捨てて、犬の視点、ウサギの視点になって遊んでいるわけではありません。ですから、にんじんが嫌いな子がウサギになると、「にんじんが嫌いなウサギ」になります。でも、大人は「自分の視点」を捨てて、他者の視点で物事を見ることも出来るのです。その視点がないと、動物を飼うことは出来ません。ですから、「子どもの視点」で物事を考えることも出来ます。でも、子どもは「大人の視点」で物事を考えることは出来ません。ただし、大人はみんなそういうことが出来るわけではありません。実際にはそれが出来ない大人の人はいっぱいいます。でも、意識し、自分を変えようとすれば、出来るようにはなります。でも、子どもは生理的に出来ません。それが可能になるのは、思春期が来て「自我」がしっかりと目覚めてからです。そして、そのためには昨日まで書いてきた「言葉の学び」が必要なのです。というようなことを答えていたら、「アースウォーク」を企画した友人が、『ということは、子どもにも大人にもなることが出来るのが「大人」ということだよね』と言いました。まさにその通りです。子どもは「子ども」でしかいることが出来ません。でも、大人は「子ども」にもなれるのです。なぜなら、大人はみんな昔は子どもだったからです。そして、その視点があるから子育ても出来るし、幸せな親子関係も築くことが出来るのです。そして、昨日の会に集まった人たちはそのような大人ばかりです。でも、実際には「子ども」を否定し、「子ども」を受け入れない大人もいっぱいいます。そのような人は、子どもにも「大人のような判断と行動」を求めます。私に「大人と子どもの違い」を聞いてきたお母さんも、そのことの理由を知りたかったようです。そのような大人は、「子どもであること」を否定されて育ってきたか、「子どもであることの喜び」を充分に味わうことが出来ないまま大人になってしまったのでしょう。だから「子ども」を肯定することが出来ないのです。でもそれは、「自分という存在の半分」を否定していることと同じです。そのような大人は「大人としての半分」を失ってしまっている「半人前の大人」ということになります。そして今、「半人前の大人」ばかりがどんどん増えてきています。そのような大人は相手の立場に立って考えることが出来ないため、助け合ったり、支え合ったり、つながり合うことが出来ません。それが「離婚の増加」や「虐待の増加」とも関係しているでしょう。また、教育や経済や政治の分野においても、半人前の大人たちが支配しています。だから、対立と戦いが拡大するばかりで混乱が収まらないのです。今、世界規模で非常に恐ろしい状態です。
2012.09.16
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今日の文章は、あるところから頼まれていた原稿の下書きです。まだ、推敲が足らない部分がありますが、その点をご理解の上お読み下さい。これで、一応、「言葉」のテーマは一休みします。********************** 人間が「人間らしさ」を得ることが出来たのは、「言葉」を得ることが出来たからです。「自分」という意識も「言葉」を得ることによって生まれました。論理的に考える能力も、真・善・美を感じる能力も、心や命や時間や空間や神様について考える能力も、知識や知恵や技術を伝え蓄積できるのも、人と人がつながり合うことが出来るのも全て「言葉」のおかげです。 「言葉」こそが「人間らしさ」の源であり、人類の「人間としての歴史」は全て「言葉の獲得」から始まりました。そして、これだけ高度な文化と文明を築き上げた人類でも、「言葉」を失えばあっという間に原始人以前の状態に戻ってしまいます。高度な文化も文明も全て崩壊します。何万年かかって蓄積されてきた膨大な知識や知恵や技術も言葉の消滅と共に全てが霧のように消えてしまいます。なぜなら、「言葉」を失えば「伝承」が出来なくなってしまうからです。 記録で残しても、「言葉」を失ってしまった人はその記録を解読することが出来ません。どんなに素晴らしい記録が残されていても、解読する能力を失ってしまった人間にはゴミと同じです。 このように、この高度に文明化された豊かな世界は、一見強固で永続的に続くように見えますが、実は「言葉」を獲得する作業を通して自転車操業的にかろうじて維持されている不安定な世界なのです。 だからこそ、私たちは意識的に「言葉」を守り、育て、子どもたちに伝えていかなければならないのです。世代を超えて人間としての精神や知性や人間性を継続していくためにです。これは環境問題と同じなのです。 でも、現状は全くその逆の状態に進んでしまっています。世界中で言葉がどんどん壊れ始め、若者たちは「言葉」を失い始めています。特にそれは日本のように生活が便利になってしまった国において、著しい傾向があります。 それは、科学的な知識や、便利な道具や、新しい価値観や、新しい社会システムの登場によって、「過去から学ぶことの意味」が見えなくなってしまったからなのでしょう。また、「言葉」を伝承するための「つながり」も失われてしまいました。そして、いまでは「言葉」を伝承する最後の砦である「家族のつながり」までもが崩壊しそうです。 そんな現代人にとって、「言葉」とは単に生活の道具に過ぎません。ですから「生活に必要な言葉」だけしか教えようとしていません。さらに、「生き延びるためには英語が必要だ」と思えば、日本語を教えるよりも熱心に英語を教えます。でもそれは、今豊かな生活をするために、森を壊し、海を汚し、生き物を殺し、原発を作り続けるのと同じ行為なのです。 自然が失われてしまったら、その豊かさも維持できなくなります。人間の生活は間接的に「自然」に支えられているからです。同じように、「生活に必要な言葉」だけでは、精神性や知性や人間性を伝承することは出来ないため、結局「文化」や「文明」といったものまで失うことになってしまいます。高度な文化や文明を維持するためには「高度な言葉」が必要だからです。そのため、やがて「豊かさ」も失ってしまうでしょう。 でも、「目の前の豊かさ」に中毒症状を起こしている現代人にはそこまでの想像力はないようです。たしかに、学校では一応「昔の言葉」を学ぶ授業はあります。でも、先生たちはその言葉を「知識」として教えるばかりで、「言葉」として教える能力は持っていません。そもそも「テストのための勉強」で「精神や知性や人間性を伝えるための言葉」を教えることなどできないのです。また、子どもたち自身もそのような言葉には関心がありません。社会全体の価値観が変わってしまっているからです。 そのため、現代人の「言葉」は非常に「うすっぺら」になってしまっています。それに合わせて、精神性も知性も人間性も人と人のつながりも薄っぺらになってしまっています。イジメや、虐待や、引きこもりや、様々な理解不能な事件の増加の背景にもこの「言葉の問題」が働いています。 確かに、その「薄っぺらな言葉」でも、現代的な普通の生活を送るためには充分です。(だから薄っぺらくなってしまっているのですけど・・・)また、「精神性や知性や人間性といったものの内容や価値も、時代と共に変わるものさ」という考え方もあります。だから、「それでもいいじゃないか」という考え方も可能です。 でも、困ったことにその「薄っぺらな言葉」では仲間作りも出来ないし、さらには幸せな夫婦関係も、幸せな親子関係も、幸せな子育ても維持出来ないのです。なぜなら、「薄っぺらな言葉」では「対話」も、「助け合うこと」も、「支え合うこと」も、「理解し合うこと」も出来ないからです。 その「薄っぺらな言葉」とは「空っぽの言葉」のことです。ですから、その反対の言葉は「中身が詰まった豊かな言葉」ということになります。決して、「難しい言葉」のことを言っているわけではありません。ですから、学歴とは全く関係がありません。学校など出ていなくても「豊かな言葉」を使うことが出来る人もいれば、東大を出ても「薄っぺらな言葉」しか使えない人もいます。 それはまた、単なる「知識としての言葉」ではなく、自分の心や、感覚や、からだや、体験とつながった「中身が詰まった言葉」ということでもあります。「自分の言葉」と言い換えることが出来るかも知れません。だから、それらを失った「薄っぺらな言葉」では対話することも、つながることも、育てることも、支え合うことも出来ないのです。 では、その「豊かな言葉を取り戻すためにはどうしたらいいのか」ということですが、便利な道具や機械に依存することを少し控え、自分の感覚やからだを使った生活を取り戻したり、自然と触れあったり、生命を育てるようなことを生活の中に取り入れたり、物語を聞いたり読んだりしたり、他の人といっぱい対話したり、仲間と助け合ったり、様々な表現活動をしてみることです。 私たちの祖先はそのような生活を通して「言葉」を学び、伝えてきたのですから。そして、現代人はそのような生活を失ってしまったために「言葉の中身」を失ってしまったのです。「言葉」は「器」なのです。 子どもたちもまた、そのような活動と共に言葉を学ぶことで、言葉に「中身」が入るのです。大人もまた、空っぽの言葉の中に「中身」が入って行きます。テレビや教科書や本で学んだだけの言葉にはその「中身」がないのです。
2012.09.15
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人間以外の動物たちも「言葉」は持っていますが、その「言葉」は「ここに美味しいものがあるぞ」とか、「敵が来た、逃げろ」というような「情報のコミュニケーション」のためのものであって「対話」のためのものではありません。ですから動物たちは対話をすることが出来ません。猿は簡単な対話も出来るようですが、基本的に高度な対話をすることが出来るのは人間だけです。そこに「人間の言葉」の本質があります。そして、7才を過ぎて「自分」という意識が明確になってくると、今度は「自分との対話」が出来るようになります。これは猿には出来ない「人間固有の能力」です。この「自分との対話」によって「自分の心の世界」が出来上がっていきます。当然のことながら、7才前の子どもにも「心」はありますが、それが一つの「世界」にまではなっていません。「自分との対話」が出来ないからです。7才までの子どもの「心の世界」は「子どもの内側」にではなく、「外側」に存在しています。それは「夢の世界」の中に入り込んだような状態です。だから、大人とは違うものを見、違う音を聞いているのです。でも、今日はこの問題には深入りしません。でも、ただ単に「言葉」を覚えたからといって「対話」が出来るようになるわけではありません。「本を読む能力」は「本」を読むことを通して身につけるしかありません。それと同じように、「対話の能力」は「対話の繰り返し」によってしか身につかないからです。その延長に「自分との対話」があるのです。そしてそれこそが現代人が失ってしまった能力でもあります。だから「言葉」を受け継ぐことが出来なくなってしまっているのです。子どもたちに「人間らしい言葉」を伝えるためには「対話」を通して言葉を伝える必要があるのです。それが有史以来人類がやってきたことです。だから、人間としての精神が失われることなく伝えられてきたのです。でも、今時の子どもたちは対話ではなく、大人の言葉を真似したり、テレビなどを通して言葉を覚えています。でも、真似しただけの言葉やテレビで覚えた言葉で対話することは出来ません。教科書で覚えた言葉でも対話することが出来ません。本で覚えた言葉でも対話することは出来ません。人間と人間が向き合って、お互いに「お互いの言葉」に耳を澄ましながらでないと、「対話の言葉」や「人間の言葉」を学ぶことはできないのです。そしてその際、「聞く」とか、「耳を澄ます」とか、「待つ」とか、「相手の立場に立って考える」いう作業が必要になります。ですから、子どもたちは大人との対話を通して、この「聞く」とか、「耳を澄ます」とか、「待つ」とか、「相手の立場に立って考える」というような能力も育ているのです。そして、この能力が「人と人が助け合う」とか「支え合う」とかいうような能力の基礎にもなっているのです。簡単に言ってしまえば「対話が出来る人は助け合うことが出来る人」でもあるのです。それは皆さんの周りを見回して頂ければお分かり頂けることだと思います。ですから、この能力が低い人が増えてくると非常に困ったことになります。イジメや虐待を繰り返す人は自分の主張を繰り返すばかりで対話が苦手です。モンスターペアレントも同じです。そして、そのような人は「自分との対話」も苦手です。だから苦しみから抜け出すことが出来ないのです。また、この能力が低いと夫婦生活や子育ても困難になります。自分の欲求や主義主張ばかり繰り返し、意思の疎通が困難になるからです。
2012.09.14
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人類が言葉を得た最初は、「言葉」は単なるコミュニケーションの道具だったのだろうと思います。そして、そのレベルの「言葉」なら人間以外の動物たちも持っています。イルカが超音波を使ってコミュニケーションしているのは有名な話です。集団で行動するオオカミや象たちもまた、高度なコミュニケーション能力を持っています。でも、そのコミュニケーションに「名前」を使うのは人間だけです。「そこの角を右に曲がって、赤い色の看板の脇の道を入ってまっすぐに行くとコンビニがあります。」という文章は「角」「右」「赤」「色」「看板」「脇」「道」「コンビニ」といった「名前」を、それらの関係性に従ってつなげる(構造化する)ことで成り立っています。人間の言葉の大部分は「名前」で出来ているのです。そして、「名前」があるから情報を時と場所を越えて伝達することが出来るのです。また、難しい論理を構築できるのも「名前」があるからです。「名前」は、全体を構成するための「パーツ」でもあるのですが、逆に色々なパーツがあるから複雑な「全体」を構成することもできるのです。それはレゴと同じです。そして、その「名前の発明」こそが人間の「知性」の目覚めでもありました。人間は「名前」を得ることで、「自然」から分離することが出来たのです。犬は「ボール」や「新聞」といったような「名前」を理解することは出来ます。でも、「名前」を使うことは出来ません。「名前」を作ることはもっと出来ません。それでも、人類が言葉を得た最初の頃は、「リンゴ」や「石」や「牛」といったような「物の名前」だけしか扱えなかっただろうと思います。それは、幼い子どもたちが最初は「物の名前」しか理解できないことからも推測できます。そして、「りんご ほしい」とか「うし いた」というように二語文で話していたのだろうと思います。幼児の成長の過程はそのまま人類の進化の過程と相似形になっているのではないかと思われるからです。でも、それはただ「名前」を直線的に並べただけの言葉です。「言語」としての構造がありません。そして、言葉が構造を持ち「言語」になるためにはお母さんなどの大人との対話が必要なのです。テレビを見せていても、この構造は生まれません。とにかく「1対1の対話」が必要なのです。「りんご ほしい」でも言いたいことは通じます。でも「りんご が ほしい」とか「りんご も ほしい」という表現の違いは、「他者」というものが存在する状況の中でしか生まれてこないのです。この時、子どもは対話を通して「自分」という存在に気付き始めているのだろうと思います。それと同時に、「自分」と「お母さん」が別の存在になります。それは、アダムとイブが「禁断の木の実」を食べて「神様」と分離した状態です。そして、子どもは自分には「自分だけの名前」があることを知ります。それと同時に「他者としての世界」も生まれます。それまでは「自分」と「世界」は分離されておらずいっしょくたでした。「自分」もなければ「他者」も「世界」もなかったのです。だから、相手に分かるように話すことが出来ないのです。その「自分」と「お母さん」や「他者」との関係性への意識が「言葉」の中に現れ、言葉が急に複雑になるのです。言葉の変化はそのまま意識の変化でもあるからです。ですから「自分の名前」を得るということは実はものすごく重大なことなのです。「人間としての意識」はそこから始まったのですから。この変化は、2才から3才の間に起きるようです。そしてこの頃には母国語の「感覚的基礎」が固まってくるのではないかと思います。ただし、ここに書いたようなことは私の直感ですから、科学的な根拠を示すことは出来ません。ですから、「一つの考え方」としてお読み下さい。次に「赤い」とか「熱い」とか「美味しい」とか「美しい」というような感覚的状態にも名前をつけました。いわゆる「形容詞」です。「形容詞」とは感覚的な状態に付けられた一種の「名前」です。美味しいものを食べながら「おいしいね」といえば、その言葉が示すものを相手に教えることが出来ます。それはリンゴを手にとって、「はい、リンゴだよ」というのと大差ありません。感覚を共有しているからです。子どもと一緒にお花を見ている時に、お母さんが「きれいだね」と言えば子どもは次第に「きれい」という言葉を理解するようになります。逆に言えば、感覚を共有することが出来ない「形容詞」を教えることはできません。同じ「きれい」という言葉でも、「手をきれいに洗いなさい」という場合の「きれい」を理解することは出来ません。この「きれい」は共有出来ないからです。「清潔」という意味の「きれい」が理解できるようになるのは、客観的な意識が目覚める7才を過ぎてからだと思います。ですから、「手をきれいにしなさい」ではなく「手を洗いなさい」という表現の方が子どもには伝わります。「おそい」も「はやい」も「ちゃんと」も理解することが出来ません。主観的な言葉だからです。ですから「早くしなさい」と言われても、その言葉を理解することが出来ません。そんな時、「おもちゃをちゃんと片付けなさい」では通じませんが、「このおもちゃはここに入れなさい。このお人形はここに置きなさい。」なら通じます。7才前の子どもは、「感覚の共有」によって教えることが出来ないような「主観的な言葉」は、基本的に理解できないのです。さらに、人類は「動き」にも名前を付けました。「走る」とか「踊る」というような「動詞」です。でも、「動詞」になるとなかなか難しくなります。「意識の対象」を共有することが難しくなるからです。ですから、鳥が飛んでいる姿を見て「飛ぶ」という動詞を教えるのは困難です。でも、一緒に走りながら「はしれ」と言ったり、「走るって楽しいね」と言えば、そこには「動作の共有」があるので、言葉は伝わります。私は子どもが小さい時には、言葉によって体験を共有しながら遊びました。「小さくジャンプ」「大きくジャンプ」「ダンゴムシさん丸くなったね」「タンポポきれいだね」「お空が青いね」というように、意識的に話しかけながら子どもと遊びました。無理に教えようとしなくても、体験と言葉がセットになっていれば子どもは自然に言葉を覚えていくのです。「ヨモギを取ってきて草団子を作ろうね」と言って、そういう遊びをしていれば、「ヨモギ」とか「草団子」という名前を自然に覚えてしまうのです。体験だけ与えても言葉は覚えません。言葉だけ与えても言葉が使えるようにはなりません。そのセットが必要なのです。そして今、それが出来るのはお母さんしかいないのです。それが一緒に遊ぶことであり、しつけの意味でもあるのです。「しつけ」とは「言葉を伝えること」でもあるのです。
2012.09.13
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最初はちょっと告知をさせて頂きます。毎月、月一回「遊びの会」という遊びの会をやっています。親子で一緒に遊びます。幼稚園から小学生までOKです。次回は16日(日)です。チラシは<ここ>でご覧になって下さい。ご興味のある方はご参加下さい。*******************今日で、「言葉」については最後にしようと思って、5時頃から書いているのですが、なかなかまとまりません。「言葉の大切さ」をどのような言葉で伝えらいいのかが見えてこないのです。私がやろうとしていることは、言葉が必要のない生活をしている人に、「言葉の必要性」を説くようなものです。「言葉」の中には「人間性の全て」があります。ですから子どもたちが人間性を得るためには「言葉育て」が必要になります。子育てや教育は「言葉育て」でもあるのです。でも、現代社会ではその「人間性」というものの価値自体が失われてしまっています。お母さんや先生たちの話を聞いていても、みんな成績や能力育てのことにばかりに熱心で、ほとんどの場合「人間性を育てる」という視点は感じません。日本の社会では、「言葉」を大切にせず、「言葉育て」をやってこなかったので、「きちんとした言葉」を必要としない社会になってしまっているのですが、言葉を必要としない社会になってしまったため、さらに急激に「言葉」が失われてしまっているのです。そして、「言葉」が単なる「コミュニケーションの道具」になってしまいました。でも、そのことがイジメや虐待や自殺や引きこもりの増加の背景にあるのです。なぜなら、心や、意識や、知性は「言葉」によって育つものだからです。これだけの文化や文明に囲まれた生活をしていても、言葉を失えば、人は「ケモノ」と同じになってしまうのです。そして、やがて文化も文明も衰退していくでしょう。言葉が失われた社会では創造も伝承も出来ないからです。だから「言葉を取り戻そう」と書いているのですが、その言葉が伝わるのは、最初から「言葉の大切さ」を知っている人だけです。「自分の言葉」は「自分の考え」、「自分の感覚」、「自分の意志」、「自分の意識」の表れです。でも、家庭でも、学校でも、社会でも「自分の考え」、「自分の感覚」、「自分の意志」、「自分の意識」は求められていません。だから「コミュニケーションの道具としての言葉」しか必要としていないのです。でもそれは「空っぽの言葉」です。
2012.09.12
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心が自由な人は色々な視点から物事を見ることが出来ます。領土問題でも、韓国や中国の人たちの視点からも見ることが出来ます。子育てでは、子どもの視点からも見ることが出来ます。夫婦であれば、お互いの視点から物事を見ることが出来ます。また、人間以外の視点も持つことが出来ます。犬や猫や、熊やキツネの視点になって見ることも、100年前、100年後という視点に立って見ることも、宇宙からの視点に立って見ることも出来ます。思いやりも、優しさも、助け合いも、創造性も、その「心の自由」から生まれてきます。「戦いの無意味さ」や「苦しみの意味」に気付くのも「心の自由」があるからです。「想像」は誰にでも出来ますが、その「想像」が「創造」につながるためには「心の自由」が必要です。創造するためには「視点の切り替え」が必要だからです。「創造力」のない人はその切り替えが出来ない人です。「心が自由である」ということはそういうことです。ですから、人間らしい人間を育てるために一番重要なのは、この「心の自由」を育てることなのです。でも、この「心の自由」はなくても何も困りません。体に不自由があれば、色々と困ったことも起きますが、「心の不自由」は本人には自覚できないからです。だからやっかいなのです。そして、ただ単に豊かで便利な生活を送るためだけなら、「心の自由」は必要がありません。成績をよくしたり、様々な能力を高めるためにも「心の自由」は必要がありません。お金を稼ぐためにも「心の自由」は必要ありません。現代社会で生きて行くだけなら「心の自由」は何の役にも立たないのです。でも、人々がみんな「心の自由」を失ってしまったら、人類も地球も困ったことになってしまいます。未来からの視点、次世代の子どもたちからの視点、地球からの視点、他の生き物たちからの視点、海や川からの視点を持つことがなく、人間が「自分」という視点、「人間」という視点だけにこだわって活動していたら、確実に自然や地球や人類の未来は破壊されてしまうからです。自分だけを守ろうとする人は自分を守ることが出来ないのです。なぜなら全てはつながり、お互いに支え合っているからです。オンブされている人が、オンブしてくれている人を痛めつけてしまえば、結局は自分も同じ運命をたどることになるのです。今、人間は地球や自然に対して同じことをしています。でも、「心の自由」を失ってしまった人にはその事実が見えません。やっかいなことに、「心」はどんなに不自由になっても自覚症状がないのです。「心」を感じるのは「心」だからです。また、「他者の視点という鏡」を持っていないからです。では、どのようにしたら子どもたちの「心の自由」を育てることが出来るのかというと、そこで「言葉」と「物語」が必要になるのです。なぜなら、「他者からの視点」は「言葉」や「物語」の中にしか存在し得ないからです。「私から見たあなた」「あなたから見た私」という二つの言葉でこのことを考えてみます。私たちはいつも「私からあなた(他者)」を見ています。これが出来ない人はいません。でも、「あなたから見た私」をイメージできる人は多くありません。でも、そのような視点があるということは理解することが出来ます。それは「あなたから見た私」という言葉があるからです。「雲に乗って空から地球を見たらどんな風に見えるんだろうね」と、「空の上からの視点」に気付くことが出来るのも、「言葉」があるからです。言葉を使わなければ、この「他者からの視点」に気付くことも、説明することも出来ないのです。また、物語の中には、常に複数の登場人物の視点が現れます。「かぐやひめ」であれば、老夫婦の視点、かぐや姫の視点、かぐや姫と結婚したい若者たちの視点によって物語が展開していきます。ですから、「かぐや姫」のお話を聞いたり、読んだりすることで、子どもたちはそれぞれの登場人物の視点を疑似体験することになります。「物語」とはそういうものです。ただし、「物語」を聞いて育った人がみんな「自由な心」を持つことが出来るようになるわけではありません。自由な心を育てるためには「聞く」だけでなく、「語る」ことも必要だからです。「雲に乗って空から地球を見たらどんな風に見えるんだろうね」と問われて、自分の言葉で答えようとする時、初めてその視点を「自分の視点」として捉えることが出来るのです。物語を聞いているだけではあくまでも「他者の視点のまま」なのです。「聞くこと」と「語ること」がセットになって、「言葉」は完成するのです。でも今、現代人は「語る言葉」を持っていません。
2012.09.11
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最初に少し告知させて頂きます。12回連続で行っている「自分育て講座」の前半、「気質について」が終わり、10月から三回連続で「表現ワーク」が始まります。(2013年1月からはセルフケアです)「気質」だけで終えてしまう人もいるため、「表現ワーク」から参加なさりたい方を募集します。日時や内容に関する詳細は、最後に載せました。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。************************この世には「目に見える世界」と「目には見えない世界」があります。物質の世界でもリンゴや木や石は目に見えますが、空気や重力や電磁波や時間は目に見えません。「自分の目」や、「自分の背中」や、「無意識」や、「盲点」のような存在も目には見えません。目に見えないほど遠くで起きたことも、地面の中や、海の中や、リンゴの中で起きたことも目には見えません。さらに、心や、思考や、感覚や、想いや、愛や、物語といった「人間の内側」に存在するものは100%目には見えません。でも、その「目に見えない世界」は「目に見える世界」に影響を与えているため、間接的には見ることが出来ます。空気は風となり、雲を動かすし、落ち葉を舞い上げます。その時、「空気」そのものは目に見えませんが、雲や落ち葉の動きを通して空気の存在や、空気の動きを知り、感じることは出来ます。リンゴは重力の働きで落ちてきます。でも、その「目には見えない存在」に気付くためには想像力が必要です。そうでないと、「雲」や「落ち葉」は見えても「空気」は見えません。「リンゴ」は見えても重力は見えません。「見えないもの」を観るためには想像力が必要なのです。「人間の内側」に存在するものも目には見えません。でも、その「見えないもの」がその人の行動や表情や仕草や言葉などをコントロールしています。ですから、ここでも想像力を働かせることで、目には見えないその人の「内側の世界」を感じ取ることは可能です。これは特に、子どもたちのことを理解する時には必要なことです。なぜなら子どもたちは「自分のこと」を見ることも、説明することも出来ないからです。実は、「目に見える世界」の全てが「目に見えない世界」の働きの結果なのです。道ばたに落ちている石ころでさえ、「見えない世界の働きの結果」なのです。まず、その石が生まれたのが何万年か昔の、海の中か地面の中でしょう。その石が生まれる過程は「目に見えない世界」に属しています。ですから想像するしかありません。その何万年か前に、どこか知らないところで生まれた石が、あなたの目の前に来るまでの過程も「見えない世界」に属しています。ですから想像するしかありません。その想像する過程で「物語」が生まれます。科学者も同じことをしています。ただし科学者はデータに基づいて想像し、古代の人たちや子どもたちは体験に基づいて想像しているだけです。でも、「想像する」という点においては同じです。ですから、「科学」と「物語」は兄弟なのです。そして、子どもたちは物語を得ることで、想像する能力を育て、やがて「データ」の意味を理解することが出来るようになると、科学的に考えることが出来るようになるのです。それがまた、人類がたどってきた道でもあります。ですから、科学的思考を育てるために子どもたちに与えなければならないことは、「科学的知識」を学ばせることではなく、その知識を得るための「想像力」を育てることの方なのです。それなのに学校では、「想像の結果」を覚えさせるばかりで「想像力」を育てようとはしていません。だから、科学的知識はいっぱい持っているのに、科学的に考えることが出来ない人ばかりが増えてしまうのです。ちなみに、「空想」と「想像」は異なります。空想はデータにも、体験にも基づいていません。ですから、空想の世界の出来事には因果関係がありません。唐突に「出来事」が生まれてくるのです。それは、「空想」で扱っているのは「見えない世界」ではなく、「存在していない世界」だからです。だから、その世界には因果関係も存在していないのです。そのため、「想像」においては、「ある人の想像」と「別の人の想像」を付け合わせて、一緒に想像することは可能ですが、「空想」は全く個人的なものです。そして、空想の世界に囚われすぎると「排他的」になります。オカルトに染まってしまったり、引きこもってしまっている人などは「空想の世界」に閉じ込められてしまっている人です。「私は空が飛べるんだ」と勘違いしてしまうのは空想ですが、「どうやったら空が飛べるんだろう」と考えるのは「想像」です。たとえ、その原因が「妖精の粉」でも、何らかの因果関係によって現象を説明しようとするなら、それは「空想」ではなく「想像」なのです。そして、その「想像」が物語を紡ぐのです。そして、人はその「見えない世界の物語」を得ることで、目の前のことに振り回されなくなります。目の前に存在しているものの意味や、なぜ自分が存在しているかということの意味が分かるからです。「意味」とか「価値」というものは、それ自体で存在しているものではなく、物語の中で生まれてくるものなのです。ですから、「自分が生まれてきた意味」を知るためには、自分が生まれる前から死んだ後のことまで含めて、想像の力によって「自分の物語」を自分なりに考えてみる必要があります。また、失ってしまった「物語」を取り戻すためには、道ばたに生えている草花の物語や、風の物語や、木の物語や、水の物語や、生命の物語を想像によって紡ぐ必要があります。あなたの足下に生えているタンポポの種は、どこから飛んできたのでしょうか。そのタンポポの種はどこに飛んでいくのでしょうか。そして、どのような体験をするのでしょうか。そういうことを子どもと一緒に考えてみて下さい。そうすると、子どももみなさんもまた、「物語の世界」を取り戻すことが出来ます。私は、人類が目先の事ばかりを追い回すことをやめ、滅亡から救われるためには、その「物語の力」を取り戻す以外にないと思っています。そしてそれがまた、「言葉の再生」でもあるのです。************以下は「表現ワーク」の案内です。10月15日(月) 「言葉とからだと感情表現」(一人の世界) 自分の感情に気付くためのワークです。11月5日(月) 「伝える」(二人の世界) 言葉や、からだや、声や、雰囲気など、さまざまな方法で「伝える」という ことを考え、体験しててみます。12月3日(月) 「創造する」(仲間の世界) グループに分かれてテーマを決め、それを劇の形でも、踊りの形でも、一つ の形として創り上げてみます。 会場は全て、茅ヶ崎市民ギャラ~5F 創作室B・C 保育は創作室A です。JR茅ヶ崎駅の隣のビルです。
2012.09.10
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多くの人が「人間は全ての生き物たちの王であり、地球の支配者であり、地球上で最も偉大で賢い生き物」だと思い込んでいます。でもそれは勘違いです。現代人を、何も持たせずに一人だけで無人島に閉じ込めたら、ほとんどの人が何も出来ないまま死んでしまうか、獣のような生活によって生きながらえるだけになってしまうでしょう。一人だけでなく数人の人間でも、何も持たせなければ、結局同じことになるでしょう。子どもだけだったらもっと悲惨なことになります。人間の素晴らしさは「個」に属するのではなく、集団に属しているのです。ですから、人間を集団から切り離してしまえば、「人間」は「取るに足らない存在」になってしまいます。現代に生まれた子でも、集団から切り離された状態で育てられてしまえば、集団の中で育った古代人以下の能力しか得ることが出来なくなります。だからこそ、どのような集団の中で、どのような関わり方をしながら育ったのかということが、その子の人間としての成長に決定的な影響を与えているのです。その「集団」は、「古代からの智恵と知識と技術の積み重ね」の上に成り立っています。というより、「古代からの智恵と知識と技術の積み重ね」を共有することで、その集団が成り立っているのです。そして、その「古代からの智恵と知識と技術の積み重ね」は「言葉」によって受け継がれ、支えられてきました。そこには「目に見える世界」だけでなく「目には見えない世界」に関する知恵と知識と技術も含まれます。人間は「言葉を共有することでつながる生き物」なのです。ですから、「同じ言葉」を話す人が「仲間」なのです。これは子どもの集団でも大人の集団でも同じです。人間の精神の自由も「言葉」によって支えられています。「言葉」を失うことは、「心」を失うことです。「心」を失うことは「自由」を失うことです。「自由」を失うことは「創造性」や「想像力」を失うことです。そして、「つながり」を失うことです。ですから、「言葉」を失えば、「古代からの智恵と知識と技術の積み重ね」も消え、それを共有することで成り立っていた集団も消え、人間は「個」として生きなければならない存在になり、次第に人間としての偉大な能力を失っていきます。それは、今、現在進行形の現象です。現代人が「お金」と「道具」さえあれば「言葉」も「つながり」も必要としない社会を作り出したからです。でも、「言葉」と「つながり」が失われた世界では、「子育て」が出来ないのです。そのため、悪循環の連鎖によって状態の悪化が加速しています。今、「バベルの塔」の崩壊が始まっているのです。この流れを食い止めるのは、私たちがしっかりとした「言葉」を取り戻し、子どもたちにちゃんと「言葉」を伝える以外にないのです。「ウルセー テメー シズカニシロ」と怒鳴るような子育てをしていたら取りかえしが付かなくなってしまうのです。そのためにまず必要なのは一人一人が「自分の言葉」を取り戻すことです。知識や常識を語るのではなく、また他人の言葉を引用するのでもなく、自分の頭で考えたことや自分で感じたことを、「自分の言葉」で語るようにするのです。その時、「自分との対話」が起きます。その「自分との対話」が、意識や、感覚や、知性や、心を目覚めさせるのです。そして、これが非常に重要なことなのですが、「自分との対話」が出来る人だけが、「他者との対話」も出来るのです。
2012.09.09
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人間は「人間の外側の世界」と「人間の内側の世界」の二つの世界にまたがって生きています。このどちらが欠けても、「人間」は存在することが出来ません。そして、科学や文明は「人間の外側の世界」を扱い、文学や芸術や宗教や様々な文化などは「人間の内側の世界」を扱うためのものです。(以下簡単に「外側の世界」と「内側の世界」と記します。)人類は有史以来、「内側の世界」と向き合ってきました。そのことで文学や宗教や芸術や様々な文化が生まれました。「外側の世界」にも無関心だったわけではなく、「内側の世界」に投影された姿を通して「外側の世界」を理解しようとしていました。それは「7才前の子どもの意識」と同じです。「お月様はどうして私に付いてくるの」と聞いてくる子どもは、「外側の世界のお月様」を見ているのではなく、「子どもの心」という「内側の世界」に投影された「お月様」を見ているのです。だから「内側の世界の論理」で説明してあげれば納得しますが、「外側の世界の論理」で説明しても納得できません。人類の精神もまた同じように進化しているようです。そんな子どもでも、7才を過ぎると「外側の世界」にも気づき始めます。そして今度は「内側の世界」を忘れ始めます。だから、思春期が来る頃には「子どもの時の心」を忘れてしまうのです。その時、7才以前から継続して「物語の世界」と触れあって来た子は、その「内側の世界」を失わないまま成長していくことが出来ます。そして、大人になっても人間としての精神のバランスを保つことが出来ます。その「人間としての精神のバランス」とは、「内側の世界」と「外側の世界」のバランスのことです。でも、「物語」を失い、比較され、競争ばかり求められて育った人は、「内側の世界」を失い、「外側の世界」にばかり幸せや居場所を求めるようになります。その時、「内側の世界」は共有できますが、「外側の世界」は共有できないため、必然的に奪い合いが起きます。それが今の日本と世界中で起きている現象の根底的な原因です。子どもによる悲惨な事件が起きる度に、「道徳教育」の必要性が説かれますが、道徳教育は「行為を規制するもの」であって「心を育てるもの」ではありません。「人に優しくしよう」などと教えるだけで、心が優しくなるわけがないのです。そのため「道徳教育」は「アメとムチ」という指導方法と併用して使われます。でも、本当に心が優しい子どもには「アメ」も「ムチ」も必要がありません。なぜなら、そのような子は「人の喜び」を「自分の喜び」として感じることが出来るからです。「心」は「内側の世界」の存在です。ですから、「内側の世界の論理」でないと扱うことが出来ません。そしてそれが「物語という方法」なのです。人の心は「物語の体験」を通して成長するのです。私たちは「他の人の心」を見ることも触れることも出来ません。私たちが直接感じることが出来るのは「自分の心」だけです。だから、子どもたちは「他の子も自分と同じような心を持っている」ということを知りません。見えないのですから当然です。大人だって「知識としての理解」はあっても、その「他者の心」を感じることが出来ない人はいっぱいいます。だから平気でいじめたり、競争したり、奪い合ったりすることが出来るのです。では人はどのようにして「他の人の心」と出会うことが出来るのかというと、「語られた言葉の世界の中」でです。人は「言葉の世界」の中でないと、他の人の心と出会うことが出来ないのです。そしてそのことに「意味」を与えてくれるのが「物語の世界」なのです。「物語」は「内側の世界の存在たち」に意味と価値を与えるための仕組みなのです。真・善・美も、道徳も、勇気も、愛も、優しさも、希望もみな「人の心の中」にしか存在することが出来ません。時間や、空間や、自然や、木や、生命といった「概念」も同じです。そして、「人の心の中」にしか存在できないものは、物語の中でしかその価値と意味を与えることが出来ません。真・善・美というものを知っていても、それにまつわる物語を知らない人はその価値を知りません。心や生命というものを知っていても、それにまつわる物語を知らない人はその価値を知りません。人生や生命に意味を与えてくれるのは「物語」なのです。ですから、「物語」を失ってしまった人は、人生や生命の意味が分からなくなります。また、「物語」と出会うことが出来ない子どもたちは、「心」と出会うことが出来なくなります。
2012.09.08
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五歳三歳男児の母さんが物語をどうやって取り戻せばいいのか知りたいです。と書いて下さったので、今日はこのことについて書いてみます。どの民族にも、昔々からその民族に伝えられてきた「物語」があります。今ではその「物語」は「本」という形になってしまっていますが、つい最近まで人々は口承でその物語を伝えてきました。本来、「物語」は「読むもの」ではなく、「語るもの」であり「聞くもの」だったのです。そしてそれが「物語」の基本の形です。そして、その「語るひとがいて、「聞く人がいる」という伝承形態の中にこそ「物語の本質」があるのです。なぜならば、「物語」は「大切なもの」を共有することで、「人と人をつなぐためのもの」だからです。「同じ物語」を語り継ぐ人たちが、「同じ言葉を持ち、同じ価値観と文化を持つ同じ民族」だったのです。「物語」はそのまま民族や部族のアイデンティティーであり、スピリットでもあったのです。だからこそ、大切に受け継がれてきたのです。ですから、子どもに「物語」が書いてある本を与えて読ませても、それは「おはなし」ではあっても、本当の意味での「物語」ではありません。DVDで見せても「物語」ではありません。人から人へと直接語られなければ「物語」ではないのです。でも、私たちは「口から口へ伝えられてきた物語」をもうすでに失ってしまっています。本の中に書いてあるのは「物語を記録したもの」であって、「物語そのもの」ではありません。では、もうどうしようもないのかというとそんなことはありません。本に書いてあることでも、お母さんが自分の声で子どもに語ってあげれば、そこでまた新しい物語が始まるからです。「語る人」と「聞く人」がいればそこに「物語」が生まれるのです。実は、「物語」は語られる度に、新しく生まれ変わるのです。「物語」は、「語る人」と「聞く人」の共鳴によって毎回新しく生まれ変わっているのです。それは何百年と伝承されてきた物語でも同じです。語る人の「声」と「息」が、語られるごとに物語に命を吹き込んでいるのです。これは「落語」の世界でも同じです。ですから、「今日聞く桃太郎」は「昨日聞いた桃太郎」とは違うのです。だから、子どもは毎回同じ話でも飽きないのです。「語る」とはそういうことなのです。語ることは創造行為でもあるのです。ですから、文字にしたら同じ物語でも、お母さんが語るのと、お父さんが語るのとでは子どもは異なった物語を体験しています。まただから、子どもは「語る人」を選ぶのです。その時、上手下手はあまり関係がありません。「語ろうとする人」がいて「聞こうとする子ども」がいることが重要なのです。ただし、あまりにゲームをやり過ぎている子、テレビなどを見すぎてしまっている子、お母さんとの会話が少ない子の場合は、3才を過ぎても聞くことが出来ません。(3才前の子どもは聞くことが出来なくても普通です。)さらには、感覚が育っていない子、感覚に偏りがある子、緊張が強い子も聞くことが苦手です。そして、聞くことが苦手な子は仲間作りもうまく出来ません。「聞く能力」と「仲間作りの能力」はリンクしているのです。
2012.09.07
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以前、3回ほど耳が聞こえない子どもや若者たちを対象にワークをやったことがあります。その依頼が来た時はどうしようかと思いました。言葉で指示できないということと同時に、彼らの感覚や、彼らが生きている世界のことが分からなかったからです。ワークは感覚や内的な世界に働きかける作業ですから、そういうことを知らないとプログラムを組めないのです。それで、色々な本を読んでみました。その中に「かもめの叫び」エマニュエル ラボリ (著), Emmanuelle Laborit (原著), 松本 百合子 (翻訳) という本がありました。内容は(「BOOK」データベースより)声がうまく出せず、かなきり声をあげる私に、両親は“かもめ”というあだ名をつけた―私はMouette(かもめ)?それともMuette(口がきけない)?音の無い世界に生まれついたエマニュエル。まだ手話が公認されない時代、でもこんなにも素晴らしい言葉が受入れられないのはなぜ!?持ち前の明るさと意思の強さで社会に訴え続けるかもめ。意思の疎通が図れないもどかしさと闘い、時には反抗し、道を踏み外しかけても…。そして舞台という世界で、かもめは翼を広げ、ついに飛立つ!ろうあ女優として初めてモリエール賞を受賞した著者が、全ての人に贈る力強いメッセージ。というものです。今、この本はどっかにしまい込んだままになっているため、正確な内容をここで確認することは出来ないのですが、耳が聞こえず、混沌とした状態のまま育ってきた著者が「言葉」(手話)を得ることで、意識や心が目覚めるというような内容でした。著者は「言葉」を得ることで「私」という存在に気付きます。私たちはみな、「私」という意識を当たり前に持っていますが、でもそれは「私」という言葉を得ることによって目覚めた意識なのです。「私」という言葉を得る以前には「私」は存在していないのです。「赤」という色も、「赤」という言葉があるから私たちはそれを認識することが出来るのです。「木」も、「生命」も、「あなた」も、「子ども」も、「国家」も、「領土」も、「神様」も、「お金」も、「空気」も、「手」も、「足」も、「善悪」も同じです。私たちは、そういうものは最初から存在していて、私たちはただそれらに「名前」を付けただけだと思い込んでいますが、実はそうではないのです。それらはみな、「言葉と共に」生まれたものなのです。「言葉」が創り出したものなのです。ですからそれらは人間の「脳」の中にしか存在していません。犬や猫には存在していない世界なのです。などというと、皆さんは「国家」とか「国境」というような「人間が考え出したもの」に関しては同意して下さるでしょうが、「木」や「赤」や「手」というような「自然に属しているもの」に関しては「言葉」の方が後ではないかとおっしゃるでしょうね。でも、そうではないのです。自然界は丸ごとつながっている世界です。そこには「木」と、「大地」と、「水」と、「空気」と、「光」の間に境目などありません。ですから、「木」という言葉を持たない人たちは、その「丸ごと」を見ています。そして、そのつながりの中から「木」だけを分離するようなことはしていません。でも、「言葉」はそれらを機能ごとに切り分けます。「木」という言葉が生まれることで、「木」が「自然」から切り分けられるのです。私たちが「木」と呼んでいるものは「自然」から切り離された不自然な状態の自然なのです。「私」という存在も同じです。「私」も「自然の一部」です。自然から切り離された存在ではありません。そして、その「自然」のどこまでが「私」に属して、どこからが「私」ではないのか、などということは言うことが出来ません。月や太陽の動きすらも人間の心やからだに強い影響を及ぼしているのですから、私たちは「太陽や月の一部」という考え方すら出来ます。そして、古代の人たちは、「みんなつながっている世界」に生きていました。子どもたちは今でもそのような世界に生きています。そして、その「つながり」を説明し、理解する方法として「物語」が必要だったのです。「物語」は「つながり」を説明するための古代人の智恵だったのです。でも、現代人はそのつながりを機能ごとに切り分けて、機能ごとに扱うようになりました。その結果「科学」は生まれましたが、古代から受け継がれてきた「物語」は消滅しました。でもそれは、「胃」や「腸」や「心臓」というものを「生命」という全体(物語)から切り離して個別に扱うようなものです。そして、そのことで「生命の意味」や、「死の意味」や、「生きるということの価値」まで消滅しました。「生命の意味」は「つながり」の中でしか存在し得ないのに、その「つながり」を失ってしまったのです。だから「どうして人を殺してはいけないの」という質問に答えることが出来なくなってしまったのです。ですから、「物語の世界」に生きている子どもたちに何かを伝えるためには、大人たちが「忘れてしまった物語」を想い出す必要があるのです。それは、天と、地と、海と、人間と、全ての生命がつながっている世界の物語です。「言葉」は物語の中で「つながり」を取り戻し、「生命」を吹き込まれるのです。だからこそ、どの民族でも物語を通して母国語が伝えられているのです。森の中で生きている人たちが伝える物語の中に出てくる「木」と、砂漠の中で生きている人たちが伝える物語の中に出てくる「木」は、全く異なった存在なのです。語られる物語が違えば、その物語を通して吹き込まれた「言葉の生命」も異なるのです。
2012.09.06
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今の子どもたちは雑巾を絞るのが苦手です。「雑巾を絞って」と言うと、似たような行為はするのですが、全然絞れていないのです。それはつまり、「絞る」という言葉の正確な意味が分かっていないということです。この「正確な意味」が分かっていないと、「気力を振り絞る」、「声を振り絞る」などという言葉が理解できません。このような身体感覚とつながった言葉は、映像で見せても、言葉で説明しても、大人がやって見せても伝えることが出来ません。本人にやらせてみて、ちゃんと出来ているかどうかチェックすることでしか、この言葉の意味を伝えることが出来ないのです。子どもに「雑巾を絞って」と言うと、見かけ的には「絞るような行為」をします。テレビを見たり、お母さんのやっていることを見たりしてその程度の意味は分かっているからです。でも、ベチャベチャで全然絞れていません。そこで「もっと絞って」と指示します。すると、前よりも水が出てきます。でも、まだまだベチャベチャです。そこで「もっと力を入れて」と言います。すると、もっと頑張って絞ります。でも、そこでやめさせずに、子どもが「もうこれ以上無理です」と言うまで絞らせる時、初めて子どもは「絞る」という言葉の「感覚的意味」が分かるのです。そのような、「感覚的意味」は実際に自分でやってみないことには理解できないのです。その「感覚的意味」が分かるようになって初めて、「声を振り絞る」とか「気力を振り絞る」という言葉の意味が感覚的に分かるようになるのです。そして「自分の言葉」として使うことが出来るようになるのです。「拭く」「払う」「抱く」「丁寧に」「心を込めて」「そーっと」「力を抜く」「腰を据える」「気持ちを落ち着かせる」「姿勢を正しくする」などというような「心や感覚とつながった言葉」はみな同じです。これらの言葉は、授業のような一方的な教え方では絶対に伝えることが出来ないのです。確かに、その「感覚的意味」が分からなくても、「説明的意味」を伝えることは出来ます。そして「説明的意味」が理解できていれば会話には困りません。もちろん試験でも困りません。でも、「感覚的意味」を喪失した言葉は「母国語」ではないのです。「母国語」とは、自分の心やからだの感覚とつながった言葉のことだからです。だからこそ感覚が成長する幼児期に学んだ言葉が母国語になるのです。説明できるだけでは「母国語」ではないのです。そして、そのような言葉を身につけることで初めて、自分たちの祖先の心や、考え方や、生活様式や文化を受け継ぐことが出来るのです。そのための基礎を育てるのが、「7才まで」という時期でもあるのです。子どもたちは感覚が成長する7才までに、その感覚の成長と共に言葉と出会うことで、「母国語」を身につけて来たのです。その「母国語」を失った子どもたちは、自分の心や、からだや、感覚の状態を「自分の言葉」で言い表すことが出来ません。そのため、「ムカツク」というような簡単な言葉だけで、自分の感覚や、感情や、からだの違和感をひとくくりにして表現しようとします。でもそれは、感覚に支配されているばかりで、まだ「言葉」と「感覚」がつながっていない幼稚園児の状態と同じなのです。7才までに「母国語」を学ぶことが出来ていないため、そのような表現しか出来ないのです。「言葉の成長」と「心の成長」は密接につながっているのです。「心」が成長すれば「言葉」も成長するし、「言葉」が成長すれば「心」も成長するのです。ですから、「言葉を失う」ということは「心を失う」ことと同じなのです。だから、本当の意味での「日本」を守るためには言葉を守らなければならないのです。言葉が失われてしまったら、たとえ国土は残っていても、それはもう「日本」ではないのです。日本人はあまりにも「言葉を守ることの大切さ」に対する認識がなさ過ぎるのです。だから悪意も感じず、時には善意で、平気で他国の人たちの言葉を奪ってきたのでしょう。でも、「母国語」を失った後に残るのは「表現されることのない悲しみや苦しみ」と「本能的な欲求と感情」だけです。(「母国語なんていらない」という考え方は、「自分は人間でなくてもよい」という考え方と同じです。あらゆる「人間的な心」は母国語とつながっているからです。)そして今、「心」が成長していない子どもたちがどんどん増えてきています。それは子どもたちの生活の中から「体験」と「言葉」が失われてしまったことから来る、必然的結果なのです。「便利な生活」は「体験と言葉」を不要化し、「心の成長」を阻害するのです。今の子どもたちと会話していて感じるのは、あまりにも語彙が少ないことです。また、言葉の使い方も日本語的ではありません。そのこと自体は、多くの大人が気付いていると思いますが、でも、そのことの問題点について気付いている人は多くないと思います。そして、そのまま大人になってしまった人も増えています。そのような人は幼稚園児のように自分中心にしか考えることが出来ません。ですから、助け合うことが出来ません。また、夫婦関係や子育てもおかしくなります。離婚や虐待の増加の背景には「母国語の喪失」の問題が隠れているのです。
2012.09.05
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最初にちょっと昨日の補足をします。昨日「7才までは字を教えないで下さい」と書いたのは、大人の意識のことを問題にしたのであって、聞かれたら聞かれた範囲で答えるのはOKです。でも、その際誤解してはいけないのは、子どもは「字」というものに興味を持っただけであって、「文字を習いたい」と思ったのではないということです。皆さんが外国に行って、見たことも聞いたこともないスポーツを見た時、「このスポーツはなんですか」「あの人は何をしているのですか」と聞いたとしても、それは「そのスポーツを習いたい」ということではないですよね。また、子どもが虫を持ってきて、「この虫なんて言うの」と聞いてきたからといって、子どもが「昆虫について」知りたいと思ったわけでもないですよね。変な漢字が描かれた洋服を着ている外国人が、「漢字を学びたい」と思っているわけではないですよね。それと同じです。子どもは大人たちが見たり書いたりしている「不思議なもの」に興味を持っただけであって、それを習いたいと思ったのではないということです。ましてや、字を覚えて、自分で本を読みたいなどとは思わないものです。そう思うのは、「本を読んでくれる人」がいない時です。孤独な子どもが、その孤独を癒す手段の一つとして自分で本を読むことはあります。でも、そのような子はそのことで、「お母さんと感覚や感情を共有する体験」や「他の子との関わり方」を学ぶ機会を失ってしまうかも知れません。大人はその状態を喜ぶかも知れませんが、7才前の子どもにとっては失うものも大きいのです。また、プクプクさんが書いて下さったように、「字」を覚え始めた子は絵を描かなくなります。それはうちの教室でも見ることが出来る現象です。絵を描かせると「字」を書くのです。なぜなら、子どもにとっては「字」と「絵」は同じものだからです。それは、外国人の感覚と同じです。昨日は最後の方に「言葉」はもともと「内的な世界」を共有するためのものです。「外的な世界」を記述し、説明するためのものではありません。と書きました。古代の人たちにとっては、「言葉」は「内的な世界」から出て、直接「内的な世界」に届くものだったのです。現代人のように「情報伝達の手段」などと考えるようになったのはつい最近のことだと思います。そのため、「言葉」はそのまま呪術的なものだったのです。だから、「言葉」で、呪ったり、祝ったり、祈ったりすることが出来るのです。そして、その感覚は現代人にも残っています。だから人は「言葉」によって傷ついたり、喜んだりするのです。そしてここが重要なのですが、7才前の幼い子どもたちはまだその「呪術的な言葉の世界」に生きているということです。だから、「いたいの いたいの 飛んでいけ」という「魔法の言葉」が効くのです。そしてだから、幼い子どもたちはお母さんや大人の言うことをそのまま信じるのです。うちの子が小さい時、家の中で「お父さんどこ?」と私を探していました。その時私はおトイレに入っていたのですが、子どもはトイレの前に来て「お父さん中にいるの」と聞いてきました。それで私はトイレの中から「お父さんはいないよ」と答えました。その時、声色を使ったわけではありません。普通の声で「お父さんはいないよ」と言っただけです。そうしたら子どもは「お父さんがいない」と泣き出したのです。大人になると理解不能の現象ですが、幼い子どもたちはこのような世界に生きていると言うことです。ですから、幼い子どもたちに冗談は通じません。「あんたなんか産まなけりゃ良かった」とか、「あんたは橋の下で拾ってきたんだ」とか、「バカ、シネ」などというと、子どもはその言葉を「呪いの言葉」として、本気に受け取ります。そして、その「呪いの言葉」は子どもの無意識の中に入り込み、一生消えません。「言葉」には人を殺すことも、生かすことも出来る魔法の力があるのです。でも、現代人はそのような「言葉の世界」を知りません。学校でも教えてくれません。そのような言葉と出会うことが出来るのは「物語の世界」の中です。だから、子どもたちは物語を聞くのが大好きなのです。子どもたちは「物語の世界の言葉の世界」に生きているのです。ちなみに、その魔法の力を書き留める「文字」にもまた、「呪術的な魔法の力」があるのです。それが子どもと古代の人たちの感覚です。
2012.09.04
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毎月、第二土曜日の午前にやっている「土曜アトリエ」の生徒募集です。会場は、いずれも茅ヶ崎駅隣のビルの5Fです。きっちと決まったものを作るのではなく、自分のアイデアを生かしながら何となくアバウトにやっています。*****************<9月から1月までの予定> 8月のアトリエは公開講座で、小学生から大人までが木琴やカリンバ(指ピアノ)といった楽器作りを楽しみました。素材から作品を作り上げるって色々な発見があります。 さて、暑かった夏も終わり、9月、あらたな気持ちでアートするひとときを楽しみたいものです。●幼児とお母さん(3才~6才) 10:30~12:00 1500円 (お休みの時は維持費として600円ほどお願いします。)●小学生・中学生 10:00~12:00 1800円 (お休みの時は維持費として800円ほどお願いします。)○新規の方は登録料500円が必要になります。(以前参加されていた方は不要です。)○月謝は幼児が1500円、小学生が1800円です。(材料費込み) 体験の時もこの料金が必要になります。備考)・毎回お持ち帰り用の袋をお持ち下さい。大きめのレジ袋でもOKです。 ・汚れてもよい服でお願いします。<9月からのスケジュール>< 9月 8日> 「紙粘土で色々作ろう」 動物を作ったり、裏に磁石をつけてメモクリップにしたり、 額のような枠を作り写真立てにしたりと、アイデア次第で色々な ものが作れます。<10月13日> 「輪ゴムを使って作ろう」 「輪ゴム」という素材の特性を生かした工作を色々と作ってみます。 輪ゴム動力の自動車や、輪ゴム鉄砲や、びっくり箱や・・・・。<11月10日> 「自然の木や木の実などを使って」 自然の素材を色々と使って、看板や動物や車や飾るものなどを作り ます。<12月 8日> 「クリスマスに向けて」 フェルトや羊毛や毛糸などを使って色々と作ります。。< 1月12日> 「お正月のおもちゃ色々」 木で本格的な羽子板を作ったり、竹と和紙で凧を作ったり、 竹で剣玉を作ったり、昔懐かしいおもちゃを色々と作ります。2月はお休みになります。 以降は3月から7月です。お問い合わせは<こちら>まで。
2012.09.03
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現代人は「言葉」について大きな勘違いをしています。それは「言葉」を単なる「コミュニケーションの道具」だと思い込んでいることです。そして、コミュニケーションの道具だから、「コミュニケーション」で伝えることも出来ると思い込んでいます。「リンゴ」という言葉を教えるためにはリンゴを見せて、「これがリンゴだよ」と教えれば済むと思っています。確かに、そのように学んだ言葉でも、それなりにコミュニケーションの道具としては使うことが出来ます。「リンゴを買ってきて」とか「リンゴジュース」という言葉も理解できるでしょう。そして現代人は「言葉とはそういうものだ」と思い込んでいます。でも、この場合の「リンゴ」は、「言葉」ではなく、「リンゴ」というものを指し示すための「記号」に過ぎません。ですから、「リンゴ」ではなく「A301」でも同じです。リンゴを見せて、「これはA301だよ」と教えても、そこには何の違いもありません。「A301を勝ってきて」と言えばちゃんとリンゴを買ってくるでしょうし、「A301ジュース」といえば「リンゴジュース」だということを理解するでしょう。でも、この場合の「リンゴ」は「言葉としてのリンゴ」ではありません。そもそも、皆さんが今お読みなっているこの「文字」も本来の意味の「言葉」ではないのです。文字は「言葉」を記録するために作り出された記号に過ぎません。ですから、「文字=言葉」ではないのです。実は、私たちの脳は、「文字」をいちいち「言葉」に変換して理解しているのです。脳は「文字」のままでは理解できないのです。実際、ある種の障害によって「文字」を「言葉」に変換できない人たちがいるのです。そのような人は文字を読むことが出来ても、読んで理解することが出来ないのです。でも、同じ文章を人に読んでもらえば理解することが出来るのです。そして障害がなくても、7才前の幼い子どもたちはみなそのような状態です。「言葉<->文字」という変換機能が未成熟なのです。(発達には個人差がありますから7才前後と言うことです。)その辺の機能がしっかりとしてくるのが7才を過ぎてからです。だから7才を過ぎるまでは文字を教えない方がいいのです。確かに、7才前の子どもでも教えれば「文字」を書いたり読むことが出来るようにはなります。でも、文字を読んでも「言葉として」理解することが出来ないのです。大人の常識としては理解しにくいかも知れませんが、大人に読んでもらえば理解できるような文章でも、幼い子どもは文字を通してでは理解できないのです。また、そのような作業は幼い子どもの脳に大きな負担になります。人間にとって「言葉」はその生命の働きとつながった本能的、本質的な要素ですが、「文字」はその「言葉」の道具として発明された人工物なのです。ですから、「文字」がなくなっても「言葉」は残りますが、「言葉」が消えてしまったら「文字」も消えてしまいます。「文字」を教えるためには「言葉」が必要だからです。「言葉」だけで「言葉」を教えることは出来ますが、「文字」だけで「文字」を教えることは出来ないのです。「言葉」は「文字を超えた世界」なのです。それが「言葉の世界」です。でも、現代人は「文字を超えた言葉の世界」の存在が理解できなくなりつつあります。それは、現代社会が「言葉」ではなく「文字」によって機能しているからです。でも、「子育て」や、「夫婦関係」や、「仲間作り」において重要なのは、何万年も前と同じように、「文字」ではなく「言葉」なのです。実際、そのような場では「文字」はほとんど役に立ちません。子育てにおいては全く役に立ちません。でも、「言葉の世界」を失ってしまった人は、子どもにどのようにして「言葉」を伝えたらいいのかが分からないのです。だから、「言葉」を教える代わりに「文字」を教えようとします。言葉の道具として生まれた文字を、言葉よりも先に教えようとしているのです。また、親子の間の言葉も「文字化」(記号化)しています。言葉が「言葉」として語られていないのです。その結果、本来「言葉の育ち」を通して育つはずの「心」や、「からだ」や、「知性」が育たなくなってしまっているのです。「言葉」は共有されるところから始まります。赤ちゃんが「あー」と言った時、お母さんも「あー」と応えるのが「言葉の原点」です。共有することが出来るから、伝えることも出来るのです。でも、文字は共有できません。***********「言葉」はもともと「内的な世界」を共有するためのものです。「外的な世界」を記述し、説明するためのものではありません。ですから「詩」こそが「言葉の原型」なのです。そしてだから、子どもの言葉は「詩」のようであり、また、言葉を得た古代の人たちはすぐに「神」について語り出したのです。R.シュタイナーの言葉も、聖書の言葉もまた「内的な世界」を伝えるためのものです。でも、現代人はその言葉を「外的な言葉」を理解するように理解しようとしてしまいます。そのような理解の仕方しか知らないからです。だから話がおかしくなってしまうのです。************「言葉の世界」はそのままの状態では文字化できません。その文字化できない世界を説明するのはなかなか困難です。
2012.09.03
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「人の言葉」には、その人が子どもの頃から体験してきたことの全てが詰まっています。ですから、「指紋」が一人一人異なるように、「言葉」もまた一人一人異なります。自分と同じ言葉を使う人は世界中に(自分以外)一人もいないのです。そして、その人の「自分の言葉」が「自分らしさ」を作り出し、また、「自分らしさ」がその人の「自分の言葉」を作り出しています。「自分の言葉」と「自分らしさ」は一体なのです。ですから、「言葉の質」が似ている人は人間性も似ています。逆に、「言葉の質」が似ていない人は人間性も似ていません。また、「気が合う人」とは、簡単に言ってしまえば「話をしていて楽しい人」のことです。それは「言葉の世界」を共有できる人のことです。ですから、当然のことながら「人と話すのが苦手な人」は、「気の合う仲間」を見つけることが困難です。ケンカも戦争も「言葉」が伝わらなくなった時、生まれます。人は「言葉」を通してお互いにつながっています。ですから、言葉が通じなくなった時、「対立」が生まれます。お互いに、対話を求める姿勢がある限り戦争は起きません。でも、一方が「問答無用」と言葉を断ち切る時、戦争が起きます。言葉で気持ちを伝えることが出来る子は暴力を振るわないものです。すぐ暴力に訴える子は、自分の感情を言葉で表現することが出来ない子です。ですから、そのような子に「暴力はいけません」と叱るだけでは、効果がありません。そのような子には「言葉育て」が必要なのです。そして、「言葉育て」の基本は「感覚や感情の共有」と「話しかけ」です。これは決してテレビには出来ないことです。ですから、毎日テレビを見せても「言葉育て」は出来ません。また、虐待を受けてきた子は「言葉」をうまく使うことが出来ません。テレビで覚えたような「紋切り型の表現」は出来るのですが、自分自身の「感覚」や、「感情」や、「考え」を伝えるような表現が出来ないのです。なぜなら、「虐待」とは「言葉を封じること」だからです。これが、虐待される側の視点に立った「虐待」の定義です。韓国の人の日本への恨みの根源もここにあります。また、「子どもの言葉」を封じるような指示命令による一方的な子育てや教育もまた「虐待」です。「暴力」や「ネグレクト」と呼ばれる行為は、子どもの言葉を封じるための「手段」に過ぎません。だから、虐待を受けて育った人は「自分の言葉」を持つことが出来なくなり、平気で「嘘」をつくようになったり、「自分」と向き合うことが出来なくなってしまうのです。「自分の言葉」を持っていない人は、「本当」と「嘘」の違いがよく分からないのです。実は、「自分」と向き合うためには「言葉」が必要なのです。犬や猿は知能が高いですが、「自分」というものを持つことが出来ないのは「言葉」を持っていないからです。ですから、虐待を受けた子どもに対しても、赤ちゃんに対して行うような「感覚や感情の共有」と「話しかけ」による「言葉育て」が必要になります。自分の気持ちや、自分の感覚や、自分の感情を、「自分の言葉」で語ることが出来るようになれば、人間性の成長と共に、少しずつその状態から抜け出ていくことが出来るのです。「自分の言葉」を育てることがそのまま「人間としての成長」でもあるのです。ですから、子育てや教育において一番大切なことは「子どもたちの言葉」を育てることなのです。「精神的な自立」は、「自分の言葉」を持つことで初めて可能になるのです。でも、ほとんどの人が「言葉とは何か」ということが分かっていません。言葉を単なる道具の一つとしか考えていません。そして、指示命令による一方的な関わりによって、知能や技術や学力を育てようとしています。だから、「能力はあるけど人間性に欠けた人間」ばかりが増えているのです。
2012.09.02
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人間はこの世界で生きて行くために必要なことを何も知らないまま、何も出来ないまま生まれてきます。だから、赤ちゃんや子どもたちは、大人に働きかけたり、大人との関わりや様々な体験を通して学ぶ高い能力を持っています。何も知らないし、何も出来ないけど、それらを学ぶための能力は持っているということです。逆に言うと、その高い学習能力があるからこそ、何も知らないまま生まれてくることが出来るようになったということです。つまり、人間という種は「生まれてからの学習」があって、初めて「人間らしさ」を維持することが出来る生き物だということです。そして、この人間らしさが形成されるまでには数十万年かかっています。ですから、赤ちゃんは生まれてからその数十万年の蓄積を学ばなければなりません。その蓄積が「言葉」です。動物の種としての「ヒト」は、「人間」として生まれてくるのではなく、「言葉」を得ることを通して「人間」へと成長する生き物なのです。「言葉」を失ってしまったら、人間は「人間」という位置から転落し、生きる知恵を持って生まれてくる動物以下の存在になってしまうのです。そして自分の生命すら維持できなくなってしまいます。ネグレクトなどで「言葉」を学ぶことが出来ない環境で育った子は、心だけでなくからだも育たなくなります。たった一世代だけでも、子どもたちに言葉を伝えることをやめてしまったら、人類の数十万年の歴史は全て失われてしまうのです。そして類人猿のような生活をする生き物に戻ってしまうでしょう。実は、人間は種としては非常に不安定な生き物なのです。人間にとって「言葉」は単なる道具ではなく生命の一部なのです。ですから、子どもたちは食べ物を食べるように、「栄養たっぷりの言葉」を学ぶ必要があるのです。その時、子どもたちがまず最初に学ぶべき言葉は「感覚や気持ちを伝え合うための言葉」です。この「感覚や気持ちを伝え合うための言葉」が、「人間としての言葉」の原点であり、この言葉を学ぶことが出来ないと、子どもは機械の操作はできても「人間らしさ」を学ぶことが出来なくなります。赤ちゃんがニコッとした時、お母さんは「そう、うれしいのね」などと話しかけます。ご飯を食べた時ニコニコしていたら、「おいしいね」と話しかけます。一緒にお風呂に入った時には「きもちいいね」と話しかけます。これが「感覚や気持ちを伝え合うための言葉」です。そして、子どもは直接自分に向けて話しかけられることで「言葉」を「言葉として」学んでいきます。周囲で大人が話している言葉や、テレビから流れてくる言葉は単なる「音」や「記号」であって、「人と人をつなぐ働きとしての言葉」ではありません。ですから、そのような音や記号をいっぱい覚えても、人間らしさは育ちません。子どもにとっては、「自分に向けて話しかけられた言葉」だけが「言葉」なのです。ですから、テレビを付けっぱなしで対話のない家庭で育った子どもは「言葉」を学ぶことが出来ません。それはつまり、人間性を学び損なってしまうということです。また、7才までに自分に向けて話しかけられることで言葉を学んだ子は、次第に自分に向けられていない言葉も言葉として理解することが出来るようになります。「言葉」というものが分かってくるからです。そして、そこで初めて、「授業」というものが成り立つようになるのです。授業では、先生は「みんな」に向けて語ります。太郎君、花子さんという特定の子に向けて語るわけではありません。その時、幼い時から自分に向けて語られてこなかった子は、その先生の言葉を聞き取ることが出来ないのです。「テレビの音」のように聞き流してしまうのです。そこで学級崩壊のような状態が起きます。そのような子の特徴は、1対1なら言葉が通じるのですが、一対多数になると急に言葉が通じなくなってしまうということです。「みんな」に向けて語ると、誰も聞いていないのです。これは呆れるほどです。
2012.09.01
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