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マシュマロさんが私は数年前まで、親が不幸そうなのに自分だけが幸せになることに罪悪感を感じて生きていました。親の言う事を聞かないと機嫌が悪くなる親に居心地が悪くなり、親の機嫌をそこねてしまった自分自身に罪悪感を抱きました。と書いて下さいましたので、今日はこのことについて考えてみます。実は、成長のあるべき姿としては、親に対して「罪悪感」を抱くのは不自然なんです。また、親子の間に「罪悪感」など必要がありません。先日来から私が書いてきた「罪悪感」は、社会人として生きて行くためのものであって、親に対するものではありません。成長のあるべき姿としては、親に対しては「罪悪感」ではなく「感謝」を持つように育つのが自然なのです。感謝の気持ちが育つから、子どもは親を困らせるようなことはしなくなるし、親を支え、助けるようになるのです。ではどうして、「感謝」ではなく「罪悪感」を持つようになってしまうのかというと、「親の期待」に応えることが出来ないことを親に責められるからです。一昨日辺りのブログに「大好きな仲間が出来ることで罪悪感が育っていく」と書きました。仲間にしろ、他の人にしろ、そういうものが大好きになるのは成長の過程における様々な体験を通してです。何が好きで、何を大切にするのかと言うことは成長の過程で育っていく社会的な価値観なんです。そして、その社会的な価値観の目覚めと共に「社会的な罪悪感」も育って行くのです。でも、誰でも人には成長の過程で好きになっていくのではなく、生まれつき大好きな人がたった一人だけいるのです。それが「お母さん」です。お母さんだけは例外なんです。子どもは生まれつきお母さんが大好きです。ですから、本能的にお母さんの期待に応えようとします。でも、そのお母さんの期待が子どもの自然な成長と矛盾するようなものだと、子どもはその期待に応えることが困難になります。そしてお母さんに叱られます。昔から言われてきた「這えば立て 立てば歩けの 親心」は子どもの成長に即した願いです。でも、2才児に、静かにイスに座ってお行儀よくご飯を食べるように求めるのは子どもの成長を無視した、親の価値観の押しつけです。そんなことで叱られても、子どもは「何で叱られているのか」ということすら分かっていないと思います。また、分かったとしても、子どもは自分の心やからだをコントロールする能力がありませんから、お母さんの期待に応えることが出来ません。でも、ただ叱られるだけなら子どもはお母さんに対して罪悪感など抱かないのです。子どもは叱られるのはいやですから、成長と共に平気でお母さんを無視するようになることで自分を守る方法を見つけますから。それが普通の家庭の親子関係です。子どもが罪悪感を感じるようになるのは「存在」を否定されるようなことを言われたり、そのような態度を取られたりする時です。「手を洗いなさい。なんべん言ったら分かるの」ここまではOKです。それはただ単純に、「行為に対する否定」だからです。安心して下さい。この後「あんたなんか産まなきゃ良かった」とか、「あんたのせいで私がどんなに苦労してるか知っているの」などというようなことを言われ続けていると、子どもは大好きなお母さんに否定されることで、自分の存在そのものに対して「罪悪感」を感じるようになります。これは、「悪いことをしないための罪悪感」ではなく、「生まれてきてしまったことへの罪悪感」です。そしてこの「罪悪感」は必要がないどころか、有害なものです。キリスト教の「原罪」という考え方も、これにつながると思います。神の言いつけに背いて「禁断の木の実」を食べてしまい、エデンの園から追放された時、人間は「神への罪悪感」を感じるようになったのです。以来、ずーっと人間は神への許しを請うことになりました。ただし、これはキリスト教における思想であって、仏教にはこの罪悪感の思想はありません。この罪悪感から抜け出るためには「生まれてきた良かった」という体験によって肯定される必要があります。それは簡単に言うと、「お母さん有り難う」と子どもに感謝されるような体験です。本当は自分のお母さんに「生まれてきてくれて有り難う」と言ってもらう必要があるのですが、それは難しいでしょう。でも、子どもの想いを大切にして、「共に」という子育てをしていると、子どもが「お母さん有り難う」と言ってくれるようになります。そしてそのことで「自分の存在」が肯定されるのです。すると次第に、「生まれてきたことへの罪悪感」は薄らいでいきます。子どもがいない人の場合は、人のために働くことです。すると、その人から「有り難う」という言葉を受け取ることが出来るでしょう。人は人に感謝されることで、「生まれてきて良かった」と自分の存在を肯定できるようになるのです。(だからキリスト教ではボランティア活動が盛んなのかも知れません。)*******************<以下は告知です>12月2日(日)に「クリスマスの飾りを作ろう」という会をします。ご興味のある方は「チラシ」をご覧になって下さい。*****ワークショップ「心とからだの深呼吸」チラシは「ここ」でご覧になって下さい。とりあえず、チラシの文面だけここに書いておきます。 昔の人は「忙しい」ということを「心(え捗)をうしなう(亡)こと」と考えました。人は、忙しい時、「心」を失ってしまうのです。ですから、忙しい人は「心」を失った状態で家事をして、仕事をして、子育てをして、年老いていきます。 現代人は、毎日毎日そのように過ごしています。でも、「心」を失ってしまっている時の記憶は残らないのです。「心を失っている時間」は、自分にとって「存在していない時間」と同じだからです。だから、想い出すことが出来ないのです。 思い当たることはありませんか。 幼い頃からそのように生きてきた人は、年を取って、死が近くなった時、自分の人生を振り返っても何も想い出すことが出来ないでしょう。それは「空っぽの人生」です。 自分の人生を空っぽにしないためにも、今ここで「自分の心」を取り戻しませんか。
2012.10.31
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最初にちょっと告知です。12月2日(日)に「クリスマスの飾りを作ろう」という会をします。ご興味のある方は「チラシ」をご覧になって下さい。*********************セージさんが書いて下さったように、罪悪感は「叱られる」ことによってではなく、自分にとって「大切な人」が悲しむ姿を見て、育っていきます。その「大切な人」とは仲間であったり、お母さんやお父さんであったりします。子どもは叱られるのが嫌いですから、繰り返し叱られることを通して、「叱られないようにするにはどうしたらいいのか」ということを学びます。そのため、要領のよい子はお母さんの見ている前でだけ「よい子」になります。要領の悪い子はいつも叱られて、自己肯定感を失っていきます。子どもは大人に叱られることで「大人の価値基準」を学ぶことは出来ますが、だからといって「罪悪感」が育つわけではありません。ちなみに、「なんべん言ったら分かるの」などと叱っても叱っても変わらないようなことは、子どもにも出来ないことですから、叱らないでやって下さい。人間には自分の意思でコントロールできることと出来ないことがあるのです。それは大人でも同じですよね。自我の育ちが未熟な子どもの場合は大人よりそれが多いのです。また子どもは、褒められるのが大好きですから、褒めることで子どもの行動をコントロールしようとしているお母さんもいっぱいいます。でも、本当に褒められて嬉しいのは、「褒めてもらいたいこと」を褒めてもらった時です。つまり、大人の価値観によってではなく、子ども本人の価値観によって褒めてもらった時、子どもは喜ぶのです。簡単に言うと、子どもが「みて みて」と笑顔でやって来た時に褒めてあげると、子どもは喜ぶのです。「自分の喜び」と「お母さんの喜び」が一致している時、子どもは幸福を感じるのです。そして、そうでない時は、悲しみを感じます。それは大人でも同じですよね。ですから、お母さんの都合だけで褒めていたら子どもは育ちません。また、単なる方法論としての「褒める子育て」の場合は、子どもは褒められることで「どのようなことをお母さんは喜ぶのか」ということを学んでいきます。それだけのことです。ですから、この場合も「罪悪感」は育ちません。それに対して、自分が大切にしているものを失った時の悲しみを知っている子は、人のものを取ったりはしません。人が死ぬ悲しみを知っている人は、人を殺したりはしないのです。「大切なドングリ」がなくなってしまった時、「そんなものまた拾いに行けばいいじゃない」と言うのではなく、お母さんがその悲しみに共感してあげている時、子どもの「罪悪感」が育っていくのです。仲間とケンカして泣いている時、「なんでそんなことで泣くの」と言うのではなく、「悲しいね」と共感してあげている時「罪悪感」が育っていくのです。子どもは共感されることで、「共感する能力」が育っていくのです。そして、「罪悪感」とは、その「共感する能力」から生まれるものなのです。重い荷物を持って苦しんでいるお年寄りを見て、何もしなかったことに罪悪感を感じるような人は、そのお年寄りの気持ちが分かる人なのです。イジメをしない子、イジメを見て悲しくなる子は「いじめられている子の悲しみ」に共感できる子です。「イジメは悪いことだ」と教えられている子ではありません。 でも、テレビや新聞などを見ていると、どうも多くの人がこのことが分かっていないようです。だからこそ、罪悪感の育ちのためには、共感によってつながっているような大切な仲間や、親子のつながりが大切なのです。最近、罪悪感の薄い子が増えてきたということは、社会や家庭や学校の中から、その「共感によるつながり」が失われてきたということなのでしょう。ちなみに、競争は共感を破壊します。
2012.10.30
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「ぐりぐり」さんのコメントに書いてある「面白いからいいじゃん」、「皆がやっているのに何で俺ばかり注意するんだ」などの言葉はうちの教室の子ども達も言います。それと、誰かが「僕○○出来るんだ」とか「○○持っているんだ」と言うと、みんなで「自慢かよ」と言って馬鹿にします。また、困ったこと、間違ったこと、やめて欲しいことなどをやっている時に、そのことを伝えると「どうやっても僕の自由でしょ」などと言う子もいます。造形教室をやっていて困るのは、作り方が分からない子に「作り方」を教えようとする時も、「どうやっても僕の自由でしょ」と言われてしまうことです。「道具の使い方」でも同じです。「それはそうだけど・・・、じゃあ、自分で好きにやりな」と言って放っておくと、実際には何もしないし、また出来ません。そして、「退屈だ~」と繰り返します。その逆に、最初から何も考えずに「教えて 教えて」と来る子もいます。でも、だからといって教えようとしても、「僕 それ嫌」「違うのないの」などと、レストランでメニューを選ぶ時のような態度を取ります。そして結局、何にも決まりません。それらの、今時の子ども達の感性に共通しているのは「自分だけの趣味や、興味や、価値観だけが善悪や判断の基準」になってしまっているということです。当然ながら、優しい子も、意地悪な子も、悪いことをする子も、良いことをする子もいますが、みんな「自分」が基準なのです。そこに社会的な基準がないのです。だから「君はよくても、みんなが困るからやめて」と言っても、その論理が通じないのです。「みんなの中の自分」という視点で物事を考えることが出来ないからです。だから「罪悪感」が生まれないのです。ちなみに、「あーやん」さんが罪悪感という言葉はちょっと苦手なので、良心と置き換えて考えてみました。と書いていらっしゃいますが、良心は「良いこと」に共感する気持ちで、罪悪感は「悪いこと」を嫌い、避ける気持ちですからそれらは同じものではありません。「良いこと」をするためには「良心」が必要で、「悪いこと」をしないためには「罪悪感」が必要だということです。「良心」は肯定的な行動へのアクセルで、「罪悪感」は否定的な行動へのブレーキなのです。ですから、奇妙なことに「人助け」のような「良いこと」もする子が、同時に「万引き」のような悪いことをしてしまう場合もあるのです。罪悪感のない子には「悪いこと」が存在していないので、良心は痛まないのです。この、両者は置き換えることが出来ないし、幸せな社会を維持するためには両方とも必要なのです。その罪悪感が希薄な社会では、罰則を厳しくして「悪いこと」を防ぐしかありません。これは私の考えですが、しっかりとした価値観や生き方を持っている大人がお手本として子どもと関わっているような家庭や、社会や、教育現場では、子ども達は「良心」を育てることが出来るような気がします。お母さんが、困っている人をぱっと助けるような現場を見ながら育った子は、「良心」が育つと言うことです。そしてそれはまた、「良いこと」をしたら褒められる環境です。じゃあ、悪いことをした時に叱っていれば「罪悪感」は育つのか、というとそういうわけではありません。子どもにとって「褒められること」は行動の「規範」や、基準や、動機になります。でも、「叱られること」からは逃げようとするばかりです。ですから、叱ってばかりいると、隠れてするようになるだけです。そのため、「罪悪感」は育たないのです。子どもは叱られることで「善悪」ではなく、「大人はどのような時に叱るのか」を知ります。ただそれだけのことです。それはそれで大事な学びですが、必ずしもそれは「善悪」とはつながりません。でも、子どもでも、大好きな仲間や、大好きなお母さんを悲しませたり、傷つけたりはしたくありません。相手を悲しませたり、傷つけたりしたら、自分から離れて行ってしまうかも知れないからです。ですから、大好きな仲間がいっぱいいる子、孤独ではない子の方が「罪悪感」は強くなります。だから、遊びの場でも「ルール」を守るのです。みんなが「ルール」を守るためには、ルールを破ることに対する罪悪感が共有されている必要があるのです。「良心」は大人との「縦のつながり」の中で育ち、「罪悪感」は仲間との「横のつながり」の中で育つのだということです。**********補足です。大人が「良いこと」と思っていることにはあまり個人差がありません。子どもがちゃんと手を洗ったり、挨拶をしたり、他の子を助けたり、一生懸命に勉強をしていたら、それを否定する大人はあまりいないと思います。子どももそれを知っています。ですから、褒められることで、子どもは「何が良いこと」なのかを学ぶことが出来ます。でも、「悪いこと」に関しては非常に個人差が大きいです。先日、森の中でワークをやっていた時、小さな女の子が来て、「あ、ドングリだ」と言って拾おうとしたら、お父さんが「そんな汚いもの拾うんじゃありません」と叱っていました。子どもが水たまりに入ったら叱るお母さんもいます。でも、その逆にほほえましく見ているお母さんもいます。「善」にはある程度の社会的基準があるのですが、「悪」は個人差が大きく、特に決まった基準がないのです。「法律に触れなければOK」「見つからなければOK」と考えている人もいっぱいいますから。だからそれを教えるのは難しのです。
2012.10.29
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「あーやん」さんが学習支援ボランティア講座の講師の方(大学の先生)から聞く話では、先進国においては、障がい児と健常児を分ける「分離教育」から、個性に合わせて学ぶ「共生教育」にシフトしているそうです。また日本は一斉授業形式がほとんどですが、諸外国では様々な新しい授業形式を取り入れているようです。日本の場合は江戸時代の「寺子屋」のほうが、それに近かったような・・・?と書いて下さったので、今日と明日でこのことについて書いてみます。コメントを頂くと助かります。イジメや虐待のことを言うと、必ず「そういうことは昔からあった」と言う人がいます。確かに、そのようなものは時代、文化にに関わらず、昔から世界中であったと思います。でも、そのほとんどが「個人としての問題」でした。ですから、いじめる子もいたし、それを止める子もいました。また、いじめている子もそれを「悪いこと」として認識していました。だからといっていじめをしなかった訳ではないのですが、叱られたら「叱られた理由」ぐらいは分かったのです。昔の中高生もタバコを吸っていました。でも、隠れてです。「悪いことをしている」という認識があったからです。でも、今の中高生はその罪悪感が薄いようで、公民館のロビーなどで平気でタバコを吸っている子もいるそうです。それで職員の人が注意するのですが、「なにが悪いの?」とポカンとしてしまう子もいるそうです。我が家は家の前に自転車を置くスペースがあるのですが、今までそこから自転車を3台も盗まれました。鍵をかけていなかったのが悪いと言えば悪いのですが、「盗んだこと」より「鍵をかけていないこと」の方が責められるのはおかしいです。(今、困っています。それで鍵をかけるようにしました。通りに面しているとはいえ、家の敷地の中に置いてあるのに鍵をかけなければならないことに違和感を感じます。)公園で親子で遊んでいて、子どもが石に躓いたり、木登りしてケガをしたら、昔は「次は気をつけようね」で済んでいたのに、今では公園の管理責任の問題になってしまいます。万引きでも、昔は「悪いこと」という認識がありましたが、今では「欲しがるようなものを置いていることや、取りやすい状態で置いていることの方が悪い」と開き直る人も増えてきているようです。子どもたちも「ゲーム感覚」で万引きをしているようです。公園の花壇のお花をシャベルで抜いているおばちゃんを見かけたこともあります。それで「何してるんですか」と言ったら、コソコソとどっかへ行ってしまいました。散歩途中のような普通の身なりのおばちゃんです。そこにも罪悪感がありません。確かに、そういうことは昔からありました。また、罪悪感の薄い人もいました。でも今、日本人全体の感覚がどんどん麻痺してきているような気がするのです。簡単に言うと、みんな「自分のこと」ばかりしか考えなくなって来てしまっているのです。「個人として」ではなく、「社会全体が」ということです。「個人の問題」だったものが「社会の問題」へとレベルが変化してしまっているのです。自分のことしか考えない人には「罪悪感」は必要がありません。見つからなければいいのです。そのためネットでの悪口はひどいものです。匿名なら「見つからない」と思っているので、言いたい放題です。学校などでは、そのためネットなどを使う時のルールやエチケットなどを教えようとしているようですが、罪悪感が薄い子どもたちにルールやエチケットを教えても無意味です。今、家庭の中でも学校でも、子ども達は競争に追い立てられています。そして、「仲間とと共に」とか「お母さんやお父さんと共に」という体験をすることが出来ないまま成長しています。実は、「罪悪感」と呼ばれるものは、その「共に」を喜ぶ感覚の育ちと共に育つものなのです。自分のことしか考えない人、競争のことしか考えない人には「罪悪感」など必要がないのです。だから、小さい時から競争に追い立てられている子が「罪悪感」を育てることが出来ないのは当然なのです。でも実は、子どもは「競争」が嫌いなのです。それは競争をすると仲間を得ることが出来ないのと、競争の中では育つことが出来ないからです。それは本能的な嫌悪感だと思います。その逆に子ども達は「共に」が大好きです。その証拠に、「仲間と共に」、「お母さんやお父さんと共に」というつながりの中で生活している子ども達はニコニコ、生き生きしています。そして、心もからだも知性もバランスよく育っています。でも、大人達はそんな子どもの感性を無視して、子どもにも大人の社会と同じ「競争」を求めています。だから、子どもは自分を守ることに精一杯になってしまっているのです。そして、「自分を守ることだけ」に精一杯な子は「罪悪感」を否定します。「自分を守ること」と「罪悪感」が両立しないからです。(でも、自分に危害を加える人のことは非難します。自分も同じようなことをしていてもです。)ここいらで「新しい社会の形」「新しい教育の形」を模索していかないと、日本は非常に困ったことになってしまうと思います。自分を守ることしか考えていない人は、人の命のことも、自然のことも、地域のことも、日本のことも考えないからです。そこで重要になってくるのが「共に」というキーワードなのです。家庭の中に、地域の中に、学校の中に、どのようにしてこの「共に」を取り入れることが出来るのかが重要なのです。
2012.10.28
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今日は「風邪っぴき」さんからの大人が子供のズレを理解し、合わせる。という事ができるのは、小学生以上なら、特別支援学級に在籍する事になるでしょうか?我が家の近隣の学校では年々在籍人数が増加しており、30人近い学校もあります。私は発達障害があるから分けるなんて、ますます溝ができると思ったけれど、本人にとってはその環境が望ましいのですね。みんなと一緒にが辛い人達なので。というメッセージに関して、私が考えていることを書かせて頂きます。本当は子どもたちを「支援級」と「普通級」分けること自体がおかしいのです。ただしそれは、「障害があっても普通級に行かせるべきだ」ということではありません。そのように両者を分離する発想自体がおかしいということです。大切なことは「子ども一人一人に合った教育や学びや育ちを支える」ということであって、そこには障害の有無など関係がないのです。自閉症の特徴がある子は、その特徴に合わせて教育しないと学ぶことが出来ません。ADHD(注意欠陥多動性障害)の子も、LD(学習障害)の子も、その他の障害の子も、また、障害を持っていない子も同じです。じゃあ、「障害を持っている子は支援級に行かせるべきか」というと、話はそう簡単ではありません。確かに、子どもが知的なことを学ぶためには大人が子どもに合わせてあげる必要があります。でも、子どもの心やからだや社会性の育ちのためには、今度は子どもが他の子や大人に合わせることを学ぶ必要があるのです。そのためには多様な相手との多様な関わりが必要になります。簡単に言ってしまうと「学び」のためには支援級が、「育ち」のためには普通級の方が子どもたちに効果的に働きかけると言うことです。そのどちらを大切にするかで、「障害があるなら支援級に行かせるべきだ」という考え方と、「いや、普通の大勢の仲間の中で育てるべきだ」という考え方が分かれてくるのでしょう。ただし、私が聞いている範囲では、普通の学校の支援級は「学びの場」としてもどうもあまり機能していないようです。それは、支援級の先生たちが「障害のプロ」ではないからです。障害のプロではない先生たちが支援級で障害を持った子どもたちの相手をしているのです。ですから、もちろん素敵な先生もいっぱいいるでしょうが、子どもたちに対して困った対応をしている先生も少なくないようです。でも、いずれにしても、障害児教育のプロではないので、効果的に教育をする場としては機能していないのではないでしょうか。うちの長女は高校の先生ですが、今は一応養護学校の教諭をしています。養護学校を希望したわけでも、障害児教育を専攻したわけでもありませんが、養護学校に回されました。ですから、先生になってから色々なことを学んでいます。でも、その学びは個人的なものです。もちろん教師になる時には障害についても色々と学んでいるでしょうが、実際には知識のレベルの学びだけでは障害を持った子どもたちと関わることは出来ません。問題は普通級の方にもあります。今の子どもたちは小さい時から群れの体験がありません。集団生活の体験もありません。家の手伝いもしていません。そのため自分中心的で、みんなに合わせることがなかなか出来ません。そういう点では障害を持った子と同じなのです。ですから塾のような場で、個別に教えてもらえば学ぶことが出来ますが、一斉授業のような形では学ぶことが困難なんです。だから簡単に学級崩壊が起きてしまうのです。そんな子どもたちに授業を聞かせるためには、授業が面白・おかしくなるように工夫しなければなりません。そこで求められているのは「教育の質」ではなく、「教育のエンターテインメント化」です。子どもや親が先生を評価するようになれば、ますますその「エンターテインメント化」は進むでしょう。でも、そのような授業では子どもは育ちません。学ぶこと自体が楽しくなるような授業でないと、子どもは学ぶことを通して育つことは出来ないのです。 今の学校には「学び」も「育ち」も両方ともないのです。逆に、学校が「学びながら育つ場」、「育ちながら学ぶ場」になれば、子どもを障害の有無で分ける必要がなくなるのです。そのためには、全ての先生たちが障害児教育をもっと専門的に学ぶ必要があります。障害児教育を通して学んだ知識や技術は、障害を持っていない子にも適用することが出来ます。でも、障害を持っていない子向けの教育方法は障害児には適応できないのです。だから、障害を持った子は支援級を勧められることになってしまうのです。学校がそうなってしまっている現状では、どちらを選ぶかはケースバイケースで考えるしかないと思います。結論のない文章になってしまいましたが、この問題に関して私はそのような考え方を持っているということです。
2012.10.27
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昨日は、テレビやコンピュータゲームには子どもを育てる働きはない。むしろ、子どもの育ちに必要なことを学ぶ機会や欲求を奪ってしまう。ということを書きました。携帯やネットも同じです。じゃあ、「やめればいいのか」、「子どもに与えなければいいのか」というと、これはそう簡単な問題ではない、というのが今日のテーマです。なぜなら、子どもの育ちには不要でむしろ害があっても、今の日本には、それらを通じてようやく社会や仲間とつながることが出来ている状況の子どもたちが多いのも事実だからです。もうすでに、それだけ深く人々の生活の中に入り込んでしまっているのです。スナック菓子が健康に悪いのは分かっていても、他に食べるものがなければ「今日」を生き延びるためにはそれを食べるしかないのです。自動車は排気ガスをまき散らし、ガソリンという地球の資源を消費します。また、車の出現によって人々は歩かなくなり、健康にも悪い影響を与えています。じゃあ、「車を使うことをやめればいいのか」というと、話はそう簡単なものではありませんよね。私なども、仕事で車を使っているので、車が使えなくなったら生活に支障が出てしまいます。社会の仕組みが「車」という存在を前提に組み替えられてしまっているので、それが地球や健康に有害なものであっても、車なしには経済生活が困難になってしまうのです。現代人は、「未来」のために取っておかなければならない「種籾」を食べて生きているのです。それがいけないことだと分かっていても、それを食べないと「今」を生きることが出来ないからです。そのような社会構造になってしまっているのです。またそのような社会構造でなければ、これだけの豊かさや、人口を支えきれないのです。でも、このままではやがて非常に困ったことになってしまいます。お母さんたちの多くは、テレビやゲームが子どもの育ちにあまりよい影響を与えないということを知っています。(お父さんたちはあまり分からないようですけど・・・)でも同時に、「今時の子どもたちがテレビやゲーム以外に、仲間とつながる手段を持っていない」ということも知っています。だから、不安を感じながらも排除できないのです。自分の子どもからテレビやゲームを取り上げてしまうことは、子どもから「仲間」を奪ってしまうことにつながってしまうからです。じゃあどうしたらいいのか、ということですが、テレビやゲームといったものを子どもから遠ざけるためには、それらと引き替えに、子どもたち同士がつながり合うことが出来るような「テレビやゲーム以外の遊び」や、「仲間」や、「遊び場」や、「遊ぶ時間」を復活させる以外にないのです。しかも、7才前までにです。7才までにゲーム漬けになってしまっていると、もうそこから抜け出すことは困難です。価値観がそのような状態で固まってしまうからです。でも、困ったことに、そのような遊びには仲間が必要なのです。お母さんが我が子からゲームを取り上げても、ゲームを持っていないのが我が子だけなら、その我が子はゲーを通して得ることが出来ていたつながりまで失い、「独りぼっち」になってしまうのです。そして、昔の子どもたちがゲーム以外の遊びから学ぶことが出来ていたことまで、学ぶことが困難になってしまいます。昔の遊びには仲間が必要だからです。もう一つの選択肢は、子どもが過度にのめり込まないようにお母さんが管理しながらゲームを与えることです。(それでも、7才以降です。)そのためには、子ども部屋にテレビやゲーム機を置かずに、お母さんの目の届く居間などだけで遊ばせるようにします。子どもに自己管理を求めても間違いなく失敗します。どんなに約束しても、ほとんど無駄です。そして、お休みの日などは子どもの仲間などを誘って、山や海や自然の中で遊ぶ遊びを体験させることです。すると、5年生から中学生にかけて自然とゲームへののめり込みが減ってきて、自分で管理できるようになります。テレビやゲーム機が嫌いなお母さんはそれらを「ゼロ」にしたがりますが、排除するのではなく、逆に「付き合い方」を教えるのが今の時代には現実的な方法だろうと思います。もちろん有害な部分はありますが、私たちが現代社会で生きて行く限り、多少の毒は避けようがないのです。(シュタイナー系の人は完璧主義の人が多いので、有害なものはゼロにしたがりますが、でも、空気にも水にも毒が入っている今の時代、それは無理なのです。)*******************友人のガンダーリ・松本さんが「心とからだにきく和みの手当て」という新しい冊子を出したので出版記念パーティーをするそうです。そしてその参加者を募集しています。自分のからだとの対話を通して「自分の心とからだの想い」に気付くための素敵な本ですから、心の問題で苦しまれている方にも役に立つ本です。詳しいことは「ここ」に書いておきました。以下にガンダーリさんの文章の一部を載せておきます。人生は『気づき』の連続です。目の前に問題として現れる数々の出来事は私たちを本来の自分にステップアップさせてくれる"素敵な導き手"です。でも、これまでのあなたの価値観の中からそれを見つけ出すことはできません。その答えは今のあなたを超えた少し未来の自分の中にあるからです。この本を手掛かりに、自分自身の手で"本当に望むあなたらしい幸せ"をプレゼントしてあげて下さい。
2012.10.26
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本来、テレビやゲームといった遊びは子どもの成長に必要なものではありません。人類がそのようなものを手にしたのはつい最近であり、さらには、世界レベルで考えたら、今でもそのようなものに囲まれて育っているのはほんの一部の子どもたちだけです。ですから、「有害かどうか」の判定は難しくても、「必要なものではない」ということだけは確実に言うことが出来ます。では、時代や文化を超えて、子どもの育ちに必要なものは何かというと、・しっかりとした母国語の学び --- これを失ったら全てが台無しになります・幼児期のスキンシップ --- 一生を通しての精神の安定に必要です・仲間との遊び --- 助け合うことや社会性を学ぶため・大人に受け入れられること --- 自分の人生を肯定する感情を育てるため・様々な大人との関わり --- 世代を超えて伝えられてきたことを学ぶため・多様な体験を通して学ぶこと --- 工夫する能力を育てたり、現実世界を生きて行くための智慧を学ぶため・手や心やからだを使った活動 --- 自分自身との対話能力を育てるために必要・役割の体験 --- 社会性や、客観的な意識や、責任感などを学ぶため などです。そしてこれらは、有史以来、子どもたちの育ちから失われたことはなかっただろうと思います。そのようなことは、今でもジャングルの奥地などで暮らしている人たちの生活文化を調べれば分かることです。簡単に言ってしまえば、それらは子どもたちが「一人前の大人」に育つために必要な学びです。そして、子どもたちが「一人前の大人」に育つことが出来なくなってしまった社会は間違いなく崩壊します。子どもには「社会」というものを維持できないからです。でも、ここで問題が起きます。テレビやゲームの「子どもの育ちに対する直接的な害」に関しては諸説ありますが、間違いなくテレビやゲームは、これらの「子どもが大人になるために必要な学び」を子どもたちから奪ってしまうということです。では逆に、子どもたちはテレビやゲームから何を学ぶことが出来るのかというと、テレビからは様々な知識を学ぶことが出来るかも知れません。でも、「テレビから学んだ知識」はクイズ番組や試験の時にしか役に立たない知識です。それらは「生活」とつながった知識ではないからです。「ゲーム」に至っては、ほとんど何も学ぶことが出来ません。ゲームは純粋に「刺激を得るための道具」に過ぎないからです。しかも「ゲームの刺激」は生活の中の刺激よりも遙かに強いため、ゲームの刺激になれてしまうと、現実生活の中の刺激に対しては鈍感になります。そして、ゲームがないとすぐに退屈するようになります。それだけゲームが楽しい、と言うことなのですが、過度に楽しすぎるのです。そのため依存症を引き起こしやすいのです。子どもの育ちには、「やり過ぎたら飽きてしまう」程度の楽しさで充分なんです。「いくらやっても飽きないような楽しさ」は子どもの興味を閉鎖的にし、子どもから「現実」を奪ってしまうのです。「縄跳び」をズーッとやっていると飽きてきます、だから「今度は鬼ごっこをしよう」と新しい遊びが始まります。それも飽きるとまた新しい遊びが始まります。実は、そのようにして遊びが変化していくことも非常に重要なことなのです。ちなみに、「ゲームで遊ぶことでコンピュータの使い方が上手になる」と考えているお母さんたちがいますが、それは全くの誤解です。ゲーム機はコンピュータで作られていますが、ゲーム機は「ゲーム機」に過ぎません。私が、コンピュータと関わり始めた30年前のコンピュータは、コンピュータの知識がないと使えないようなものでしたが、現代のコンピュータはそれが「コンピュータ」であることを感じさせないような作りになっているのです。だから幼稚園児でも使いこなすことが出来るのです。幼稚園児でも使いこなすことが出来るということは、その程度の学びしかないということでもあります。続きます。
2012.10.25
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昨日書いた発達障害の子どもたちにおける「感覚のズレ」とは、大多数の人が気にならないような日常的な音や匂いや触覚に対して強く反応したり、またその逆に、多くの人が気になるような音や匂いに対して無頓着な状態をいいます。また、「恥ずかしい」とか「怖い」といった精神的な感覚においても、普通の人とは異なった感受性を持っています。中学生ぐらいになっても、平気で人前で裸になってしまったり、小さな子でも暗いところや高いところに対して全く恐怖心を感じなかったりします。また、感覚や刺激に対してダイレクトに反応してしまい、自分を抑えることも困難です。そのため、誰かが騒ぐとすぐに巻き込まれます。それと、大好きなことに対しては異常なほどの集中力を示しますが、興味のないことには全く関心を払いません。発達障害の子においては、この「偏り」が非常に大きいのです。(だからゲームにはまると非常に困ったことになります。)そして、自分の感覚にはこだわりますが、他の人の感覚には全く無頓着です。というか、感覚的に「相手の立場」に立つことが困難なんです。ですから、「言わなくても分かるはずだ」という方法は使えません。気持ちを伝えたい時には、ちゃんと言葉にして言ってあげないと通じないのです。発達障害の子どもたちは、「感覚の働きにおいて幼児的だ」とも言えます。そして、「幼児的な短所」も持っていますが、「幼児的な長所」も持っています。ですから、その特徴を「長所」として受け入れ、伸ばしてあげれば、ある特別な分野では人並み外れた才能を発揮するかも知れません。でも、「短所」として扱ってしまえば、ただの「わがままな大人」にしかならないでしょう。ただ、感覚の問題で困難なのは「何が正しいのか」「どちらの方が正しいのか」ということが分からないことです。親もまた同じ感覚的特徴を持っているなら、子どものその特徴には全く何にも問題を感じないでしょう。家族全員が感覚的に偏ってしまっている場合もありますが、でも、その家族のメンバーはそのことには気付きません。お父さんも、おじいちゃんも発達障害の場合は、子どもは「男の人とはそういうものだ」と思い込むだけです。また、モンスターペアレントのような人は、おかしいのは自分ではなくて、相手の方だと思い込んでいるのでしょう。だから、クレームを付けているのではなく、彼らにしたら「正当な要求」をしているだけなのです。それを「不当な要求」として扱ったら、話がこじれてしまいます。また、時には学校の先生の方が発達障害の場合もありえます。これは非常に困ったことなのですが、時々「そうなのかも知れない」と思うような先生の話も聞くのです。そのような場合は、お母さんが常識的で正当な要求をしているだけなのに「モンスターペアレント」として扱われてしまうこともあるでしょう。発達障害の子どもや大人と関わる時には、こちらの要求を伝える前に、まず相手の話を聞いてあげることから始めた方がいいと思います。そして、その子(人)が何を大切にしている人なのかを知るのです。その感覚や価値観を肯定した上で話をするのです。そうでないと、話がかみ合わなくなります。発達障害の人は、相手の立場に立つことが困難なため、この「まず相手の話を聞く」ということが出来ないのです。もし、お母さんの方がこの状態なら、問題は「子ども」にではなく、「お母さん」の方にあるのかも知れません。ただし、ここに書いたような「発達障害の特徴」は、単に「こういう傾向がある」ということであって、「発達障害の子はみんなこのような状態である」ということではありません。「障害」というものは非常に個性的なので、「みんながそうだ」というような固定的な特徴は存在していないからです。その点をご理解の上、お読み下さい。
2012.10.24
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ロッキーさんから以下のような個人メールを頂きました。同じような問題で悩んでいらっしゃる方も多いかと思い、ご本人の許可を得て、ブログの方で説明させて頂きます。ちなみに、発達障害に関しては6月21日から数回に分けて書いていますので、ご興味のある方はそちらの方もお読み下さい。また、重複する内容もありますが、ご了承下さい。 はじめまして。ブログ、いつも楽しみに拝読させていただいております。 ひとつお伺いしたいことがあります。発達障害について、森の声さんはどういう考えをお持ちですか? うちの息子は生まれてすぐから、何かと育てにくい子どもでした。玄関を締める音にびくっとして飛び起きて泣いたり、ベビーマッサージなんかに行っても、他の赤ちゃんは気持ちよさそうに笑っているのに、息子は緊張して笑いもしませんでした。 病院での離乳食の講習会の時も、皆さん赤ちゃんを託児室に預けていましたが、うちの息子だけ、3階まで聞こえる勢いで泣き、結局講習は満足に受けられませんでした。名前を呼んでも振り向かず、耳が聞こえないのかと悩んだりもしました。1歳半健診でも、じっとしていられず、一人だけ走り回っていました。それから何かが気に入らないと、壁に頭をぶつけたり、パニックをおこしてよく泣きました。 それから1歳10ヵ月のころから、テレビを消し、なるべく子どもとふれあい会話する時間をつくりました。それからかなり改善しよくなったと思います。現在は3歳半で、多分健常児と障害時の狭間のボーダーライン上にいるのかと思います。 今でも、突然の出来事にはやはりびっくりしてパニックをおこします。保育園の運動会も、玉入れが苦手で、一人だけ泣いてできませんでした。みんなが一斉にわあ〜っと球を投げたり、歓声がするのでびっくりするのだと思います。 昨年、主人にも発達障害があることがわかりました。遺伝的要素のつよい障害ですが、親子共々改善できる方向があると信じています。 森の声さんのブログには、いつも励まされています。発達障害の子どもの子育てについて、何かご意見が伺えると嬉しく思います。 突然のmail、どうかお許しください。発達障害の原因に関してはまだよく分かっていないようです。ただ、遺伝的な要因は強く、一卵性の兄弟では7割から9割の確率で同じ発達障害を持っているようです。また、親子、兄弟の間でもかなり高い確率で同じ障害を持っています。「発達障害のいま」(杉山登志郎著/講談社現代新書)には「多動な父親の息子は多動なのだ」とまで書かれています。それと、原因はよく分かっていないのですが、発達障害の子どもや大人がどういうわけかどんどん増え続けています。これは、検査の仕方などによっても数値は変わることですが、数値によらなくても、長い間子どもたちと関わってきた多くの人たちが、その実感的感覚としてその事実をあげています。いわく「昔はこんな子はいなかった」「昔はこんな親いなかった」というようにです。私も、20年以上、子どもと関わる仕事をしていますが、明らかに発達障害の子は増えてきています。また、私が子どもの頃のクラスメートにもそのような子がいた記憶がありません。確かに発達障害は遺伝的な要素が強いのですが、一卵性の兄弟でも100%ではなく、7割から9割程度の相関関係しかないと言うことは、逆に言えば、遺伝だけでなく別の要因も強く関係していると言うことを意味しています。そして、その「別の要因」が、発達障害の増加に関係しているのでしょう。幼い時からテレビばかり見せられて育った子、ゲームばかりやって育った子、大人との関わりが少なかった子、虐待されて育った子などは、遺伝的素質がなくても発達障害のような状態になる傾向が強いようです。遺伝的素質を持った子の場合には、さらにそのような要因が強く影響を与えて、さらなる発達障害の悪化を招いているのだろうと思います。その結果、発達障害が増えてきているように見えるのでしょう。ただし、「育ち」によるものは早期に発見して育て方を変えれば、比較的簡単に正常に戻るようです。でも、当然のことながら「遺伝」によるものはそのままです。でも、その場合でも周囲の大人がそのことに気付かず、そのまま成長すれば元に戻ることもなくなり、発達障害として状態が固定されることになります。遺伝によるものの場合も、比較的早い時期から療育を始めれば、状態の悪化を抑えるこがもできます。そして、その療育で行っているのは、昔の子どもたちがやっていたような遊びであったり、信頼できる大人たちとの深い関わり合いです。病院の治療のようなことをやるわけではありません。幼い子どもたちは「遊び」という形でないと刺激を吸収することが出来ないからです。誰かから聞いた話ですが、そのことを理解できないあるお父さんが、その療育の現場を見て、「遊ばせるだけだったら来ている意味がない」と子どもを連れて帰ってしまったこともあったそうです。ちなみに、日常的に多くの子どもたちと関わっている人はその「発達障害」について感覚的にお分かりでしょうが、基本的に我が子だけとしか関わっていない人には、その状態はなかなか理解できないと思います。発達障害の場合は、「障害」といっても、必ずしも何かが出来ないわけでも、能力的に劣っているわけでもないからです。「発達障害とは何か」ということを簡単にいってしまえば、「感覚やコミュニケーションにおけるズレ」です。「障害」と聞くと、何らかの能力的な未熟さや、発達の遅れを連想してしまうかも知れませんが、発達障害の子どもたちの状態はそのようなものではなく「ズレ」なのです。「ズレ」ですから、「違和感」としては感じますが、はっきりと数値化できるものでもありません。また、そのズレをどのように感じるのかも個人差があります。また、知能が関係してくる場合もありますが、関係していない場合もあります。エジソンやアインシュタインはアスペルガーという発達障害を持っていた可能性が高いそうです。あの有名な野球のイチローも、その可能性が高いそうです。長島さんなんて絶対そうだと思います。テレビによく出ている「ローラ」という女の子も、あれが演技でなければ、発達障害の可能性が高いように感じます。ですから、発達障害を持っているからといって、社会人として生きて行くことが出来ない、と言うことではありません。むしろ個人的な能力としてはユニークで高度な能力を持った子もいっぱいいます。うちの教室に来ている子たちでも、造形などにおいて非常にユニークで面白いものを作ります。発想が普通ではないのです。それが造形などの場では長所になります。科学研究などにおいても同じことが言えると思います。でも、そのユニークさが「人と人との関わりの場」においては問題になるのです。特に、日本の学校のような「みんなが同じ」でなければならないような場では、その短所ばかりが目立つことになります。発達障害の子どもたちの一番の特徴は、その「みんなと同じ」が出来ないことなのです。でも、知的に劣っていない場合も多いので、親や先生からは誤解を受けます。そして、ルールを守らない、ワガママ、反抗的、だらしがない、自分勝手、協調性がない、などと非難されます。「親の仕付けがなっていない」と親が非難されることも多いです。でも、子どもとしては何で叱られているのか理解が出来ません。知的に劣っているからではなく、感覚が異なっているからです。うちの教室に来ていたある子は、みんなの前でも平気でオナラをしていました。女の子のすぐ側に寄って匂いをかいで「いい匂いだ」などと言っていました。いつも窓から出入りして遊んでいました。幼児ではありません。小学校6年生です。会話も普通に出来るし、知能的に劣っているわけでもありません。でも、非常にユニークなのです。そして、そこに悪意は全くないのです。でも、周囲は困ります。だから注意します。でも、本人は何が悪いのか全く理解できません。たとえば、感覚的に、「赤」と「茶色」を区別できない子がそれらをごちゃ混ぜに使っても、その子にとっては何の問題もありません。その時、周囲が「赤と茶色をごちゃ混ぜにするな」と文句を言っても、その区別が付かない子には、その言葉の意味が理解できないのです。そのようなものです。いま、うちには何人も発達障害の子がいますが、みなこの「感覚のズレ」を持っています。そして、その「感覚のズレ」は一人一人違います。でも、逆に言えば、その子どもの「感覚のズレ」を理解して、大人の側が一人一人のその「ズレ」に合わせてあげれば、1対1の関係においてはコミュニケーションは成り立つのです。発達障害の子を「みんな」に合わさせようとするのではなく、大人が子どもに合わせるのです。そうすれば、その子はその子なりの発達の仕方で発達していくのです。でも、いまの日本の教育システムではそれはほとんど不可能に近いことです。逆に、無理矢理「みんな」に合わせるように強制すると、子どもの心は傷つきます。感覚的にも混乱してしまいます。すると、「心」や「精神」の問題を抱えるようになり、様々な問題行動を引き起こすようにもなります。その結果、学校は親を呼びつけ、親に状況を説明して協力してもらおうとするのですが、かなりの確率で、そのような子の親も発達障害なので、コミュニケーションが成り立たないのです。そして、先生たちには理解できないような要求を出したり、一方的な理屈で先生や学校を非難することになります。心に傷を負って育った人は被害者意識が強いですから、過剰に反応するのです。それがいわゆる「モンスターペアレント」です。
2012.10.23
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子育てに「失敗」はありません。というか、「子育てに失敗した」などと考えてはいけないのです。それは、子どもに「おまえは私の失敗作だ」と言っているのと同じで、子どもに対して非常に失礼なことです。みなさんだって、みなさんのお母さんやお父さんから「私は子育てに失敗した」と言われたら、嫌な気分しか感じないですよね。そんな意識の人から何も言われたくないし、何もされたくないですよね。また、そんなこと言われ続けていたら自己肯定感など育つわけがありませんよね。実は、「うちの子は自己肯定感が低いので何とかしたい」という考え方そのものが、子どもが自己肯定感を育てるきっかけを奪っているのです。ですから、どんなに自己肯定感が低くても「ここから始めようね」と言うしかないのです。そしてそれは自分自身に対しても同じです。じゃあ、「何もしない方がいいのか」というとそういうことではありません。何もしなければ未来に対する不安と、過去のことに対する後悔ばかりに束縛されてしまうからです。人は人と出会い、人と関わり、人に受け入れられることで、学び、成長し、自己肯定感を高めていきます。ですから、自己肯定感を高めるためには色々な人に会い、色々な人から学び、そして成長する必要があるのです。逆に言うと、自己肯定感の低い人は幼い時や子どもの時にそのような学びをし損なってしまっているのです。どんなに成績が良くても、どんなに何かの能力が高くても、色々な人との関わり合いによって学ぶことが出来なかった子は、意識の世界が狭くなってしまうため、どこかで孤独で、自己肯定感も低いのです。テレビや、ゲームや、携帯や、ネットや、仲間の喪失や、地域の崩壊や、機械に依存した便利な生活はそのような「人と人の直接的な関わり合い」を阻害してしまうのです。特に、憂鬱質の子どもは色々なことに対する不安が強いため「狭い世界」の中に閉じこもろうとする傾向があります。だからこそ、「広い世界」との出会いが必要なのです。具体的には、色々な活動に参加することで色々な人と出会わせてあげることもできます。ビーチクリーンのような色々なボランティア活動でもいいですし、田植え体験や林業体験なども面白いでしょう。そのような、「みんなが助け合って活動しているような場」の体験が必要です。また、色々な人の伝記や、色々な人の活動を書いたような本を読むのも世界を広げる手助けになります。現地の人と触れあうような、単なる観光旅行ではない旅行をしてみるのもいいと思います。そのようにして世界を広げていくことで、自己肯定感も高くなっていくのです。というか、人間は一生懸命に生きている人を見ていると、「自分を否定すること」がむなしくなっていくのです。自己肯定感が低い人の背景には不安と孤独があります。その不安と孤独の表れとして、自己肯定感の低さがあるのです。ですから、不安と孤独の問題を解決しないことには、自己肯定感は高くならないのです。また、何らかの人生や生活上の目標を持つと、不安や孤独は気にならなくなります。子どもの場合は、「将来の目標」を得ることで、自己肯定感も高くなって行きます。でも、そのためにも、広い世界との出会いが必要になるのです。
2012.10.22
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(昨日からの続きです。)今日はangelさんのご質問の中の7歳は過ぎてしまいまいしたが、このくらいの年齢の子どもにしてやれること、自己肯定感を生むことはどんなことがあるでしょうか?という所に答えさせて頂きます。まず、気質の問題もあると思います。(気質については私が書いた小冊子をお買い求め頂くか、過去のブログをお読み下さい。)多分、angelさんの息子さんは「憂鬱質」という気質が強いのではないかと思われます。憂鬱質が強い人は「こだわり」が強いです。そのため状況に合わせることが苦手です。簡単に言うと不器用なんです。寂しがり屋のくせして、自分から友達作りをしようとはしません。しかも、自分と同じような気質の仲間か、自分をそのまま肯定してくれるような仲間とでないと、遊びたがりません。そのくせ、大勢の友達がいる子をうらやましがります。また、叱られることに対して他の気質の子どもよりも強く恐怖を感じるため、お母さんに叱られることを恐れて、自分の欲求を抑え込んでしまいます。でも、内面の働きは豊かで、他の子どもが気付かないようなことに気付き、感じないようなことを感じ、考えないようなことを考えています。ただその特徴が長所になることもあれば、短所になることもあります。これはどの気質の子でも同じなのですが、一般的に、その特徴を肯定されて育てばそれらは「長所」になり、否定されて育てば「短所」になります。それはたとえば多血質の子どもの特徴が、「落ち着きがない」という短所になることもあれば、「活動的」という長所になることもあるようなことです。そして、憂鬱質が強いタイプの子どもに必要なのは、「暖かさ」と、「安心」と、「自信」です。厳しくしたり、追い立ててしまうと逆効果になります。また、静かで規則正しい生活も必要です。とにかく強い刺激や、急激な変化が苦手なんです。それと、寄り添い、側にいてくれる人も必要です。自分からは積極的に仲間を作らないくせに、寂しがり屋でもあるからです。ここで、angelさんのお子さんの話に戻りますが、7才を過ぎてしまうと、当然のことながら取り戻せないこともあります。ですから、「取り戻そう」とか「やり直そう」などとは考えない方がいいです。それに、そのような考え方は、「子どもの今」を否定する考え方ですから、子どもは反発するだけです。そうではなく、お子さんの「今の状態」をそのまま肯定してあげるところから、「子育て」を再スタートするのです。ということで時間がないので、申し訳ありませんがこの続きは明日書きます。
2012.10.21
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今日はangelさんからの以下の質問に答えさせて頂きます。そして本人に、私には本音を言って良いんだよと言ったところ「自分はいつも他の友達より遊びもゲームも少ない。友達が羨ましくて本当は僕は何も満足してない」と言われてしまいました。確かに私が決めたゲーム時間や帰宅時間は周囲より少なめですが、彼は私に叱られないようにとそれを守ってきたため、不満でいっぱいであったのかと思うと少しショックです。何事にも、やりすぎて叱られたら という思いと、本当はもっともっと羽目を外したい という思い、満たされない不満で葛藤しているようにも思えます。気ばかり張らないで ゆったり満足して喜びに満ちていて欲しいと思うのですが。7歳は過ぎてしまいまいしたが、このくらいの年齢の子どもにしてやれること、自己肯定感を生むことはどんなことがあるでしょうか?この問題は非常に難しいです。今の時代、子どもの周りには子どもの育ちに有害なもの、子どもに与えたくないものが満ちています。昔は男には「男の社会」があり、女には「女の社会」がありました。それと同じように、大人には「大人の社会」があり、子どもには「子どもの社会」がありました。さらにはカタギには「カタギの社会」があり、ヤクザには「ヤクザの社会」がありました。それらの境界はあいまいでしたが、でも、それなりに世界が分離されてもいたのです。でも、現代社会においてはそれらの境界は崩れてしまっています。そして「平等」の名の下に、単なる弱肉強食の社会になってしまっています。今では、親がきちんと守っていなければ、子どもでも簡単にその弱肉強食の社会に巻き込まれてしまいます。当然のことながら、テレビやネットなどの情報機器は相手が誰であるかの区別をしません。子どもでも簡単に死体の映像を見たり、人の殺し方を調べることが出来ます。また、経済優先の社会では、「儲かるか儲からないか」だけが問題なのであって、その相手が大人であるか、子どもであるか、ヤクザであるかは問題にしません。最近ようやく、お店では未成年者にはお酒を売らないようになってきましたが、機械はその判別をしません。スナック菓子は少量ならOKでしょうが大量に食べるものではありません。炭酸飲料も少量ならOKでしょうが、そればかり飲んでいたらからだに悪い影響を与えます。それは大人でも同じですが、子どもにはもっと強く悪影響を与えます。そして子どもにはその判断が出来ません。ですから、大人が制限することになるのですが、子どもは目の前にあるのに見せてもらえない、食べさせてもらえない、遊ばせてもらえないことに対して不満を感じます。テレビも、幼児期の子どもにおいては30分から1時間が限度だと思います。ゲームはゼロが望ましいです。そうでないと、子どもが「仲間」や、「遊び」や、「自然」への興味を失い、テレビやゲームが与えてくれる強い刺激の方に夢中になるようになってしまうからです。そして、その時点で「自分の成長を喜ぶ感性」は失われて行きます。直接子どもの育ちに悪い影響を与えるようなゲームもいっぱいありますが、そうでない、一見「子どものためのようなゲーム」でも、それで遊びすぎると子どもたちは現実世界への興味を失ってしまうのです。そして、現実世界の中での活動によってもたらされる自分の自身の成長よりも、ゲームの中で獲得できる点数の方が気になるようになってしまうのです。一度その世界にはまってしまうと、その世界から抜け出すのは困難です。なぜなら、子どもの感覚の働きや、能力や、価値観が「ゲーム仕様」になってしまうからです。幼い子どもは、7才までに「自分が生まれてきた世界に対応するための基礎的な感覚や能力や価値観」を育てているのですが、幼いうちからゲームをやっているとその感覚や、能力や、価値観が「ゲーム仕様」になってしまうのです。また、テレビばかり見ているとそれらが「テレビ仕様」になります。でも、今ではほとんどの子どもがそのような状態になってしまっているため、子どもも大人もそのことに違和感も問題も感じていません。むしろ、今ではそのような感覚や、能力や、価値観が育っていないと仲間作りが困難な状況になってしまっているため、テレビを見せたりゲームをやらせることに肯定的な意識を持っている親の方が多いように感じます。でも、そのテレビやゲーム仕様の感覚や、能力や、価値観では、「苦しみから学び、成長する」ということが出来ないのです。また「自分の成長を喜ぶ体験」も出来ません。そのため、そのような価値観の人は会社に入っても長続きしません。また、結婚しても夫婦の助け合いが出来ません。子育ても苦しむことになります。「自分の成長を喜ぶ感性」を持っていないと、「助け合う」ということは出来ないのです。ですから、angelさんが大切にしてきた子育ては正しかったのです。でも、ただ遠ざけるだけ、取り除くだけでは子どもの心に不満が溜まるばかりです。幼児期にスナック菓子を食べさせてもらえなかった子が、幼稚園の友達の家に行って、その子の家で出されたスナック菓子を独り占めしてみんな食べてしまったという話を聞いたことがあります。家でテレビを見せてもらっていない子が、友達の家に行って友達と遊ばないでテレビばかり見ているという話も聞いたことがあります。うちの長男も、家にはゲーム機がないので、小学校3年生ぐらいからは友達の家でやらせてもらっていました。逆に、angelさんのお子さんのように、お母さんに隠れてその欲求を満たすことが出来なかった子は、お母さんに不満を募らせるでしょう。では、どうしたらいいのか、ということです。<明日に続きます。>でも、この問題に正解はありません。どのような選択をしても、「得るもの」と「失うもの」があるからです。
2012.10.20
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「かーちゃん2年生」が、以下のような質問を寄せて下さいました。それで今日はこれに答えさせて頂きます。初めまして。今年の春くらいから、ちょこちょこ訪問させていただき、拝読させていただいております。本日のエントリーに打ちのめされました。私はまさに、「成長経験を自覚できずに大人になり、すぐ逃げようとする親」です。子どもが可愛いと思えるのは、寝静まっている夜だけ。どうしてこんなに育てにくいのだろう・・・と常日頃思っています。私も苦しいですが、今後は彼も苦しくなるのですよね。今更何かを変えることはできないかもしれませんが、どうすればこの負の感情を昇華することができるでしょうか。まず、「子育て」は精神的にも肉体的にも大変な重労働です。これは子育てをしている全ての人において同じです。ですから、この重労働からは逃げられないのです。この「逃げられないもの」から逃げようとするから苦しくなるのです。人は「自分の荷物の重さ」によって苦しむのではなく、「なんでこの私が」と、その荷物を背負わなければならないという「現実」を肯定できないから苦しむのです。ただ問題は、「成長の喜び」を知っている人は、その荷物を「自分を成長させてくれるもの」として肯定的に受け入れることが出来るのですが、「成長の喜び」を知らない人は、常に「自由」や「快楽」を求めてしまうため、「目の前の現実」を肯定することが出来ないのです。だから、「苦しみ」を「喜び」に変換することが出来ないのです。これは山登りに例えることが出来ます。苦労して山に登った後のすがすがしさや、すっきり感や、気持ちよさを体験したことのある人は、山を登る途中の「苦しさ」を、その後にやってくる「喜び」への道程として受け入れることが出来ますが、その「喜び」を体験したことのない人にとっては、苦しみは「苦しみ」に過ぎないため、その「苦しみ」を受け入れることが出来ないのです。「苦しみ」を受け入れることが出来る人は、その「苦しみ」がやがて「喜び」に変わることを知っている人なのです。そして、ここが不思議なところなのですが、幼い子どもたちは最初からそのことを知っているのです。だから、居心地の良い子宮の中からわざわざ外に出てきて、転げながら、頭をぶつけながらも歩こうとし、ケガをしながらも冒険をし、お母さんに叱られながらも色々なことにチャレンジし、必死になって生きようとしているのです。幼い子どもたちは「自分の意思で生きる自由」を求めて苦しみを乗り越えているのです。本能的に、その先にある「喜び」を知っているからです。それは生まれたばかりのウミガメの赤ちゃんが、本能的に海の方向を知っているのと同じです。実は「生きる」と言うことは「苦しみ」であると同時に「喜び」でもあるのです。だから、生き物たちは生まれてくるのです。「生まれてきた」ということは喜びなのです。お釈迦様は「生きることは苦しい」と言いました。でも、だからこそ一生懸命に生きることで「生きる喜び」を得ることが出来るのです。大人になるとその「生命の喜び」や「生きる喜び」を忘れてしまうのですが、幼い子どもたちはまだその「喜び」を知っているのです。だからこそ、毎日毎日の苦しみを乗り越えることが出来るのです。だから、お母さんに叱られても、叩かれても、時には虐待されても、子どもたちはニコニコしていることが出来るのです。子育てに苦しんでいるお母さんたちには出来ないことでも、幼い子どもたちには出来ているのです。そして実は、人間も含めて、生物としては子どもとして「生まれてくる喜」びも、「成長する喜び」も、大人として「生む喜び」も、「育てる喜び」も一体なのです。だから生命は35億年もつながってきたのです。この中のどれか一つでも「喜び」とつながっていなかったら、生命は絶えてしまうのです。でも、人間だけが、子どもの側の「生まれてくる喜」や「成長する喜び」だけが残って、大人の側の「生む喜び」や「育てる喜び」が失われつつあります。そしてだから、成長するに従い早い時期から「生まれてきた喜び」や「成長する喜び」を失ってしまう子どもたちが増えてしまったのです。そこで「かあちゃん2年生」の「どうすればこの負の感情を昇華することができるでしょうか」という質問に戻ります。私の回りには子育てを「苦しみ」としてではなく、「喜び」として受け入れることが出来ている人がいっぱいいます。そして、そのような人は一様に「この子のおかげで」と言います。この子のおかげで世界が広がった。この子のおかげで仲間が増えたこの子のおかげで生きがいが出来たこの子のおかげで知らなかったことを知ることが出来たこの子のおかげで気付かなかったことに気付くことが出来た等々、というようにです子どもを何とかしようと考えたり、自分の苦しみを取り除くことばかり考えている人で、「子育てが楽しい」と言う人とは出会ったことがありません。逆に言うと、「どうすればこの負の感情を昇華することができるでしょうか」と、自分の「負の感情」にこだわっている限り喜びはやってこないと言うことです。大切なのは「負の感情」を取り除くことではなく、「どうやって日々の生活の中に喜びを見いだすことが出来るのか」ということなのです。子どもの「寝顔」に喜びを見いだしてみて下さい。子どもの「元気」に喜びを見いだしてみて下さい。子どもの「成長」に喜びを見いだしてみて下さい。子どもの「笑顔」に喜びを見いだしてみて下さい。そのような意識が高まってくると、自然と負の感情は消えていくのです。「かあさん2年生」さんご自身に関しても、毎日ご飯を食べることが出来ることにも喜びを感じることが出来ますよね。そのご飯が美味しいことにも、朝日や夕日が美しいことにも、キンモクセイの香りにも喜びを感じることが出来ますよね。「負の感情」を取り除こうとする意識自体が「負の感情」の働きなのですから、決してそれは成功しないのです。出来るのは、お酒や、様々な享楽や、逃避などによって忘れることだけです。でも、それは一時的なことであり、現実は何も変わりません。むしろ余計に悪くなることの方が多いです。豊かさと便利さばかりを追い求めてきた現代人は、「さりげないこと」に喜びを感じることが出来なくなってしまいました。だから、子育てが苦しくなってしまったのです。でも、「生きる」ということは、その「さりげないことの連続」に過ぎないのです。「成長の喜び」もその「さりげないこと」の連続の中でしか得ることが出来ないのです。
2012.10.19
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今、多くのお母さんたちが幼稚園を小学校の予備校のように考えています。そして、小学校を中学校のための予備校、中学校を高校のための予備校、高校を大学のための予備校のように考えている人もいっぱいいます。そして、そのように追い立てられて育てられた子どもたちは、大学に入るともう追い立てられることもなくなり、遊びほうけます。このように育てられた子どもたちは、「自分の成長に必要なこと」を学ぶことが出来ないまま大人になることになります。そのため「成長する」ということ自体が感覚的に分かりません。「成長の喜び」を体験したことがないからです。子どもの時に「成長の喜び」を体験した人は苦しみや困難を恐れません。なぜなら苦しみや困難が「成長の喜び」の卵であることを知っているからです。でも、そうでない人は苦しみや困難から逃げようとします。でも、世の中には逃げられることと、逃げられないことがあるのです。結婚して子どもが生まれてしまえば、「子育て」からは逃げられないのです。それでも、ご主人は「子育てはおまえの仕事だ」と言って逃げることも出来ます。でも、母親はそれが出来ません。それでも「子育て」から逃げようとすると、虐待になってしまいます。こんな時、子どもの時に「成長の喜び」を体験した人は、「子育て」を通して成長することも出来ます。ですから、大変ではあっても苦しくはありません。むしろ、喜びを持って子育てをすることが出来ます。すると、子どもも「幸せ」を感じるので、問題行動を起こしません。逆に、「子育て」を「苦しいこと」としてちゃんと向き合わない子育てをしていると、子どもは「孤独」を感じ、苦しくなります。また、きちんと成長することも出来ないでしょう。でも、その状態はお母さんと同じ状態なので、そのような子育てをしているお母さんにはその問題点が見えません。人間は自分と同じ問題を抱えた人の「問題」は見えないのです。たとえば、おしゃべりな人はおしゃべりな人の問題が理解できないのです。子どもの成長において、1才児には1才児にしか学ぶことが出来ないこと、また、学ばなければならないことがあります。それは、2才児でも、3才児でも同じです。そして、幼稚園時代には幼稚園時代にしか学ぶことが出来ないことと、また、学ばなければならないことがあります。ですから、決して幼稚園を小学校の予備校のように考えてはいけないのです。小学校時代に必要な学びは、小学校に入ってから学ぶべきなのです。私の基準では、そこの所をしっかりと抑えている幼稚園は「お勧めできる幼稚園」で、「あれも教えます、これも教えます」と小学校の予備校化している幼稚園は、子どもの成長を考えていない「お勧めできない幼稚園」です。また、幼稚園を選ぶ時の基準としてお母さんからよく質問を受けるのが、園庭の広さと、遊具の有無と、園の規模です。お母さんたちとしては広い園庭があって、遊具がいっぱいあって、それなりに大勢の園児がいるような幼稚園の方が安心するようです。いくつか幼稚園を見に行って、子どもに「どの幼稚園に行きたい」と聞けば、子どもは遊具がいっぱいある幼稚園を選ぶでしょう。でも、遊具で子どもを引きつけようとする幼稚園はお勧めしません。幼稚園時代に必要な学びは「仲間との関わり合い」によって学ぶことばかりだからです。過度の遊具はその「仲間との関わり合い」を阻害してしまうのです。それは「テレビ」が「家族との関わり合い」を阻害してしまうのと同じです。(遊具は特になくてもOKですが、仲間との遊びを広げるような遊具なら、少しはあってもいいと思います。)子どもの育ちに必要な「園庭」とは、逆に「仲間との関わり合い」を促し、支えることが出来るような要素を持っている必要があります。決して、遊具の多さでも園庭の広さでもありません。実は、それは「多様性」なのです。子どもたちは「多様性」の中に物語や空間や自分の居場所を発見して、遊ぶことが出来るのです。ただし、このことを話し出すと長くなるので、今日はあまり深入りはしません。また、園児の数もあまり関係がありません。子どもは4,5人もいればちゃんと遊ぶことが出来ます。遊びの場で、つながり合って遊ぶことが出来る人数がいれば子どもの成長には十分なのです。幼稚園時代は、大勢と広く遊ぶより、気心が知れた仲間と深く遊んだ方がいいのです。まだ、ファンタジーの世界の住人なので、そのファンタジーの世界を維持するためには逆にある程度の狭さが必要なのです。幼い子どもを、ただ広いだけの空間や、あまりに数が多い子どもの中に入れると、不安と孤独を感じてしまいます。小学校の校庭のような広い空間で、大勢の仲間と遊ぶことを楽しむことが出来るようになるのは9才を過ぎてからです。今、3人以上では楽しく遊ぶことが出来ない子どもたちが増えているようです。Aちゃんと遊ぶ約束をしている子の所に、Bちゃんから「一緒にあそぼ」と電話が来ても、「Aちゃんと遊ぶ約束をしているから」と言って断ってしまうのです。そのような子は幼稚園時代に、「みんなで一緒に遊ぶ」という学びをしてこなかったのでしょう。
2012.10.17
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7才前の子どもたちの子育てや教育で一番大切なことは、「生まれてきて良かった」という感情を育てることです。このこと以上に大切なことはありません。7才までにこの感情が育った子は、それ以降の人生を豊かに、幸せに生きる力を得ることが出来ます。途中苦しいことがあっても「帰るべき場所」が分かっているので、迷子にはなりません。苦しみながらでも、本来の場所に戻ることが出来るでしょう。でも、「生まれて来なければ良かった」と感じるようになってしまった子は、孤独な人生を生きるようになるでしょう。自分の存在を肯定できないほど孤独なことはないからです。というか、孤独な状態で育てられたから「生まれてこなければ良かった」と感じるようになってしまったのです。また、「生きる喜び」を感じることが出来ない子は、ただ目先の快楽や享楽的な刺激ばかりを求めて生きるようになるでしょう。このような子は、「孤独」ではなかったかも知れませんが「虚無的」です。「自分の成長」を実感できない育ちをしてきた子どもたちがそのような状態になりやすいです。そして今、一番多いのがこのタイプの大人や子どもたちです。だからみんな、目先の享楽や快楽ばかりを求めるのです。「イジメ」もこの虚無的な感性が作り出しているのだと思います。この「孤独な子」や「虚無的な子」は「帰るべき場所」が分かりません。だから、大人になって苦しくなっても、自分の帰るべき方向が分からず、人に依存しようとするのです。7才までに「生まれてきた良かった」と感じることが出来るようになった子は、一生を通して「帰るべき場所」を手に入れることが出来るのです。だからそのような子は、途中道を外れても、やがて帰ってくることができます。でも、その「帰るべき場所」を得ることが出来なかった子は、そのまま「行ったきり」になってしまいます。人間は「自分の成長」を喜ぶ生き物です。大人になるに従いこの感性は弱くなりますが、幼い時にはこの感性は絶対的です。ですから、思春期までの子どもたちは「自分の成長」を実感できないと、「自分が生まれてきた意味」を見いだすことが出来ずに虚無的になってしまうのです。ただし、この「自分の成長」は「自分自身で肯定できる成長」でなければなりません。決して、「親や先生が喜ぶような成長」ではありません。「早く走れるようになりたい」と思っている子が、努力して速く走ることが出来るようになった時、自分の成長を実感し「生きる喜び」を感じることが出来るのです。それが自己肯定感につながります。でも、「速く走ること」には何の興味がない子を、無理矢理追い立てて早く走れるように訓練しても、子どもは「自分の成長」を実感することは出来ません。むしろ、自分の意思が否定されたと感じ、自己肯定感を失っていくでしょう。ですから、子どもたちが自分の成長を実感できるようにするためには、子どもたちの価値観の延長上に目標を定めてあげる必要があります。すると子どもたちは仲間と競い合いながら、その目標に向かって成長していくのです。そして、ほとんどの場合、それは「遊び」という形に中で行われています。子どもたちが「仲間との遊び」を喜ぶのは、それが自分自身の成長にとって必要なことだということを感覚的に知っているからなのです。「地域の仲間」を失ってしまった現代の子どもたちにとっては、そのようなことが出来るのは「幼稚園」という場以外にはありません。でも、現代では、多くの大人たちが「遊び」を「無駄なこと」として考えてしまっています。そのため、幼稚園も「遊び」を否定して「お勉強」を「ウリ」にしないと生徒が集まらなくなってしまっています。「遊び」を「無駄なこと」として感じるような人は、「遊びの喜び」の中に「帰るべき場所」が存在していることが分からないのでしょう。********************参加者募集です。ワークショップ「心とからだの深呼吸」チラシは「ここ」でご覧になって下さい。とりあえず、チラシの文面だけここに書いておきます。 昔の人は「忙しい」ということを「心(え捗)をうしなう(亡)こと」と考えました。人は、忙しい時、「心」を失ってしまうのです。ですから、忙しい人は「心」を失った状態で家事をして、仕事をして、子育てをして、年老いていきます。 現代人は、毎日毎日そのように過ごしています。でも、「心」を失ってしまっている時の記憶は残らないのです。「心を失っている時間」は、自分にとって「存在していない時間」と同じだからです。だから、想い出すことが出来ないのです。 思い当たることはありませんか。 幼い頃からそのように生きてきた人は、年を取って、死が近くなった時、自分の人生を振り返っても何も想い出すことが出来ないでしょう。それは「空っぽの人生」です。 自分の人生を空っぽにしないためにも、今ここで「自分の心」を取り戻しませんか。
2012.10.17
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子どもは仲間や大人との関わり合いを通して、人間として必要なものを身につけ、成長していきます。ですから、子どもの成長においては大人が「何を教えるか」ということよりも、大人が子どもと「どのように関わるのか」ということが非常に重要になります。子どもはその関わりを通して、大人を手本として、大人を模倣しながら学んでいるのです。ですから、子どもたちに「助け合いなさい」と言っていても、子どもたちと一緒の生活の場において、先生たち自身が助け合っていなかったり、遊びを通して先生と子どもが助け合っていないようなら、子どもたちは「助け合う」ということを学ぶことが出来ません。子育ての現場では、お母さんが「きれいに片付けなさい」と言っていても、お母さんがだらしなければ子どもはだらしなくなります。お母さんが怒っている時、子どもは「お母さんが怒っている内容」ではなく、その「怒り方」を学びます。「優しくしなさい」と叱られても、自分自身が優しくされることがなければ、「優しさ」を学ぶことは出来ません。とにかく、子どもは体験を通して学んでいるので、手本もなく体験できないようなことは学びようがないのです。これが子どもの学習の基本です。大人が一方的に何かを教えると、子どもは大人を満足させるために、大人の言葉を覚え、模倣します。でも、それは「大人の言葉」を覚えているだけのことです。そこには何の学びもありません。「必要性」がないところには「学び」もないのです、様々な技術を学ばせても、それが子どもにとって必要なものでないのなら、それは大人を喜ばせるためだけのものであり、子どもの成長を支えるものではありません。そして、そのように育てられている子どもは「大人を喜ばせること」ばかり考えるようになります。その結果、「本当に自分の育ちに必要なもの」を学ぶことが出来なくなります。それなのに、今、多くのお母さんたちが「子どもが育つ」ということより、「幼稚園が何を教えてくれるか」ということばかりを気にしています。経済的な価値観だけで幼稚園を判断しているのです。そして、幼稚園の側もそのようなお母さんのニーズに合わせた教育をしています。そうしないと生徒が集まらないからです。子どもは「自分にとって必要なもの」は学びますが、必要でないものは決して学びません。そのようなものは、ただ覚えるだけです。ちなみに、「覚える」と「学ぶ」は全く異なるものなのですが、お分かりになるでしょうか。子どもは学ぶことで成長します。でも、覚えるだけでは成長できないのです。でも、大人たちは学ばせようとしないで覚えさせようとばかりしています。そして、子どもがいっぱい覚えると喜びます。子どもは「わらべ歌」のような遊びを通して、非常に多くのことを学び、成長していきます。でも、その学びや成長は子どもの内面のことですから、子どもはそれを出してみせることが出来ません。「覚えていること」は出してみせることが出来ますが、「学んだこと」は子どもの心やからだの血肉になってしまっているので見せようがないのです。ただ、子どもの生き生きとした心やからだや、その笑顔を通してその育ちを感じることが出来るだけです。ですから、学ぶことで子どもを育てようとするなら、大人の側に「子どもの心とからだの状態を感じ取る感性」が必要になります。そして、自ら子どもたちの手本になろうとする意識と、その意識に基づく関わりと、結果を求めず、寄り添い、見守る姿勢が必要になります。「子どもが育つ幼稚園」とは、先生たち自身がそのような意識を持っている幼稚園のことです。そのような幼稚園では、子ども同士の関わり合いによって子どもたちが学び合うことが出来るように、「遊び」もまたちゃんと工夫されているはずです。うちの三番目(現在18才)が通っていた幼稚園では「わらべ歌」と「手仕事」を大切にしていました。「ボード織り」でも、一人一人のボードがあって子どもたちは暇を見ては織りをしながら遊んでいました。羊毛ボールなども作っていました。それがその園での遊びの伝統になっていたのです。そして、子どもたちは落ち着いていました。(元気ではあってもトゲトゲはしていなかったということです。)ですから、大人がいなくても、自分たちの遊びとして楽しんでいたのです。でも、うちの教室では小学生でもそのなかなかそのレベルの作品を作ることが出来ません。友人がやっている幼稚園では「コマ遊び」が伝統になっています。子どもたちはコマを競い合いながら成長しています。日常的にトンカチやノコギリも使えます。そこの子どもたちはみんな「子どもらしい」です。ただし、そのような園では、お母さんたちにも多くを求めています。子どもの育ちを支えるためには、幼稚園と家庭が車の両輪のごとく支え合う必要があるからです。ですから、幼稚園だけにお任せしたい人はそのような幼稚園は選びません。そして、商業主義的な幼稚園は、そのようなお母さんのニーズに応えるため、お母さんに求めるのはお金だけで、ボランティア的労働や、特別な子どものとの関わり方などは求めません。ですから、お母さんは楽が出来ます。そして子どもは英会話や文字やその他色々なことを教えてもらえます。でも、肝心の子どもの心もからだも成長しません。それは「子どもの成長」はお金では買うことが出来ないということです。***************以下は募集です。12回連続で行っている「自分育て講座」の前半、「気質について」が終わり、10月から三回連続で「表現ワーク」が始まります。(2013年1月からはセルフケアです)「気質」だけで終えてしまう人もいるため、「表現ワーク」から参加なさりたい方を募集します。原則毎月、第二か三月曜日の午前です。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。***************月一でやっている「遊びの会」も生徒募集です。このチラシは更新していないの予定が古いのですが、今12月まで予定が決まっています。次回は「思いっきり絵を描こう」(絵の具だらけになって大きな絵を描こう)です。会場はJR茅ヶ崎駅近くです。***************自宅の方でやっている幼稚園児対象の造形クラスも生徒募集です。月二回、水曜日1:45~15:00です。円蔵2丁目です。
2012.10.16
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子どもにはその成長に伴う生理的な「子どもらしさ」があります。そして大人たちはその「子どもらしさ」を肯定し、大切にしてあげる必要があります。子どもの時に「子どもらしく」過ごせた子が、大人になって「大人らしく」なることが出来るのです。それは子どもの時に「子どもであること」を肯定されることで自己肯定感が育つからです。そしてだから、大人になった時には「大人である自分」を肯定することが出来のです。それに、その「子どもらしさ」の多くは、子どもの成長に必要なものも多いので、それを否定されたり、奪われてしまうと、子どもはその成長に歪みを生じる恐れがあります。たとえば、子どもたちは多動ですが、それは心とからだが活発に成長していることの表れでもあります。活発に動き回ることで、筋肉や骨格や運動神経系を育てているのです。からだが成長しつつある時には、からだを動かしたくてムズムズするのです。ただし、だからといって「ありのままを肯定して放りっぱなしでよい」とうことではありません。「否定しない」ということは、「好き勝手にさせる」こととは違うからです。そのような状態の子どもたちに対して、大人たちはその「子どもらしさ」に寄り添い、「よりよき方向」に導いてあげる必要があるのです。そうでないと、ただの「野生児」になってしまいます。その辺の理解の仕方が、幼稚園のあり方にも関係しているのでしょう。ここで大切なことは、ただ単純に「今の状態を肯定する」ということではなく、「成長する意思」を肯定してあげるということです。「目に見える状態」の背景にあるものを肯定してあげるのです。そしてそれは「生命の働き」に属するものですから目には見えません。感じるしかないのです。たとえば、子どもは基本的に「多動」ですが、その子どもの「多動」には二種類あります。「成長の過程に伴う自然な多動」と、「成長の歪みから生まれる不安定さの結果としての多動」の二つです。前者の状態の子どもたちは、多動でありながらそこには集中と助け合いがあります。でも、後者の状態の子どもたちは、ただ発散を求め、競争や戦いばかりして助け合うことが出来ません。「多動」という点だけを見たらこの二つは似ているのですが、よく見ているとその質が違うのです。そして、今の日本の子どもたちには後者のタイプの「多動」が非常に多いのです。ゲームばかりやっている子、成長に必要なものが満たされない子は、「発散を求める多動」になってしまうのです。そして、話を聞くことが出来ないのも、ルールを守らないのもこのタイプの子どもたちです。前者の子どもたちは、暴れ回る時には思う存分暴れ回ります。でも、静かにする時にはちゃんと静かに出来ます。大人が強制しなくても、自分の意思で状況に合わせて集中と発散を切り替えることが出来るのです。私は、未就園児と親子で遊ぶ「ポランの広場」という教室をやっているのですが、そこの子どもたちは走り回る時には思いっきり走り回りますが、お話を聞く時にはちゃんとみんな座って静かにお話を聞くことが出来ます。(全員ではありませんけどね。)4月から、その会に時々お手伝いに来て下さる保育園の先生が、その様子を見て驚くのです。「この子たちは何才ですか。なんでジーとお話を聞くことが出来るのですか?」と二回も聞かれました。「発散を求める多動」の子の場合でも、その多動そのものは子どもの生理現象だから否定することは出来ません。でも、その多動は「必要なもの」が満たされていないことから来る多動なのですから、その「必要なもの」を見つけ、与えてあげることで、「必要な多動」に変化していきます。すると、単に発散するだけではなく、集中もすることが出来るようになります。ちなみに、子どもがゲームに夢中になっている姿を見て「集中している」と言う人がいますが、それはとんでもない勘違いです。あれは「心を奪われている」、「夢の中に引きずり込まれている」だけであって、集中しているのではありません。本来、集中力とは創造的な活動のための能力です。ですから、集中力がある子は、創造的な活動を楽しむことが出来ます。助け合うことも創造的な活動です。でも、ゲームに夢中になっている子は「発散」ばかり求めて、創造的な活動を楽しむことが出来ません。それはつまり、いくらゲームをいっぱいやっても集中力は育たないばかりか、むしろ逆に集中力が奪われてしまっているということです。幼稚園を選ぶ時には、(そのようなことを踏まえて)子どもたちがただ「発散するだけの遊び」だけでなく、大人の指示命令がなくても、自発的に助け合ったり、集中するような遊びをしているかどうか、ということもよく観察した方がいいと思います。また、集中する遊びだけでなく、「発散する遊び」もしているかどうかも大切です。子どもにとっては発散と集中はセットになっているのですから。
2012.10.15
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私は、月一回「遊びの会」という親子一緒に遊ぶ教室をやっています。「ポランの広場」という幼稚園に入る前の子どもたち対象の教室は15年くらい前からやっていますが、この「遊びの会」は幼稚園に行っている子や小学生が対象で、今年の4月から始めました。(生徒募集中です)それは、今時の子どもたちの遊びがあまりにも貧弱で、子どもを育てるどころか子どもの育ちを阻害するような遊びばかりが主流になってしまっているからです。先日、その遊びの会で、あるお母さんが「先生、年長さん(6才児)で大人の話をちゃんと聞くことが出来ないというのは普通でしょうか、普通じゃないでしょうか」と聞いてきました。そのお母さんが見ている範囲では、「話を聞くことが出来ない子」の方が普通なのですが、その方のご主人が「それは普通ではない」とおっしゃっているのだそうです。ちなみに、その方のご主人はアメリカ人です。それで私は、「年長になっても大人の話を聞くことが出来ないというのは、今の日本の子どもとしては普通です。でも、世界を基準にしたら普通ではありません。」と答えました。人間の育ちとしては、年長(6才)にもなって大人の話を聞くことが出来ないというのは普通ではないのです。日本でも、昔の子どもたちは6才にもなればそれなりに大人の話を聞くことが出来ました。だからこそ、7才から学校に行って学び始めることが出来たのです。まだ話を聞くことが出来ない状態の子は「学ぶ準備」が出来ていないということなのです。勉学が7才になってから始まるのには、それなりに訳があるのです。でも、今の子どもたちはその「学ぶ準備」が出来ない状態で、小学校に上がっていきます。だから、小学校、またその上の学校でも困ったことになってしまっているのです。では、どうして現代の子どもたちは話を聞くことが出来ないのか、昔の子どもたちはどうして6才になるまでに話を聞くことが出来るようになっていたのかということです。実は「話を聞く能力」は「助け合う能力」とつながっているのです。そして、「助け合う能力」は「自分を抑制し、我慢する能力」ともつながっています。いくら「話を聞きなさい」と指導しても、テレビやDVDをいっぱい見せても、「話を聞く能力」は育たないし、「我慢しなさい」と「我慢」を押しつけても、「我慢する能力」は育たないのです。これは大人でも同じですよね。自分勝手で、相手のことを思いやることが出来ない人ほど、きちんと人の話を聞くことが出来ないですよね。「我慢」も同じですよね。ご自分の周囲を見回してみて下さい。年中(5才)頃までは、まだ「助け合う能力」は未熟です。でも、年長が助け合って遊んでいる姿を見ていることで「助け合う」ことを学習していきます。そして、ただ大騒ぎをするのではなく、みんなで助け合って遊ぶことが出来るようになります。昔の「わらべ歌」のような遊びにはそのような働きがあったのです。でも、その年長が先生の指示命令だけで動いていたり、勉強ばかりさせられていたりしたら、年中は「助け合う遊び」の体験がないまま年長さんになることになります。当然、「助け合う能力」も育ちません。それはまた、小学校に入ってから必要になる学習能力が育たないということを意味しています。7才前から勉強をさせてしまうと学習能力が育たなくなってしまうのです。多少の知識や計算能力などは身につくかも知れませんが、それと引き替えに学習能力そのものが育たなくなってしまうのです。ですから、早期教育の成果は思春期が近づくにつれて消えていきます。ですから、私は子どもたちを指示命令によって動かしたり、お勉強を教えるような幼稚園はあまりお勧めしません。かといって、子どもたちを勝手気ままに放任している幼稚園もお勧めしません。なぜならそのような幼稚園でも、子どもたちは「助け合う能力」を育てることが出来ないからです。「じゃあ、どういう幼稚園がいいのか」ということですが、簡単に言ってしまえば、年中さんが年長さんにあこがれを持っているような幼稚園です。子どもたちの中に、そのような「縦のつながり」が作られているような幼稚園です。子どもたちは「自分たちの成長に必要なもの」を知っています。だから、その目標となるような先輩にあこがれを感じるのです。子どもでも、「自分勝手な人」より「助け合うことが出来る人」にあこがれを感じるのです。なぜなら、それが人間の本性だからです。そしてまた、そのような幼稚園では、その年長さんたちは先生たちにあこがれています。年長さんにも「あこがれ」が必要なのです。「先生」が年長さんの「あこがれの対象」として存在している時、年長さんは先生を「お手本」として、学びます。そして、年中さんはその年長さんにあこがれ、「お手本」として学びます。昔は、群れをまとめてくれている「大きなお兄ちゃんやお姉ちゃん」がその「あこがれ」の対象でしたが、そのようなお兄ちゃん、お姉ちゃんが消えてしまった今では、「先生」がその「あこがれ」になる必要があるのです。とにかく、子どもの成長には「目標としてのあこがれ」が必要なのです。今では子どもたちは「テレビ」で見ている非現実的な世界の人たちばかりにあこがれています。でも、いくら芸能人にあこがれても、子どもの「人間としての育ち」を支える力にはなりません。
2012.10.14
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最近、幼稚園が子どもたちに色々なことを教えるための場になってしまっています。もしくは、その反対に安全だけを確認して放任したままの幼稚園もあります。でも、いずれの方法でも、子どもがその子どもらしさの中で多くのことを学ぶのは困難だと思います。色々なことを教えている幼稚園では、その教える内容は「子どもが求めているもの」ではなく、「大人にとって価値がある」と思ったものだけです。そしてそれが、多くの生徒を集めるための「ウリ」にもなっています。なぜなら、「大人にとって価値のあること」をいっぱい教えてくれる幼稚園の方が価値があると考えるお母さんが多いからです。お金を払うからには、それに見合う「何か」を得なければ「損をした」と感じるのが現代人です。ですから、その感覚は現代人としては至極当然の感覚です。そして、幼稚園は利益を上げなければつぶれてしまいますから、お母さんたちのそのような要求に合わせることになります。その結果、幼稚園が「子どものためのもの」ではなく「お母さんのためのもの」になってしまっています。でも、「学び」というものは本来「学びたいこと」や、「自分にとって必要だと自覚していること」を学ぶためのものです。実際、「学びたくないこと」や、「自分にとって必要がないこと」を能動的に学ぼうとする子どもはいないのです。だから、必然的に、大人の圧力によって無理に学ばせることになります。中には、お母さんや先生に喜んでもらうのが嬉しくて進んで学ぶ子もいますが、でも、自分の中に「必要性」がないので、身には付きません。その結果、「人間」という種において、「その時期に学ぶべきこと」を学ぶことが出来なくなってしまっています。その「人間という種においてその時期に学ぶべきこと」は、人間のDNAとつながっているものですから、社会の変化に合わせて変化するなどと言うことはありません。たとえば、「3才までに言葉を学ぶ」というのは、社会的な価値観で決まっているのではなく、DNAの必要性によって決まってしまっているのです。ですから、それを人間の都合で変えることは出来ません。最近では、そのように色々なことを教え込もうとする幼稚園が圧倒的に多数ですが、その一方で、大人が教え込むことはせず、ただ、子どもを放任しているだけの幼稚園もあります。大人はただ安全確認をしているだけです。この場合は、子どもは「自分にとって必要がないこと」を押しつけられることはありません。子どもは自分の価値観に合わせて、毎日の生活に必要なものだけを自分の力で学んでいます。ですから、押しつけられている子どもたちよりも生き生きとはしています。毎日、「子どもらしい」状態で遊んでもいます。でも、この場合でも子どもたちは「自分たちの育ちに必要なもの」を学ぶことは出来ません。子どもたちは毎日同じレベルの子どもたちとしか関わっていません。ですから、「大人になるための学び」が出来ないのです。たとえば、子どもだけが何人集まっても、「平等」という価値観とつながった「社会的なルール」は生まれません。客観的な意識が目覚めていない子どもたちには「平等」というものが理解できないからです。野性的な状態で生活している7才前の子どもの群れでは、野性的な「力のルール」しか生まれないのです。昔の子どもの群れでは、3才ぐらいから小学校高学年や中学生ぐらいの子どもたちが一緒になって遊んでいました。そして、高学年の子や中学生は「大人の社会のルール」を知っています。だから、その「大人のルール」で群れをまとめようとします。だから、最初は「野生のルール」で行動していた幼い子どもたちも、群れの中で遊ぶうちに次第に「人間のルール」を学ぶことが出来たのです。そして、その「人間のルール」は何千年、何万年とかけて人間が築き上げてきたルールですから、子どもたちが自分たちで発見できるようなものではなく、誰かに教えてもらわないことには学ぶことは不可能なのです。また、「わらべ歌」などの伝承的な遊びも、その「人間のルール」を子どもたちに伝える働きをしていました。「わらべ歌」は「鬼ごっこ」のような追いかけるだけの遊びと違って、自分を抑制する働きを必要とするのです。ですから逆に言うと、「野生のルール」だけで日々遊んでいる子どもたちは、「わらべ歌」で遊ぶことが出来ません。輪になることも、手をつなぐことも、リズムや呼吸を合わせることも、平等に役割を交代することも出来ないからです。「わらべ歌」は助け合うことによって成り立っている遊びなのです。「野生のルール」しか知らない子どもたちに、大人が「輪になりなさい」「手をつなぎなさい」と命令して、「人間のルール」を教えようとしても無駄です。押しつけられたものは身には付かないからです。子どもは自分の意思で楽しく学んだことでないと身につかないのです。ですから、大人との関わりが非常に重要になるのです。異年齢のつながりを失ってしまった現代の子どもたちは、大人からしか「人間のルール」を学ぶことが出来ないからです。ただし、「押しつけない方法で」ということです。その関わり方が非常に重要なのです。<この後何回か「幼稚園について」書きます。>
2012.10.13
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明日と明後日は、岐阜県の多治見で仕事で、朝早く出るため、明日と明後日のブログはお休みさせて頂きます。(中学校と幼稚園でワークをさせて頂きます。)**************************昨日書いた相手の「要求」に合わせるのではなく、相手の「特性」に合わせるのです。ということは、「英語を話す相手とうまく付き合いたければ英語と勉強しなさい、スペイン語を話す相手とうまく付き合いたければスペイン語を勉強しなさい」ということと基本的には同じことです。でも、多くの人が相手の言葉には興味を示さず、お互いに「自分の言葉」だけで一方的に関わろうとしています。だから意思疎通が出来ないのです。でも、最近では「翻訳機」があるので、「自分の言葉」で語るだけでもある程度のコミュニケーションは可能ですが、でも、「相手の言葉」を学ぼうとしない限り、心の交流は出来ません。なぜなら「言葉」は「文化」であり、「風俗」であり、「歴史」だからです。あなたがくしゃみをした時、相手が「God bless you」と言うでしょう。それを翻訳機は「お大事に」と訳すでしょう。確かにそこである程度のコミュニケーションは成立しているのですが、誤解もまた発生しています。厳密には「God bless you」は「God bless you」であって、「お大事に」ではないからです。ただ、「日本人だったらそのような状況では、そのように言う」というだけのことです。子どもが他の子をぶってしまった時、お母さんは子どもに「ゴメンナサイ」を言わせます。そして、子どもが「ゴメンナサイ」を言うと安心します。でも、子どもはまた同じことを繰り返します。親としては、「さっきゴメンナサイと謝ったばかりなのに、どうして同じことをするの」と怒るでしょうが、それは、子どもにとっての「ゴメンナサイ」と大人にとっての「ゴメンナサイ」の意味が違うから当然のことなのです。子どもにとっての「ゴメンナサイ」はお母さんの怒りを静めるための言葉です。だから、お母さんに向かって「ゴメンナサイ」と言うのです。でも、このような状況における大人にとっての意味は、「相手に対する謝意」です。同じ言葉でも、子どもと大人では違う意味になってしまっているのです。ですから、一見コミュニケーションが成立しているように見えているのですが、実際にはコミュニケーションは成立していないのです。子どもと心を通わせるためには「子ども語」を理解しなければならないのです。子どもには「大人語」は理解できません。だから、大人が「子ども語」を理解するしかないのです。それが、「子どもに合わせる」ということです。「子どもに合わせる」と言っても、子どもの要求に従うことではありません。 子どもが道草を食いながら歩いていたら、お母さんも一緒に道草を食いながら歩いてみて下さい。すると、子どもが見ている世界、感じている世界、生きている世界が見えてきます。その延長上で子どもと関われば、子どもと意思疎通が出来るようになるのです。これはまた「子どもを受け入れる」ということでもあります。よく、「子どもを受け入れてあげて下さい」というと、「子どもの要求ばかり聞いていたら、子どもはワガママになってしまう」と反論してくる人がいますが、そういうことを言っているわけではないのです。そして実は、そのように反論してくる人は自分のことも否定しているのです。自分の心やからだに合わせることをせずに、他人の目や、常識や、不安や、欲望に振り回されているのです。だから孤独なんです。自分の心やからだの想いを聴き、その想いに合わせることが出来るなら人は孤独ではなくなるのです。*************<以下はお知らせです>先日来からお知らせしている「心とからだの深呼吸」のチラシが出来ました。「ここ」でご覧になって下さい。とりあえず、チラシの文面だけここに書いておきます。 昔の人は「忙しい」ということを「心(え捗)をうしなう(亡)こと」と考えました。人は、忙しい時、「心」を失ってしまうのです。ですから、忙しい人は「心」を失った状態で家事をして、仕事をして、子育てをして、年老いていきます。 現代人は、毎日毎日そのように過ごしています。でも、「心」を失ってしまっている時の記憶は残らないのです。「心を失っている時間」は、自分にとって「存在していない時間」と同じだからです。 だから、想い出すことが出来ないのです。思い当たりませんか。 幼い頃からそのように生きてきた人は、年を取って、死が近くなった時、自分の人生を振り返っても何も想い出すことが出来ないでしょう。それは「空っぽの人生」です。 自分の人生を空っぽにしないためにも、今ここで「自分の心」を取り戻しませんか。***************それと月一でやっている「遊びの会」も生徒募集です。このチラシは更新していないの予定が古いのですが、今12月まで予定が決まっています。次回は「思いっきり絵を描こう」(絵の具だらけになって大きな絵を描こう)です。会場はJR茅ヶ崎駅近くです。***************自宅の方でやっている幼稚園児対象の造形クラスも生徒募集です。月二回、水曜日1:45~15:00です。円蔵2丁目です。
2012.10.10
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自然や人間は思い通りに動いてはくれません。また、思い通りに動かないからと言って拒否することも出来ません。ですから、自然や人間と関わっていると、おのずと相手に合わせる技術を学びます。ただ、この時大切なのは「自分を失わずに相手に合わせる」ということです。自分を失ってしまったのでは奴隷と同じです。あくまでも「自分の意思」で合わせるのです。これは武術などでも同じで、ただ相手に合わせているだけだったら、相手の思うように扱われて、簡単にやられてしまいます。だからといって、相手に逆らっているだけだと、力と力の勝負になり、自分より力が強い相手には敵いません。じゃあ、どうしたらいいのかというと「相手の特性」を理解するのです。そして、その特性を利用するのです。そのように対応することで始めて「先手」を取ることが出来るのです。私が言っている「合わせる」という言葉の意味はそのようなものです。相手の「要求」に合わせるのではなく、相手の「特性」に合わせるのです。だからこそ、農業などでも、良い品質のものをいっぱい作ることが出来るのです。私が、「子どもに合わせて下さい」と言うのは、「子どもの要求に従って下さい」ということではなく、「子どもの特性を理解してその特性に従って下さい」ということなのです。コマ回しでも、子どもは最初回すことが出来ません。ですから、色々と工夫します。その色々と工夫する過程で子どもは「コマの特性」を理解していきます。だから、その特性を使ってコマを回すことが出来るようになるのです。お茶や武術の型を学ぶ時も、ただ言われた通りに動くのではなく、その「型の特性」を理解しながら動くのです。だから、崩すことも出来るようになるのです。「型」は大切ですが、「型」に囚われていたら、型を学ぶ意味がなくなってしまうのです。絵画におけるデッサンでも同じです。デッサンにも「型」があるのですが、それにこだわっていたら芸術にはならないのです。かといって、「型」を学ばなければいつまで経っても幼稚園児の絵のままです。「型」を学び、「型」を忘れるから、素晴らしい芸術になるのです。でも、そのためには「型の特性」を理解する必要があるのです。「型」を学ぶのは「型の特性」を学ぶためであって、「型」そのものを覚えるためのものではありません。そして、この「特性」は体験を通して学ぶしかありません。なぜなら、子どもの特性も、コマの特性も、武術の型の特性も、絵画のデッサンの特性も、自分の感覚やからだを通して理解しないことには、自分の感覚やからだをそれらの特性に合わせることが出来ないからです。本やテレビで見た知識では合わせることが出来ないのです。だから、「ノコギリの使い方」をテレビで見ても、実際には使うことが出来ないのです。でも、現代人は大人も子どももそのことが分からなくなってしまっています。昔の子どものおもちゃや遊びには、このような意味での「合わせる」という要素がいっぱい入っていました。「ごっこ遊び」も特性を理解するための遊びです。「お母さんの特性」を理解していなければ、「お母さんごっこ」で遊ぶことは出来ないのです。でも、今の子どものおもちゃや遊びは、子どもが合わせるのではなく、おもちゃや相手が合わせてくれます。ただ、多少の熟練は必要なように工夫されているため、子どもはそこで夢中になるのです。でも、機械相手に学んだ「合わせる能力」は、機械にしか通用しないのです。自然や人間や子どもには通用しないのです。
2012.10.09
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今日、二度目のアップです。先日来からお知らせしている「心とからだの深呼吸」のチラシが出来ました。「ここ」でご覧になって下さい。とりあえず、チラシの文面だけここに書いておきます。 昔の人は「忙しい」ということを「心(忄)をうしなう(亡)こと」と考えました。人は、忙しい時、「心」を失ってしまうのです。ですから、忙しい人は「心」を失った状態で家事をして、仕事をして、子育てをして、年老いていきます。 現代人は、毎日毎日そのように過ごしています。でも、「心」を失ってしまっている時の記憶は残らないのです。「心を失っている時間」は、自分にとって「存在していない時間」と同じだからです。 だから、想い出すことが出来ないのです。思い当たりませんか。 幼い頃からそのように生きてきた人は、年を取って、死が近くなった時、自分の人生を振り返っても何も想い出すことが出来ないでしょう。それは「空っぽの人生」です。 自分の人生を空っぽにしないためにも、今ここで「自分の心」を取り戻しませんか。***************それと月一でやっている「遊びの会」も生徒募集です。このチラシは更新していないの予定が古いのですが、今12月まで予定が決まっています。次回は「思いっきり絵を描こう」(絵の具だらけになって大きな絵を描こう)です。会場はJR茅ヶ崎駅近くです。***************自宅の方でやっている幼稚園児対象の造形クラスも生徒募集です。月二回、水曜日1:45~15:00です。円蔵2丁目です。
2012.10.08
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昔、子どもたちがまだ群れて遊んでいた時代は、3,4才の小さい子から、中学生くらいまでの大きい子が一緒に遊んでいました。ですから当然、同じルールでは遊べません。単に競争する遊びでも遊べません。これだけ幅のある異年齢のグループでは、今の子どもたちが遊んでいるような遊びでは楽しく遊べないのです。そこでどのような遊びが可能であったかというと、「わらべ歌」のような遊びや、何かを作ったり、お手玉や、ゴム跳びや、竹馬やコマなどのような遊びです。また「ごっこ遊び」や、「基地作り」や、「探検遊び」も可能です。これらは「過去の遊び」のように思われていますが、異年齢の仲間たちがみんなで仲良く遊ぶためには、このような遊びが最適だったのです。ただし、小さい子どもたちはルールが理解できませんから、そのような子たちも一緒に遊ぶためには小さい子だけは特別ルールにしたり、まだみんなで面倒を見てあげなければなりません。小さい子どもたちに、大きい子どもたちに合わせるように求めても無駄なので、大きい子どもたちが小さい子どもたちに合わせて柔軟に群れを維持して遊んでいたのです。その「小さい子どもたち」は、面倒を見てもらいながら次第に遊びを覚えて、やがて「一人前の仲間」として遊ぶことが出来るようになります。そしてやがて、今度は自分たちが群れのリーダー格になり、小さい子たちの面倒を見るようになります。その「世話を受ける側」から「世話をする側」への繰り返しで、「昔遊び」は伝承されてきました。でも、今の子どもたちは「世話を受ける体験」ばかりで「世話をする体験」がないまま、成長し、大人になっていきます。世話を受けるばかりの子どもたちは、ただ依存し、要求するばかりです。今の子どもたちは、みんなに同じルールを適用しないと納得しません。小さい子や障害のある子のために「特別ルール」を作ると、「ズルイ」と言います。そのくせ、小さい子の面倒は見ません。以前、ある子供会に呼ばれて「遊びのワーク」をやったのですが、その時1年生から6年生までの子どもたちを縦割りのグループにしました。そして、「からだ遊びなどはふざけたりすると危険だからふざけないように」。また、「5.6年生は小さい子の面倒をちゃんと見るよう」に伝えました。でも、遊びを始めると、5,6年生はみんな同じ学年で集まって、自分たちだけでふざけ合うだけで、小さい子どもたちの面倒を少しも見ようとしません。また、「あぶない」と言っているのに、非常に危険な悪ふざけを平気でやります。幼稚園や保育園などに呼ばれて行くこともあるのですが、どこでも、もう「わらべ歌」など出来る状態ではありません。「輪」になることすら困難なんです。手をつなぐことはもっと困難です。下手をすると、すぐにケンカが起きます。「輪になって」と言うと、「僕はここがいい」と言ってそこから動こうとしない子がいます。「私は○○ちゃんの隣がいい」と言って、その子の隣に行こうとすると、別の子も「私も○○ちゃんの隣がいい」といってケンカが始まったりします。一番多いのは、子どもたちがみんな私の隣がいいと言って、私の回りに固まってしまって「輪」が作れないことです。みんな、「場」や「遊び」に合わせて、自分の欲求を抑えることが出来ないのです。一般的な、幼稚園や保育園は子どもたちのそのような生態を知っていますから、日常的な保育ではそのような活動をさせません。そして、自由勝手に遊ばせるか、大人が管理して遊ばせます。そのためさらに「相手に合わせる」という体験が失われてしまいます。ちなみに「指示命令に従う」ということと「相手に合わせる」ということは同じではありません。「命令」に従うだけの行為は「依存」です。でも、「相手に合わせる」という行為は自主性と能動性に基づくものです。また、昔、まだ便利な家電がなく、コンビニのような便利な社会ではなかった時代には、子どもたちは家の手伝いをするのが当然でした。それは、家族の一員としての当然の役割だったのです。その「役割を引き受ける」ということもまた「相手に合わせる」ということでもあります。「学級委員」を引き受けるということは、「学級委員」という役割に自分を合わせることです。それは家族の手伝いでも同じです。生活の中での、その「役割を引き受ける」という体験も消えました。このようなことが現代の子育ての問題の背景にもあるのです。大人になるまで「世話を受ける体験」しかしてこなかった人が、子どもが生まれると共に、いきなり「世話をする側」に立たされるのですからどうしていいのか分からないのです。さらに、子どもが生まれたのにもかかわらず、多くのお父さんたちが「世話をする側」に回らず、自分の母親の代わりに、奥さんに「世話」を求めます。そのため、お母さんは「二人の子ども」の面倒を見なければならなくなります。****************11月22日(木)に「自分の心を取り戻そう」(心とからだの深呼吸)というワークをやります。時間は10:00~15:00参加費は3000円 会場は茅ヶ崎市民文化会館4F 「練習室4・5」(和室)です。申し訳ありませんが保育はありません。お問い合わせ、お申し込みは「ここ」までお願いします。
2012.10.08
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現代人はあまりに「自分」を大切にするあまりに、「相手に合わせる」ということに対して否定的な価値観を持っています。相手に合わせることを、自分の個性の否定であり、自由の放棄であると感じるのでしょう。そのため、自分からは相手に合わせようとせず、逆に、相手に自分に合わせることを求めます。そして、「お客としての立場」ならそれが可能です。お金を持って、お店に行けば、こちらは色々と選ぶだけで、相手はこちらに合うような商品を用意してくれます。また、現代は様々なお客のニーズに応えることが出来るように色々な商品を取りそろえていますからお金さえあれば「よりどりみどり」です。ですから、自分の方が商品に合わせる必要はありません。でも、それは損得で動いている世界だけで通用する論理です。ですから、「損得」という価値観が通じない相手に対しては、この論理は通用しません。ですから、このような価値観では友達も仲間も出来ません。自分を変える必要がないので成長することも出来ません。自然と関わることも、子育ても出来ません。結婚生活も出来ません。人間は地球にも「人間に合わせるよう」要求したいのでしょうが、地球は決して人間に合わせてはくれません。だから人間が地球に合わせるしかないのです。そうでないと地球は崩壊し、人類は滅亡します。これは私にとっては全く自明のことなのですが、でもなぜか、現代人はこのようには考えないようです。お母さんは子どもにも「自分に合わせるよう」要求しますが、子どもはただ「自分」を生きるだけの存在ですから、お母さんには合わせてくれません。それは子どもが反抗しているのではなく、子どもとはそういう生き物だということです。子どもは「やりたいこと」は出来るのですが、「やりたくないこと」は叱られても、叩かれても出来ないのです。生理的にそのように出来ているのです。ですから、お母さんの方が子どもに合わせないことには、子どもとコミュニケーションを取ることも、子どもの成長を支えることも出来ません。そして、お母さんが子どもに合わせてあげているうちに、子どもはそのようなお母さんから「相手に合わせること」を学び、少しずつお母さんに合わせることが出来るようになるのです。その学びがあるから、幼稚園などに入って「友達」や「仲間」を作ることが出来るのです。人間同士の場合は、お互いに「相手に合わせよう」と歩み寄るから、お互いに理解し合うことが出来るのです。一方的に自分の価値観を相手に押しつけてばかりいたら、結局最後は力ずくで戦うしかなくなってしまうのです。でも、今子どもたちがその「相手に合わせる」という能力を育てる場がありません。そして、そのような環境で育った大人たちもこれが一番苦手です。昔の子どもたちは竹馬やコマなどで遊んでいました。でも、竹馬もコマも、最初から自由に遊ぶことが出来る子などいません。ですから、みんな転びながら、痛い思いをしながら、失敗をしながら、自由に遊ぶことが出来る能力を育てていったのです。竹馬やコマは子どもに合わせてくれないので、子どもの方が竹馬やコマに合わせるしか、遊びようがなかったのです。また、群れ遊びの場では仲間に合わせないことには一緒に遊ぶことが出来ません。そして、昔の子どもたちはそのような活動を通して「相手に合わせる能力」を育てていたのです。そして、それが子どもの成長でもあり、子どもが社会に出てから生きる時の「社会性」の基盤にもなっていたのです。でも、今の子どもたちは「自分に合わせてくれるおもちゃ」ばかりを選びます。そして、自分に合わせてくれる相手とばかり遊びたがります。大人とばかり遊びたがるのもその表れです。現代人は「相手に合わせると自由を失う」と考えますが、実際には、相手に合わせる能力を得ることで、「自由に生きる能力」を得ることが出来るのです。だからこそ、太極拳や武術や茶道などにおいても「型」に「合わせる」ことを求めるのです。そのことで「自我」が崩れ、「自由」を手にすることが出来るのです。また、「相手に合わせる能力」は「優しさ」を支える基本的な能力でもあります。相手に合わせることが出来ない人は、人に対して優しく出来ない人でもあるのです。ゆっくりとでないと歩くことが出来ない人に対して優しくするということは、同じようにゆっくりと歩いてあげることです。「速く歩きなさい」と追い立てることでも、「車に乗せてあげること」でもありません。 このような場合、現代人は「車に乗せてあげること」が「優しさだ」と考える傾向があります。でも、その方法は長い目で見たら、依存を生み出し、自立を妨げてしまうのです。またそれは、相手の「ありのまま」を否定する行為でもあります。ですから本当の意味での「優しさ」ではないのです。でも現代人は、その「一緒に歩いてあげる」ということがなかなか出来ないのです。自分の時間や自由を犠牲にしなければならないからです。
2012.10.07
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私は人類の未来に強い危機感を持っています。ただし、それは2012年12月に起きるかも知れないと言われている例の予言のことではありません。もっと確実で、客観的で、冷静な視点からの不安です。私は、「子育てが出来ない大人たちの増加」によって、やがて社会も、国家も崩壊するのではないかと考えています。人間の「人間らしさ」や「人間としての能力」は遺伝子には書き込まれていません。それらは全て、生まれてから学習するものです。ですから、「子育てが出来ない大人」が増えて、子どもを育てることが出来なくなれば、必然的に人間は「人間としての能力」を失い、「人間」としての社会や、文化や、文明を維持することが出来なくなり、社会も国家も崩壊します。たとえ山ほどの知識を持っていても、コンピュータや様々な機械を使いこなす能力を持っていても、人々から「人間らしさ」が失われてしまえば、人間社会は崩壊し、それに伴い人類も崩壊するのです。そして、今確実に、その状態が進行しています。でも、多くの人がそのことに気付きません。なぜなら、「人間らしさ」を失ってしまった人たちには「人間らしさ」が見えないからです。そのため、それらが失われても見えないし、また、それらが失われることに対しても重要な意味を感じません。そのような人は、ただ競争することと、豊かになることと、享楽を得ることしか考えていません。そこにはただ「個人としての生活」があるばかりで、「創造」も、「つながり」もありません。虐待の増加も、自殺の増加も、その社会の変化の現れに過ぎません。でも、もうすでに「人間らしさ」が見えなくなってしまっている人は、「そんなもの昔からあった」「昔の方がもっと件数は多かった」などと言います。そのような人は、単に数量を比較することによってしか物事を見ることが出来ないのです。だから人間や事件を簡単に数値に変換して比較するのです。でも、そんなことをしてしまったら「人間性」など見えなくなってしまうのは当然のことです。ここで問われているのは「質の変化」であって、「量の変化」ではないのです。「憎しみによる殺人」も「死刑になりたいから人を殺した」という事件も、殺人件数としては同じ扱いになります。でも、この両者を、同じレベルで扱ってはいけないのです。「イジメ」も「いじめっ子によるイジメ」と「ゲームとしてのイジメ」を同じレベルで扱ってはいけないのです。「いじめっ子によるイジメ」は昔からありました。私が子どもの頃もありました。でも、集団で行う「ゲームとしてのイジメ」は私が子どもの頃には見たことも、聞いたこともありませんでした。「いじめっ子によるイジメ」には「責任者」がいます。でも、「ゲームとしてのイジメ」には責任者がいないのです。先日、この話をあるお父さんとしていたら、そのお父さんは「今のイジメも昔のイジメも同じだ」と言っていましたが、そのお父さんの「昔」と私の「昔」には20年の開きがありました。だから話がかみ合わなかったのです。この20年の開きが大きいのです。40代のお父さんは今時の子どもたちと同じ感覚なのです。ちなみに、「新人類」という言葉は昭和40年代生まれの若者たちの「不思議」を表すために生まれました。この世代は生活や社会が便利で豊かになり、地域や子どもの群れが消えてから生まれてきました。そして、今時の若者の感覚はもっともっと不思議です。先日テレビでやっていたのですが、今、働いてはいても「働きたくない若者」と、「実際に働いていない若者」の割合を合わせると50%以上だそうです。彼らの言い分は「指示・束縛されるのが嫌だ」というようなことです。また、やったこともないのに「僕はやれば何でも出来るから」という根拠のない自信を持っている若者も多いのです。実際にやったことがなければ出来るわけがないのですが、彼らはその現実と向き合ったことがないのです。これはうちの教室の子どもたちでも同じです。平気で自分の能力を超えた物を「作りたい」などというのです。でも、実際には説明しても理解できません。やらせても出来ません。「じゃあ、これを切って」というようにマニュアル的に指示すれば何とかやることもあるのですが、平気で「え、これ僕が切るの」と言ったり、「先生やって」「疲れた」「かったるい」「めんどくさい」という言葉を連発します。特に、男の子たちはいまみんなこのような状態です。「何やったらいいか分からない」と言うので、「こういうのを作ったらどう」と色々な提案をすると、「僕に指示しないで」とか、「何を作るかは僕の自由でしょ」などと言います。でも、実際にはそのままの状態が続くだけで、何も展開していきません。私が教室を始めた20年前にも、「つかれた」「かったるい」を言う子どもはいっぱいいましたが、「僕に指示しないで」とか、「何を作るかは僕の自由でしょ」などと言い返してくる子はいませんでした。これは新しい変化です。また、今の子どもたちは「自分の予想とは違う現実」と出会うと、それを乗り越えようとせずに、すぐに言い訳をして逃げようとします。実は、そのような若者は「現実世界での生き方」を知らないのです。「退屈なゲーム」は取り替えることが出来ますが、「退屈な人生」は取り替えることが出来ないのです。だから、自分の力で「楽しいもの」に変えていくしかないのです。それが「現実世界での生き方」なのです。でも、「現実世界での生き方」を知らない若者たちは、「この会社はちがう」「この人は違う」とお店で品定めをするように、あれこれ「おためし」を繰り返すばかりで、自分の力で状況を変えていこうとはしません。だから就職しても、大学に入学しても、結婚しても、すぐにやめてしまう若者が多いのだと思います。そして「僕は自由に生きたいんだ」などと嘯く(うそぶく)のです。でも、それが出来ないのが「子育て」の世界です。会社は辞めることが出来ます、結婚相手は変えることが出来ます。でも、子どもだけは変えることが出来ないのです。それでも、無理矢理、子どもを変えようとすれば「虐待」になってしまいます。「子ども」は何万年も前から同じ状態です。1万年前の三才児も、現代の三才児も基本的には同じ生態を持った生き物です。ですから、子どもを変えるのではなく、大人が子どもに合わせるしかないのです。そうしないとコミュニケーションが成り立たないからです。コミュニケーションが出来ない相手に対しては、子育ても教育も出来ません。でも、今時の若者たちは、その「相手に合わせる」ということが出来ません。そういう能力が育っていないのです。そして、逆に「相手に合わせてもらうこと」ばかりを要求します。幼い子どもに対しても、自分に合わせるように要求しているお母さんはいっぱいいます。そして、それこそが「人間らしさの喪失」なのです。「相手に合わせる能力」が育っていないから、助け合うことも、共感することも出来ないのです。そしてだから、成長しないのです。人間は相手に合わせようとすることで成長していくのです。でも「個性」や「自由」という考え方が大好きな現代人は、このような考え方には否定的な印象を持っているような気がします。
2012.10.06
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今日は、「にん2283」さんからの以下の質問に答えさせて頂きます。こんにちわ。わが息子 三年生は 失敗を怖がる、No.といわれるのを怖がり、友達関係に苦労してます。クラスに友達がいない、仲間には入れない、しかし、自分では 仲間はずれにされていると思っている…など、先生に言われました。とにかく 自信がなく、運動も出来ない子で 何をしてあげたら 自身がつくのか 途方にくれています。どうしたらよいのか直接お会いしていないので、確かなことは言えないんですが、文面から想像するに、息子さんは憂鬱質が強いのだと思います。「憂鬱質(ゆううつしつ)」というのは「気質」の分類の一つで、色々なことを先読みし、強い刺激や、変化を嫌うタイプのことです。他には「多血質(たけつしつ)」、「胆汁質(たんじゅうしつ)」、「粘液質(ねんえきしつ)」などがあります。ただし、これらは原色のようなもので、実際にはいくつかが混ざり合った状態で存在しています。この「憂鬱質」の子どもの特徴は、筋肉も弱く、感受性は高いのですが、行動力はありません。全てにおいて受け身的です。(ただし、大人の場合はそう簡単に言い切れません。)「気質」についての詳しい説明は、過去のブログをお読み頂くか、私が書いた冊子をお読み下さい。シュタイナー関係の気質の冊子は、どうもモデルが外人のようで、日本人のタイプとは異なっているように感じます。「気質」には国民性も影響しています。人間の諸能力をコンピュータ的に「入力能力」と「出力能力」というように分けると、「多血質」の人や「胆汁質」の人は出力能力に優れ、「憂鬱質」の人や「粘液質」の人は入力能力に優れています。そのため、「憂鬱質」の人や「粘液質」の人は、「多血質」の人や「胆汁質」の人に比べて、受け身的になります。でもこの違いは、能力の特性から来るものですから、そこに優劣はありません。そして、「多血質」の人や「胆汁質」の子どもは、成長と共に「憂鬱質」や「粘液質」的な能力を育てていく必要があり、「憂鬱質」の人や「粘液質」の子どもは、「多血質」や「胆汁質」的な能力を育てていく必要があります。ただしそれは、今の気質を否定することによってではなく、今の気質の要求を充分に満たしてあげることで可能になります。たとえば、親離れできない子は、小さい時に充分に抱かれてこなかったり、お母さんから遠ざけられてきた子です。お母さんの中には、小さい時にあまり抱いていると抱き癖が付いて、離れなくなると思い込んでいる人がいますが、現実はその逆です。小さい時に充分に抱いてもらえなかった子が、いつまでもお母さんの愛情を求めて、お母さんから離れることが出来なくなったり、親子の愛情関係がこじれてしまうのです。子どもは満たされることで次の段階へと成長していくことが出来るのです。生命の働きがバランスを取るように働きかけるからです。気質の成長においても、これと同じ原理が働いているのです。子どもの頃の気質は偏っていますが、その気質の欲求を満たしてあげていると、次第に自分に足らない気質に目覚め始め、他の気質の要素も身につけ始めるのです。でも、子どもの頃にその気質を否定され、別の気質を押しつけられていると、いつまで経っても、その気質の枠の中に閉じ込められたままになってしまうのです。「にん2283」さんの息子さんの状態は、憂鬱質の状態のようですから、まずその状態を肯定してあげて下さい。親としては「このままの状態で大人になったら困る」と思い、その状態を否定して多血質的、胆汁質的な要素を子どもに求めたくなりますが、でも、それをしてしまうと、逆にいつまでもその状態から抜け出ることが出来なくなってしまうのです。そうではなく、「このままでいいんだよ」とそのままの状態を受け入れ、そのままの状態の息子さんを愛してあげて下さい。そのことで息子さんは自己肯定感と自信を得るでしょう。そして、自己肯定感と自信を得ることで活動的、能動的な能力が目覚め始めるのです。ただし、結果が出るのは思春期になってからですから、気長にお待ち下さい。それは、「自覚」というものが目覚めるのが思春期になってからだからです。その「自覚」が目覚めた時に「自己肯定感」が育っている子は、自分で自分を変えようとするのです。でも、「自己肯定感」が育っていない子は自分の殻の中に閉じこもります。子育てで一番大切なことは「自己肯定感」と「自信」を育ててあげることなのです。そしてそれは、共感し、寄り添ってあげることによってしか育てることが出来ないのです。追い立ててしまったら、子どもは無力感と虚無感ばかりが強くなってしまいます。
2012.10.05
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私が今のような活動を始めた20年ぐらい前は、多くの人たちが、教育や子育ての分野において、「このままではいけない」と感じ、新しい教育、新しい学校を作ろうと、熱心に活動していました。その頃から、子どもや親や社会の状態がどんどん悪化し始めていたのです。どう悪化し始めたのかというと、大人も子どもも「人間としての生き方」を失い始めたのです。そして、目先の欲に振り回されるようになってきました。(その辺の状況は鳥山敏子の本に色々と書かれています。)そのような状況に危機感を覚えた人たちによって「シュタイナー学校を作ろう」とか、「新しい教育」を求める運動が起きました。鳥山敏子も宮沢賢治の思想に基づく「賢治の学校」をつくろうと活動していました。でも今、そのような熱は過ぎてしまったようです。私の目から見たら、学校の状況も、子育ての状況も、子どもの状況も、20年前よりさらに困った状態になってしまっているのですが、そのことに問題を感じる人たちも減ってきています。だからそのような状態が進行しているのでしょう。今では、シュタイナー学校も、「R.シュタイナーの思想に共感して」というのではなく、ただ単純に「うちの子は普通の学校では適応できないから」というような理由で選ぶ人が多いような気がします。シュタイナー学校だけでなく、「子どもの自立精神を育てるために、競争を求めない教育」を柱としているような学校には、普通の学校には適応できないような子ばかりが多く集まる傾向があるような気がします。これは幼稚園や保育園でも同じです。ある自由を大切にする幼稚園で、子どもたちの状態を調べてもらったら、他の園よりもかなり高い割合で発達障害系の子が多かった、という話も聞いたことがあります。それは、自由保育に共感して自由保育の幼稚園を選んだのではなく、一斉保育が困難な子だから、自由保育の幼稚園を選んでいる人が多いということです。それはそれでしょうがないことなのですが、そのため、その学校(幼稚園)本来の教育方針に基づく教育も困難になってしまっているのではないかと思われます。さらに、学校に行っても、その園の卒業者は他の園の卒業者よりも高い割合で、学校に適応できないでしょう。もともとそのような素質の子が自由保育の園を選んでいるのですからそれは当然予想されることです。でも、そのことがまたその園の評判を下げていきます。そして先生は「だから自由保育はダメなんだ」と言うでしょう。20年前、「新しい学校を作ろう」と活動していた人たちにとって、学校とは「教育を行う場」でしたが、現代人にとっては「学校」は単に「勉強を教える場」であり、「行かなければならないところ」になってしまっています。学校から「教育」が失われてしまっているのです。それどころか、先生たちもまた、学校を「子どもを教育する場」とは考えなくなってきています。今では、学校はただ「勉強を教える場」に過ぎなくなりました。親も、幼稚園や学校に「教育」を求めず、ただ単に、しつけや、能力開発や、お勉強を求めるばかりです。そして、それが「教育」だと思っています。「人を育てる」という意味での「教育」が、理解できなくなってしまっているのです。そこで今度は、橋下徹のような人が、学校を国家的な価値観を教える場にしようとしています。本来は、教育現場はそのような上からの圧力に断固として抵抗しなければならないのですが、今の日本の教育現場にはそのような雰囲気は皆無です。それは、先生たち自身も、自分の思想や生き方を大切にしなくなってしまったかからだと思います。忙しすぎる日常業務や、親や上司が先生を評価するシステムは、教育熱心な先生の「やるき」までも奪ってしまうのです。経済界の人たちや政治家たちも、思想や生き方を大切にする価値観を失い、目先の事ばかり考えています。だから大局的な視点で判断を下すことが出来ないのです。国家や民族の土台は教育にあります。教育が崩れてしまったら、国家も民族も崩れてしまうのです。でも、日本の政治家にはその危機感がありません。それに、現代人は教育の場に「勉強以外のもの」を持ち込むことを嫌うようになってしまっています。子育てでも、「ハウツー」ばかりを求め、「生き方」を求める人は少ないです。でも、勉強しか教わってこなかった人は、どんな成績優秀でも、自分の人生を「自分のもの」として生きることも、結婚してから夫婦で助け合うことも、子育ても出来ないのです。ちなみに「教育」とは子どもの可能性を広げてあげる行為です。能力を特殊化させたり、特定の価値観を押しつけることではなく、自分の頭で考え、自分の感覚で感じ、自分の意思と責任で行動することが出来る能力を育てることです。また、幸せを創造することが出来る能力を育てることでもあります。
2012.10.04
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人は無意識化されているものを意識化するだけで、変わっていきます。岡島瑞徳先生から整体を学んでいた時、先生は「背骨の曲がりのようなものは、本人がそのことを感じることが出来るようにしてやれば、自然と治るものです」とおっしゃっていました。もちろん、それは本人が治したいと思っている時に限るでしょうけど、人は意識することが出来る対象なら、意識の働きで働きかけ、変えることが出来るのです。つまり、自分で自分を治すことが出来るのです。たとえば、「貧乏揺すり」のようなものは無意識的な動きですから、自分の意思でそれを止めることは困難です。周囲の人が注意しても、お母さんが叱っても、止まりません。でも、足に鈴を付けて、足を揺すり始めたら音が鳴るような仕掛けを作っておけば、無意識的な動きを意識で感じること出来るようになります。すると、次第に貧乏揺すりは消えていきます。これは子どもの「困った行動」を改善するのにも使えます。子どもが他の子をぶったり、突き飛ばしたりするような困ったことをすると、多くのお母さんは突然叱ります。でも、子どものそのような行動は、ほとんどの場合、無意識的なものなので、お母さんに叱られても、子ども自身にもどうしようも出来ません。気付いたらぶっていて、気付いたらお母さんに叱られていた、ということの繰り返しなんです。そんな時は、いきなり怒るのではなく、注意して「イエローカード」のようなものを出すのです。そして、3枚イエローカードが集まったら、その時点で叱るのです。ちなみにこれは「たとえば」という話であって、別にこの通りでなくても構いません。また、「イエローカード」とか、このようなルールが理解できない子の場合は、この方法は使えません。そんな時は、お子さんやその場の状況に合わせて、自分なりに工夫して下さい。 このような方法によって、子どもは自分の行動を意識化することが出来るようになります。カードが二枚集まったら、次は叱られると思えば、普段以上に注意します。それでも、やってしまうのが「子ども」ですが、その時も強くは叱らないで下さい。強く叱ってしまったら逆に問題は解決しなくなります。この方法のポイントは、子どもが「自分がやったこと」を自覚できるようになればいいだけなのですから、軽く叱るだけでいいのです。そんな時は、上から大きな声で叱るのではなく、近くにより、からだに触れながら、子どもと目線を合わせ、そして静かに叱って下さい。子どもはそれだけで「自分が悪いことをした」ということを知ります。そして、この方法をやっていると、お母さんの怒りも爆発しなくなるのです。実は、この「イエローカード」はお母さんへのイエローカードでもあるからです。それと、これは非常に重要なことなのですが、全てのことには必ず原因があります。子どもの問題行動にも、お母さんの問題行動にも必ず原因があります。その原因にも「きっかけとしての原因」と、より「根本的な原因」があります。子どもの一挙手一投足にイライラしてしまうお母さんは、「子どもが手を洗わない」「子どもが言うことを聞かない」などと言うことを、「自分が怒る原因」としてあげるでしょう。でも、それは単なる「きっかけ」に過ぎません。その怒りの本当の原因は「子どもの側」にではなく、「お母さんの側」にあるのです。なぜなら、子どもは常に子どもらしく感じ、考え、行動しているだけですから。それを受け入れることが出来ないのは大人の方の問題なのです。ですから、上に書いたような方法を実践する場合には、同時にその「本当の原因」を探る努力も必要です。イエローカードのような方法は、自分が抱えている問題への気づきにもつながると思います。
2012.10.03
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人は自分で「自分」を直接変えることは出来ません。なぜなら自分で「自分」を直接見ることが出来ないからです。人は見えない相手を変えようがないのです。自分の意識を変えることが出来ないのも、意識は「他者」を意識するための道具であって、意識で「自分の意識」を直接意識することは出来ないからです。でも、鏡を使ったり、他の人の意見を聞いたりするような形で、一回「他者」を介することで間接的に「自分」を見ることが出来るようになります。ですから、他者を上手に介することでなら「自分」を変えることが可能になります。それは、直接、自分で自分を持ち上げることは出来ないが、機械を使ったり、何かに捉まったり、誰かにお願いすることでなら、間接的に自分を持ち上げることが出来るのと同じです。ですから人は、お化粧をする時には鏡を使い、また、自分を変えようとする時には人の意見を求めるのです。よく、「自分のことは自分が一番よく知っている」というようなことを言う人がいますが、実はあれは間違いなのです。確かに「自分しか知らない自分」はあります。でも、「自分には分からない自分」もあるのも事実なのです。だから人は苦しみから抜け出すことが出来ないのです。ですから、自分を変えようとする時には「他者」をうまく使う必要があります。スポーツ選手は自分のフォームを直すためにビデオなどをよく使います。芸術家は、自分の作品と対話することで自分を知ります。昨日書いた「言葉」を使う方法もあります。自分が自分の師匠になったつもりで、自分に必要なことや、自分がやるべきことを書き出して、それを読むことでも自分を変えることが出来ます。また、子どもの視点に立って自分を見つめ、必要なことを考えるのも「他者」を利用する方法です。これをすると、子育てや教育が改善されます。気質が異なる人の視点に立って自分を見直してみる、という方法も出来ます。憂鬱質の人には胆汁質はどのように見えているのか、ということを考えてみることで、自分の欠点に気づき、直すこともできます。このように、「他者」をうまく使うのです。でも、そのためにはまず他者に対して謙虚になる必要があります。人類に今一番必要なのも、この謙虚さです。「自分が一番偉い」とか「自分のことは自分が一番よく知っている」などと思い込んでいるから、道を誤るのです。植物や動物や地球から人類はどのように見えているのかという視点を失ってしまっているから、自分たちの間違いに気付かないのです。****************11月22日(木)に「自分の心を取り戻そう」(心とからだの深呼吸)というワークをやります。時間は10:00~15:00参加費は3000円 会場は茅ヶ崎市民文化会館4F 「練習室4・5」(和室)です。申し訳ありませんが保育はありません。お問い合わせ、お申し込みは「ここ」までお願いします。
2012.10.02
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人間の成長には食べ物だけではなく、言葉も必要です。人間以外の生き物は基本的に食べ物だけを与えて、適当な運動をさせていればちゃんと育ちます。でも、人間だけが、さらに「言葉」も与えてもらえないと成長しないのです。それは「心の育ち」だけでなく、「からだの育ち」においても同じです。(実際、そういう資料があるのです。)ただし、「言葉を与える」ということは単にテレビなどで言葉を聞かせるということではありません。「ちゃんと目を見て話しかける」ということです。ですから、テレビばかり見せて話しかけない子育ては、子どもの成長を阻害するという意味では「虐待」と同じです。「ゲーム漬けの子育て」も「虐待」です。たとえ本人が喜んでいても、その本人の成長を阻害するものを与え続けているなら虐待なのです。「言葉」には不思議な力があります。それは「子どもの育ち」を支えるだけでなく「自分自身の育ち」も支えてくれます。人間がこの世界を認識できるのも、自分自身を認識できるのも、また「意識」というものを持つことが出来るのも「言葉」のおかげです。だからこそ私たちはしっかりと言葉を守り伝えていかなければならないのですが、そのことは先日書きました。今日は、「言葉」の別の働きについて書いてみます。「ゆっくり歩いてみて下さい」といわれて、ゆっくり歩くことが出来る人は「ゆっくり」という言葉を心の中で保持できる人です。でも、子どもでも大人でも、最初はゆっくりなのですが、すぐにそのことを忘れて早くなってしまう人がいっぱいいます。そのような人は、目の前の感覚に振り回されることで「ゆっくり」という言葉を忘れてしまうのです。そんな時は「ゆっくり」という言葉を自分に言い聞かせるように動くと早くなりません。その時、面白いのは無理にゆっくりしようとしなくても、「ゆっくり」という言葉を意識しているだけでそれなりに「ゆっくり」を維持できるのです。「言葉」を保持することで意識を維持することが出来るからです。無意識の状態に入ってしまうから無意味に早くなってしまうのです。ですから、何か「苦手なこと」をやらなければならないような時は、「ガンバレ」とか「丁寧に」などと、自分で自分に言い聞かせながらやると、うまく出来る確率が高くなります。からだがすぐ固まってしまうような人は「ゆるめる」という言葉を忘れないようにして、自分に言い聞かせていると、次第に固まる癖が抜けていきます。「ゆるめよう」とする意識だけではだめなんです。意識は常に一つのことしか対象にすることが出来ません。ですから、「ゆるめよう」と意識している時にはいいのですが、「さあ、洗濯物を片付けよう」と思ったとたんに、その「ゆるめよう」という意識は消えてしまうのです。逆に、「ゆるめよう」と意識したままでは、洗濯物を片付けることが出来ません。でも、「ゆるめる ゆるめる」と言いながら洗濯物を片付けることは出来ます。これは心の中で繰り返してもOKです。自分を変えたいと思う人は、そのことを具体的に考え、自分に言い聞かせるような言葉を考えて見て下さい。意識や想いを言葉化し、それを自分に言い聞かせることで、自分が自分自身の教育者になることが出来るのです。ただ思っているだけではなかなか変わらないものです。
2012.10.01
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