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昨日、レイトショーで『スリー・ビルボード』を観ました。ので、軽く心覚えをつけておきましょう。以下、ネタバレ注意ということで。 アメリカ南部ミズーリ州のエビングという田舎町で、若い女の子がレイプされた上燃やされるという、ひどい形で惨殺されるんですな。しかし、事件から数カ月経って捜査は行き詰まり、何の進展も見られない状況の陥っている。 で、そのことに業を煮やした被害者の母、ミルドレッドは思い切った行動に出ることにします。自宅近くの道沿いに立っている3つの大看板を借り、そこに「女の子が惨殺されたというのに」「まだ犯人逮捕できないなんて」「ウィロビー警察署長は一体何をやっているんだ」という広告を出したんです。一般人が、地元の警察署長を相手に挑発したわけ。 で、これがエビングの町にひと騒動を巻き起こすことになる。 アメリカ南部の田舎町というのは、今日なお超保守的なところで、白人による黒人への人種差別がはびこり、またゲイに対する差別も激しい。で、そんな町の警察署といったら、もうそんな差別主義者の集まりみたいなところで、警察官たちは黒人やゲイに対する不当な嫌がらせや暴力行為が日常的に行なっている。そんな連中のトップに対して、一人の女性が盾突いたとなったらもう、警察からの猛反撃が来るのは目に見えている。 だけど、その警察に盾突いたミルドレッドという女性、これがまた肝の座った女で、そんなこと最初から分かった上での抗議行動だったんですな。で、この広告を出してからというもの、警察の連中のみならず、保守的な町の人々が一斉にミルドレッドに反感を抱き、何かと嫌がらせをするようになる。 しかし、そんな彼女の味方になってくれる人も少しはいる。 で、驚いたことに、彼女の一番の味方になってくれたのは、ミルドレッドが抗議のターゲットにしたウィロビー署長だったと。 実はウィロビー署長という男は大した奴で、良き夫、良き父親にして、良き警察官だったんです。人種差別、ゲイ差別うずまく警察署の中にあって、署員たちの暴走を一人で押さえ、かろうじてバランスをとりながら、町の平安を保っていた、そういうヒロイックな人物だったんですな。で、その人徳によって、彼は町の人からも警察官たちからも慕われていた。 しかも彼は今、すい臓がんに冒されていて、先が長くなかった。そのことは警察署の連中はもとより町の人たちも知っていて、気の毒がっていたんですな。 そんなウィロビー署長に、ミルドレッドは盾突いちゃったんですよ。「誰かが責任を取らなければならない。そして責任を取るのは、立場上、ウィロビー署長しかいない」というわけで。 だから、警察官たちや町の皆がミルドレッドに反感を持つようになるのも、ある意味、無理もないわけ。そしてその人たちがミルドレッドに嫌がらせをするのを、かろうじて防いでいるのがウィロビー署長その人、という妙な構図が続くことになる。 が! ここでさらに進展があります。ウィロビー署長は、自分が衰えていくのを家族に見せたくないという思いから、自殺しちゃうんですな。 ウィロビー署長の死は、ミルドレッドからの非難とは関係がないのですけれども、彼の死によって抑えが効かなくなったため、ミルドレッドは一層、町の人たちからの村八分に会い、さらに警察官たちからの嫌がらせも激しさを増すようになります。 特にディクスンという警察官は、もともと差別主義的な最低の警察官だったのですが、ウィロビー署長だけは尊敬していて、彼の言うことだけは聞いていた。なのに、そのウィロビーが死んだとなると、ディクスンのミルドレッドへの憎しみは野放図になってくる。 一方、ミルドレッドの方にも色々事情があります。 彼女の娘が殺された日、彼女はたまたま娘と親子喧嘩し、娘に車を貸してやらなかったんですな。そのため、娘は歩いて出歩くことになり、そのため、殺されることになってしまった。だから娘が死んだ責任は自分にある、と思っているところがある。 それだけでなく、DVで離婚した夫に、なんと19歳の恋人ができたということも、彼女のプライドをずたずたにしているわけ。ミルドレッドは強い女性ですから、他人に弱みは見せませんが、内側では人並みに、いや、人並み以上に悩みがある。もちろん、ウィロビー署長に対して自分がとった行動だって、反省していないはずはないんです。だけど、それでも死んだ娘の仇は取る、犯人にオトシマエをつけさせてやるという一念だけで、気を張って生きている。 さてさて、この先ミルドレッドは、娘の仇をうてるのか? ディクスンをはじめとする警察や町の人たちのミルドレッドに対する反感は、どこまで暴走するのか?? ・・・・ってなお話し。 なんか、陰鬱な話に聞こえるでしょ? ま、確かに陰鬱な話ではあるんですが、不思議なことに、映画全体の印象としては、そこまで暗くはないんだなあ。ウィロビー署長の温かみもそうだし、ウィロビー署長の後を引きついだ黒人署長の存在もいい。ミルドレッドの勇気に賛同して広告を出すのを手助けしてくれた人たちの存在もある。ミルドレッドに片思いをしている小人の男のいじらしさもある。 また、ミルドレッドの大胆な行動自体、どことなくコミカルな感じもある。陰惨なんだけど、どことなくおかしみもあるという。 そして、最後の最後では、思ってもみない展開になるんですが、その新展開もちょっと面白い。アメリカ映画らしく、最後はロードムービー的なエンディングになるんですが、その場面もちょっとだけほんわか。 というわけで、この映画、万人受けはしないかも知れませんが、観て後悔するようなものではありません。ワタクシ的には、「77点」と言って置きましょうかね。 ところで、この映画の芸の細かいところを一つご紹介しておきましょう。 この映画の中で、ミルドレッドに看板を貸す広告業者のレッド・ウェルビーという若者が本を読んでいるシーンが出てくるのですが、その本が、なんと、アメリカ南部の女流作家、フラナリー・オコナーの小説なんです。 フラナリー・オコナー! 私が専門に研究している作家じゃありませんか。 フラナリー・オコナーの小説世界というのは非常に独特で、結構、暴力的な短編も多いのですが、暴力的でありながら、コミカルでもある。 で、この「暴力的であり、かつコミカルである」というところが、まさにこの映画全体の雰囲気でありまして。 しかも、オコナーの代表作のタイトルって、『善人はめったにいない』ですからね。この映画は、まさにその、めったにいない善人を探す映画なんですから、よくもまあレッド君にオコナー作品を読ませる設定にしたなと。 この映画を観た人の中で、レッド君が読んでいるのがオコナー作品だと気付き、しかもそのオコナー作品の何たるかをよく知っている日本人がどのくらい居るのか分かりませんが、そういうところまで見切ってから評価しないといけない映画なんじゃないかなと、まあ、そんな風に思う次第なのでございます。
February 28, 2018
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今日も今日とて論文書きなのですが、書いている内に一つ、疑問点が浮かんで参りまして。 アメリカの自己啓発本の研究をしておりますと、自己啓発本の多くが聖書を引用することに気が付きます。と言うのも、聖書の中に「人は、自分の心で思っているようなものになる」という一文があって、これが自己啓発思想のバックボーンになっているからでして。 では聖書のどこにこの一文があるかと言いますと、『箴言』の23章7節にあるということも分かっている。『箴言』というのは、かのソロモン王の格言集ですな。 で、その23章7節は英語ではどう書いてあるかと申しますと、欽定訳ですが、 For as he thinketh in his heart, so is he: Eat and Drink, saith he to thee; but his heart is not with thee. とある。この前半部が「人は、自分の心で思っているようなものになる」のオリジナルでありまして、イギリスのジェームズ・アレンが書いたベストセラー『「原因」と「結果」の法則』の原題である『As A Man Thinketh』というのは、もちろんこの箴言から採られているわけ。 ま、それはいいですわ。問題はここから。 上に述べたようなことは私も知っていたので、論文にその旨を記し、出典は『箴言』の23章7節だよ、と書いたんですけど、一応、聖書の日本語訳でこの部分はどう訳されているのかしら? と思って、口語訳を参照してみたわけ。すると・・・ 「彼は心のうちで勘定する人のように、「食え、飲め」とあなたに言うけれども、その心はあなたに真実ではない」 と書いてあった・・・。 はあ? 何コレ? 「勘定する人のように」って、一体何のことじゃ? で、前後の文脈を見ると、「ケチな奴の家でご馳走出されても、そんなものむさぼり食ったらいかんぜよ、ろくなことにならんぞ」という話の流れの中での、この一節なんですな。 つまり、この文脈の中での「as he thinketh in his heart, so is he」という文は、「腹黒いことを考える奴は、腹黒い」という意味で取るべきものだったと。ということは、この文、かなりネガティヴでございます。 あら~。じゃあさ、じゃあさ、著名な自己啓発ライターたちが、「考えたことは実現する。なりたい自分になれる」というポジティヴな意味でこの箴言を引用してきたのは、間違いだった、ってことになるんじゃないすか? いや、ネガティヴかポジティヴかの違いはあるけど、「腹の中で思っていること、それがその人だ」という意味では同じだから、いいのか・・・。 ひょっとして、あれかな。自己啓発本のライターってアホが多いから、「聖書の『箴言』にこう書いてある」って誰かが書けば、「おお、ソロモン大先生が自己啓発思想にお墨付きをくれた~! やった~!」って思って、『箴言』そのものはチェックせずに、一つ覚えで「人は、自分の心で思っているようなものになる(と、聖書に書いてある)」という部分だけを繰り返し引用しているんじゃないかな。 だけど、『箴言』のこの部分を引用している連中の中には、ノーマン・ヴィンセント・ピールとかロバート・シュラーみたいな聖職者もいるよ。さすがに聖職者であれば、『箴言』だって一度くらいは読んだことがあるんじゃないのかねえ。・・・なかったりして。 ま、今、私が書いている論文は、特にこの部分を問題にしているわけではないのですけれども、自己啓発業界で超有名な「as he thinketh in his heart, so is he」の一文の文脈が分かって、一つ賢くなったワタクシなのでした。
February 27, 2018
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前期二次試験も終り、ホッと一息。ということで、今日の夜は外食することに。 家内と私が向かったのは、歩いて行ける家の近くの焼き鳥屋さん。そう、毎年2回、前期と後期の授業が終った頃、ささやかなお疲れ様会をここで開催するのでありまーす。こういう時、あえて洒落乙なところに行かないところがいいのよ。シークワーサー・サワーとか、そんな感じの酎ハイを飲みながら、焼き鳥の串を頬張るのがいいんだなあ。 で、ちょっとのお酒で酔って、いい気分で歩きながら家に戻る途中、本屋さんに立寄るのがまた楽しみで。 で、あれこれ立ち読みを楽しんでいたのですが、新書の売れ筋コーナーでは今巷で話題の『バッタを倒しにアフリカへ』とか、『妻に捧げた1778話』とかをチラ読み。どちらもなかなか面白そう。 だけど、両方とも買わないの。なーんでだ? いや、買ったっていいのだけど、どちらもベストセラーでしょ。何十万部と売れるわけだ。するってーと、いつかはブックオフなどの古本屋に出回ることになる。 そこで、そうなった時点で108円で買う。これを狙っているわけね。つまり「ブックオフ要員」として、「買いまキープ」するわけだ。 なんか最近、売れ筋の新書を新刊で買う気が失せちゃった、ってこともあるのだけど、そういう風に「108円になったら買うぞ」というリストを作っておくと、この先ブックオフに行くのが楽しみになるじゃん? 読みたい本を全部新刊で買ってしまったら、古本屋に行く楽しみが無くなるのでありまして。 そういう余地を残しておきたいわけよ。なーんつって。 古本で買うと、印税が著者のところに行かないから、本当はそういう買い方はよろしくないのだけど、まあ、ベストセラーなんだから、私の買った分の印税なんて別にいいでしょ。と、勝手に思い込む。 というわけで、今日はおいしい焼き鳥と、いつかブックオフで買う本の品定めをして、大いに楽しんだワタクシなのであります。
February 26, 2018
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本日から国立大学では前期二次試験が始まりまして、今年、入試委員を仰せつかっている私は、あれこれ忙しく対応しておりました。 まあ、あちこちの大学で出題ミスとかやらかすもんだから、上からの締め付けがすごいのよ。うちも神経ピリピリで、事前にえげつないほど問題チェックをさせられた揚句、今日も試験開始と同時に別室で大学院生に問題を実際に解かせたりして、出題ミスがないかどうかのチェックでおおわらわ。 だけどそういうことで疲弊しきっているせいか、色々なところでポカが横行しております。 そいでもって、肝腎の受験生の出来はというと、これまた年々下がる一方というね。 なんか知らないけど、大学側も受験性側も情けない感じよ・・・。トホホ。 ところで、試験が終れば採点ということになるのですが、採点作業ってのはすごく疲れるので、途中のおやつが重要になってきます。カー娘でいうところの「もぐもぐタイム」ですな。 で、今日は、そのもぐもぐタイムにおいしいおまんじゅうが登場したのよ。「いがまんじゅう」というものなんですが。 「いがまんじゅう」というと、伊賀地方のおまんじゅうのことかと思うじゃん? ところがさにあらず。これは愛知県は三河地方の名産なんですって。大体毎年、お雛様の頃に市場に出回るものなのだそうで。これこれ! ↓これが「いがまんじゅう」だ! この、おまんじゅうの上に乗っている、色で染められた米粒が独特の食感をもたらして、実に旨い。私も愛知県に居を移して四半世紀ですけれども、今回、初めて食べました。 知らないことって、沢山あるね。 とにかく、いがまんじゅう、教授のおすすめ! ということで。愛知県外の方はお取り寄せでどうぞ!
February 26, 2018
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今日も朝から論文書き。大分いい感じになって参りまして、完成まで秒読み段階。 だけど、自分の原稿を何度も見直していると、自分の文章上の「癖」に気付かされます。 私はね、「~という~」という言い回しを多用しすぎるのが悪い癖なの。 例えば、ついうっかりすると、 引用ということに関して言えば、自己啓発本というのは、過去の文献からの引用に重きを置く文学ジャンルであって、(中略)自己啓発ライターというものは、先行する自己啓発本に依拠しがちなであり、その意味で自己啓発本というのは、「引用文学」と定義づけられるものなのである。 ・・・などと書いてしまう。 上の文章で「という」が何度現われたか分かる? こんな短い文なのに4回も出てくる。 これじゃいかん! ということで、文章の推敲の過程で、この種の癖を徹底的に洗い直し、削れるだけ削って、もっとすっきりした文章にするわけね。 ま、癖があるのはまずいけど、癖があるということを自覚して、直す意志があるだけマシでしょ? その他にも私の文章には色々癖があって、ある意味、すごく個性的なわけ。 で、私はこの「個性的」というのがすごく良くないことだと思っていて、推敲の過程で、とにかく個性を消すことに徹しております。個性こそは我が不倶戴天の敵。本当に鼻持ちならないモノ。デオドラントで消し去りたい体臭みたいなモノ。 逆に言えば、私の目指す文章というのは個性がまるでない文章、クリスタル・クリアな文章なのね。 で、可能な限り個性を消して無個性な文章を目指すのですけど、それでも人が私の文章を読むと、すぐ分かると言います。ま、それが私の個性なんですけどね。 だから、私は「個性を伸ばす教育」とか人が言うのを聞くと、何言っているのか全然分らない。逆よ、逆。「個性を消す教育」こそが真の教育。教育して個性を殺しまくって、それでも残るイヤな滓が個性というものでありまして。それを伸ばしてどうする。 書道だってそうでしょ? 書道を習わない人は、元々個性的な字を書くものなの。書道を習うというのは、その個性的な字を、無個性で美しい字にするためでしょうが。教育ってのは、そういうもの。それでも、個性の力は強いので、最終的には教育の力をも陵駕するわけですが。 とにかく、今、私は自分の個性を片端から抹殺しながら、美しく心地よい文章に仕上げるために、孤軍奮闘しているのでございます。
February 24, 2018
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今日は研究日でお休みだったので、一日論文書き。大分煮詰まって来て、完成まであと一息というところかな。 で、ゴールが見えてきてホッとしたこともあり、夕方、ちらっとお買いものに出ました。向ったのは、ユニクロさん。 今年の冬があまりにも寒く、普通のヒートテックでは寒さを防ぎきれないということで、「極暖ヒートテック」の長そでシャツを買おうかなと。今朝、広告が入っていて、ちょっと安くなっているようだったので。 ・・・と思ったのですが、実際に行ってみるともうMサイズがほとんどない。あるのはSとXLばっか。まだまだ寒いですけど、暦的にはそろそろ春モノが主体となる時期なので、冬物衣料は在庫処分的な感じなんでしょうかね。 それでもMサイズのシャツを辛うじて1枚見つけ出し、ゲット! 良かった。 ところで、寒がりの私、この時期になってもまだ、外出時にはホッカイロ的なものを下着に貼り付けておりまして。ちょっと爺臭いね・・・。 で、その爺臭い「貼るホッカイロ」なんですけど、実は私には一つ要望があります。 どの会社製のホッカイロもそうなんですけど、服に貼り付けると、全面隙間なくビタ――っとくっついてしまって、剥がす時にすごく剥がし難いのよ。だから、洗濯しようとホッカイロを剥がす時、すごく苦労する。 あれさあ、ちょっと「耳」的なものをつけて、その耳を引っぱれば簡単に剥がすことが出来るようにしたらいいんじゃないの? 今のところ、どの会社製のホッカイロも剥がし難いので、もしこれで「楽に剥がせます」的なのを作ったら、他のライバル会社の製品を出し抜くことが出来るのではないでしょうか。 これ、我ながらいいアイディアだと思うのですけど、どう? 桐灰さん、白元さん、KOWAさん、アイリスオーヤマさん、ライバルを出し抜きたいなら、釈迦楽のアドバイスを受け入れてみない?
February 23, 2018
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うちの大学、執行部が何を血迷ったか、今年度から夏休みを3ヵ月に伸ばし、その代わりに春休みを1ヵ月に短縮したので、この時期に至ってもまだ授業やっているんですよね・・・。入試やら何やらで忙しいこの時期、通常の授業もやらなくてはならないのですから、もう大変よ。 でも、とにかくそろそろ期末試験の季節にはなっていて、今日は一つ、アメリカ文学史の期末試験をやって参りました。そう、例の「今年度で終了となる授業科目」なんですが。 で、その答案を見ると、結構、多くの学生が、解答の後に授業の感想なんかを一言書いてくれておりまして。でまた、その感想が泣かせるのよ。曰く、「お世辞ではなく、先生の授業は面白くて、90分がいつも短く感じられました」とか、「先生のアメリカ文学愛が伝わってきました」とかね。「3年になっても、先生の授業、絶対に取ります!」とか。 うう・・・(涙)。君たち、いい学生だね! そんなこんなで今日はちょっといい気分だったのですけれども、もう一つ、今日、ちょっと気分が良かったのは、私が今やっている研究がそこそこ注目されているのではないかという手ごたえを得たこと。 私は今、アメリカの自己啓発本の研究をやっているわけですけれども、ウィキペディアの自己啓発書関連の項目の幾つかに、私の紀要論文が参照されていることに気付いたんですわ。 研究者なんて、論文が引用・参照されてなんぼのものですからね。 それにしても、地方大学の、しかも大学の紀要ではなく、科の紀要に書いた論文であっても、誰かが読んでいて、ウィキペディアに載せてくれるんだと思うと、ちょっと嬉しくなるというもの。 ま、私はこの分野では日本の第一人者だからね! っていうか、日本で私一人しか研究していないから、どうしたって第一人者になっちゃうんですけれども。一応「社長」だけれど、社員は自分一人だけ、みたいな感じ? でも、それでもやっぱり社長は社長、第一人者は第一人者だからね。誇りを持とう。 というわけで、研究面と教育面、両方でちょっと成果が出たかな? 的な一日となったのでありました、とさ。今日も、いい日だ!
February 23, 2018
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マルクスの主著、読んじゃった! これ、すごいわ・・・。 ん? 何? 「今頃『資本論』を読んだのか?」ですって? 何言っちゃってんの! 私はそんな蓮っ葉な小者の本のことなんて言ってませんよ! マルクスはマルクスでも、カール・マルクスじゃなくて、マルクス・アウレーリウス・アントーニーヌスの方。ローマ帝国の皇帝(在位161-180年)。で、その皇帝の書いた『自省録』を読んだって話。 しかし、今から1800年以上も前のローマ皇帝の手記が、日本語で読めるんだよ? このこと自体、すごくない? で、実際、この本の内容も素晴らしいものでした。 ちなみに、なんでアメリカ文学畑のワタクシがローマ皇帝の著書を読んだかと申しますと、この本ね、実は聖書と並んでこの世の最初期の自己啓発本と見なされているのよ。だもので、自己啓発本の研究者としては是非とも読んでおかなければならない文献の一つなんです。むしろ読むのが遅きに失した、ってな感じ。否、勉強に早いも遅いもないよね。読むべきものを読む、それだけですわ。 で、この本でマルクスが・・・皇帝のことをファースト・ネームで呼び捨てにするのも若干気が引けるので「陛下」って言おうか・・・この本で陛下がおっしゃっているのは、宇宙や自然のありようの肯定です。陛下はキリスト教にはあまり理解がなかったようなので、陛下の言う「神々」というのは、もちろん、キリスト教の神のことではないのですが、とにかくそういう創造主の神々がいると仮定して、その神々がすべてうまいこと塩梅して宇宙や自然を作っているわけだから、それに何の不満も抱くべきではないと。 たとえば人間は死ぬと。だけど、そんなこと、なんてことない。なんとなれば、すべては神々の、そして宇宙の計画通りだから。人間というのは「全体の一部」(54ページ)であって、もともと宇宙内に存在した原子が組み合わさって人間となり、それが死んで原子に返り、それがまた次の命をはぐくむようになっており、そうして万事がうまく回っていくのだから、死というものに対して何も不満もないし、恐れるべきこともない。 それに、人間の世界なんて、大昔も同じ、これから先も大して変わりもしないのだから、この世に10年生きていようと、100年生きていようと、観るものは全部おんなじだと。だから若くして死のうが、100歳になってから死のうが、何の変わりもありゃしないんだと。 で、そういった陛下の宇宙観からすると、人間の毀誉褒貶も空しいことでしかないわけね。だって、褒められようが、けなされようが、宇宙の時間の流れからすれば一瞬のことだし、褒められたりけなされたりしたところで、人間はすぐ死ぬし、自分のことを褒めてくれた人もけなした人もすぐに死んで、自分が存在したことなんてあっという間に忘れ去られてしまう。だったら、そんな毀誉褒貶に悩むだけバカらしい。陛下は、そうおっしゃっております。 で、そんな空しい人生を、ではどうやって生きていけばいいかといいますと、まず人間は社会的な存在であるのだから、良き隣人であるべきだし、社会に、他人に貢献することを心掛けなければならない。人には良くし、自分のことを攻撃してくる人に対しては、「そうしない方がいいよ」と、そっと愛をもって諫め、それでも止めない時はただ静かに避ければいい。 そして、自分の中にある指導的な「ダイモーン」(要するに「良心」みたいなものだと思えばいいのだと思いますが)に従って、なるべく恥じることの少ない人生を歩めば、それでいいと。陛下の言葉を直に引用しますと、「もし君が目前の仕事を正しい理性に従って熱心に、力強く、親切におこない、決して片手間仕事のようにやらず、自分のダイモーンを今すぐにもお返ししなくてはならないかように潔くたもつならば、またもし君がこのことをしっかりつかみ、何ものをも待たず、何ものをも避けず、自然に適った現在の活動に満足し、ものをいう場合にはいにしえの英雄時代のような真実をもって語ることに満足するならば、君は幸福な人生を送るであろう。誰一人それを阻みうる者はない」(45-46ページ)。ううむ、まさに最古の自己啓発本! で、もう一つ、陛下が何度もおっしゃることは、この世の苦悩というのは、大部分は、その苦悩をもたらした事柄自体よりも、そのことを苦にする自分自身の感じ方によって生じるのだということ。陛下のお言葉を引用しますと、「事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、わずらわしいのはただ内心の主観にすぎない」(51ページ)。 つまり、陛下によれば、人は誰からも、何ものからも、ダメージを受けることはない、というのですな。だから、その点では何も恐れることはない。ただ、ダメージを受けるとすれば、それは自分の内面が自分に対してダメージを与える場合であると。だから、そこだけに注意せよと。 で、この流れで、私が感銘を受けた陛下のお言葉ってのは、次の通り:「悪人にも善人にも同じように起りうることを、悪とも善とも判断せしむるな。なぜならば自然に反した生活をなす者の上にも自然にかなった生活をなす者の上にも同じように起ってくる事柄は、自然にかなうことでもなければ自然に反することでもないのである」(65ページ)。 なるほどね~。 こういう風に見てくると、例えば「人間というのは宇宙の、そして万物の一部だ」とか、「自分を苦しめるのは自分自身の内側から発する想像力なのだから、そんなものは無視して平静を保てばいい(=インサイド・アウトの考え方)」とか、「今日を、人生最後の日であるかのように過ごせ」とか、後の時代の自己啓発本の萌芽に当たるようなことが沢山あることもさることながら、それ以上に、・・・なんて言えばいいのかなあ・・・タフな生き方というかね、クールな生き方を教えてくれているような気がする。 人間なんてどうせすぐ死んじゃうんだし、毀誉褒貶のことなど考えず、その日その日を、自分のダイモーンに恥ずることなく生きよ。たとえ特殊な才能がなくたって、真面目に、一生懸命、人に貢献できるように生きることはできるだろ、だったらつべこべ言わずにそうしろ。何か不幸に見舞われたとしても、それは宇宙の計画のうちなので、その計画の中で、自分が果たすべき役割が回ってきただけなんだから、泣き言言わずにその役割を粛々と果たせ。そうやって生きている限り、お前にダメージを与えるものなど、何一つない。だから、恐れるものなど何もない。ま、陛下がおっしゃっておられることは、そういうことですな。 クールだね。スーパー・クールだね。気に入ったわ~。 でさあ、とにかくローマ皇帝にですよ、ローマ皇帝じきじきに、次にように語り掛けられる幸せって、ないじゃん?: 「この胡瓜はにがい。」棄てるがいい。「道に茨がある。」避ければいい。それで充分だ。「なぜこんなものが世の中にあるんだろう」などと加えるな。そんなことをいったら君は自然を究めている人間に笑われるぞ」(160ページ) 「そんなことをいったら、君は笑われるぞ」って、ローマ皇帝に言われたい! 萌え~!! ちなみに、マルクス・アウレーリウスは、後期ストア派に属する哲学者であり、彼の治世は人類の歴史上、「哲人が世界を治めた唯一の例」と言われているわけですが、「ストア派」ってのは、要するに「ストイック」という言葉の元でしょ。 ストイックに生きるって、本当はどういうことなのか、ローマ皇帝じきじきに伺ったような気がしております。 ということで、この本、ワタクシにとっては非常に面白く、研究とか言うことを除いても、座右の書としたいくらい感銘を受けたものとなったのでした。教授の熱烈おすすめ! と言っておきましょう。【中古】文庫 ≪政治・経済・社会≫ マルクス・アウレーリウス 自省録 改版 / 神谷美恵子【中古】afb
February 21, 2018
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今日はうちの科の卒論口頭試験の日。学生それぞれの書いた卒論を主査(=指導教授)と副査の二名が審査し、さらに面接審査の上、点をつけるという作業でございます。 で、私の指導生たちも、副査の先生から厳しいコメントなどをされつつ、どうにかこうにか口頭試験をクリアし、まずまずの成績をゲット。めでたし、めでたし。 というわけで、これをもって今年度の卒論関係の仕事がすべて終了~! 疲れた。 で、その後、夕刻から、今年度末をもって定年退職されるフランス人同僚の先生のための送別会に出席。 このF先生は、私が赴任した二年後に赴任されましたので、私とは24年間同僚だったということになります。24年! ほぼ四半世紀ですな。 で、今後は南仏の田舎にあるご自宅に戻られ、そこで家の修理をしたり、ガーデニングをしたりしながら悠々自適の生活をされるとのこと。またスペインにある聖地「サンチャゴ・デ・コンポステーラ」への巡礼を行うつもりであるとのこと。まあ、キリスト教徒にとっての三大聖地の一つですな。南仏からスペインまで歩くとなると、結構、時間がかかりますから、一度にではなく、何年かに分けて分割巡礼するそうで。 まあ、うらやましいようなもんですな・・・。私も早く引退したい! とまあ、そんな感じで、今日は卒論口頭試験と長年の同僚を送る会を終えて、「何かが終る」儀式を二つ一遍に済ませたような、ちょっとだけ寂しい感じを抱いてしまったワタクシなのであります。
February 20, 2018
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最近、ピーター・フランプトンの『アコースティック・クラシックス』というCDを買って、クルマで聴きながら通勤しているのですけど、いいよ、これ!コレコレ! ↓Peter Frampton ピーターフランプトン / Acoustic Classics 輸入盤 【CD】 若い時の曲を60代になってアコギで弾き語りしているのですけど、渋い。ギターも上手いんだよね。もちろん、もっと上手い人はいくらもいるのだろうけど、この歳でこんなに弾ければいいじゃないか、という上手さ。 最近、(私にとっての)懐メロのCDをよく買うのですけど、買った直後は「いいな」と思って聴くものの、じきに聴き飽きるものも多くて、懐メロならなんでもいいわけじゃないんだ、と実感。その中にあって、このアルバムは聴き飽きないんだよね。 というわけで、私とご同輩の皆さんはもとより、若い人も是非、聴いてみてくださいな。いいよ~。
February 19, 2018
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この週末は原稿書きに終始し、あまり外に出なかったもので、今日のお昼はちょいと外に出て、ココイチで食べることに。 今、ココイチでは季節限定のメニューとして牡蠣カレーとスープカレーを供しているのですけれども、今回家内と私が迷わず選んだのはスープカレーの方。これこれ! ↓ローストチキン・スープカレー ね、旨そうでしょ? で、実際食べてみて、旨いのよ。スープカレーというと、結構、辛いものが多いのですが、さすがココイチのこれは、そこまで辛くはなく、どちらかというと辛い物が苦手な私でも心地よく口に運べる程度のスパイシーさを保っております。で、ゴロゴロ入っているローストチキンもボリュームがあり、野菜もたっぷり入っていてヘルシー感も十分。なかなか結構なものでした。 スープカレーっていうと、しかし、北海道を思い出すなあ。学会で札幌を訪れる度、一度は食べたものでした。またいつか、北海道で学会やることがあれば、行きたいなあ。 さてさて、紀要原稿の方ですが、まあまあ順調な感じ。今の時点で7割くらい完成って感じかな。締切は1月末だから、とっくに過ぎているのだけれど、なーに、私自身が編集長だから、いいの。編集長は何をやっても許されるからね。許さないっていうなら、「じゃあ、お前が編集長やれや」っていう一撃必殺の決め台詞があるから、誰も私には刃向えない。わっはっは! まあ、そんな傲岸なことを言ってないで、さっさと仕上げますか。
February 18, 2018
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男子フィギュアスケートシングル、ご覧になりました? 羽生弓弦選手のオリンピック二連覇! そして同じ日本人の宇野昌麿選手が銀メダルで、羽生選手とコーチを同じくする好漢・スペインのハビエル選手が銅メダルと、取るべき人がすべてメダルを獲ったことも含め、日本人にはたまらない結果だったのではないでしょうか。 もっとも、私が応援していたアメリカのアダム・リッポン選手は入賞ならず、個人的には少し残念でしたが・・・。 そしてそして、今日はもう一つビッグニュースが。 将棋の藤井五段が、先日国民栄誉賞を獲ったばかりの羽生竜王との初の公式戦を制し、さらに決勝で広瀬八段をも倒して朝日杯優勝! そして史上最速となる六段昇格! これも凄い! 実は私、広瀬対藤井戦をネット中継で見ていたのですが、後半、桂馬を使った藤井さんの驚きの一手がありまして、これには解説をしていた佐藤名人らも仰天。これで一気に優勢に持ち込んだ鮮やかな戦法に、私も大興奮でございました。 羽生さんと藤井さん、二人の人気者が同じ日に頂点を極めるとは、まあ、目出度い一日でございます。明日の新聞はお祭りですな。いや、それ以前に号外とかも出ているんじゃないでしょうか。 一方、私はと言いますと、今日は科の紀要に出すための論文を執筆中。羽生さんは氷上、藤井さんは盤上で戦っておりますが、私は私で負けられない戦いをワード上で戦っておるわけでございます。願わくば今日・明日の二日で「優勢」に持ち込み、月末までの仕上がりに持っていきたいのですが、果してうまく行くでしょうか。 藤井さんの「桂馬」のような驚きの妙手を探して、もう少し呻吟してみましょうかね。
February 17, 2018
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荻原魚雷さんのブログ「文壇高円寺」を読んでいたら、中公新書の話題が論じられておりまして。 「WEB中公新書」というサイトで、「私の好きな中公新書3冊」という企画があって、各分野の読み手がそれぞれ自分の好きな中公新書を3冊挙げているんですな。で、魚雷さんもここに登場して菊盛英夫『文学カフェ』、上岡伸雄『ニューヨークを読む』、川本三郎『銀幕の東京』の3冊を挙げている。なるほど。これこれ! ↓私の好きな中公新書 で、これを読みながら、私だったらどんな3冊を挙げるかなと思ったのですが・・・これがね、意外なことに3冊も挙げられないのよ。 例えばサイトに登場する皆さんのご意見を眺めると、川喜多二郎の『発想法』とか、新しめのところでは廣野由美子の『批評理論入門』あたりを複数の人が挙げていたりする。で、私ももちろん、この2冊は読みましたが、うーん、だからと言って、そこまで感心したわけじゃないなあと思ったりして。特に『発想法』は、当時としては斬新だったのだろうけれども、今ではむしろ「こんなこと、やってられねーよ」という感想しか得られないのではないかと。時代の制約が課せられております。 つまり、私は、新書界の老舗の一つである中公新書の良き読者ではなかったらしい、ということが判明した次第。 じゃあ、中公新書というのを外して、新書一般で考えて、自分の好きな3冊を選ぶとしたらどうなるだろう? そんな風に考えて、パッと思いついたのがこの3冊。○池田潔『自由と規律』(岩波新書)○亀井俊介『マリリン・モンロー』(岩波新書)○きだみのる『気違い部落周遊紀行』(冨山房百科文庫) だけど、最後のきださんのものは、判型こそ新書版だけど、果たしていわゆる「新書」の部類に入るのかなあと考え直し、○河合隼雄『未来への記憶』(岩波新書) に入れ替えました。 ・・・って、結局、全部岩波新書じゃん? 期せずして、私が芯からの「岩波教養派」であったことがあらためて判明したというね。 他の出版社の新書版で、馴染みのあるものってあったかなあ。○渡部昇一『知的生活の方法』(講談社現代新書) 癖はあるけど、学部生くらいの時に、いずれ自分も知的生活なるものを送りたいなと思って、この本を何度か読んだことは事実。 あとはあんまり思いつかないや。 読書家を自任したことは一度もないけれど、それにしても勝手に思い込んでいたより、新書に対する愛着が少ないな、自分・・・。 さてさて、皆さんはいかがでしょうか? この新書は面白かったよ、というおススメがありましたら、是非ご一報くださいませ。自由と規律改版 イギリスの学校生活 (岩波新書) [ 池田潔 ]【中古】 マリリン・モンロー 岩波新書/亀井俊介(著者) 【中古】afb【中古】 未来への記憶(上) 自伝の試み 岩波新書/河合隼雄(著者) 【中古】afb【中古】 未来への記憶(下) 自伝の試み 岩波新書/河合隼雄(著者) 【中古】afb
February 16, 2018
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ひゃー。ついに終わってしまった・・・。最後の「アメリカ文学史」の授業。 前にもちらっと言いましたが、私がずっと所属していた「国際文化コース」という科がお取り潰しになり、別な科に今年から移籍しているのですけれども、この新しい科は、アメリカ文学とかアメリカ文化とはまるで関係がない科なのね。当然、そこでは「アメリカ文学史」という、私の本来の専門の授業はないわけ。 で、残務整理といいましょうか、「国際文化コース」の在学生が全員卒業するまでは、旧コース向けの授業も存続するのですが、私が担当してきた「アメリカ文学史」の授業は2年生向けなので、今年の2年生、すなわち「国際文化コース」最後の学年向けの授業が終わると同時に、授業そのものが無くなるんです。 で、今日がその最後の最後の授業だったと。 まあ、本学に赴任して26年ですか。ということは、この間に26回、「アメリカ文学史」を講じてきたわけですけれども、それも今日で終わり。 別に好きでやっていたわけじゃないけれども、やっぱり赴任以来ずっと担当してきた授業題目が、これを最後に無くなるとなると、やっぱりね、ちょっと寂しいというか、多少は感慨があるものでございます。 割と評判のいい授業ではあったのよ。卒業生の中にも、「釈迦楽先生のアメリカ文学史の授業、面白かった~」って言ってくれる子も結構沢山居たし。 はあ~・・・。それもこれで終わりかあ・・・。 まあ、今後は担当できる専門の授業がどんどん少なくなるし、ますますつまらなくなりますな。
February 15, 2018
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大学の上の方から、今後うちの大学の入試に関し、英語の試験をどうするか、英語科で決めてくれってな依頼が来まして、そのための会議をやってきたのですが、もう、色々ビックリよ。 つまりね、お上は日本の大学受験から「英語」という科目を撤廃して、そこのところは民間にやらせようっていう腹なんですな。 民間ってのは、要するにアレよ。TOEIC とか、TOEFL とか、あるいは日本独自の「英検」とかね。あるいはケンブリッジ大学の英語力試験とか、そういう奴。 で、これら民間英語試験の使い方は、それぞれの大学で勝手に決めろと。 だから、使い方も色々ですよ。例えば、「出願基準」にするというのも一つの手。「英検準1級、もしくは TOEIC スコア○○点以上ない奴は受験できません」とするとかね。 あるいは各種民間英語テストの点数の提出を義務付けて、それを英語の試験の得点としてカウントすることもできる。各大学がやるべき英語の試験を、民間に丸投げする、というやり方。 あるいは入試自体を書類審査にして、その際、各種民間英語テストの点数を「参考」にする、とか。 あるいは、各大学で英語の試験は課すのだけれど、民間英語テストの点数がいい人は、そちらの点数で合否を決めるとか。 で、こんな風に民間英語テストも色々あるし、それの使い方も色々ある。そこで、うちの大学ではどの方式でやりますか、ってことが、大学執行部から問われているわけね。 しかし・・・。いいのかね、大学入試の英語を、今言ったような民間英語試験で代替しちゃって・・・。大学で必要な、アカデミックな英語力と、民間英語試験が問うている英語力では、大分、違うような気がするんだけど・・・。 それに、もしこの先、すべての大学で、入試から英語が無くなって、すべて民間試験で代用ということになったら、高校の英語の授業が崩壊しないか? あと、こんな風に民間英語テストを活用するとなると、日本中の若者が、何度も何度もこれらの民間英語テストを受験するようになりますよね。そうすると、民間英語テストを開催している機関は、すごく儲かるということになる。 で、お上がこの方針を決めるあたって、そういう民間英語テストの会社の人間が会議に参加していたっていうじゃない? そういうのを、官民癒着っていうんじゃないだろうか。問題あると思うなあ! とにかく、大学受験の英語を、すべて民間企業に、というお上の方針は、ただでさえ芳しくない日本の英語教育の歴史の、さらなる大汚点になりえると私は思うのであります。 この問題についてもっと知りたい人、こういう文献があるのでぜひご一読を!これこれ! ↓史上最悪の英語政策 ウソだらけの「4技能」看板 [ 阿部公彦 ]
February 14, 2018
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学生の指導って、難しいな・・・。 今日は指導していた院生の修士論文の提出日だったのですが、結局、間に合わず、提出できなかったという。 院生と言っても社会人で、毎週顔を合わせて指導できるというものでもなかったし、また学業以外の部分でやっかいな問題を抱えていた人なので、その辺、いかんともしがたいところがあったのも事実。 それにしても、やはり私の指導の下で修論が書けなかったとなると、後悔する部分も多々ある。 じゃあ、どうすればよかったのかと考えるんですけど、いっそ私がその院生の代わりに修論を書いてしまうとかね。私なら、ちゃっちゃと書けちゃうんだから。当人が書けないっていうのであれば、そうするしかなかったのかもね。 そんなのダメじゃん、と人は思うのかな。 だけど、折口信夫だったら、むしろそうするのが当然だと思っただろうな。師匠が弟子の代わりに論文書いて何が悪いと。 まあ、私に折口ほどの自信と確信があれば、ね。 実際、すべて書かないにしても、本人を目の前に据えて、「ほーれ、お前さんの書きたいことってのは、こういうことなんだろう? だったら、まずこう書き出して、こう継いで、こうこう、こういう風に結論を持ってくればいいのさ」ってな具合に、手取り足取り、おおよその骨格だけ私が作っちゃうとかね。そうすれば、さすがに書きあげられたのかもしれない、とは思いますね。 そうすべきだったかなあ・・・。 自分のことだったら、こんなに簡単なことはないのに。人に同じことをさせようとするのって、どうしてこう難しいのだろう。 まあ、最終的にはすべて当人のせい、当人の人生なんだから、当人の失敗を私が背負うことはないわな・・・と思うのですけれども、またしばらくすると、「ああすればよかったかな、こうすればよかったかな」と考えている自分が居るというね。 はあ・・・。やれやれ。
February 13, 2018
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内田樹さんと鈴木晶さんの共著(?)になる『大人は愉しい』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、インターネット版公開往復書簡としてスタートし、それを書籍化したもののようで、その時々で二人に関心のある話題について気楽に論じ合うといった感じの本。 そういうものに付き物の、互いが互いに遠慮しいしい、互いにおべっかを使い合い・・・といった感じのものになっちゃうのかなと思いきや、確かにそういうところも若干はありますが、全体として予想していた以上に面白い本でした。 私は鈴木さんの翻訳された本を何冊か、また内田さんのお書きになった本を何冊か読んだ程度の読者ですので、お二人のご専門についてさほど詳しく知っているわけではないのですけど、ご両名ともそれぞれのご専門の知識を背景にしつつ、主題として論じているのは一般人にも関心のあるようなことばかりですので、まあ、誰が読んでも楽しめるものになっているかなと。 特に二人が『忠臣蔵』の話をし始め、なんであの物語が日本人にはやたら受けるのだろう、ということを論じ出すあたりから面白くなってくるんですけど、確かにあの話は、論理的に考えるとよく分からない。なんで吉良は浅野をいじめたのかもよくわからないし、大石が何を考えているのかもよく分からない。で、本質的には「どちらが悪いのか分からない」事件を、「お上」という「父なる存在」が「浅野が悪い」と決めつけたことに対し、大石はじめ赤穂浪士たちが異を唱えるという、いわば「アンチ・オイディプス」的物語なのであって、赤穂浪士たちがやったことは、吉良の私的処刑ではなく、お上が裁定を下す前の原状への復帰である、ってな事を内田さんが言い出し、そこから鈴木さんは「父の裁定の否定は、要するに父の不在の確認だ」と受けて、そこから「日本における父の不在」というさらに大きなテーマに飛び火する。 で、そこから、そもそも日本に父は居たのか、ってな話になり、天皇制だって何だって、あれは女性原理なんじゃないのか、ってな話になって、日本は何でも許し,受け入れてくれる母を土台になりたつ社会だったんだけど、最近、そういう「許し、受け入れる母」が居なくなって、それが今の日本の諸問題の根源にあるんじゃないか、ってな話になっていく。 ・・・ま、気軽に論じ合っているアレですから、この対話の中で出て来た結論的なものが絶対的な真であると、お二人が言っているわけではないし、それに賛同するかどうかは読者に拠るのでしょうけれども、おっさん二人の会話として、雑談として、それに何となく付き合う分にはかなり面白いんじゃないかと。 話の内容、というか話の流れはある程度真剣、ある程度いい加減で、双方が投げかける問いにまともに答え合うこともあれば、さらりと流して次の話題に行くような時もあり、その時々の気分というのがある。その辺のいい加減さも、息苦しくなくていい。 あとね、「師匠とは何か」ということを論じ合っているところで、内田さんが、内田さんの師匠であるレヴィナスと、そのレヴィナスの師匠であるシュシャーニ師の関係を紹介しているところがあって、その辺りを引用しますと: 弟子が師を「理解する」ということは「他者としての師」の定義上、ありえません。弟子は師には「理解が及ばないことを思い知る」ことしかできません。けれども、その「理解の及ばなさ」のありようは、弟子一人ひとり別々で、それぞれにまったくユニークなものでありえます。師の機能とは、第一には、そのようなかたちで「私は他の誰によっても代替不可能なかたちで師とかかわっている」という自己承認を弟子にもたらすことだと私は思います。(164−5ページ) とあるのですけど、この辺りの内田さんの「師ー弟子論」について、私はもう全面的に賛成。というか、同感。というか、私が漠然と思っていたことをよくここまで明確に言語化してくれたと兜を脱ぐ他ない。この一点だけでも、この本を読んだ価値はありました。 ということで、さほど期待しないで読んだ割に、案外、この本に様々なことを啓発されてしまったワタクシなのでありました。この本、教授のおすすめ!と言っておきましょう。【中古】 大人は愉しい ちくま文庫/内田樹,鈴木晶【著】 【中古】afb さて、今日はこれからまた名古屋に戻ります。明日からはまた平常通りの多忙な日々。あーあ、早く定年にならんかなあ!
February 12, 2018
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卒論の口頭試験が近づいて来たので、私も副査を担当する卒論を何本か読み始めております。要するに、他の先生の指導学生の卒論を第三者として読んでいるわけ。 で,その中の一本に教育学系の卒論がありまして、テーマは「動機づけ」。つまり、いかに生徒のやる気を起こさせるかという内容。 で、読み始めると、まあ難しい言葉がバンバン出てくるんですわ。例えば「外発的動機づけの原理は、強化メカニズムと予期メカニズムに大別される。強化メカニズムとはオペラント条件づけに基づくもので、過去の特定の状況に対応する結果が随伴することによって当該行動の頻度が規定されるという動機づけのプロセスである」とかね。「アンダーマイニング効果を説明するものとしては、内生的ー外生的帰属理論を代表とする帰属理論に依拠する認知論による説明と、認知的評価理論による説明が代表的である」とか。 これ、何言っているか分かる?? 分かんないよね?? だけど、よーく読んでみると、ごくあったりまえのことを言っているのでありまして、この卒論に書いてあることをワタクシ流にまとめると、こういうことになります。 生徒が自発的に勉強の面白さに目覚めて自分でどんどん勉強してくれれば一番いいんだけど、学校生活の中でいつもそうなるとは限らない。宿題を課さなきゃらならないこともあるし、そうなるとすべての生徒にとってその宿題が自発的に面白いと感じられるものではないかも知れない。そうなると宿題やって来ない奴が出てくるので、そういう奴を罰しなくてはならないこともある。逆に褒めておだててその気にさせることも必要かも知れない。だけど、無理矢理やらせたら生徒自身の自発的興味が失われることもあるし、逆に大したことしてないのに褒めすぎると、それがやる気をそぐことにもなる。一人一人の生徒の性格もあるし、結局、生徒にやる気を起こさせるためにはケースバイケースで指導しなければならない。以上。 ね。「内生的ー外生的帰属理論」だの、「オペラント条件づけ」なんて言葉を使わなくたって、ちゃんと説明できるわけよ。 だけどさ、私は声を大にして問いたいのだけど、上に述べた「まとめ」を読んで、「なるほど! そうだったのか!!」って思う? 私は全然思わないんだなあ。だって、こんなこと、誰だって知っていることじゃん? 自分自身の経験からもそう思うし、自分の子どもに勉強を教えようとしたことのある親なら誰だって知っている。つまり、常識よ。 さんざん研究した挙げ句、出た結果が「常識」って、どういうこと? 当該学生の卒論は、既存の教育学の論文をいくつも読んで、それをまとめただけのものなので、この卒論がどうこうというよりも、教育学の先行研究自体に対して私は問いたいのだけど、あんたら、一体何を研究しているわけ? さんざん難しい用語を駆使して、研究に研究を重ねて、それで出た結論が「生徒にやる気を起こさせるには、生徒の性格を加味しながら褒めたり叱ったりを塩梅しなさい」って。 教育学の研究って、ワタクシにはまったく分からない世界だな・・・。
February 11, 2018
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先週に引き続き、今週末も実家に戻っております。 そう、今週は母の誕生日(13日)が近いということで、お誕生日のお祝いがてら、ついに出版なった母の句集の出版祝いをすべく、姉も一緒に帰省し、さらに東京で暮らす甥っ子も来て,皆でお祝いの席を設けた次第。 完成した母の句集、もちろん自費出版ですし、書店で売るようなものではないのですが、一応、ISBNも取って、正式な書籍として国会図書館にも納入される類いのモノとして作りましたからね。自分で言うのもなんですが、なかなかの完成度。上出来でございます。 始めは出版すること自体、嫌がっていた母ですが、完成してみればやっぱり嬉しいらしく、何度も手にとっては眺めております。それだけでも作った甲斐がありました。これでね、父が生きていれば、さぞ喜んだことでしょうし、「僕の句集も、もう一冊、編んでくれ」などと言い出しそうなところなんですが。 まあ、とにかく、本を作ることが趣味である私に出来る精一杯の親孝行。喜んでもらえて良かった。次はまた二年後、米寿のお祝いにもう一冊、作ってあげようかと考えているところでございます。
February 10, 2018
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久方ぶりでやんす。 この数日、ブログ更新できませんでしたが・・・そう、風邪で倒れておったのですわ。今年の冬のあまりの寒さに耐えきれず・・・。 でもまあ、そろそろ復活ということでお許しを。 さて、倒れる前から読んでいたオリソン・S・マーデンの『前進あるのみ』(原題:Pushing to the Front, 1894)、ようやく読了しましたので、ちょいと心覚えをつけておきましょう。 ちなみにオリソン・マーデンという人、アメリカの自己啓発思想史の中では結構重要なポジションを占める人なのですけれども、1848年生れ、1924年歿で、スコットランド系移民ですな。3歳の時に母親を、7歳で父親を亡くし、その後親族だか何だかをたらい回しにされるなど、不遇の幼少期を過ごすのですが、10代半ばにしてスコットランドの自己啓発ライター、サミュエル・スマイルズの『自助論』を読んでインスパイアされ、いつか自分もアメリカのスマイルズとならんと決意。さらにスマイルズの著書の通りに努力に努力を重ねて学位をとりまくり、後にホテル業をいとなんで成功するという、立身出世を果します。 しかし、所有するホテルが火災にあったりして大変な目にもあい、その頃書き進めていた『前進あるのみ』の原稿数千頁も焼けちゃったんですけど、根性で書き直して1894年に出版。これがベストセラーとなって、マッキンリー大統領、セオドア・ルーズベルト大統領、グラッドストン英首相などからも絶賛。エジソンやJ・P・モルガンにも影響を与えることに。それどころか明治時代の日本でも150万部が売れ、国定教科書にも採用されるという。で、1897年には『サクセス』という雑誌を発行、これは今日でも発行され続けております。 とまあ、そんな感じの人ね。既存の自己啓発本に触発され、後に自分自身が自己啓発本ライターになるという、典型的なパターン。 で、その『前進あるのみ』はどんな本かと申しますと、やはりアメリカのスマイルズにならんと欲しただけあって、内容的にはスマイルズの『自助論』っぽい感じ。つまり、古今東西の自己啓発的逸話を通して、意志あるところに必ずチャンスあり、チャンスあるところに必ず成功への道が開けている、的なことを読者に語り続けるというもの。例えば「チャンスをとらえよ」という章では: 「もしわれわれが勝利したら、世界は何と言うでしょう?」 ペリー艦長は意気揚々と問いかけた。ネルソン提督が、ナポレオン率いるフランス海軍とのナイルの海戦に向けた綿密な作戦を説明し終えたときのことだった。 「この戦いに『もし』などない」とネルソンは答えた。「われわれが勝利するのは確定事項だ。誰が生き延びて手柄話をできるかは、また別の話だが」(中略)周囲からの敗北の予想をよそに、彼の鋭いまなざしと勇敢な心は輝かしい勝利のチャンスを見てとっていたのである。(11頁) また「礼節は宝なり」という章には・・・: ジェファソン大統領がある日、孫息子と馬車に乗っていると、ひとりの奴隷が帽子を取って会釈をした。大統領は帽子を持ち上げて返したが、孫は奴隷の挨拶を無視した。大統領は孫息子に向って言った。 「お前は、自分より奴隷のほうが紳士であっていいのか?」(153頁) ・・とまあ、こんな調子でエピソードに継ぐエピソード、教訓に継ぐ教訓でございます。 だけど、やはりそこはそれ、アメリカの自己啓発本なので、後半の方になって来ると、エピソード抜きの自己啓発言説もやたらと顔を出すようになる。 例えば「不安」というものがいかに人をダメにするか、とかね。「不安」を疫病神と捉えるのは、後のACIM系の自己啓発本の特色ですけど、その萌芽は既にここにあるわけだ。あるいは「思考は現実化する」とか「引き寄せの法則」についての言及もありますから、アメリカ19世紀末にはすでに「引き寄せの法則」がいかに浸透していたかが窺えます。あと「暗示」なるものがいい方にも悪い方にも使えるということが書いてあって、プラシーボ効果(もちろん「プラシーボ」という言葉は使ってませんが)についての言及もありますから、そういう認識は19世紀末には既にあったわけですな。 というわけで、後世の自己啓発本の原型は既にここにある、と言ってもいいでしょう。 あ、あとね、エマソンの引用もたっぷりあるよ。ジェームズ・アレンやベンジャミン・フランクリンの引用も。自己啓発本は、他の自己啓発本の引用の中から立ち現れるという、自己言及性が既に現れております。 しかし、スマイルズの『自助論』にしても、この本にしても、明治期の日本でやたらにうけたというのは、やっぱりアレでしょうな。逸話をもとに、ってところが、外国人にも理解し易いのでしょうな。 っていうか、日本人が逸話好きなのか、もともと。「木口小兵は死んでもラッパを離しませんでした」的なのが日本の教科書の主流なわけでしょ。逸話を元に教訓垂れるってのが、日本では受けるわけですよ。 ま、そんなことも含め、アメリカにおける初期自己啓発本の代表作を読んで、色々考えさせられたのでありました、とさ。前進あるのみ 「究極の楽観主義」があなたを成功へと導く (フェニックスシリーズ) [ オリソン・S・マーデン ]
February 9, 2018
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有賀さつきさんの死、結構衝撃でしたね。 私はほぼ同世代と言っていいのですが、それだけにバブル期の華やかな時代、フジテレビ絶好調の時代の一つの象徴とも言うべき人の死の報せにビックリですよ。 特に、肉親を含め、身近な人ですらその病状を知らなかったということ、そして、自らの死に備えて有賀さんが自分の身辺整理をしていたことなどを伝え聞くと、ビックリを越えてすごいなと。 もし自分が有賀さんの立場だったら、とてもそんなことできないな・・・。絶対大騒ぎして、死ぬ前にもう一度会っておきたい人には全部会って、同情を買いまくりそうな気がする。ましてや、誰にも看取られずに、なんて絶対無理。 まあ、あれだね。人間、今際の際に、本性が出るね。有賀さんというのは、よほど強い人、練れた人だったのでしょう。 だけど、それにしても一人で死ぬなんて、ちょっと想像を絶するな。寂し過ぎる。 せめてご冥福をお祈りしましょう。合掌。
February 6, 2018
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ピエール・バイヤールという人の書いた『読んでいない本について堂々と語る方法』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、冒頭からかなり面白いです。引用します: 私は本というものをあまり読まない環境に生まれた。私自身、本を読むことがそれほど好きなわけではないし、読書に没頭する時間もない。そんな私がよく、読んだことがない本について意見を述べないといけないという苦しい立場に身をおく羽目になる。 私は大学で文学を教えているので当然といえば当然かもしれない。多くの本についてコメントさせられるからである。しかもその大半は聞いたことすらない本なのだ。もちろん読んでいないといえば、私の講義を聴く学生たちも同じである。しかしたまに読んでいる学生もいる。そしてそんな学生が一人でもいたら要注意である。講義の最中にいつなんどき窮地に立たされるか分からないからだ。(10ページ) どう、これ。衝撃でしょ。私は、この文章、自分が書いたのではないかと錯覚したくらい。 この本、ちょっと前に少し話題になった本ですから、読んだことのある人もそれなりに居るかもしれませんが、その中に大学で文学を教えていて、同じような立場に身を置く人って、それほど居ないのではないかと。その意味で、この本の読者として私ほどそれにふさわしい人って、日本にそんなに居ないと思います。逆に、私にしたら、超切実な話よ。いきなり引き込まれました。 で、どうしてそういう苦しい立場に身を置かなくてはならないかというと、読書に関して一般に流布している3つの規範があるからだと、バイヤールは指摘します。つまり「1 読書は神聖なものである」「2 本は最初から最後まで通読すべきものである」「3 本について語るなら、その本のことを読んでいることが前提である」の3つ。この3つの規範があるから、読んでいない本について語る、なんていうことはあるまじきことだ、ということになると。 だけど、本当にそうだろうか? というのがバイヤールの出発点ね。実に面白い発想であります。 で、まずバイヤールは「私の経験によれば、読んだことのない本について面白い会話を交わすことはまったく可能である。会話の相手もそれを読んでいなくてかまわない。むしろその方がいいくらいだ」(12ページ)と宣言する。そしてこれ以後、バイヤールは縷々、この自説を説明していく。 例えば、「本を語る」という場合、それは一冊の本の内容を事細かに論じるというよりは、むしろ他のあらゆる本との関連の中でその本を位置付けることが重要である、とバイヤールは指摘します。つまり、人間の読書量には限界があるのだから、どう一生懸命読書したところで、すべての本を読みつくすことはできないわけですな。それならば、個々の本の内容にこだわるより、本全体の相関図を把握していた方がいいじゃないか、というわけ。本人の弁を聴いてみましょう: 私はジョイスの『ユリシーズ』を一度も読んだことはないし、今後もおそらく読むことはないだろう。したがってこの本の「内容」はほとんど知らないといっていい。しかし位置関係はよく知っている。しかも本の内容というものも、じつはそれじたい本の位置関係とけっして無縁ではない。つまり私は、人との会話のなかで、ふつうに『ユリシーズ』について語ることができるのである。なぜなら私はこの本を他の本との関係でかなり正確に位置づけることができるからだ。私はこの作品が『オデュッセイア』の焼き直しであること、これが意識の流れという手法を用いていること、物語がダブリンでの一日を叙したものであることなどを知っている。この理由から、私は大学の講義でもよく平気でジョイスに言及する。(34-35ページ) まったくその通り! 私も『ユリシーズ』を読まずして、何度この本に言及したことか。バイヤールによれば、フランス人のフランス文学研究者ですら、プルーストの全作品を読んだことのある人はまれだ、と言っていますから、日本人のアメリカ文学者がアイルランド人作家の作品を読んでいないことなんて、なんら恥ずかしくないわい。 とまあ、こういう調子で、バイヤールは、本なんてむしろ読んでいない方がその本について面白く語れる、ということを次々と立証していきます。 例えばね、アフリカ西海岸に住む「ティヴ族」に、シェイクスピアの『ハムレット』が通じるか、という話題も実に面白かった。 あるとき、アメリカ人研究者が、イギリス人の研究者から「アメリカ人にシェイクスピアなんてわからないんじゃないの」と揶揄され、そんなはずはない、人間の心理を描いたシェイクスピア劇はアメリカ人はもちろんのこと、人間でありさえすれば普遍的に理解されるはずじゃ、とか思って、西アフリカのティブ族の連中に『ハムレット』を読んでやって、その感想・解釈を聞いてみたんですと。 もちろんティブ族は『ハムレット』を読んではいないのであって、ただこういう内容だ、と聞かされるだけなんですな。ところがティブ族の連中は、この物語について非常に面白い反応を示したと。 例えば『ハムレット』冒頭、死んだ前王の亡霊が、歩哨に立っている3人の兵士の前に現れるというシーンがある。これをティブ族に聞かせると、こんな反応が返ってきたと・・・: 「どうしてその人物はもう彼らの首長ではないのか?」 「死んでしまっているからです」と私は説明した。「だから彼を見たとき、三人はびっくりして、恐がったんです」 「ありえない」と年寄りの一人が言い、吸っていたパイプを隣の男に渡すと、今度はその男が年寄りをさえぎって言った。「もちろんそれは死んだ首長なんかじゃない。それは魔術師が送ったサインだ。話を続けなさい」(127ページ) なるほど、そういう風に解釈するわけね、ティブ族は。 とまあ、一事が万事、こんな調子で、『ハムレット』を読んだことのないティブ族の人たちは、この本について実に自由に、斬新な解釈をして見せたと。 で、バイヤールが重視するのは、この点です。本を読んだことがないからこそ、その本について自由で斬新な見方ができるのだと。 本を読むって言ったって、個々の人間がある本を読めば、その解釈はすべて異なるわけで、そうなるとある本について語ると言っても、それは理論上、不可能なわけですよ。それぞれの人が、それぞれ別の解釈を持っているんだから。つまり、それは違う本について語るのと同じで、意味がないわけね。それでもそのことに意味があるとしたら、それはもう当該の本のことよりも、それについて語り合う人間同士の関係だ、と。バイヤールはこう言っております: 書物において大事なものは書物の外側にある。なぜならその大事なものとは書物について語る瞬間であって、書物はそのための口実ないし方便だからである。ある書物について語るということは、その書物の空間よりもその書物についての言説の時間にかかわっている。ここでは真の関係は、二人の登場人物のあいだの関係ではなく、二人の「読者」のあいだの関係である。そして後者の二人は、書物があいまいな対象のままであり、二人の邪魔をしない分、いっそううまくコミュニケートできる。(243ページ) なるほど! とまあ、この本を読んでいると、冒頭に掲げた本についての3つの規範などというものは、読書の世界を狭めこそすれ、広げることには何ら寄与しないんだ、ということが分かってくる。 要するに、本なんて読んだって読まなくたって、自由に語ればいいわけね。少なくとも、読んでないことに引け目を感じる必要はまったくないと。 バイヤール自身と同様、読んでいない本について語らなくちゃならない立場に身を置く者として、この本、多いに参考になりました。とにかく、本を読むってどういうこと? ということを考える視点として、またブレーンストーミングのきっかけとして、本書、おすすめです。面白いよ!読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫) [ ピエール・バイヤール ] あと、この人はアガサクリスティーの『アクロイド殺し』や、コナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』について論じ、これらの本で犯人とされている人は冤罪で、真犯人は別にいる、ということを論じた本も書いているとのこと。読者は、著者よりも時に正しいわけね。読書の自由を標ぼうするバイヤールだからこそできる芸当で、そちらも是非読んでみたいものでございます。【中古】 シャーロック・ホームズの誤謬 『バスカヴィル家の犬』再考 / ピエール・バイヤール / 東京創元社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
February 5, 2018
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昨夜,風邪気味のまま名古屋から帰って来て、早めに休んだのですけれども、夜中の5時に喉の痛みで目が覚めてしまったという。 あー、やっぱり・・・。やっちまったか・・・。 ほら、風邪の時の喉の痛みってあるじゃないですか。紙ヤスリで喉をこすられたような焼けつくような痛み。 この分だと、今日は一日、辛いことになりそうだ・・・。 で、ここでワタクシはふと思いついたことがありまして。そう言えば、前に家内が「そういう時はハチミツを飲み込むといい」などと言っていたなと。 で、ごそごそと起き出したワタクシは、下のキッチンに降りて行きまして、ハチミツをひと匙ほど喉に流し込み、すぐにごっくんしないで、しばらくそこに溜め、それからゆっくりと飲み下してみたわけ。なるべく、のどにハチミツがまとわりつくように。 すると! もうね、その瞬間からあの喉の痛みが消えたという。あれ? ウソ? え? どうなったの? 何が起こったの? で、それからは喉の痛みに悩まされずに再び眠りにつき、朝起きても、喉の痛みだけはなかったという。まだ若干、風邪の症状はあるけどね。 それにしても、すごいなハチミツのパワーって。ハチミツひと匙の方が、市販のうがい薬とかスプレーよりよほど即効性があるじゃん。 こんなことなら、もっと前から喉の痛みに対処できたのに・・・。50年以上も生きて来て、まだまだ知らないことってありますなあ。 というわけで、今日のお墓参り、喉の痛みに悩まされずに、皆と一緒に楽しむことが出来たのでしたとさ。
February 4, 2018
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先週末からの風邪を引きずっておりますが、今日は県内某所で入試関連の仕事を済ませた後、根性で実家までひとっ走り。 そう、毎年2月の第1日曜日は、小学校時代の恩師・山本茂久先生のお墓参りなのだ! これだけは、三十六年間、欠かさずにやってきたので、多少の風邪くらいで止めるわけにはいかず。 予定によれば、今年は5人が参加する予定とのこと。1時にお墓の前集合で、お墓参りをした後、皆で昼食をとって、そして解散という流れ。私はその後、実家で夕食をとって、それで夜、再び名古屋へ逆戻り。 結局、今回、実家での滞在時間は24時間ジャストなのであります。弾丸トラベラーか!? でも、今日は母と二人で豆撒きも出来たし、良かったかな。 さてさて、まだ具合があまりよろしくないので、今日はもう熱い風呂に入って寝ます。それでは皆様、お休みなさーい!
February 3, 2018
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なんで今更? という感じは自分でもするのですが、今、私はラーメンブームでありまして、手の込んだラーメンが食べたくて仕方ないんですわ。 で、今日のお昼、赤池駅から少し離れたところにあります「一番舎」というラーメン屋さんで食べちゃった。 ここは「魚介豚骨ラーメン」なるものを売りにしているお店。で、私が注文しましたのは、「基本の一杯」であるというつけ麺。 食べてみると、確かに「魚介豚骨」とあるだけに、濃厚な豚骨スープに加えて濃い魚の出汁が感じられるもので、そのこってりとした味わいは、なかなかのものでありました。で、平日のランチではご飯が無料で付くので、麺を食べ終わった後、この白米をつけ汁に投入し、雑炊風にして食べるというおまけ付き。まあ、炭水化物の祭典ですわなあ・・・。 で、トータル、美味しかったのですけれども、つけ麺というのは、基本、太麺でしょ。私、個人的には、ラーメンの麺は細ければ細いほど好きなので、そこがね。どこかに、細麺のつけ麺ってないかしら? それにしても、ラーメンって、麺、スープ、具によって味わいがすごく変わるので、多種多様なものを楽しめるという点で、すごい食べ物ですよね。 ちなみに、家の近くに「ラーメン東大」なる新しいラーメン屋さんが出来たらしく、最近、その広告が入っておりまして、次はここで食べてみようかなと。ここは徳島県に本店があるチェーン店らしく、「ラーメン界の東大を目指す」とのこと。その目指すところはよく分かりませんが、突然訪れた私のラーメンブーム、この分ですとまだ当分続きそうです。これこれ! ↓ラーメン東大
February 2, 2018
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ついこの間まで小・中・高校での教育に「アクティブ・ラーニング」を取り入れろ、とか、アホなことを言っていた文科省ですが、最近はむしろ「大学でそれをやれ」っていう話になっているんですよね。 大体、なんだよアクティブ・ラーニングって。 まあ、座学中心、知識の伝授中心の教育の対立概念として言っているんでしょうけど、馬鹿だね、文科省ってのは。どこまで馬鹿なのか、底が知れないほどの馬鹿。 あのね、主体的な学習にはベースが必要なの。ベースがなかったら、発展がない。だから小・中・高はもとより、大学だってまだまだ学部のうちはベースの構築ですよ、重要なのは。 で、今時の大学生見ていて、圧倒的に足りないと思うのは、知識。それはもう、お話にならないくらい足りない。だから、若い人の教育に必要なのは、知識の詰め込みです。それが今日ほど必要とされている時代はないよ。私たちが大学生のころに知っていたことの10分の1くらいしか、今の学生は知りませんよ。 また、知ろうという興味も意志も持ち合わせていない。増えたのは、「知ろうと思えば、いくらでも便利に調べられる環境」だけ。宝の持ち腐れです。 そこへもってきてですよ、「知識の詰め込みはもういいから、とりあえずアクション」って、どういうこと? ちょっと前まで「ゆとり教育が大事」って言ってた連中でしょ。で、それが失敗に終わった後、その反省もないまま、人が変わればまた別なアホなことを言い出す度し難い馬鹿ども、それが文科省ですよ。 京大ips細胞研究所の論文ねつ造。あれも、表面的に見れば某助手のやらかした個別の問題ですけども、根はもっと深い。だってあそこにいる数百人の研究員、9割が任期付きの雇用形態ですよ。例えば5年間なら5年間、その期間内に業績だせなければ即クビという世界。 クビになったら身の破滅と、若い研究員の誰もが焦っているわけだ。一刻も早く、目立つ業績を作らなくちゃヤバイと誰もが思っている。その状況での、あの論文ねつ造。 その意味で、本当の病巣は、そういう業績主義の雇用形態を導入した文科省にこそあります。 ほんと、文科省がやらかすことってのは、ほぼ100%間違いね。全部だめ。だから「アクティブ・ラーニングを大学レベルで導入」なんてのも、絶対にやっちゃいけないことなの。 色々な雑誌で、もう日本からノーベル賞受賞者は出ないんじゃないか、などと危惧されておりますが、圧倒的に知識のない、しかも能動的・主体的に学ぶ意志も準備もない生徒・学生たちに、実にもならない形ばかりのアクティブ・ラーニングさせて、それで新しい何かを生み出すような人材を育てられるはずもない。とにかく、この国から追放すべきは文科省でございます。これをなくして、あと、潤沢にお金を教育と研究に回せば、まだまだ日本も捨てたもんじゃないと思いますが、教育・研究にお金をケチり、アホな文科省に教育行政を牛耳らせるままにしておくなら、この国に未来はないね。
February 1, 2018
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