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名古屋市美術館で現在開催中の「モネ それからの100年」という展覧会を見てきました~。 ちなみにこの展覧会、会期は7月1日までなの。もう、ほとんどおしまい。それを駆け込みで見てきたわけ。 で、今回の展覧会では、モネの作品は30点くらいしかなく、後は「モネにインスピレーションを得た様々な画家による作品」なわけ。 ま、モネ30点じゃ、展覧会としてはちょっとモノ足りないので、他の作品をバーターで加え、いっしょくたにして展示しちゃった、って感じかな。 でも、それって、展覧会の企画としてどうなんだろう? だってさ、本物のモネと比べて展示されるんだから、当然、他の画家の作品群がダメダメに見えちゃうわけよ。そりゃそーでしょうよ。で、そのことはそれらの作品群にとって幸福なことなのかどうなのか、と。そこを考えてもらいたかった、というところはあるよね。 ま、そこは百歩譲りまして。 モネはいいよね、もちろん。 ただ、私の個人的な好みとしては、モネの晩年の作品群、つまり睡蓮シリーズとか、積み藁シリーズとか、ロンドンシリーズとか、その辺のモネのかかったような・・・じゃなくて、モヤのかかったような画風の作品よりも、若い時の色鮮やかな、いかにも明るい印象派っぽい時代の作品の方が好きかな。モネには、睡蓮の浮かぶ池を描くより、海の見える崖を描き続けてもらいたかったぜ。 あと、モネにインスピレーションを受けた画家たちの作品の中では、リキテンシュタインの「積み藁インスパイア」シリーズが、「こいつ、分かっているな」という感じがしましたね。さすが、さすが。 逆に、アンディ・ウォーホルの有名な「花」のシルクスクリーンを展示して、これはモネにインスピレーションを受けた作品です、って言われても、「本当かよ」って感じ。ウォーホルは、たとえモネのモの字も知らなくたってあの作品を作ったでしょうよ。 その他、児玉麻緒という若い画家の諸作品は、ちょっとインパクトがあって良かった。児玉麻緒って、こんな画風 でも、ま、やっぱり展覧会は面白いですよ。 で、すっかり満足した我らが次に向かったのは、星ヶ丘というところにある「キュイソン」というフレンチのお店。薪で焼く各種お肉が売り。このお店、初めて入りましたけど、料理も美味しく、洒落ているし、コスパもすごくいい。人気があるわけだ。気に入りました。 ということで、展覧会とフレンチと、両方楽しんで、いい休日となったのでした。
June 30, 2018
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既に何度か書いているように、今年、久しぶりに文学専門の授業としてヘミングウェイの作品を学生たちと読んでおりまして、今時の英文科の学生がまるでヘミングウェイ作品を読み込めないことに愕然としておるのですが、ちょっと調べてみると、どうしてどうして、ヘミングウェイが分からないのは、何もうちの学生だけじゃないのかなと。 実際、解釈以前の問題として、ヘミングウェイの文章そのものを読み違えていることも結構ありますな。 例えば「兵士の故郷」(Soldier's Home)という作品、ヘミングウェイの作品にしては珍しく、わりと骨のある文章が前半部分に幾つかある。一つ例を挙げると、 His acquaintances, who had heard detailed accounts of German women found chained to machine-guns in the Argonne forest and who could not comprehend, or were barred by their patriotism from interest in, any German machine-gunners who were not chained, were not thrilled by his stories. という文章。「兵士の故郷」の主人公・クレブスは、第1次大戦の激戦地で戦闘を体験した後、アメリカの故郷に戻っているのですが、他の一般の帰還兵に比べて帰還が1年ほど遅れたため、地元の帰還兵歓迎の気運も既に去り、戦争の無惨さについても既に散々論じられていたので、今更クレブスが何を語ろうと誰も聞いてくれない、そんな状況を表した文でございます。 で、上の文章なのですが、学生に読ませたって全然読めない。文法的な構文も取れないし、取れたとしても何が書いてあるかが全然分からないんですな。 まず文法的なことから言いますと、主語は「His acquainances」で、動詞(述部)は「were not thrilled (by his stories.)」ですわな。だから、「(クレブスの)知人たちは、クレブスの話を聞いてもちっとも驚かなかった」ということになる。これは簡単。後は「His acquaintances」を先行詞とする二つの関係代名詞節をどう取るか。 細かいことを言うと面倒なので、はしょって言いますと、最初の節は「アルゴンヌの森(第1次大戦の激戦地の一つ)で、機関銃に鎖でつながれた状態で発見されたドイツ女について詳しく聞かされていたので・・・(今更驚かなかった)」ってな感じですかね。 だけど、そう読めたとしても、それが何を意味するのか、学生たちにはさっぱり分からない。 つまり、「機関銃」がどういうものか、それが分かってないわけよ。ここで言う機関銃って、ランボーが持っているような奴じゃないからね。地面に固定された据置型のでっかい機関銃ですよ。持ち運べるようなものじゃない。 つまり、ドイツ軍はそういうでっかい据置型の機関銃で連合軍の反撃を防いでいたんだけど、劣勢になってきたんでしょうな。だから普通にしていたら、連合軍の猛攻に怯んで兵士が機関銃放り出して逃げちゃう。だから、逃げないようにドイツ軍は兵隊を機関銃に鎖でつないだわけよ。それも、女性兵士をですよ。それで機関銃につながれたまま、その女性兵士は連合軍の弾に当たって死んでいたんでしょう。無惨なことをするもんだ。そんな無惨でショッキングな話を散々聞かされていたから、今更、クレブスの戦争話を聞いてもちっとも驚かなかったと。 後半のもう一つの関係代名詞節ですが、これは「could not comprehend」の目的語が「any German machine-gunners who were not chained」なんだから、「鎖で(機関銃に)つながれていないドイツ兵なんて想像できない」ということですな。想像できないか、あるいは「were barred by their patriotism from interest in」ですから、愛国心に妨げられて鎖につながれてないドイツ兵に興味が持てないと。 つまり、機関銃に鎖でつながれて身動きできないまま撃ち殺された女性兵士の無残さに驚かないばかりか、「えー、だってドイツ兵なんて大抵機関銃に鎖でつながっているもんなんじゃないの?」と言われちゃうってことですよ。聞き手がそんなんじゃ、どんな戦争話をしたって、興味を持ってもらえそうもない。 ところが、この文章をちゃんと読める人ってのが少ないわけね。それは専門家でもそう。実際、この作品の既存の翻訳を見ると、「ドイツの機関銃手なんて、みんな鎖でつながれているのだということがのみこめないのか、(中略)一向ぞっとしなかった」なんて訳してある(北村太郎訳)。逆じゃん。 あと、この先にも難関がある。 Krebs acquired the nausea in regard to experience that is the result of untruth or exaggeration, and when he occasionlly met another man who had really been a soldier and they talked a few minutes in the dressing room at a dance he fell into he easy pose of the old soldier among other soldiers: that he had been badly, sickeningly frightened all the time. という箇所。クレブスは、帰還してから戦争体験を語るのですが、先にも言ったように誰も聞いてくれない。そこで自身の体験や戦地での噂話などを潤色したり誇張して語るようになるのですが、そのために自己嫌悪に陥っていき、正義の闘いに身を投じた自身の行動に対する誇りが失われていくわけね。そういう時に、自分と同じく戦地に居た元兵士に会って話をしたりすると・・・というのがこの文で説明されている。 問題は最後の「that he had been badly, sickening ly frightened all the time」の取り方です。 これもはしょって言ってしまえば、この that節 は talked の目的語でしょう。つまり、戦争を兵隊として実体験していない一般人に対しては、誇張したり、真実でないことを語る一方、同じ戦火をくぐってきた同士に対しては、自分が戦場でいかにビビっていたかということを正直に語ったと。同じ戦争体験を、二種類の方法(=ウソと本音)で語り分けざるを得ないというところが、クレブスの悩みであるわけで。 だから、このthat節は、戦争中の体験を語ったものと取るのが正しいのだと私は思います。ところが、そうとってない人がプロにも多いんだなあ。 例えば・・・ クレッブスは嘘とか誇張の後味なるものを経験して吐き気を覚えていた。ダンス・パーティで偶然、実際にもと兵士だった男に遭い、化粧室で数分間はなしあったとき、彼は兵隊仲間としてのくつろいだポーズに落ちこんでしまったことがあった。つまり彼は、ひどく、みっともないほどに、いつもびくびくしていたのであった。(北村太郎訳) クレブスは嘘や誇張のあとで味わう体験に吐気をおぼえた。そして舞踏会の化粧室でほんとうに兵士だったことのある男に出会い二、三分話をしていると他の兵士たちといっしょにいる昔兵士だったくつろいだ姿勢にいつのまにかなっていた。かれはいつもひどく、いやになるほどおびえていた。(宮本陽吉訳) クレッブスは嘘や誇張のために経験させられることにうんざりしていた。そして時おり、実際に兵隊だっただれかに会ってダンス・パーティの化粧室などで二、三分話しているうちに、彼は戦争ちゅうずっとひどくびくびくしていたという、同じ復員兵同志のあいだで見られるあのくつろいだポーズを取るのだった。(高橋正雄訳) 上の三例の中では高橋正雄訳だけが、that節を戦争中のことと取っていて、その点では唯一正しいのですが、文全体としてはよく分からないものになっていると言わざるを得ない。 私だったらどう訳すか? 嘘や誇張を交えて語ってしまったために、クレブスは戦争で体験したことを考える度、吐気をおぼえるようになってしまった。そんな折、たまにダンス・ホールの手水場で戦地に居たことのある奴と偶然出くわし、しばし雑談するような機会があると、兵士が他の兵士と共に語り合う時のようなくつろいだ気分になり、戦争の間中、自分がひどく縮み上がっていたことを打ち明けたものだった。 こんな感じかなあ・・・。どう? 少なくとも上の3例よりマシじゃね? とにかくね、ちょっと気にして調べてみると、ヘンテコな解釈が大手を振ってまかり通っていることが明らかになるわけ。そのことに気が付くと、ヘミングウェイの作品を正しく解釈している日本人って、実はおっそろしく少ないんじゃないかと思えてきます。 実際、ちらっとネット上で調べてみると、超有名なヘミングウェイの作品ですら、全然意味を取り違えている人がやたらにいるということが分かる。それはもう、驚くばかりですわ。本来の意味とはまるで逆に解釈している例もわんさとある。しかも、素人がそうするのはまだいいとして、一応は○○大学の先生、みたいな人の書いた論文ですら、トンチンカンなのばっかりなのよ。 例えば上の例で、クレブスが「吐気を覚える」という箇所があるでしょ。だけど、クレブスは海兵隊に所属していたということになっているので、船酔いには強いはずだから、嘘をついたくらいで消化不良を起し、吐気を覚えるのはおかしい。これはつまり、クレブスが海兵隊員としては失格だったということを意味しているのではないか、なんてチンプンカンプンなことを論じている「論文」まであるのよ。すごくない? で、思うのですが、ヘミングウェイ協会は、そういう誤った受容を糺さないといかんのじゃないかと。ヘミングウェイの個々の作品が、これだけいい加減な、誤った解釈ばかりされている現状をどうにかせにゃいかんのじゃないかと。 文学作品の解釈なんて、読んだ人の数だけある、と思っている人もいるかも知れませんが、そんなことはないので、まずは正しく解釈し、その上で、それをどう考えるか(そこから先は千差万別でよろしい)という考察をスタートさせないといかんのじゃないかなあ。 ま、ヘミングウェイが専門というわけではない私にとっては他人事だけどね~。
June 29, 2018
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最近、あらためて英単語のボキャビルを心掛けているんですけど、そうすっとね、意外なところに落とし穴があるなと思うことが多いわけ。 たとえば「果物」。果物って、英語で何と言うか? まあ、「フルーツ」だと思いますわな。fruit ね。 ところが、辞書を読んでいたら、意外なことが書いてありまして。 例えばリンゴとかオレンジとか、バナナとかキーウィとか、そういうのはフルーツでいいんだと。ところが、桃とかサクランボとか、ああいうのはフルーツではないと。 ん? そうなの? 桃がフルーツじゃなかったら、何なの? 実は、ドループだったと。drupe 。 つまり、真中に一つ、硬い種があるような奴。あれはフルーツじゃなくて、ドループだったんですな。 マジか! ドループなんて聞いたことないよ。 ちなみに、イチゴは何だと思う? フルーツ? ドループ? 違いまーす。あれはベリー(berry)。簡単につぶすことが出来て、グジュッと果汁が飛び出して来るような奴は、フルーツでもドループでもなくベリーなんですって。 結局、日本語より英語の方が果物の分類にうるさいんですな。日本語だったらリンゴも桃もイチゴも一括してフルーツ、果物、実ですもんね。 逆に虫の分類だったら、英語より日本語の方が遥かに多様ですからね。言語によって、世界の切り取り方は随分異なるわけだ。 しかし、ドループね・・・。知らなかった・・・。 英語って、いつまで経っても難しいな・・・。
June 28, 2018
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サッカー・ワールドカップ、相変わらず楽しんでおります。何と言っても、戦前の予想を覆し、日本代表が頑張っていい成績残してますからね。そこはもう、代表選手の皆さんに感謝、感謝でございます。 ところで、ワールドカップにまつわる各種報道を見ていると、なかなか感じ入るものがありまして。 たとえばキング・カズこと三浦知良選手のエピソード。彼は今年5月31日にに発表された日本代表選手23名のリストに自分の名前がないことを受けて、「また俺は落選だ!」と語ったとのこと。奥さんが自身のオフィシャルブログで明らかにされたということですが。 いやあ。いい話だなあ。 ユーモアの本質はその自虐性にあるとはよく言われることですが、それにしてもカズさんのこの発言は実にユーモラス。だけど、単なるユーモアではないんだよな。 おそらく、彼は本気で日本代表に呼ばれることを想定して、今なお準備しているんだと思うんですよね。それだけ厳しく鍛え上げ、気合を入れて、本気で自分のリスト入りを期をするところがあったのではないかと。そうじゃなきゃ、50歳超えて現役なんか続けていられないでしょう。 そういうことも含めて、「また俺は落選だ!」を読むと、もう、私なんかは笑いながら泣けてきますよ。そして泣きながら、感動します。なんとこの人は雄々しいのかと。 ほんとに、この人を一度でいいから、終了間際の5分のスーパーサブでいいから、どこかの時点でワールドカップに出させてやりたかったなあ・・・。 さて、もう一つ私が感じ入ったのは、先日のセネガル戦を受けての本田圭祐選手のコメントね。「自分は人から批判されて闘志を新たにするタイプだから、私のことを上げたり下げたりするのはいい。だけど、日本代表のメンバーの中にはそうでない人もいるのだから、批判するのは私だけにしてくれ」という趣旨の発言です。 ま、おそらくはあの勝てた試合でミスをして不必要に点を献上してしまったGK川島選手を気遣っての発言だったのでしょうが、こういうことって、なかなか言えないですよ。それを堂々と言ったのだから、本田選手ってのは、やっぱり大したもんだなと。 実は、コロンビア戦の後半に登場した本田選手のキレがイマイチだったもので、私自身、本田選手を今後の戦いの中で使うメリットってあるのかな、と、やや疑問に思っていた口なんですけれども、セネガル戦での貴重な同点弾、そしてその後のこの発言を聞いて、やっぱり日本代表に本田選手は必要だ、と思い直しました。 本田先輩、御見それいたしました! さっせーん!! いい話2題続いたところで、一つ、これは批判なんですけど、今回のワールドカップの中継の中で、ファウルに倒れた選手を評して「選手が痛んでいます」という言い方が盛んに使われていません? すごく気になるわ。 「いたんでいる(=傷んでいる)」と言ったら、基本的には「腐る」という意味ですよ。人間にあてはめられる言葉じゃない。それを言うなら、ちゃんと「痛がっている」と言いなさい。サッカーの世界での最近の流行語なのかどうか知りませんが、公共の放送を使って変な日本語を使うのはお止し。日本代表戦を中継するその放送だって、ある意味「日本代表」なんだということを自覚しなさい。
June 27, 2018
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タル・ベン・シャハーという人の書いた『Happier 幸福も成功も手にするシークレット・メソッド』という本を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ちなみにタル・ベン・シャハーというのは1970年生まれのハーバード大の先生で、ポジティヴ心理学を講じて超人気講師となって一躍名前が売れた人。最近多いじゃないですか、「〇〇大学人気No.1講義!」みたいな奴。この本もそんな感じ。 ハーバード大みたいな伝統エリート校でも、最近は講義がショーアップされちゃってるんでしょうかね。『TED』みたいな感じで。ちょっと馬鹿みたい。アカデミズムとジャーナリズムを混同しているよ・・・。 ちなみに本書の副題には「シークレット・メソッド」とか書いてありますが、これは訳者が勝手につけたもので、オリジナルにそんな文言はありません。大体、著者は大学で本書に書いてあるようなことを講義しているんだから、秘密も何もあったもんじゃない。ただこの種の自己啓発本には、「成功するためには選ばれた者だけが知っている秘訣がある」というふうにフリーメイソンっぽく喧伝する伝統があるので、本書の訳者もそれに則ったのでしょうな。 さて、本書の内容についてざっと説明していきましょう。 本書冒頭には、著者の専門である「ポジティヴ心理学」が何を目指すものであるかの説明がしてある。それによりますと、ポジティヴ心理学とは「人間の最適機能に関する科学的研究であり、その目的は、個人および社会の繁栄を可能にする要素群を発見し、公にすることにある。ポジティヴ心理学運動は、心理学者たちによる新しい決意――心の病や障害に焦点を当ててきた従来の姿勢を改め、心の健康に焦点を当てはじめる意志――の表れである(1999年に作成されたマニフェスト)」そうですけど、これをもっと簡単に言いますと、「人間がより幸せになるにはどうすればいいか?」ということを追求する学問であると。この「より幸せになる」というのが、本書のタイトル『Happier』の比較級の理由なんですけどね。 じゃあ、なんで「より幸せ」なのか。 これは、「『幸せ』と『不幸せ』の二律背反からは何もいいものは生まれて来ない」という発想なんですな。 普通、人は自分の今の状態を「不幸せ」と見なすわけね。それでどこかにある「幸福」を夢見る。それは例えば「宝くじが当たって億万長者になったら幸せになれるんじゃないか」とか、「今度部長に昇進したら幸せになれるんじゃないか」とか、「誰それと結婚できたら幸せになれるんじゃないか」と言った具合。つまり、「そこに到達したら、永遠の幸福状態になれる」という地点を夢想して、それを夢見ながら現在の不幸の中を生きている。 しかし、そのように「幸福」をここではないどこかに措定した場合、その地点に到達してしまうことがあるわけですよ。宝くじが当たったり、部長になったり、結婚出来たり。ところが、以前には「そこに到達したら、自分は幸福になれる」と思った地点に到達しても、案外、幸せが長続きせず、また以前の幸福度に戻ってしまうことになる。そうすると、またぞろ「〇〇できたら、今度こそ幸せになれる」と信じて、そこへ向かって大して幸福でない現在を生きる結果になると。 こんな感じで、「今は不幸、でもいつかは幸福になれる」という考え方では、永遠に夢見た幸福はやってこないんですな。そうじゃなくて、「明日は今日より幸せになり、あさってはさらに幸せになる」という風に永遠に続く幸福の上昇階段を歩み続けること、これこそが正しい幸福の在り方であると。これによって人間は、今・現在を幸福の中で過ごすことが出来るわけですな。じゃあ、どうすればそういう意味での幸福状態に入れるか。その方法論が、本書が読者に伝えようとしていることなわけ。 ところで、その前に、なぜ人間は幸福になりたいと思うのか、ということなんですけど、著者によれば、幸福というのは人間にとって常に究極の目標であるから、ということになります。 このことを実証するために、著者は人がしたいことの理由をその人に問うてみよ、と言います。例えば「〇〇の資格が取りたい」という人に「なぜその資格が取りたいのですか?」と問うてみる。で、「昇進したいから」という答えが返ってきたら、さらに「なぜ昇進したいのですか?」と問う。「昇給してお金持ちになりたいから」と答えたのなら「なぜお金持ちになりたいのですか?」と問う。この問いに「お金持ちになって高級車に乗りたいから」と答えたなら、さらに「なぜ高級車に乗りたいのですか?」と問う。 この種の問は永遠に続けることが出来ます。 ただし、もし相手が「幸福になりたいから」と答えたなら、それ以上は問うことができない。「なぜ幸福になりたいのですか?」と問うても、それは意味がないわけね。「幸福になりたいから、幸福になりたいのです」としか答えられないんだもん。 つまり「幸福になりたい」というのは、それ以上先がない、究極の人生目標であることが、このことから分かるわけ。英国の哲学者デビッド・ヒュームが「人生最大の目的は、幸せの実現である。この目的に奉仕すべく、芸術が生み出され、科学が生まれ、法律が定められ、社会が作られた」というのは、そのことを言っているんですな。 だから、そのことをまず認めろ、と著者は言います。自分は、究極的には幸せになるという唯一の目標のために生きているのだと。 で、ここがまた面白いのですが、本書の著者は、「幸せを『通貨』として捉えろ」と提唱します。なぜなら、幸せを「通貨」として捉えれば、物事の比較の物差しになるからです。 例えば、残業して昇給を図るのと、残業を断って家族と過ごす時間を増やすのと、どちらが得か、という問があったとする。もしこれを「お金」を物差しとして計ったならば、「家族と過ごす」のは「損」だということになる。しかし、もしこれを「幸せ」という通貨を物差しとして計ったならば、「家族と過ごす」ことは「残業する」ことよりも「得」だ、ということになる。なぜなら、その方が幸せになれるからね。 このように、お金ではなく、幸せを通貨として考えると、物事の判断が劇的に変わるわけですな。だから、これからは幸せを通貨として、その通貨を増やすことを考えろと。 なるほどね。 で、じゃあ、どうやってその幸せ通貨を増やせるか、という具体的な話なんですけど、そこから先は、まあ、どの自己啓発本にも書いてあることが並んでいる。 たとえば、自分がやっていること(例えば仕事)に、意味があると思えなかったら、それは幸せに貢献しないよ、とかね。だから、仕事を選ぶ時は、それが自分にとって意味があり、それをやっている時、充実を感じなかったら、そういう仕事をやってはいかんと。著者自身、人に教えることが大好きなので、お金儲けをあきらめて教職に就いた、とのこと。 でまた、好きな仕事をすれば夢中になるので、効率も上がり、成功することにもつながる。幸せと成功は、背反しないんですな。(このあたり、マズローやチクセントミハイの「フロー」概念が頻繁に引用される。例えば「人間が手にしうるもっとも美しい運命、もっとも素晴らしい幸運は、情熱を傾けて行えることを行うことで、生計を立てられるようになることである」というマズローの言葉など。) しかし、そうは言っても、心の底からやりたい仕事に就けるかどうかは難しい問題で、心に沿わない仕事をせざるを得ないこともある。 そういう場合、著者は「幸せブースター」を活用しろ、と言います。 自分の好きな活動で、短時間で行えるものを著者は「幸せブースター」と呼ぶんですな。例えば気の合う友人と15分おしゃべりするとか、週に一度、外食するとか、その程度のこと。ま、いわば「自分へのご褒美」ですな。それを辛い仕事の合間、合間に挟み込む。そうすると、大分違いますよと。また著者は「瞑想」もまた、よきブースターになりえるよ、と勧めています。 ちなみに、本書全体を通じて「仕事」の重要性は、しばしば指摘されます。仕事をしない人生ってのは、幸せになるのが難しいらしいんですな。 それで一つ面白い実験のことが紹介されているのですけど、1930年代に心理学者のドナルド・ヘップという人が6歳から15歳までの600名の生徒を対象に、「行儀の悪い生徒には、教室の外に出て遊ぶという罰を与え、行儀のよい生徒には、勉強を続けられるという褒美を与えます」と指示を出したと。すると生徒の全員が、一日か二日後には、遊びよりも勉強を選んだ、というのです。 つまり、人間というのは、遊ぶばっかりでは幸せになれない、ワークをしないとダメなんですな。だから、仕事=辛いという、我々が何となく抱いている概念はまず捨てろと。 ただし、余りにも忙しすぎると人間は幸福になれないことも、心理学の実験や著者自身の体験などで明らかなので、スケジュールに余裕を持たせなければだめ(J・P・モルガンは「私は、1年の仕事を9ヵ月で行うことはできますが、12ヵ月では行えません」と言ったとか)。 あとね、これもよく自己啓発本に書いてあることなんですけど、「利己主義と利他主義は背反しない」とかね。人が喜ぶことをするのは、自分の幸せにつながるので、利他主義的行動をするのは、要するに利己主義的な動機なのだけど、それはいいことなのだと。だって、人間は自分の幸福を追求すべきなのだから。エマソンも言ってます、「自己を利さずして他者を利することのできる人間は一人もいない。これは、この人生におけるもっとも素晴らしい褒章の一つである」と。 で、この利己主義についてさらに言えば、著者は読者に「幸せ至上主義者」として生きよ、と、本書の最後で訴えかけております。なぜなら、自分が幸せになることで、世界に幸せの価値を発信することになり、それが世界を変えることになるから。世界を幸福なものに変えるには、まず隗より始めよ、というわけ。 自分が変われば、世界が変わるーー自己啓発本の究極のメッセージが、本書にも書かれておりましたわ。 ってなわけで、本書はポジティヴ心理学の人気伝道師の本であり、典型的な自己啓発本でございました。エマソンからの引用もあるしね。その他、ウィリアム・ジェームズ、ヴィクター・フランクル、マクスウェル・マルツ、ロバート・M・パーシグ(『禅とオートバイ修理技術』の著者)、サミュエル・スマイルズ、ヘンリー・デビッド・ソローなんかの引用もそこここに。 ま、悪い本じゃないけど、うーん、普通かな・・・。「幸せ通貨説」はちょっとセンスを感じたけどね。 っていうかさ、結局、自己啓発思想を語ると、この程度でハーバード大学で人気No.1の講師になれるってことですな。 だったら、ワタクシもなれるんじゃね? 今や、本書の著者、タル・ベン・シャハーなんて足元にも及ばないほど、自己啓発思想の専門家だよ、ワタクシ。深いところまで語るよ~。 ハーバード大学執行部のみなさーん、お仕事のオファー、待ってまーす!Happier 幸福も成功も手にするシークレット・メソッド [ タル・ベン・シャハー ]
June 26, 2018
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エレナ・ポーター(Eleanor Emily Hodgman Porter, 1868-1920)が書いた『少女ポリアンナ』(Pollyanna, 1913) という小説を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 『少女ポリアンナ』というのは、昔フジテレビ系で『愛少女ポリアンナ』というタイトルでテレビ・アニメ化された奴ね。さらに昔、村岡花子大先生が『パレアナの成長』というタイトルで本作の続編を訳したこともある。まあ、そういう感じのやーつーね。つまり、子供が読む奴。 じゃあ、なんでそんなのを50代半ばのおっさんが読んだかと申しますと、この小説、しっかり自己啓発本だからよ~。 その前に、本作の筋書きを述べておきましょう。 アメリカ北部バーモント州に住む裕福なポリー・ハリントン女史のところに、11歳のポリアンナという姪っ子が来る、というところから物語は始まります。なんでそういうことになったかと申しますと、アメリカ西部で牧師をしていたポリアンナのお父さん、ジョン・ホイッティアー氏が亡くなって、ポリアンナが孤児になってしまったから。ホイッティアー氏の奥さん、すなわちポリアンナのお母さんで、ポリー・ハリントンの姉にあたるジェニーは、もっと昔に亡くなっていたんですな。 しかし、このハリントン女史は、ある理由から世捨て人的な生活をしている偏屈なオールド・ミスでありまして、姉の娘となれば自分が引き取るしかない、という「義務感」のみでポリアンナを受け入れることにしたのであって、そんなガキがやってきたら自分の静かな暮らしが台無しになるのではないかと戦々恐々。とりあえず屋根裏の酷い部屋に閉じ込めてやろうと思っている意地悪さんなわけ。 もっともハリントン女史の気持にも多少は理由がある。実は姉のジェニーは、地元の裕福な青年から結婚を申し込まれていて、そのままそれを受け入れれば、裕福な家同士の結婚となり、万事OKだったんですな。ところがジェニーはその青年の申し込みを断り、実家から半ば縁を切られた上で、貧しい牧師と結婚して遠くに行ってしまった。いわば姉は勝手なことをして、勝手に死んで、そのツケを自分が払わされることになったわけ。しかも、ハリントン女史にだって若い頃にはロマンスがあったのですが、そのお相手の青年と喧嘩をし、疎遠になってしまったという経緯もある。自分は結婚できなかったのに、娘を育てる義務だけは負わされるわけですから、それも剣呑だ。いくらジェニー姉が、その娘に妹二人(ポリーとアンナ――アンナも既に鬼籍に入っている)の名前を一緒にして付けたとしても、まだ見たこともないその娘っこのことをどう扱っていいのやら見当もつかない、という状況なんですな。 しかし、とにかくその11歳の娘っこはやって来たと。 そしたら、これがまたすごい傑物だったんです。 まあ、元気、元気。明るくておしゃべりで、エネルギーの塊のような娘。 彼女は幼い時に母を亡くしたのであり、また牧師の父も貧乏だったので、父娘とも地元婦人会が定期的に集めてくれる「慈善箱」に入ったもので生計を立てていたわけ。だから服や下着にしたって、自分の身体にあったものなんかあったためしがない。それでも、ポリアンナはいつまでも悲観したりはしないんですな。というのも、大好きなお父さんに「嬉しい探しゲーム (Glad Game)」というのを教わっていたから。 じゃあ、その「嬉しい探しゲーム」というのは何かと言いますと、何であれ物事の肯定的な面を発見するというゲームなわけ。例えばポリアンナがお人形が欲しかったのに、慈善箱の中には松葉杖しか入ってなかったとする。それは当然残念な、悲しいことなのですが、肯定的に見れば、自分は松葉杖を使わずに済む健康さを持ち合わせていることに改めて気づく契機になるので、それは楽しいことではないか、というわけ。以後、ポリアンナは父から教わったこの「嬉しい探しゲーム」をしながら、どんなに悲しい状況をも楽しい状況に変えて耐えてきたんですな。 だから、初めてポリー叔母さんに会った喜びが、叔母さんの冷たい応対と、きれいな絨毯も絵の一枚もない屋根裏部屋をあてがわれたことによって大幅に減じた時も、「絵が無くても窓からの景色がステキな絵のように見えるから嬉しい!」と読みかえてポジティブに喜ぶという芸当を見せるわけ。 ま、一事が万事、あらゆるものを肯定的にとらえ、ゴキゲンに対応するポリアンナが来たことによって、ポリー・ハリントン女史の隠遁生活は、様変わりすることになります。ハリントン女史だけでなく、それまで無口に、女史に言われた用事だけを淡々とこなしてきた召使のナンシーや老庭師のトムも、ポリアンナの存在によって生気を取り戻していくんですな。それどころか、お屋敷の外、すなわち町全体がポリアンナの影響で明るさを取り戻していく。何しろポリアンナは人が好きで、知らない人にもどんどん話しかけてしまうような子ですからね。 で、そんな調子ですから、ポリアンナはこの町一番のお金持ちにして、この町一番の偏屈もの、ジョン・ペンドルトン氏にまで積極的に話しかけ、強引に知り合いになってしまうんです。ペンドルトン氏の方は大分迷惑そうなんですが。 そんなある日、ポリアンナは森の中で、ペンドルトン氏が足を骨折して倒れているのを見つけるんですな。それで、氏の友人で医者のチルトン氏を読んできて、事なきを得る、ということが起こる。かくして、命の恩人になってしまったポリアンナは、ついにペンドルトン氏の好意を獲得、またチルトン氏との知遇も得るわけ。 ところが、ペンドルトン氏とチルトン氏には、秘密があった。それは、ポリアンナの叔母さん、ハリントン女史にも大いに関係するところだったんです。 実はポリアンナのお母さんのジェニーが結婚の申し込みを受けていた地元の裕福な青年というのは、ペンドルトン氏だったんです。さらに、ハリントン女史が結婚寸前まで行きながら喧嘩別れしてしまったロマンスのお相手が、チルトン氏だった。 というわけで、ポリアンナの存在が触媒となって、これらの過去が明らかになり、ペンドルトン氏は昔の恋人の面影を残すポリアンナを養女に欲しいと思うようになるのですが、ポリアンナは親切にも自分を引き取ってくれた叔母さんのハリントン女史を悲しませたくないからという理由で断ってしまうわけ。 そんな折、ポリアンナは自動車に轢かれ、下半身不随になってしまうんです。これはちょっとショッキングな展開でありまして。で、さすがのポリアンナも、もう自分が歩くことはできないということを知って、例の「嬉しい探しゲーム」すらできないほど落ち込みます。 で、ポリアンナがそんなことになってしまったことを知った町中の人たちが、何とかポリアンナをなぐさめ、励まそうとハリントン女史の御屋敷に続々とやってくる。そのことで、ハリントン女史はいかにポリアンナがこの町全体から愛されていたかを知るわけ。 しかも、「義務感」からポリアンナを引き取り、決して優しく迎え入れたとは言えない自分のことをポリアンナが「家族」として愛してくれ、ペンドルトン氏からの養女の申し入れすら断っていたことを知ったハリントン女史は、ポリアンナがなんとか再び歩けるようになれないか、必死で模索するようになる。 そして、かつての恋人にして喧嘩別れをしていたチルトン氏の友人の医師が、下半身不随の患者の治療に長けていると知った女史は、長年のプライドを捨て、チルトン氏を自宅に招いてポリアンナの治療に助力してくれるように頼むわけ。そして、その行為が女史とチルトン氏を再び結びつけることにつながるんですな。 かくして、小説の最後では、長期入院治療の甲斐あって少しずつ歩けるようになってきたポリアンナの姿と、結婚式を迎えたハリントン女史とチルトン氏の姿を描くことで幕を閉じます。 ま、そんな話。 まあ、アレだね。『アルプスの少女ハイジ』と『長靴下のピッピ』を足して二で割ったような話っちゃ、話だね。ハイジは孤児になって遠縁の大叔父のところに来るわけだし、足の悪いクララが最後に立つし。ピッピは「いいもの探し」というゲームをする超ポジティヴで元気な女の子だしね。 で、この小説、出版された20世紀初頭のアメリカでは超のつく人気小説となって、初版の出た1913年に既にミリオンセラーとなったばかりか、1920年までに47刷が出たとのこと。ブラジルや日本、トルコなどでも翻訳され、アメリカでは〈ポリアンナ〉の名前は様々な商品のブランド名になったほか、ファンクラブ(Glad Club)も結成され、ポリアンナものの無声映画もたーくさん作られた。まさにポリアンナ・フィーバーだったわけ。 ところが1940年代に入ると、こうしたポリアンナ熱はぱったりと止み、むしろ「ポリアンナイズム」という言葉は、何でもかんでも肯定的に捉えるアホな行動という意味合いすら持たされるようになってしまうんです。(OEDによると、1921年には既に「ポリアンナイズム」という言葉がそのような意味合いで使われていたとのこと)。実際、この言葉は、今でも心理学の専門用語として否定的な意味あいで使われております。例えば、親に折檻されても、「これは自分のことを思ってやってくれているんだ」と肯定的に捉え、暴力を受け入れてしまう子供の心理を説明する時などに「ポリアンナイズム」と言う言葉が使われるわけ。 そういうことはあるにせよ、しかし、少なくともこの小説がすごい人気を保っていた頃には、ポリアンナの「何でも肯定的に解釈することで、不幸を幸せに変える」という行為は、民衆から支持されていたことも事実。 だから、この小説は、「ポジティヴであればうまくいく」という自己啓発本の一つ、と見なされる資格は十分にあるわけね。 ちなみに19世紀末のアメリカには「ホレイショ・アルジャーもの」と呼ばれる一群の少年小説がありまして、これはホレイショ・アルジャー(Horatio Alger Jr., 1832-99)という人が書いたもので、靴磨きなどで身を立てる貧乏な少年が、その機転を唯一の資本に次々と有力なパトロンを味方につけ、段々と出世していく立身出世ものなんですが、これが19世紀末のアメリカ中の少年たちを感化し、彼らに野心を植えつけ、それがアメリカン・ドリームの基になったという説がある。つまり、19世紀末にはアメリカの少年たちには、彼ら用の自己啓発本があったと。 で、それに即して言うのならば、20世紀初頭には、アメリカ中の女の子用に『ポリアンナ』という自己啓発本があった、と言えるのではないか。「ホレイショ・アルジャーもの」が「出世への野心」という積極的なものを売り物にしたのに対し、『ポリアンナ』は「ポジティヴであればうまくいく」という、受動的な態度を売り物にしたと。それぞれ、男の子用、女の子用にふさわしいものとして。 ま、そんな風に見立てられるわけですな。 しかしね、そういう方面からの興味もさることながら、実際に読んでみると、『ポリアンナ』って、なかなか面白い小説だと思います。少なくとも私は、かなり面白く読みました。 で、後世の人々は、何でも肯定的に捉えようとするポリアンナの行動をアホなものと見て、「ポリアンナイズム」なんて否定的な言葉を作っちゃうわけですけれども、実際にこの小説を読むと、ポリアンナは、決してそんな馬鹿な娘じゃないよ。 そもそも彼女には人生に悲観するだけの十分な資格がある。彼女の人生って、苦しいことばっかりだもの。 それでも、彼女は「嬉しい探しゲーム」をすることで、辛うじてこの悲嘆に距離を置こうと必死な試みをするわけよ。だけど、時にはあまりにも悲しいことが多すぎて、「嬉しいこと」がどこにも見つからずに泣いてしまうこともある。 そんな健気な11歳の女の子を評するに「ポリアンナイズム」なんて言葉を作って馬鹿扱いした心理学者よ、ここへ出て来い! 俺が殴ってやる! と私は言いたい。 ポリアンナを馬鹿にする奴は、つい先日、両親に虐待されて衰弱死した5歳の結愛ちゃんをののしるようなもんなんだぜ。お前は、虐待を繰り返す両親に向って「ゆるしてください」と手紙を書き、その行為を是認・助長する結果となった結愛ちゃんの行動を「ユアイズム」とか名付けるつもりなのかと。 むしろ私は、ポリアンナに倣って、人生の苛酷さに直面した時、何とかそこに肯定的なものを見つけ出そうと試みる態度を身に付けたい。マジで、そう思いますね。新訳少女ポリアンナ (角川文庫) [ エレノア・ホジマン・ポーター ]
June 25, 2018
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ここ最近の研究テーマが「女性向け自己啓発本」なもので、そっち系の本をあれこれ読むのですが、今回読んだのがシェリル・サンドバーグの『LEAN IN』という本。 まずシェリル・サンドバーグについて説明すると、彼女は1969年生れの女性で、現在フェイスブックのCOO。私自身、会社組織に疎いもんだから、「CEO」とか「COO」とか言われてもピンと来ませんが、「COO」ってのは最高執行責任者という意味だそうで、とにかく偉い人なんでしょう。ウィキペディアによると、フェイスブックの株の所有などで彼女の資産は10億ドルもあるらしいよ。10億ドルって、日本円で幾らよ? 仮に100倍として、1000億円か・・・。毎月1億円ずつ使っても100年くらいはもつわけね。 まあ、つまりは圧倒的な成功者ですな。 でまた、本書の表紙にはシェリル本人の顔写真がどーんと載っているのですけど、そんな振る舞いに出るということは、容姿にも自信があるわけですよ。実際、系統で言うとジョディ・フォスター系の、いかにも賢そうな、いかにも意志の強そうな、美形です。優しそうに微笑んでいるけれども、もしこの人と面会するチャンスがあったとしたら、対面して1分でこちらが共に語るに足る人物であるかどうか見抜かれ、語るに足る人物ではないと見限られたら、すぐに秘書が登場して出口に誘われそうな気がする。 ま、想像ですよ、想像。本当はもっといい人かも知れない。 それはともかく天に二物を与えられた圧倒的な成功者ですから、自己啓発本を書く資格が自動的に備わります。「皆さんもこうした方がいいんじゃない」的な、上から目線の自己啓発本書いても、誰からも文句は言われない。ちなみに本書の表題となっている「LEAN IN」というのは、「一歩を踏み出しましょう」という意味。世の女性達よ、勇気を出して一歩前に出なさい、ということですな。一歩を踏み出して――成功者たる私に続けと。 で、そんな成功者が書いたこの本、面白いかつまらないかで言いますと・・・ もう、圧倒的に面白いよっ!!!! 割と最近、このブログでカリフォルニア大学リバーサイド校教授、ソニア・リュボミスキーの『人生を「幸せ」に変える10の科学的方法』という本についてご紹介しましたが、あれと本書『LEAN IN』を比べると、段違いでこちらの方が面白い。面白さの桁が3ケタくらい違う。 同じ「社会的地位のある女性による自己啓発本」であるとはいえ、学者さんの書いた本と、大企業トップの人の書いた本では、これほど面白さに差が出るかと思うほど、こっちが面白い。 学者の書いた本ってのは、結局「調べて書いたもの」じゃん? その意味で、どうあがいても間接的な本ですわ。それに比べてシェリルの書いた本は「実体験を通じて得た叡智に基づいて書いたもの」でしょ。こちらは直接的。間接的な書き物と直接的な書き物では、後者の方が遥かに面白い。 何しろシェリル・サンドバーグは、フェイスブックに勤める前はグーグルに勤めており、さらにその前はマッキンゼー、さらにその前は連邦財務局に勤めていたのであって、政府高官からマーク・ザッカーバーグまで、オプラ・ウィンフリーからグロリア・スタイネムまで、様々な分野でトップとして活躍している人達と直接関わってきた経歴がある。そういう人達と過した日々からの知恵が盛り込まれているわけだから、本書が面白くないわけがないです。あ、そうそう、シェリルはジェーン・フォンダとも直接会ったことがあるそうで、その時は、『ワークアウト』の著者の前に出るということで、ずっとお腹を引っ込めていたとのこと。 しーかーもー、ここがこの本の魅力の一端なんだけど、本書で主役を演ずるシェリル・サンドバーグという女性は、決してそのキャリアから想像されるようなスーパー・ウーマンじゃないのね。一般的な「働く女性」と何ら変わらないごく普通の女性として――日々様々な問題に直面し、時に大失策を犯し、時に落ち込み、時に周囲の人々に助けられながら、どうにかこうにか前に進んでいるといった普通の女性として――この本を綴っている。 要するにこの本は、内容からすれば、読者(の女性達)に向って「こういう風にしなさい」と呼びかける「上から目線」ではあるのだけど、その一方で「私も皆さんと同じよ! 同じ悩みに悩み、同じ迷い・躊躇いと闘いながら、日々過ごしているのよ!」というメッセージを含んだ「下から目線」のスタンスでそれを語っているんですな。構造が二重になっているわけですよ。 だから、これを読んだ人は、シェリルの言っていることに反感を感じることができない。だって、どういう基準から言ったってスゴイ人なのに、謙虚なんだもん。最初から、こちら(読者)に勝ち目はない。 かくして、私もシェリルの戦略にまんまとはまり、すっかり虜にされてしまったという・・・。私は女性でもないのにね。 いや、だけどアレだね。この本は、もちろん女性に向けて書いてあるんだけど、むしろ世の殿方こそ、本書を読む必要があるね。だって、この世は男と女で成り立っているのだから、女の問題はそのまま男の問題よ。特に現在の「職場」の在り様からすれば、男こそ本書を読んで、同じ会社の女性社員がどういう状況に置かれているかを知った方がいい。 じゃあ、本書でシェリルが何を論じているかと言いますと、どうして21世紀の今なお、女性がトップを務めるような会社の数がこれほど少ないのか、どうして社会進出したはずの女性達が途中でキャリアを諦めてしまうのか、ということですな。 フェミニズム運動の流れからすれば、シェリルの祖母の時代に女性たちは参政権を獲得し、母親の時代に社会進出の実績を作り上げた。つまり女性が勝ち取るべきものはすべて勝ち取ったのだから、シェリルの世代としては、既に達成された男女平等社会の中で男性と同等に活躍し、会社に勤めているのであれば、そのトップの座を狙って頑張ればいいだけ・・・と思っていたのですが、実際に社会に出てみると、そこには相変らず働く女性にとって、男性と同等に活躍することが難しい様々な現状があったと。 例えば、まず、女性特有の自信の無さがある。これは天性の性差なのかも知れないけれども、実際には女性の方が高い能力があったとしても、女性はそんな自分を過小評価し、自信なさげに振る舞うのに対し、男性の方はまったく裏付けがないのに妙に自信があって、自分を売り込むのに積極的、というところがある。 例えばシェリルと彼女の弟は、ハーバード大学で同じ授業を取っていたことがあったのですが、期末試験の際、シェリルは「あのことにも言及すればよかった、このことにも触れておけばよかった、きっと酷い点数が付けられたはず」と後悔ばかりするのですが、弟の方は何の根拠もなく「まあ、Aは取れたな」と思う。実際には二人共Aを取るのですが、こと「自信」ということに関して、二人は対照的だったわけ。 で、この「自信のなさ」があるものだから、社会に出た後も女性は苦労する。手柄を立てれば、「自分の実力じゃなくて、人に助けられたせいだ」と思い、「じきに自分の実力の無さがバレるに違いない」と怖れ、逆に失敗すれば「やっぱり」と思う。そんな風だから、職場でもいつも隅の方に引っこんでしまって、会議などでも積極的に発言できない。これでは男の同僚たちと「同じテーブルにつく」ことすらできないわけですな。 しかし、こういう女性の自信の無さには、社会的・伝統的な背景もあるとシェリルは言います。つまりどの社会でも「できる女は嫌われる」という傾向があって、「仕事ができる女は性格が悪い(=性格がいい女は仕事ができない)」と一般に思われているので、社会に出た女性は仕事で成果を挙げて嫌われるか、人に好かれる代わりにキャリアを諦めるかの二者択一を迫られると。 もちろん、これは不当なことであって、この社会通念自体を変える必要がある。しかし、社会通念といのは、ちょっとやそっとのことでは変わらないので、とりあえず今の時点では、この環境の中で、それでも女性がどうやってトップを目指すか、ということを戦略的に考える必要があるわけ。 そこでシェリルは、女性たちに「私」ではなく「私たち」という指示代名詞を使え、とアドバイスします。つまり「私の給料は、私の出した成果に見合ってないから、上げてくれ」と上司に言うのではなく、「私たち女性の給料は・・・」という形で「私たち」を主語にしろと。さらに数字を挙げて、実際にそうであることをキッパリと示した上で。そうして自分の地位向上ではなく、女性全般の地位向上をとりあえず目指していけば、やがて女性社員が会社の上層部の半数近く占めるようになって、先の社会通念も変ってくるだろうと。 ま、これは一つの例ですが、シェリルは現実をよくわきまえた上で、短期的な目標と長期的な目標(そしてこの二つの目標は同方向を向いている)をきちんと示す、ということを本書を通じて行っております。 あとね、女性が会社でトップになれないことの要因の一つとして、例えば「子供を産む」ということがある。 シェリル自身、会社のトップでありながら妊娠し、子供を産んだ経験があるのですが、彼女の周りを見渡すと、子供を産む年頃の女性社員が、せっかくの出世の機会を自ら手放す例が沢山見られると。 実際、そろそろ子供が欲しいと考えている時に、上司から大きなプロジェクトを任せたいのだが、という提案をされた時、女性の多くがそれを断ってしまうというのですな。そして彼女が断ったポストに、他の男性社員が就くことになり、出世の機会も彼に奪われてしまう。 これは如何にも惜しい。シェリルさんは自分の経験から言っても、また彼女と同じ選択をした友人たちのことを観ても、仕事と出産は両立できる、と言います。そこは上司や夫、周囲の人たちの助けで何とかなる部分があるのだから、本当に必要な時以外、安易に出世の機会から尻込みしたり、会社を辞めたりするのは止めましょうと。 また、仕事を取るか、出産を取るか、ということと同根のことなのでしょうが、シェリルによれば、社会に出た女性には、どうしても専業主婦に対して引け目があると言います。外で働いていれば、どうしたって家の事や夫・子供のことを専業主婦ほどには見られないので、そういう引け目になってくるわけですが、そういう引け目があるだけに、女性は余計に頑張ってしまい、外でも働き、家事も頑張る「スーパーママ」になろうとする。しかし、それでは早晩、燃え尽きてしまうわけです。 もちろん、夫に理解があって家事を分担してくれると大分楽にはなるのですが、ここに一つの落し穴がある。家事を分担した夫は、「僕は自分の仕事もした上で、妻を助けて家事も分担している。我ながら偉い」と思うのに対し、働く妻は「夫に家事を分担させてしまって申し訳ない」と思いがちだと。家事分担しても、夫はそれを肯定的に受け入れるのに対し、妻は罪悪感を抱いてしまう・・・「(この点について)罪悪感を感じていない女がいるとしたら、それは男だ」という名言があるそうですが、実際にそうだ、と。 そんな状況に対し、シェリルさんは「完璧を求めるのは止めよう」と提案する。達成可能であり、かつ持続可能なプランで、夫・妻・子供それぞれが負担を負えばいいだけの話で、その範囲で出来るだけのことをして、それ以上を自分に求めるなと。そして、外で働く女性と家で家事をする女性が、互いに互いのことを認め、それぞれがそれぞれの選択をしたことを尊重しようと。 ま、こういうのを読んでいると、つくづく女性が社会で活躍するってのは、大変だなあと思いますね。様々な障害が横たわっているからね。でも、そういう種々の障害も決して乗り越えられないものではないし、自分自身と周囲の人たちが妥協し合えば何とかなるもんだ、だから頑張ろうよ、というシェリルさんのポジティブな提案は、どれも人間味があって、説得力抜群。男の私が読んでも、気持ちよく受け入れられます。 あとね、本書の「本音のコミュニケーション」という章、これは、別に女性に限ったことではなく、男が読んでもつくづく納得することが沢山書かれている。 コミュニケーションで重要なのは本音。だけど、それをいきなりぶつけたり、相手にも相手の本音があるということを無視して一方的にまくしたてるのはNG。相互に相手の立場や思いを受け入れながら、また適切な言葉を選びながら、本音でコミュニケーションする、これが重要。 そうは言っても、シェリル自身、この点では色々失敗し、また様々な経験をした中で、学ぶ点が多くあった。 例えば財務省での新人時代、初めてある会議に出席したところ、長官からいきなり意見を求められて往生したというのですな。で、長官曰く、「君は新人で、我々のルールを知らないから、その分、ルールに捉われない立場でのフレッシュな意見が聴けるのではないかと思ったのだ」と。長官はシェリルに意見を求めることで、「自分はどんな人からでの意見にも耳を傾ける」という姿勢を示したのであって、これがコミュニケーションの第一歩だと。 またある時、シェリルは効率第一を考え、上司との打ち合わせの時、いきなり本題に入って、それが終ればすぐ帰る、ということをしていたのですが、当の上司から間接的に、もうちょいビジネスライクさを無くしてほしいと要望された。つまり、必要なことだけでなく、少しは世間話をすることも、人間関係の中で重要であることを、この時教わったと。 また、フェイスブック時代、あらぬ噂を流されて傷ついたシェリルは、マーク・ザッカーバーグにそのことを報告していた時、つい泣いてしまったんですな。するとマークは、「ハグしようか?」と言ってくれた。で、シェリルはハグしてもらい、それがまた外に洩れてさらなる噂にもなったようですが、しかしこの一件でマークとの間に従来以上の堅い絆が生まれた。これも一つの本音のコミュニケーションだったわけ。 もちろん、ビジネスはビジネスと割り切ることも必要なことがあるかも知れないけれど、シェリル的には、そうではないと。時に本当の感情を出し、理解し合うことが重要な時もある。 例えば、スターバックス社が経営難に陥った時、引退していた創業者のハワード・シュルツが社長に復帰して陣頭指揮を執ったのですが、その際、彼は社員を集めた会議の中で、会社が危機的状況であることを正直に話し、さらに社員とその家族の期待を裏切って申し訳ないと言って涙を流した。 このことがあって、社員の団結が高まり、スターバックス社はV字回復を果したと言います。これもまた、本音のコミュニケーションなんですな。 とまあ、色々ありますが、シェリルさん自身の数々の経験や失敗や見聞が基になっているだけに、この本、本当に面白く、かつ説得力があります。 ということで、単なる女性向け自己啓発本ということではなく、誰が読んでも面白く、かつ人生勉強になる本として、教授のおすすめ! と言っておきましょう。LEAN IN 女性、仕事、リーダーへの意欲 [ シェリル・サンドバーグ ] しかし・・・・ この本、最後の「謝辞」を読むと、この本を書くに当たって様々な人が助力をしたことが書いてあって、その中には専属ライターの名前も挙がっているんですな・・・。 つまり、この本、シェリル本人が書いたのではなく、プロのライター、それも複数のライターが知恵を出し合って書いていることが分かってしまう。 それを読むと、あー、と思いますね。なんだ、これ、プロが寄ってたかって書いているのかと。道理で、構成から何から、完璧すぎると思いましたわ。 その点、ちょっと幻滅かなあ・・・。
June 24, 2018
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とある本を読んでいて、フェミニストで『女らしさの神話』で名高いベティ・フリーダンと、元プレイメイトにして同じくフェミニストのグロリア・スタイネムが仲が悪かった・・・というか、フリーダンがスタイネムを嫌い、握手することすら拒んだというエピソード(そして、このエピソードはすごく有名らしい)のことを知り、ふーん、と思いまして。 「女性の敵は女性」ということが言われ、私自身もそうなんじゃないかなと思うことは多々ありますが、本来、多少の方針の差はあっても同じフェミニストなのであれば、喧嘩するより共闘した方がメリットがあるんじゃないかと思うようなフリーダンとスタイネムの間にもそういうことがあったんですなぁ・・・。 で、そんなことに思いを馳せている時、どういうわけか突然、映画『エイリアン2』のことが頭に思い浮びまして。 あの映画の中で、主人公のリプリーはある事情から再度エイリアン退治に一役買うことになるのですが、その際、戦闘チームに居た紅一点の兵士、ヴァスケスと対立する。エイリアンがいかに怖ろしい存在であるかを繰り返し述べるリプリーを「腰抜け」と見たヴァスケスが、彼女を馬鹿にしたことから二人の間の溝が生まれるわけ。 しかし、実際にエイリアンと対峙してみると、リプリーの言った通りであることが判明し、またリプリーが腰抜けどころか、他の男連中以上にガッツのある人物だと判明するにつれ、二人は和解し、共闘の道を辿ることになる。 つまり、「(男ばっかりの)職場における男勝り」という点でリプリーとヴァスケスの二人は共闘するベースが持てたわけですな。 で、じゃあ、その後、リプリーとヴァスケスが最終的に命を掛けて闘うことになる相手、つまり「ラスボス」は誰かというと、エイリアンの女王、すなわち「産む女」だったと。 つまり『エイリアン2』ってのは、奇しくも「(男社会に立ち混ざって)働く女」対「(男たちにチヤホヤされながら)産む女」の対決、いわば女同士の闘いだったんじゃないかと。 ま、ひょっとすると、そんなことはとっくの昔に指摘されていることなのかも知れないですけど、ふとそんなことが思い浮かんだので、記して置く次第。 『エイリアン2』では、結局、リプリーが勝つ――ということは、働く女が勝つわけですけれども、その後の『エイリアン3』では、リプリーは丸坊主にされた挙句、男ばかりの凶悪囚人の中に放り込まれることになる。まるで、「そんなに男になりたいんなら、一番男臭いところに行けばいい」と言わんばかりに。つまり、勝ったように見えても、「(男勝りな)働く女」への反撃はなかなかに手厳しいわけですな。 かくのごとく、女の闘い・女同士の闘いには果てしがないということなんでしょうかね。
June 23, 2018
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今日は紫陽花を見に、形原というところに行ってきました。 その前にまず腹ごしらえ。形原の近くでどこかいいところはないかと思って探したところ、「アコースティック・ブックカフェ」というのがカフェ飯に良さそうだったので、とりあえずそこに直行。駐車場も広く(っていうか、建物の隣りにある原っぱに止めるのですが)、内装もなかなか良さげ。 で、チキンのコンフィのランチセット(1300円)を食べたのですけど、これがなかなかの美味しさで、店の雰囲気も良く、満足しました。この近くに来るのだったら、また来てもいいかな。これこれ! ↓アコースティック・ブックカフェ そしてお腹が一杯になった我ら、次に本日の目的地である形原・あじさいの里へ。 もう何度も来ているのですが、ここはあじさいの種類も豊富で、何度来ても楽しめます。ただ、今日はピーカンで気温も高かったこともあり、また時期がやや遅かったこともあって、肝心の紫陽花が少し、瑞々しさを失いつつあったかな・・・。 でも、今年も沢山の紫陽花が見られて良かった! さて、紫陽花を堪能した後、ちょいとお茶でも飲むかということになり、蒲郡の近くにある伊藤珈琲店へ。 ここも今日初めて来たのですが、ちょっと昭和レトロっぽくて、昭和の文士の行きつけのカフェ、みたいな感じ。中庭の眺めもよく、かーなーりー気に入りました。メニューも渋くて、クリームみつ豆とか、ハムエッグとか、そんな感じなのもすごくいい。これこれ! ↓伊藤珈琲店 で、ここでノンビリと時間を過ごした我らが最後に向ったのは、蒲郡のラグナシア。といっても、別にテーマパークに行ったわけではなく、その隣のショップの中にある「お魚ひろば」で、マグロのカマ焼きをお土産に買ったんです。これ、旨いんだよね。それから、同じショップ内にカルディ的な外国の食料品を売っているお店とかもあるので、そこであれこれ買っちゃった。 ということで、紫陽花見物をメインに、今日は色々と楽しみ、先週の父の一周忌法要の疲れを癒したワタクシなのでありました、とさ。今日も、いい日だ!
June 22, 2018
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このブログでも割と頻繁に登場しますが、私の所属している科では「午後5時半のコーヒー・ブレイク」というのがあります。 これはこの大学に私が赴任した頃から始まった習慣なんですが、当時、一番の若手だった私にコーヒーを淹れる役が回って来て、以来、四半世紀以上に亘って延々、私がコーヒーを淹れ続けているわけ。今は私よりも若い同僚が沢山居るのにね。 でも、とにかく5時半になると、三々五々、同僚の先生方が共同研究室に集まって来て、そこで茶菓子をつまみながらコーヒーを飲む。 で、コーヒーを飲みながらその時々の事務的な連絡やら、解決しておかなければならない問題についても和気藹々のうちに話し合いをするので、うちの科ではあらたまった会議というのがないんです。必要がないんですな。 で、そういう事務的なことだけでなく、世間話をする。それは、最近観た映画の話だったり、最近読んだ本のことだったり、研究上の発見だったりするんですが、同僚それぞれの専門がまったく異なるもので、気楽でありながら、なかなか啓発的なわけ。 だから毎日のちょっとしたことなんですが、とても有意義なわけね。 ところで、今、うちの大学の執行部は、研究室棟の改修にやっきになっておりまして、この計画にひっかかっている先生方は、研究室の引っ越しをしなければならないので、大変なのよ。 だけど、改修プランを見ると、従来あったそれぞれの科の「共同研究室」というものがことごとく無くなっているのね。つまり、「茶飲み場」がないわけですよ。 その代わりに「コモンルーム」というのが作られていて、この部屋を借りるには、前もって予約が必要なんですと。 だから、うちの科みたいに、毎日午後5時半から気軽に共同研究室でコーヒーを飲む、的な行動は、出来なくなるわけね。前もって届け出て、予約しないと。 ばっかみたい。 同じ科に所属する、しかし専門の異なる先生方が気軽に集まってコーヒーを飲む、というところから、文化が生まれるんじゃないの? 大げさなことを言えば。そういうことの重要さというものを、うちの執行部はまるでわかっていない。 っていうか、執行部の連中って、アカデミックな人達じゃないのね。だから、アカデミックなことが理解できないんですわ。そういうアカデミックじゃない人達が大学を運営しているということが、そもそも間違いなんだけれども。 ま、私の研究室のある棟は、さしあたり改修プランに入ってないので、当面、我が伝統のコーヒー・ブレイクが無くなることはないんですけど。 それにしてもね、「茶飲み場」の重要性すら分からないような、そんな大学に勤めているんだと思うと、なんだかつまらないな。
June 22, 2018
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同僚の先生から、「今、英語教育学の論文の査読やっているんだけどさあ・・・」と話しかけられまして。 で、話を聞くと、ひどく内容がない論文であると。 じゃ、どういう感じの論文だったかというと、うちの大学の「e-learning」システムの利用状況についての論文だというのですな。 「e-learning」というのは、学生が個々に持っているパソコンで当該のサイトにアクセスすると、そのパソコン上で色々英語の学習ができるような、そういうシステムのこと。要するに、英語についての自習用プログラムなわけですよ。 で、その論文を書いた人(複数著者による論文なので、正確には「人たち」ですが・・・)は、うちの大学で、昨年、どのくらいの学生がこのサイトにアクセスし、英語を自習したかを調べてみた。 そうしたら、このサイトにアクセスした学生がほとんどいなかったと(爆!)。 つまり、「笛吹けども踊らず」というわけで、大学としては良かれと思って「e-learning」のシステムを業者に大枚支払って導入してみたけれども、誰も使う奴がいなかったと、まあ、そういうことですな。その事実が分かった。 で、私が「なるほど、そうなんですか。じゃあ、その論文の著者(たち)は、その悲しむべき事実からどういう結論を引き出したんですか?」と尋ねてみたところ、査読した先生曰く、「いや、それが何の結論もないんだよ」と。 ん? 要するにですね、その論文は、「うちの大学では e-learning を導入したが、学生は誰も使わなかった」ということを述べた論文だったんですな。 え゛ーーーーーーー! それって、論文と言えるの?? でもね、教育学的観点から言うと、それで立派な論文らしいんですわ。この論文でも、ちゃんと一本分の学術的業績ということになるらしい・・・。 教育学、あるいはもっと限定して「英語教育学」と言った方がいいのかも知れませんが、それはこのような「学術的業績」の上に成り立っているわけですな。 そういう連中が音頭をとって、「小学校から英語を勉強させる」と鼻息荒くやっているんですから、この国の語学的観点から見た将来は暗いね・・・。 で、「英語教育学」がご専門の先生方がそんな調子なのに、小学校英語の必修化に伴い、来年から私も「小学校英語教授法」という授業を担当しなければならないわけですよ。 アメリカ文学研究が専門の私に、小学校英語教授法の授業を担当させるということ自体、どうかしているよね・・・。 で、さすがに不安なので、「小学校英語教授法」的な本を買って読むのですが、これがまたどれも箸にも棒にもかなわないようなものばっかり。どうすりゃー、いいんでしょうか。 ま、私以外にも、文学系や言語学系の先生で同じ悩みを抱えている先生方がいらっしゃるので、その先生方ともたまにこの話をするのですが、それらの先生方も異口同音に「途方に暮れるよね」と。 で、皆で「だよね~」という愚痴大会をコーヒー・ブレイクの時間に開催していたんですけど、そのうち同僚の一人が、「でもさ、日本全国で同じ悩みを抱えている『教育学以外』の英語の先生がいるんだったら、そういう人たちの参考になるような『小学校英語教授法』の教科書を作ったら、需要があるんじゃない?」と言い出した。 なるほど。需要ね。確かに。 で、英語教育学の先生方は「e-learning システムを使う学生はいません」という論文を書いちゃう人達ばっかりなので、端から期待できないのだから、それ以外の文学系・言語学系の先生方の知恵を絞って教科書作って売るか? という話で盛り上がったという。 ま、でも、確かに「そんな授業担当するの嫌だよ~」とネガティヴなことばかり言ってないで、逆に「これで一儲けしよう」とポジティヴに考えた方が楽しいかもね。 そうとなったら、アレだ。関連書籍をもう少し組織的に集めて、それぞれのおいしいエッセンスだけつまみ食い的に集めて、テキトーに教科書作っちゃおうかな。それで、研究社とか金星堂とか成美堂とか、そういうところから出版しちゃうの。どう? 少なくとも、「英語教育学」ご専門の先生方より、いいものを作る自信はあるな~。先の「論文」を読む限り。
June 20, 2018
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世界3大レースの一つに数えられる「ル・マン24時間レース」、今年はトヨタ車が1-2フィニッシュの快挙! ・・・なんですが、周りを見回しても誰も話題にすらしていないという・・・。 サッカー・ワールドカップ期間中であることに加え、さらに大阪でかなり大きな地震などもあって、「それどころじゃない」ということもあるのでしょうけれども、今、日本で自動車レースというものへの関心がかつてないほどに下がっていることの顕れでもあるのでしょうな。 バブル末期の1991年、マツダがロータリー・エンジンを搭載した「787B」でル・マン総合優勝を果たした時、あるいはさらにその前、1980年代に篠塚健次郎氏が三菱パジェロを駆ってパリ・ダカール・ラリーで活躍していた時、そして同時期に中島悟氏がF1で活躍していた時、日本人の自動車レースへの関心ってもう少し高かったような気がするんだけどなあ。 だけど、今回のトヨタ車の優勝が、一般ピープルだけでなく、私のような自動車レース・ファンの心にもあまり響いてこない理由というのがありまして。 まず、今回、大資本を使ったワークス体制で参加しているのはトヨタだけだった、ということがある。ここ10年ほどこのレースを制圧してきたアウディとポルシェが撤退してしまったので、実質ライバル無しの一人横綱状態であったんですな。故障して自滅するか、はたまた事故って壊れるか、この2つしか負ける要素がないという状況。これが今回のレースやレース結果をつまらなくした最大の要因でございます。 ネット上では、「ライバルがいなくたって、このレースで勝つのは大変なことなんだぞ!」という論調の文章があれこれ出されておりますが、そういう文章を出して言い訳せざるを得ないこと自体、今回のレース結果が一般にどのような評価を受けているかを如実に示しているわけでありまして。 でまたそのことに加えて、実はさらにもう一つ、このレース結果を素直に喜べない理由がある。それは今回、トヨタが1-2フィニッシュを飾った中で、1位になった8号車の方に現役F1ドライバーのフェルナンド・アロンソ選手が乗っていたということ。 アロンソ選手は、現役F1ドライバーの中でも最高のドライバーの一人と見なされながら、この10年ほどチームに恵まれずに低迷を続けており、今はむしろ「F1モナコ・グランプリ」「ル・マン24時間レース」「インディ500マイル・レース」という世界3大レースすべてに勝利を収めることにご執心。で、F1モナコは既に制しているので、残りの2つに是非勝ちたいという悲願を持っている。 それで今回、ライバル不在のル・マンに参戦してまんまと2つ目の勲章をゲットしたというわけ。 ・・・となると、口さがないレース・ファンの間では、「ははーん、トヨタはアロンソに恩を売るため、アロンソが乗っている8号車を1位にしたな・・・」という噂が飛び交うわけですよ。途中までもう一方の7号車が1位を快走していただけに。7号車がスピードダウンした理由はガス欠だそうですけど、そんな初歩的なミスする? 意図的にやらない限り? 分かりませんよ、もちろん。たまたまそうなったのかもしれない。しかしル・マン前哨戦となる今年のスパ6時間レースでもトヨタはチームオーダーを出し、8号車のアロンソが勝つように仕組んで、それに不満を爆発させた7号車の小林可夢偉が表彰式に間に合わなかったという例もある。暗黙の、あるいは強制的なチームオーダーがあったんじゃないのかというのは、ブラックとは言わないまでも、グレーゾーンには入っていそうな感じ。 もし仮にそういう大人の事情があったとしたら、興ざめもいいところ。 そういうアレがあるもんだから、勝った、勝ったって喜んでいるトヨタの人たちの喜びようを見ていても、なんかね、イマイチ、お祝い気分にならないわけよ。 ま、そんなこんなで日本人の記憶にはさほど残らなかったかも知れないけど、「トヨタ、ル・マン優勝!」の記録は残りますからね。それは、めでたいことでしょう。 でも、そのめでたさも、今日のワールドカップ、日本対コロンビア戦で、一瞬にして蒸発しちゃうかな・・・。
June 19, 2018
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昨夜遅く、名古屋に戻って参りました~。 で、夜遅くと言えば、サッカー・ワールドカップですよ。ちょうどドイツ対メキシコ戦がキックオフということで、つい最後まで観ちゃった。 もちろん、今大会実力ナンバーワンの呼び声高いドイツですから、中継の解説陣もどちらかと言えば終始ドイツよりの解説をしておりましたけれども、見始めて5分、これはメキシコの勝ちかなと思いましたね。 何と言っても守備がすごい。ボールを持っているドイツの選手に対して尋常じゃないスピードで体を寄せていく。ボールを奪いに行くというより、選手そのものに体当たりしに来るのかと思うほどの勢いで真直ぐ突進してくる。あんな風に突進してこられたら、百戦錬磨のドイツ選手と雖も誰かにボールをパスしなきゃ、って思いますわな。つまり、自分たちの思惑でではなく、メキシコ守備陣の思惑でボールを蹴らざるを得ないように強要されていた感じ。 でまた、ボールを奪った後のカウンターの速さたるや! あれよあれよという間に守備手薄のドイツ・ゴールに襲いかかってくる。そんな光景を2度か3度見たら、あ、これはメキシコかなと思いますよ。 で、後で試合分析されたものを見ると、メキシコ・チームは単に「守備を固めてカウンター」という戦略を取っていたわけではなかったらしい。ドイツの特定選手、まあボアテング選手ですが、この選手がボールを持つ時間が長くなるよう、意図的に仕組んでいたらしいんですな。で、この選手が基点となった場合のドイツ・チームの戦略を逆手にとって、カウンターを仕掛けやすいようにしていたらしい。 で、後半、ドイツは攻撃のパターンを変えてくるのですが、実はそれもメキシコ側としては織り込み済みで、守備を5人に増やして対応。つまり、ドイツの戦略を十分分析した上で、掌で転がしていたわけですよ。決して、偶然勝ったんじゃない。なにしろメキシコのオソリオ監督は、この戦術を半年かけて練り上げていたというのですから。 やっぱりサッカーって、頭脳戦でもあるんですな。 さてさて、明日はいよいよ日本対コロンビア戦ですよ。個の力ではかないっこない日本チーム。果たしてメキシコ・チームのような頭脳的なチーム・ワークで勝てるはずのない戦いに勝つことが出来るのでしょうか? 期待しましょう!
June 18, 2018
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父の一周忌法要から戻って参りました〜。慣れないことだから、気疲れしちゃった。 気疲れもそうなんだけど、実際にも結構疲れた・・・。 その疲れは昨日から始まっておりまして、昨日、夕方に名古屋から実家に戻って来たのはいいのですが、翌日(つまり今日)の法要に向けて、一度、お墓の様子を見て来よう、なんて思っちゃったのが運の尽き。 で、クルマで30分ほどのところにある、とある墓苑に出向いたところ、危惧していたように我が家のお墓の回りに雑草がボーボーに生えていたわけ。で、こりゃいかんというわけで30分ほどかけて雑草取りをしたわけですよ。 で、まあ、これでそれほどみっともなくなっただろうというのを見届けてから、さて家に帰ろうとしたところ・・・墓苑からの出口が閉まっているじゃあーりませんか。そして門には「閉門5時半」の文字が・・・。 ひゃー、墓苑にとじこめられちゃったよ〜! で、墓苑の管理会社に電話してみたところ、音声ガイダンスで「今日の業務は終わりました」と。 やばい・・・。まじでやばい・・・。 で、どーしよ、どーしよと思って、広い墓苑の中を走り回り、ようやく歩道に少し乗り上げればなんとか外周道路に出られる箇所を発見、どうにかことなきを得た次第。まあ、事なきを得たといっても、本当は通ってはいけないところを無理矢理通ったわけですから、決して褒められたことじゃないんですけどね・・・。猛省!! とまあ、名古屋から東京に出てきたのに加え、草むしりをし、さらに閉じ込められ事件の心労も重なってヘトヘトよ・・・。 で、一夜明けて今日、法要の本番。 我が家はもともと親戚づきあいがあまり無い方なので、父方の親類と言っても初対面となるようなことも多く、そういうのが苦手な私としては気をつかってしまって疲れてしまうのですが、それでも父の法要に来てくださった親族の方や元同僚の方々は皆気持ちのいい人ばかりで、予想していた以上に父の思い出話に花が咲き、思いの他、盛会となったのでした。天国の父の、喜んでくれたことでありましょう。 とまあ、昨日からの流れで疲れましたけど、とにかく終わってホッとしましたわ・・・。母も一周忌の法要のことをずっと気に掛けていましたので、私以上にホッとしたのではないでしょうか。 というわけで、明日のお昼は母と家内と三人でどこかレストランにでも食べに行って慰労会となし、それで名古屋に戻ろうかと思います。
June 16, 2018
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昨年の今頃、正確には6月20日ですが、父が亡くなりまして。それで今週末は実家で法要があるので、明日は実家に帰ります。 早いもんですな。もう、あれから1年か・・・。 それで、今日は法要を踏まえてちょっとした買い物をしました。 一つは・・・あれ、正式名称はなんというのでしょうか、お墓に水を掛けたりする時に使う桶と柄杓。 当日、お墓参りもするので、どうせなら買っちゃおうかなと。それで仏具屋さんに行って聞いてみたら、さすが餅は餅屋、置いてありました。 幾らぐらいするものだと思います? 私は、5,6千円位するのかと思っていたのですが、桶と柄杓のセットで2千5百円ほどでした。あらま、案外安いね。 それから、もしできればお墓に先乗りして、雑草とか生えていたらちょちょっと草刈りをしようと思い、草むしり用の・・・あれは何と言うのか、籠手みたいな奴を買おうと思ってホームセンターに寄ったわけ。 で、そういうのって、2千円くらいするのかなと思ったら、380円だった。安いね。 いやあ、モノの値段って分からないな! ま、今回は予想よりはるかに安かったからむしろ嬉しいけど。 その他、この時期、すでにやぶ蚊とか居るかもしれないと思い、殺虫剤なんかも買ったりなんかして、一応準備万端。 というわけで、今週末はちょっと忙しくて、ひょっとするとブログ更新も途切れがちになるかも知れませんが、その辺は一つヨロシク!
June 14, 2018
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昨夜行われたサッカー日本代表とパラグアイ代表との親善試合、御覧になりました? 私、ワールド・カップの年だけは、にわかサッカー・ファンになりますので、今年も楽しみで仕方がないのですが、「ハリル・ジャパン改め西野ジャパン」のあわただしい船出にはいささか不安が。最初の2試合は1点も取れず、ひどかったですからね。 でも、昨夜のパラグアイ戦は、とりあえず4得点。相手の出来もありますが、とにかく胸のつかえだけはとれたという。 とはいえ、失点も2点。特に2点目なんて、守備の間隙を突かれていとも簡単にゴールされましたけど、日本代表チームの連携プレーは大丈夫なんでしょうか。攻めるなら攻める、守るなら守る、それぞれの局面での選手同士の意思疎通が必ずしも十分でないように素人目にも見えるんですけど・・・。 サッカーのことはまるで詳しくないので、言ってもしょうがないですけど、こと「戦術の浸透」という観点から言えば、トルシエ監督時代の「フラット3」という戦術はなかなかだったのではなかったかと。 その後、むしろ攻撃の観点からワンタッチで次々にボールを回して相手を攻略する攻撃的パスサッカーの方に戦術の中心を移したように見えますが、中盤でボール回していても、結局それだけで、相手ゴールに切り込んでいく縦の攻めがないからなあ・・・。ボール保持の時間は長くても、相手チームに守備を固める時間も与えてしまうことにもなり、そうこうしているうちにボールも奪われて失点するんじゃ、あんまり意味がないような。 日本代表の場合、個人で突破する力のある人がいないのだから、いっそ、極端な守備的布陣にした方がいいんじゃないの? 今は「4-3-2-1」とか、そんな感じなのかもしれませんが、いっそ「8-2」とか。8人でわらわら守って、たまにボールを奪ったらロングボールで前線の2人に送り、カウンターだけを狙うっていう。基本、日本側からは全然攻めていかないので、相手チームは日本側の陣地に前掛かりに集まらざるを得ず、そうすればカウンターははまりやすい。どう、この案? ・・・ま、素人考えですよ、素人考え。 ところで、私と同じく・・・というか、私以上のド素人が日本サッカー代表にアドバイスしているってご存知? アドバイスしているのは、将棋の・・・というよりは、「株主優待」で名高い桐谷広人さん。 朝日新聞のデジタル版で、「『株主優待』桐谷さん、奇跡の14連勝を日本代表に伝授」という記事が出ていたので、何事かと思って読んだのですけど、それによると桐谷さんは、奨励会時代、大層苦労したと。18歳で奨励会に入会したものの、なかなか昇級できず、年齢制限のこともあって対局が怖くなるほどだったというのですな。 そんな時、お父さんから勧められて、大枚1600円払って『幸福への挑戦 サイコ・サイバネティクス』という本を買って読んでみた。 そしたら、急に勝てるようになって、破竹の14連勝。無事に初段に上がることが出来たと。 ちなみに、『サイコ・サイバネティクス』というのはマクスウェル・マルツという人が書いた有名な自己啓発本で、自己暗示の重要性を説いた本。つまり、自分に自己暗示をかけ、絶対勝てると信じれば勝てると説いております。 で、実際、桐谷さんは自分自身に「絶対勝てる!」と自己暗示をかけたところ、指が自然にいい手を選ぶようになり、先ほど述べた14連勝につながったというわけ。 その経験から、桐谷さんは、サッカー日本代表に、「どんな強敵であれ、勝てると信じれば勝てる」と、秘策を伝授しているんですな。これこれ! ↓「株主優待」桐谷さん、奇跡の14連勝を日本代表に伝授 まあ、考えてみれば、今の日本代表の置かれている状況って、当時の桐谷さんの状況と同じようなものじゃん? 予選(=初段)、本当に通過できるのかよと。 だったら、ここはひとつ、サイコ・サイバネティクス戦術で行くしかないんじゃね? 勝つと思えば勝つっ!! 日本代表はもうすぐロシア入りだそうですが、ロシアに同行する日本人ファンの方、『サイコ・サイバネティクス』(現在の邦題:『自分を動かす』)を23冊、いや、西野監督分も含めて24冊、差し入れてあげてはいかが?自分を動かす改訂新版 あなたを成功型人間に変える [ マクスウェル・マルツ ]
June 13, 2018
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ソニア・リュボミアスキー教授の書いた『人生を「幸せ」に変える10の科学的な方法』(原題:The Myth of Hapiness, 2013)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 ソニア・リュボミアスキーさんってのは、カリフォルニア大学リバーサイド校(UCR)の教授さん。私、一度だけUCRに行ったことがあるのですが、内陸にあって夏とか超暑いところ。気温50度くらいあるんじゃないかと思ったほど。あのクソ暑いところの先生なわけですな。1998年にマーティン・セリグマンが提唱して発足した「ポジティヴ心理学」系の人でございます。人間、幸福になるにはどうすればいいかってなことを考え続けている人ですから、方向性としては自己啓発系なんですけど、それを学問的に、サイエンスとして研究しているわけね。「幸福って何?」ということを追求したドキュメンタリー映画『Happy』にもちょい出演していて、トレーラーで一瞬、顔を見ることができます。 で、この本でソニアさんがどういうことを言っているかと申しますと、人間、誰しも幸福になりたいと思っているわけだけれど、その幸福の追求の仕方が間違っておると。 どう間違うかと言うと、幸福にまつわる様々な思い込み(教授の言葉で言えば「神話」)によって左右されてしまっていて、当初の目的に辿り着かないまま迷走している人が多すぎるというのですな。 で、ソニアさんは人を迷走にさそい込む神話を10個、挙げております。それはどういうものかと言いますと・・・1 理想の仕事に就けば、幸せになれる2 貧乏だと幸せになれない3 お金持ちになれば、幸せになれる4 理想の人と結婚すれば、幸せになれる5 パートナーとの関係がうまくいかなかったら、幸せになれない6 子供がいれば、幸せになれる7 パートナーがいないと、幸せになれない8 検査結果が陽性だったら、幸せになれない9 「夢がかなわない」とわかったら、幸せになれない10 「人生で最良のとき」が過ぎたら、幸せになれない という10個。まあ、ざっと見ただけで、確かにこういう風に思っている人は多そうですよね・・・って、何だか他人事みたいな言い方ですけど、私自身は超ポジティヴなので、この10個のどれ一つとして、「私もそう思うところがある」という風にはならないの。得な性格。 でも、私以外だと、そういう風に思っている人も多いことでしょう。で、ソニアさんは、そういう人たちに向って、「こんなのぜーんぶウソ、ウソ。だけど、そういう風に思い続けていると、本当にそうなっちゃうよ」と警鐘を鳴らすわけ。 アレ? 信じることは実現するって、自己啓発本と同じこと言っちゃってますな・・・。 まあ、それはともかく、上に挙げた1~10って、大抵の人は直観的にそう信じ込んでいる人が多いのだけれども、その直観はとりあえず間違っているので、その直観からまず一旦離れましょうと。そして、本当にそうなのかどうか、科学的に見直してみましょうと。本書でソニアさんが言いたいことは、一言でまとめればそういうことですな。で、以下、各章で上の1から10までの「神話」を検討し、その誤りを指摘し、その代りとして、正しい認識の仕方、すなわち、あなたを幸福へと導く考え方を提示すると。 たとえば1の「理想の仕事に就けば、幸せになれる」ですが、確かに理想の仕事、今の仕事よりも条件のいい仕事に就けた瞬間は、人間誰しも幸福感・達成感を得ることが出来る。しかし、ここに「快楽順応」という落し穴があるんですな。 つまり、どんな幸福、どんな達成感も、すぐに慣れちゃうのね、人間って。だからそういう幸福感・達成感って、ほんのわずかな時間しか続かず、また「もっといい仕事、もっと自分にあった仕事があるんじゃないか」という気持ちが湧いてきて、またぞろ不満の渦に巻き込まれてしまう。 じゃあ、どうすればいいか。 まず他人との比較を止めろと。そしてゴールの達成ではなく、そのゴールに向っているという実感こそを楽しめと。自分が本当にやりたいことを目標として設定し、そこへ向かって勤勉に努力しろと。そして、そのゴールに絶対到達する、ということを口に出して宣言しろと。 まあ、それがソニア教授のおすすめ対処法でございます。 ・・・っていうか、これって全部、自己啓発本に書いてあることじゃん? で、本書全般に言えることなんだけど、ソニアさんは、すべて科学的な研究の成果を述べているわけなんですけど、最終的な結論を見ると、すべて自己啓発本が言っていることばかりという。そういう意味で、この本は、ある意味、自己啓発本の正当性を、科学的・学問的に裏付けた本、という風に言えるのではないかと。 2の「お金についての神話」でも、学問的に研究すると、お金持ちの方が、そうでない人より幸福だ、ということはない、というのですな。むしろお金持ちであればあるほど、幸福感を抱いていないことが多い。じゃあ、どうすればいいかというと、お金を使う瞬間を楽しむのではなく、その瞬間に至るまでの過程を楽しむ(旅行当日ではなく、旅行を計画し、旅行を待ち望む時間を引き延ばす)とか、他人の幸福のためにお金を使う、等すれば、確実に幸福感が得られると。 これも自己啓発本と同じね。自己啓発本では、お金がなくてもいいから、既に自分がお金持ちであるようなつもりになれ、とか、お金が欲しくば、まず他人に寄付しろ、ってなことがよく書かれていますが、それって、ソニア教授の対処法と同じじゃん? その他、「毎日10分か20分くらいの時間をかけて、将来の夢などを紙に書き出せ」とか、「その日に起ったポジティヴなことを書き出せ」とか、「瞑想しろ」とか、もう可笑しい位、自己啓発本っぽいことが色々書かれております。 ソニア教授自身は、自己啓発本に対しては批判的で、曰く「自己啓発本のアドバイスは科学的な裏付けがないし、特定の目標(例えば「金持ちになる」とか)を達成することばかり書いてあるけど、そもそもその目標に本当に価値があるのか検討されていないし、目標の達成より過程が重要であることが書いてない」そうですけど、それにもかかわらず、この本と自己啓発本では、相違点より共通点の方がよほど多いと私は思います。 要するに、ポジティヴ心理学ってのは、自己啓発本なんだよ。 その他、本書を読んで、へえ、そうなんだと思ったことを羅列しますと、○強い幸福感を一度抱くより、そこそこの幸福感を何度も抱く方が、全体としての幸福効果は高い。○人生で手に入らなかったもののことを考え、諦めて、その地点からあらためて今、どうすれば自分は幸福になれるかを現実的に検討し、実行すると幸福になれる。○失敗を後悔するより、やらなかったことを後悔する方がダメージが大きいので、何でもトライした方がいい。○幸福感のピークは64・65歳、幸福経験のピークは79歳の時に生じる。若い頃というのは、実は最もネガティヴな時代である。 ・・・ってな感じかな。 あと、本書にはエマソンからの引用はないけれど、ウィリアム・ジェームズからの引用が結構あります。まあ、エマソンはエッセイストだけど、ウィリアム・ジェームズは心理学の大先達だからね。そういう敬意もあるのでしょう。 先ほども言いましたように、本書は自己啓発本への批判を元に書かれているようでいて、結局はむしろ自己啓発本を学問的に裏付けるような感じになっておりますが、学問的な分、こちらのアドバイスの方がすんなり受け入れられるという人も多いことでありましょう。書かれていることに関して、私は何ら文句はないし、すべてその通りだと思いますので、興味のある方は是非。リュボミアスキー教授の人生を「幸せ」に変える10の科学的な方法 [ ソニア・リュボミアスキー ] ところで、私がこの本に興味を持ったのはですね、これが女性著者によるものだからですね。 以前、女性向けの自己啓発本(もしくは女性が書く自己啓発本)って、上から目線のもの(こういう風にしろ、と指示するタイプのもの)ではなく、そういう自己啓発的なアドバイスを実際に実行してみたらこうなりました、という体験型のものが多い、とこのブログで述べたことがあるのですが、中には本書みたいに、上から目線のものもある、ということを知りたかったから。 で、その場合、重要になってくるのは、その女性著者の肩書ね。 ソニア・リュボミアスキーさんの場合、何と言っても「カリフォルニア大学リバーサイド校教授」という肩書がものを言う。つまり、しかるべき肩書きさえあれば、女性著者も上から目線の自己啓発本が書ける、と。 で、私の実感から言いますと、最近、その手の本が増えております。有名大学の教授とか、大企業のCEOの地位を獲得した女性が、上から自己啓発を説く。 これが、今という時代なんですな。
June 12, 2018
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あー、『コンフィデンスマンJP』、終っちゃった~・・・。月曜日の楽しみだったのに。来週からどうしよう。 それにしてもこのドラマの脚本書いている古沢良太(こさわ・りょうた)って、天才じゃね? 『鈴木先生』も『リーガル・ハイ』もめちゃくちゃ面白かったし。まあ・・・『探偵はBARにいる』だけは買わないけど。 ただ、『コンフィデンスマンJP』の映画化が決定したという朗報も。ついに人生初、お金を払って邦画を観る時が来たか? とりあえずそれまで、月曜日の楽しみは『激レアさんを連れてきた』だけにしておこう。
June 12, 2018
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今日、というより昨夜の話なんですが、家内が所用あって帰りがちょっと遅くなったので、夜ご飯は家内の帰りを待って、家の近くで外食することにしまして。 で、歩いて3分ほどのところにあるココイチでカレーを食すことに。 今、ココイチでは期間限定メニューとして「スパイスカレー THEチキベジ」というのを提供しておりまして、そいつを食べたわけ。私はロースかつ、家内はパリパリ・チキンをトッピングしつつ。 で、食べてみると、いつものポークカレー・ベースではなく、スパイスの効いた、ちょっとスープカレーっぽいしゃびしゃびとしたルーでありまして、オクラやトマト、アスパラガスなどの野菜も入っていて、これはこれで旨し。たまに食べると、ココイチのカレーって旨いよね。 さて、そんなこんなでお腹を満たした我ら、そのまま帰るのもつまらないので、夜遅くまでやっている大きな書店チェーンに立寄ることに。このお店、新刊と共に古本も置いているのがいいところで、私はもっぱらそちらばかりを見ることになる。とりわけ「100円コーナー」ね。 で、昨夜私がゲットしたのは以下の3冊:○眉村卓『妻に捧げた1778話』(新潮新書)108円○野口悠紀雄『「超」整理法』(中公新書)108円○林望『林望が能を読む』(集英社文庫)108円 この中で最大の収穫は、眉村卓さんの『妻に捧げた1778話』。この本、前から読みたかったんですけど、ベストセラーをそのまま定価で買うのがしゃくで仕方がないワタクシ。大量に出回る本何だから、待っていれば絶対100円になるはず、と思って我慢していたんですわ。それを、まんまと望み通りの価格でゲットしたのだから、してやったりというところ。 野口氏の本もあまりにも有名なベストセラーですが、これも持っていなかったもので。それに整理術というのは、ある意味、自己啓発本なのね。ちなみにアメリカで一番有名な整理術の本って、近藤麻理恵氏の本なんだよね。「コンマリ」と呼ばれて、すごく有名。 最後の林先生の本は、まあ、コレクション・アイテム。私は林先生の本は全部集めるつもりなので。 それぞれ美本ですから、文句ないでしょ。 というわけで、カレーも美味しかったし、ちらっと立ち寄った本屋で3冊の古本の収穫があったので、私としては大満足。週末の夜としては、なかなか良かったのではないでしょうか。
June 10, 2018
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『ジェーン・フォンダのワークアウト』なる本を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 っていうか、今、若い人でジェーン・フォンダが誰か、知っている人の方が少なかったりするんだろうな。ま、一言で言って、アメリカの名優ヘンリー・フォンダの娘、そしてピーター・フォンダの姉。ピーター・フォンダって、『イージー・ライダー』で主役「キャプテン・アメリカ」を演じた俳優さんね。ジェーン本人も『コールガール』と『帰郷』でアカデミー主演女優賞2度も取っている女優さんです。ま、そうなんだけど、ジェーンの若気の至りと言いますか、その後アカデミー賞を獲るようになるとはとても思えない、セクシー路線での雄姿が見たい人は、カルトSF映画『バーバレラ』観てね! さて、そんな芸能人一家に生まれたジェーン姐さんですが、名門ヴァッサー女子大で学び(中退)、一時期ファッション・モデルをやり、その後リー・ストラスバーグの下、NYのアクターズ・スタジオで演技を学ぶという典型的なエリート演劇人路線を突っ走っていたのに、なぜか『バーバレラ』で期せずしてセクシー女優にされちゃったんですけど、その後、映画界というよりはむしろ「ベトナム反戦運動」で名を挙げ、「ハノイ・ジェーン」の異名を取る。 で、そういう社会改良運動をひとしきりやった後、次に話題になったのが、『ジェーン・フォンダのワークアウト』の出版。これ、アメリカでは1981年に出て、翌1982年にはそのビデオ版が出るのですが、このビデオがめちゃくちゃ売れた。それで一躍、健康運動方面の有名人になってしまうわけ。 で、この『ワークアウト』の表紙には、ジェーン姐さんがシマシマのレオタードに黒いタイツ、そして足元にはレッグ・ウォーマーを身につけて写っているのですけど、この感じ、もろ1980年代って感じがします。 ほれ、オリヴィア・ニュートン=ジョンの『フィジカル』っていう大ヒット曲覚えている? あれがジェーン姐さんの『ワークアウト』と同じ1981年の作ですよ。そして、1983年には映画『フラッシュダンス』が大ヒット。時代はレオタード、タイツ、レッグ・ウォーマーだったんですな。 まあ、アレだね。公民権運動とかベトナム戦争とか、1960年代から1970年代にかけて全米に吹き荒れた一連の社会問題がひとまず収束した後、とりあえず社会改良するもんが無くなっちゃったんだろうね。それで、社会以外で何か改良するものはないかな?と見回したら、あらま、灯台下暗し、自分自身の身体がたるたるじゃないか! これ、改良するっきゃないでしょ、ということになったんでしょうな。ちなみに、ジム・フィックスが『The Complete Book of Running』を出してアメリカに空前のジョギング・ブームを巻き起こしたのが1977年。やっぱり大体、その頃であります。あと、エアロビクス・ブームも1980年代ね。 とにかく、単に女優がワークアウトの本を出しました、というのではなくて、社会改革を目指す意識高めの活動家が、その次に選んだのが、自分の身体の改革であった、ということが重要なわけ。 無論、その意味で、これは完全な自己啓発本、そして女性による女性のための自己啓発本であります。ライフスタイルから自分を変えよう、というわけですからね。 で、実際、この本もいきなり実践的な、すなわちフィジカルな意味での指南にはなりません。まずは自伝的な話から始まる。 それによると、やっぱりジェーン・フォンダも人の子、若い頃は自分の肉体的スタイルにコンプレックスがあり、また太ることへの恐怖というか自己嫌悪があって、例えば沢山食べてはトイレで吐き、また沢山食べるということを繰り返したり(このやり方、ローマ文明の最高潮の時にローマ人が編み出した乱チキ・パーティーのやり方なんだとか)、デキシドリンや利尿剤に食欲抑制の副作用があることに気付いて、そういうものをやたらに摂取したりしていたと。 だけど後に夫となる社会活動家トム・ヘイドンとの出会いなどもあって、ベトナム戦争のことなどに関心を持つようになってみると、例えばサイゴンの女性達がアメリカに倣って美容整形をしている事実なども耳にするようになる。つまり、アメリカの文化がベトナム女性の在り方に多大な悪影響を及ぼしていることに気付くんですな。で、『バーバレラ』でハリウッドのセックスシンボルとなったジェーン本人が、まさにそうした悪影響の中心を担っていたということにも気づくようになる。これはジェーン本人としては、相当なショックだったらしい。 で、そんな時、ジェーンは、ワークアウトというものに出会う。 『チャイナ・シンドローム』の撮影中に足を骨折したんですが、そのすぐ後に『カリフォルニア・スウィート』という映画に出演することになっていて、骨折した足をなんとか短期間に元に戻さなければならなかった。それで専門家についてワークアウトのトレーニングを始めたところ、これが性に合っていたと。彼女は若い時からバレエを習っていて、その種の運動にはある程度慣れていたとはいえ、バレエ以上に彼女にはワークアウトが合った。 さらにもう一つ、転機となったのは、30歳で妊娠し、子供を持ったこと。これがきっかけで、身体にいい物を食べたいという意識を持つようになった。で、そこで栄養の専門家のアドバイスを受けながら勉強してみると、従来の自分――というか、要するに普通のアメリカ人、という意味ですが――がいかに身体に悪いものばっかり食べているのかということに気付いて身震いするわけ。 で、この二つのこと、つまり質の高い、また人工的な薬品に汚染されていない食物を適切な量食べ、ワークアウトで十分な運動をすることで、自分自身のエネルギーが高まり、若々しさが持続することに気付いたジェーンが、多くの人々にもこのことを教えてあげなきゃ!と思うのも当たり前でありまして(何せ、もともと社会改良家なんだから)、それで自分でワークアウトのスタジオを起ち上げつつ、この福音をもっと広く皆に伝えようとして書いたのが本書『ジェーン・フォンダのワークアウト』であり、またそのビデオ版であったと。 で、ここまでが前置きでありまして、そこから「健康と美容のための食事プラン」だとか、「女性と強さ」というエッセイ(女性は本来「弱い性」なんかじゃないのに、そういう弱い性の方が男性に好まれるという理由で、なよなよしている方がいいと擦り込まれてきた。でも、今や女性本来の強さが美しさとして認識される時代が来ている、ってなことが綴られる)、さらにそれぞれ自分に合った運動の方法を選ぶべきだ、というような二、三のアドバイス的文章があった後、実際のワークアウトのやり方が豊富な写真と共に紹介されます。もちろん、この実際編が本書のメインであることは言うまでもありません。 じゃあ、このワークアウトのレッスンが終ったところで本書も終るのかというと、そうではないんだなあ。そこはジェーン・フォンダですから、やっぱり最後に一言、アメリカ社会の在り方に文句の一つもつけたいわけですよ。 かくして、「怖ろしい環境汚染」というタイトルの下、彼女が住んでいるロスやサンタモニカという街が、いかに大気汚染・水質汚染の害を蒙っているか、またファースト・フードの蔓延によって、如何にアメリカ人の食生活や職場環境の中に科学物質が取り込まれているか、といったことへの警鐘を鳴らす文章がくる。 しかし、たとえ社会環境がそうであったとしても、一人一人の女性がそういうことに気付き、意識的にそういうものを避け、出来る範囲で健康的なものを食べ、自分の身体を管理するようになれば、社会環境の方でそれに合わせざるを得なくなる(つまり皆がファースト・フード店に行かなくなれば、ファースト・フード店はつぶれるか、体質を変えざるを得なくなる)のであって、あなた自身が変われば、社会全体が変わるんだよと。まあ、そういうポジティブな言葉で、本書は締め括られます。 ね。「自分が変われば、世界が変わる」。これはすべての自己啓発本に共通するテーゼでございまして、本書が自己啓発本であることは、こういうところからも窺われるわけですな。 というわけで、ジェーン・フォンダのこの本、この時代の自己啓発本の一つの形として、また女性向け自己啓発本の一例として、私には勉強になるものでありました。さすがに私自身は、レオタードを着て、タイツ履いて、レッグ・ウォーマーつけてワークアウトするわけにはいきませんが、女性にはこの本の実践的な部分も参考になるのではないでしょうか。その意味でこの本、教授のおすすめ!と言っておきましょう。【中古】ジェーン・フォンダのワークアウト (1982年)
June 9, 2018
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先日、家の近くでかなり大きなマンション火災があったのですが、その火事が起こった時、私はバスに乗っていて、その燃えさかるマンションの脇を通過したんですわ。で、まあ、なんとなく出来心で火事の様子をスマホで撮っちゃったわけ。 で、翌日の新聞の地方版にその火事の報道が出ていて、目撃者が撮った写真が添えられていたのですが、その写真がしょぼくてね。大体、肝腎の(?)火が写ってない。そんなんだったら、私が撮った迫力の写真を新聞社に送ったれば良かったかしら、なんて不謹慎なことを考えてしまった次第。 そしたら今朝早く、私の住むマンションで火災報知機がけたたましく鳴りまして。あんまりいつまでもうるさく鳴るので、何事かと思って外を見ると、まあ、でかい消防車が10台くらい止まっている。あらま、これってちょっとヤバいんじゃないの?! 結局、大したことなかったらしいですけどね。 まあ、引き寄せてしまいましたかね・・・。 それはともかく。 今日は前に録画してあった『トレインスポッティング2』を観ちゃった。以下、ネタバレ注意ということで。 20年前の前作『トレインスポッティング』は、青春映画としてなかなか面白かったのですが、その前作の最後で、大金を手にしたまま3人の仲間を裏切り、高跳びしてしまったマーク・レントン(ユアン・マクレガー)が20年ぶりにスコットランドに戻ってくる、というところから映画は始まります。 で、彼が裏切った連中が20年後、何をしていたかというと、一番やばいベグビーはまだ刑務所の中。シック・ボーイことサイモンは、ガールフレンドのベロニカと組んで美人局をしながら金を稼ぎ、いずれ売春宿を出すことを計画中、スパッドはマークから唯一、奪った金の分け前を受け取っていたのですが、それも麻薬で使い果たし、奥さん・子供とも別居中で、今まさに自殺をしようと試みているところ。要するに、マークが置き去りにした元の仲間は、20年経った今も芽の出ない生活に甘んじていたと。 で、マークは彼らのもとを訪ね、スパッドの自殺を食い止めた上、サイモンには奪った金の取り分を渡すのですが、サイモンはマークから裏切られたことを根に持っていて、親友が戻ってきて嬉しい反面、いつか怨みを晴らしてやろうとも思っている様子。 しかし、一番ヤバいのはもちろんベグビーで、彼は何度恩赦を請求しても刑期が短くならないことに腹を立て、ついに脱獄を図るんですな。しかもそんなベグビーが、マークがスコットランドに戻ってきたことを知ってしまったのですから大変なことに。 さて、マークはかつて裏切った仲間たちからの恨みをどう受けとめ、どうかわすのか。そしてこの後の4人それぞれの人生は?! ・・・というようなお話。 で、私のこの映画に対する評価はと言いますと・・・ 「90点」! 高評価! 前作の20年後を描いたものとして、期待以上の出来。映像も編集も音楽もセンスがいいし、随所に前作の遺産を上手に活かしたところがあり、さらりとしたユーモアもあり、ヒヤヒヤするところもあり。そして最終的な結末も実に味わい深い。それでいて、社会の底辺にうごめく人たちの実態も描かれていて、それでいてその実態も暗い一方ではなく、希望が持てるところ、ほろりとさせるところもちゃんとある。紅一点のベロニカの役割も実は大きかったりして、そこも実にいい。 何より、観終わった後の気分がいいのよ。必ずしもハッピーエンドではないのだけど、なんか、しみじみするのよ。 イギリス映画って、地味ながら、滋味溢れるものが多いよね。特に、最近のアメリカ映画がダメダメなだけに、一層そう思いますわ。 ということで、この映画、ワタクシとしてはかなり絶賛です。出来れば前作と併せてご覧になるといいのではないでしょうか。教授の熱烈おすすめ! ということでひとつ。T2 トレインスポッティング [ ユアン・マクレガー ]ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイ トレインスポッティング 【DVD】
June 8, 2018
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目黒の虐待の話、聞いた? もうさ、ちょっと可哀想過ぎないか? 5歳なんつったら、可愛い盛りじゃないの。それをまあ、よく、ああいうことが出来るもんだなと。 でまた、結愛ちゃんが書いたという手紙。5歳とは思えない文才。よほど頭のいい子に違いない。しかも、虐待されながら、自分が悪いと思っていたんですかねえ、必死に謝って・・・。 あの手紙、涙なしに読めないね。 あんな可愛い、けなげな子を虐待して死に追いやったとは、あの野郎、人間じゃねえな。司法に渡す前に一旦、私に引き渡して欲しいもんだわ。 こういうことが起こってから、児童相談所にはどうにかできなかったんかい、っていう話になるわけだけど、そういう後の祭りを繰り返すのは止めてもらいたいわ。もういい加減、こういう悲劇が起こらないよう、ちゃんとした制度を導入しろといいたいよね。 今更こんなこと言ったってしょうがないけど、結愛ちゃんのご冥福をお祈りいたします。
June 7, 2018
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アリシア・ベイ=ローレルさんが書いた『地球の上に生きる』(原題:Living on the Earth, 1970)を読了しましたので、心覚えをつけておきましょう。 この本、「読む」と言うよりは「見て楽しむ」的な本なんですけど、最初に書影を示した方が話が早いかな?これこれ! ↓地球の上に生きる [ アリシア・ベイ・ローレル ] この表紙のイラストもアリシアさんが描いていて、本書全般、これと同じタッチの絵が満載。ある意味、大人のための絵本ですな。 大人のための・・・というか、ヒッピーのための絵本というべきか。そう、この本は、ヒッピーのためのサバイバル法を伝授する本なのでありまーす。 ウィキペディアによると、裕福な家庭に育ったアリシアさんは、アーティストだった母親の影響を受けて高校卒業後、ヒッチハイクの旅に出て、カリフォルニア州北部の「ウィラーズ・ランチ」という100人ほどのヒッピー・コミューンにたどり着くんですな。で、そこで暮らした経験から、ヒッピーとして自然の懐に抱かれて生きるにはどうすればいいか、その生活の知恵を本にまとめた。それが本書なわけ。 ですから、冒頭、バックパック的な徒歩旅行に出る準備の話から始まって、テントの張り方・作り方、カヤックやハンモックの作り方、薪ストーブの使い方などに及び、さらに定住した後の生活のための知恵として、洗濯機を使わない洗濯の仕方、石鹸の作り方、コミューンの作り方、衣服の作り方、服のリフォームの仕方、機織りの仕方、靴の作り方、窯の築き方、かごの編み方、楽器の作り方などが伝授される。 さらに農業の仕方、土の作り方、ニワトリの飼い方、食料の保存の仕方、牛の飼い方、バターやアイスクリームの作り方、燻製の作り方、パンの焼き方、薬草の見分け方、傷の手当や病気の対処法、さらには赤ちゃんの産み方や、死んだ仲間の火葬の仕方まで、魅力的なイラストを使いながら手際よく説明されております。 あ、あと、ところどころで『老子』からの引用があったり、東洋思想の影響がチラホラ散見されるのも、時代というものでしょうか。 で、この本は、時代の感性にぴったり合ったのか、アメリカ国内はもとより世界中で売れ、日本版も1972年に出て5万部が売れた他、今なお定期的に増刷されているとのこと。秘かなロングセラーというわけ。さすがに日本でコミューン作って暮らした連中がどのくらいの数居たのか分かりませんけれども、「丘サーファー」みたいな感じで「心のヒッピー」を気取る連中は沢山いたでしょうから、そういう連中の書棚には収まったのでしょうな。 で、上に述べてきたことからも明らかなように、この本は一種のカタログ的ノウハウ集なわけですよ。となると、当然、1968年の『ホール・アース・カタログ』の影響下にあることは間違いない。『ホール・アース・カタログ』自体も、企画者のスチュアート・ブランドはヒッピー・コミューンを実際に回った上で、彼らのニーズを元にこのカタログを作ったわけですし。 ただ『ホール・アース・カタログ』と違って、『地球の上に生きる』は、女性の著者による本ですからね。女性目線のヒッピー的ライフスタイルの本ということになる。その意味で、この本は、「女性向け自己啓発本」でもあるわけね。 しかし、よくよく考えてみると、ヒッピーの生き方って、男よりむしろ女性の方がふさわしいのかなと。だって、食料のことを考えても、原料を作る、保存する、調理するといった各側面について、女性の方がよほど上手だろうし、かごを編むだの服を作るだのだって女性の方が上手い。「生活力」という点では、明らかに上手ですよ、女性の方が。 大体、医者の助けを借りずに、コミューンの中で赤ん坊を産む、というところまでやるんだから。そんなの、男にできる覚悟ではないでしょ。 ま、男のワタクシが読んでもそう思うのだから、これを女性が読んだら、きっと「自分たちなら男なんかよりもっと上手にコミューンを運営してみせる」という自負・自信を持ったのではないかしら。 ま、そんなことも含め、この本は『ホール・アース・カタログ』が生んだ亜流本の一つであると同時に、世界中の女性たちに何らかの覚醒を促したものではないかと思います。その覚醒の部分だけとれば、この本、今読んでも決して古くはないんじゃないのかなと。実際に、ロングセラーとして今もなおボチボチ売れているというのも理解できますね。
June 6, 2018
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前にこのブログで『DUO3.0』という英単語集が面白いという話をしましたが、アレ、CDバージョンもありまして、本の内容(例文とか)がCD音声で聴けるんですな。 で、ついでだからCDバージョン(5枚組)の方も買ってみて、通勤の行き帰りにクルマの中で聴いているんですけど、これがね、結構いいのよ。 高校生の頃、英単語を覚えるのに苦労したことなんかないけど、やはり歳をとってきて、そこまで記憶力に自信がなくなってくると、頭で(目で見て)覚えるだけじゃなくて、音声なども使って多重的に覚えるようにするのがいいみたいですな。 そう言えば昨年の秋口にアメリカに3週間ほど滞在した時、とある知人が通勤のクルマの中で繰り返しテープを聴くだけで、割と簡単にドイツ語をマスターしちゃった、なんて話を伺いましたが、今回、自分でも耳から英語を学ぶことをやってみて、さもありなんと思いました。 まあ、そうなると『DUO3.0』の次に、もういっちょ、ボキャビル系のCD教材でも聴いてみるか、という気にもなるもの。また、色々試してみて、いいのがあったら、ご報告します。DUO 3.0/CD基礎用 (CDブック)DUO 3.0 CD復習用
June 6, 2018
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吉村正和さんの書いた『心霊の文化史』という本を読了しましたので、心覚えを付けておきましょう。 これね、タイトルが悪いと思うのだけど、このタイトルだけ読むとお化けの話かと思うじゃん? でもさにあらず。19世紀のイギリス・アメリカで流行した「スピリチュアル」流行のことをあれこれ調べた本でございます。 「スピリチュアル」って、日本語に直すと「心霊主義」になってしまうのだけど、この訳って、随分まずいと思うんだよね。「スピリチュアル」というのは、「超自然現象への関心」とか「霊界が存在するであろうという仮説」というような意味であって、別に「禁欲主義」とか「白人至上主義」のような、「○○すべきだ」と主張するような「主義」じゃないんだから。 ついでにいうと「神智学」という用語も、よくないねえ。誰かもっといい訳を出すべきじゃないかなあ。 ま、それはともかくですよ。 ともかく、本書はそういう19世紀にイギリスやアメリカを中心に広まったスピリチュアルな事象やその影響を色々論じておりまして、それは私にはとても参考になったのですが、本全体として見ると、ところどころに繰り返しがあったりして、全体としてうまく書けているかっつーと、どうなのかなと。 ということで、この本がどういう本だったかということを書くよりも、この本を読んだ結果、私が私自身の関心の中で何を学んだかについて、記していこうと思います。 まず年代順に言いますと、「骨相学」というものが最初にある。人間の個性は、頭蓋の形に顕れるので、頭の形を見れば、その人がどういう人物かを言い当てることができる、というもの。これを最初に唱えたのがウィーンの医者フランツ・ヨーゼフ・ガルという人物。1796年にウィーンで骨相学の講義をしたと言いますから、18世紀末の話ですな。で、ガルの弟子がヨーハン・ガスパール・シュプルツハイムで、後に両者は袂を分かつ(1813年)も、シュプルツハイムはフランスを中心に骨相学を広め、さらに彼がスコットランドでの講義を聞いていたジョージ・クームなる人物に影響を与えることとなり、このクームがイギリス、アメリカでの骨相学の流行の火付け役となった。クームが1828年に出した『人間の構成』は、1835年から40年の間に6万4千部が出たとのこと。 ちなみに19世紀に骨相学は大流行するのですけど、実際、骨相学って、マジで当るらしいんですな。創始者のガルは、ベルリンで数百人の犯罪者の頭の形を見て、一人一人の性格や、どんな犯罪を犯したのかを全部言い当てたとか。 だけど、結局、骨相学って「人相見」みたいなものですからね。数千、数万という単位で人の顔を観察して、それぞれどういう性格かを調べた積み重ねがあれば、大抵、当たるわけですよ。つまりは占いみたいなもので、そうなってくると、アカデミックな骨相学者も市井の人相見も基本的には同じことをやっているようなもんですから、この時代、世に「骨相学者」が溢れ返ったのも当たり前。 しかし、それにしてもどうして19世紀のこの時期に骨相学がこれほど流行したのかと言いますと、これは「自己啓発」に関係してくる。 すなわち、骨相学によって自分がどういう人間かの見極めがつけば、自分の意志で自分の短所を改善することが出来るようになるわけですよ。そして19世紀の人間にとって、「人間は自分の意志で自分が誰であるかを知り、その改善すらできる」という発想は、超斬新だったわけね。 加えて骨相学の「自己啓発」の発想ってのは、19世紀半ば、すなわちヴィクトリア朝の「自助と勤勉」の精神に一致してたんですな。特にクームが住んでいたスコットランドは、禁欲的なカルヴィニズムの盛んなところで、そういうことも手伝って、クームには骨相学がピンと来たのでしょう。ちなみに、『自助論』の著者サミュエル・スマイルズもスコットランド人だったこともここで想起すべきですな。 しかし、骨相学で自分に何が足りないかを知り、そこを自助努力で改善すれば理想的な人間になれるというのに、そういう努力をせずに浮浪者になったり犯罪者になったりする奴は、軽蔑すべきダメな奴、ということになってしまう――ディケンズの世界がここにあるわけですね。 そして骨相学的知見によれば、イギリス人が最も優れた人間のタイプで、その次がフランス人、その次がインド人、その次がアメリカ・インディアンやアジア人で、その下がアフリカ人・・・みたいな感じで、学問的(?)に人種の優劣がつく。だから、白人がアジア人やアフリカ人を支配するのは当たり前だ、ということになって、ヨーロッパ列強の植民地支配の口実がつく。だから、骨相学は、帝国主義を支えるイデオロギーとなるわけ。 じゃあ、アメリカに於ける骨相学事情はどうだったかと申しますと、先のシュプルツハイムが1832年にハーヴァード大学で講演をし、それによってボストン骨相学協会が設立され、1838年にはクームが渡米して158回もの講演をすることになる。で、これらの影響を受けたのがヘンリー・ビーチャー(『アンクルトムの小屋』のストウ夫人の兄弟)とか、オーソン・ファウラーで、特にファウラー家は骨相学をビジネスに変え、巨利を得たと。 で、さらに骨相学はメスメリズムと結びついて、「骨相メスメリズム」となります。メスメリズムってのは、動物磁気、すなわち「宇宙に充満する物理的流体」を措定する点で後のニューソートと関連があるのですが、これが催眠術の発展を促し、催眠術をかけながら頭蓋に触れて性格を治療する、という風に骨相学とメスメリズムが結託するわけよ。 しかし、それだけじゃない。骨相学が蓋を開けた自己啓発の機運は、さらに別の方面に飛び火する。それが「社会主義的共同体」ね。 骨相学の流行と同時期に現われたのがロバート・オーウェンのニューラナーク共同体。骨相学は、人間は自分の手で自分を改善できる、という考え方を生み出したわけですが、オーウェンは、個人の性格を改善するには共同体の力が必要であると考えた。つまり、教育ですな。で、教育によって共同体が、個々人を矯正しながら、そこに居る全員を改善し、それによって「千年王国」を現出させる――これがオーウェンの思想だった。 で、19世紀には、イギリスのみならず、アメリカにもやたらに共同体が生まれることになる。シェーカー教徒の共同体とかね。一種の社会主義ですな。 つまり、骨相学にしても共同体思想(社会主義思想)にしても、現世に天国を現出させようとする試みである点で、同根なわけね。神さまがもう当てに出来なくなってきたから、自分たちで天国作っちゃおうと。 で、神さまを当てにできなくなってきたっていう19世紀的状況は、人間死んだらどうなるの?という不安を掻き立てもする。昔は神さまいるし、天国あるから良かったんですけど、それが当てにできなくなると、死が不安になってくるわけですよ。 で、そこで出てくるのが、心霊主義。 事の発端は1848年、ニューヨーク州ハイズヴィルってところで、フォックス家の三姉妹がラップ音(誰もいないのに、音が鳴るなどの現象)などの怪奇現象を体験し、それが近所の噂となり、さらに地域の大ニュースとなっていく。 なんでラップ音がそれほど大ニュースなのかと言いますと、その少し前、1844年にモールス信号が実用化されているからですな。トンツーの音で、とんでもなく遠いところのメッセージが届くのだったら、ラップ音はあの世からのメッセージだろうと考えられたのも無理はない。 で、フォックス三姉妹のラップ音騒ぎは、三姉妹によるインチキだということが判明した後も、全米各地で霊媒(たいてい女性)が次々と現れ、また彼女たちが大西洋航海術の発達もあって次々とイギリスに渡るものだから、イギリスでも同様な霊媒人気が起こってくる。 で、1860年代から70年代にかけて、心霊主義は全盛期を迎えるのですが、この動きの主役がブラヴァツキー夫人。霊媒として活躍した後、ドグマ化したキリスト教と、唯物的な科学、さらに霊媒を騙るインチキな連中も排し、科学的な検証に耐える新しい宗教としての「神智学」を起こすんです。 で、時はダーウィンの進化論の時代、そしてハーバート・スペンサーの社会進化論の時代。ブラヴァツキーも霊的進化論を唱えて、人間は自己啓発し、進化していく中で、段々神に近づいて行く、という思想をぶち上げる。つまり、神が自分の似姿として人間を作った、という神話を逆転し、最終的に神に似てくる、という風にしたわけ。こうすれば、進化論と宗教が喧嘩しなくて済むし(頭いい!)。ちなみに、ブラヴァツキーは、人間はサルから進化したのではなく、サルは人間から退化した(進化から脱落した)、という考え方も持っていたらしい。 で、ブラヴァツキーにはインド思想(カルマとか)の影響もあるし、またそういう深奥なる思想を選ばれた人だけに伝えるというような点では、フリーメーソンやイギリス薔薇十字教会の影響も大(自己啓発に引きつけて言えば、ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』などにも、その傾向は見られる)。 でまあ、とにかく、心霊主義はブラヴァツキーらの神智主義を通過しながらカルト的自己宗教に変容していくのですが、その一方、もう一つの道として、心霊主義は1882年に設立された心霊研究協会(ルイス・キャロルやジョン・ラスキン、コナン・ドイルなども参加、テレパシーの研究などを推進)を通じて、厳密な学問としての心理学へ変容していったところもある。 その場合の心理学ってのは、ユングなんかのことを指すわけですが、心霊主義から心理学への橋渡しとなったのが、フレデリック・マイヤーズね。「潜在意識」(彼が顕在意識と潜在意識の境にあるものを「limen」と呼んだことから、「サブリミナル」なんて言葉も生まれた)という考え方の始祖の一人でもあり、ウィリアム・ジェイムズも認めていたという。 ちなみにマイヤーズは元詩人であり、心霊主義ってのは、ロマン主義に通じるところがある。ワーズワースとか、イエイツなんかとの関連も重要。あと、心霊主義・神智学とカンディンスキーやモンドリアンなどの抽象芸術との関連、さらには、エベネザー・ハワードの田園都市構想などとの関連も面白い。 あ、あと、タルコフスキーの『惑星ソラリス』は、死んだ妻の再生が描かれている点で、心霊主義の影響大。 ・・・とまあ、最後の方は面倒臭くなってあまりにも適当なメモ書きになっちゃったけど、とにかくね、重要なのは、19世紀にキリスト教がダメになってきたことで、人間が自分で自分のことを救わなくちゃならなくなったってことですな。で、そこで現世における幸せの追求、ということが考えられるようになる。つまり、自己啓発ですよ。で、19世紀に登場する各種社会主義思想も、結局、現世における幸せの追求なんだから、それもまた自己啓発思想の一部なわけ。 そう考えると、アレだね。結局、自己啓発思想こそ、キリスト教以後、人類最大の思想と言えるんじゃね? そんなことを考えさせられたわけだから、この本、やっぱりいい本なのかもね。心霊の文化史 スピリチュアルな英国近代 (河出ブックス) [ 吉村正和 ]
June 4, 2018
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WOWOWで『ワンダーウーマン』やってたので、既に劇場で観たことあるのですけど、つい観ちゃった。ガル・ガドットのファンなので。大柄な女に弱いのよ、私は。 だけど、ジャスティス・リーグだ、アヴェンジャーズだって、最近、作り過ぎじゃない? なんでもかんでも一緒にすりゃーいいってもんでもないでしょうに。もう、正義の味方の飽和状態だ。 そんなことを考えているうちに、日本版アヴェンジャーズを作るとしたらどうなるかしら、と、ふと思いまして。 まあ、仮面ライダーは必須ですわな。その場合、キカイダーはどうする? バイク・キャラ二人もいらんか? ウルトラマンは当然、出すよね。兄弟全部出すとなると、若干うるさくなるけれども。 アニメ系では、デビルマン? アトム? 鉄人? ああ、ガンダムもいるか。 あと、日本版なら、忍者系も欲しいかも。どれ出す? サスケ? どろろ? ぴゅんぴゅん丸? ・・・なんか、まとまりないな~。 いっそ、もっと人間ドラマっぽいので行くか? 刑事ドラマのアヴェンジャーズとか? 優秀な刑事揃えて、事件を解決する。 『太陽にほえろ!』のメンツは、大分鬼籍に入っちまったなあ・・・。『噂の刑事 トミーとマツ』の二人は大丈夫そうだが。あと『あぶ刑事』と『踊る』メンバーも入れないと。大門さんも出そう。 御歳を召した金田一も引っ張り出そう。 あと、家政婦にスパイさせよう。 あと、崖で自白させるために、船越さんは出そう。ついでに片平なぎさも出そう。梅雀も出そう。 コナンはどうする? 実写版で出すか? あと、銃撃戦で負傷者が出たら、失敗しない女医さんに治療を頼もう。 ・・・ううむ、地球制服をたくらむ連中と闘う本場アヴェンジャーズと比べると、やや地味か・・・。 そんなアホなことを考えているうちに、既に日本版アヴェンジャーズっぽいのがあることに気が付いた。 『怪物くん』。もう既に、ドラキュラだの、フランケンだの、狼男だの、揃っていたわ。 はい、終了~。
June 3, 2018
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昨夜、映画『ファントム・スレッド』を観てきました~。以下、ネタバレ注意ということで。 時は1950年代のイギリス。ダニエル・デイ・ルイス演じるレイノルド・ウッドコックは超一流のデザイナーで、イギリスのみならずヨーロッパ諸国の王族すら顧客にするほどの腕前。彼のことを知りつくした姉のシリルをいわばマネージャーとして、二人三脚で頑張ってきたと。 で、シリルもレイノルドも独身なんですが、レイノルドは定期的に恋人を家に招き入れ、しばらく共に暮す、ということをする。しかし、恋人となった当の女性は、ごく普通に恋人として出来るだけ沢山の時間をレイノルドと共にしたいと思い始める。 しかし、芸術家肌で繊細なレイノルドは、朝起きてから寝るまで、すべての行動様式が決まっていて、そこから一歩も出ない人なんですな。そのルーティーンをわずかでも狂わされると、一日、仕事にならないというほどの繊細さ。だもので、レイノルドにとって単に一時的なミューズに過ぎず、それ以上のものではないと思い知らされ、ぐずり出した女性は、おそらくシリルから「お役御免」を言い渡されることになる。 ま、そうやってその都度その都度、恋人をとっかえひっかえしてきた、というのもまた、レイノルドにとって重要なルーティーンだったわけですな。 しかし、それは確かに重要なルーティーンではあった。というのも、レイノルドは一心に仕事にのめり込むもので、一つの大仕事が終る度に、抜け殻のようになってしまうんですな。で、そういう時に、彼に新しい創作意欲を掻き立たせるには、新しいミューズが必要だったから。 で、ある時、やはり大きな仕事が終って、抜け殻のようになったレイノルドは、また新しいミューズを見つけるわけ。それがアルマという田舎出の若い娘。マナーや洗練には欠けるけれども、レイノルドのような上流階級の世界には居ないような、健康的な魅力を持った女性で、そこがレイノルドには新鮮に映ったわけですよ。 で、新しい恋人としてアルマはレイノルドの家で暮らし始めるのですが、そうなると、アルマの田舎娘っぽいがさつさが、レイノルドとシリルの、洗練を極める家の中ではどうしても雑音となってしまう。最初の頃の新鮮な魅力も去ったとなれば、レイノルドとアルマの関係も段々、ぎこちなくなって、しまいにはアルマは他の多くの女性同様、お払い箱になるはず・・・ ・・・だったのですが、アルマは違ったんですな。 彼女は、これまでレイノルドがつき合ってきたその他大勢のミューズとは違った。ある意味、ガッツがあるわけですよ。弟のことを気遣うシリルからやんわり注意されても、「わかりました。アドバイスありがとう。だけど私は私のやりたいようにやります」ってな調子で、あくまでもごく普通の恋人同士のように振る舞うことをレイノルドに強要しようとする。 もちろんレイノルドは激しく抵抗しますが、アルマも負けてはいない。レイノルドは日頃強がってはいるけれど、本当は弱い人なんだ、ということをアルマは本能的に見抜いているので、そう簡単に引き下がるようなタマではないんですな。 それどころか、「自分の弱さに正直になった時に、本当のレイノルドの姿が見られるし、それこそ、自分が魅力を感じているレイノルドである」ということを知っているアルマは、ある思い切った行動をとる。 さてさて、アルマは一体、何をやらかすのか。そして、それに対してレイノルドはどう反応するのか・・・! ・・・みたいなお話。 まあ、怖い話ではあるのですが、そこから先の展開がまた意表をつくもので。男と女の愛ってのは、こういう形に落ち着くこともあるのかよっ! っていうね。 咀嚼音が印象的な映画シーンとしては、『イングロリアス・バスターズ』でクリストフ・ヴァルツがケーキを食べるシーンがありますが、『ファントム・スレッド』にも、印象的な咀嚼音があるよ~! で、この映画に対する評価ですが・・・ 「80点」くらいかな・・・。 まず1950年代のロンドンの高級仕立て屋さんの描写がなかなかよろしい。あと、この映画を最後に映画界を引退するということもあって、出ずっぱりのダニエル・デイ・ルイスは、やっぱりインパクトのある顔をしていて、つい引き込まれちゃうところがあるんですな。 で、肝心のドラマですが・・・これはね、面白いなとは思う。だけど、正直言うと、私自身はそういう面倒臭い男女関係って、あんまりよく分からないんだなあ。もっとシンプルな愛妻家の物語が好きなの。それを言ったらおしまいだけど。 ということで、評価はするけど、共感できないというところで80点。その辺で勘弁して下さい。 でも、まあ、観て損はない映画ですよ。 ダニエル・デイ・ルイスは、映画界を引退して、仕立て屋になるそうですけれども、それほど今回の映画では役に入り込んだということでしょ。アカデミー賞を3度獲った俳優の渾身の仕立て屋演技、そりゃ観て損はないんじゃないすか?
June 2, 2018
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日大、何だか大変なことになっておりますなあ・・・。 もう単に反則プレーヤーの処分どころの騒ぎじゃなくて、監督・コーチの解任、内田某の連盟除名、常任理事辞任、さらに理事長・田中某まで巻き込んだ日大の黒歴史全体が暴かれようとしている。 そう考えると、アレだね、あの反則タックル一発の影響ってもの凄かったんですな。もちろん、プレーとして許されるものではないけれども、あのタックルは、ある意味、今日の日大の在り方全体に対する強烈なタックルだったとも言えるんじゃないですかね。あれがあったから、こうして日大のもろもろが白日の下に晒されることになったのであって。 それにしても、日本最大の大学、日大の闇は深いね・・・。 もう、この際、膿を出し切っちまえばいいんじゃないの? めったにないチャンスだよ。2020年は日大の創立100周年なんだし。色々キレイにしてから記念の年を迎えた方がいいんじゃない? ところで、あんまり皆が日大、日大というものだから、私もつい、日大のことあれこれ調べちゃった。 昔は文学部もあったようですが、今は文理学部なんですな。だけど、英文科もちゃんとある。 で、英文科のスタッフの経歴もちらっと見たのですが、結構、日大出身者が多いのね。なるほど、さすが日本最大の大学だけあって、自分の大学のスタッフは自分のところで育てるわけだ・・・。 は、はーん。だったら・・・私も大学受験の時に日大に進学すれば良かったかなあ、などと言ってみたりして。 まあ、他所の大学のことはどうでもいいか・・・。 さてさて、私は今日、これから『ファントム・スレッド』を観に行こうかなと。感想等はまた後日、記しますので、お楽しみに~。
June 1, 2018
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同僚とコーヒー飲みながら雑談していて、映画の話題になり。 で、そこで出たのが、「最近、洋画のTVコマーシャル、あんまり見ないよね」という話。 確かに・・・。 逆に、邦画のCMは割と見る。今だと・・・『のみとり侍』とか? 全体的に言って、今は邦画の時代なんですかね。私なんかからすると、信じられないけどね。実際、ワタクシ、お金払って映画館で邦画見た事ないし。 『八甲田山死の彷徨』を映画館で観たことがあるけれど、あれは中学校で無理やり連れて行かれたんだった。なんで『八甲田山』だったのか、意味不明だけど。 まあ、私にとって邦画でお金払ってでも観たいなと思うのは、小津映画か、初期黒沢映画、建さんのやくざ映画、その他だと・・・渥美清の出た『拝啓天皇陛下さま』とか? そんなもんですわ。 一方、今、私が観たい洋画は、『アイ、トーニャ』と『ファントム・スレッド』の2作のみ。 残念ながら『アイ、トーニャ』の方は家の近くの映画館でやってないので、とりあえず『ファントム・スレッド』を近々観に行く予定。 きっと、ガラガラだろうけどね・・・。『のみとり侍』は満席だったりして。
June 1, 2018
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