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久しぶりに 松岡正剛
を読みました。 「擬 MODOKI」
というキイワードに向かって、20回にわたる講義が 「第一綴」
から 「第二十綴」
まで繰り広げられています。 松岡正剛流「世界認識の方法」
が、今のハヤリふうに言うなら、 「千夜千冊」
のアーカイブをたどりかえす様子で編集されています。
第二綴 きのふの空 引用部分だけを読めば 蕪村の句 についての独自の解説として読めるのですが、 「擬 MODOKI」 一冊を読み終えれば、ここで 松岡正剛 が、この句の肝として言及している 「蕪村は凧の舞う空の片隅に『きのふの空』という当体を『ありどころ』として掴まえたのである。」 が本書の肝だと思いました。
蕪村 に
「凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ」
という句がある。わが半生の仕事でめざしてきたものがあるとしたら、この句に終始するというほど好きだ。ぼくの編集人生はこの句に参って、この句に詣でてきたといっていい。
正月の凧を見ていると一日前の空に揚がっていた凧のことを思い出したとか、去年の大晦日や正月のことを思い出したとか、たしか 中村草田男 がそういう解釈をしていたが、 「きのふの空も寸分違わずこのとおりであった」 などという句ではない。 蕪村 は凧の舞う空の片隅に「きのふの空」という当体を「ありどころ」として掴まえたのである。不確実だが、これが 蕪村 が掴まえた「ありどころ」だった。
空を仰いだところに「きのふの空」などあるはずはないのだけれど、一点の凧のような何かがそこにちらちら動行していれば、そこから古今をまたぐ「ありどころ」まで及べたのである。
蕪村 はこの及び方に徹した。及び方は大きくも小さくもなり、 「あたり」 にも 「ほとり」 にもなった。
「雨の萩山は動かぬ姿かな」
「さみだれや大河を前に家二軒」
というふうにぐんと巨きくもなれば、
「うぐいすの二声耳のほとりかな」
「蘭の香や菊よりくらきほとりより」
というふうに手のひらや耳たぶのそばのようなサイズにもなる。
(改行引用者)
この本は少し変わっている。ちぐはぐなこと、ノイジーな現象、辻褄があわない言動、公認されてこなかった仮説、残念至極な出来事、模倣や真似する癖、おぼつかない面影を追う気持ち、借りてばかりの生活などの肩をもっているからだ。 ぼくのように、若い人たちに対して「スジだった考え方」ということを、常々、口にするような仕事に何十年も従事してきた老人には、最も苦手、且つ、不可解な主張なのですが、実にスリリングだったのは何故でしょうね。
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