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この話は本当のことを言うと夢なのか、妄想なのか、本当のことだったのかちょっと怪しい話です。でもずーっと前から覚えていて、時折思い出す事柄で以前に書いたかも知れないけれど、またどうしても書きたくなったので書いてしまいます。そのとき目が覚めると何処にいるか分かりませんでした。体を起こしても見覚えの無い部屋の中。そこで「あ、起きた」という女の人の声が聞こえたのでそちらを向くと女の人がいました。そのとき私は女の人を見て(う~ん、思ったより美人じゃないなぁ。ちょっと失敗したかも)と思っていました。座卓には男の人と小さな3歳くらいの男の子が座っていました。(この小さい男の子は一体誰?)と思ったのも覚えています。そして私はその座卓につれてこられました。そうして座ってみると小さい男の子が自分より大きいのに気付きました。そこで私は自分が小さくなっていることに気付きました。私はそのとき(何時の間に?)と思いました。それからしばらく(まあ様子を見よう)と思い、それから言われるままに色々やったと思います。そこから先は余り覚えていません。先日ふと思い出した(?)のは自分がそこにいるのがとても不本意で何故そこにいるか分からなくて何時まで経っても終わらないし、帰りたくて、でもどうしたら帰れるのか分からなくて「帰りたい」と女性に言ったら「え?一体何処に帰るの?おうちの中にいるじゃない」と驚かれたことを思い出しました。帰れないことに気付いて(うわ~、失敗した~。ここじゃないところに行くつもりだったのに。ちょっと覗いてみただけだったのに)って思ったことも。これも本当の記憶なのか、夢なのか妄想なのかちょっと不明。幼い頃は夢と現実ごっちゃになりやすいし、況してや本当に物心つく前の話のはず。しかも記憶の中の男の子(兄)のビジョンは大体3歳くらいだとしたら私は1歳くらいで、まだそこまで言葉も発達してなかったはずだし色々おかしいとは思う。でも「帰りたい」って何処へ?って私も思う。ちなみに以前に『前世の記憶がある』と豪語する友人にこんな記憶がある、って話したら「変なやつ」呼ばりされて以来他人に話したことはありません。さて本当にこれは記憶なのでしょうか、それともただの夢なのでしょうか。他に誰かこんな様な記憶を持っている人いらっしゃいます??
2008.02.28
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最近気がついたこと。どうやら私は人のアドバイスや「こうやって見たら?」を素直に聞けないところがある、ということ。何かにつけて自己アレンジ(自分の考え)を混ぜないと行動しないところがあります。そうして自己アレンジをしない場合と比べて検証して見るクセがあるんです。納得したら聞いたまま行動するんですけどね(笑)で、何でだろうとずっと考えていたんですが、どうやら「自分で何でも経験してみたい」というのがあるようです。自分で考えて行動してそれによって色々知りたい、という欲求が根底にあるみたい。これは昔っからです。だから自分で色々考えて試行錯誤することは嫌いではないどころか、どちらかというと試行錯誤をしたがっているようです。それが傍から見れば『わざわざ遠回りをしている』ように見える(by母親)そうです。ウチの母親がせっかちだった為(あ、私がせっかちなのはこの影響かも。本当はもっとのんびりやで石橋を叩いて渡る人らしい)、人がそうやって遠回りするのを黙ってみてられず、助けが出る前に手が出るタイプだった為諍いが絶えませんでした。ちなみに十分試行錯誤してそれでも出来ないときは母親にヘルプを出したんですが、母親は自分が手が出したいときに手が出せなかったことに臍を曲げて、よく八つ当たりされました。そこが私が簡単に人に助けを求めれない(助けを求めると怒られる・怒鳴られる、それが恐くて助けが必要でも萎縮して声が出ない)というトラウマになったもかも。それはさておき、そうやって考えると私の生き方もわざわざ試行錯誤して遠回りいるようなところがあります。それゆえに大変な目にあっていることが多々あるのですが、その遠回りして大変な目に会うことがこの人生の目的だとしたら十分にその目的は果たしているぞ(笑)と思うくらいは大変な目にあってます。しかも何故かそのときに一番安易で平穏な道は私の目には隠されていて、後でなんでその道が見えなかったのか不思議に思うことも多々あります。でもそれにゆえにアドバイスは大切なんだなということと、素直にアドバイスを聞いていてはいけないことを肌で感じることが出来ています。でも素直にアドバイスや人のいうことが聞けないって一体何故なんでしょうね。まるっきり聞けないわけではないので、何処かで線引きがあるんだろうけど、そのあたりがよく分からない。あ、でも一つだけわかって線引きしていることがあります。それは「本当にその人(私)を思っていってくれていること」は素直に聞いて、「本当は自分(言う人)の都合だけでその人(私)のことは思っていないこと」には抵抗しているということです。これは十中八九判別できます、直感で。頭で知識と照らし合わせて考えると当たらないですね。それで判断に狂いが生じて、大変な目にあう。なので直感は大切にしています。後はどうしても権威には反抗したくなるので、素直に聞けないのはあります。結果として相手のペースを尊重することととそのために忍耐が必要なことを学んだと思います。(実行できているかは別として。それはこれからの課題)それにしても人の話に影響受けやすいくせに人の話を素直に聞けないってどういう人だよ私。影響を受ける人の話ってのも大体が私が経験した上で出した結論に近い・又は言葉に出来ていないことを表現している、そして母親に認められない(彼女の視野が狭くて)意見が多いような気もします。だから一種の「トラの威を借る狐」状態で傾倒してしまうんでしょうね。そしてそれを体現しようとする。あー…、自分の問題が見えたような気がする。それはまた次回で。
2008.02.27
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「自分の見つめ方」「自分の見つめ方」がわかると自分を寄り深く知り、本当に自分に出会える可能性は高いです。やり方は色々ありますが、人によって向き不向きがあります。例えばブレスト法。なりたい自分、なりたくない自分を紙にずらずら書き並べて本当に望んでいるものを見つけ出す方法。本音をはっきりとずらずらいえる人、自己肯定が出来ている人に向いてます。逆に自己肯定が出来ていない人、コンプレックスが多い人、普段は「良い子」のペルソナが強い人、表面的に問題を見ないふりをしてしまう人は真っ白な紙を前にしても本当の自分が出てくることは少ないです。多少の望みは書けるけど、それ以上に本心が出にくいので代えってプレッシャーになったり、自分と向き合えなくなることが多いです。そういう人はちょっと大変だけど、時間もかかりますが、自分が無意識に考えていることを一つ一つ監視して、「何で自分はそう考えたのか、何でそう感じたのか、それは何故か」を追求していく方が向いています。自分の考え方の偏り、見てみない振りをしていることを気付くことが多くて何にコンプレックスを抱いて、何の影響を受けているのかをしることが出来ます。弱さ、脆さ、そういった見たくないものを見る羽目になるかと思いますが、それはそういう面もあるというのを知ることが大切なので切り捨てようとしないようにすることが大切になります。ただ日常の生活の中では忙しすぎてやってられない、流されやすい、という人はフリーの一人旅もお勧めです。ツアーや友達とかと一緒だとせわしないこともありますが、一人だと嫌でも自分を見る羽目になるので荒治療の一環としてやってみるのもいいでしょう。間違えやすいのは自分を見つめて出てきた弱さ・脆さ・見たくない面を否定してしまうこと。「こんなの自分ではない」そう思って見ない振りをしたり目を背けることが一番問題なのです。もちろんウィークポイントには対策を立てておいた方がいいこともありますが、それこそ自分がそういうウィークポイントを持っていると認めていることが前提になります。でもとにかく対策を立てる前にその見たくない面が「ある」と認め、それも自分であると言うことを認めることが大切です。そのときに「嫌だな」とか「見たくないけど」、「認めたくない」という感情があっても構いません。何処かの神様のように平静に受け入れる必要は無いのです。そういうものが自分にあると言うことを知るのが自分を見つけると言うことですから。またその感情も自分を見つめていれば『何故そう感じるのか』を知り、また一つ自分を知ることが出来る大切な欠片に違いないからです。これらの方法でもどうしても表面をつくろってしまう人は怒ったときやうれしかったときなどその内容をメモするのもいいでしょう。それを集めてみればいくつかの共通項が出てきますからそれも自分を見つめることになります。「自分を見つめる方法」はひとつではありません。自分なりのオリジナルの方法でやってみましょう。そして自分を知れば、本当に自分を幸せにする方法も見つかるかもしれません。自分の嫌なところ・見たくないところ・消し去りたいところも貴方(自分自身)です。でも貴方はそれだけで出来ているわけではありません。それがあっても貴方は貴方、自分は自分です。貴方のいいところが帳消しになることはありません。逆にいいところが伸ばせれば貴方の嫌なところは小さくなります。それを忘れずにいてください。次回は「否定や切捨てをしない」です。
2008.02.25
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本当は夢日記を書こうと思っていました。でも夢の部分を文字の色を変えようと思うと何故かエラーになり、PCが固まって再起動を書ける羽目に。一回目は頑張って書き直したけど二回目はさすがに気力がなえました。時々スピ系で「~~~~の話をアップしようとしたら何度やってもアップできない~~~」ということは聞いたことがあったのですが、まさか夢の話で二度もPCがフリーズするとは思わず、参りました。夢っていっても大したことではないです。浄化力の高い水を飲んだ話と自分を殺そうとする人と対峙する話。だからといってすごくリアルな困った話と言うわけではありません。泉が問題なのかな?久しぶりに覚えていた夢だったので、ちょっとがっかりです。覚えていたらまた後日載せます。スピ系といえば最近余り傾倒する傾向が改善されています。まあ、一時期大変だったから一種の逃避だったのかもしれません。でも傾倒したお陰で見えてきたものがあります。スピリチュアルは現実逃避をする場所ではないということ。今をより良く生きるための心の処方箋でしかないと言うこと。確かにスピのワークやらなにやらやっている人はどっぷり使っているように見えますが、その場所が彼らの現実であり、生きていく場所だからそう見えるだけ。彼らほど現実に足をつけて生きている人もいないくらいです。よくスピ系を『科学的でない』といって攻撃する人もいますが、じゃあ科学でどれだけ世の中のことが証明されているんだよとも思います。私達がいる世界で科学で証明できるものはほんの一部分。暗い部屋にいてろうそくの明かりが届く範囲しか見えていないようなもの。それこそ青色ダイオードさえ、実際に作られるまでは『非科学的な代物』だったんですよね。科学的に青色が出ないこと証明されているから研究するだけ無駄と言われていた時期も合ったくらい。だからこそ科学的でないというだけで攻撃・見下す人は常識と言う名の枠に囚われている人とも言えます。でも逆に見えないから・証明できないからといって悪質な詐欺やお金儲けの手段にしている人たちがいるのも事実。それを避ける為にもやはりある程度の知識が必要です。ただ『科学的でない』というだけで何も知らずに攻撃・遠ざけるよりはある程度知識(特に悪徳業者を見抜く方法)は入れておいたほうが無難でしょうね。何事もまず知ることが落とし穴を避けるために有効な手段である場合がありますから。まあ、頑張りましょう。
2008.02.24
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本日はマンガとそれを読んで感じたことの話。先日買った「代官山呪い屋st./浜田翔子/秋田書店」5巻で、ちょっと『確かにね~~~』と思ったことがあったので。あ、ちなみのこのマンガ、一応「呪い」は出てきますが、そんなおどろおどろしい恐い話ものではありません。(そういうのは好きじゃないし、読まないです)基本的に精霊とか妖精とかパワーストーンとかが出てくるどちらかと言うとスピ系に近い、でも昔ながらによくテーマにされてきた心の闇とかが題材のお話しです。この五巻は本来の主人公(秋津楓子)のほかに隣のクラスの黒田莉子というゲストメインキャラがいます。その子の境遇と言うか、親から受けた言葉と傷が誰にでも当てはまるものなんですね。STORY.24のなかのセリフ、「いつも私をさげすんで馬鹿にしてけなしてばっかり、褒められたり可愛がられたりした記憶なんか一回もないわ」「それでも小さい頃はあんたに好かれたくて褒められたくて頑張ってたのにね…」「お前は何をやってもダメな子だ ぐずでひねくれもので 容姿も性格もちっとも可愛くない」「その上 地味で暗くているのかいないのかわからない子だよ ―――って」「ことあるごとに あんたは私にそういい続けてくれたわよね」「あんたの言葉が私への枷であり呪縛そのものだった」「言われるたびにそうなっていったのよ さぞ満足でしょうね」この一連のセリフ、どう思いますか?『何を大げさな、甘えんじゃない』と思いますか?でもそれは貴方が幼い頃からその立場に無かったから言える言葉です。無抵抗な知識の無い物心がついた頃から十何年もほぼ毎日言われ続けられて、何も感じない人はいません。でも特に「あんたの言葉が私への枷であり呪縛そのものだった」と言うのは実感として知っているのでよく分かるんですね。親に否定されて育った子供はその否定されたまま不安定な状態になります。それは歪んだ形で暴力とか嘘とか権力行使に現れたりします。社会に出て問題がある人というのは何処かしら、親から心無い言葉を投げつけられて育った時期がある場合が多いのです。HOLICxxxにも出てきましたが、言葉は人を縛るのです。ですから日本古来から言葉は「言霊」として慎重に扱われていたりするのです。もし、これを読んでいる人で子育て最中の人がいたら、子供が自分の思い通りにならない、自分の望んだ形にならないからと言って腹立ちまぎれに否定的な言葉を投げかけないでください。言葉はただ発すればただの記号ですが、気持ちや心(苛立ちや否定的な感情)を込めて発すると「言霊」となり、発した言霊どおりの事が起きます。特に親から子供へ発した言霊は強力な呪力がありますから、そうなりやすいです。否定されて育てられれば否定的なネガティブな人に、ポジティブに育てられればポジティブな人に。もちろん例外もあります。それは魂の成熟度によって変わるので、ネガティブな言葉を浴びせるよりはよりポジティブに育てた方が無難でしょうね。「貴方は親の大変さがわかってないからそういうのよ」と言う方もいらっしゃるかと思いますが、親がやっていることを自己弁護して罪悪感を責任転嫁して感情をぶつけて子供の心を顧みないと言うのは、やはりそれはそれで問題だと思います。一方で本当はやりたくないのに子供に当たってしまうと悩んでいる方は一度カウンセリングに行くことをお勧めします。自分はネガティブに育てられた、その負の傷に苦しんでいる~という人は今からでもインナーチャイルドを慰めたり、ヒプノセラビーを受けるなり、フラワーエッセンス・ホメオパシーを取り入れると改善します。マンガの方はそういわれていた黒田莉子が母親と姉に人形に魂を閉じ込め復讐しようとする話(でもホラーマンガではありません)なのですが、結末はマンガを読んでくださいね。以上マンガをよんで感じたことでした。
2008.02.23
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先日、某ブログにて神職のブログ管理人と他の新興宗教的スピ系の方の遣り取りがありました。本音を言えば内容の何が本当で何が正しいかなどと言うのはどうでもいいことです。ただ嫌だなぁと思ったのは新興宗教的スピ系の方の反論の仕方。まるで自分の知識が一番でそれ以外は認めない、もしくはその知識があることに優越感を感じていらっしゃって、他人を見下した書き方をされていたのが酷かったです。一種、世の中の宗教対立の根本はこんなくだらないところから来ているのかも~とも思いましたが。でも、自説を強弁し相手を認めない、というのは自分を認めて欲しい≒自分は認められていない=満たされていない・自己評価が低い、コンプレックスを抱いている、ということ。またその弱い部分を受け入れていないと言うこと。満たされぬ思いがあるからその他の権威にて自分のコンプレックスを覆い隠し、それによって相手を従え、その権威によって満たされようとする。もちろん付け焼刃なので、そうでない強い裏づけのあるものの前には立ち向かえない。そうするとその強い裏づけのあるものを貶めることまたは力によって自分の優位性を満たそうとする。つまりは攻撃や暴力に走るわけです。はっきり言って意味がないです。結局自分が何が満たされないか、何にコンプレックスを抱いているのかを見ないのでいるので何時まで経っても相手を力で押さえつけようとします。大事なのはそんなことをしても意味がないことに気付くことです。何かに傾倒するよりも自分と向き合う時間をつくって、大変でやりたくなくても自分と向き合う時間を持った方がとっても有意義だと思いました。力(権力・立場・暴力・恐怖・金など)で相手をねじ伏せよう、言うことをきかせて自分の思い通りにしようとしているならば、貴方は何か満たされないものを持っているということです。それが何かをしっかりと気付く必要がありませす。より知識がある、他の人より物事が見えていることが貴方に優越感を与えるならば、貴方はその分何が満たされていないかを見極めなくてはいけません。もし心から満たされているならより知識があるのも、より力があるのも貴方を慢心や傲慢には導きません。相手が自分より知識・力・視点等が足らないからと言うだけで見下したりイラついたり攻撃したりはしません。また自分の意見が受け入れられない・認められないからと言って怒ったり力で訴えること相手を貶めることもありません。そうでないならば貴方は自分と向き合って、対峙してしっかりと見つめる必要があります。見たくない部分をあやふやにしてはいけません。足りない部分も足りている部分も受け入れることが出来れば、相手が自分の意見を受け入れないからと言って攻撃や怒ることはしなくなります。受け入れていないとそういう暴力的な行動に出るのです。受け入れている、というのは完璧と言うことではありません。十全であることではありません。十全でないこと、完璧でないことを認めることだけです。知識として分かっていても本当に受け入れることが出来るというのは違います。自分の弱さを受け入れて認めてその存在を許すことが大切です。私もまだ出来ていません。でもそれを認めることがまず第一歩。まずはそこをしっかりやろうと思いました。
2008.02.21
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今回「ご先祖さまへの癒し」と言うテーマでした。感想って程でもないのですが、ちょっと気になったのことを。今回もコールインでの受け取りでした。習い事が自習になったため、お休みしたからリアルタイムも可能でしたが、コールインにしました。そのまま寝てしまいたかったから(笑)リアルタイムだと準備が間に合わないんです。コールインしてから今回は余りエネルギーを感じなかったのですが(鈍くなっている??)やっぱりおなかはゴロゴロなって動くんですね。それからとにかく目をつぶってリラックス~を心がけました。ふとなんとなく目をあけてしまったときに外からの光が一筋だけ足元に近い方半分の天井に映っているのが見えました。今思い返すとそこだけ光が映っているのは実は不自然。街頭の明かりがカーテンの隙間から入ることは多々あるんですが、そこはいつもは入らないところ。もしかしたらそれがヒーリングのエネルギーの形だったのかも??それとももっと別の???それから再び目を閉じて仰向けになって、でもなかなか寝落ち出来ずにいたら、気がついたら腕がしびれているような重いような。動かそうと思えば動くのでしびれているわけではなさそう。でも普段は自分のものなので感じない本当に腕の重さを感じた。まるで片側5キロぐらいありそうな腕の形の錘があるような感じでした。それから今回は二人くらいフッと目の前に顔が出てきたような。強いていうならお坊さんが袈裟か頭巾をかぶっているような感じでした。一人は女性、もう一人は…?実は余りご先祖さまよく知らなかったりします。ウチは両親ともに長子ではないのと二人ともあまり血の流れに重点を置いてないので詳しくないっていう状態です。更に父方の菩提寺が遠方にあるためお墓参りは殆ど行けません。ですがあれはご先祖様だったのか、といわれるとちょっと心もとないのですが、テーマから考えるとそうで癒されていたならいいなぁと思いました。その後は寝付きました。ぐっすり。で、朝は起きるのが嫌でもっと寝ていたかったです。何故かすっきり、とならないのが私の特徴かも~~。先日、部屋を少し模様替えしてからやたら眠いのもありますが。そんな感じでヒーリングを終えました。さつきのひかりさん、ありがとうございました。
2008.02.20
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「人のために奉仕するとは」それは自分を犠牲にすることではありません。苦痛や魂を削ることでもありません。もし貴方がやっていることに対し、苦痛を感じている、魂を削っている、命を削っている、何かを犠牲にしているという感覚や思いがあればそれは「犠牲」になっているのであり、「奉仕」しているのではありません。それに見合う報酬を戴いているのであれば、それはビジネスとして割り切ってもいいでしょう。本当は「奉仕する」ことに対し喜び・楽しみなどがなければ「奉仕」ではありません。同時に行っている本人がそれをすることに対し喜びや楽しみ、うれしいと感じているのであればそれはどんな作業でも「奉仕」なのです。当たり前なのですが「人のために奉仕するとは」自分の為でなく、自分以外のほかの誰かが喜ぶことがうれしいという為なのです。ですから他の誰かが喜んだり助かったりしない限りそれは自己満足に過ぎないのです。また、誰かが喜んだり助かったりしていることに対して、自分が偉いとかしてやってる等と押し付けがましいことを考えている限り、それは奉仕しているとはいえないのです。この点貴方はどうでしょうか。本当に一番いいのは自分の得意分野で自分がやっていても楽しくて、同時に相手のためになり喜ばれることで自分がもっと楽しくなることです。そうでなくても相手のためになり喜ばれることがいいのです。それはほんのわずかでも構いません。貴方は今、忙しくて又は大変な時期で他の誰かの事を考えれない状態かもしれません。でもちょっとだけ振り返ってみてください。貴方はここ一週間以内に誰か(知っている人でも見知らぬ人でも)のためにほんのわずかでも何かしましたか?もしどうしても無理な状況にいるならば、募金箱にほんのわずかでも貴方気持ちを分けましょう。それが貴方の大変さをやわらげてくれるでしょう。貴方は自分のことにしか見えていない自分と、ほんのわずかでも人に奉仕できる自分、どちらが好きですか?次回は「自分の見つめ方」です。
2008.02.18
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先日自分が思ったことで不思議に感じたことがあります。それは今求職中で、求職活動をやめてやはり派遣で仕事をしようかと思っていたときのこと。『派遣で仕事するなら替わりにホメオパシーとか自分の興味のある勉強を習いに行くことを許そう』ん??ちょっと待って。何でわざわざ『許す』訳??しかも好きな勉強なら何時でもやりたいときに始めれば良いだけじゃない??それに何故『派遣の仕事するなら』、な訳???確かに派遣で仕事するのは妥協だし、その分ちょっと安定の不安定になるけど、ボーナスないけどその分は月々の手取りはある。仕事は仕事だし、確かに「自分の好きなやりたいこと」ではないけど、それはキチンとやりたい仕事で就職しても本当に仕事のほかに興味があることなら、一々理屈をつけなくてもやれば良い訳じゃない??なのにキチンと就職したらそれらはやらないと思っている自分って一体何?そんなこんなで考えて、結局またいつのまにかついた思考パターンを繰り返しているだけだととりあえず判断。つまり「何かを犠牲にしないと自分の好きなことはやってはいけない」という刷り込み。または「好きなことだけして生きてはいけない、好きなことするには何か犠牲にしないと」という刷り込み。これは結局自分の親達による束縛の暗示。実際うちの両親およびそれより上の世代は戦争が合った為に生きることを優先させなくてはいけなかった。そのためには好き嫌いをいって仕事を選り好みしていてはいられなかった。自分の好きなことで食べる為ことを優先するにはそれなりの犠牲が必要だった時代。しかもウチの両親は何故か「自分が出来なかったことが子供に出来るのはおかしい」と感じている。「私達が出来なかったんだから、子供も出来る訳ない、否、させるものか」という怨念を感じる。つーか自己の怨念を子供(たち世代)に広めて社会に復讐するのは止めて欲しい。もちろんそうでなく手助けしようという人もいますけど。それはさておき。そうやって一つ一つ自分の感じ方・考え方を見つめていると結構不思議な考え方・感じ方のパターンがあってびっくりする事がある。お金の使い方もそう。親のネガティブなパターンを教え込まれている為、時々我に帰ると「ん?」と思うことがある。“どんなものでも金額の高い(大きい)ものに使ってはいけない”“お金の額が安いものが第一、次に質がいいかどうか”そういう考え方を持っている。でも本当に豊かになるには“自分に本当に必要なもの、為になるものには金額を掛けてよい”“質と金額がつりあっていて、自分が幸せになれるかどうか”が大事なはず。また、自分が本当はやりたくない仕事をするなら代わりに楽しみを見つける、ってのはありだと思う。同時にやりたい仕事をしても他に楽しみを見つけても良いはず。やりたいことは気軽にやってみれば良い。そのはずなのに未だに「やりたいこと=何かのご褒美でやる以外はやっては駄目」と思っているのが不思議。(母親の八つ当たりの産物だったりします)いい加減この思考回路手放したいです。いいえ、手放します。物理的(金額や場所)などの無理や制限がない限りやりたいことをやります。その方が自分満足が高いし、自分が満たされていれば、他の人にもやさしくなれる。こうやって自分のおかしなパターンを一つ一つ修正できればいいなぁ。
2008.02.17
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本日は何故か思い立ってちょこっと模様替え。本当はもっと前に変えたかったのに、どうしてもやる気にならなくて先延ばしにしていた所を変えました。やる気が突然出てきた、というかとにかく変えようと思いたったのです。オーディオ(というかCDラジカセ)周囲がとにかくどうもゴチャっとしていたので整理。そして鏡と場所移動。移動したけど以前のまま入れ替え移動だけしたら、どうしてもごちゃごちゃして見えて、よくなかったのでさらに改造。殆ど使っていないテープラックは押入れに移動。そしてプラスチックのCDラックを四つ並べてその上にCDラジカセを置いてみました。これでスッキリ。でもこのCDラック、元々重いものを載せる為のものでないし、安定性とか耐久性が気になったので回りに箱というか、何か丈夫な棚を作ろうと思いホームセンターへ。ホームセンターで捜したら一応桐箱がちょうどかなぁ、と思ったけど奥行きがちょっとありすぎてイマイチだったので却下。次にDF合板が良いなァト思ったけどカットしたものしかなく、サイズが合わず止めました。スチールラックを見たらちょっとゴツイ。キッチン用のはサイズが良いけど、棚が三段で使いにくい感じ。調味料とか置くには良いんだろうけど、CDケースを置くには不便だったので却下。次にニトリへ。そうしたらシンク下用のスチールラックでちょうどよい大きさのを発見。お値段も手ごろ。これを第一候補~として他のラック等を見て、合板製のCDラックなども見たけど、私が置きたい大きさには合わなかったので却下。後は念のためにイオンへ。ここはやはりちょっとどころか、全然会うものが無くて却下でした。結局ニトリのスチールラックを購入。家で組み立てたらちょっとガタガタしていたり微妙にサンプルを計って大丈夫だったところが合わないところもあったりしたけど、何とか修正範囲内だったので設置しました。うーん、スッキリ。でもちょっとお掃除面倒かも。スチールラックって圧迫感が無いけど、その分隙間から埃が溜まりそう…。カバーでも作るろうかなぁ。使い勝手も万全ではないのでこれから先も改善していかなくてはね。でもなんで突然ちょこっと改造をしてしまったのかは謎。何かあるのかなぁ??
2008.02.16
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自分の中に「死にたい」自分がいる。ここ2~3年は出てこなかったけど、いなくなったわけではなかったらしい。昨日くらいからちょくちょく顔を出している。「思い通りにならないと泣く自分」と一緒にいつも出てくる。でもどちらかというとこの「思い通りにならないと泣く自分」よりも前に出てくることが多かった時期がありますね。以前にこの「死にたい自分」が良く出てきていた頃は、本当に刹那的な生き方をしていました。でも自殺はしない、というか出来ない。自殺はしないと約束した為。でも早く死にたい、そのためにはどうしたら良いのだろうとそのときの私は考えた結論が、『殺してもらえば死ねる』だった。だから誰に嫌われても関係ない。逆に誰かが刺してくれたら死ねる。だから他の誰かに配慮しない、という自分勝手な自分。でもこの自分は結局は何をやっても上手くいかなくて、自分に無価値を感じて絶望をしている自分なんですよね。人と比べて上手くいかないと怒られて無視され捨てられる。上手く出来れば褒めてもらえて必要とされる。だから上手くいくと自分を認めすぎて高慢になり、逆に上手くいかないと価値を感じず絶望する。無価値なのを感じたくないから人と比べて上手くいっているとか私は偉いとか判断する。常に比べて自分より下の人を見つけ、そうして近視的なものの見方しか出来なくなっていく。だから上手くいかないと、世間の順調な基準に満たないと不安で仕方なく、絶望と劣等感で一杯になり、そこから逃げたくなって放棄する為に死を望んでしまう。こうやって書くと、一種の防衛本能だなぁ…。認められたい・愛されたいから駄目な自分を切り捨てようと躍起になる自分。 それはそれで良いんだよ。 駄目な部分もあって良いんだよ。 駄目ならそれができるようになるまでに何度もやって良いんだよ。 上手く出来なかったら上手く出来る方法を考えよう。 山は別の方向から登っても良いんだし、苦手なところは手助けされても問題なし。 母親は手助けしたいときにしか助けてくれないけど、私と他の人は私が必要なときに私を助けてく れる。 助けを呼んでも怒鳴らないし怒らない。 貴方を助けることが出来ることがすごくうれしいんだから。 むしろ誰かに助けてもらっても苦手なところを通れたことを喜ぶよ。 頑張れたね、通れてよかったねって。 だから手を借りても良いんだし、助けてもらったらお礼をちゃんと言って、他人の苦手なところを 助けてあげればいいんだよ。 無理に借りを返そうとしなくても大丈夫だよ。 いつか必ず返せるときが来るからね。 だから投げ出さないで。 諦めないで。 諦めずに自分で頑張れば、必ず助けに行くからね。そう絶望して死にたがっている自分に言いたくなりました。死にたい自分は悪い子ではない。自分自身を大変な状況から救い出す手段が「死ぬこと」しか知らないだけ。う~~~、結構恐るべし、ゆりかごの亡霊。いや、三つ子の魂百までか?ちなみに母親との確執はこれだけには留まらないのです。まだあるし~~。ネガティブなことはすごく傷になりやすいみたいです、私。まだまだ出てくるかも。3年位前まですごくネガティブだったから。新しい価値観に触れて克服したのではなく、無理矢理閉じ込めただけだったのかも。改めて<融合>させなくては。で、私(真我)の本当にやりたいこととは何時出てくるんでしょう?何かの書物にネガティブな自分の下にあるって会ったけど本当かなぁ。頑張って自分を見つめて続けていきます。
2008.02.14
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昨日突然出てきた自分「何で何時もいつもやりたいこと素直にさせてくれないの!!」え~と、解説してしまうと、仕事とか何かをやりたいと思ってそちらの方向へ働きかけをします。そうすると必ずって言っていいほど、そこからやんわりと又は力任せに方向転換させられるんですよね、方向性が。で、「ちゃうやんけ」と思って初心へと再び軌道修正しようとするとまたそこで方向転換させられるかそれ以上進めなくなってしまうんです。スピ系の言い方にすれば、行く方向性が間違っている、とか本当の私(真我)が行きたいのを理解していないってことになるかと思うんですが、私としてはか~な~り~不本意なわけです。ちなみに仕事に関しては毎回そんな感じです。だから毎回「じゃあ自分(真我)は一体何がしたいわけ???!!」と私の顕在意識は思うわけですが、どうしてもそれが分からない。分からないのでまず気を引いたことや興味を持ったことを片端からやってみるけど、やっぱり邪魔されて素直に出来ないし、でも流されると「興味の無い詰まらんことを何でやってんだろ自分」となるわけです。真我のやりたいことが分からないのでとりあえず動くと「違う」とばかりに邪魔される。こちらとしては「はぁ?じゃあ、どうしたいの?」と思うし、顕在意識としてはやりたいことが出来ないのでフラストレーションが溜まる。それで冒頭のセリフになるわけです。「別に特に難しいこと望んでないじゃない。正社員になって、腰を落ち着けて事務の仕事したいのをどうして助けてくれないわけ?何でここだって場所を教えてくれないの??」「いつもいつも違う方向での仕事しか運んでくれない、一体誰が邪魔しているの?!」「皆が言うように具体的にどんな職場でどんな仕事かを具体化してお願いしてもどうしてそこに行けないの?どうして引き寄せられないの?何が悪いの?おしえてよ、そうしたらちゃんとそれを直してもう一度チャレンジするから!」昨日出てきたのはそんな気持ちでした。手放したつもりでまだありましたね。「どうすればいいのよ。教えてよそれを!方法がわかればそれをやるからさ!」うーん、コレは小さい頃にもおぼえた気持ちですね。よく母親が私のやることに対して怒るんですよね。「じゃあ、どうしたらいいの?」と聞けば「自分で考えなさい」と言う返事。小さい頃の少ない知識で自分で考えてやれば、また母親の思惑から外れるので怒鳴られる。「こうこうこういう風になるようにしなさい!」といわれ「じゃあ、どうすればそうなるの?」と聞いたらまた「それくらい自分で考えなさい!!」今も思うに結局母親はどうすれば良いかの方法を知らなかったのではないかと思う。自分のわからない・知らないことを怒鳴って人のせいにするのは十八番でしたから。でもそれを認めるのは嫌な人なので、結局私を悪い子にして、自分の満足が得られないことに対して八つ当たりというのがパターンでした。当時から私は母親が私が大事なのではなく、「親の都合の『いい子』」が欲しいだけと直感的に理解しており、反発していました。でもこの「どうしたらいいの!!」という気持ちはその頃とまるっきり同じですね。自分の思惑の外にいる何かの存在を感じてしまい、逆に「じゃあ、どうしたいのよ?」と常に問い掛けてしまう。私の中にその何かの望みと自分の望みを知ってそのどちらも満足する道を選びたい、というのがあるんですよね。でも今の状態だと何もヒントも無くとにかく「分かるでしょ?」とばかりにほって置かれて、違うとこちらの思惑無視して強引に捻じ曲げられるという感じなので嫌なんですよね。一つやってみて行き着くとこまでやってある程度満足して、「でも、コレ違う。やり直し」でも良いと思うんですが何故かそうはさせてくれない。スパルタと言うか、逆に大回りなんですけど~とついグチってしまいたくなりますね。でも本当に顕在意識の私が本当に満足して満ち足りることが無く、いつも何か足りない気持ちがある為、なかなか前に進まない感じが抜けません。誰か本当の自分との対話の仕方を教えてください~いと言う気分です。そうでない限りこの「一体どうしたいいのよ!」はなくならないのかも。困ったものです。
2008.02.13
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「なりたい自分はありますか?」この問に「はい」と答える人と「いいえ」と答える人がいます。でも本当はそんなのどちらでもいいのです。「なりたい自分」に向かって努力することも、今を一生懸命頑張っている人もどちらもその人なりの頑張りなのです。ただその「なりたい自分」は本当に自分の『なりたい自分の像』で無い場合、幾ら努力してもその「なりたい自分」にはなれないことがあります。「努力しているのにちっとも自分のなりたい自分に近づけない」そういう人はまずその努力の方向性が間違っていないかを一度確認した方がいいでしょう。幾ら努力をしても方向性が間違っていたら意味が無いのです。例えて言うなら日照不足で元気の無い鉢植えに幾ら水と肥料を与えても元気にならないのと同じことです。それは間違っていないという貴方は、本当にそれが自分が考えた「なりたい自分」であるのかをもう一度自分自身に問い合わせてください。時々、親やパートナーまたは尊敬する誰かが求めるイメージを取り込んで『なりたい自分の像』を作っていることがあります。本来「なりたい自分」の像には色々な憧れが詰まっています。その憧れはたいていの場合自分の中に資質の種があることが多いのです。もちろんその種を芽吹かせ花咲かせる為には色々な努力が必要ですが、必ず花を咲かせることが出来ます。しかし他の誰かがイメージした貴方の理想像は貴方の資質を無視していることが多々あります。資質の種が無ければどんなに努力しても花は咲きません。それは梅の木に桜の花は咲かないのと同じように。梅の木に桜の花は咲きませんが、貴方は努力すれば立派な香り高い梅の花を咲かせることが出来、立派な梅の実を実らせることが出来ます。それが一番の貴方らしい生き方なのです。ただし、時々自分が梅の花なのに桜と勘違いしている人もいます。その場合は周りの人の声も聞く必要があります。その声がただ単に貴方をコントロールしたいだけなのか、本当に貴方のことを思っているかはちゃんと見極めてください。「なりたい自分の像」はあっても無くても構いません。ただ貴方は貴方らしく貴方の素質を花開かせることが一番なのです。次回は「人のために奉仕するとは」です。
2008.02.11
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先週の「夢の扉」というTV番組で『振動発電』というものをやっていました。久々に「すっご~~~~~~い!!」と感動モノでした。『振動発電』とは電気でスピーカーなどを振動させることが出来るように、逆に振動させることによって電気を発電することです。普通こうやって書くと「なんじゃそりゃ」と思いますが、実際にそれの装置を発明してしまった人がいるんですよね。慶応大学の院生で。例えば道を通るだけで微弱ですが振動は起こるそうです。一歩道を踏み出しただけでもそれは発生する。それで微弱な電気が発生させてランプをつけることが出来るそうです。もしそれが自動車なら?大型のトラックならどれだけ振動が出ているでしょう?況してや道を走るときに出る振動はどれくらいのものがあるのでしょう。現時点の試算では、東京の首都高の全路線に振動発電の装置を組み込むと、東京で使う電力が全てまかなうことが出来る、そうです。(首都高は1日絶え間なく車が通っている為に)あくまでコレは現時点での振動発電機の性能での最大限に発電できての試算ですから、もっと発電することは可能かもしれません。ただ現実問題として計算した期待する数値のとおりに発電力がないこともあるのです。(このことは番組で実際に行われた橋のライトアップにおける一連の事業によっても、改良の予知ありと分かりました)私が一番に考えたのは、もしこの振動発電の装置がもっと小型化でき、発電能力もアップすれば車の動力もガソリンが不要になるかもしれない、ということ。自動車は走る時に、動かすときに振動が起きます。それがバッテリーに蓄えられて、それによってのみ走ることが可能だとしたら一体どうなるのでしょう。ガソリン不要で常に発電しながらその電力のみによって走る車。もちろん排ガスも出ないし、CO2も殆どでない。それこそ未来の車ではないでしょうか。電車も走る時に振動が起きます。それにより電車が自己発電しながら走るとしたら、それはまたすごいことだと思いませんか。もし実現したら原子力発電所はいらなくなる、かもなのです。火力発電所も無くなったら?重油の使用量が著しく減るし、何よりCO2が減って温暖化が緩やかになります。しかも原油高による物価の上昇などの経済への悪影響を減らすことが出来る。ただそれによって産油国が新しい産業を生み出さない限り没落する可能性もあります。でも石油は燃料としての使い道以外にプラスチックなどを作り出す原料でもあるので、そう簡単に不要になるわけではないので余り心配する必要は無いのかもしれませんね。それ以外に『振動発電』の実用化した場合の現実問題としてそんなに車や電車の走っていない地域の電気はどうするのかと言う問題とか、たくさんあります。でも考えてみてください。CO2も排ガスも煤も有害物質も出ない車やトラックが街を走っていたら?原子力や火力に寄らない発電で今の電力が全てまかなえるとしたら?それは素敵なことだと思いませんか?とりあえず現在の『振動発電』の目標は乾電池がなくなるようにすることらしいです。リモコンを押すわずかな振動で発電し、それでリモコンが動くようになることだそうです。まだまだ『振動発電』装置が大きすぎて売り物にならず、改良を続けている段階ですが、乾電池が無くなればそこから出る有害物質などの問題がなくなります。それだけでも環境に負荷をかけるのを止めることが出来ます。そんな素敵な発明があり、明るい未来を見ることが可能なことが現実にある。ちょっと感動した番組でした。
2008.02.10
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先日、蝶々さんの新刊「女子アゲ↑」が本屋に並んでいたので、時間もあったので立ち読みをしました。(全部じゃないです)蝶々さんの本って私にとってはもっと「女度上げよう!」って気にさせてくれる希少な本だったりします。そんなパワーが詰まっていますよね。「女子アゲ↑」も相変わらずパワーがあって読むだけで気分がUPする本でした。しかしちょっと待てよ、と思うことがありました。この本の書いてあるこれって他の女友達や知り合いが言っていたこととあんまり変わらないよね。でもあの時すごく聞き耳持たなかったのに、何でこの人の言葉(本)だと「あ~~、そ~よね。私も出来るだけそうしよう」って思うんだろ?そんな疑問が沸き起こりました。ん~~~~~???と自問自答をしていたらあっさり分かりました。それは蝶々さんが書いていることは実際に自分がやっていること。それでとても幸せであるという言動が一致しているからでした。プラス他人に対する批判精神というか、他者を見下した態度が無いこと。一方知り合いのほうは余り言動が一致していない。「こうしたほうが良いよ」と言いつつ自分はやっていなかったり、自分のことが見えてなくてやっているつもりになっている。言動一致している人でも他人に対する批判精神バリバリなんですよね。相手を見下している、というかそういう他人を見て優越感に浸っている。そこが一番納得できない部分であったわけですね。本の中に「キレイごとを言っているつもりは無くて、ただその方が自分が幸せだからそうしている」と言うような文があったから余計にその感じが強いですね。他の人はキレイ事になっちゃっているんですよね。自分は不平不満が一杯で批判精神で他人と比べてしか自分を判断できない。言っていることが出来なくて人の聖にする、だからいつも他人に対するグチが溢れている。そんな人とそうでない人の言葉ではどちらが心に届くのか、といったら一目瞭然ですよね。ここで改めて言動一致とは大事だなぁと思いました。もし直ぐに一致することが出来なくても、感情(気持ち)を載せて言っているかだけでも大きく違ってくる。幾ら「いいこと」を言っても本人が心から感動して伝えている言葉と、とにかく「いいこと」だからと口先だけで言っているのでは全然伝わり方が違います。口先だけで誰かの真似をしていても全然その人らしくないし、上っ面だけと言う感じになる。誰かの受け売りでも、話をしている人が心から共感して感動し気持ちを載せて話せばそれはストレートに伝わる。それが自分らしい、ってことかもしれませんね。そこを考えて自分を見直してみるのもいいかもしれない。さて貴方はどうですか?
2008.02.09
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時々、何ヶ月かに一度、物事が停滞しているように感じることがあります。そんな時、何故か異常に捨て魔になります。掃除魔のときもあるな。多分不用品があると物事が滞りやすい、というのを読んだことがあるためかと思います。もちろん「何処何処のものは全部捨ててやる~~~」と思っても実際にそうはいかないのことは多いです。愛着や執着がまだ残っているものは絶対に無理だし、絶対使うもの、まだ使いたいと思っているものも難しいです。でも毎回「捨てようかなァ」と思いつつ、やっぱりと思ってしまうものは捨てやすいですね。そう言えばこの間ワンピを一つ捨てました。かなり前に買って、殆ど着てなくて、でも今着るとどうしても流行おくれで、どうしようもないもの。なんとなく執着があって、裾もほつれかかっていたのでとりあえず『直そう』と思って、目に付くところに置いておいたら、1週間もそのままになってしまいました。なのでコレはもういらないものだな、と判断。廃品回収に間に合うように袋の中へ。そうこうやっていくうちにすっきりして、気分も上向いて楽天的になります。掃除も自分の部屋をするとすっきりしますね。ただ共同の場所の掃除はね、同居している両親のグチになること多いかな。毎日掃除機だけかけているから変なとこが汚れたままだから。一番の問題は掃除しているとウチの父が何故か文句をいうことがある。「邪魔」とか何とかブチブチと独り言のようになんか言っているか、怒鳴るかどちらか。毎回思うのだけど、どうして面向かって普通にしゃべれないのかが不思議。ちょっと「通して」とか言えばすむことを何も言わずに「ウン」とか「オラ」とか下手すると何も言わずぶつかったり無理の通ろうとしてくる。特に定年後の男の人、それは辞めてくださいね~。内弁慶のオレ様ほど家族から疎まれますから。キチンとしゃべってコミュニケートして下さい、犬や猫じゃないんだから。多分だからでしょうね、自己中で回りのことを考えていないのに押し付けがましく恩を売りつけたり、やたら滅多ら威張りたがって思うように行かないと怒鳴る男の人は大嫌いです。ってなんの話をしていたんでしょう。閑話休題。とにかく要らないもの、って意外と溜まってしまうので、なんか停滞している感じがしたら物を捨てたり整理したりしています。皆さんはどうしていますか?
2008.02.07
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昨晩またさつきのひかりさんのヒーリングを受けました。天使の森保育園の3回目です。今回は余り自らイメージングしないように~と気をつけながらのコールイン。そしたら初めにパッと浮かんだのがやっぱりディズニーランドのお城…。また飛んで入ったようです。そこから今回は降下して門をくぐってお城の中へ。そこは天井の高いアーチ型の上も下も壁も真っ白なお城の廊下でした。初めは白い廊下だったのが段々暗くなってかなり地下みたいになって。「こんなくらいのヤダ。保育園なのになんで?」と思ったらいつのまにか隣にいたガブリエル様に「暗い?本当に?光を灯してごらん」といわれました。ガブリエル様が持っていた光をもらってあたり全体を照らしてみると、一番最初に見た白い廊下に変わりました。「暗くしていたのは貴方ですよ。廊下は相変わらずあったのに。今度暗く感じたら光を照らして御覧なさい」と言われました。そして気がつくと右手には中庭がありました。そこでお絵かきをすることに。大きな一抱えある筆でお日様書いて~とかしているうちに何故か昔行っていた幼稚園の教室に変わりました。そこで私がお絵かきをクレヨンでしていました。絵には外で遊んでいる自分と、家の中にいる父・母・兄が書いてありました。「何故みんなは家の中にいるの?」とガブリエル様に聞かれたので私は「みんなはね、本当は私は要らないの。だから私はお外にいるの」と答えていました。実際に幼稚園の頃、家族の中にいても何故か疎外感を常に感じていました。(本当は私は要らない子。お母さんは私がいなければいいのにって思っている。)そう感じていました。私の中にまだそんな気持ちが残っているんだ、と思って悲しくなったら、ちょうど目の前にそのときの私が立っていました。思わずその子を抱きしめて一緒に泣いたら、私とその子をさらにガブリエル様に抱きしめてもらいました。気がついたらその子はいなくなって、昔持っていたお人形を抱きしめていました。「さあ、その子を光に返してあげましょう」そういわれて「ありがとう」と伝えました。そうするとしゅるっと光の粒になって消えました。そこにまた前回出てきた男の子がいつのまにか鞄を入れる棚の上に座っていました。「だから、オレはその頃から一緒にいただろ。一緒に迷子になったときウチまで行ったろ。覚えてる?」そう言われました。その後何故か保健室のラファエル様のところに行って良いという許可が出たので、保健室に。保健室の中では窓際に長椅子があり、そこの下に女の子が一人入り込んでいました。「なんでこんなとこにいるの?出ておいでよ」といっても返事がありませんでした。私が一緒になって同じように入り込むとラファエル様が「その子は保育園に来るたびにそこに来ていましたよ」と言われました。前回・前々回と外で遊んでいた私達のほかに恐がりで臆病な自分が保健室に一人きり誰にも見えないように避難していた子がいたようです。今度はその子に「大丈夫だよ」といって抱きしめてあげると、その子もまた昔持っていたお人形に姿を変えました。そのあたりでまたなんか別の雑念が浮かんできて集中できなくなり、大きく深呼吸をした後で寝落ちしたようです。朝起きたとき、私は逆にすごく疲れていて、気力が無い状態でした。強いて言うなら整体へ行った翌日の好転反応で体がだるいような感じでした。それにしても廊下のこととと言い、色々と象徴的なことが出てきて、びっくりしました。でもどうやら私は天使の森保育園に行っては自分の中のインナーチャイルド達を捜して集めているようです。ちなみにラファエル様はどうしても人のような姿かたちはイメージ出来無く、見えないけど居る、というような状態でした。白衣を着ているイメージはあるんですけどねぇ。そんな感じのヒーリングでした。
2008.02.06
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「受け入れることと切り捨てること」これは実際には結構混合されて行われていることがあります。特に自分自身の性格やクセなどに対して。他人に対しては顕著に現れます。欠点や困った点を了承して付き合うのが「受け入れる」。逆に欠点や困った点を受け付けずその人と付き合いもしないのが「切り捨てる」。ちなみに付き合っても欠点や困った点を何かと批判するのは受け入れていないことになります。自分の性格やクセに対しては貴方はどのように見ていますか?もし困った点や欠点があり、それが他に出ないようにまた出ても相手に迷惑かけたのが分かった時点で誤って注意しているのであれば、貴方は困った点・欠点を受け入れていることになります。逆にそれを自分で認識せず、指摘されても「そんなことは無い」と言って受け入れられないのが「切り捨て」た状態です。このとき人は「あいつ神経質すぎるんじゃない」とか「人のこと悪く言う嫌な人」などと相手を批判することもあります。それが良い・悪いということはありません。実際に極少数ですが相手を悪く言ってその人が気分を害するのをみて喜ぶ人もいます。ただ自己受容が出来ていないと、自分と同じ困った点・欠点がある人に対して批判的になるという悪癖が出てきます。また自分自身の成長も阻害されます。でも何故人は欠点を認めたがらないのでしょうか。理由はいくつかあります。一つは自分は正しい(正しくなければいけない)という強迫観念です。コレゆえに間違っている(欠点がある)事が受け入れられないことがあります。次に自分を絶対評価せず相対評価している上に見得張りだからです。いつでも他人と比較しないと自分を認めることが出来ず、しかしプライドは高いので他人より自分が劣っているのが受け入れられないことが上げられます。また自己認識が願望を含んだ優れた虚像で認識しており、そこからはみ出すことが受け入れられないのです。自己評価を履き違えているのです。それではこれらをどうしたらいいのでしょうか。まず欠点を指摘されたときは怒ったり感情的にならないように気をつけましょう。そういう自分もいるんだ、という認識をもつことが大事です。次に「こうでなければならない」と言う認識を捨てましょう。もし貴方が完璧主義者であるなら「完璧でなくても良い」と自分に言い聞かせましょう。特に親の期待の高かった人に見られることです。他人と比べて自分を評価するのを止めましょう。他人は『他人』です。ある一定の人と比べて勝っていたからといって、貴方が他の人に高評価されるわけではありません。また自己評価は高いほうがいいのですが、それは欠点・困った点が無い自分を評価するのではありません。それは自分を切り捨てているだけです。欠点・困った点も「あって良い」またはそれの良い面をみて肯定出来ることが自己評価が高いのです。またネガティブな感情や考え方も「自分はコレをこういう風に捕らえてネガティブになるんだな」と認識するのは受け入れていることで、「こんな感情を持っては駄目。無かったことにしよう」というのは自分を切り捨てていることになります。どんな自分も『自分』です。切り捨てるより受け入れて自分の器を大きくしませんか。次回は「なりたい自分はありますか?」です。
2008.02.04
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「自分を見つめる」というか今日出てきたちょっとネガな感情。「私の為って口で言っても結局自分が辛いから人に当たっているだけじゃない!」「私のこと信じてなくて自分が耐えられないだけでしょ」コレは昔一回目の離職をして、なかなか次が決まらなかったときによく出てきていた感情でした。その当時ウチの母は何時までも(1年くらいですが)娘が無職が絶えられなかったみたい。「何でもいいから、バイトでもいいから仕事をしなさい」私の為だとは言っていても全然何も伝わってこなかったです。何でかなぁと考えた結果、私の為といいつつも自分が他の人との世間話などで「ウチの娘もなの~」とか言うことを言えなかったり、世間体が悪いというだけで、とにかく何かと自分の体裁が悪いからという自己都合だけで私をせっついて責めていただけなのでした。ちなみにウチの母は2年くらいちょっとお茶汲みOLやっただけで、あとは家事手伝いをしていた人です。転職活動も、本当の仕事も何も知らない人。だから自分に置き換えて考えることが出来ず、相手のことを思い遣らずに勝手なことを平気で言います。実は先日2月になってもなかなか仕事に縁の無い私にじれて「もう2月だよ。どうすんのよ。心配しているのよ」といってきたのです。どうすんのよ、といわれても転職活動はしています。「なかなか縁が無いねぇ」といってごまかしたのですが、私の為、といいつつ結局自分がどうもまた「娘が無職」という状態に耐えられなかったみたいです。仕事につくのは縁のもの、というのを理解できず、学校の試験やテスト同様テクニックがあれば何とかなる、それが出来ない人を責めれば何とかなると思っている母。そんなこんなで久しぶりに「私のことなんてちっとも思ってないじゃない!!自分が相手を信じて待つことが不安で辛いだけで、それが耐えられないから当人に八つ当たっているだけじゃない」という思いが出てきました。というか久しぶりのそういった感情で逆にすごくキツいです。以前の自分と違うのは客観視できる自分がいるということ。この思いが出ている間中ずーっと胸(ハートチャクラ)が痛くて、辛くて以前良くこんな感情を抱えて生きていたなぁとキツイ最中ながら自分に感心しました。「信頼」コレが私の今回の一生のテーマみたいですね。「信頼」をするもされるもどっちも困難な状況にいることが多いなぁと思いました。閑話休題。以前の私は本当にネガティブな考え方・想いのオンパレードで自分は不幸だと思っていました。今はこんなネガな考え方や想いを四六時中抱えてたらそりゃ―不幸になるなぁとしみじみ思います。リリースするにはちゃんとその感情と向き合わなくちゃ、と今回思いの出るままにしたのですが、キツかったです。それともう一つ問題(?)発見。色々な感情やネガティブなものに蓋をしたがる自分がいること。何かあると感情やネガは出てくるのでそんなに強いものではないと思うけど、平穏なとき「自分はネガなものや問題なんて持ってない、欲求なんてない」という見栄を張る自分がいます。なので「自分を見つめる」がちょっと困難を極めています。ま、コレも母親からの譲り受けっぽいです。これから一週間はコレを見つめてみます。
2008.02.03
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正確にいったら何度も読み直しているんですが。徳間文庫の五次元文庫からの出版になってます。一部で話題になっている「アミシリーズ」を書いた方の本です。アミシリーズはまだ巡り会えませんねぇ。読むべきときには目の前に現れるでしょう♪感想はちょっと私には衝撃的でした。ちょうど年末から気になっていた「レムリアの真実/オレリア・ルイ―ズ・ジョーンズ著/太陽出版」を買って読んだばかりだったため、それをさらに裏づけを促すような感じで余計に気になったかも。そもそもこの『ツインソウル』は出ているのも知らず、買うツモリも無かった文庫です。その日何故かある本屋さんが気になって、なんとなく出かけていって、本棚に最近気になっている中丸薫さんの新刊があるな~と本棚に近づいたらその隣に置いてあった本です。『ツインソウル』を見たら中丸薫さんの新刊は一気にどうでもよくなってこの本を「買わなきゃ」と思って衝動買いしました。呼んで衝撃を受けて、また改めて読んで色々考えて、自分を振り返るを繰り返しています。そう言えばこの文庫、何故かどの本屋でも新刊コーナーの棚の隅っこに置かれていますね。しかも何故か微妙に隠れるように。時には新刊コーナーに無いところも。…本の意思かな?ちなみにその前後にやたら本屋で「魔法の学校 ホワイトマジック特別集中講座」を見かけました。「買え」ということではないようですが(気になって手にもっても、直ぐ棚に戻したくなるから)、きっと何かのサインだったのかも知れませんねぇ。ちなみにこの本とすぴこんハンドブックvol.18が内容的に通じるものがあるのはやはりシンクロなんでしょうか。結構すごくシンプルなメッセージを感じてしまいました。ちょうど今私の中でも「課題」と捉えていたテーマだったから。ちょっと不思議な気分になりました。ちなみに最も今一番自分の中で不思議なのはスピ系の話、自分と向き合う話をブログに書くと毎回支離滅裂な文章になることです。何ででしょう??
2008.02.02
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