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・あそび時間の量と質の変化が、三つの異変に決定的に関わっている。(講演会レジュメより再掲) そんな残念な変化ですが、さらに問題なのは、仲間たちとの遊び、さらに同年齢や異年齢の集団での、身体を使った遊びが、激減していることです。その分だけ、自主的な活動のなかで、自分の頭で考えて、自分自身を心身ともに、コントロールする機会を減らしていると言えます。 この心身ともの自己制御力こそ、人間関係で言えばコミュニケーション能力、学力に関して言えば考える力や応用力、運動能力で言えば、巧みな身のかわしなどに、通じる要の力となります。 この間の「遊び」の大きな変化は、その自己制御力を、楽しく実践的に学び取る機会を大きく減らしているということを意味し、ここに「三つの異変」の大きな原因として、「遊び」の変化が浮び上るのです。(その21に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.31
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・あそびの三間(さんま) あそび時間、あそび空間(場所)、あそび仲間(講演会レジュメより再掲) 「こどもたちの三つの異変」と「遊びの変化」との関連を解明するには、まず「遊びの三間」がどう変化して、「遊び」がどのように変化したのかを考察することが必要です。 「遊びの三間」の変化のなかで「遊び時間」が、コマ切れで短くなった激変が起きたことは前回に記しました。そして、それは「遊び仲間」を見つけることを難しくしました。さらにその上に、「遊び空間(場所)」の変化として、思い切り身体を使った遊びができるような、広い場所が少なくなったことが合わさったのです。 この「遊びの三間」の変化により、こどもたちの遊びは、量的に少なくなり、遊びの種類も減り、とうとう「一人遊び」と「屋内遊び」で特徴付けられるようになりました。そして、そのような「遊び」の状況にあるこどもたちは、確実に二世代目を迎えており、状況の深刻さを増していると言えます。 「遊び」が、その特長である「五自」により、自立しておとなになる、効果的な活動であったことを考えると、今の日本のこどもたちはこの素晴らしい活動の機会を大きく減らしてしまったと言えます。(その20に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.30
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・あそびの三間(さんま) あそび時間、あそび空間(場所)、あそび仲間(講演会レジュメより再掲) 前回まで、「遊び」の成立要件の「三つの間(時間・空間・仲間)」を見てきましたが、この「三間(さんま)」が、日本においては、高度経済成長期を境にして、大きく変化しているのです。この「三間」に共通して、減少傾向にあるのです。しかも、長い人間を含めた生命の歴史の中でも、極めて異常な傾向だと言えるのです。 こどもたちのあそび時間は、太古の時代は肉食獣などから身を守るため、封建時代においては欠かせない労働力として、乳幼児期を除いて、そんなに長くは無かったと考えられます。その後、科学技術などの発展により、庶民のこどもたちにも、「遊び」に利用できる自由な時間が増加していきました。 ようするに、日本においては、高度経済成長期までは、一時的な増減の変化はあったとしても、「遊び時間」は、大局的に見れば、増加傾向にあったと見なせるのです。だから、今の「遊び時間」の減少傾向は、極めて異常な状態となります。 第一章の、「こどもたちの三つの異変」は、生命史的に見た「遊び」の変化と、その時期が重なっていることを考慮すれば、「三つの異変」と「遊びの異常な変化」とが、大きく関わっていると見られるのです。(その19に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.29
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・あそびの三間(さんま) あそび時間、あそび空間(場所)、あそび仲間(講演会レジュメより再掲) 「遊び」の成立要件の残りの一つ「遊び仲間」は、「一人遊び」も考慮に入れると、「遊び」が成立するかしないかには、関係が無いと考えられるので、厳密には、「遊び」の成立要件とはなりません。しかし、極端な場合を除いて、こどもは、たった一人で過ごすことは稀ですし、一人ではいることを好みません。 だから、「一人遊び」でさえ、友達はもちろんのこと、兄弟や家族を含めた、こどもの周りの人々と、何らかのか関係を持って、展開されることが多いのです。たとえば、ゲームソフトで一人で遊んだ結果を、友達の誰かに話したいものです。 「一人遊び」ですら、仲間を気にしているのですから、ここもたちは仲間と過ごすことが、本来は大好きなのでしょう。前回紹介した、公園のベンチで並んでゲームの異様な光景も、その意味では納得できます。 しかし、仲間との触れ合いや交流は、ベンチで並んでの「一人遊び」は、いわゆる「集団あそび」に比べて、各段に乏しいと言えます。実際にも、ゲーム機を公園に持って来ていないこどもたちは、仲間との遊びを楽しんでいます。 このように、条件さえ許せば、こどもたちは仲間との遊びを楽しむものです。おそらく、「一人遊び」よりも仲間と一緒にあそぶ方が楽しいのだと思います。今、「一人遊び」が多くなっていると言われていますが、それは「遊び仲間」を見つけるのが難しくなっているからです。 その最大の理由が、「遊び仲間」と共有できる、継続した時間が見つからないことにあります。「遊び仲間」の問題は、実は「遊び時間」の問題だったのです。この点でも、「遊び時間」が、「遊び」においての決定的な意味、を持っていたのです。(その18に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.28
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・あそびの三間(さんま) あそび時間、あそび空間(場所)、あそび仲間(講演会レジュメより再掲) 「遊び」の成立要件の中の「空間(遊び場所)」が、昔に比べて少なくなっていることは、誰もが認めることですが、中でも大きく減少しているのが、草野球やSケンなどの、大人数あるいは身体を思い切り使って楽しむあそびができるような、広い遊び場と、バッタ・ザリガニ、野の草花など、昆虫・小動物・植物と戯れる遊び場です。 もちろん、昔に比べて、公園などは増えてはいるのですが、球技禁止はもちろんのこと、思い切り走ったり、極端な例では、大声を出すことすら禁止あるいは、それ同然の状態のところも珍しくは有りません。 自然との戯れでは、トカゲやザリガニはもちろんのこと、バッタやトンボまで、取った経験の無いこどもたちは、ありふれた存在になっています。その傾向は、都市部では顕著になっていますが、遊びが伝承されていないことなどにより、郊外においても、その傾向がみられるようです。 また、都市部に、昔のような「遊び場」が、こどもたちの生活圏にあったとしても、今のこどもたちは、そこであそべるかどうかは難しいところです。公園のベンチで並んで、銘々が自分のゲーム機であそんでいる光景も、日常の出来事となっているからです。(その17に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.27
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・あそびの三間(さんま) あそび時間、あそび空間(場所)、あそび仲間(講演会レジュメより再掲) 「時間」「空間」「仲間」の三つの「遊び」の成立要件の中でも、「時間」が決定的な要件となっているのは、言うまでもないことですが、簡単に記しておきます。まず、遊ぶための時間が無ければ「遊び」は成立しません。反対に、「時間」が無ければ、「遊び場所」があっても、「遊び仲間」がいても遊べません。 「時間」は、単に「遊び」に必要なだけでなく。「時間」は「遊び」の内容も決定するのです。「遊び時間」の長さで言えば、短時間でも遊べる「遊び」と、長時間でしか遊べない「遊び」に、大きく分かれます。また、「遊び時間」が、持続的に長いか、コマ切れかによっても、「遊び」は大きく変化します。 しかし、単純に考えれば、短い時間あるいはコマ切れの時間でも遊べる「遊び」は、継続して長い「遊び時間」でも遊べます。こどもたちに、様々な力を培うには、「遊び時間」は、持続的に長い時間が、最も有利であることがわかります。 さらに、長い時間が有れば、「遊び場」も「遊び仲間」も、探して見つけることも可能なことを考えれば、持続的で長い「遊び時間」こそ、こどもたちの健やかな成長発達にとって、最も重要な要素だと言えるのです。 もちろん、そうした「遊び時間」は、休日の様に、たまにある一日だけでなく、毎日の生活の中に確保される必要があります。反対に、たまの一日くらいは、持続的に長時間遊べなくても良いくらいに、考える方が望ましいのです。(その16に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.26
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・あそびの三間(さんま) あそび時間、あそび空間(場所)、あそび仲間(講演会レジュメより再掲) 「遊び」の成立要件としての、「遊び時間」「遊び空間(場所)」「遊び仲間」の、いわゆる「遊びの三間(さんま)」は、私の創作した造語ではありませんが、「遊び」をその成立要件でみる上で、これほどピッタリの造語はありません。 「遊び仲間」の存在しない「一人遊び」と言う、ごく一部の「遊び」を除いて、この「遊びの三間」は、どれをとっても、「遊び」に欠かせない条件となっています。 そして、この「遊びの三間」の状況が、成立した(する)「遊び」の内容や性質を決定しているのです。「遊び」の成立だけでなく、この点についても、次回以降、それぞれの「間」について考察していくこととします。(その15に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.25
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・五自(ごじ)のあそび 自由、自発、自主、自律、自立(講演会レジュメより再掲) これまで紹介してきました「遊び」の四つの特徴、「自由」「自発」「自主」「自律」、これらは、こどもたちがおとなになる、言い換えれば「自立」して、一人前の社会の構成員として成長するための、最も合理的な条件・道筋となっています。 自立とは、独り立ちであり、そのためには、自発の意志に基づき、自主的に活動して、その活動において、自分の頭で考え、自分自身を、適切に制御する力が必要です。その力を、自由な活動である「遊び」が、楽しさと喜びを伴って、育ててくれるのです。 人間以外の動物たちにとっては、学校で学ぶと言う、制度的(こどもにとっては義務的で強制的)な学校教育は有りません。だから、「遊び」ほど、おとなになって自立するための諸能力を育んでくれるものは無いのです。だからこそ、そんな「遊ぶ」子どもを持つ動物の親は、子育て、言い方を変えれば保育をするのです。 もちろん、学校と言う義務的な活動のある、人間のこどもたちも一緒です。と言うよりも、義務的な活動を余儀なくされているこどもたちだからこそ、自由で楽しい「遊び」が必要だと言っても過言ではありません。義務的な活動よりも、自発的な活動の方が、より効果的なのは、誰もが経験していることです。 それどころか、「遊び」は、おとなになること、すなわち成長と発達にとっては、欠かすことのできない活動だと認識すべきでしょう。なぜなら、生命の40億年もの長い歴史をかけた進化の結果として、「子育て(保育)」と「遊び」を生み出し、最も合理的で効果的な、子どもの成長環境を創り出したからです。(その14に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.24
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・五自(ごじ)のあそび 自由、自発、自主、自律、自立(講演会レジュメより再掲) 「自主」が貫徹された「遊び」での判断は、自分で下した判断だからこそ、その判断による自分の立ち振る舞いもコントロールします。できそうもない事にも果敢に挑戦したり、耐えそうには思えなかったことにも我慢して耐えたりもします。まさに、こどもたちは、「遊び」において、自分自身を律するのです。 もちろん、この「自律」は、「遊び」だけではなく、こどもたちの日常生活の諸活動においてもあります。しかし、「遊び」が誰にも指示や強制されない、「自発」の意志による「自由」な活動で、そのことにより「自主」的な活動となtっていることが生み出す効果は、他の活動よりも大きいのです。 積極的に、意欲的に取り組むからこそ、「遊び」は極めて効果的に「自律」を育むのです。しかも、「楽しい」と言うおまけまでついて、あそび呆けた後は、充実感とともに、心地良い適度な疲労感さえ、もたらせてくれるのです。(その13に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト FC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.23
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・五自(ごじ)のあそび 自由、自発、自主、自律、自立(講演会レジュメより再掲) 「遊びたい」と言う「自発」で始まった「遊び」のなかでも、こどもたちだけで展開される「遊び」においては、こどもたちは自主的に行動しています。この「自主」は、当然ながら「自分の判断で行動する」事です。 こどもたちによるこの「判断」は、おとなの干渉が全く無い、完全に自主的な状況の下では、さらに研ぎ澄まされることになります。それは、「遊びたい」と言う自発の意志に基いているので、難しい判断を余儀なくされたとしても、こどもたちはあきらめずに考えるからです。 言い換えれば、「遊び」における「自主」は、こどもたちに自分の頭で、とことん考えるための、楽しい実践の場とます。そして、その結果として、こどもたちに考える力を、効果的に育むこととなります。 当然ながら、さまざまな「遊び」を楽しむことにより、数学的あるいは論理的思考、自然に対する観察力、社会科学的洞察力など、いわゆる学力あるいは、その土台となる力を、直接的・間接的に培ってもくれるのです。 (その11に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.22
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・五自(ごじ)のあそび 自由、自発、自主、自律、自立(講演会レジュメより再掲) 「遊び」が自由な活動であり、「遊び」をやるやらない自由があるなら、当然ながら、「遊び」をし始めるには、「遊びたい」と言う自発的意思が必要となります。それは、「一人あそび」に限らず、仲間とのあそびで、誰かに誘われととしても、やはり自発的意思が欠かせません。 一方で、嫌なあそびを、嫌な相手にさそわれた「遊び」も、自分の意志で、嫌々参加した場合も、自分の意志に基いた決断といえます。しかし、それは、「他発」なのです。しかし、この場合、その誘いに乗らなくても、相手には咎められることではあっても、それは普遍的な「悪い事」には該当しません。 それとは違って、保育や教育の一環として、「自由遊び」ではない『遊び』を、おとなから、「やらせられた」場合は、大きく違ってきます。そんな時は、往々にして、「遊ばない事」は「悪い事」になり、「何故遊ばない」と、そのおとなから咎められるだけでなく、周りの多くの人からも咎められることがあるのです。 なお、こうしたケースは、自分の意志に基いてはいるものの、「遊びたい」という、完全に自分発の意志、すなわち「自発」には基いてはいないし、ともすれば、自分の意志さえ抑えられる場合も少なくないのです。 こうした、自発に基かない『遊び』においては、残りの三つの「自」は、ほとんど期待できないばかりか、その三つの「自」を阻害しかねないことも、十分に起こり得るのです。(その11に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.21
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・五自(ごじ)のあそび 自由、自発、自主、自律、自立(講演会レジュメより再掲) 「遊び」を最も特徴付けるのが「自由」です。「遊び」を、やるやらない自由があるばかりではなく、どんな「遊び」をするか、誰と遊ぶか、どこで遊ぶか、いつまで遊ぶかなどが、基本的には自由なのです。 この「自由」が保障されることにより、「遊び」を特徴付ける、残りの四つの「自」があるのです。反対に言えば、自由の無い活動は、「遊び」と言う言葉が付いても、本来の「遊び」ではないのです。「自由遊び」と言う言葉がありますが、「自由遊び」があることは、「自由でない遊び」があることを意味します。 「遊び」が自由な活動であるならば、「自由遊び」は、「自由な自由活動」となり、変な表現となります。この「自由遊び」と言う変な表現にこそ、「遊び」に対する誤解が根深いことを意味し、結果として「遊び」を採るに足らない活動として、その大切さを見失わせているのです。 自由ではない、ためになると一部のおとなが思っている『遊び』こそ、こどもたちにとって、「自由遊び」よりも、『大切で大事な遊びだ』と言う偏見を生み、「自由遊び」と言う変な表現ではあるが、自然な姿である本来の「遊び」の重要性を見落とさせているのです。(その10に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.20
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・五自(ごじ)のあそび 自由、自発、自主、自律、自立(講演会レジュメより、以下同様) 生命の長い進化の中で生まれた「遊び」と言う活動、では何故、「遊び」が生まれたのでしょう。親の「子育て」により時間的保養があったからだけでは、「遊び」は生まれません。とりわけ、「遊び」が子どもの成長期、それは「子育て」期間と重なるのですが、その時期に最も特徴的な活動が「遊び」です。 このことから。まず考えられるのが、こどもたちの成長にとって、「遊び」が極めて有利な条件となるからです。そのことを考える上で、「五自のあそび」を提案します。これは、「遊び」の特徴を、五つの「自」の付く言葉で、考察したものです。その「五自」は、自由・自発・自主・自律・自立です。 (その9に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.19
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二.あそびの変化(講演会レジュメより、以下同様) 講演会では、この章の各論に入る前に、「遊び」の生命史における意味について触れました。それを簡単に綴ります。 生命がこの地球上に誕生して40億年と言われていますが、「遊び」はこの長い生命史において、極めて新しい時代に始まったと考えれます。化石などの直接的な「遊び」の証拠が無いと思われるので、現存する動物から推論するしかありません。 どんな動物に「遊び」が見られるかどうかも、意見が分かれるところですが、確実なところでは哺乳類において「遊び」が生まれたと考えていいでしょう。その後に出現した鳥類も「遊び」が見受けられます。それらから類推すると、「遊び」の出現はざっと2億年くらいは遡れるでしょう。 そして、この動物、とりわけ子ども期の「遊び」は、親による「子育て」により、実現可能だと考えれば、一部の恐竜には「遊び」の可能性はありそうです。それでも、40億年の生命史から言えば、まだ歴史は短いと言えます。 そして、これら「遊び」を行う動物の中で、とりわけ最も「遊び」を行っているのは、ヒト、すなわち人類と言っていいでしょう。それは、人類が、最も早熟で生まれて、最も長い成長期間を要することの反映でもあります。 このように、人類は最も長い期間、親の「子育て」により「遊び」時間が保障されているので、動物の中で最も「遊んでいる」のは、人類だと言えるのです。進化が、生存競争に有利な方向に進むとするなら、「遊び」は人類にとって極めて大切な活動であり、その「遊び」が「子育て」により保障されることも考慮すれば、「遊び」は、人類のこどもたちにとって極めて重要で欠かせない活動となります。(その8に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.18
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・こどもたちの異変の三つ目・・・知の異変 勉強時間が増加?したのに、学力の向上が思わしくない。(講演会レジュメより、以下同様) 「ゆとり」教育の見直しで、教科書内容が増えて、授業時間数も増え、就学前から毎日のように塾に通い、家庭でも多い宿題と家庭学習などなど、今の日本の小学生や就学前のこどもたちの勉強時間は、飛躍的に増えています。 しかし、文部科学省や各地の教育委員会が嘆くほど、学力は思わしくない状況にあります。さらに、高校学校や大学においては、生徒や学生の学力の、あまりにもの低さに、先生たちがあきれ返る事態も、普通の出来事となっています。応用問題の苦手さに象徴されるように、こどもたちの考える力の低下も、問題となっています。 また、今の日本はひょっとすれば、高校生や大学生よりも、小中学生の方が、勉強時間が長くなっているかも知れないのです。全部のこどもたちが、そうではないのですが、少なくはないこどもたちが、高等学校以上に進学しても、途中でのドロップアウトやそれ同然の状態のこどもたちが多くなっています。ようするに、今のこどもたちは、極めて効率の悪い教育状態にあるのです。(その7に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.17
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・こどもたちの異変の二つ目・・・心の異変 不登校、引きこもり、いじめ、自死の増加に見る心の問題(講演会レジュメより、以下同様) 高度経済成長期以前にも、不登校や引きこもり、いじめはありまいた。しかし、その広がりと深刻さでは、今のこどもたちのそれは、社会問題化するほどの状況になっています。そして、何よりも、こどもたちによる殺人や自死が増加傾向にあることです。自分自身や他人の命が、非常に軽くなっているのです。 本来、こどもたちには、生に対して貪欲なはずであり、他の世代の誰よりも、ずば抜けて生を謳歌して当たり前です。それが、「殺したい」「死にたい」と思うだけでなく、いとも簡単に実際にそれをやってのける。この心の異変は、三つの異変の中でも、最も大きな異変と言えます。(その6に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.16
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・こどもたちの異変の一つ目・・・体の異変 体格は大きく向上したのに、それに体力と運動能力が見合っていない。(講演会レジュメより、以下同様) 今のこどもたちの体格は、高度経済成長期以前に比べて、各段に良くなっていますし、運動のエネルギー源となる栄養状況も良くなっています。このことを普通に考えれば、体力は昔に比べて大幅に伸びていても当然なのですが、そうはなっていません。同じ学年での比較では、昔より伸びているかも知れませんが、同じ体格で比較しますと、体力は、落ちていると思われます。 こどもたちの体の異変は、体力だけではなく、運動能力の面でも、さまざまな問題点が指摘されているのが現状です。特に、手先や指先の器用さ、巧みでしなやかな身のかわしなどは、その問題が初めて指摘されてから、もう何十年も経過しています。 もちろん、スイミング・体操教室・スポーツチームなどの、習い事やスポーツ活動を定期的に行っているこどもたちは、その分野での運動能力は優れているとは思われますが、違った部位を使った運動は苦手だったりすることは稀ではありません。 また、そうした何らかの運動を行っているこどもたちが、大変増えているにもかかわらず、こどもたち全体で平均した体力や運動能力が、それに見合っていないのは、体力や運動能力の問題の大きさと深刻さを物語っています。(その5に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.15
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今回以降はしばらく、前回紹介した、講演会のレジュメに沿って、講演内容について簡単に触れていくこととします。一.こどもたちの三つの異変 異変は、普通の変化ではない。(青字は講演会レジュメより引用、以下同様。) 上記引用にある「異変」は、今のこどもたちと、私のこどもの頃、すなわち高度経済性成長期以前のこどもたちと比較した時の、「異変」です。日本のこどもたちの状況は、この高度経済成長期を前後して、大きく変化します。 そして、この「異変」は、結論から言えば、こどもたちのあそびの変とが大きく関わっていたと言うことで、「遊び学」においては、「子どもの遊び」を考察する上での、現代史的アプローチとなっています。 この、「子どもの遊び」の変化と、こどもたちの異変との関連が、私が「遊び」について、私的に研究していく、いわば「遊び学」の事始めとなったテーマでもありました。(その4に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.14
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(以下記事は2011年当時のものです。)大震災後かなりたった今日(3月29日)の時点で、各ボランティア団体が、現地拠点の確保で困っているそうだ。やたらと参与や補佐官を欲しがる首相が、災害ボランティア担当の首相補佐官を任命し、さらにその後の3月16日に内閣官房長官直属の「震災ボランティア連携室」が設置されて、2週間前後も経過して、この有様だ。 ネット社会の時代、各ボランティア団体の活動の実態を知るには、補佐官も連携室もいらない。活動拠点は政府が率先して確保すべきなのだが、結局、少なくないボランティア団体は、自らの努力で活動拠点を確保している。そんな一方で、当の「災害ボランティア担当の首相補佐官」は、3月28日付けの自身の個人ブログで、極めて傍観者的な記事を書いている。 本当は、目立ちがり屋さんの補佐官なのだが、それもままならず、上記日付のブログには、こう結んでいる「引き続き、コツコツ、黒子に徹して仕事を積み重ねていく」。黒子を馬鹿にしてはいけない。黒子なくては歌舞伎や文楽は成り立たない。献身的なボランティアの皆さんの方に、本当に役に立つ「黒子」であって欲しいと思っているのは、私だけではないだろう。 このような無能な補佐官を任命した当の首相は、それに気付かないばかりか、原子力関係の参与や補佐官をさらに増やしている。これでは、ますます原子力安全・保安院や原子力安全委員会に対する、国民の信頼は失墜させることにもなる。 それだけ信用できない原子力安全・保安院や原子力安全委員会なら、政府としての原発事故に関する会見は、補佐官や参与がするか、首相自らが会見すればいい。それもしないで、原子力安全・保安院や原子力安全委員会に会見させ続けるのは、あらぬ「風評」を拡大させるだけだろう。 もっとも、すでに多くの国民は、そのことを見抜いて対応しているので、首相は反面教師として、今後もあがくだけあがけばいい。それだけ国民は賢くなるだろう。この国の復興は、一人の無能な首相に頼るのではなく、全ての国民が一つになって成し遂げよう!(このブログ記事は、3月29日に書き始め、本日時点で追加・改定を加えている。)(以上は、2011年3月31日のブログ記事です。)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.13
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(以下記事は2011年当時のものです。)福島県の原発事故のより設定された屋内退避地域に、必要な物資が届かないことに典型的に見られるように、今回の大震災後の「風評」は深刻な被害をもたらせている。また、原発事故による水道水の問題に端を発した、市販飲料水やレトルト食品などの買占め騒ぎも、東日本だけでなく、西日本まで波及した。 このように、大災害時においては、いわゆる「風評」は、必ずと言っていいほど起きる。それだけではない、大災害などの非常時においては、災害被害の大きさに比例して、「風評」の大きさと深刻さは増すと考えるべきだ。それは、昨日のブログ記事と関連するが、情報の不正確さや曖昧さが、「風評」の発生土壌となって、より不安を増大させるからだ。 例えば、福島原発事故の屋内退避地域の設定にあたり、屋内退避での生活の仕方は伝えられても、屋内退避地域への物資搬送は、安全に行えることをあわせて情報発信しなかったから、あらぬ「風評」を生み、結果として必要な物資・人材が屋内退避地域に届かないと言う事態を招いたのだ。 ようするに、大災害時にはその被害の大きさに比例して「風評」が流布されることを見越して、情報の発信にあたっては、前もって正確な情報をよく吟味し、わかりやすくすることが重要なのだ。この点は、各方面からの指摘もあり、改善の兆しはあるものの、まだまだ不十分なのが現状だ。 次に、「風評」が起こってしまってからの対応も、極めてお粗末な例が少なくない。例えば、町中のコンビニから一部の飲料水・レトルト商品・乾電池などが、急速に無くなってから、ある特命大臣がお供をゾロゾロ連れてコンビニ視察をする。これは、「風評」をさらに増大させるばかりか、視察のために費やされる時間とエネルギーを考えれば、省エネ・節電という特命任務自体と矛盾することになる。 「風評」後に、政府や自治体が取るべき対策は、その「風評」の源である不安を根本的に取り除く努力を、ひたむきに続ける以外にはないのだ。なお、原発事故に関連した計画停電を、事故当事者であり信用が失墜している東京電力まかせにしたことも、「風評被害」と準じた混乱を国民にもたらせたことも留意すべきだろう。(このブログ記事は、3月17日に書き始め、本日時点で追加・改定を加えている。)(続く)(以上は、2011年3月30日のブログ記事です。)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.13
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(以下記事は2011年当時のものです。)震災後5日たって(3月16日現在)も、「避難場所からの必要物資の連絡が届かない。」「原発事故の進展に関する情報が県や市町村に届かない。」と言うような状況が続いている。必要とする所や部署に、情報が届かないことは、東京電力のように情報元の意図的な情報操作は論外として、そもそも巨大地震後の情報収集・発信体制が、実質上整っていないことを物語っている。 政府は、「宮城県沖を震源とする地震緊急災害対策本部」(後に「東北地方太平洋沖地震緊急災害対策本部」に改める。)および、宮城県に「東北地方太平洋沖地震緊急災害現地対策本部」をつくったが、前記のような状況が長期間続いているのは、両対策本部の情報部門の機能が十分には発揮されていないからに他ならない。 情報の収集・発信の不十分さを、「未曾有」の広域災害に原因を求める意見もあるが、災害が多くの自治体に広がっているからこそ、情報体制が整っていなければならないのだ。それは、国の「対策本部」に情報を集中することであっても、決して首相が全情報を掌握することではない。もちろん、首相が現地に赴くことでもない。部下が信じられないから、自らが知りたがり見たがるのだ。 国・県・市町村・各現場(避難所・捜索救出現場など)の各機関で、収集した必要な情報を集約し、分析した後に、的確に必要な機関へ発信できるような体制が必要なのだ。特に、現場機関や壊滅した自治体には、上部機関から適切な人材と機材その他を、全ての所に配備する必要がある。 また、次から次へと入ってくる情報を的確に整理し、必要部署へ的確に伝達するような、情報統括能力をもった人材を、国から現場までの各機関に配置することが欠かせない。それは、必ずしも現場や各機関で収集した情報を、全ての機関に発信する必要はないからで、得た情報を速やかに分析・選別する能力が求められるのだ。 そうした人材が配置された情報体制を整備しないで、情報の遅さに首相や官房長官がどれほど怒っても、それは適切に指導できない自らの指導力不足を、世間に吐露するようなものだ。情報化社会にあって、これほど愚かな政権をもった国民の不幸を、嘆かずにはいられない。(このブログ記事は、3月16日に書き始め、本日時点で追加・改定を加えている。)(続く)(以上は、2011年3月29日のブログ記事です。)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.13
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(以下記事は2011年当時のものです。)今回の大震災をめぐって、「未曾有」の言葉と同様に、「想定外」の言葉がとびかっている。ごく普通の人たちが「想定外」を使うならまだしも、地震・津波・防災に関わる専門家・科学者たち、そして災害や事故の防止に直接・間接に大きな責任を持つ、企業と政府関係者から、「想定外」が連発されるのは、極めて問題が大きい。 今回のような波高の津波は、すでに北海道南西沖地震(震度5・M7.8)での、奥尻島を襲った津波でも経験済みだし、スマトラ沖の大地震の経験でも、十分過ぎるほど想定し得る程度の津波だ。「北海道南西沖地震、津波、奥尻島、青苗、津波被害」のページには、今回の大震災と全く同じ惨状の画像が掲載されている。また、スマトラ沖の大地震においては、あの悲惨な状況を映した動画を、繰り返し見ていたではないか。 これら二つの惨禍から今回の大震災までの間、既存の「想定」を見直す機会と時間は十分にあった。それにも拘わらず、今も「想定外」を連発し続ける者たちは、自ら恥ずべきだろう。特に、今回の震災をより深刻にさせた原発事故、その当の責任者である東京電力(もちろん現場の方々ではない。)と、東京電力を厳格に監督・指導すべき「原子力安全・保安院」は、厳しく断罪されなければならないだろう。もちろん、「原子力安全・保安院」の問題は、現政権だけの責任ではなく、歴代の政権にも大きな責任がある。 予め小さめの「想定」をしていれば、事故が起きても「想定外」で済まされる、こんな馬鹿げたことがまかり通らないようにさせることも、防災や事故防止にとっては大事なことであり、今回の大震災とその後の大人災により、尊い生命と穏やかな生活を奪われた方々に、少しでも報いるための責務でもある。(このブログ記事は、3月16日に書き始め、本日時点で追加・改定を加えている。)(続く)(以上は、2011年3月28日のブログ記事です。)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.12
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(以下記事は2011年当時のものです。)昨日のブログで触れた、国と一企業の「統合連絡本部」という「未曾有」の体制が、とられる原因となったのが、東京電力(以下、東電と略記)からの情報の遅さだ。例えば、2号機の爆発音が公表されたのは、約2時間後だったことに典型的に見られるように、東電からの情報が遅れている。これは、明らかに、東電側が、説明の仕方やタイミングを考慮してからの公表になっているからだ。もちろんそれは、企業防衛の観点から考慮された説明の仕方・タイミングとなっているのは言うまでもない。 そして、もう一つ大事な問題点として、まさに事態が進行している現場に、国民に向けて正確で迅速な情報提供にあたるべき任務・権限・能力をもった政府要員が配置されていないことがある。それは、事故後直ちに設置されるべき、オフサイトセンターの機能不全に象徴されている。(なお、17日付けの福島民報によると、「震災で被害を受け、機能のほとんどが失われた」と言うことだが、ここでの機能は人的体制を指す。)ようするに、オフサイトセンターで、政府(自治体)側のイニシアが貫徹されて、東電を指揮していれば、当然情報が遅れるわけは無いのだ。 さらに、「2号機の爆発音」についての東電からの発表において、作業員の退避を「移動」と、わざわざ言葉を置き換えて報告されていた。これは、戦時中の大本営が、退却を「転進」と言葉を変えて発表したのと、その意図は同じだ。この一企業による「大本営発表」を、そのまま繰り返す政府会見ほど、国民を馬鹿にしたものは無く、その結果として、国民に不信と不安を増幅させた、内閣とその長である首相の責任は重大だ。 もっとも、26日の官房長官の会見、【枝野幸男官房長官は26日午後の記者会見で、東京電力が福島第1原発3号機で被ばくした作業員に現場の放射線量を伝えていなかったことに関し「首相官邸に報告はない。正確、迅速に報告してくれないと適切な指示はできない」と不快感を示した。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/琉球新報:2011年3月26日)をみれば、政府と東電の「統合連絡本部」があるにも拘わらず、このていたらくなので、今の政府に責任を果たせるだけの力量があるかどうかは疑わしい。 なお、オフサイトセンターの詳細は、以下URLの福島県での訓練の様子が掲載されている「参考資料」を見れば、今回の原発事故における、東電と政府の欺瞞が、より鮮明に理解できるだろう。当然ながら、今なお命をかけて献身的に奮闘されておられる、現場の東電やその関連会社の社員のみなさん方には責任は無い。また、そのご努力に報いるためにも、政府機関と東電当局の迅速な対応改善を望むものだ。http://www.meti.go.jp/committee/materials2/downloadfiles/g90427c07j.pdf(このブログ記事は、3月15日に書き始め、本日時点で追加・改定を加えている。)(続く)(以上は、2011年3月27日のブログ記事です。)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.12
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今日は、東日本大震災と、それに引く続く福島原発事故から、満5年の日です。あらためて、大震災と原発事故で、お亡くなりになったみなさま方に対しまして、哀悼の誠を捧げ、そのご家族のみなさま方には謹んでお悔やみを申し上げます。 震災後は、しばらくはブログ記事を綴る気にもならず、ブログを再開したのは、3月26日になってからでした。その後、何日か「大震災に思う」の表題で記事を連載しました。その記事を、アーカイブとして、しばらく連載して、当時をふりかえることとします。 なお、当時はまだ「東日本大震災」の語は定着しておらず、ブログ記事では「東北関東大震災」と言う語を使用しています。また、その他、今考えれば、勘違いや誤字が多々あるかとは思いますが、アーカイブとしての性格を考慮して、原文のままとさせていただきます。 (以下記事は2011年当時のものです。)今日(3月15日)、大震災対策の国全体の責任者たるべき首相が、極めて重大な事故ではあるが、原発事故だけに限定して、一企業である東京電力と国との「統合連絡本部」の本部長に就くと言う「未曾有」の出来事が起こった。 東北関東大震災および、その後の人災がまだまだ進行中ではあるが、今回の極めて甚大な災害に対して、「未曾有」という修飾語が多用されているが、そのことに極めて大きな違和感を覚える。 今回の東北関東大震災とそれに続く、様々な出来事、たとえば地震や津波の規模、原発事故などの個々の出来事は、ほぼ全て人類がすでに経験した出来事であるにも拘らず、「未曾有」の出来事として扱われている。それらの多くは、おそらく愚かな為政者・専門家・責任者たちによる、意識的な責任逃れとして利用されている。 すでに明らかになっているだけでも、極めて甚大な被害となっており、さらにその被害を大きくしつつある。こうした被害を、繰り返さないために、一凡人の私見ではあるが、思いつくままに綴ってみる。なお、この私見は東北関東大震災の被害が進行しつつある最中(3月15日)に書き始めたものが、万万が一にも、必要の無い混乱を招かないように、その掲載は本日に至った。素人の考えであるため、多くの見当違いがあるかとは思うが、この私見が専門家諸氏による、本格的な検証の、極めてささやかなキッカケになれば、と思っている。なお、掲載日(3月26日)時点で、少なからず追加・改定を加えている。 まず、今回の大震災が、決して「未曾有」の出来事ではないことを綴ってみる。そもそも、このたびの極めて甚大な被害をもたらせた、マグニチュード9.0の大地震も、決して未曾有ではなかった。【昭和35年のチリ地震(M9・5)、39年のアラスカ地震(M9・2)、平成16年のインドネシア・スマトラ沖地震(M9・1)に次いで、観測史上世界4番目の規模となる。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/MSN産経ニュース:2011年3月13日) この引用記事でも明らかなように、近くは6年前にも、より大きな地震が起きていたのだ。巨大地震が未曾有でもなければ、当然その地震が引き起こした津波の規模も波高も未曾有ではなかった。さらに、現時点では原発事故も未曾有のレベルには達していない。もちろん、そうさせてはならないだろう。 ただ、未曾有を冠するなら、今回の大震災は日本の戦後においては未曾有の天災であること、原発事故も、日本においては未曾有の人災であることは、残念ながら現時点でも間違いが無いこととなっている。 何が未曾有なのか、誰が未曾有を多用するのか、そのことを冷静に見極めることが、今後起こるかもしれない大地震・大津波が未曾有ではあっても、被害だけは未曾有にしない、ひとつの保障となるだろう。(続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.11
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この間、私が行った講演で配ったレジュメを紹介します。 「お父さん! お母さん! こどもたちを、もっとあそばせよう!」 ---こどもたちの三つの異変と、あそびの変化一.こどもたちの三つの異変 異変は、普通の変化ではない。・こどもたちの異変の一つ目・・・体の異変 体格は大きく向上したのに、それに体力と運動能力が見合っていない。・こどもたちの異変の二つ目・・・心の異変 不登校、引きこもり、いじめ、自死の増加に見る心の問題・こどもたちの異変の三つ目・・・知の異変 勉強時間が増加?したのに、学力の向上が思わしくない。二.あそびの変化・五自(ごじ)のあそび 自由、自発、自主、自律、自立・あそびの三間(さんま) あそび時間、あそび空間(場所)、あそび仲間・あそび時間の量と質の変化が、三つの異変に決定的に関わっている。三.こどもたちを、あそばせるには・多くのこどもたちに、共通したあそび時間を、持続的に長く確保する。・仲間さえいればあそべるあそびと、仲間がいなければあそべないあそびを!(続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.10
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この間、私がこのブログでも、その一端を紹介しています「遊び学」に関わって、二回ほど講演する機会に恵まれました。その講演について紹介しながら、この「遊び学」について、綴っていくことにします。 まず、「遊び学」について、簡単に触れておきます。「遊び学」とは、その字義通りに、「遊び」を研究対象とする学問(科学)を意味していますが、これまでの「遊び」研究のように、教育学や社会学など、一つの科学分野だけからアプローチするのではなく、大げさに言えば、人類が到達した全ての科学的成果から、「遊び」を総合的に捉えようとするものです。 そして、最も強調したいのは、この「遊び学」を研究することで、「遊び」が持つ大切さ、特にこどもの期間の「遊び」の持つ重要性を、明らかにして、こどもたちが健やかに育つ条件としての「遊び」を、守り発展させることにあります。(続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.09
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大変長らく休載しておりました、当ブログは本日再開いたします。 実は、この間、ユニット折り紙の二冊目の出版準備で、原稿の執筆と作品の製作に追われていました。やっと昨日、それも一段落し、ブログ再開の運びとなりました。引き続き、よろしくお願いいたします。 ブログ再開に当たり、文体を、これまでの「である調」から「ですます調」に変更させていただきます。 まずは、ブログ再開のご挨拶まで!「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクトFC2ブログランキングにも登録しています。↓よろしければ、ご支援のクリックを↓多忙のため、コメントへ返信できない場合がありますので、ご了承の程よろしくお願いいたします。
2016.03.08
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いよいよ明日再開予定!
2016.03.07
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まもなく再開予定!
2016.03.06
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まもなく再開予定!
2016.03.05
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まもなく再開予定!
2016.03.04
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まもなく再開予定!
2016.03.03
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まもなく再開予定!
2016.03.02
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まもなく再開予定!
2016.03.01
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