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「神の求められるおとなの姿」 甲斐慎一郎 コリント人への手紙、第一、13章11節 「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました」(11節)。 冒頭の聖句から聖書が教えている霊的な意味における「子ども」と「おとな」の違いについて考えてみましょう。 一、識別力があること(知性的な面) 「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるように」(ピリピ1章9、10節)。 幼児の特徴の第一は、識別力がまだ不十分であることです。幼児は、何が善であり、何が悪であるのか、また何が益になり、何が害になるのか、さらに何が永遠に価値のあるものであるのか、何が取るに足りない価値のないものであるのかを正確に見分けることができない者です。パウロは、「物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい」と勧めています(第一コリント14章20節)。 このことは、霊的な幼児や精神的な子どもの場合も同様です。悪人や罪人の特徴の一つは、この識別力がなく、「悪を善、善を悪と言」うことです(イザヤ5章20節)。 キリスト者の救いについて述べるなら、良いことを行ったので、「神に愛される」とか「救われる」という「行いによる救い」は子どもの考えで、何の功績がなくても「神に愛され」、「恵みのゆえに、信仰によって救われる」という「信仰による救い」がおとなの考えで、後者が正しいのです。 二、自制力があること(感情的な面) 「自分の心を治める者は、町を攻め取る者にまさる」、「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」(箴言16章32節、25章28節)。 ここで言う自制とは、英語で言えば、「セルフ・コントロール」という言葉で、自己を制御し、支配することです。幼児の特徴の第二は、まだ自制力が不十分であることです。幼児は、欲望や感情を、まだ十分に制御することができず、時も所も構わず、外からの働きかけがなければ、無制限に表す者です。 このことは、霊的な幼児や精神的な子どもの場合も同様です。おとなは、感情をすべて表さないのではなく、感情を正しく治め、制する者です。聖書には、イエスが怒ったり、憤ったりされたことが記されています(マルコ3章5節、10章14節)。 「イエスが怒られたのと同じ条件を満たす怒りは正しいものです。あきらかな間違いや悪に対しては怒りを向けなければなりません。怒りはコントロールされ、把握され、意志のもとに置かれるべきで、コントロールを失い過熱した過剰なものであってはなりません。そして最も重要なことは、その中に悪意、苦さ、憤り、憎しみの幾分かでもあってはならないということです」(デイビッド・A・シーモンズ著「子供服を着たクリスチャン」67頁、イムマヌエル綜合伝道団出版事業部、2007年)。 三、責任感があること(意志的な面) 「こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります」(ローマ14章12節)。 幼児の特徴の第三は、未成年が両親の保護のもとにあることから分かるように、まだ十分に責任がとれないことです。しかし成人になれば、自分で責任を取らなければならず、無責任や責任逃れ、また責任転嫁は許されません。このことは、霊的な成人や精神的な大人の場合も同様です。 それでは霊的な成人や精神的な大人になるためには、どうすればよいのでしょうか。◇識別力を持つ――神の光に照らされる。◇自制力を持つ――神の生命を与えられる。◇責任感を持つ――神の愛に応えていく。 私たちは、このようにする時、霊的な成人や精神的な大人になることができるのです。
2008.03.29
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「神のいのちと人のいのち」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、11章17~26節 「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません』」(25、26節)。 私たちは、人間の生と死について、どのように考えているでしょうか。生とは何か、死とは何か、という死生観ほど人間にとって大切なことはないでしょう。なぜなら、その人の死生観は、その人の人生観にほかならず、生と死をどのように考えているかが、その人の人生と永遠の運命を決定するからです。 冒頭に掲げたキリストの言葉は、私たちに聖書が教えている死生観、またはキリスト教死生観というものが、どのようなものであるかということを明確に教えています。 一、三種類のいのち いのちとは何か、またいのちには、どのような種類があるのかということを考える時、どうしても避けて通ることができないものに死があります。そこで聖書が教えているいのちを、死との関係で述べるなら、次のような三種類になるのではないでしょうか。 1.死につつあるいのち――人間の堕落以後、肉体のいのちは、生まれた瞬間から、後はただ死に向かういのちになっています。 2.死からよみがえったいのち――しかし聖書は、霊の復活(エペソ2章5、6節)とともに、肉体の復活(ヨハネ5章29節)を教えています。 3.死ぬことがないいのち――さらに聖書は、復活しても再び死んでしまういのちではなく、もはや死ぬことがないいのち、言い換えれば永遠のいのちというものを教えています(黙示録21章4節)。 私たちが考え、また現に持っているいのちは、この三つのうちのどれでしょうか。 二、人のいのち ここでいう人のいのちとは、神から離れている人のいのちのことを意味しています。 多くの人々は、生命にとって死は避けることができない定めであり、やむを得ないものであると思っています。しかし聖書は、「罪から来る報酬は死です」(ローマ6章23節)と記し、「罪によって死がはいり」(同5章12節)とあるように、死は罪の結果であると教えています。 それは、神がアダムに禁断の木の実を「取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2章17節)と言われた言葉が成就したのであり、その結果、人の霊は直ちに死に、肉体は、すぐには死ななかったものの、ただ死に向かういのちになってしまったのです。◇死は、罪によってはいったものです。◇その結果、霊はすぐに死んでしまいました。◇そして、肉体も死につつあるのです。 これが神から離れている人のいのちです。 三、神のいのち ここでいう神のいのちとは、神が私たちに与えてくださるいのちのことを意味しています。 この神のいのちは、死につつあるいのちではなく、死ぬことがないいのちです。しかし人間は、罪のために死ぬべき者となってしまいました。ですから、この死ぬことがないいのちを得るためには、まず罪が取り除かれなければなりません。 「キリストは……罪を取り除くために、来られたので」あり(ヘブル9章26節)、その結果、「キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅とを明らかに示され」たのです(第二テモテ1章10節)。◇キリストは、罪を取り除かれました。◇その結果、キリストは死を滅ぼされました。◇そして、いのちと不滅が示されたのです。 聖書は、「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし--あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。--キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました」と教えているのです(エペソ2章4~6節)。
2008.03.26
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「復活の三つの面」 甲斐慎一郎 ピリピ人への手紙、3章10、11節 「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」(10、11節)。 聖書は復活の奥義について次のような三つのことを教えています。 一、神のいのちを与える復活 ペテロは、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて」と述べています(第一ペテロ1章3節)。 罪人は、罪の中に死んでいる者ですが、死人は、どのようなすばらしい教えを聞いても生き返らず、ただいのちを与えられることによってのみ生き返ることができます。そして肉体のいのちであれ、霊的ないのちであれ、いのちを与えることができるのは神のみです。 罪人は、キリストの身代わりの十字架を仰ぐなら、罪が赦されますが、これは言い換えれば、罪の中に死んでいた罪人に神のいのちが与えられて生き返ることです。「神は……罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし」とあるように(エペソ2章4、5節)、キリストは、罪人に神のいのちを与えるために復活されたのです。 二、神のいのちに満たす復活 パウロは、「もし私たちがキリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです」と述べています(ローマ6章5節)。イエス・キリストは、「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」と言われました(ヨハネ10章10節)。 息も絶え絶えに瀕死の状態であっても、死んでいない限り、いのちはあります。しかしこれでは健康とは言えず、十分に働くことはできません。罪人は、いのちを与えられるだけでなく、豊かで健康ないのちが必要です。 パウロは、「キリストの死と同じようになっているのなら、キリストの復活とも同じようになるからです」と述べ、キリストの復活は、罪と死に対する完全な勝利を表しています(第一コリント15章55、56節)。 ですから私たちも、キリストとともに十字架につけられて死ぬなら、キリストとともに復活し、罪と死に対して完全な勝利を得て、豊かないのちを持つことができるようになります。この神のいのちに満たされることこそ、「きよめ」にほかなりません。キリストは、私たちの「うちに住む罪」(ローマ7章17、20節)を取り除いて、きよめ、神のいのちを満たすために復活されたのです。 三、神のいのちを伝える復活 パウロは、「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。……こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」と述べています(第二コリント4章11、12節)。 主は「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」と言われました(ヨハネ12章24節)。この死ぬことによって生きると言う法則は、自然界のみならず、霊の世界や信仰の世界においても同様です。 私たちは、他の人を生かすために自分が死ななければなりません。私たちが十字架を負う時、私たちのいのちは死んで、相手にいのちが伝わっていきます。死ぬとは、具体的には、自分を全く神にささげて、自分の時間や金銭や能力を神と他の人のために有益に用いていくことです。 霊の世界や信仰の世界においては、神のために「いのちを失う者は、それを見いだ」し(マタイ16章25節)、相手にいのちが伝わるだけでなく、自分も生かされますが、自分のいのちを神のために用いなければ、「持っているものまでも取り上げられ」てしまいます(マタイ25章29節)。キリストは、いのちにあふれたキリスト者を死に渡し、他の人にいのちを伝えるために復活されたのです。
2008.03.23
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「十字架の三つの面」 甲斐慎一郎 ガラテヤ人への手紙、6章11~16節 「私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」(14節)。 聖書は十字架について次のような三つのことを教えています。 一、仰ぐべき十字架 旧約聖書には、イスラエル人が主に罪を犯して蛇にかまれた時、「その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた」ということが記されています(民数記21章9節)。 キリストは、この出来事を引用し、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」と言われました(ヨハネ3章14節)。あの旗ざおの上につけられた青銅の蛇は、人類の罪のためにのろわれた者となって十字架にかけられたキリストを表しています(ガラテヤ3章13節)。 聖書は「キリストは……私たちの罪のために死なれ」(第一コリント15章3節)、「十字架の上で私たちの罪をその身に負われ」たと宣言しています(第一ペテロ2章24節)。キリストは、私たちの罪のために身代わりとなって十字架の上で死なれたのです。 十字架を仰ぐとは、私たちの罪のために身代わりとなってくださったキリストの死を信じることであり、そうする時、私たちのすべての罪の行為が赦され、罪責と刑罰が取り除かれます。ですから仰ぐべき十字架は、まだ罪を赦されていない罪人のためです。 二、つくべき十字架 使徒パウロは「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ二章20節)、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである」(ローマ6章6節)と述べています。 聖書は、私たちは十字架につけられたキリストを仰ぐだけでなく、私たちもキリストとともに十字架につけられなければならないと教えています。しかもそれは罪のからだが滅びるためであると記されています。 罪のからだとは「死のからだ」(ローマ7章24節)とも言われ、「私のうちに住む罪」(ローマ7章20節)、すなわち原罪や罪性と呼ばれている罪そのものです。罪人が十字架を仰ぐならば、罪の行為は赦されて罪責と刑罰が取り除かれますが、罪の性質や原罪はそのまま残ります。これは聖霊によってきよめられ、取り除かれなければならないのです。 十字架につけられて罪のからだが滅びるというのは、自我を完全に神に明け渡して、聖霊によって罪性が取り除かれたと信じる「きよめ」のことです。ですから、つくべき十字架は、罪を赦されたキリスト者のためです。 三、負うべき十字架 キリストは「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9章23節)と言われました。最後に聖書は負うべき十字架について教えています。これは、一言で言えば、自己否定です。 罪性を取り除かれて罪をきよめられたキリスト者にも「自分」というものがあります。この罪のない自分には人間として自然な願望や欲求や傾向性というものがあり、それ自体は決して罪でも悪でもありません。 しかし実際の日常生活や奉仕の生活において、このそれ自体は罪でも悪でもない人間として自然な願望や欲求や傾向性をも犠牲にして神に従わなければならないことがあります。これが負うべき十字架であり、最も高尚な自己否定です。ですから負うべき十字架は、きよめられたキリスト者のためです。 この十字架は、「日々」とあるようにその都度負わなければならないものであり、「自分の」とあるように他の人とは全く関係がなく個人的なものです(ヨハネ21章22節)。この自分を捨て、日々自分の十字架を負うことこそ、きよめられ続けていく秘訣です。
2008.03.20
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「訣別の説教(9)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、16章25~33節 イエスは、悲しむ弟子たちに、再会することについて話された後、平安を与えることについて語られました。 一、父についてはっきりと告げる時が来ると言われたイエス(25~28節) 先回のところで述べたように、イエスの十字架と復活のことは、それらの出来事が実際に起き、その結果、聖霊が注がれるまで、弟子たちには、わかりませんでした。 パウロは、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」と述べています(第一コリント12章3節)。そしてヨハネは、「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と教えています(1章18節)。このように人は、聖霊とキリストによらなければ、本当の意味において、父なる神を知ることはできません。 ですからイエスは、弟子たちに聖霊が臨まれるまでは、「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました」と言われました(25節)。しかし「その日」、すなわち聖霊が注がれた後においては、「もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます」と言われたのです(26、25節)。 そしてイエスは言葉を続けて、「わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます」と言われました(28節)。イエスは、十字架の上で罪の贖いを成し遂げるために、父から出て世に来られましたが、罪の贖いを成し遂げたならば、主を信じる者に聖霊をお注ぎになるために、世を去って父のみもとに行こうとしておられたのです。 二、イエスが神から来られたことを信じると言った弟子たち(29、30節) 弟子たちは、イエスに、「ああ、今あなたははっきりとお話しになって、何一つたとえ話はなさいません。……私たちはあなたが神から来られたことを信じます」と言いました(29、30節)。 イエスが去って行かれることを知って、心が悲しみでいっぱいになっている弟子たちにとって、これは、誠にりっぱな信仰の告白です。しかし悲しいかな、彼らはみな、舌の根のかわかないうちに、――イエスが捕縛された時――イエスを見捨てて逃げてしまったのです(マタイ26章56節)。 三、弟子たちが平安を持つために、前もって話されたイエス(31~33節) イエスは、弟子たちの信仰が、このような心もとないものであることをよく知っておられました。ですから弟子たちに、「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています」と言われたのです(31、32節)。 しかしイエスは、「わたしはひとりではありません。父がわたしといっしょにおられるからです」と言われました(32節)。このようにイエスは、弟子たちに裏切られるという飼い犬に手をかまれるような患難の中にあっても、父がともにおられるゆえに、平安であられました。 弟子たちは、世にあっては患難があります。しかし、どのような患難の中にあっても、神がいっしょにおられるとともに、イエスがすでに世に勝たれたゆえに、心に平安を持つことができます。イエスは、弟子たちがこの平安を持つことができることを教えるために、自ら模範を示して、このようなことを前もって彼らに話されたのです(33節)。拙著「キリストの生涯の学び」188「訣別の説教(9)」より転載
2008.03.17
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「訣別の説教(8)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、16章16~24節 イエスは、悲しむ弟子たちに、聖霊を遣わすことについて話された後、再会することについて語られました。 一、イエスが言われた別離と再会について論じ合う弟子たち(16~19節) イエスは、弟子たちに、「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と言われました(16節)。 これは、イエスがまもなく十字架の上で死んで、葬られるために、弟子たちはイエスの姿を見ることはできませんが、イエスは三日目によみがえって、弟子たちに姿を現されるので、彼らはイエスを見ることができるということを教えています。 このイエスの言葉を聞いた弟子たちのうちのある者は、互いに、「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない」と言いました(18節)。 イエスが、はっきりと受難と復活を予告された時でさえ、「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった」と、聖書は記しています(ルカ18章33、34節)。 このようにイエスの十字架と復活のことは、それらの出来事が実際に起き、その結果、聖霊が注がれるまで(使徒2章32、33節)、彼らには、わからなかったのです。 二、イエスと別れて悲しむが、再会することで喜ぶ弟子たち(20~22節) またイエスは、弟子たちに、「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」と言われました(20節)。 これは、イエスが十字架の上で死なれたので、弟子たちは嘆き悲しみ、イエスを十字架につけた世は喜ぶが、弟子たちは、よみがえられたイエスと再会するので、彼らの悲しみは喜びに変わるということを教えています。 イエスは、悲しんでいる弟子たちの姿を、子を産もうとして苦しんでいる女の人にたとえて話されました。女の人が「子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます」(21節)。 そのように弟子たちは、イエスが去って行かれることを知って、その心は悲しみでいっぱいになりましたが、復活されたイエスと再会するならば、その喜びのために、いままでの悲しみをすっかり忘れてしまうのです。 イエスと再会する喜びは、これほどすばらしいので、イエスは弟子たちが悲しむことをも、あえて話されたのです。 三、イエスの御名によって祈り求めて、与えられる弟子たち(23、24節) そしてイエスは、弟子たちに、「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません」(24節)。「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります」と言われました(23節)。 イエスの御名によって祈るとは、イエスの御名を用いて祈ることができるということ、すなわち、十字架の贖いを信じ、聖霊によってイエスと一つにされた者は、その祈りがイエスの祈りのようにみなされるということを教えています。神は、イエスの十字架の贖いのゆえに、また私たちに聖霊をお与えになることによって、このようなすばらしいことをしてくださるのです。拙著「キリストの生涯の学び」187「訣別の説教(8)」より転載
2008.03.14
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「訣別の説教(7)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、16章1~15節 このヨハネの福音書の16章には、「悲しむ弟子たちへのイエスの慰めの言葉」が記されています。イエスは、弟子たちに「わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」と言われました(6節)。また、その後にも、弟子たちが悲しむことについて、3回も話しておられます(20、22節)。 16章は、ゲッセマネの園へ行く途上において語られたもので、ここには次のような三つのことが記されています。◇訣別の説教(7)――聖霊を遣わすこと。◇訣別の説教(8)――再会すること。◇訣別の説教(9)――平安を与えること。 イエスは、悲しむ弟子たちに、聖霊を遣わすことについて語られました。 一、弟子たちがつまずかないように、前もって話されたイエス(1~4節) 弟子たちは、イエスが自分たちを残して去って行かれることを知っただけでも、心が騒いで恐れるような者であるのに、イエスは、弟子たちが世に憎まれたり、迫害されたりすることまで予告されました(2節)。 もしイエスが、このようなことを前もって弟子たちに話されなかったならば、彼らは、世に憎まれたり、迫害されたりした時、「何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪し」んで(第一ペテロ4章12節)、信仰を捨て、つまずいてしまったことでしょう。 しかしイエスは、弟子たちが世に憎まれたり、迫害されたりすることを前もって話すことによって、その時が来た時、彼らが、そのことを思い出して、つまずかないようにされたのです(1、4節)。 二、イエスが去って行かれることによって遣わされる助け主(5~7節) イエスが、弟子たちを残して父なる神のもとに行こうとしていることを話されたので、彼らの心は悲しみでいっぱいになってしまいました(6節)。しかしイエスは、「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです」と言われました(7節)。 血と肉とを持って地上におられたイエスは、人間として様々な制約の下に置かれました。しかし、このイエスが十字架の上で罪の贖いを成し遂げ、神の右に上げられることによって注がれる聖霊は(使徒2章33節)、永遠の神として、時間的にも空間的にも何の制限もなく、いつでも、どこでも弟子たちを助けることがおできになるのです。 三、父なる神のもとから遣わされる聖霊の働きについて(8~15節) イエスは、聖霊について、次のような三つのことを語られました。 1.聖霊は、罪と義とさばきについて、世にその誤りを認めさせます(8節)。 世の人(生まれながらの人間)が、自分はキリストを信じない罪人であり、キリストの義から遠く、悪魔とともに神のさばきを受けなければならないということがわかるのは、ただ聖霊の働きによるのです。 2.聖霊は、キリスト者をすべての真理に導き入れます(13節)。 私たちが、聖書のすべての真理を信じて、その真理がわかるようになるのも、ただ聖霊の働きによるのです。 3.聖霊は、キリストの栄光を現します(14節)。 人がどんなに働いて、用いられたとしても、キリストがあがめられるのは、やはり聖霊の働きによるのです。拙著「キリストの生涯の学び」186「訣別の説教(7)」より転載
2008.03.11
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「訣別の説教(6)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、15章18~27節 イエスは、恐れる弟子たちに、互いに愛し合うことについて話された後、憎しみを耐え忍ぶことについて語られました。 先回のところには「愛(する)」という言葉が9回も記されていましたが(9、10、12、13、17節)、今回のところには「憎(む)」という言葉が7回も記されています(18、19、23~25節)。 一、憎しみを耐え忍ぶ理由(18~25節) イエスは、弟子たちが互いに愛し合うことについて話された直後に、憎しみを耐え忍ぶことについて語られました。これは非常に大切なことです。なぜなら、自分を愛してくれる者だけを愛するなら、それは、本当の愛ではないからです(マタイ5章44~48節)。 ここには、彼らが世に憎まれても、それを耐え忍ばなければならない4つの理由が記されています。 1.自分のものではないものを憎むのが、世だからです(19節)。 世は、自分と同じ仲間は愛しますが、毛色の変わった人を排斥したり、仲間はずれにしたりします。まして弟子たちは、キリストが「今の悪の世界から……救い出」し(ガラテヤ1章4節)、「世から……選び出」された者であり、この「世のもではな」いので、世は弟子たちを憎むのです(19節)。 2.主人を憎むとしもべまで憎むのが、世だからです(18、20節)。 諺に、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」とか「親が憎けりゃ子まで憎い」という言葉がありますが、もともと世の中というものは、そういうところではないでしょうか。 イエスは、「世について、その行ないが悪いことをあかし」されたので、世は、イエスを憎みましたが(七章7節)、その結果、世は、弟子たちをも憎みました。主人であるイエスが、世に憎まれるなら、しもべである弟子たちも、世に憎まれることを避けることはできないのです(20節)。 3.知らないから神を憎むのが、世だからです(21節)。 イエスは、世の人々が弟子たちを迫害するのは、「わたしを遣わした方(父なる神)を知らないからです」と言われました(21節)。神を知らないことにも、何も「聞いたことのない」という頭脳的な無知と(ローマ10章14節)、聞いても「神を知ろうとしたがらない」という意志的な無知とがあります(同1章28節)。 この個所において、神を知らないというのは、おそらく後者の意志的な無知を指すのでしょう。どちらにしても、神を知らない世は、弟子たちを憎むのです。 4.理由なしに神を憎むのが、世だからです(22~25節)。 イエスは、「もしわたしが来て彼らに話さなかったら……もしわたしが、ほかのだれも行なったことのないわざを、彼らの間で行なわなかったのなら、彼らには罪がなかったでしょう」と言われました(22、24節)。 彼らは、証拠としての奇蹟を示され、イエスと父を見て、すなわち「神を知っていながら」(ローマ1章21節)、「そのうえで憎」みました(24節)。まさに、彼らは理由なしに神を憎んだのです(25節)。 二、憎しみを耐え忍ぶ秘訣(26、27節) このように教えられても、世に憎まれることは非常に悲しいことであり、またそれは、心に疑惑を生じさせるかもしれません。 しかし父から遣わされる聖霊は、イエスをあかしして疑惑を取り除き、私たちに確信を与えて、人々にあかしすることができるように働かれるのです。拙著「キリストの生涯の学び」185「訣別の説教(6)」より転載
2008.03.08
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「訣別の説教(5)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、15章9~17節 イエスは、恐れる弟子たちに、多くの実を結ぶことについて話された後、互いに愛し合うことについて語られました。 一、弟子たちを愛してくださったイエス(9~13節) イエスは、弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」と言われました(12節)。弟子たちが互いに愛し合うことについては、最後の晩餐の席上において、ユダが出て行った直後に、イエスが新しい戒めとして弟子たちに与えられたばかりです(13章34節)。 ところがイエスは、この訣別の説教において、もう一度、しかも二回も同じことを言われました(12、17節)。これは、次に述べる「憎しみを耐え忍ぶ」ためにも、互いに愛し合うことが、どんなに大切なことであるかを私たちに教えています。 弟子たちが互いに愛し合わなければならない第一の理由は、イエスが彼らを愛してくださったからです(12節)。イエスは、彼らが互いに愛し合うことについて語られた後「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」と言われました(13節)。この「人」というのは、暗にご自分のことを言われたのではないでしょうか。 ヨハネは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」と述べています(第一ヨハネ3章16節)。このようにイエスに愛された者は、その愛に対する応答として、互いに愛し合うことが求められているのです。 二、弟子たちを友と呼んでくださったイエス(14、15節) またイエスは、弟子たちに「わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです」と言われました(15節)。 ヤコブは、アブラハムのことを「神の友」と呼んでいます(ヤコブ2章23節)。主は、「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか」と考えて、その心にあることをアブラハムに披瀝されたことがあります(創世記18章17~19節)。 弟子たちが互いに愛し合わなければならない第二の理由は、イエスが彼らを友と呼んでくださったからです。聖書は、「友はどんなときにも愛するものだ」と教えています(箴言17章17節)。ですからイエスに友と呼ばれた者同志が、互いに愛し合うのは、当然のことではないでしょうか。 三、弟子たちを選んで任命してくださったイエス(16、17節) そしてイエスは、弟子たちに「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためで……す」と言われました(16節)。 弟子たちが、イエスに選ばれて任命されたのは、多くの実を結んで神の国を建設するためです。イエスは、「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません」と言われました(マタイ12章25節)。 弟子たちが互いに愛し合わなければならない第三の理由は、イエスが彼らを選んで任命してくださったからです。彼らは、神の国を建設するために選ばれて、任命されました。ですから内輪もめして争うことは許されず、互いに愛し合うことが求められているのです。拙著「キリストの生涯の学び」184「訣別の説教(5)」より転載
2008.03.05
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「訣別の説教(4)」 甲斐慎一郎 ヨハネの福音書、15章1~8節 このヨハネの福音書の15章には、「恐れる弟子たちへのイエスの励ましの言葉」が記されています。イエスは、弟子たちに「これら(15章)のことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずく(すなわち信仰を捨てて罪を犯す)ことのないためです」と言われました(16章1節)。 15章の後半には、「憎む」という言葉が7回、「迫害する」という言葉が2回記されており、弟子たちは、世に憎まれたり、迫害されたりすることによって恐れ、つまずく心配がありました。 イエスは、このような弟子たちの恐れる心を見通し、「転ばぬ先の杖」として、ご自分と弟子たちの間には、切っても切れない関係があることを教えて励まされたのです。 15章は、ゲッセマネの園へ行く途上において語られたもので、ここには、次のような三つのことが記されています。◇訣別の説教(4)――多くの実を結ぶこと。◇訣別の説教(5)――互いに愛し合うこと。◇訣別の説教(6)――憎しみを耐え忍ぶこと。 イエスは、恐れる弟子たちに、多くの実を結ぶことについて語られました。 一、多くの実を結ぶための神の側の備えについて(1~3節) イエスは、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫で……もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」と言われました(1、2節)。 ぶどうは、実を結ばなければ何の役にも立たないように(エゼキエル15章1~5節)、人間も、神と人とに喜ばれる良い実を結ばなければ、何の役にも立ちません。 神は、エルサレムの住民とユダの人が、多くの良い実を結ぶために、人というぶどう畑を「掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んで……わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか」と言われました(イザヤ5章2、4節)。 このように聖書は、父なる神は、ぶどう畑に至れり尽くせりのことをされる愛に満ちた賢い農夫であることを教えています。 二、多くの実を結ぶための人の側の条件について(4~6節) イエスは、弟子たちに「実を結びなさい」とは言っておられません。彼らに、「わたしにとどまりなさい」と命じておられます(4節)。これこそ実を結ぶための条件であり、秘訣です。 「そういう人は多くの実を結びます」という言葉は(5節)、実を結ぶことは、条件に対する結果であることを教えています。日本語において「結実」も「結果」も、ともに「み(実、果)を結ぶ」と書き、同じ字であることは誠に興味深いものです。 「イエスにとどまる」とは、イエスに拠り頼み、イエスとの正しい関係と交わりを保つことです。私たちは、イエスを「離れては……何もすることができない」ので(5節)、イエスにとどまることが必要なのです。 三、多くの実を結ぶことの結果について(7、8節) そしてイエスは、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」と言われました(8節)。これは多くの実を結ぶことの結果について教えています。 多くの実を結ぶことは、イエスの弟子であることをあかしするものであり、それはまた父なる神が栄光をお受けになること、すなわち、神の栄光が現されることなのです。拙著「キリストの生涯の学び」183「訣別の説教(4)」より転載
2008.03.02
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